女「川で溺れた人はみんな、正義感があって優しかったんだよ」(138)


00


その橋には欄干がなかったから、
冬の夜にうっかり足を滑らせた酔っぱらいが川に落ちて、
後日、水死体になって発見されるということが、何年かに一度あった。
でも今年に入ってからは夜が明けなくなって、そういった人が急増した。

二月のある寒い夜、僕は川で溺れている人を見かけた。
男なのか女なのかはわからないけれども、
たしかに人のかたちをした影が、川の水面でもがいていた。

べつにさほどめずらしい光景でもないようなので、無視して家に帰った。

翌朝のニュースで、その川で水死体が三つまとめて発見された、と報道されていた。
そんなことよりも、どうして夜が明けないのかを説明してほしいものだ。
人々の感覚はすでに狂いきってしまったようで、
一日中月が出ていても、気に留めるものはいなくなった。

そしてその頃になると、今まで暗闇で息を潜めていた何かが、
人々の近くまで現れるようになっていた。僕らはそのことに気づいていなかった。


01


「あの川には“何か”がいるんだって」と誰かが言った。

「都市伝説だろ」とべつの誰かは言った。「あんなの信じるなって」

朝が来なくなっても都市伝説は信じないのか、と僕は思った。奇妙な話だ。

三月に入り、冬の冷気は徐々に姿を潜めようとしているが、寒いものはやはり寒い。
僕はマフラーに顔を埋めて、学校への暗い道を歩いていた。
空では星が瞬いているのにも関わらず、
周囲には当たり前のように学校へ向かう学生の姿がある。

「都市伝説って言ったって、お前、近所の川で死体がごろごろ見つかってるんだぞ?」
誰かは熱のこもった声を響かせた。「ぜったいにおかしいって」


「夜が明けなくなって、頭のおかしくなったやつが飛び降りまくったんじゃないの」

「それはそれで怖いな」

「あるいは、誰かがあの橋の上に油をまいて、滑りやすくしたとか」

「アニメかよ」

「もしかすると、連続殺人鬼みたいなやつがどこかにいるのかもよ。
あの橋って欄干がないから、後ろからとんっとやれば、かんたんに川へ落とせる」

「怖いこと言うなよ」

「あるいは、ただ足を踏み外したとか」

「そんな何人も踏み外すもんかなあ。今年に入ってからもう二〇人は死んでるぞ」

それっきり会話は聞こえなくなった。
でも至るところからノイズみたいな声が聞こえてくる。
ノイズの中にある言葉を拾っても、ほとんどが「川」とか「橋」とか、
「死体」とか「やばい」とかだった。やばい。


都市伝説というのは、あの川には“何か”がいる、という、
非常に曖昧模糊としたうわさ話だ。

今年に入ってから夜が明けなくなり、川で溺死するものが急増した。
死体は欄干のない橋の周囲で見つかるものがほとんどだ。

はじめのうちは怯えていた周辺の人々も、
やがて「またか」という程度の反応しか示さなくなっていった。
そして学生たちの間では、あの川は呪われているだとか、
あの川には何かがいる、といううわさ話が広まるようになった。

川で発見される死体は十代後半から四十代の男性が多く、
まれに女性がずぶ濡れで見つかった。
いまのところは幸運なことに、小さな子どもの亡骸は見つかっていない。


「おはよう」と背後で誰かが言った。

僕はその声を無視して、黙々と歩いた。
でも肩を小突かれたので振り返った。そこにいたのはヨウコだった。

「おはよう」とヨウコはもう一度言ってくれた。

「おはよう」と僕は言った。「ご機嫌斜めだね」

「ほんの五秒前からね」

「ごめん」

ふん、と鼻を鳴らすと、ヨウコは僕の隣に並んだ。

「なんで僕なんかに構うのさ」と僕は訊ねた。

「ほかに構う相手が見当たらなかったから」

「暗いのに、よく僕を見つけられたね」

「すごい猫背だからね、すごい目立つ」
ヨウコはそう言ってから、「にゃあ」と付け足した。


「なに、今の。猫?」

「当たり前じゃん」

「下手くそ」

「じゃあ君はできるの? 猫の鳴き声」

「できる」と僕は言ってから、ヨウコみたいに「にゃあ」と付け足した。

「もしかして、ばかにしてる?」

「とんでもない。僕は大真面目だよ」

「うそだ。君が真面目だったことなんて今までに一度もない」

「そんなことはない。いまのはちょっと傷ついた」

「そう。ごめんね」

お互いに言葉はそこで切れた。

だからといって僕らは、無理に話題を探したりはしない。
ヨウコは沈黙が苦痛でないタイプの人間で、
僕はどちらかというと世間話が苦手なタイプの人間なので、
ヨウコのような人が身近にいるというのは、非常にありがたいことだった。


喧騒に押しつぶされるような息苦しい通学路も、
ヨウコと並んでいると悪くないように思えた。
たとえ永遠に空で星と月が瞬いていようと、
橋の下で死体がごろごろ見つかろうと構わない。

「ねえ」と話を再開したのはヨウコだった。「あの橋には、なにかあるのかな」

「僕が知るわけないだろ」

「でも、怖いよね。三ヶ月で二〇人だよ。ぜったいにおかしいよ」

「そうだね、おかしい」と僕は適当な相槌を打った。

「あの橋にお巡りさんが立ってるべきだよ。君もそう思うよね?」

「一ヶ月くらい前は立ってたよ」

「ほんとうに? 今は?」

「今はいない」

「なんで?」

「お巡りさんはみんな川に落ちたから」

「はあ?」とヨウコは素っ頓狂な声を上げた。「どういうこと?」


「だから、橋の辺りに立ってたお巡りさんはみんな川に落ちて死んだんだって」

「なんで?」

「知らないって」

「じゃあ、今そこにお巡りさんが立ってないのは、なんで?」

「そんな場所には誰も行きたがらないってことじゃないのかな」

ヨウコは唇を結び、訝しむような視線を僕にぶつけた。

「何?」と僕は言った。

「ずいぶんと詳しいね」

「まあね」

「ほんとうはあの橋で何が起きてるのか、知ってるんじゃないの?」

「僕が知るわけないだろ」

「だよね」と言うと、ヨウコはすこしだけ表情をゆるめた。

「そんなことよりも、僕は夜が明けないことの方が気になるよ」

「そうだね」ヨウコは空を見上げた。「でも、こういうのも悪くないんじゃないの」

「悪いだろう、いろいろと。このままだと大変なことになるよ」


「じゃあ、君は朝が来てほしいの?」

僕は答えに迷った。だから、すこし間を置いて、
「その言い方だと、ヨウコは朝が来てほしくないみたいに聞こえるんだけど」と言った。

「わたしはべつにどっちでもいいよ、朝って嫌いだし。夜のほうが好き」

「そういう問題なんだ?」

「君も夜のほうが好きでしょ、どうせ」

「どうせって」

「夜っぽいんだよね、君ってさ。夜が似合う男」

「褒められてるのかな」

「これ以上にないくらいの褒め言葉だよ」

「ありがとう」

そこでヨウコが、「お」と短い声を上げた。

ヨウコの視線の先に目をやると、見覚えのある大きな背中が見えた。たぶんトウヤだ。

ヨウコは手を上げ、「おうい」と声を上げながら、トウヤと思しき男の方に走っていった。
僕はそのまま、ヨウコの歩くペースでゆっくりと歩き続けた。


02


「あの川に何があるのか、確かめに行こう」と誰かが言った。

そのあとにノイズみたいなはっきりとしない声があちこちから上がった。
どの言葉を拾い上げても、否定的な声がほとんどだった。

教室内は蛍光灯が眩しいくらいに輝いていた。
あるいは外が暗すぎるのかもしれない。

壁の時計は午後の一時を打っていた。真っ昼間である。
僕は頬杖をついて、窓の外を眺めた。真っ暗である。

そんな異常な事態であることにも関わらず、
学生の関心は窓の外の暗闇に向けられることはなく、
都市伝説ばかりに向かっていた。

事件(都市伝説、と呼ぶべきか)には何かしら奇妙な点が多かった。
たとえば、死体には小さな子どもがいないことや、男性が多いことなどがそうだ。
そして、あの橋の付近では死体以外のものが何も見つからないということも。

何も、と言うと語弊はあるが、生物に関しては
ほんとうに何も見つかっていないようだった。
魚や虫なんかは一匹残らず姿を消しているし、野良猫なんかもいない。
発見されるのは体内を汚い水でぱんぱんにした亡骸だけだ(服は着ていると思う)。


「なあ、お前は行くよな」と誰かが言った。

僕はそのまま外を眺めていた。そしたら肩を小突かれたから振り返った。
そこには爽やかな笑顔を浮かべるトウヤがいた。
だから僕はもう一度窓の外に目をやった。
でもトウヤが僕と窓の間に割り込んできた。洗剤と柔軟剤のにおいがした。

「何」と僕は言った。

「お前って橋と川が好きだろ?」とトウヤ。

「そんなこと生まれてから一言も言ってないんだけど」

「いや、言わなくたって俺には分かるぞ。
お前は橋と川が好きだ。三度の飯より川が好き」

「そんなことはないけれど」

「正直になれよ、な? 俺とお前の仲じゃん」

「意味がわからん」


「俺といっしょに、あの川に何がいるか確かめに行こうぜ」

「やだよ。それに、あんなところには何もいないって。ほんとうに、何もいない」

「わからないぞ。誰かが何かを隠してるのかもしれない」

「トウヤも落ちて死んだらどうするんだよ」

「俺は平泳ぎが得意だ」とトウヤは笑った。「もしかして、お前、怖いのか?」

「煽っても僕は行かないぞ」

「ええ、お前、ロマンの欠片も持ってねえのかよ」

「ロマンの欠片で人が死んだらどうするんだ。
何かが起こってからじゃ遅いんだよ。
ほんとうにトウヤが川に落ちて死んだら、どうするんだよ」

「ほう?」と割り込んできたのはヨウコだった。
「君にそんな仲間思いな一面があったとはね」

「まあね」


「はっ」とトウヤはわざとらしく声を上げた。
「まさか、お前、何かやましいものでも隠してるのか? あの川に」

「阿呆か」

「でも、誰も近づかないんだし、何かを隠すなら持って来いだよな、あの橋の下とか」

「だから、ちがうって」

「否定するところがますます怪しい」とヨウコは言った。

「とにかく」と僕は言う。
「僕は行かないからな。行くんならほかの誰かと行ってくれよ」

「ひとりで行けって言わないところが、お前のいいところだよなあ」と
トウヤは言い残して、ほかの誰かを探しにいった。

「いい友達を持ったもんだ」とヨウコはぽつりと言った。僕は黙ってうなずいた。


03


時刻は午後の五時前だ。教室に学生の姿はほとんどない。
空では相変わらず、星と月がちかちかと光を放っている。

僕は立ち上がり、肩に鞄を提げる。
廊下に向かって歩きはじめたところで、目の前にヨウコが立ちはだかった。

「何」と僕は言った。

「ほんとうに行かないの?」とヨウコは僕の目を覗きこむようにして訊ねた。

ヨウコの背はお世辞にも高いとは言えない。
だから僕の目を見る時は、いつも下から僕を見上げるような形になる。

僕はそれがとても苦手だった。内心をすべて見透かされているような気分になり、
目を背けたくなるのだが、心のどこかで、それが許されない行為であるように感じるのだ。
だから僕はそのままヨウコの目を見ていた。そこには何かに縋るような光があった。

「どこに行くっていうんだ」と僕は言った。

「トウヤ」とヨウコは言う。「四人くらいで、あの橋に行ったよ」


「四人もいれば大丈夫だろ」

「わたしも行こうかな」

「やめときなよ、危ないって」

「冗談だよ」とヨウコは言うと、僕に背を向けて歩きはじめた。

「ひとりで帰るんだ?」

「みんな帰っちゃったし」

「僕と帰ってくれないかな」

「どうしようかな?」

「じゃあいいや」僕はヨウコの脇を早足で通り過ぎた。

「嘘だって、いっしょに帰るって」とヨウコは僕の隣に並んで言った。





するどい風が夜闇を切り裂き、耳元に乾いた音を運んでくる。
川沿いとなると、風はさらに勢いを増し、冷気も強まった。

川の水面には、輪郭の潰れた月が浮かんでいた。
辺りはしんと静まり返っていて、生物の気配をあまり感じることができなかった。
僕とヨウコは、そんなすこし現実味に欠けるような風景の一部として歩いていた。
音と呼べるようなものは、風の音と二人分の足音しかなかった。

「君の家って、そっちだっけ?」とヨウコは言った。

「ちがう」と僕は答えてから、川とは逆方向を指さして、「あっち」と言った。

「だったらどこに向かってるの?」

「あの橋」

「なんで? 行かないって言ってたのに」

「心配だから、ちょっと見に行くだけだよ」

「ふうん」

内心でどう思っているのかは分からないが、ヨウコは黙って僕について来てくれた。


噂の橋には一五分ほど歩いたところで着いた。

僕は二月に一度ここへ来たことがあった。
特別な意味があったわけではなく、ただコンビニの帰りに寄ってみたくなったのだ。
その時に、水面でもがく人影を見た。でも助けずにそのまま帰った。

このことは墓場まで持って行こう、と思った。

僕らは橋からすこし離れたところで、川に映る月を眺めた。
ロマンチックな雰囲気など微塵もない。あるのは未知への恐怖だけだった。

まるで川の周りの時間が止まってしまったみたいだった。
風も止んでいるし、川の水面に映る月もくっきりと球を描いている。


「トウヤは?」とヨウコはおどおどしながら言った。

「もう帰ったんじゃないのかな」

「だったらいいんだけど……」

「心配なんだ?」

「当たり前でしょ。二〇人だよ?
ここに死体が二〇もあったんだよ? 君は心配じゃないの?」

「そりゃあ心配だけど、トウヤなら大丈夫だよ。ヨウコだって分かってるだろ」

「そうだといいんだけど」とヨウコは言った。

僕らはしばらく暗い川を見つめていた。
水面にはさざなみのひとつどころか、波紋すらない。
川のせせらぎも聞こえない。まるで真っ黒な氷を眺めているみたいだった。

直感が強く僕に訴えかけてくる。ここに近寄るべきではない、と。


「帰ろう」と僕は言った。

でもヨウコはそこから動くどころか、返事さえしてくれなかった。
ヨウコの目線は川に浮かぶ月に突き刺さるように向かっていた。
あるいは川の底に向かっているのかもしれない。

僕はなにか恐ろしくなって、肩を叩きながらヨウコを呼んだ。

「なに?」とヨウコは僕を見て言った。

「いや、様子が変だったから、怖くなって」

「それって、心配してくれてたってこと?」

「そうとも言えるかもしれないな」

「なにそれ」ヨウコはすこし笑った。
なんだかぎこちない笑みというか、胡散臭い、まるで作り物みたいな笑みだった。

「帰ろう」と僕はもう一度言ってから、歩きはじめた。





ヨウコと別れたあと、家まであと数百メートルというところで、
僕は制服姿のトウヤに遭遇した。トウヤは右手を軽く上げて、「よっ」と言った。

「川、行って来たのか?」と僕は訊ねた。

「行ったよ」

「何か見つかったのか?」

「なんにも。びっくりするくらいなんにもなかった」

「それはそれで問題だけどな。
なんにもないのに、死体が二〇も見つかるんだからさ。異常だよ、異常」

トウヤは歯を見せ、息を殺すようにして笑った。

僕は何か引っかかるものを感じながら言う。
「でも、よかったじゃないか、無事に帰ってこられて」

「ああ、そうだな」

「……なあ、ほんとうは何かあったんじゃないか?」

「何が?」とトウヤはあっけらかんとした様子で言った。


僕はトウヤの眉がすこしだけつり上がったのを見逃さなかった。
それ以外にも、トウヤにしては受け答えが淡々としすぎているように感じる。
何かを隠しているのではないか、と僕は思った。

「なあ、四人で川に行ったんだよな? あとの三人は?」

「もう帰ったんじゃねえの? 川を見てからは、みんなばらばらに散ったからなあ」

「ほんとうに?」

「ほんとうに」

どこか胡散臭く感じられるやりとりだ、と僕は眉を顰めた。

どうしてトウヤは細かいことを話してくれないのだろう。
ほんとうにほかの三人は家に帰ることができたのだろうか?
もしかすると、誰かが溺れたのではないか?

でも、トウヤに限って、川で溺れた友人を見捨てて逃げてきたとは思えない。
トウヤは僕とはちがう。陽の当たる場所と影くらいちがう。

「それならいいんだ」と僕は言った。「とにかく、トウヤが無事でよかったよ」

「だから言ったんだよ」とトウヤは誇らしげに笑う。
それから、「じゃあな」と言い残すと、夜道をひとりで帰っていった。
その背中はいつもよりもすこしだけ丸く見えた。

そうしていると、僕は得体のしれない不安にすっぽりと飲み込まれる。

続く


04


トウヤと別れてから、僕はひとりで、もう一度あの橋に向かった。

相変わらず、川の周囲は静寂と暗闇に支配されていて、
僕以外の生物の姿はひとつも見当たらなかった。

けたたまましいサイレンの音もなければ、警官もいない。
立ち入り禁止と書かれた黄色と黒のテープも張られていない。
ほんとうにここで死体が見つかったのかと疑ってしまうほど、辺りはしんとしていた。

でも“何か”は確かにいる。

携帯電話のライトで足元を照らし、土手を滑り降りて川岸に立つ。
川岸には生臭いにおいと青々としたにおいが漂っていて、軽い吐き気をおぼえた。

視界を遮る背の高い雑草をかき分けて、川の方に向かう。
近づけば近づくほど、川のせせらぎが聞こえるようになっていく。


なかなか視界は開けない。
息苦しさを覚えてきたところで、ようやく僕は暗緑から吐き出された。
振り返って土手までの距離を見てみたが、大したことはなかった。

足音を殺して歩いているつもりでも、靴の下ではじゃりじゃりと音が鳴った。
その都度、足裏から頭の天辺に悪寒が走り抜けた。

ゆっくりと川を覗き込み、水面に映る自分の顔を見た。
僕はこんな顔をしていただろうか? と思った。
どうしてこいつは笑ってるんだ。どうしてこいつの目は光ってるんだ?


強い風が吹いた。
その瞬間に、止まっていた時間が動き出したみたいに木々が揺れ、
水面にさざなみが立った。写っていた丸い月と僕の顔は跡形もなく潰れた。

辺りを見回しても誰もいなかった。
僕はひとりであの橋の下に立っている、そう思うと、急に恐ろしくなった。

でもこのまま帰るわけにはいかなかった。
僕の中では使命感のようなものと好奇心のようなものがお互いを高め合っていた。


とりあえず、川沿いを歩いてみることにした。

携帯電話に搭載されているライトではすこし心細いが、
今から懐中電灯を取りに戻るのも億劫だった。
それに、今ここから逃げ出したとして、もう一度
土手を下る気力が僕に残っているだろうか? いや、残っていない。

十五分ほど散策してみたが、これといったものは何もなかった。
ほんとうに何もなかった。ごみも虫もなかった。

橋からすこし離れたところにある階段を上って、土手の上に戻り、
今度は欄干のないあの橋を渡ってみたが、やっぱり何もなかった。

いや、こちら側の岸には何かがあるかもしれない。
僕は橋を渡りきり、土手を下って川沿いを歩いた。
やっぱり何もなかった。犬の糞も野良猫もない。


冬と言っても、身体を動かしているとやはり暖かくなるものなので、
僕は火照った身体をすこし冷まそうと、橋の下に座り込んだ。
当たり前だけど、橋の下は暗かった。夜の闇よりも暗い。
ここが世界でいちばん暗い場所なのではないかとばかばかしいことを思った。

ふと視線を横にずらすと、橋の上から川を照らす光があることに気がついた。
橋の上に誰かがいるのだ。僕は息を殺して、動きを待った。

ほんの一〇秒ほどで光は消えた。
橋の上から足音がした。革靴を履いているようだ。

足音が聞こえなくなると、土手の方に先ほどと同じ光が現れた。
そして人影が現れた。身体つきは小柄だ。

僕はそれをじっと見ていた。人影は土手から川岸を照らす。
僕は反射的に、橋の影に身を隠した。
もしも見つかって、ろくでもない都市伝説みたいな扱いを受けるのはごめんだ。


川岸をあらかた照らし終えると、人影は土手から
下りようとしているのか、ときどき身を乗り出すような姿勢になった。

下りてくるのだろうか? そしたら全速力で逃げる。
顔さえ見られなければどうにかなる。たぶん。

そして人影は土手から滑り下りてきた。というよりは、滑り落ちてきた。
というか、足を滑らせたように見えた。
短い悲鳴も聞こえた。聞き覚えのある、女性のものだった。

僕はライトで前を照らしながら、悲鳴のした辺りにゆっくりと歩いて行った。
雑草をかき分け、人影の正体を照らすと、
人影は耳を劈くような大声で「助けて!」と叫んだ。

「落ち着いて」と僕は言った。「僕だって」


ライトで照らされたヨウコの顔はしわくちゃになっていた。
ヨウコは何がなんだか分からない様子で、座り込みながら僕を見上げた。

一〇秒くらい固まったあと、「なにしてるの」とヨウコは涙声で言った。

「ちょっとね」と僕は笑ってみせた。

「なんで君がここにいるの。意味わかんない。ほんとうに怖かったんだから」

「ごめんよ」

「許さない」

「甘いものを奢るから許してよ」

「うるさい」


「立てる? ここだと寒いし、適当な場所に行こう。そこで話すよ」
僕は手を差し出した。

ヨウコは僕の手をそっと握った。その手は冷蔵庫のように冷えきっていた。
どうやらかなり長い間外にいたようだ。

なかなか立ち上がってくれないので、「立てない?」と僕は訊ねた。

「もうちょっと待って……もう、なんなの……」

ヨウコは僕の手を握りながら泣きじゃくっていた。それを見ていると、
なんだか悪夢から現実に戻って来たような感覚に陥った。

ほっと息を吐いて、ヨウコが泣き止むのを待った。
じっくりと泣いてから、ヨウコは僕の手を引き、すこし不機嫌な様子で立ち上がった。
それから僕らはファミリーレストランに向かった。


05


ファミリーレストランは空いていた。僕とヨウコ以外には三人しか客がいない。
店内の雰囲気とBGMのボサノヴァは、あまり合っていないように感じた。

「それで」向かいに腰掛けたヨウコは、
口の周りを生クリームでべたべたにしながら言う。
「なんで君はあそこにいたわけ?」

メロンソーダをすすってから、「帰り道に、トウヤと会ったんだ」と僕は言った。
「でも、なんだか様子がおかしかったんだ。いつもみたいな元気がない、
とまでは言わないけれど、すこし気分が悪いみたいだった。
どこか上の空っていうのかな、何か隠してるみたいだったし。
それで、もしかしたらあの川で何かあったんじゃないのかって思って、確かめに行った」

「ひとりで?」

「僕にヨウコとトウヤ以外に頼れる人なんていない」

「それもそうだね。君って、社交的じゃないし。
君が事件の犯人だって言ってもわたしはあんまり驚かない」

「言っておくけど僕は犯人じゃないからな」

「わかってるよ。君にそんな勇気と度胸はない」

「そうだね」僕はため息を吐いた。どうして微妙に貶されているんだろう。


「それで、あそこに何かあったの?」

「何もなかった。ほんとうに、何もなかった。死体どころか、虫やごみも見当たらない」

「今は冬だし、虫がいなくても不思議なことはないんじゃないの?」

「そうかもしれないけど、でも、変な感じがした」

「あてにならないよ」と言うと、ヨウコは二つ目のパフェを
平らげて店員を呼び、また同じものを注文した。
この女の胃袋はどうなっているんだ、と僕は思ったが、
そのことについては何も言わないことにした。

「質問、いいかな」と僕は言った。

「どうぞ」

「ヨウコはどうしてあの川に来たんだ」

「帰り道にトウヤに会った。でも様子が変だったから、
あの川で何かあったんじゃないかって思った。
でも、訊いても何も答えてくれなかった。だから自分で確かめに行った」

「つまり、僕と同じってこと?」

「そういうことになるね。君と同じ思考回路だなんて、なんかやだな。死にたい」


「トウヤ、別人になったみたいだった」と僕は言った。
「間違いなくあの川で何かがあったんだ」

ヨウコはうなずいた。

「また明日、川を見に行ってみるよ。どうせトウヤに訊いても答えてくれないし」

「ひとりで行くの?」

「ヨウコが来ないのなら」

「あんまり危ないことは止めたほうがいいよ」

「それって、心配してくれてるの?」

「君みたいな奴でも心配なの」とヨウコは真顔で言った。
「ねえ、そういえばトウヤって、何人かで川へ行ったんだったよね?」

「トウヤを含めて、四人だったか」

「ほかの三人が何か知ってるかもね」

「その三人が生きていたらの話だけど」


話は途切れた。店内には沈黙が這いまわっている。
その上ではボサノヴァが流れている。

ボサノヴァが終わると、今度は暗めのジャズが流れ始めた。
曲はビリー・ホリデイの奇妙な果実だった。
いったいこのファミリーレストランはどこを目指しているのだろう、と思った。

いつの間にか、客は僕とヨウコを含めて三人しかいなくなっていた。
残った客は紺のセーターとチノパンツを着ていて、文庫本を開いている。
机の上には冷めたコーヒーが入ったカップだけが置かれている。

なんだか胡散臭い男だ、と僕は思った。長い髪の隙間から覗く目には
やる気がないというか、生気のようなものが欠落していた。

店内の雰囲気とはすこしずれたビリー・ホリデイの歌声に耳を傾けながら、
ポプラの樹に吊るされた黒人のことを思い、沈黙の中でメロンソーダをすすり続けた。

やがてヨウコが注文していたパフェが机の上にそっと置かれた。
ヨウコは嬉々として山のような生クリームにスプーンを突っ込んだ。
僕はそれを眺めていた。幸せそうだなあ、と思った。うらやましいなあ、と。


「久しぶり」と誰かが隣で言った。

僕とヨウコは声の方に目を向ける。

そこにいたのは、胡散臭い笑みを浮かべた男だった。
歳は二十代前半で、着けている紺のセーターとチノパンツは新品のように見える。
長い前髪の隙間から覗く目には、やはり生気のようなものを感じられなかった。

「どちら様ですか?」とヨウコが遠慮がちに訊ねた。

でも胡散臭い男はそれを無視して、僕に言った。
「いやあ、ほんとうに久しぶりだなあ。元気か? うまいことやれてるか?」

「どちら様ですか」と今度は僕が言った。

「おいおい、俺のことを忘れたのか?」

「忘れたもなにも、初対面ですよね」

「おいおい、嘘だろ。俺だよ、ヒイロ」

「ヒイロ?」


「俺の名前だよ」とヒイロは笑った。
「お前の名前だって分かるぞ、なあ、アオイ?」

「僕の名前はアオイじゃないです」と僕は言った。

「え?」ヒイロはほんとうに驚いたらしく、わかりやすく目を丸くした。
「嘘だろ? お前は間違いなくアオイだよ。俺が見間違えるわけがない」

「違います」

「なあ、俺とお前は仲良しだっただろ?」

「覚えてないです」

「そうか、わかったぞ」突然、ヒイロは声色を変えて言った。
「お前はちょっと失敗しちゃったんだな、かわいそうに」

「何がですか」僕は椅子から立ち上がり、ヒイロを睨めつけた。
よく分からないが、今のヒイロの発言はものすごく不快だった。
失敗? かわいそう?


「ちょ、ちょっと、やめなよ」
ヨウコはおどおどと仲裁に入ろうとするが、けっきょく入っては来ない。

僕はヒイロを睨みつけていたが、ヒイロは僕の顔を見て、すこし悲しそうな顔をした。

「そうか、ほんとうに分からないんだな」
ヒイロはそう言うと、踵を返してレジの方に向かった。
「また思い出したらゆっくり話そうな、アオイ」

「だから、僕の名前はアオイじゃないです」

「わかってるよ、今のお前はアオイじゃない」

僕は鼻を鳴らして、椅子に深く凭れかけた。
レジで会計を済ませたヒイロを横目で見ていたが、こちらに振り返ることはなかった。


「ねえ、ほんとうに知らないの? あの人」とヨウコは言った。

「知らない」

「もしかして、怒ってる?」

「気分が悪いんだ」

「なんで?」

「わからないけど、すごく嫌な気分なんだ。ものすごく、むかむかする」

「何か飲む? 入れてこようか?」

「いや、大丈夫だよ。ありがとう」

「君までおかしくなっちゃわないでね」

「僕はもともとおかしいから心配には及ばないよ」と僕は言った。

ヨウコがパフェを平らげてもつぎのパフェを注文しなかったので、
僕は伝票を持ってレジに向かい、支払いを済ませた。
財布はほとんどからっぽになった。

外の空気はいつもと同じかそれ以上に冷たく、
空ではいつもどおり、星と月が僕をあざ笑うように輝いていた。


06


翌日になると、きのうの翳りを帯びた雰囲気など
微塵も感じさせることなく、トウヤは登校してきていた。
でも僕はトウヤへの疑惑を払拭することができないでいた。
それはヨウコも同じようだった。

昼休み、僕とヨウコはトウヤに見つからないよう、同級生に、
トウヤが誰と川を見に行ったのかを訊ねて回った。
名前が上がったのは、ヨシミ、イシダ、トリイの三人だった。

放課後、僕とヨウコはその三人を捕まえて、話を聞かせてもらった。

ヨウコは言う。「ねえ、きのう、トウヤと川を見に行ったんでしょ?
あれからトウヤの様子がちょっとおかしいの。何かあったの?」

三人は顔を見合わせた。

「知ってることがあるなら聞かせてほしいんだ」と僕は言った。


重苦しい沈黙が場を支配していた。
やがてそれに耐え切れなくなったヨシミが口を開いた。
「なあ、あいつ、俺たちのことについて何か言ってなかったか?」

「なんにも聞いてない」ヨウコが言った。

「ほんとうか?」

「ほんとう。君たちの事どころか、川で何を見たのかすらも話してくれない」

ふたたび三人は顔を見合わせた。

視線だけでお互いの思っていることが読み取れるのか、
やがてトリイが諦めたようにため息を吐いて、こう言った。
「俺たちはさ、あいつを見捨てたんだ」

「見捨てた?」


「俺たちが川を見に行った時に、運が良いのか悪いのか、
ちょうど川で誰かが溺れてたんだ。どんな人かってのは、
暗くてよく見えなかったんだけどさ……とにかく、誰かが水面でもがいてた」

「あいつを見捨てたって、その人を見捨てたってこと?」

「そうじゃない」とイシダは言った。
ふっくらとした体躯に乗っかった顔は汗まみれになっていた。
「あいつが、トウヤがその人を助けようと、川に飛び込んだんだ。
でも俺たちは何もできずに、土手からそれを眺めてた。

トウヤは泳いで溺れてた人のところまで行ったんだけどさ、
なかなか岸に戻ってこなくて。しばらく眺めてたら、
二人ともだんだんと動きが鈍くなっていって、しまいには川に沈んでいって……」

「それで、怖くなって逃げた」と僕は言った。「トウヤを見捨てたんだな」

沈黙。反論も言い訳も飛んでこない辺りを見ると、図星だったようだ。


暗い部屋に明かりを灯すみたいに、突然ヨウコは口を開いた。
「じゃあトウヤはあの川で溺れて、這い上がったってこと?」

「たぶん」

「でも、服、濡れてなかった」

僕は昨日トウヤと遭遇した時のことを回想してみた。確かに服は濡れていなかった。

「着替えたのかもよ」と僕は言った。
「さすがにずぶ濡れで街を徘徊するわけにはいかないだろうし」

「そうだよね」ヨウコは安心したような顔を見せた。

「話してくれてありがとう」と僕は業務的に言った。

「いちおう、誰にも話さないでくれよ」とトリイは言う。

「僕は大丈夫だけど、ヨウコには強く言っておいたほうがいい」

「なんで」ヨウコは横目で僕を睨んだ。

「ヨウコはおしゃべりだから」と僕が言うと、トリイはヨウコに向かって頭を下げた。
続いてヨシミとイシダも下げた。僕は殴られた。二発。





いつもなら学生で溢れかえっている帰り道も、
時間がすこし違うだけでまったく違った姿を見せた。
まるでゴーストタウンのように閑散としている。
濃霧が立ち込めていたとしても、クリーチャーが
跋扈していたとしても、驚かない自信がある。

「なんでトウヤはあんなことを隠してたんだろう?」
ヨウコは顎に手をあて、首をひねった。

「かっこ悪いからだろ」と僕は言った。

「人助けが?」

「そうじゃなくて、自分で人助けをしたって言うことが、
トウヤの中ではかっこ悪いんだって」

「どうして?」

「トウヤはそういう人だから、としか言えない」

「変わってるね」

「そうでもないと思うよ」


「もしかして、君もそうなの?」

「そもそも僕は人助けなんかしない」

「たしかにそうだね」ヨウコは笑った。

いつものように、そこで当たり前のように会話は途切れ、
僕らの間に沈黙が滑りこんできた。

でも僕らは無理にそいつを間から追い払おうとしたりはしない。
沈黙は時間がやって来れば、勝手に何処かへ去っていくものだ。

でも今回の沈黙さんは近年稀に見るしぶとさだった。
僕らの間を刃のように鋭い夜風が通り抜けても、僕らは言葉を発さなかった。
何度も夜風がアスファルトを撫でて、落ちていた枯れ葉を攫っていった。

「もっとしゃっきり歩いたらどう?」とヨウコは言った。
いつの間にか、僕らの間に居座っていた沈黙さんは消えていた。


「しゃっきりって?」と僕が言うと、背中を叩かれた。

「猫背。どうにかしたほうがいいと思うよ」

「寒いと自然とこうなっちゃうんだって」

「それにしてもひどいよ。なんだかすっごいやる気がないみたいに見える」

「間違ってはないかもな」

「魔女みたいだし」

「それは偏見だ」

その時、「アオイ」と誰かの声が割り込んできた。

胃の辺りに熱いものが湧き上がり、背後に嫌な気配を感じたので、すぐに振り返った。
そこにいたのはヒイロではなくて、トウヤだった。


トウヤは僕の顔を見て何かを感じ取ったらしく、
誤魔化すみたいに微笑み、「よう」と挨拶をした。

「トウヤ」と僕は言った。「大丈夫なのか」

「何が」

「川に入ったんだろ」

トウヤはすこし躊躇ってから、「まあね」と笑った。

「溺れてた人はどうなったんだ」

どうして知っているんだ、というような表情を見せると、
「助けられなかった」とトウヤは言った。

沈黙がふたたびやって来た。ヨウコは視線を落とし、僕は考える。

何も話してくれなかったのは、溺れている人を
助けられなかったという事が引っかかっていたからなのかもしれない。
トウヤの性格からすると、それは自身の心と身体に軋轢を生み出したに違いない。

でも、ほんとうにそれだけなのか?
僕の中のトウヤに対する懐疑心は、破裂寸前の風船のように膨らんでいた。
ほんとうは、もっと事件の核心に迫るような何かを見たのではないか?

それに、どうやって川から這い上がったのだろう?
僕と会った時には服が濡れていなかったのは、どういうことなのだろう?


「ねえ、どうやって川から上がったの?」とヨウコが僕の思ったことを訊ねてくれた。

「どうやってって、こう、平泳ぎでな」

「よく上がって来られたね」

「俺を誰だと思ってるんだ」

「カエルの生まれ変わり」

「そう」とトウヤは満足げにうなずいた。

嘘だ、と僕は思った。
(絶対にとは言い切れないが)トウヤはカエルの生まれ変わりではないし、
冬の川で溺れて、そこからかんたんに平泳ぎで岸まで泳いで来れるとは思えない。

でも、だったらどうしてトウヤはここにいる? やはり泳いで戻って来たのだろうか?
あの三人とトウヤの話を信じるのなら、そうとしか考えられない。

「なあ、きのうは泳いで岸に這い上がってからすぐに帰ったのか?」

「そりゃあなあ。ずぶ濡れで町内をうろついてたら風邪ひいちまうよ」

「だよな」と僕は言った。「川に入った時の服装は?」


「服装? なんでそんなこと訊くんだ?」

「いいから、ちょっと気になることがあるんだ」

「服装は、学校の制服だけど」

「ふうん。きのう僕と会った時も制服を着てたよな。あれは一度家に帰る前か?」

「そう。川に入る前にブレザーだけは脱いだんだよな」

「帰る前だったのか。どこも濡れてるようには見えなかったけど、まあ暗かったしな」

「そうそう」何かを誤魔化すか隠すみたいにトウヤは笑う。

「最後にいいかな。川に入った時、“何か”を見なかったか?」

「“何か”って、なんだよ」

「なんでもいいんだ。とにかく、“何か”を見なかったか?」

「いいや、なんにも」

「そうか」僕は長い息を吐いた。白い呼気は風に攫われて夜闇に消えた。

トウヤは沈黙が訪れるとここぞとばかりに踵を返し、僕とヨウコに向けて手を振った。
「じゃあ、俺はここらへんで帰るわ。また明日な」

僕はその場に立ちすくんでいた。
釈然としないまま見捨てられてしまったような気分だった。


僕は胸の辺りにあるわだかまりを吐き出すように言った。
「なあ、ヨウコ。ヨウコもきのう、トウヤに会ったって言ってたよな」

「うん」

「その時の服装って、どうだった」

「私服姿だった。パーカーにジーンズ、ネックウォーマー」

「そうか」

「ねえ、いったい何がしたいわけ?」

「わからない」と僕は言った。ほんとうに、自分が何をしたいのかが分からなかった。

思考がばらばらになって、まとまらなかった。言葉だけが頭の中で回っている。
暗い川。二〇の死体。明けない夜。笑う星と月。トウヤの変化。アオイ。……

突然、背中を叩かれた。僕は女の子みたいな声を上げて、背筋をぴんと伸ばした。
振り返ると、ヨウコが不安げな目で僕の目を覗きこんでいた。


「そう、それだよ」とヨウコは言った。「それくらい背筋は伸ばしたほうがいい」

「お、驚かさないでくれよ」

「そっちこそ」

「べつに驚かしたりしてないだろ」

「君もすこしずつおかしくなってきてるような気がするよ。
猫背はひどくなってるし、口調もぶっきらぼうになってた。
なんというか……半分くらいが別人みたいで、ちょっと怖い」

「こんな状況でおかしくならない奴がおかしい」

「じゃあ何、わたしはおかしいの?」

「そう、ヨウコはおかしい。だから正常だ」

「わけわかんない」

僕は無理やり顔に笑みを浮かべてみせた。
「けっきょく、アオイってのは誰なんだろう」


「女の子みたいな名前だよね、アオイって」

「さっき、トウヤも僕のことをアオイって呼んだんだ。最初に」

「ほんとう?」

「うん、間違いない」

「誰なんだろうね、アオイって」

「僕ではないってことは確かだ」

「わかってるって。でも、よっぽど君に似てるんだろうね、そのアオイって人」

「アオイだなんて呼ばれたのはきのうがはじめてだし、
トウヤにアオイって呼ばれたのも今日がはじめてだった」

「ますますわかんないね」

「考えがまとまらない。明日は休みだし、ゆっくり眠りたいよ……」
身体は睡眠を求めていた。胃は食物を求めている。
身体の中心に泥の渦があるみたいに、むかむかとした気分が消えない。


「ほら」とヨウコが言うと、僕の背中に鈍い衝撃が走った。「また丸くなってる」

僕は精一杯背筋を伸ばしてしばらく歩いてみたが、しんどくなったので止めた。

「君ってさ、猫みたいだよね」とヨウコは呆れたように言った。

「にゃあ」と僕は言った。

「猫背で、自由で、何を考えてるかわからない。
ぼうっとしてるかと思えば、いきなり行動的にもなったりする。
冷たいのかと思ったら、以外と友だち思いなところもあったりする」

「よく見てくれてるんだね」

「暇だからね」とヨウコは言った。「それにわたし、猫好きなんだよね」

「にゃあ」と僕が言うと、ヨウコは口を閉じたまま、せかせかと僕の前を歩いて行った。

つづく


07


今年に入ってから毎週、日曜日の朝に僕は思う。
夜が明けないというのは素晴らしいことだ。

午前七時半、僕はもそもそと布団から這い出た。窓の外には夜の帳が降りていた。
リビングでパンを齧って、コーヒーを啜りながら朝のニュースを見ていると、
ニュースキャスターがまた川の話をしていた。
(人のことを言えた身ではないのかもしれないが)
よく飽きもせずに川の話ができるな、と僕は思った。

でも、今度は僕の住む街のあの川についてのことではなかった。
テレビに映っていたのは、見たこともないほど大きな川だった。

きのうの夕方、その川で死体がごっそりと見つかったらしい。
数は五つで、キャスターが亡骸の名前と年齢をひとりずつ読み上げた。
ほとんどが二十代か三十代の男性だった。

話を聞いてみると、どうやら全国各地の川で、この街と同じように、
川で死体が固まって見つかっているらしい。
それでもいちばん死者が多いのはこの街だった。


僕はコーヒーを啜りながらテレビとにらめっこをする。
テレビの中ではニュースキャスターが胡散臭い評論家と芝居じみたやりとりをしたり、
未確認生物がどうとか、都市伝説がどうとか、阿呆みたいな話をしていた。

信じるやつがいるのかと思うほど胡散臭いやりとりだった。
心なしか、コメンテーターが苦笑いを浮かべているようにも見える。

僕は窓の外に目を向けてから、壁にひっついたデジタル時計を見た。
時刻は八時になろうとしていた。何度確認しても、午前の八時だった。
それを見ていると、未確認生物や都市伝説を信じるものが
現れるのも仕方のないことなのかもしれない、と僕は思った。

くだらないやりとりのあとに、ニュースキャスターはこれまでの事件について、
かんたんにまとめてくれていた。僕はそれに目を向ける。内容はこういうものだった。

・見つかった死体は、十代後半から四十代の男性が多く、子どものものは見つかっていない。

・亡くなった者同士には、特にこれといった共通点や繋がりはない。

・亡くなった者は皆、死体発見の前日までは生きていて、肉体的にも精神的にも良好な状態であった。

・警察では、連続殺人鬼と全国各地に生まれた模倣犯の仕業か、あるいは
何らかの呼びかけによって集団自殺が行われたのではないかという両方の可能性で捜査が進められている。


まとめが終わると、またキャスターとコメンテーターが作り物みたいな神妙な顔をして、
「怖いですねえ」とありきたりなコメントを投げ合った。完全に他人ごとだった。

その後は遺族へのインタビューが延々と垂れ流された。
見ていて気分が良いものではないので、僕は洗面所に歯を洗いに行った。

口内をすっきりさせてから、僕は自室に戻り、ベッドの上に寝転がった。
そしてもう一度、川で起きたことについて考えてみた。

集団自殺、というのはいまいちぴんと来なかった。
それならべつに川に飛び込まなくたって、ほかにもいろいろ方法はあるはずだ。
どうしてわざわざ溺死だなんて苦しい方法を選ぶのだろうか。
最後の最後に、自分へ罰を与えたいということなのだろうか。
自殺志願者の考えることなど僕には分からなかった。

それに、僕が先月見た溺れている人は、ひとりだったではないか。
おそらく、トウヤが助けようとしたのもひとりで溺れていたはずだ。


集団自殺という可能性について考慮するのはやめにすることにした。

だからと言って、連続殺人鬼と模倣犯の仕業というのも、いまいちしっくり来ない。
頭の中は暗雲が立ち込めている空みたいに、先がはっきりとしなかった。

なんだか、なにもかもを忘れて、そのままもう一度眠ってしまいたい気分だった。
僕はウォークマンを引っ張りだして、耳にイヤホンを突っ込んだ。
再生されている曲は、コイルのダーク・リバーだった。

“何か”がいるんだ、と僕はぼんやりと思った。
あの川には“何か”が棲んでいて、それが人を殺しているんだ。
川の周囲にごみや虫が見当たらなかったのも、きっとその“何か”のせいで。……

思考に没頭していると、イヤホンから音が消えた。ダーク・リバーが終わったのだ。
次に流れてきた曲はレディオヘッドのピラミッド・ソングだった。
途端に今まで考えていたことがばかばかしく感じられた。

“何か”ってなんだよ。お前は都市伝説や未確認生物の存在を肯定するのか?
僕は自分に言い聞かせる。でも反証がない状態での仮説は成立している。
“何か”がぜったいに存在しないと言い切ることは、今の僕には不可能だ。

僕は思考回路をぷつりと切って、瞼を下ろす。まどろみはすぐにやって来た。





目がさめた時、手の中で携帯電話が静かに震えていた。
重い瞼をこじ開けて時間を確認すると、正午をすこし過ぎていた。

僕は電話に出た。「もしもし」

『一三回』と電話の向こうでヨウコは言った。

「何が」

『わたしが半日で君に電話した回数。一三回』

「申し訳ない」

『そんなこと微塵も思ってないくせに』

「寝てたんだ。ごめんよ」


『もうお昼なのに、今の今まで寝てたの?』

「二度寝してたんだ。音楽を聞いてたら、なんだか眠くなってさ」

『近所で二〇人も死んでるってのに、よくもまあそんなにすやすやと眠れるね」

「都市伝説よりも恐ろしくて強いものってなんだと思う?」

『睡魔って言いたいんでしょ』

「正解」僕はあくびを吐いた。
「それで、なんで僕みたいなやつに一三回も電話してくれたの」

『忘れちゃった』

「は?」

『君がなかなか電話に出ないから、要件を忘れちゃったの』

「要件を忘れたのに、僕に電話をかけてたの?」

『悪い?』

「いや、ヨウコらしくていいと思うよ」


ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。『それで、何か分かったことはあるの?』

「何が」

『川とか、トウヤのこととか、アオイって人のこととか』

「なんにもわからない」

『そう。だろうと思った』

「だったら訊かなきゃいいのに」

『社交辞令だよ。ほら、わたしって君と違って社交的だし』

「そうだね、ヨウコは僕とは違う。社交的で、猫背でもない」

『ちょっと気にしてる?』

「最近は、すこし」

『その調子だよ』

「はあ」と僕が気の抜けた返事をすると、
それにかぶせるように電話から『にゃあ』というかわいらしい声が聞こえてきた。


「今のは猫の真似?」と僕は言った。「すごい似てた」

『今のは本物の猫。家で飼ってるの』

「ふうん、名前は」

『ニシムラ。ニシムラさんってみんな呼んでる』

「いい名前だね」

『でしょ? よく言われるの』とヨウコはうれしそうに言った。
声色から察するに、どうやら本気でいい名前だと思っているらしい。

僕は苦笑いしながら言う。
「じゃあ、僕はまた寝るから、要件を思い出したらまた電話してよ」

『わかった』

「ニシムラさんによろしく言っといてくれ。今度、差し入れでも持って行くよ」

『かつお節』という声が聞こえた。直後に電話は切れた。
最後の声がヨウコのものなのかニシムラさんのものなのか、僕には区別がつかなかった。

さあ、と僕は思った。もう一度あの川へ行こう。


08


相変わらず欄干のない橋の辺りには、人どころか生物の気配がなかった。
きのうと同じように土手から川岸へ滑り降りると、持ってきた懐中電灯で川を照らした。

当たり前だけれど、川には水が流れていた。
おそらく透明な水なのだろうけど、暗いせいで真っ黒の水にしか見えなかった。
どれだけ近くに寄って照らしてみても、水面の向こうが見えない。

きのうと同じように、川沿いをひたすら歩いてみた。
でも、やっぱり何もなかった。きのうと何も変わっていない。
それはもう不自然なくらいに変化がなかった。

橋の下に座り込むと、足元に敷かれているひんやりとした石の硬さを感じた。
その冷たさは僕の尻から頭の天辺までを貫くようだった。

懐中電灯を消して、僕は橋の下の暗闇に溶け込んだ。
不思議と怖さはなく、むしろ落ち着くような気さえした。
あまりの居心地の良さに、知らぬ間に微睡んでしまった。


次に目を覚ました時、僕に鋭い黄色の光が突き刺さっていた。
目を覆うようにしながらそちらを向くと、懐中電灯でこちらを照らす何者かが見えた。
そいつは僕を照らすだけで、危害を加えてくることもなければ、逃げ出そうともしない。

徐々に光に目を慣らし、僕はそいつの顔を拝んだ。

「トウヤ?」と僕は言った。

「アオイ」とトウヤは言った。

僕はため息を吐いた。「アオイって誰なんだよ?」

「アオイはお前だよ」トウヤは僕を照らしたまま、その場から動こうとはしない。

「僕はアオイじゃない」

「いいや、お前はアオイだよ。俺には分かる」

「ヒイロみたいなこと言いやがって」


「ヒイロか。俺はあいつが嫌いだったんだよなあ」

「お前、ヒイロのことを知ってるのか?」

トウヤの持つ懐中電灯から放たれる光が、微かに揺れた。
「知ってるに決まってるだろ。ヒイロは嫌われ者で有名だからなあ。
でもお前とだけは仲が良かった」

「僕じゃなくて、アオイとな」僕は懐中電灯でトウヤの顔を照らした。
「なあ、お前は誰なんだ?」

「忘れたのかよ」とトウヤは言った。

「お前はトウヤじゃない」

「そうか、ほんとうに忘れちゃったんだな。失敗しちゃったか」

「だから、失敗って何のことだよ!」僕は怒鳴った。

「あるいは、あまりにもうまくいき過ぎたか?」トウヤは口元に笑みを浮かべた。

「お前らは何の話をしてるんだ? 僕にも分かるように言ってくれないか」
僕は衝動的な怒りに背中を押され、トウヤに掴みかかろうとした。

そこで電話が鳴った。

僕とトウヤはしばらく固まったが、やがてトウヤが言った。
「電話、出たほうがいいんじゃないのか」


こんな時に電話なんかかけてきやがって、と僕は内心で舌打ちした。
どうせヨウコだろうと思ったら、やっぱりヨウコだった。

「もしもし」と僕はトウヤを睨めつけながら言った。

『思い出したの』とヨウコは前置きもなく言う。
『君、きのう言ってたよね。「明日も川に行く」って』

「言ってたかな」

『言ってた、ぜったいに』

「それがどうかしたのかい」

『わたしも連れて行ってもらおうと思ってたの。ねえ、今、どこ?』

「家だよ。でも今日は眠いから川には行かないことにするよ」

『今日は眠いって、なんかすごい言い訳だね』

「不眠症の人って、きっと毎日こんな気分なんだろうと思うよ」

『それは偏見だ』とヨウコは嬉しげに言った。


僕はすこしだけ笑った。
それを合図に、内側で燻っていた怒りの炎が、ゆっくりと勢いを失っていく。
たぶんそのとき、僕の目から滲み出ていた理不尽に対する怒りは消えていた。
トウヤがほくそ笑んだから、たぶんそうだ。

『じゃあ、結局、今日は川には行かないんだね』

「そういうことになる」

『分かった。でも、行くんだったらわたしも呼んでね』

「ヨウコを呼ぶくらいならニシムラさんを呼ぶよ。
猫って、人間には見えないものが見えたりするし」

『そうなの?』

「知らないけど、たぶん」


すこしの間を開けてから、ヨウコは『じゃあ、また学校で』と言い残し、電話を切った。
携帯電話をポケットに入れると、トウヤは「ふう」とわざとらしく声を上げて息を吐いた。

「川には行かないんだってな?」

「そうだよ」と僕は言った。「眠いんだ」

「お前、変わったな。女の子を危ない目に遭わせたくないからって、嘘つくんだもんなあ」

その言葉は多少の悪意を含んでいたが、僕は黙ってトウヤに背を向けて歩きはじめた。
なんだかトウヤと話し合っているということが馬鹿馬鹿しく感じられる。
背中に言葉が飛んでくるが、無視した。もうどうでもよかった。

土手まで上がってから振り返ると、トウヤは懐中電灯を持ったまま、
先ほどと同じ場所で立ち尽くしていた。そのまま死ねばいいのに、と僕は思った。


09


川を後にした僕は、きのうヨウコといっしょに訪れたファミリーレストランに向かった。
ガラス越しに中を覗いてみると、結構な数の客がいた。
見たところ、学生が多いようだ。休日の昼間だし、まあこんなものか、と僕は思った。

一〇分ほどガラス越しに店内を覗いてみたが、探している人は見つからなかった。

振り返ると、川を流れる水みたいに、道路にはライトをつけた車がひしめき合っていた。
休日だとは言っても、空はこんなにも暗い。
それなのにみんなどこへ向かうのだろう、と思った。

道には街灯の光が降りていた。歩く人々に不安や恐怖や迷いのようなものはなかった。
空では月が輝き続けているというのに、誰もそんなことを気にしたりはしない。
誰もそんなことを気にしている暇はないのだ。

太陽が姿を見せないとか、川で死体がごろごろ見つかっているとか、
僕がわけのわからない事に巻き込まれているのかもしれないとか、
そんなことはみんなにとってはどうでもいいことなのだ。


道行く人々にはそれぞれの生活があって、
友人がいて、それらと向き合うことで精一杯なのだろう。
でも僕はわけのわからないものと向き合っている。
僕にはほかに向き合うべきものがないのだろうか?

携帯電話を握りしめて、暗い道を歩いた。
脇を通り過ぎる車が、僕に冷たい風を残していった。
携帯電話を落とさないように、強く握った。

いったい僕は何をしているんだろう? と思った。
アオイとやらの正体がわかったところで、いったい何になるというのだろう?

トウヤがおかしくなってしまったのはすこし困る(というかすこし心配だ)が、
だからといって僕が何かをしなければならないのだろうか?
僕にだって生活や友人との付き合いがある。
夜や川なんかと睨み合っている場合ではない。

ヨウコは、僕の知っているヨウコのままでいるだろうか?


僕はヨウコに電話をかけた。

そしたらすぐに応えてくれた。『もしもし』

「ヨウコ」とだけ僕は言った。それ以外に言うべき言葉は見つからなかった。
「ヨウコ」と僕はもう一度だけ言った。
もう一度言いたかったけど、それ以上言うのはやめた。

この電話の向こうにいるのは、ほんとうに僕が知っているヨウコなのだろうか?

『どうしたの?』

「わからないけれど、電話をかけたくなる時ってあると思うんだ」

『要件がなくても?』

「そう」

『要件はないんだね?』

「でも切らないでほしい。お願いだから、切らないでほしいんだ。
電話代がどうだとか、そんなこと言わないでくれよ。
この会話の分の電話代くらいならあとで払うからさ」


二秒くらい挟んでから、『お金では買えないものだってある』とヨウコは言った。
その後に長い息を吐いた。

「ヨウコの時間をすこしだけくれないかな」

『一分一〇円ね』

何を話そうか、と僕は必死になって考えた。でも話すべきことなんてなかった。
僕には何もなかった。ついでに言うと社交的でもない。
だから日記を書くみたいに、今日起こったことについて話し始めることにした。

「今日はさ、七時半に起きたんだ」

ヨウコは黙っていたが、おそらく電話の向こうで眉を顰めたはずだ。

僕は薄暗い道を歩きながら、電話の向こうにいるはずのヨウコに話しかけた。
「リビングでパンを齧ってコーヒーを飲んで、朝のニュースを見てた。
どこの局かは忘れたけれど、とにかくニュースキャスターが川の話をしてた」

『どの局でも川の話をしてたと思うよ』というよくわからないフォローが滑りこんでくる。


「一時間くらいニュースを見てたんだ。でも、遺族へのインタビューが
はじまった辺りで、なんだか気分が悪くなったから、歯を洗いに行った」

『気分が悪いと歯を洗うの?』

「気分の悪さって身体の汚れだと思うんだ」

『わかんない』

「僕にだってわからない。適当に言っただけ。
朝起きて、歯を洗うタイミングで気分が悪くなっただけだよ。
それで、歯を洗ってからベッドに寝転んで、音楽を聞いた」

『音楽って、もしかしてすんごい暗いやつなんじゃないの』

「どうだろうな。とにかく、音楽を聞いた。そしたら眠くなって、そのまま寝た」

『それからわたしが電話をかけたんだね、だいたい一〇分に一回のペースで。
それで、一三回目の電話に君は出た。それからは?』

「川に行った」と僕は正直に言った。

『やっぱり』ヨウコはため息をついた。


「川でトウヤと会った」

『トウヤ? なんで?』

「知らない。でも会った。あいつ、また僕のことを
アオイって呼んだんだ。忘れたとか、失敗だとか言ってた」

『……ねえ、もしかして、また怒ってる?』

「苛々してた僕はトウヤに掴みかかったんだけど、そこでまたヨウコが電話をかけてきた。
そしたらなんだか、なにもかもがどうでも良くなって、トウヤを置いて川から帰った。
それから、ヒイロを探しにきのうのファミレスに行ってみたけど、いなかった。

もう仕方ないから帰ろうと思ったんだけど、周りの人を見てたら、
なんで僕はこんなところにいるんだろうとか思って、
そしたら急に寂しくなったというか、なんというか」

『それで意味もなくわたしに電話をかけてきたの?』

「ヨウコしか頼れる人がいなかったから、しぶしぶ」

『切るよ』

「ごめん、お願いだから切らないで。ヨウコの声が聞きたかった。
僕の知っているヨウコの声が聞きたかった。
みんな変わっちゃったのかと思って、怖くなった」


『情緒不安定だね』

「こんな状況で安定してる奴のほうがどうかしてる」

『そうかもね』

「今から会えないかな」

『いまどこにいるの?』

「きのうのファミレスの前」

『どうしようかな』

「甘いものを奢るからさ」

『君の財布、ほとんどからっぽでしょ』そう言い残してヨウコは電話を切った。

僕はため息をついて、その場で突っ立っていた。一〇分くらい突っ立っていた。
一五分くらいしたらセーターと長いスカートを着たヨウコがやって来た。
ヨウコは柱みたいになってた僕を見て笑った。だから僕も必死になって笑った。


10


外から見えた通り、ファミリーレストランは混んでいた。でもなんとか座ることができた。
僕は無言でいたけれど、ヨウコがなんやかんやと注文をした。それから席を立った。

僕はずっと椅子に深く凭れかけて、店内のBGMに耳を傾けていた。
しばらくすると、とんとん、と机の上にコップが二つ置かれた。
片方がオレンジジュースで、もう片方がメロンソーダだ。

「元気ないね」とヨウコは言って、僕の正面に腰掛けた。

「ヨウコは元気そうでよかったよ」

「ほんとうにそう思ってる?」

「ヨウコが元気なら、ほかはどうでもいい」

ヨウコはすこし疑わしげな視線をこちらに向けたあとに、オレンジジュースを啜った。
「お金はわたしが払うから、君も飲んでよ。好きでしょ、メロンソーダ」

「ありがとう」


メロンソーダをすすると、僕らを隔てるように沈黙が横たわる。
周りのテーブルでは和気藹々とした声が飛び交っているのに、
僕とヨウコのテーブルだけが葬式みたいだった。

「トウヤは」とヨウコは言ったが、続く言葉を発することはなかった。

僕も黙っていた。トウヤについての話はしたくなかった。

数えきれないほどの沈黙が通りすぎると、
テーブル上にきのうも見たパフェが置かれた。
ヨウコはきのうと同じように、生クリームにスプーンを突っ込んだ。

「好きだね、甘いもの」と僕は言った。

「今のみんなには甘味が足りないんだよ、特に君とか」

「あんまり食べ過ぎると太るよ」

「仕方ないよ、甘いものってそういうものだし」

「たしかにそうだ」


「君も食べる?」とヨウコは言った。口の周りには生クリームが付着している。
その無垢でどこか性的でもある姿は、僕の気分をすこしだけ良くさせた。

「いや、僕はいいよ」と僕は言った。
「それよりも、もうちょっときれいに食べられないのか、それ。
口の周りが生クリームだらけなんだけど」

ヨウコは急いで紙ナプキンで口元を拭う。「幸せだと周りが見えなくなるの」

「うらやましい」

「わたしって幸せのハードルが低いから、いっつもこうなっちゃう」

会話が途切れると、またヨウコは口の周りをべたべたにしてパフェを食べた。
僕はじっとそれを見ていた。
ときどき僕の視線に気づいたヨウコは、その度に口元を拭った。
でもすぐにまたべとべとになった。なんだこいつ、と僕は思った。面白い子だ。


容器が空になると、ヨウコは満足気な顔で口元を拭った。
「今日は、これからどうするの?」

「ヒイロを探す」と僕は言う。「アオイってやつのことを聞き出す」

「どこにいるか知ってるの?」

「知らない。だから探す」

「なんにもあてがないのに?」

僕はうなずいた。

「手伝おうか?」

「大丈夫」

「君が何と言おうと手伝うよ、どうせ暇だし」

「ありがとう」

「ニシムラさんも連れて行こう」とヨウコは言った。
「わたし達には見えないものが見えるかもしれないし」


11


ファミリーレストランを出た僕らは、まずヨウコの家へニシムラさんを迎えに行った。

ニシムラさんはきれいな模様の毛で覆われていたが、
猫と呼んでいいのか躊躇うほどに太っていた。
ニシムラさんを猫と認めてしまうと、全国の猫さんが怒って
僕の顔面を引っ掻きに来るのではないだろうか。いや、来ない。間違いない。

「かわいいでしょ」とヨウコはニシムラさんを抱きかかえて言った。

「そうだね」と僕は言った。
でもニシムラさんは僕の事が嫌いなようで、歯をむき出して威嚇してくる。

ヨウコがそれをなだめようとして撫でると、「にゃあ」とニシムラさんは鳴いた。
たしかに鳴き声はかわいかった。化け猫とはこういう猫のことを言うのだろうと思った。
猫をかぶった化け猫だ。


ヨウコの腕から降ろされたニシムラさんはとことこと歩きはじめた。
歩く速度はヨウコと同じくらい遅かった。

「どうするんだ、これ」と僕は訊いてみた。

「とりあえずニシムラさんについて行ってみようよ」

あてはないので、とりあえずはそうするしかなかった。

ニシムラさんはかなりの巨体なので、身のこなしが軽やかではなかった。
だから狭いところを通り抜けたり、器用に塀の上を歩いたりはしない。
ただ住宅街の道の左端を堂々と歩いていた。そういうところには好感が持てた。


住宅街を抜けると、あの悪名高い川に突き当たった。
最も近くにかかっている橋には欄干がある。死体発見現場の近くではないが、
やっぱりニシムラさんには何かが見えているのではないか、と思った。

ニシムラさんは土手を歩く。
でも二〇〇メートルくらい歩いたところで、突然、川を睨んだまま動かなくなった。

「どうしたんだろ」とヨウコは言う。

僕もニシムラさんの視線の先に目を向けた。
川の水面には不自然な形に欠けた月が浮かんでいる。


最初はさざなみや波紋などで映った月の形が歪んでいるだけだと思っていた。
でもずっと見ていると、水面の月を裂くように、真っ黒な影が湧き上がってきた。

やがて水面の月は穴だらけになった。金色の月には黒い斑点が浮き出ている。
僕は声を出すことが出来ないでいた。

ニシムラさんが唸り始める。
ゆっくりと川の方に近づき、いきなり走って川岸に向かった。
ヨウコはそれを見てちいさく声を上げてから後を追った。

僕はニシムラさんを追うヨウコを追って走った。
追いつく頃には、ニシムラさんは川に映る自分の顔を舐めていた。
喉が乾いていたらしい。

川に浮かぶ月を見る。空いていた穴はひとつ残らず消えている。
顔を見合わせる。ヨウコの目には戸惑いと恐怖がくっきりと浮かんでいた。


「今の、見た?」とヨウコは言った。

「なんなんだろう、あれ」

「ねえ、早くここから離れよう? こんなところにいたくない」

「そうしよう」

僕はニシムラさんを抱きかかえて、土手に続く階段まで歩いて行った。
ニシムラさんは重かった。
それに加え、僕のことがそうとう嫌いなようで、腕の中でずっとじたばたとしていた。

階段を上ってからニシムラさんを地面に下ろした。
ヨウコが早くと急かしてくる。ちらりと振り返って川を見ると、
水面の月は真っ黒に塗りつぶされて、見えなくなっていた。

僕はヨウコの手首を掴んで、川から遠ざかるように歩いた。
ニシムラさんが僕に鋭い視線を突き刺しながら、
警戒するように後ろからゆっくりとついてくる。


12


公園は閑散としていた。僕とヨウコはニシムラさんを間に挟んで、ベンチに腰掛けた。
必要性を失いかけている錆びた遊具が風にうたれ、高く乾いた音をたてる。
それは見えない生物が唸り声を上げているようにも聞こえた。

「ヨウコ?」と僕は言う。

ヨウコは首から上だけをこちらに向けた。
その目には川で見た時と同じように、戸惑いと恐怖が混在していた。

「怖い?」と僕は訊ねた。

「そりゃあ、まあ……」ヨウコは口ごもった。「君は怖くないの?」

「怖いよ」と僕は言った。

「何だったなんだろう、あの黒い靄みたいなの」

「都市伝説っていうのも、あながち馬鹿にできないのかも」


「じゃあ、あの黒い靄が人殺しの正体なの?」

「知らないよ。僕が知るわけないだろ」

「そうだよね。……ごめん」

乾いた風が砂埃を巻き上げた。
公園の街灯は壊れかけているようで、細かく明滅している。
その度に集っていた蛾がはじけ飛ぶように街灯から離れた。

空を見上げて、長い息を吐いた。巨大な月はひっそりと世界を照らしている。
いつかはそれすらも暗闇に飲み込まれてしまうのではないか、と思った。

世界からはひとつも残らず光が消えてしまうのかもしれない。
あと一年もすれば、みんなは狂いきってしまうのかもしれない。
見えない何かに怯えながら暗闇の中を歩くのは、そろそろうんざりだった。
だからといって僕に出来ることは何もない。


あの黒い靄と人殺しに関係があったとしても、
トウヤがおかしくなったこととの関係性はどこにあるのだろう?
アオイという人物との関連性をどこに見い出せばいいのだろうか?

「ねえ」とヨウコは言った。

そもそも、あの黒い靄は何なのだろう?
もしかすると、あのような自然現象が起こることだってあるのかもしれない。
黒い靄が意思を持って人間を次々と殺害していると考えるほうがどうかしている。

でも疑わしいものは疑うべきだ。
手がかりはそこにしかないし、今は何が起こったっておかしくないような状況だ。

たとえば、インスマス村からやって来た深きものどもにはそういう力があって、
何らかの理由で人間を川底へ引きずり込んでいるとか。……

「ぶほっ」と僕は吹き出してしまった。何がインスマスだ。お前は阿呆か?


「な、何? どしたの? 大丈夫?」ヨウコはおどおどとしながら言った。

「大丈夫、大丈夫だよ。ちょっとおかしなことを考えてただけだよ」

「なんでそんなに余裕なの?」

「余裕なんかじゃないよ」

「じゃあ頭がおかしいの?」

「そうかもな」

ヨウコは僕の背中を叩いた。三発。
背中に手形が残っていてもおかしくないくらいに強く叩かれた。

「な、なんだよ」

「お願いだから、君はまともでいてね。できれば猫背を治して」

「にゃあ」とニシムラさんがうなずくように鳴いた。

「うん」と僕は言った。「頑張ってはみるよ」


「きょうはこれからどうするの?」

「ヒイロを探しに行く、ひとりで」

「はあ……。止めはしないけど、というかどうせ止めても無駄だから
止めないだけだけど、危なくなったら引き返してね。
わたしは君みたいなやつでも心配なんだって」

「わかってるよ、死なない程度にする」

「分かってないよね。ぜんぜん分かってない。
馬鹿。阿呆。根暗。鈍亀。猫背。死んだ魚の目」

「それと、ニシムラさんを借りてもいいかな」

「そんなことはニシムラさんに言ってよ」

「どうかな」と僕はニシムラさんを見て言った。


ニシムラさんは僕に見向きすらしなかった。
どうしてこんなにも嫌われているんだろう。すこし悲しくなった。

でも、「オッケーだってさ」とヨウコが言った。
どうやらニシムラさんは僕の頼みを承諾してくれたらしい。
持つべきものは猫好きの友人である。

「ありがとう」と僕はふたり(ひとりと一匹)に言った。
「ヨウコは、きょうはこれからどうするんだ?」

「きょうは帰るよ」ヨウコはベンチから腰を上げた。

「送っていくよ」僕はニシムラさんを抱えてベンチから立ち上がる。

ニシムラさんは抵抗して、僕の顔を引っ掻いた。
ヨウコは引っかき傷のできた僕の顔を指さして笑った。


13


ヨウコを家に送り届けて時計を見ると、午後の四時前だった。

「よろしく頼むよ、ニシムラさん」と僕は言った。

「ふしゃあ」とニシムラさんは鳴いてから、塀に沿って道を歩きはじめた。

ニシムラさんは歩くのが遅い。
歩幅が狭いか、あるいは脚を動かすのが遅いかのどちらかだ。
ヨウコと同じくらい歩くのが遅いのだが、
もう誰かに歩幅を合わせるのは慣れたものだった。

ひとりで歩くときよりも二倍ほどの時間をかけて僕は歩いた。


住宅街を出ると、今度は大きな道路に突き当たった。
道路には滞ることなく車が流れている。

ニシムラさんは横断歩道の前で立ち止まる。
赤信号で立ち止まる猫を見たのは初めての事だったので、僕は素直に感心した。

ライトで照らされた黒いアスファルトの上を僕らは歩き、道路を横断した。
そこからすこし歩いたところで、ニシムラさんは固まった。

その視線の先には、三〇代くらいのサラリーマンと思しき男性がいた。
ニシムラさんは彼に向かって威嚇している。僕も彼をじっと見た。

すると彼は僕に近寄って、人懐っこい笑顔を浮かべた。

そして言った。「アオイか?」


殺してやろうか、と僕は思った。でもなんとか怒りを押し殺し、踵を返して逃げた。
ニシムラさんが後ろからついてくる。

細い路地に入って、転がっていた缶を蹴飛ばした。硬い音が路地を満たす。

頭の中が黒い靄で覆われているようだった。
アオイとは誰のことだ? 僕はアオイじゃない。
いや、でも、誰がそうだと証明できるのだろう?

もしかすると、ほんとうに僕はアオイなのかもしれない。
何かを忘れているだけか、僕だけの頭がおかしくなってしまったか。
でもヨウコは僕をアオイとは呼ばない。僕とヨウコだけがおかしいのだろうか?

わけが分からなかった。僕は路地の隅に座り込んで、手で顔を覆った。
ニシムラさんに引っかかれた傷は消えていた。
どれだけ確認してもしっかりと消えていた。

なんだ、これ。誰か説明してくれ。僕の周りで何が起こってるっていうんだ?

答えるものは誰もいなかった。近くにいるのはニシムラさんだけだった。





路地を抜けて、もう一度大きな道を歩いた。
そこでニシムラさんは何度も立ち止まった。視線の先にはいつも誰かがいた。

視線の先に立つ人に目を向けると、彼らは皆、懐かしむように僕を見た。
その度にひどい不快感を覚えた。
お前たちは誰なんだ? 僕の何を知っているっていうんだ?

時刻は午後の六時になろうとしていた。
ニシムラさんはくたびれてきたようで、歩くのがさらに遅くなっていた。
僕もすこし疲れていた。だから公園のベンチですこし休むことにした。

四時でも六時でも公園は淋しげだった。
錆びた遊具が風に揺れるだけで、人の姿はない。
たぶん九時でも一二時でもこんな感じだろう。
明日もこんな感じで、一週間先もこんな感じに違いない。


結局、ヒイロは見つからなかった。
見つからなくて当たり前だったのに、僕はひどく落ち着かない気分だった。
ニシムラさんは焦っている僕に気を遣ってくれているのか、すこし離れところで座っている。

僕は立ち上がる。帰ろう、と思った。
だからヨウコに電話をかけた。でも出なかった。

ニシムラさんとヨウコの家に向かった。その間に二〇回くらい電話をかけた。
でもヨウコは電話に出なかった。寝ているのだろうか?

二五回目くらいの電話をかけた辺りで、ヨウコの家についた。
嫌々ながらインターホンを鳴らすと、ヨウコの母親が出てきた。


借りた猫を返しに来たという旨を伝えると、母親は煮え切らないような顔を見せた。

「何かあったんですか?」と僕は社交的に訊ねてみた。
それはそれなりに勇気のいることだった。

「ヨウコね、家に帰ってきたと思ったら、
またすぐにどこかへ出かけちゃって。それからまだ帰ってないの」

僕は黙っていた。

「まあ、そのうち帰ってくると思うから、よかったら家でゆっくりしていってくれたら……」

「いえ、結構です。すみません、僕も用事があるので」

「そう? じゃあ、またヨウコに言っておくわね」

「よろしくお願いします」僕は頭を下げて、母親の視界から逃げるように歩いた。
それから走った。

もう一度電話をかけてもヨウコは出なかった。五回かけ直しても駄目だった。


いったいどこへ行ったというのだろう?
もしかすると、他に仲の良い友人と遊びに行ったのだろうか?
しかし、だからといって全く電話に出ないということがあるのだろうか?

あるのかもしれないが、ヨウコに限ってはないような気がする。
なにせ彼女は社交的で、僕みたいなやつでも心配してくれるような優しい人だ。
意味もなく無視をしたりするような、僕みたいな奴とは違う。

だったらどうして電話に出ないのだろう?
もしかするとボーイフレンドのようなものがいて、そいつとの最中なのだろうか?
それはそれでなんだか腸が煮えくり返ってしまいそうだったが、それならまだ良い。

ヨウコの身に何かあったのではないだろうか?
そうであれば電話に出ないことにも、家に戻ってこないことにもうなずける。

まだそうであると決まったわけではない。
もしかすると、ひょっこり帰ってくるかもしれない。
心配事の何割かは起こらないとも言う。でも残りの何割かは起こるのだ。

僕は走って欄干のない橋に向かった。


14


息も切れ切れになる頃、僕は橋に辿り着く。
汗が身体中にまとわりついて気色が悪かった。冷たい風が体温をごっそりと奪っていく。

橋の上には誰かが立っている。ゆっくりと近づきながら、
「ヨウコ?」と僕は呼びかけてみたが、それはヨウコではなかった。

「アオイ」とヒイロは言った。

「ヒイロ」

ヒイロはハイネックのセーターに顔を埋めるようにしてこちらを見た。
長めの前髪から覗くような目に生気はなく、手には文庫本を持っている。

「探したぞ」と僕は言った。

「探してくれたのか。ありがたいね」

「でも今、そんなことはどうでもいいんだ。
きのう、僕と同じテーブルに女の子がいただろ」

「ああ、いたな」


「あの子、ヨウコっていうんだけど、この辺りで見なかったか?」

「見た」

「どこで?」

ヒイロは橋下の川に目を向けた。「そこ」

「冗談だろ?」

「ああ、そうか」ヒイロは悲しげな目をした。「まだ忘れてるんだな」

「やめてくれ、今はアオイの話をしてる場合じゃないんだよ」

「ほんとうに覚えてないんだな。俺はショックだよ。
俺の知ってるアオイはどこかに行っちゃったんだな」

「やめろって言ってるだろ。アオイなんてどうでもいいんだ。
ヨウコがどこにいるのか知ってるか? 知らないのか?
まずはそこだけをはっきりさせてくれ」

「だから、川の底だって」

「嘘言うなよ」


「嘘じゃないって、信じろよ。お前だけは俺を信じてくれてたのに」

「黙れ!」と僕は叫んだ。辺りは更にしんと静まり返る。
「いい加減にしてくれ。もうアオイってやつの話は聞きたくないんだ」

「思い出せよ、アオイ」

頭がずきずきと傷んだ。胸の辺りに吐き気の塊がこみ上げてくる。
「やめろ……もうやめてくれ……」

「このままだとほんとうに戻れなくなるぞ」

僕は頭を抑えて、吐き気を押し戻すように息を大きく吸い込んだ。
「何がだよ……誰が何に戻るっていうんだ……僕は僕だ……」

「そうだな。お前はお前で、アオイはアオイだ」


「もういいから、ヨウコは……ヨウコはどこなんだ……」

「だから、お前の言うヨウコちゃんは川の底だって」
ヒイロは僕に背を向けて歩きはじめた。
「また会おうな、アオイ。俺たちはまた近いうちに、ここで会うことになると思うんだ」

「そんなこと知るか……ヨウコは……」視界はぼんやりとしている。
頭の内側で巨大な虫が脳を貪っているような感触がする。
とにかくひどい頭痛がして、僕は立っていられなかった。

膝が地面についたと思ったら、頬が地面についた。橋は無慈悲なほど冷たかった。
力が抜けていく。まるで身体の支配権を何かに奪われたみたいだった。
僕は重力に従って冷たい橋にへばりついていた。ヒイロはもういなかった。





どれくらいの時間橋にへばりついていたのかは分からない。
どれだけ祈っても立ち上がる力は戻って来ない。
悪夢の底に沈んでしまったみたいに思えた。

その中でもたしかに言えることは、時間が流れていることと、
僕を助けてくれる人はいないということだ。
その他のことなんて、僕のちっぽけな頭では説明のしようがなかった。

跡形もなく消え去ってしまいたかった。
このままだと、ほんとうに僕はアオイになってしまうのではないだろうか。

でも、いま消えてしまえたなら、僕は僕としてみんなの頭の中に残り続ける。
みんなとまでは行かなくても、せめてヨウコの頭にだけでも、
僕は僕として生き残ることができる。それは幸せなことではないのだろうか?
そう思っても、僕は消えることすらできない。

誰か教えてくれ。ここから僕を救い出してくれ。口は動いても、声は出ていなかった。
誰か助けてくれ。僕を呼んでくれ。アオイじゃなくて、僕のほんとうの名前で。

誰でもいいんだ。





時間は滞り無く流れている。僕はその中に置き去りにされていた。
身体はすでに冷えきっている。腹が減った。瞼が重い。寂しい。
様々な生理的欲求が僕の中で渦を巻いて、混濁した感情を作り出していた。
膨れ上がったその感情は、僕の目から涙を押し出す。

涙はあたたかくて気色悪かった。でも、そのあたたかみだけが現実味を帯びていた。
あとのぜんぶは作りものみたいに思えた。
月も星も川も橋も、僕の外側も中身も、ぜんぶ偽物だ。
本物はこの涙の粒と、感じている寂しさと恐怖だけだ。ぜんぶ、嘘だ。

もういいや、と思った。瞼を下ろせば全てが終わってくれるような気がした。
だから僕は瞼を下ろした。その瞬間に、誰かが僕の手首を掴んで、引っ張った。

身体の支配権が戻ってくる。
僕は足裏に力を込め、凍りついた関節を力任せに動かして立ち上がった。

目の前にいたのはヨウコだった。ヨウコは僕の手首を掴んで微笑んでいた。


言葉が出てくるよりも早く、僕はヨウコを抱きしめた。
抵抗は微塵もなかった。だから腕に込める力を強くした。
腕の中の身体は枝みたいに細くて、氷みたいに冷たかった。

「どこにいたんだよ」と僕は言った。「心配したんだ」

「ごめんね」とヨウコは言い、僕の背中に手を回した。

そのままで一〇分くらい固まっていた。
ときどき、ヨウコの手に込める力が強くなったり、弱くなったりした。
僕の服に顔をこすりつけるように頭を振ったりもした。
それらは良くも悪くも夢の様な時間だった。とにかく、現実味がなかった。


僕はいま立っている場所から欠けているものを
感じ取ろうと必死になって、ヨウコを強く抱いた。
でも得られるものは何もなかった。

腕の中にはヨウコの形をした、冷たい肉の塊がある。
僕にはなんとなく分かっていた。
これはヨウコじゃない。僕の知っているヨウコじゃない。

でも、「もうどこにも行かないでくれ」と僕は言った。
その言葉は心からのもので、嘘ではなかった。でも嘘みたいに響いた。

「会いたかった」とヨウコは言った。
その言葉は心からのものであると思いたかった。でも嘘みたいに響いた。

僕は更に強くヨウコを抱いた。

「会いたかったよ、アオイ」とヨウコは僕の耳元でささやいた。

続く
明日で終わる

>>90
「何だったなんだろう、あの黒い靄みたいなの」

「何だったんだろう、あの黒い靄みたいなの」


15


ベッドから跳ね起きると、びっしょりと汗をかいていた。
酷い悪夢を見ていたような気がするが、具体的な内容までは思い出せなかった。

時計は午前八時半を打っていた。
今から学校に向かったとしても、遅刻であることは確定している。

真っ暗なリビングのテーブル上には、冷めたコーヒーとパンが置かれていた。
テレビの電源は消えていて、カーテンは閉め切られている。
どこを見ても書き置きのようなものはなかったし、携帯への着信は一件もなかった。

暗闇の中で椅子に凭れ、冷めたパンをもそもそと頬張った。
思っていた以上に固くて噛むのが苦痛だったので、
コーヒーで流し込んでみることにしたが、コーヒーには味がなかった。

だからパンもコーヒーも捨てた。すると今度は吐き気がこみ上げてきた。
僕はのろのろとトイレに向かい、便器に胃液混じりのパンとコーヒーをぶちまけた。


胃の中がすっきりとすると、気分もすこし爽やかになった。
顔を洗って歯を磨くと、更にすっきりとした気分になった。
服を着替えると生まれ変わったような気さえした。

肩に鞄を提げて、ドアをくぐった。外には冬の冷気がまだすこし残っている。
僕は誰もいない通学路を、ヨウコやニシムラさんみたいに時間をかけて歩いた。

学校に着いたのは一〇時頃だった。
中途半端なタイミングで現れた僕に視線を送るものは誰もいなかった。


机の脇に鞄を下ろして、辺りを見渡す。ヨウコとトウヤはどこにもいなかった。
べつの教室を覗いても見当たらなかった。放課後になってもふたりは見つからなかった。

つぎの日になってもふたりは学校にはいなかった。電話をかけても繋がらなかった。
一週間経っても、ふたりは学校に来なかった。
でも、そのことについて言及するものはひとりもいなかった。

ヨウコとトウヤが川で見つかったのは、それからまた一週間後の事だった。


16


ヨウコが生きていたなら、「葬式の似合う男だ」とか言って茶化してくれただろうな、と思った。
でも僕は、あの重苦しい沈黙と、嫌々合掌している人を見るのがとても不快だった。
それに、ときどき聞こえてくる嗚咽には耐えられなかった。

葬式が終わってからも、僕は悪夢の中に取り残されているような気分でいた。
つぎの日になっても、そのつぎの日になっても、僕は悪い夢の中にいた。
ヨウコもトウヤもいないだなんて、冗談みたいだった。
でも確かに、ふたりはどこにもいなかった。

ヨウコが身につけていた腕時計の日付は、
僕がニシムラさんを借りた日で止まっていたらしい。
時刻は四時二一分を指したままだったそうだ。
止まった時計が指し示す時刻にヨウコが死んだとすると、
僕が家に送り届けてから約三〇分後に川で溺れたということになる。

トウヤに関しては、死後かなりの時間が経っているらしかった。
ヨウコの身体はまだきれいな状態だったが、トウヤの方は腐敗が進んでいたという。


死体の状態などどうでもよかった。
綺麗かそうでないかなんて、僕から見れば大した問題ではない。
もっとも重要な問題は、何が原因で川で溺れてしまったのかという一点に尽きる。

でも、どうしてヨウコの時計は四時二一分で止まっていたのだろう?
腕時計の指し示す通りの時間の前後にヨウコが死んだとするならば、
僕が抱き寄せたあの冷たいヨウコは、何だったのだろう?

あれは間違いなく夢ではなかった。
現実味のない、悪夢のような現実だった。ヨウコは僕のことをアオイと呼んだ。


たしか、ニシムラさんを返しに行ったのは午後の六時頃だったはずだ。
僕はその後に川へ向かった。腕時計を信じるのならば、
この時点でヨウコは川底で冷たくなっている。ヒイロの言った通りに。

ヒイロだ、と僕は思った。

ヒイロはヨウコが川底にいるということを知っていた。見殺しにしたのだ。

ヒイロが知っているのだ。
アオイのことも、どうしてヨウコとトウヤが死んだのかということも。

ヒイロは言っていた。
「また会おうな、アオイ。俺たちはまた近いうちに、ここで会うことになると思うんだ」

僕はベッドから身を起こし、カッターを持って家を出た。僕らはまた会うことになる。


17


「猫ってのはさ、厄介だよな」とヒイロは言った。
「あいつら、人間には見えないものが見えるみたいだな、アオイ」

僕は橋の真ん中に立つヒイロを睨めつけた。

相変わらず、橋の辺りには生物の気配がなかった。
冷たい風が背の高い雑草をさらさらと撫でる。
雲のない夜空には鋭い月が浮かんでいた。

「なあ、お前も猫に嫌われてただろ」とヒイロは言った。
「完璧だと思ったのに、まさか猫なんかに見破られるとはなあ」

「にゃあ」と僕は言った。

「なんだよ、それ。猫みたいだな」

「だろ。だから僕はお前が嫌いだ。大嫌いだ」

「そうか、そりゃあ残念だ」


「ヨウコを見殺しにしたな」

ヒイロは薄ら笑いを浮かべた。「ヨウコちゃんは自分から川へ飛び込んだ」

「でたらめ言うな」

「信じないのなら信じなくてもいい。
真実ってのは自分に都合の良いものだからな。
でも、自分に都合の悪いことって、大抵は現実だよ」

「ほんとうのことを言え。お前が落としたんだろ」

「だから、自分から飛び込んだんだって」

「ヨウコが入水自殺したってのか? 信じられるわけないだろ」

「どんな子だって悩んでるんだぜ、アオイ。あの子だって、俺だって悩んでる。
そんで、ちっぽけな出来事でスイッチは入っちゃうんだ」

「ほんとうのことを言え。でないと殺す」僕はポケットに忍ばせたカッターを握りしめた。


ヒイロは呆れたようにため息を吐いた。
「なあアオイ。もう人間ごっこはやめよう、な? お前は俺と同じなんだ。
お前も俺も川の底で生まれて、地上で人間のふりをして、
猫に嫌われて、結局は川の底に戻るんだよ」

「違う。僕は僕だ」

「失敗したんだよ、お前は。元に戻れないくらい、うまいこと溶け込みすぎたんだ。
きっとそこはお前にとって居心地のいい場所なんだろうけど、
俺たちはどう足掻いても人間にはなれないんだよ。お前はアオイだよ」

「違う」

「なあ、そんなにあの子が大事か?」

僕はうなずいた。

「泣くほど大事だったのか?」

僕はうなずいた。

「そっか」ヒイロはすこし悲しげな目をして、頭を掻いた。「ごめんな」


「許すもんか。お前が殺したんだ」

僕はヒイロに向かってゆっくりと歩み出す。
でもそれを遮るように、「アオイ」という誰かの声が割り込んできた。

睨めつけるように、声の方へ目を向ける。そこに立っていたのはヨウコだった。

目を真ん丸にしている僕を放って、「アカネ」とヒイロは言った。

「アオイ」とヨウコは言った。「また会えたね」

僕は何も言えないでいた。
どうしてヨウコがここにいる? アカネとは誰のことだ?

「どうしたの。なんで泣いてるの?」
ヨウコは僕を抱きしめて、頭を撫でた。「よしよし」

ヨウコの手は冷たかった。
その現実的な冷たさは、僕の思考回路を凍らせようとしていた。
胸の内側に幸福感が湧き上がってくる。でも、それは偽物だった。
違う。違うんだ。これはヨウコじゃない。だって、ヨウコは。……


僕は勢いよく腕を突き出した。押されたヨウコはバランスを崩して、尻もちをついた。

「ヒイロの言ったとおりだ」とヨウコは言った。「わたしのことも覚えてないんだね」

「誰なんだ、お前」

「アカネ」とヒイロが言った。「覚えてないんだろ」

「アカネ」と僕は復唱する。

「アオイ」とヨウコ――アカネは言った。
「アオイは、このヨウコちゃんって子が大事なの?」

「そうだ」

「ふうん。ねえ、いいこと教えてあげようか?」

「いらない」

「ヨウコちゃんがなんで死んだのか、知りたくない?」

僕はアカネを睨めつけた。


「アオイはぜんぶ忘れちゃってるんだもんね。だから教えてあげる」
アカネは立ち上がり、橋の上をふらふらと歩きはじめる。
「ねえ、川で溺れた人の共通点って、なんだと思う?」

「知るか、そんなこと」

「アオイ。川で溺れた人はみんな、正義感があって優しかったんだよ」

そう言うとアカネは微笑み、橋から飛んだ。水しぶきが上がる。
僕は膝をついて、橋の上から川を覗きこんだ。
暗い川には波紋が微かに残っているだけで、アカネの姿はなかった。

「どういうことだよ」と僕はつぶやいた。

「今に分かるさ、お前がアオイじゃないのならな」とヒイロは言った。

波紋が消えた。すると、入れ替わるようにアカネが浮かび上がってきた。


「助けて」とアカネは叫んだ。僕はじっとそれを見ていた。
溺れているように見えるが、ほんとうに溺れているのか演技なのかの区別はつかない。
ただ、ヨウコの溺れている姿をただ見ているだけというのは、かなり胸が痛かった。

「助けて」とアカネは――ヨウコはもう一度叫んだ。
ヨウコは――本物のヨウコは、こうやって誰かに助けを求めていたのだろうか。
僕には何も分からなかった。

「助けて」とヨウコはもう一度叫んだ。

“ヨウコが「助けて」と叫んだ”。
そう思うのとほとんど同時に僕は立ち上がって、暗い川に飛び込んだ。


視界はほとんど真っ暗だった。
でも、がむしゃらに手を動かして、なんとかヨウコの手を掴んだ。

その時だった。重みを持った何かが、僕の足首を強く掴んだ。
必死になって水を掻いたが、身体はゆっくりと水面から遠ざかっていく。

足元に目をやると、黒い靄のようなものが絡みついているのが見えた。
それは様々なものに形を変えた。たとえば魚や虫、人間なんかに。

「分かった?」とヨウコは――アカネは僕の脚を掴んで言った。

なるほどな、と僕は思った。トウヤもヨウコも、川で溺れた人間はみんな優しかった。

僕は沈んでいく自分の身体に目を向ける。
身体のあらゆる部位が、黒い靄に変化していた。
頭の中で絡まっていた糸がすべてほつれていくようだった。


「ねえ、アオイ」とアカネは言った。「もう一度、最初からやり直そうよ」

「そうだな」と僕は――アオイは言った。

川の冷たさは僕の身体からあらゆるものを奪っていった。
関節は凍りついたようになり、肺は水で満たされる。
周りには底知れない闇だけがあった。

もはやどちらが上でどちらが下か、区別もつかない。
宇宙空間に放り投げられたみたいだった。

どれだけ吸い込んでも苦しかった。身体が思うように動かない。
穏やかな死を迎えることは出来なさそうだ。ヨウコもこれくらい苦しかったのだろう。
でもこの苦しみが途切れた時、僕は僕として、
もう一度ヨウコに出会えるのかもしれない。

それは悪くないことのように思えた。

おわり

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