こういった場所に書き込むのは初めてです。
見やすさを重視した改行処理など慣れない点が多いため
もし不手際などがありましたら教えていただけると嬉しいです。
なるべく原作の世界観を壊さないよう配慮していますが、
多少矛盾などが出てくるかもしれません。
広い心で見守っていただけると幸いです。
私は一度、死んだのだ。
寒くて、痛くて、寒くて寒くて、凍えそうだった。
―――逃げなさい!
何処へ? そして、どうやって?
逃げたとして……そこに、何があるの。誰がいるの。
ない。何も。
それは、私を絶望させるには充分な事実だった。
あの時。
―――戦え!
あの時、私を生かしてくれたのは彼だった。
戦わなければ勝てない。生き残れない。
そう、教えてくれたのは彼。
凍えていた私をあたためてくれたのは彼。
彼が、私の生きる意味になった。
私のすべてになった。
それを、なんと呼ぶだろう?
◆
「エレン」
食堂のざわめきにかき消されない大きさで呼びかけた私に、
エレンは煙たげな視線だけを投げてよこす。
食事の手も止めない。
「エレン。何度も言っている。無茶はやめてと」
視線の次は、ため息だった。
「あれはあっちから絡んで来たんだろ。文句ならジャンに言え。オレは無茶なんてしてねぇよ」
「している。私闘は禁止されている。それを挑発に乗って……教官に見つかればただでは済まない。
無茶以外の何だというの」
「あのなぁ……。お前はオレの母親か?それとも姉ちゃんか? お小言のつもりかってんだ」
エレンの視線に剣呑な光が宿ったのを察してか、アルミンがとりなすようにまあまあ、と苦笑した。
「エレン、ミカサは心配してるんだよ。そういう言い方は良くない。
ミカサもだよ。もっと率直に言えばいいんだ」
「率直? 言っている。無茶はやめてと」
「違うよ。そうじゃなくて……例えば、心配だから危ないことはしないで、とか」
私の言い回しと、そんなに違うようには思えなかった。
とはいえ、エレンと私をずっと近くで見てきたアルミンの考えなら、それは多分、正しいのだろう。
「……エレン。心配だから、あまり危ないことをしないでほしい。
あなたに何かあったらと思うと、私は怖くてたまらない」
私の声は、自分でも驚くほどの頼りなさを帯びていた。
エレンも困ったような表情でこちらを見つめている。
「もちろん、どんなことがあっても、あなたのことは私が守る」
私は慌てて付け足した。
エレンは、困惑からあからさまな呆れへと表情を変え、
「もういい」
私の視線から逃げるように、席を立った。
「エレン? ちゃんと食べないと……」
「しつこいぞ。……ミカサお前な。あんまオレにばっか構うな。考えんのも、やめろ」
そんなことを言われても、困る。
取り残されて固まっている私のことを、アルミンが見ていた。何とも言えない、複雑そうな表情で。
◆
夜でも月明かりさえあれば、視界は悪くない。
音も際立って聞こえる。
昼間なら感じ取れない機微も拾い上げることができそうな、静寂の夜。
この季節は、虫も息を潜めている。
「ミカサはさ」
と、アルミンは言った。困ったような笑顔で。
最近のアルミンは、よくこういう表情をする。
「ミカサは、エレンのことを……その。どう思ってるの?」
「どうとは? ……家族、でしょう」
無意識にマフラーに手が伸びた。
エレンと私を繋いでくれた、私と世界を繋いでくれた、大切なマフラー。
「……いきなり呼び出しちゃって悪かったね。こんな寒い夜に」
「平気」
寒くはない。もう、私は。エレンがいるから。
「もう……ね、僕は、いい頃だと思うんだ」
「アルミン? さっきから、何を言っているの?」
「ミカサ。ミカサはさ、エレンが好きなんだよね?」
どこまでも優しい表情だった。幼子に語りかける父親のような、慈愛を湛えた。
アルミンに戦いは似合わない。
理不尽に自分を虐げるものにすら反撃せずにいたアルミンが、今ここにいる理由。
それを私は知っている。
巨人、壁の破壊、避難……そして、あの、口減らし。
そのことを、とても悲しく思う。
アルミンに、戦いは似合わない。似合わないことは、しなくていい。
そうはならないこの世界の、なんて残酷なことか。
「ミカサ?」
「……よくわからない」
それは、正直な気持ちだった。
大切。家族。守る。失いたくない。そばにいたい。
危ない目にあって欲しくない。傷つかないで欲しい。
安全に、健やかに、出来るだけ危険から遠いところに……。
それを、なんと呼ぶだろう?
「よく、わからない……。ただ、失いたくない、と思う。その為なら何でもすると」
「うん……それは、とてもよくわかるよ」
ああ、彼は……すでに失っている。
それとも、どうだろう?
私が両親を失くしても、エレンが。エレンとアルミンがいたから、ここまで歩いてこれたように。
アルミンにとっての私とエレンもまた、彼を歩かせる杖となり得ただろうか。
「アルミン……」
私の失言を気にした様子もなく、アルミンは夜空を見上げながら続けた。
「僕はエレンのことも、ミカサのことも、すごく好きだ。二人には笑っていて欲しい。こんなご時世だとしても」
一言一言、そっと手渡すような口調だった。
「ミカサ。ミカサは、エレンへの恩だけでエレンのことを守りたいわけじゃないと思うんだ」
「……」
「エレンは、バカだバカだって言われているけれど。ミカサの……エレンを大切にしようって気持ちは、きっと伝わっているよ」
「そう、だと……いい……」
「ただ、エレンはきっと、守られるより守りたいんだ。そういう性質なんだろうね。昔からそうだっただろう? ミカサは、どう思う?」
答えるまでもなかった。
私は、うつむくしかない。
「それでも……私は、エレンを……」
守りたい。
「ごめん、ミカサ。でも、少し考えて欲しかったんだ。
もうすぐ僕らは訓練兵ではなくなる。
こんな状況だけど……いや、こんな状況だからこそ、自分が自分である理由は、知っておかないと。
なんてね……。ちょっと偉そうだったかな?」
「そんなことは、ない」
即答した私に、アルミンは申し訳程度に微笑んで、続けた。
「……もし。もし、だよ? エレンがミカサよりもずっと強かったら、どうだったかな」
「……?」
「エレンがミカサを守る。ミカサはエレンに守られる。それを当然だと感じるようになったと思うかい?」
強いというのは、格闘術や、立体機動の技術についてだけを指すわけではないのだろう。
エレンが、私を守る。守られる。私が……エレンに。私は、守られるだけで?
そんなことは、きっとありえない。
あっては、いけない。
黙り込む私に、アルミンは小さく呼びかけた。
「……ごめんね。 だいぶ冷えてきたな。もう、戻ろうか」
私の手を引く、アルミンのあたたかな手のひら。ゆっくりとした足取り。
何故だか、胸がつまるような心地だった。
……手。温度。
はじめは、エレンに手を引かれていた。いつも。いつでも。
塞ぎ込みがちだった私をアルミンに引き合わせ、新しい家族だと笑ってくれた。
綺麗な花が咲いたぞ、と自慢気に語りながら駆け出した。
調査兵団の凱旋だ、と誇らしげに指差した。
エレン。
……エレン。
この気持ちを、何と呼ぼう?
◆
エレンが立体機動の演習中に高所から落下したのは、その翌日だった。
離れるべきではなかった。目を離すべきではなかったのだ。片時も。
訓練中も、すぐに手を伸ばせる距離を保つべきだった。
―――落ちたぞ!
後方で声が聞こえた。
落ちた? 誰が、と振り向く前に、また声。
―――エレン!おい!大丈夫か!?
立体機動装置を操る自分の身体が他人事のようだった。
私の身体は、戸惑いを置き去りにしてエレンの元へ急ぐ。
「エレン!」
エレンは気を失っていた。
悲鳴じみた私の声にも、ぴくりとも動かない。
誰だったろう? エレンへ手を伸ばしたのは?
「触るな!!」
動かしては駄目。落ちたところを見た人はいる? どういう落ち方をしたか教えて。
教官を呼んで。医療班の手配を頼んで。早くして。一秒も無駄にしないで。
私はそれらを言葉にできていたのだろうか。
目立った外傷はない。大丈夫だ。傍らに屈み込んで胸に耳を当てた。そうせずにはいられなかった。
自分の呼吸音がうるさい。息を止める。……鼓動が聞こえる。大丈夫。
エレンの、呼吸は? 吸って、吐いて、規則正しく、胸元が動いている。大丈夫だ。大丈夫……。
今回は、大丈夫だ。
今回は、まだ、大丈夫だった。
◆
「うん。軽い打ち身だけで済んだみたいだ。ただ、また無茶をするといけないから休ませるってさ。
本人は訓練に戻るってごねたらしいけどね」
医療班からきいた説明を、アルミンがみんなに繰り返した。
ふーっと誰かがため息をついたのを皮切りに、私とアルミンを取り囲んでいた同期達から安堵の声が漏れる。
「だーから言っただろうが。あれくらいでどうこうなるような繊細さは持ち合わせてねぇんだ、あいつは」
「確かに」
「よかった……! ひどい怪我じゃなくて、本当によかったね」
「驚かせやがってよぉ」
「そもそも、大した高さじゃなかったしね」
「大体何で落ちたんだよ?」
「さあ? 何か朝からフラフラしてたしなぁ」
「……昨日の夜、寝れないから宿舎の周り走ってくるって言ってたけど」
「はぁ? マジかよ。それで疲れてボケてたってことか?」
「なんで寝れないから走る、って考えになるんだ? とんっでもねぇ馬鹿だな」
「でも、よかったですね! 安心したらお腹が減ってきましたよ……」
「あー? お前さっきは心配しすぎて腹減ったーって言ってただろ!」
「あーもう、飯食おうぜ飯」
思い思いの感想を呟きながら、席に戻って行く。
食堂は和やかな空気に包まれていた。
どうして。
今回は、大丈夫だった。確かに、そうだ。
でも……それだけだ。
何故皆、手放しで安心できるのか。
寒い。頭が痛い。
「ミカサ」
食堂の喧騒が遠い。耳に手を当てられているかのように、音に現実感がない。
「ミカサ!」
「……え?」
「ミカサ、エレンの食事。教官には僕から言っておくから。ミカサが運んであげるといいよ」
隣のアルミンの声すら、何処か遠くから聞こえた。
◆
部屋に入ると、つんと消毒液の香りがした。
窓からは柔らかく月明かりが差し込んでいる。
寝台の上で上体だけを起こし、窓の外を見つめるエレンの輪郭が際立って見えた。
「エレン」
「……ミカサか」
エレンは振り向かない。ただ、その声は何処か儚げな温度を伴って、私に届いた。
「食事を持ってきたから、食べて。食べ終わったら、横になって休んで」
「別に平気だ。こんくらいなんともねぇ。確かにドジはやっちまったが、そんだけだ」
扉を閉めて、一歩。また一歩。まだ遠い。
「お前なら考えられないミスだよな」
「……演習ではなく実戦なら、致命的。馬がいないのなら、地上に降り立つのは危険。まして落下なんて」
「受け身はとった」
「そういう問題ではない。気絶した状態で、どう巨人と戦うつもりなの」
寝台の傍らに食事をのせたトレーをおいた。
あと、一歩。
「無茶はやめてと、昨日も言った」
「……こんなの、よくあることだろ。オレじゃなくても。今までにも。訓練なんてそんなもん――」
「違う」
違う。そういうことではない。
「はぁ? 何がだよ」
「あなたは昨夜、ほとんど寝ていなかったと聞いた。夜中も一人で宿舎の周りを走っていたと」
「……口の軽い奴らだな……」
「休むべき時に休まず、翌日にその疲労を引きずって。演習中に注意を散漫させる。それは」
「わかったよ。わかってるからもういい」
―――ミカサの……エレンを大切に思う気持ちは、伝わってると思う。
アルミン。本当に、そうだろうか。
エレンはどうして、自分を大切にしないのだろう。
だから私は、どんどん頑なになっていくのに。
どんどん、エレンをどこにも行かせたくなくなるのに。
最後の、一歩。
ほんの少し手を伸ばせば届く距離。
寝台に腰掛けて、俯いているエレンを覗き込んだ。
「……エレンは、私から離れないで」
「そんなわけにいくかよ」
「そうじゃないと、エレンは絶対長生きしない」
「巨人を駆逐するまで、オレは死なない。……何が何でも生き延びて、一匹残らず―――」
エレンは、何もわかっていない。
「意思一つで死を退けられるなら、死ぬ人なんて誰もいない」
そうじゃないから、死んだ。
お父さんも、お母さんも。おばさんも。
世界はとても、残酷だから。
目の前のエレンと、おばさんの面影とが重なる。
あの日、私はまた失ったのだ。
「何だよ?」
無意識に、私はエレンの手をとっていた。
「ミカサ……?」
指を絡める。離れないよう、離れないように。
温度、あたたかい。繋いでいる。繋がっている。
生きて、そばにいる。
今は、まだ。
「……あなたは私が守る。絶対に」
「っ……、いい加減にしろ!」
手が、離れた。
振り払われたのだと、一瞬遅れて気がつく。
同時に、底冷えするような冷たさが足元から這い上がってきた。
「エ、レン……?」
私の手を振り払ったその手が、固く握り締められていた。
爪で手のひらを傷つけてしまうかもしれない。
痛みに耐えるように、身体を強張らせている彼にもう一度手を伸ばそうとして、
けれど、私は動けなかった。
エレンの苦しそうな眼差しと声が、私を磔にしていた。
「やめろよ、ほんとに……そういうのは!」
「エレン?」
「お前、いつまでこんなこと続けるつもりなんだよ。自分の命をオレに差し出すのはやめろ!
そんなことしてくれなんて誰も頼んでねぇだろ!」
怒りでだろうか。唇が、微かに震えている。
それでも発散しきれない憤りがこぼれ落ちるかのような、ため息。
エレンは片手で顔を覆った。だから、表情が……もう見えない。
わたしは、どう言えば?
何を言えば、エレンにわかってもらえるのだろう。
自分ですらよくわかっていない気持ちを、どう、伝えれば?
「……私は、エレンを……これ以上、家族を……」
絞り出すように紡いだ言葉さえ、届かない。
「意思一つで死を退けられるなら、誰も死なねぇんだろ? お前がそう言ったんだぞ、ミカサ。
だったらお前がどんなに頑張ろうが、ダメな時はダメだってことじゃねぇのか」
そうして今度こそ、私は言葉を失った。
「だから、もうやめろ」
「……」
「オレを守ろうとするのは……やめろよ」
どうして。
◆
眠りは、訪れてくれそうにない。
寝台の上、同室の人間の寝息を聞きながら、目を閉じて何とか眠りに就こうとする。
その度に、頭の中で反芻される、エレンの叫び。
―――自分の命をオレに差し出すのはやめろ!
そんなつもりではない。
そんなつもりで、ずっとそばにいたわけではない。
私がエレンを守るのは当然のことだ。
エレンは一度死んだ私を生き返らせてくれた。
凍えていた私を、あたためてくれた。
家族をくれた。
家族でいてくれた。
手をつないで家から連れ出し、色々なものと出会わせてくれた。
マフラーを巻いてくれた。
エレンが、私の世界の礎だ。
おばさんにも頼まれている。二人で助け合えと。あの子は危なっかしいから、と。
だから、当然のこと。とても自然なこと。
それなのになぜ、エレンは……
―――いい加減にしろ!
あれは、拒絶、だった。
「……っ」
ああ、私はエレンに、拒絶されたのか。
だとしたらそれは……とてつもない喪失だった。
私は、どうすればいいのだろう。
エレンのことを考えずに、エレンを守るために生きずに。
どうやってこれからの日々を越えていけばいいのだろう。
……寒い。
エレンは、私が思っているよりも嘘が上手なのかもしれない。
本当は、私を厄介だと、ずっと疎ましく思っていたのかもしれない。
だとしたら……そうだとしたら、
出来るだけエレンに気づかれないように、エレンの周囲から危険を排除して……。
……馬鹿げている。そんなことが、続くわけがない。
エレンの気持ちを無視して。疎まれようと、嫌われようと、彼を守り続ける。
失うよりは、その方がずっといい。
感謝して欲しいわけではないのだから。見返りを求めているわけでは、ないのだから。
寒い。寒くて、寒くて、枕元からマフラーを手繰りよせても、寒さはしのげそうになかった。
期待
とりあえず、ここまでにします。
夜中か早朝にまたひっそり投下したいと思います。
>>21
ありがとうございます。励みになります。
やはり地の文が続くと詰まって見えますね、申し訳ないです。
かといってすべてに空行を挟むと今度はスカスカになるので……。
それではまた深夜にでも。
◆
結局眠れずに朝を迎えても、答えは出なかった。
休むべき時に休まず、注意を散漫させて。エレンへ向けた言葉がそのまま自分へと跳ね返ってくる。
朝食も昼食も、ほとんど味がしなかった。アルミンの気遣うような視線にも、気がつかないフリをした。
訓練中に大きなミスをしなかったのは、運が良かっただけに過ぎない。
身体が、重い。
水を汲む、ただそれだけのことが億劫で仕方がなかった。
「えっと……ミカサ?」
声の主は、クリスタだった。私に話しかけてくるのは珍しい……気がする。
「何か」
思ったよりもそっけなく響いた私の声に、クリスタは遠慮がちに答えた。
「えっと……勘違いだったらごめんね。ちょっと、元気がないなって思って。
もし体調が悪いなら、水汲みは私一人でやるよ?」
小さな身体。華奢で、細い手足。
座学や馬の扱いはともかく、戦闘を含めた肉体労働には、まるで向いていないだろう体格。
長めに切りそろえられた淡い色の髪。
私とは、真逆だ。
「水汲みは、二人一組でやることになっている。それにあなただけでは、いつまでかかるかわからない」
「……うん、そうだよね。余計なこと言ってごめんね。でも、できるだけ頑張るね!」
そう言って、ちょこまかと動き回りながら水を汲む姿に、違和感を覚えた。少し遅れて、思い至る。
「ユミルは」
「えっ?」
「一緒にいることが多いと思ったけれど。今は姿が見えないから」
一瞬の沈黙の後、クリスタは苦笑した。
「ついてこないでって言っちゃったの。私と一緒にいると、ユミルはしなくていいことまで背負っちゃうから」
「……?」
もう一度微笑んでから、クリスタは重そうに水桶を持ち上げる。
「私がやらなきゃいけないことをユミルが代わりにやったり、別の誰かにやらせたりしちゃうから」
柔らかい、けれど平坦な声色だった。
「……だから、あなたは怒っている?」
「ううん。違うよ。……悲しいの」
その微笑みは何処か、昨夜のエレンを思わせた。
―――オレを守ろうとするのは……やめろよ。
泣き出しそうな声。あんな顔をさせたかったわけではなかった。
「ミカサも今日は、あまりエレンのそばにいかないんだね?」
「……」
答えない私に、クリスタは慌てたように続ける。
「あっ、ごめんね……ユミルといないんだねって言ってくれたでしょ?
ミカサはあまり私たちに積極的に関わってはこないけど、
それでも、ちゃんと見ててくれてたんだなぁって少しうれしかったの。
だから私も言ってみたんだけど……」
「……私はどうやら、エレンを怒らせたようだから」
「……それで元気がなかったの?」
「そう見えたのなら、そうなのだろう。他に思い当たることがない」
クリスタは、じっとこっちを見つめた後、目を細めて笑った。
「ミカサって、可愛いね!」
「……は?」
いきなり何を。
「私でよければね、話を聞くよ。その前に、この…っ、水汲みを、終わらせ、ないと……っ!?」
彼女が両腕でも苦労するそれは、私が添えた片手で軽く持ち上がった。
思えば会話を始めてから、私は殆ど動いていなかった。
「……私に、そういう形容は似合わない、し、必要ない。
それは、あなたのほうがふさわしい……と、思う」
そんなことないよ、でもありがとう、と、クリスタは柔らかく微笑んだ。
花がほころぶように。
◆
エレンやアルミンから離れて食事をするのは、初めてのことかもしれない。
どうしたの?と心配そうなアルミンにも、
珍しい組み合わせだなと訝るユミルにも答えられない私の横から、
―――ミカサに、立体機動や格闘術について教えてほしいことがあって。
そう言って微笑んだクリスタが、神々しくさえ見えた。
大雑把に、要点と流れだけを説明すると、クリスタは小さく嘆息した。
「そっかぁ……私はね、エレンの気持ちもわかる気がする、かな」
「……念のため言っておくと、私がエレンを理解していない、という訳ではない。ただ……」
もちろんわかってるよ、と笑顔で頷くクリスタに毒気を抜かれてしまう。
相手に敵愾心を抱かせない性質だな、と思った。
「ミカサは、自分は何のためにここにいるんだろう……って思ったことはある?」
「ない」
この問いは、簡単だった。
あまりに簡単で、即答し、その後で間違いに気付いた。
「訂正する。エレンと出会ってから。一度もない」
「……エレンのために?」
「そう」
エレンのために。
どこまでも単純明快な、私の唯一の行動原理。
そして、だからいま、こんなにも空虚だ。
「あのね……守られるだけっていうのも、辛いんだ。時々ね、どうしても、苦しくなるよ」
クリスタは静かに、話し始める。優しく、優しく。穏やかな声で。
私は、耳をそばだてて彼女の話からエレンの断片を掴み取ろうとしていた。
「私はユミルが、いつ私のせいで怪我をするんだろうって思っちゃうの。
私がした失敗や、私の力が足りないせいで。
努力しても努力しても埋まらない体格の差や、実力の差で、
どこまで迷惑をかけるんだろうって。
時々すごく不安になる……」
食事を口に運ぶ小さな手は、動きを止めていた。
手持ち無沙汰そうにスープをかき回し、それもすぐにやめてしまった。
「ミカサは、エレンのことがすごくすごく、好きなんだよね」
「……」
うまく答えられない私を問い詰めるでもなく、クリスタは続ける。
「大好きで、大切だから、一生懸命守ろうとするんだよね」
「……」
「エレンもそうだったら?」
―――エレンがミカサを守る。ミカサはエレンに守られる。
今になって、アルミンの言葉が重さを伴って胸に響く。
クリスタも、同じことを言っているのだ。
「ミカサと同じように、エレンも、ミカサを守ってあげたいと思っても。
ミカサは軽々とエレンを飛び越えて、矢面に立つの。
ミカサが悪いんじゃなくて……でも、頑張ってもちっとも届かなくて。
なんだかとてもね、遠い気がする……」
少しずつ、少しずつ、遠かった音が戻ってくる。
霞がかかった視界に鮮やかさが戻ってくる。
―――それが当然だと感じるようになったと思うかい?
―――エレンもそうだったら?
それは、ハッとさせられる認識だった。
絡んだ糸がほどけていくような。
「与えられた分だけ返そうとしても、力が足りなくって、受け取るばっかりになってくの。
そういう悔しさは、あると思うんだ。私は上手くやれないことばかり。
エレンよりももっと、何にも出来ないから……」
「……私はあなたを、すごいと思う」
心からの言葉だった。
「え?」
「少し、わかった気がした。あなたは、すごい」
真逆の立場にいる人間を、それでも出来る限り慮って、理解しようとする。
理解してもらおうと、言葉を尽くす。
簡単なことのようで、それはどれだけ難しいだろう。
「それは……違うよ。今回のことはたまたま……私にもわかることだっただけ。
私は、誰かの役に立ちたいだけなの。それもきっと、自分のために……」
ふ、と。
クリスタの瞳に影が落ちた。
「だとしても。私はあなたに、感謝している」
我ながら、言葉に不得手だと思う。
彼女は私に、行くべき方を指差してくれた。
同じことを、私はしてあげられない。
「ありがとう」
気の利いた励ましの言葉一つかけられない。
それでもクリスタは、うつむていた顔をゆっくりとあげた。
「ふふ。私もミカサに感謝してるよ? 一生懸命聴いてくれて、嬉しかったから」
彼女の微笑みは、春を思わせた。
ユミルはこれを、守りたいのだろう。私がエレンに対してそう思うように。
―――エレンもそうだったら?
そうだったら。それは……とても。
「……だいぶ冷めちゃったね。でも、たくさん食べて、元気をだそう?」
頷いて、スープを口に運んだ。
今度はきちんと、いつも通りの素朴な味がした。
咀嚼する。
飲み込んで、喉を通り、胃に落ちていく。食べる。生きている。
言葉を……どんなに不得手でも、扱える。
目が見えて、耳も聞こえる。手足だって、自由に動く。
だから、大体のことはできるのだ。
理由さえあれば。
「クリスタ。一つ、確認させてほしい」
「? なあに?」
「あなたの目に。エレンが大好きなのだ、と映っていた? ずっと。私は」
クリスタは食事の手を止めて、じっと私を見つめた。
……沈黙。
そして、
「うん。それはもう!」
疑う余地などひとつもないというように。
その微笑みは、光をこぼすように、行く先を照らす。
だから私も、もう白状するしかない。
「私も、……そう、思う」
◆
あれは、夏だっただろうか。
繋いだエレンと私の手が汗ばんでいたのを、よく覚えている。
イェーガー先生の家で暮らすようになってから、そう日は経っていなかった。
『アルミンは……?』
『先に着いてるだろ。いっつもそうだし』
石段を、一歩、また一歩と登り、私達は高台を目指していた。
『もう少し、っと!』
雨と雲さえなければ、一年で一番星がよく見える日。
教えてくれたのは、アルミンだった。
エレンが聞くだけで満足するわけもない。
結局夜更けにこっそりと、家を抜け出すことになったのだ。
手に手を取って。
『ミカサ! 疲れてないか?』
そう言う、エレンの方が息を切らしていた。
『大丈夫』
広場を抜けて、街路樹の並木を過ぎたら右へ。
続く石段を登れば、あまり高低差のないこの地域で、それでも一番高い場所だった。
『見えてきた。てっぺんだ……!』
エレンの足が早くなる。
置いていかれないよう速度を合わせながら、汗ばんだ手を繋ぎ直した。
『いた。アルミン!』
石段を登りきると、最初に見えたのは立ち尽くすアルミンだった。
駆け寄った私達に振り向いたアルミンが、人差し指を上へと向ける。
その先には、
『すっ、げぇ……ミカサ! すげぇぞ、見てみろよ!』
黒い紙の上に粉砂糖を散りばめたような、満点の星空が広がっていた。
エレンは空を仰ぐ。
繋いでいたわたしの手をゆるりと開放したエレンの指先は、星を掴み取るように空へと伸びていく。
まるで宝物を自慢するように。誇らしげに……嬉しそうに。
風が吹いて、はためいたスカートがパタパタとすねを叩く。
なびく髪を耳にかけて、聞こえるのは虫の鳴き声。
手が離れてしまったのは残念だけど、確かにこの空は本当に綺麗だ。
私はエレンが大好きだから。もっと、喜ばせたい。
もっともっと笑ってほしくて、少し大げさに喜んで見せた。
『うん……これは、すごい……!』
『だろ?! アルミンが言ってた通りだったな! さすがアルミン!』
笑ってくれた。
アルミンも照れ臭そうに微笑んでいる。
『いや僕は……たまたま本で読んだんだ。
それに、この高台を選んだのもエレンだし……正解だったね……!』
『アルミンは、物知り』
『そうだな、アルミンはオレ達の先生だ!』
『や、やめてよ二人とも……!』
暗い夜に響く私達の笑い声の明るさが、虫の音をかき消す。
誰からともなく草の上に腰を下ろして、手を取り合った。
不思議な高揚と、少しの心細さを共有するために。
『やっぱさ、あれがなきゃもっとすげぇのにな』
『あれって……壁のこと?』
『当然! あれがなかったら、あっちの……地の果てまでこの星が続いて見えるんだぞ』
エレンの瞳は、壁の向こうを見ているようだった。
『いつか絶対、オレは外の世界を探検する』
こういうことは、ままあった。
エレンは、諦めない。
諦める、ということを、知らないのかもしれない。
外へ外へ、未知へ未知へ。
郷愁を語るように、憧憬を抱くように、エレンはまだ見ぬ壁の外を想うのだ。
それを目の当たりにするたび、私は怖くなる。恐怖が心を塗りつぶしていく。
『駄目。危ない……』
『なんだよ。お前は見たくないのか?
外の世界にはたっくさん、すげぇもんがあるんだぞ! な、アルミン』
『うん。前にミカサにも話したよね?』
アルミンは、賛同も否定もしなかった。ただ気遣うように、おずおずと私の顔を覗き込む。
『きいた。でも危ないのは、駄目』
『じゃあミカサは留守番だな』
拗ねたようにそっぽを向くエレンに、わたしは慌てた。
『……そ、それは、もっともっと、駄目。アルミンも、とめて』
蚊の鳴くような声でつぶやいた私に、エレンは呆れたように、アルミンは困ったように、小さく笑い声をあげる。
『引きとめて、エレンが納得するとも思えないしね。それに僕にも、やっぱり憧れはあるよ』
『だろー?』
劣勢に挫けそうになりながら、とうとう私は苦し紛れに呻いた。
『……おばさんに、言う』
『おいミカサ、お前なぁ!』
『おいて、いかないで……』
怖れを知らないエレン。
私とは、違うのだ。
手が震え始めていた。
嫌だ。
もう、あれは嫌だ。
寒いのは嫌だ。
失って、与えられて、今ここにあるすべて。
それで充分。
おばさん、イェーガー先生。アルミン。そして、……エレン。
私は満足しているのだ。エレンによってもう一度与えられた、この小さな世界に。
『ったく……置いて行ったりしねぇよ。三人とも一緒だ。ほら』
エレンは繋いだ手を掲げてみせた。強く、握りしめる。ほどけないように。
『アルミンも?』
『もちろん。僕もミカサと一緒の方がいいよ』
『本当に?』
『うん、本当に』
『エレンも、本当?』
『しつけぇよお前……』
二人とも、繋いだ手は離さない。
『いいから、見ろよ。一年に一度しか見れねぇんだからさ』
『うん……』
顎でしゃくって星空を観るよう促すエレンから、なんとか視線を引き剥がす。
こぼれ落ちてきそうな星々を、その瞬きを見つめながら、繋いだ手のあたたかさを思う。
震えはいつのまにか、おさまっていた。
失いたくない。
もう二度と。
そのために、出来ることはなんでもしよう。
強くなろう。
強くなって、二人を守ろう。
それで、ずっと一緒にいよう。
彼と、彼らと、……家族、と過ごす日々を。
私は……愛した。
そしてあの日。
―――ミカサ!
―――ヤダ…イヤダ……
私はまた、失ったのだ。
―――生き延びるのよ……!!
見たくなかった。認めたくなかった。信じたくなかった。だから目を逸らした。
だってこんなのは、まるで現実らしくない。
私の、私の現実は、毎日は……、
『ミカサ、髪がはねてるよ。ほら。女の子は可愛くしていないとね』
『友達が? あぁ……アルミンのこと。仲良くするんだよ、三人で』
『ああ、そんなに泥だらけになって……エレン! ミカサを悪さに巻き込むのはやめなさい!』
『ミカサは偉いね。お手伝いをありがとう』
『ミカサ。何を遠慮することがあるの? 家族でしょう』
『ミカサ……あの子はだいぶ危なっかしいから……困った時は二人で助け合うんだよ』
『エレン! ミカサを連れて逃げなさい!早く!』
……嫌だ。イヤだ。どうして。どうして?
どうして……。
私の意思とは無関係に、手のひらからこぼれおちていくすべて。
大切に抱え込んだ宝物は、あっという間に腕をすり抜けて、戻らない。
もう二度と、戻らない。
混乱と諦観に絶望とに飲み込まれかけていた私の横で、エレンの目は、それでも力を失っていなかった。
―――駆逐してやる……!
エレン。
あなたは、怖れを知っても。
それでも、諦めないというの。
―――この世から……一匹……残らず!
なら私は、もっともっと、強く在らないといけないのだ。
失わないことを、私も諦めてはいけないのだ。
◆
「ミカサ」
回想はそこで途切れた。
急激に現実に引き戻されて反応出来ずにいると、
アルミンは心配そうな表情で歩み寄り、私の顔を覗き込んだ。
「遅れてごめんね、ミカサ。寒かったかい? どうしたの?」
「エレンは」
「大丈夫。うまく誤魔化してきたよ」
話したいことがある。エレンには言わないで欲しい。
訓練の合間を見計らってそう頼むと、アルミンは快く引き受けてくれた。
「それで、ええと……何があったの?」
「……」
気持ちをそのまま、言葉に変換して表現する。伝える。それだけのことが、私にはとても難しい。
「考えながら、話す。ので。少し、時間がかかるかもしれない」
「うん?」
「その……これは、自分でも理解しているとは言い難い問題。なので……」
「もちろん、僕でよければ力になるよ、ミカサ」
こともなげに、アルミンは微笑んでくれる。
柔らかい眼差しは、けれどとても真摯だった。
彼の内包する機転、聡明さ、叡智と優しさを、私は心から尊敬していた。
私やエレンにわからないことを、蔑むでもなく、嘲るでもなく、同じ目線になって教えてくれる。いつも。
「あの」
「うん?」
「私は。エレンが好き。とても、好きだと思う。そのことでアルミンに」
「えっ!?」
「っ!?」
私は言葉を飲み込んだ。
「あ……ごめん! ミカサ」
何故謝られたのか、理解が追いつかない。
アルミンは周囲を見渡した後、私の手を取って歩き出す。珍しく、早く強い歩調だった。
「驚かせちゃったね。ごめん。まず、さ、ちょっと座ろう。思ったより核心に近い話だったよ」
「……? わかった」
宿舎脇の井戸の通り過ぎて演習場の森の入り口まで来ると、ようやく歩みが止まる。
「教官や、別の誰かが近くに来たら教えてほしい。多分僕より先にミカサが気がつくはずだから。
多分ここが、誰かに見つかったら走って戻れて、人が通りにくいギリギリの場所だ」
アルミンは、木の幹に背を預けて座り込む。
「ミカサにとって、大切な話だと思うから。ゆっくり聞くよ」
「……ありがとう」
アルミンは淡く微笑む。彼の隣に腰を下ろして、空を見上げた。
枝葉が月明かりに影を落としてる。
風に揺らされて鳴る葉擦れの音にかき消されないよう、私は注意深く、言った。
「私は、エレンが好き」
二度目は、一度目ほど躊躇わなかった。
訓練でも、実践でも。何でも、一度目が一番難しいのだろう。
アルミンは……噛みしめるように瞑目した後、今度は私をじっと見据える。
「それが、この前僕がした質問への答え?」
まっすぐに向けられる視線を受け止めながら、私は頷いた。
「そう」
アルミンは何処か安堵したように、ため息をついた。
アルミンは、木の幹に背を預けて座り込む。
「ミカサにとって、大切な話だと思うから。ゆっくり聞くよ」
「……ありがとう」
アルミンは淡く微笑む。彼の隣に腰を下ろして、空を見上げた。
枝葉が月明かりに影を落としてる。
風に揺らされて鳴る葉擦れの音にかき消されないよう、私は注意深く、言った。
「私は、エレンが好き」
二度目は、一度目ほど躊躇わなかった。
訓練でも、実践でも。何でも、一度目が一番難しいのだろう。
アルミンは……噛みしめるように瞑目した後、今度は私をじっと見据える。
「それが、この前僕がした質問への答え?」
まっすぐに向けられる視線を受け止めながら、私は頷いた。
「そう」
アルミンは何処か安堵したように、ため息をついた。
「……そうか。……うん。よかった……」
「よかった?」
「よかったよ。言ったよね。僕は、二人に笑っていてほしいんだ」
「……エレンは、笑わない」
「……どうしてそう思うの?」
それは、難しい質問だった。
ひとつ、ふたつ。胸に抱く不安を数えていく。
みっつ、よっつ。絡み合って、なかなかうまく説明出来ない。
届きそうで、届かない。
それはまるで、私からエレンまでの距離のようだった。
「……エレンは、私がエレンを守ることを、快くは思ってくれないだろう」
「……うん」
「けれど―――」
幼子のようにたどたどしく拙い私の言葉を、アルミンはひとつひとつすくいあげてくれた。
根気強く、辛抱強く。相槌と質問と励ましを重ねてくれた。
語り終えた私の熱を冷ますかのように、風が吹く。
はためくスカートも、なびく髪も、虫の音も、今はない。
星も、見えない。
「ミカサ」
「ん……」
アルミンの声は、とても優しかった。
「ミカサの不安の、ひとつは僕が解決してあげられるよ」
「ひとつ……」
「うん。それ以外は、僕が言うべきことじゃない。エレンに直接訊かないと」
「……」
もうやめろ、と。構うな、と。私から目を背けたエレンを思い出す。
振り払われた手の痛みを思い出す。
身が竦む思いだった。
「怖くても。ミカサもエレンも、大丈夫だよ。僕が保障する」
「……本当に?」
「うん、本当に」
あの、夏の日。
あの頃とこんなにも変わってしまったのに、それでも変わらずにここにあるもの。
私が失わずにいられたもの。
私が信じるべきもの。
「やってみる」
私の言葉に、アルミンはにっこりと笑って頷いた。
◆
おあつらえ向きに、今日は休息日だ。
アルミンと別れて部屋に戻った後も、私はまた、眠れなかった。
不安と恐怖、高揚と期待が混じり合って、とても眠れるような状態ではなかった。
窓から朝日が差し込む頃になると、
様々な感情はある種の開き直りとともに、たったひとつの願いへと収束する。
会いたい。今すぐに。
つまるところ、いつも通りの私になった。
起床時間を過ぎると同時に部屋をでて、歩く。歩く。歩く。
歩調がどんどん早くなる。
会いたい。今すぐに。
目的地には、ほんの数分で着いた。
扉を開ける。
一瞬の沈黙の後、室内は一気に騒がしくなった。
「ミカサっ!?」
「はっ? うぉ! ミカサだ!」
「お前、なんだよ!? 部屋違うぞ!」
喧騒の中、私は室内を見渡す。
「エレンは?」
「え……ミカサ?」
向かって右の寝台から、アルミンが顔を覗かせた。
「アルミン。エレンは」
「エレンなら……あぁ、ミカサ、ちょっと」
アルミンは寝台を抜けだし、私の前に降り立つ。
その手がゆっくりと伸び、私の髪に触れた。
疑問に思う前に、指先が優しく撫で付けるように動く。
「髪がはねてたよ、ミカサ。エレンはまだ寝てる。昨日あまり眠れなかったみたいだ」
「……ありがとう」
アルミンの視線を辿って室内へと進む。
そこには、会いたくてたまらなかった彼がいた。
よく、眠っている。
無造作に投げ出された手足。額にかかる黒髪。子供の頃と同じだ。
「エレン」
彼はまだ、目を覚まさない。
「おいミカサ。そいつ最近ほとんど寝てないぞ」
「寝かしといてやれよ。急ぎか?」
「そう。すごく急いでいる」
もちろん急用だ。そして、私も二日寝ていない。
膝をつくと、ぎしりと寝台が音を立てた。
エレンの頬に触れる。
血色は悪くない。
額に触れる。
熱くもないし、冷たくもない。平熱だ。
胸元に触れる。
ゆっくりと規則正しく、上下している。
安堵した私は、遠慮なく掛布を引き剥がした。
「うわ、ひでぇ……」
外野の声を無視して、もう一度、呼びかける。
「エレン。起きて」
「んん……ミ、カサ……か? んだよ……今日は……休みだろ……」
聞きたくて仕方がなかった、声。
震える瞼。半分はまだ閉じている。
目をこする手のひらを捕まえて、指を絡めた。
まだ寝惚けているのか、握り返しも、振り払いもしない。
「起きて。大切な用がある」
振り払われても構わない。
何度でも、何度だって、繋ぎなおせばいい。
だから、早く目を覚まして。私の話を聞いて。
◆
周囲の騒がしさに辟易し、私はエレンを食堂へと連れ出した。
休息日のこの時間なら、まだしばらく誰も来ないだろう。
「部屋までくるかよ、普通……くそ、ねみぃな……」
団服を着ていないエレンは、いつもより少し幼く見える。
まじまじと見つめる私に注意を払うことなく、エレンはテーブルに突っ伏した。
私は隣のエレンに呼びかける。
「起きて」
「起きてるって」
「本当に?」
しつこいぞお前、と頭の中で声がした。
「しつこいぞお前……」
この声、を。
ずっと聞いていたいと思う。
「エレン。話を聞いてほしい」
「……なんだよ。また説教か? そりゃお断りだ」
憎まれ口でも、なんでもいい。なんだって、構わない。
一生、聞いていたいと思う。
「手を繋いでほしい」
「……は?」
閉じかかっていた瞼が開く。
顔を上げたエレンの目が、私を映した。驚きの色とともに。
「なん……、はぁ? なんだよそれ?」
「ここに来る途中までは繋いでいた」
「いや、そりゃ関係ねぇだろ……お前が引っ張ってたってだけじゃねぇか……」
「エレンが私を嫌っていて。触れるだけで嫌悪感に吐き気を催すと言うのなら、諦める」
「……何言ってんだ」
テーブルの上の、エレンの手。
触れたくて、私は手をのばす。ゆっくりと、ゆっくりと。
よけようと思えばいくらでもそうできるくらいに。
「ミカサ、やめろ」
「嫌ならはねのければいい」
私は、言ったのに。
エレンは、そうはしなかった。
私の指先は、何の抵抗も受けずにエレンに触れた。
重なる手のひら。あたたかな体温。
それは、何より私を安心させる。
「……嫌じゃない?」
「……知るかよ。クソ……馬鹿じゃねぇのか」
誰が、とは言わない。何が、とも言わない。
重ねられているだけだった手のひらが繋がれる。
やけになったのかとすら思える強さで、エレン手はは私のそれを取り、包み込んでいた。
あたたかい。
それは、刑の執行を待つ罪人のような気分だった私に与えられた、極上の赦し。
目の前で途方にくれたような風情でいる彼だけが唯一、私に与えられるもの。
「朝っぱらから人を叩き起こして、何がしたいってんだ……」
だから私は、ひとつひとつ、懺悔していく。
赦してもらうために。
「私は、エレンが好き」
繋いでいる手がびくりと震えた。
離れていかないように、握り締める。
それでもまだ、外そうと思えば外せるはずだ。
一瞬の動揺を隠すように、エレンはため息をついた。
長い長い、深呼吸のように。はいて、はいて、吸う。
そして、ぽつりと落とすように言った。
「そりゃ、オレ達は家族だからな」
さっきまで私を映していた瞳は、今、片手で覆われている。表情が見えない。
けれど、触れている。一昨日との決定的な、差異。
「そう。家族」
私は目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、昨夜の別れ際のアルミンの笑顔。耳に反芻される、優しい声。
「エレン。知っていると思うけれど」
―――ミカサ。さっき言ってた、ひとつだけ僕が答えてあげられること。
家族と同じくらい大切な親友の言葉が、私の背を押した。
「夫婦も、家族」
―――夫婦だって、家族なんだ。順番が違ったとしても。何もおかしいことはないさ。
「家族でも、私はエレンのことが好き」
―――ミカサはエレンを好きになってもいいんだよ。
「エレンが、好き」
今度こそ、エレンは私の手を振り払った。
「な、に……言ってんだ」
怯えた子供のような表情だった。
世界中でたったひとり置き去りにされた、迷子の子供のような、頼りなさと弱さの片鱗。
その全てを、愛する。
凝視する私の視線から逃げるように、エレンはまた、テーブルに突っ伏した。
「ミカサ、お前……どうしたんだよ……何で……」
くぐもって聞こえる声が、震えている。
「私は、一度死んだ。あなたが、私を蘇らせた。
あの時……エレンが来なかったら。私はあのまま、死んでいた」
私の声は、震えてはいないだろうか?
エレンが信じようと思える重さをもっているだろうか?
「……そんなのはただの刷り込みだ。くだらねぇ」
吐き捨てるような口調だった。
起き上がり、私に振り向く。
「お前、……勘違いしてんだよ。恩を、好きだの何だのって錯覚してんだ」
その目には、いつものような覇気はない。
エレンだって、本当はわかっているのだ。
「違う」
それを、理解した上で否定している。
「違わねぇよ。お前を助けたのは、あんなのは……オレじゃなくたって、誰だってそうする。
特別な意味なんてなかったんだ。最初からずっと」
俯きながら、言い聞かせるように、……エレンは私を遠ざけようとする。
戸惑いを押し隠し、言葉を重ね、私を押し戻そうとする。
「……だとしても。あの時、戦えと言ってくれたのは、あなた」
想起する。
私が私たり得る為の、すべてを。
「はじまりは、生き方を教えてくれた」
その次は、
「失った家族を、もう一度、与えてくれた。友人を、与えてくれた」
春の花の色を、夏の緑の濃さを、秋の落ち葉の色を、冬の雪の白さと冷たさを、教えてくれた。
晴れの日の心地よさを、雨の日の心細さを、分け合った。
「他の誰か、ではない。エレンと。
出会ってから今までずっと……あなたが、与えてくれた。
そのすべてが、私に繋がっている」
エレンの表情が、苦しそうに歪んだ。
「何でだよ……」
消え入りそうな、呟き。伏せられた瞼。睫毛が影を落としている。
「だから……恩だけでは、ない。錯覚でも」
「……お前は、どこへだって行けるのに……」
それが、私を遠ざけようとする理由。
エレンは、優しすぎるのだ。
がむしゃらで、無鉄砲で。
自分が信じた道をまっすぐに前へ、前へと進もうとする。
けれど……一度も後ろを振り返らずにいられるほど、
そばにいる私やアルミンを心から閉め出せるほど、向こう見ずではいられないのだ。
彼が弱さと呼ぶかもしれないその危うさに、私は優しさ、と名前をつける。
そして、私は、一番伝えたかった言葉を口にした。
「私は、……いつも、エレンに守られている」
「……そんなわけ、ねぇだろ」
「ある」
逸らされて離れた視線にも怖気付くことなく、私は断言した。
どこから来るのだろう? この気持ちは。
湧き上がり、込み上げて、溢れて、溢れて、目の前で俯く、たったひとりに注がれていく。
「エレン。こっちを見て」
私を、見て。
「嫌だ」
「私は、エレンが好き」
「やめろ」
「やめない」
「こ、の……っ!」
立ち上がったエレンが、腕を振りかぶる。
私にははっきりと見えていた。
握られた拳の震えも。戸惑いと躊躇に彩られた瞳が揺れているのも。
怒りと悲しみが混じり合ったような、……泣き出しそうな表情も。
けれど、動かない。
私も、エレンも、どちらも。
「よけようとくらい、しろよ…… 」
私は上手く、笑えていただろうか。
例えば、アルミンのように。
例えば、クリスタのように。
例えば、恋をしている、誰かのように。
届くだろうか?
「エレンは……私を守ってくれるから」
だから、よける必要なんてない。
振り上げた腕は力を失い、拳がほどけた。
そのままゆっくりと私に近づき……触れる直前で、止まった。
葛藤しているその手を取るように、私はまた繰り返す。
「エレン、好き」
途端に、強く引き寄せられた。
「なんでお前は……! そんなに馬鹿なんだ! バカ野郎、クソッ、大バカ野郎だ……!」
座ったままの私は、ちょうどエレンの胸の少し下あたりに頭を押し付けられるような格好になる。
エレンの鼓動が聞こえた。
「オレは! お前を、大事になんてしてやれない」
「おばさんの、仇」
「そうだ」
「外の、世界」
「あぁ。……それには足りねぇんだよ。力も。技術も。頭脳も。何もかも、全部」
「なら、足りるようになるまで手伝おう」
は、と短く、エレンは鼻で笑う。
見上げると、浮かべられた笑みは無理やり貼り付けられたように引きつっていた。
それは、泣き出すのを堪えている表情に似ている。
「それでどうすんだ? なぁ? オレはお前の仇まで取る羽目になるんだろ。
もうたくさんなんだよ、そんなのは」
彼が抱えていた恐怖を知る。
同時に、自分の幼さも。
どうして、私は……自分だけが怖れているなんて思えたのだろう?
エレンが、私の身に降りかかるかもしれない暴力に、事故に、危険に。
私を失うことに、怯えないと思っていられたのだろう?
そんなわけはないのに。
あの日。出会った、あの時。
あの時エレンは……、自分が死んでも構わないなんて、きっと考えていなかった。
私も同じ。
強くなろうと思った。
失わないように、ずっとそばにいるために。
守って死ぬのではなく、一緒に、生きて行くために。
「私の力は、あなたの為にある。けれど……、あなたの為に死のうとは、思っていない」
「どうだかな……」
「本当のこと」
私達は、きっとよく似ているのだろう。
「あなたが、あなたの思うように……強くなって。
あの図体だけのウスノロどもなんて、さっさと殲滅して。
こんな、くだらない戦いが終わりを迎えたら。
そうしたら……今度はエレンに、私を思う存分守ってもらおう。という打算もないことは、ない」
「本当に、馬鹿かお前……そんなのいつになるかわからねぇだろ」
「馬鹿でも構わない。何年先でも、何十年先でも。
私は変わらず、ずっとエレンのそばにいる。それに私は……今」
身体を預けて、耳を傾けて、聞こえてくる鼓動が、触れた場所から伝わる熱が、私に与え続けるもの。
「世界一、幸せ。……だから、対等。私はちゃんと、エレンに守ってもらっている。
それを……わかってほしい」
エレンの身体から力が抜けて行くのがわかる。
自分の身体に押し付けるように強く私を引き寄せていた腕は、ただ柔らかく背中に回された。
「……もう、お前の好きにしろ。オレの負けだ」
ああ、私が一番欲しかった、赦し、だ。
ひとつ、ため息をついて。
私もまた、彼の背中へ、手を回す。
それは、あたたかな抱擁だった。
あと少しですが、ここまで。
同じ物語を別視点で展開する場合、スレは新しく立てるべきなのでしょうか。
鼓動を聴く。
内側からふつふつと湧き上がってくる気持ちが、私の世界を鮮やかに彩っていく。
太陽の熱に溶けていく氷のような静けさで、ゆっくりと。
目を閉じると、瞼の裏には、いつかの私が立ち尽くしていた。
小さな彼女は、感情のない瞳をして、口を開く。
―――また、失うかもしれない。
そうかもしれない。
―――また、ひとりになるかもしれない。
そうかもしれない。
不安を、恐怖を、拭い去ることなんて出来ない。
それはいつでもどこにでも潜んでいて、私が歩みを止めた頃に声をかけてくるのだろう。
だからといって、どうして手を伸ばさずにいられるだろう?
あなたにも、いつかわかるから。
星空を眺めながら、心に秘めた誓いの意味も。
読み聞かせてもらった優しい物語と、その文字をたどる指先の優しさも。
手に手を取って歩く家までの道のりの、心強さと安心も。
越えてきた日々が間違いではなかったということが、いつかちゃんとわかるから。
だから、迷わず歩いて行きなさいと、記憶の中の小さな自分に告げた。
◆
どのくらい経っただろう。
区切りをつけるように一度くしゃくしゃと私の髪を指先でかき混ぜた後、エレンは私から離れた。
「ミカサ、お前今日、何かあんのか」
「エレンといる」
即答した私の手をエレンが掴んで、引き起こす。
そのまま片手を離さずに繋いでくれたことが嬉しくて、私も緩く握り返した。
「悪りぃ、とてつもなく眠い」
「……私も、二日寝ていない」
見つめあって、一、二、三秒。
どちらともなく笑った。
その目はもう苦痛に歪んだりはしていない。
絞り出すような声ではない。
いつも通りの彼だった。
「決めたぞミカサ。オレは寝る」
「一緒に?」
「あのなぁ……この宿舎の何処に! 一緒に寝れる場所があんだ!」
「エレンの部屋」
「同室の奴らに迷惑だろうが」
「今日くらいみんな出かけると思う。ぜひ、出かけてほしい」
「お前はほんっとうに……教官に見つかっても知らねぇぞ。ったく……もう……オレは寝るからな」
「そうしよう」
手に手を取って、歩き出す。
食堂を出ると、廊下は窓から差し込む日の光で満ちていた。
歩幅が揃う。
光を踏みしめるように、一歩、また一歩。
「エレン」
「何だよ」
「エレンが好き」
「……ん」
宿舎のあちこちから、ざわめきが聞こえ始める。
一日が始まるのだ。
「エレン、好き」
「わかったっつの」
「エレンが好き」
「部屋に戻るまで何回言うつもりだよ……」
「エレンが返してくれるまで、何度でも」
あの頃と違う場所で、あの頃と同じように、手を繋いで歩く。
あの頃よりもずっと大きな気持ちを抱いて。
「……とりあえず、全部、寝てからだな」
「わかった」
新しい世界が、ここからまた、始まる。
私もエレンも知っている。
この世界は残酷だ。
―――だけど、とても、美しい。
お終いです。
別視点での再展開を考えていますが、
ストックがほとんどないためしばらく投下できません。
スレが残っていればまたひっそり投下を始めると思います。
お付き合いいただきありがとうございました。できればまた。
このSSまとめへのコメント
ミカサああああああああああああかわいいいいいいいいいっつ!!!
こゆのマジ好きですありがとううう(>_<)
ちょっと泣きかけたわww
ミカエレ最高☆
す、素晴らしい…!!!!!
とても感動した!!!!!!!!
スタンディングオベーションをしたい気分だ!!!