さやか「愛に腐りし円の御剣」 (63)

注意書き

・叛逆後さや恭 恭さや

・さやか「やっぱり悪魔には勝てなかったよ…………」的な捏造展開が
 後で一応描写入れるけど前提

・病みさやか

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~☆

上条恭介は、かつて己が入院していた病院のとある病室を前に、少し憂鬱な面持ちで佇んでいた。

恭介にとって病院とは、自分からは絶対に近寄りたくない曰くつきの場所だった。

彼の右手が無意識に自身の左腕に触れる。最低最悪の過去。
あんなにも辛く絶望的な体験を、嫌でも思い出さずにいられない病院という場所。

自分の動かしているこの左腕が、またいつか何かのきっかけで動かなくなるんじゃないか?
毎日ごくありふれた生活の中で、そんな思いにふと心を苛まれることがある。

おかしくなるかもしれないのは左腕に限った話ではない。
右腕、目、耳。何だっていい。極端に命と言い換えてもいい。

どれかがポロリと、その機能を失って役に立たなくなるのではないか?
そんな漠然とした不安。とはいえ別に大した不安ではない。

ただ、出来るうちにやりたいことをやらないとダメだ、
そんな気持ちをぼんやり掻き立てられるに過ぎない。

それは腕と足が完全に治癒した今、
あの事故から奇跡によって甦った彼が唯一抱えている後遺症だ。

明らかに事故前とは日常への感じ方が変わってしまった。

それまでは人生に何一つ不足なく、不自由なく、不安もなく、
自分の人生と言い換えてもいいほど大切なヴァイオリンを、
純粋に演奏を楽しむ気持ちを持って弾き続けているだけで良かった。

今はそれでは済まない。
今出来ないことが、明日明後日、必ず出来るという保証はどこにもないのだ。

切羽詰まってはいない、緩やかで単調な感情ではあるが、一分一秒が惜しいと思う。

ヴァイオリンを弾いていないとき、下手をすればヴァイオリンを弾いているときですら、
かつては感じたことのなかった考えがしばしば胸を掠める。

それは、自分が完成された音色を生み出せるようになるため神様に用意された時間を、
こうして刻々と無駄にしているというような考え。

思い浮かべずにいられるのであれば、その方が幸福であるのは間違いなかった。

あの事故のせいで、恭介は初めて本物の不幸、
自分を根底から揺るがす試練というものを知ったのだった。

そんな事を知りたくなんてなかった。あの事故さえなければ、知らずに済んだ。

事故そのものはわけもわからぬ一瞬の出来事だったから、
さほど苦労なく記憶からかなりその印象を剥ぎ取ることが出来る。

ところが病院での毎日となると、
苦悩に浸っていた時間が長かったせいで中々そうはいかない。

出来ることなら病院と二度とかかわりのない、
自分の忌まわしい記憶に蓋をした生き方をしたいと恭介は思っていた。

しかし今日、途中タクシーを使いながらも彼は、
自主的に自らの足でこの病室の前へと立ったのだった。

自分から訪れたくはない。
だが、訪れなければならない理由がそこにはあった。

そろそろこんな所で立ち尽くして時間を無駄にするのも終わりにしなければならない。

踵を返して帰りたくなる衝動を抑え、一度キリリと表情を引き締め、
にこやかな笑顔を心がけながら病室の引き戸を開けた。

途端に恭介の耳を、彼の身体の隅々まで染みついた音色が通り過ぎていく。

機械から流れる優しいヴァイオリンの演奏が、
邪魔にならない程度の穏やかな大きさで部屋を満たしている。

一人の少女が白いベッドの上で上半身を起こし、それに耳をそばだてていた。
そしてその視線は、何もない壁をまっすぐ見つめていた。

「さやか」

恭介は部屋に入って最初に部屋の主の名前を呼ぶ。
それが引き金となって、さやかの目が恭介に向いた。

彼女は「壊れて」しまってからいつもそうだった。

たとえ誰かが自分のベッドの真横まで近づいても、
それだけでは全く反応を示さない。

ただ、声を出すこと、もしくは物音を立てることによってのみ、
彼女の注意をひくことが出来る。

そんなさやかが部屋に入ってきた相手を見て笑顔を浮かべるのは、
恭介がやってきたときだけ。

それに例外はない。今日もまた、さやかが美しく天真爛漫に笑う。

恭介がそっと歩み寄り、さやかの傍、彼の定位置である椅子に腰かけた。



「恭介」


彼女の両手が、恭介の左腕をそっと握り、それから上下に優しく撫でさすり始める。


「恭介、恭介、恭介、恭介、恭介、恭介、恭介――」


放っておけば無限に囁かれ続ける愛しい人の名。
そしてそれに伴うひたむきな愛撫。

恭介はそれらを自らの鼓膜と肌で感じて、確かに安堵していた。
決して彼女を見ていて沈痛な気持ちがこみ上げない訳ではない。

現に今も胸を絶え間なく抉られているような思いがする。

けれども、あの時、この部屋で見た光景と比べれば百倍マシだ。
そんな風な感情が恭介のどこかにある。

本当に酷かった。

正気を失った当初のさやかは、
恭介と仁美以外の手が身体に触れると猛然と怒り狂った。

あのときのさやかは、とても人間と呼べる状態じゃなかった。
それを思い出すと恭介はいつもゾッと震える思いがする。


恭介! 恭介! 恭介! 恭介! 恭介! 恭介! 

恭介! 恭介! 恭介! 恭介! 恭介! 恭介!


怒号のような大連呼。声だけで恐怖を呼び起こす。そんな鬼気迫ったものだった。

後から医師や看護師たちが恭介に言うには、病室で初めて目を覚ました時は、
これすらも凌駕するような暴れっぷりだったらしい。 

あのときは、仁美と恭介が必死に頼み込んだ結果、ようやく渋々面会を許された。

顔を合わせたさやかに、特に異常は見受けられない。
ちゃんと薬も効いているはずだった。

まず、仁美がさやかに優しく触れて、反応はなかった。
ニコリともせず、無表情に見返していた。

次に恭介がおずおずと、手に触れた。
ニコリと笑った。

流石に和気藹々とまではいかなくても、
病室の雰囲気は本当にのほほんとした物だった。

だから、その場にいる誰もが少しばかり気を抜いてしまった。

女性の看護師が何かしらの目的をもって彼女の身体にそっと触れた瞬間、
それは起こった。

信じられない力で突き飛ばされ床に転がる看護師。
狂乱するさやか。火事場の馬鹿力で表現可能な範疇を超えていた。

医師と看護師、さやかと恭介の父親がどうにか彼女を止めようと躍起になる。

恭介の隣で、顔を蒼くした仁美が腰を抜かして尻餅をついている。
倒れた椅子。人を呼びに行ったさやかと恭介の母二人。

まったく、それは地獄のような有り様であった。
そんなどうしようもない事態を無事に収拾出来たのは恭介のおかげだった。

恭介本人も詳しいことは覚えていない。

彼はさやかさやかと繰り返し大きな声で呼びかけながら、
彼女を羽交い絞めにして無我夢中のままに彼女を鎮静化させた。

もちろん、さやかがその気になればその拘束を解くことは難しくなかったはずだ。

羽交い絞めにしたのが恭介だったから彼女は止まった。それに疑いはなかった。

薬がしっかり効いている、仁美たちがそれを見てショックを受けないように、
そんな理由で面会前に念入りな拘束をしなかったのは、結果的に大失敗だった。

そんなさやかも今となっては嘘のように大人しいものだが、
あんな騒動を一度起こした上で、こんなにも居心地のいい個室をずっと与えてもらえているのは、
仁美とその家族の働きかけのおかげだった。

志筑仁美。

彼女と恭介が恋人関係を解消してから、そう長い日にちは経過していない。

さやかさんほど一途に、上条君を愛せる自信がないのです。

そんな生半可な気持ちで上条君とお付き合いさせてもらうなんて、
恥ずかしくて、辛くて、とても私には耐えられません。

仁美が涙ながらに述べた言葉。走り去っていく彼女を恭介は止めなかった。

どうして仁美と付き合ったのか? 付き合ってくれと頼まれたからだ。
彼女は僕には見合わないほどいい子で、そんな子が僕を好いてくれる事がただただ嬉しかった。

この人なら、自分も心から好きになれるだろう。
そう思った。だから付き合った。

日に日に好きになっていく途中だった。
だから今、正直、恋人でなくなったことを残念に思う気持ちは湧いてこない。

その代わりに、どうか僕なんかよりもっといい人を見つけて幸せになって欲しい、
と恭介は切に感じる。

仁美から受けたものと比べるとかなり淡いながら、好意はそこにあった。

恭介と仁美の間には少なくとも通っている物、
もしくはこれから通おうとしていた物があった。

しかし、そんな繋がりはさやかの激情に比べれば、
まるでままごとのようなお遊びだった。

自分が誰かをここまで愛することは生涯絶対に不可能だろう。
恭介はさやかを見ながらそう考える。

今のさやかが何より異常なのは、
恭介以外の他の物に極端に関心を向けないことだ。

観察していると、ひとり自分だけの別世界を、
その目を通し眺めているんじゃないかという気がしてくる。

一人、恭介とは重ならない形で、病室を頻繁に訪ねる仁美に対して、
さやかはいまだまともな反応を返したことがないという話を恭介は耳にしていた。

ただし例外的に恭介に関しては、それを認識し、
無償の慈しみを惜しげもなく投げかける。

対象が恭介であるならば、全てを受け止めるような態度。
無条件の愛。

「恭介、恭介、恭介、恭介、恭介、恭介、恭介――」

さやかの声、腕を撫でる仕草、表情。全てに恭介への一途な想いが詰まっていた。
むしろ今のさやかにはそれ以外何もなかった。

自分は他の誰かどころか、
かけがえのないはずのヴァイオリンをここまで愛せるだろうか?

恭介は思わずにはいられない。
自分には、一生こんな境地に至ることは出来ないんじゃないか。

ちょっとした羨望と、取り返しのつかない苦い後悔が恭介のはらわたを染み透ってゆく。

いつから、いつから彼女は僕なんかに思いを寄せていたんだろう…………。

事故に遭ってから、さやかは何度も何度も足しげくお見舞いに来てくれた……。

僕に聞かせるためのCDを探して買って来てくれた……。

「恭介、恭介、恭介、恭介、恭介、恭介、恭介――」

さやかが行方不明になった。
それを知った日、恭介は特別彼女を心配していなかった。

何かやらかしたのかもしれない。
それでもすぐに、いつも通り元気な姿を見せるだろう。 根拠もなく確信していた。

人気のない所で倒れていたのを保護されたと聞いた時も、
まだそれほど心配していなかった。

いつも明るく、エネルギッシュだった彼女が、
何か大変なトラブルに巻き込まれたことがいまいちピンと来なかった。

それゆえ、さやかが病室で暴れているのを直に見たときは、
グラグラと自分の根幹が揺さぶられた心持ちがした。

彼女のあんな恐ろしい顔はそれまで全く見たことがなかった。
彼女が僕のことを好きだったなんて知らなかった。

想像すらしていなかった。

全てとまではいかなくても、かなり彼女のことを知っていると思っていたのに。

当たり前は簡単に崩れる。
自分に突如降りかかった事故でそれを理解した。

しかしさやかの変貌に、恭介はそれを改めてこれでもかと痛感させられた。

ちょっと前まではあった当たり前。

当たり前の中に、さやかはどんな想いを隠していたのだろう?



「恭介、恭介、恭介、恭介、恭介、恭介、恭介――」


保護されてから、最初どうにも手のつけようがなかったさやかが、
目に見えて落ち着き始めた。

つまり恭介と仁美以外の誰かがその身体に触れても、
さやかが暴れず無関心でいるようになったのは、
この部屋に音楽が流れるようになってからのことだった。

音楽でもすべての音楽を喜ぶわけではない。
クラシック音楽の、全体から見れば一部の音楽に限られていた。

恭介は知っていた。

さやかが耳をそばだてるのは、演奏会なり家での演奏なり、
とにかく自分がかつて彼女の前で弾いてみせたことのある曲だけだ。

それが心苦しかった。
いつから彼女はこんな思いを抱えていたのだろう? 

家族ぐるみの付き合いで、幼馴染で、近しい人のはずだったのに、
何も知らなかった。知る気もなかった。

そんな自分とさやかとの間にある、思いのほか冷めた関係が悲しかった。 

どうして、こんなことになってしまったのだろう。

期待

>>1は過去作あるの?

今日はここまで

スレタイ考えた本人が赤面するけど、さやか「恭介恭介恭介恭介……」
みたいな感じにすると、ギャグっぽいの期待した人も開いちゃいそうで申し訳ない気がしたからこれにした

円環のサポートがない中で悪魔に立ち向かうため魔女の力を使いすぎたせいで、
ソウルジェムの中に呪いが募り過ぎて――みたいな設定

>>19
マミ「チーズがとっても大好きな、大切な私のお友だち」 地の文
沙々「わたし、マミさんの弟子になりたいんです!」 台本形式


あと、これは今となると微妙だけど ほむら「円環をお断り」 あたり
他にも細かいのとか書いてるけど大体そこら辺

はい、見直し丁度今終わったんで投下します

医師は、何かとんでもなく大きな精神的なショックが、
いきなりさやかに降りかかったのだろうと恭介に言った。

とはいえそのショックの原因、保護されるまで彼女がどんなことに巻き込まれていたのかは、
今のところ警察による懸命の捜査の甲斐なくまるでわかっていない。
 
真実を知るための確かな手掛かりになるようなものは何もなかった。

……どうして、こんなことになってしまったのだろう。

恭介の思考は、寄る辺なく有耶無耶の中をうろうろとして、
結局一つの印象的な記憶、手掛かりと呼ぶにはあまりに取り付く島のなさ過ぎる物へと漂着した。

さやかと恭介にとってのクラスメイト、暁美ほむらが、
一度だけさやかを見舞いに病室へやってきた時のことだ。


「恭介、恭介、恭介、恭介、恭介、恭介、恭介――」

恭介にとって暁美ほむらは、
学校でいつも一人でいることが特徴的な少女だった。

恭介の知る限り、ほむらと普段学校で、
友だちと呼べる付き合いをしている人間は誰もいなかった。

そんな彼女がさやかのお見舞いにわざわざ来たという事実。

クラスメイトだから。

ほむらがそれだけの理由で誰かのお見舞いをする人間であるとは、
ただの直感ながら恭介にはどうも思えない。

そうなると何か、さやかとほむらの間には恭介の知らない接点があるはずだった。

でも、二人にいったいどんな接点が? 恭介には不思議だった。

自分の知らないさやかの一側面。
それだけに、暁美ほむらによるお見舞いの記憶は恭介の中に色濃く残ったのだった。

その日、上半身を起こし今日と全く同じようにベッドに収まるさやかと、
ベッドの隣に用意された椅子に腰掛けた恭介が病室にはいた。

突如、予告なく開けられた病室の引き戸。

そして、恭介の怪訝な視線を平然と受けつつ、
廊下と病室の境界をスッと越えて入って来たほむら。

ほむらが部屋の中を無表情で見回した後、
足音なくスルリと二人の元へ近づいて、恭介に話しかけた。


――こんにちは、上条君。美樹さんのお見舞い、少しの間ご同席させて貰っても構わないかしら?

……ええ、大丈夫ですよ。


特別断る理由も思いつかなかったから、恭介はほむらの頼みを承諾した。


――こんにちは、美樹さやか。

それから、場に気まずくて長い長い沈黙が流れる。

さやかはいつもと変わらず恭介以外の誰か、ほむらに興味を示さない。

ほむらはさやかを無言でじっと見据えるばかりで、
そもそもさやかの反応を端から期待している素振りがない。

結果、恭介一人だけが二人の間でいたずらに気を揉む羽目になる。
はやく居心地の悪さを解消するために、何か、何かをしなくちゃ、そう思う。

ところが場の空気を動かした、すなわちその場で次に言葉を発したのは、
あれこれ悩んでいた恭介ではなくそれまで絶えず飄々とした様子でいたほむらの方だった。


――ねえ、上条君。……美樹さやかに何があったのか、あなたはそれを詳しく知りたいと思ってる?

 
それまでさやかにばかり向けられていたほむらの目が、
いつの間にか一途に恭介を向いている。

突然お見舞いに現れて突然のこの言い草。何が何やらわけがわからない。

一瞬の逡巡。それでも恭介の口がおずおずと開く。



……そりゃあもちろん、知りたいよ。それもなるべく詳しく。


ほむらの問いかけに面食らいながらも、心の底から恭介はそう答えた。

自分が知らぬ内にさやかが何に巻き込まれてしまったのか教えてくれるなら、
それこそ藁にもすがりたい。

恭介は病室でさやかが暴れたのを見た日から、ずっとそんな心境だった。


――そう、わかった。じゃあ教えてあげる。


コクリと一度軽く頷いて、ほむらが語り始めた。

――彼女は己の正義を曲げずに無理な形で限界を超えてそれを貫き通そうとしたの。
   その結果、彼女の心の内奥の淀みと心の外面が完全に分離してしまった。

――彼女は現在、心の内奥で自身の呪いを募らせそれを刻々と腐らせている状態にある。

――そしてそれとは対照的に、彼女の外面には輝きしか残っていない。
   つまり表面と内部、心が正反対の二つに裂けてしまっているってわけ。


ほむらが言葉を切る。

さやかの心が二つに裂けてしまっている。

残念ながらそれは、恭介が求めていた言葉ではなかった。
さやかがいま「壊れて」しまっているのは、恭介の目でも十分に確認できる。

どうして、「壊れて」しまったのか?
もっと言えば、どうすれば、何をすれば、「壊れて」しまった彼女のためになるのか?

そういう事柄が今の恭介の知りたいことだった。
だから、恭介は率直にそれをほむらに訊いてみた。



ええっと、じゃあ例えば、どうしたらその、心が裂けてしまったさやかを元に戻せるか
……何か、何かヒントでもいいから、わかったりする?


――いいえ、ごめんなさい。私には見当がつかない。
   ……上条君にとっては残念だろうけど、美樹さやかを元に戻すのはもう無理じゃないかしら?

――ここまで完全に裂けてしまっては、後は完全に壊れてしまうのを待つしかない。
   きっと誰にも、彼女が壊れてゆくのを止めることはできないはずよ。


そうだとすると、彼女のためにできることはもはや誰にも何もないってこと?
恭介が言った。

いいえ、という意思表示としてほむらが何度か横に首を振る。

そして、右手の人差し指と中指の二本の指を伸ばし、
それを彼の前に突き出して言った。

――彼女に残された選択肢は二つ。

――まず一つ目は、呪いをどこまでも募らせて、
   それが心の耐えられる限界を超えたとき、
   この世に災いを成す者として改めて誕生する。

――もう一つは、腐った呪いの量、密度をどうにか減少させて、
   正しく救済される形で現世の因果から解脱し消滅する。

――今の彼女にとっては、どちらを選ぶことになったとしても実質的な差はほとんどない。
   けれどもし仮に、元の正常な彼女だったら、
   せめて誰にも迷惑をかけず消滅する道を選びたいと考えたでしょうね。


災いを成す者として改めて誕生するか、それとも現世の因果から解脱し消滅するか。

実に突拍子もない話だった。

しかし、恭介は唐突にそれを聞いてもほむらが冗談を言っているとまでは考えなかった。
比喩的で、掴みどころのなくて回りくどい言葉を言っているな、とだけ感じた。

藁にもすがる思い。
神妙な顔で彼女の声に耳を傾ける恭介。淡々とほむらは話続けた。


――そんな中で今の彼女が必要としている、欲しているもの。
   それはあなたが与えてくれる愛。それだけ。

――そして、今の彼女が求めている物を与えること。
   結果的にそれは、正常だったときの彼女の思惑とも、
   あるいは一致することにもなりうるかもしれない。

――彼女の内奥に溜まり腐敗した呪いを減らすことが出来るものがあるとしたら、
   それもあなたの愛しかあり得ない。

――逆に言えば、このまま彼女に何もせず手をこまねいていたら、
   彼女はいずれ周囲に災いを成す者になるでしょうね。

――つまり今の彼女の幸福のために何かができる人間、それはこの世で上条君一人しかいない。

それまでの何とも言えない表情と態度を崩し、
口の端に温かな笑みをほのかに浮かべて一呼吸おいて、
ほむらはさも大事そうに厳かな調子でその言葉を恭介に告げる。


――だからね、上条君。あなたが美樹さやかのために何かをしたいと本気で思うなら、
   どうか時間の許す限り、心からの愛を、彼女に注いであげるよう努力してあげて。


どういう縁があるのかわからないけれど、さやかのことを大事に思ってくれてるのかな? 

恭介は彼女の口の端に浮かぶ笑みを見てそう思った。

だけどよく見ると、口の端の温かな笑みには、
何か異質なものが混じっているように恭介の目には映った。

ところが映ったと思ったと思った次の瞬間、
その違和感は笑みごとほむらの顔から消えてしまった。

錯覚だったに違いない。恭介はそう考えた。

それからは特に変わったことはない。

ほむらはさやかに、一方通行どころか届いてるかもわからぬ他愛ない言葉をかけたり、
先ほどまでのように何も言わず彼女を長い時間見つめたりしたのち、
来た時と同じく唐突に見舞いを切り上げ帰っていった。


「恭介、恭介、恭介、恭介、恭介、恭介、恭介――」


ハッと我に返る。

恭介が自分だけの世界に浸っている間も、
変わらずさやかはずっと恭介の腕を優しくさすり続けていた。


――心からの愛を、彼女に注いであげるよう努力してあげて。


ほむらの言葉が不意に妖しく恭介の中で蠢く。心臓がドクンと高鳴った。

僕は……僕は、異性としてさやかのことを愛しているだろうか?
いや、愛しては、いないはずだ。

ごく短時間に自問自答を終える。

恭介にとってさやかは確かに大切な存在ではあった。
けれども恭介にとってのさやかはかけがえのない幼なじみ、それは家族に近い。

そんな好意の対象だった。


――心からの愛を、彼女に注いであげるよう努力してあげて。


……僕は、さやかのことを、一人の女の子として好きになることはできないのだろうか?

この疑問に答えるには、さっきよりもずっと長い時間が必要だった。

さやかがこんな風になってしまうまで、
彼女が自分にそういう好意を向けているだなんて考えたことがなかった。

しかし、さやかが大切な人であることは今も昔も確かだ。

だったらさやかの気持ちを知った今なら、自分にとって大切な人の一人である彼女を、
そういう目で見ることができるようになるんじゃないか?

さやかにこれ程の愛を注がれているということを意識するのは、
恭介にとって悪い気分ではなかった。

こんなにも誰かが自分を想ってくれるなんてことは、
普通誰にだって経験可能なことではないだろう。

僕は、ちゃんと彼女を愛することができるのか?

少なくとも、恭介の内心には、
幼いころから彼と深く繋がってきたさやかへの親しみがあった。

事故に遭って入院しているとき、
甲斐甲斐しく何度も何度も病室まで通ってくれた彼女。

それ以外にも彼女は僕に、ずっとずっと前から色々な温かさを与えてくれた。

それをいくらかでも返したい、彼女のために何かしたい。
そんなことを恭介は感じていた。


「恭介、恭介、恭介、恭介、恭介、恭介、恭介――」


そっと右手を、さやかの頬に伸ばす。
さやかの頬に恭介の手が触れた瞬間、さやかの連呼と愛撫が止まった。

キョトンとした顔のさやかが、恭介を見返している。
彼女の両手が恭介から離れ、ダラリと垂れさがる。

恭介が自分に何をしようとしているのかわからない。

しかし、それがどんなことであっても、
既に従順に受け入れる用意を整え待っているように見えた。

その無垢なさま、自分に何もかもをさらけ出している姿。
自分が何かそんな彼女に後ろめたいことをしているようだった。

さやかは僕のことが好きだ。

はたして僕は、異性としてさやかを見ることができるのか?

恭介は躊躇いながら、そっと右手を彼女の腰に回して、
少し力を入れて自分へと引き寄せる。

抵抗は全くなかった。

引き寄せたのだから当たり前のことだけれど、顔と身体が相当に近い。
彼女の規則正しい息遣いが聞こえる。

こちらが目を逸らしたくなるほど、さやかが真摯に目を覗き込んでくる。

その目の中、見慣れたはずの彼女に、いつもとは全く違うさやかが見える気がした。

さやかの見た目が可愛いということはずっと前から知っていた。

でもそれは、彼にとってそれ以上の意味を持ったことはなかった。
そこに自分の何かが入り込む余地はなかったから。

今は違う。

彼女は僕を、愛してくれていることがわかっている。
そこには、彼が受け入れる用意がなされている。

今までさやかを見てきて一度も感じたことのない気持ちが沸き立つ。
仁美と一緒にいた時、たびたび感じたドキドキが胸を疼かせている。

彼の両手が、小刻みに震えている。

空いた左手もさやかの背中に回してさらに身体を近づける。
そして、上半身を密着させ肩に顔を預けた。

さやかの着た服の感触が、柔らかく顔に触れる。
女の子らしい髪の毛が頬をくすぐる。

>>49 訂正

六行目
×そこには、彼が受け入れる用意がなされている。

○そこには彼を受け入れる用意がなされている。

母親はともかくとして、異性とここまで近づいた記憶が恭介にはなかった。

恋人だった仁美とは、まずはもっと互いに親睦を深めあう、そんな段階。

だから、部屋で二人っきりで身体を寄せ合い、
肩に顔を埋めるなんて関係には最後までなっていなかった。

仁美と言葉を交わす。自分にはもったいない人と恋を育む。

ヴァイオリンが何よりも第一な恭介にとっては、
それで十分恋人というものを満喫できていたのだ。

だけど、だけど…………。

恭介がふと気付く。

昔、さやかとなら幼いころに多分これくらいの密着をしたことがあるはずだ。

にもかかわらず、それは恭介がいま体験しているものとは全く違った意味を持つ体験だった。

さやかの身体から伝わってくる温かさ。
それに幼いころこんなにも心をかき乱されていたとは考えられなかった。

さやかの両手が恭介の背中に回る。

さやかの肩から恭介は顔をゆっくり離して首を曲げ、彼女の顔を見た。
さやかも恭介の目を凝視している。互いの息がかかるくらいに顔が近い。

開かれているのかどうか微妙な加減で、彼女の唇が静止している。


僕が望めば、彼女は何でも望みを受け入れてくれるだろう。


恭介には確信があった。

彼女はたとえどんな願いでも…………。


恭介が、勢いよくさやかの顔と向き合わないで済むよう首の向きを戻す。
そしてもう一度、さっきと同じようにさやかの肩に顔を預けた。

……自分の意思が定まっていないさやか相手に、明らかに僕は卑怯なことを考えている。

罪悪感に強く胸を締め付けられて、唇を噛む。


――心からの愛を、彼女に注いであげるよう努力してあげて。


心からの愛を、さやかに注ぐ。

心からの愛を相手に示す方法って、何がある?

そりゃあ、愛を示す方法と言ったら当然キス…………。

その日一番、心臓が大きく脈打つ。

それまでとは打って変わって強く、強く恭介はさやかを抱きしめた。
彼女もまた、それに応えて強く、強く抱き返す。

恭介は何か、違う選択肢を見出そうと自分の頭の中を必死に探った。

好きって言葉を口にして伝えるって方法がある。
これで全ては簡単に済むのではないだろうか。

しかし、言葉を伝えたところで、それがいったい何の証明になる?

心からの愛、特別な気持ちを誰か一人に示すには、
普通じゃない、特別な行為が必要なんじゃないか?

……いいや、ダメだダメだ。それをするのは早急すぎる。
今はまだ、彼女のことが異性として好きなのか、
好きになれるのかがはっきりしてないのに、なんてことを考えているんだ。

そんなはっきりしない気持ちで……………。


その瞬間、ようやく恭介は自覚した。

一つだけ、はっきりしていることがあった。

こうしてドキドキしたり、さやかとキスをしている自分とモラルを天秤にかけている時点で、
彼女を恭介が異性として見ることができるのは明らかだった。

さやかは僕のことが好きだ。

僕はさやかのことを好きになれるだろう。

あとは僕がどうするか、それだけが問題だ。

僕は…………。

いつの間にやら、さやかから少し離れて、恭介はまっすぐ彼女と向かい合っていた。

互いの背に回されていた互いの両腕は現在ぶらりと目的なく垂れている。

部屋に漂う色恋沙汰特有の緊張と静寂。

どれくらいの時間がそのまま流れたのか、恭介にはよくわからない。
ぼんやりと、今この状況で誰かが病室に入ってきたら困るな、とだけ感じていた。

さやかの後頭部に手をやる。

自分から顔を近づけ、迎えに行く。

さやかの眉と鼻、二つの蒼い目が自分に迫る。


その様子と経過をやすやすと恭介は想像することができた。





けれど、最後までやらなかった。


はぁ…………と、心から身体の底からのため息が恭介から吐き出された。


――心からの愛を、彼女に注いであげるよう努力してあげて。


あやうく取り返しのつかないことをしてしまうところだった。
さやかが僕のすることを受け入れてくれるかどうかは問題じゃない。

心からの愛、それを僕がまだ意識できていないのに、
キスをするなんてそんなのはおかしい。

やっぱりこんなことはもっと後になってから、
彼女のことをもっと異性として好きになれてからすべきことだ。

自分の考えをはっきりさせた思うと、すぐさまドッと気疲れが押し寄せてきた。

無抵抗なさやかにキスしようと思った。
それが言葉に尽くせぬほど恥ずかしく思えてきた。

さっきとはまた違う緊張、居心地の悪さが病室を支配しているような気がする。

ヴァイオリンの練習もしなくちゃならない。

明日もある。

今日はもう、帰ろう。

恭介が椅子から腰をゆったり上げた。


「さやか、今日はこの辺で僕は帰るよ。じゃあね、また明日」

「じゃあね」

さやかは嬉しそうに笑っていた。

その笑みは、病室でこれまで何度も恭介が見てきた笑みと一味違って見えた。
彼は思いがけなく赤面してしまう。

不思議な気持ちだった。

一秒でも早く一人になりたくて、この状態で彼女と顔を見合わせたくなくて、
さやかの方を再度見たりしないよう気を配りつつ恭介が急ぎ病室を出ていく。


さやかただ一人が残された部屋。


機械から流れる優しいヴァイオリンの演奏が、邪魔にならない程度の穏やかな大きさで部屋を満たしている。
ここではない場所、今ではない過去において恭介の手によって奏でられた音。

さやかが白いベッドの上で上半身を起こし、それに耳をそばだてていた。
そしてその視線は、何もない壁をにこやかに見つめていた。

終わり

恭さやかが絶滅危惧種化してたので、
ならいっそのこと叛逆後でこれなら恭介が仁美から移る話で自分が納得いくかなっての書きたかった
結果、叛逆見ててもそうだったけど恭介を無性にぶん殴りたくなった。

今後どうなるかについては、恭介と両想いになって、
悪魔ほむが予想外の形で復活更なる覚醒とかあったらいいなーくらいで特に考えてない。

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