男「手でも繋ぐか」女「そのうちね」 (30)

男「俺はお前のことが好きだ」

女「……」

男「って言ったら、お前はどうする?」

女「……どうもしないわよ」

彼女は溜息を吐くとどうでもいいというように左手をヒラヒラと振った。
しかも、「それより」と面倒くさそうに今目の前にあるノートをさらにぐいっと俺に近づけてくる。

女「バカなこと言ってないで早くこの問題解いてくれない?」

男「――釣れねえな」

女「いつものことでしょ」

男「そーでした」

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俺と彼女は恋人というわけではない。
よく友人知人に間違われてしまうが、決してそういうわけではないのだ。

意識していない――と言えばきっと嘘になるだろう。
しかし俺とこの女が恋人同士になるところなんて想像すらできないことだ。
それは、幼馴染とは言えないものの俺と彼女が長い間隣に立ちすぎたからだった。

初めて彼女と話したのは中学二年だったか。
はっきりと覚えていないのは、そのときは本当に取るに足りない会話を交わしたからに過ぎない。
もしかしたら、「おはよう」や「こんにちは」という挨拶程度のものだったのかもしれない。
若しくは、「すみません」とお互い個人と話すという認識すらないような言葉をぽろりと零しただけだった可能性すらある。

そこから、どうしてこういう関係に至ったのかといえば、そんな俺たちが揃って学級委員に選ばれたからだった。
というよりも、一人で学級委員を務めていたクラスメイトが病気で学校に来られなくなり、急遽学期の途中で新しい学級委員を募ることとなったのだ。そこで半ば無理やりその枠に押し込められたのがそのクラスメイトの友人であった彼女と――なぜだか、教室で大人しく座っているだけだった俺だった。

俺たちはとりわけなにかに優れているというわけでもなく、勉強の出来だって並くらいのものだった。
それまで一人取り仕切っていた優秀なクラスメイトの後釜には決してふさわしくないくらいの。

それでも選ばれたからにはなんとか上手くクラスを取り仕切りたいと、そう言いだしたのは責任感の強い彼女だった。

放課後、二人で残り一緒に勉強した。
頼まれる仕事はなんだって引き受けたし、俺たちができる範囲で全てのことをしたつもりだ。

おかげで、その一年俺たちはなんとかクラスをまとめることができた。

が、そこからが苦悩の連続だったのだ。

そうして頑張ったせいで、俺たちはまた連続で学級委員に選出されることとなってしまったのだ。
偶然か必然か、俺たちはクラスが離れることもなく、高校ですら一緒になって今もこうして二人勉強を続けているのだった。

女「終わった?」

男「……終わってない」

女「早くしてよ。下校時間すぎるわよ」

男「お前が早いんだよ」

始めた頃はお互いに教えあうことのほうが多かった。
しかし高校二年になった今は、どちらかといえば彼女から俺が教わる回数の方が増えていた。

男「お前、大学行くんだっけ」

女「喋ってないで解いて」

男「もう終わる」

女「行くつもりだけど」

男「そうか」

女「終わった?」

男「終わった」

シャーペンを投げるように置いてノートを閉じた。
彼女がやれやれ、というように荷物を片付け始めるのを見て、俺もすぐに帰り支度を始める。

なんだかんだいっても彼女はいつも俺を待っていてくれる。
そういう優しいところを、他の男にでも見せればいいのにとよく思う。
いつもぶっきらぼうなだけの学級委員長ではなくて、時々見せる優しさにファンの一人や二人はできるんじゃないかと思う。
容姿だって悪くないわけではないのだ。
もちろん、そんなことを俺が本人に言うはずもないのだが。

女「今日の鍵当番ってどっちだっけ」

男「俺」

女「じゃ、先に校門行ってるから」

帰り支度を済ませた彼女はスクールバックを肩に提げると、机に置いていた教室の鍵を俺に差し出してきた。
それを受け取ると、返事をする前に彼女はさっさと教室を出て行く。
その背中をしばらく眺めてから、俺も「はいはい」と口の中で小さく言うと彼女の後を追うように教室を出た。

既に人気のなくなった廊下に出ると、ひんやりと寒かった。
日が暮れるのも随分と早くなって、窓の外はもう暗くなりかけていた。

教室の施錠を終わらすと、鍵を返すために職員室までの道のりをゆっくりと歩いた。

こういうときふと考えるのが、その日に彼女が見せた表情やこぼした言葉ではなくて、彼女の女らしい白くて細い指先のことだった。
我ながら気持ち悪いしなんて腰抜け野郎だとは思う。思いながらも、俺は考えてしまうのだ。

あの指先に触れたらどうなってしまうのだろうかと。
いや、きっとどうにもならないだろう。
どうにもならないのだろうが、それでも触れてみたいと、いつまでも触れられる距離にいながら触れることのできない距離にあるその指先に、どうにか手を伸ばせないものかと、考えてしまうのだった。

男「しつれいしまーす」

廊下と同じくほとんど人気のなくなった職員室へとたどり着くと、俺は軽い挨拶を口にしながら中へと入った。
担任教師が自分のデスクの前でなにやら書類を眺めている様子が見えたが、さっさと帰ってしまいたい俺は黙って教室の鍵置き場に忍び寄った。

担任「あ、お疲れさま!」

が、それも意味のない行為だったらしい。
気づかれていないと思っていたのが、鍵をその場に返した途端少し遠くで俯いていた担任教師は俺を目ざとく見つけて声をかけてきた。

担任「今日も遅くまで勉強?」

男「まあ」

担任「頑張るのねえ。片割れくんも」

担任教師は俺のことを片割れくんと呼んだ。
この春に初めて担任となったこの人の中でも俺と彼女は既に1セットになりつつあるらしかった。
その1セットのうちの半分、だから片割れくんらしい。彼女のこともそう呼んでいたらしいのだが、きっとあいつのことだ、嫌がったのだろう。今はきちんと名前で呼んでいる。

男「もう癖みたいなもんですから」

担任「勉強が癖なんて今時の高校生が中々言えないわよー」

少し年の食った担任教師は、にこにこと笑いながら話をする。
ほとんどの先生が帰っている状況のため、距離があっても担任教師の声はよく聞こえた。
しかしそれは同時に他に残っている先生にもこの会話を聞かれるということで、とても居心地が悪かった。
だから俺はここでこの担任教師と話をするのが嫌だったのだ。

担任「二人共ほんとに頑張ってるみたいで先生嬉しいわ。この分なら片割れくんも希望の大学いけそうね」

も?
ということはもちろん彼女もそうなのだろう。

つい先日行われた初めての進路希望調査。
もしかするとさっき担任教師が見ていた紙はそれについてなのかもしれない。
俺が進学を希望している大学はそれなりに名の通っているところだ。
俺でもそういうところを狙っているのだから、もちろんあいつだってそうに決まっていた。

担任「これからも頑張ってね」

俺は頷くと、少し足早に職員室を後にした。
職員室を出てしまうと、俺は尚更にその足を早くした。
彼女が校門で待っていることを思い出したのだ。

しかし、いつも昇降口で靴を履き替えているところで俺はふと考え込んでしまう。
もう彼女との帰り道は何度目か、数えることなんてできないだろう。
そのくせに、――いや、それだから、かもしれない。
それだから、俺はなにを話せばいいのか、いつも靴を履き替えるたびに考えてしまうのだ。

そうして毎回言われてしまう。

女「遅いわよ」

休憩。

男「それこそいつものことだろ」

女「今日は一段と遅かった」

男「担任につかまってたんだよ。一段とって数えてたのかよ」

彼女は俺の質問には答えずに、もたれ掛かっていた校門の壁から体を離して先に歩き出す。
俺はそのあとを少し遅れてついていきながら、「なあ」とその背中に声をかけた。

女「……」

男「……」

女「聞いてる」

男「返事しろ」

女「なに」

男「お前、大学どこ行くの」

女「さっきからなに」

男「意味はないが」

女「そういうあんたはどこ?」

答えることにはなんの支障もないために、俺は躊躇いもなしに希望している大学名を口にした。
彼女は暫く黙り込んだあとに、「頑張って」と応援の言葉。

男「行けるわけない、とか言わないんだな」

女「私が言うようなことじゃないもの」

静かに、彼女が答えた。
長い黒髪が歩くたびにさらさらと揺れる。それを眺めながら、俺は次に彼女もどこへ行くのかを教えてくれるのだろうと待っていた。

しかし結局彼女がそれを答えることはなかった。
その代わりに、彼女は別れ際、俺がよく冗談で口にすることを、その口調までそっくりに真似をしてきた。

女「私はあんたのことが好き」

男「は」

女「って言ったら、あんたはどうする?」

男「……なんだよ急に」

なんでもない、と彼女は笑った。苦い苦い笑みだった。
そうして「また明日」と彼女は俺に背を向けた。
俺はまたその背中を見送りながら、「らしくねーな」
どっちのことを言っているのかわからないような言葉を、薄らと赤くなった顔を意識しないようにしながらぽつりと呟いた。

本日終了。

その日、俺は夢を見た。
彼女が突如俺の元から去る夢だ。

正確に言えば、俺に好きと告げていながら付き合おうとも言わずにただその言葉だけを残して突如俺の前から忽然と姿を消した夢。

一体俺はなぜそんな夢を見てしまったのか、さっぱりとわからなかった。
それほどまでに「私はあんたのことが好き」という彼女の冗談が頭から離れなかったのか。
そう思うと恥ずかしくなるのを通り越して、少し憤ってしまった。
普段そんなこと言わないくせにいきなり本気にしてしまいそうな冗談なんか言いやがって、と。
冗談を口にしたあとの彼女の苦さの混じった笑みなんてものは思い出しもせずに。

翌日は、珍しく登校中に彼女と出会った。
方向は同じでも普段は家を出る時間が違うのか、彼女と会うことは滅多にない。
俺も彼女も部活動はやっていないし朝練というものも参加することはないが、彼女は誰より早く教室へと着きたがるのだ。曰く、学級委員だから当然だと。
逆に朝に弱い俺はいつも何か仕事があるとき以外は遅刻寸前とまではいかないものの教室にだいぶ話し声が増えてくる頃に学校へと到着する。
だから、俺が早めに家を出る日以外に彼女とばったり出くわすということは今までになかった。

そんな彼女と俺は、俺がいつもどおりの時間に家を出たというのに、もうすぐ学校が見えるという辺りで顔を合わせた。


男「……」

女「……」

男「……おはようくらいは言えよな」

女「……おはよう」

道のど真ん中で挨拶すら交わさずに顔を見合わせていた俺たちは、しばらく声の出なかった俺がようやく絞り出した言葉で視線を外した。

男「今日、どうしたんだ」

そのままその場を動き出そうとしない彼女を先導するように歩き出すと、後ろを彼女が着いてきているのを確認しながら問いかける。
彼女は少し俯きがちで、暫く俺の質問には答えなかった。答えようとしないというのとは違うように思えた。どちらかといえば、どう答えるべくか逡巡しているような。そんな間だった。

やがて、彼女は口を開く。

女「少し寝坊しただけ」

珍しいことは、同じ日に何度だって起こることらしい。
俺はそんなことを思いながら、「へえ」と曖昧な声を返した。

男「お前が寝坊って」

女「悪い?」

男「いや……体調、悪いわけではないんだよな?」

彼女を振り向いて訊ねると、彼女は立ち止まった。そして一瞬俺の顔をじっと見つめると、怒ったように顔を背けた。
どうやら彼女は俺が本気で心配しているのを皮肉ととったのだろう。そのまま俺を抜かしてすたすたと歩き出す。
俺の横を通った彼女の表情は、少し硬かった。そんな表情も、彼女の長い髪ですぐに見えなくなってしまったのだが。

男「あ、おい」

女「大丈夫」

男「は?」

女「体調不良というわけではないから」

俺は彼女へと伸ばしかけていた手をそっと下ろした。
そうして少し離れてしまった彼女に追いつこうと、歩幅を広げてまた歩き出す。

男「そうか」

女「それより早く行くわよ。きっともう皆来てる」

そこで俺と彼女の会話は途切れた。
彼女の早足に、俺はずっと遅れをとったままについていった。
彼女が早足になる直前聞こえた「ありがとう」と、一度追いついたところで、彼女の頬が薄ら赤く染まっているのを見てしまったからだ。

皮肉にとられていたわけではないと知って、なんだか居心地が悪いようなむず痒さ。

今朝の夢のせいもある。
俺はこれからますます彼女を意識せざるを得なくなる予感をひしひしと感じていた。

短いが本日終了。

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