モバP「こうして僕の新婚生活は始まった」 (132)

モバP「こうして僕の新婚生活は始まった」


アイドルマスター シンデレラガールズのSSです。本編設定を一部改変してあります。
                       一部引用・改変 オスカー・ワイルド [サロメ]
                               ジョン・キーツ [つれなき手弱女]




SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1366896132



  『操り人形の気分ってこんな感じなのかもしれませんね!』

 幸子に翼が生えた時、欲しい物は何でも手に入ると思った。




  ああ! ヨカナーン、ヨカナーン、あんたひとりなのだよ、あたしが恋した男は。
  ほかの男など、みんなあたしには厭はしい。
  でも、あんただけは綺麗だった。……この世にあんたの体ほど白いものはなかった。あんたの髪ほど黒いものはなかった。この世のどこにもあんたの口ほど赤いものはなかった。
  あんたの声は、不思議な香りをふりまく香炉、そしてあんたを見つめていると不思議な楽の音が聞こえてきたのに!
  ああ! どうしてあんたはあたしを見なかったのだい、ヨカナーン? 手のかげに、呪いのかげに、あんたはその顔を隠してしまった。神を見ようとする者の目隠しで、その眼を覆ってしまったのだ。
  たしかに、あんたはそれを見た、あんたの神を、ヨカナーン。でも、あたしを、このあたしを……あんたはとうとう見てはくれなかったのだね。
  あたしは王女だった、だがあんたに軽蔑された。あたしは処女だった、だがあんたは奪った……純潔だったあたしの身体をあんたは恋の炎で包んでしまった……




  『プロデューサーさんはボクに会えたことを感謝するべきですね!』

 最初に彼女を見た時、僕の胸にあったのは落胆だった。
歌手としての声量は無く、グラビア向きの肢体も無い。踏み出せるステップの数も少ない。
何よりもファンを顧みず、アイドルとしての誇りすら持たない子供。
何処にでもいるような、只甘やかされて育っただけの小娘にしか見えなかった。




  『ボクのプロデューサーはあなたしかいないんですよ!』

 だけど、間違っていたのは僕だった。
それでも、彼女は本物のアイドルだったのだ。

  『これはボクの思い出です。アイドルを始めるまでの』

 これが僕の思い出だった。プロデューサーを辞めるまでの。




〜〜〜アイドルマスター シンデレラガールズ〜〜〜




  おお 何があなたを苦しめるのです 騎士よ

  ただ一人 蒼ざめた顔をして彷徨って?

  鳥の群れはすでに湖から飛び去り

  さえずりは一切聞こえませぬ




幸子「ボクに頼み事?もちろんイヤです!」

 対等な立場からでは自分に有利な要求は出来ない。
相手よりも優位に立って始めて、自分に利のある要求が出来る。
幸子はその鉄則を弁えていた。

幸子「エスカレーター式の私立に通ってますから、アイドル活動も大丈夫ですよ?」

 凡人ならば一も二も無くこちらの要求を飲むに違いないが、それは意味の無い仮定。

幸子「プロデューサーさん、ご飯とか連れて行ってくれてもイイんですよ?」

 身なりを見るに余程の家系なのだろう。
それを考えれば彼女が交渉術に長けていたとしても、不自然ではなかった。

幸子「ここボクのお気に入りのメイドカフェなんですよ。
   ボクの連れですので、支払いはボクが受け持ちます」

 オフィス街に存在する、看板の無いビル。その中にある看板の無い店。
入店と同時に、10万モバコインの保証金を求められる事に面食らう。
成る程。ここが彼女のホームグラウンドか。

  『実家の近くにキャンプがあってね!』

 幸子に席を選んでくれと頼み、有無を言わせず背を向け会員証の登録を行う。
彼女のしたたかさに背筋が冷えるが、まずは情報を集める。
保証金の支払いは入店毎に必ず、退店毎にも返還される。
注文が保証金額を越えれば、その際には追証が必要。
クレジットカード利用不可、モバコイン払いのみ受け付けetc。

  「あー、さっちゃんだにぃ。今日はお兄さんと御一緒?」

幸子「いいえ、違いますよ。ボクだけのプロデューサーです」

  『ここはあたしのフィールドだから!』

 時間稼ぎは十分、心を落ち着け席へ向かう。
店内を見渡せば客層は若い女性が大半、男性客も見受けられるが自分の様な若造ではなかった。

  「じゃあ、Pちゃんって呼んであげゆー」

 幸子はキノコだらけのパスタ、僕はお手製夕飯を頼む。

  「注文はこれだけー? もっともーっとさっちゃんとお話ししたいにぃ」

幸子「今日は食事だけの予定だったのですが、ボクはカワイイですから仕方ありませんね。
   トークタイムも付けちゃいましょう」

  「えへへ、実はね———マンション買っちった」

幸子「凄いじゃないですか———さん」

 未だ当たり障りのない話を続けている二人を見やる。
その為に来たと言うのに幸子は背の高い店員とのらりくらりと話を続け、僕へ本来の要件を切り出す様子はない。
これもまた幸子の交渉術の一環なのだろう。交渉事に先手なし。
およそ実力が上の者からの一方的な要求ならいざ知らず、対等な立場の者同士であれば先に交渉の条件を切り出した方が不利となる。
ましてや現段階では彼女の側が有利なのである。僕の側から切り出している以上、かなりの無理難題を要求されるのは間違いない。

  『まだまだこれからでしょ!』

 食事が届くと背の高い店員は席を外した。しっかりと幸子を見据える。

幸子「ふふっ、視線独り占めです!
   プロデューサーさんもやれば出来るじゃないですか。
   これからはボクと話す時は必ず目線を合わせてくださいね、首が疲れるんですよ」

 背の高い店員が気を利かせたのか幸子の椅子は席が高く、僕の椅子は心持ち席が低めに設定されていた。

幸子「プロデューサーさんは独特の変わったセンスをしてますね!
   この後はプロデュサーさんの服を買いに行きましょう。御代の事なら心配いりませんよ。
   前の事務所に支払う予定だった月謝が有りますから、気にせず受け取って下さい」

 慌てて僕の姿を省みる。
くすんだ靴/すれて折り目の消えたズボン/ノリの無いシャツ/生地の薄い上着。
いかに僕が場違いであるかの現実を、改めて突き付けられた。

幸子「プロデューサーさんだったらボクの横にいてもいいですよ。ねっ?
   ポルフィーリ・ペトローヴィチみたいですし、ボクは思ってることが口に出ちゃうんですよ」


 学の無い僕にはこの皮肉は理解できなかったが、胸の奥で拍手をするしかなかった。
およそ互いの決裂しかない会談を持ちかけた、僕が馬鹿であったという事か。
おとなしく彼女の軍門に下るとしよう。やはり引き抜きなど考えるべきではない。



幸子「何度も何度もなんなんですか! いくら優しいボクでもいい加減あきれちゃいますね!
   ……いいでしょう。その根性に免じて、カワイイこのボクがあなたのアイドルになってあげます。
   ……あなたに花を持たせてやるボクって本当に優しいですね!」




  おお、何があなたを苦しめるのです、騎士よ

  やつれ果て、悲しみに打ちひしがれて?

  リスの穀物庫は満たされております

  収穫が終わったのですから




  『勝手にいなくならないで下さい』

 ああ幸子、カワイイ幸子、僕が大好き———女性。
絶望に縁どられた人生の中で、ただ君だけが救いだった。幼子が母に縋る様に、船乗りが星に頼る様に。
思考は一瞬、彼女が僕を突き飛ばす。かつては———を込めて僕を見ていた視線がこの身を射抜く。
解っていた筈だ、なのに何故こんなにも身体が重い。

 幸子に翼が生えた時、欲しい物は何でも手に入ると思った。

 だけど、間違っていたのは僕だった。
それでも、彼女は———だったのだ。

  『これはボクの思い出です。アイドルを辞めるまでの』
 それが僕の思い出だった。———を始めるまでの。




  あなたの額は百合のよう

  苦悩と熱によって露にしとり

  あなたの頬は枯れかけた薔薇

  早くも萎れてしまっています




幸子「とりあえず褒めて下さい!
   観客は鳩だけなんですから、プロデューサーさんにはボクをカワイイと讃える義務が有ります」

 初めてのレッスンは市民公園で行われた。
鏡は無く、トレーナーもいない。

幸子「ミルクティーですか、気が利きますね。この香りはミルクと生姜がたっぷり、それに少々の蜂蜜ですか」

  『分かってないなープロデューサーは。やっぱビールっしょ、ビール。
   ぷっ ハー、この為に生きてると言っても良いくらいだね』

幸子「味は兎も角として、随分とぬるいですね。
   へー運動直後に飲んでも、胃に負担がかからないように……トレーナーの知識もおありなんですか?」

  『ぬー、酔ってない。はいっ! 酔ってないっ! よっ!
   あれ? なに、これ……気持ち悪い。うっ ごェ げぼーぁ』

幸子「でしたらプロデューサーさん、レッスン中はトレーナーとお呼びしましょうか?
   ボクだって腰を低くする位できますよ、社長。
   ボク達ふたりきりの事務所なんですから、プロデューサーはもっとボクにおねだりするべきだと思いますね」

 躊躇せず幸子は僕の膝の上に座り、ビデオカメラを奪い取った。
僕にトレーナーの知識は無く、瞬時に適切な指導は行えない。
だからレッスンは既存教本と、映像を見ての反省会に頼るしかない。

幸子「何ですか、何なんですかこれは!
   視線は上の空、ステップはたじたじ、背筋だって全然伸びてない。
   こんなのボクの可愛さを、ぜんぜん引き出せてないじゃないですか!」

 幸子は激怒した。とても心地良い怒りだ。
プロデューサーを続けていて幾度も見た光景。
幸子はよく笑い、よく泣き、よく怒った。

  『プロデューサーはさ、アタシの事応援してくれるって言ったよね。
   アイドルになれば、アタシはもっと皆の事応援できるからって』

 しかし子供の頃の宝物が大人の目には色あせて映るように、もはや僕は何事にも怒る事は出来なかった。
その代わりに絶望を積み重ねる。絶望は心を温めてくれる。
無関心よりも純粋で、昇華出来ない感情が僕を衝き動かす。


 幸子に初めて出会ったあの日を思い出す……やはり幸子は激怒していた。





 思考は一瞬、彼女が僕を突き飛ばす。かつては———を込めて僕を見ていた視線がこの身を射抜く。
解っていた筈だ、なのに何故こんなにも身体が重い。

 赤、赤、赤。口内に広がるは鉄錆の味、血の臭い。
僕の口が開く、だけど言葉が出ない。彼女の名前を呼んであげる事が出来ない。
この手で彼女を抱きしめてあげる事が出来ない。

 それは甘い夢。
少女ならば誰もが一度は願う甘い夢。
好きな人が自分を選んでくれるのだと、その人と幸せに暮らすのだと、やってくるかもしれない幸せな夢。
好きな人の腕に抱かれ、好きな人に口付けされ、同じ時間を過ごしたいと願うそんな夢。
だけど、その夢はもう見る事は出来ない。


  『ファーストキスだったんですよ』
 それはぼくの遺言であり、
それがぼくの産声である。




  騎士は平原で一人の女性と出会った

  溢れんばかりの美 [妖精の申し子]

  彼女の髪は長く 彼女の足は軽やか

  そして彼女の双眸は狂おしいほど熱を帯びていた





  「すみません……すみません……! 私がいると……みんな不幸に……」

幸子「だったら本番までの間、ボクが一緒にいてあげますよ」

 アイドルのオーディション控室、其処には様々な人種が存在する。
廊下にて振付の確認をするもの/鏡を睨んで微動だにしないもの/次の現場へのスケジュールを確認するもの……
そして夢を叶えるもの。

  「あの……す、すみません……! 謝ってばかりで……すみません……」

幸子「遠慮なんてする事ありませんよ! 何と言ってもボクの名前は幸子ですから」

  『目指せ新人王! 目標は高く持たなくっちゃ。ね、プロデューサー』

 声の大きな二人だが、気に留めるアイドルは誰もいない。
誰もが自分を他人に魅せる事ばかり考えていて、他人を見てあげる余裕などありはしない。
先輩Pの代理として他事務所新人アイドルの偵察に来ていた僕は、幸子と名乗った少女を胡乱気に見つめていた。


  「今回のオーディション本当は出れないはずだったんです。でもマネージャーに無理を言って捻じ込んでもらって」

幸子「へえ、思っていたよりも融通が利くんですね。ボクが出ていれば優勝は間違いありませんが、今回は譲って差し上げますよ。
   何と言ってもボクはカワイイですからね。幾らでもチャンスはあるんです。
   カワイイ僕が保証してあげます。きっとあなたも、僕の出ない今回ならば合格できますから」

 幸子の胸元には本日のみ有効のゲストパスが飾られていた。
となるとオーディション参加者の付き人か、あるいは審査員の親族が職場見学を望んだか。
幸子は儚げな少女との対話の最中に、幾度もとりとめの無い事で笑い、幾度も些細な事で悲しんだ。
目まぐるしく変わる表情、なぜ彼女は他人の為にここまで笑い/悲しむ事が出来るのか?


  「えっ、出場は取消し? 先輩アイドルが出るからってそんな、待って下さい」


 アイドルのオーディション控室、其処には様々な人種が存在する。
出番を待ち望むアイドル/世話をする付き人/送り迎えをするマネージャー……
そして夢に破れるもの。

  「今日の為に幾つも今後のスケジュールをキャンセルして頂いたのに、やってみなくちゃ分からないじゃないですか!
   そんな、マネージャー。疫病神だなんて言わないで下さい」

 今日のオーディションの本命は[プロジェクト・フェアリー]。
新世代を担うとの触れ込みで961プロダクションが育て上げた隠し玉のお披露目であり、僕だけではなく幾人もの業界関係者が偵察に来ている。
そして彼女達の当て馬となれば、たとえ敗れたとしても知名度は向上する。新人アイドルへ与えるには上質過ぎる餌だ。

  『人の事持ち上げて、期待させるだけさせておいて、
   デビューすらさせて貰えないだなんて……どれだけ残酷な事しているのか、分かってるの?』

 業界内では珍しくも無い光景。幾度眺めても僕は怒りを覚える事は無い。
その代わりに決して絶える事のない呪詛が、より一層強く胸の内でこだまする。
絶望が積み重なる。絶望は良いものだ、真実を見せてくれる。
僕はプロデューサーになんて、ならなければよかったのだ。


幸子「謝りなさい!」

 その瞬間、全てを吹き飛ばす烈風が吹き荒れた。

幸子「さっきから黙って聞いていれば、何なんですかその物言いは。彼女に謝りなさい!」

 幸子は怒りに拳を震わせ——

幸子「部外者は口を挟むなですって? ならばアナタが出て行きなさい!
   ここはアイドル達の控室です。アイドルにはファンを笑顔にする義務が有ります」

 小さな身体で巨人の様に、儚げな少女を背に隠した。

幸子「彼女はボクのファンなんです。まだデビューはしていませんが、ボクは世界一カワイイアイドルなんです。
   ボクのファンを悲しませるだなんて、そんな事認めるわけにはいきませんね!」

 とても心地良い怒りだ。
なんとも素晴らしい気高さだ。
幸子は既にアイドルだったのだ。



 あの日、僕は幸子に恋をした。




  ———は彼女に花冠を編み

  腕輪と芳しい帯も拵えた

  彼女はあたかも愛しているかのように———を見つめ

  可愛らしく呻いた




  『どうしてですか? ボクが何か悪い事をしましたか。
   プロデューサーの気に障る事をしましたか? 怒られるのは仕方ありません。
   嫌われても構いません。だけど、せめて理由だけは教えてください』

 僕の口が開く、だけど言葉が出ない。彼女の名前を呼んであげる事が出来ない。
この手で彼女を抱きしめてあげる事が出来ない。

 それは甘い夢。
プロデューサーならば誰もが一度は願う甘い夢。

  『裏切ったんですね。ボクの、ボクの気持ちを裏切ったんですね。
   プロデューサーの事を……信じていたのに……
   操り人形の気分ってこんな感じなのかもしれませんね!』

 決して絶える事のない呪詛が、新たに刻まれる。絶望が積み重なる。
幸子に翼が生えた時、欲しい物は何でも手に入ると思った。

  『もっとボクのことを考えてください! 24時間でも足りませんよ!』

 だけど、その夢はもう見る事は出来ない。




  「私にそんな大事な事聞かせてどうするつもりですか……いぢめですか……」

 幸子が天使過ぎて辛い。
そう切り出した僕に対して、伏し目がちな店員は涙声で答えた。

  「しゃべるの……苦手なんです……」

 オフィス街に存在する、看板の無いビル。その中にある看板の無い店。
僕はトークタイムを注文し、幸子の知人であるらしい背の高い店員を指名した。

  「あの、Pさん、いきなりで申し訳ないのですけど、あの、あたし、もうメイドとか辞めようかなって思って……あの、その……」

 あいにくと背の高い店員は先約があった為、つなぎとして伏し目がちな店員が割り当てられた。
自分の考えを整理したくてトークタイムを注文したのだが、こちらが口を開く度に罪悪感が深まるばかりだ。

  「Pさんだったら、なんとかしゃべれます……
   親戚に誘われて……メイドは一回だけって話だったんですけど……」

  『今日はさ一緒に———の試合を見ようと思ってね。
   もー駄目だよ———、そんな小さな声じゃ。大丈夫、怖くないよ。
   ほら、プロデューサーも一緒に応援、応援っ♪』

 こちらの口が重くなるにつれ、何時しか話題は伏し目がちな店員の身の上話となっていた。
もっとも話が弾むはずも無く、店員がぽつり、またぽつりと途切れ途切れにつぶやくだけではあったが。

  「心が……折れますけど……
   仕事は大変だと思うんです……それがいいですか……そうですか……」

  「———ちゃんヘルプありがと〜。Pちゃんいらっしゃいだにぃ」

 背の高い店員がやって来た。
これ幸いとばかりに伏し目がちな店員が逃げ出そうとしたので、追加のトークタイムを注文し彼女を指名する。

  「あの、他にもかわいい子はいっぱいいると思うんですけど……
   話さなくても良い? 聞いているだけで。こんな私なのに、見捨てずにいるなんて……変わった人ですね……」

 結論から言えば、幸子の引き抜きは無理だった。
幸子の所属していた事務所は不正経理が発覚して潰れてしまったし、幸子本人も移籍に乗り気だった。
何も問題は無いかと思われたが、僕の所属する事務所が幸子の身請けを拒否したのだ。
幸子の大爆発は既に噂が広まっていた。
今後もトラブルを引き起こすであろうアイドル見習いを、受け入れる事務所があろうはずもない。

  「ん〜。それだったらPちゃんが社長になって、さっちゃんを雇ってあげればいいと思うにぃ。
   ———もねパパとママを養ってあげる為にメイドさんするゆ、毎日ハピハピって。
   ほんとだよ? うきゃーマジメうきゃー!」

 背の高い店員は、事も無げに僕の悩みを打ち砕き——

幸子「やっぱりアナタはストーカーさんだったんですね? ボクのお気に入りのカフェでこうして待ち伏せしているだなんて。
   あっ、ボクがカワイイからつい追ってきちゃう……ってことですかね! それは仕方ないですね!
   ボクに逢いたいとおねだりしてくれれば、オフであっても直ぐに事務所へ駆けつけてあげますよ。
   遠慮なんてすることないんですよ、ボクは優しいですから!」
   

  「さっちゃん、Pちゃんが社長になってくれるって。すごーい!
   どーんって行けばおっけーい」

 幸子に大輪の笑顔を咲かせてくれた。


 僕はきっと、幸子にこんな風に笑っていて欲しいと思っていたのだろう。
僕が望んだモノはすぐそこにあったのに。
僕の願いはもう叶っていたのに。
なのに苦しさに惑わされて、愚かさに迷わされて、ずっとずっと気付かなかった。

  「幸子ちゃんと相席なさるのでしたら……個室も案内出来ますけど……。
   常連さん向けの談話室も……用意出来るんですけど……」

 伏し目がちな店員が、おずおずと話しかけてくる。
相変わらず視線を合わせてはくれないが、僕の裾をちょこんと摘むその仕草に自然と笑みがこぼれた。

  『プロデューサーはドコにいても———を見つけてくれるね、へへっ♪』


 幸子に翼が生えた時、欲しい物は何でも手に入ると思った。
だがそれは誰の為の、何の為の翼なのか。




  ———は彼女を馬に乗せ

  一日中、目を離さなかった

  彼女は体を横へ向け、口ずさんでいるようだった

  ある妖精の歌を




  『これ、見てくださいよ。ファン代表Pを名乗る方からのお手紙なんですけれどもね。
   ボクの事べた褒めなんですよ! [幸子は天使だ]なんて臆面も無く書いちゃってて』

 夢を見ている。
眼前に微笑む幸子を見た時、僕はそう気づいた。
これは甘い夢。もう夢でしか会えない笑顔の幸子。

  『あれあれ? どうしちゃったんですかプロデューサーさん。ボクが人気出ちゃって焦ります?
   それにしても不思議ですよね。まだレッスンを受けるばかりでデビューもしていないのに、もうボクのファンがいるだなんて』

 ああ幸子、カワイイ幸子、僕が大好きだった女性。
絶望に縁どられた人生の中で、ただ君だけが救いだった。幼子が母に縋る様に、船乗りが星に頼る様に。
そして全てを理解する、これが真実だったのか……

  『きっと事務所にあったこのお手紙は未来から来たんですね。そういう事にしておきましょう。
   フフッ、ボクがカワイイのがいけないんです。だからプロデューサーさんが恥ずかしがる事なんて、何もないんですよ』

 確証はない。
だけど否定する事も出来ない。

 幸子がいて、僕がいる。
幸子は僕をプロデューサーと呼び、様々な無理難題を押し付ける。

  『プロデューサーさんはこれからも忙しくボクのために、イヌのように走り回って下さい!』

 僕は幸子の初めてのファンとして、世界中に幸子の可愛さを広げる為に駆けずり回る。
だけど僕は無能で、大きな仕事を手に入れる事は出来ないけれど……
それでも幸子は僕をプロデューサーと呼ぶ。

  『どんなに良い条件であっても、移籍なんてしませんよ。
   プロデューサーさんが1人になるとかわいそうだし、もうすこしここにいてあげますよ! ボクは優しいですね!』

 僕は赤面し、幸子が楽しげに走りだす。
慌てて追いかけるもするりと逃げられる。
つかず離れず、一定の距離を保ちながら幸子が僕をからかう。

  『すぐに売れっ子になりますよ!』

 それは僕の愚かさによって、失われた未来。
手を伸ばせば、すぐそこにあったはずのに。
今では何よりも大切となった遠い日の幻影。

  『プロデューサーさんはボクが一番ってコト、ちゃんとプロデュースで証明してくれました!
   ねっ? やっぱりボクには魅力があるんだ♪』



 僕は社長になんて、ならなければよかったのだ。




  彼女は———に甘味のある根を見つけてくれた

  野生の蜜も、マナの露も

  そして確かに、———の知らぬ言語でこう言った

  「———を心から愛しているわ!」




幸子「これ、見てくださいよ。清書したノートがこんなに貯まってしまいましたよ!
   カワイイボクを放り出して、いったい毎日何処で何をしているんですか?
   もっとボクをプッシュして下さい!」

 幾週かぶりに顔を出した事務所、幸子が僕へ詰め寄ってくる。かつては信頼を込めて僕を見ていた視線がこの身を射抜く。
相手をするのも煩わしい。疲れ果てた体へは幸子の言葉は重すぎる。

幸子「最近のプロデューサーさんは隙がなくなってダメダメですね!
   いいですか。アナタがいない間、ボクは毎日この事務所で1人きりなんですよ!
   女の子の扱いを知らないなんて可哀想ですね!」

 僕はもはや抜け殻だった。
かつては果たすべき願いを持ち、誇りある魂を持っていた。
だが、それは既に過去の話でしかありえなかった。
果たすべき願いは忘れはて、魂すらも磨耗して、ただそこにあるだけの存在となっていた。

幸子「もっと楽しませてください♪ アナタはボクのオモチャなんですから!」

 正直に言えば、この頃の事はほとんど覚えてはいない。
事務所の立ち上げは見切り発車であったが為に、やらねばならない仕事が山のように積み重なっていた。
けっして激務ではない。社長業そのものは20週間……いや18週間の準備期間さえあれば、何の問題も無く軌道に乗せる事が出来ただろう。

  『気休めはよしてよ! アタシ、オーディションの最中に吐いちゃったんだよ!
   こんなゲロまみれのアイドルなんて、いったいどこの誰が応援してくれるっていうのさ!』

 社長業に精を出す度に、呪詛はより一層強くなる。
今では亡霊さながら、明確な形を取って眼前で僕を罵る。
亡霊には顔が無い。黒く塗りつぶされたのっぺらぼう。
疲労した際には、そんな白昼夢が繰り返されていた。

幸子「そう……ですか……それがプロデューサーさんの御答えですか。
   い、いいですよ! 歌えますよ! それがプロデューサーさんの御望みでしたら!」

 そして僕は1日でも早く幸子をデビューさせようと焦るあまり、プロデューサー業を半ば放棄していた。
幸子へ、来週からルーキートレーナーさんの元で40日間の合宿へ参加するよう言いつける。
それを乗り越えれば、CDデビューをさせるとの飴を与える事を忘れずに。

幸子「ちゃんとボクを送り届けるのもプロデューサーさんの仕事ですよ!」

 タクシー券を綴りで渡す。この頃にはだいぶお金の使い方を理解できるようになっていた。
古人曰く、奇貨居くべし。幸子には得難い才能がある。投資を惜しむべきではない。

幸子「……」

 話を打ち切り、ルーキートレーナーさんへと電話を掛ける。
突然の非礼を詫び合宿の手配を澄ませた後、残務処理にかかる。
日を跨ぐ事も、覚悟しなければならないだろう。

 知り合いから始め面識のない音楽家まで片っ端から辺りを付け、デモテープの選定にかかる。
幸子が歌うに相応しい曲を仕上げなければならない。
題材は既に決まっている。天使 これこそが幸子の翼だ。

 喜んでくれ幸子。
世界一カワイイアイドルになりたいとの、君の願いはもうすぐ叶う。


 僕だけが望む身勝手な夢に酔い痴れていると、視界の隅にまたもや亡霊が映り込む。

幸子「やっとボクを見てくれましたね。
   本当はプロデューサーさんが一番カワイイって言ってくれればいいんです!
   でもこれがプロデューサーさんの本当の願いだったんですね」

 いや、違う。あれは幸子だ。まさか事務所にずっと残っていたのか?

幸子「だったらこれはボクのワガママです。ボクがいなければアナタは1人になってしまうんですよね?
   でしたらアナタが1人になるとかわいそうだし、もうすこしここにいてあげますよ……ボクは優しいですね……」

 そう僕達はもはやとっくに抜け殻だったのだ。
かつては果たすべき願いを持ち、誇りある魂を持っていた。
だが、それは既に過去の話でしかありえなかった。
果たすべき願いは忘れはて、魂すらも磨耗して、ただそこにあるだけの存在となっていた。

幸子「ご飯とか……連れて行ってくれてもイイんですよ?」

 幸子はいったいどの様な思いで、あの日の言葉を口にしたのだろうか?
僕には何も分からない。
なぜならば……あの日は一度たりとも、幸子と目線を合わせて話などしてはいなかったのだから。


幸子「これはボクの思い出です。アイドルを始めるまでの」

 これが僕の思い出だった。プロデューサーを辞めるまでの。




  彼女は———を妖精の洞窟へと導き

  そしてそこで苦しげに涙を零し、溜め息をついた

  そして———は———の情熱的な瞳を閉ざした

  四つのくちづけによって




  「Pちゃん、広告を出すんだにぃ。
   にゅっとイチバンになるのー! うきゃー☆。ずっと1人で悩んでちゃ、めー!」

 オフィス街に存在する、看板の無いビル。その中にある看板の無い店。
何時しか僕は入店と同時に談話室へと案内されるようになっていた。

  「———もね、メイドさんすゆまえは、ずっとお仕事探してたんだにぃ。
   いっぱいいっぱいお仕事して、———はもーっと大人になるの!」

 幾つもの絶望の果てに突き付けられた、目を背ける事の出来ない真実。
僕はプロデューサーになんて、ならなければよかったのだ。
ならば新たなプロデューサーが必要だ。幸子をトップアイドルへと導く、そんなティンと来る逸材が。

  「完全歩合制? ここなら稼げると思って申し込んでみたら、女の子はめって! って断られちった。
   Pちゃん、間違えて持って来ちゃったから……あげゆ!」

背の高い店員から差し出された羊皮紙には、とある事務所の募集要項が記載されていた。


  あなたの遺伝子が 呼んでる
  
  進撃のバハムートでは常に人材を募集しております
  
  業務 各種プロデュース
  条件 健康な成人男性
  給与 薄給 なれど 名誉有り



  「ね、ね、やっぱりやめましょこんな……良くないと思うんですけど」

 伏し目がちな店員が僕を引き留める。
[遺伝子]多角化経営を進める新興勢力。
本業はアイドル事業とプロ野球興業の2本柱だが、人材派遣会社としても日の出の勢いだ。
幾人もの先輩Pが高給につられ遺伝子へと引き抜かれたが、激務に耐え切れず心と体を壊し引退を余儀なくされた。

  「もし、これから御仕事増えちゃったら……Pさん1人じゃ絶対無理ですけど……。
   だから私も絶対一緒ですよ。絶対ですよ?」

 伏し目がちな店員は必至で僕を引き留める。
だが零れた水が決して盆へと返らない様に、僕の心は既に定まっていた。
遺伝子には及ばずとも、人を動かす術を身に付けねばならない。
誰の為に? 無論幸子の為である。

  「そんなに急いで前ばかり見ていないで……立ち止まる事も大切だと思うんですけど……。
   Pさんは働き過ぎですし、ここらでゆっくりと羽を休めてみるべきかと……。
   手羽先……関係無いですから……」

 いまいち要領を得ないが、きっと僕の事を心配してくれているのだろう。
安心させる為に頬を撫でる。
伏し目がちな店員の肌は柔らかく、手触りは滑らか。白い頬に熟したリンゴの様な紅が差す。
唇は艶やかであり、開いた口には小さな歯と桃色の舌が飾られていた。

  「あの、Pさんの力で仕事を取ってこないというのは……。
   Pさん、あの……色々と……その……あうぅ……」

 幾度か撫でると伏し目がちな店員は大人しくなり、言葉を発する事も無くなった。

  「しゅーん……後ろのほうで静かにしてる方がいいのかにぃ……?」

 気を遣ったのか、何時しか背の高い店員は姿を消している。
人目が無い事もあり、トークタイムの制限時間限界まで伏し目がちな店員を撫で続ける。
その間ずっと、彼女は目を閉じ心地良さげに首をもたげていた。

  「もう帰りますから……。
   Pさん強引……嫌いじゃないですけど……」


この日以降、社長業の間を縫って伏し目がちな店員の唇を撫でる事が僕の慰めとなった。





 僕の全ては幸子の為に。
幸子がアイドルとして羽ばたけば、僕らの願いはきっと叶う。
それは甘い夢。僕だけが望む、身勝手な甘い夢。

 幸子の為ならば僕は全てを差し出そう。この気持ちに偽りはない。
ならば、幸子は何を望むのか?




  そして彼女は子守唄を歌った

  そして———は夢を見た  ああ! 何という悲しみ!

  それは———が見た最後の夢

  寒々しい丘の上において




幸子「どうしてですか? ボクが何か悪い事をしましたか。
   プロデューサーの気に障る事をしましたか? 怒られるのは仕方ありません。
   嫌われても構いません。だけど、せめて理由だけは教えてください」

 それは交渉とも呼べぬ一方的な通達。
もはや僕らの立場は逆転し、主導権は僕に存在する。

幸子「裏切ったんですね。ボクの、ボクの気持ちを裏切ったんですね」

 セルフプロデュース制の採用。
961プロダクションを参考に、僕が導き出した結論はこれであった。

 幸子に相応しいプロデューサーを捜し歩いたが、ティンと来るような逸材はいなかった。
それどころかどいつもこいつも無能揃いで、マネージャーにしたとしてもアイドルを不幸にする未来しか見えない。

  『アタシ、これからはお酒を飲む事にするよ。アイドルなんて辞めてやる!
   毎日、お酒を飲んでやるんだ……』

幸子「プロデューサーの事を……信じていたのに……」

 ならばいっそアイドル達に全てを委ねてしまった方が良い。
デビューしたければするがいい、Eランクアイドルなんて吐き捨てるほど存在する。
レッスンをしたければするといい、その分だけデビューは遅れるが。
そして打ちのめされろ、世の中は夢の様に甘くは無い。

幸子「操り人形の気分ってこんな感じなのかもしれませんね!」

 絶望せよ幸子。絶望は良いものだ、真実を見せてくれる。
打ちのめされ、投げ捨てられ、それでもなお夢を諦める事が出来ないのであれば……
僕の元へ来て膝を着くといい。

幸子「ボクは諦めたりなんてしませんよ。絶対にトップアイドルになって見せます。
   夢を捨てたりなんてしませんから!」

 決して絶える事のない呪詛が、新たに刻まれる。絶望が積み重なる。
そう僕達はもはやとっくに抜け殻だったのだ。
かつては果たすべき願いを持ち、誇りある魂を持っていた。
夢見るような日々……
だが、それは既に過去の話でしかありえなかった。
零れた水が決して盆へと返らない様に、僕らの主導権が幸子の手元へ戻る事はない。
なぜならば、もはや僕が幸子と目線を合わせて話をする事などありはしないのだから。

幸子「もっとボクのことを考えてください! 24時間でも足りませんよ!
   必ず、必ず振り向かせて見せますから!」


 そしてこれが後に[天使]と呼ばれ、芸能界を蹂躙する事になる伝説の幕開けであった。




  ———は蒼ざめた顔の王達 王子達を見た

  蒼白な戦士達 そう 皆が死者のように蒼白だった

  彼らは叫んだ

  『かの無慈悲なる麗人が そなたを隷従させたのだ!』




  「商談の御成功、おめでとうございます」

 オフィス街に存在する、看板の無いビル。その中にある看板の無い店。
銀行の御偉方との昼食を終えた僕は、充足感に満たされていた。

  「どうぞこちらを、私なりの心付けです」

 メイドがカップにミルクティーを注いでゆく。
僕はすっかりVIP室の住人となっていた。
それも当然か。あのオンボロ事務所へ顧客を案内してしまったら、引き出せるはずの資金援助でも引き出せなくなってしまう。
僕が頭を下げて資金を借り受けるのではない。あくまでも彼らが僕へ投資するのだ。

 交渉術とは実に奥深いものである。
どんなにこちらの手札が乏しくとも、カード手品の様に手を変え品を変えればあたかもそれが千枚もの切り札であるかのように装える。
プロデューサー時代のスカウト経験が下地となり、僕の舌は滑らかに歌っていた。

  「そう言えば……幸子ちゃん引退なされたんですよね?」

 幸子は掘り出し物であった。
あれよあれよという間にAランクアイドルへと駆け上がり、事務所の名声を高めてくれた。
今の僕の成功も、幸子の活躍に負う面が多い。

 [ボクは普通の女の子に戻ります]、武道館での公演中に幸子は突然のアイドル引退宣言を行った。
こちらとしても寝耳に水の出来事である。
が人気絶頂期の潔い引退との事で、むしろ僕の事務所は[アイドルの自由意思を尊重する優良プロダクションである]との風潮を生み出す要因となってくれた。
関係各所へのお詫びと破棄したプロジェクトの補償によって億単位の損失を計上する事となったが、幸子の功績に免じ不問とした。
最初から最後までトラブルの絶えないアイドルではあったが、幸子は事務所へ十分な利益を還元してくれたのだ。

  「御味は如何でしょうか?」

 メイドが僕を促す。
カップを手に取り香りを楽しむ。ミルクと生姜がたっぷりそれに少々の蜂蜜、ふむ悪くはない。
口へ含もうとして、ふと気付く——湯気が出ていない。

  「そうですか……飲むまでもありませんか……。
   美味しい筈ありませんからね……。当然ですよ、レシピどうりに作ってあるんですから」

 僕はこの香りを知っている。僕はこの味を知ってる。僕はこのジンジャーミルクティーが何であるのかを知っている。
飲まずとも分かる。しかしだからこそ分からない。なぜ僕の目の前にジンジャーミルクティーが差し出されているのか。
分からないのも当然か。これはもはや僕の元には存在しない筈のものなのだから……あの白昼夢の様に。

 カップを戻し、胡乱気にメイドを見やる。
かつては伏せられていた筈の瞳が、今ではしっかりと僕を見据えていた。

  「Pさんは……とても御立派になられました。新興の青年実業家として、今や時代の寵児です。
   多くのお客さんを連れてきてくださって、お店の売り上げも伸びました。
   私を専属として御贔屓にして下さって、チップも沢山頂いています……だから……。
   だから……本当は……喜ばないといけないんですよね……」

 メイド——いや強い意志を秘めた瞳を持った店員の目元には、真珠の様に輝く大粒の涙が飾られていた。

  「私、メイドのお仕事は辞めるつもりでした。向いてないと思ってましたので……今でもそうですけど。
   でも、Pさんが御贔屓にして下さって……辞めちゃったらPさんに迷惑がかかるかもしれないと思って……少しだけ頑張っていました。
   本当はちょっとだけ、期待していたんですよ。
   頑張ればPさんのお役にたてるんじゃないかって……そうすれば何時も私の事を見てくれるんじゃないかって……」

 それは甘い夢。
少女ならば誰もが一度は願う甘い夢。
好きな人が自分を選んでくれるのだと、その人と幸せに暮らすのだと、やってくるかもしれない幸せな夢。
好きな人の腕に抱かれ、好きな人に口付けされ、同じ時間を過ごしたいと願うそんな夢。

  「だから頑張ったんです。Pさんに喜んで欲しくて、お茶を入れる練習をしていました。
   でも、Pさんは前に向かって走り出していて……置いて行かれちゃうんじゃないかって不安になりました。
   だから頑張ったんです。お傍に控えていてもPさんが恥をかかない様に、すまし顔の練習をしていました。
   でも、やっぱりPさんは立ち止まる事は無くて……だから私は必死で追いかけて……」

 強い意志を秘めた瞳を持った店員の姿が、次第に歪んでゆく。
疲労が溜まると常時繰り返されるあの感覚……どうやら昼食時の交渉は僕の神経を大きく損なっていてくれたらしい。

  「社長は本当に御立派になられました。私の事なんて振り向きもしない程に……。
   今日の会食はお見事でした。どこへ出しても恥ずかしくない、才気溢れる青年実業家が其処におられましたよ。
   何時だって私の事を気にかけてくれていた……優しいPさんではなくて……」

 店員には顔が無い。黒く塗りつぶされたのっぺらぼう。
何時だって僕を罵倒する、あの亡霊と同じ姿だ。
いや、違う。彼女は亡霊ではない——彼女とは誰だ?
僕は彼女を知っている。何時も僕のそばでプロデュースを支えてくれていて——
違う! 僕はプロデューサーではない。

 意識が混濁する……。
気をしっかり保たねば、彼女は何か大切な事を僕に伝えようとしてくれている。

  「怖かったんです……あの時の社長はすごく怖かったんです。
   私……ここから逃げ出したかった……でも、逃げ出したら後悔しそうで……
   もう二度とPさんに会えないんじゃないかって。それが怖かったんです」

——オフィス街に存在する、看板の無いビル。その中にある看板の無い店——

 視界はさらに歪み続け、天地が上下する。

——其処には様々な人種が存在する——

 もはや僕は自分が立っているのか座っているのか、それすらも分からなくなる。


  「だから精一杯の勇気を振り絞って、私はお茶を入れました。
   Pさんの作った——
   アイドルだけではなく私にも優しくしてくれる、そんなPさんの作ったお茶をです。
   これを飲めばきっと、昔の様に微笑んでくれるって思って」

——挫けぬ心を持つトップアイドル/親孝行なメイド/敏腕を装う社長……
そして勇気ある少女——

  「だけど……もう……むーりぃ……。
   私……メイドを辞めさせていただきます。
   Pさんも一緒に、社長なんて辞めましょう……ね? ね? 向いてなんていませんから。
   だから……返してください……Pさんを返してください……返して……ねぇ」

 僕の口が開く、だけど言葉が出ない。彼女の名前を呼んであげる事が出来ない。
この手で彼女を抱きしめてあげる事が出来ない。

——誰もが自分の事ばかり考えていて、他人を見てあげる余裕などありはしない——

  「さようならです……Pさん……今だけは……
   また、私に会ったら……その時は……もう一度だけ、優しくしてください」

 黒、黒、黒。眼前に迫るはのっぺらぼう、黒く塗りつぶされた亡霊。
これは白昼夢なのか?
亡霊が、僕の唇に口付る。





 一際輝く大粒の白い真珠が、カップの渦へと吸い込まれていったような気がする。




  「ファーストキスだったんですよ」




 その光景を最後に、僕は意識を失った。






  薄暮の中 ———は彼らの飢えに苦しむ唇を見た

  恐ろしい警告を与えるために大きく開けられた

  そして———は目覚め ここにいたのだ

  この寒々しい丘の上に




  『この子はね———の娘なんだ。
   今日はさ一緒に———の試合を見ようと思ってね。ほら、挨拶して。
   もー駄目だよ———ちゃん、そんな小さな声じゃ。大丈夫、怖くないよ!
   この人はね、アタシのプロデューサーなんだ。すっごく頼りになるんだから。
   ほら、プロデューサーも一緒に応援、応援っ♪』


 夢を見ていた。
プロデューサーとアイドルが、二人三脚で困難を乗り越える。そんな幸せな夢を。


 ゆっくりと意識を覚醒させる。
眼前に迫る純白の天使が、僕の首を絞めようとしていた——慌ててその手を振り払う。

  「きゃっ、申し訳ありません。随分とうなされておいででしたので」

 見知らぬ店員が、床に倒れていた。
その手には白いハンカチが握られている。きっと僕の汗を拭こうとしてくれていたのだろう。
突然の非礼を詫び、店員を抱き起す。

  「お返しなんていりません。
   ですが、どうしてもとおっしゃるならば……お話ししてくれませんか?」

 壁時計を確認する。ラストオーダーまではまだ幾ばくかの余裕があるようだ。
トークタイムを注文し、店員を椅子に座らせた。

  「今となりに行きますね♪」

なんだろう? 違和感がする。何か大切な事を忘れている様な……
呪詛はもう聞こえない。

  「Pさんは、どうして1人になってしまったんですか?」

 見知らぬ店員は、身を乗り出し僕の瞳を覗き込んでくる。
まただ、違和感が拭えない。体調が回復しきっていないのか?

 店員は憐憫の情を持って、僕を見つめていた。
ああ、この目だ。幸子はずっとこの目をしながら、アイドルを続けていた。

  「……」

 店員は辛抱強く、僕が口を開く事を待っている。
だから話した、僕の全てを。目線を合わせて逸らさずに。

  「まあ、なんて可哀想なPさん。そんなにも頑張られていただなんて。
   辛かったでしょう、苦しかったでしょう、寂しかったでしょう」

 店員は僕の懺悔の最中に、幾度もとりとめの無い事で笑い、幾度も些細な事で悲しんだ。
目まぐるしく変わる表情、なぜ彼女は他人の為にここまで笑い/悲しむ事が出来るのか?




 こうして僕の罪の告白は終わった。最後まで店員と目線を離す事は無く。
なんだ、こんなにも簡単な事だったのか。こんな事ならばもっと幸子と目線を合わせて話をしてあげればよかった。
だけど、もうそれは出来ない。僕の愛した幸子は僕の元を離れていった。

 「本当に愛していたんでしょうか?
  Pさんは、きっと幸子ちゃんみたいに成りたかったのだと思います」

 そうかもしれない。僕は幸子の強さに憧れていた。
だから学んだ、幸子の交渉術を。立派な社長になりたくて。
幸子が喜んでくれると信じて。
僕が強くなりさえすれば、不幸なアイドルは現れないと信じて。

  「泣いてもいいんですよ。一緒に泣いてあげますから」

 泣く? いったい誰の為に泣けばよいのか……
幸子の為? 勇気ある少女の為? 僕の担当したアイドルの為?

  「そうやって誰かの為に走り続けて、Pさんは泣く事を……
   自分が誰なのかも忘れてしまったんですね」

 何も分からない。
僕のそばには誰もいない。
もう、僕には何も残されてはいないのだから。

 「魔法を……かけますね♪
  だからもう、御自分を傷付ける事だけは辞めてください」

 店員はカップの中身を口に含み、僕へ口付た。
白、白、白、口内に広がるは白い真珠。勇気ある少女が流した涙の味。
優しさが込み上げてくる。

 「Pさんはアイドルを不幸にしてしまった事を、ずっと後悔されていたんですよね」

 プロデューサーになんてならなければよかった。そう思い続けていて……

 「Pさんは、立派なプロデューサーですよ。
  きっと覚えてなんて、いないのでしょうね。
  絶望に飲み込まれ、全てを諦めていた小さな女の子の事なんて」

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