マルコ「ボクの歌」(175)
※捏造あり
※最新話までネタバレあり
ボクは今、馬車に揺られてる。
馬車と言ってもホロ付きの立派なものではなく――
囲いの無い荷台に座り、頭上から降り注ぐ真夏の容赦ない日差しをモロに受け、頭頂部がジリジリと痛かった。
「やっぱ涼しいな。シーナの北部は」
隣に座るトーマスが伸びをしながら独り言のように呟いた。
荷台には10人ほどの少年が窮屈そうに座っている。みんなボクとそう変わらない歳だろう。
そんな少年ばかりを乗せた馬車が何台も連なって、土埃をあげながら農道を走っていく。
辺りはゆるやかな丘陵地。牧歌的な田園風景がボクの目の前には広がっていた。
「そうだね。日差しはキツイけど、ジエナ町よりかなり涼しいね」
「風がひんやりしてて気持いいよなぁ。あー、夏の間はずっとこっちにいたいかも」
「や、やだよ…。こんな遠くまで連れて来られちまって…。オレは早く家に帰りてぇよ…」
ボクの向かいに座るダズはずっと泣き言を言っている。昨日、町を出た時からずっとだ。
――だったら来なければいいのに
そう思ったけど言わなかった。言うと多分泣き出してもっと面倒臭いことになるのが分かってるから。
トーマスもダズの性格をよく知ってるから、彼の弱音は全部聞こえないことにしてるらしい。
けれどボクらが構わないのが気に入らないのか寂しいのか、ダズはねちっこくグチグチと不満をこぼし続ける。
「なんでわざわざシーナの、しかも北のほうまで行かなきゃなんねぇんだよ」
「しょうがないだろ。各地のウォール教の聖歌隊が集まって合同で練習するんだから」
「オレ、ウォール教じゃねぇし」
「ボクだって違うよ。…けど聖歌隊に入ってる。仕方ないよ。入隊している以上は行事には参加しないと…」
「ハァ…。なんでオレらの親はウォール教でもねぇのに、オレたちを聖歌隊になんかぶち込むんだよ」
「そりゃあ、あれだ。タダで勉強教えてくれるからな」
「タダじゃないよ。…それなりに寄付金は取られてるよ」
「マジッ!?金取られてたんだ。いやぁー、知らなかったぜ。母ちゃん一言もそんなこと言わねぇからさ」
「金取った上に歌わせて祈らせて奉仕活動させて、挙句の果てにこんな遠くに連れてきてよ…。最悪だぜ、ウォール教」
そう、ボクら3人はウォール教の聖歌隊員だ。…気付いたらそうなってた。
あれは1年前のある日。
――そろそろマルコもお勉強をはじめましょうね
微笑む母さんに手を引かれ、連れて行かれたのはジエナ町の中心部にある大きな古めかしい建物だった。
ボクはその時、何も知らなかったんだ。
そこが教会と呼ばれる建物だってことも、ウォール教っていう宗教と呼ばれる思想があることも。
だから純粋なボクは勉強ができることを素直に喜んだ。
同じ年頃の仲間と一緒に学ぶ時間は何よりも楽しかったんだ。
そのうち勉強だけじゃなく、よく分からない賛美歌というものを歌わされるようになり…
勉強を始める前に祈りの時間がとられるようになり…
気がつけば司祭様がボクのことを同志マルコと呼んでいた。入信した覚えなんてこれっぽっちも無いのに、だ。
けど、仕方ないんだ。
お金持ちはどうしてるのか知らないけど、ボクら庶民が勉強を教えてもらえる場所なんてどこにもない。
だから母さんはウォール教徒でもないのにボクを聖歌隊に入れたんだ。
教会で知り合ったダズとトーマスも似たような事情でここにいる。
信仰心のかけらも無いボクたちには、教会のしきたりはとても奇妙で理解しがたく…
ダズが反発する気持ちも分かるんだ。
分かるんだけど……どうにもならない事をいつまでも愚痴られると、はっきり言って少しうざい。
「けどさ、王様に会えるんだぜ。ダズも会いたいだろ?王様」
「そりゃぁ…、な。会えるもんなら一度ぐらい会っときてぇけど…」
「だったら、少しぐらい我慢しようぜ。普通に暮らしてたら王様を拝めるチャンスなんてないんだからよ」
トーマスはそう言ってダズの肩を軽く叩いた。
司祭様の話によると僕らはこれから一週間、シーナ北部にあるという大教会で缶詰状態になるらしい。
そこでは壁内中の聖歌隊員が集められ、合同で賛美歌の猛特訓が行われ…
最終日は王都に移動し、王の御前でボクらは歌うことになっている。
王様はボクたち人類を壁内に導いた救世主だ。…さすがに今の王様はその救世主の子孫だろうけどね。
小さな頃から何度も聞かされた王様の英雄譚。
幼いボクは本当に憧れたんだ。王様って強くてかっこいいなって。
けど…、9歳になったボクは教会所蔵のあらゆる本を片っ端から読み、自分なりにこの世界のことを考えるようになり…
まだうまく考えはまとまらないけど…、王様に対して憧れ以外の複雑な気持ちを抱くようになっていた。
「ど、どうしよ…、オレ、王様に気に入られて、家来にならないかって言われたら…」
「プッ、安心しろよ。絶対それはないから」
クスクス笑いながらトーマスは否定する。ボクも激しく同意だ。
「出発する前日にミーナに会ったんだけどさ、すごくうらやましがられたよ。内地でバカンスなんてズルイって」
近所に住む同い年の女の子のふくれっ面を思い出しながら話す。
「ああ、ミーナね。あいつ、聖歌隊にわたしも入りたいってずっと言ってるもんな」
「つーか、なんで聖歌隊は男しか入れないんだ?」
「さぁな。ウォール教のルールだからな。オレらが考えても分かんねぇよ」
聖歌隊は少年ばかりだ。
以前、その理由を司祭様に尋ねたことがある。
―― ‘女性は教会で沈黙すべし’ そう神は仰られた
それが司祭様の答えだった。
やっぱり分からないよ。ウォール教は。
「でもボクらが聖歌隊に居られるのもあと2,3年ってとこかな」
「声変わりしたら追い出されるんだっけ?」
「そうそう」
「うわっ、あと2年以上耐えなきゃなんねぇのかよっ。あー、早く声変わりしねぇかな」
あと2年。
その間に教会の所蔵する本をすべて読めるかな…
閲覧禁止の書庫にもなんとか潜りこんでみたいけど…
「そうそう。マルコの姉さん、働き口見つかったんだってな」
「う、うん…」
「なんだぁ?浮かない顔しやがって。シーナ内の金持ちの家に奉公に出たんだろ?万々歳じゃねぇか」
「そうなのかな…」
「そうだろ。シーナの中なんてオレたち住みたくても住めねぇんだぜ。うらやましぃぜ、ちくしょう」
ボクには4つ上の姉と2つ下の妹がいる。
妹は…わがままで憎たらしいけど、姉さんは優しくておだやかで、ボクは姉さんが大好きだ。
できることなら家にずっといて欲しかった。ジエナ町から出て行って欲しくなかった。
けど、内地至上主義の父さんは何とか姉さんをシーナ内に送り出すべく、地方役人が持つあらゆるコネを駆使したらしい。
得意顔で姉さんに就職先が見つかったことを告げる父さんが、正直言って憎かった。
「ははっ、何がうらやましいんだよ。奉公?そりゃ妾になりに行ったってこったろ」
荷台の前のほうから声がした。
視線をうつすと、黒髪の少年がニヤニヤ笑っているのが目に入った。
ボクは彼が言ったことを頭の中で反芻したけど…
メカケって言葉の意味が分からず、どう返すべきか戸惑った。
「おいこら、勝手に他人の話に首つっこんだ上に、失礼なこと抜かしてんじゃねぇよ。このガキが」
ボクがもたもたしてるもんだから、トーマスが代わりに言い返してくれた。
幾分、怒りを含んだトーマスの声。
そうか、メカケってのは失礼なことなんだ。
ボクの姉さんが馬鹿にされたことにやっと気付き、無性に腹が立ってきた。
腹が立って、文句の1つでも言ってやりたいのに、メカケが何なのか分からずうまく言葉が出てこない。くそっ。
「はぁ?てめぇだってガキだろうが。それにさっきから話を聞いてりゃ、ウォール教の悪口ばっか言いやがって。
信者でもねぇ奴が何でここにいんだよ。嫌ならとっとと馬車を降りやがれ」
「やめなよ、ナック。聖歌隊は信者じゃなくても入れるって知ってるだろ?」
灰色がかった金髪の少年が口を挟んだ。
「けどよ、オレは納得いかねぇんだよ。神を信じてない奴が、神を讃える歌をうたうのはおかしいだろ?」
うん。ボクもそう思うよ。
「確かに神への冒涜かもしれない。けど、彼らは信仰を持たない憐れな連中なんだ。見捨てたらかわいそうだよ」
「そうだな。壁の偉大さを知らない愚か者はいずれ滅びるんだった」
「君たち、入信するなら今だよ。早く洗礼を受けないと手遅れになってしまうよ」
……ハァ。
ボクら3人はうんざりしてため息をこぼした。
この2人はホンモノ、か。
ジエナ町の教会にもホンモノがたくさんいる。
普通に付き合うぶんには何も問題のない人たちだ。良い人もたくさんいる。
けど親しくなると、この人たちは面倒臭くなってくるんだ。
ことあるごとに入信を勧めてくるし、経典や首飾りを売りつけようとしてくる。
それが悪意のある行為なら、すっぱり拒絶しても心が痛むことはないんだけど…
彼らは100%善意で動いているからタチが悪い。
だからボクらはホンモノの人たちとは深く関わらないようにしている。
なるべく3人で固まって、つけ入る隙を見せないよう気をつけているんだ。
「お前らさ、どっから来たんだ?」
ナックと呼ばれた少年が尋ねてきた。
「ウォール・ローゼ南区のジナエ町。君たちは?」
そういえばこの2人は昨日の馬車では見かけなかった。
昨晩はシーナ南部の教会の宿泊所に泊り、今朝乗り込んだ馬車で偶然一緒になったんだ。
「オレとミリウスはウォール・マリア南区、シガンシナ区から来た」
隣に座る金髪の少年を立てた親指で指しながら答えた。
「くくっ、なんだ。はじっこの田舎者じゃねぇか」
「ダズ!!そういう言い方はよせよ」
さすがにボクは怒った。
ウォール・ローゼの住民の中には、ウォール・マリアの人々に対して差別意識を持っている人が少なくない。
それは壁一枚内側にいる優越感からくるもので、翻せばシーナに入れなかった劣等感をぶつけているだけだ。
そういう大人たちの悪い影響をダズは受けやすい。
言われたことをなんでも鵜呑みにしてしまうから。根が素直で純粋なんだ。
少しはボクみたいにひねくれればいいと思う。
「何とでも言えよ。だがオレ達は誇りに思ってんだ。シガンシナ区に住んでることをよ」
「シガンシナ区の住人は巨人を怖れない最も勇敢な者だからね」
ミリウスが得意げに言う。
そういえばそういう宣伝文句でシガンシナ区への移住を促すビラが、回覧板で回ってきたことをふと思い出した。
「確かに勇敢だよな。壁のすぐ外には巨人がうようよしてんだろ?オレは無理だわ、シガンシナ区」
「お、オレも無理。恐くて夜眠れねぇよ」
「ばーか、何をビビってんだよ。オレたちは神聖なる壁に守られてんだ」
「女神マリアは信仰心を持つものを見捨てはしない。祈り続ける限り人類は安泰なんだ」
「まっ、一部の不信心者のせいで人類は脅威にさらされるかもしんねぇけどな」
ナックは横目でボクらを見る。
はいはい、すみませんね。もし壁が壊れたら、勝手にボクらのせいにすればいいじゃないか。好きにしろよ。
ボクがむっとしている横でダズがおずおずと声を上げた。
「あ、あのさ…、ウォール教に入ったら本当に巨人に襲われねぇのか?」
「ちょっ、ダズ!!待て!!早まるなっ!!」
「ああ、もちろん。3人の女神の祝福がお前を一生守るだろう」
「お、オレ…入信しようか「「ダーーーーズっっ!!!」」
トーマスは慌ててダズの口を塞ぎ、ボクは揺れる荷台の上でよろけながら、ダズを背中に守るように立ち上がった。
「ごめんっ。ボクたち悪いんだけどウォール教に入る気はこれっぽっちも無いんだ。だから勧誘しないでほしい」
「勧誘?んなことしてねぇし。そいつが自分から入信するって言ってんだろ?邪魔すんなよ」
「じゃ、じゃあ、明日もう一度ダズに入信するかどうか聞いてみてよ。そこで、うんって言ったらボクは何も言わないから」
「…分かった。明日だな」
ナックの了承を得ると僕は振り返り、トーマスと視線を合わせ頷きあった。
一晩かけてダズを反ウォール教に染め上げなくちゃ。
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「うぅぅ…、寒い…」
朝靄にけむるなだらかな丘陵地帯。
そこを通る一本の田舎道の上をボクは目的もなく歩いていた。
大教会に到着したのは昨日の夕方。
併設する宿泊施設に荷物を置くと一息つく間もなく全員礼拝堂に集められ、夕べの祈りがはじまった。
ボクは驚いたね。予想以上の人の数だったんだ。多分300人以上いたと思う。
このうち半分がボクらみたいなエセ信者だとしても、100人以上はホンモノなわけで。
ホンモノの少年はきっと大人になってもホンモノで。
ホンモノが結婚したら、生まれたら子どもは間違いなくホンモノとして育てられるわけで。
ウォール教が消滅することは当分ないなって、祈るふりをしながらぼんやり考えた。
祈りの後は質素な夕飯。食事中の私語はもちろん禁止だ。
だからダズを早く言い含めたいのを我慢して、もくもくと薄味すぎる食事を口に運んだ。
食事の後はダズを教会の外に連れ出し、トーマスと2人で延々とウォール教の悪い点を挙げ続けた。
消灯時間が20時だと聞き、短時間で説得できるかどうか不安だったけど…
純粋すぎるダズはボクらの意見にすぐに同調し「やっぱりウォール教なんて入らねぇ」とはっきり言った。
反ウォール教として結束を固くしたボクらは宿舎に戻り床についたんだ。
けど、いくら長旅で疲れてるからって20時なんかに寝ちゃったら、すっごく早く目が覚めちゃうじゃないか。
起きたら5時前で、もう一度寝ようとしたけどまったく眠れず…
じっとしているのも退屈だから、周りを起こさないように静かに着替えて、顔を洗って、朝の散歩に出てきたんだ。
さすが高原。真夏とは思えない朝の冷え込み具合だよ。
両手で自分を抱きしめ肩をさすりながら歩く。
ひんやりとした空気は草の匂いがし、どこからか鳥のさえずりと、牛の低い唸り声が聞こえてきて
ああ、遠くに来たんだなぁって、今さらながら実感した。
――教会の周囲には高貴な方々の私有地も点在するので決して足を踏み入れないように
確か昨日、礼拝後にそんな注意をされたっけ。
まぁ、道を歩くくらいは問題ないよね。……まさか道も私有地だったりするのかな。
少し不安になりつつ歩を進めると、そう遠くないところからバシャンって水音が聞こえた。
その後に続く、キュルキュル…という滑車を動かす耳慣れた音。
誰かが井戸で水汲みしてるなってすぐに分かった。
どこだろう。キョロキョロと辺りを見回す。
すると少し先の木の柵に囲まれた牧場らしき場所に井戸があり、その側に人影を見つけたんだ。
牧場の人ってこんなに朝早くから働くんだ。大変だなぁ…
そう思いながら、とりあえず朝の挨拶でもしようかと近づいたんだ。
そして近づいて、気付いた。
働いているのが小さな女の子だって。
ボクの妹と同じぐらいかな。いや、それより小さい…?
小さな身体を目一杯使って井戸から水を汲み上げ、それを民家らしき建物へヨロヨロしながら運んでいた。
偉い子だな。早起きして家の手伝いをするなんて。妹も少しは見習ってほしいよ。
感心していると、その女の子は民家から出てきて、また井戸で水を汲み始めた。
ボクは柵ぎりぎりまで近づき女の子に声をかけた。
「やぁ、おはよう」
「!?」
女の子は近づくボクにまったく気付いていなかったらしく、声をかけたらビクッと肩を震わせ
途中まで引き上げていた桶をバシャーンッという派手な水音とともに井戸の底へ落としてしまった。
「ご、ごめん。驚かす気はなかったんだ。…本当にごめんね」
井戸の底を覗き込んだままの女の子に謝る。
すると女の子は恐る恐るって感じで、ゆっくりとボクのほうに顔を向けた。
女の子と目があった途端、ボクは……生まれてはじめて心臓が跳ねた。
昇りはじめた太陽に照らされた髪は金糸のように輝き、色白の肌はうっすらと健康的に紅潮し、
そして何より零れ落ちそうなほど大きな青い瞳は深遠で、ボクはその双眸から視線を逸らせないでいた。
黙って見つめたままのボクを女の子は怪訝に思ったんだろう。
クルッと踵をかえすと、民家に向かって走り出してしまった。
「あ、あの…待って…」
焦るボク。
バタンッ!
勢いよく閉るドア。
しばらくその場に立ち尽くした。視界のすみでは井戸の側で倒れた空の水桶がコロコロと転がっていた。
そして家に入った女の子が両親に「変な人がいる」と訴え、怒ったお父さんが猟銃を持って飛び出てくる情景が頭に浮かび…
ボクは慌てて来た道を引き返した。
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――変質者と思われたかな。…失敗したなぁ
首の後ろに手を当て天井を仰いだ。けど、ラッパを吹くムチムチの赤ん坊と目が合ってしまいすぐに下を向いた。
ドーム型の聖堂の天井には、極彩色の宗教画。
あんな高い場所に絵を描くのは大変だけど、鑑賞するほうも首が痛くて大変だよねって思う。
今日は午前中に初めてお目にかかる司祭様―多分偉い人なんだろう―の長い長い説教があった。
偶然、隣に座ったミリウスは目を輝かせて司祭様の話を頷きながら聞いていたけど、
真剣に耳を傾ける気のないボクにとっては、固い木製ベンチによるお尻の鈍痛を耐える苦行の時間でしかなかった。
その後は聖堂で賛美歌の練習だ。
300人以上が一斉に歌うと、さすがに信仰心の無いボクでもゾクゾクって背筋が震えたよ。
ボクもそうだけど、トーマスもダズもそんなに歌が上手いわけじゃない。
それなのにみんなで合わせると澄んだ清らかな歌声になるんだから、合唱って不思議だ。
お昼の休憩を挟んで午後も歌の練習。
やっと解放されたのは15時すぎで、夕べの祈りの時間までは自由に過ごしていいらしい。
バラバラと聖堂を後にしていく少年たち。
さて、何をしようかな。
首をひねると、今朝会った女の子の顔が頭に浮かび――もう一度会いたいな、なんて思ってしまった。
「はぁ!?昨日は入信するっつってたじゃん」
「だから、考え直したんだ。オレはウォール教には入らねぇ。ウォール教は苦手だ」
「本当にいいの?信仰を持たない者は巨人の餌になってしまうんだよ?」
「こらこら、ダズを脅すなよ」
少し離れた席で、トーマスたちがダズの入信をめぐって話し合っていた。
今ならこっそり抜けても彼らは気付かないだろう。
ボクは目立たないように聖堂を後にした。
「はぁ!?昨日は入信するっつってたじゃん」
「だから、考え直したんだ。オレはウォール教には入らねぇ。ウォール教は苦手だ」
「本当にいいの?信仰を持たない者は巨人の餌になってしまうんだよ?」
「こらこら、ダズを脅すなよ」
少し離れた席で、トーマスたちがダズの入信をめぐって話し合っていた。
今ならこっそり抜けても彼らは気付かないだろう。
ボクは目立たないように聖堂を後にした。
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でこぼこの田舎道を早足で歩いた。
今朝会った女の子が家の外に出ているかどうかなんて分からない。
行ったところで無駄足になるかもしれない。
もし会えたとしても、ボクは変な人としか思われてないから、また逃げられるかもしれない。
分かってる。分かってる。
何かを期待してるわけじゃない。
けど気になるんだ。
頭をいくら振ってみても、あの青い瞳が消えないんだ。
ただ、もう一度会いたい。それだけだ。
田園地帯に伸びる一本道。ゆるやかな坂を登れば、目指す牧場は目の前だ。
駆け出しそうになる足を止めたのは、3人の少年の姿を見つけたから。
地元の子かな…
ボクと背丈の変わらない少年たちが、道と牧草地を仕切る木の柵に寄りかかっていた。
悪い事をしているわけじゃないのに、彼らが居ることで、何となく後ろめたい気分になって…
軽快だった足取りは重くなり、トボトボとしか歩けなくなった。
そして牧場まであと少しのところで、ボクの足は完全に停止した。
少年たちに見つかりたくないって、なぜか思ってしまったんだ。
その時だ。
ガチャッ バタンッ
牧場の敷地内にある民家のドアが開く音がした。
――あの子…かな?
心臓が高鳴る。
そして牧草地に姿を現したのは、間違いなく今朝の女の子で…
ボクは意を決し、再びゆっくりと歩き出した。
これは散歩だ。何もおかしいことじゃない。あの子の前で止まらなければ、変に思われることもないはずだ。
牧場内のあの子をチラ見しつつ、近づいた。
少年たちの後ろを怪しまれないように通り抜けようとした時だった。
「やーい、妾の子!!」
「とっとと村から出て行けよ!!」
「お前なんかいねぇ方がいいってオトナたちは言ってるぞー!!」
口々に少年たちは女の子に向かって大声で悪口を言い始めたんだ。
ボクは驚いて思わず足を止めてしまった。
そしてまた出てきたメカケって言葉。
メカケって一体ナニ?
「オレの母ちゃんはお前のこと汚い娘だって言ってたぞー!!」
「お前の母ちゃんも汚ぇんだろ!!」
「おら、何か言えよ、バーカ!!」
女の子のこともこの村の事情もまったく知らないけど…
あまりにも理不尽な暴言にボクは怒りが込み上げてきた。
けど女の子は、ボクらのほうを見ることもなく、平然と洗濯物を取り込んでいるんだ。
少年たちが何を言っても表情を変えることなく、黙々とカゴに洗濯物を突っ込んでいく。
そしてすべて取り込むと、何事もなかったかのように家の中に入ってしまった。
――もしかして、耳が悪いのかな…
女の子の様子からそんなことを考えていると、少年たちに話しかけられた。
「お前、ダレ?」
「見かけねぇ顔だな。よそ者か?」
――そ、そうだ。一言文句を言ってやらなきゃ!!
そう思ったけど…、こいつらには腹が立ってたけど…
背丈は同じぐらいでも、こいつらボクより全然ガタイがよくて…
しかも3人もいて…
「な、なんでもないよ。ただの散歩中の旅行者だから…」
そう言って、逃げるように立ち去ることしかできなかった。
ああ、情けない。
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その日の夕食後、ボクはトーマスにメカケについて聞いてみたんだ。
「ねぇ、トーマス」
「ん、なに?」
「メカケってどういう意味?」
「……辞書で調べろよ」
「辞書なんて持ってきてないし」
「じゃ、帰ってから調べりゃいいじゃん」
「そんなの待ってられないよ。今すぐメカケの意味を知りたいんだ」
「……」
困ったようにトーマスは頭を掻いた。
「…もしかして、本当はトーマスもメカケの意味を知らないんじゃ…」
「んなっ、知ってるよ」
「じゃあ教えてよ」
「やだよ」
「なんで」
「…」
「…」
「……それより、マルコ。自由時間はどこ行ってたんだ?けっこう探したんだぜ?」
「……話を変えるなよ」
「…どこにいたんだ?」
「…それよりメカケ」
「…」
「…」
無言で睨みあう。
別に散歩に出かけたことを隠す必要は無いんだけど…
散歩の目的が女の子だってことがバレるのは絶対にイヤだ。
もし散歩したことを話したら、間違いなくオレも行くって言いだすよ。ダズも確実に付いてくるよ。
それはすごく困るんだ。
「だから、どこに行ってたんだよっ。白状しろよっ」
「ちょっ、やめろよっ…くくっ、ぎゃははははっ…まじ、やめてっ…」
トーマスが突然くすぐってくるもんだから、ボクは固いベッドマットに倒れこみ身をよじって笑い転げた。
「言えばやめてやるよ」
「ひーっ…さっ、先に…め、め、めかけ~~くくっ…ぎゃはははは…」
思いのほかボクの笑い声はうるさかったらしく、ナンダナンダと周囲がざわつきはじめた。
そうだ、ここは宿泊所で、同じ部屋にはボクら以外にもたくさんの人がいるんだった。
静かにしていないと迷惑になってしまう。
そう思ってもトーマスのくすぐり攻撃は容赦なくて、ボクは笑いたくないのに勝手に笑ってしまって…
「お前らうっせぇぞ!!」
ついにナックに怒鳴られてしまった。
「あ、悪ぃ」
トーマスはすぐにくすぐる手を止めた。
「ご、ごめん。うるさかったよね…」
ボクは悪くないのに…と思いつつ、反抗するのもバカらしいので素直に謝る。
転がっている体勢からヨロヨロと上体を起こし、偉そうにふんぞり返るナックの顔を見てハッとなった。
そうだ!ナックに聞けばいいじゃないか!
「ナック、教えてもらいたいことがあるんだけど…」
「は?突然なんだよ」
「あのさ、前にボクの姉さんがメカケ?になるって言ってただろ?」
「あ、ああ…、いや、あれは…言い過ぎた。…すまん」
バツが悪そうにナックは横を向いた。
「違うよ。謝ってほしいわけじゃないんだ。ただ、その……メカケってなに?」
「……」
「あっ、オレにも教えてくれよ」
ダズが割って入ってきた。
「オレにもナック先生の解説を聞かせろよ」
ニヤニヤしながらトーマスが言う。
「て、てめぇ…」
なぜか顔を真っ赤にしてナックはトーマスを睨んだ。
「妾とは、すなわち愛人。一夫一婦制のウォール教では許されざる存在だよ」
ミリウスがナックとは対照的な涼しい顔で、淡々と語り出した。
「愛人…?」
「そう」
「愛人ってなんだ?」
「神の御前で誓約を交わした女性以外の女の人」
「それって…、結婚相手以外の女の人ってことだよね」
「そう」
「じゃあ、世の中、奥さん以外みんな愛人…ってこと?」
「……ここからはナックよろしく」
「うぉいっ、投げるの早ぇよっ」
「彼らに姦通罪の重さを教えてあげるのはウォール教徒として当然だよ。君の行いはマリア様が見てる。さぁ、早く」
「……ちっ、しょうがねぇな。一から教えてやるか…」
「よっ、待ってました」
トーマスがピーッピーッと指笛を吹いた。
何がそんなに楽しんだろう…?
「お前ら…赤ん坊はどこからくるか知ってるか?」
「ぶっ…、くくくっ…、ごめんっ、無理。ぎゃはははは」
「うっせぇ、笑うな。トーマスはあっち行ってろよ」
「悪ぃ、プッ、黙っとくから、どうぞ続けてくれ」
「あー、もー、お前ら知ってるのか知らねぇのかどっちだ?」
ナックは面倒くさそうに頭をかきながらボクらを見た。
そ、そりゃあもちろん知ってるけど…。
ボクとダズがモジモジしていると、ミリウスが涼しい顔で答えた。
「地上のすべての生命は神によって創造される。赤ん坊も然りだよ」
「いや、お前はいいからさ…。ダズ、答えてみろよ」
「お、オレ?」
「さぁ、赤ん坊はどうやってできるでしょうか?」
「そ、それは…その、あれだ。父ちゃんと母ちゃんが、キ、キ、キッスしたら…」
真っ赤になってうつむくダズ。
うわっ、なんて恥ずかしいことを言うんだよ。ボクまで赤くなっちゃうじゃないか。
「ふーん…、じゃあ、マルコは?」
「ボクは知ってるよ」
「なら、教えてくれよ。赤ん坊はどっからくるんだ?」
ボクは知ってる。姉さんが昔教えてくれたんだ。
姉さんの言うことはいつも正しいからボクは自信満々で答えた。
「キャベツ畑だよ。朝早くキャベツ畑に行くとキャベツの葉に包まれた赤ちゃんがいるんだよ」
しばしの沈黙。
その後、ボクは死んでしまいたいくらい笑われたんだ。
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「ふぁぁぁ……、うぉっ、ペッ、ペッ」
例の牧場への小道を歩きながら大きなあくびをしたら、口に小さな羽虫が入ってしまった。
さすが大自然。油断ならないな。
本日の偽ウォール教徒としてのお勤めは無事に終わり、夕方までは自由時間だ。
傾いた太陽の光を背に受け、道に長い長い影ができる。
自分の影を踏もうと大股で足を前に出すけど、ボクの動きに合わせて影も逃げ…
ムキになったボクは跳ねるように駆けていた。
昨晩はあまり眠れなかった。
ナックの語る生命誕生の神秘があまりに衝撃的で、いやらしくて。
床についても、頭の中をそのことがぐるぐる回り、出てくるなって思っても父さん母さんの顔が浮かんできて。
ボクは聞いてしまったことをひどく後悔した。
すべてを忘れてキャベツ畑に帰りたくなった。
妾について教えて欲しかっただけなのにな…
もちろん、ナックは妾が何であるかもちゃんと教えてくれたよ。
教えてくれたけど、そこに至るまでの話が長いんだよ。
余計な知識がいっぱい身についちゃったじゃないか。
で、すべてを知ったボクは、姉さんを妾と呼んだナックを散々罵ったんだ。失礼すぎだよ、まったく。
それから…妾の子と呼ばれていたあの女の子のことが一日中気にかかって。
なんだか落ち着かなくて、またトーマスたちに隠れて抜け出してきた。
耳が悪いんだったら文字を書けばいい。
そう思ってポケットには折りたたんだ紙とペンを用意してる。
昨日の少年たちがいないことを祈りつつ坂道を駆け上がった。
――ダメだ。やっぱりいるし
3人組は昨日と同じ場所に陣取って、女の子が家から出てくるのを待っているようだった。
陰湿だな。わざわざ出待ちしてまでいじめるなんて。
もしかして毎日こんなことを続けてるんだろうか…。他に楽しいことはないのかな…。
けど、やっぱりボクは意気地無しで、3人組に近寄ることはできず、少し離れた場所から様子を見てたんだ。
「おっ、フシダラな妾の娘が出てきたぜ」
「お前、なんでまだここにいんの?すっげー迷惑なんだけど」
「村じゅうがお前のこと嫌ってんのが分かんねぇのかよ」
彼らは昨日と同じように喚き出した。
ボクはなんで彼らがあの女の子を責めるのかさっぱり分からなかった。
だって、妾の子って何も悪くないじゃないか。
悪いのは不誠実な父親で…
あの子には何の罪もない。むしろ身勝手なオトナの犠牲者じゃないか。
握った拳が震えた。
でもボクの足は根っこが生えたように地面にくっついて動かない。
喧嘩なんて…一度もしたことがないんだ。
女の子は例のごとく、3人組には無関心で。
急ぎの用事でもあるのか、早足で彼らの前を通り過ぎようとしていた。
きっとそれが癪に障ったんだろう。
1人の少年が地面に落ちてあった石を拾い、女の子に向かって思いっきり投げつけたんだ。
石は女の子のこめかみ辺りに直撃し、女の子はぶつかった場所を手で押さえて蹲ってしまった。
「へへっ、命中だぜ」
「お前ら、何でそんなひどいことするんだよっ!!」
「は?誰だお前?」
「あっ、昨日いたヤツだ」
ボクは完全に頭に血が上っていた。
気付いたら石を投げた少年の肩を掴み怒鳴っていた。
耳の奥が熱くてグワングワンうるさく鳴ってて、目の前にいる彼らの声がものすごく遠くに感じる。
「あの子が何をしたんだよっ!!やめろよ!!イジワルするのは!!」
「よそ者がうっせぇんだよ。てめぇには関係ねぇだろ」
「関係ないけど、危ないだろ?石なんて投げたら。大怪我したらどうするんだ!!」
「はっ、どうもしねぇよ。むしろ打ち所が悪くて死んでくれたほうが、みんな喜ぶんじゃねぇの?」
「なっ!?」
ボクは唖然とした。
なんでそんなに簡単に死んでくれなんて言えるんだよ。
言われたあの子がどんな気持ちになるか想像できないのかよ。
「へへっ、命中だぜ」
「お前ら、何でそんなひどいことするんだよっ!!」
「は?誰だお前?」
「あっ、昨日いたヤツだ」
ボクは完全に頭に血が上っていた。
気付いたら石を投げた少年の肩を掴み怒鳴っていた。
耳の奥が熱くてグワングワンうるさく鳴ってて、目の前にいる彼らの声がものすごく遠くに感じる。
「あの子が何をしたんだよっ!!やめろよ!!イジワルするのは!!」
「よそ者がうっせぇんだよ。てめぇには関係ねぇだろ」
「関係ないけど、危ないだろ?石なんて投げたら。大怪我したらどうするんだ!!」
「はっ、どうもしねぇよ。むしろ打ち所が悪くて死んでくれたほうが、みんな喜ぶんじゃねぇの?」
「なっ!?」
ボクは唖然とした。
なんでそんなに簡単に死んでくれなんて言えるんだよ。
言われたあの子がどんな気持ちになるか想像できないのかよ。
「おら、手を離せよ」
肩を掴んでいるボクの手を引き剥がそうと少年に腕を引っ張られた。
ボクは意地になって少年の服を必死に掴んだ。
反省するまで絶対に離してやるもんか。
「…ちっ」
睨むボクを面倒くさそうに一瞥すると、少年は拳を振りかぶった。
――殴られるっ
そう思うより早く僕の顔はパンチの衝撃で右方向にねじれた。
口の中に血の味が広がったけど、ひどく興奮しているせいか痛みはなく、殴られた左頬は焼けるように熱かった。
続けざまに反対の頬を殴られ、さらにみぞおちに膝蹴りを食らった。
けど、ボクは少年の服を離さなかった。離したら負けだと思った。
こんなヒドイやつらには絶対に負けたくなかった。
でも相手は3人もいたんだ。
3人がかりで袋にされたら、どんなに意地を張っても、ボクの手は力なく落ちて…
しなびたニンジンのように地面に転がるボクの尻を最後に一発蹴って、少年達は去っていった。
冷静さを取り戻すと、体中がズキズキと痛んだ。
けれどいつまでも道の真ん中に寝転がっているわけにもいかず、ボクは苦痛に顔を歪めながら上体を起こした。
ふと柵の中に視線をうつすと、こめかみを押さえたまま不安げにこちらを見つめる女の子と目があった。
「あ…」
ボクが何か言おうとした途端、女の子は慌てて家の中に逃げ込んでしまった。
1人取り残されたボクは、上体を支える気力も失せ、ズルズルとまた地面に伏せた。
――あー、もう、カッコ悪いな
結局、ボクは…何もできなかった。
女の子は怪我をし、ボクはボロボロで、あいつらは笑っていた。
ボクは間違ってない。悪いのはあいつらだ。
けど殴られた。理不尽だよ。
そう、世の中は理不尽なんだ。
ボクがいくら正しいことを主張しても、強いやつらは力ずくで踏み潰す。
強い人間だけが、勝った人間だけが、言いたいことを言えるんだ。
ボクは弱いから、一生黙っとくしかないのかな…
そう思うとだんだん悲しくなってきて、涙が滲んできた。
悔しい…
だけど…あんな強さはボクはいらない…
眠いので今日は終わる
地の文が多くてすまん。自分でも想像以上に読みにくかった
袖口で目をこすり重たい身体を起こしていると、民家のドアが開く音がした。
見ると女の子が大事そうに木箱を抱えながら、小走りでこちらに近づいてくる。
女の子はキョロキョロと辺りを見回すと、木箱を足元に置き、よいしょっと木の柵を越えた。
うわっ、近くに来た。
突然のことに驚いて、ポカンと女の子を見上げたまま固まったボクの腕を女の子は引っ張った。
立てってことかな…
痛みを堪えて立ち上がる。
女の子は再びよいしょっと木の柵を越えて牧場内に入ると、ボクに向かって手招きした。
…柵を越えろと
打撲だらけの身体にムチ打って、ボクの胸ぐらいの高さの柵をよじ登った。
イタタタタって思わず口から出そうになったけど、下手にしゃべると女の子がまた逃げそうで…
ボクは歯を食いしばった。
その間、女の子はキョロキョロ、キョロキョロ、不安げに辺りを警戒し、
ボクが柵を越えて地面に着地すると、すぐにボクの腕を引っ張って走り出した。
ちょっ、痛いって。そんなに引っ張らないで。
そう思ったけど、女の子のこめかみが鬱血して血が滲んでいるのが目に入り、やっぱりボクは黙って従った。
痛いのはボクだけじゃないんだ。この子も痛いのを我慢してるんだ。
女の子に手を引かれるまま民家とは反対方向へ走った。
ボクらは始終無言で、女の子が片手で抱える木箱の中身がカタカタ鳴るのがやたら耳についた。
牧場の片隅にある小さな小屋の前まで来ると、女の子は足を止めた。
ボクの手を離し、引き戸を開ける。
薄暗い小屋の中に女の子は入り、ボクに向かってまた手招きした。
小屋に中はカビ臭く、ほこりっぽくて、足を踏み入れた途端、思わずゲホゲホとむせてしまった。
鍬や鋤や見たことも無い農具がところ狭しと置いてあり、ここは納屋なんだと分かった。
ボクが小屋の中をしげしげと見回していると女の子は引き戸を閉め、薄暗い室内がさらに暗くなる。
女の子はボクの正面に回るとおずおずと口を開いた。
「あの…、お家の人以外とお話しちゃいけないって言われてて…」
……しゃべった。耳が悪いわけじゃないんだ。
「そこに座って。えっと、その、傷の手当…」
「あ、うん…」
小屋の壁の高い位置にある明り取りから入る光だけが仄暗く室内を照らしていた。
彼女が指差したのは、小屋の中では比較的明るい場所で。
もちろん椅子なんてなく、床に直接座る。
差し込んだ光の中をホコリがゆっくりと舞っているのがよく見えた。
「んーっと…、どれだっけ…」
女の子はボクの隣にしゃがむと木箱の蓋を開け、がさごそと中を探りはじめた。
箱の中には、多分救急箱なんだろう、瓶やガーゼなんかがぐちゃぐちゃに押し込められていた。
女の子が手を動かす度に瓶同士がぶつかってカチャカチャと音をたてる。
「あった、多分これ」
女の子が手にした瓶にはエタノールの文字。
なるほど、消毒してくれるわけね。
キュポンッ
小瓶のコルク栓を抜き、脱脂綿に染み込ませようと瓶を傾ける。
勢いよく傾けるもんだから、溢れ出た液体が脱脂綿で吸収しきれず床にポタポタと垂れた。
女の子はそんなことちっとも気にせず、びちょびちょの脱脂綿をボクの顔に押し付けてきた。
正直、傷が染みるより、脱脂綿を強めに押し付けられてることのほうが痛かった。
ボクの頬を染み出たエタノールが伝い落ちていく。
女の子の行動はかなり大雑把で…
しかも間近で見ると、髪の毛はもつれてぐしゃぐしゃで、顔はところどころ黒く汚れていて、
極めつけに、鼻水のあとが頬に伸び、粉っぽい白い線を描いていた。
「ぷっ…」
思わず吹き出す。
ボクが笑ったのを首を傾げて不思議そうに見る女の子。
「ちょっと借りるね」
ボクは木箱から新しい脱脂綿を出し、エタノールを染み込ませた。
それを女の子のこめかみにそうっと押し当てた。
「痛くない?」
「シミシミするよぅ」
「ごめん。少しだけ我慢して」
青紫色に変色したこめかみは見るからに痛そうだった。
ボクの顔も今、こんな色になってるのかな。鏡がないから分からないや。
「じっとしててね」
ボクは新しい脱脂綿に再度エタノールを染みこませ、女の子の顔を拭いてあげた。
女の子が鼻水まみれじゃいけないと思ったから。
手を動かしながらボクは尋ねる。
「…名前は?」
「ヒストリア。…えっと…あの…」
「ああ、ごめん。ボクはマルコ。よろしくね」
何がヨロシクなんだか自分でも分からないけど、自己紹介の決まり文句だ。言うべきだろう。
「マルコ、マルコ、マルコ、マルコ………、うん、おぼえたよ」
呪文のようにボクの名前を繰り返し、そしてボクの目を見てくしゃって微笑んだ。
ボクは身体の中がザワってなって、頬が熱くなってくるのが分かった。
それをごまかすように慌てて言葉をつなぐ。
「ヒストリアはいくつ?」
「いくつって?」
「えっと、歳」
「うーんとね、7つか8つ…かな?」
「…自分の歳が分からないの?」
「そんなことないよ。だいぶん前におばあちゃんが6つって言ってたから、今は7つか8つであってるよ」
「そ、そう…」
なんだろう。自然豊かな土地で育つと細かいことはあまり気にしなくなるんだろうか…
「ねぇ、さっきの3人組は毎日ヒストリアをいじめにくるの?」
「毎日じゃないけど、よく来てるよ」
「誰かオトナの人にちゃんと言った?」
「なんで?」
「いや…、あんなことされたら悲しいよね?」
「ううん。平気だよ」
「平気って…」
「だって慣れっこだもん。死ねって言われるのも石をぶつけられるのも」
「…」
平然と答えるヒストリアにボクは心が痛んだ。
今までどれだけひどい目にあってきたんだろう。
どうしてだれもこの子を助けてあげないんだろう。
家族はいったい何をしてるんだ?
そう思ったけど‘妾の子’って罵ってた少年の声が耳の奥で再生されて。
家族のことを聞くのは何だか悪いような気がしてボクは口を閉ざした。
「ひゃぁー、お顔がスースーするよぅ」
「ごめんごめん。エタノールで拭いちゃったから」
両手で頬を挟み押しつぶすヒストリア。
せっかく汚れがとれてキレイになったのに……ぷっ、変な顔。
「ねぇ、マルコは村の子なの?」
「違うよ。ほら、近くに大きな教会があるでしょ?あそこに、うーん…、用事があって泊ってるんだ」
「教会?」
「うん。この牧場の前の一本道を少し西に下ったところにある大きな建物……知らない?」
「知ーらない。だってわたし、ここから出たことがないもん」
「…うそ」
「うそじゃないよぅ。おじいちゃんとおばあちゃんが絶対に出ちゃダメだって言うんだもん」
「えっと…、お母さん、は?」
聞いちゃいけないかなと思いつつ、恐る恐るだずねてみた。
「お母さんはー…、なんにも言わない」
「そっか。じゃあ、お母さんと一緒に外に出ればいいじゃないか」
「???」
ヒストリアは首をかしげた。
分かりづらかったのかな、そう思い言い直す。
「お母さんは出ちゃダメって言わないんでしょ?だったら一緒に…」
「ちがうよぅ。お母さんはなんにも言わないの。わたし、お母さんとしゃべったことないもん」
「???」
今度はボクの頭がはてなマークだらけになってしまった。
しゃべらないお母さんって……ナンダ?
「じゃあマルコのおうちはどこにあるの?」
「ボクの家はウォール・ローゼ南区だよ」
「ウォール・ローゼ…?」
「んーと…、あっ、そうだ」
ボクはポケットからクシャクシャになった紙とペンを取り出した。
紙を床に広げて手のひらでできるだけシワを伸ばし、そこに大きな三重マルを書く。
「なぁに?それ」
「簡単な地図だよ」
「地図ってなぁに?」
「うーん…、世界を小さくしたものかな」
「わかんない」
「今はわかんなくていいよ。えっと、この1番外側の壁がウォール・ローゼで…」
「壁ってなぁに?」
「…壁も知らない?」
「知ってるよ。それでしょ?」
ヒストリアは納屋の壁を指差した。
「ああ、うん。それも壁だけど…そっか…、知らないのか…」
ボクはだんだん分かってきた。
ヒストリアは本当に何も知らないんだって。
おそらく巨人のことも、人類がどういう状況にあるのかも知らないだろう。
ヒストリアにとって世界とはこの牧場の中だけなんだ。
ボクはヒストリアに簡単に壁のこと、巨人のことを説明した。
恐がらせちゃうかな…
少し心配だったけど、ヒストリアは目を輝かせて興味津々でボクの話を聞いてくれた。
「すごーい!外にはそんなにおっきぃ人がいるんだ」
「ボクも実物を見たことは無いけど、そうらしいよ」
「なかよくなれるかなぁ?」
「…聞いてた?人を食べちゃうんだよ?」
「聞いてたよ。でも、なかよくなればきっと食べたりしないよぅ」
「ははっ。そうかも。友達がいなくなると寂しいからね」
ボクはペンを握り、紙に書いた三重マルの1番内側の円の上のほうに小さな黒丸を書いた。
「ここがヒストリアの家」
「…こんなにちっちゃくないよ」
「世界全体から見たらちっちゃいよ。えーと、ヒストリアってスペルはこれであってる?」
黒丸の横に女の子の名前を書きながら僕はたずねた。
「分からないよ。だってわたし字が読めないもん」
「そっか…」
「でも、いい。マルコが書いてくれたから、これがわたしの名前でいい」
「いや、そういうわけには…」
「いいの。だってだれもわたしの名前なんて気にしないもん」
「ヒストリア…」
「ねぇ、マルコのおうちはどこ?」
「あっ、うん、ボクの家はここ」
三重マルの二番目の円の下の方に黒丸を書く。
「この辺がウォール・ローゼ南区で、ここがジエナ町。ボクの住んでる町だよ」
「ふぅーん。ここかー」
ヒストリアは紙の上に手を伸ばし、右手の人差し指で自分の家を、親指でボクの家を指した。
その手をそのまま持ち上げてボクに見せる。
「すっごく近いね。たったこれだけ」
「ぷっ…、あはははは、そうだね。近いね」
「もうっ、どうしてわらうの?」
「ごめんごめん。ボクね、すごく遠くに来ちゃった気分でいたんだけどさ…、うん、近いんだ」
「?」
ウォール・シーナ内は別世界だと感じていた。
1つの国のはずなのに、巨大な壁が国境のように立ち塞がってて、壁一枚向こうはまるで外国のような気がしてたんだ。
けど、シーナにもボクと同じような子どもが暮らしていて、同じ言葉を話してて…
なんだかとても安心した。
「うーんと…ちょっとペンかしてね」
「いいよ」
「えーっとぉ…こうだったかな…」
ヒストリアは紙の上のボクの家のとなりに何か書き始めた。
斜め上を見上げ何かを思い出すような仕草をしながら、ゆっくりゆっくり時間をかけて。
「書けたっ。みてみて。これであってる?」
「えっ……!?」
そこには幼い字でボクの名前が書いてあった。ちゃんとマルコって書いてあったんだ。
「字が読めないって…」
「うん。読めないよ」
「でも書けるんだ…」
「書けないよ。けど書けちゃった。…なんでだろう?」
首をかしげるヒストリア。不思議な子だな…
「ふふっ、はじめて字が書けた」
すごく楽しそうに笑うから、つられてボクも微笑んでしまう。
しかも初めて書いた言葉がボクの名前だなんて、少し照れ臭くて、とても嬉しかった。
「じゃあ、これは読める?」
ボクは紙を裏返し、次々に単語を書いていった。
りんご、花、青空、麦畑、馬小屋…
ヒストリアはそれらをゆっくり考えながら読んでいく。
字なんて習ったことないよ、って言うけど…
どうして読めるんだろう?
「あっ!そろそろ晩ごはんの用意しないとしかられちゃう」
ヒストリアは慌てて立ち上がる。
彼女の視線の先では、明り取りからのぞくわずかな空が茜色に染まりつつあった。
「うわっ、ボクも帰らなきゃ」
礼拝の時間に遅れたら、きっとひどい罰則が待ってる。急がないと。
「えっと、…手当してくれてありがとう。それから…その…」
すぐに立ち去らなきゃマズイのに、ボクは言いたいことがはっきり言葉にできなくて…
自分より小さな女の子を前にモジモジしてしまい…
そんなボクをヒストリアは救ってくれた。
「あのね、あしたもいろんなお話聞きたい」
「ほ、ホント?」
「うんっ。マルコのお話、とっても楽しい。だからあしたも来てくれる?」
「もちろんっ。絶対来るから。約束するよ」
「やったぁ。うれしいな」
手を叩いて無邪気に喜ぶヒストリア。
ボクも嬉しくて舞い上がってたけど、必死に平静を装った。
茜雲の下、ボクは走った。
身体はズキズキ痛いけど、そんなことは気にならないくらいの高揚感でなんだか頭がフワフワしてた。
顔が勝手ににやけるし、「ぷぷっ」って変な笑い声が止まらないし。
…ボクはどうしちゃったんだろう。
今日はここまで
レスありがとう
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――
「マルコ、おめめの上がすっごくはれちゃったね」
「まぁ、時間が経てば治るよ、きっと」
「痛くない?」
「平気」
「そっかぁ……つんつん」
「いっっ~~~…たくないよ。ハァ…全然大丈夫」
「えへへ。ぷにぷにしてたー」
昨日は何とか礼拝の時間に間に合った。
トーマスたちはボクの顔を見てびっくりしてたけど
――道で転んじゃった
だれも信じない理由を押し通した。
「ねぇねぇ、これであってる?」
「うん。上手に書けてるよ」
「やった。じぶんの名前が書けるようになっちゃった。もっかい練習しよ」
嬉しそうにヒストリアは紙にペンをはしらせる。
ほこりっぽい納屋の中。風通しが悪く薄暗い室内は決して居心地がいいものじゃない。
だけど家族以外と話すことを禁じられているヒストリアは、この場所でしかボクと話せないらしい。
「そういえば昨日の3人組を見かけなかったけど…」
「今日はわたしも見てない」
「…うーん、当分来ないかもね」
「どうして?」
「悪い事はやられた方より、やった方が後味が悪いから」
「あとあじがわるい?」
「悪い事しちゃったなぁって気になることだよ」
「ふぅーん」
きっと今頃あいつらは、ボクがオトナに言い付けてるんじゃないかってビクビクしてるに違いない。
しばらくはこの牧場に近づかないだろう。……よかった。殴られ損で終わらなくて。
「ふふっ、ヒストリア、ヒストリア、ヒストリア。いっぱい書けちゃった」
ヒストリアはちょっとしたことでよく笑う。
普通の顔、笑顔、変な顔…コロコロ、コロコロ表情を変える。
だけど、悲しい顔をしないんだ。
悪口を言われた時も、石をぶつけられた時も、この場所から出たことがないって言った時も…
少しも悲しい顔をしていなかった。
――もう慣れっこだもん
そう、これがヒストリアの日常なんだ。
外の世界に出たことがないから、ボクが変だって思うことも、この子にとっては普通のことなんだ。
ヒストリアは牧場という小さな世界の中だけで生きている。
無邪気に笑うヒストリアを見ていると、それが不幸なことだって言い切れないけど…
ボクはヒストリアにもっと世界を見せてあげたいと思ったんだ。
「ねぇ、ヒストリア」
「なぁに?」
「字が読めるんだったら、本を読むといいよ」
「本?」
「うん。ヒストリアのお家には本がある?」
そう言うと、クリスタの顔がパァって輝いた。
「あるよっ。いーーーっぱい、あるよっ。お母さんね、いつも本をよんでるの。だからいっぱいあるんだ」
「そっか。じゃあ、なんでもいいから一冊読んでごらん。ヒストリアの知らないことがたくさん詰まってるよ」
「わたしにもよめるかな?お母さんみたいによめるかな?」
「うん。できるだけ文字が大きく書かれてる本を選べば大丈夫だよ」
「わかった。さがしてみる。あっ、でもその前におばあちゃんによんでいい?って聞かなきゃ」
頬を紅潮させて、興奮気味に話す。
「ふふっ、お母さんといっしょ。本がよめたらお母さんとおんなじだよぅ」
スマン。致命的なミス。
>>81の6行目はクリスタじゃない。ヒストリアだ!!
どういう理由かは知らないけど、ヒストリアはお母さんと会話をしたことがないらしい。
会話だけでなく近づくことさえ許してもらえないって言ってた。
ボクの常識では、同じ屋根の下に住んでいて母親と口を聞かないなんてありえないことだ。
でも…これがヒストリアの現実で…
しかもそんな母親をヒストリアはすごく慕ってて…
お母さん、お母さんって嬉しそうに話すヒストリアを見ていると、切なくて苦しくなった。
「本ってたのしい?」
「楽しいよ。本はね、いろんな場所に連れてってくれるんだ。
遠い昔の世界にも、ずっと先の未来にも。本を読めばどこにだって行けるんだ」
「でも…わたしここから出ちゃダメだよ?」
「体はね。でも空想するのは自由だよ」
ボクはこめかみを人差し指でトントンって軽く叩いた。
子どものボクにはヒストリアをこの牧場から連れ出すことなんてできないから。
せめて心だけは自由にしてあげたかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――
「はぁ!?王様に会えない?」
就寝時間が迫った宿泊所。寝床を整えているとダズの甲高い声が部屋に響いた。
振り返ると、ダズ、トーマス、ナック、ミリウスが円になって座ってた。
妾の話をきっかけにして彼らはすっかり仲良しになったらしい。
ボクも仲間に入れてもらおうと膝歩きで近づいた。
「いや、わかんねぇけど…、多分今年も出てこねぇと思うぜ」
「今年もって…、ナック、お前は何回ここに来てんだよ」
トーマスが呆れ気味にたずねる。
「オレとミリウスは2年前から参加してるから、今年で3回目だな」
「過去2回とも王様は体調不良を理由に謁見の間には姿を現さなかった。…今年もダメだろうね」
「け、けど、今年の王様は元気モリモリかもしんねぇだろ?」
「…聖歌隊が王都で歌うようになってから1度も出てきたことが無ぇらしいぜ。体調不良?はっ、あやしいもんだ」
ナックは声を潜めて言った。
「王様はウォール教を軽く見てるんだ。くそっ、バカにしやがって。女神シーナの鉄槌を受けるがいい!!」
「お、落ち着いて、ミリウス。…あれ?じゃあ何のためにわざわざ王都まで出向いてボクらは歌うの?」
「よぉ、キャベツ」
「キャベツって言うな」
「パフォーマンスだろ。ウォール教はこんなにガンバッてますっていうアピール」
「ダレに?」
「王様に」
「出てこないんだよね?」
「…」
「…」
「あー、もー、やる気なくしちまったぜ」
「ダズは最初からやる気ねぇじゃん」
「そうだけどよぉ、王様に会えるのは楽しみにしてたんだよ。なんだよ、会えねぇのかよー」
ダズは後ろにパタンっと倒れこみ、天井に向かってブツブツ文句を言い続けた。
トーマスは浮かない顔で大きなため息をつくと、仰向けに寝転ぶダズの鼻をつまんで遊び始めた。
――ああ、やっぱり王様には会えないのか
残念な気持ちが無いわけじゃないけど、ボクは妙に納得したんだ。
王様はボクらに無関心。そんな確信が心のどこかにあったんだと思う。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――
「へぇ、読みやすそうな本があったんだね」
「うん。字がおっきくて、絵もいっぱいかいてあるの」
「きっとヒストリアのために誰かが買ってくれてたんだよ」
「そうかなぁ…。うん、そうだといいな。お母さんだったらすっごくうれしいな」
満面の笑顔でパラパラとヒストリアはページをめくる。
こらこら、絵ばっかり見てないで文章もちゃんと読もうよって注意しかけた。
けどボクも挿絵を先に見ちゃうなって思って言うのをやめた。
ヒストリアはお家の人に本を読む許可がもらえたらしく、家の本棚から何冊か納屋に持ってきた。
ボクも読もうかなって一冊手を伸ばしてみたけど、ヒストリアが読んでる絵本以外はぜんぶ恋愛小説で。
そういうことに興味がないボクはすぐにページを閉じた。
「ねぇねぇ、これが巨人?」
「んー、たぶんそうかな」
ヒストリアが指差すページには、巨人にりんごを捧げる女の子の絵が描かれていた。
「巨人はりんごがスキなのかな?」
「ボクも巨人にばったり会っちゃったら、りんごをあげてみようかな」
「うんっ。りんごでなかよし。たべられない」
「りんごの木をたくさん植えなきゃ。一体だけにあげたら不公平だよ」
「そうだよね。みんなに1つずつくばろうね」
「じゃあ、ボクが種まき係で、ヒストリアは水やり係」
「はいっ、りょうかいです!」
ヒストリアがビシッと手を挙げたのがなんだかとってもおかしくって、ボクはつい笑ってしまう。
「ぷっ…あはははっ」
「えへへっ…」
ボクにつられてヒストリアも笑う。
しばらく2人で笑いあった後、まだ文字に慣れていないヒストリアにボクは絵本を読み聞かせた。
ボクは読み聞かせは得意だ。たまに妹にしてるから。…ぜんぜん妹は聞いてくれないけどね。
ヒストリアは真剣にボクの話に耳を傾け、1つページが終わると「はやく、はやく」って物語の続きをせかす。
ボクは読みながら、前に司祭様が語っていた「知恵の実」の話を思い出していた。
旧世界ではりんごは知恵の実とされ、人間に善悪の知識を与える禁断の果実だったらしい。
ボクは真っ白なヒストリアにりんごを齧らせようとしてるのかな…
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――
ボクは毎日ヒストリアに会いに牧場に通った。
納屋の中で絵本を読んだり、紙で文字しりとりをして遊んだり、外の世界の話をしたり…
他愛もないことがヒストリアと一緒だとすごく楽しくて。
ヒストリアもボクが来るのを毎日楽しみに待っててくれて。
だからずっと言えなかったんだ。この村を去る日が来るってことを。
「うわぁ、今日は紙がいっぱいだぁ。うれしいな。たくさん字の練習ができるよ」
ボクが持ってきた紙の量を見てヒストリアは目を輝かせた。
カバンの中に詰めてきた紙を今日はぜんぶ持ってきたんだ。
明日の朝、教会を出発して王都に向かう。だから会えるのは今日が最後。
さよならを言わなきゃいけないのに、ボクはなかなか言えなくて。…ううん、言いたくないんだ。
だって言葉にしたら……ボクが泣いちゃいそうだから。
「ねぇねぇ、マルコは教会でなにをしてるの?」
紙にペンをはしらせながら、ボクのほうを見ずに聞いてきた。
書いているのは文字ではなく…絵のようで。
床板のつなぎ目で線がガクッてなるたびに「あー、もう」って床に向かって頬を膨らませる。
「うーんと………ってる」
思わず小声になる。
「えっ?聞こえないよぅ」
「だから……歌ってる…」
歌うことは悪い事じゃないのは分かってるんだけど…なんだか照れ臭くて口ごもってしまう。
「うた?」
「えーと…フンフフーン♪っていうやつ?」
「あっ、それなら分かるよ。おじいちゃんがよくやってる。フンフフーン♪って」
「それは鼻歌。いや、まぁ歌にはちがいないんだけど…」
「じゃあマルコのうたは?」
「…ないしょ」
「えー、ないしょはずるいー。うたってよぅ」
「やだよ。恥ずかしいよ」
「うたうのってはずかしいの?」
「そんなことはないけど…、1人で歌うのは恥ずかしいの」
「じゃあ、わたしがいっしょにうたう。それならはずかしくないよ」
得意顔でヒストリアはボクを見る。
そんな提案をされても、やっぱりヒストリアの前で歌うのは気恥ずかしくて…
「今日は無理だよ」
「だったらあした。あしたいっしょにうたおうね」
「っ…ごめんね。…あしたも無理なんだ…」
思わず上を向いた。
唇を噛んで必死に堪えたけど、天井の梁にかかるクモの巣がだんだんと白い塊にしか見えなくなる。
「マルコ…?」
「あの、ね…、明日、ボクはこの村を出るんだ…」
「…おうちにかえっちゃうの?」
「うん…」
「もう…来てくれないの…?」
上を向いたままのボクの耳に少し寂しげな声が届く。
ボクは目的が不明なこんな合宿、二度と参加するもんかって思ってた…。
…思ってたんだ。思ってたはずなのに…
「来年、また来るから。…次に会った時はいっしょに歌ってよ」
袖口で目を擦ってから、ヒストリアに向かって精一杯笑顔を作った。
「らいねんって?」
「えーと、夏が終わって、秋がきて、寒い冬を越して、暖かい春が過ぎて、まただんだんと暑くなってきた頃」
「ずっとさきだよぅ」
「ずっと先だね。…ごめんね」
「いいよ。本があるからさびしくないもん」
あっさり答えるヒストリアに、ボクのほうが寂しくなった。
別れが悲しいのはボクだけみたいで…少しがっかりしているとヒストリアは明るい声で言ったんだ。
「それに、たったこれだけでしょ?」
ヒストリアは握った右手の人差し指と親指を立ててボクの顔の前に突き出す。
「ね?」
「うんっ、…ははっ、そうだよ。たったこれだけだ」
ボクも左手で同じ形を作って、ヒストリアの手と向かい合わせた。
指のL字の間からのぞく青い瞳はボクに向かって柔らかく微笑んだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――
翌日は日の出とともに教会を後にし、王都へ向かった。
ボクは馬車の荷台から見えなくなるまでヒストリアの牧場を眺めてた。
もしかしたら姿が見えるかなってわくわくしてたけど…無駄な期待に終わってしまった。
そして王様も。
もしかしたら会えるかなって少し緊張したけど…、やっぱりこっちも期待はずれで。
ボクらは絢爛豪華な謁見の間に整列し、カラッポの玉座に向かって歌ったんだ。
王様が聴くことのない王様のための歌は虚しく広間に響いてた。
まるでそれは国民に広がりつつある王政への諦めムードのようで…
――ボクらの声は王様には届かない
ボクの中に燻っていた王様に対する複雑な思いは、不信感というはっきりとした形になりつつあった。
今日はここまで。
捏造がひどすぎるので怯えながらコソコソ書いてたんだが…
みんな優しくて驚いた。レスありがとう。心より感謝
マルコとヒストリアの秘密の会瀬が古い映画、禁じられた遊びを思い出した
内容はもちろん違うけどそれくらい良い雰囲気あるな
続き期待!乙です
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「マルコ、お前今年も教団の合宿に参加する気かよ」
「そうだけど」
「やめとけって。どうせ王様出てこねぇんだからよ」
「それは分かってるよ…、あっ、いらっしゃいませ」
ボクの目の前の木製の台の上に、ドガッと乱暴に黒い革靴がのせられた。
「しっかり頼むぞ、坊主。ピカピカにしろよ」
「はいっ、もちろん」
季節は初夏。
ボクとトーマスはジエナ町の大通りの隅っこに座って小遣い稼ぎに励んでいた。
靴磨きは子どもでもできる数少ない仕事の1つだ。
ボクらは暇があれば通りに陣取り、無駄話をしながらお客さんを待っていた。
刷毛で靴のホコリを軽くはらい、靴墨を塗って乾いたボロ布で擦っていく。
「坊主いくつだ?」
「10歳です」
「じゃあ、あと2、3年もすりゃ訓練兵だな」
「…そうですね」
通りの喧騒の中に浮かび上がるおじさんの野太い声。
ボクは僅かに苛立ち、靴を擦る手が少し乱暴になる。
時々いるんだ。義務でもないのに兵士になることが当然だって思ってる人が。
兵士になる気なんてボクにはまったくなく、この手のおじさんは迷惑この上ないんだけど…
お客さんに反論するわけにもいかず、ボクは仕方なく話を合わせる。
「いいか、兵士になっても調査兵団だけはやめとけよ」
「頼まれても入りませんよ。死にたくありませんから」
「違う違う。あいつらは能無しの役立たず連中だ。湯水のごとく税金を使うくせに、何の成果も出やしねぇ」
「巨人の生態を調べてるんでしたっけ?」
「そうだ。けど調べて何になる?人類はおとなしく壁の中にこもっとくのが1番だ」
「じゃあボクは壁を補強するために駐屯兵になろうかな」
「おっ、坊主偉いぞ。分かってるじゃねぇか」
「ははっ、どうも。……はい、磨き終わりました」
「ありがとな。ほれ、駄賃だ」
カラカランッ…カランッ
上機嫌のおじさんは上着の内ポケットから財布を出し、銅貨3枚を空き缶に投げ入れ雑踏に消えていった。
「やりぃ!3枚ももらえたじゃん。マルコ最近、口がうまくなったよなぁ」
「トーマスのまねしただけ」
「えー?オレあんなにゴマすってるか?」
「すってるよ。ボクよりうーんとひどいよ。だってボク、隣で聞いてて笑いそうになるもん」
トーマスと一緒に靴磨きをするようになってから、ボクは平気で心にもないことを言うようになった。
はじめは抵抗があったけど、お客さんには耳障りの良い事を言わないと商売にならないんだ。
他人に合わせているうちに、ボクはすっかり本心を隠すことに慣れてしまった。
「よう、儲かってるか?」
ダズが小さな紙袋を持って近づいてきた。
彼の右頬は不自然に膨らんでいて…、ああ、またアメ玉を舐めてるなって思った。
「お前らもよくやるよなぁ、靴磨きなんて」
ダズはボクの隣に座り込んだ。香料の甘い匂いが微かに鼻をくすぐる。
「うっせ。オレらはお前と違って親から小遣いなんてもらえないんだよ」
「ひがむなよ。アメちゃんやるから」
「おっ、サンキュ。手ぇ汚れてるから口に直接入れてくれ」
大きく開いたトーマスの口に、ダズは紙袋から出したアメ玉を放り込んだ。
マルコもいるか?って聞かれたけど断った。
アメ玉みたいな高価なお菓子を毎回もらうのは悪いなって思ったから。
けどダズはボクの口に無理やりアメ玉を押し込んだ。
「遠慮すんなよ。友だちだろ?」
多分、純粋な親切心でダズはボクにアメ玉をくれたんだろうけど…
ボクの目にはダズがアメ玉で友だちを繋いでいるように見えて、少し悲しかった。
ダズの家は裕福ってわけじゃないけど、一人っ子のダズを両親は溺愛してて。
お小遣いをかなりもらってるみたいで、ボクとトーマスによくお菓子を分けてくれた。
「あっ、そうそう。オレも合宿行くから」
「マジ!?去年、あんなに嫌がってたじゃん」
「いや…、あいつらと来年も会おうって約束しちまったし…」
「ああ、ナックとミリウス」
「んー、あの2人とは合宿でしか会えないもんなぁ…。よし、オレも行くぜ」
「……」
「どうしたマルコ?顔が暗ぇぞ?」
「あっ、ううん。なんでもないよ…」
はぁ…、今年も2人に隠れてコソコソ教会を抜け出さなきゃならないのか…
「それよりさぁ、お前らそんなに一生懸命働いて…。何か欲しいものでもあるのか?」
「もちろん。オレはギターを買いたいんだ。まだまだお金は足らないけど」
「は?ギター?」
「この通りでたまにギター弾いてるおっちゃんがすっげーカッコよくてさ。オレも弾いてみたいわけ」
「うん。ギター弾けたらなんかカッコいいよね」
「それにさ、靴磨きのお客さん待ってる時間って結構ヒマなんだ。時間潰すのに丁度いいし」
「上手に弾けるようになったらギターでも稼げたりして」
「いいな、それ。靴磨きと路上ギターの合わせ技で2倍稼げる。よし、ギターが手に入ったら練習しまくるぞ」
「…なぁ、ギターって弾けたらそんなにカッコいいのか?」
「うん。あっ、でも…上手に弾ければ、の話だよ」
「じゃ、じゃあ、オレも母ちゃんに頼んでギター買ってもらおうかな」
「いや、だから上手になるのは大変だと思うから…、ダズは無理しなくても…」
「分かってるって。じゃあな。帰ったらさっそく母ちゃんに相談だ」
ぜんぜん分かってないダズは「残りはやる」って紙袋を置いて駆け足で帰っていった。
「……ちっ」
不機嫌顔のトーマスが舌打ちする。
温厚なトーマスは滅多にこんな顔はしない。けどトーマスが怒る気持ちはボクにもよく分かった。
ダズはすぐに人のマネをするんだ。
服装だって、読んでる本だって、紙に書いた落書きだって、誰かが「それいいね」って言ったら必ずマネをする。
ボクも何度かダズにマネられたけど…、マネられるとなぜか嫌な気分になるんだ。
しかも今回はトーマスが地道にお金を貯めてるのに、親に頼んで先にギターを買ってもらおうなんて…ひどすぎだよ。
スゥー…ハァー…
ボクの隣でトーマスは大きく深呼吸した。
「よし、そろそろ片付けるか」
「そうだね」
ボクらは商売道具を麻袋にしまう。カンの中のお金はトーマスとはんぶんこ。
片付ける手を止めずトーマスは話す。
「まっ、ダズも悪気があるわけじゃないんだよな」
「怒ってないの?」
「そりゃあ、ちょっとはイラってきたけど。でもああいうヤツだって知ってるし。腹立ててもしかたないだろ?」
「…ボクね、トーマスのそういうさっぱりしてるところ尊敬してる」
「んー…、そんなにさっぱりもしてないけど」
片付けが終わり、麻袋を持って立ち上がる。
地面にはダズが残していった紙袋が置いたままで。横目で見たら、トーマスはその紙袋を確かに見てたんだけど…
「じゃ、帰ろうぜ」
トーマスはそ知らぬ顔で歩きはじめるから、ボクが拾うのも悪いような気がして後ろに従った。
「そういえばマルコも買いたいものがあるのか?」
「う、ううん…」
「じゃ、なんで貯金してんだよ」
「えっと…お金は無いよりはあったほうがいいかなって…」
しばらく歩いて後ろを振り返ると、やっぱり路上にはポツンと紙袋が落ちていて。
紙袋の中にはトーマスの消化しきれなかった憤りがつまってるように見えた。
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買いたいものはあった。…あの女の子になにか買ってあげたかったんだ。
何気ない日常の中でふと思い浮かぶのはヒストリアの笑顔で。
けど、彼女と過ごした短い夏の日々は、時間の経過とともにフワフワと現実味を失っていき、
あれは夢だったんじゃないかってボクは時々不安になった。
誰かにヒストリアのことを話したらボクの思い出は本当に幻になってしまいそうで恐かった。
「じゃあマルコお願いね」
「うん」
「お兄ちゃん、がんばれー」
「お前も手伝えよ」
「やだー。カミキリムシこわいもん」
妹はそう言うと、母さんの背中にくっついて家の中へ戻っていった。
ボクだって大嫌いだよ、カミキリムシ。あいつ噛むんだもん。すっごい痛いの。血が出るの。
ウチの玄関脇には立派なイチジクの木があって、暑くなるこの時期に毎年鈴なりに実をつける。
高さはあってもあまり幹が太くないイチジクの木は身軽な子どもしか登れず、収穫はボクの役目だ。
けど、バカみたいにカミキリムシがくっついてるんだ。
ボクは園芸バサミをお尻のポケットに入れ、カゴを頭にかぶり、カミキリムシを怒らせないように恐る恐る登って行く。
ジョキンッ
実をハサミで切り取ると、切断部から乳白色の液体が溢れてくる。
それに直接触れないよう、布でふき取りカゴに入れる。
黙々と作業をしながらボクはヒストリアに何を買おうか考えた。
やっぱり本かな。挿絵がいっぱいあるやつ。女の子ってお姫様が出てくるお話が好きだよね。
それとも櫛がいいかな。キレイな髪の毛なのにもつれてぐしゃぐしゃだったから。
ヒストリアの喜ぶ顔を想像するのは楽しくて、あれもいいな、これもいいなって際限なく妄想は膨らんだ。
けど…最終的にはやっぱり何もあげちゃいけないような気がしたんだ。
他人との接触を禁止されてるのに急にモノが増えたら、ヒストリアが叱られるんじゃないかって不安になった。
ヒストリアの迷惑にならないもの、か…。難しいな…。
「マルコー、なにやってるの?」
「あっ、ミーナ。ちょうどよかった。カゴ受け取って」
「カゴ?あっ、イチジクね」
ボクはイチジクでいっぱいになったカゴを、爪先立ちで両手を伸ばすミーナに渡した。
「今年もいっぱい採れたね」
「うん。まだ青いヤツもたくさん残ってるから、また今度登らなきゃ」
ボクは木を降りながら答える。
ミーナは数件隣に住んでて、小さい頃はよくいっしょに遊んでた。
けど教会に通うようになってからボクはトーマスやダズと遊ぶようになり、ミーナとはすっかり疎遠になっていた。
誰かに言われたわけじゃないのに、男の子同士、女の子同士で分かれて遊ぶ。
普段係わってないから、少しおしゃべりするだけなのに、変にぎこちなさを感じてしまう。
「食べる?」
「いいの?」
「たくさんあるし。はい、どうぞ」
玄関前の石段に並んで腰掛ける。
さっきまで太陽の光を浴びていた果肉は生暖かく、実を二つに割くと甘ったるい芳香を放つ。
「イチジクっておいしいんだけど、見た目がねぇ…」
「少しエグイよね」
繊毛を思わせる赤く熟れた果実にわずかに慄く。
放っとくと生き物のようにわさわさと動き出しそうだったから、ひと思いに齧りついた。
「そうそう。イチジクの葉っぱって人間がはじめて着た服なんだって」
「えっ…?葉っぱだよ…?」
「だって教会の司祭様が言ってたもん」
「どうやって着るのよ」
「しーらない」
なによそれ、って言いながらミーナは手から腕に伝い落ちた果汁を舌で舐め上げた。
ふっくらした唇からのぞく舌はイチジクと同じように赤く、ボクは見てはいけないような気がして目を逸らした。
「マルコ、お姉さんから手紙は来るの?」
「うん。月に1回は来てるよ。楽しく仕事してるって。元気そうだよ」
「いいなぁ。わたしもシーナで働きたいなぁ」
「そういえば、ミーナのお兄さんはどうしてるの?」
「はぁ…、ウチのお兄ちゃん、職人になるとか言っていろんな所へ弟子入りするんだけど…」
「うん」
「長続きしなくって。2、3ヶ月で辞めちゃうの。オレのやりたい事はコレじゃないって」
「いいんじゃないの?ゆっくり自分にあう仕事を探せば」
「そうだけど…。少しは我慢すればいいのに。いっそのこと訓練兵になればって言ったら、すっごい怒るし」
「ははっ、ミーナが悪いよ」
「なんで?」
「ボクも兵士になりたくないから。強制はよくない」
「えっ?そうなの?」
「うん」
「だって大きくなったら王様に仕えるんだって言ってたよね?」
「それ、かなり前の話だよ」
「うんとぉ…5、6歳のころだっけ」
「ちっちゃい頃は憲兵団に憧れてたけど…。今は…自分でもよく分からないや」
「じゃあ、他にやりたい事があるの?」
「ううん。コレといってないかなぁ…」
「ダメじゃん。ぜんぜんダメだよ。ウチのお兄ちゃんみたいになっちゃうよ」
「そういうミーナは大きくなったら何になりたいの?」
「えっ?わたし?…わたしは…昔と変わってない、かな…」
「えっと、お嫁さん、だっけ?」
「わ、悪い?」
「ううん。ミーナならなれるんじゃない?」
「ほんと?」
「この前さ、ダズがミーナのことカワイイって言ってたよ。あっ、内緒だよ。ダズに怒られちゃう」
「……」
「どうしたの?黙ってさ」
「…バカッ。もう帰る」
ペチョッ
投げつけられたイチジクの皮が額に張り付いた。
「アハハハハハハハ」
2階の窓からボクらを覗いていたらしい妹の、癪に障る甲高い笑い声が降ってきた。
あっ気にとられてるうちにミーナは大股歩きで去っていってしまった。
ボク、怒らせるようなこと言ったかな…?
カミキリムシを捕まえて、2階の窓から身を乗り出している妹に向かって投げつけるフリをしたら、
泣きそうな顔で慌てて窓を閉めたので、ボクは少しだけ気が晴れた。
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草の匂い。やわらかく頬を撫でていく風。どこからか聞こえてくる牛の低い唸り声。
ボクの記憶の中の高原はそのままの姿で目の前にあり、一年前にタイムスリップしたような気さえする。
ナックとミリウスはやっぱり今年も合宿に参加してた。
トーマスたちと再会を喜び合い積もる話に花を咲かせていたけれど、ボクは心ここにあらずで…。
ごめんねって思いながら、教会を抜け出してきたんだ。
ゆるやかな坂を駆け上る。
ヒストリアはいるかな…。今日は外に出てるかな…。
期待と不安で胸がザワつき、喉が渇く。
見慣れた民家が見えてきて、駆ける足を止めゆっくりと歩いて木柵に近づいた。
――いた。ヒストリアだ
洗濯物の白いシーツがはためくその向こう、ボクの姿に気付いた女の子は弾けるような笑顔を見せた。
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「えへへ。マルコだ。ホントにマルコ、夏になったら来てくれた。うれしいよぅ」
僅かに西日が差し込む納屋の中、ヒストリアはボクに飛びついてきた。
驚いたけど、無邪気に喜ぶ様子はすごく可愛くて。
それにボクだってヒストリアに会えて嬉しくて嬉しくてたまらなかったから、子犬みたいに2人でじゃれ合った。
「わたしね、いっぱいいっぱい本を読んだんだよ」
「うん、偉いね」
「マルコの言ってたとおり、いろんな場所に行けたよ。いろんな人にも会ったよ」
「うんうん」
「でもね…、本の中にはマルコはいなかったの。がっくし」
「あはは、ボクを探してくれたんだ」
「ここの冬は寒くて長いから。本当に夏が来るのか心配になって…。そしたらすごくマルコに会いたくなった」
青い大きな瞳がまっすぐボクを見る。
「ボクも、その…ヒストリアにすごく会いたかったよ」
首の後ろに手をやって、視線を斜め上に逸らす。
正直に思ってたことを伝えるだけなのに、妙に照れ臭くて、ヒストリアの顔を見れなかった。
「あっ、そうだ。おみやげがあるんだ」
「おみやげ?」
「うん、コレ。何か分かるかな?」
ボクはズボンのポケットから小さな皮袋を取り出した。
皮袋から湿ったガーゼを出す。繊維同士が張り付くのをそうっと剥がし、ヒストリアに見せた。
「…茶色いつぶつぶ。…何かのタネかな?」
「当たり。リンゴの種だよ」
「そうだ!リンゴだ!見たことあるもん、このかたち」
「種が乾燥しちゃうと芽が出ないって聞いたから、濡れたガーゼにずっと包んでたんだ」
「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぅ……ぜんぶで7つあるね。あっ、この子はもうおひげみたいな芽が出てる」
「納屋の回りに植えてもいい?」
「うん。マルコがリンゴの種をまいて…」
「ヒストリアがお水をあげるんだよね」
「えへへ、そしたらみーんなお友だち」
ヒストリアは納屋の戸を開き辺りを見回した後、ボクを外に手招きした。
日あたりが良い場所を選んで、勝手に納屋から拝借したスコップで土を掘る。
「リンゴ、リンゴ、真っ赤なリンゴ」
ボクが作業してる間、ヒストリアはスカートをはためかせ上機嫌でくるくる回る。
適当に間隔をあけて種をすべて植え終わると、ヒストリアはジョウロに水を汲んできた。
種を植えて盛り上がった土に、ヒストリアは優しくジョウロで水を撒いていく。
「早く大きくなぁれ」
「芽が出るには2週間ぐらいかかるって」
「じゃあ、リンゴの実はいつできるの?」
「10年以上先かなぁ」
「えー?そんなに先なの?おばあちゃんになっちゃうよぅ」
「あははっ、10年ぐらいじゃ、おばあちゃんにはならないよ」
「でも、オトナになっちゃうよ」
「そうだね」
「オトナになったら…マルコは来てくれないもん」
「ヒストリア…」
そんなことないよ、会いに来るよ、って喉まで出かけたけど、ボクはその言葉を飲み込んだ。
ヒストリアにはいい加減なことを言いたくなかったんだ。
悲しいけど……きっとウソになってしまうから。
「10年先もわたしはずっと牧場の中にるのかな…」
「…きっと出れるよ」
「ううん。いいの。リンゴの木が大きくなって実ができたら1人で食べるんだ」
「…」
「リンゴの実がたくさんできても…あげるお友だちがいないから」
寂しそうに微笑む横顔に、ボクはリンゴの種なんて持ってきたことをひどく後悔した。
「わたしね、本をたくさん読んで気づいたの」
「うん」
「わたしの家族って少し変わってるなって」
「…うん」
「わたし…お母さんに嫌われてるのかな…」
震える声で搾り出すようにヒストリアは言った。
お母さん、お母さんって嬉しそうに話していたかつての面影はなく、暗い目をして現実に怯える姿がそこにはあった。
――失楽園
ふと司祭様の言葉が頭に浮かぶ。
知恵のリンゴを齧ったヒストリアは、歪んでいたけどそれでも幸せだった小さな楽園を追放された。
リンゴを渡したのは…そう、ボクだ。
ボクは、なんてことをしてしまったんだろう…
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神の子羊、世の罪を除きたもう主よ
我らを憐れみたまえ
早朝のひんやりとした空気を震わせて、聖堂に祈りの声がこだまする。
普段は口パクだけど、今日は真面目に声を出して唱和した。
そしたら隣のトーマスが気持悪いモノを見るような顔でボクをじろじろ観察してた。
放っといてよ。ボクは今、祈りたい気分なの。
「女神ローゼの偉業とは、我らを約束の地へ導いただけでなく…」
祈りが終わり、司祭様の耳タコの長い説教が始まった。
さすがに説教までは真剣に聞く気はなく、ぼんやり座ってたんだけど、あまりにも退屈で、
それなら例のムチムチ赤ん坊にあいさつしてやろうと上を見上げた。
いつもなら頼んでもないのに目を合わせてくる赤ん坊は、今日は赤の他人のフリをきめこみ、
そのかわり子どもを胸に抱く母親がボクに優しく微笑みかけた。
「慈しみ深き女神の愛は人類すべてを包みこむのです」
女神はともかく、母親って普通はわが子を大切にするよね…
――わたし、お母さんに嫌われてるのかな
かわいそうなヒストリア。
そんなことないよってボクは言い続けたけど、昨日は最後まで彼女に笑顔は戻らなかった。
ねぇ、子どもはかわいいよね?嫌ったりなんてしないよね?
ボクの問いかけに絵の中の母親は、穏やかな笑みを浮かべてうなずいたような気がしたんだ。
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「ねぇ、お母さんに話しかけてみたら?」
「えっ?」
「だってお母さんと話したことないって言うけどさ、ヒストリアから話しかけたこともないんだよね?」
「うん。だって話しかけちゃダメだって…」
「だれが?」
「おじいちゃんとおばあちゃん…」
「ほら、お母さんはダメって言ってない」
「あっ…」
大きく目を見開いた後、頬が朱に染まり、暗かったヒストリアの表情が明るくなる。
「い、いいのかな…。話しかけてもいいのかな?」
「いいに決まってるよ。だってヒストリアのお母さんでしょ?」
「あのねっ、わたしお母さんに飛びつきたいの。お母さーん、バサーッって」
「それって…きのうボクにやったやつ…」
「うんっ。本当はお母さんにしたかったんだけど、できないからマルコにした」
「あははっ、きっとお母さん喜ぶよ」
「ホント?」
「うん。少し驚くかもしれないけど」
「マルコも驚いた?」
「そりゃあ、びっくりしたよ。いきなりなに?って。でも、まぁ、うん、…うれしかった」
「じゃあ、もっかい練習」
「へっ!?」
「いくよ。お母さーーーん。とぅっ」
「うわっ!!」
いきなり腰にタックルされ、オンボロ納屋の床板が抜けそうなほど勢い良くしりもちをついた。
幸い床板は無事で、もうもうとホコリが立ち上る中、ボクらは笑い転げた。
「ははっ、ダメだよ。ヒストリア。そんなに勢いつけて飛び込んだらお母さんケガしちゃうよ」
「えへへ、だってうれしいんだもん。お母さんも笑ってくれるかなぁ?」
「うん。きっと笑ってくれるよ」
「ふふっ、お母さん、お母さん。大好きなお母さん」
この時のヒストリアは本当に幸せそうだったんだ。それを見てボクもホッとした。
ボクのリンゴの罪も少しは軽くなったかな、なんて自分勝手なことを考えていた。
そう、ボクは自分のことしか考えてなくて…。
ヒストリアの家庭の複雑さなんて少しも頭になくて…。
お母さんは子どもを愛するものっていう自分の尺度でしか物事を見てなくて…。
――心から笑うヒストリアを見たのは、これが最後だった
今日はここまで
ご無沙汰しててすいません。レスありがとう。元気でるよ
>>100
たいへんオコガマシイのだが、その映画、少し意識してたので伝わってすごくうれしい
無性に2人にお墓ごっこさせたくなるから困ったもんだ
マルコ「僕も歌を作ろう!」
マルコ「まずはジャンル」
>>157
ラップ
マルコ「ラップなんてカッコ良さそうだな~」
マルコ「よ~し!頑張って考えるぞ~」
~>>180
カッコイイと思うフレーズ
マルコ「よし、ピンときたぞ!」
ええ加減そうな俺でも しょうもないクソスレとかは嫌いねん
尊敬しあえる>>1共に成長したいねん
一生一緒にいてくれやwwwwみてくれや才能も全部含めて
マルコ「何となく2001年ぐらいに流行りそうなフレーズばかりだ」
マルコ「僕って才能あるのかも」ウフフ
マルコ「この調子でドンドン書こう!」
~>>180
保守ありがとう
マルコ「うーん。途中まで書き出してみたけど…」
マルコ「あんまり良いフレーズが出て来なかったな」
マルコ「僕には作詞の才能はないのかも…」
マルコ「よし!僕は歌う側になろう!」
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