男「うちの猫が死んだ」 (48)
うちの猫が死んだ。
18年連れ添った愛猫であった。
私が大学の下宿のために生家を離れるときも、荷物に紛れてまで付いてきたので下宿先で飼ってやっていたのだ。
その猫が死んだ。
青灰色の縞模様の、綺麗な毛並みをした猫だった。
突然のことであった。
私が実習室の雑用を終わらせ、遅く帰った時には既に冷たくなっていた。
本当に突然のことであった。
昨日まで元気に遊んでいたのに。
今朝だって私の顔を叩いて起こしてくれたというのに。
両の手の中に居る彼女の体は既に冷たくなっていた。
そうしてその晩、私は悄然として涙もこぼれず、心にぽっかりとあいた穴の寂寥に曝されて床に就いた。
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???「起きろ、ごしゅじん、朝だぞ!」
ああもう、顔を叩くなよ、今起きるから。
???「ごしゅじん、ちこくするぞ!」
いつも通り起こしてくれるのはありがたいけれど、もうちょっと優しく・・・
そこまで心中で独り言ちてから、待てよ、と思った。
私を起こしてくれる愛猫は、桜号は昨夕死んだはずだ。
では私を起こすこの声はいったい誰の声だというのだ。
???「ごしゅじん、起きて!」
眼を開けると、そこにあったのは少女の姿だった。
少女「・・・起きた?」
見上げれば、少女の髪は青灰色であった。桜と同じ、青灰。
それに頭からはひょっこりと猫の耳のようなものが生えていた。
男「さ……さくら…?」
問い掛けに、少女はコクリと頷いた。
少女「ごしゅじん? どうしたの? わたしの顔、へん?」
そういって、不思議そうに小首を傾げた。
夢を見ているのかと思った。
起こし方も、顔の叩き方も、小首を傾げる仕草も、少女のふるまい方は総て寸分たがわず桜号のものであったからだ。
私は眼前の少女が桜号であることを確信した。
むくりと起き上がり、ようようその姿を見てみれば、桜の姿はすっかり人間のそれであった。
ほんのりと赤みを帯びた頬に、白く透き通った肌。思わず私は見蕩れてしまった。
一糸纏わぬその姿は、まるで古い絵画のように見えた。
しかし、見蕩れていると桜がくしゅん、と小さくクシャミをして、
桜「その、ごしゅじん・・・、毛皮をなくしちゃったから、ちょっと寒いの・・・」
と言うので、箪笥から私の寝間着を出して着せてやった。
いうまでも無く寝間着はぶかぶかだった。
しっぽが邪魔になるのでシャツだけを着せたが、それでも小さな桜の体には十分なようだ。
桜「ねえごしゅじん、これぶかぶかしてやだー。」
頬をぷくりと膨らませて不満を言った。
男「でも桜、それ着とかないと寒いよ?」
男「あとでぴったりのを買って来てやるから暫くそれで我慢しておいておくれ。」
桜「わかった。」 こういう素直な所もやはり桜だった。
桜「ねえごしゅじん? きょうはお出かけしないの?」
幸い、今日は土曜日だ。
男「うん。きょうはお休みだからね。」
桜「じゃあきょうはずっといっしょ?」
桜は顔をぱあっと輝かせて言った。
男「そうだね、桜の着物と夕飯の買い物には行かなくちゃいけないけど・・・、それ以外はずっと一緒だよ。」
桜「じゃあいつもよりちょっとだけおるすばん?」
男「そうだよ、ほんのちょっとお留守番。 でも、夕飯の買い物は一緒にいこっか。」
私がそういうと、うん!と嬉しそうに言った。
***
朝食を済ませた時点でわかったことがいくつかある。
ひとつ、味覚は人間と同じであること。
所謂カリカリを一口食べたらあじがしない、と涙目になっていた。
ふたつ、手先は器用だということ。
箸こそ難しいといっていたが匙を渡してやると器用に御飯を食べていた。
みっつ、朝は気づかなかったのだけれど、尻尾が二本あること。
もしかしたら桜は、世に聞くところの猫又になったのかもしれない。
見れば窓際にちょこんと座る桜は、二股の尻尾を裾から出してにょろにょろと楽しげに揺らしていた。
そうこうするうちに日もいたう高くなり、土曜日の商店もちらほら開き始める頃になった。
いつまでもあんな格好をさせておくのも可哀想なので服を買いに行くことにしよう。
男「桜、ほんのちょっと服を買いにいくけれど、お留守番しておいてくれるかい?」
桜「うん、わかった。」
桜は少し寂しげに言った。
私は帰ってくるまで外に出てはいけないよ、と付け足した。
すると桜がぎゅっとすがってきたのでしばらく頭を撫でてやったら安心したようでいってらっしゃい、と送り出してくれた。
商店街への道すがら、ふと考えに耽る。
今朝のことは冷静に考えたら驚き狼狽えるべきことなのかもしれない。
昨日死んだ猫があした人になっているのだから恐ろしいと感じてもいいはずだ。
しかし、そうは感じなかった。
直感で、一目見て分かった。彼女は間違いなく桜なのだと。
言わずして、という誇らしさが、風薫る初夏の日差しをいっそう爽やかに感じさせた。
服屋では水縹のワンピースを買った。他にも普段着数着と下着を買う。
奥さんが訝るので田舎から妹が来るのだと釈明したら、それならとキャラクターもののタンクトップをおまけしてくれた。
服の下に着せるのだそうだ。そういうものには疎いので、いつもより大目に気持ちを込めて礼を言った後、家路を急いだ。
桜「ごしゅじん、おかえりなさい!」
私が玄関を開けると直ぐに声が返ってきた。
桜「わたし、ちゃんと待ってたよ!」
桜は笑った。
男「そうか、偉かったね。」
そういって頭を撫でてやると、耳をぴこぴこさせて一層嬉しそうに笑った。
とりあえずワンピースを着せてやる。それから、下着の後ろを、尻尾を出せるように切れ目を入れてから繕う。
桜はそれを興味津々で見ていた。
桜「ごしゅじん、それ何やってるの?」
男「んー、これは服の下に着るものなんだけど、桜は尻尾があるだろう。 だから、その穴を作ってるんだよ。」
桜「わたしにも出来る?」
桜が訊いた。
男「そうだね・・・できなくは無いと思うけれど、これはちょっと難しいかもしれないね。」
男「今度簡単なのを教えてあげるよ。」
桜「うん!」
そうして、わたしが総て縫い終わるまで、桜は目をきらきら輝かせて針先を見ていた。
※誤字修正
>>20最終行「わたし」は「私」の誤表記です。
いささか忙しいので小出しですがどうかお付き合いくださいな。
昼御飯、何を食べたい?と訊いた所、ささみ!と元気の良い御返事が返ってきたので、親子丼にした。
男「はい、お昼御飯できたよ。」
桜「ごしゅじん、ささみは・・・?」
ぺたりと耳をねかして言った。
男「んー、ここに・・・ほら、切ったのがはいってるでしょ?」
ふだん桜には茹でた笹身をやっていたし、玉子でとじてあるから判からなかったようだ。
桜は、割と上手に匙を使って親子丼を口へ運ぶ。
桜「あつっ!」
桜「ごひゅじん、こえあつい!」
涙目でこちらを見る桜も、御他聞に洩れず猫舌のようだ。
男「桜、こっちへ御出。」
男「これはね、こうやってお匙で掬って、こうやって冷ませば熱くないんだよ。」
ふーっと、冷ましてやる。
桜もまねして、ふーっとやる。
桜「むぐむぐ・・・・・・ごしゅじん、あつくないよ!」
ごくんと飲み込んでから言った。
男「おいしいかい?」
桜はにこっと笑って、うん!と言った。
食べ終わって洗い物をしていると桜がやってきて、ごしゅじん、またつくってくれる?と言った。
親子丼は桜のお気に入りになったようだ。
私はもちろんいいよ、と答えた。
桜がお気に入りの場所としている窓際で、ちょっと大きくなった体を膝に座らせて頭を撫でる。
楽しそうに尻尾をゆらゆらさせている。
初夏の涼風が心地よく二人の髪を揺らした。
しかし、耳の辺りを撫でていて気が付いた。もう少ししたら夕飯の買出しへ行く約束だ。
となれば桜のこの耳は何うしたら良かろうか。まさかこのまま表へ出るわけにも行かない。
頭を隠すもの……、家の中を見渡せば、昨夏から出しっぱなしのカンカン帽があるではないか。
男「桜、ちょっといいかい?」
桜を脇へ下ろす。
それから帽子を取ってくる。うっすらと積もった埃を払ってから桜に被せてみる。
桜「ごしゅじん、これなに?」
男「外へ行くときにかぶるんだよ。」
桜「どうして?」
こくりと首をを傾げる。
男「桜の耳をほかの人が見たらびっくりしちゃうからね。」
男「桜だって、猫の友達と集まってる所に犬が来たらびっくりするだろう?」
桜「わかった。」
幾分か生返事なのは、やはり初めての帽子がむずむずするようで、
むぅとかあぅとか言いながら丁度良い帽子の位置を探しているからだ。
男「みみをぺたんと畳んでみたらどう?」
助け舟を出してやる。
一度帽子をあげて、耳を折ってからもう一度かぶる。
桜の顔がぱあっと綻んだ。
暫く経ってからもう脱いでいいよ、といってもずっと被っているので、帽子もお気に入りになった様だった。
さて、時刻は午後二時である。
朝方は些か肌寒く感じたのもすっかり暖かくなった。散歩がてら買い物に出かけようか。
桜「ごしゅじん、おでかけするの? さくらもいっしょにいく!」
ぴょんぴょんと跳ねて言う。
カンカン帽に水縹の細かい花柄のワンピース、「初めてのお出かけルック」をまとった桜と昼下がりの街へ繰り出す。
履物には私のゴム草履を貸してやった。すっかり忘れていたのだがこれも買わないといけないな。
平屋の立ち並ぶ古い住宅街を歩きながら、視点の高さに感嘆の声を漏らす桜を左手に具してゆく。
こんなに楽しそうな桜を見るのは初めてだ、と感じるのは表情の有無の所為だろうか。
不意に、桜が歩道脇の草叢にしゃがみこむ。
桜「ごしゅ…、にーさん、これ、とったよ!」
手の虫籠の中には、少し気の早い蜻蛉が居た。
塩辛蜻蛉だ。 青く涼しげなその体に目を輝かせる桜につられて、私まで少年のようにわくわくする。
因みに、「にーさん」とは、外では「ごしゅじん」でなく兄ということになってるからだ。
桜はうれしそうに「にーさん、にーさん」と花や虫を見つけては私に見せて歩いた。
家々の並ぶ道を抜けると、商店街とスーパー、駅のある大通りへ出る。
人や車のの多さ故か、知らぬうちに桜と手をつないで歩いた。
夕飯の買い物をする前に、先の服屋に立ち寄る。
**「いらっしゃい。あら、その子がさっき言ってた妹ちゃん? 可愛い子ねえ。」
奥さんが店の置くから声をかける。桜はぎゅっと私の手を握った。
**「あら、怖がらせちゃったかしら。ごめんねえ。」
男「大丈夫だよ、ほら、ちゃんとご挨拶なさい。」
桜「さくら・・・です。こんにちは。」
**「桜ちゃんっていうの、えらいねえ。ほら、飴ちゃんどうぞ。」
奥さんはレジ脇の小瓶からいちごみるくの飴をくれた。
包装を?がして、口の中へいれてやると桜は忽ち笑顔になって、「ありがとう」と嬉しそうにいった。
**「それで、今日二回目は何の御用かしら?」
奥さんが尋ねた。
男「先に来たとき、この娘の履物をすっかり忘れていまして。 草々履(くさぞうり)、置いてますか?」
**「はいはい、草履ね、確かこの棚に……。」
奥の、高い棚に置いてあった箱を取り出す。赤い鼻緒の草々履だ。
**「桜ちゃんの足に合うかしらねえ。最近はめっきり買う人も無くて子供用はこれしかないのよ。」
奥さんに履かせてもらう。
**「よしよし、これならいいんじゃないかしら。 このくらいの子はのびる時期だし、余裕を持ってね。」
男「ありがとうございます。それじゃあこれくださいな。」
店を後にするとき、さくらはお別れを言いながら奥さんに手をぶんぶん振っていた。
桜が歩きやすくなった所でスーパーへ向かう。
人の多いこの駅前の通りには様々な店が立ち並ぶ。
八百屋、魚屋(うおや)、酒屋から広域展開の食料品店。
それから靴屋やテーラー、先の服屋は一本入ったところにある旧大通り沿いの呉服屋でもある。
近くに大型モールがないことが幸いしてか、この商店街は活気があっていつも賑わっている。
桜「ご…にーさん、これいつもきいてるお歌?」
ふと耳を傾けると耳慣れたロックバンドの曲が聞こえた。
レコード店の店先には新アルバム発売というポスターが貼ってあった。
男「そうだよ、桜もいっしょに聴いていたんだね。」
桜「にーさんといっしょにきいてると楽しいから好き。」
そんな他愛の無い話をしながら通りを歩く。
普段なら八百屋や肉屋で買い物をするところなのだが、今日はスーパーで手早く済ませることにした。
夕飯は何がいいかと訊いたところ、おさかな!という元気な御返事を貰ったので鯵と縮緬雑魚を買った。
買い物を終えて帰途に付く頃にはもう夕暮れ時になっていた。
道端の田圃からは虫の声が聞こえていた。
ふと桜が立ち止まる。目線の先にあるのは稲荷神社だった。
男「桜、疲れたかい? ちょっとお参りしてから帰ろうか。」
桜はこくりと頷いた。それから、私と桜は銀朱に塗られた鳥居を潜(くぐ)ったのだった。
夕暮れ時の境内は静やかだった。向こうでは一人、巫女さんが箒で石畳を掃いていた。
手水舎で身を清め、参拝する。桜には一連の所作をちゃんと教えてやった。
なんのこともない、いつも通りのことだ。実際の所わたしは気が向けばお参りに来るくらい、この境内は気に入った場所だった。
然して、桜は些か気もそぞろといった様子に見えた。
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