透華「ハギヨシ」ハギヨシ「ここに」(304)


〈レモンと執事とお嬢様〉


「喉が渇きました」

「本日はレモンティーの用意をしてございます」

「まあ。素晴らしい手際ですわ、ハギヨシ」

「光悦至極」


ここまでがテンプレート。
泣く子も黙る龍門渕家のご令嬢透華と、執事萩原の日常の光景である。

透華は一度、満足げに頷く。
執事は二人掛けテーブルの小脇から、そっと手を伸ばす。
清潔な白いクロスの上に、ソーサーとカップが音もなく現れた。


「失礼いたします」


透華の肩口から、燕尾服の右袖が伸びてくる。
薄い白手袋の右手にはシンプルな意匠のティーポット。
こぽぽと小気味良い音を立て、上質な陶器に紅茶が注がれていく。
透華は穏やかな眼差しを、琥珀色の水滴にではなく、白布に包まれた執事の右手に注いでいた。


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『ハギヨシ。貴方、私の後ろから紅茶を注ぐようになさい』


作法通り主の右側から注ごうとする執事に、そんな駄々をこねて困らせたのはいったいいつのことだったろう。
以来、右肩の後ろに無上の安寧を感じることのできるこの時間が、透華にとってとても大事な一分間となった。

淹れたての紅茶を程よい温度まで冷ましてくれる厚手のカップ。
口許に運ぶ手前で一度止め、爽やかなスライスレモンの薫りをたっぷり楽しんでから、おもむろに唇を潤す。
透華はもう一度、先ほどより深く頷いた。
すると背後で執事が、小さく会釈する気配がした。

文句の付けようがありませんわ。
有難き幸せ。

無言の会話。
言葉に出さずとも伝わる、意思と感情。
心地よい沈黙にしばし身を委ねる。
カップの縁を人差し指でなぞる。
すぐさま二杯目が注がれる。
再び芳香に感じ入ってのち、ゆっくりと飲み干す。
右の手のひらを軽く挙げる。
陶器同士の耳障りな接触音など決して立てることなく、流れるようにカップとソーサーが目の前から消える。

透華は口の端をわずかに吊り上げると、目を瞑って弾力のある背もたれに身を投げ出した。


十分が経った。

二十分も過ぎただろうか。

そろそろ半刻になるかもしれない。

透華は不意に思い立って瞼を開き、視線を右肩の後ろに流す。


「いかがなさいましたか」


執事は紅茶を注いでいた時よりも三歩ほど後ろに下がってはいたが、それ以外は三十分前となに一つ変わらぬ様子でそこに佇んでいた。
彼が主の許しを得ず、透華の前から無断で辞去することは決してない。
それを知った上で透華は、なにも告げず午睡に興じた。

目覚めた時に、彼の常と変わらぬ柔和な微笑を、一番に視界に入れたかったからだ。

半刻もの間直立不動を保っていただろうに、執事の振る舞いは固さなどといった単語からはほど遠かった。
やはりその顔に湛える、柔らかな微笑のせいだろうか。
とってつけたようなところのまるでない、自然そのものの笑み。
ふとすると、つられて頬を綻ばせてしまいそうな、その表情。


(……それにしても、まあ)


自分の気まぐれで三十分待たされていた者の表情とも思えない。
いつだってそうだった。
いつだって彼は、自分の突拍子もない我儘を、最後にはあの笑顔で聞き入れてくれるのだ。


それが嬉しいと思うこともあれば、疎ましいと思うこともままあった。
自分と彼との間には、目に見えない溝が確かにある。
それをどうしようもなく思い知らされるようでイヤで、でもあの笑顔は見たくて、そんなジレンマ。


(……そうだ。いいことを思いつきましたわ)


だから時々、透華はストレスを発散する。
他ならぬ彼を使って発散する。


「ハギヨシ」

「は」

「そこに座りなさい」


二人掛けの小さな丸テーブルの、透華の向かいの席を指差して言う。


「少し、おしゃべりしましょうか」


従者としての職分を弁え、龍門渕への忠烈に生きる彼が、容易には首を縦に振れないような渾身の我儘。
第三者からすれば可愛らしい我儘を、精一杯の底意地悪い笑みで叩きつけるのだ。


こういう時に彼は、困ったように眉尻を少しだけ下げ、小首をわずかに傾げてやはり微笑む。
透華は内心で拳を振り上げる。
この顔が見たくて、困らせているようなものだった。


「執事として、主と同席するなど、大変畏れ多く。承服しかねます」


こういう時に彼は、決まって一度だけ抵抗のそぶりを見せる。
その抵抗のニュアンスから、透華は一旦通そうとした我を引っ込めるかどうか決める。
互いの距離感を測るための、ささやかな鍔迫り合いのようなものであった。

そしてこういう時に透華は、


「命令ですわ」


大抵の場合、この一言で押し通る。


「御意」


そして執事は腰を折る。
今日もお嬢様の我儘に負けて、小さく一礼するのであった。


龍門渕家の令嬢たるもの、あらゆる学識を修めていて当然である。
ゆえに透華の『おしゃべり』は、分野も国境もフリーパスで飛び越える。
政治、経済、文学、化学、民俗学、そして帝王学。
すべてにおいて追随してくる話し相手は、この屋敷で父と彼だけだった。

麻雀部の仲間たちとは、とてもではないがこんな会話は交わせないし、そもそも交わす気もない。
一たちは友人だ。
透華とて、年頃の娘らしく惚れた晴れたに花を咲かせたい時はある。
彼女たちに透華が求めているのは、等身大の友人像なのだ。


「ハギヨシ、今日は夕陽が綺麗ね」

「はい。薄くたなびく雲にも、また趣がございます」


透華と彼の会話も、いつしか他愛もない雑談へと移り変わっていた。
もとより透華は、こんなおしゃべりをこそしたかったのだ。
等身大の彼と、ただの友人の様におしゃべりしてみたかったのだ。


「明日は晴れるかしら」

「はい、おそらくは」

「ここのところこもりきりの衣を連れ出して、中庭でランチというのもいいかもしれませんわ」

「大変よろしいかと」

「庶民がなすところの『ぴくにっく』気分というものを、私も味わってみたいですわ」

「ビニールシートは倉庫に用意がございます」

「衣のサンドイッチは」

「トマトはシェフに言って、抜いておいてもらいましょう」

「……ふふ」


打てば響く、とはまさしくこのことだろう。
考えていることをただ垂れ流す相手として、この執事以上に適当な相手を透華は知らなかった。
返答は短くはっきりとしていて、出てくる言葉は率直だが、しかし相手の気分を害することがまったくない。
急激な話題の転換にも、無茶な振りにも完璧に対応する。
そして耳にしたことは、自分の胸の内だけにしっかりと仕舞いこむ。
ただ話しているだけで、己が内の迷いや悩みが整理され、解消されることすらあるのだ。


完璧だ。
単なるおしゃべり相手として見ても、やはりこの執事は完璧だ。


「ところでハギヨシ」

「は」


あまりに完璧すぎるから、逆に面白くない。
そんな理不尽な理由から、またも透華は決意する。


「貴方、恋人の一人くらいおりませんの?」


その完璧すぎる微笑に綻びを見つけて、自分だけのものにしてしまいたい。
そんな手前勝手な理由をつけて、またも透華は駄々をこねる。


「……この身は骨から血肉に至るまで、龍門渕家に捧げたものでございますれば」

「つまり?」

「恋人と呼べるような関係を持つに至った女性は、過去に一人もおりません」

「まあ、それはよろしくありませんわ。大変すばらくないことですの」


にやついた、悪く言えば少々お下品な笑みが、長野屈指の名家のご令嬢の頬にくっきり浮かぶ。


「いいですこと、ハギヨシ。貴方が将来娶るであろうご女性に対して、経験不足から来る失礼などあっては、それはひいては龍門渕家の監督不行き届きということになるのですわよ」

「は」

「いけません、まったくいけません。そんなザマでは男としてなっておりませんわよ、ハギヨシ」

「申し訳ございません」

「まったく。まったくしょうのない男ですこと」

「はっ。不才の身を、ただただ恥じ入ってございます」

「……しょうがない、ですから」


さあ、困れ。
困らせてやる
彼を困らせることができるのは、この世でこの龍門渕透華ただ一人だ。




「わた、くしを練習台にしても、構いませんことよ?」




執事はすっかり黙りこくってしまった。
透華、内心で渾身のガッツポーズ。
よおし、困ってる困ってる。


「こっ、うえいに思いなさいな、ハギヨシ。貴方の輝ける未来への第一歩を、より確かなものとするため、この私が相手をしてやると言ってるのですわ」

「お嬢様、少々お戯れが過ぎるかと」


抵抗一回。


「命令ですわ」


号令一下。


「……御意」


やはり執事は小さく一礼。


「では手始めに……透華、と。恋人にそうするように、呼びつけてみなさいな」


そして、三度叩きつけられた無理難題。
彼には逆立ちしようができるわけのないことだと、わかった上でそう言った。


「お嬢様……」


短く嘆息して吐き出された呟きは、抵抗ではなく懇願であった。

もう、このあたりにしてはおきませんか、お嬢様。

執事は言外に、滅多に覗かせない弱りきった相貌でそう告げている。
透華は思わず失笑した。


「ふふっ。冗談ですわ、冗談。長いこと付き合わせてしまいましたわね、ハギヨシ」


なるほど、このあたりが潮時だろう。
三度満足げに頷いた透華は、彼の苦笑を瞼の裏に再生しようと目を瞑り、


「下がっ」


下がってよろしい。
命を下そうとした。


「透華」


その瞬間だった。


「へえっ」


蛙の潰れたような、素っ頓狂な声が喉から漏れた。
見れば眼前に、いやに彫りの深い笑みを湛えた執事の姿が。


「透華……」

「ちょっ」


肩口を、優しく掴まれる。
優しいが、小娘に過ぎない透華に抵抗を許さないだけの力は、十分その掌に込められていた。


「待ち、お待ちなさい、ハギヨシ」

「なんでしょう」

「私は、下がりなさ」

「不肖ハギヨシ、いまだご下命を『すべて』聞き届けてはおりません」


下がりなさいと言ったはずです。
言い終わる前に、とんでもない屁理屈で逃げ道を封じ込められる。


「目を、つむっていただけますか」

「あ、いや、その」

「貴女は、私の恋人役なのでしょう?」

「それは、一時の戯れといいますか」

「しかし、ご命令でした」

「だからもうそれはいいと」

「透華」


耳元。
耳朶の裏でじわり滲む汗を、舐めとるように、ねっとりと囁かれた。


「ひあっ」

「……ご準備の方は、よろしいようですね」

「待って、待ってください。ごめんなさい、ハギヨシ、ふざけが過ぎましたわ。だから、どうか」

「透華、目をつむって」

「ダメ、ダメですハギヨシ、初めてがこんな、こんなぁ、私もっと、もっと本当は、正式なお付き合いを、ぅっ」


口では抵抗しながらも、透華は言われるがまま目を瞑っていた。
肩を握る彼の手に一層の力が加わる。
いよいよ透華は観念して、唇をきつく引き結んだ。
そして。


「――――あ」


ファーストキスは、レモンの味がした。
















そんな顔をされたら、辛抱効かなくなるではありませんか、お嬢様。

















「…………え?」


というか、レモンの味そのものだった。


「ふ、ふふ……ふっふふ。失礼いたしました、透華お嬢様」


透華の唇に押し当てられていたのは、スライスしたレモンの果実であった。


「~~~~~っ!」


声にならない声を上げて、弾力のある背もたれに身を投げ出す。


「大変失礼をばいたしました。しかしお嬢様、これに懲りましたなら」


執事はティーセットに紛れていた半分だけのレモンを、右の手のひらで弄びながら薄笑みを浮かべている。
それこそ先刻の透華などくらぶべくもないような、意地の悪い笑みだった。
透華は、気炎を上げて抗議する気にさえ、なれなかった。


「いい歳をした男を、あのような形で冷やかすのは御止しになることです、淑女としては」

「うっ」

「勘違いをされても仕様がないのですよ……あのような顔で、あのようなことを仰られては」

「……あのような、顔?」

「おや。お嬢様に置かれましては、お気づきではありませんでしたか。『練習台』の下りから以降、透華お嬢様のかんばせは」


一段、笑みが深まる。





「それはもう、本日の夕焼けのごとく、お美しい朱色にございましたよ?」




その後しばらくの間、透華は夕刻にかの執事を呼びつけることを、極力控えるようになったとか。


こんな感じのじれったい短編を不定期投下していく、オムニバスハギ透スレに私はなりたい
ご一読、ありがとうございました


「そしてお姫様は、勇者様に助け出されて末永く幸せに……あら」


ランプから仄かに漏れる、幻想的な薄明かりが少女の手元を照らし出す。
少女はキングサイズのベッドに寝そべって子供向けの絵本を朗読しているところだったが、なにかに気がついて口許に手を当てた。
無論、自分のために読んでいたわけではない。


「まったく、もう少しで大団円ですのに。辛抱効かないんですから、衣ったら」


少女の隣に並んで寝そべる、気持ち高めに見積もっても小学生としか見えない幼女。
彼女の寝物語としての役割しか持たない小さな小さな朗読会は、この別邸における夜の恒例行事であった。

うつぶせのまま、早くも枕を涎で濡らしはじめている稚い幼女――天江衣を仰向けに寝かせる。
自身も仰向けになって上半身を起こすと、少女は優雅に指を鳴らそうとして、


「……む」


不意にその行為を思い留まった。


部屋の角に置かれた姿見の前まで歩く。
寝間着の皺や頭髪の乱れを軽く直し、鏡の中の自分に向かって二度三度と笑顔を作る。
そんなことを十分近く繰り返して、ようやく少女は納得がいったらしい。
満を持して、優雅に典雅に指を鳴らす。


「ハギヨシ」

「ここに」


その瞬間、音もなく室内に現れる燕尾服姿の長身。
しかし少女は驚いた様子もなく、用件を手慣れた口調で言いつける。


「衣が枕を汚してしまいましたの」

「予備をお持ちしました」

「まあ。常ながら見事な働きですわ、ハギヨシ」

「有難き幸せ」


ここまでがテンプレート。
泣く子も黙る龍門渕家のご令嬢透華と、執事萩原の日常の光景である。



〈絵本と執事とお嬢様〉



「すう……すう……」

「まったく……これで私よりも早生まれだと言うのだから、世界はまこと、不思議と不条理に満ち溢れていますわ」

「それが衣様の魅力にございますよ」

「まあ、否定はしませんけれど」


健やかに寝息を立てる衣の豪奢な金髪が、真っ白なシーツにサラサラと流れる。
透華は同じ寝具に腿までもぐり、言葉とは裏腹にその金糸を慈しむように撫でていた。

まったく、この同い年かつ早生まれの従姉妹ときたら。
常日頃から散々お姉さんぶりたがる癖に、夜の甘えようといったら本職(?)の幼稚園児はだしである。
もっとも、そういうところも執事の言う通り愛らしくてたまらないのだが。
とかく、この天江衣という少女にはいたく母性本能をくすぐられるのである。


「しかし……」

「?」

「そうなさっていると、透華お嬢様の『母親』ぶりもまた、玄人跣にございますね」

「褒められているのかしら、それは? 私はまだ17ですのよ?」


「無論、拍手喝采褒め奉っております」

「どうだか。その言い草がまず怪しいですわ」

「ふむ。やはり不肖の口先ごときでは、お嬢様の筆舌に尽くしがたい美しさを、余すことなく表現するに無理がありましょうか」


透華はちょこんと唇を尖らせるが、本気で怒ったわけではない。
執事もそれをわかっているのか、オーバーに身振り手振りを加えて透華の美しさがどうのこうのと褒めそやす。
……なにやら無性に恥ずかしくなってきた。


「ああもう、わかりました。納得しましたの。だからその歯の浮くような口説き文句の羅列を引っ込めなさいな」

「おや、ご満足いただけませんでしたか」

「……まさか。そんなわけありませんわ」

「ふむ?」


満足しすぎて、パンクしそうなぐらいですの。

そんな本音を寸でのところで飲み込むことには成功したが、果たして眼前の執事に通用したかどうか。
見透かすような視線を向けてくる彼から意識を逸らすべく、手元の絵本を取り上げる。


「しかし、こうして朗読していると懐かしい気分ですわ。幼い頃は私も、よくお母様に読んでいただいたものです」

「王道の勧善懲悪ものですね。お嬢様によくお似合いでいらっしゃいます」


ページの端がところどころ擦り切れたこの絵本は、他ならぬ透華が幼少期に好んで読んでいたものだ。
悪い竜にさらわれたお姫様を勇者が救い出すだけの、捻りもなにもないストーリー。
それでも幼少のみぎりから派手好きで目立ちたがりだった透華には、絵本の中の勇者の金ぴかの鎧が、実にまぶしく輝いて見えたものだった。


「『そしてお姫様は、勇者様に助け出されて末永く幸せに暮らしました』、ですか」

「やはり物語はすべからく、ハッピーエンドでなければ締まりませんわね。そう思うでしょう、ハギヨシ?」

「はっ」

「……?」


ふと透華は、執事の表情に微かな違和感を覚えた。
彼の「はっ」を何千何万回と捉えてきた透華の耳には、今しがたの「はっ」もどこかぎこちなく聞こえた。


「ハギヨシ」

「はっ」

「言いたいことがあるのならば、遠慮なく申しなさいな」

「いえ、そのようなことは」

「命令です」

「……御意」


「実を申せば、私が幼心に最も深く感銘を受けたのは、ハッピーエンドの物語ではないのです」

「まあ。そのようなことを口籠っておりましたの? 私の器も狭量に見られたものですわね」

「申し訳ございません」


正確に言えば、執事は口籠ったわけではない。
付き合いの長い透華以外では、決して知覚できないだろう執事の気の淀み。
それを彼女が敏感に察しただけだ。
が、執事はそれを口には出さなかった。


「ま、別に構いませんけれど。それで、どんなお話ですの?」

「『泣いた赤鬼』、という児童文学をご存じでしょうか?」

「……ああ、なるほど。確かに私は、あまりああいった類の物語が好きではありませんわね」


『泣いた赤鬼』。
子供向けの絵本の中でも名作と呼ばれる一品だ。
名作ではあるが好みからは少々外れていたため、細かい話の流れはどうにも朧で――


「……最後に、赤鬼が泣いて物語が終わった、ということだけしか、覚えておりませんわ」


透華の記憶を補足するように、執事が要諦を掻い摘む。


『とある山の中に、一人の赤鬼が住んでいた。
赤鬼はずっと人間と仲良くなりたいと思っていた。
そこで、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てておいた。

しかし、人間たちは疑い、誰一人として赤鬼の家に遊びに来ることはなかった。
赤鬼は非常に悲しみ、信用してもらえないことを悔しがり、終いには腹を立て、せっかく立てた立て札を引き抜いてしまった。

一人悲しみに暮れていた頃、友達の青鬼が赤鬼の元を訪れる。
赤鬼の話を聞いた青鬼はあることを考えた。

それは、「青鬼が人間の村へ出かけて大暴れをする。そこへ赤鬼が出てきて、青鬼をこらしめる。そうすれば人間たちにも赤鬼がやさしい鬼だということがわかるだろう」という策であった。
これでは青鬼に申し訳ないと思う赤鬼だったが、青鬼は強引に赤鬼を連れ、人間達が住む村へと向かうのだった。

そしてついに作戦は実行された。
青鬼が村の子供達を襲い、赤鬼が懸命に防ぎ助ける。
作戦は成功し、おかげで赤鬼は人間と仲良くなり、村人達は赤鬼の家に遊びに来るようになった。
人間の友達が出来た赤鬼は毎日毎日遊び続け、充実した毎日を送る。

だが、赤鬼には一つ気になることがあった。
それは、親友である青鬼があれから一度も遊びに来ないことであった。
今村人と仲良く暮らせているのは青鬼のおかげであるので、赤鬼は近況報告もかねて青鬼の家を訪ねることにした。
しかし、青鬼の家の戸は固く締まっており、戸の脇に貼り紙が貼ってあった。


「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。ぼくはどこまでも君の友達です」


青鬼からの、置手紙であった。
赤鬼は黙ってそれを二度も三度も読み上げ、涙を流して泣いた。
その後、赤鬼が青鬼と再会することはなかった』


「そう、そんなお話でしたわね」

「確かに、えも言われぬ読後感は残ります。しかし、それがまた良いのですよ」

「ひねくれた子供でしたのねぇ、ハギヨシは」

「申し訳ございません」


執事は苦笑しつつも頭を下げる。
対する透華はと言えば、『泣いた赤鬼』に感化されてか、すっきりしない顔で唸っていた。


「以前に読んだ時も思ったのですけれど」

「『泣いた赤鬼』を、でございますか」

「ええ――どうして青鬼は、そこまでできたのでしょう」


――――もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。


「ただの友だちのために、『悪い鬼』の汚名を自ら被りに行くなんて……良いことをするならまだしも、私には理解できませんわ」


「そうですね。児童文学に整合性を求めるのも不毛ですが、やや不自然な描写にも感じます」

「赤鬼と青鬼の友情がわかるエピソードなど、挿入されていたらなお良かったと思いますわ」

「なるほど。青鬼の行動理由を補強すると」

「ええ。そうしたらこの物語も、もう少しばかり私のお眼鏡に叶う代物に、なったのかもわかりませんわね」


透華は薄い胸を張って、意気揚々と自説を語る。
見ようによっては傲慢そのものの振る舞い。
そうと感じさせないのは、彼女に生来宿る王者の気質ゆえか。


「さすがはお嬢様」

「でしょう? 気分がいいからもっと褒めなさいな、ほーっほっほ!」


執事は感服したように腰を折り、


「しかしそのようなことをなさらずとも、『泣いた赤鬼』をお嬢様にとっての名作に仕立て上げることは、十分可能かと存じます」


にこやかに、主の言を否定した。


途端に不機嫌になった透華をなだめつつ、執事は語る。


「要は、読み替えを行ってみてはいかがでしょうか……ということなのです」

「読み替え?」

「御意。赤鬼と青鬼の関係性が、『友』であるから不自然に感じるのでしょう?」


――――ぼくはどこまでも君の友達です。


「では果たして、どのような関係性ならばお嬢様にはご納得いただけますか? 青鬼にとって、赤鬼はとてもとても大事な存在だったのです。お嬢様が『青鬼』であらせられたとして、とてもとても大事な『赤鬼』とは、果たしてどなたになりましょう?」


透華ははっとして、隣で寝入る衣を見やった。
小さな唇から漏れる甘く微かな吐息は、この上なく愛おしい、『とてもとても大事なもの』だと思えた。


「その答えの一つが、『母の愛』なのではないかと、私は愚行いたします。母親というものは、我が子のためなら如何なる所業にも手を染めかねない……時に残酷で、しかしこの世で最も力強い生き物なのですから」


「赤鬼と青鬼は、親子でしたの?」

「まさか。これは一つの読み替えの仕方に過ぎません。家族、恋人、兄弟……どのように読み替えるかは本人の感性次第でございましょう。しかしこういった寓話を、読者が好き勝手読み替えるというのも、時には趣があってよろしいかと」

「趣があるかは……まあ、どうかしら」

「はは。ご納得いただけませんでしたか。これは残念です」


残念そうなそぶりなど億尾にも出さず、執事はそれきり口を閉じた。
代わって透華が口を開く。
おそるおそる、口を開く。


「ハギヨシ……貴方にとっての『赤鬼』は、どなたですの?」


しばしの沈黙。
結論から言うと、執事は珍しく主の質問に応えを返さなかった。
ただ、代わりに。


「私は『赤鬼』のためならば、『青鬼』になれますよ」


そうとだけ答えて、薄明かりの中微笑んだ。


透華は少しだけ悲しい気持ちになって、言った。
ランプの仄かな光が生み出す陰影が、この時ばかりは恨めしかった。


「そう。私には、『青鬼』と同じことはできませんわ」

「左様でございますか」

「だって私、悪者にはなりたくありませんもの。『赤鬼』にとっても私にとっても、もっといい手段があるはずですもの。ですから、それをひたすら模索するでしょうね」

「左様で、ございますか」

「ええ。左様ですわ」

「……そうですか」


彼と同じ感覚を共有できない自分が、透華は少しだけ、ほんの少しだけ、悲しかった。
勇者と姫には間違ってもなれない、私と貴方のこの距離感。
納得がいくようでいて、いかなかった。


「お嬢様は、それでよろしいのでしょう。とても、お嬢様らしい回答にございました」

「……そう」


それでも透華の瞳に映る執事は、とても満足そうだった。
青鬼もきっと、満足して旅立っていったのだろうな。
そう、意味もなく思った。


もっと短く話をまとめられる、そんな>>1に私はなりたい
次はもっと短くてもっとほのぼのしててもっとイチャイチャしてる、そんな話を目指しますね
それでは、ご一読ありがとうございました


〈昔の執事とお嬢様〉


「はぎよし、はぎよし」


名を呼ばれたことに気が付くと、少年は己が主の寝台に向かって、ぎこちない動作で跪いた。
小さな小さな、かわいらしいお姫さま。
乱暴に触れれば罅が入り、脆く壊れてしまいそうなほどに、儚く稚いプリンセス。
今の少年にとって、少女こそが唯一の存在だった。


「ここに」

「……ここ?」

「ああ、ごめんなさい。ここにいますよ、って意味です」


少女の幼さに、またその幼さを頭に入れていなかった自分に、覚えず苦笑する。
次の瞬間、自分と彼女の今現在の立場を思い出して、一つ咳払い。


「おほん。お嬢さま、いかがされました?」


夜の帳はとうに降り、闇が世界を覆っている。
月もない。
真っ暗な夜だった。
空はしとしとと涙していた。
窓の外からの仄かな銀青と、ランプが放つ淡い橙だけが、二人を照らすただ二つの標だった。


「はぎよし、ねむれませんの」

「またですか?」


少女は唇を尖らせて、だってしょうがないでしょう、と拗ねたようにこぼす。
幼さを存分に残す仕草が愛しくて、少年は我知らず表情を綻ばせた。
少女の額を、最高級の陶器を磨くより丁寧に、恭しく、撫でる。
指と指の隙間をこぼれ落ちていく、流麗な髪質が肌に気持ちよかった。


「僕は、お嬢様がお休みになるまで、ここにいますから」

「おてて、つないで、くださる?」

「うん……ええ、もちろん」


差し出された小さな手を握る。
柔らかな手。
ほのかな暖かさ。
雨の音。
愛おしさが募る。

少女は安心しきったように、瞼をゆっくりと下ろしていった。
少年は歌うように、瞼の向こうの瞳へ囁く。


「おやすみ、はぎよし」

「おやすみなさい、透華お嬢様」


短くまとめようとがんばったら短くなりすぎた、不思議!
それでは、ご一読ありがとうございました


〈執事とお嬢様と開かないドア〉


龍門渕透華には、嫌いなドアがあった。


「……ハギヨシ」


龍門渕の邸宅には、透華の自室と寝室がそれぞれ独立して存在いる。
自室には古今東西の書籍、色とりどりの調度品、最高級品のデスクなどが並ぶ。
一方で内扉一枚を隔てた寝室は、部屋の広さと裏腹に簡素そのものであった。

明り採りのための質素な木枠の窓。
白人の肌よりやや濃いベージュの壁紙。
天蓋付きのベッド。
美しい彫刻をあしらったマホガニー製の扉。


「ここに」


ドア。
開かないドア。
そう、このドアだ。
透華は、このドアが嫌いだった。


「入りなさい」


自室に繋がらない方の、廊下に面したドアである。
たった今その向こう側には、早朝早々の呼びつけにも、律儀に応えてすぐさま参上した、かの執事の姿がある。
ある、はずだ。


「承服しかねます。妙齢のご婦人の寝室に、無暗に男を上げるものではありません」


燕尾服姿の長身は、姿を現さなかった。
少女は驚いた様子もなく、ただひたすらに、空虚な眼差しで扉を見据え続ける。
あのドアが、なにかの間違いで開いてくれないか、と。
あのドアが彼の手によって開かれなくなったのは、いったいいつからだっただろうか、と。


「……そう」


命令です、入りなさい。
おそらく忠実な執事は、そう一言告げさえすれば、一拍間を空けてからドアノブを捻ったことだろう。
しかし、それだけはどうしてもできなかった。
彼の強い口調と、木扉の向こうから滲む無言の圧迫感が、それをさせなかった。

踏み越えてはいけない一線というものが、あるのです。

そう、たしなめられているような気がして、あと一歩を踏み出すことができなかった。


「ただいまメイドを呼んで参りますゆえ、お召し替えには少々お待ちいただきたく」

「そう、ありがとう」


二つ返事の生返事。
透華は穴が空くほど見飽きたドアノブを睨みつけながら、空想に耽っていた。

ドアが開く。
よく通る涼やかな声で、貴方が「おはようございます」、と笑いかけてくれる。

私は寝台にもぐり、二度寝の誘惑に負けたふりをする。
貴方は「しょうのない方ですね」と苦笑しながら、ライトグリーンのカーテンをさっと引く。

なにをしますのハギヨシ、眩しいですわ。
「おや、やはりお目覚めでしたか」、貴方がほんの少しだけ、意地悪く笑う。

私は拗ねて、もう一度寝具を頭から被り、駄々っ子のように身を丸くする。
貴方は呆れ果てて、でもそれを態度に出すようなことは決してなくて。
寝台に静かな足取りで歩み寄って、掛け布団からちょこんとはみ出した、私の金髪に失笑して。
そして最後には、昔の様に優しく、私の頭を撫でてくれる。

そんな空想。

そんな、夢。


「お嬢様、それでは失礼します。国広さんを呼んで」


脳内で繰り広げられていた空想は、現実時間にして五秒と経たぬうちに上映を終えたらしい。
妄想と現実が重なってぶれるその瞬間、軽い眩暈に頭が揺れる。
透華は彼の声に対し、反射的にこう返していた。


「待って」

「お嬢様?」

「そこにいて。まだ、そこにいてちょうだい」

「……御意」


扉の向こうで、執事が会釈をする気配。
透華はそれを確かめて、ベッドからゆっくり身を起こす。
ナイトテーブルの上の水差しも、壁掛けの姿見も無視し、ドアの前へ。

こつん。

温かみのある木製のドアに、軽く額を押し当てた。


「そこにいますか、ハギヨシ?」


「はい、おります」


声が聞こえる。
彼の、清冽な空気に淀みなく吹き抜けていく、涼やかな声が。


「いますわよね、ハギヨシ」

「はい、ここにおります」


彼の息遣いが、心臓の拍動までもが聞こえるような錯覚に、陥る。


「名前を、呼んでください」

「透華お嬢様」


そんなはずがないのに、ドアに押し付けた額から、ほんのりとした温もりを感じる。
彼に抱きしめられているような感覚に、脳が喜び肌が焦がれる。
紛い物の歓喜に、そしてそれに震える己に、涙が一筋頬を伝った。


「……しばらく、私の気の済むまで。このままで、いさせてちょうだい」

「承知、いたしました」


少女は一抹の寂しさを堪え、瞼をゆっくりと下ろしていった。
青年は抑揚のない声で、扉の向こうの熱へと囁いた。


「おはよう、ハギヨシ」

「おはようございます、透華お嬢様」


それでもドアは、開かなかった。


二つで一つのセット商品的な
ご一読ありがとうございました


ぽつ、ぽつぽつぽつ。
透き通る粒が重力に負け、遠くの地表に落ちては消える。


「あらやだ、雨ですの?」


私立龍門渕高校の玄関口を、今まさにくぐって家路につこうとした少女。
外を覆う薄闇に気が付いて、少女は短く息を吐き出した。
たった今、出てきたばかりの校舎を振り返る。


「一たちは……もう帰ってしまったでしょうし」


少女が所属している麻雀部は高校の部活動という体裁こそとっているものの、その実すべての活動が少女の邸宅で行われている。
部員はもう帰ってしまったことだろう。
なんとなく読書がしたくなって図書館に留まっていたため、放課からすでに一時間ほどが経過していた。
彼女らがいまだこの校舎内に残っている可能性は、限りなくゼロに近いだろう。


「ふうむ」


少女はほっそりした顎に手をやって、考え込むような顔をした。
と言うのも、少女は傘を持っていないのだ。

いや。
さらに言えば、常日頃から傘など一切持ち歩かないのだ。


なにしろ少女の登下校や外出は、二十四時間三六五日、専属運転手付きのリムジンによる。
今日とて50mほど歩いた校門の外では、見なれた送迎車が少女を待っているはずだ。

ざあ、ざあざあざあ。

だが雨粒に曇る天が下は、少女の視界を見事に遮っていた。
ぽつりと空を縦切った粒は大きく、近くの地面に落ちては弾ける。
門の向こうにリムジンが停車しているかどうかも定かではない。
係の者に電話を一本入れて、状況を知らせる必要があるだろう。


「……し」


しかし少女は、バッグの中の携帯電話を手に取ろうとはしなかった。
そもそも、少女が悩むことなどない。
傘を持ち合わせていないことに困る必要も、校舎に友人が残っていないことを嘆く必要も、なにもない。
一本電話をかけて、使用人なりを呼びつけさえすれば万事解決だ。
なぜなら少女はそういう環境に生まれ、そういう環境に育った人間なのだから。

しかし少女は、バッグの中の携帯電話を手に取ろうとはしなかった。
一つ、試してみたいことがあった。
先ほどから思索を巡らせていたのは、その試みに関することだった。
それは試みであると同時に戯れでもあり、


「――――ハギヨシ」


祈りであると同時に、願いでもあった。


ざあ。
ざあざあ。
ざあざあざあ。
雨音が大きく、長くなっていく。
時間だけがただ、無情に過ぎていく。

我ながら無駄なことをした。
少女は苦笑してかぶりを振る。
バッグの中の携帯電話を手に取ろうとした、


「……え?」


その時だった。

雨にけぶる視界の果てに、小さく揺れる影を見た気がした。
目を凝らす。
影の揺れは小さかった。
影はしっかりとした足取りだった。
影は少女よりも、だいぶ背が高いように思われた。
影は傘を差していた。
影は傘を差していない方の手に、もう一本の傘を握っていた。
影は――――


「ここに」


燕尾服姿の、長身だった。


少女は少しだけ驚いた様子で、しかしすぐさま、頬を綻ばせた。
少女が青年を見る目には、天地が逆立とうとも決して揺るがぬであろう信頼感が、ありありと滲んでいた。


「ハギヨシ」

「はい、お嬢様。ハギヨシ、ただいま参上いたしました」

「雨が降っていますの、ハギヨシ」

「傘をお持ちしました。門の外に止めたリムジンまで、お供させていただきます」

「まあ。いつもいつもご苦労さまですわ、ハギヨシ」

「光栄にございます」


青年は柔らかく微笑み、華やかな花柄の雨傘を差し出した。
少女は両手で傘を受け取ると、幼子を扱うように優しく、そっと胸の内に抱いた。


「……ありがとう、ハギヨシ」


ここまでがテンプレート。
泣く子も黙る龍門渕家のご令嬢透華と、執事萩原の日常の光景である。



〈傘と執事とお嬢様〉



ちゃぷ、ちゃぷちゃぷちゃぷ。

わずかに雨足の弱まった空。
いざ帰宅の途につかん――という段になって、透華が声を上げた。


「ハギヨシ。この傘、壊れておりますわよ」

「む?」


透華は石突を前方に向け、雨中に見事な花を咲かす。
しかし悲しいかな、花弁を支える親骨の一本が、真中で無残に折れ曲がっていた。


「これは…………申し訳ございません。私の不手際にございました」

「まあ、別に構いませんけれど。差せないということもないでしょうし」

「そうはいきません、お嬢様。恐縮ではございますが、私の傘をお使いいただきたく」

「そうしたら貴方はどうなりますの、ハギヨシ」

「リムジンまで大した距離ではございません」

「答えになっていませんわね」

「……しばしの間ではありますが、この身を雨ざらしといたします」

「なりません!」


詰め寄る透華に対し、執事の反応は冷静そのものだった。
右手を顔の前で小さく左右に振る。
たしなめるように、諭し聞かせるように、穏やかな口調で告げる。


「そう仰られましても。お嬢様の身を雨に濡らしたとあっては、執事の風上にも置けぬ失態にございます。これが旦那様のお耳に入れば」

「お父様は関係ありませんわ!」


だが最後に付け足した一言が、思わぬ藪蛇となった。
透華はますますムキになって仁王立ちすると、腕を組んでうんうん唸り出す。
執事は物言いたげな表情で、主の次なる言葉を待った。


「……そう、そうですわ。貴方の傘を、二人で使えばそれで済むことだわ」

「今、なんと?」


執事は思わず――この執事にしては大変珍しいことに――主の発言に対して聞き返した。


「に、二度も言わせないでくださいまし! その、所謂一つの、相合傘というものを、すればよろしいのではないでしょうかっ」

「……お嬢様」

「命令です」


執事は一度、長く嘆息してから瞼を閉じた。
透華はそれを、祈るような気持ちで見つめる。
自然と上目遣いになってしまうが、それを指摘する第三者は今この場にいない。

ちゃぷ、ぽつ。

どき、どき。

二つの音が混ざり合って融ける中、透華は唇を震わせ、執事の次なる言葉を待つ。


「御意にございます、お嬢様」

「っ、た」


ほっと胸を撫で下ろした。
というか、小さくガッツポーズすらとった。

しかし直後にもう一度、表情を引き締める。
挑むような眼差しで執事に向き直った。


「……あの、ハギヨシ。それと、もう一つ」

「はっ」

「今日は、歩いて帰りたい気分ですの」


「……はっ」

「どうせ、ここから屋敷までは、大した距離でもありませんし」

「それは確かに」

「いつもいつも迎えの車に頼っていては、健康にも、その、よろしくありませんわ」

「左様にございますか」

「ええ、左様ですわ……ですから」

「はっ」

「そういうわけで私、家路を歩くことにいたしますから。そ、その、傘は……あ、ああ、貴方が」

「不肖ハギヨシ、傘を持ってお嬢様の帰路のお供をさせていただきたく思います」

「……まあ、ありがとう!」


まだるっこしい問答の果てに、透華は軽く飛び跳ねた。
最後には根負けして腰を折った執事が、すぐに咎めるような視線を向けてくる。
良家の令嬢としてはいささか問題のある振る舞いだったが、なにもかもが些事だった。

空を見上げる。
相も変わらずの曇り空ではあったが、透華の心中は陰鬱とほど遠かった。


しと、しとしとしと。

霧雨とはいかぬまでも小粒になった水滴が、執事の支える雨傘を軽く弾く。
弾かれた粒は空中で跳ね、別の雨粒に打たれ、刹那空をさまよって、やはり落ちる。
アスファルトに吸い込まれる。
そして、消えていく。
透華はその様に、なぜだか言い知れぬ趣を感じて、暫時見入った。

執事は左の手で傘を持っている。
傘下の空間の右半分――――否、右三分の一ほどを己が領域としていた。

透華は右の手に学生鞄を提げ、数えるほどしか歩いたことのない道を行く。
傘の柄を握る彼の左手に、己が右肩を、擦り寄せるようにして。
二人で使うにはやや手狭な空間を無駄なものとしないため、右側に感じる体温に、心なしか寄り添って。

言葉はなかった。

依然雨は降り続いている。
多少弱まってきたとはいえ、この雨の中言葉を交わそうとすれば、少なからず声を張ることになる。
そうまでしてこの静寂を切り裂く気に、透華はなれなかった。
この風情ある情景を、無粋な言葉で壊したくはなかった。

なにより、言葉がなくても心地よかった。
かすかに肌を差す冷たさの最中、隣にある体温のあたたかいことと言ったら。
これさえあれば、他になにもいらない。
そう、なんの衒いもなく思えるほどに、隣の彼の温度が優しかった。


さあ、さあさあさあ。

空気に融ける雨粒がいよいよ、霧と見分けがつかないほどに細かく散ってきた。
その時唐突に透華は、傘のハンドルを握る執事の左手に関して、あることに気が付いた。


「ハギヨシ」

「いかがなされました」

「……いえ、なんでも」

「左様にございますか」


執事の左手がほんの少し、それと知って観察しなければわからないほどにほんの少しだが、左に傾いでいた。
この状態だと、その左手に握られた傘の中棒も、そこに貼り付いた傘布も当然左に傾く。
見れば執事の右肩が、しとしとと濡れそぼっていた。

そういえば二人が歩いているのは、公道の左側に備えつけられた歩道だ。
日頃透華がリムジンで通過する車道を、何台もの車両が飛ばしていく。
そしてその度に、タイヤに跳ねられた水滴が程度を問わず二人に降り注ぐ。
しかし透華には、一粒たりとも直撃しない。

なぜか。
執事が当然のように、車道側のスペースを我がものとして占領しているからだ。

そう指摘しようとしたが、やめた。
執事のささやかで細やかな心遣いを、したり顔で本人に解説することは簡単だ。
簡単だが、得るものがない。
こういった心配りは、黙って受け取っておくものだ。
だから指摘は、やめた。


だから指摘はやめて、代わりに。


「いつもいつも、ありがとうございます」


溢れるような感謝の気持ちとともに、ただ礼を告げ。


「――――さん」


彼の名を、呼んだ。
かつて少女が、毎日のように呼んでいた少年の名を。
密やかに、穏やかに、愛おしげに。


「――――」


執事は無言で目を細めた。
追慕するような瞳で透華を見た。
少女は絡め合うように、彼の視線そのものを見つめた。

しばらくそうしてから、二人は視界を遮る薄霧に向き直る。
そしてまた、二人の世界に静寂が戻った。


二人の短い旅路はその後、何事もなく終わりを迎えた。
並んで屋敷の門をくぐり、執事が玄関の大扉を開く。


「ただいま帰りましたわ」

「お帰りなさいませ、透華お嬢様。さぞお身体が冷えたことでしょう。湯浴みの準備ができてございます」


すでに執事から連絡が行っていたのだろう。
メイドがふんわりしたバスタオルを用意して、玄関ホールで主の帰りを待っていた。
透華は頷き、鞄をメイドに預けて長い廊下に一歩踏み出す。
湿気を含んで重たくなった豪奢な金髪を、なお颯爽と靡かせ闊歩する。


「お嬢様」


その背中に向けて、二本の傘を手首に提げた執事が不躾にも声を掛けた。
常にないことにメイドたちがざわつく。
かの執事らしからぬ不作法であった。


「どうしましたの、ハギヨシ?」


しかし透華は気分を害した様子もなく、優雅に踵を一回転させ、上機嫌に笑う。
執事も同様に、輝かんばかりの笑みをこぼし、一言二言。




「傘骨を手ずから折り曲げるような振る舞いは、次回からは謹んでいただきたく思います――――今回は目を瞑りましたが、ね?」



その後透華は一人で大浴場にこもり、しばらくそこから出てこなかった。
浴場担当メイドの話によれば、なにやら羞恥の念に満ち満ちた呻き声が、いついつまでも木霊していたという。


しんみりした空気もそろそろひと段落
イチャイチャ度合いをじわじわ加速させていきましょうかね
それでは、ご一読ありがとーごぜーました

乙です
ニヤニヤが止まらんなー


もし他にも書いてるのがあれば良かったら教えて欲しいな


>>89
【咲】ハギヨシ「有給休暇……でございますか」【安価スレ】

京太郎「咲と安価で」咲「ほのぼのしよー」
京太郎「咲と安価で」咲「ほのぼのしよー」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1351344036/)

いずれも安価スレですが、咲SSではこの二つとそれに続くシリーズだけですね
このスレとはだいぶ趣が異なるので、もしかするとお口に合わないかもしれませんけど
ちなみにですが、前者とこのスレにストーリー上の繋がりは一切ありません


ではぽつぽつ透華……投下していきましょう


〈婿と執事とお嬢様と嫁〉


木扉の向こう側から、低く落ち着いた声色が待ち人を呼ぶ。


「萩原、透華よ。入りなさい」

「はっ」


その言葉を待っていたかのように、執事は即座に眼前の扉のドアノブを捻った。
ノブを握ったまま、静かに二歩後退する。
背後の主よりも先に扉をくぐるような不作法など、青年が犯すはずもなかった。

右手で扉を押さえ、左手で主を促す青年。
透華は一瞬、ほんの一瞬だけ、彼を切なげな瞳で見据え、


「……失礼いたします、お父様」



父の私室の扉をくぐった。
透華の父といえばすなわち、龍門渕家の入り婿にして現当主その人を指す。
こうして定期的に開かれる、当主じきじきの帝王学講義。
執事たる青年も、その都度立ち会うよう命じられていた。


「……?」


ふと、奇妙な違和感に首を傾げたくなった。
青年は人気の失せた廊下を、意味もなく一望する。
それから自身も主の後に続いた。


執事が後ろ手に扉を閉めると、透華と当主は真剣な表情で言葉を交わしているところだった。
扉の脇へと静かな足取りで移動し、ひっそり佇む。
二人の集中を妨げないためであり、なおかつなにかしらの命が下った際、即座に動けるようにも備える。


「中東の情勢についてだが」

「私も幾らかは聞き及んでおります」

「いや、お前の情報はいささか遅い。そういうところが手ぬるいと言うのだ、透華よ」

「……申し訳ございません、お父様」


この親子の会話内容は、実に多岐に渡る。
龍門渕家の次期当主となることがほぼ確定している透華に対し、己が持つすべてを授けようとする当主の情熱は、執事にもよく伝わってきた。
間近で薫陶を受ける透華はなおさらだろう。

その証拠に、どれだけ厳しい言葉を投げかけられようと、透華が父との対話から逃げ出したことは一度もなかった。


「……いや、すまん。少し言い過ぎたな。謝るほどのことでもないぞ、透華よ」

「まあ。お父様の方こそ、頭を下げることなどありませんわ。非があるとすれば、私の未熟が責められるべきであって」

「いや、私が」

「いいえ、私が」


執事は鉄面皮を維持したまま、心の中だけでクスリと笑みを零した。
なんとも微笑ましいやりとりである。

龍門渕の父子は一時期、衣の扱いを巡って対立していたことがあった。
衣の『力』を恐れ、彼女を軟禁しようとした当主に対し、透華が真っ向から異議を唱えたのである。

当主の側にもそれなりの事情はあった。
しかし、透華の心底から出でた優しさも、無碍に扱うことはできなかった。
あの頃は使用人一同、どちらかに露骨に肩入れすることもできず、対応に苦慮したものだ。

雪解けは初夏の風とともに、満月の夜がもたらしてくれた。


『麻雀って、楽しいよね』


あの満月の夜以来だ。
あれ以来、衣の中でなにかが変わった。
そして当主も、なにかしら感じるところがあったのだろう、衣への態度を軟化させた。
空気の沈滞しつつあった龍門渕の屋敷にも、徐々に爽やかな風が吹き抜けるようになっていった。


「お前の我儘ならすでに聞いてやっただろう、透華よ」

「まあ、我儘などではありませんわ! これは正当な報酬というものであってですね!」

「まったく、あれに似てるのは外見だけだな。困ったものだ」

「まったく。本当にお父様は、お母様のことが大好きで困ってしまいますわ」

「なっ!」

「名家の主たるもの、後妻の一人や二人娶ったところで、誰も文句は言わないでしょうに。ねえ?」


こうして親子が、和やかで穏やかな談笑を送れる程度には、なにもかもが回復した。
青年はしみじみ、そう思う。

元来、仲睦まじい親子だったのだ。
透華は豪奢で居丈高とした外面とは裏腹に、母性に溢れる優しい少女だ。
若かりし日は東京で実業家として名を馳せた透華の父とて、家族への愛情を日々の安らぎに変えて汗水流す、どこにでもいる普通の父親なのだ。

そんな二人の主を、青年はこの上なく敬愛していた。
こうして、ごく普通の親子として触れ合っている二人の姿が、我が事のように嬉しかった。


「んんっ、ごっほん。話を戻すぞ、透華」

「はいはい」

「『はい』は一度でよろしい」

「『はい』。申し訳ありませんわ、お父様」


話題に軌道修正が掛かったことを確認して、執事も思考回路を切り替える。

主の瞳は己が瞳。
主の鼓膜は己が鼓膜。
主の思考は己が思考。
主の心臓は己が心臓。

執事たるもの、目にし耳で拾ったすべての情報が、いずれ主の役に立つ、と想定して行動するべきである。
ましてやそれが二人の主による会話ともなれば、その重要性は論を俟たない。

ゆえに青年は、表面上は涼しげな態度を保ったまま、全神経のほぼ九割を二人の会話内容に割くのであった。


最後に一言二言、龍門渕家の主としての心構えを説き、親子の対話は終わりを告げた。


「行ってよろしい」

「はい。貴重なお時間を割いていただき感謝の言葉もございませんわ、お父様」

「うむ。ではまた、晩餐の席でな」

「……はいっ」


透華は優雅に一礼すると、軽やかな足取りで父の前から去ろうとする。
結局室内に入ってから、一言たりとも発言しなかった執事を一瞥した。
青年は主の意を即座に汲みとって、ドアノブに手を掛ける。

王者であることを選んだ少女と、従者であることを選んだ青年。
二人にとってごく当たり前のかたちが、そこに有った。


「……行きますわよ、ハギヨシ」

「御意」

「待ちなさい」


その時だった。


「萩原は、残れ」


大気を押しのけるような低いバリトンが、少女と青年の間に割り込んだ。


目に見えて動揺した主を素早く、さり気なく室外に導く。
電光石火の早業で少女を送り出してのち、青年はもう一人の主に向き直った。


「萩原、こちらに来なさい。机の前までだ」

「はっ」


青年は雇用形態の上では、龍門渕家に雇われた執事だ。
事実関係上では透華に使える執事であり、その透華から衣の側仕えとして派遣されていたとしても、最終的には『龍門渕家の執事』なのだ。
青年が服する指揮権の最高位は、眼前の壮年の男性のものである。


「いかがなさいましたか、旦那様」

「うむ……」


その最高指揮官殿が、なにやら深刻な表情で手のひらを組んでいる。
椅子に前屈みとなって腰掛け、組んだ手のひらに額を預け、唸っている。

さしもの執事も背中に一筋、冷たい汗が流れ落ちるのをこらえられなかった。
さりとて、表情に内心の動揺を1ミリたりとも滲ませないよう努めることも、また執事の嗜みである。
そのまましばらく、待つ。


こち、こち、こち。
執事から見て左の壁際に置かれた、大きな柱時計が時を刻む。
精緻なリズムで今と過去を隔てる針音がこち、こちとなる。
その音を、自らの心臓の拍動と同期させるかのように吸いこんでいるうち、次第に青年も平静に返ってきた。
無論、表情は微動だにさせていないのだが。

一方で透華の父は、いまだうんうん唸っている。
そうしていると娘にそっくりだ。
新鮮な発見に執事は軽く口の端を吊り上げる。
だが当主は、その微笑にすら気付いた様子はなかった。


「萩原よ」


秒針が九十回ほど音を立てた時だった、と後に執事は回顧する。
一分半。
口に出してみると大した長さでもないが、当主にとっては苦悶に満ちた一時であったに違いない。
それほどに男の口調は重々しく、緊張を露わにしたものであった。


「お前に、聞いておかねばならんことがある」

「私に務まることでございましたら、なんなりと」


青年も自然、居住まいを常より一段二段引き締めて、軽く腰を折る。
赤誠を誓った主の、重く苦しい苦悶を我がものとして背負えるのだ。
執事たるもの、それをもって我が身の喜びへと変えるべきである。

概ねそのような心持ちで、青年は主の次なる言葉を待った。


しかし、当の主の次なる言葉は、



「透華を、どう思う?」



まったく、想定の埒外の死角から繰り出された、いわば奇襲であった。


執事はそれでも、反射的に言葉を返した。
我ながら表彰台ものの脊髄反射だと思った。
ここで黙り込もうものならば、あらぬ『他意』を疑われる危険性もあったのだから。


「お嬢様は、美しく、純心で、素晴らしい女性にございます」

「より具体的には、どういうところがだ?」

「齢十七にして、すでに覇者の風格を備えてございます。下々の者を有効に、手足のごとく使役するその振る舞い。それでいて、慈しみも決して忘れないお優しき心。凛としたお顔。どこへ出しても恥ずかしくない」

「それは、『奥』あるいは『当主』としての透華だな」

「……はっ」

「そうではなく、だな」

「衣様に寝物語をお聞かせになる際の、お嬢様の慈愛に満ち溢れた表情。旦那様に置かれましては、ご覧になったことがありましょうか? 在りし日の奥様を思わせる、柔らかかつたおやかなお顔は」

「それは、強いて言えば『母』としての透華だな」

「…………はっ」

「いいか萩原。私はこの場で、しかと問うておくぞ」


そう前置いた当主は、名家の主である以前に一人の父親であった。
青年は一介の執事であることだけは忘れずに、彼の言葉――心なしか糾弾にも似た――を聞き届けようと身を強張らせた。


「『女』としての透華を、どう思っている?」


「透華お嬢様は美しく純心で素晴らしい女性にございます」


こち。
秒針が一回空気を震わす前に、青年は刹那で答えていた。
そして、それ以上のことはなにも言わなかった。

否、言えなかった。


「……そうか。下がってよいぞ」


当主は諦念の入り混じった声色で、執事に退出を促した。
心なしか声と眼差しに、娘のそれとよく似た慈しみが漂っていた。
優しい人だ、と青年は思った。


「はっ」


敬意を込めて深く一礼し、踵を返す。
同時に次なる任務を、脳内のスケジュール帳から手繰った。
執事の思考回路はすでに、彼方の新たな戦場へと遷り変わって


「ああいや、待ちなさい。あと一つだけ」


足を止めた。
踵を回す。
主の言葉を待った。
切り替えかけたスイッチの撃鉄が、一瞬にして引き戻された。


「お前、疑問に思ったことはないか」

「と、仰いますと」

「どうして私が、透華に帝王学を叩きこむ際、わざわざお前を伴わせるのか。この命題についてだ」


透華の補佐役として、透華が如何様な成長過程を辿り、近い将来彼女にどのような情報が必要となるのか。
それを取捨選択するよう、執事は当主に試されている。

そのような意味の自己解釈を告げると、男はあからさまに長嘆した。


「……お前も、大概クソ真面目な男だな。萩原よ」

「恐悦至極にございます」

「褒めてはおらん」


哀れむような眼差しの意味が、残念なことに青年にはとんと理解できなかった。
主の意図を汲みとれない執事に存在意義はあるのか。
斯様な命題に青年が没入しかけたところで、透華の父たる男が軽く手を振った。


「まあ、お前らしい解釈の仕方ではある。そういう男だからこそ、私も透華を任せる気になったのだしな」

「恐悦至極にございます」


二度目の会釈は、脊髄反射で飛び出した。
つくづく執事とは因果な生き物である。


「実を言えば、これは透華のわが……頼みなのだ」

「お嬢様の、でございますか?」

「うむ。さらに言ってしまえば、お前たちを部屋に入れる際の、あの一言」


――――萩原、透華よ。入りなさい。

今日、この部屋に踏み入る直前、青年が違和感を覚えた一言だ。


「どこか、おかしくはないか?」


執事は答えなかった。
主の言葉の意味を、わかってはいたが、答えなかった。

理由は二つ。

執事たるもの、みだりに主の言を否定すべきではない。
仮に主自身が否定した言であったとしても、執事の否定は婉曲表現に終始するべきだ。

そしてもう一つは、『どこがおかしいのか』は理解できても、『なぜおかしくなっているのか』は理解が及ばなかったからだ。


「私はあえて、意図的に、このような順序でお前たちの名を呼んだ。己が娘の名前よりも先に、なぜか執事の名を呼んだ。なぜだろうな?」


それもこれもすべて、透華の頼みだからだ。
透華のささやかな夢を、叶えてやりたかったからだ。

そう締め括ると、当主は試すような視線で執事に退去を促した。
この謎かけの答えには、自分で辿りついてみろ、ということらしい。


「御意」


青年は深々と頭を下げながら、そう返すので精一杯だった。
龍門渕の家人ならば誰もが認める明晰な頭脳が、一歩を踏む間にフル回転する。


――――萩原、透華よ。入りなさい。


(ふうむ……?)


しかし、まるで思い当たるところがない。
本人に智慧者の自覚がないとは言え、さすがにこの命題には手こずらされそうだった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


龍門渕透華は寝室で、枕に顔を押し付けながら、広いベッドの上を左右に転がっていた。
父の言葉を耳の奥で反芻しながら、蕩けた表情で伸びていた。


――――萩原、透華よ。


「んふ、んふふふふふふ」


不気味、としか描写しようのない、しまりのない顔でニヤつく。
一応人は遠ざけてあるが、誰かに見られたらと思うと憤死ものである。
だがそれでも、少女は笑う。


「はぎわら、とうか。はいりなさい、ふふ」


ぎゅっ。
ベッド脇のぬいぐるみを抱きしめて、にへらと幸せを噛みしめる。
件の稚い従姉妹に負けず劣らず、このお嬢様も大概少女趣味であった。


「んふふふー♪」


――――萩原、透華。


「はぎわらとーか、はぎわら、とーか……うふふっ」


萩原、透華よ。

萩原、透華。

萩原透華。

要するに、そういうことだった。


「きゃっ。も、もう嫌ですわお父様ったら、気が早いんですからー!」


こんな他愛のない言葉遊びで幸福を得られる程度には、龍門渕透華という少女は純心であった。


とーかキモかわいいよとーか
今回はハギ透を応援し隊、メンバーその1にしてリーサルウェポンたるお父様にご登場願いました
本人の知らないところで外堀が埋まっていくね(ニッコリ

ではご一読いただき、ありがとうございました

とーか可愛いよとーか
次はころたんから見た二人を淡々と語らせよう(提案)


「とーかに彼氏なんてできるわけないよ」


龍門渕家付きのメイド国広一は、常々そう嘯いている。

少々込み入った事情からどん底にいたところを救われて以来、一は主君を慕っていた。
メイド仲間から「国広くんって、わりとガチのアレだよな」などと揶揄されたこともある。
本来異性に向けられるべき思慕の情が入り混じっていることを、一自身否定する気はなかった。
崇拝や崇敬に近い念、と呼んですら過言ではないだろう。

国広一は愛するお嬢様に近づく男の存在を許さない。
というか、女の存在すらある程度までしか許容していない。


「こんなところかな? ね、ね、どうかな萩原さん?」


そんな一にとってただ一人の例外。
それがたった今、隣に立っている長身の青年だ。


「大変御上手ですよ、国広さん。後はもう一度オーブンにかけるだけです」

「ありがとね、萩原さん。それにしても意外と手間なんだねぇ、この焼き菓子」

「慣れれば一般家庭でも簡単に作れますよ。しかし国広さんは覚えが早い。この出来ならば、必ずやお嬢様にもお気に召していただけましょう」

「……へへ」


使用人用の食堂を一望することも可能な、巨大キッチンの最前列。
下準備を済ませて生地をオーブンにかけると、一はようやく一息入れた。
一のたっての頼みということで、彼女の主の好物である焼き菓子の作り方を、かの執事にご教授願ったのである。
本来執事に茶菓子製作スキルなど求められるはずもないのだが、


「執事の嗜みにございます」


この一言で片付けられてしまった。
そもそも一の側にしても、この執事に聞けばなんでも教えてくれるだろう、という正しい偏見が頭にあったことは間違いないのだが。

ともあれ、これで午後のお茶会に出すには良い塩梅だ。
一がホクホク顔でオーブンを覗いていると、


「ハギヨシ」


パチン。

どこかで指の鳴る音が聞こえた。


「国広さん、失礼します」


一の視界の端で、燕尾服の裾がたなびいた。
鴉の濡羽より鮮やかな黒が瞬いたかと思うと、執事の姿は雲のごとく掻き消えていた。


「ここに」


視線を声のした方向に落とす。
数十と並ぶ長テーブルのうちの一つを前に、簡素な椅子に腰掛け優雅にくつろぐお嬢様の姿があった。

一は距離が離れているのをいいことに、思いきり頬を膨らました。


(ふんだ、バカ)


これ見よがしだ。
実にこれ見よがしである。

あの執事がその気になれば、遠く離れたお嬢様の自室から呼んだとしても、駆け付けることなどいと容易い。
それを知っておきながらあのお嬢様は、わざわざ衆目のある食堂まで出向き、指を鳴らして彼を呼んだのだ。

実に、実にこれ見よがしの見せつけであった。
目立ちたがりの透華らしい、と言ってしまえばそれまでの話ではあるのだが……


「小腹が空きましたわ。あと、喉も」

「国広さんがビスコッティを焼いている最中にございます。コーヒーをご用意いたしますので、しばしお待ちを」

「まあ。相変わらず完璧な仕事ですわ、我が家の使用人たちは」

「恐悦至極にございます」


ここまでがテンプレート。
泣く子も黙る龍門渕家のご令嬢透華と、執事萩原と、


「…………むう」


ついでにメイド国広一の、日常の光景である。



〈一と執事とお嬢様〉



「あら、なかなか面白いことを言いますのね」

「お嬢様には敵いません」


ちり、ちりちり。

生地の焼ける音をBGMに、綺麗に片した調理台に頬杖を付く。
国広一は彼方の光景を、なんとなしに眺めていた。
お嬢様は時折紅茶に口を付け、執事は時折カップにおかわりを注ぎ、めいめいの姿勢で世間話に花を咲かせている。


「ちぇっ」


つまらない。

つまらないというのは第一に、向こうの二人が談笑を交わす、その内容がだ。
やれ石油の値段がどうの、日銀総裁がどうの、宗教改革がどうの、緩和規制がどうの。
一には到底理解の及ばない次元の会話である。
なぜあの小難しい話題で、ああまで楽しそうに語り明かせるのだろう?

もっとこう、天気がどうとか食事がどうとか、やりようはいくらでもあるだろうに。
どうにも一には、そのあたりが不思議でしょうがなかった。


八つ時に差しかかり、食堂内には休憩中のメイドの姿もちらほら見受けられる。
だが誰一人として、透華の世話を焼こうと動き出す者はいない。
主の顔を視界に入れて会釈をする者こそおれど、それ以上のことはなにも起こらない。

かの執事が側仕えをしている以上、彼に劣る技能しか持たないメイド連中が横槍を入れても仕方ない。
それが理由の一つではある。
しかし、最大の理由は別だ。


「透華お嬢様」

「もう、ハギヨシったら、ふふ」


あの笑顔だ。
あの空気だ。
あのあたたかさだ。
余人の割って入りがたい、柔らかく優しい風があの場に漂っているからだ。

あのふわふわした空気に躊躇せず飛び込んでいけるのは、衣ぐらいのものだろう。
現に一とて、理由もなくあのテーブルに近寄る気にはなれなかった。
好きな人のとびきりの笑顔を間近で観賞するチャンスにも関わらず、なんとなく躊躇われてしまうのだ。
そのあたりの事情もまた、一の気分を「つまらないつまらない」と沈みこませる一因となっていた。

チン。

胡乱な顔つきで目線をさまよわせているうちに、どうやら『理由』が完成したようだ。
ため息をまた吐いて、一は背後のオーブンに向き直った。


「失礼いたします、お嬢様。焼き菓子をお持ちしました」

「あら、待ってましたのよ一! さあさ、それではいただきましょうか」


バスケットに詰め直した固焼きビスケットを前に、透華が一オクターブ高い歓声を上げる。
透華は一口大に裁断されたビスコッティを細く長い指でつまみ、カップを満たすカプチーノにちょんと浸けた。

イタリアはトスカナ地方の郷土菓子ビスコッティは、語源を「再度(ビス)焼いた(コット)」と言うように、二度の焼成を行う点に大きな特徴がある。
水分は製作の過程でほとんど飛び、そのままでは食べるのにも苦労するほどだ。
そのためコーヒーやワインに浸して食べるのが習慣となっているのだが、この組み合わせが透華にはいたくお気に召したらしい。

素朴な小麦粉の甘さ。
生地に練り込まれたアーモンドの香ばしさ。
上質なコーヒーの味わい。

上流階級の人間が、有難がって口に入れるほどの代物では決してない。
ないのだが、それもまた透華の「らしさ」だと一は思っていた。
注目を集めるのも見栄を張るのも好きなくせして、こういうところで変に気取ったりしないのが、龍門渕透華という変わり種のお嬢様の魅力なのだ。


「……美味しい。今日も見事な出来栄えですわ、ハギヨシ」

「お嬢様。本日のビスコッティは一から十まで、国広さんの手による一品でございますよ」


「まあ! それは本当ですの、一?」


唐突に水を向けられたことに息を飲むが、どうにか一は受け答える。


「はい、お嬢様。お口に合いましたでしょうか?」

「それはもう。ハギヨシお手製と較べても遜色ないこの味、この色、この香り。すっかり騙されてしまいましたわ」

「ここのところ国広さんは、料理の腕に磨きがかかっておりますね。努力の賜物かと」

「……え、へへ。そんな、大げさなものじゃ」


言いながら、にへらと頬が緩むのを止められなかった。
褒められた。
大好きな人に、褒められた。
そう脳内で反芻するだけで、天にも昇る心地がした。


「どれ一、席につきなさいな。ちょっと麻雀について、おしゃべりでもしたい気分でしたの」


それと同時に、透華の中でスイッチが切り替わったのを一は感じた。
思わず執事の表情を窺う。
彼はにこりと笑みを深め、確かに一に向かって一度、こくりと頷いた。

「メイド」を休憩する許可が出た、ということだ。


「やった! それじゃあ前回の対戦の、オーラスでの透華の待ちについて一言」

「あら一、私の華麗なる単騎待ちにケチをつけるつもりですの?」

「いやあ、そりゃ付けるに決まってるじゃん。だいたいその前の局だって……」


その瞬間から透華と一の関係は、「主」と「メイド」から「友人同士」に早変わりした。
傍らの執事と一もまた、「上司」と「部下」から「執事」と「主の友人」になる。


「国広『様』、コーヒーをどうぞ」


つい先ほどまで自然な調子で会話に混ざっていた執事は、これまた自然な仕草で三歩下がった。
龍門渕透華の右斜め後ろ。
そこが執事の定位置だった。


(……そうだっ)


笑顔で執事に礼を告げようとして、一にはふと、思い付いたことがあった。

デジタル打ちの功罪について演説していた透華を片手で制止する。
傍らの執事の表情を視界の端に捉えながら、百八十度回って急降下爆撃。


「透華はさ、いつになったら彼氏とかつくるの? あるいは婚約者とか。旦那様に聞かされてないの?」

「んっ、ごほっ!!」


劇的な反応は透華の側のみ。
一の望んでいた「もの」が覗くことは終ぞなかった。

派手に咳きこむ透華に対し、すかさず執事が清潔なハンカチを差し出すが、


「さが、下がりなさいっ、ハギヨシ!」

「しかしお嬢様、お咳が」

「いいから下がってなさい! 命令ですわ!」

「……御意」


執事は主と一に向かって一礼すると、滑るように食堂を立ち去った。
この間実に14秒。
透華が噴き出してから執事がドアをくぐるまで、14秒。

圧巻の早業に、事態を仕組んだ一の方が呆然としてしまった。


「ご、ほっ。んん、んんんっ!」

「……あのさぁ、透華」

「なんですの、ん、っふん」

「とーかって、意外とヘタレだよね」

「ごふっ!!」


「せっかくさー、人が外堀を埋める方向に話を持ってってあげようとしたのにさー」

「そ、そ、外堀とはなんのことですの!?」

「これじゃあとーかに彼氏なんて、夢のまた夢だよね」

「人の話を聞きなさい!」


一は白けたような表情を張り付けて、カップに残ったコーヒーをそっと啜る。
不測の事態に弱いお嬢様が、耳まで真っ赤にしてなにごとか喚いている。
だが無視。
すべて無視。


「こうなったら恋愛結婚は諦めて、旦那様の方から話を持ち込んでもらうのが早いかなー」

「な、ななななな」

「旦那様も萩原さんの働きぶりは高く評価してるだろうしー。というかこの屋敷で萩原さん以上の評価をもらってる人なんて、まずいないだろうけどね」

「な、なにが言いたいんですの!」

「もしかしたら透華、明日にも旦那様に呼ばれて、『萩原を婿にとりなさい』、とか言われちゃうかも……きゃー!」


頬に手を当て身をよじる。
わざとらしいことこの上ない「歓喜の声」だったが、今の透華を焚きつけるには十分だった。


「いい、加減になさいなッ!!」


柳眉が憤怒に歪み、よく通る吼声が一を貫く。
しかし糾弾における肝心要、一を睨みつけるその瞳が涙に潤んでいては、迫力も半減というものだった。


「私は別に、ハギヨシのことなど、なん、なんとも思っておりませんわ!」


握り拳を震わせ、肩を弾ませ、盛大にどもる。
で、おまけに瞳はうるうる。
よもやこのお嬢様は、これで己の恋情を隠し切れているつもりなのだろうか。


「へー、そうなんだ。とーかは萩原さんのこと、異性として好きなんだと思ってた」

「そっ、そんなことを言った覚えはありませんわ!」


それはもう、言った覚えはないだろう。
しかし口に出さずとも本心を雄弁に語ってくれる器官を、人間という生物はいくつも有しているのだ。

例えば、二人きりの時の穏やかな眼差し。
例えば、二人きりの時の弾む声色。
例えば、二人きりの時の頬の火照り。


百の言葉よりなお雄弁に、少女の純情を如実に表すサインの数々。
屋敷の人間ならばまず間違いなく全員が、透華の切なく甘い恋心を承知しているはずだ。


「その、ハギヨシは、私が幼い頃から傍にいてくれた、唯一の同年代の話し相手で」


だというのにこのお嬢様と来たら、もう一つ自分の気持ちに素直になれない。

自覚がないはずがない。
あれでないとは言わせない。
他人に堂々と公言できる域には達していない、と見るべきだろうか。

一が色恋話など振ったのも、そんな透華にちょっぴり腹が立ったからだ。
奇術師時代に培った巧みな心理誘導テクニックを駆使し、あわよくば大胆告白まで持っていければ……
すべては想定を上回るお嬢様ヘタレっぷりの前に、哀れ瓦解する羽目と相成ったが。


「だからその、恋愛感情なんてなくて、単なる兄のような存在で」

「……ふうん。お兄さん、ねぇ」


はっきり言って一は不機嫌だった。
原因はいろいろとあるが、とにかく不機嫌だった。
実を言えば今日、透華が食堂で指を鳴らしたあの瞬間から、すこぶる不機嫌であった。


「ねえ、透華」

「……な、なんですの」


だから一は、第二案としてささやかな復讐を決行に移すと、そう決めた。

これぐらいのことは許されてもいいはずだ。
そう自分に言い聞かせながら。


「透華があんまり意地張ってもたもたしてるようなら、ボクにも考えがあるからね?」


にっこりと、飛びきりの笑顔を形づくる。
多分に威嚇の意味合いを込めた笑顔だった。

透華が椅子に座ったまま、たじろいだように腰を引く。
逃がさないとばかりに、一はぐいと上半身を乗り出す。


「は、一……?」


一は挑戦的な眼差しで、海を思わせるコバルトブルーの双眸を覗き込んだ。
唇を軽く舐め、外気に触れさせて乾かし、その形の良い耳に、衝撃的な告白を――――刺す。




「透華の『お兄さん』、ボクがもらっちゃっても、別にいいんだよね?」




◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「あーあ、知らねーぜ国広くん。ご主人様をあんな脅かしちまって、スパッとクビ切られてもよ」

「なんだ純くん、聞いてたの?」


すっきりした顔で食堂から出てきた一に対し、井上純はからかうような声をかけた。
夕食前に腹が空いたので、なにかつまもうと食堂に立ち寄ると、面白い場面に出くわした。
要するに、出歯亀していたのだ。


「でもよぉ、あれはちょっとかわいそうじゃね?」


ドアの陰から食堂を覗き見る。
透華が赤くなったり青くなったり突っ伏したり呻き声を上げたりしている。
実に見物である。
見物ではあるが、純にも良心というものがある。


「一応最後に、冗談だって付け足したけどね」

「ま、あんなのマジにする奴なんて、国広くんがガチだって知らない透華ぐらいだよな」


言いにくいことをすっぱり言ってのけて、カラカラと純は笑う。
冗談だと知っているから、純とてあの修羅場モドキを面白おかしく眺めていられたのだ。

すると、なぜか一が不思議そうな顔をした。


「あのさ、みんなに勘違いされてるような気がするから、ハッキリ言っとくけども」


「ん、どーした?」


なんの気なしに聞き返す。
純にとってその日不幸だったのは、まさにここからであった。
得意の流れを読むスキルを生かさず、反射的に先を促してしまったことだった。


「ボク、男の人も普通に好きだからね?」

「……へ?」


目を丸くした純を無視して、一は淡々と続ける。
ごく当たり前のことを言っているはずなのに、一の発言だと思うと違和感が拭えない。
あまりに平坦な口調。
それがかえって、純の背筋を凍りつかせた。


「とーかに彼氏なんてできるわけないよね」

「よ、よく言ってるよな、国広くん。でもまあ、お嬢様の幸福を願うなら、それは単なる願望に留めておくべきで」


一が、笑った。
純は、笑えなかった。


「だってその前に、ボクが透華から、萩原さんを奪っちゃうもん」











「なーんてね、あはははは。さ、お仕事に戻らなきゃ。純もサボってないで持ち場に戻りなよ」


一は朗らかに、花の咲くような笑みをこぼし、弾むような足取りで去っていく。


「……おいおい」


純は唖然と口を開き、呆然と一の背中を見送った。
そしてしばらくの間、その姿勢のまま硬直していた。

まったく、笑えなかった。


果たしてこの一ちゃんはガチなのかバイなのか、あるいはガチかつバイなのか、いやでもこの場合ガチはバイに内包されるわけであってつまり
あくまでハギ透スレなので、この話はそんなに広がりません
この先国広くんに出番があるのかも定かではありません

>>114
いいですね、そのうち書かせていただきます
他にも面白そうなネタがあったらご提供いただけると嬉しいです
ある程度作風が限定されるためすべてのリクエストには答えられないかもしれませんが、できる限り努力させていただきます

それではご一読、ありがとうございました


少女の祖父は、私立龍門渕高校の理事長である。
そして少女は、私立龍門渕高校の生徒である。
つまり少女は望む望まざるとに関わらず、龍門渕高校において、特別な存在として扱われざるを得ない。

友人がいないというわけではない。
国広一、井上純、沢村智紀、杉乃歩。
しかし彼女らにしても、少女の家に仕えるメイドとしての顔を持つことから、自然と「取り巻き」扱いされる。

誤解を恐れず事実を述べれば、少女はクラスで浮いていた。
そして、その動かしがたい事実を恥じたことはなかった。
なぜなら少女は、自らの意志で王道を歩むと決めていたからだ。
生まれながらの宿命、などという言い訳に逃げることなく、自らの意志で。

ゆえに、必要以上に自分を安売りすることはしなかった。
理事長の孫という、誤魔化したところでどうにもならない肩書。
ひけらかすでも拒絶するでもなく、ただの王者としてそこにあった。

万事に対して全力投球。
行事ごとでは常に先頭に立つ。
不正と小心をなにより嫌い、公正と進取をこよなく愛する。
強きを――少女自身「強き」の代表例ではあったが――くじき、弱気を助ける。


「目立ちたがりで浮いてはいるが、がんばり屋だし、悪いヤツじゃあない。あと意外にかわいい」


少女がクラスの面々からそう評されるまでに、決して時間はかからなかった。


要するに。
少女は級友から、概ね好意的な評価を得ている。
突飛もない行動や富豪特有の感覚のズレも、ある程度了解を得ている。
少女の側にしても、理事長の孫だからと言って他人を見下したりは、無論しない。


「っ、たぁ……!」

「どうかしましたの?」


だから、少女が廊下からの短い悲鳴に立ち上がったのは、ごく当然のことと言えた。


「あ、龍門渕さん……なんか、廊下で走り回ってる男子がいて、さ。つうっ」

「まあ、嘆かわしい! それで、その男子に……?」

「ぶつかって、足、ちょっとくじいちゃったみたいで」

「度し難いですわね! 誇り高き龍門渕高校の生徒ともあろうものが!」


鼻息も荒く廊下を見渡すが、下手人の姿はすでにない。
悲憤慷慨露わにしつつも、少女はいち早く今すべきことへと向き直る。

指を鳴らす。


「ハギヨシ」

「ここに」

「!?」


燕尾服姿の長身が、どこからともなく現れた。
級友は目を丸くしていたが、少女は驚いた様子もなく用件を告げる。


「この方が、足を挫いてしまいましたの」

「救急箱を用意してございます。応急手当ののち、医務室までお連れいたしましょう」

「それから、この方を急襲した不届き者の行方ですが」

「D棟の二階に逃げ込んだところまでは確認いたしました」

「まあ、さすがですわハギヨシ。後は私が始末を付けておきます」

「お褒めに預かり光栄です」


ここまでがテンプレート。
泣く子も黙る龍門渕家のご令嬢透華と、執事萩原の日常の光景であるが――


「では、お膝裏を失礼いたします」

「ひゃ、はいっ。ありがとうございます、ひつ、執事さん……」


級友一同に言わせれば「住む世界の違いを実感させられる瞬間No.1」に該当する、そんな一幕なのであった。



〈抱っこと執事とお嬢様〉



「……ふん」


純の力も借りて件の下手人を吊るし上げてくると、透華は自身の教室に戻って、いの一番に鼻を鳴らした。
他の生徒とまったく同じ仕様の椅子に腰掛け、腕を組み、瞼を閉じて踵を鳴らした。

クラスの誰一人として声を掛けない。
少女の身に纏う威圧感がそうさせる。
王者の覇気ではない。
賢者の熟慮でもない。


(誰がお姫様抱っこで運べと言いましたか、ハギヨシったら……!)


なんのことはない、少女の嫉妬である。
有り体に言って透華は不機嫌だった。

透華が指を鳴らした、まさにその瞬間に彗星のごとく現れる執事。
透華のあらゆる渇きを見たし、流星のごとく去っていく執事。
透華のクラスメイトならば、誰もが一度は校内で見かけるであろう光景の主役。
透華が覚える不愉快の原因は、まさにその執事にあった。

なにしろかの執事、まず見目が麗しい。
俗に言えば、押しも押されもせぬイケメンである。
かつ精神的にもイケメンである。
なおかつあらゆる分野において頼りになる。

透華が指を鳴らして執事を呼びつけるたび、どこかでフラグが立っていると考えて差し支えない。
先刻姫抱きで運ばれていった級友Aも例外ではあるまい。


(でも、でもでも。あの場ではああするのが最善でしたもの)


それでも「級友Aの危機に目を瞑る」選択肢を頭から除外して考えられないところが、とりもなおさず龍門渕透華という少女の美徳であった。

透華には医学に関する知識がない。
しかし彼女の執事には(なぜか)ある。
素人の自分が下手に手を出して悪化させるよりは、知識のある者に任せた方が良い。
だから透華は指を鳴らした。
そしてフラグが立つ。
立った、立った、フラグが立った。


「ううぅ……」


情けない呻き声を上げ、他の生徒とまったく同じ仕様の机に突っ伏す。
挙動不審のお嬢様にクラスメイトが生温かい視線を向けてくるが、当然透華は気が付かない。

透華自身が人の役に立つ術を身に付け、火急の際に執事を呼ばずことを済ませる、というのはどうだろう。

……いや、駄目だ。

例えば今回の一件では、さほど急を要さない捻挫程度でことが収まっているから良いようなものの、もしそうでなかったら?
友人がガラスで腕を切ったりして、酷い失血をしていたら?
血を見るのに慣れていない透華が、冷静な判断を下せるだろうか?
斯様な事態にあっても自分は、己のちっぽけな嫉心を満足させるためだけに、指を鳴らすことを思い留まるのだろうか?


「そんなの、人間として最低ですわ……」


そんなこと、透華自身の正義感から到底許容できない。
透華は己が正義の信ずるところに従い、最善手として指を鳴らす。

そしてまた、フラグが一本、追加されるのだ。


「ああああああ!!」


綺麗にセットされた頭髪を、ぐしゃぐしゃに掻き毟って叫ぶ。
瞬間、教室のざわつきがやんだ。
だが級友一同は奇声の発生源を確認すると、納得したように日常へ戻っていった。


「まーた龍門渕か」

「やっぱりさっきのアレか?」

「なによ、なんかあったの」

「さっきねぇ、例のイケメン執事さんがお姫様だっこで、足くじいちゃった斎藤さんを……」

「きゃーなにそれ! ちょっと私聞いてないんだけど! 見てないんだけど! あの方はどちらにいらっしゃるの!?」


これらのやりとりは幸運なことに、己が世界に没入する透華の耳には一切届いていない。
余談だが斎藤とは、先ほど執事に姫抱きされて運ばれていった、フラグ建築先ことA女史と同一人物である。


(どうしましょう……)


このままでは龍門渕高校が、かの執事の立てた旗で埋まる。
まんざら馬鹿げた話だとも笑い飛ばせない。
少なくとも井上純や国広一が聞けば、大真面目に首を縦に振るであろう。
透華のメイドであり友人でもあるところの沢村智紀が調査したところによれば、実に龍門渕女学生の五割が、なんらかの形で彼と接触した経験を持っているのだ。


「どうしましょう、どうしましょうどうしましょうどうしますのこれ」


原因の大本は時ところ構わず指をパチンと打ち鳴らす、このお嬢様の側にあることは明白なのだが。
休み時間のたびにお茶会と称しては級友を誘い、執事に得点圏のランナーを与える(しかも得点圏打率が異常に高い)このお嬢様に責があることは明明白白なのだが。

人間の因果は当たり前のように巡って、当たり前のところに戻ってくる、という好例である。


「……こうなったら」


とにもかくにも、現状の改善に努めねばならない。
透華は意を決したようにすく、と立ち上がると、


「ハギヨシ」


パチン。
優雅に華麗に指を鳴らした。


「ここに」

「「「!?」」」


其は稲妻か神風か。
果たして燕尾服姿の長身は、やはり音もなく姿を現した。
誰の目にも時間を削りとった、としか思えぬ不自然さを伴って。
しかしごくごく自然に、透華の右斜め後ろに佇んでいた。


「斎藤さんのご容体は?」

「大事には至りませんでした。後のことは保険医の先生にお任せしましたので、問題ないかと」


ちなみに保険医の先生も、智紀の調査によれば「クロ」である。


「……そう。それは朗報ですわ」

「は」


それきり押し黙ってしまった透華に対し、執事はなにを言うでもなく佇立していた。

一流の執事は主に対して、必要以上に差し出がましい口を利かないものである。
主人の「ちょっと言い出しにくいことがあるな」的風情を察知すれば、静かに待つ。
逆に「わかるだろ? ほらアレだよアレ」な雰囲気を察知すれば、言われる前に動く。

一流の執事という職業は、ちょっとばかりエスパーじみた生き物でないと務まらないのである。


「ハギヨシ……」

「はい」

「その……えっと、ですわね……」

「はい、お嬢様」


青年もご多聞に漏れず、一流の執事だった。
柔和な微笑を湛え、適度に相槌を打ち、急がず急かさず、透華に勇気を促す。


「………………ぁぅ」


だが透華は、もう一歩を踏み出しきれなかった。
透華はいつもそうだった。
喉が渇き、舌がもつれる。
言葉を上手く吐き出せない。
いつだったか一にも指摘されたが、自分でも嫌になるようなヘタレ具合である。

しかし執事は主の変化を察し、頬笑みを一段深めた。


「お嬢様。僭越ながら申し上げますが、御髪が乱れてございますね」

「えっ」


透華は慌てふためいて頭部に手をやる。
どうしようもないむず痒さのままに掻き毟った金髪が、いまだ無残な痴態を晒していた。


「ひゃ、あ」

「櫛を用意しております。よろしければ、御髪を梳いても?」

「ふぇ」


パニックに陥る透華と対照的に、執事は冷静そのものだった。
おもむろに少女の顔を、無礼にならない程度の距離で覗きこむと、優しく笑って、問うた。


「私めが御髪を梳くことを、許していただけますか――――お嬢様?」


透華はその滑らかな頬を、熟れた林檎のように朱に染めて、


「…………は、はい。よろしくお願いしまふ」


しおらしく頷くことしか、できなかった。


すうっ、すうっ、すーっ。
白手袋に握られた櫛が踊る。
手際良く少女の美しい金髪を梳かしていく。

透華は無上の安寧とささやかな快楽に、温い息をほうっ、と吐いた。
すぐ後ろにある体温の持ち主を想い、心地良さの中瞼を下ろす。

忠実で、勤勉で、清廉な執事。
温和で、聡明で、秀麗な青年。
私は彼のことならなんでも知っている。
彼は私のことならなんでも知っている。
ずっとそばにいてくれた人。
ずっとそばにいてくれる人。


「ハギヨシ」

「いかがなさいましたか」


龍門渕透華にとって、ただ一人の男性(ひと)。
彼の両の腕に抱かれるような、緩やかな悦楽の中、無意識のうちに透華は呟いていた。


「だっこ」


櫛の規則正しい上下運動が、ピタリと止まった。
執事は、無言で無言で無言だった。

聞こえなかったのかな。
そう思ってもう一度。



「わたくしも、おひめさまだっこ、してほしいです」



透華の思考はシンプルである。

着々と級友からの眼差しを、無自覚に集めていく執事。
それが気に入らない透華。
彼の振る舞いは変えられない。
透華も生き方を変えられない。

出来上がりつつあった抗いがたい流れ。
ならば、その流れに私も乗ろう。
どうやって乗ろう。

そうだ、私も抱っこしてもらおう。


「ハギヨシ、はやく」


透華の思考はシンプルだ。
シンプルに、壊れ気味だった。


「ねえ、ハギヨシ、お願い……?」


執事の笑みは、面を張りつけたように動かなかった。
透華の懇願にも微動だにしなかった。

この時彼の脳裏をなにが過っていたのか、本当のところは透華にはわからない。
またお嬢様は目立ちたがっておいでなのか、などと呆れていたのかもしれない。
本当のところは、透華にはまったくわからない。


ただ、事実として。


「――――失礼いたします、透華お嬢様」

「ひゃ」


青年は少女の要望に応えた。

机の脇に立つ。

細い首と小さな頭を、見た目より幾分逞しい胸元に抱く。

膝の裏に手を回す。

両腕に力をこめる。

羽毛を撫でるように細やかに、かつ宝石を盗むように大胆に。

それはもう見事に、100%完璧に、文句のつけようのない姫抱きで、応えてみせた。


「……ご満足、いただけましたでしょうか」


透華の時計はすっかり止まっていた。
もともと正気を失いかけていたところに、さらに強い衝撃をこめかみに浴びせられたようなものだった。


「「「「「おおおおおおっ!!!」」」」」


そして、万雷の拍手が鳴り起こった。


「…………へ?」


透華はびく、と軽く痙攣したように頬を震わせた。
執事の腕にすっぽり収まったまま、首だけで辺りを見回す。


「…………………………あっ」


そして、気が付いた。
気付いてしまった。
状況をすべて、一切合財悟った。

息が止まる。
目の前が眩む。
頬が焼ける。
脳漿が沸騰する。
声も上げられずに、口腔を虚しく開閉する。
じたばた、とみっともなくもがいて執事の腕の中を抜け出すと――――


「いやああああああああああああああああああああああああああああああっ、ですのおおおおおおおおおおっっっ!!!!!! 」


羞恥の弾けた絶叫とともに、扉を開け放して走り去っていった。


そして、沈黙。
寂として声なし。
呆然、唖然、愕然。
後に残された者『たち』の思いは、寸分違わず共鳴していた。




(((((まさか、ここが教室だって忘れてたのか……?)))))




付け加えるならば、透華の級友一同は次の瞬間、世にも珍しい光景を目の当たりにした。


「お嬢様……貴女という人はっ……!」


泣く子も黙る龍門渕家使用人筆頭、萩原何某。
かの執事が目許に手をやり、ぼやき半分に嘆息して立ち尽くすという、まさに一生ものの珍景であった。

なお。
なおも余談ではあるが。


「………………透華……様」


執事の頬もかすかにだが熱を帯びていた、という目撃報告が複数寄せられている。

むべなるかな。


ハギ透バカップル化計画第一段、恙無く終了
そんじゃま、ご一読ありがとうございました


〈病と執事とお嬢様〉


龍門渕透華は、王たる己を選びとった少女である。


「……ハギヨシ」

「ここに」


透華は自らの意志で、龍門渕の跡取りとなる道を選んだ。
他にいくらでも選択肢はあった。
しかし、選ばなかった。

だから、透華の身に降りかかる数多の責務は、彼女自身の責任で果たさねばならない。
これより屋敷のダンスホールで催される、外向けのパーティへの出席もその一環だ。
重さや煩わしさを感じたことこそあれど、逃げ出したくなったことは一度もない。

当然だ。
自分で選んだ道なのだ。
泣きごとなど吐けるわけがない。


「……いかが、なさいました?」


なのになぜだろう。
私室の隅で抱えこんだ膝が、まるで言うことを聞いてくれないのは。


「お嬢様?」


怖かった。
理由もないのに怖かった。
なにが怖いのかもわからないのに、怖くなってしまった。

今日のパーティに至るまで、別段変わったことはなにもなかった。
本当に、まったく理由がない。
思い当るところもない。
意味がない。
無駄だ。
なんて、無為で無意味で無駄な怯懦なのだろう。

それゆえだろうか、なかなか誰かに切り出すことができなかった。
その一言を言霊に変えて、空気に乗せることができそうになかった。
なにしろ、合理的な理由はなに一つないのだ。

なにを意味のわからないことを。
いいからさっさと準備をしなさい。

誰かにそう諭されてしまったならば、断る自信がなかった。
反論が思い付かなかった。
きっと自分は頷くだろう。
震える足で会場に向かうだろう。

そして最後には、今の自分では想像もつかないような醜態を、龍門渕に心を寄せる数多の衆目に晒すだろう。

そんな気がする。
だからこそ、誰にも切り出せなかった。


わざわざ呼びつけておきながら、子供の様に膝を丸める透華の姿を、彼はどう見ているのだろう。
なんたる無様、なんたる醜態。
どこかに消えてしまいたい気分だった。


「透華お嬢様」


だが三度上がった執事の声音に、非難の色合いは微塵も滲んでいなかった。


「ハギヨシ……」

「はい、お嬢様」


ただただ、優しかった。
甘かった。
温かかった。

透華が自ら王者たらんとしていることを、当然執事は承知している。
主の将来を慮ってのことであろう、厳しい叱咤を受けたこともあった。
ふとした折に弱気の虫が覗いた時、いつだって彼の言葉は鋭かった。
的確に透華の心の臓を引っ叩き、弱音を追い払い、熱を灯してくれた。

だから今日も、怒られるのだろう、とばかり透華は思いこんでいた。
あるいは、叱ってもらいたくて彼の名を呼んだのかもしれなかった。


「お嬢様、私はここにおります」


しかし透華の鼓膜を打った彼の声色は、とても柔らかかった。
それはまるで、波間に揺れる夕陽だった。
あたたかくも伸びやかで、少しまぶしくて、なのに包み込まれるかのような心地がした。

透華は泣きそうだった。
嬉しく嬉しくて、泣いてしまいそうだった。

今日の透華は、本当に駄目だったのだ。
なに一つ理由はないけれど、まるで立ち上がれる気がしなかったのだ。
今この瞬間龍門渕透華は、世界の誰より弱い少女だったのだ。

それはおそらく、思春期に特有の病み患いの一種であった。

将来のこと、未来のこと、これからのこと。
ベッドにもぐって目を瞑ると、前触れもなく襲いかかってくる恐怖、怯懦、絶望。
自分の人生はこれからどうなるのだろう。
今度のテストは上手くいくだろうか。
仕事にちゃんと就けるだろうか。
恋人はできるだろうか。
子宝に恵まれるだろうか。
長生きできるだろうか。

自分は、いつ死ぬのだろうか。
死ぬとは、どういうことなのだろうか。

取り留めもない思考のループに嵌まって抜け出せなくなることは、透華ほどの年頃の少年少女にはありがちなことだ。
ましてや透華が背負っているもの、否、背負うことを選んだものは、常人のそれよりはるかに重くて苦しい荷なのだ。


そういったことを自認できるほど、透華の精神は成熟しきってはいなかった。
ゆえに根拠も理屈もない恐怖に、膝が折られてしまった。
透華自身が、恐怖の根源を自覚していなかった。


「お嬢様、大丈夫です。なにも心配することはありません。ハギヨシは、ここにおります」


なのに。
だというのに。
この執事には、それがわかっていたのだ。
透華自身が潜れなかった心の奥の水たまりの、底の底の淀み。
それを一目で、見事に看破して。


「はぎ、よしぃ」

「なんなりと。なんなりとお申し付けください、透華様。私がいますから」


こうして心ごと身体ごと、透華のすべてを抱きすくめて、あたためてくれているのだ。

その事実がどうしようもなく、泣きたくなるほどに、透華は嬉しくて愛おしかった。


「ハギヨシ、私、やだ、出たくない。パーティなんて、イヤなの、こわいの。こわくて、イヤ、やだ」


そして、遂に告げてしまった。
常日頃こねる駄々とは、根本から性質の異なる我儘を、感情のままに吐き出してしまった。
王者には決して許されない怯懦に、透華は負けてしまった。


顔を上げられなかった。
彼の顔を見上げることができなかった。
痛烈な弱さを、醜い嘆きを、見せたくなかった怖気を、すべて曝してしまった。

温もりが消えた。
後頭部に感じていた大好きな手のひらの感触が離れていった。
見れば執事は踵を返し部屋を出て行くところだった。
透華は声一つ上げられなかった。
茫然自失として下を向くと、


「透華様」


名前を呼ばれた。
たった今消えたはずの、燕尾服姿の長身がそこにあった。
透華はたいそう驚いた。
もしかしたら、少しの間意識を失っていたのかもしれなかった。

床に座り込んだ形の透華からは、燕尾服の裾しか見えない。
彼の表情はわからない。
呆れられたのかもしれない。
愛想を尽かされたのかもしれない。

震えた。
此度襲いかかってきた恐怖には、明確な根拠があった。
理由のない恐怖こそタチが悪いとはよく言われることだが、あれは嘘だと確信した。

彼に嫌われる方が、ずっと怖いに決まっている。

執事が口を開く。
透華は磔を待つ咎人の面持ちで、従者の次なる言葉を聞いた。


「お嬢様はお風邪を召されました。伝染性の強い疾患でございました。旦那様をはじめとしたお歴々に遷すようなことがあってはなりません」

「……え?」

「よって、長野市内の系列ホテルの一室を確保しました。旦那様のお許しを得ましたので、これからお連れいたします。衣様、国広さん、井上さん、沢村さん、杉乃さんにも同道していただきます」

「え、えっ?」

「……お嬢様。透華様。これだけは、忘れないでいただきたいのです」


真摯な声に顔を上げる。
いつもどおりの青年がそこにいた。
穏やかな眼差しをまぶしそうに細めて笑う、透華の執事がそこにいた。


「私は、透華様の味方です」

「はぎ、よ、し」

「なにより」


執事が、透華の目許に指を伸ばしてきた。
いつの間にやら白手袋を外している。

透華はくすぐったさと、唐突に胸の内から湧き上がってきた気恥ずかしさに身をよじった。
見れば長い人差し指の先に、一滴の涙粒が掬いとられていた。


「貴女の泣き顔など、見たくはない」


「――――っ、ハギヨシぃ!」

「透華様……」


少女は我が身を弾く激情を、どう処理してよいのかわからなかった。
なにも考えられず、ただ青年の胸元に縋りついた。
最高潮まで高まり、収まってくれそうにもない心音を、彼の心臓の真上に押し付けた。

もうなにも怖くはなかった。
この世で唯一の人からもらえる幸福感が、すべての絶望を吹き飛ばしてくれた。


「ハギヨシ、はぎよし、はぎよしぃ」


ただ、心の芯に最後に残った、この疾患だけは。
この、押さえつけても抑えきれない胸の高鳴りだけは。


(好き。好きです。大好きです――――さん)


あらゆる恐怖を消し去っても、治ってくれそうにはなかった。


もう結婚させてもいい気がしてきた
でももうちょっとだけ続くんじゃよ
ではご一読いただき、ありがとうございました


〈衣と執事とお嬢様〉


なに、透華とハギヨシのことを聞きたい?
構いはせぬが、特段面白いこともないと思うぞ?

ん?
衣の口から聞けば、いかな牛溲馬勃も天の声がごとし?
し、しょうのない奴め、いいだろう。
寂滅為楽の我が囀り、有難く聞き届けるが……なに?

その古めかしい口調はやめてくれ?

……懈怠者めが!
貴様、下郎の分際で衣から「あいでんてぃてー」を奪おうとしておるのか!?
良かろうそこに直れ、この天江衣を恥辱せしめた罰は貴様を千魂冥落しむることで……なに?

舌っ足らずな衣ちゃんも普段の威厳ある姿とのギャップでかわいい?

し、仕方のない奴め、いいだろう。
貴様の起伏の少ない脳味噌でも理解の追いつくように語ってやるから、地に頭を擦りつけて感謝するのだな!


さて、なにから語ろうか。
ふむ……まずはあの二人の基本情報からおさらいしておこう。

龍門渕透華、十七歳。
衣の父の姉の子、要するに従姉妹だな。

次期当主としての英才教育を受ける傍ら、衣のために同士を募って麻雀部を打ち立ててくれた、行動力に満ち溢れた少女よ。
これに関してはどれだけ感謝してもしたりぬ。
この恩は生涯を懸けて返すべし、と密かに胸に期しておるのだ、衣も。
ふふふ、偉いであろう。
もっと褒めてもよいぞ?

おほん。
衣と同じ金の頭髪を有しているが、これは明治期に龍門渕の祖先が異人と交わったことに端を発しているらしい。
性格は公正明大かつ正義感が強い。
そして、優しい。
人の気持ちを斟酌することのできる、とても心優しい娘だ。
あの優しさに、衣は何度救われたことか。
多少我儘な嫌いはあるが、あのぐらいの年頃の女子にはよくあることだろう、ははは。
ちなみに座右の銘は「目立ってなんぼ」だそうな。

衣と透華は遡ること六年前に邂逅を果たした。
あれからずっとそばにいる。
いてくれる。
実の姉の様にも、妹の様にも思えることがある。
家族。
かけがえのない家族。
それ以上言葉を尽くす必要は、あるまい。


萩原何某、透華の執事をしておる。
下の名前は衣とて知っておるのだが、それで呼ぶとなぜか透華が不機嫌になるのでやめた。
どうだ、衣は空気が読めるであろう!

年齢は当年とって二十一歳。
……なんだ、その顔は。
衣は潤色などしておらぬ。
ハギヨシは正真正銘、成年に達してより一年の二十一歳だ。
まあ、龍門渕随一のお姉さんである衣の目から見ても、ハギヨシはなかなかいい大人ぶりをしておるからな。
実年齢より上に見られることは、ままある。

性格は一言でいえば忠烈無比。
従者の中の従者、まさに鑑よ。
これ以上のことは、敢えて衣が語る必要もあるまい。
彼奴を越える執事は天下広しといえども、この浮世のどこにもおるまいて。
そう、断言しておこうか。
座右の銘は「絶対死守」らしいぞ。
なにを死守する気かは知らぬがな。

衣とハギヨシの出会いも、やはり六年前に遡ることになる。
当時のハギヨシはわずか十五だったことになるな。
しかし彼奴は、その齢ですでに透華の一の臣下であった。
透華の父たる入り婿の歓心を買い、絶大な信頼を得ていたわけだな。

とはいえ流石のハギヨシも、今現在よりは幾分未熟な点が見え隠れしておったぞ。
お、聞きたいか?
聞きたそうな顔をしているな?
よしよし、次はその話をしてやろう。


あの二人は実を言うと、所謂幼馴染という奴なのだ。
ハギヨシの父母もまた、龍門渕家に仕える使用人をしておってな。
透華の母、つまり衣の伯母が身罷ったのを契機に、ハギヨシは執事見習いを始めたそうだ。

しかし当時のハギヨシは、今の衣よりも稚く、若かった。
それはもう未熟であったし、心構えもいささかなっていなかった。
すると時折、ぽろと零れるのだな。
なにが、だと?
過日の口の利き方が、だ。

こんなことがあった。

ある日、屋敷に飾ってあった西洋甲冑が、ふとした弾みで透華の上に倒れかかってきたことがあった。
私も偶然その場にいた。
しかし衣は情けないことに、その光景と刹那の後の悲劇に、震えることしかできなんだ。

その時、声が聞こえた。


「透華っ!」


そう、聞こえた。


私が目許を覆っていた手のひらをどけると、ハギヨシが透華を抱えて倒れ伏していた。
幸い誰も怪我は負わなかったが、衣は己が耳を疑ったものだ。
あの忠実な執事が、よもや主を呼び捨てにするなどとは。
なにせ当時はまだ、あの二人に秘められた過去を知らなかったのでな。

透華の頬は蒼白であったが、誰の腕の中に抱きとめられているのか悟った瞬間、それは見事な緋色に染まった。
嬉しそうだったな、とても。
幸せそうだったな、この上なく。

しかし不幸なことにその場にはもう一人、ハギヨシの父親が居合わせていたのだ。
父親は身を呈して主を救った息子を褒めた。
まずは褒めた。

しかし、その後になって形相を一変させると、こっぴどくハギヨシを叱りつけた。

お前は透華様の執事なのだろう。
自分で選んだ道なのだろう。
お前とお嬢様が、単なる使用人の子とご令嬢ならば、私もこうまで戒める気はなかった。
しかしお前は――――お前が、透華お嬢様の執事なのだ。
お前は使用人の息子ではなく、執事なのだ。
ゆめ忘れるでない。
二度とお嬢様に、あのような失礼な口は利くな。

……以来ハギヨシが、透華を呼び捨てたことは一度もない。
少なくとも、衣が耳にした限りでは、一度もない。
もしもそんなことがあったとしたら、それは…………いや、止しておこうか。
益体もないことだ。


あの時のハギヨシは、心底恥じ入っていた様子だった。
衣と透華は必死になってハギヨシを庇ったが、父親は聞き入れてくれなかった。

今にして考えてみると、ハギヨシの忠義の苛烈さは、父親のそれが遺伝したのだろうな。
本当にハギヨシは透華を大事に想っている。
透華もまたそうであろうと、衣は信じている。

ん?
ああ、そうだな、それはその通りだ。
確かにハギヨシは今、衣の側仕えをしている。
とはいえそれは、組織で言うところの出向に過ぎない。
あくまでハギヨシは透華の執事だ。
その点に関しては分別をつけようと、衣も日々過ごしておるぞ。

例えば、だな。
透華と衣が同じ卓について、同時に茶を所望したとする。

するとだ。
ハギヨシの形式上の主は衣であるからして、ハギヨシは衣を優先して給仕に務める。
透華自身の意志でハギヨシを派遣したのだから、透華は文句など言えようはずもない。
しかしあの娘、目に見えて不機嫌になるのだ。
ハギヨシに後回しにされると、口には出さないもののはっきりと眉尻が吊り上がるのだ、あの娘は。

一方でハギヨシの側もわずかに、ごくわずかではあるが、挙動が不審になる。
流石に一流の執事だけあって、露骨な仕草には一切表出さぬがな。
なんでもないような顔をしておるぞ、彼奴は。
なんでもないような顔をして、弾指に満つるか満たぬかの間に、ちらちらと透華の顔色を窺っておるだけだ。


直截に言おう。

あの二人、面倒くさい。

なんなのだあ奴らは。
言いたいことがあるなら遠慮せずにはっきり言え。
もうわかった、なるべく透華と命令を被らせぬようにするから。
だからもう、衣の小さな胸がちくちく痛む視線を、二乗で送りつけるのは勘弁してくれ。

はあ。
なんだか話しているだけで疲れてきたぞ。
む、貴様もそうか、では茶など持ってこさせよう。

誰か!
誰かある!


「……どうかしたの、衣?」


おお智紀、よく来てくれた。
紅茶と菓子など頂戴できるか。


「萩原さんが作り置きしたフロランタンが、まだ残ってたような……」


ハギヨシのお菓子だ、わーい!


「……くすくす」


……はっ。
う、うむ、それではその、風呂燈籠とやらを持て。


「はいはい。ただいまお持ちします」


「はい」は一度でよろしい!


「はい、かしこまりました」


まったく智紀め……衣より遅生まれの境で図に乗りおって!

いいか貴様、勘違いをするなよ。
ハギヨシのお菓子はまっこと美味なのだ、ほっぺたが落ちるぐらいに。
貴様とてあの味を予習済みなら、必ずや衣と同じように狂喜したことであろう!
衣が見た目よりやや幼いがゆえに斯様な歓声が漏れ出でた、というわけでは決してない!

なに、見た目も十分……?

……よし、よーしよし、見上げた豪胆、その意気や良し。
向こうに雀卓がある、就け。
疾く就けッ!
貴様が南方の強であるか、乃至月を取る猿候であるか、この天江衣が検めてくれよう!!


む?
最後に一つ聞きたいことがある?
「最期」の間違いではないのか、魯鈍漢。
ふむ?
ふうむ……?

どうして今、ハギヨシを呼ばなかったのか、だと?

……真実、三流と呼ぶもおこがましい、おめでたい脳味噌の持ち主であったか。
おお、哀れ哀れ。
点棒を消し飛ばしてやる気も失せたわ。

良いか貴様、たった今説明してやったであろう。
衣は空気の読める大人のお姉さんなのだと。
一や純あたりは失礼極まりないことに、衣を雰囲気の読めぬ童扱いしおるが、とんでもないことだ。
衣はな、わかっておるのだ。
わかった上で、今はハギヨシを呼ばずにおいたのだ。

詮ずるところ、だ。
今日も今日とて透華とハギヨシは、琴瑟相和しておる、ということよ。

なに?
言葉の意味がわからない?

……帰ってから自分で調べろ、この懈怠者ッ!!


というわけで、>>114氏ご提供のネタでした
文中でころたんに罵られているのは、もしかしたら画面の前のあなたなのかもしれません
それではご一読ありがとうございました


「お嬢様」


その日は珍しく、執事の方から声をかけられた。


「あら、ハギヨシ。どうかしまして?」

「どうか、ではありません。お召し物に皺ができます」


盛大なダンスパーティを催した夜の、日付も変わろうかという時間帯であった。
透華は豪勢なパーティドレスを身に纏ったまま、いまだ忙しなく動き回る使用人を尻目に、階段の途中に腰掛けていた。
壁の花ならぬ、階段の花である。
お行儀の良い振る舞いであるはずもない。
執事の声色にはかすかだが、険が含まれていた。


「準備万端整えて、メイドが部屋にて待っております。どうかお嬢様におかれましては」

「さっさと着替えて、休めばよろしいのでしょう?」

「御意」


執事はあの日以来、少しだけ自分に厳しくなった、と透華はそう思う。
お嬢様をあまりに甘やかしすぎた、と考えているのかもしれない。
実際のところ透華自身、甘ったれがすぎたとは思っていた。


「……わかりましたわ」


だから、あの日以来直言の割合が増した執事の言い分にも、透華は比較的素直に従ってきた。
あくまで自分は龍門渕家の次期当主なのだ。
矜持を胸に秘めたまま、執事のお小言をしおらしく受け入れてきた。

それに正直なところを言えば、今日の透華は間違いなく疲れ果てていた。
肉体的な疲労も相当なものではあるが、精神的なものの方がより高いウェイトを占めている。
やれ新興企業の若社長だの、旧華族の長男坊だの、大財閥の後継ぎだの。
ダンスの合間にこんな連中の相手ばかりしていては、精神も摩耗するというものだった。

別に、それが嫌というわけではないのだ。
パーティの招待客はハードルこそ低いものの、ある程度父の眼鏡に適った見識の持ち主ばかりである。
前時代の貴族社会でもあるまいに、誰も彼もが透華相手に玉の輿を狙っていたわけでもないだろう。
それなり以上に楽しく、実りのある時間ではあった。
それは事実だ。

ただ、疲れるものはどうしたって疲れるのだ。


「部屋に戻りますわ。貴方もあまり遅くまで根を詰めて、体調など崩さないようになさい」

「有難き幸せ。おやすみなさいませ、お嬢様」


ドレスの裾を優雅に靡かせ、すくと立ち上がる。
先ほどまで腰を落としていた階段を、上階に向けて一歩踏み出す。
背後で執事が会釈をし、元々の職務に戻っていく、その気配がする。

ぱちん。

指の鳴る音が鼓膜を打った。


「え?」


透華は怪訝な表情を隠しきれず、反射的に振り返った。
振り返った先には涼やかな表情の陰に、一抹の疑念を押し隠す執事の姿があった。


「いかがなさいましたか、お嬢様」


青年は余計な口を一切差し挟まず、ただそれだけを尋ねてきた。

いかに唐突かつ理不尽であろうと、主の呼びつけには無条件で、即座に応える。
一級の執事とはそういうものだ。
だから青年は、ただそれだけを『透華に』尋ねた。


「……あ。わた、くし?」


たった今、指を鳴らしたのは自分だった。
透華はその事実を、青年の御用聞きでようやく悟った。

無意識だった。
透華の指は無意識のうちに、忠実な僕を己が傍らへと召喚する、魔法の儀式をなぞっていた。


「お嬢様? やはり、お加減がよろしくないのでは?」

「……いえ」


しかし事が起こってみれば、無意識下の透華がやりたかったであろうことは、あまりに明白だった。
少女はすべてを理解した。
穏やかに佇む青年の顔を見た瞬間、自分が果たしてなにをすべきなのか、はっきりと理解した。

階段を一歩、下階に向けて踏み出す。
彼のいる、その高さに向かって、踊るような一歩を踏み出す。


「ねえ、ハギヨシ。一曲、私と踊りましょう?」



〈ダンスと執事とお嬢様〉



青年は壁の染みたりえない。
青年は一介の執事にすぎない。
舞踏会に参加する資格など、持っているはずがない。

少女は壁の花たりえない。
少女のふくらみかけの蕾は、壁の花にしておくには艶やかすぎる。
舞踏会に参加する男たちが、放っておくわけがない。

だから、この瞬間だけだ。
青年と少女が踊ることを許された舞踏会は、この瞬間、この場所でしか開かれない。

悲しいほどに己が分を弁える二人の男女には、すべてが痛いほど理解できていた。


「音楽がありませんが、お嬢様」


青年が、少女の腰に手を添える。


「鼻歌で構いませんわ」


少女が、青年の背に手を添える。


「どうせ、二人きりなんですもの」


たった二人の舞踏会は、こうして始まった。


「では、ワルツでよろしいですか?」

「サンバを踊る気分じゃありませんもの」

「お戯れを」


執事の鼻孔の奥から歌が響く。
包み込むように深く、そよ風にように静かで。
それでいて根を張る幹のように重く、落ち着きがある。
まるで上質なコントラバスの調べだ。
そう、透華は思った。

ステップを踏みはじめる。
右足を下げる。
左足を擦るようにななめ後ろへ。
右足を閉じて、両足を揃える。
左右反転で同じ動きを繰り返したら、お次は前後を反転させる。
これでワンサイクル。

スローワルツの基本ステップだ。
完璧にこなせて当然のクローズドチェンジ、そしてナチュラルターン。
ペア・ダンスを少しでも齧った者なら、最初に教わっておかしくないステップである。


「まあ、懐かしい曲だわ」

「……ええ」


しかしそれを差し引いたとしても、二人の舞は見る者を魅了してやまなかったであろう。

優雅、典雅、華麗、美麗。
よそゆきの美辞麗句を並べ立てた程度では、とても表現しきれない。
生命の躍動が、とろけるかのような喜びが、透華の肩を撫でては弾ける。

まるで一人で踊っているようだ。
なのにこの上なく強く、『ふたり』を感じる。

透華は一瞬だけ目を瞑って、舞い咲く男女を外側から幻視する。

寄り添い合う肩、胸、腕、腰。
すべての動作が調和し、混ざり合って、融けゆく。
美しい。
そして、なにより自然だ。
芸術品の煌めきではなく、野の情景の、抱きしめたくなるような芳しさだった。

それも、当然と言えば当然のことだった。
透華は瞼を開く。


「昔はよく、この曲に合わせて、ダンスの練習をしましたね」

「ええ。お嬢様は当時から、素晴らしい踊り手でございました」


相手が変わろうが曲目が変わろうが、基本の動作は変わらない。
決まった振付などなかろうと、即興のリード&フォローが無限の可能性へと踊り手を導いていく。
それが社交ダンスというものだ。


「ステップを踏み損なっては貴方の靴を踏んづける、未熟な『素晴らしい踊り手』でしたけれど?」

「二回目以降は、ワンサイズ上の靴を履くようにしておりましたので」

「まあ、そんなからくりが隠れておりましたの? 通りで、いやに涼しい顔だと思っていたら」

「執事ですから」

「あの頃は執事じゃなかったでしょう、もう。ハギヨシったら」


確かに今、二人は即興劇に興ずるがごとく、筋書きのないステップを踏んでいる。
だというのに、この息の合いようはどういうことだろう。

フィガーの順序、タイミング、ポジショニング。
そのすべてを執事が、当意即妙のリードで引っ張る。
不意に揺れ動く鼻歌のビートバリュー。
タップとクイックステップを巧みに駆使し、透華は完璧なフォローで応えてみせる。

息が弾む。
心が跳ねる。
楽しい。
とても楽しかった。

まだ幼かったあの日。
彼と自分が、執事と主ではなかったあの日に、戻ったような思いがした。


幼い透華にとって少年は、憧れのお兄さんだった。

広い龍門渕の屋敷にただ一人だった幼子が、初めて出会った同年代の友人だった。

少年は使用人の息子だった。
少年は透華より四つだけ年上だった。
笑顔が柔らかくて、少し気弱で、しかし途方もない包容力を持つ少年だった。
透華が少年に、初恋と呼ぶに相応しい情念を抱くようになるまで、そう時間はかからなかった。

気が付けば、いつも一緒にいた。
ダンスの練習にも、先生が帰った後で密かに付き合ってもらった。
行儀作法の講義が辛くて泣きそうになると、必ず少年に慰めてもらった。

困ったような笑みを浮かべる少年を、あちらこちらに引きずり回した。
中庭いっぱいに広がる花畑に、飛び込んだこともあった。
広大な邸宅で、いつまでも終わらないかくれんぼに興じたこともあった。
裏の山にピクニックに出かけて、おままごとをしたこともあった。


『どうぞ、お姫様』


シロツメクサでできた冠を、プレゼントされたこともあった。
感極まった挙句、幼い四肢をいっぱいに広げて、彼に抱きついたこともあった。

本当に透華は、少年のことが大好きだった。


だが、初恋は唐突に終わった。


『お嬢様』


少年は執事となり、透華は少年の主になった。


『今日この日から、私の忠誠は、命は、すべては。透華お嬢様だけのものです』


そうして透華の初恋は、破れることも敗れることもなく、ただ終わった。


ダンスは続く。

舞踊を彩る色は、二つに増えていた。

低く響いて広がっていく、青年の歌。
高く響いて抜けていく、少女の歌。
得も言われぬハーモニーを醸し出す、声にならない歌。

恋の歌。
幼い日の二人が、その意味も知らず背景色に指定した、恋する少女の純恋歌。

ダンスは続く。
そして、やがて終わる。


「……ありがとう、ハギヨシ」

「光栄の至りです、透華様」


鼻歌が止めば、この狭い世界での舞踏会も終わる。
当然の摂理として、終わらなければならない。


「もうしばし、お手をお借りしても?」

「貴方の、思うままになさい」


ペア・ダンスの終わり際には、ある習わしがある。
男は女の手を引いて、元いた場所まで送り届けなければならない。

すなわちそれは、透華が腰掛けていた上階への段差の、下から数えて三段目。


「では、ここまででございますね」

「……ええ」


執事が透華の手を離す。
透華が執事の手を離す。


「おやすみなさいませ」

「おやすみなさい、ハギヨシ」


夢のような時間が終わって、透華は夢へと帰っていく。
夢から醒めて、夢に落ちるため。
私と貴方を隔てるこの階段を、一段一段昇っていく。


「おやすみなさい」

「はい。おやすみなさいませ」


再び交し合った「おやすみ」に、大した意味はなかった。
ただ、声が聞きたいだけだった。
今の今まで融け合っていた、青年の声と少女の声。
今ではもう、途方もなく遠かった。


「――――おやすみ、なさい」


私たちに、あの日は遠すぎる。
シロツメクサの冠を被って、無邪気に笑いあっていた日は、あまりに遠くなりすぎた。
あるいは、私と貴方を結ぶ線よりも。

透華は意味もなく、そんなことを思った。


この空気感は維持するのが実に難しい
そもそも維持できてないかもしれないんですが
それではご一読ありがとうございました


一か月はいただけんよなぁ、一か月は
不定期を宣言したとはいえ申し訳ありませんでした
これからしばらくこんな感じです

では久々にいってみましょう
クッソ長いのでご注意あれ


心の奥底から聞こえる声には、素直に従っておくべきだ。


「まあ、なんですのあなたがた?」

「おい透華」

「のんきにほざきやがって……ちょっと事務所の方まで来てもらえませんかねぇ?」


およそ井上純という女は、風の吹くまま気の向くままにその日を生きてきた女だ。
やりたいことをやって、やりたくないことはやらない。
確固たる根拠も小難しい理屈も必要とはせず、ただただ直感に従って日々を過ごしてきた女だ。


「正当な理由がございません。あなた方に従ういわれはありませんわね」

「透華、あんまりふっかけるな」

「止めないでくださいまし純、非は向こうにありますわ! 私に恥じるところなどなんらありませんものっ!!」

「図に乗ってんじゃねえぞクソアマッ!!」


今日も今日とて、嫌な予感はしていたのだ。
純の身近な友人である第六感は最初から警鐘を鳴らしていた。
今にして思えば、かの友人の忠告に耳を貸さずして、事態が好転した経験などまったくといっていいほどなかった。


「……めんどくせぇことになったぜ」


友達の頼みを聞くためとはいえ、友達の忠告を蔑ろにするべきではないな。
井上純はそう、心底から痛感している真っ最中だった。



〈執事の本気とお嬢様〉



「なにやら私、反抗期な気分ですの」


純が己の仕える主からそう打ち明けられたのは、下校のために高校の校門をくぐってすぐだった。
その日はたまたま、自分と透華の二人きりだったのだ。
……あるいは、たまたまではなかったのかもしれないが。

ツンとしたすまし顔を横目に流しながら、純は思案する。
さてはこのお嬢様、誰ぞ親しい者と喧嘩でもしたな、と。

透華が不機嫌になる原因理由は星の数ほどあれど、「ツンツンのおすまし顔」を覗かせるケースはごく限られている。
純は経験則で知っていた。

一つ、父親と喧嘩した。
一つ、衣と喧嘩した。
一つ、執事と喧嘩した。

透華は今朝まではまったくの上機嫌であった。
なんでも朝餉に出てきたシェフの創作料理が、甚くお気に召したそうな。
それはさておきそこから現在に至るまでの間に、透華の学園生活に介入して「ツンすまし顔」を引き出せる人物はただ一人である。

謎はすべて解けた。
この間実に1.4秒。


「お前、まーたハギヨシに駄々こねたのかよ」

「こねてませんわっ」

「やっぱハギヨシ絡みか」

「うっ」


直感のままに生きる女井上純、悲しいほどの経験則からなる論理的考究であった。


ばつの悪そうな顔になった透華から、かいつまんで事情を聞きだす。
どうにもきっかけは、とてもちっぽけで些細なことだったようだ。
正直なところ、透華の説明では要領を得ないほどに。

だいたいにしてこのお嬢様と執事との喧嘩は、喧嘩としての体を成していないことが大半なのである。
お嬢様がつまらないことで文句を垂れて、執事が申し訳なさげに頭を下げて、お嬢様はそんな執事にますます不機嫌になって、執事はそんなお嬢様にますます平身低頭する。
このプロセスにおいて執事の側に非がないことは、邸内屈指のお嬢様贔屓で知られる、かの国広一女史ですら認めるところであった。

いわんやその他の家人、そして井上純をや。


「言っちゃあ悪いが、お前が悪いよ透華」

「んきー!!」


そんなこんなの事情を経て、なにやら反抗的な気分になってしまった透華は。


「あら純、あちらのキラキラした看板はなにごとですの!? ジュエリーショップかなにかでしょうか!?」


こうして「夜の街」とやらに、唐突に、なんの前触れもなく(という建前の元で)繰り出してみたくなった、というわけだ。


「……オレ、バレたらクビかもなぁ」


高校二年生にして「なぜか」その道に対する知識の豊富な、メイドさん見習いをお供に連れて。


そこから今の事態に至るまではトントン拍子であった。

透華が目に痛いキラキラ看板に向けて、目をキラキラさせて一直線に突き進む。
純は慌ててその背中を追う。
看板の真下には、どうやらホストクラブかなにかの入口が鎮座ましましていたようだ。
悪趣味な装飾をごてごてと飾りつけられた外壁の下で、なにやら諍いが起こっていた。
客引きらしい店の男が、嫌がる女性の手を引いて店に連れ込もうとしていたのだ。

憤った透華、その純然たる正義感に従い悪漢に突貫。
天を仰いだ純、自らの運のなさを呪いつつのろのろと追従。

突撃する令嬢に客引きの男が驚いた、その一瞬の隙をついて走り去る件の女性。
取り残される透華、純、客引き。

ワンテンポ遅れて、客引きの男が透華に噛みつく。


「ちっ。困るぜお嬢ちゃん、せっかくの上客候補がよ」


この時点で雰囲気は最悪だ。
純は早々に透華の腕を引き、その場を一刻も早く離れようとする。


「まあ! 嫌がるご婦人の肩にその汚い手を無理矢理かけておきながら、なんたる言い草ですの! この不埒者っ!!」


そこでやめておけばいいものを、透華が噛みつき返してしまったからさあ大変。
純はもう一度、長く長く嘆息して天を仰いだ。


青筋をこめかみに浮かせた男が、店内に向かって声をかけた。
いよいよもって事態が切迫してきたことを悟って透華の肩を揺さぶるが、聞く耳持たずの足動かず。
そうこうしているうちに屈強な……というほどでもないが、柄のよろしくないチンピラが三名様追加され。

哀れ純と透華は、籠の鳥となってしまった。


「まあ、なんですのあなたがた?」


そして、冒頭のやりとりに戻る。


「透華、悪いこと言わねえから謝っちまえって」

「今さら口でどうこう言った程度で収まるかっ、ざけんな!」

「だ、そうですわ」

「ああもう、ちくしょう」


突然だが、井上純は腕っ節には自信がある。
悲しいことに自信がある。
細かい事情までは省くが、喧嘩慣れもしている。
その上純の上背は、ゆうに一八〇センチを超えるのだ。
中肉中背のホストくずれどもの腰が、威勢の良い口調とは裏腹に若干引けていたとしても、無理からぬことであった。


(どうすっかなぁ、これ)


とはいえ、喧嘩慣れしているからこそわかってしまうこともある。

夜の街を終の棲家としているとはいえ、しょせん相手はホストくずれのチンピラ風情だ。
一対一なら十分勝てる。
二対一でもどうにか勝てる。

しかし、三対一となるとどうしようもない。

一人を右手で殴って、もう一人を左手で殴って、最後の一人に背中に回り込まれれば、はいお終い。
羽交い絞めをあっという間に振りほどけるだけの膂力がなければ、前の二人にしこたま殴られて終了である。
プロの格闘家と素人の対決でもないかぎり、喧嘩というものはおよそ、三対一になったら勝てないことになっているのだ。

その上今は四対一。
さらに悪いことには、


「私は自分の行いになんら恥じるところはございません! 謝罪を要求するのはむしろこちらの方ですわ!」


お荷物を一人、背中に負っている。
それも現在進行形で導火線が短くなっていっている爆発物を、だ。


(わりとマジで詰んでね、これ?)


直感のままに生きる女井上純が、やや諦め気味ながらも頭脳をフル回転させて考えるべきはただ一つ。


(ここからどうやってバカな透華、もとい透華のバカを逃がすかなぁ……)


ただただ己の仕える主の、友の、身の安全のみであった。


それにしても思考がうまく纏まってくれない。
隣に泡を食った人間がいるとかえって頭が冷える、とはよく聞く風説だが、逆もまた真であることを純は発見した。


「よろしい。それでは出るところに出て決着を付けようではありませんか」

「あ?」

「法廷闘争に持ち込む用意がこちらにはあると、そう言ってるんですの。おバカさん」


なにをこのお嬢様は、無駄に落ち着き払っているのだ。
そのせいかは知らないが、こちらはまったく冷静な思考回路を取り戻せない。
純は口の内側だけで思いきり悪態を吐いた。

透華の振る舞いは威風堂々、まさに王者の出で立ちだ。
だが今回ばかりは相手が悪い。
世の中には正論で斬ると、理不尽で殴り返してくる類の下種が存在することを、悲しいことに透華は理解していない。
今この場で必要とされているのは、題目ご立派な正義感では決してないのだ。


「イキるのも程々にしておけよ……クソガキぃッッ!!」

「……え」


そしてついに、事態は抜き差しならないところにまで進行してしまった。
透華の威厳あふれる佇まいが、ピクと跳ねて凍る。
純は息を飲み、客引きが呼んだ三人の新手までもが驚愕に軽く目を剥いた。

男はがちがちに震える右手で、刃渡り一五センチほどの折りたたみナイフを握り締めていた。


「さんざん……人を……コケにしてくれやがって、いいとこ出の、ガキ、ガキがぁ……」


男の目が血走っている。
彼の大して底が深くもなさそうな自尊心を、透華はどうやら深く抉りすぎたようだ。

こんな場末の店で客引きなどやっているのだ、ロクな生活を送っていないことは想像に難くない。
そこにきて龍門渕透華のきらびやかに過ぎる物言い、正論の数々。

男が「プッツン」ときてしまったところで、不思議はなかった。


「おい、止せよアンタ。洒落で人に向けていいもんじゃねえぞ、そういうのは」


そこまで頭を巡らせたところで、純は男と透華の間に強引に身体を割り込ませた。
後ろ手に庇った身体が明らかに、先刻までの威勢を失っている。
こちらもまた、無理のないことではあった。

人間の脳に本源的な恐怖を刻みこむ鈍色の光、鋭いフォルム。
透華のしゃんと伸びた背筋に、一筋冷たい感触を送りこむには十分すぎる威圧感が、そのちっぽけな刃物には籠められていた。

どうやらお嬢様はこの期に及んでようやく、自らの身に迫る危機に気が付いたようである。


「あ……や、あ……」


令嬢の凛然たる振る舞いの雲散霧消は、二つの副次作用を場にもたらした。

一つ。
純の頭がすうっと冷えて、その視界がクリアになったこと。


先ほどの逆、というわけでもないだろうが、透華が狼狽してくれた分純の側に精神的なゆとりが出た。
とはいえ絶体絶命であることに変わりはないが。

とにかく、まずは男の凶刃を奪うことだ。
長身を生かしたハイキックで電光石火、手元を狙ってナイフを弾き飛ばす。
そうしたら後ろの一人をぶちのめして退路を確保し、後は野となれ山となれ。

……善後策としては、この程度のことしか考え付かなかった。

そしてもう一つ。


「いぃい面になったな、クソガキぃ?」


透華の怯えきった表情を目の当たりにして、下種がより下種な笑みを浮かべて、図に乗りはじめたこと。

男が手にしたナイフは、小生意気な小娘を黙らせるのに十二分に効力を発揮した。
こうなってくると多少、男の側にも精神的な余裕が生まれる。
溜飲と、頭に上った血とが、同時に引き潮になってくれたようだ。
男の尋常でない様子に多少引き気味だった残りの三人も、今ではニヤニヤと下卑た薄笑いを浮かべている。


(こうやってトータルで考えてみると、やっぱり状況は悪くなってるな)


逆上した男がナイフをやたらめったら振り回す、という純の想定の中でも飛び抜けて最悪の事態。
現状辛うじて、この「最悪」を回避できたにすぎない。

依然、二人の少女を取り巻く状況は劣悪だった。


「じゅ、純……」

「なんだよ、お嬢様」


頬を伝わる冷や汗の感触を無視して、純は透華からのか細い呼びかけに応えた。
多少、突き放すような言い方になってしまったかもしれない。
なにしろ純にも余裕がないのだ。


「も、もし、かしてわたくし……とんでもないことを、仕出かしてしまいましたの……?」

「出くわさずに済むはずの厄介事を、自分から呼びこんじまった、って意味ではそうなるかもな」

「……ごめ、なさ、っ」

「まったくだぜ」

「っ」

「いいか、屋敷に帰ったら他の誰でもない、オレからたっぷりお説教してやるからな。一でも智紀でも衣でもハギヨシでも龍門渕の旦那でもない、オレからの愚痴とお小言が山ほどあるから、せいぜい覚悟しとけよ」

「純……」


安心させるように頭をポン、と叩く。

が、内心は純とて似たようなものであった。


(…………こえぇ)


怖い。
冷静になろうが怖い。
怖いものはどうしたって怖い。
だってナイフで、だって四対一なのだ。
怖いものは怖いに決まっているではないか。

笑みが引きつっているという自覚はあった。
現に透華は純に笑いかけられても、まるで安堵した風情ではない。

忌憚なく胸中を曝け出してしまうと、純だって誰かに助けてもらえるものならば助けてほしい。
純とて一人の女子高生なのだ、夢を見たって罰は当たるまい。


「……観念したみたいだな。じゃ、店の方に来てもらいますかね。なぁに、大人しくしてりゃあ悪いようにはしませんよ」


しかし現実は非情で、都合よく救いのヒーローなど現れないから、こうして純が身体を張る他にないのだ。
女だけれど、張るしかないのだ。

主を、友を、透華を、守るために。


「――――」

「ん?」


首だけで振り返る。
声がした。
背中に庇った透華の声だ。
かすかに蒼褪めるその唇から、小さく言葉が漏れ出るのを、純は確かに聞いた。


「透華……?」


あるいは自分の口腔からも、同様の音吐が発せられていたのかもしれない。
そう、純は半ば本気で思った。


「――――ハギヨシ、ぃ」


















「ここに」


夜風を泳ぐ涼やかな声に、その場の誰もが振り向いた。

毒々しいネオンの光ではなく、煌々たる月明かりを背に佇む、燕尾服姿の長身。

ごくごく当たり前のことのように、かの執事はそこにいた。


一瞬、純の頭は真っ白になった。

まったくもって常と変わらぬ、直立不動の姿勢。
ある種不自然なまでに常と変わらぬ、にこやかな笑顔。
非日常に迷いこんだ少女たちの目の前に、突如として現れた日常そのもの。


「ハギヨシ」


透華が、狂喜とも驚愕ともつかない声色で、その名を呼んだ。
気が付けば青年は、諍いの輪の中心にまで何気なく歩を進めてきていた。
本当に何気なく、いつの間にと声を上げたくなるほどに、悠々と。


「あちらにお車の用意ができてございます。お二人はどうぞ、先にお帰りくださいますよう」


透華と純は思わず、揃って頷いていた。
穏やかな口調の中に、かすかだが有無を言わさぬ響きが滲んでいた。


「ちょ、おい、待ちやが」

「お話でしたら、私が承りますゆえ」


純たちの背後を塞いでいたホストくずれが、我に返って声を荒げる。
執事はすかさずそれを手で制した。
あくまで、悪魔の様にこやかな微笑は、崩さぬままに。


「どうかここは、穏便に済ませてはいただけませんか。貴店がなにかしらの損害を被ったというならば、補償に応じる用意もございます」


ですから、ね?

そう締め括るが早いか、執事はかすかな顎の動きだけで純たちを促す。
一刻も早く此処から立ち去れ、というわけだ。

チンピラどもは動けない。
執事はひたすら柔和に、温和に笑っている。
ただそれだけのことにも関わらず、誰一人として文句の一つも垂れることができない。

そういえば、と純は思い出した。
この状況に当てはまるところは少ない気もするが、思い出してしまったのだから仕方がない。
他愛もない豆知識だ。


「互いの利益のためにも、どうか皆様方。ここは一つ、話し合いで矛を収めませんか」


動物の笑顔とは元来。


「暴力に訴えるようなことがあれば、少なからず――――不幸な結果を招くやもしれませんよ?」


威嚇のための機能である、という与太話を。


「……ほら、行くぞ、透華」


のぼせあがったような、そして同時に怯えを含んだ瞳で執事を凝視しているお嬢様。
彼女の腕を、今度こそ純は渾身の力で引っ張る。

透華の気持ちはわからないでもない。
屋敷に帰った後のことを考えると、純とて憂鬱にはなる。
だがとにかく、今はこの場を離れるこ




「ざけんなぁぁぁっっ!!!」




不意に、蛮声が宵闇を切り裂いた。
純は声のした方向を振り向く。
透華も同時に、弾かれたように反転する。

血走った目、浮かんだ青筋、そして右手のナイフ。
事の始めに透華と言い争った、客引きの男だ。


「ハギヨシッ!!」


その男が、ナイフを振りかざしていた。
執事に狙いを定めている。
純がひゅっ、と息を飲みこんで駆け出す――


「透華!?」


よりも早く、速く、迅く。
透華が右脚を踏み出していた。


「ハギヨシ、逃げて!」


しかし、遅かった。
どう考えても遅かった。
透華だろうが純だろうが、青年を救うに足る距離にはなかった。
鉛色の刃は誰にも邪魔されることなく、標的の肩口に向けて吸い込まれていく。

吸い込まれて、滑った。


「え?」


執事の五体が真横に滑った。
少なくとも純の目にはそう映った。

右の脚を半歩ずらし、膝を曲げてから右肩を沈める。
まったく無駄のない体重移動。
無駄に満ち溢れた大振りの凶刃が空を切る。

次いで、執事が小さく左手を振り被った。


「いっ、つ、な」


目にも止まらぬ速さで繰り出された手刀が、男の右手の甲を強か打ち抜く。
カラン、アスファルトと金属が擦れ合う音。
その音を最後に、しばし静まり返るネオン街の一角。


「申し訳ない、お怪我はありませんでしたか? このような物を振りまわされては、危のうございますよ」


変わらないものはただ一つ。
黒の執事だけがただただ悠然と、佇立して微笑んでいた。


「怪我がないか、はこっちの台詞だぜ……」

「そ、そうですわよハギヨシ、なにを悠長な! どど、どこか刃が掠めたりはしてませんの!?」


一拍ののち、その腕にすがりつく透華。
刃を払い落とした存外逞しい左腕を、これでもかと撫で回す。
恥も恐怖も遠慮も――ついでにこの街へ繰り出す切っ掛けとなった喧嘩も――置き去りにしたその必死な態度に、純は思わず頬をほころばせた。


「御心配にはおよびません、お嬢様。私はこうして、五体満足でおりますよ」


執事とて同じこと。
柔和な笑みをさらに一段深めて、慈愛に満ちた眼差しを彼の主へと注ぐ。


「…………ょう」


それが、最後の不幸のはじまりだった。


「……しょう。ちくしょう、ちくしょうちくしょうちくしょう、ふざけやがってなめやがってこけにしやがってぇぇぇぇぇ!!!」


度重なる屈辱と恥辱。
狂乱した男が、執事のごくわずかな気の緩みを衝いた。


「っ……落ち着いてください」


ナイフを失った男にできることなどたかが知れてはいる。
だが逆に言えば、だからこそ男は執事の隙を縫えた。
致命的な殺傷を加えるだけの力が相手にないからこそ、執事は瞬刻気を緩めた。

力なき弱者。
そう宣告されたも同然の男が見せた、最後の足掻き。
何物をも生み出さぬ、無為で無明の見栄張り。


「どうか、どうかお収めください。謝罪ならばいくらでもいたしますゆえ」

「うるせえ!! 元はと言えばテメエだクソガキ、テメエが、テメエがテメエがテメエがっ」

「きゃっ、つう、あ!」


すなわち、より弱い者を、どす黒い激情の捌け口とすること。


遠ざけようとする執事の腕を掻い潜って、


「なりません。そのような狼藉、貴方のためにも……」


男の手が透華の襟首を掴んだ。


「テメエがぁぁぁっっ!!」


掴んだ。
掴んでしまった。
偶然にも、伸ばした腕が届いてしまった。


「いっ、や、やめ……っ、た」


小さく悲鳴が上がった。
鋭い痛みに透華が、小さく声を上げた。
ああ、上げさせてしまった。


「あぁ……」


純は三度、夜天を大きく仰いで長嘆した。









「そこまでだ。お嬢様に触れるな、下郎」








それが「男にとって」その日最後の、不幸の締め括りだった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「失礼いたしました……」


パタン。
扉の閉まる音。


「はぁ」


主――この場合は透華の父たる龍門渕家当主――の御前を辞去すると、純は大きく息を吐いた。
そのままのろのろとした足取りで、使用人用の食堂へと向かう。


「おや、井上さんではないですか」

「お疲れさま。どうだった、お説教タイムは?」


声をかけてきたのは、優雅に小夜のティータイムなどを楽しんでいる、例の執事と沢村智紀だ。
純は無言で、二人と同じテーブルに着いた。
すかさず、程好く温い紅茶が差し出される。


「さんきゅ」


一口呷る。
からからの喉に味わい深い潤いが染みこむ。
端的に言って、とても美味しかった。


「透華は?」

「まだ絞られてるよ……三人がかりで」


この場合の三人とは透華の父と、衣と、一を指しての三人である。
執事から事の顛末を聞かされたあの三人の怒り様といったらない。
三人が三人とも、真摯に透華の身を慮っていることが伝わってくるだけに、純としても庇い立てのしようがなかった。


「井上さんは、先に解放していただけたのですね」

「……透華にさ、オレの方こそが庇われちまったんだよな」


純に無理を言って連れて行ってもらったのは自分だ。
トラブルも自分が呼びこんだものであって、純はむしろよくやってくれた。
だから彼女を叱らないでくれ。

透華は真剣な眼差しで、父らにそう訴えた。


「まあ、事実そのとおり、だし。純の非は全体の5%ぐらいしかないと思う」

「そうなんだけどさ。でも、なんかなぁ」


主より先に無事の生還を果たしてしまったことに対して、どうにも後ろめたさが先に立つ。
透華の言はやはりというべきか、筋の通った正論ではある。
正論ではあるのだが……


「そもそもの事の起こりで、オレが透華をネオン街になんか連れてかなきゃあ、こんなことにはなんなかったんだよなぁ」


今回の件に関して純が責を問われるとすれば、この一点ぐらいのものであろう。
他の点に関しては事前の宣言通り、説教パーティの最初に純からお説教(と愚痴)をくれてやったぐらいだ。

ただ純の認識下では、このたった一つのミスがあまりに大きい比重を占めてはいるのだが。


「まあまあ。次、同じ失敗をしなければそれでいい。透華も無事だったことだし」

「……肝に銘じておくぜ。ところでハギヨシさんよ」

「はい?」


「……あんた、いつからあの場にいたんだ?」

「お嬢様より召喚された、まさにその瞬間からでございますが」


にっこり。


「……その割には、やけにタイミングが良かったような」

「偶然です。私とて、血眼になって貴女方の行方を追っていたのですから」


にっこり。


「……その割には、すっげぇ余裕のツラで現れたけど」

「内心を外面にみだりに表さないのも、執事の嗜みでございますれば」


にっこり。


「……あっそう。じゃあ、最後に一つだけ」

「なんなりと」


にっこり。


「透華って、愛されてるよな」


一秒、二秒、三秒の間。

執事がおもむろに席を立つ。
あまりに自然で淀みない所作に、声を上げることすらできなかった。
青年は壁掛け時計に目をやった。
そういえば、そろそろ勤務終了時刻だ。

智紀が物言いたげな視線を青年に送りながら、茶器を片付けはじめる。
純はカップに残った液体を飲み干し、ただ青年の答えを待つ。

すると青年執事は、少しだけ目を細めて、人差し指を唇の前まで持っていき。


「ええ、とても愛らしい御方です」


左右に軽く二度振って、颯爽と食堂を後にしたのであった。


「ねえ、純」

「なんだ、智紀」


龍門渕メイドの間には、とある共通認識が存在する。
暗黙の了解、あるいはイデオロギーと言い換えてすら過言ではない。


曰く。
この館に仕えるただ一人の執事と、仕えられるただ一人のお嬢様とは、十年来相思相愛の仲である。
但し、どうにもこうにも惜しいところでベクトルの噛み合わない、歯痒くじれったい両片思いでもある。

お嬢様の方はわかりやすい。
態度と言葉と表情と声色と、ついでに頬の色で一目瞭然である。
あれで隠している腹積もりが米粒一つほどでもあったとしたら、まさしく噴飯ものだ。

では、執事の方は?
かの青年ほど内側の揺らぎを外側に露見させない者も珍しい。
態度も言葉も表情も声色も、決して露骨なものではない。
あれで隠している腹積もりがあるのならば、見事な偽装だと喝采を送るべきだろう。


「もしかして、今日」

「ん」


ならば、なぜなのか。
なぜ龍門渕の家人は誰も彼もが、執事があからさまにお嬢様を「特別」視している、その事実をしかと認識できているのだろうか。


「……『下郎』が、出た?」

「……ああ」


「なぜ」かと問われれば、わかっているからだ。

「不埒」で「不幸」な「不届き者」の「下郎」が。

あの青年の目の前で。

彼の愛するお嬢様に。


「ちなみにどうなったの、『下郎』は?」


危害を加えようとしてしまった時、なにが起こるのか。












『ごっ、ぎゃ、おんがああああああああああああああああああああああああっっっっ!!!!!!!!!!??????』












「……ちょっと、オレの口からは言えないかな。口に出すのも憚られる」

「……南無南無」


直感のままに生きる女井上純ですら、悲しいほどにはっきりと、わかってしまうからなのであった。


ああいう人って絶対怒らせちゃいけないタイプですよね

久々にメモ帳と向き合ったら全然タイピングが止まらなくて困りました
おかげでこんなクッソ長い代物ができあがってしまったわけでして、お目汚し申し訳ありません

一応まだまだネタはありますが、残念なことに次回更新も不定期かつ未定です
それでも待ってくださる奇特な方だけ、乞うご期待?


とうとう月一ですらなくなったとかもうね
今さら感がありありですがいってみましょー


空は遠く高く、風に草木の芳醇な薫りが織り混ざっている。

私室に備えつけのバルコニーで、木製のリクライニングチェアに深く体を沈める少女。
少女は肌をくすぐる薫風に身を任せながら、うとうととまどろんでいた。

一際強い風が吹く。
冷たい風では決してない。
しかし、意識を白亜の海に投げ出す少女の肌が、ぴくと跳ねた。
膝上にあった右手がゆるゆると持ち上がり、外気に惜しげもなく晒された二の腕をさする。

少し、ほんの少しだけ、肌寒い。
仄かな夢絵の内側で、少女が小さく独りごちた、まさにその直後だった。

ふわり。

どこからともなく薄手のショールが降ってくる。
青天の向こう側からか、はたまた薫風の隙間からか。
ショールは少女を優しく抱くように舞い降りて、その華奢な四肢をすっぽりと包みこんだ。

少女は無意識のうちに――あるいは意識して――目を瞑ったまま、囀るように呟く。


「はぎ……よしぃ……」

「ここに」


密やかな声が柔らかく応えを返す。
すると少女は安堵しきって、再び深いまどろみに落ちていった。


「ハギヨシめはここにおりますゆえ、ご安心召されますよう」


ここまでがテンプレート。
泣く子も黙る龍門渕家のご令嬢透華と、執事萩原の日常の光景である。



〈午睡と執事とお嬢様〉



うららかな午睡から目覚めた透華は、半身を覆うショールの意味を即座に理解した。
それが、“今”から遡って一時間前のことになる。


「んー……ふふっ」


胸に抱く薄布の送り主。
彼の顔を思い浮かべてにやつくこと、実に十分。


「ハギヨシ」

「ここに」


その“彼”を呼び出して、二、三の用件を言い付けたのが五十分前。


「では、行きますわよ」

「はっ」


二、三の荷を誂えた彼と、玄関ホールで落ち合ったのが五分前。


「ああ、風の心地よいこと。絶好の『ぴくにっく』日和ですわね、ハギヨシ」

「御意」


そうして今現在、微かに弱まった春風の中を、弾むような足取りで駆けている。
右手に提げたバスケットに、空白の四十五分が生んだ努力の結晶を、乙女心と一緒に詰め込んで。


一口に「ピクニック」といっても可愛らしいものだ。
二人が行く道はあくまで、龍門渕家の私有領域を出るものではない。
言うなれば、庭を軽く散歩するようなものだ。
大した規模でもない。


「ん……いい景色。少しだけ、空が近いわ」

「御意。あちらの方角には龍門渕高校が臨めますね。それから――」


そう、ほんの五百ヘクタールばかり、屋敷の裏の丘陵地帯を私有しているだけだ。
龍門渕家全体の資産から見れば、大した規模ではないのである。


「では、少々お待ちを」


執事は一礼するやいなや、手際良く「ピクニック」の段取りを前進させていく。

可能な限りまっ平らな立地に素早く見当を付ける。
レジャーに付き物のブルーシート――もといレッドカーペットを敷設すると、隅にパラソルをも設置する。
組み立て式の椅子とテーブルが見る間に形を成し、卓上にティーポットが現れる。


「お待たせいたしました、お嬢様」


執事が再び一礼し、ごくごく自然に二歩下がる。
この間実に三十秒。
感嘆すべき早業であった。


「ありがとう、ハギヨシ」


透華はといえば、動じた様子など微塵も覗かせず、ただ眉尻をわずかに下げただけだった。
かの執事がこの程度の神業を成したところで、今さら驚嘆には値しない。
無論内心では、有能極まりない己の執事を、褒めちぎりたくて仕方がないのだが。

だが。

だが透華には成すべきことがあった。
高材疾足たる己が執事に見惚れるより先に、成すべきことがあった。
もとより、このために仕組んだ「ぴくにっく」だったのだ。

座る。
執事がセッティングしてくれた椅子ではなく、華美な装飾の施されたカーペットの上に、直に、正座で、座る。
一ミリ未満の誤差で、執事が疑念に小首を傾げた。
そんな執事の挙動を見逃すことなく、透華は告げる。


「さ、お昼にしましょう、ハギヨシ」


告げて、肌身離さずここまで提げてきたバスケットを差し出す。
このバスケットは、出発前に透華が執事に申し付けた「二、三の用件」には含まれていない代物だ。


「……その、わ、私が、作りましたの」


すなわち――恋する乙女の手作りランチ。


「よ、よろしかったら、召し上がってくださらない……?」


ぴし、と音が立ったわけでもないだろうが、執事の笑みは確かに凍った。


「嫌でないのなら、隣に来てくださいな」

「お嬢様、そのような、実に畏れ多い」

「……命令、しないとダメですの?」


凍った笑みが、一マイクロ以下の誤差で引きつった。
他の誰にもわからなかったとしても、透華にはわかった。

青年は今、葛藤している。

主の命に従うべきか、主の分別を正すべきか。
彼を葛藤させるほどの価値が己にあるのだと思うと、透華は嬉しくもあり、また悲しくもあった。

そのまま一秒、二秒。
息を呑む。
三秒待った。


「……御意にございます」


折れた。
いつだって少女と青年の攻防は、先に青年が折れるのだ。
これもまた、嬉しくもあり悲しくもある、二人の間での規定事項だった。


バスケットの蓋を開ける。
敷き詰められた二人分の昼食は、色とりどりのサンドイッチだ。


「失礼いたします」


青年が音もなく、透華の右隣に着座した。
洋装の燕尾服とは噛み合わない正座姿も、彼の手にかかれば一枚の絵画の如し。
淀みない所作、纏う空気、そのすべてが「完璧」を体現している。
青年が青年たる所以であった。

ただし彼我の空白距離、拳にして二つ分。


「……むぅ」


乙女の武器、上目遣いで睨みつけるが、執事もさる者、笑顔でさらりとかわされる。
彼にはこの空白を埋めるつもりなどさらさらないらしい。
執事として、従者としての、せめてもの妥協点なのだろう。

しかし今日という日の龍門渕透華は退かない。
退かないといったら退かない。
後から己が行いを顧みて、のたうち回ったりもしない。


「は、はい、ハギヨシ。あ……あーん」


そして、媚びる。

執事の笑みが再び凍る。
と同時に、みし、という音が確かに、透華の鼓膜にも届いた。


現在の彼我の空白距離、拳にして零個分。
わずかののちに再起動した青年は、困ったように首を横に振って、


「お嬢様、お戯れが過ぎます」

「命令」


沈黙。


「……ダメ、ですの?」

「……ありがたく、いただきます」

「っ、た」


首肯。
弱りきったような、それでいてどこか悟ったような苦笑を、執事であろうとした青年が零す。
サンドイッチを持っていない方の拳を握って、透華は短く鋭い勝ち鬨を上げた。


「ではお嬢様、失礼して」

「ど、どんと来なさい!」


そしてついに、かの執事の唇に、少女の手作りランチが吸い込まれる瞬間が訪れた。


「ふむ」


上品に、しかし素早く、透華の親指と人差し指につままれたサンドイッチの、およそ四分の一ほどが啄ばまれる。
瞬間、執事の目許が急激に引き締まる。
プロの目つきだ。
透華もつられて息を飲む。
小さく頤が上下し、さも極上のワインを舌で転がすかの如く、丁寧に丁寧に咀嚼していく。

なにもそこまで真剣にならなくても。
名だたる三ツ星レストランのディッシュを口にしたわけでもあるまいに。
もう少し気軽に食べてもらいたかった。
ああでも、粗雑に扱われたらそれはそれで悲しいし。
いやいや、あのハギヨシに限ってそんなことをするわけが……

脳髄を吐き出しそうな緊張感をこらえながら、透華の思考は堂々巡りを続ける。
青年が一口目を飲み込み終えるまでの十数秒が、薄く長く引き延ばされる。

おいしいと言ってほしい。
でもお世辞は言ってほしくない。
どうせ不味いなら、一流シェフをも唸らせる彼の舌で、建設的な意見を授けてほしい。
ああいやしかし、叶うことなら純粋に、小難しい言の葉など尽くさず、自分の努力の成果に微笑んでほしい。

どれが本音なのかは、透華自身にも杳として知れなかった。
結論が出る前に、一つ目のサンドイッチは手の中から消えていた。
その事実に透華はワンテンポ遅れて気が付いた。
慌てて視線を持ち上げると、


「美味にございました、お嬢様」


そこには満面の笑顔があった。


真っ先に脳裏を走った感情は、「嬉しい」だった。


「全体として、具材の調和が取れております。例えばこのトマトなど――」


ただ、嬉しくて、ひたすらに嬉しくて――でも。


「――卵の仕上がりなど、食べる者の身になって調理されていることがよくわかります。私好みの味です」


そんなこと当然です。
だって、ずっとずっと前から、貴方ですら想像もつかないであろうほどに昔から、貴方好みの味を研究していたんですもの。

心の声は飲み込んだ。


「また、こちらのバスケットそのものにも見るべき点が。彩り鮮やかで、食べる者を視覚的に楽しませることができます。二つ目をいただいてもよろしいですか?」


小川のように澄んでいて、清らかな声が流れていく。
板を立てようが立てまいが清流はとどまるところを知らず、美辞麗句がつらつら抜けていく。
弁舌と技法の限りを尽くして、執事の声が透華の作品を褒めちぎる。

それ自体はとても喜ばしいことだった。
努力の報われた瞬間だ、嬉しくないわけがない。
自分の料理を彼が褒めそやしてくれる。

これ以上、なにを望めというのか。


「……お嬢様?」


本当に、くだらない。
餓鬼そのものだ。
彼が褒めてくれているのに。
自らの手で、彼の満面の笑みを呼びこめたのに。
これ以上など、望むべくもないというのに。


「お嬢様……」


なぜ私は、「悲しい」と感じているのだろう。


「ありがとう、ハギヨシ。そこまで喜んでくれたなら、腕を奮った甲斐があったというものですわ。それでは私も」


手遅れだとはわかっていたが、内心をひた隠すべくまくし立てる。


「お嬢様」


まくし立てようとして、遮られる。
そして目が合った。
青年はいまだ薄く微笑んでいたが、その眼差しに悔いるような色が滲んでのち、


「おいしいです」


笑みの種類が、変わった。


「おいしいですよ」


一部の隙とてない、「完璧な執事」の笑みから、幼い日の少女が好きだった、「優しいお兄さん」の笑みに。


「とてもおいしいです。貴女が、私のために、真心をこめてくださった」


そうだ、これが欲しかったのだ。
少女が欲しかったのは、「透華お嬢様」を褒め称える言葉などではない。
少女が欲しかったのは、「龍門渕透華」を撫でてくれる手のひらだったのだ。


「ただそれだけで、この上なく、無条件に、おいしくて……幸せです」

「ん、んん、えぅ」


やばい、変な声出た。
などと羞恥に身をよじるだけの理性は、もはや透華には残っていなかった。


「ん、んー、んふふふふ、うふふふふっ。はぎよしぃ」


髪の毛をくすぐるあたたかな温度が、あまりにも幸せで、嬉しくて、とろとろで、ふわふわで。
言葉はなかった。
そんなものはいらなかった。

その後しばらく、透華は右頬を執事の左肩に預けて、熱したマシュマロのようにふやけていた。


左手にソーサーを、右手にティーカップを。
フライパンの上のバター状態から脱却した透華は、彼の淹れてくれた紅茶を一口二口と啜った。

風は止みそうで止まない。
透華の金髪を揺らしては止まり、止まっては揺らす。
眼前に広がる背の低い草木の真上を、駆けて靡かせ、靡かせて吹き抜ける。
太陽は高く日差しは強かったが、白雲が適度に青空へと斑を打って、陽光を和らげてくれていた。

一度、肩を回して伸びをした。

バスケットは空になった。
彼の温度も十分堪能した。
そろそろ、この楽しかった企み事をお開きにしてもよい頃合いだろう。

そう考えて執事の横顔を盗み見る。


(……あら?)


その時、透華は目撃した。

執事が一瞬、ほんの一瞬だけ、眉間に皺を寄せて眉根を捻った。


「ハギヨシ」

「はっ」


とっさにソーサーを置き、ティーカップの液面に指を滑らせた。


素早い動作で執事の懐に入ると、


「……お、お嬢様?」


その瞳のすぐ下を、湿った人差し指でなぞった。
なぞった指に淡い乳白色がこびりついていた。
その意味を理解するのに、刹那の時とて必要ではなかった。


「あら、あら。あらあらまあまあ」


自然、声が低くなる。
執事は目に見えた動揺こそ晒さなかったものの、唇を引き結んでいた。


「“くま”ができてますわねぇ、ハギヨシさん? 随分とファンデーションの使い方がお上手ですこと」

「……お褒めに預かり、恐悦至極」

「ハギヨシ」

「はっ」

「ここ一週間の平均睡眠時間を告白なさい」


少女は一オクターブ分、声を低くし押し殺した。
青年の引き結んだ唇の端が、これまた一瞬ひくついた。


「正直に答えなさい」

「およそ、二時間二十七分にございます」


心地よさとは無縁の沈黙が、草原を吹いて抜け――なかった。
沈滞した空気の中心に鎮座するのは、極めて珍しいことにばつの悪そうな顔をした執事であった。


「ハギヨシ」

「はっ」


このやりとりも都合三度目だが、透華の声色は繰り返すごとに険しくなっていく。
そして、比例するように執事の背中が小さく丸まっていく。
よもや悟られるとは思っていなかったのであろう。

舐められたものだ、と透華は思う。
わからないわけがない。
誰よりも近くで、誰よりも長く、誰よりも真剣にその横顔を見つめてきたのだ。
どんなにささやかなサインであろうと、こと彼女の愛する執事に関して、龍門渕透華が見落とすはずがないのだ。

透華は一つの決意を固めた。
素敵に愉快な企み事を、まだ終わらせるわけにはいかない。
息を小さく飲み込んで、拳で軽く胸を叩いて、重々しく唇をこじ開ける。


「寝なさい。今、ここで」


ポン、と正座に組まれた腿を叩く。
その意味を理解できないほど、かの執事が愚鈍なわけもなかった。


「……お嬢様、それは」

「命令ですわ」


一度目の「命令」。
大抵の場合、執事はここで折れる。
執事が折れなければ透華が折れる。
透華と執事、各々にとっての重要な防衛ライン。


「なりません、お嬢様。節度を弁えてください」


執事は折れなかった。
一度目の命令を、執事は確たる語勢で拒否した。
そのこと自体、近年まれにみる珍事ではある。

こうなった以上は透華が折れるしかない。
命令の拒否を、二度目の威令で押しきったことなど一度もない。
かの執事が、主の命令を拒否するとはどういうことなのか。
その重みを知っているからこそ、これ以上の我を通したことなどなかった。


「命令、しますわ」


しかし透華は、そのラインの内側に、臆せず踏み込んだ。

それは、一種の禁忌を犯した瞬間でもあった。


腹が立った。
苛立たしかった。

確かに青年はいついかなる時でも完璧だ。
完全無欠の執事だ。
龍門渕家に仕える者として、諸人の模範であるべき振る舞いを、常々要求されて止まぬ身だ。

でも、だからといって。
自分の前でまで、困憊の色を押し隠してまで、“そう”であってはほしくなかった。
彼の全うすべき職責からすれば、自分の前でこそ完璧であらねばならない、ということはよくわかる。
頭では理解できる。

でも、それでは嫌なのだ。
理屈を抜きにして、感情が叫んでいるのだ。
彼には健やかであってほしい。
自分の前だからこそ、混じり気のない素顔をさらけ出してほしい。

それをしてくれなかった眼前の青年に、透華は腹を立てていた。

そしてなにより――――己に腸が煮えくりかえっていた。

情けなかった。
途方もない激務を重ねる青年の身の上など一顧だにせず、今の今まで邪気無くはしゃいでいた自分が、情けなかった。
今の今まで、青年の身体に蓄積した疲労を見過ごしていた自分が、恨めしかった。
どうしてもっと早く気付いてあげられなかったのか。
味の好みなどにかかずらってる暇があったら、一人で成せることを少しでも増やして、彼の負担を減らすべきではなかったのか。

去来する自責の念は重石となって、胸の奥深くに詰まる。
そんなやるせない想いの数々が、ついに透華に禁忌のラインを踏ませたのであった。


二度目の「命令」を下し、透華は俯いた。
俯いて、唇を噛んで、目を瞑った。


「一つだけ、申し上げておくならば」


声が聞こえた。
耳を塞ぎたくなる衝動を、必死で噛み殺した。


「私の生き甲斐を取り上げるようなことだけは、どうかお考え直しいただきたいのです」


喉が鳴った。
顔を上げた。
目を開いた。


「私は、執事という生き方に誇りを持っております。しかしそれ以上に、透華様のお側に仕えられる一分一秒に、生き甲斐を感じております」

「え……」

「私は貴女の執事です。お呼びとあれば参上します。それが使命だからです」


「優しいお兄さん」の笑みで、「完璧な執事」を謳った青年がそこにいた。


「でも」

「ですが。私がただ、職務だからというそれだけの理由で、貴女に仕える男だと思われるのは、それは……少々、遺憾です」

「ひゃ、え」

「どうかお願い申し上げます、透華お嬢様」

「え、は、ぁ、はい」


意味を成さない少女の音吐。
応える青年の声色はどこまでもあたたかくて。


「私から、貴女を奪わないでください」


じん、と視界が滲んだ。
涙、ではないようだ。
どうやら首から上を支配する暴熱が、視界を眩ませているらしい。


「で、でもでも、それで、寝るいとまを削っては」

「ご安心くださいますよう。近頃は少々立てこんでいただけなのです。さしもの私も、年中三時間未満の睡眠で脳を潤しているわけではございませんよ」

「……本当に?」

「誓って」


透華は熱を振り払い、執事の瞳をじっと見た。
虚飾の色はない。
腹芸のお得意なかの執事ではあるが、透華にはわかる。

他の誰にもわからなかったとしても、わかる。


「そう、わかりました。信じますわ」


一際強い風が吹いた。
私室のバルコニーからこっち、羽織りっぱなしのショールを押さえて頷く。
涼風がほんのわずかだが、頬の紅を拭ってくれた気がした。


「しかしお嬢様の仰りようも、また正論ではありました」

「……はい?」

「執事にも、休息は必要です。少なくとも、つまらない小細工を弄して、お嬢様にお叱りを受けぬ程度には」

「ハギヨシ?」


聞き返した己が声色に、疑問の響きはなかった。
確認と、驚愕と、焦燥のない交ぜになった響きだった。


「ではお嬢様、大変恐縮ではございますが」


首から上を支配する熱が、ぶり返したような心地がする。


ああもう、まったく。
この執事ときたら。




「枕をお一つ、貸していただけますか?」




横たわったその体に女物のショールでも被せて。

幼子しか喜ばないような子守唄でも唄って。

ついでに頭でも撫でてやろうか。

透華は半ば本気でそう思いながら、唇を尖らせてそっぽを向いた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


少し離れた草むらの中。


「……衣が着いて来たがらなかった理由が、よくわかった」

「俺、砂糖吐くけどいいか?」

「やめてよ純くん、景観を損なうでしょ」

「それにしても、あんなに無防備な萩原さん、初めて見た」

「アレでいいのか、執事として?」

「……多分だけど。ボクたちがこうして、旦那様のお言い付けでここにいること、わかってるんじゃないのかなぁ」

「えっ」

「……わかってて、アレ? わかってて、あんなに見せつけてくるもの?」

「まあまあ。それだけボクたちが、萩原さんに信頼されてる証だと思おうよ」

「嬉しくねえ」

「嬉しくない」

「うん、ボクも嬉しくはないや」

「このやるせなさ、どう表現するよ」

「今、私の脳裏をとある一節が過った」

「奇遇だねぇともきー。ボクもだよ」

「せーので言うか。吐き捨てちまうか。砂糖と一緒に」

「……それではみなさん、ご一緒に」



「「「一生やってろ」」」



おあとがよろし……くはないですね、別に
ではまたいつかお会いしましょう
ご一読ありがとーごぜーました

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