千早「梅花」(31)


寒さの残る2月下旬。
この日も私は、階段を上りいつもの。
私の居場所へ。

軋んだ音を立てる古い鉄扉を開く。
ここは事務所の屋上。
事務所で昼食をとる時は決まってここに来ています。


静かな屋上で、のんびり歌を聴いたりしながら食事をするこの時間が私にはとても大事な物になりました。
時たま事務所の仲間達が来て一緒に食事をすることもあるのだけれど。

4色のレジャーシートを敷き、その上に座り鞄からランチボックスを取り出します。

千早「今日は風がないから過ごしやすいわね。」

空には雲一つなく、風のない穏やかな天気です。
とは言え気温は低いので上着を脱ぐわけにはいきませんが。

ランチボックスの蓋を開けて早速お昼ご飯を食べましょう。


今日のお弁当は梅のおにぎりとお野菜、卵焼き、水筒にはお味噌汁を入れて持ってきました。
それじゃあ手を合わせて。

千早「いただきます。」

ふわりと軽く風が吹き、それに乗って一片の花弁が舞い込んできました。
梅の花ね。

そういえば、春香が今日は近くの公園に梅の花を見に行くって言っていたような。
桜の花とはまた違った景色なんでしょうね。
ちょっと、見てみたいかも。


ランチボックスのおにぎりに手を伸ばし、口を開けたところで軋む音が聞こえ扉が開いたことに気づきます。
誰かが屋上にやって来たようです。

高木「おや、如月くん。昼食かね?」

千早「あ、社長。お疲れ様です。」

立ち上がろうとした所を手で制されました。

高木「あぁ、いやいいんだ。そのままそのまま。」

千早「ありがとうございます。」


高木「気温が上がってきたとは言え、まだ冷えるね。」

千早「そうですね。でも、今日は大分過ごしやすいです。」

高木「そうだね、だが体調には気を付けてくれたまえよ。我が765プロには誰ひとり欠かせないのだから。」

社長の言葉には、私達は全員で765プロなんだという思いが含まれているように思えました。

千早「そうですね、なるべく早めに下に戻ります。社長も、風邪引かないように気をつけてください。」

高木「あっはっは。参ったね、これは一本取られたよ。」


千早「社長は、どうして屋上に?」

高木「いやぁ、実は私もここがお気に入りでね。昔はよくここで時間を潰したものだよ。」

千早「私達が、売れていない頃ですか?」

高木「その更に前だね。まだ、所属アイドルのいなかった頃さ。」

社長の目が、ここではないいつかを懐かしむように空に向けられました。


高木「あの頃はまだパイプ繋ぎやら何やらで走り回っていてね、

   それでもやることがなくなるとここでタバコを咥えながらぼーっとしてたものだよ。」

千早「プロデューサーも、ここで良くタバコを吸ってぼんやり考え事をすると言っていました。」

高木「ほう、彼が。」

千早「はい、普段は私達に気を使って吸わないタバコもここでなら吸えるようです。」

それを聞いた社長は楽しそうに目を細めました。


千早「他の皆も、嬉しい時、悲しい時、辛い時、ここでそれぞれ過ごすみたいです。」

高木「嬉しいものだね。最初は私と音無くんしかいなかったこの事務所に皆がやってきて

   そして皆がこの事務所を好きでいてくれているというのは、社長冥利に尽きるね。」

千早「皆765プロが大好きなんです。」

高木「如月君もかい?」


千早「勿論です。765プロでなければ、私はここまで成長できなかったと思います。

   歌もそうですけど、色々と。」

高木「そうか、それを聞いて安心したよ。」

私のそばに立っていた社長は屋上の端まで行き、柵にもたれかかりました。

高木「だがそろそろ、君もここ以外の景色を見てもいい頃合じゃないかな?」

千早「ここ以外の……景色?」


高木「ああ、君がこの屋上を愛してくれているのは私としても嬉しい。

   だが、ここだけに囚われてしまうのもどうかと思ってね。」

そうなのかしら?
私にはよく分かりません。
この屋上は確かに私にとって大切な場所の一つだけれど、それはこの場所に囚われてしまっているのかしら?


高木「勿論、如月君がそうと言っている訳じゃない。だが、私は君にもっといろんな物を見てもらいたい。

   それがきっと、君の世界を広げる事になるはずだと思っている。」

私の……世界。
今見えている景色と、一体どう変わるのだろうか?

高木「焦る必要はないよ、ゆっくりでいいんだ。それに…」

社長の言葉を遮るようにして軋んだ音が耳に飛び込んできた。


春香「千早ちゃんっ。」

千早「春香?」

春香「やっぱりこk…って社長!?あ、お疲れ様です。」

高木「おはよう天海君、今日も元気そうだね。」

春香「はい!元気いっぱいですよ!公園で梅の花を見てましたから。」

梅の花と元気の関連性が良くわからないのだけど、春香らしいといえば春香らしいわね。


高木「それはそうと天海君、何か用事があったんじゃないかね?」

春香「あ!そうだった!千早ちゃん、近くの公園で梅の花がすごいんだよ!」

千早「今日見に行くって言ってたわね。」

春香「うん、もう凄かったんだよ!わ~っていっぱい咲いてて。」

千早「ふふっ。春香ったら、それじゃあよく分からないわよ。」


春香がかなり興奮していることしか伝わってきません。
そのくらい綺麗だったということかしら。

高木「そんなに凄かったのかね?」

社長が春香に問いかけます。

春香「はい!梅の木が並んでてそれが皆綺麗に花が咲いてて。」

高木「それはきっと見ものだろうね。」


春香「えへへ、凄かったんですよ~。ね、千早ちゃん。千早ちゃんも一緒に見に行こう?」

千早「私も?」

春香の突然の提案。

春香「うんっ。私一人で見ても寂しいし、それにあんなに綺麗な景色だったら

   誰かと一緒に見た方が、その感動も2倍になるんじゃないかな?」

確かに、見てみたい気もしてたのは事実。
そもそも私は、歌以外の物への興味がなさ過ぎたのだろう。
そこにこうして春香がきっかけをくれたのなら、私はそれに答えるべきなんだと思う。


千早「わかった、一緒に行きましょう。」

春香「やったぁ!あ、社長も行きませんか?」

高木「魅力的な誘いだが、私はこれから出かけなければいけなくてね。」

春香「そうなんですか…。残念です。」

高木「何、2人で楽しんできたまえ。」

春香「はい!」


レジャーシートを片付け、屋上を後にしようと扉の前まで行った時、ふと背後に目を遣ると社長がタバコに火をつけていました。
きっと社長は気を遣ってくれたんだと思います。
そして、私が他の景色を見る事を喜んでくれているんだと。

社長、ありがとうございます。

心の中でそう呟き、扉を開けて階段を降りていきました。


人のいない静かな屋上で、社長の口から言葉がこぼれる。

高木「それにね、如月君。君にはあんなに素敵な仲間達がいるんだ。

   きっと、すぐに見つかるはずだよ。」

吐き出した言葉は、紫煙と共に空へ溶けていった。




春香と二人で公園まで歩き、途中興奮した春香を宥めつつ件の梅の並木まで辿り付きました。
公園内の、その通りを一面梅の木が立ち並び綺麗な花が咲き誇っています。

千早「すごい、本当に綺麗……。」

春香「でしょ!?」

まだ冷たい風に吹かれて花弁がそこかしこに舞っています。
梅の回廊のような通りを、春香と並んで歩く。
嬉しそうに歩く春香を、横から眺めているだけで私まで楽しくなってきます。


春香「そうだ!」

何かを思いついたのか、鞄から携帯電話を取り出した春香。

春香「えへへ、千早ちゃん。梅の木の下で写真撮っても良いかな?」

何かと思えばそういう事だったのね。

千早「ふふっいいわよ。携帯で撮った事はあまり無いのだけど。」


春香「ううん、違うよ。千早ちゃんを撮りたいの。」

千早「わ、私を?」

春香「うん、何となく画になりそうな気がして。」

私なんかよりも春香の方がよっぽど画になると思うのだけど…。

千早「それが春香のしたい事なら。」

春香「ありがとう、千早ちゃん!」


一番近くの梅の木の下に立って、撮られるのを待ちます。
グラビアや雑誌の撮影なんかで慣れているとはいえ、やっぱり恥ずかしいですね。

シャッターを切ると機械音が聞こえ、携帯電話を構えていた春香が満足そうな顔をしていました。

春香「ふぅ、いいのが撮れたよ!ほらっ!」

満面の笑みで携帯のディスプレイを私に見せてきます。


千早「い、いいわよ見せなくて…。」

春香「あ、千早ちゃん照れてる。」

千早「もう、春香ったら…。」

談笑しながら回廊を歩いているとあっという間に端まで到達してしまいました。

春香「はー、綺麗だったね千早ちゃん。」

千早「そうね、春香。皆にも見せてあげたいくらい。」


春香「うん、でも皆忙しいからなぁ…。」

千早「そうね…。」

こんなに綺麗な回廊を、どうにかして皆にも見せてあげられたらいいのだけれど。
何か、良い手は無いかしら?
この梅の回廊を皆に見せてあげる方法を考えます。

ふと、以前屋上で四条さんの写真を撮った事を思い出しました。
あの時はインスタントカメラだったけれど、ちゃんとしたカメラならもっと綺麗にこの景色を残せるかもしれない。


春香「それじゃあ、帰ろうか。」

千早「……。」

春香「千早ちゃん?」

千早「ねぇ春香。私、ちょっと行きたい所があるの。」

春香「そうなの?」


千早「ええ、良かったら一緒に着いて来てもらえると嬉しいのだけど。」

春香「うん!付き合うよ!」

千早「ありがとう春香。」

もう一度ここに来るまでに、梅の花がまだ咲いているといいわね。
そうしたらきっと、私の世界も広がるような、そんな気がします。

おわり

終わりです。

誕生日おめでとう千早。
以前書いた物の設定を引き継いで、かつ映画の千早に繋がるように頑張ってみましたがいかがだったでしょうか?

ほんの少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。

それはお目汚し失礼しました。

あと赤心少林拳は真ちゃんが似合うと思います。

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