P「出来損ないのプロデューサー」(231)
リモコンの電源ボタンを入れて、チャンネルを回す。
独りの夕飯時の暇つぶしにはちょうどいいから点けた……というわけでもない。
ただこれが習慣であり、当たり前になってしまっていたというだけだった。
「……!?」
不意にチャンネルを回す手が止まる。
ゴールデンタイムの歌番組。画面いっぱいに1人の女の子が歌って踊っている。
彼女の姿はあの頃から変わらず可愛らしいままだった。
変わったとすれば、それは歌唱力やダンスといった技術だろう。
カメラ目線、女の子と目があう。
がむしゃらに歌って踊っていたあの頃と違って、今はカメラワークもしっかりと意識して動いている。
「……って、何で俺がこんなことを気にかけなくちゃいけないんだ」
今となっては関係のない話。
かつて彼女をレッスンで指導していたこと。
かつて彼女のために仕事をとってきたこと。
かつて彼女と一緒にオーディションに挑んだこと。
かつて彼女のプロデューサーを勤めていたこと。
かつて彼女の一番側で支えていたこと。
全ては昔のこと。今となっては関係のない話。
「……」
リモコンの電源ボタンを押して、テレビの電源を切る。
ブツンという安っぽい音と一緒に彼女は消えた。
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歌番組の生放送を終えた彼女は、スタッフに挨拶を済ませると事務所に戻った。
事務所では高木社長が「生放送、みていたよ。素晴らしい出来だったじゃないか」と賞賛の言葉を送ってくれた。
その言葉に側にいた事務員の小鳥は、彼女なら当然ですよと茶々を入れる。
それは本来なら小鳥のいう台詞ではなかった。彼女なら当然だと誇らしげに語ってくれるのは、いつも彼女のすぐ側にいた彼の台詞だった。
小鳥の正しい台詞は「二人共、流石ですね!」と彼女と彼を労ってくれるものだ。
「我が765プロに君のようなアイドルがいてくれて良かったよ。アハハハ!」
高木社長が豪快に笑い、釣られて小鳥と彼女も笑いだす。
事務所に笑い声が響く。その中に彼の笑い声は混じっていなかった。
帰宅して、寝ようとする彼女は電気を消すためにスタンドの紐に手をかける。
スタンドのすぐそばには写真立て。そこには765プロの集合写真が収められている。
真ん中に写ろうとする当時のアイドルたち。彼女たちに押しのけられた彼が隅の方で目立たないように立っている。
視線を移すと、写真立てがもう一つ。中身は彼女と彼のツーショット。
番組収録のロケ先で、現地のスタッフに撮ってもらったものだ。
写真の中の彼は、彼女の横で優しい笑顔を浮かべている。
しかし、彼はもう自分の横にはいない。
彼女のプロデューサーである彼は、ある日を境に姿を消してしまったからだ。
もう随分と彼に会っていない。何度も連絡を取ろうとしたことはあったが、結局は通じなかった。
彼のことを感じ取る術は彼との思い出を振り返る、メールを読む、そして今こうしているように写真を見つめるくらいのものだ。
プロデューサーとして隣にいてくれた頃は彼のことを考えただけで暖かい気持ちになれたのに、今はただ辛いだけ。
それでも、彼女は彼のことを考えずにはいられなかった。忘れることができなかった。
彼女は目尻に涙をためながら、小さく「会いたい」とつぶやいた。
読みづらいのか? すまない、こっちでやるのは始めてなもんで。これが普通だと思ってた
教えてくれてありがとう。次から気をつける
「お久しぶりです、プロデューサーさん」
「ええ、こちらこそ。お久しぶりです、あずささん」
そこで会話が途切れる。別に何かを話さなくてはいけないというわけではない。
それでもあずさは会話を続けるために口を開く。
「えっと、プロデューサーさんが元気そうで安心しました。ずっと連絡がとれませんでしたから」
「ええ、元気ですよ。健康が取り柄みたいなものですし」
小さく笑う二人。
元気だという彼の言葉は嘘だ。
健康なことは事実だが、あずさの言う元気というのはそういうことじゃない。
彼はそれを理解した上で、あずさに元気だと言う。
「そう言えば……この間、生放送の歌番組見ましたよ。ほら、ゴールデンタイムの」
「ほ、本当ですか。なんだか恥ずかしいです」
あずさは顔を隠すように両手を赤くなった頬にそえる。
もう何度も見たその仕草に、彼は懐かしさを覚える。
「まっ、実際懐かしんだけどさ」
「プロデューサーさん、何か言いましたか?」
「いえ、あずささんは変わらないな。そう思っただけです」
「そうですか。あの、プロデューサーさん……どうでしたか?」
「どう……と言いますと?」
「その、私のパフォーマンスです。歌って踊っている時は、自分のことは見えませんから」
「そうですね」
彼は両手を組んで考える……ふりをする。
プロデューサーをしていた頃のように、あずさのそばで、あずさのことを見ていたわけではない。
そもそも、あの番組は偶然見たものだ。その上、彼はあずさの出番が終わる前にテレビを切った。
細かい指摘など出来るはずもない。
それでも彼女は、彼の言葉を期待した目で待っている。
だから彼は……
「とてもよかったと思いますよ」
とりあえず、あずさのパフォーマンスを褒めることにした。
実際、彼はあずさのパフォーマンスの完成度は高いと感じた。
しかし、それはテレビ越し、観客としての目線での意見でしかない。
現場を離れた自分の感覚が本当に当てになっているかはわからなかった。
だから、彼はこんな当たり障りのない言葉を選んだのだろう。
「カメラ、しっかりと意識して動いていましたね」
「あっ、わかりますか? 自分ではちゃんとできたか不安だったんです」
彼女の今のアイドルとして立ち位置ならカメラの把握などできて当然だ。
その後も彼は、「歌詞に合った歌い方でしたよ」とか「もう少し動きを……」といった、
いかにもプロデューサーらしい言葉をあずさにかけた。
正解を当てなくていい。あずさの心を動かせれば、それでいいのだから。
後はあずさが勝手に完結してくれる。
事実、あずさは「うーん」と言って、自分のパフォーマンスを振り返っているようだ。
彼の的確でもなんでもない嘘の言葉。
そんな言葉でも、あずさは……
「ありがとうございます、プロデューサーさん」
とても喜んでくれた。
「秋月……どうしてお前がここに」
突然の展開に冬馬は動揺を隠せない。
何も行動せず部屋に引きこもっているのだ、もう彼は765プロと関わりがないと思っていた。
だが、事実として律子が目の前にいる。
「おかえり、律子」
動揺する冬馬をよそに彼は律子を迎える言葉を送った。
彼の言葉に、律子は優しく微笑み返す。
冬馬は、律子が鞄と一緒に白いビニール袋を抱えていることに気づいた。
そこには、様々な食材が入っていた。
彼と律子のやりとりと袋の中身で、冬馬は大体を察した。
その瞬間、冬馬の中で何かのラインを越えた。
「ハッ! そういうことかよ……IUを制覇した人気ユニット竜宮小町のプロデューサーにかかれば、引きこもりの男一人食わしていくくらい楽勝だろうな」
自分の中の感情を叩きつける言葉ではなく、明確に相手を傷つけるための目的をもった言葉が出る。
冬馬は、彼をねじり上げる方の手に力を入れて彼を壁に叩きつける。
「冬馬、プロデューサー殿に!」
「こいつをプロデューサーなんて呼ぶな」
冷たい目で彼を目下す。彼に変化は見られない。
「あんたはプロデューサーなんかじゃねえ、ただの出来損ないだ! プロデューサーとしてだけじゃなくて男としてもな!」
冬馬は彼に向かって、そう吐き捨てると部屋を出て行った。
部屋に沈黙が残る。
彼は壁に背を預けたままズルズルと座り込んだ。
「出来損ないか……まったくだ」
「出来損ないでいいじゃないですか。完璧な人なんてどこにもいませんよ」
―それは詭弁だよ、律子。いや……俺を慰めるためか―
「私は、あなたの味方ですよ」
耳元で甘く囁く少女。
少女はスーツの上着を脱ぎ、薄緑色をしたブラウスのボタンに手をかけた。
ベッドの上で、若い男と少女が生まれたままの姿で求め合う。
いや、求めあってはいない。むしろ、男からの一方的なものだ。
少女は男からの激しい責めを受け止めている。
少女にとっての初めての経験も今と同様に激しく一方的なものだった。
男を気遣って、言葉で慰めようとしたら男の琴線に触れてしまった。
いまにして思えば、当然だったのかもしれない。
男は大切なものを失った。反面、少女は栄光を掴み取った。
そんな「勝者」である少女の言葉が、どうして「敗者」である男の心を慰めることが出来るのだろうか。
お前に何がわかる、それが男に組み敷かれた時に放たれた言葉だった。
引き裂かれるような痛みに涙しながら少女は男の顔をみた。
泣いていた。少女とは別の……銀髪の少女の名前を呼びながら。
―この人は壊れてしまう―
初めてのことを終えた少女は、そう思った。
少女のもつ強い責任感と、栄光を掴む時にできた男に対する微かな淡い想いがそれを加速させた。
だから、少女は今も男を慰めている。
白い肌を興奮で赤くし、男に責められることに悦びを感じながら。
少女の嬌声が耳から入り、脳髄に伝播していき、男の中で更なる興奮と快楽がうまれる。
男は理解していた。自分が少女にしていることが逃避であることを。
こんなことは一時的なもので何も意味をなさない。
だが、今の自分に事態を動かせるほどの力はない。無力だ。
男に出来ることは、自分の不甲斐なさを欲望に混ぜ合わせて目の前の少女に叩きつけることだけだ。
男の腰のあたりに甘い痺れが走る。男が腰を引くと同時に欲望が少女に向かって吐き出された。
―俺は悪人になりたい―
欲望を吐き出し終えた男は、一瞬そんなことを考えた。
何もかも自分に都合よく捉えて、自分のことだけを考えて、罪悪すら感じない。
そんな「性格的にクズ」と言われる部類の人間になれたら、
今の自分の苦しみから開放されるんじゃないかと……そう考えた。
家に帰る途中、誰かの泣く声が微かに聞こえた。
気のせいかもしれない。
無視して帰って寝ればいい。それで済む話だ。
だが、彼はそれをすることができなかった。
暗闇の中、泣き声をたどりながら歩く。
徐々に大きく聞こえてくる声。泣いている声は聞いたことはなかったが、貴音の声に似ていた。
小さな人影が見えた。声はそこから聞こえてくる。彼は「貴音か?」と声をかけてみた。
どうして声をかけたのか?
理由なんかない。あげるとしたら、放っておけなかったからだ。
泣いている人がいたら、声をかける。
それをすることは彼にとって自然だった。
声をかけると、黒い影が威圧的な空気を醸し出した。
警戒されている。こんな夜に後ろから馴れ馴れしく「貴音」と呼べば当然か。
そもそも貴音だということもわかってない。
もう一度、確認のため「貴音……だよな?」と声をかけてみると、威圧的な空気は消えた気がした。
空が晴れて、影に色がついた。輝く銀髪、貴音だった。
「久しぶりだな。どうしたんだ、そんな顔してさ?」
目の前の貴音の顔は信じられないものを見たような顔をしている。
彼は貴音から夜空の月に視線を変える。
「月を見ていたのか? ははは、貴音は相変わらずだな」
「……」
「それにしても、まさかこんな所で会えるなんて俺たちには不思議な縁があるのかもな。もう俺たち」
「貴方さま!」
プロデューサーとアイドルの関係でもないのにな。
彼がそう言い終える前に、貴音は飛びつくように抱きついた。
ふわりと甘い香りが彼の鼻腔をくすぐる。
律子のものと似ているが、どこか違う。
これは貴音の匂いだ。そうか、これが貴音の匂いなんだ。
「……貴方さま……貴方さま……貴方さま」
貴音は愛しい人の胸で嗚咽を漏らしながら、何度も名前を呼ぶ。
彼はそんな貴音を抱きしめようとする。
二人の距離が更に縮まる。貴音の香りを一層強く感じ取れた。
愛おしさがこみあげてくる。
強く抱きしめる瞬間、貴音の背中に回した両手を貴音の肩まで運びなおす。
彼は貴音を引き離すように、手を前に出した。
「……貴方さま……どうして」
「俺には出来ないよ……何も」
貴音から目を逸らしながら彼はそう答えた。
貴音は彼の手をとった。その手は、夜の空気にさらされた彼の手と同じように冷たかった。
貴音は彼の手を、自分の頬にそえる。冷たかった。
自分には、貴音に温もりすら与えてやることが出来ない。
やっぱり俺に出来ることなんて何も……
突然、貴音の頬に添えている方の手の指先に湿り気を感じた。
貴音の頬を伝って落ちた涙だった。
「助けてください……貴方さま」
貴音の涙と助けを求める言葉が、彼の中で何かを弾けさせた。
泣いている。貴音が泣いている。
俺はまた貴音を泣かしてしまったのか?
あの時の、IA大賞発表の夜の時みたいに。
だとしたら……わかりきっていることだけれど、俺は最低だ。
担当だったアイドルを二度も泣かせるなんて、冬馬の言うとおり出来損ないプロデューサーだ。
でも、貴音はそんな俺でも求めている。助けてくれと言っている。
なら、俺のするべきことは……
「貴方さま……」
「貴音……俺は……」
―やめろ!―
自分の中から湧き上がる想いを口にしようとした時、粘液が湧いてきた。
―何を考えている。まさか、「お前を助けてみせる!」なんて言い出す気か? カッコつけるなよ―
粘液は、彼の想いを塗りつぶすように更に湧き出てくる。
頭が割れるような痛みが走る。息も荒くなってきた。
―大体、助けるってどうやってだ? さっき抱きしめようとしたみたいに貴音の寂しさでも埋めてやるのか?―
粘液の分泌は止まらない。
貴音が何かを言っている。よく聞きとることが出来ない。くぐもったような声だけする。自分を心配している顔をしていることだけは見てわかった。
―それとも、律子とは違って優しく「して」やるのか?―
粘液が頭を埋め尽くしてしまう。視界までぼやけてきた。
―お前、どうせ貴音の涙と言葉でその気になっただけだろ?―
顔中から粘液が溢れ出てくる。
彼はなんとかそれを防ごうと両手で頭を抱え込むように覆った。
だが、粘液は溢れ続け、押さえ込んでいる指からドロリとはみ出てきた。
無茶苦茶に頭を振るが、粘液は振り払えることなくベッタリとへばりついている。
―そういうの何て言うか知っているか……自己満足って言うんだよ―
「黙れえ―――――――――――!」
すぐそこに貴音がいることを考える余裕もなかった。
彼は悲鳴のような叫びをあげながら駆けだしていった。
傘を持ってくればよかった。
黒い雲に覆われて今にも雨が降りだしそうな空を見上げて、彼はそう思った。
彼は公園のベンチに座り、人を待っていた。
昨日の内に、会って話したいという要件をメールでは伝えてある。
もっともこちらから一方的に送ったものでしかないので、来る保証はない。
それでも、彼は相手が来るような気がした。
あいつはそういう男だ。
しばらく待っていると目的の人物がやってきた。茶髪に目立つ赤チェックの服、天ヶ瀬冬馬だった。
「来てくれてありがとう、冬馬」
「馴れ馴れしいんだよ。何の用だよ……出来損ない」
冬馬は彼に対する嫌悪を隠すことなく吐き捨てた。
「昨日、貴音と会ったんだ。貴音は泣いていたよ」
冬馬は一瞬きょとんとしたが、すぐにいつものような鋭い目つきに戻した。
「……あんな奴でも泣くときがあるんだな」
「ああ、俺も驚いたよ」
彼は自嘲気味な笑みで返した。
「それで、あんたはどうしたんだよ?」
冬馬は鋭い目つきのまま彼に尋ねた。
彼はしばらく黙り込んだ後、「逃げだしてきたよ」と答えた。
冬馬は彼の返答に「そう……かよ」と怒りを抑えながら、震える声で言った。
「わかったことがあるんだ」
彼は今にも殴りかかってきそうな冬馬から目を逸らしながら言った。
「自分が未練がましい人間だってこと」
彼は昨晩の貴音の顔を思い出しながら、つくづくそう思った。
「自分には貴音たちに見合う力がなかったとか、自分に貴音をどうにかする力なんてないとか、気持ちの整理はついたとか……それはわかっていることだったし、散々言い聞かせてきた。自分でも納得していた」
この間、冬馬にねじ上げられた時のように彼は独白を続ける。
「それなのに、実際に貴音を見たら……貴音に対する気持ちがどうしようもない程に溢れてきた。貴音は俺に「助けてくれ」って言ってくれた。俺はそんな貴音を見て、確かに助けたいって思ったんだ。でも……やっぱり俺には無理だっていう気持ちが出てきた」
「助けたいって思ってるんじゃねえか。無理だとか、そういうのは逃げ道でしかないだろ」
「ああ、まったくだ」
自分の感情が逃げ道だとハッキリ言ってくる冬馬に、彼は頷いた。
そう……わかっている。自分のやってきたことは逃避でしかないことなど。
「あんたは答えを出したのかよ?」
「貴音が泣いている。なら、俺のしなければいけないことは決まっているよ。だから、頼む……冬馬の力を貸してほしい」
彼は、冬馬の目をしっかり見ながら言った。
冬馬は「それが俺を呼んだ理由かよ」と言い、彼は「ああ」と短くだけ答えた。
冬馬は彼の目に視線を固定したまま、ゆっくりと歩み寄る。
「まったく……あんたは」
どこか呆れのニュアンスが混じっていたが、穏やかな声だった。
冬馬は、フッと笑う。彼も同じように唇を歪めた。
直後、冬馬は彼の左頬に握り拳を叩きつけた。
雨が降りだしてきた。
フライパンに蓋をして、火にかけること数分。
蓋を開けると、湯気と一緒に味噌の香りがした。
フライパンを軽くゆすり、中にある鯖と煮汁を絡める。
彼はガスコンロの火を消し、フライパンの中身を白い皿に移した。
白い皿と一緒に、ご飯をもった茶碗、ほうれん草のおひたしが乗っている小皿をテーブルまで運ぶ。
テーブルには座布団の上であぐらをかいている冬馬がいた。
冬馬は割り箸を割って、彼の運んできた料理を食べ始めた。
この間の雨の日から三日たった今日、冬馬は彼から話があると連絡がきたので彼の部屋に出向いた。
彼の部屋に来ると「夕飯はまだか?」と聞かれたので「ああ」と返すと、彼は「わかった」と言って、いま冬馬が食べている料理を作った。
「それで……具体的にどうするんだ?」
冬馬は程よく甘辛い鯖味噌を食べながら質問した。
自分を呼び出すということは、今後について何か決まったということなのだろう。
「貴音を助けるためには、そもそも貴音に会わなくちゃいけない」
彼は自分の分の鯖を煮込みながら、そう答えた。
「連絡先、知らないのか?」
「ああ……」
彼は四条貴音の連絡先は知っていたが、大富貴音の連絡先は知らなかった。
四条貴音のケータイに電話をかけてみてが、「おかけになった電話番号は現在つかわれておりません」と事務的な機械音が返ってきた。
メールも送ってみたが、電話の時と同じような内容のエラーメールの返信がきた。
待ち伏せも考えたが、貴音にあらぬ噂が立ちかねないので止めた。
「冬馬、お前にはアイドルとして復帰してもらう」
なるほどな……
冬馬は黙ったままだったが、彼の考えを察した。
確かに芸能界にいれば、貴音と接触する機会は夜道を歩くより可能性はある。
彼はもう一度、プロデューサーとして芸能界に足を踏み入れる気でいるのだろう。
だが、一つ問題があった。
「アイドルに復帰するって言っても、俺はもう961プロを抜けたんだぜ?」
アイドルを辞めた冬馬は、どの事務所にも属さないフリーランスだった。
現在は元アイドルとしてルックスの高さを活かし、ファッションモデルの仕事などをして生計を立てている。
普通に暮らしていくならそれで問題はないが、アイドルとして活動をするとなると形式上、どこかのプロダクションに籍を置かなければならない。
765プロにでも籍を置くのか?
冬馬は、鰹節の上から醤油がかかったほうれん草のおひたしを口に含めながら彼の背中を見つめた。
「冬馬の新しい所属プロダクションは、もう決まっているよ」
冬馬の疑問に対して「そんなことはわかっている」というニュアンスを含めた声で答えながら、彼は自分の夕飯をテーブルに運んできた。
料理を置いた彼は近くにあるクリアファイルから数枚の紙切れを取り出し、冬馬に渡した。
紙には、現住所や緊急連絡先、労働条件や給与振込先といった内容の文章が並んでいた。
最後の紙の一番下には、彼の苗字の後にプロダクション社長と書いてあり、彼のフルネームと捺印がされてある。
契約書だった。
「俺が建てた芸能プロダクションだ。冬馬は俺の会社の所属アイドルになってもらう」
こいつ、正気か?
冬馬は唖然とした顔で彼の顔を見たが、彼の顔は当然だと言っている。
「プロダクションに所属してなきゃいけないのは、あくまで形式として……いわば、アイドルとしての体裁みたいなものだ」
だから無名の芸能プロダクションであっても、冬馬が実在するプロダクションに籍を置いている事実があればそれでいい。
「冬馬の実力なら平気だよ。すぐにのし上がれる」
「ふん、当たり前だ」
冬馬は自分がそれだけの力を持っていることを自覚していた。
彼の言葉を借りるなら「そんなことはわかっている」といったところだ。
自信に溢れる冬馬の姿を見て、彼はやはり冬馬に協力を申し出てよかったと再確認した。
ライバルとしては恐ろしかったが、味方としてはこれほどまでに頼もしい存在はいない。
「なあ……」
突然、冬馬がご飯を食べながら聞いてきた。
「このプロダクションの社員って……」
「俺一人だ。俺は社長兼プロデューサー兼マネージャー兼トレーナー兼事務員兼清掃員兼その他諸々だ」
即答だった。
「大丈夫なのかよ。その……事務とか経理とか。あんた、プロデューサーだったんだろ?」
「パソコンでデータの打ち込みは出来るし、小遣い帳のつけ方くらい知っているよ。安心してくれ冬馬、仕事というのは覚えれば出来るものだから」
冬馬は思わず頭痛を抑えるように頭に手をやった。
何だか不安になってきた。
契約書に載ってある住所と電話番号が目に入る。
それはどこか見覚えのあるものだった。
まさか……
冬馬はポケットからケータイを取り出し、彼のプロダクションの電話番号にコールする。
直後、彼の部屋の電話が鳴り響いた。
彼は冬馬に意地の悪い笑みを浮かべながら受話器をとった。
「お電話ありがとうございます。こちら……」
冬馬のすぐ近くとケータイから彼の明るくハキハキした声が聞こえてきた。
彼が芸能プロダクションを設立してから、3週間が経っていた。
冬馬は自分の所属するプロダクションの事務所、つまり彼の部屋で雑誌を読んでいた。
雑誌の表紙にはゴシック体で「衝撃! 天ヶ瀬冬馬、復活!」と大きく書かれていた。
他にも「呉越同舟? 元961プロアイドル天ヶ瀬冬馬と元765プロ所属プロデューサーが新プロダクションを設立」と書かれている雑誌や、「天ヶ瀬冬馬、再デビューが起こす経済効果。アイドルバブル再びなるか?」と書かれている雑誌、また別の雑誌には……と言った具合に方向性は様々だが自分が再デビューすることが取り上げられている雑誌がテーブルの上にたくさんあった。
この3週間、冬馬はアイドル活動をしていなかった自分のブランクを取り戻すためにひたすらレッスンに打ち込む傍ら雑誌のインタビューに応えた。
インタビューを載せている雑誌はどれも有名なものばかりで、恐らく自分の考えている以上に「天ヶ瀬冬馬の再デビュー」は世間で話題になっているだろうと予測できた。
冬馬は雑誌を読み終えるとテーブルに雑誌をバサっと投げ捨てた。
自分のことが話題となっている雑誌ばかりが広がっているテーブルを見ていると、なんだか自分という存在が世界を埋め尽くしているような征服感がした。
だが、同時に腑に落ちないことがあった。
冬馬は自分の実力の高さをよく理解しており、それに絶対の自信を持っている。
自分ならば世間を賑わすことなど造作もない。事実、無数の雑誌がそれを物語っている。
だが、いくら実力があっても、話題の転換が早い芸能界で一度は芸能界を去った自分にそこまで注目が集まるのだろうか?
あれだけの有名雑誌、しかも複数の取材枠を自分の再デビューという話題だけで勝ち取れるとも思えなかった。
だとしたら、誰か仕掛け人がいるはずだ。
「なあ、やっぱりあんたが何かやったのか?」
冬馬は机のパソコンと向かい合って作業をしている彼に向かって言った。
彼はキーボードを叩く作業を止めて、クルッと椅子を回転させて冬馬の方を見る。
手にはコーヒーの入ったマグカップを持っている。
「元々、世間の冬馬に対する興味の火は消えてなかったんだ。なにせ、冬馬のいたジュピターはあまりにも突然すぎる解散をしたから」
「ああ……」
「冬馬や他のジュピターのメンバーが芸能界を去って、芸能界は間違いなくつまらなくなったよ。今のアイドル達のレベルが低いというわけじゃないけど、冬馬たちのレベルのアイドルっていうと本当に少ない」
「それは四条たちのことか?」
彼は冬馬の問いに何も答えずコーヒーを少し飲んだ後、話を続ける。
「だから、多くの人は望んでいたと思う。また芸能界を大荒れさせてくれるとんでもないアイドルを」
「それがあんたの言う俺への興味の火か?」
「今回はその火に冬馬の再デビューっていう大きな燃料が投げ込まれたんだ。燃え上がらないはずがない。後は、それをどんどん燃え移さしていくだけだ」
「じゃあ、あの雑誌取材って……」
「俺のつてだよ。Project Fairyのプロデューサー時代に色々とお世話になってさ。協力してもらった」
「なるほどな」
冬馬は納得したような様子で頷いた。
仕掛けというほどに手の込んだものではなかった。要するに彼は自分の持つパイプを有効利用したということだ。
「それじゃあ、後は俺が本格的に再デビューして一気に燃え上がらせればいいんだな?」
自然と体に力が入る。彼に協力する形とは言え、またステージに立てると思うと不思議と気分が高揚してくる。
だが、彼は「いや、まだだ」と短く、ハッキリと冬馬の言うことを否定した。
「はあ!? どういうつもりだ、もう世間(ステージ)のボルテージは最高潮なんだぞ!」
盛り上がっている所で水を刺された冬馬は湧き上がる不満を隠すことなくぶつけた。
彼は冬馬になだめるように落ち着いた口調で冬馬に語りかける。
「そんなことはわかっているよ。でもな、冬馬……お前は天ヶ瀬冬馬なんだよ。そこらにいるアイドルとは違うんだ。そのお前が、今の状態を最高だと言って満足していいのか?」
「……何か考えがあるのかよ?」
「あらかた有名雑誌を使っての世間へのアピールはやった。だけど、あと一押しがほしい」
「でも、今あんたが言ったように有名雑誌はあらかた」
そこまで言ったところで、彼は手を前に出して冬馬の言葉を遮る。
「有名な雑誌ならな……でも、有名な記者なら別だ」
ピンポーン!
彼はインターフォンを鳴らして、目の前の日本家屋を見上げながら待つ。
しばらくしてもインターフォンから人の声は聞こえてこない。
もう一度押してみる。
ピンポーン!
軽くて高い音がインターフォンから響く。おそらく家中にも響いているだろう。
だが、やはり誰も出てこない。
アポは取ってあるはずなんだけどな……
最もこれから会う相手が自分の頼みを聞いてくれるかは別の話だが。
引き戸に手をかけてみると、引き戸は抵抗することもなくあっけなく開いた。
彼は無用心だなと思いながらも玄関に入り、靴を出船の形にそろえて上がり込む。
目的の人物を探すために色々と部屋を回る。
どの和室にも陶器だったり掛け軸だったり絵だったり彫刻だったり、とにかく高そうなものが置いてあった。
あらかた部屋を回ってみたが誰もいない。
彼は2階の部屋の窓から大庭に建っている木造の小屋をみた。調べてないところというと、後はあそこぐらいだ。
階段を下り、玄関から靴を持ってきて、大庭に直接出ることができる廊下で靴を履き直した。
鯉池のある大庭を歩いて、小屋へと入る。
小屋に入った途端、土臭い匂いが彼を歓迎した。
土臭いといっても、決して不快なものではなかった。
むしろ、どこか落ち着く匂いだった。
小屋の奥を見ると老人がろくろを回していた。
作業用として着ているのか、青い和服には泥が跳ねたような跡が点々とある。
回転するろくろの上で粘土の塊は、老人の手で押され、潰され、外側に引っ張られ、やがて空洞のある形が作られていく。
その様子を彼は老人に声をかけることも忘れて見入っていた。
彼は小屋の脇にある棚に視線を移す。棚には無数の焼き物が置いてあった。
彼は棚にゆっくりと近づき、焼き物を眺める。
棚に並んでいる湯呑や皿にどれだけの価値があるか彼にはわからない。
わかっていることは、この焼き物には相当な値段が付くということだけだ。
「それを見て、君はどう思ったかね?」
老人は成形されていく粘土の塊に両手を添えて、厚みを均等にしながら彼に声をかけた。
「……どう思った、ですか」
老人の質問に、彼はもう一度焼き物をじっと見る。
「凄い……ただ、そう思いました」
「ずいぶんとあっさりとした感想だね」
彼は心の中で老人に「そんなことはわかっていますよ」と返した。
自分でも小学生並の感想だということはわかっている。
この焼き物を見た時、彼はアイドルのとんでもないパフォーマンスを見せられた時と同じ感覚になった。
具体的にどこが凄いのか挙げられない。
いや……挙げることは出来るのだが、それをしたくない。
ここが凄い、ここが素晴らしい、そういう言葉が邪魔な装飾に思えた。
凄いものは、凄い。
だから、彼は目の前の焼き物を凄いと思った。
「そうか……凄いか」
ろくろを止めて棚の方へ来た老人は、焼き物の一つをとる。
そのまま表場を変えることなく、焼き物を眺める。
老人は「ふむ」といった様子で頷くと、なんのためらいもなく焼き物を床に投げ捨てた。
老人は棚からまた一つ焼き物をとり、眺めて、また捨てた。
唖然とする彼など気にすることなく老人は、彼が「凄い」と評した焼き物を次々眺めては投げ捨てていく。
棚に並んであった焼き物は最後の一つの湯呑になった。
老人はそれを眺めると「ふむ」といった様子で頷くと、
「なるほど。確かにこれは君の言うとおり、中々凄い」
彼にその焼き物を見せて、棚に戻した。
意味がわからない。
老人の一連の行動を見て、彼はそう思った。
「今、棚に戻した焼き物とそれまで捨てた焼き物に何の違いがあるんですか?」
そう聞かずにはいられなかった。老人は事も無げに言う。
「形やほんの僅かなヒビなどの問題もあるが……一番は私が気に入らなかったからだね」
「たったそれだけのことで……」
「いや、これはとても重要なことだよ。自分の気に入る、気に入らないを押し通すことは」
老人は世間から名のある芸術家として名声を得ているが、老人にとっては自分のやっていることは泥遊びでしかなかった。
ただ、その泥遊びに一切の妥協もせず、自分の納得いくまでやっているだけだ。
泥遊びも極めれば、陶芸という一つの芸術に到達する。
「エゴを押し通せる人間は強いよ。迷いがないからね。まあ、それで飯を食っていくことができるかどうかは別だが」
老人は割れた焼き物を箒で掃きながら、焼き物の残骸が集まった箇所まで持っていった。
まるで焼き物の墓場だった。
「そもそも私の焼く湯呑なんかよりも紙コップの方が安価で済むし、落としても割れない。同じ飲む器という意味では、紙コップの方が優れている点は多い」
老人は墓場から死体を一つ取り出してみては、墓場に捨てた。
「私の作った焼き物は泥遊びの結果でしかない。しかしだ、私は泥遊びを大真面目にやっている。命をかけていると言ってもいい」
そこまで言うと老人は棚の焼き物をとって、先ほどと同じように彼に見せる。
「これがあなたの言う命をかけた泥遊びの結果ですか?」
「そうだ。これだけじゃなく、捨てた焼き物も含めた全てに私の命が練りこんである」
彼は改めて、焼き物の残骸が集まっている墓場を見る。
たった一つの納得できるものを作るために他の命を練りこんだ焼き物を捨てるというなら、あの墓場には老人の命も捨てられているということになる。
あれは焼き物の墓場でもあり、この老人の墓場でもあるのだ。
老人が命を削って作り、他の命を犠牲にしてまで選んだ焼き物。
そう考えると、ついさっきまで投げ捨てられた焼き物と老人が差し出す湯呑が同じようには見えなくなった。
「正に命懸けですね」
彼が冗談っぽく言うと老人はニカッと白い歯をみせた。
焼き物を通して感じる老人の命の輝きのようなものに多くの人が魅せられて、この焼き物にとてつもない額をつけるのだろう。
「命……ですか。もしかして、それがアイドルの記事を書く理由ですか?」
「そうだな……若者のあふれるパワー、若者が放つ命の輝きを多くの人に知ってもらいたい。だから、私は芸能記者なんていうものをやっているのかもしれない」
彼の質問に、芸術家で活躍する一方で芸能記者をやっている山原太郎は顎鬚を撫でながら答えた。
Pとアイドルの話から完全にPだけの話になってしまっているなあ。
オーディションが終わったあと、二人は事務所に戻った。
彼はマグカップにコーヒーを淹れると、冬馬に差し出した。
「オーディションおつかれ、冬馬」
「あんたこそな……っ!」
冬馬は彼から受け取ったコーヒーを飲むと一瞬、苦い顔をして、近くにあったスティックシュガーを3本程まとめて掴み取り、全部をコーヒーに入れた。
続けて、冬馬はコーヒーフレッシュをスティックシュガー同様にいくつか掴み取り、全部をコーヒーにいれた。
ティースプーンで、コーヒーと砂糖とミルクを混ぜ合わせる。
冬馬は味を確かめるようにマグカップに口をつけるが、少し悩むような顔をした後、スティックシュガーを2本追加した。
その様子を見た彼は何とも言えない顔―冬馬の飲んでいるコーヒーの味を想像していたのかもしれない―をしながら、スティックシュガーが1本はいったコーヒーを飲んだ。
「一位通過、流石だったよ」
冬馬は何も言わなかったが、「当然だ」と言わんばかりに口の中がベタつきそうなコーヒーを飲んだ。
「あんた、自分が一流じゃないとか言っていたな」
「それがどうかしたのか?」
「今日のオーディションでわかった。あんたは間違いなく一流だ」
彼は、自分の目を覚ますかのように勢いよくコーヒーを飲んだ。
冬馬の言った言葉が信じられなかったからだ。
「フォローのつもりか?」
ため息をつきながら、彼は言った。
「卑屈になるなよ。あんただって分かっているだろ?」
「俺は冬馬についていくだけで精一杯だったよ」
「それで充分だ。俺とあんたは互いの全力で競い合った。俺とあんたの力は拮抗した。あんたは俺を扱いこなしたんだ」
冬馬がそこまで言ってくれたにも関わらず、彼は頭では理解しているのだろうが、どこか納得していない様子で冬馬から目を逸らしながらコーヒーを啜った。
自分は冬馬の言うように一流なのか?
自分は本当に冬馬を扱いこなせたのだろうか?
冬馬を扱いこなしたいと思っていたが、こうして面と向かって言われると疑心暗鬼になってしまう。
確かに自分は、冬馬についていくことで自分の持つ力以上のものを引き出せた。
その結果、自分は冬馬の圧倒的なパフォーマンスに対して的確な指示を飛ばせた。冬馬を扱いこなした。
それは紛れもない事実だ。
客観的に考えて、冬馬ほどのアイドルを扱いこなせておいて一流ではないとは言えない。
ならば、自分は一流なのだろうか? 冬馬に相応しいプロデューサーなのだろうか?
疑心ばかりが先行して、事実に対する確信がもてない。
彼の様子を見て冬馬は「まったく……世話の焼けるプロデューサーだ」と心の中で悪態をついた。
「あんたは一流だ。この俺がそう言ってるんだから、そうに決まってる」
冬馬は力強く彼に向かって言った。
彼は無言でコーヒーに映る自分の顔を見つめた。
そうだな……冬馬がそう言ってくれるなら、そうなのかもしれない。
今は考えるのはやめておこう。
冬馬の言葉を信じよう。
プロデューサーがアイドルの言葉を信じるのは当然のことじゃないか。
彼は、自分の目を覚ますかのように勢いよくコーヒーを飲んだ。
貴音を取り戻す話のはずなのになあ
大富さんのパーティーの招待状が欲しい。会ってくれないか?
彼が律子に送ったメールは非常に簡潔な内容だった。
メールは便利だ。
面と向かって相手と話すのと違い、語気や相手の顔色を考えずにただ文字という記号を打ち込み送ればいいだけだからだ。
電話のように相手が出るのを待たずに伝えられる。
なんて気が楽なのだろう。
短く目的だけ語られる文面。それはプログラムされた機械的で冷たい文字という記号の羅列でしかない。
だからこそ、彼の送ったメールには妙な……刃物のような鋭利さがあった。
恐らく律子の心に簡単に突き刺さるだろう。
彼が何をしようとしているか、そして事が急を要することだと律子は察するはずだ。
そういう聡明さを秋月律子は持っているのだ。
数日中には、律子が動く。彼には確信があった。
事実、数日後、仕事を終えた彼の元に1通のメールが届いた。
今から会えませんか? 昔の場所で
送信者は律子だった。
突然のことに面食らったが、予想通りとも言えたのですぐに冷静になった。
彼は冬馬に軽く目配せして、「今日は直帰してくれ。大事な用が出来た」とだけ伝えた。
冬馬は無言のまま拳で彼の胸を軽く叩いた。
「わかってんだろうな?」
何がとは言わなかった。ただ覚悟を問う目で聞いてきた。
「そんなことはわかっているよ。俺のためにも、律子のためにも」
「……ならいい」
冬馬は、止まっているタクシーに向かって手を上げて、そのまま自宅の方へ帰った。
彼は律子がメールで伝えた「昔の場所」へと向かっていた。
具体的な場所は記されてはいなかったが、彼は「昔の場所」がどこを指しているか、ちゃんと理解していた。
しばらく歩いていると彼は視界に「昔の場所」を捉えた。
古びた雑居ビルの3階、窓ガラスにはテナント募集中という紙がデカデカと貼られている。
今はもう誰もいない。
だが、そこには確かに大勢の人がいた。
一人の男が、女の子の夢を叶えようと必死になっていた。
彼の出発点。かつての765プロの事務所だ。
俺をこんなところに呼び出すなんて嫌がらせのつもりか?
かつて自分のいた場所への懐かしさにフッと笑いながら、彼は律子に悪態をついた。
視線を雑居ビルの1階まで下げてみる。
人の賑わう声が聞こえる。居酒屋「たるき亭」は今日も繁盛しているようだ。
暖簾の掛かった入口、律子は歩いてやってくる彼をメガネ越しに見つめていた。
「意外と早かったですね。もう少し遅くなると思っていました」
「大事な要件だからな。自然と足が早くなったのかもしれない」
「そうですね。私も……」
あなたに会えると思ったら。
その言葉を律子は彼に聞こえないように胸の中で言った。
「立ち話もなんだし、とりあえず入るか?」
彼は顎でたるき亭をさした。しかし、律子は小さく首を横に振った。
「……少し歩きませんか、二人で」
律子の誘いに彼は「ああ」と短く応えた。
彼と律子は並んで歩き出した。
実はこれPがメインヒロインで律子が主人公、あまとうはメインヒロインの友達以上恋人未満な存在なんじゃないかと思い始めた
>>143
冬馬をメインヒロインと考えている人もいるし、Pと律子の生活の描写をもっとすればまた違った見方をしてくれる人がいるかもな
彼は頬に添えられた律子の手に、自分の手を重ねた。
力をいれて握ると、指先が律子の肌に少し沈む。
密着度がまして、律子の体温を一層強く感じた。
柔らかくて暖かい。
もし、律子を全身で感じたなら、自分はとても満たされるような気がした。
このまま律子を求めて、二人で恋人のように過ごすのも悪くない。
彼は月を見た。月は雲で霞み、やけに遠くにあるように思えた。
届きそうにもない不透明なものに手を伸ばすよりも、すぐ近くで確かにあるものを求める方が賢いのかもしれない。
彼はそう思いながら、律子の手をどかした。
律子は、一瞬険しい顔で彼を見上げたが、すぐに眼鏡に手をかけていつもの真面目な顔をする。
「貴音はあなたを求めてはいませんよ。何もしていないことが、その証拠です」
どこか恨めしさがこもった声で律子は言った。
「そんなことは貴音にしかわからないよ」
いつものように「わかっているよ」とは言いたくなかった。
認めてしまえば、貴音の想いも自分の想いも否定することになるからだ。
「わからない。だから、求めるんですか?」
律子の問いかけに、彼は「ああ」とだけ答えた。
彼は、貴音が自分に向けた言葉と涙が、自分へのものなのか確かめたいと思った。
「どうしてそこまで貴音に、過去にこだわるんですか?」
「もしかしたら俺は貴音を取り戻して、自分の過去に決着を……いや、そんなカッコいいものじゃないな。単に自分の汚点を綺麗にしたいのかもしれない。終わりよければ全て良しって言うし」
「過去に囚われるよりも、今を見つめるべきです。あなたがやろうとしていることは、ただの自己満足です」
「そんなことはわかっているよ」
粘液にも言われたことだ。
貴音を救うことで自分の過去を帳消しにする。自分の都合でしかない。
だが、自己満足だからこそ彼は、自分が満足するまでやりたかった。
自分が望むことを叶えるための行動。それが彼の自己満足だ。
「律子、俺はもう貴音に向かって歩き出している。立ち止まるつもりもない」
「……」
「俺は貴音を求めている。だから、律子は求められない」
彼はそう言ってハッキリと律子を拒絶した。
律子は激しく責めるわけでもなく、唇を重ねた時のように求めるわけでもなく、黙ったままだ。
彼は続けた。
「それに一人いるんだ。俺の馬鹿な自己満足に付き合ってくれている奴が。そいつのためにも、やっぱり途中で投げ出したくはない」
「それなら、私も付き合わせてもらいます。あなたの自己満足に」
律子は、彼に一枚の便箋を渡した。
高級感の漂う純白の便箋、封に使われているシールには、エンペラーレコードのロゴが入っている。
大富のパーティーへの招待状だった。
「律子……」
「いま貴音のいる場所が、貴音の本当の居場所ではないことはわかっています」
彼は、差し出された招待状に受け取ろうとする。
貴音の居場所は、あなたの……
律子は一瞬、招待状をもつ手に力を込めたが、すぐにやめた。
もちろん納得はしていなかった。
しかし、彼のことを考えた時、これが一番いいと律子は判断した。
愛する彼を求めるという自分の自己満足よりも、愛する彼の力になることを選んだ。
「託しましたよ。私の想い」
「重そうだ」
彼の冗談に、律子は「当然です」と笑い、
「誰よりもあなたのことを想っていますから」
と、付け加えた。
律子の笑顔に、彼は笑顔で返した。
「貴音は必ず取り戻す」
彼は改めて決意を伝えると、律子に背を向けて歩きだした。
その足が止まった。
律子に背を向けたまま彼は言った。
「俺は律子のこと好きだったよ」
「私もあなたのことが好きです。今でも」
「そうか……」
「でも、あなたは貴音を求めることを選びました。だから」
律子は声を震わせながら、
「私を求めないでくださいね」
彼への言葉を紡いだ。律子は泣いていた。
彼は、律子の元へ駆け寄ることをこらえながら言った。
「そんなことは……わかっているよ」
彼は律子を置いて、歩き出した。
ようやくまた一つ山を越えれた
「貴音、自分が何をやっているかわかっているのか?」
大富は、繋がった二人の手を見ながら言った。
夫をもつ大富貴音が別の男の想いに応える。浮気であり、間違いなくスキャンダルだ。
もし、これが世間に公表されてしまえば貴音の人気はたちまち地の底に落ちてしまうだろう。
「すみません大富殿。やはり私はあなたの元にはいられません」
「私の元を去る。そんなことをワシが許すと思うか? それにお前が目指した頂点はもうすぐそこだ。今更、築き上げてきた地位を捨てられるか?」
「それは……」
大富の言葉に口をつぐむ貴音。大富はすかさず甘い言葉をかける。
「ワシが叶えてやる。ワシの持つエンペラーレコードの力で、そこの若造が叶えられなかった夢を」
「俺の貴音を惑わさないでくれませんか」
彼は貴音と繋がった手で、貴音を自分の元に引き寄せる。
大富は「ふん……」と鼻を鳴らしたが、彼に向かって不気味に笑う。
「若造、そんなにワシの貴音が欲しいか?」
「ええ、もちろんですよ。俺には貴音が必要なんです」
「よかろう」
大富の意外すぎる返答に彼は驚いた。貴音は不信な顔で大富を見ていた。二人の反応が面白いのか、大富はニタニタと笑い顔を浮かべている。
随分とあっさりだ。あっさりすぎる。
大富があれだけ執心していた貴音をこうも簡単に手放すことがありえるのだろうか?
何が目的だ? 彼は大富の真意を探ろうとする。既に貴音は自分の想いに応え、流れは完全に握っていると思っていた。
だが、大富はこの状況の中で笑っている。余裕すら感じられた。
大富は会場全体に届くかのように高らかと宣言した。
「貴音を欲しくば、貴音を倒し、その上でIA大賞をとってみせろ!」
「なっ……」
「ワシは貴音の体は手に入れ、味わった。だが、貴音の心は未だにお前の元にある。貴音の心も手にするためには、貴音の心の拠り所であるお前が邪魔なのだ」
「そういうことですか……」
大富はもう一度彼に挫折を経験させようとしている。
挫折から立ち直り、多くの人の想いを背負ったにも関わらず、貴音を助け出すことが叶わない。そんなことになれば、彼は今度こそ立ち直れないだろう。
さしもの貴音も自分を助け出す存在が完全に折れれば、いい加減に諦めるだろうという算段だ。
「超えられるか、大富貴音を? 成し遂げられるか、かつてのお前が出来なかったことを?」
視線を試すように嘲笑する大富から貴音へ移す。
四条貴音を取り戻すためには、大富貴音を倒さなければならない。加えて、自分のトラウマでもあるIA大賞の受賞。
出来るのか、俺に?
だが、出来なければ大富に納得してもらえない。
―下らないな―
ふと、そんな声が頭の内から湧いて、自分の迷いを身も蓋もなく切り捨てた。
―あの業突張りの脂肪樽の挑発に付き合うな。無視しろ。お前の目的は貴音を取り戻すことだ。なら、もう目的は達成しただろ―
粘液のいう事は最もだ。自分は貴音を取り戻すために様々なことをしてきた。そして遂に貴音と想いが繋がった。
後は結婚式に乱入する主人公のように貴音を連れて逃げればいい。
だが、その選択は間違っているように思えた。
今ここで逃げ出せば貴音は大富の言うように築き上げた地位を失ってしまう。
貴音はアイドルだ。
美しく気高い銀髪の少女であり、ステージの上で人々を魅了する輝きを放つアイドルなのだ。
彼が求めている貴音は四条貴音だ。
冬馬……わかっていたけど、やっぱり俺は出来損ないのプロデューサーだ。こんな時にまで最善を選択できないんだから。
―ここで終わりにしろ。後悔するぞ―
そんなことは、その時にならないとわからない。
深呼吸を一つ、粘液を押さえ込む。同時に覚悟も決めた。
少し振り返り、伊織の方を見る。
伊織は何も言わなかった。ただ……
あんた自身のことなんだから、あんたの好きなようにやりなさい。
そう言っている顔だった。
「貴音、お前も俺の自己満足に付き合ってもらうぞ」
そう告げる彼の厳しくも何処か深い悲しみの色が混ざった瞳に、貴音は彼の答えを見た。
瞬間、貴音の彼と繋がった手に痛みが走る。
震える彼の手が握りつぶしてしまいそうな程に強く握しめていた。
離したくない。離したくないはずがない。それでも……
彼は抱き寄せた貴音を、再開した夜と同じようにそっと引き離す。
固く結ばれた二人の手が離れた。
「俺は大富貴音を倒します。そして、IA大賞も受賞してみせます。俺のアイドル、天ヶ瀬冬馬で」
皿に盛られたエビチリを蓮華ですくい、口に運ぶ。
刻まれたネギやにんにく、生姜といった薬味の香りが口内で広がり、ケチャップの甘味より豆板醤の辛みが僅かに上回ったチリソースが味覚を刺激する。
背わたの抜かれたエビは、チリソースとよく絡みあっていてプリプリの食感が楽しい。
「剥きエビを使うのは邪道だと思うんだ」
「知るかよ。というかさ、あんた……馬鹿だろ?」
パーティーの翌日、仕事を終えて事務所で事の顛末を聞いた冬馬の最初の言葉がそれだった。
呆れながら言う冬馬に、彼は「そんなことはわかっているよ」とだけ返して、卵とわかめのスープをすする。
ズズッという音と、彼の満足そうに「ふう」と息をもらす顔が能天気というか、ひどく間抜けに見えた。
馬鹿だ。こいつは正真正銘の馬鹿だ。いや、そんなことはわかっていたけど。
思わず彼の口癖が出てしまう程に冬馬は頭を悩ませながら、彼の作ったエビチリを食べる。
「大体、あれだ。四条の奴がアイドルの地位を失っても、あんたの手腕でどうにかすればいいだけだろ。こうしてプロダクションを構えているわけだし」
わかっているのか、と言いたげに蓮華を彼に向ける冬馬。
チリソースが絡まった蓮華をみる彼の答えはいつも通りだ。
「そんなことはわかっているよ」
「じゃあ、どうしてだよ?」
「証明にしたいんだ、大富さんに。大富貴音より四条貴音の方が輝けるってこと」
「自分のやり方が正しいっていうなら、なおさら」
「大富貴音を超えて、IA大賞も受賞して……大富さんの出す無茶苦茶な条件をクリアして、初めて俺は大富さんに認めてもらえるんだと思う」
「何かそれだけ聞くと、娘はやらんとか言ってるガンコ親父に挑んでいる男みたいだな」
「ハハハ! 実際、そんな感じかもしれない。まっ、娘じゃなくて奥さんだけどね。だから、冬馬……」
不意に真面目な顔をして、彼は言った。
「もう少し俺に付き合ってくれ」
「まったく、あんたって人は」
冬馬は彼の申し出にそう答えた。要するに返答はイエスだ。
彼は真面目な顔のまま、冬馬に礼を言う。
「ありがとう、冬馬」
「どうせ、あんたのことだ。俺が断らないって踏んでいたんだろ?」
「冬馬は義理堅いからな」
そうだろう、と言いたげに冬馬に蓮華を向ける彼。
冬馬は忌々しそうな顔でテーブルの上にあるお冷のグラスを取った。
あんたのそういう打算的な所……
「ムカつくぜ」
冬馬は水を一気にあおり、ピリピリする舌を冷やす。
「あのさ……」
「どうした?」
「次、これ作る時はもっとケチャップ入れろよ。辛い」
Pと冬馬が飯食ってるシーンが書いてて一番楽しい
昨日の夜まで一緒に食事していたパートナーが、朝になってピクリとも動かないまま倒れている。
そんな現実離れした光景を見たからだろうか。
冬馬は先ほどの焦りと不安が嘘のように落ち着いていた。
事態に対して感情が整理できず追いついてないのかもしれない。彼が倒れているのに何処か他人事のように捉えていた。
冬馬は自分のケータイで119のダイヤルをするとそのままケータイを耳に当てようとする。
だが、しっかりと握っていなかったせいかケータイは手からするりと抜け落ちた。
冬馬は慌てて空いた手で素早く落ちるケータイをキャッチすると、今度はしっかりとケータイを耳に押し当てた。
ケータイを握る手は力を入れすぎて微かに震えていた。
救急車が来るまでの間、冬馬はケータイ越しの女性の落ち着いた声に従い呼吸の有無の確認を行う。
うつ伏せの彼を仰向けにすると腕に彼の重さを感じた。
グッタリとする彼は重かった。
さっさと起きろよ。俺は冗談が苦手なんだ。
頬を叩いてみるが、彼は目を開けなかった。
そこでようやく感情が追いつく。
冬馬の中で焦りと不安が急速に膨らんでいった。
おい、俺たちはこれから仕事に行くんだぞ。
俺があんたの取ってきた仕事をこなして、あんたはそれをしっかり見る。
そうだろ?
だいたいあんた、昼飯が出来てないぞ。
スタッフから配られる脂っこいロケ弁食うより、あんたのおにぎりやサンドイッチ食う方がマシなんだよ。
だから、さっさと起きろよ。そんなことはわかっているだろ?
いつの間に冬馬は彼の胸倉を掴んで無茶苦茶に振っていた。
「どうかしましたか?」
ケータイからの声にハッとする。思いの外大きな音を立てていたようだ。
冬馬は彼の胸倉から腕を離して、ケータイの声に返事をする。
「い、いや、なんでもないです」
人の目ではないが、第三者の存在を意識すると、どうにか平静を取り戻せた。
病院へ搬送される途中、冬馬は救急車の中で担架に横たわる彼をジッと見ていた。
彼は呼吸をしていたが、まるで呼吸が止まっているみたいに微弱なものだった。
余計に彼が生きていないように見えた。
病室から出た冬馬を廊下で待つ少女がいた。秋月律子だ。
冬馬が彼のケータイを使って連絡をとったのだ。
「プロデューサー殿は?」
律子は冬馬に彼の容態を聞いてきた。
眼鏡の奥の瞳には不安の色が混じっている。
冬馬は医師から聞かされたことを話した。
「衰弱しているってさ。とは言っても体に異常はないみたいだ。一応、点滴は打ってるけどな」
「そう、無事なのね」
律子は安堵の息をつくと白い壁に背中を預けた。
余程、気を張っていたのか律子は目をパチクリさせて目の筋肉をほぐす。
「あのさ、連絡しておいてなんだけど良かったのか。その……仕事を途中で抜ける形になったわけだろ?」
悪いとは思っているのだろう。
冬馬は頭の後ろを掻きながらぶっきらぼうに、それでどこか申し訳なさそうに言った。
そんな冬馬の態度に律子は小さく笑う。
「別にあなたが謝ることじゃないわ」
「竜宮小町の方は大丈夫なのかよ?」
「甘く見ないでほしいわね。うちのアイドル達はちょっと私が抜けたくらいで崩れる程、そんなにヤワじゃないわよ」
「それもそうだな」
挑発的な笑みを飛ばしてきた律子に冬馬はフッと笑い返した。
俺のいるジュピターを倒したんだからな。
「でも、まあ……プロデューサーとしては失格でしょうね。大切な自分のアイドルによりも男を優先したんだから」
律子は陰りのある顔で自嘲気味に呟いた。未だに彼への想いがあるのは明白だった。
ふと冬馬は律子に聞きたいことが出来た。
「なあ、秋月」
「どうしたの?」
「お前、あいつのためなら竜宮小町を……自分の夢を捨てられるか?」
「どうかしらねえ」
律子は自分に問いかけるように曖昧に答えた後、
「でも、出来ると思う」
そうハッキリと告げた。
「本当かよ?」
「悩みはすると思う。でも、きっと最後はあの人にとってのプラスを選ぶわ。だって、私は今でも好きだから」
彼のことを思い出しているのか律子の顔は穏やかだった。
冬馬は律子の回答に思ったままのことを口にする。
「お前なんか怖いな。いれこんでいるっていうかさ」
「人は多かれ少なかれ、そういうものを持っているわよ。冬馬にとって、あの人がそうじゃないかしら?」
「よせよ、気持ち悪い。俺に『そういう』趣味はねえ」
「別に『そういう』意味で言ったわけじゃないわよ」
「そんなことはわかっている」
冬馬は彼の口癖を言いながら、律子から視線を逸らした。
律子の言わんとしていることは理解していた。
元々、冬馬は彼が腐っているのが気に食わなかった。
自分を倒したアイドルを生み出した彼の実力を認め、敬意を払っていたからだ。
そして、いま彼に協力しているのは彼が彼なりに前を進んでいるからだ。
冬馬は見届けたいのかもしれない。彼がどういう結果を迎えるかを。
そういう意味では自分も律子の言うように彼にいれこんでいるのだろう。
「俺たち、似た者同士だな」
「ええ、そうね。それはきっと彼女もだと思う」
律子の言葉に冬馬は一人の少女を思い浮かべる。
すると、廊下の向こうから少し早い足音が近づいてきた。
足音の正体は最前、冬馬が思い浮かんだ少女だった。
「どうしてお前がここにいるんだよ?」
冬馬は少女に向かって聞いた。代わりに答えたのは律子だった。
「私が呼んだの。一応、知らせるべきだと思ったから」
天ヶ瀬冬馬、秋月律子、大富貴音。彼が眠る病室前に似た者同士の三人が揃った。
たまにこのPと冬馬でTSしたら、どっちが女になるのかというアホな妄想をしたりする
つーか、次のレスへの引きが誰か登場というパターンばっかだなあ。何かうまい引き、ないかねえ
病院からの帰り道、貴音と律子は近くの喫茶店へ寄った。
けして広くはないが、客席の大半は埋まっている。意外に繁盛しているようだ。
テーブル席に向かい合う形で腰を下ろすと、二人は各々の飲み物を注文した。
「律子、今日はプロデューサーのことを伝えていただき、真ありがとうございました」
「別に構わないわよ。私がそうした方がいいって判断しただけだし」
丁寧にお辞儀する貴音に律子はサバサバした様子で答えた。
「こうしてちゃんと話すのっていつ以来かしら。仕事でも会うことがほとんどなかったし」
「そうですね……」貴音は自分の注文した紅茶を飲んだ。
「あなたがいない間に色々あったわ」
「プロデューサーのことですね?」
貴音の言葉に律子は「ええ」とだけ答えてコーヒーを飲む。
「聞かせていただけませんか? 律子とプロデューサーのことを」
「あなたがいなくなってから、あの人は死んだような目をしていたわ」
律子は貴音に彼と過ごした時間を語った。
彼のことを支えていた時のこと。彼との関係に決着をつけた時のこと。
流石に色々と「した」ことは曖昧にぼかした。
わざわざ自分から抱かれたと言う必要はない。だが、恐らく貴音は理解しているだろう。
彼と律子の関係が明らかに男女の関係だったからだ。
律子が彼を愛していることを貴音が悟るのは容易だった。
「律子は……その、プロデューサーと」
貴音が頬を赤くしながら躊躇いがちに律子に聞く。
初心な態度に律子は苦笑する。
「何度もね」律子は割とあっさり答えた。
「まあ、私はあの人にとって捌け口でしかなかったけど」
「それでも相手が想い人ならばいいではありませんか」
「貴音……」
彼を支えても報われない。求めてもらえない。
どうして自分ではなく貴音なのか。
彼に求められる貴音がどうしようもなく憎いと思うことが何度もあった。
だが、貴音は貴音で辛い経験をしているのだ。
不本意な形とはいえ、自分の大切なものを愛する人に捧げられたことを考えると律子は幸せだったのかもしれない。
それを自覚すると貴音を一方的に嫉妬していた罪悪感からか、律子は胸に痛みを覚えた。
私だけが被害者面するのは可笑しい話か……
彼と過ごすことで時間を共有した。
彼の部屋にいることで空間を共有した。
彼と体を重ねて彼と溶け合うことで体を共有した。
彼のやり場のない感情をぶつけられることで感情を共有した。
「あの人との時間は確かに幸せだった。どれだけ想いが私に向いていなくても」
彼を感じて、彼の全てを分かちあえたからだ。
「私は律子からプロデューサーを奪ってしまったのですね」
「そうね……でも、それはおあいこだわ」
「どういうことですか?」
「だって、あの人に決心がつくまでは私が独り占めしていた。貴音から奪っていたようなものよ」
「だから、あいこだと?」そう聞く貴音に律子は頷いた。
「それどころか、私はあの人が貴音を求めているのに貴音からあの人を奪おうとした。結局ダメだったけど」
律子はコーヒーを飲んで、ため息をつく。
そして、心の底に沈めていた暗い感情、粘液を貴音に吐きかけた。
「私、貴音のことが嫌いだわ。だって、あの人に想われているんだもの」
「私も律子が恨めしいです。プロデューサーに愛してもらえたのですから」
律子の汚い本音を受け止めた貴音もまた粘液を吐きかけた。
愛する彼と体を重ねられた。彼と深い繋がりを持てた律子。
羨ましいと思った。そして、それ以上に妬ましい。
もちろん貴音も心で彼と繋がっている。
しかし、律子と彼の繋がりは体という直接的で根源的だ。
心という目に見えない繋がりよりも確かで強い繋がりに思えた。
「何が敗因だったのかしら。想いの強さでは勝っているつもりだったけど」
律子はメガネに手をかけて、観察するように貴音を覗く。
「やっぱり単純に過ごした時間の違いかな」
「そうですね……短い様で長い一年、私とプロデューサーは酸いも甘いも共にした仲ですから」
静かに目を閉じて彼との思い出に浸る貴音。
「ああ~惚気ちゃってくれて」
律子は呆れた声を上げた。
私、やっぱりあなたが嫌いだわ。
「貴音」
「なんでしょうか、律子」
この際だ、全部吐き出してしまおう、と律子は思う
「私はあの人が貴音を求めているから、身を引いているだけなの。あの人は貴音を選んだ。それが答え。あの人はずっと貴音を求め続けるわ。でもね、もし万が一、あの人が私を求めるようなことがあったら……」
貴音は律子の言葉をじっと待つ。
律子は恋敵へ宣言した。
「私は容赦なく奪っていくから」
眼鏡の奥から鋭い光を放つ瞳が貴音を捉える。
その強い意志に気圧されて、貴音は目を逸らしそうになる。
しかし耐えた。もし、逸らしてしまえば自分の負けのような気がした。
「真恐ろしいですね」
「愛している人を奪われた恨みは大きいのよ」
「そのようですね。律子、あなたの想いの強さ、しかと受け取りました」
「怖いなら、あの人を求めるのを辞めてもいいのよ? そうすれば、私にもチャンスはあるから」
「それは出来ない相談です。私とて女の端くれ。ならばプロデューサーが私を求めて続けてやまない程に精進するのみです」
「精進ねえ……それはアイドルとしても?」
「はい。その結果がプロデューサーと永遠の別れとなるとしても」
「私は勝てとも負けろとも言えないわ。ただ私に言えることは、あの人が全力で育て上げた冬馬に全力で戦いなさい」
「当然です。全力で挑まなければプロデューサーの想いを踏みにじることになります」
「あの人は強いわよ」
「そんなことは存じております。プロデューサーの力は私が一番理解しています。なぜなら……」
聡明な律子には、続きの言葉に大体の予想はついていた。
続きは予想通りだった。
「私がプロデューサーを誰よりも想いを寄せているからです」
貴音は自信満々の笑顔で目の前の恋敵に宣言した。
一連の冬馬を見ていた彼は好奇心から薫り高いコーヒーを、備えられたシュガーとフレッシュを入れずにブラックのまま飲んでみた。
苦味がとても強く、コクのあるコーヒー。イタリアンローストだ。
豆の煎り具合でも特に時間を掛けた豆のことで酸味がほとんどなく、すっきりとした後味が特徴でもある。
彼はコーヒーを楽しむと気が緩んだのか大きなため息をつく。
「お疲れのようですね」
「なにせ相手が相手ですからね」改めて書類に目を落とす「冬馬の力だけじゃあ厳しいよなあ」
弱気になったわけではないが中々突破口が見つからず、つい愚痴を漏らしてしまう。
その時、彼の中でふと何かが引っかかった。自分で、自分の言葉に奇妙なものを感じる。
頭の中で最前、自分の放った「冬馬の力だけでは厳しい」という言葉を繰り返す。
「どうかしました?」彼の悩ましい顔にスタッフが声をかける。
「そうか……そういうことか。そんな簡単なことで良かったんだ」
何かに気づいた彼は、頭の中で思いついたものが急速に組み上げていく。
これなら確実に貴音に勝てる。我ながら、そう思える冴えた閃きだった。
戦略の完成が見えてくると自然に口端を釣り上がる。
「決まりだな」
彼はすぐに戦略を実行するためにケータイを操作した。
「私だ」電話をかけると3コールもしない内に黒井の声が聞こえてきた。
「夜分遅くに失礼します。俺です」
「君か。調子はどうかね?」
「おかげさまで順調ですよ」
ここ最近の冬馬は961プロの支援もあって精力的に活動している。
テレビをつければ大抵は映っているし、雑誌が出れば表紙を飾り巻頭インタビューのおまけ付きだ。ライブは当然のように満員御礼。
どこに出しても恥ずかしくない程の大活躍だ。
「エンペラーレコードと大富貴音に対して互角に戦えています」
「互角か。それでは意味がないのだよ。君には勝ってもらわなければならないのだからな」
「そんなことはわかっていますよ」
不満の声をあげる黒井に、彼はいつもの言葉をいう。どこか余裕が感じられる明るい声だった。
「随分と楽しそうな声だな?」
「大富貴音に勝つ算段が出来ましたから」
「ほお、それは興味深いな。詳しく聞かせてもらおう」
「詳細については後日、資料をお送りしますよ。ただ、あえて言うなら黒井社長……あなたの力が必要です」
「私の力が? 私は君に対して十分に支援をしているつもりなのだが足りないと言うのかね」
「いえ、俺が必要としているのは予算やスタッフといった物ではありません。あなた個人の力です」
「私個人の力か。まったく社員だけでなく社長である私にまで扱きを使うとはな」
冬馬の活動全てを任せている立場の黒井だが、あまり調子に乗られるのも癪だった。人を使うのは好きだが、使われるのは嫌いなのだ。
「少し度が過ぎないか?」静かに怒りをこめる黒井。
「社長だろうと961プロのメンバーの一人であることは変わりません。だったら俺に協力するのは当然じゃないですか」
彼の声は変わらず明るいままだが、ゾッとするほど冷たく威圧的だった。彼は更に続ける。
「961プロは全面的に俺をバックアップする。そういう契約でしょう?」
それは問答無用で黒井を黙らせる言葉だった。しばらく両者が静かになる。先に沈黙を破ったのは黒井だった。
「クククッ、言ってくれる」
もしかしたら、この男は高木ではなく私よりの人間なのかもしれない。
黒井は彼の見せる黒い部分を面白がりながら笑った。
「いいだろう、君は私個人に何を期待する」
「次のフェスまでに人を呼んできて欲しいんです」
「……そういうことか」
黒井は全てを察したように呟いた。
「確かにそれなら勝てるだろうな」
「お願いしますよ」
彼は念を押すように言って、電話を切る。
ケータイをポケットにしまうと冬馬が戻ってきた。その手には赤色の缶が握られていた。
「ちくしょう。まだ口の中が苦い気がする」
缶のプルトップを引っ張る。プシュッと小気味いい音が鳴った。
「同じ黒い飲み物ならコーラの方がずっと美味いぜ」そう言って冬馬は缶を口につけて飲む。
口の中で弾ける炭酸と甘味のある黒い液体が残っている苦味を溶かしているような気がした。
口直しのコーラを飲みながら冬馬は彼に聞く。
「あんた、けっこうヤバイ雰囲気だったけど黒井のおっさんと何を話してたんだ?」
「貴音に勝つため、IA大賞を受賞するために少しね」
「そうか。しっかり頼むぜ、プロデューサー」
冬馬は心の中で彼が「そんなことはわかっているよ」で返してくるな、と思いながらコーラを飲む。コーラの炭酸が喉を強く刺激した。
「そんなことはわかっているよ……冬馬」
「ん?」予想通りの言葉の後に名前を呼ばれた冬馬は彼の方を見る。
「近いうちに大きく動くぞ」
彼は心の底から楽しそうな顔をしていた。
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