淡「スミレって、私のこと好きでしょ?」(104)
A1
最近は、朝が忙しかった。
登校時間を早くしたくて、早起きをし始めたから、それも当たり前なんだけどね。
身だしなみを整える時間も、心なしか長くなっている。
身だしなみをよくしておかないと、なんだか落ち着かない。
理由はわからないけれど、整えている時間は、不思議と好きな雰囲気が漂っていた。
反面、早起きしている理由はわかりやすい。
早く家を出ると、スミレと一緒に登校することができる。
そのことに気が付いてからは、毎日早起きをして、毎日スミレと登校をしていた。
スミレにちょっかいを出すのは、とっても楽しいから、なんて。
まあ、そんな大袈裟なことはしてないと思うけどね。
私は支度を済ませてからも、余裕ある時間を使って、テレビを見るなどすることはない。
そそくさと家を出て、普段スミレと合流する通路に足を進めるだけだ。
途中からやや早歩きになっていたみたいだけど、特に速度を落とす気も起きなかったから、そのままの速度で歩き続ける。
そのせいか、通路へ到着する頃には、ちょっとだけ汗もかいていた。
スミレが普段歩いてくる方を見てみると、遠くの方には、案の定スミレの姿が映っていた。
私が大きく手を振ると、スミレはその半分程度に、軽く手を振って返してきた。
それでも、私のように早歩きまではしてこない。
だから私は、壁の影に隠れてスミレを待つ振りをしながら、その実、前髪をちょっとだけ整えることにした。
早歩きといっても、ほとんど走っている状態に近かったから。
そんなことをせずに、スミレみたいに落ち着いて歩いたほうがよかったのだろうか。
「おはよう!」
「ああ、おはよう」
挨拶を交わした後は、変わらぬ歩き方をするスミレの横に立って、私の方が並んで位置を合わせるのがいつものこと。
最初の頃は歩速がよくわからなくて、後ろに行ったり前に行ったりもしちゃったけど、今はもうよくわかる。
私が合わせることにスミレがビックリしていたのも、もうなくなっている。
身長差のある私達は、それを強調するように、毎日こうして歩いていた。
S1
最近、淡と一緒に通学することが多くなっている。
途中まで同じ道というのは知っていたものの、今まで合流することなどほとんどなかったのに。
私の方から時間を調整した覚えはないのだから、きっと淡の方から調整しているのだと思う。
しかし、どうしてだろうか。
そのところがよくわからない。
とはいえ、馴染みある後輩と話しながらの登校は、予想以上に気持ちのいいものだった。
正面玄関に到着しても、それは変わらない。
行くべき階の違う私達は、このまま進めばすぐに別れてしまうとわかっているから、足を止めて喋り続けている。
最も、いつもそのような感じだけれど。
今日だけは、多少様子が違っていた。
程々に切り上げるべき他愛もない会話を、私も淡も、一向に切り上げる気のないということ。
何か、意識していたわけではない。
時間がちょっとずつ押していっているのは、わかっている。
正面玄関の生徒が少なくなる様子は、私達を急かしているようにも見えた。
それでも、この時間があんまりにも心地よくて。
「そろそろ行こうか」の一言すら、声にすることができなかった。
もう少し、もう少しだけと考えてしまって。
結局私達が我に返ったのは、チャイムが鳴り始めた頃の話。
こんな結末が予想できなかったわけではないのに、まるで不意でも打たれたかのように、私達は焦って解散をした。
「じゃあ、また部活でね!」
「遅れるなよ!」
時間的な余裕が多量にあったのにも関わらず、遅刻寸前となる愚かしさ。
それでも私の心中には、面白いことに少量の後悔すら存在していなかった。
別れ際の面白そうな顔を見るに、淡もきっと、同じようなことを思っているはず。
A2
私は登校時間をそうしたように、部室へ顔を出す時間も早くなっていった。
部長のスミレはいつも早く来ているから、私もそうしているだけのこと。
けれど今日のスミレは、いつもよりずっと早く部室へ到着していたみたい。
扉を開けて、スミレを確認してから声をかけた。
「なにやってるの?」
「書類の整理だ」
挨拶をスキップして、如何にも視線を合わせられないといった体の返答。
私はその返答を聞いてから、数枚の書類を睨んでいるスミレの側に、寄るようにして座り込んだ。
私は最上級生でもないし、ましてや部長でもないからなにもわからないけれど、白糸台は確かに部員が多い。
だから、こういった書類が必要になる作業は、他のところよりずっと面倒くさいのだろうか。
そんな作業を片付けておく必要が、スミレにはある。
なんてわかっていても、やっぱり私は暇だった。
最初はスミレの隣に座って、一緒になってその書類を見て、あたかも仕事を同じくしている振りすらしてもいた。
しかし、私がスミレとこうしているところの本質は、いじると面白いから、だ。
そのためかな、ただ側にいるだけじゃ、どうしても落ち着かない。
私は一旦、スミレの隣から立つことにした。
わざとらしく音を出してみても、スミレは意識すらこっちに向けそうにない。
つまんない。
つまんないから、自分でなんとかする。
意識すら向けてこないのは、ある意味で都合がいいかもしれないと、スミレの背後に回りながら思ったもの。
そうして、スミレの横に両の手の平をゆっくりと横切らせてから、すぐに目を塞いでやった。
「おい、やめろって」
「えー、構ってよ」
スミレは右手だけで、振り払うように自分の視界を開けていく。
私の両手はくっつく場所を失って、スミレの肩へ楽にしていた。
こういった落ち着いたところは、スミレの好きなところ。
でも、それとこれとは、また違うもの。
特に今日なんて、やっぱり忙しいからだと思うけど、いつもよりも返答が淡白だった。
「つまんないよー」
「わかったから、邪魔をするな」
なんだかちょっとだけ意地になって、スミレの肩から首へ書けて、腕だけで抱きついてみた。
スキンシップはテルにだってするから、あんまり淀みはない。
比べてみると性格の違いかな、スミレの方が、テルよりも少しだけ体温が高く思えた。
「離れろ」
スミレは相変わらず、今は構う気などないと言いたげに、淡白な返事を寄越す。
ちょっとだけ対抗するために、「いや」とだけ返事をしておいた。
こうして見ると、なんだかスミレの表情が見えなくて、また別の意味でつまらなくも感じた。
どうせ無愛想な表情をしているだろうから、まだいじれているこっちのほうがいいけどね。
「作業の邪魔だって」
少し間を置いてからの返答。
この状態のまま作業をしようと試みて、結局諦めたんだろう。
スミレは口では色々言っても、私のこんな行為を直接的に拒絶することは、今まで一度もなかったから。
「でも拒絶はしないんでしょ?」
「あのなぁ……」
やっぱり、だ。
スミレの返答は是とも非ともつかない。
それじゃあ、私の行為を拒絶しない、その事実だけが残ってしまうもの。
そうと気付いてから、私はちょっとだけ調子に乗って、突っ込んだ質問をしてみることにした。
「口では色々言うけどさ、」
「なんだ」
行き過ぎた発言だと気付くのは、言い終わった後の事。
「スミレって、私のこと好きでしょ?」
今度は、返答すらなかった。
なら、今度は何が残るんだろうか。
そう考えてしまうと、ちょっとだけ、時間が止まってしまったように感じられた。
S2
その言葉に、口が詰まった。
いいや、喉も肺も心臓も、全部詰まっていたのかもしれない。
今まで、こんな質問をされてこなかったわけじゃあない。
された時は、いつも決まって「アホか」なんて、簡単に返してきた。
だからこそ、今言葉が詰まっている自分に驚愕している。
淡のことだから、きっとそこまで深い意味はないのだろう。
けれど表情が見えないから、余計に言葉が詰まる。
何を思ってそういったのか、少しだけ、わからずにいた。
暗闇の中で手探りをするように、ただいたずらに迷っている。
「はい」とも「いいえ」とも、なんとも言えなかった。
言葉にできない感情を言語化しようと、ずいぶんと苦労して。
「アホか」
やっと挫折した頃には、決まった通り、なんの意味も持たない言葉を口にした。
口を開いて、普段通りに戻ってきたせいだろうか。
意味もない言葉を返してしまったことに、少しばかりの後悔を覚えてしまった。
もっとちゃんと、言えることがあるんじゃないか。
多分、あるんだろう。
あるのはわかっていても、肝心の中身がわからない。
中身がわからないから、言葉にすることなどできない。
なら、仕方ないのだろうか。
何かを言えと、心臓が私を急かしている。
A3
なんで、こんなに温まっているんだろう。
イライラでもあるし、ムカムカもするし、ピリピリもしているし。
よくわからない。
ポカポカだけは、多分していないと思う。
とにかく、私は何かに嫉妬していたし、悶えてもいた。
たぶん、スミレがとことん私に構ってくれなかったことが嫌だったんだと思う。
けど、それでは何かが足りない。
何が足りないかもわからないし、だからこそ何に対して悶えているのかも、わからない。
ただ、それは望んでいる返答ではなかったから。
反撃するように、ちょっとだけ強張った言葉を返してみた。
「だよねー。 私だって、反応が面白いからいじってるもん」
「だろうな」
返ってきたのは、いつも通りの淡白な反応。
そのはずなのに、熱を奪われてしまった気分になるのは、どうしてなんだろう。
「いい加減に退けるぞ」
スミレの手によって、とうとう緩められてしまった私の腕。
私はしばらくの間、スミレに抱きついていた事実を忘れてしまっていたみたいだった。
気が付いた頃には、スミレはもう自由になっている。
紙をめくる音だけが、刻むように耳に入っていた。
自分がどうして、ある種の呆けを起こしていたんだろう。
少なくとも、淡白な反応がつまらなかったのは確かだ。
ああ、もしかしたら。
私はスミレに、意地でも「好き」と。
そう、言わせてみたかったのかもしれない。
S3
最近になって、淡のスキンシップがどうにも過剰になっている。
発端は、私と通学を共にしたところだと思うのだが、それ以前の原点はよくわかっていない。
今日もまた、そんな調子だった。
「スミレ、一緒にお昼食べよ!」
昼休みが終わって、すぐの出来事。
階が違う以上、いくらなんでも早すぎる訪問だった。
見れば息も荒いし、顔もやや赤く汗だってかいている。
そう走ってまで、私に何を求めているのだろうか。
「まあ、構わないが」
なんて思いつつも、淡と昼食を一緒にする機会なんて多くないため、この提案は吝かではなかった。
きっと、「照も誘おう」と言うのだろう。
そう考えて、そのまま「照も誘ってくる」と口にした直後。
「ううん、二人がいい」
「そ、そうか?」
用意したような反応の早さに、ちょっとばかりびっくりした。
そして同時に、淡が私によく懐く様を、強く意識もしてしまう。
「行こ!」
けれど思考を深くする前に、私は淡に手首を引っ張られて、手ぶらのままに教室から出ていってしまった。
しかし、それでは困る。
いつもは学食で昼食を食べているものだから、財布がなければ昼食も取れない。
「待ってくれ、財布持ってきてないんだよ」
「大丈夫!」
前を歩き私を引っ張る淡は、振り向いて微笑みながら返事をした。
その内容は、またも私を強く意識させるものだった。
「スミレの分のお弁当も、持ってきてあるから」
それは、私の分も作ってきてくれた、という意味なんだろうか。
だとすると、どうして。
どうして淡は、ここまで私にくっついてくるのだろうか。
聞きたいことが多すぎて、けれどそれは、同時に聞いてはいけないことのようにも思えている。
あるいは、私が聞きたくないだけ、かもしれない。
結局私は、先の発言に対して何も返すことができずに、話題を変えるように別のことを言った。
「手、そろそろ離してくれ」
「あっ、うん」
手首が楽になった後。
一瞬だけ、考えなしに自然と、淡と手を繋いでしまいそうになって。
お互いの指先が触れ合った時に、くすぐったくなって、妙な気分にもなって、そのまま手を離してしまった。
A4
屋上の扉を開けると、そこには数名の生徒がいるばかりだった。
二人で落ち着いて食べるのに、たぶん、支障はないよね。
そもそも他に適当な場所も思い当たらないから、もうここと決めて、私達はいい加減な箇所に腰を落ち着かせることにした。
「それで、本当に作ってきたのか?」
「もちろん!」
待ってましたと言わんばかりに、私はぶら下げた鞄を膝の上に落ち着かせて、その中から弁当を二つ取り出した。
いつもよりもっと早く起きて、わざわざ作ってきたもの。
好きと言わせてみるためには、まず私から行動しなければいけないから。
ただそのためにこうしているのは、自分でも不思議に思えている。
「ほらね!」
「本当だったのか……」
片方を差し出すと、スミレは驚いたような顔をしていた。
けれど、決して嫌な顔をしていないし、むしろ嬉しそうにも見える。
一つ成功したと思って、私も釣られて嬉しくなったりした。
後は、食べてもらうだけ。
スミレが包を解いている間、「いただきます」なんて言ってくれている間、実際食べている間。
私は自分の食事など忘れて、ただただスミレの方を注視していた。
よく知れない緊張だって、していたかもしれない。
「おいしいな」
待ちわびたスミレの発言は、いつものスミレらしく、落ち着いた称賛。
だけどそれは、私にとってはあんまりにも十分すぎるものだった。
それに、ちょっとだけ笑ってくれてもいるから。
「やった」なんて声を漏らさないようにするのには、結構な苦労が必要だった。
普段ならそんな声くらい、漏らしちゃっていいはずなのに。
「しかし、お前って料理できたんだな……」
「一言余計!」
そう言っても、私に言及してくれるのはとても嬉しいこと。
スミレにちょっかいを出すのも楽しいけど。
もしかしたら、こうしてただ落ち着いているだけというのも、結構楽しいことなのかもしれない。
S4
数日経った今、私達は本屋へと足を運んでいた。
相変わらず私達は、登校と帰宅を同じにしている。
けれど今日は、ちょっと買いたいものがあって、本屋へと寄って行きたいい気分だった。
その旨を淡に伝えると、一緒についてくると言うものだから驚いた。
私の中にあった淡に対する印象が、目まぐるしく変わっていっていた。
それでも、不思議と違和感もなく受け入れられている。
むしろ、それを喜んでいる節もあったのかもしれない。
変わっていると思うのは、何も知らない私から見てのこと。
実際のところは、知らない一面を見ることができている。
原因は、確かにそうなんだろうと、分析することはできる。
なのに、納得することだけができていない。
何か、わからないところがある。
本屋に入って以降の私達は、別々に行動していた。
どうやら淡も、何かしら欲しかった本があったらしい。
私は一人で、目的の本があるであろう場所を詮索していた。
そこへ向かうまでの途中、積まれている一冊の本が、何となしに目に留まる。
それは何の変哲もない恋愛の本だけれど、私の目にはその本だけが、何かしら別のものを纏っているように思えて仕方なかった。
手にとって、その内容を見て、戦慄した。
恋する人間の特徴、自分のことを監視されているかのように、今の私の状態とひどく当てはまっている。
無意識に気になってしまう。
挙動も一々観察してしまう。
自分と離れている時のことを考えてしまう。
何かあれば、頻繁に顔が浮かぶ。
特に今の私には、確実に意識している人が、一人いる。
それはただ、意識しているだけの一言で済むものだと思っていたけれど――
「何読んでるの?」
――私は自分が思っている以上に、この本を読みふけっていたものらしい。
淡の声が耳に入って、初めて横に淡がいたものだと理解して、咄嗟に本を閉じてしまう。
別にこんなもの、一緒になって覗いたところで、どうにもならないだろう。
「いや、なんでもないさ」
「うそつきー、これ恋愛の本じゃん」
「うるさいな」
どうにもならないと思いつつも、私は話の対象を変更させることに必死だった。
けれど淡は、そんな私など気にもしない。
下から覗かれて、何か掴んだような顔をしながら、私にこう問いかけた。
「スミレ、誰かに恋してるの?」
私の方は、掴まれた気分だ。
その一言で、自分の本心を自覚してしまったから。
できれば、自覚したくなかったのに。
そっぽを向いて強引に胸の内を沈めようとしても、もう、全てが遅かった。
ああ、私は、淡に恋しているのか。
「……いいや、別に」
返答は、目を見ながらすることができなかった。
もう遅いとわかっていても。
私はこの自覚を沈めるために、淡に嘘を突き通す。
A5
スミレはまだ、好きな人がいないらしい。
本屋に行った時から何も変わっていないなら、今もまだそんな状態だろう。
でも恋愛の本を手に取っていたのは、とても意外なこと。
今までのスミレだったら、まず考えられないのだから、これはこれでいい傾向だとも思う。
けれど。
つまらない感情も抱いている。
つまらないだけじゃなくて、焦ってもいるのかもしれない。
それはきっと、スミレが私のことを「好き」だと言わないことに対して。
どうやってあの口から言わせてやろうかと、最近になって少しだけ、わからなくもなってきている。
そもそも、どうして言わせたいのか、今の今まで真剣に考えてもいなかった。
周りから見たら、私は明らかにスミレへ懐いているらしい。
逆もまた然り。
今日はクラスの友達に、「弘世先輩と付き合ってるの?」なんて聞かれもした。
その言葉で、心が掻き乱されたようになる。
良いとも悪いともつかないけれど、その言葉が、私の何かを抉り出してくれたのは確かだった。
そんなこと、考えたこともない。
私はただ、スミレにくっついていると楽しいから。
あの口から「好き」なんて言わせてみたいから、そうしているだけだもの。
けれど一度言われてから、その言葉はなかなか離れてくれない。
あろうことか、もしスミレと付き合うとしたら、どんなことをするのだろうか、なんてことばかりが浮かんでくる。
そして浮かんでくるのは得てして、今と変わらないちょっかいを出す私と、それを程々に構うスミレの姿だった。
帰り道、いつものようにスミレと歩いている頃。
スミレに、同じ言葉をふっかけてみた。
「今日、『弘世先輩と付き合ってるの?』なんて聞かれたんだよねー」
できる限り、平常心を装って。
装わなければいけないほど、私は緊張していたみたい。
自分でもどうしてこんなに緊張しているのか、不思議で仕方がない。
答えを聞きたい気もするし、私がどれくらい成功しているのか見計らうためには、実際聞かなきゃいけない。
でももしかしたら、聞きたくない気持ちの方が勝っている。
スミレは即答してくれないから、余計にそう思っているのかもしれない。
S5
「どう思う?」
なんで、そんなことを聞くんだろうか。
そして、どう、答えればいいんだろうか。
私はやっぱり、恋をしている。
それらしく、こんな言葉に過敏になって、一々赤面していたのだから。
いつものように、「アホらしい」なんて即答してしまえばいいのに。
私はあの時と同じように、さんざん悩んだ挙句に、当たり障りのない言葉しか口にすることができなかった。
「まあ、言わせておけばいいだろ」
恋を自覚するのが、確固たるものとしてしまうのが、とても恐ろしかった。
だから、肯定の言葉なんて言えるはずもない。
今の私は、きっと後輩としての「好き」とすら、淡に言えない状態だと思う。
でも、自覚した恋の行き場がなくなってしまうのも、同じくらい怖いこと。
肯定の言葉も、否定の言葉も言えない。
私にできるのは、自分の意見を放棄して、ニュートラルな態度で淡へ接することだけだった。
「そんなもんかー」
淡はこちらを見ずに平気でいる。
少なくとも、私よりはずっとまともな状態なんだろう。
それっきり、しばらくは何も言えなかったし、淡だって何か言うことはなかった。
足音と風の音だけが耳に入る。
耳に入るように、努めてすらいたと思う。
しばらく、ずっと歩いていて。
淡は私の方を見ないまま、また、意図の知れないことをする。
「ねえ、スミレ」
「なんだ」
簡単に答えている間、気が付いたら、手を握られていた。
出そうと思っても、力が入ってくれない。
中身がなくなったように、手の力が抜けていってしまった。
「付き合ったら、こんなこともやるのかな」
淡の指と私の指とを絡ませて、手のひらと手のひらをくっつけて。
最終的には、恋人つなぎ。
私は終始、やられるがまま。
言葉が出なかった。
それどころか、そのための思考すら止まっていた。
手のひらの方はとても温かいけれど、心臓の方は過剰な熱さを帯びている。
まともに動いているのは、機械的に歩行を続けている足だけだ。
それに。
淡も、ひどく赤面していた。
淡は下を向いて、誤魔化しているつもりなんだろうけど、見ようと思えば、簡単に覗くことができる。
なんで淡は、こんなことをするのだろうか、聞くのだろうか。
淡も、私のことが好きなのか――というのは、願望でしかない。
平常心を失っていることだけはわかっても、頭から出てくるのは、そんな平常心のない思考ばかり。
無意味な願望は、とても恐ろしかった。
最上を願えば願うほど、淡は私の側から離れてしまうのではないか、なんて最悪に蝕まれもしてしまうから。
どちらかに振れる時、それはきっと、私が自分の恋慕を認めてしまった時。
心はもう、認めているかもしれないけど。
思考のほうでは、どうしても認めたくはない。
A6
ショックで気絶なんて、正直なところ、大袈裟だと思っていた。
でも、今なら違うと断言できる。
私が、そうなりかけたところだったから。
スミレが告白された。
人伝で耳に入ってきただけなのに、それを聞いた時に、何も考えられなくなった。
頭から血が引く、って、正にこういうことなんだろう。
友達を心配させないように、できる限り普通を装っていたけど、あんまり自信はない。
皆がいなくなってから、また一人で震えてしまった。
体温がなくなって、心臓もなくなったかと錯覚するほどに、意識が空っぽになった。
息をたくさん吸って、吐いて、やっと体温が普通近くまで戻った時。
手は震えていて、氷のように冷たくなっている。
それでも心臓が動いていると自覚できたのは、皮肉にも、そこに強烈な痛みが走っていたから。
自分でも、どうしてこうまでなっているのかわからなくて。
痛みから恐怖から逃げるように、信号の認識すらできずに、ひたすらに家まで走り通した。
ベットに入ってからは、すぐに毛布へと包まった。
あれだけ気にしていた身形なんて全く気にもせず、むしろ放棄するように、ただ泣きじゃくっている。
どうしてこんなに大袈裟なのか、わからなかった。
それに、大袈裟になる必要もない。
スミレくらいの人間なら、告白されたって当然だと思うし、私は別にスミレの後輩ってだけ――。
「……スミレ」
――違う、違う違う。
無理に目を逸らしても、私の本心が、それを許してくれない。
私は、スミレが好きなんだ。
自覚するのは、あんまりにも遅すぎた。
「スミレ、好きだよぉ……」
その言葉しか、出て来ない。
どの方面からどの言葉を考えても、全部、その言葉に変わってしまっていた。
今なら、私がどうしてスミレに積極的になっていたか、よくわかる。
わざわざ早く起きたのも、身だしなみをいつも以上に整えていたのも。
スミレにちょっかいを出していたのも、好きと言ってくれなくてむかむかしたのも。
好きと言わせたかったのも、お弁当を作ってあげたのも。
その間に起きた気持ちの変化も、全て。
スミレが、好きだったから。
でも、今わかっても、それは遅すぎる。
「嫌だよ、スミレ……」
ううん、もしかしたら、遅くないかもしれない。
スミレが、告白を断っていれば。
なのに今の私には、逆を想像できるだけの体力はなかった。
考えたくなかった。
今こうしているだけでも、肺が破けたような気分になる。
考えないと、何も解決しないのに、進展しないのに。
しかも、それが最低限で、行動に出るにはもう遅すぎる。
何もできない無力な自分に嫌気が差して、嫌気が差すだけの自分にも嫌気が差して、その繰り返し。
私は眠りに落ちるまで、ずっと心臓と肺の痛さに堪えていただけだった。
S6
淡はいい加減な性格をしているけれど、かといって部活を無断欠席するような人間ではなかった。
特に最近なんて、私とほぼ同時刻に来ているくらいだ。
だからこそ、昨日の部活を無断欠席したことに、驚きを隠せずにいた。
今日の朝だって、一緒に登校をしていない。
たった一回、たった一日だけなのに、どうしてこうも虚しくなるのだろう。
今日はひどい雨で、空は何時にもなく濁っている。
雨の音がうるさくてたまらなかった。
けれどどうして、心地よくも思えるのだろうか。
誤魔化してばかり、隠してばかりの心中は、外の天気によく似ていたと思う。
部活が終わってから、部室から出るか決めかねていた。
それどころか、学校から出るかどうかすら、決めかねていたものかもしれない。
当たり前の思考ができないくらいに、私は自分の立ち位置がわからなくなっていた。
正面玄関へ進むと、見慣れた影が目に映った。
少しだけ小さい背に、金髪の長髪。
私の、よく知る人物。
「……淡」
私の声に反応して、淡は反射的に振り返った。
「あ、うん……おはよ」
「おはよう、なんて時間じゃないだろ」
「……ごめんね、昨日」
会話が、全然噛み合わない。
私も実際、淡に対してなんて声をかけていいのか、よくわからなかった。
「どうして突っ立ってるんだ」
「傘、忘れちゃってさ」
そう言う淡の表情は、いつもと同じようで、それでいていつもと全く違う。
作られたようでないのにも関わらず、気力が喪失しているものだった。
放っておけるわけがない。
いつもそうしていたのに、まるで初めてそうするかのように、私は淡に声をかけ直した。
「一緒に帰るか」
「……うん」
正面玄関を出た後に、鞄の中から折り畳み傘を出した。
淡はこちらにくっついてくる素振りも見せないから、傘の柄は淡の方へ傾けて、できる限り保護できるようにだけはしておいた。
当たる雨粒の音は、傘を破きそうなほどだった。
靴下は濡れていて、靴なんて何の意味も成していない。
私の肩には、傘の端から伝わった水滴と、外側から寄ってきた雨粒とが合わさって、水に浸かっているのとそう変わりなかった。
けれど私がそんなことを気にしたのも、最初だけだ。
少し歩いた今となっては、淡が全く喋らないことが気になって仕方がない。
下ばかり向いていて、この一日で何があったのかと、ひどく心配にもなる。
自分の身体の、一部が欠けてしまう感覚にも思える。
私は昨日、一年生の子に告白をされた。
顔を赤くして、崩れそうになる彼女を見て、私も同じく顔を赤くしてしまった。
けれどそれは、その彼女に対して、ではない。
ああ、私はやっぱり、淡が好きなのか、と。
その彼女の様子を見て、告白までされて、もう認めざるを得なかった。
視界が一気に晴れたような気がして、すぐに淡を思い浮かべて、赤面した。
ただ、それだけだ。
あやふやな立場でなくなったからこそ、彼女には悪いけれど、彼女の告白を断ることは簡単にできた。
平常心は、すぐになくなってしまう。
私を保護する外殻や靄がなくなって、淡が好きだと、直視せざるを得なくなっているから。
認めてしまった以上、私はこれから淡が好きである前提で全ての行動を取るのだと自覚した時には、湿った息だけが漏れていた。
だから、二人切りの道路の中で、急に淡が身体を寄せてきた時。
私の剥き出しの心臓を、淡に掴まれたかと思うくらいに、心臓が飛び跳ねてしまった。
その位置が戻る頃にはもう、十分すぎるほど顔が熱くなっていた。
冷たい雨が当たって、身体だけが冷えてくれても、頭も心も冷静にはなってくれない。
ただ傷つけてはいけないそれを守るため、私は自分の当たることも構わず、淡の頭上に傘を構えていた。
「スミレ、は……」
空っぽの空間に走る淡の言葉。
たった一日なのに、淡がそのままに呼んでいる私の名前なんて、随分と久しぶりに聞いた気がする。
言いたいことなどいくらでもある、にも関わらず、やっぱり、「なんだ」としか返せなかった。
「ううん、なんでもない」
また、「そうか」としか返せない。
言いたいことがたくさんある、たくさん浮かんでいる。
だからこそ、簡単に言うことのできない自分に苦しくなった。
しばらくは、静かに歩いていた。
雨の音はうるさいのだろうけれど、実際耳にうまく入ってきていない。
私はその間ずっと、淡が何を言おうとしたものか、何を考えていたものかを探っていた。
けれどそれも形だけ、手がかりもないのだから、きっと見るに耐えない愚かしさだったろう。
あるいは。
私は淡を心配する傍らで、それよりも強い、恋慕の念を抱いていたから。
平常心を保つために、探る振りをしていただけなのかもしれない。。
答えのわからないまま、時間は過ぎていき。
前から迫ってきた車を見て、ふらふらと歩いているような淡を、咄嗟に私の元へと引き寄せた。
車は水たまりを通過して、水しぶきを飛ばして去っていく。
なんだか情けなくなるし、こんな状態でも淡を寄せていると理解すると、人並みに心拍数が上がる私もまた、情けなく思えた。
「はは、濡れちゃった……」
その小さな身体は震えていて。
高まる感情の中でも、淡をどう守ってやるかだけは、必死になって考えることができていた。
風邪を引いてしまうところを想像すると、非常に苦しかった。
実際ただの風邪だとしても、私から見たら、それが重症のように考えられて仕方がない。
これが一番都合がいいから。
これが一番、近道だから。
「私の家、寄ってくか?」
そう思って、口にした。
淡は俯いているだけで、なんとも答えなかった。
A7
最後の行動だと、決心した。
この怖さを抱えたまま、スミレと一緒にいるなんて、とても耐え切れそうにもないから。
もう手遅れだとしても、何か行動をしたことにして、自分を無理矢理にでも納得させておきたかった。
それが未来の道を切り落とすことになっても、仕方ない、仕方ない――。
壊死した脚は切り落とさなきゃいけないし、壊死した心は切り落とさなきゃならない。
そう覚悟したはずなのに、私はひどく震えていた。
雨に濡れて寒いから、なんて思い込もうとしても、私の中の何も納得してくれやしない。
実際提案された時、スミレの家に押しかけてやろうと、確かに思ったのは私。
それなのに、衝動的に逃げ出したくもなかった。
けれど後ろにいるスミレは、そんなことを許してくれない。
気遣いのため先に入れてくれたのに、逃さないためにそうしたのかもしれないなんて、どこから生まれたのか知らない感情すら湧いて出てきたりもしている。
でも、当然、そんなことはない。
「ちょっと待っててくれ」
スミレはそう言って、私の退路を開けてくれながら、奥の方へと消えてゆく。
一瞬「待って」と引き止めたくなったけれど。
タオルを持ってきてくれるだけだと察してからは、なんだか自分がバカバカしくもなった。
A7
最後の行動だと、決心した。
この怖さを抱えたまま、スミレと一緒にいるなんて、とても耐え切れそうにもないから。
もう手遅れだとしても、何か行動をしたことにして、自分を無理矢理にでも納得させておきたかった。
それが未来の道を切り落とすことになっても、仕方ない、仕方ない――。
壊死した脚は切り落とさなきゃいけないし、壊死した心は切り落とさなきゃならない。
そう覚悟したはずなのに、私はひどく震えていた。
雨に濡れて寒いから、なんて思い込もうとしても、私の中の何も納得してくれやしない。
実際提案された時、スミレの家に押しかけてやろうと、確かに思ったのは私。
それなのに、衝動的に逃げ出したくもなった。
けれど後ろにいるスミレは、そんなことを許してくれない。
気遣いのため先に入れてくれたのに、逃さないためにそうしたのかもしれないなんて、どこから生まれたのか知らない感情すら湧いて出てきたりもしている。
でも、当然、そんなことはない。
「ちょっと待っててくれ」
スミレはそう言って、私の退路を開けてくれながら、奥の方へと消えてゆく。
一瞬「待って」と引き止めたくなったけれど。
タオルを持ってきてくれるだけだと察してからは、なんだか自分がバカバカしくもなった。
今なら逃げられるのに、今から目を背けていたいのに、それすらできない。
進むことも戻ることも、自分の意志でできていない。
だから、余計にバカバカしいと、そう思えて仕方なかった。
「待たせたな」
スミレがバスタオルを持って、早足で戻ってくる。
どうしたいかもわからないで、主導的に動くことすらできなかったけれど、返した言葉だけは、本心からのものだった。
「……ありがと」
「気にするな」
そのまま、バスタオルを受け取ろうとした。
なのに手は虚構を切って、その行動は無為に終わってしまった。
スミレはまるで、それが当たり前といった体で。
何か言うまでもなく私の髪を、抱擁するように拭いてくれたから。
反射的に俯いてしまったから、スミレの顔はよく見えなかったけれど。
きっといつもと同じく、平気な表情でこうしてくれている。
スミレが私の行動を包んでくれるのは、最初から、ずっと変わらない。
寒かった身体は、室内の温度に照らされた外側ではなく、どうしてか内側から温まってきている。
泣いてしまいそうになった瞳は、顔を拭く振りをして、バスタオルの端の方で拭っておいた。
「上がってくれ」
「濡れちゃうでしょ」
「気にするな、らしくない」
自分でも、らしくない気遣いをしたと思う。
この優しさに甘えるのが、怖いのかもしれない。
味わってしまったら、きっと現状維持の泥沼にはまってしまうから。
「でも……」
そんな私の最低限の保険を、スミレは許してくれなかった。
「それに、風邪を引かれても困る」
ただそう言われるだけで、私の意志は楽にねじ曲がってしまう。
とことん、甘えていたみたい。
相変わらず前進も後退も考えず、引き寄せられるがまま廊下に上がった。
廊下に上がってすぐ、右も左もわからない私の手をスミレが引いて、そうしてお風呂場まで連れてきてくれた。
私は終始、ただ心臓をいたずらに動かすだけの存在だった。
「使っていいぞ」
もう十分に暖かいから、側にいて欲しい。
けれど、私は誘導されるがままだったから。
思考よりも先に、「うん」と返事をしてしまった。
「制服は乾かしておくから、近くに置いておいてくれ」
スミレはそれから、すぐ廊下の方へ消えてしまった。
私はこの空間で、未だ何もできていない。
やっと考えて取れた最初の行動は、服を脱いで、お風呂場の扉を開けることだけ。
開けてすぐに、浴槽に浸かりそうになる。
温まることだけしか考えられないほど、今の私は沈んだ外見と相反して落ち着いていなかった。
気遣いに似た思考が直前になって湧いてきて、それから、やっと髪と身体を洗うことを思い出した。
全て終えるまでには、やっぱり何も考えられていない。
浴槽に浸かり始めてから、身体を動かすのに精一杯だった頭が、やっと思考を始めてくれただけ。
けれど浮かぶのは、どこかで暴れるような焦燥ばかり。
私は浴槽で膝を抱きしめながら、縮んでいくような自分の身体を、ムキになって温めていた。
こんなことなら、素直に帰ればよかった、一緒に歩かなければよかった。
好きにならなければよかった。
スミレを前にすると、普段の様に口が動かない、頭が動かない。
活発なのは心臓だけ。
普段と違うと思われていないだろうか、ならば失望されてはいないだろうか。
二つの間はイコールで結ばれない、なんて論理的な考えは、マイナス思考を沈めるに足りなかった。
そんなものより、ただ一言、スミレの言葉が欲しい。
失敗を考えると、胸が痛くてたまらないし、肺が切断された気分になる。
いつも通りにすらできていないのに、いつも通り以上のことなんか、できっこない。
そう思うと、失敗することしか考えられない。
私は苦痛に変わりつつある緊張と、今体温を高くしている感情とを抱えきれなくなって、浴槽の熱さも相まって気絶しそうになってしまった。
「大丈夫か?」
扉の奥からスミレの声が聞こえて、一瞬私の全神経がそちらに向かった。
私はまた、動けずにいたらしい。
「うん、もう出るよ」
「そうか」
それを機に、スミレの姿がガラスの奥から消えていく。
スミレを心配させないように、具合もわからないまま、何もできないままに浴槽から出ることにした。
戻ってみると、制服を脱ぎ捨てたところには、綺麗に畳まれた服がある。
これが、私の着替えらしい。
私の着るものよりちょっとだけ大きく、身長差が著しく出ているそれを着るのは、意識を縛り付けるのに十分なものだった。
廊下に出て、一瞬、スミレが見当たらないことにひどく焦ってしまった。
早足で迂回してみると、居間と思しきところのソファーにスミレは座っている。
前にあるテーブルの上には、マグカップが置かれていた。
「おかえり」
中に入ると、スミレが声をかけてくる。
私もちょっとだけ焦りながら、不自然じゃない言葉を探して、できる限り普通らしい返答をした。
「ありがとね」
「いいや、なんてことないさ」
私は、わがままだった。
「隣、座っていい?」
この期に及んで、まだ甘えようとしている。
動こうとしてない。
スミレにアプローチをかけるため、かけていると思い込むために、そんな頼みごとをする。
スミレは簡単に承諾してくれたことが、むしろ苦しかった。
「当たり前だろ」
当たり前。
私はいつも、スミレにそうしてきたんだった。
どれだけ、腰が引けているんだろう。
自覚したからといって、どうにかなる問題でもなかったのが、ひどく悔しい。
いつもみたいに楽な座り方をしたつもりで座ったものの、心中の方は、全くいつも通りじゃない。
ソファーに寄りかかっているよりも、姿勢を正しくしているほうが落ち着くようにも思えた。
けれど、スミレの前だと、それができない。
スミレは横で、マグカップにココアを入れてくれていた。
そうして、それを私の前に差し出してくる。
「飲む?」
「うん」
本当は、スミレの方を見たほうがいいのかもしれない。
だけどできずに、簡単な返事をして。
マグカップの方だけを念入りに見つめながら、それを手にとって口につけた。
とても美味しい。
この甘さと温かさは、味覚だけでなく、身体の至る所で感知できている。
私が一々感傷の情を出している間に、スミレはとことん、私を包み込んでくれている。
その差異を自覚して、また、感傷的になってしまった。
今度は、それだけじゃない。
冷えたところを洗い流すためなのかな、堪えようのない涙までも出てきていた。
誤魔化すために、服の袖で涙を拭う。
「淡?」
それでも。
スミレはやっぱり、私のすることの意味に気が付いてしまっていた。
「……帰る」
「え?」
私のスミレに対する行動は、逃げだった。
ここまでしておいて、ここまでしてもらっておいて。
私は甘えてしまうのが怖くて――なんて、耳に入れやすい言葉を選んでいるだけ。
本当は、失敗するのが怖い、その一つだけ。
ただのわがままでしかない。
「おい、淡」
「帰る!」
何に対して怒っているのか、わからなかった。
怒っているのかすら、よくわからない。
苦痛を隠すために、わざとそうしているのかもしれない。
強く置かれたマグカップの音が、自分で出した癖に、私を一層奮わせていた。
立ち上がろうとした時。
急に、スミレに手を掴まれてしまった。
後に出てくるのは、たぶん、私を心配してくれる言葉。
だと思っていたのに、全然、違った。
「まだ、帰らないでくれ……」
振り向いて目が合った時のスミレは、何時にもなく弱々しくて。
でもきっと、私も似たような表情をしていたと思う。
手も口も、震えているから。
スミレだって、どこに目を置いていいのかわからない様子だった。
私のさっきまでの感情は、スミレの顔を見た時点で、全て焦燥や恐怖に変わってしまった。
それらが渦巻いて渦巻いて、前進するか後退するか、今にも決めなければ倒れそうになる。
でも、スミレは逃げさせてくれない。
私は水の中を走るように、無理矢理に前進するしかなくなっていた。
深呼吸でもして、呼吸を落ち着かせたかったのに、それすらできない。
どうして私は、ここまで切羽詰まっているんだろう。
失敗も怖いし、今も怖いし、逃げるのも怖い。
けれど、他の選択肢なんて残ってはいなかった。
「ねえ、スミレ」
「なんだ」
私は掴んできていたスミレの腕をちょっとだけ引いて、すぐに押して。
そうして、床に倒れこませてからは、私の影で覆われたスミレを眺めていた。
私は今、嫌われるつもりで、こうしている。
自分からスミレと離れるなんて、できるわけがないから。
スミレの方から離れてくれるようにすら、願っていたのかもしれない。
「なにしてるんだ、お前……」
「……ごめんね」
謝るならやらなければいいのに、それができなくて、本心から、形だけの謝罪をする。
私は涙を抑えるために、目を瞑って。
身を投げるように、ゆっくりと、スミレと口へキスをした。
S7
金縛りにでもなったように、身体が動かなくなる。
淡は何かに耐えていて、それでいてひどく赤面してもいた。
私も、似たような状態だったから。
淡の口に触れてから、心の核の方にあった感情が、全て解放されたようにもなった。
熱暴走を起こした身体が、手に伝わる感触を理解する。
淡の手が、いつかしたように、私の指へと絡まってきていた。
キスを続ける私達の顔の横で、吸い付くように握られている手。
そうしてただ握っているだけなのに、私の何もかもを握られている気分になる。
耳の方からは、鼓動の音が伝わってきていて。
恋を認めていた心には、それらのことはあまりにも強すぎる刺激だった。
淡の口が、私の口元から離れていった。
けれど握られた手はそのままだから、私は何もできずにいて。
過呼吸でも起こしたように白く湿った息を吐いていたけれど、もしかしたら、視界が白くなっていただけかもしれない。
ただただ、ぼーっとしていただけ。
その白いところから覗けた淡の表情で、少しだけ目が覚めてしまった。
「スミレ、好き、ごめんね……」
目を瞑って、俯いて、泣きじゃくって。
「好きだよぉ、スミレ、ごめんなさい……」
ずっと、そんなことばかりを繰り返している。
「……淡」
「好き、スミレ、好きなの……」
入り込もうとしても、その余地はなかった。
そんなに、泣かないでほしい。
淡には今まで通り、笑っていて欲しい。
そう思った時、私は自分が淡に恋していることを再確認して。
同時に、淡も私を好きでいてくれるのだと気が付いた。
あんまりにも、遅すぎる。
私のやることなんて、もう決まっていた。
私は淡の笑顔が好きだから、ずっと側にいて、ずっとその顔を見ていたい。
でももし、淡が苦しんで、泣くようなことがあったのなら。
それを全て受け入れてあげるのが、淡に恋した私の役目。
私は確かに、遠くにある大切なものに手を伸ばしている。
刺激を与えたら砕けてしまいそうな淡を、背中に手を回して、ゆっくりと引き寄せていった。
淡は驚いて目を開けていたけれど、私にやめる気などない。
それに、淡だって力を抜いて私に身を任せているから、これで構わないと思う。
私の首元へ倒れこんだ淡を、壊さないように、けれど強く抱きしめながら。
「……好きだ、淡」
初めて言葉にした本心を、初めて淡に向けて言い放った。
それから。
淡は、決壊したように泣きだして。
私は、今にも暴走してしまいそうな真っ赤な心をなんとか制御して、淡を抱擁していた。
これで良かったのか、確かめる術はない。
あっても、できなかっただろう。
私は淡が笑えるようにと願いながら、ずっと抱擁をし続けていただけ。
落ち着いたらしい頃になって、淡はぽつりと呟いた。
「あ、安心、した……」
私が「どうしたんだ」なんて返事をすると、淡は「なんでもないよ」と返してくる。
まだ顔を上げてくれないから、表情は伺えない。
けれどその声はさっきまでと違い、それなりに軽いものだった。
なら、良かったのだろうか。
淡は、またぽつりと呟いた。
まるで、それ自体が気に入っているように。
「スミレ」
「……なんだ」
「キス、してもいい?」
答えに、詰まる。
どう答えようか、詰まったわけではない。
私は心の中で、「キスをして欲しい」と、即答してしまったほど。
けれど肝心な伝える時になって、それが軽々しく言葉として出てくれない。
言いたいのは山々なのに、喉がそう動いてくれない。
苦悶している間に、淡は首元から離れて、私を覗きこむように目を合わせた。
顔に影がかかっていても、ひどく照れているのだとよくわかる。
それがまた、私の顔を一緒になって熱くさせている
今まで体験してこなかったほど、顔が近い。
湿った息が、くすぐるように私の頬を通過する。
お互いの熱が、お互いの顔を暖めているようでもある。
合わせていた視線は、私も淡も外すこともできず、瞬きだってできずにいた。
意地を張ったように、弱々しく顔を赤くする淡が、私の返答より先に次の言葉を繋げてくる。
「もう、勝手にするから」
湿った息が、今度は頬に留まらずに、全身をくすぐった。
「私も……もう一度、キスがしたい」
今まで出てきてくれなかった言葉を、やっと言うことができた。
淡も私も、もうとっくに限度なんて超えて、顔を赤くして心臓を酷使している。
それでも、視線だけは外していない。
お互い夢中になって、相手の瞳を見つめていた。
私達はまた、手を握って、唇を重ねて。
手に力を込めながら、抱きしめて身体を密着させながら。
淡のことが好きだと、しつこいくらいに確認しながら、他の雑念なんて何もない状態で、この行為に没頭していった。
A8
スミレと私の重なっていた唇を離すと、溜まっていた息が辺りに漏れだした。
あんまりに長いから、少しだけ糸も引いていて。
空気で冷えたそれが唇に当たって、冷たいはずなのに、長いキスを意識して、一層顔が赤くなった。
それはもう、焦ったような、泥臭いような熱さからくるものじゃない。
私は、スミレが好きで、スミレも、私が好き。
ただそれだけから来る、単純で、純粋な熱さ。
強いて言えば、嬉しさは混じっているかもしれない。
さっきまでとは一転して、自然と微笑みが漏れていたから。
涙の跡だけが名残としてあったけれど、それも結局、赤くなったらしい頬にかき消されている。
私達は閉じることを忘れた口で、またいつもの、じゃれあうような会話をした。
「前、恋人になったらこんなことをする、って言ったよね」
「ああ、覚えてるさ」
「私達、それをやってたんだね」
からかってみると、スミレは口をもごもごさせながら、潤った瞳で私を一心に見つめてきた。
言っている私の方こそ、余計に照れてしまってもいる。
「これからも、やってもいい?」
「……今でも、いいさ」
「なら、するね」なんて答えて、今度はお互いに、ちょっとだけ笑ったまま。
けれど真っ赤な顔は変わらずに、私達は重ねていた瞳を閉じて、三度目のキスを行った。
終わり
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