P「……………………誰?」 春香「へ?」(249)
春香「プロデューサーさん!」
P「………………」
春香「よかった……本当に……。目が覚めたって聞いて慌てて飛んできちゃいましたよ……」
P「あの……」
春香「もう!心配させないでくださいよ!」
P「キミは……」
春香「人にはいつも『どんくさいなー春香は』とか笑うくせに、自分だって階段から落ちちゃって」」
P「……………………誰?」
春香「へ?」
春香「や、やだなぁ……。そういう冗談悪質ですよ?リボンの色が違うとかそういうの、もういいですからね?」
P「……………………」
春香「え……」
P「…………ゴメン、よくわからないんだ……」
春香「か、看護婦さん!」 バタバタ……
目が覚めるとそこは病室だった。
清潔なシーツと真っ白な壁が、陽光を返して少し眩しい。
いい天気のようだ。
窓から見える樹木が初夏だと教えてくれた。
ボクに分かるのはそれだけだった。
医者「頭部を打った際のショックかと思われます。一過性なのか、このまま続くのかは正直判断が付きかねますが……」
だからこんなセリフも他人事のようにしか思えなくて
P「はぁ……」
気の抜けた返事しか出来なかった。
漫画かドラマのようで、リアリティがまるでなかった。
春香「そんな……!」
彼女はボク以上にショックを受けているようだ。申し訳ない。
P「あの……ボクは……誰なんです?」
名前すら思い出せなかった。
頭のどこを探してもなにも見つからなかった。
ボクはなぜここにいるのだろう。ここはどこの病院なんだろう。今日はいつなんだろう。
…………どうすれば、彼女は泣き止んでくれるのだろうか。
春香「それでですね、プロデューサーさんはいつも……」
彼女の名前は天海春香。
ボクが担当プロデューサーを務めるアイドルだそうだ。
正直言うと信じられなかった。
ボクがプロデューサーだと言うことが、だ。
プロデューサーなる単語の意味がまずわからなかった。
なにをする仕事なのかもわからなかった。
春香「その時です!プロデューサーさんが走ってきて……」
一生懸命『ボク』との思い出を話す天海さんは、楽しそうで嬉しそうで悲しそうで寂しそうだった。
春香「ダメ……ですか?」
おずおずと尋ねられる。
出来ることなら全てを思い出して安心させてあげたかった。
P「うん……ごめんなさい……」
春香「え、えへへ……、大丈夫ですよ!お医者さんも言ってましたけど、きっとすぐに治りますよ!」
P「うん……そうだよね……」
強い子だと思った。
『ボク』は信頼されていたのだと思った。
彼女の為に思い出したい
そう思った。
それから日替わりでお見舞いが来るようになった。
『ボク』はどうやら複数のアイドルをプロデュースしていたようだ。
千早「花瓶の水……換えときましたから」
P「ありがとうございます」
千早「………………」
P「………………」
如月さんは……あまり喋らなかった。
僕も何を話していいのかわからなくて、ずっと黙っていた。
千早「…………早く帰ってきてくださいね……」
帰り際の一言で、嫌われているわけじゃないと分かった。
伊織「アンタもう体のほうはいいんでしょ?」
P「うん。退院はまだ先らしいけど」
水瀬さんは口は悪いけど色々気を使ってくれるいい子だった。
伊織「ホント鈍いわよね!階段から転がり落ちるなんて春香でもやったことないわよ!」
P「あはははは……」
怒られているのになぜか可笑しくて、笑ってしまった。
真「ずっとベッドに寝てると鈍っちゃいますよ。退院したら僕と一緒にジョギングでもしませんか?」
雪歩「私も走るのは苦手ですけど頑張りますぅ!」
菊地さんと萩原さんはとても仲がいいらしい。
微笑ましくて表情に出てしまった。
真「あっ……」
P「え?」
雪歩「やっと笑ってくれましたね」
いけないいけない。緊張しているのはボクだけじゃないのだ。
P「仲がいいんだね」
真「へへへ……、そうですね」
雪歩「765プロの人たちはみんな仲良しですけど、真ちゃんは一番のお友達だと思ってますぅ」
羨ましい。ボクには友達がいるのだろうか?
……やっぱり何も思い出せない。
仲良くじゃれあう少女たちはひどく遠い人に見えた。
ボクはあの輪の中に本当にいたのだろうか?
屋上に出ると真っ白なシーツがはためいていた。
青い空と白い雲とカラフルな町並みが見える。
やたらと目立つガラス張りのビルを見ていると、そう言えばボクの家はどこなんだろうか?と今更ながら思った。
家族はどうしているのだろうか。
一度も見舞いに来てはいない。
家族仲はあまりよろしくなさそうだ。
?「んっふっふ→だーれだ?」
後ろから抱きつかれて驚いた。
抱き疲れた位置と、声のトーンで子供だとわかった。
P「え……と……」
誰ですか?
言葉を飲み込む。それは禁句だ。
亜美「ブブー!時間切れだYO!正解は~亜美でした→!」
真美「真美もいました→!」
抱きついてきたのが亜美ちゃんで、少し離れて見ていたのが真美ちゃん。
覚えた。今度は忘れないようにしっかりと。
亜美「久しぶりだね→、覚えてた?」
真美「記憶喪失なんだから覚えてるわけないじゃ→ん!」
そんなやり取りに吹き出してしまった。
亜美ちゃんと真美ちゃんは双子だ。
髪型以外は見分けが付かないほどそっくりだった。
亜美「それは違うよ→!」
真美「うんうん。違う人間なんだから当たり前だよね→!」
亜美「前の兄ちゃんはちゃんと……あっ」
罰の悪そうな顔で俯いてしまった。
亜美「あの……」
P「ごめんごめん、出来るだけ早く見分けられるようにするよ。イタズラされたら堪らないからね」
真美「兄ちゃんイタズラされたこと……思い出したの?」
全然。でもこんなウソなら許して欲しい。
P「なんとなくだけどね。君達の顔を見てたらヒドイ目にあったような気が……」
亜美「んっふっふ→。だったらここでしてあげようか?」
P「それは許して」
やっぱり彼女達には笑顔のほうが良く似合う。
『ボク』は上手くやっていたようだ。
ボクにも上手く出来るのだろうか?
コンコン
ノックが聞こえた。読みかけの本にしおりを挿して返事をする。
P「どうぞ」
今日は誰が来るのだろうか。
毎日のお見舞いは、早々と退屈してしまった入院生活に必要な潤いだ。
今日もアイドルの誰かが来たのだろうと思っていた
高木「失礼するよ」
だからスーツの男性が入って来た時は、少し驚いた。
P「あの……」
『お父さんですか?』と、喉元まで出掛かった。
言わなくてよかった。
高木「すまないね。来るのが遅くなってしまった。なにぶん君がいないとウチは回らないものだから」
仕事の関係者のようだ。上司なのだろうか?
P「すいません」
高木「いやいや、責めに来たわけではないのだよ。君に頼りきりなところがあって私も反省している」
P「いえ、そんなことは……」
深々と頭を下げる男性を見て、慌てて否定した。知らないことで謝られても正直反応に困る。
高木さんは社長だった。軽い自己紹介から当たり障りのない会話が続いた。
高木「それで体のほうはどうかね?」
P「あ、はい。来週には退院できるそうです」
何度も聞かれたのでスラスラと出てくる。
高木「……家族のことは思い出したかね?」
P「………いえ………教えてください」
そうだ。ボクの家族はどうしているのだろうか?
高木「……数年前に亡くなっているそうだ。実家の方は遠縁の方が管理しておられるそうだ」
これはかなり効いた。いないのか、家族は。
P「そう……ですか……」
高木「…………私は社員もアイドルも等しく家族のように思っている。無論キミもだ」
P「ありがとうございます……」
さっきの高木さんに負けないくらい深々と頭を下げた。
高木「慌てることはない。ゆっくりと取り戻していけばいいさ」
P「はい」
高木さん……高木社長は、今後の予定などを話して帰っていった。
高木「携帯電話にも入っていると思うが」
電話番号を書いたメモを置いて。
一人の病室はひどく寒々しかった。
夜が早く終わるように、布団を頭からかぶって潜り込む。
廊下を歩く看護婦さんの足音が聞こえた。
カーテンが揺れる音が聞こえた。
呼吸の音と心臓の音が聞こえた。
睡魔の足音だけが聞こえてこなかった。
薄手のジャケットに袖を通す。糊がしっかりときいていた。
今日で退院だ。諸々のアメニティを返却すると荷物はとても少ない。
簡単に部屋を掃除して、看護婦さんたちにもお礼を言って回った。
秋月さんが清算をしている間ロビーの椅子に座ってテレビを見ていた。
小鳥「プロデューサーさん、何か飲みますか?」
P「えと……じゃあお茶で」
音無さんは事務職だそうだ。
ボクはてっきりアイドルの一人だと思って接していたのだが
小鳥「そ、そんな訳ないじゃないですか!私みたいなオバサンがアイドルだなんて!」
違ったらしい。
P「オバサンって年じゃないと思うけどなぁ……」
ボクよりは年上らしい。そういえば自分の誕生日も忘れていた。
ロビーは入院棟よりもザワついて賑やかだ。
新しい生活を連想させて落ち着かない。
ボクは外でも上手くやっていけるのだろうか。
小鳥「はい、どうぞ」
P「ありがとうございます」
お礼を言って受け取る。なぜかホットだった。
どうして皆はボクに親切なのだろうか。
『ボク』はそんなにいい人だったのだろうか?
音無さんと秋月さんは家まで送ってくれた後、掃除・炊事に洗濯までしてくれた。
P「だ、大丈夫ですから!いいですから!自分でやります!」
律子「そうは言ってもこれを見てしまっては……」
部屋はかなり荒れていた。
コンビニ弁当の容器がゴミ箱から溢れ、脱ぎ散らかした服が見苦しい。
シンクには洗っていないグラスばかりがあった。
『ボク』の自活スキルは相当低かったようだ。
小鳥「そうですよ、プロデューサーさんは病み上がりなんですから」
怪我の時も病み上がりというのだろうか。
手際よく綺麗になっていく部屋を呆然と見ながら思った。
小鳥「じゃあ帰りますけど、何かあったら遠慮せずに連絡してくださいね」
律子「せっかく退院したのに体調を崩されてはたまりませんからね」
乾いた笑いで見送った。
二人を乗せたタクシーが見えなくなるまで。
見違えるほど整頓された部屋は、居心地がよく、落ち着かなかった。
コレと言ってすることもなくなったので、部屋を見て回る。
標準的なワンルームだ。
たいして見るものも無くすぐに終わった。
『ボク』は無趣味なようだ。
一冊の本もない部屋は、『ボク』がどんな人間だったか少しも教えてくれない。
CDラックには彼女達のCDだけがあった。
P「うーん……」
なんとなく手に取ることに抵抗がある。
勝手に触れてしまっていいのだろうか?
知らない人の部屋みたいで遠慮してしまう。
結局CDは諦めてテレビを見ることにした。
P「あ……」
春香ちゃんだ。
聞いてはいたが、こうしてテレビで見ると凄く不思議だった。
P「本当にアイドルなんだ……」
『ボク』もあの煌びやかな世界で一翼を担っていた、らしい。
俄かには信じられなかった。
P「ボクにも出来るのかな……」
ポツリと弱音が漏れてしまった。早く寝よう。
社長は「いつでもいい」と言ってくれたけど、部屋に一人でいるのは思ったより気が滅入る。
退屈だったというのもあるし、落ち着かなかったことも理由だ。
とにかくボクは地図を片手に765プロを探して歩いていた。
おのぼりさんの様で気恥ずかしい。
キョロキョロしながら歩いているとドンドン追い抜かされていった。
美希「ハニー?」
大通りに面しているので見落とさないとは思うけど……。
美希「ハニー!会いたかったの!」
P「うわわわっ!?」
後ろから飛びつかれた。
ふわっといい匂いがする。
P「だだだだだだ誰!?」
美希「ミキだよ!ハニー久しぶりなの!」
星井美希ちゃんだった。預かったリストで見た記憶がある。
P「ほ、星井さん?」
中学生とは思えない容姿に、長い金髪が拍車をかける。
胸が高鳴っているのは驚いただけ……だと思う。うん。
美希「星井さんじゃないの!」
彼女はつい先日までミュージカルで全国を回っていたらしい。
おかげで実際に顔を合わせたのは今日が初めてだ。
765プロに着くまでに呼称を3回注意された。
腕に抱きかれたまま歩くのは、悪い気はしないが恥ずかしい。
P「み、美希ちゃん、その……歩きにくいから離れてくれない?」
美希「ミ・キ」
滑舌良く返された。
美希「ちゃんとミキって呼んでくれないとイヤ!」
P「じゃ、じゃあ美希……、ちょっと離れてください……」
気圧されて敬語になってしまった。
『ボク』は彼女とどういう関係なんだ?
アイドルと担当プロデューサーと言うだけにしては距離が近すぎるように思えた。
美希「ハニーってば本当に美希のこと忘れちゃったんだね」
P「う……ごめんなさい……」
美希「あはっ!いいよ!でも早く思い出してね!」
眩しいほどの笑顔だ。
まさにアイドルを体現した少女だった。
美希「ここだよ」
P「あ、ありがとう」
765プロはあれだけメディアに露出しているというのに、質素な賃貸ビルに入っていた。
故障したままだと言うエレベーターを回避して、階段で最上階まで歩く。
一気に歩いたというのに呼吸一つ乱れなかったのは、この体がココになじんでいる証左だろう。
その事実に少しだけ励まされる。
一度だけボクを見て美希が微笑んだ。
美希「ハニーが来たよ!」
ドアを開け大きな声でボクの到着を知らせる。
この狭い事務所のどこにいたのか。
そう思わせるほどの人が集まってきた。
春香「プロデューサーさん!もう来ても大丈夫なんですか!?」
P「うん、部屋に一人でいても退屈でね」
矢継ぎ早に飛んでくる質問に答えながら、ボクは事務所を見回した。
予定の書かれたホワイトボード、くたびれたソファ、乱雑に散らかったデスクはボクのだろうか?
律子「はいはい!アンタ達あんまり困らせないの!」
秋月さんの声にアイドル達は不平を漏らしながら、散っていった。
P「ありがとう、秋月さん」
律子「……秋月さん、ですか」
あ
P「……違ったかな……?」
名前を覚え違ってしまったのだろうか。
律子「いえ……確かに私は秋月律子ですが……」
P「よかった。間違えたかと思ったよ」
律子「『律子』と呼び捨てでお願いします」
P「え?それは……」
まずくないだろうか。後輩の女の子を下の名前で呼び捨てるなんて。
律子「無理にとは言いませんが、前と同じにすることで何か思い出すかもしれませんよ?
あ、それと小鳥さんとあずささん以外は名前を呼び捨てでしたので。」
ちょっと想像してみた。
職場の女の子の名前を、やたらと呼び捨てにする男。
……あまり良いイメージは湧かなかった。
具体的には赤ら顔のスケベなおっさんだ。
こういう仕事では普通なのだろうか?
散らかったデスクは音無さんのものだった。
ボクは『ボク』のデスクに座ってみる。
違和感も既視感もなかった。
何の感慨もなく引き出しを開けると、丁寧に整理された書類がギッチリ詰まっていた。
アイドルのプロフィールから始まり、得意なジャンル、関係者の連絡先、余白が見えないくらいに詰まったスケジュールなどなど。
パソコンの電源を入れると同じ内容が綺麗にフォルダ分けされて、わかりやすく整頓されていた。
P「すごいな……」
小鳥「ふふふ……私とおんなじですね。仕事だけは几帳面で」
小鳥さんがお茶を入れてくれた。
P「ありがとうございます……コレを一人で?」
小鳥「はい、プロデューサーさんはウチのほとんどのアイドルを一人で見てましたから」
一人一人の特徴を良く捉えた考察が、あちらこちらにまとめられて、
『ボク』がいかに情熱的に仕事に取り組んでいたかが読み取れた。
P「ふぅ…………」
溜息が知らず漏れた。
本当にこれだけのことを一人でこなしてきたのだろうか?
超人的な量だ。
……いや、そうでもなければ彼女たちがここまで慕ってくれる理由が説明できない。
やるしかないのか。
頭を抱えながら、『ボク』が秋月さんに渡したという研修用マニュアルに目を通した
ファイルは分厚く、重かった。
結局マニュアルといくつかの書類を持ち帰ることにした。
趣味がないんじゃなくて時間が取れなかったんだな、と今ならわかる。
9人のアイドルを同時にプロデュースして、結果を出す。
口で言うほど簡単ではないのは自明だった。
頭を掻き、メモを取りながら読み進める。
自分が書いたはずなのにまるで頭に入らないトコロもあった。
前提として知識が足りない。
ボクにはおよそ一般常識と呼ばれる以外の知識がまったく欠けていた。
集中して、検索して、暗記して、呟きながら手を動かした。
検索履歴は雑多な単語で埋め尽くされていった。
書きなぐったメモが机の上に散らかる。
日付も変わり一息ついたころ、ようやく空腹に気がついた。
コンビニの場所を知らないことに気がついたのは外に出てからだった。
朝が来て夜が来る。
ボクは必死でファイルに食らいついていた。
こんなに必死になる理由が自分でも分からなかった。
ただ早くしなければと、そう思った。
ともあれ丸二日を費やして、付け焼刃ながら職場に復帰できそうだ。
日の落ちかかった街には夕餉の匂いが漂い始めている。
猛勉強で軽くふらつく頭を抱えながら、買い物に行った。
コンビニ弁当とお茶をぶら下げながら歩いていると
春香「あ、プロデューサーさん……」
P「春香ちゃん?」
ばったりと会った。彼女の家はこの近くだったっけ?
P「奇遇だね、帰る途中なの?」
春香「え、あ、はい。そんなところで」
春香「………………」
P「どうかしたの?用事でもあったのかな?」
春香「いえ!なんでもないです!」
そう言うと彼女は走っていってしまった。
と、思ったら転んだ。
春香「いたたた……」
P「だ、大丈夫!?怪我してない!?」
春香「は、はい……、いつものことですから……」
P「いつも?そんなに?」
ジッと顔を見られた。
春香「そんなことまで……忘れちゃったんですね……」
P「ゴメンね……」
目が覚めてからボクは毎日謝りっぱなしだ。心底すまないと思っている。
春香「なーんてね!いいですよーだ!」
P「へ?」
春香「プロデューサーさんはイジワルだからいつも私が転ぶとからかって来るんです!
だから……今のプロデューサーさんのほうが優しくて私は好きですよ!」
P「………………」
ウソが下手な子だった。本気で騙したいのならその寂しそうな笑顔は止めたほうがいい。
春香「?………………!!」
春香「ち、違いますよ!?好きってそういう好きじゃなくて!」
何も言ってないのにワタワタ手を振りながら弁明してきた。
P「あははは、別に優しくもないと思うけど?」
春香「いえ……優しいですよ。プロデューサーさんはプロデューサーさんですから……」
P「そうかな……、わかんないや」
春香「いいんです!私がちゃーんと覚えていますから!」
春香「だから……早く思い出してくださいね?」
責任を感じながら重々しく頷いた。
P「頑張ります」
春香「期待してるよキミィ」
明るく元気で前向きな、そんな春香ちゃんは似合わない高笑いをしながら帰って行った。
職場に復帰してからの毎日は目まぐるしかった。
prrrr
P「はい765プロです!」
マニュアルを暗記したとは言え所詮は付け焼刃だ。
一つ一つ手探りで仕事をこなしていく。
記憶喪失だろうがなんだろうが、向こうが765プロに求めてくるモノに変わりはない。
気を張り続けながら業務をこなした。
P「あ、はい!……すいません、一度相談してからまた折り返し連絡を入れさせていただいてもよろしいでしょうか?」
たどたどしい敬語で受け答えする。
この案件は今のボクでは判断が難しい。
『ボク』ならばどう判断するのだろうか?
音無さんに相談しながら思った。
デイレクター「いやー聞いたよ?記憶喪失なんだって?」
初対面の人間から親しげに声をかけられるのは、何度繰り返しても慣れることはない。
P「はい、ご迷惑をおかけするとは思いますが……」
D「良いって良いって!かしこまらなくてもさ!Pちゃんなら大丈夫だからさ!」
なにがどう大丈夫なのかまったく分からないまま、頭を下げた。
プロデューサーというのは所詮裏方である。
アイドルが良ければそれでいい。
そう思っていた時期がボクにもありました。
浅はかだった。
出演する番組ひとつとっても今後の展開に大きく関わってくる。
こっちの番組のほうが大きいからコレで、とはいかない。
これまでの付き合いを蔑ろにすれば、すぐに干されてしまうそうだ。
無論それだけでもダメなのだが。
人情とコネと長期的展望と実力を秤にかけて慎重に選択する。
経験がものを言う世界でレベル1のボクは、毎日唸りながら業務をこなしていた。
幸いなことにアイドルを含めたスタッフは皆優秀で、大変助かった。
小鳥「あ、その日はラジオの収録があるんで午後は塞がっていますよ」
P「え、あ、ホントだ」
律子「クライアントの意向を考えると、代理でも問題なさそうですね。真美に任せてみてはどうでしょう?」
こんな調子だ。
スケジュール調整やPVの作成、体調管理等々やるべきことは山積みだった。
P「コレに加えて営業まであったんですか?」
小鳥「ええ、初めてお仕事を取ってきたときのプロデューサーさんは凄く嬉しそうでしたよ」
『ボク』の仕事振りには頭が下がる。
こういうのも自画自賛というのだろうか?
仕事を覚えるたびに『ボク』が遠く感じる。
果たして追いつけるのだろうか?
春香「プロデューサーさん、お疲れ様です」
P「春香ちゃん、お疲れさま。今日も頑張ったね」
春香「春香『ちゃん』ですか……」
P「は、春香……のほうが良かった?」
春香「はい!そのほうが私は嬉しいです!」
P「なんだか抵抗があるな……。ねえ『ボク』はどんな人だったの?」
春香「へ?……そうですね、変な人で不器用で……一生懸命な人ですよ?」
P「変な人だったんだ」
春香「はい、よくおかしなことを言って律子さんや伊織に怒られてました」
P「ふーん……。仕事は出来る人だったの?」
春香「出来る人ではありましたけど、ミスも多かったです。私が言うのもなんですけど」
P「そうなんだ」
春香「ええ。ふふ……なんだか可笑しいですね、プロデューサーさんのことをプロデューサーさんが聞くなんて」
ドキッとした。
ボクを透して彼女は『ボク』を見ているようで、冷たいものが背中に走った。
P「あははは……そうだよね、変だよね」
退院後も定期的に病院に通った。
脳に外傷はないそうだが検診を受けるに越したことは無い。
後遺症が出てからでは遅いのだ。
医者「いきなり気分が悪くなったりしませんか?」
P「いえ、ないです。生活に支障が出たりとかはありません」
医者「そうですか、CTにも異常はありませんし今後問題が起きる可能性は低いでしょう」
P「あの……」
医者「はい?」
一番気になっていることを聞いた。
P「記憶が全然戻らないんですが……これは治るんでしょうか?」
医者は溜息をついてメガネの位置を直した。
医者「大変申し上げにくいのですが、記憶障害というのはまだ分かっていないことが多いんです。
完治するケースはむしろ稀で、何らかの欠損を抱えたまま……と言うほうが多いくらいで……。
前触れ無く記憶が戻る症例もありますが、大抵は3ヶ月前後までの話です。それ以上戻らないときは……」
P「そう……ですか」
彼女達の期待を裏切ってしまう事に後ろめたさを覚えた。
知らないボクにならないで済むかもしれないと、少し安堵した。
目が覚めてからもう2ヶ月が経過していた。
病院から戻り、事務所に続く階段を上っていると屋上から音が聞こえた。
気になって足を運ぶと、春香ちゃんと美希ちゃんがなにやら話していた。
年頃の少女たちなら内緒で話したいこともあるだろう。
静かに立ち去ろうとした瞬間、風に乗って美希ちゃんの声が届いた。
美希「春香は楽しそうだよね、ハニーがあんな風になったのに」
剣呑な声音に足がピタリと止まる。
春香「そんなことは……」
美希「ハニーの記憶が戻ってこなくても良いって思ってるの?」
春香「そ、そんなことはないよ!私だって……」
美希「でも楽しそうなの。ミキには無理。あの人は違うもん」
音を立てて血の気が引くのが分かった。
美希「ミキは前のハニーが帰ってくるって信じてるから、あの人とはあまり仲良くしたくないの」
春香「で、でもそれはなんか違わない?」
美希「違わないよ……。だってあの人はハニーじゃないから」
美希「ハニーはあんなに自信なさげじゃないの。ミキ達の事をすごく良く見てくれてたの。
あの人は自分のことしか見ていない。それに記憶がなくても良いって思ってる。だから違う人」
春香「あの人だって頑張ってるよ!」
限界だった。
手摺りに捕まりながらトイレを目指す。
個室に入り便器を抱え込むようにして吐いた。
完全に拒絶されたショックと自己嫌悪で、嘔吐感が止まらなかった。。
図星だった。
美希ちゃんの言うことは全て正しい。
事実ボクは記憶が戻らなくてもいいと思い始めていたから。
そういえば美希ちゃんがボクにくっついて来たのはほんの数日だけだ。
それも当然だ。ボクは彼女のハニーではないのだから。
聡い彼女の事だ、すぐに気づいたのだろう。
吐瀉物は胃液だけになり、血液まで出てきそうだった。
どのくらいそうしていただろうか。
洗面所で顔を洗って鏡を見ると、見慣れない男が青白い顔をしていた。
……演じなければならない。
ボクは求められてはいないのだ。
彼女達の知る『プロデューサー』でなければ、ボクはここにいられない。
選択肢は無かった。
ココより他に僕がいられそうな場所は無いから。
二人の「あの人」という言葉がいつまでも胸に刺さったままだった。
ゴハン食べてきます
いきなり「思い出しました」と言うのは無理がある。
不自然になってはいけない。
失敗は許されないのだから。
P「俺の湯のみ知りませんか?」
小鳥「さっき洗っておきましたよ」
P「ありがとうございます、小鳥さん」
小鳥「…………?」
少しずつ少しずつ。
記憶が戻ってきているフリをする。
あずさ「それで~、プロデューサーさんは持ってくる衣装を間違えちゃって~」
P「あはははは、そんなこともありましたよね」
会話を引き出し、記録し、記憶した。
P「それで……なんだっけ、ここまで出てきてるんだけど……」
亜美「お姫ちんがお茶菓子食べちゃった時の話?」
P「そうそれそれ」
神経をすり減らしながらエピソードを蓄える。
崖っぷちでダンスをしている気分だった。
家に帰ってから、ボイスレコーダーを取り出して記憶しなおす。
ボロが出ないように、自然なやり取りをイメージしながら。
『ボク』が雑記を残していたのは大きかった。
P「おはよー、なんだ伊織。妙に機嫌がよさそうじゃないか」
伊織「別にそんなことは無いわよ?アンタの目が腐ってるんじゃないの?」
P「朝から絶好調だな」
やり取りを反芻しながらデスクに着いた。
うん、おかしなところは無さそうだ。
小鳥「おはようございます、プロデューサーさん」
P「おはようございます小鳥さん」
小鳥「伊織ちゃん機嫌よさそうでしたよね」
P「ええ、何かあったんですか?」
小鳥「……以前はあんな感じでしたよ?プロデューサーさんが元に戻ってきたのが嬉しいんでしょうね」
P「な、なんか照れますね……」
小鳥「ふふふふ……、もう忘れちゃダメですよ?」
P「ええ、それはもちろん」
バレてはいないようだ。
練習無しのぶっつけ本番が繰り返される。
シナリオはなく、全てアドリブだ。
響「プロデューサー、お昼はどうするんだ?」
P「あー……なんでもいいよ。お前らが食べたいもんでいいぞ」
貴音「でしたら私はらぁめんが……」
P「またか……」
響「まただぞ……」
テンションはやや高めで、適度にいい加減にするのがコツだ。
P「どっちでもいいんじゃないの?」
律子「ダメです!ちゃんと考えてください!」
P「いおりぃ~律子がいじめる~」
伊織「なにやってんのよ、バッカじゃないの?」
無論仕事は全力だ。
P「はい、そのプランでお願いします。予定は14日ですね、よろしくお願いします」
風呂上りに計ると、体重が4kg落ちていた。
春香「……プロデューサーさん痩せました?」
P「ん?あぁダイエットしてみた」
あずさ「プロデューサーさんは別に太ってないと思いますけど……」
春香「頬がこけちゃってますよ?大丈夫なんですか?」
この流れはマズイ。だから軽口で切り替えした。
P「それが見えないところについちゃって、脱ぐと凄いんですよ俺」
あずさ「あらあら~」
空気が弛緩したのが分かる。
演じ始めてから敏感になったものだ。
春香「………………」
だから春香ちゃんが、訝しげな目をしていたのにも気がついていた。
P「大丈夫だって、メシは食ってる」
春香「それならいいんですけど。無理はしないでくださいね?」
P「あぁ、わかってる」
美希はこちらをチラチラと見ていた。彼女を欺くにはもう少し時間がかかりそうだ。
P「なぁやよい、美希はどうしてる?」
やよい「美希さんですか?おにぎりが食べたいって出かけていきましたけど……」
P「む、またか」
やよい「あ、でもでも!美希さん今日はレッスンでたくさん動いてたからっ!」
P「あー、違う違う。別に怒ってるわけじゃないよ」
やよい「そ、そうなんですか……よかった……」
P「やよいは優しいなぁ」
やよい「え?えへへ……なんか照れちゃいますね」
P「あのさ、俺はどう?その……変なこと言ってない?」
危険な質問だが現状の把握をしたかった。
やよいちゃんなら誤魔化せると言う打算もあった。
やよい「変、ですか?そうですねぇ……」
P「うん、なんでもいいんだけど……」
やよい「強いて言うなら今の質問ですかねー、プロデューサーが変なこと言うのはいつもですけど。なんちゃって、えへへ」
P「言うようになったなぁ」
これならいけるかもしれないと、人形のように笑いながら思った。
退院してからちょうど4ヶ月が経った。
ボクは少しだけ冒険をしてみることにした。
P「美希、ちょっといいか?」
美希「はい、なの」
P「最近大人しいけど、どうした?いや良いことなんだけどな……」
美希「…………どうしてそんなこと聞くの?」
P「あんまり構ってくれないからさ、なんだか寂しくなっちゃって」
美希「うん……」
P「また前みたいに遊びに行くか?観覧車好きだったろ」
美希「………………!思い……だしたの……?」
P「まだ全部じゃないけどな、そのうちに……うわっ!」
美希「お帰りなさいなの!ハニー!」
胸に飛び込んできた美希を受け止めた。
あの日はたしかに胸が高鳴ったのに、
今は罪悪感しか感じなかった。
その日は一日中美希ちゃんがくっ付いて離れなかった。
表面上は上手く行っているように見えた。
仕事は順調で、アイドルたちの笑顔も明るい。
真美「兄ちゃん兄ちゃん!コレ見てよ!」
P「まーたイタズラか、ほどほどにしろよ?」
亜美「と、油断させて~、とりゃあっ!」
ボクは俳優の素質があるのかもしれない。
彼女たちは微塵も疑っていないようだ。
緊張でこっそり戻すことも減ってきた。
体重はやや回復した。
夜眠れないことだけが変わらなかった。
布団に入り、浅い眠りでまどろんでいるといつも同じ夢を見る。
以前は、『ボク』が帰って来て追い出される夢だった。
今は「嘘つき」と罵られて、やっぱり追い出される夢だ。
寝汗でパジャマがぐっしょりと濡れていた。
P「うん……頑張ろう……」
汗を拭きながら呟いた。
久しぶりの休日は午前中を勉強に費やした。
しつこい残暑に汗が止まらない。
気分転換に外に出ることにした。
行き先は決めていない。
財布と携帯をポケットに入れて歩き出した。
適当に近場を歩いて遅いブランチ。
若干の無理をしながらソバを啜っていると、携帯が震えた。
小声で携帯に出ると、懇意にしている局のディレクターからだった。
3日後に予定されている生放送で欠員が出そうとのこと。
P「出先なんで事務所に戻ってから折り返してもいいですか?」
D「全然いいよ、ゴメンねPちゃん。無理言っちゃって」
P「Dさんなら構いませんよ。今後ともよろしくお願いします」
受け答えにも慣れたものだ。
心の内で謝罪をしてソバを残し店を出た。
事務所は誰もいなかった。
幸い鍵は持ち歩いていたので、問題はなかったけど。
資料を出し、ホワイトボードで直近のスケジュールを確認する。
うん、コレなら問題ない。
折り返し連絡を入れて、飲みの誘いを丁重に断り、ソファに腰掛けた。
事務所は暑く、体力を奪われるようだったが、エアコンをつける気にはならなかった。
P「ちょっと……疲れちゃったな……」
知らず本音が漏れた。
慌てて口を塞ぐ。
誰もいないのにひどく狼狽してしまった。
無人なのを思い出し、安心すると力が抜けた。
コチコチコチコチ……
時計の音を聞きながら
いつのまにか意識を失ってしまった。
P「ん……ん?」
?「起きました?」
ビクリと反応して、一瞬で起き上がる。
寝起きはいいほうなのだ。
春香「わ……プロデューサーさん寝起きいいんですね」
P「は、春香ちゃん!?」
やってしまった。
一度出てしまった言葉が戻ることはない。
アレだけ気をつけていたのに。
目の前が暗くなった。
春香「……はい、春香ちゃんでした~!」
あれ?
春香「プロデューサーさん、いくらなんでもこんなに暑いのに昼寝してたら熱中症になりますよ?」
P「あ、うん。ごめ……悪い」
シドロモドロになってしまった。
だけど春香ちゃんは深く追求しては来なかった。
春香「でもまぁしょうがないですよね、プロデューサーさん疲れてたみたいですし」
P「さ、最近暑いからな。俺の家のエアコン、利きが悪くてさ……」
後頭部に熱が残っていた。
ひょっとして膝枕なのか?
あの伝説の?
P「あの……もしかして……」
春香「はい?」
P「いや……なんでもない」
春香「なんですかー、膝枕してあげてたのにお礼くらい言っても罰は当たりませんよ!」
都市伝説じゃなかったのか……。
P「あ、ありがとう……じゃなくて、なんでだ春香?」
アイドルとプロデューサーとしての適度な距離を保っていたはずだ。
昼寝中に膝枕をされるほど親密になった覚えはない。
春香「理由……知りたいんですか?」
P「………………?」
その時の春香ちゃんの表情は非常に説明しづらいものだった。
強いて言うなら、記憶が戻らないと告げた時の医者に似ていた。
春香「………………」
ボクが返答をしないから彼女は黙ってしまった。
P「そうだな……よかったら教えてくれないか?」
そう促すと
春香「屋上に行きましょうか?」
誘われた。
日の落ちかけた屋上は、蓄えた熱を徐々に失いつつあった。
ビル風が排気ガスの匂いと交じり合い、快と不快を同時に運んできた。
どうして屋上なのかは怖くて聞けなかった。
春香「プロデューサーさんは……すごく疲れているみたいでしたから……」
P「そりゃあ……まぁ……」
否定はしない。
普通に疲れてもおかしくない程度の業務はこなしたつもりだ。
P「でも、それで膝枕ってのは……」
春香「どうして泣いてるんですか?」
P「へ?」
春香「どうしていつも……泣いているんですか?」
泣いてはいない。
涙など一粒もこぼれていない。
泣き声をあげたこともない。
P「……泣いてなんかないぞ?」
春香「ウソです、今もずっと泣いてます」
何を言っているんだろうか。
春香「私……ずっと見てたから分かるんです」
P「…………なにが?」
春香「プロデューサーさん、記憶、戻ってないでしょ?」
動揺は心臓だけに留めた。
表情筋を全力で自制する。
P「そりゃ全部とは言わないけどさ」
春香「一つも戻ってませんよね?」
今度は自制できた自信がない。
彼女の目は確信している。
ボクが偽者だと見抜いていた。
だけど、なぜか
糾弾しているようには見えなかった。
P「いつから……?」
これ以上のウソは彼女への侮辱だ。
春香「最初からです。プロデューサーさんが『俺』って言い出したころから」
完全に参った。ボクには俳優の才能などこれっぽっちもなかったのだ。
P「そっか……割と上手く演技出来てたと思ったんだけどね」
春香「そうですね、だって美希まで、その……引っかかってましたから」
騙されたとは言わないでくれた。
P「ごめんなさい」
ボクの言葉で謝った。
春香「ふふふ……いいですよ、別に怒ってませんし」
P「え?」
春香「怒ってないって言ったんです。ダメですよ?ちゃんと聞いてないと」
P「あ、うん……」
どうして彼女はこんなにも強いのだろうか。
怒り狂ってもおかしくないはずなのに。
泣き喚いても不思議じゃないはずなのに。
P「あの……怒ってないって言うのは……」
春香「……さっきも言いましたけど泣いてましたから。私そんな人を怒れるほど冷たくないですよ?」
P「いや……だから泣いてなんか……」
春香「あのですね」
人差し指をピンと立てて告げてくる。
春香「涙が出なくても、声を出さなくても、人は泣けるんです。
……思い込みかもしれませんけど……、
……私にはプロデューサーさんが一人でずっと泣いているように見えました。」
P「そう……そうなんだ……」
たしかに瞳が濡れた事も、哀切に叫んだこともないけれども。
それでも、ボクは泣いていたのかもしれない。
春香「私がわからないのは、どうしてそこまで頑張れるのか、ってことなんです。
記憶がないのに戻ったフリをして……お仕事を覚えなおして、私達のことも。
本当ならもっと慌てたり、誰かに頼ったりするんじゃないんですか?」
それは
P「……………………」
春香「教えてもらえませんか?」
努力の理由など利己的にすぎて吐露し辛い。
それでも誰かに縋りたかったのだろう。
溜まった思いをぶちまける。
P「ボクは……空っぽだから」
春香「………………」
P「昔の『ボク』でないとここにはいられないと、そう思ったから……それだけだよ。
ごめんね、出来ることなら君達の『プロデューサーさん』を返してあげたいんだけど……」
いつ戻るかわからない記憶に怯えたのは事実だ。
だけど今の言葉はすべて真実だ。
他ならぬ自分自身が一番、過去の自分に戻ってきて欲しいと願っている。
ボクはニセモノだから。
春香「えへへ……なーんだ。やっぱりプロデューサーさんはプロデューサーさんじゃないですか」
P「はい?」
春香「私の知ってるプロデューサーさんは、すごく頑張りやさんで優しいんです」
P「ボクは……そんなんじゃない」
春香「みんなを悲しませたくなかったのもありますよね?」
P「それは……」
あるけども。でもそれは本当にオマケみたいなものだ。
春香「自分が一番不安なのに、それを隠して一人で抱え込んで……やっぱりプロデューサーさんは私の知ってる通りです」
春香「変なところで気を使って、不器用で、努力家で、優しい、ほらね?」
そうなのだろうか。わからないけど違う気がする。
P「でも……」
春香「あーもー!何をウジウジ言ってるんですか!」
P「あ、ご、ごめ……」
春香「私いまのプロデューサーさんに一つだけ我慢できないことがあるんです!
もっと胸を張ってください!そんなことじゃ私達だって不安になります!」
P「ゴメ……、あ、あぁ、わかったよ」
春香「これからもプロデュースしてもらうんですから、シャンとしてくだいね!」
P「……これからも?」
春香「もちろん765プロのプロデューサーとしてですよ」
P「だ、だってボクは……」
春香「……私も協力しますし、どうしても耐えられなくなったら、全部話しちゃってもいいです。
でも……いなくなるのだけは止めてください、お願いします。」
P「……どうしてそこまで?」
ボクは『プロデューサーさん』じゃないのに。
春香「……自分のことをずっと応援してくれる人がいて、その人が誰にも相談できずに苦しんでいます。
その人は、たくさん頑張って、一人で抱え込んで、自分が泣いてることも気がつかないくらいに困ってて……」
P「………………」
春香「そんな人を応援したいと思うのは……そんなに変ですか?」
春香「傍にいて一緒に頑張りたいと思うのはおかしいですか?」
記憶の積み重ねで人格が決まるというのなら、ボクはまだ生まれたての赤ん坊みたいなものなのだろう。
だからこれはきっと産声なのだ。
P「うぅ……ぐっ……く……」
声を殺して涙は見えないように。
でもたしかにボクは生まれて初めて泣いていた。
感情がうねり制御できないまま、ボクは春香ちゃんに抱きしめられた。
身長差のせいで若干不恰好ではあったけども。
春香「私、頑張ってる人が認められないなんてイヤです。
傲慢かもしれませんけど……プロデューサーさんのことはわかってあげたいんです」
P「ありが……とう」
鼻声がみっともない。
締まらない幕切れだった。
家に帰ると糸が切れるように布団に倒れこんだ。
こんなにも落ち着いた気持ちで眠りについたのは初めてかもしれない。
深い深い眠りの中で、夢を見た。
夢の中のボクは、野外ホールをじっと見ている女の子に声をかけている。
?「あ~あ~、ドレミレド~♪ ちょっと音程ずれたかな。もう一回!」
女の子は真剣に練習していて、歌に対する真摯な気持ちが伝わってくるようだ。
?「うーん……なんかこの靴歩きにくいなぁ……。あぁっ、私スリッパで出てきちゃった!」
昔からドジだったんだ。思わず笑いがこみ上げてしまう。
?「えっ、だ、誰っ?……あなたはさっき事務所であった……」
見覚えがないのにひどく懐かしい。
?「と、ところであなたは誰なんですか?」
ボクは……
P「君の担当プロデューサーだ」
そうだ、ボクはプロデューサーだ。
?「私、ドジでおっちょこちょいですけど、がんばります!」
春香「天海春香と言います!よろしくお願いしますね!プロデューサーさん!」
その言葉を聞いて、俺は目を覚ました。
小鳥「今日は冷えますね。みんな風邪を引かなければいいんですけど……」
伊織「アイツまだ来てないの?最近まただらしなくなってない?」
小鳥「一時期は根を詰めすぎてるようだったから、ちょうどいいんじゃないかしら」
伊織「……それはサボり仲間がいないと、小鳥だけ怒られるからでしょ?」
小鳥「そ、そんなことは……」
P「おはようございまーす」
小鳥「おはようございます。……あら?寝癖がついてますよ、うふふふ……」
P「え”、ホントですか?今朝は慌しかったからなぁ……」
春香「……プロデューサーさん?」
P「ん、春香か。おはよー」
春香「お、おはようございます……」
P「どうした、なんか間の抜けた顔しちゃって」
春香「!」
P「?……変なやつだなぁ」
春香「プ、プロデューサーさんには言われたくないですよ!」
P「ははは、それもそうか」
春香「あの……」
P「うん?」
春香「お帰りなさい!」
おしまい
お疲れ様でした
P「記憶喪失ですか?」と、春香さんの「世界で一番頑張ってる君に」をテーマに書きたくなったので書きました
ラストがご都合主義なのは、当初のプランがあまりにもアレだったので強引に修正したせいです すいません
蛇足ですが、ボクとPの記憶と人格は融和しています
お付き合いいただきありがとうございました
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