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「どうしたの? この痣」江良さんはそう言って、俺の頬にふれた。
頬にはきのうの夜にできたばかりの青あざがあって、ふれられるとずきずきと痛んだ。
痛みをこらえながら、「いろいろあったんだよ」と俺は言った。
「誰かと喧嘩でもしたの?」と江良さんはあざを撫でながら言う。
江良さんの手はちいさくてかわいらしい、と俺はその時にはじめて気がついた。
「そんなところ」と俺は言う。
「誰と喧嘩したの?」
「姉ちゃんだよ」
「お姉ちゃん? ろんちゃんにはお姉ちゃんがいるの?」
「“ろんちゃん”って」
「阿保くんのあだ名だけど」
「それはわかるけど、なんで江良さんが俺のことをろんちゃんって呼ぶのかがわからない」
「阿保ってなんかヤな感じじゃない? アホーって言われてるみたいで」
「まあね」
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たしかに江良さんの言うとおり、小学生の時のあだ名はアホだったし、中学生の今もあだ名はアホだ。
ろんちゃんと呼ぶのは、近所のおじいちゃんやおばあちゃんがほとんどだが、
同級生の中にも俺のことをろんちゃんと呼ぶものがいた。
だから江良さんも俺がろんちゃんと呼ばれていることを知っていたのだろう。
「でしょ? だから“ろんちゃん”」
俺はため息をついた。はずかしい。今すぐこの場から逃げ出したい。
「どうしてお姉ちゃんと喧嘩したの?」江良さんはたのしげに言う。
「どうしてって、話すのもはずかしいくらい、くだらない理由だよ。
姉ちゃんとはよく喧嘩するんだ。取っ組み合いの」
「ろんちゃん、負けるの?」
ろんちゃんと呼ばれると妙にはずかしかった。顔が熱くなって、心臓がばくばく鳴った。
「負けることもある」と俺は言った。
「お姉ちゃんとはいくつ歳が離れてるの?」
「三つ。姉ちゃんは一七」
「三つ? それくらいなら、ろんちゃん勝てそうだけど」
「いきなり真正面からどーんと押されて、机で頬を強打することだってある」
「それは痛そう」
江良さんは真正面からどーんと押されて、机で頬を強打したような表情を浮かべた。
「痛くてどうしようもない」
「絆創膏いる?」
「意味あるの?」
「気休め程度には」
「じゃあひとつください」
江良さんは制服のポケットから絆創膏を取り出して、俺に差し出した。「はいどうぞ」
「ありがとう」と俺は言った。休憩終わりのチャイムが鳴った。
江良さんはぱたぱたと足音を鳴らして自分の席に着いた。
*
下校時刻になって、「江良さんとどんな話したんだ?」と
食いついてきたのは同級生の亜十羅だった。
「これ」と俺は頬のあざを指差して言った。
「うわっ、近くで見るとグロテスクだな。おええっ」
「そんなこと言うなよ、傷つくだろ」
「あ。だったら、絆創膏もらったんじゃないのか? 江良さんから」
「もらったけど」
ポケットの中を手探りで確認すると、生温かくてふにゃふにゃになった絆創膏がある。
「おおー。やったじゃん」
「なんで絆創膏くらいで」
「江良さんから絆創膏をもらえるということが
どれほどの奇跡であるかお前は分かっていないんだな、かわいそうに」
「怪我すりゃ誰でももらえるんじゃないの」
「俺はもらえなかった」
ふうん、と俺は言って、下駄箱へ向かって歩いた。亜十羅はぴったりと横についてくる。
上靴から運動靴に履き替え、下校する生徒でごった返す玄関を抜けると、冷えた風が頬をうった。
赤く染まりつつある秋の空にはいわし雲が浮かんでいて、とても高く見えた。
校庭には禿げかけた木と、抜け落ちた髪の毛みたいに散らばる枯れ葉があった。
冬が近いのだ。冬には長い休みがある。そう思うと気分は夕日のように沈む。
必然的に家にいる時間は長くなる。俺ではなくて、姉ちゃんが家にいる時間が、だ。
校門をくぐった辺りで、それまで黙っていた亜十羅は言った。
「そのあざ、また姉ちゃんにやられたのか?」
「まあね」と俺は言う。
「反撃したらいいのに」
「そんなことしたら何倍にもなって返ってくる」
「悔しくないのかよ」
「悔しくはない。いつもどおり」
「お前んち、やっぱりちょっとおかしいよ」と亜十羅は呆れたみたいに言う。
「そうかもな」と俺は言った。
教育熱心な母さんは、俺のことを忘れてしまうくらいには姉ちゃんを溺愛していて、
なにかと出来の悪い弟と出来の良い姉を比べては姉ちゃんを褒め、俺を貶した。
はじめの頃はそのことをとても悔しいと思ったものだったが、
今となるとそれはあたりまえのことになってしまっている。
当の姉ちゃんはというと、たしかに俺と比べるとすこぶる出来がいい。
同じ腹から生まれたとは思えないくらいに。
弟の俺が言うのもおかしいかもしれないが、姉ちゃんは整った顔立ちをしていて
(同じ腹から生まれたとは思えないくらいに美人)、勉強もできればスポーツもできる。
絵も描ければ楽器だって扱えるし、唄だってうまい。
姉ちゃんは親からの期待をぜんぶ背負っていた。
でも何かうまくいかないことがあると、俺の部屋に来て、俺を殴ったり蹴ったりした。
昂った気分が落ち着くか、殴るのに疲れるかすると、
姉ちゃんは何事もなかったかのように部屋を出て行く。
興奮してるんなら部屋でオナニーでもしてろよとよく思ったが、
やっぱりこれも家ではあたりまえになっていた。
一度両親に「姉ちゃんに何度も殴られている」と言ってみたことがあった。
両親は姉ちゃんを呼び、「どうしてそんなことするの?」とやさしく問いただした。
「ちょっと苛々してて、つい」と姉ちゃんは言った。「ごめんね」と俺に向かって言った。
「誰にだってそういうことはあるわよ。だから、ろんちゃんも
ちょっとくらいは我慢してね。男の子でしょ?」と母さんは言った。
父さんに至っては無言だった。
俺はうなずくしかなかった。両親に期待した俺がばかだったのだ。
そのつぎの日からも姉ちゃんは俺の部屋に来て、何かにとり憑かれたみたいに俺を殴打した。
ときどき金切り声を上げたり、半ば泣き叫んでいるような声を上げながらこぶしを振るった。
それがとてつもなくおそろしいものに見えた日もあった。
だから俺はサンドバッグみたいに殴られて、
車に撥ねられた猫みたいに床にうずくまった。
痛かったけれども、べつに悲しくも悔しくもなかった。
姉ちゃんが俺の部屋に現れる頻度は徐々に増していき、
最近はほとんど毎日来るようになっていた。
日を追うごとに暴力の度合いはエスカレートしてきている。
まるで俺を痛めつけることが義務であるかのようだった
でも俺にできることは何もない。
両親は姉ちゃんの暴力を黙認しているし、俺が苦しむことで苦しむ人は俺だけしかいない。
そして何と言っても姉ちゃんは家族の希望であり、崇拝すべき偶像のような存在だった。
「それにしても江良さん、かわいいよなあ」と亜十羅は言った。「俺も絆創膏がほしいよ」
江良さんがかわいいことには概ね同意見だが、俺は黙っていた。
「こう、なんて言うんだろうな、ハムスター的なかわいらしさがあって」
亜十羅は一〇分ばかり江良さんのかわいらしさについて語った。
話を聞いていると、亜十羅は江良さんのことを身近な異性として
見ているわけではなくて、偶像(アイドル)のように見ているようだった。
そのことについて意見を言うと、「あー」と間の抜けた声が返ってきた。
亜十羅は言う。
「たしかにそうかもなあ。でもさあ、江良さんが俺と手をつないでるところを想像できるか?」
「無理」
「即答かよ」
*
駅の前で亜十羅と別れてから、俺は駅前をぶらぶらと歩いた。
家に帰っても今の時間なら姉ちゃんはいないが、母さんがいる。
できることなら家にいる時間はなるべく減らしたかった。
駅前の本屋で一〇〇円の古本を一冊買ってから
コンビニでレモンティーを買って、のろのろと住宅街の方へ歩いた。
だんだんと駅前の喧騒から離れていくのが、すこしさみしかった。
幼稚園児を乗せた派手な色のバスが、脇を通り過ぎた。
遠くからは園児の帰りを待っている母親たちの
ぎこちない会話が、冷えた風にまざって耳に飛んでくる。
俺は家からけっこう離れたところにある公園に向かった。
公園にはちいさな砂場とつるつるとした石の滑り台があり、
とってつけたみたいに馬や象のかたちをした遊具がある。
ベンチの辺りには黒と赤のランドセルが無造作に置かれていて、
小学生の女の子が象にまたがって前後に頭を振っている。
しばらくするとその子が俺の方を見て、「あっ」と言った。「ろんちゃんだ」
俺は手を振った。「ひさしぶり」
「ひさしぶり」ユメちゃんはそう言って象から下り、俺の方に歩いてきた。
「めずらしいね? どうしたの?」
「なんとなくね」と俺は言う。
「ユメちゃんは相変わらず明日来と有栖といっしょに遊んでるのか?」
「まあねー」とユメちゃんは歯を見せて笑った。
「明日来と有栖は?」
「ボールを取りに行ったよ」
「この公園はボール遊び禁止だけど」
公園の隅には看板があった。『公園内でのボールを使用した遊びを禁ずる』。
子どもへの忠告なのに、どうしてそんなに堅苦しい口調なのだろう。
「バレなかったらだいじょうぶだよ」とユメちゃんは言った。
「たしかにそうだ」と俺は言った。
明日来と有栖がボールを持ってくるまでは暇なので、
俺はベンチに腰掛けて、買ってきた本を読んでみることにした。
姉ちゃんはちいさな頃からよく本を読んでいたが、
俺は普段から、ほとんど活字にふれることはなかった。
活字にふれる機会があるとするなら、それは国語の授業だけだ。
こんなものの何がおもしろいのだろうと、よく思ったものだった。
「何それ?」とユメちゃんが隣で言う。「ろんちゃん、本読むの?」
「年に一冊くらいは」
「すくなくない?」
「えっ。ユメちゃんはもっと読むの?」
「年に二冊くらいは」
「すげえ」
「ねえ、訊いていい?」
「何を?」
「ここ、紫色になってるけど」ユメちゃんは俺の頬を指差して言う。「なにかあったの?」
「部屋で転んだんだ」と俺は言った。「そしたら思いっきり机にぶつけちゃって」
「うわー、痛い」ユメちゃんは痛みに悶えるふりをしながら滑り台の方へ行った。
俺は買ってきた本をてきとうに捲る。
黄ばんだ紙にはびっしりと文字が整列していて、見ただけでくらくらとしてしまう。
けっきょく三ページほど読んでから栞をはさんで、鞄にしまった。
ぼけっとしながら買ってきたレモンティーで喉を潤していると、
男の子ふたりと見覚えのある制服を着ている女の子が、
ボールを持って公園へ走ってくるのが見えた。明日来と有栖と、誰だろう。
「あっ!」と明日来が俺を指差して言うと、「あっ!」と有栖が俺を指差して言った。
次に「あっ」と言ったのは制服の女の子――江良さんだった。最後に俺が「あっ」と言った。
「ろんちゃんひさしぶり!」明日来が俺にボールを投げつける。
俺はそれを腹で受ける。痛かった。「ここはボール遊び禁止だけど」
「バレなかったらだいじょうぶだって」
「なるほど」と俺は言う。「それはまあいいけど、なんで江良さんが」
「サッカーするけど人数が足りないって、有栖が言うから」と江良さんは言った。
「ろんちゃんが来てるなんて知らなかったし」と有栖は言った。
「誰にも言わなかったし」と俺。「べつに俺は見学でもいいけど」
「ろんちゃんとミヤちゃんは、友だちなの?」とユメちゃんが首をかしげる。
「ミヤちゃん?」
「わたし、わたし」江良さんが言う。「わたし、江良ミヤコっていうの」
「俺たちって、友だちなのかな」
「友だちじゃないの?」
「じゃあ、友だちということで」
「よろしく、ろんちゃん」
俺がベンチに座ったままでいると、残った四人はサッカーを始めた。
江良さんはわざわざ体操服に着替えてからプレイした(体操服を制服の下に着ていたらしい)。
はじまったゲームはサッカーというよりは、ただのボールの奪い合いだった。
ゴールキーパーもいないし(そもそもゴールがどこにあるのかが分からない)、
二対二なのに敵味方も関係ないし、その他ややこしいルールなんてどう見てもなさそうだった。
でもそういうのは見ていてたのしかった。
うちの姉ちゃんはあんなふうに遊んだことがあるだろうか?
*
ユメちゃんは泥まみれになった明日来と有栖を連れて帰っていった。
公園には俺と江良さんだけがいて、
置き場所を間違えた石像みたいにベンチに座り込んでいた。
午後六時のチャイムが遠くで鳴っている。空を覆う夕闇が濃くなりつつあった。
「ろんちゃん、家はどこ?」と江良さんは言う。
「あっちの方」と俺は言う。
「わたしはこっち」江良さんは鞄から水筒を取り出して、お茶を飲んだ。
「ろんちゃんは、どうして明日来や有栖と知り合いだったの?」
「むかしからこの公園にはよく来てて、知らないうちにいっしょに遊ぶようになってた」
なるほどなあ、と江良さんは納得したようにうなずく。
「江良さんはどうして?」と俺は訊ねてみる。
「川で溺れてた有栖を助けたことがあって、それから仲良くなったの」
「嘘でしょ?」
「嘘じゃないって、あの三人に訊いてみてよ。
わたしは嘘をつかないことで有名なんだよ」
「嘘をつかないことで有名っていうのが嘘だったりするんじゃないの?」
「ろんちゃんは疑り深い性格」江良さんは言う。「ろんちゃんの家って、ここから近いの?」
「ちょっと遠いかな」
「じゃあどうしてわざわざこの公園に?」
「できるだけ家からは離れていたいから」
江良さんは水筒を鞄にしまう。「それは、そのあざと何か関係がある?」
俺はうなずいた。それから、言ってしまってよかったのだろうかとすこし後悔した。
「また明日」と江良さんは言い残して、軽やかな足取りで公園を出て行った。
一五分くらい経ってから俺もベンチから腰を上げて、帰路についた。
橙色に染まる町の中をひとりで歩くのは、
さみしくもあったけど、なかなか悪くない気分だった。
ここはいい町だ、と俺は思った。でも、あの家だけはどうしても好きになれない。
*
うちはどこにでもあるサイディング張りの一軒家だった。
タイヤの痕で黒ずんでいるコンクリート打ちのガレージには
ミニカーみたいな車が停められていて、猫の足跡のついた犬走りには
ぽつんと室外機が置かれていて、裏には広い庭がある。
うちの自慢といえば姉ちゃんと広い庭くらいのものだ。
ステップを踏んでドアをあけると、俺を迎えてくれるのはダウンライトの光だった。
足元のタイルはひんやりとしていて、なんだかあまり好きにはなれない。
たぶんそこに姉ちゃんと母さんと父さんの靴があるから、余計にそうなのだろうと思う。
俺は三人の靴から離れたところに自分の靴を並べた。
リビングへのドアから漏れる黄色い光に辟易し、薄暗い廊下を歩いて、
仄暗い階段を上がってすぐのドアをあけて、真っ暗な自室に寝転がった。
居心地の悪い家の中でも、自分の部屋はどちらかというと落ち着く空間だった。
二分くらいぼうっとしてから制服を脱いでスウェットに着替えた。
夜光塗料の塗られた時計の針は午後の七時辺りを打っている。
そろそろ姉ちゃんは塾へ向かうはずだ。
姉ちゃんがいなくなるのは結構なことだが、
姉ちゃんのいない食卓はいつもぎすぎすとしていた。
たとえば、母さんが半ば義務を遂行するかのように、俺へ質問をぶつける。
テストはどうだったとか、進路がどうだとか、そういうやつだ。
俺はそれにそっけなく答える。しばらくすると母さんは父さんと談笑する。
俺は疎外感をおぼえる。だいたいがこんな感じだった。
階下から「いってきます」というちいさな声が聞こえた。
まもなくドアが乱暴に閉まり、かちりと施錠の音がする。
俺は身体を起こして、泥棒みたいにして階段をそろそろと下る。
リビングのドアをそっとあけると、まずバラエティ番組の胡散臭い笑い声が聞こえて、
つぎに芳しい香りがした。カウンターを挟んで向こう側にあるキッチンには母さんが立っている。
母さんの料理は好きだ。でも食卓の空気は舌の感覚が鈍くなってしまうくらいに嫌いだ。
「おかえり」と母さんが言う。頬のあざに対しては何も言わなかった。
「ただいま」といちおう俺は言う。
「おう、おかえり」と父さんが言う。
父さんはソファに座りながら、文庫本を読んでいた。
父さんは本や音楽、映画や絵画などを好んでいるみたいだった。
ほんとうに俺はこの人と血がつながっているのだろうかと、今でもよく思う
(でも一度だけ、学校の授業で『走れメロス』を読んで、
そのことで父さんと盛り上がったことがあった)。
古本を買ったということを言ってみようかと、すこし迷ったけど、言わないことにした。
父さんは話に食いついてきてくれるだろうけど、それはたぶん
親子の会話ではなくて、友人との会話のようなものになってしまいそうだったからだ。
決してそのことが悪いことだとは言わないが、なんだか抵抗がある。
夕飯ができるまでクッションを枕代わりにして、絨毯の上に寝そべって、テレビを見ることにした。
つまらない芸人がつまらない話をしてつまらない番組を盛り上げていた。
要するにつまらなかった。それはもう救いがたいほどに。
八時頃になると、母さんが食卓に料理を並べ終わる。
俺と父さんは決まった席に着いて、あたたかい料理を食べる。
向かい合った両親は姉ちゃんのことについて話し始める。
俺はさっさと自分の分を平らげて、逃げるように自分の部屋に向かう。
姉ちゃんが帰ってくるのは午後一一時くらいだ。
塾というのはそういうものらしい。ご苦労なことだ。
部屋に戻り、さあ穏やかで何にも縛られない自分だけの時間だ、
という気分になっても、すぐに姉ちゃんのことで頭がいっぱいになる。
また殴られるのか、とか、嫌だなあとか、こわいなあとか、
そういったことが頭のなかに氾濫して、何かに集中することができなくなる。
結局、家には心の底から安らげる時間や場所なんてないのだ。
風呂に入ってからも、何にも手をつけることが出来ず、
気がつけばもう一一時になっている。
俺は寝転がりながら、天井に向かってため息を吐いた。
一一時七分に姉ちゃんは帰ってきて、すぐに浴室に向かった。
風呂あがりに廊下をとんとんと歩く姿を想像するだけで、お腹の辺りが重くなる。
一一時五〇分に、姉ちゃんがとんとんと階段を上がってくる足音が聞こえた。
姉ちゃんは俺の部屋の隣にある自室に吸い込まれるように入る。
足音が消えると、今度は連続した鈍い音がドア越しに聞こえた。
たぶん何かを殴りつけているのだろうけど、実際に現場を
目撃したわけではないから、本当のことは分からない。近寄りたいとさえ思わない。
やがてその鈍い音は止む。つぎにドアのひらく音がする。俺は唾を飲む。
ノックのひとつもなく、部屋のドアが乱暴に開け放たれる。
姉ちゃんはまだ乾ききっていない長い髪をうしろで縛っていて、
もこもことした黄色いパジャマを着ていた。
いかにも機嫌が悪そうに目を細め、唇をぶるぶると震わせている。
無機質を殴りつけるだけでは姉ちゃんの中に蓄積したフラストレーションは
解消されないらしく、いつもこうして俺の部屋にやって来る。
姉ちゃんは俺の前に立ち、俺を睨みつける。俺が立ち上がって睨み返すと、
あざのない方の頬にこぶしが飛んでくる。鋭い痛みが頬を刺し、俺は床に転げる。
姉ちゃんは俺を見下ろしながら、腹を蹴ってくる。
そのうちのひとつが鳩尾に突き刺ると、
身体の中心に電気が走ったみたいな痛みがやって来る。
鈍い痛みの中で、今までずっとこういう立場にあったのだと思うと、
過去の自分のことを滑稽に思った。でも、これからも長いあいだ
暴力にさらされなければならないのかと思うと、未来の自分のことが憐れで仕方なかった。
あと何日――あと何年こういったことが続くのだろうか?
姉ちゃんは俺のことをサッカーボールか何かと勘違いしているらしく、ひたすら俺を蹴り続けた。
悲鳴みたいな叫び声を喉から絞り出したかと思うと、俺を蹴ることをやめ、
部屋にある家具を蹴りつけ、机に並べられた教科書をなぎ払い、また俺を蹴った。
痛みのせいもあって、反撃しようという気にはなれなかった。
こわいということもあるけど、何よりも、俺が反撃することで
姉ちゃんという偶像が崩壊してしまうような気がしたからだ。
姉ちゃんがだめになるということは、つまり両親の期待を裏切るということになってしまう。
姉ちゃんは泣きながら俺を蹴り続けた。強い衝撃が脳を揺らすと、視界は黒く染まった。
二次なのかオリジナルなのか分からんから最初に一言書いといて
>>22
オリジナル
ややこしくてごめんよ
2
「なんで反撃しないんだよ」と亜十羅が言った。
「亜十羅には分からないよ」と俺は言う。
「たしかに分からないな。俺にも出来のいい兄がいるけど、
理由もなく、しかも毎日一方的に打ちのめされるなんてぜったいに嫌だわ。
殴られたら殴り返すし、蹴られたら蹴り返すと思うよ、俺だったらな」
「でも、亜十羅は兄ちゃんと仲いいんだろ」
「それなりには。お前の姉ちゃんって、どこの高校に行ってるんだっけ」
「さあ、知らないよ」姉ちゃんの通っている学校の名前などいちいちおぼえていない。
「亜十羅の兄ちゃんは?」
「賢いところ」
「うちの姉ちゃんとおんなじだ」
朝の日差しは心細いくらい弱々しく、冷たい風が通学路を歩く生徒たちのあいだをすり抜けていく。
喫茶店からコーヒーの香りが漂ってきていて、またべつのところから甘ったるい香りがする。
「ろんちゃーん」と背後で声がする。振り返ると、早足でこちらに近づいてくる江良さんがいる。
「ろんちゃんってお前」亜十羅が目を見開く。「江良さんとそんなに仲良くなったわけ?」
「どうだろう。でもきのう、公園でいっしょにサッカーをやった」
「そんな報告聞きたくねえよ、うらやましい」
「おはよーさん」と江良さんがとなりに並んで言う。「きのうもお姉ちゃんと喧嘩したの?」
「まあね」と俺は言う。亜十羅が訝しげな視線を俺に送るが、無視することにした。
「怪我してない? 絆創膏いる?」
「いや、だいじょうぶ」
「はい。俺、きのう転んでひざを擦りむいたんで絆創膏がほしいです」亜十羅が言う。
江良さんは言う。「喧嘩はいいんだけど、お姉ちゃんのことあんまり殴ったりしちゃだめだよ」
「分かってるよ」と俺は言った。「分かってる」
*
「そのあざのこと、江良さんには姉ちゃんと喧嘩したって言ってるのか」
となりを走る亜十羅は言う。「なんで正直に言わないんだ?」
午後になると日差しはすこし勢いを取り戻したみたいにグラウンドを照らした。
それでもやはり寒いものは寒い。なんといってももう今年は終わってしまうし、
半袖半ズボンでグラウンドをぐるぐると走っているのだから当然だ。
冬の体育は嫌いだった。好きだというものは少数派ではないだろうか。
俺は言う。「これはうちの問題だから」
「でもお前、俺にはぜんぶ言ってくれたのに、なんで江良さんには言わないんだよ」
「あんまり話が大きくなるのは嫌なんだ。
もし俺が姉ちゃんに暴力を振るわれてるって知れ渡ったら」
「お前は姉ちゃんに苛められる弱虫だってみんなから言われるのが嫌なのか?」
「それもあるけど、姉ちゃんが悪者扱いされるだろ」
「今まで聞いてきた話のなかでは、お前の姉ちゃんはどう考えても悪者だと思うけど」
「だからってそんな。もし話が広がって、姉ちゃんのことを
苛めるようなやつが出てきたらどうするんだよ」
「因果応報。罪を犯したやつには罰が与えられるの。
それでいいじゃないか。そしたらお前もスカッとするって、な?」
「家族が苛められてスカッとするやつはあんまりいないと思う」
「すこし痛い目を見れば、お前に対する態度も変わってくるって」
「頼むから余計なことはしないでくれよ」
「余計なことって?」
「姉ちゃんを痛い目に合わせないでくれよ」
「お前ってさあ、もしかしてシスコンなの?
ふつうのやつじゃなくて、かなり歪んだシスコンみたいな?
そんでもって、蹴られて興奮するマゾヒストだったり?」
「かもしれない」
「家庭内暴力でも異常性癖でも困ったらいつでも俺に相談しろよ」
「ありがとう」
体育の授業が終わるときょうの授業は終了だった。
汗を吸った体操服から制服に着替え、
ぱっぱと掃除を済ませて、亜十羅といっしょに校門を出た。
「どうにかならないのかよ」と亜十羅が言う。
「どうにかできるのなら、今ごろ俺はもっと清々しい気分でいられるよ。
でも、今がいちばん落ち着いたかたちみたいに思える」
「お前が姉ちゃんに暴行されるのが正しいことだっていうことか?」
「正しいことだとは言わないけど、ただ、こういう収まり方もあるっていうこと。
そんで、俺はその収まり方に納得できつつあるということ。しっくりきてる」
「俺はぜんぜん納得できない」亜十羅は腹が立ってるみたいだった。
「でも俺が姉ちゃんのフラストレーションのはけ口になることで、ぜんぶは丸く収まってるんだ」
「どこが丸く収まってるんだよ。ぜんぜん納得できない」
「それに、何かの映画言ってた、『犠牲に耐えるのが家族だ』って」
「ろくでもない映画だな」
「だからもうだいじょうぶだって。今までずっとやってこれたんだし、
あと何年か経てば家を出て行けばいい。そうだろ」
「ぬああ、それでもやっぱり納得できない!」亜十羅は叫んだ。
そうこうしているうちに駅へ辿り着き、俺たちは別れた。
駅前のコンビニでピーチティーを買い、なんとなく書店へ立ち寄った。
べつに読みたい本があるわけでもなく、参考書がほしいというわけでも
なかったのだが、俺は書店内をうろうろと歩いた。
店内は静かで暖房が効いていて、なかなか居心地がよかった。
ひと通り徘徊し終えてから書店から出ると、江良さんに遭遇した。
江良さんは古本を五冊ぐらい手に持って、古本を眺めていた。
「本好きなの?」と俺は訊ねてみる。
江良さんはいきなり声をかけられたからか、おどろいた様子で俺を見た。
声をかけてきたのが俺だとわかると、安堵の息を吐いた。
「あー、びっくりした、ろんちゃんか。こんなところで何してるの?」
質問には答えてもらえなかったが、まあいいかと思い、「江良さんこそ」と俺は言った。
「見てのとおりだけど」と江良さんは言う。
「万引き?」
「ちがう、なんでそうなるの? 本を買いに来ただけだよ。
それに、わたしは万引きをしないことで有名なんだよ?」
ふうん、と俺は言った。
万引きをしないことで有名になれるとはさすが江良さんといったところだった。
「ろんちゃんは? 何してるの? 万引き?」
「時間つぶし」
「家に帰りたくないから?」
「そうそう」
「今から昨日の公園に行くの?」
俺はうなずく。
「わたしも行っていい?」
「べつにかまわないけど」
「ちょっと待ってて」と言うと、江良さんは古本を持ってレジの方へ行った。
言われたとおりにちょっと待っていると、緑色の袋を持った江良さんが戻ってきた。
うれしそうに口もとをゆるめていたので、「本好きなの?」と俺はあらためて訊ねてみた。
「どうだろう?」と江良さんは首をかしげて言う。「ろんちゃんは?」
「年に一冊読むくらいには好きだよ」
「じゃあわたしの方が好きだね」
書店から出て、住宅街の方へ歩き出そうとした時、
すこしはなれたところでじっと俺たちの方を見ている女がいることに気がついた。
江良さんはぱちぱちとまばたきをして、「なんだろう、あれ」と言った。
「うちの姉ちゃん」と俺は言う。
「えっ、あれが。美人だ」
美人であることに違いはないが、ただ、かなり機嫌が悪そうだった。
遠くにいてもわかる。恨めしそうな視線を俺に送り、静かな怒りに身体を震わせている。
姉ちゃんの全身に毛が生えていたとしたら、それは一本残らず逆立っていることだろう。
姉ちゃんはその場から動こうとはしなかった。
風に吹かれた髪が頬に張り付いても、そんなことには
気づいていないとでもいうように立ち竦んでいた。
まるで出来のよすぎる彫刻みたいに、ぴくりとも動かないのだ。
「仲直りしてないの?」と江良さんが言う。「お姉ちゃん、怒ってるんじゃないの?」
「ほっとけばいいよ。いつも通りだから」
俺は姉ちゃんから視線を外して、住宅街の方へ歩き出す。
いつも通りだ。姉ちゃんはなぜか俺を見ると苛々するのだ。
*
公園にはユメちゃんと明日来と有栖がいて、俺たちは
昨日と同じようにサッカー(の皮をかぶった謎の球技)をした。
寒くても汗をかくくらいにはしゃぎまわっていると、
すぐに辺りは暗くなり、どこかから午後六時のチャイムが聞こえてきた。
それを合図に試合は終了して、小学生三人は家へ引き返していった。
公園にはまた俺と江良さんだけが取り残される。
火照った身体を冷ますためにベンチにもたれていると、ちょうどよい風が吹いてくれた。
枯れ葉をからからと転がす冷たい風は、身体から適度に体温を奪っていった。
江良さんは持参していた水筒のお茶を飲んで言う。
「お姉ちゃんのこと、訊いてもいい?」
「かまわないけど、どうして?」と俺は言う。
「だって気になるんだもん。それに、ちょっとへんだしさ。
ものすごく怒ってるように見えたよ、さっきのお姉ちゃん」
「あれがいつも通りなんだって。俺を見ると余計に苛々するみたいだし」
「喧嘩って、いつもお姉ちゃんからふっかけてくるの?」
「そう。ほんとうは喧嘩じゃなくて、一方的に俺がやられてるだけなんだけど」
「どういうこと?」
隠すのも面倒なので、けっきょく正直に言うことにした。
「姉ちゃんは苛々すると、物にあたる癖があるんだ。椅子を蹴ったり、机をひっくり返したり。
でもここ何年かは、それだけじゃ苛々を鎮めることができなくなったみたいでさ」
「それでろんちゃんが殴られたり蹴られたりするの?」
「そう」
「でも反撃しないんだね」
「あんなのでも女の子だし、いちおうは」
「どうしてお姉ちゃんはそんなに苛々してるんだろう?」
「生理とか?」
「ろんちゃん最低。ほかに心当たりないの?」
「ええと、うまくいかないことがあったりすると、ものすごく機嫌が悪くなることがあるかな。
たとえば、これはむかしの話だけど、ピアノの発表会で失敗した時とか。
最近だとテストの点数がちょっと悪かったりとか、そういう時は苛々してるかな」
「完璧主義者ってやつなのかな? あるいは繊細すぎる性格とか?」
「姉ちゃんもそうなのかもしれないけど、母さんが特にそんな感じかな。
俺のことはほったらかしだけど、姉ちゃんにいろんなことをさせてる。
ピアノに書道に茶道、あとはバレエとか水泳とか。
ほかにもいろいろあったと思うけど、細かいことまでは思い出せない。
結果が悪い時は怒られることもあるみたいだけど」
「それじゃない? お姉ちゃんの機嫌が悪い理由」
「どういうこと?」
「お母さんからのプレッシャーが、お姉ちゃんを苛々させてるんじゃないのかな。
それとたぶん、ろんちゃんのことがうらやましいとか」
「俺のことがうらやましい? なんで?」
「自由だから」と江良さんは言った。「お姉ちゃん、息抜きができてないんだよ、きっと。
わたし達はこうやって遊んだり、休日に本を読んだりしてたまったガスを抜くけど、
お姉ちゃんにはそういう時間が足りないんじゃないかなあとわたしは思うな。
だから爆発しそうになった時に、ろんちゃんに暴力を振るっちゃうんじゃないかなあ」
言われてみれば姉ちゃんが誰かと遊んでるところなんて見たことがない。
そもそも高校に友人がいるのかすらが怪しいし、
休日も塾やら習い事で姉ちゃんは忙しそうにしていることが多い。
だからといってつらそうにしているかと言えばそうでもない。
しかし姉ちゃんの笑った顔が思い出せないのも事実だった。
俺は言う。
「じゃあ息抜きをすれば姉ちゃんが暴力を振るう回数も減るかもしれないということ?」
「かもしれないね」
「いや、でも、爆発しそうになるとって言っても、
最近は毎日のように俺の部屋に来てるんだけど」
「毎日爆発しそうなのかもよ。きっとガスの入る容量が小さくなってるんだよ。
お母さんからのプレッシャーがずっと容量の半分を埋めてて、
何かちょっとしたことがあれば、すぐにどかんとなっちゃうんだよ、きっと。
それでろんちゃんに暴力を振るっても、失くなるのは『ちょっとしたこと』の分だけ。
一日もあればその分はいっぱいになっちゃう。あと、お母さんに怒られるって
そのことばっかりが頭を占めてるから、余計に物事に集中できないのかも。
だからちっちゃなミスが増えて、余計に苛々する、とかかなあ……。
もしかすると、むかしに比べると褒められる回数が減ってるとかなのかなあ。
お母さんの方もこれくらいはできて当然っていうふうに思ってるのかも。
親に認めてもらいたい一心でお姉ちゃんはもがいてるけど、
それがうまくいかなくて、悔しくて悲しくて怒っちゃうとか。
でもお母さんには逆らえないから、弟のろんちゃんを殴りつけるのかも。どう思う?」
「もっと早く江良さんに相談すればよかった」と俺は言った。
「よくそこまで分かるね。俺にはわけが分からなかった」
「あくまで推測だけどね」江良さんは照れくさそうに笑った。
「もしかすると、まったくべつの理由でお姉ちゃんは苦しんでるのかもしれないよ」
「でも江良さんの言うことには説得力があるように思える」
「そうかな。ただ思ったことを言っただけだけど」江良さんは頬を人差し指でかいた。
「でもね、これも推測だけど、お姉ちゃん、かんたんには
ろんちゃんを殴ることをやめられないと思うよ」
「どうして?」
「今でいっぱいいっぱいなのに、どこにガス抜きの時間を作るんだろう?
それに、仮にガス抜きの時間ができても、根本的な解決にはならないと思うよ」
「根本から問題を解決するには、つまり、母さんをどうにかしなきゃならない?」
「あるいは二人を無理やり引き離すとかだね」
江良さんはむずかしい顔をした。「お父さんはどうなの?」
「父さんは、傍観してるだけのように見えるな」
「放任主義ってやつ?」
「たぶん。でもたまに姉ちゃんと音楽や本の話をしてる」
「ろんちゃんは? お父さんと仲いいの?」
「いや、仲良くはないかな。俺は、いてもいなくても同じようなものだから」
江良さんはすこし間を置いて言う。「ろんちゃん、家族とうまくやれてないの?」
「うまくやれてないというか、両親は姉ちゃんのことばかり気にかけてて、
俺には見向きすらしないって感じかな。ただの穀潰しと思われてるのかも。
そういうのはやっぱり気に入らないけどさ、でも、家から出ればたのしいもんだよ。
亜十羅もいるし、明日来に有栖に、ユメちゃんとかがいるし」
「わたしは?」
「江良さんも」
「そっかあ。たいへんなんだね、ろんちゃん」
「いちばんたいへんなのは姉ちゃんだったのかも」
「そうかもね」江良さんは水筒を鞄にしまい、立ち上がる。制服のスカートがひらひらと揺れた。
「でも、わたし達にはどうすることもできないんだよね。わたし達は、まだ子どもだから」
*
日付が変わるのとほとんど同時にドアが開け放たれ、姉ちゃんが部屋にあらわれた。
俺は全身に力をいれて椅子から立ち上がった。でも姉ちゃんはドアの前から動かなかった。
いつもなら俺の方に歩いてきて、力任せに俺を殴りつけるのに。
「きょう、駅前の本屋で、女の子と歩いてたでしょ」
姉ちゃんは抑揚を欠いた声で言った。「あれは誰?」
予想外のことが起こって俺はちょっとたじろいだ。それからすぐに答えた。
「江良さん。クラスメイトの江良っていう子。たまたま本屋で会って」
「なんでろんちゃんは本屋にいたの? 本なんて読まないでしょ?」
「俺が本屋にいちゃだめなの?」俺はむっとして言った。
「ほんとうに偶然会ったの? その、江良っていう子と」
「そうだよ。それが何か悪いの?」
「ふうん」と姉ちゃんは言う。
わずかに怒ったように顔を歪めたが、こぶしが飛んでくることはなかった。
姉ちゃんはそのまま俺に背中を向けて、自分の部屋に帰って行こうとする。
「あのさ」俺は思いつきで言った。「えっと、今度、暇な時があればさ、
どっかに出かけようよ。ええと、たとえば映画館とか、水族館だとかさ」
姉ちゃんは俺の言葉にゆっくりと振り返る。
先ほどの鬼のような表情は消え失せて、今度はなぜか悲しそうな顔をしていた。
しばらく無言がつづいたが、やがて姉ちゃんはふらふらと自分の部屋に引き返していった。
3
「姉ちゃんの様子がおかしい」と俺は言った。
「お前の姉ちゃんはいつもおかしいだろ」と亜十羅が言う。
「そうじゃなくて、殴られなかったんだ。昨日は」
俺はそう言ったが、亜十羅は特におどろいた様子を見せずに、「へえ」とだけ言った。
「反応うっすいな」と俺。
「ちょっと心当たりがあってな」
「亜十羅、姉ちゃんに何かしたのか」
「いやあ、どうにかならないのかと思ってさ、兄貴に相談してみたんだよ。
友だちの阿保ってやつがさー、姉ちゃんとうまくいってなくてさー、って。
そしたら兄貴、お前の姉ちゃんと知り合いみたいでさ。
知り合いっていうか、おんなじ塾に行ってるとか、そんなレベルだけど」
俺は黙って話のつづきを待った。
亜十羅はつづけた。「お前の姉ちゃん、最近成績が良くないんだってさ。
ぼーっとしてることが多いように見えるって。心ここにあらずってやつ?
そんで兄貴は訊いてみたんだよ、最近元気がないように見えるけどなにかあったのかって。
そしたらお前の姉ちゃん、『まあ、いろいろと』って、すげえ曖昧な返事をしたんだって。
『もしかすると、弟との仲が悪いことと関係ない?』って、兄貴が言うと、
『どうして知ってるの?』って、こわい顔されたんだってさ。でも美人だって言ってた」
「お前の兄ちゃんはそうとうなイケメンなんだろうな」
「なんで?」
「いきなり『最近元気ないけど何かあったの?』とか、なかなか言えるもんじゃないと思う」
「まあ兄貴はそういうやつだから」
「ふうん。でも、そのことと姉ちゃんの様子がおかしいことがどう関連してるんだろう」
「さあ。でも昨日は殴られなかったんだろ。ぜったいに関係あるって」
「姉ちゃんは俺と江良さんが本屋にいたのが気になってたみたいだけど」
「それは俺も気になるんだが? くわしく聞かせてもらいたいんだが?」
「いや、駅前の本屋で江良さんとあって、その時に姉ちゃんとも会ったんだ。
姉ちゃん何も言わなかったけど、こっちをずっと睨んでてさ、
夜に部屋に来た時、『いっしょにいたあの子は誰?』って訊かれて」
「なんだよそれ、うらやましい」
「うらやましいのかな」
「江良さんとふたりきりとか殴られても仕方ないわ、うん」
「姉ちゃんもそう思ったのかな、うらやましいって」
「かもな。お前の姉ちゃん、友だちもいないみたいだし」
やっぱりか、と俺は思った。
「もしかすると姉ちゃんは亜十羅の兄ちゃんのことが好きだとかで、
でも弟と仲が悪いって言われて落ち込んでたのかな」
「そんなことで落ち込むか? 姉弟の仲が悪いことなんてべつにめずらしいことでもないだろ」
「姉ちゃんは八方美人を演じなきゃならないんだよ、母さんのために」
「自分のプライドのために、じゃないのか」
「それもあるかもな」
*
「じゃあ、昨日は乱暴されなかったんだ?」と江良さんは言った。
「そうなんだよ」と俺。「あと、思いつきで今度出かけようって言ってみたんだけどさ」
「どうだった?」
「なんか悲しそうな顔された」
「ほんとうはよろこんでると思うよ。だから乱暴されなかったんじゃないの?
話を聞いてるかぎりでは、お姉ちゃんは機嫌が悪いとすぐにグーが出ちゃうみたいだし。
でも、出かける時間がないんだろうね、きっと。だから悲しかったとか」
「あと、江良さんと俺がいっしょにいたことが気になってたみたい」
「うらやましがられてたのかも。誰かと自由に外を歩き回りたいと思ってるだろうしね。
なんでろんちゃんは縛られていないのかって、だから余計に苛々するんだと思う」
江良さんはそこまで言ってあいだを置き、
「特にろんちゃんが異性の子といることが気に入らなかったんじゃないかな」と付け足した。
「なぜ?」
「お姉ちゃんだって好きな子といっしょにいたいんじゃないのかなあと思って。
いや、べつにろんちゃんとわたしが好き同士だとか、そういうことじゃないんだよ?
ただ、はたから見ればそう見える可能性がなきにしもあらずっていうことで、
ようするにお姉ちゃんが勘違いをしたかもしれないっていう話ね? 可能性の話」
俺は言う。
「たとえばだけど、江良さんは異性から『弟と仲悪いんだってね?』って言われたらどう思う?」
「えっ? うーん……」江良さんは天井を見上げて言う。
「あんまりいい気はしないかなあ。それがきっかけで嫌われちゃうのもこわいし。
でもまあ、結局はそのつぎにつづく言葉次第だよね」
「どういうこと?」
「『弟と仲悪いんだってね? ぼくもきょうだいと仲悪いんだよね』っていうパターンと、
『弟と仲悪いんだってね? 学校では誰とでも仲良くやれてるのにどうしてなの?』っていうパターン。
あくまでこれはたとえだよ。共感してくれる場合と、貶される場合があるということ。
どちらの反応が返ってくるかによって、気分の浮き沈みは大きく変わってくると思うよ」
「江良さん、きょうだいと仲悪いんだってね?」と俺は言ってみた。
「わたしはひとりっ子だよ」と江良さんは言った。
「なるほど」
「これ、お姉ちゃんの話と関係あるの?」
「ちょっとだけ。ほら、亜十羅っているだろ、同じクラスの須田亜十羅。
その亜十羅の兄ちゃんが姉ちゃんと同じ塾に通ってて、姉ちゃんにそういうことを言ったみたいなんだ。
それがちょうど俺に暴力を振るわなかった日でさ、もしかすると何か関係あるのかなあと思って」
「苛々すると弟くんを殴っちゃう悪癖を直そうとしてるのかもよ。
八方美人でいなきゃならないんでしょ、お姉ちゃん」
「調べられて俺のことを殴ってるなんて広まったらまずいからなあ」
「あるいは須田くんのお兄ちゃんのことが好きで、嫌われたくないとか?」
「かもしれない。亜十羅の兄ちゃんイケメンっぽいし」
「うーん」江良さんは腕を組んだ。「でも実際はどうなんだろうね」
「まあ俺も亜十羅の兄ちゃんの顔は見たことないしなあ」
「そうじゃなくて、お姉ちゃんが実際にはどう感じているのかってこと」
「俺には分からないよ。江良さんのほうが余程姉ちゃんのことを理解してる」
「でもろんちゃんはいちばんお姉ちゃんのことを心配してる。
それにわたしの意見はぜんぶ推測でしかない」
「考えてみれば姉ちゃんのことを心配する人なんていないのかも。
友だちも少ないみたいだし、外では当たり障りなく振る舞ってるみたい。
母さんと父さんはあんな調子だし、そもそもあのふたりは
姉ちゃんがおかしいだなんて思ってすらいないのかも」
「助けるも見捨てるも、すべてはろんちゃん次第ってことだね」
*
六時半頃に家に戻ると、リビングから母さんの怒声が漏れていた。
俺は暗い階段の一段目に足をかけて息を潜め、ドアの向こうの声に耳を傾けた。
動きを止めると廊下に漂っている冷たい空気が肌をぴりぴりと刺した。
どうやら姉ちゃんの成績が良くないだとか、そういうことを学校の三者面談で言われたらしい。
親子の会話というよりは姉ちゃんが一方的に怒鳴られているみたいだった。
怒声の隙間に小鳥の鳴き声みたいにちいさな「ごめんなさい」という声が聞こえて、
俺はとてもやるせない気持ちになった。いったい何だっていうんだろう。
しばらく俺も母さんも姉ちゃんもそうしていた。母さんの言っていることは堂々巡りだった。
成績が悪いのは努力が足りないからだとか、どうしてもっと頑張れないのかだとか、
ちゃんと勉強しているのかだとか、そんなことばかりがぐるぐると繰り返されていた。
姉ちゃんの言うことも「ごめんなさい」ばかりだった。沈黙が訪れることはない。
そりゃあ苛々もするだろうな、と俺は思った。
近くにいるだけで苛々するんだから、本人はたまったものではないだろう。
「助けるも見捨てるも、すべてはろんちゃん次第ってことだね」と江良さんは言った。
姉ちゃんに暴力を振るわれ続けるか、ささやかな抵抗をしてみるか、それは俺次第だ。
ささやかな抵抗が何にどう繋がっていくのかは分からないが、
このまま姉ちゃんに殴られつづけるのもさすがに疲れる。
俺はリビングへ突入することにした。どうせもう家族とはうまくやれてないんだから、
突撃が失敗に終わっても大した変化はないだろう。うまくやれば姉ちゃんと仲良くなれるかもしれない。
仲良くとまではいかなくても、せめて暴力をやめてくれるくらいまでは。
そうは思っても、修羅場に乗り込むのはなかなか勇気がいるものだった。
ふたりして俺を糾弾したりしないだろうか。
どちらかがヒステリーを起こしたりはしないだろうか。
考えれば考えるほど気が滅入った。でもこのままだと今夜は間違いなくぼこぼこにされる。
今夜姉ちゃんが部屋に乗り込んできた時に殴り返してやろうか、と俺は思った。
でもすぐにその考えは頭から消えた。
そんなことをすれば姉ちゃんがほんとうにだめになるような気がした。
ドア越しに怒鳴り声が響く。姉ちゃんは小さな声で謝る。
俺はノックをせずにドアを開けた。
リビングは明るかったが、廊下と同じくらい冷たい空気が流れていた。
ローテーブルの脇に正座する母さんと姉ちゃんは俺の方を見る。
母さんは表情に怒りを残していて、姉ちゃんは顔に涙の跡を残していた。
時間が止まったみたいに三人は固まっていた。
でも時計はこちこちと冷たく時間を刻み、姉ちゃんの頬からはしずくが落ちていった。
「どうしたの、ろんちゃん」と母さんは怒気をはらんだ声で言う。
「いま忙しいからあとにしてくれる?」
「あのさ」と俺は言う。
「姉ちゃんも頑張ってるんだし、そんなに怒らなくてもいいんじゃないの?」
「ろんちゃんには関係ないでしょう?」
母さんは俺が反論したことにさらに腹を立てたみたいだった。
「関係ないことはないと思うけど」と俺は言った。「家族なんだし」
「私たちは家族だけど、これは家族の問題じゃなくて、てみちゃんの問題なのよ。
分かるでしょ? だからろんちゃんは口を挟まなくていいの。二階で勉強でもしてなさい」
「でも、ちょっとやり過ぎだと思うんだ。なにもそこまで言わなくたって……」
「あのね、てみちゃんはろんちゃんと違って優秀なの。ろんちゃんもそのことはよく分かってるでしょ?
てみちゃんは賢いのに、なぜか学校での成績が良くないの。下から数えたほうがはやいくらいに。
ろんちゃんにはたまにそういうことがあるけれど、てみちゃんはそうじゃないの」
「でもそれは姉ちゃんの頭が悪いってことではないんでしょ?
高校なら、周りの人だって姉ちゃんと同じくらい賢いでしょ。
賢い人のなかで、そういう位置にいるってだけで」
「でも下から数えたほうがはやいの。成績が悪いことで怒られるのは当然のことでしょう」
「さっきも言ったけど、だからってそこまで言わなくても……」
「ろんちゃん」と言ったのは姉ちゃんだった。「もういいから、出て行って」
母さんは俺を睨みつけ、姉ちゃんは涙目で俺の方を見た。
母さんには何を言っても無駄だろうし、姉ちゃんもこう言ってる。
だから俺は無言でリビングから出て行って、階段をとぼとぼと上り、自室に向かった。
暗い部屋のなかで寝転んでいると、また階下から怒声が聞こえた。
ちいさな声で「ごめんなさい」と言う姉ちゃんの姿を想像すると、
お腹の辺りがきりきりと痛んだ。これで何かが変わったのだろうか。
日付を跨ぐ頃になって、姉ちゃんは俺の部屋のドアをそっと開けて中に入り、そっと閉めた。
それだけでも驚くような変化だった(大抵の場合ドアは乱暴に扱われる)が、
今度は部屋の真ん中まで歩いて、その場に座り込んだから、
俺は思わず、「どうしたの?」と訊いた。訊かないわけにはいかなかった。
「ろんちゃん」と姉ちゃんは暗い顔で言った。「どうしてあんなこと言ったの?」
「あんなことって?」俺はとぼけた。
「きょうの夕方、お母さんに言ったでしょ。『姉ちゃんも頑張ってるんだし』って」
「うん」
「なんでああいうこと言うの?」
「俺は姉ちゃんのことを思って」と俺は言ったが、
実際にはそこまで姉ちゃんのことを思っていたわけではなかった。
まったく思っていなかったというわけではないが、
俺が思っていたのは姉ちゃんに痛めつけられた今までの俺自身だった。
「余計なことしないで」と姉ちゃんは言った。「わたしはだいじょうぶだから。
もうろんちゃんを殴ったり蹴ったりもしない、わたしはしっかりやれるから」
俺はうなずいた。「ほんとうに殴らない?」
「うん、殴らない。いままでごめんね」姉ちゃんは頭を下げた。「ほんとうにごめん」
あまりにもあっさりとしすぎているように思えたものだから、うまく言葉が出てこなかった。
こんな素直な姉ちゃんを見るのは何年ぶりのことだろうと思ったけど、
これはほんとうに姉ちゃんなのだろうかとも思った。
何かが変わって来ているのは確かなことだった。
でも客観的に見てよい方向に変わっているのか、
それとも悪い方に変わっているのかの区別がつかなかった。
俺からすれば姉ちゃんがもう俺のことを殴らないというのが心の底から嬉しかったが、
姉ちゃんはフラストレーションのはけ口を失くしてしまった。
俺で解消されていた分はどこへ向かうのだろう?
そもそもほんとうにもう殴られずに済むのだろうか?
俺は言う。「姉ちゃん、遊んだりする時間ってあるの?」
「どうしてそんなこと訊くの? それを知ってどうなるの?」
「いや、言いたくないんだったらいいんだけど、ごめん」
すこしあいだを置いて、「ないよ」と姉ちゃんは言った。
「そ、そっか。一日もないの? 水族館とか、映画館に行く時間も」
「だから、そう言ってるじゃないの」
「そういうのって、つらくない?」
姉ちゃんは視線を落とした。
俺は言う。「あっ、ええと、へんなこと訊いてごめんなさい……」
「ねえ、ろんちゃん」姉ちゃんはうつむいたまま言う。「きょうの夕方もそうだけど、
どうしてわたしのこと気にするの? いままで乱暴ばっかりしてきたのに」
「どうしてって、だって俺たち家族だし……。そりゃあ殴られたことはすごく嫌だけどさ、
最近は姉ちゃんの様子が特におかしかったから、こわくなって」
「どうにかしなきゃって思ったの? 厄介者をどうにかしなきゃって?」
「それは」と俺は言ったが、つづく言葉は出てこなかった。
「いいよべつに。たしかにわたしが悪かったんだし、
厄介者だと思われても仕方ないよね。でももう怖がらなくてもいいからね」
姉ちゃんの優しさが悪意の裏返しのように見えるのは、
おそらく姉ちゃんに長いあいだ暴力を振るわれ続けてきたせいなのだろう。
すべての言動や態度に、表面と裏面があるように思える。
「もうだいじょうぶだから」と姉ちゃんは言って、立ち上がった。「ありがとね、ろんちゃん」
「うん」
俺はぽかんとしながら姉ちゃんを見送る。部屋から出ようとしたところで、俺は言った。
「いつか、ええと、たとえば高校を卒業して一人暮らしを始めたりなんかしたら、
どこかに出かけようよ。映画館とか水族館とか、姉ちゃんの行きたいところにさ」
「うん」と姉ちゃんは俺に背を向けて言った。ドアがそっと閉まる。
その日以来、姉ちゃんは俺の部屋には来なくなったが、
代わりに自分の部屋でいままでよりも激しくものを殴りつけるようになった。
がんがんごんごんと二枚のドアを貫くような重い音が響く。
もう来ないとは分かっていても、俺はその音を聞くとうまく息ができなくなった。
心臓が悲鳴を上げるみたいにばくばくと鳴って、身体がぶるぶると震えた。
そして日を追うごとに鈍い音が響く時間は長くなっていった。
姉ちゃんの成績は相変わらずで、塾でもぼうっとしていることが多いと亜十羅は言った。
母さんはそのことでまた姉ちゃんを怒鳴りつけた。
父さんはいつもどおり、傍から見ているだけだった。
俺はもう家族にはなるべく関わらないようにした。
冬休みがもう二日後に迫っていたが、俺の気分は梅雨の空みたいにどんよりとしていた。
今すぐに大雨が降って、ややこしいことなんてすべて濁流に飲み込まれてしまえばいいのに。
明日につづく
4
「冬休みだねえ」と江良さんが言った。
「そうだなあ」と亜十羅が言った。「江良さんは何か予定があるの?」
「いつもとおんなじ。本を読んで勉強して、遊んで食べて寝る。須田くんは?」
「俺もそんな感じかな。食って遊んで寝る」
「勉強は?」
「気が向いたらね」
「須田くんは最終日まで課題を残すタイプ?」
「登校日になっても課題が終わってない系男子です」
「だめじゃん」
「その時は江良さんの力を借りる」
「返してくれるのなら貸してもいいけど」と江良さんはまじめな顔で言った。「ろんちゃんは?」
「俺?」
「うん。何か予定あるの?」
「特にないけど」
「お姉ちゃんと出かけたりしないの?」
「冬休みって言ったって、姉ちゃんに休みがあるのかなあ」
「もう姉ちゃんのことはいいじゃないか」亜十羅が言う。「ほっといてもだいじょうぶだって」
「そんなことはないと思うけどなあ」江良さんは語尾を伸ばして言う。
白い呼気が空気に溶けて消えた。「治りかけがいちばん危ないって言うじゃない?」
「それはうつ病じゃなかったっけ?」
「そうだったっけ。まあとにかく、油断した頃にまた思いもよらないことが起こったりするんだよ」
江良さんの言うことはよく分かるが、姉ちゃんの
置かれている状況は『治りかけ』とはまったく違っている。
俺は明るい場所に出ることができたが、代わりに姉ちゃんは
いままでよりも暗い場所にどっぷりと浸かってしまっているような感じだ。
回復に向かってなどいない、姉ちゃんの状況は悪化の一途を辿っている。
もがけばもがくほど姉ちゃんにいろんなものが絡みついて体力を奪っていく。
全快しないまま勉強やスポーツに臨み、失敗をおかすと、
また姉ちゃんは母さんの怒声で真っ暗な海に突き落とされる。
俺と姉ちゃんで作り上げていたいびつな関係の輪が、
姉ちゃんだけで完結するようになったのだ。
二分割されていた苦痛は、姉ちゃんの中だけで完結することになる。
「聞いてる? ろんちゃん?」江良さんが耳元で言う。
「うん」
「お姉ちゃんのこと、心配?」
「まあ、そりゃあね。家族だし」
「いまままで散々やりたい放題されてきたのに、よくそんな奴の心配ができるよなあ」
亜十羅が言った。
「シスコンだからな」と俺は言った。
「そうそう」江良さんは何度もうなずいた。
「ろんちゃん、ほんとうはお姉ちゃん大好きっ子だからね」
「シスコンでマゾヒストとかやっぱりちょっと引くわ」亜十羅が俺からすこし離れて言う。
「わたしはろんちゃんがシスコンのマゾヒストでもだいじょうぶだよ」
「ありがとう」と俺は言う。
姉ちゃんが暴力を振るわなくなってからの俺の生活は、平穏なものだった。
いつも通り学校へ向かい、ほどほどに勉強して、公園で小学生と遊んで
(たまに亜十羅や江良さんとも遊んで)、暗くなると帰る。
ただ姉ちゃんはだんだんと荒れていった。部屋からは何かの壊れる音が毎日聞こえてきた。
俺はその度に心臓を掴まれたような気分に陥った。
ほんとうに姉ちゃんは俺の部屋に来ないのだろうか? と思わずにはいられないのだ。
怒りの矛先がまた俺に向かってきた時のことを思うと、うまく眠れないことがあった。
いま姉ちゃんが俺に暴力を振るってきたら、骨の一本や二本は
持っていかれるのではと思うほどにおそろしく感じることがあった。
もしもそうなった場合、俺のことを心配してくれる人がこの家にはいるだろうか?
でも姉ちゃんが部屋にやって来ることはなかった。相変わらず姉ちゃんは
母さんに怒鳴られ、失望されていたが、決して俺の部屋には来なかった。
それこそが俺の望んでいたはずの平穏なのだが、
実際にその中に身を置いていると、なんだか不気味なものだった。
そう思っていた矢先、冬休みが始まる前日のことだった。
姉ちゃんが俺の部屋にやって来た。そっとドアをあけると、
その隙間から部屋に滑りこむようにして部屋に侵入し、ドアをそっと閉めた。
姉ちゃんは顔色が悪くて、立っているのがやっとだというくらいに疲弊しているように見えた。
いまにも泣き出しそうな表情で、潤んだ大きな目を俺に向ける。
俺のことを殴りに来たわけではなさそうだが、怖いものは怖い。
「どうしたの?」と俺は声が震えないようにして言う。
「ろんちゃん」と姉ちゃんは言う。「ちょっとこっちに来て。だいじょうぶ、殴ったりしないから」
俺は動けなかった。
しばらくのあいだおたがいに硬直していたが、やがて姉ちゃんが俺の方に歩み寄って来る。
「立って」と姉ちゃんは言った。
俺は言われた通りに椅子から立ち上がる。脚がすこし震えた。歯をくいしばって目をつむる。
でも恐れていたことは起こらない。俺はおずおずと目をひらく。
姉ちゃんは悲しそうに俺を見ているだけだった。
「ね、ねえ、どうしたの? だいじょうぶ?」俺は訊ねた。
姉ちゃんは答えなかった。
その代わりに俺の背中に手を回して引き寄せた。俺の背中に置かれた手は
赤ちゃんをなでるような優しい手つきで動き、片方の手が俺の頭を撫でた。
姉ちゃんからは石鹸の匂いがした。俺は自分が震えていることを
悟られないようにしようと試みたけど、震えは止められなかった。
でも姉ちゃんはそのことに対して何も言わなかった。
「な、なに?」と俺は言う。「どうしちゃったの?」
「ごめんね」と姉ちゃんは言った。
「なにが?」
「ごめんね」と姉ちゃんはもう一度言った。
どうすればいいのかが分からなかった。とりあえず俺は姉ちゃんの背中に手を回した。
「何かあったの?」と俺は訊ねてみる。
姉ちゃんは答える代わりに俺を強く抱いた。俺はもう何も言わないことにした。
時計の音が部屋に冷たく響いている。窓の向こうで犬が吠える。
強い風が吹いてがさがさと木々が揺れ、窓にはめ込まれたガラスががたがたと震えた。
五分ほどそうして固まっていたが、突然姉ちゃんは俺から離れた。
そして、部屋から出ていこうとする。ドアノブに手をかけたところで、姉ちゃんは俺を見て言う。
「ありがとうね、ろんちゃん。前にわたしのことをかばってくれたでしょ。
『姉ちゃんだって頑張ってる』って。ほんとうはすごく嬉しかったの。
いままで乱暴ばっかりしてほんとうにごめんね。もうだいじょうぶだから。だから、もう……」
姉ちゃんは部屋を出て行った。震えはなかなか止まらなかった。
時計の針は一二時二〇分辺りを指していた。
もう冬休みになったのだ。でも気分は最悪に近かった。
なんだか見てはいけないものを見てしまったような後ろめたい気持ちがある。
俺は電気を消して、ふとんに潜り込んだ。暗闇を見つめながら、いまのは何だったんだろうと考える。
考えれば考えるほど嫌な予感がした。あれじゃあなんだか別れのあいさつみたいじゃないか。
突然俺を抱きしめて、謝って、礼を言って、姉ちゃんはどういうつもりなのだろう?
まさかほんとうに別れのあいさつだったのだろうか、と俺は思う。
いやいや、あの姉ちゃんに限ってそんなことはないだろう。そんな、自殺だなんて。
忘れて眠ろうと思ったが、もやもやが胸につっかえて、うまく息ができない。
ふとんから這い出て階段を下り、キッチンでコップいっぱいの水を飲んだ。
それからトイレに行って、また自分の部屋に戻ってふとんに入った。
眠れなかった。眠くてたまらないのに、どうしても眠ることはできなかった。
何度も寝返りをうっていると、だんだんと苛々としてくる。
どういうつもりなんだろう、と俺はもう一度さっきの姉ちゃんの行動について考える。
でも俺には姉ちゃんのことなんて理解できなかった。俺とあの人とはちがうのだ。
いつもとちがう態度には裏があるのかもしれない。あるいは、今まで裏側に潜んでいた
姉ちゃんのほんとうの姿が現れたのかもしれない。今まで誰にも見せなかったような、弱々しい部分が。
俺はまたふとんから這い出て、廊下に出た。廊下には夜の静寂と暗闇があふれている。
正面に姉ちゃんの部屋へのドアがある。俺はそれをノックする。
返事はない。寝ているのかもしれないし、寝ていないかもしれない。
ドアノブに手をかける。ドアノブは氷のように冷たかった。
「入るよ、姉ちゃん」と俺はちいさな声で言う。そしてドアをひらく。
部屋の空気は妙にあたたかく、むせ返るような匂いがした。部屋の電気はついていなかった。
「姉ちゃん?」と俺は言ってみる。すると、部屋の中心で影が動いたのがわかった。
俺はぱちんと電気をつける。すこし遅れて部屋は明るくなる。
部屋の真ん中に、姉ちゃんが座り込んでいる。
右手にカッターを持って、左手首からぼとぼとと血をこぼしている姉ちゃんがいる。
血のむっとした匂いが頭の奥をがんがんと突いた。
血まみれのパジャマを着た姉ちゃんは泣きながら俺を見ていた。俺は動けなかった。
床にできあがった血だまりは、まだゆっくりと大きくなっていた。
「な、何してるの?」状況を飲み込めないまま、俺は震える声を絞り出した。
「ごめんね」と姉ちゃんは言った。「ごめんね」と姉ちゃんはもう一度言った。
姉ちゃんはまたカッターで手首を切りつけた。姉ちゃんの左腕は傷だらけで、血まみれだった。
俺はいそいで姉ちゃんからカッターを取り上げようとしたけど、
脇腹を思いっきり蹴られて、床に崩れ落ちた。血の匂いが鼻腔を刺した。
部屋の家具は切り傷だらけで、勉強机以外はすべて倒れていた。
クロスは刃物で切り裂かれ、壁には無数の穴が空いていて、切り刻まれた衣服や
ばらばらになったCDプレーヤーの残骸があちこちに散らばっていた。
「痛い……痛いよう……」
姉ちゃんは泣きながらそう言ったけど、痛みに歪んでいる表情を見ているこっちも痛かった。
俺は『あのまま』でいるべきだったのだ。姉ちゃんはフラストレーションを
吐き出す場所を失ったことで、それを自分の中に溜め込むようになってしまった。
そして限界が来た。俺に振るわれていたこぶしはかたちを変えて、ぜんぶ姉ちゃん自身に振るわれた。
俺は起き上がって、姉ちゃんの右手を思いっきり蹴った。カッターは窓にぶつかって床に落ちる。
俺は血だまりの中を歩いて姉ちゃんを抱きしめる。姉ちゃんからは血の匂いがした。
「ごめん」と俺は言った。「ほんとうにごめん」
「……なんで謝るの? ろんちゃんは何も悪くないからね……ぜんぶわたしが悪いの……」
「そんなことない……姉ちゃんは悪くない……ここでちょっと待ってて」
俺はすぐに電話のあるリビングまで走り、救急車を呼んだ。
それから走って姉ちゃんの部屋に戻り、救急車がやって来るまで姉ちゃんの隣にいた。
家族の問題は、いつも俺の知らないところで進んでいる。まるで癌みたいに。
そのようにして冬休みは始まった。
5
目覚めるともう朝の九時だった。ふとんから出ようと思っても、
気だるい感覚に体を押さえつけられていて、うまく関節が動かない。頭も痛い。
意識の何割かが、悪夢のなかに取り残されたみたいだった。
二〇分かけてふとんから出て、まずは姉ちゃんの部屋に向かった。
姉ちゃんの部屋は限界まで荒れていて、真ん中には乾いた血がこびりついていた。
クロスは切り刻まれ、壊れた機械やきざまれた布は埃といっしょに床を転がり、
多くの家具はハリケーンが通りすぎた後の家屋みたいに傷つき、倒れていた。
そして姉ちゃんは部屋にいなかった。
床に転げたたんすの中の衣類も、みんな切り裂かれていた。
無傷だったのは学校の制服と体操服、あとは靴下と下着くらいだった。
この切り裂かれた服を姉ちゃんは一度でも着たことがあったのだろうか?
すくなくとも俺には覚えがまったくない。
机の引き出しの中には中学の時の卒業証書や
卒業アルバムが入っていたが、それも切り裂かれていた。
かろうじて読めるページもあるようだったけど、俺には覗く勇気も気力もなかった。
一番下の引き出しの中には、CDがみっちりと詰まっていた。
数は多いけれどきれいに整頓されていて、すべて無傷だった。
ドヴォルザークだとかベートーヴェンだとかモーツァルトだとか、
どこかで聞いたことのあるような名前もあれば、
デューク・エリントン、オスカー・ピーターソン、エロール・ガーナーといった
俺にはまったく馴染みのない名前もあった。
奥の方には隠れるみたいにしてニルヴァーナ、ソニック・ユース、
アリス・イン・チェインズのCDがひっそりとあった。
でも俺にはそれらがどういった音楽なのかがいまひとつよく分からなかった。
CDのほかにも、本棚に並んだ本も無傷だった
(本棚は切り傷があったり、大きくへこんでいたりしていた)。
これもまた聞いたことのあるような作家の本もあれば、まったく馴染みのない作家のものもあった。
壁にあいた無数の穴は、まるで何かの目のように見えた。
得体の知れない何かが潜んでいる巣穴のようにも見える。
でも無数の穴はどれひとつとしてこの部屋の外へ
繋がっていないということが、ひどく悲しいことに思えた。
俺は目を背けるように姉ちゃんの部屋から出て、階段を下り、リビングへ行った。
ドアをあける前から薄々予感はしていたが、やっぱり姉ちゃんの姿はなかった。
父さんと母さんが沈黙に包まれた冷たい部屋に、向い合って座っているだけだ。
「姉ちゃんは」と俺は言った。
母さんが俺を睨んだ。まるで俺のせいで姉ちゃんが
だめになったとでも言わんばかりに敵意のこもった視線だった。
「病院だよ」と父さんが言った。低い声はずしんと腹に響いた。
俺はそれだけ聞くと、歯と顔を洗い、服を着替えて外に出た。
とにかくあの家にはいたくなかった。姉ちゃんがいる家も嫌いだったが、
姉ちゃんのいない家の空気は耐え切れないほどの重みを含んでいた。
空はいますぐにでも雨や雪が降ってきそうなくらいに曇っていた。
風は肌を切り裂くように吹き、街路樹から落ちた枯れ葉をからからと転がした。
駅前にはぽつぽつと人がいた。スーツを着て早足で歩くものが幾人かいて、
あとはほとんどが四十代をこえた女性だった。たまに自転車に乗った
俺と同い年くらいの子が見えた。年代や性別はばらばらだったが、
全員が楽しそうにしているように見えた。それは気のせいかもしれない。
コンビニでパンとミルクティーを買って、いつもの公園に向かった。
冬の公園は不人気なようで、子どもひとりどころかカラスやハトもいなかった。
探せばちいさな虫くらいはいるかもしれないが、べつに探そうとは思わない。
でも誰かが隣にいて、俺の話を聞いてくれればいいのに、と強く思った。
亜十羅でも江良さんでもハトでもカラスでも
ミミズでもナメクジでもアリでも、何かが隣にいてほしかった。
ベンチに腰掛けてパンをもそもそと咀嚼しながら俺は考えた。結局、誰が悪かったのだろう?
俺が『あのまま』でいれば、こうはならなかったのではないだろうか?
しかしそもそもの話をすれば、母さんがここまで姉ちゃんを追い詰めなければよかったのではないか?
父さんだって、母さんに言うべきだったのではないか? そこまでしなくたって、と。
姉ちゃんもほかに何かやり方があったのではないか?
口で言っても無駄だったなら、手首を切るまでいかなくても、たとえば家出くらいなら。
でも家を出た姉ちゃんはどこへ向かっただろう? 泊めてくれる友人がいるだろうか?
ため息がこぼれた。白い呼気が風にさらわれて消えた。
起こってしまったものはもうどうしようもない。
ウインドブレイカーに口もとをうずめ、ただ意味もなく公園に座っていた。寒くて身体ががたがた震えた。
強い風が吹くと、禿げ上がった木がからからと乾いた音をたてた。
どれくらいの時間そうしていたのかは分からないけど、
ふと顔をあげると、小学生三人組と江良さんが公園に歩いてくるのが見えた。
当たり前だけどみんな私服姿だった。でも俺が江良さんの私服姿を見るのははじめての事だった。
「どしたの、ろんちゃん」とユメちゃんが言った。「元気ないね」
「そうかな」と俺は言った。
「うん。今ろんちゃんのこと押し倒したら起き上がれなさそう」
「そんなことはないと思う」
「えいっ」ユメちゃんは横から俺を押した。俺はベンチを占領するみたいに寝転んだ。「どう?」
「やべえ、起き上がれないかも」
「でしょ?」
「どしたの、ろんちゃん」と江良さんが言った。
「みんなに会いに来たんだ」と俺は寝転んだまま言った。
「サッカーやる?」と明日来が目を輝かせて言った。
「やる」と俺は言ったけど、起き上がる気力は湧いてこなかった。
「何かあったの?」江良さんはしゃがんで言う。ちょうど目の前に江良さんの顔がある。
「いろいろとね」
「お姉ちゃんとまた喧嘩した?」
「そうじゃないんだ。そうじゃなくてさ……」
「ろんちゃん泣いてる?」と有栖が言った。
「今から泣くかも」と俺は言った。
「お姉ちゃんのこと?」と江良さんは言う。「うまくいかないの?」
俺はうなずいた。
「何があったの?」
俺は何度も手刀で手首を切る真似をした。「姉ちゃんが、カッターでさ……」
「お姉ちゃん、手首を切ったの?」
「うん……。俺があのままでいれば、こんなことにはならなかったんじゃないかと思うんだ」
江良さんはすこしの沈黙をはさんで言う。「ろんちゃんがあのままでいる必要はないよ。
ただこのことは遅かれ早かれ、いずれは起こっていたと思うよ、わたしは」
小学生三人は重々しい空気を敏感に感じ取り、危ない場所から避難するみたいに
素早く動いたらしく、すでにすこし離れたところに座り込んでいた。
サッカーボールを転がし、地面に絵を描きながら、ちらちらとこちらに目をやっている。
「母さんがさ」と俺は言う。「俺のことを憎んでるみたいな目で俺を見るんだ」
「でもろんちゃんは悪くないよ」
「じゃあ誰が悪かったんだろう」
江良さんは黙って俺の頬に残るあざを撫でる。
冷たい指は滑らかに肌の上を行き来するだけだったけど、ふしぎと心地よいものがあった。
でも長い沈黙が遠回しに俺のことを糾弾しているみたいに思えた。
「お前も悪いし、他のみんなも悪い」と、そう言われているような気がした。
「お姉ちゃん、どうなったの?」と江良さんは言う。
「病院に行ってから、後のことは何も知らない」
「ろんちゃん、いつから公園にいたの?」
「朝から」
「お昼食べたの?」
「食べてないけど、いま何時?」
「もう一時だよ。一三時。お腹減らない?」
「あんまり」
「行こう」と江良さんは言う。
「どこへ?」
「ろんちゃんの家」
「いやだ」
「どうして? お父さんとお母さん、心配してるよ」
「ふたりが心配してるのは姉ちゃんだよ。それに、あんなところにいたくないんだ」
「そういうのって、さみしくない?」
「さみしいよ」と俺は言った。「さみしいに決まってるだろ……」
そこで、いままで蓋をしていた何かが破裂したみたいな気がした。
喉の奥がぶるぶると震えた。あふれた何かが外に出てしまわないように、唇を強く噛んだ。
江良さんは言う。「一度、家に帰ってみようよ。
ろんちゃんまでだめになったら、お父さんとお母さんは悲しむと思う」
「いままで放ったらかしだったのに、いきなり悲しまれたって困るよ……」
「でも、悲しいと思うよ。わたしはろんちゃんがだめになったら悲しい。
あのちびっ子三人組だって悲しいだろうし、須田くんだって悲しいと思うよ。
だからそうなっちゃう前に、ここできっちり区切りをつけて、前向きになろうよ」
「区切りって、どういうふうに」
「言いたいことをぜんぶ言っちゃえばいい。お父さんとお母さんに。
いままでずっと我慢してきたんだし、思いっきり泣くとか、
いまのろんちゃんにはそういうことが必要なんだと思う。
だからまずは家に帰ろうよ。わたしもついて行くから。
そのあとにお腹いっぱいご飯を食べて、また遊ぼうよ。
そしたらちょっとでもいい気分になれるよ。そのまま眠れたら言うことなし。
つぎの日になったらお姉ちゃんのことについて話しあおう。だから行こう、ね?」
俺は答えられなかった。
江良さんが小学生三人組を呼んだ。「ろんちゃんを起こすのを手伝って」
四人がかりで俺はベンチに座らされた。それから腕を引かれて立たされた。
「ハンカチ貸してあげる」とユメちゃんが言った。
「スヌーピーとチャーリー・ブラウンが描いてあるの。お気に入りなんだよ」
俺はハンカチで目元を拭って、ユメちゃんに返した。「ありがとう」
「今からろんちゃんの家に行くけど、ついて来る人は手を上げて」と江良さんは言った。
言い終えるのと同時に、その場にいた俺以外の全員が手を上げた。
俺はもう一度ハンカチを借りて目元を拭った。それから五人で家の方に歩き始めた。
*
ガレージに車はなかった。おそらく父さんか母さんのどちらかが出かけているのだろう。
悪いけれど四人には外で待ってもらうことにして、俺はひとりで家に入った。
玄関も廊下も外と同じくらいかそれ以上に冷えていて、曇った外よりも暗かった。
ドアを開けると、あたたかい風がふわっと廊下に流れ込んだ。
リビングには父さんだけがいた。出かけているのは母さんのようだ。
「倫太」と父さんは言った。「おかえり」
「ただいま」と俺は言って、父さんの正面に座った。
江良さんは「言いたいことを言え」と言っていたが、何をどう切り出せばいいのかがよく分からなかった。
いま言いたいこと(訊きたいこと)といえば、それは姉ちゃんのことくらいしか思いつかない。
「姉ちゃん、どうなるの」と俺は訊いてみた。
「照美は」父さんはそこで言葉を区切る。まるで言葉を選ぶかのように。
「しばらくは病院にいることになるだろうな」
「だいじょうぶなの、姉ちゃん」
「傷については、命に関わるほどのものじゃなかったみたいだ。でも問題はそこじゃない」
父さんは姉ちゃんのことについて、大雑把に話してくれた。
姉ちゃんはどうやら、きのうのリストカット(アームカット)よりも以前に、何度か自傷行為をしていたようだ。
でもそれは手首を切る、所謂リストカットという行為ではなくて、
お腹の辺りにカッターの刃を入れていたらしかった。
どうしてお腹なのかというと、傷が目立つのが嫌だったから、ということらしい。
俺から言わせてもらえばどちらも同じようなことにしか思えなかった。
いまは総合病院にいるらしいが、近いうちに
精神病院へ行くことになるかもしれない、と父さんは言う。
すこしのあいだ、母さんと距離を置いたほうがいいと
父さんは考えたが、母さんは猛反対しているらしい。
精神病院というとあまり良いイメージはないけど、
母さんと離れたほうがいいという点について異論はなかった。
姉ちゃんを精神病院へ連れて行くことに反対している理由というのは、
どうも母さんは世間体を気にしすぎているようなんだ、とも父さんは言った。
大事なのは娘だろう、と父さんは母さんに言った。
でも母さんが大事にしているのは「賢い娘」だったようで、
心が折れるようなことはあってはならないと言い張った。
それに母さんには自分が娘に悪いことをしているという実感がなかった。
でなきゃあんなになるまで姉ちゃんを追い詰めたりしないだろうから、それはそうだろうなと俺は思った。
すべては純粋な善意と愛情から生まれた物なのだが、それらは少し歪んでいた。
あるいはそこには愛情や善意などはなくて、すべては自分の世間体のためだったのかもしれない。
たしかに勉強ができてスポーツができて芸も達者なら、未来は明るいかもしれない。
でもいまが暗すぎて明るい未来が見えなくなってしまっては意味がない。
それに、姉ちゃんならそこまでやらなくたって十分に幸せな生活を手に入れられるような気がした。
「照美も苦労していたんだろうけど、言えるわけないよな、こんなこと。
俺たちが――俺と母さんがもっとしっかり照美と向き合わなきゃだめだったのに。
倫太も、照美に殴られたり蹴られたりしてたんだろう。
照美、ちゃんと謝りたいって言ってたぞ。よく耐えたな。……ほんとうに悪かった」
父さんはそう言うと、俺に向かって頭を下げた。
今更そんなことで頭を下げられたって反応に困るというのが正直なところだった。
「母さん、俺のこと何か言ってなかった?」と俺は訊ねてみた。
父さんは言うべきか迷っているみたいに、眉間にしわを寄せた。
俺は言う。「俺のせいだとか言ってるんでしょ、どうせ」
「まあな……。でもお前が気にすることはないんだぞ。お前は照美にいろいろと感謝されてる」
「そっか」
「母さんから照美をかばってやったんだろう。そのことをこっそり、うれしそうに話してた。
それに、お前が照美を見つけなかったら、ほんとうにどうなっていたか分からないからな……」
「……うん」
父さんは部屋に溜まった重い空気を入れ替えるために窓を開けて、「お昼は何にしようか」と言った。
「母さんは帰ってこないの?」
「いま出かけたばかりだからな。どうする? スパゲッティでも茹でるか?」
「いや、外で友だちが待ってるから、何か買って食べるよ」
父さんは肯く。「こんなこと言える立場じゃないかもしれないけど、
自分の身体と友だちは大事にしろよ。気をつけてな」
「うん」と俺は言った。
外には小学生三人組と、江良さんと、なぜか亜十羅がいた。
「ろんちゃーん」とユメちゃんが言った。「ハンカチいる?」
「もうだいじょうぶ」と俺は言った。「なんで亜十羅はここにいるんだ?」
「せっかくの冬休みだから、どっかへ遊びに誘おうと
思って来てやったっていうのに、なんだその反応は」
亜十羅は言うが、口調のわりには怒っているわけでもなさそうだった。
「もう終わったの?」と有栖が言った。
「うん、終わったよ」
「じゃあサッカーしよう!」と明日来が言った。「三対三だ! やった!」
「俺もカウントされてるのかよ」と亜十羅が言う。
「やるでしょ?」とユメちゃんがにんまりと笑って言う。
「おう、まあね。お姫さまの笑顔はなかなか怖いな」
「えへへー、どう? こわい?」
「超こわい」
「うふふー」
「行こう、ろんちゃん」と江良さんが言う。「話はまたあとで、ゆっくりしようね」
「うん」俺は言う。「まずは腹ごしらえから」
*
三対三で始まったゲームは二対二対二になり、最後には個人競技みたいになった。
六時のチャイムが鳴るころにはもう辺りはとっぷりと夜に浸かっていた。
亜十羅はユメちゃんに気に入られたらしく、小学生三人を送ることになったようだ。
「ひさしぶりに汗をかいた」と亜十羅は満足げに公園をあとにした。
俺も帰ろうかと思ったが、母さんが家にいるのだと思うと、気が滅入った。
石でも飲み込んだみたいに、急に腹のあたりがずしんと重くなる。
ベンチから立ち上がってふらふらと歩き始めたところで、江良さんに腕を掴まれた。
「何?」と俺は言った。
「ゆっくりとおはなしをしようって言ったでしょ」と江良さんは言う。「そこに座って」
江良さんに導かれるままに俺はベンチに腰を下ろすと、すぐ隣に江良さんが座った。
しばらくはおたがいに無言で、白い呼気を眺めるだけの無為な時間が過ぎた。
やがて江良さんが言う。「言いたいこと、ぜんぶ言ったの?」
「父さんには、ちょっとだけ。母さんはいなかったから何も言ってないけど」
「お父さんにどんなこと言ったの?」
「言いたいことって言われても、大したことはなかったから、とりあえず姉ちゃんのことを訊いた。
父さんはいろいろ心配してたみたいだった。母さんは俺のせいだって言ってるみたいだったけど。
父さんとはうまくやれると思う。俺のことも姉ちゃんのことも心配してるみたい」
「よかったね、ろんちゃん」
「うん」
「お姉ちゃんの方はどうなの?」
「命に関わる傷ではなかったみたいだけど、いまは総合病院にいて、
もしかすると精神病院へ連れて行かれるかもしれないって。
自傷行為はあれがはじめてだったわけではないみたいだし、
母さんとは一度距離を置いたほうがいいって父さんは判断したらしいから、
たぶん通院じゃなくて入院ってことになるのかな。母さんは猛反対してるらしいけど」
「そっか」江良さんは空を見上げて長い息を吐いた。空は灰色の厚い雲に覆われていた。
「誰にも言わないでほしいんだけど、いいかな」と俺は言った。「家族や姉ちゃんのためにも」
「じゃあこれはわたしとろんちゃんだけの秘密っていうことだね」
「うん」あらためて言われると何か恥ずかしいものがある。でもそのとおりだ。
「残る大きな問題は、お母さんということになるのかな」
「そういうことだね。でも、なんとかなると思う。ぜんぶ江良さんのおかげだ」
「そんなことはないよ。ろんちゃんが頑張ったんからだよ。
それに、お姉ちゃんはこんなことになっちゃったし……」
「でも江良さんがいなかったら、もっとひどいことになってたかもしれない」
「そう言ってもらえると、力になれてよかったって思うよ。須田くんにもお礼を言わないとね」
「うん。亜十羅も心配してくれてたみたいだし……」
「ろんちゃん、また泣いてる」
「いや、これは……」俺は言い訳しようと思ったけど、
続く言葉は何も出てこなかった。「ああ、もう……えぐっ、うおえええっ」
「よしよし」江良さんはトレーナーの袖で、俺の頬を拭った。「いい友だちがいてよかったね」
「自分で言っちゃうんだ……」俺は笑った。
江良さんも笑った。「だってろんちゃんが言ってくれないんだもん」
「江良さんがいてくれてほんとうによかったと思ってる」
「ヤダ何それ、はずかしい、照れちゃう」
「ほんとうにありがとう。家まで送ってくよ」
「ありがと」
ベンチから立ち上がって、俺たちは並んで歩き始めた。
街灯に照らされる仄暗く冷たい道には、ほとんど人がいなかった。
江良さんは家に着くまでずっと俺の服の袖を握っていた。
おたがいに言葉を発することはなかった。ただ規則的に口もとから白い息がこぼれるだけだ。
うちにいるあいだにも、こんな満たされた時間が続いていればいいのに、と俺は思った。
でも素敵な時間は瞬く間に終わってしまう。
俺が江良さんの家の前で立ち止まると、袖を掴んでいた手はゆっくりと離れていった。
「また明日」と江良さんは言った。「ふんばるんだよ、わたしがいるからね」
「また明日」と俺は言った。ドアがばたんと閉まる。
俺は踵を返し、ふわふわした気持ちをこぼさないように抱えて、帰り道を歩いた。
でも家に着く頃にはもうふわふわした気持ちなんてこれっぽっちも残っていなかった。
抱えていた綿がみんな石に変わってしまったみたいに、胸の辺りが重かった。
ガレージには車があった。母さんは帰ってきている。
そっとドアをあけて、家に入った。リビングへのドアからは光が漏れている。
俺は深呼吸してから、そのドアをゆっくりとひらく。
あたたかいリビングには母さんと父さんがいたが、姉ちゃんはいない。
テレビから笑い声が聞こえるが、それ以外は静かなものだった。
まるで母さんがわざとぎすぎすとした空間を作り上げているみたいに思えた。
「おかえり」と父さんが言った。
「ただいま」と俺は言った。もう一度、今度は母さんに向かって「ただいま」と言った。
でも返事はなかった。母さんは立ち上がるとキッチンへ行き、夕飯の準備を始めた。
俺はローテーブルをはさんで父さんの向かい側に腰を下ろした。
まもなく腹の減る匂いがリビングに充満する。でもその匂いは
胸の辺りに抱えた石にこびりついて、むかむかとした気分にさせてくる。
空腹感と吐き気が混ざって、胃のなかで何かが叫んだ。どうにかしてくれ、と。
八時頃に食卓についた。父さんも母さんも俺も、終始無言で食べ物を咀嚼した。
味よりも心臓の音やいきなり怒鳴られたりしないかが気がかりで、居心地は最悪だった。
手早く食べ終え、食器を流しに持っていって、俺はすぐに風呂に入った。
風呂から出ればもう自分の部屋からは出ないようにした。
特にこれといってやることがないので、冬休みの課題をちらっと覗いたけど、
やる気は微塵も湧かなかった。だからもうふとんに入ることにした。
妙に気が昂っていて、ふとんに入っても眠気はぜんぜんやって来なかった。
これから毎日こんな夕飯が続くのだろうかと思うと、
鉛を飲み込んだみたいに胸が重くなった。
ややこしいことを考えるのをやめて、俺は江良さんのことを考えることにした。
そうすると余計に気が昂って眠れなくなった。姉ちゃんは今ごろどうしているだろう?
江良さんは今ごろどうしているだろう? 俺はどうすればいいのだろう?
ため息を吐くと、頭のなかがリセットされたみたいに真っ白になった。
だから俺はもう一度江良さんのことを考えた。江良さんのことだけを考えた。
江良さんの指の細さやかたちを思い出して、着ていた服のことを思い出す。
服の下の瑞々しい身体を頭に思い浮かべ、そこにふれることを考える。
妄想のなかで江良さんを好き放題にして、きたないものを吐き出した。
しばらくすると気だるい感覚が腰の辺りにまとわりつき、
だんだんと目に見えるものがどうでも良くなっていった。
あらためてふとんに潜り込むと、すぐに睡魔が俺を包み込んだ。
そういう日がだいたい一週間くらいつづいた。
起きて公園に行って、小学生三人組と江良さんと(たまに亜十羅も)いっしょに遊び、
お昼ごはんを食べて、また今度は夕方まで遊び、江良さんを家まで送って、
家で味のしない夕飯を黙々と咀嚼し、部屋に逃げ込んで江良さんのことを考えた
(だからといって毎日マスターベーションしていたわけではない)。
そこには前進もなければ後退もなかった。
ただ動かなくなった心電図みたいに山も谷もない日々の上を通りすぎているだけだった。
俺は動いていないのに、勝手に足元が動いて、ゆっくりと俺をゴールへ運んでいる。
ときどき姉ちゃんのことを考えた。いまはどうしているのだろうかとか、
これからどうなるのだろうかとか。でも考えても何も解決はしなかった。
姉ちゃんは一週間経っても戻って来ないし、きっと長いあいだ会えないのだろうと思った。
冬休みに入ってから九日目のことだった。
父さんが、一度姉ちゃんのところに行ってやってくれないか、と俺に言った。
それまで姉ちゃんは精神病院の閉鎖病棟にいたようだが(自傷行為があったため)、
安静にして回復の兆しが覗えたからなのか、開放病棟にうつることになったらしい。
閉鎖病棟は家族ですら面会を禁止されていたが、開放病棟へ移れば面会が可能だという。
俺が姉ちゃんに会いに行ったのは、冬休みの九日目、
クリスマスとかいう宗教的な行事が終わってからすぐのことだった。
また明日
6
その病院は山の中に見捨てられたようにぽつりと建っており、
周りにはその姿を隠すみたいにして高い樹木が乱立していた。
でも、見たところ荒廃した雰囲気はまったくなくて、清潔な印象を受けた。
病院へ近づくと、そこに入院している患者のものと思しき叫び声が聞こえた。
それもひとつではなく、三つも四つも聞こえたものだから、
ほんとうにここに姉ちゃんがいるのだろうかと不安になった。
いたと仮定しても、ほんとうにそれは俺の知っている姉ちゃんのままなのだろうか?
俺はおずおずと歩き、病院内に足を踏み入れた。
途端に病院独特の薬品の匂いに鼻腔を突かれ、俺は顔をしかめた。
ロビーの奥にはナース・ステーションがあって、
受付には三十代くらいの女性が座っていた。
女性のとなりには「ここから先へ入るためには、担当医の
許可が必要です」といった旨のことが書かれた札があった。
受付で面会票を記入し、面会に来たという旨のことを伝えると、
ちいさな部屋に通され、持ち物の検査が行われた。看護師に持ち物をチェックされ
(あたりまえだが刃物や長い紐など、危なっかしい物の持ち込みは禁止されていた)、
問題がないと判断されたところで、ようやく俺は病棟内に入った。
持ってきていたものは差し入れのケーキくらいだった。
開放病棟にある個室に姉ちゃんはいて、そこで面会させてくれるということだった。
俺はどきどきしながら担当医のとなりを歩いた。
つるつるとした床を踏む度に、きゅっきゅと廊下に鋭い音が響いた。
姉ちゃんが入院している病棟内は静かなものだった。
特に暗い雰囲気や狂気的な雰囲気などはなく、どこも清潔にしているみたいだった。
精神病棟というともっと混沌とした場所だと思っていたが、
変わったことといえば、奇声を発しながら歩く老人に遭遇したことくらいだった。
あとで知ったことだが、精神病と一括りにしても、様々な種類があるらしかった。
躁鬱病だとか、買い物依存症だとか、なんとかパーソナリティ障害だとか、
言い出せばきりがない。だから病状によってエリアが分けられていて、
姉ちゃんのいる辺りは比較的軽い症状の人が集まっているらしかった。
そのことを知った時は、あれで軽い症状なのかと愕然とした。
酷いものだと短い紐を何本もつなげ、なんとかして首を吊ろうとするような人もいるらしかった。
でもそこまでひどい症状のひとはみんな閉鎖病棟にいるのだという。
そちらはここと違って、もっと混沌とした場所なのだろうかと思うと、ぞっとした。
でもそうまでして死にたがっている人を閉じ込め、生き永らえさせる必要はあるのだろうか?
その自殺願望は一時の気の迷いだということなのだろうか? 俺にはよく分からなかった。
喫煙所のとなりを通り過ぎた辺りで担当医は立ち止まった。
ドアの脇には姉ちゃんの名前が書かれたプレートがあった。
俺は大きく息を吸った。担当医がドアを開ける。
質素な個室だった。部屋の真ん中にベッドが置かれていて、離れたところに棚がある。
棚には姉ちゃんの鞄が置かれていて、中には服が入っているようだった。
それ以外には特にこれといったものはなかった。テレビも観葉植物もカレンダーもない。
姉ちゃんはベッドの上に座って、文庫本を読んでいたが、俺が呼ぶとこっちを見た。
すこしだけ開いた窓から年の終わりの冷たい風が入り込んできて、長い髪を揺らした。
「ろんちゃん」姉ちゃんは文庫本を置いて、俺に手を振った。
俺は笑って手を振り返す。姉ちゃんは思っていたよりも元気そうだったから、
内心でほっとした。すこしだけ痩せたようにも見えるが、劇的な変化はない。
担当医が部屋から出て行くと、俺は姉ちゃんの近くへ寄った。
「あの、ええと、その……ひ、ひさしぶり。これ、ケーキ」俺は言った。
なんだかうまく言葉が出てこなかった。姉ちゃんは俺のことをどう思っているのだろう?
「ありがとね、ろんちゃん」姉ちゃんは微笑みながらケーキの入った箱を受け取る。
いままでにそんな表情を見たのは数えるほどしかないものだから、
その笑顔は不吉なことが起こる前触れみたいに思えた。
「ベッドの上に座ってくれていいよ」と姉ちゃんが言った。
ベッドに腰掛けると、ぎい、と軋んだ音がした。「だいじょうぶなの?」と俺は訊ねる。「腕とか」
「うん、腕はもうだいじょうぶだよ。痕は残っちゃうけど」姉ちゃんは左腕の長袖をまくった。
そこには縫われた無数の傷が、呪いみたいに残っていた。
「ごめん」と俺は反射的に言った。
「ろんちゃんは何も悪くないよ。悪いのはわたし」
「ちがう。姉ちゃんは悪くない。だからさ、お願いだから、もうそんなことしないでよ」
姉ちゃんは黙っていた。
「あっ……いや、その……」俺はまた言葉に詰まった。
何か余計なことを口走ってしまっただろうか?
それがきっかけでまた姉ちゃんが自傷行為に走ったりはしないだろうか?
「ろんちゃん」と姉ちゃんは言った。
「来てくれてありがとね。わたしのこと、心配してくれてたんでしょ?」
「うん……」
「ごめんね、いままで酷いことばっかりして。顔のあざ、だいじょうぶ?」
「うん……べつにいいよ、そんなこと。
べつに俺は殴られても蹴られてもいいから、もうへんなこと考えないでよ」
「……ねえ、どうしてそこまでわたしの心配をしてくれるの? 散々酷いことしたのに」
「だって、俺たちは姉弟で家族だし……、姉ちゃんがいないとうちはうちじゃなくなるし……。
みんな姉ちゃんがいないとだめなんだって……。俺も、父さんも……母さんも」
「ろんちゃんは優しいね」
「そんなことないよ」
「でも今までにわたしがやってほしかったことをやってくれるのはろんちゃんだけだよ」
「やってほしかったことって?」
「お母さんからわたしをかばってくれたこと。あと、こうしてわたしに会いに来てくれたこと。
伝わってないかもしれないけど、ほんとうはわたし、すごくうれしいんだよ。いま幸せなの」
「そっか……よかった。俺、姉ちゃんに嫌われてるんじゃないかって思ってた」
「うん……いまは違うけど、たしかにすこし前までは……正直に言うと、嫌いだった。
ごめんね。どうしてろんちゃんは自由なのにわたしは縛られてるんだろうって、そう思ってた。
ろんちゃんのことがうらやましくて妬ましくて憎かった。だから酷いこともいっぱいした。
でもいまは違うんだよ。ろんちゃんには感謝してるし、いっしょにいたいって思う。
わたしのことを分かってくれるのはろんちゃんだけだよ。ねえ、ろんちゃん、こっち来て」
俺はすこしだけ姉ちゃんの方に寄った。姉ちゃんは俺を抱き寄せた。
切り刻まれた家具と部屋の真ん中に広がる血が脳裏にちらちらと現れる。
俺も姉ちゃんの手に背中を回した。甘い香りが鼻から胸のあたりにじわりと広がった。
「わたしのことを分かってくれるのはろんちゃんだけだよ」と姉ちゃんは耳元で言った。
その日は俺の進路の話とか、病棟内のことだとか、いろんな話をした。
どうやら開放病棟はけっこう自由な空間のようで、先ほど見かけたように喫煙所もあれば、
共同スペースでテレビを見ることもできるし、外出もできるらしかった。
売店もあるが、預けている分のお金しか使えないのだそうだ
(一日に使えるお金には限度がある。買いもの依存症の人がいるため)。
ただ細かいところは徹底していた。たとえば窓は一〇センチほどしか開かないだとか、
喫煙所のライターは鎖で繋がれているとか、病棟の出入口はがっちりと施錠されているとか。
姉ちゃんはいままでにいた閉鎖病棟の話もしてくれた。
閉鎖病棟の中の隔離部屋に姉ちゃんはいて、
その中ではほとんど寝ているだけの生活をしていたらしい。
監視のために二重にガラスが張られた面があって、
まるで檻の中にいるみたいだった、と姉ちゃんは言った。
でも室内で安静にしていたおかげで、早めに開放病棟に移されることになったのだった。
なんにもやる気が起きなかったんだよね、と姉ちゃんは言う。
起き上がるのも食べるのもめんどうだったから、ずっと寝てたの、と。
痩せているような気がするのはそのせいなのだろうか、と俺は思った。
家のご飯が恋しいとも言っていた。病院の食事は質素すぎて姉ちゃんの口には合わないらしい。
でも家にはまだ戻りたくないかも、とも言った。姉ちゃんは母さんのことを恐がっているみたいだった。
「このままだとわたし、お母さんに殺されちゃうんじゃないかな」
姉ちゃんは笑いながらそう言ったが、
俺から言わせてもらえばそれは笑えない冗談だった。
姉ちゃんが殺される頃には俺はもうすでに殺されてるだろうな、と思った。
いまはまだ口を利かない程度で済んでいるが、いつ何が起こるかは分からない。
でもそんなことを言って姉ちゃんを不安にさせても仕方がないし、黙っていることにした。
会話が途切れて沈黙が続くことが何度かあった。不思議なことに居心地は悪くなかった。
何度も殴られて蹴られたが、姉ちゃんのとなりにいると安心できた。
でも病棟は暗い海にぽつりと浮かんだ孤島のように思えた。
外に出ればまた迷って、波に揉まれ流され、疲弊しきった後に
思いもよらない場所へたどり着くことになる。そして周りには見えない敵がたくさんいる。
できることならここに留まっていたかったが、ここは孤島ではなくて病院だし、
面会の時間は夜の八時までらしいので、夕方になると俺はベッドから腰を上げた。
「ろんちゃん」姉ちゃんは言う。「また来てくれる?」
「うん。来るよ」
「よかった」
妙に素直が姉ちゃんはすこし不気味だったけど、いままで甘えられなかった分、
甘えてやろうと思っているのかなと、てきとうに思い込むことにした。
そんなことを言えば俺だって誰かに甘えたかった。安らげる場所が欲しかった。
個室の外には老若男女さまざまな人がいたが、
ほとんどの人の目には輝きがなかった。空気も陰鬱としているように感じられた。
どこかの個室から聞こえる見舞客の軽快な声が、
限界まで落ち込んだ人々の気分をさらに落ち込ませていた。
俺は逃げるようにして病院から出た。赤い太陽がくっきりと空に浮かんでいた。
木々は茜色に染まり、俺の中に影を落とした。またあの家に帰らなければならない。
ため息を吐いてから、俺はとぼとぼと道を歩き始めた。家ではまた重苦しい時間が流れた。
そういう日がまた何日か続いた。
病院を訪れるのは朝がほとんどで、昼ごろになると病院から出て公園に行った。
昨今は不人気な冬の公園には、毎日小学生三人組がいて、俺が来るとユメちゃんが必ず、
「ミヤちゃん呼んでこようか?」とにやにやしながら訊いてきた。
「お願いしていいかな」と俺が言うと、「ミヤちゃんのこと好き?」とユメちゃんは言う。
俺は赤面する。ユメちゃんは満足そうに笑い、江良さんを連れてきてくれる。
俺と江良さんはベンチで、どこにも辿り着かない意味のない会話をする。
だいたいがこんな感じだった。でもその時間こそが安らげる場所だった。
もう二、三日もすれば今年も終わりという日に、江良さんがこう言った。
「ねえ、ろんちゃん。よかったらだけど、三人で初詣に行こうよ。ね?」
「三人?」
「わたしとろんちゃんと、お姉ちゃんで。外出できるんでしょ?」
「うん」俺は肯く。
「冬休みのあいだに、お姉ちゃんの行きたいところへ行こうよ」と江良さんは言った。
*
相変わらず父さんと母さんはほとんど口を利かない。
リビングにはいつも張り詰めた空気がこもっていた。
余計なことを口走れば、たぶん母さんはそれを引き金に
俺を糾弾するだろうと思ったので、俺も口を利かないようにした。
夜、寝る前に父さんが俺の部屋にやって来て、姉ちゃんの様子を訊ねてくる。
元気そうだよ、と俺が言うと、父さんはほっと息を吐く。
二〇分くらい姉ちゃんのことについて話し合ってから、
父さんは俺に一万円札を差し出して、これで照美をどこかに連れていってやってくれと言った。
分かった、ありがとう、と俺が礼を言うと、父さんは、俺がお前たちにできることは
これくらいしか思いつかない、と言い残して部屋を出て行った。
7
年が明けても家の中は明るくならなかった。
まるでうちだけが日の光が当たる世界から隔絶されてしまったみたいだった。
元旦は儀式的にお年玉を受け取り、おせちと雑煮を食べた。それからすぐに家を出た。
まずはいつもの公園に江良さんを迎えに行き、それから姉ちゃんを迎えに行った。
病棟から出て俺と江良さんを見た姉ちゃんは、すこし顔をしかめたみたいだった。
でもそれは気のせいかもしれないし、
ちょっとした顔の筋肉の歪みでそう見えただけなのかもしれない。
「明けましておめでとうございます」と江良さんが言う。
姉ちゃんが記憶の糸を手繰りながら言う。「前に駅前の書店にいた……江良さん?」
「はい。肺呼吸ですけど名前は江良です」
「わたしも名前は照らすに美しいって書いて
テルミっていうけど、ぜんぜん明るくないし、美しくもない」
「お姉さんは美人ですよ」
「ありがと。でもお姉さんって、なんかちょっとヤダな」
「なんて呼べばいいですかね」
「好きなように、お姉さん以外で」
「みんなからはなんて呼ばれてます?」
姉ちゃんはすこし沈黙をはさんで、「てみちゃん」と言った。
たぶん、『みんな』という部分が姉ちゃんの何かに引っかかったのだろうと俺は思った。
「てみちゃん」と江良さんが言う。
「ろんちゃんが呼び始めたの、『てみ』って」
不意打ちだった。「えっ? 俺?」
「おぼえてない?」
「ぜんぜん」
「ろんちゃんがちっちゃい頃、テルミってうまく発音できなかったから、
いつもわたしのこと『てーみ』って呼んでたの。
お母さんはそれが気に入って、それからずっと『てみちゃん』。おぼえてない?」
「まったくおぼえてない」
「前から気になってたんですけど」と江良さんが言う。
「ろんちゃんはなんでろんちゃんって呼ばれてるんですか? 名前、リンタロウなのに」
「むかし、姉ちゃんが倫太郎の倫を『ろん』って読み間違えたから」と俺は言った。
「母さんがそれを気に入って、今までずっと『ろんちゃん』」
「まだ漢字を読めなかったから」と姉ちゃんは頬を赤らめて言った。
「話だけ聞いてると今も仲良しに聞こえるけど、
でも、むかしはほんとうに仲がよかったんだ」
俺がそう言うと、姉ちゃんは無言で深く肯いた。
俺はふたりに挟まれながら、青々とした空の下を、神社に向かって歩き始めた。
江良さんがいつものように俺の服の袖を握っていると、
姉ちゃんもそれを真似して、指先だけで袖をつまんできた。
会話はぷつぷつと途切れがちだったけど、決してそれを悪いことだとは感じなかった。
きっと江良さんも姉ちゃんもそう感じているのだろうと思った。
だから無理に話を切り出したりするものはいなかった。
一時間ほど歩くとひっそりと佇むちいさな神社に着いた。
それでも境内には日の出みたいに明るい表情をした人々がごった返していて、
なかなか賽銭箱へ辿りつけなかった。踏み出す度に足もとで砂利が乾いた音を立てる。
がらがらと鈴を鳴らし、賽銭箱に小銭を投げ込み、神様に祈った。
家族がもう一度、昔のような仲良しに戻れますように。
三人共が参拝を済ませると、全員でおみくじを引いた。
みんな末吉とか小吉とかいまいちぱっとしない結果だったけど、
姉ちゃんも江良さんも満足げだったから、まあいいか、と思った。
俺と姉ちゃんは人混みが非常に苦手なので、逃げるようにさっさと神社を出た
(得意な人がいるのかどうかは甚だ疑問である)。
小腹が空いたから何か食べようよ、と江良さんが言う。
だから俺たちはファストフード店を探しながら帰り道を歩いた。
「姉ちゃん、ファストフードって食べたことある?」と俺は訊ねてみた。
「ちょっとだけ」と姉ちゃんは言った。
「病院のご飯とどっちがおいしい?」
「ハンバーガー。でも、病院のご飯はヘルシーだよ。味気ないけど、健康的」
「ハンバーガーとか食べられるの? 胃もたれしたりしない?」
「するかも。でもひさしぶりに食べたい」
見つけたファストフード店で、江良さんと俺でLサイズのポテトをつついて、
姉ちゃんはハンバーガーをひとつ頬張った。
「シャバの飯はどう?」と俺は言ってみた。「最高だぜ」と姉ちゃんは言った。
やることはやり終えたが、家に帰る気にはなれなかったので、
俺たちはいつもの公園のベンチに座って、枯れ木や
うずたかく積もった枯れ葉や、ゆっくりと空を流れる雲を眺めた。
「姉ちゃん、他に行きたいところとかある?」と俺は言った。
「うん」姉ちゃんは肯く。「ろんちゃん言ってくれたよね。映画館や水族館に行こうって」
「おぼえてたんだ」
「うん。たぶんそう言われた時のわたしは変な顔してたと思うけど、
ほんとうはすごくうれしかったんだよ。忘れるわけがない」
「ろんちゃん、わたしにはそんなこと言ってくれないのにね」と江良さんが言った。
姉ちゃんが満足そうに笑う。「だから映画館と水族館に行きたいな」
「うん。じゃあ江良さんもいっしょに行こうよ」
「いいの?」
「いいよね?」と俺は姉ちゃんに言う。
姉ちゃんはすこし迷ったみたいにあいだを置き、ちいさく肯いた。
「かまわないけど」と小声で言うと、俺の服の袖をつかむ力がすこし強まった。
つぎの日曜日に水族館へ行くことになり、そのつぎの日曜日に映画を観に行くことになった。
それだけ決めると、俺は姉ちゃんを病院へ送り、江良さんを家に送った。
別れ際の姉ちゃんが物悲しそうに手を振ったのが、妙に気になった。
また明日
明日か明後日には終わる
8
その日はしとしとと雨が降っていたからなのか、水族館は思っていたよりも混み合っていた。
魚よりも入館者のほうが多いのではないかと思うくらいだったので驚いた。
そして入館券の値段の高さにも驚かされた。普段は水族館なんて
俺には縁のない場所だから、それはかなり衝撃的なことだった。
父さんからもらったお金で入館券を買って、俺と姉ちゃんと江良さんで水族館へ入った。
前とおなじように、服の両袖はしっかりと掴まれていた。
入館するとすぐにトンネル型になっている水槽があって、その中をゆっくりと歩いた。
色とりどりのちいさな魚や、鮫やエイが空を飛ぶようにして泳いでいる。
まるで自分も水の中にいるみたいだ、とはさすがに思えなかったけど、
水の中をゆっくりと泳ぐ魚を見ていると心が安らいだ。
館内はやや暗く、ガラスの向こうには青い世界がある。
入館者はみんな吸い込まれるみたいに水槽に見入っていた。
でも俺はどうしてもその青い世界の住人達の動きに集中することができないでいた。
たしかに、心を惹かれるものはいくつかあった。
たとえばイルカのバブルリングとかを、カピバラやカワウソの愛くるしい姿だとか、
俺としてはそういうものを見ていると、わだかまりがほぐれていくような感覚があった。
でもいちばんの気がかりは、それらを見て、
姉ちゃんと江良さんが何を思っているのかという点だった。
だから歩いているあいだ、俺はちらちらと姉ちゃんと江良さんの顔を覗き見た。
何回も視線がぶつかったから、たぶんふたりも、心の底から水族館という
アトラクションを楽しんでいるわけではないんだろうな、と俺は思った。
まあとにかく、姉ちゃんは水槽ではなく俺の方を見ていて、
江良さんも俺の方を見ているということが何度もあった。
そういう時、姉ちゃんはにんまりと笑い、江良さんは顔を伏せた。
べつに俺と歩いているのが嫌というわけではなさそうだったので、
そのことについては深く追求しないことにした。
一時間ほどかけて、半分の水槽を見て回った。その辺りで江良さんがトイレに行ったので、
俺と姉ちゃんは巨大な水槽の前に置かれた椅子に腰掛けて待つことにした。
「たのしい?」と俺は訊いてみた。
「うん」と姉ちゃんは言ったけど、あまり明るい表情ではなかった。
館内の暗さでそういうふうに見えたということではなさそうだった。
「ほんとうに?」と俺は訊く。
「たのしいよ。たのしいけど……」姉ちゃんは正面の大きな水槽を見る。
そこにはジンベエザメがふわふわと浮かんでいる。
「わたしは、ろんちゃんと二人っきりの方がよかったな」
「そ、そっか。……ごめん」
姉ちゃんからそんな台詞を聞けるとは思いもしなかったので、俺は反応に困った。
「ねえ、ろんちゃん」姉ちゃんは服の袖を引きながら言う。「このまま行っちゃおうか?」
「江良さんを放って行くってこと?」
「うん」
姉ちゃんに反論するのはすこし気が引けるが、俺は言う。「ダメだよ、そんなの」
姉ちゃんはしばらく俺の顔を凝視していた。
そしてにんまりと笑い、「冗談だよ。ろんちゃんは優しいね」と言った。
「なあんだ」と俺は安堵したふりをしてみたけど、たぶん本気で言っていたのだろうと思った。
姉ちゃんは江良さんのことが気に入らないみたいだった。
たぶん、駅前の書店で見かけた時からずっとそうなのだろう。
「江良さんのこと、キライ?」と俺は訊ねてみる。
「そんなことはないよ」と姉ちゃんは言う。「ろんちゃんは、江良さんのこと好き?」
俺が黙っていると、江良さんがお手洗いから帰ってきた。
江良さんはあっけらかんとした様子で、俺と姉ちゃんに向かって、「愛の告白ですか?」と言った。
「ちがうって」と俺は言って、立ち上がった。姉ちゃんも服の袖を握ったまま立ち上がる。
江良さんも空いた方の袖を掴んで、となりを歩く。
ガラスによって隔てられているせいなのか、姉ちゃんと江良さんがとなりにいるからなのか、
それからも俺は水槽の中のゆったりとした水の世界に集中することができなかった。
視線はガラスの上を滑り、最終的には姉ちゃんと江良さんの顔に辿り着いた。
江良さんはときどき袖から手を離して、自由に動きまわったりした。
でも姉ちゃんはずっと俺の隣にいた。ときどき袖を掴む力加減が
強まったり弱まったりすることはあったが、決してその手が離れることはなかった。
何かを怖がっているのだろうかと俺は思った。
でもここにはたくさんの来館者と巨大な水槽を泳ぎまわる海の生物しかいない。
だったら何を怖がっているのだろう? 何かが起こることを恐れていのだろうか?
江良さんが袖から手を離してあちこち見て回っているあいだに、俺は姉ちゃんに訊いてみた。
「ねえ、姉ちゃん。何か怖いものでもあるの?」
「怖いもの? 何が?」
「いや、俺の服の袖をずっと握ってるから、何かを怖がってるのかなと思って」
「うん……たしかに怖いことはあるよ」
「何が怖いの?」
「見捨てられること」と姉ちゃんは言った。「ろんちゃんに置いて行かれるのが、すごく怖い」
「置いて行ったりなんかしない」と俺は言った。「見捨てもしない」
「でも怖いの。すごく怖い。ねえ、ろんちゃんなら分かってくれるでしょ?」
「うん」
「わたしの居場所はここにしかないの。今はここ、ろんちゃんのとなり。
お母さんに言われなくたって、ちゃんと分かってるの。わたしはどこにいるべきなのか」
姉ちゃんはそう言うと、一呼吸挟んで、「“自分がどこにいるかわかっているから迷わない。
でも、自分がいる場所を失ってしまうこともあるかもしれない”」と続けた。
「何それ?」と俺。
「ちょっと思い出したの」姉ちゃんは弱々しく笑った。「これね、プーさんの台詞なの。くまのプーさん」
「へえ」
「ろんちゃん、プーさんは好き?」
「うーん、好きでもキライでもないかなあ」
「そっか。わたしは好きだよ、プーさん」
江良さんが戻ってくると、俺たちはゆっくりと歩き始める。
けっきょく、すべての水槽を見終えるまで二時間ほどかかった。
姉ちゃんと江良さんはクラゲが特に気に入ったみたいだったが、
俺にはクラゲの良さがいまいち理解できなかった。
外に出てもまだ雨は降っていた。それに加え、入館券売り場は
相変わらず混雑していたから、ほんとうに二時間も経ったのだろうかと思った。
時計を見ると、たしかに二時間が経過している。なんだか時間の流れが歪んでいるみたいに思える。
江良さんは袖から手を離し、黄色い傘を差してその場でくるくると回った。
俺も持ってきていた紺の傘を差して、姉ちゃんといっしょにその中へ入った。
帰りの電車に乗っている時に、「来週の映画は、ふたりで行ってきたら?」と江良さんが言った。
「江良さん、来ないの?」と俺は訊ねる。
「うん。やめておこうかと思う」
「どうして?」
「ちょっとね」江良さんはごまかすみたいに言う。
「そっか」
姉ちゃんを病院まで送ってから、俺は江良さんに、
「映画、好きじゃないとか?」と訊いてみた。
「ううん、そうじゃないの」と江良さんは言う。
「お姉ちゃんね、わたしのことが好きじゃないみたいだから」
「どうしてそう思うの?」
「分かるんだよ、なんとなくね」江良さんは鼻から長い息を吐く。
「お姉ちゃんは、ろんちゃんとふたりでゆっくりしたいと思ってて、
わたしがろんちゃんの服の袖を握ってるのが気に入らないみたい。
それに、ろんちゃんは気づいてなかったかもしれないけど、
お姉ちゃんね、わたしのことをすごく怖い目で見るの」
どうやら姉ちゃんは俺の方を見ていたわけではなく、
俺を挟んで向こう側にいる江良さんを見ていた――睨んでいたらしい。
そして俺が振り返るとにんまりと微笑んでいたと江良さんは言った。
「どうしてそんなことするんだろう」と俺は言った。
「ろんちゃんをわたしに取られるのが怖いんだよ、きっと。
ろんちゃんにこうやって受け入れてもらえるまで、
いろんなことをずっと我慢してきたみたいだし。
わたしにはお姉ちゃんの気持ちが分かるよ。誰かに受け入れてもらえるのは
とても素敵なことだし、落ち着く居場所が失くなるのはとても怖い」
“自分がどこにいるかわかっているから迷わない。
でも、自分がいる場所を失ってしまうこともあるかもしれない”と俺は反芻する。
「でも」と江良さんは続ける。
「このままだとダメになっちゃうよ。お姉ちゃんも、ろんちゃんも」
「俺も? どうして?」
「ろんちゃん、お父さんやお母さんに褒められたことってある?」
「えっ? それが何か関係あるの?」
「答えて」
「ほとんどないかな」
「お姉ちゃんに頼られるのって、気分がいいでしょ?」
「まあ、うん」
「“俺がいないと姉ちゃんはダメだ”とか思ってない?」
「さすがにそこまでは思ってないけど……」
「でもろんちゃん、お姉ちゃんに乱暴されてた時、お姉ちゃんのためだと思って耐えてたんじゃない?」
「かもしれないけど……いったいそれがどうしたっていうのさ」俺はだんだんと苛々してきていた。
「ねえ、ろんちゃん。お姉ちゃんはどうして手首を切ったと思う?」
「いろんなことに耐え切れなかったんだろ。もう我慢の限界だったから」
「もう一度よく考えてみたほうがいいと思うよ」と江良さんは言った。
つぎの日曜日には姉ちゃんとふたりで映画を観に行った。
姉ちゃんは映画を観ているあいだも、ずっと俺の服の袖を握っていた。
水族館の時とは違って、姉ちゃんはスクリーンに映し出される画に集中していた。
でも俺は江良さんに言われたことが気になって、どうしても映画に集中することができなかった。
「もう一度よく考えてみたほうがいいと思うよ」と江良さんは言ったが、
一週間ほど考えても、俺には答えが出せないでいた。
だからといって直接姉ちゃんに理由を訊くわけにもいかない。
映画を見終え、適当なところで間食をして、姉ちゃんを病院へ送った。
それから俺はいつもの公園に向かった。
公園にはいつもと同じように小学生三人組がいたけど、江良さんの姿はなかった。
「江良さんは?」と俺は訊ねる。
「ミヤちゃんね」ユメちゃんが言った。「最近、誘っても公園に来ないの」
「三人じゃ試合ができないから困ってるんだよーろんちゃーん」と明日来。
「最近って、いつくらいから?」
「うーん、一週間くらい前から?」
一週間前というと、三人で水族館に出かけた頃だ。
「ろんちゃん、ミヤちゃんと喧嘩したの?」と有栖が言った。
「ううん、ちがうんだ。でもたぶん、俺が悪いんだと思う」
「何かしたの?」
「かもしれない」
「もしかして、明日が登校日だけどまだ宿題が終わってないとか?」と明日来が言った。
「どうだろうな」と俺は言った。
「だったら外で遊んでる場合じゃないもんなあ。そっかあ、だからかあ」
「明日来は終わったのか、宿題」
「もちろん終わってない。ろんちゃんは?」
「もちろん終わってない」
「だよね。勉強なんて何の役にも立たないもんね」
「そうだな。どうせ誰かが褒めてくれるわけでもないし」
9
登校日になって、俺は江良さんの姿を一週間ぶりに目撃するけど、そこから会話へ発展することはなかった。
目が合うことすらなかったから、話しかけづらかった。その日は
川を流れる水のように淀みなく始業式が行われ、生徒は午前中に解散した。
帰り道に亜十羅から江良さんとのことについていろいろ訊かれたが、ほとんど上の空だった。
江良さんに嫌われたのかもしれないと思うと、想像していた以上に憂鬱な気分だった。
それからは、江良さんとの会話は、義務的なやりとりだけになった。
必要最低限のコミュニケーションはとるが、それ以上もそれ以下もない。
俺はやりきれない気持ちを抱えて、江良さんの淡々とした声を聞いた。
学校が終わると俺は毎日のように姉ちゃんへ会いに行って、家族のこと以外の話をした。
休日になるとふたりでどこかへ出かけた。
でも、あの公園にだけはぜったいに近寄ろうとはしなかった。
そしてお気に入りの服の袖が伸びていくに連れて、俺と姉ちゃんの距離は縮まっていった。
姉ちゃんが手首を切ってから一ヶ月ほどが経って、ようやく退院の目処がついた。
でも姉ちゃんをあの家に連れて帰るのは気が進まなかった。
相変わらず母さんは俺に向けて心臓を貫くような視線を向ける。
姉ちゃんの部屋はあのままで放置されていた。
さすがに血は拭き取られてはいるが、傷ついた家具や壁の穴は残ったままだ。
誰も姉ちゃんの部屋には近寄ろうとはしなかった。
でもリビングには埃をかぶったピアノがあって、
それを見ると嫌でも姉ちゃんのことを思い出すことになった。
ちいさい頃はたのしそうにピアノを弾いていた姉ちゃんを思い出すと、
胸にぽっかりと穴が空いたような気分になった。
その穴を埋めるように、俺は味のしない夕飯を噛んだ。
実際には噛めば噛むほど心の空白はじわじわと大きくなっていった。
ピアノは、家に姉ちゃんが欠けているということを、黙って俺たちに教えているようだった。
家の中は全体的にはきれいだが、姉ちゃんに関係のあるものだけが汚れている。
ピアノもそうだし、部屋だってそうだ。家での生活には姉ちゃんの落とした暗い影があった。
家をきれいにして、母さんと仲良くなってから姉ちゃんに戻ってきてもらおう。
そのためには何ができるだろう? 俺は父さんにそう言った。
お前はもう何もしなくていい、と父さんは言った。あとは父さんに任せておけばいい、と。
*
姉ちゃんが退院する二、三日前のことだった。
学校から家に帰ると、リビングからぼそぼそとした話し声が聞こえた。父さんと母さんだ。
俺は足音を殺してリビングへのドアまで歩き、聞き耳を立てる。
「わたしがあの子に習い事をさせたのが間違いだって言うの?」と
母さんが言った。声はすこし震えていた。
「ちがう、そうじゃない」と父さんが低い声で言う。
「たしかに、あの子は勉強だって運動だってできる。でも遊ぶことを知らないんだ。
たぶん照美の生きがいは、お前の期待に答えることしかなかったんだと思う。
お前はそれでいいかもしれないけど、だからって、
頑張りを否定するようなことを言うのは間違ってるんじゃないか?
色んなところに通わせて、照美の中の可能性を伸ばしたいという気持ちは分かる。
出来のいい娘だってみんなに自慢したいのも分かるけど、そうじゃないだろう?
押し付けすぎたんだ、俺たちは。照美だけに荷物を背負わせてしまったんだ。
お前は間違っていたけど、俺も間違っていた。俺は子どもたちに干渉しなかった。
俺たちはもっとさ、照美と倫太に向き合うべきだったんだ。
横から見るだけとか、上から押し付けるだけじゃなくて、下から支えてやらなきゃダメだった」
「わたしがいつあの子の頑張りを否定したっていうのよ?」
「最近は、照美を怒鳴ることが多かったらしいじゃないか。倫太からいろいろと聞いた。
テストの点数が悪かっただとか、そういうことで照美を怒鳴ったんだろう」
「テストの点が悪ければ怒るのは当然のことでしょう?」
「でも、俺たちが一度でも照美を褒めてやったことがあっただろうか。
ピアノの発表会でうまく演奏できた時、テストの結果が学年でいちばんだった時。
俺は褒めたことがなかった。頑張っても頑張っても、『できて当たり前』で終わらせてしまった。
たしかに照美は賢い子だけど、最初から何もかもができるわけじゃない。
でも頑張ってたんだ。俺たちはそのことを認めて、応援しなきゃダメだった」
「頑張ってるのにテストの結果が悪いっていうのはおかしいんじゃないの?
頑張りが足りないからテストの点数が悪いんじゃないの?」
「そういう場合もあるかもしれない。でも、照美はそうじゃなくて、ただ疲れていたんだと思う。
言われたことを努力しながらこなして、遠くからたのしそうに遊ぶ同級生を眺めて、
褒められる喜びも些細な楽しみもない毎日に、嫌々してたんだろうと思う。
そしてストレスを抱えながら、ひとりで悩んでいた。
照美が頼りにできる人なんてどこにもいなかったんだ。
倫太の話だと、照美はお前を怖がっているようだし、俺なんて話にすら上がらないみたいだ。
今は倫太が照美と仲良くやってるけど、あの時はそうじゃなかった。
悩んでいる時って、物事をうまく噛み砕けなかったり、
ちょっとした気の緩みで失敗してしまうことがあるだろう。
照美はそういう、ものすごく不安定な場所にいたんだ。
勉強にもスポーツにも力が入らないから、結果も出ない。
でも俺たちは照美をそこから助けるどころか、さらに深い場所に落としてしまった。
そりゃあ余計に結果が出ないわけだろう。そうなったらもう泥沼だ。
その辺りで、もう耐え切れなかったんだろうと思う。
だから倫太に暴力を振るったり、部屋をめちゃくちゃにしたり、自傷行為に走ったりした。
俺たちはそこで気づくべきだったのに、まだ照美に期待を押し付けた。倫太にも何も言わずに。
なあ母さん、倫太とも向きあおう。向き合わなきゃだめなんだ。
あの子、照美のことを思って今は必死なんだ。照美のために殴られても黙っていたし、
俺やお前が冷たくしてても文句ひとつ言わずに耐えてきたんだ。
たしかに照美ほど賢くはないかもしれないけど、倫太だって大事な息子だろう?」
沈黙がリビングから耳に流れてくる。俺は聴覚を針のように鋭く研ぎ澄ませた。
「ずっと間違ってたんだって、照美が手首を切ってから俺はようやく気づいた」父さんは続けた。
「倫太はずっと前から分かってたんだ。すこし前に倫太が照美にさ、
時間があればいっしょに出かけようって言ったんだってさ。
“ずっと乱暴されてきたのに、どうしてそんなことが言えたんだろうって不思議だ”って、照美は言った。
でもそれは当然だったんだ。倫太は俺たち家族のなかで、照美のいちばんの理解者だった。
倫太、母さんが照美を叱ってる時に、仲裁に入ってきたんだってな。それで、母さんに反論した。
照美はそういうことをしてもらえたのがうれしかったから、倫太へ暴力を振るうのをやめた。
あの子も暴力を振るっていることに罪悪感を抱えてたんだろう。俺たちは抱えてなかったのに。
照美が病院に行ってからも、俺たちは見舞いに行ってないよな。まあ行く資格なんかないよな。
でも倫太は毎日のように照美のところに通ってる。おかげで照美は回復してる。
あの子達は自分たちだけでもやれるんだ。俺たちが思っているよりも弱いところはあるけど、芯は固い。
でも俺たちが変わらないと、また同じことの繰り返しになるだけだ。
まずは照美と倫太に謝ろう。それから、もう一度むかしみたいに仲良くやろう。な?」
母さんは嗚咽を漏らしていた。胸の辺りがきりきりと締め付けられるように痛んだ。
「でも」と母さんは震える声で言った。「あの子達、わたしのことを許してくれるかしら……」
「倫太」と父さんが言う。「そこにいるんだろ?」
「うん」と俺は言う。
「聞いてたろ、今の話」
「ごめん」
「お前が謝ることはないんだ。俺たちが悪かったんだ。
俺たちが不甲斐ないばっかりに、お前ばっかりに重荷を背負わせてしまった。
なあ、倫太。ほんとうにすまなかった。今までよく頑張ったな。
照美のことも、助けてくれてほんとうに感謝してる。
お前がいてくれてほんとうによかった。俺はお前のことを誇りに思うよ」
沈黙。俺は震えながら長い息を吐く。
長いあいだ身体の中心に居座っていたわだかまりが、ゆっくりとほぐれていくのが分かる。
「ろんちゃん」と母さんが言った。「今までほんとうにごめんなさい……。
ずっと嫌な思いさせて、ほんとうに悪かったと思ってる……。
許されないようなこともしたかもしれない……親として最低のことをしたかもしれない……。
でも……こんなことを言うのもおかしなことだけど、わたしのことを許してほしいの。
もう一度わたしのことを母さんって呼んでほしい。今度はちゃんとやれるから。
ほんとうにごめんね……。お願いろんちゃん、わたしのことを許して……」
「もういいよ」と俺は言った。吐いた息は震えて、肩から力が抜けていった。
俺はそのままドアに凭れるように、床へ座り込んだ。
「もうそんなことはどうでもいいよ。謝られたって、失くなった時間が
戻ってくるわけでもないし、姉ちゃんの腕の傷が消えるわけでもない。
俺がふたりを許したって、楽になるのはふたりだけだよ。ちがう?」
「たしかにそうだ」と父さんは言った。
「だろ。だから楽になんかしてやるもんか。姉ちゃんは許すだろうけど、俺は許さない。
だからずっと覚えててよ、俺と姉ちゃんがどういうふうに感じていたのか。
何かあるたびに思い出してよ、自分たちが俺たちに何をしたか」
「ああ」父さんが言う。「ほんとうにすまなかった……」
「もう謝らなくてもいいって。もうぜんぶ終わったことなんだから。
だから、つぎはこれからのことを話そうよ。姉ちゃんが帰ってきてからのことをさ」
「そうね……」母さんは言った。「こっちに来てくれる? ろんちゃん?」
俺は立ち上がって、ドアをゆっくりと開けた。母さんがゆっくりと俺に歩み寄ってきて、俺を抱きしめた。
そんな経験は一度もなかったはずなのに、俺はとても懐かしい気持ちになった。
「ごめんね」と母さんは泣きながら何度も言った。まるで何かにとり憑かれたみたいに。
その声は、言葉からほんとうに罪の意識が漏れだしているみたいに耳に響いた。
「泣くなよ、男だろ」と父さんは言った。
「父さんだって泣いてるくせに」と俺は言った。
「これはあれだよ。心の汗だよ」
「古風な言い回しだ」
「いやいや、青春っぽくていいだろ」
「青春って何なのさ」
「生きているすべての時間のことだ」と父さんは言った。「過去と未来と、そして今だ」
「何それ、いいね」と俺は言った。
その日の夕飯はいつもよりもちょっとおかずが少なくて
味付けがしょっぱかったような気がするけど、食卓を囲う空気はあたたかく、やわらかかった。
俺はしょっぱい肉じゃがを咀嚼しながら、父さんと母さんに姉ちゃんの話をした。
水族館に行ったこと、映画館へ行ったこと、姉ちゃんは元気そうにしていること、
精神病院内の環境のこと、とにかく話題が尽きるまで話した。
俺のことについては何も話さなかった。それは意識的に行ったことではなくて、
無意識下で行われたことだった。物事が表面的に良くなっても、内面はそれについていけないことがある。
俺は無意識化で、両親に興味を抱かれていないとずっと思ってきていたのかもしれない。
でも治そうと思って治せるものではなさそうだった。無意識化に深く根付いているのだから。
「あのさ」と俺は思い出して言う。
「一ヶ月くらい前に、本を買ったんだ。いっつも姉ちゃんや父さんが読んでるようなやつ」
「へえ。ろんちゃん、読めるの?」と母さんが言う。
「無理だった。三ページが限界だった」
母さんは口に手をあてて笑った。
「読んでみると面白いもんだぞ」と父さんは言った。
「だから、読めないんだって」
「もったいないなあ」
「よくこんなの読めるなあと思った。父さんも姉ちゃんも」
そうか、と父さんは納得したように肯く。
「音楽ならだいじょうぶかも」と俺は言う。
「照美からCDを借りてみるといい。音楽はいいものだ」
「姉ちゃんの部屋の引き出しの中を見たけど、なんか堅苦しいのが多かった」
「俺の趣味だ」と父さんは言う。「そうか、クラシックやジャズは堅苦しいのか」
「俺から言わせてもらうとね」
「一度、照美のピアノ演奏を聞いてみるといい。ちょっとくらいは気に入るさ。
父さんは照美の弾くあれが好きだな、『ウェン・アイ・フォーリン・ラヴ』。
ジャズのスタンダードだ。照美が弾くのはレッド・ガーランドみたいな感じだ」
「ぜんぜん分からない」
「聞かせてもらえば分かるわよ」と母さんは言った。
その日はなんだかとても疲れていたから、いつもより早くふとんに入った。
微睡みがやって来るのも早かった。俺は抵抗せずに微睡みに身を任せる。
重力に従う身体の重みを感じていると、意識は遠のいていった。
つぎの日、亜十羅に家族の問題が解決しそうだということを伝えた。
「よかったな」と亜十羅は言った。
「うん」と俺は言う。
「でもな、お前がもっといろんな人に頼ってれば、もうちょっと早く、
もうちょっと確実な方法で家族は再生できたかもしれないぞ。
お前はさ、自分だけでどうにかしようとする悪い癖があるんだよ。
もうちょっと人に甘えることを覚えたほうがいいと思う、俺はな」
「うん。助けてくれてほんとうにありがとう」
「いや、俺はべつに何もしてないけどな。礼なら江良さんに言うべきだろう」
「そうかもな」
「まあ俺で良ければ、いつでも頼ってくれていいぞ」と亜十羅は頭をかいて言った。
「家庭内暴力から異常性癖まで、何でもござれだ」
つぎに俺は江良さんのところへ行った。江良さんとはもう一ヶ月ほどまともに会話していなかった。
でも今回だけは勇気を振り絞って話しかけた。
「あ、あの、江良さん?」と俺は言った。
江良さんはぽかんとした顔で俺を見た。「ろんちゃん」
「えっと、ひさしぶり」
「うん。ひさしぶりだね、こうやって話すの。何かあったの?」
「江良さんには言っておこうと思って」
「何を?」
「家族がさ、むかしみたいな仲良しに戻れそうなんだ。
きのう、母さんと仲直りしてさ、それで、そのことを江良さんには伝えておこうと思って。
江良さんは俺の話を聞いてアドバイスしてくれたし、他にもいろんなところで助けてもらったから」
江良さんは微笑んで、「よかったね、ろんちゃん」と言った。
「うん。ありがとう。江良さんのおかげだよ」
「わたしは背中をちょんって押しただけ。いちばん頑張ったのはろんちゃんだよ。そうでしょ?」
「ううん、江良さんがいたからだよ。俺なんか……」
「ろんちゃんね、自己評価が低すぎるの。もっと自分を好きになればいいのに。
難しいことかもしれないけど、もっと自信を持っていいんだよ。
ろんちゃんは自分が思っている以上にかっこいいし、自分が思っている以上に必要とされてる」
「江良さん」と俺は言う。
江良さんは言う。「ろんちゃん、アダルトチルドレンって知ってる?
わたしね、いろいろ調べたんだよ。ろんちゃんのこと心配だったからね。
家庭環境にちょっと問題があったりする子ども時代を
過ごした人に多いんだって、そのアダルトチルドレンが。
たとえば虐待を受けたとか、甘えたいけどずっと我慢してたとか、
両親が子どもに対して無関心だとか、あるいは過干渉だとか。
そういう人は、みんなっていうわけではないけど、だいたい自己評価がすごく低くて、
誰かに頼られることで自分に存在価値を見出すんだって。
自分がなくて、やりたいこともなくて、自分のことを大切にできないから。
これってまるでろんちゃんのことみたいだと思ったんだよね、わたし。
アダルトチルドレンっていうのはそういう環境で育った大人のことを
言うみたいなんだけど、ろんちゃんはそれなんじゃないかなあと思うの。
まだ子どもだけどね、きっと“生きにくい大人”になっちゃうよ。
ねえろんちゃん。前に言ったでしょ、『どうしてお姉ちゃんが手首を切ったか分かる?』って。
わたしが言いたかったのはね、ろんちゃんは、お姉ちゃんに
頼られることで自分に存在価値を見出しているんじゃないかと思うっていうことなの。
ろんちゃんはさ、依存してるんだよ、お姉ちゃんに。
きっと『この人は俺がいないとだめだ』って、心のどこかで思ってるんだよ。
それで、お姉ちゃんも今、ろんちゃんに依存してる。
……前にも訊いたけど、もう一度訊くね。
お姉ちゃんがどうして手首を切ったか、分かる?」
俺は首を振った。
「お姉ちゃん、一度ろんちゃんを殴るのをやめたでしょ。でもお姉ちゃんは、
ろんちゃんを殴らないことには不安でどうしようもなかったんだと思うよ。
ものすごく歪んだかたちで、お姉ちゃんはろんちゃんに依存してたんだと思う。
でも依存する先を失くしちゃったんだよ、『もう殴らない』って言っちゃったから。
だから手首を切ったんだと、わたしは思うよ。
それからもお姉ちゃんはろんちゃんにべったりだよね。
かたちは変わったけど、まだ依存してる。
ろんちゃんもお姉ちゃんも、おたがいに依存しあって、
もう離れられないくらいのところまで来てるように見える。
そういうのって、これからとてもつらいと思うよ」
「俺には“自分”があるよ」と俺は言う。「江良さん、聞いてほしいことがあるんだけど」
「……何?」
「水族館に行った時に、嫌な思いさせて、ほんとうにごめん」
「……うん」
「えっと、その、だから……今度はふたりだけで、水族館へ行こう。
ふたりだけで行きたいんだけど、ダメかな。春休みとかに」
「……お姉ちゃんが許してくれるのならね」
「ありがとう、江良さん。ほんとうに感謝してる」
「ねえ、ろんちゃん」と江良さんは言った。「わたしはろんちゃんの味方だよ、
離ればなれになったとしてもね。これからも、ぜったいにそのことを忘れちゃダメだよ」
学校からまっすぐ家に戻った俺は、母さんといっしょに姉ちゃんの部屋の掃除をした。
倒れた家具を起こし、散らばった何かの残骸を拾い集め、掃除機をかけ、埃をかぶったピアノを拭く。
家具には生々しい傷跡がいくつも残っていたが、そのまま置いておくことにした。
二人でやれば掃除はあっという間に終わった。でも傷跡は深く、目立ちすぎていた。
この部屋を見た姉ちゃんは嫌でもその時のことを思い出すだろうと思った。
でもこれ以上できることは何もない。
心の底で憧れていた平和な日が三日ほど過ぎ、
退院の日がやって来ると、家族全員で姉ちゃんを迎えに病院へ行った。
うちの車に乗るのはかなりひさしぶりのことだった。
頭にがんがん来るような匂いがしたけど、窓をすこしあければなかなか快適なものだった。
スピーカーからは父さんの言っていたレッド・ガーランドが演奏する
ウェン・アイ・フォーリン・ラヴが流れていた。悪くはないかもしれない、と俺は思った。
病院へ着いた俺たちはロビーに置かれた硬いソファーに腰掛けた。
しばらく待っていると、肩から大きな鞄を提げた姉ちゃんが、白衣を着た女性に連れられてやって来る。
俺が姉ちゃんの近くまで歩み寄ると、袖をきゅっと握られた。
「ろんちゃん」と姉ちゃんは不安げに言う。
やっぱり姉ちゃんは、まだ母さんのことを怖がっているみたいだった。
それは俺が自分のことについて話せないのと同じことで、深いところに根付いた習慣なのだ。
母さんは怖くて逆らってはならないものだというようなことが、
姉ちゃんの頭の中には刷り込まれている。地下水に侵食されてできあがる鍾乳洞みたいに、
長い時間をかけてじわじわと姉ちゃんは今のかたちになったのだ。
それを元のかたちに戻すことは決して容易なことではない。
でも、「だいじょうぶ」と俺は言う。「母さんも父さんも、みんな姉ちゃんのこと心配してたんだ。
みんなで話し合って、もうあんなことを起こさないって決めたから、もうだいじょうぶだよ」
それでも姉ちゃんは落ち着かないみたいだった。
視線は一点に定まらなかったし、呼吸も浅すぎたり深すぎたりした。
「姉ちゃん」俺は姉ちゃんの服の袖を握った。
「怖い。すごく、怖い」と姉ちゃんは言った。
「俺がいるよ。いっしょに行こう」
姉ちゃんの歩幅は狭く、五〇メートルも離れていない
母さんの前に行くまで、一分ほどの時間を要した。
そのあいだ、母さんはほんの少しの失望と
激しい罪悪感が渦を巻く目で、姉ちゃんを見守っていた。
俺と姉ちゃんが母さんの前に立つと、母さんは立ち上がった。
「あっ」と姉ちゃんは怯えるような声で言う。「あっ、あの、その、ご、ごめ……」
「ごめんね、てみちゃん」と言って母さんは姉ちゃんを抱きしめた。
姉ちゃんは俺の服の袖を握ったまま、母さんの腕の中で固まっていた。
母さんは続けた。「今までつらい思いばかりさせてごめんね……お母さん、
てみちゃんにいっぱい酷いことをしちゃったの。親として最低のことをしたの……
でももう一度わたしのことをお母さんって呼んでほしい。
自分勝手だけど、てみちゃんに許してもらいたいの……ほんとうにごめんなさい」
母さんが姉ちゃんの頭を撫でていると、袖を掴んでいた手はゆっくりと離れ、母さんの背中に回された。
「お母さん」と姉ちゃんは言った。「お母さん」ともう一度姉ちゃんは言った。
「今までよく頑張った……てみちゃんは偉い」
「照美」と父さんが言った。
「父さんも照美に謝りたいんだ。今まで何もしてやれなくて、ほんとうにすまなかった。
でも今まで文句のひとつも言わずによく頑張ったな。照美は偉い、自慢の娘だ。
こんな不甲斐ないやつだけど、もう一度俺をお父さんって呼んでほしい。
自分勝手で悪いな……ほんとうに申し訳なかった……」
お父さん、お父さん、と姉ちゃんは言った。
しばらく姉ちゃんと母さんは抱き合ってしとしとと泣いていた。
俺と父さんは固いソファに腰掛け、ふたりが泣き止むのを待った。
その日の夕食はめずらしく外食だった。姉ちゃんの退院を祝って、
姉ちゃんの好きなものを食べに行こうということになったのだが、
当の本人は母さんの手料理が食べたいようだった。
母さんはうれしそうだったけど、もう時刻は夕方の六時頃で、
今から帰って作るとかなり遅い夕食になってしまうので、
なぜか俺の食べたいものを食べに行くことになった。
だから俺は遠慮なく「焼き肉」と言った(所詮は中学生の発想)。言ってから、姉ちゃんの胃が
もたれてしまうのではないかと思ったけど、姉ちゃんはもうその気になっていた。
なんだか、家族全員が妙にハイになっていた。俺もかなり気分がよかった。
一四年間ずっと俺の身体に絡みついていた黒くもやもやとしたものがみんな剥がれ、
家に巣食っていた害虫のようなものがすっかり消え去り、俺たちは
失われかけていた居場所を取り戻したのだ。気分が良いのは当然のことだったのかもしれない。
でも夕食を終えて家に戻る頃になると、みんな落ち着いていた。というよりは疲れていた。
順番に風呂に入り、リビングに集まって、一一時ごろまで途切れがちな会話を交わした。
話し合わなければならないことにはひとまず触れず、どうでもいいことばかりを話した。
一一時半を過ぎる頃になると、両親は寝室へ行った。リビングには俺と姉ちゃんだけがいて、
こちこちと時計が時間の経過を知らせる音が響いている。それ以外は静かなものだった。
「ろんちゃん」姉ちゃんは言う。「ほっぺたのあざ、ごめんね」
「いいよ、べつにもう治ったし。それに俺はもともと酷い顔だから、あれくらいどうってことはないよ」
「酷い顔って、そんなことないよ。ろんちゃんはきれいな顔してるよ」
「たしかにお風呂上がりはそう見えることがあるけど、姉ちゃんと比べると酷いもんだよ」
「わたし、きれい?」姉ちゃんは口もとを手で隠しながら言った。
「うん」たぶん口裂け女の真似なんだろうなと俺は思った。
「これでも?」と言うと、姉ちゃんは口もとにかぶせてあった手をのけた。
にんまりと口角を上げて、唇の隙間から白い歯が覗いている。
やっぱり口裂け女の真似だった、と思ったが、「うん」と俺は言った。「きれい」
「ありがと」姉ちゃんは目を細めて笑った。「ねえ、ろんちゃん。今日、ろんちゃんの部屋で寝ていい?」
「いいよ」と俺は言う。あの部屋の有り様を見て、自分の部屋で寝てくれとはさすがに言えなかった。
べつに姉ちゃんが俺の部屋で寝たとしても問題はない。
ただマスターベーションができないというだけの話だ。
二階に上がって、姉ちゃんの部屋からふとんを俺の部屋に持っていった。
姉ちゃんのふとんからは甘い匂いがした。頭がくらくらするような匂いだった。
部屋の中心にふとんを並べて敷いて、電気を消し、俺たちは毛布に包まった。
まもなくとなりのふとんから手がにゅっと伸びてきて、俺の手の辺りを探り始める。
伸びてきた手が俺の腕を捕まえると、今度は袖をぎゅっと握られた。
俺と姉ちゃんは損なわれた時間を取り戻すみたいに、ぐっすりと眠った。
おしまい
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