ショタ「お兄ちゃんと年越しする」 (14)
マンションの扉が叩かれたのは、昼を少しばかり過ぎた頃だった。
タカシは無精ひげを生やしたやる気のない顔のままでノソノソと玄関へ向かうと、
相手を確めることなくその重たい鉄扉を押し開けたのだった。
「顔きったねぇ!」
開口一番にそう言ったのは隣に住まう夫婦の一人息子、ショウタである。
この寒いのに半ズボンとロンティだけの簡素な服装で、その手は寒さに震えることさえなく
蕎麦が入れられたザルをしっかりと持っている。
「お前な、いきなりそれはないだろ……」
こっちは久しぶりの休みで、怠惰に過ごすのもやはり久しぶりのこと。
起きたのがつい先ほどで、更に顔も洗っておらず、髭もあたっていないのは、
確かに褒められたことではなかったが、しかしタカシを責めることなど誰にもできないはずだ。
何せ休日は本当に久しぶりなのだ。
およそひと月の間、殆ど休みらしい休みがなく、それこそローキショーとやらが
いつ出てきてもおかしくないようなスケジュールでタカシは社に言われるがままに激務をこなしていたのだ。
「まぁいいや、顔洗おうよ。蕎麦持って来たし、あとで一緒に食べよう」
「ああそう。おばさんにお礼言わないと……」
蕎麦を受け取り、玄関からひょいと顔を出して隣の家を見遣るが、人の気配はしない。
あれ、と首を傾げれば「いないよ」とショウタは短く言った。
「は?」
「父ちゃんと喧嘩したから、出掛けてる。父ちゃんは仕事」
「ああ……」
ショウタはなんでもないことのように言うが、どうも隣の夫婦は不仲であるらしく、
こんな風にショウタを一人置いて互いの行きたい場所へと言ってしまうことは珍しくはなかった。
――もう慣れた。寂しくはない。
いつかそうショウタは言っていたが、まだ年端の行かぬ彼が親を恋しがらぬはずはないだろう。
タカシは片手の親指を立てて、部屋に入れと促した。
「じゃあ蕎麦を茹でたのは誰だよ」
「母ちゃん。茹でたあとに出てった」
ふうん、と短く返事をしつつ、タカシは少しばかり困っていた。
この後予定があるのだ。タカシもいい大人で、彼女の一人くらいいないわけではない。
年越し蕎麦を食べつつ除夜の鐘を聞くと言うお決まりのデートをする予定で、
彼女のミユキももうそのつもりで居るはずだ。
参ったな、と言う脳内の呟きは勿論ショウタに聞こえるはずがなく、彼はまるで自宅であるかのように
勝手にリビングへ向かい、タカシの座椅子に座ると
ちょうどその先にあったミユキ用の座布団には足を乗せて寛ぎ始めた。
「ショウター」
「なに?」
「蕎麦ありがとう」
「別にー。どうせろくなもの食べてないでしょ、だってさ。オマエが言うなよって感じ。
しょっちゅう家をあけちゃってなんにも作らないくせにさ」
子供っぽい語彙とは裏腹に、かなりトゲを覚える言葉をショウタは紡いだ。
視線は年末特番のテレビに向かっており、両親の不仲などものともせずに高い声でケラケラと笑っている。
タカシはショウタが不憫でならない。
多少図々しくても、急に泊まるとか言い出したとしても、或いは勝手に部屋を探ったとしても
つい許してしまうのは彼が不憫でならないからだ。
「ショウタ、ジュース飲むか?」
「いらなーい。やめろよ、おれ、子供じゃない」
キッチンから声を掛けると、そんな返事が返ってくる。インターホンも押せぬようなチビが
なにを言っているのだとおかしくなった。
そういえば、近頃のショウタは頻繁に『子供ではない』と主張する。そういう微妙な時期なのかもしれない。
「じゃあ紅茶でいいか?」
「えー? うん」
「砂糖は?」
「だから子供じゃないから」
ムッとしたような顔が振り返り、それから舌をベェっとみせる。どこからどうみても立派に子供だったが
タカシは反論をせず「そうだったな」と返事をしてみせた。
片手には紅茶、片手にはコーヒーを持ち、リビングへと戻る。
ショウタは相変わらず座椅子を陣取り、小さな爪が張り付いた足は、座布団を蹴りつつ、
しかしテレビには夢中になっていた。
『こちらの神社では初詣に来たカップルの先着100組にお雑煮を配るようですよ~』
アナウンサーの女性が楽しげな声をあげている。近所と言うわけではないが、そこは比較的近場の神社であった。
思わずへぇ、と言うと、ショウタが座椅子から上向き加減でタカシを見ていた。
「? なんだよ」
「彼女なんて居ないくせに」
小馬鹿にしくさったような顔で、ショウタはタカシを見ている。
「……彼女くらいいるっての。俺をいくつだと思ってんだ」
コーヒーをズズズッと啜りながら、タカシは答えた。
照れくさい気持ちがないわけではない。ミユキとは付き合い始めて半年になるが、
家に招いたことは一度としてなかったから、ショウタがその存在を知らぬのも無理はないだろう。
「え……」
ショウタは先ほどと変わらぬ姿勢で、しかし表情だけはぽかんとしたものに変えてタカシを見上げていた。
『見てください、人参がですね、ハート型に細工されているんですよー。可愛いですねー』
誰も聞いていないリビングに向かって、アナウンサーは楽しげな声でそう言った。
タカシに聞こえたのは『お雑煮』というワードだけで、そう言えばミユキは餅があまり好きではないようだから
わざわざこの神社へと赴く必要はないな、とタカシはぼんやりと考える。
「いつから?」
ショウタが尋ねる。
一応は考えるような素振りを見せたのちに、タカシは『半年前』と告げた。
家にミユキを招かなかったのには、理由があった。
ショウタの嫉妬が原因で、招くに招けぬのだ。
きっと両親にあまり構ってもらわず、寂しいのだろう。
ショウタは懐いているタカシに彼女ができると知るなり不機嫌になるということがたびたびあった。
と言っても頻繁に彼女が変わるわけではないから、
例えばタカシが同僚を招いて自宅で夕食だとか言うシーンでは、
タカシと仲がいいあるいは可愛がっている後輩たちに辛らつに当たり、場を白けさせたのだ。
「……おれ、知らない」
「うん、今はじめて言ったから」
座布団だって、今日ミユキが来ることを想定して初めて出したものだ。
タカシが髭面でいたから、よもや誰かがこの家に訪れると思いもしなかったのだろう。
ショウタの表情は徐々に険しくなり、そしてついにはその眉間にシワが寄るに至った。
「ショウタ?」
「おれに隠してたの?」
「隠してたっていうわけでは……」
その通りなのだが、肯定の返事をする気にはなれなかった。
「あのな、ショウタ。別に彼女ができても今まで通りに家に来てもいいし、問題はないだろ」
なだめるような言葉はショウタにはなんの慰めにもならないようで、未だ表情は渋いままだ。
「好きなの?」
「え? ああ、まぁ」
好きという感情はあとからついてくることが多い。
大人の世界は純粋に好きと言う気持ちだけで関係を結ぶものではないのだと言ったところで、
ショウタには理解しがたいものがあるだろう。
ミユキともそれなりに仲がよかったが、それは特別な感情ではなかった。
告白され、そして付き合ううちに彼女のことがそれなりに大切になり、それは愛情と言うものに
形を変えつつある。
今はまだそれではない。しかしタカシもいい年だ、いずれ本当に彼女を大事に思うようになり
そのまま結婚と言う道もあり得なくはないだろう。
「そうだな、好きだよ」
中間の説明の一切ははしょり、ショウタに告げると、その目はタカシを凝視してきた。
まるで瞳の奥にある脳みその、その中でやり取りされている感情の動きを読み取ろうとするかのように。
「ほら、そこどけよ」
「……うん」
開いた座椅子に尻を落ち着けると、ショウタの体温が残っていた。
「ほら、紅茶が冷める」
テーブルの上に置いたマグカップは、もう冷え始めていた。
正座でフローリングの上へと座ってしまったショウタに、タカシは逡巡ののち
ミユキ用の座布団を引っ張りショウタに渡した。
「ケツ痛くなんぞ。それ敷け」
「あ、うん……」
『今年一年を振り返る! 動物ニュース!!』
テレビでは、生まれたてのライオンの赤ん坊が飼育員に抱きかかえられ欠伸をしていた。
なんとなく凍りついた室内の温度とは異なる、明るい話題ばかりが流れていくが、
それらは全て右から左へと通り過ぎていく。
「そこ座る」
暫く見るともなしにニュースを見ていると、ショウタが唐突にそう告げた。
「あ?」
「おれ、そこに座りたい」
ショウタはタカシの足の合間を指差して言った。
「はぁ? お前さっき自分のこと大人だって、」
「いいじゃん別に」
なんだそれは。
そう思いつつも、部屋の雰囲気が変わったことにタカシは気づいていた。
ショウタの声は明るく、先ほどの責めるような様子は見られない。
ああよかった。タカシはショウタの唐突な要求は兎も角として、ホッと息を吐いたのだった。
年の瀬に不機嫌になられてたまらない。
ショウタはタカシの足の合間に納まると、「あれ、オッサン臭くない?」と言う酷い暴言を吐く。
「じゃあどけよ」
「やだ」
量がなかなか減らない紅茶を舐めるように飲みながら、ショウタは今日部屋に来た直後のように
明るい声を上げ笑っていた。
何事もなく今年が終わればいい。そうだ、最悪ショウタもデートに連れて行けばいい。
子供一人を放置するのは気が引けて、タカシはそんなことを散漫に思いながらテレビを見続けた。
「おしっこ」
一時間ほど経った頃だろうか、ショウタはそんなことを告げると立ち上がり、トイレへと消えていった。
ショウタが座り込んでいた足の間は座椅子がへこんでいた。
「うわっ!」
そんな声がトイレから聞こえてきたのは、タカシがショウタの帰りを遅く思い始めた頃だった。
「ショウタ?」
家の中でなにか命の危険があるとは思えなかったが、タカシは慌ててトイレへと向かった。
ユニットバスの扉を開けようと試みるが、そこは開かなかった。
「ショウタ?」
返事のない内部に向かって声を掛けるが、ショウタは返事もしない。
「おい、ショウタ?」
「あー……ごめん」
扉の向こうから、ショウタの落ち込んだような声がした。
「なんだよ、おい、開けろよ」
少しばかり苛立ちながら言うと、扉が開錠される音が響く。それとほとんど同時に扉を開けると、
そこにはずぶ濡れのショウタが立ちつくしていたのだった。
「……お前なに、どうしたの?」
「なんか蛇口に手が当たっちゃって」
どうも、勢いよく出した水が手の甲にあたり、出口を塞いでしまったようなのだ。
そして水はショウタと壁をめがけて飛び散ったというのが顛末のようだ。
昨日大慌てで済ませた大掃除の努力もむなしく、壁は水で濡れている。
そしてショウタはと言えば、上から下まで衣類は濡れそぼり、布地がぺたりと肌に張り付いてた。
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