ユミル「雨下の密会」(169)
私には日課がある。
と言ってもここ一月程度のことだが、それでも一日たりとも欠かしていない。
消灯前の点呼を行う15分前。足を向けるのは今はもう使われていない物置小屋の裏だ。
こんな時間にこんな場所、訪れる者などいるはずもない。
だが私は知っている。そこに先客がいることを。
……ほら、やっぱり。
私より早く来ていたその男は、私が到着したことに気付くと顔を綻ばせ、
「ユミル」
そう名前を呼びながら、私を強く抱きしめた。
「ああ」
と、返事をしたが聞こえているのかいないのか今一つ分からない。
隙間なく密着されて動くこともできないため、相手の顔を見ることができないからだ。、
……見ることはできないが、こいつが嬉しそうにしているのは分かる。
なんと言っても、こいつはこんなにも抱擁に夢中になっているのだから。
それは私の背に回された両腕から十二分に伝わってくる。その力強さと熱さは 少し痛いくらいだ。
ほら、これほど情熱的に女を抱きしめる男が、嬉しいという感情を抱いていないはずがないだろう?
対して私の方はというと、抱きしめ返すことはしない。私の腕はだらんと下げられたままだ。
さらに言葉数も少ない。会話と言えるのは名前を呼ばれてそれに返事をしたくらいで、後は互いに一言も発していない。
そのことについて私は何も感じないし、こいつも何も言わない。いつものことだからだ。
こいつは私を抱きしめるだけで満足だろうし、私もこれ以上のことをする必要はないと思っている。
これが私の日課。
この時間、この場所で、この男と密会し、抱きしめられる。ただ、それだけ。
……しかし、こんなおかしな関係がよく一月も続いてるよなぁ。
と、男の感触を全身で感じながら考える。
実のところ自分でもよく分かっていないのだ。なぜ点呼に遅れるかもしれないという危険を背負ってまでこんなことを続けているのか。
こいつはどうなんだろうか?
いや、こいつにとっては私とこんな関係になれたこと自体が僥倖で、続けられるのならいつまででも続けるだろう。
それこそ私から拒否しない限り。
私が一言止めようと言えばこいつはすぐさま止めると思う。もともと私が受け入れて初めて成立する関係なのだから。
つまりこの日課の行く末を決める権限は全て私が握っていることになる。それでも止めないのは何故なのか。
……まあ、単純に考えて、私も嫌じゃない、とそういうことなのだろう。
この奇妙な日課が始まったのは、確か雨の日だった。
あの日はいつも通り辛い訓練をこなし、いつも通りクリスタと一緒にいて、これまたいつも通り一日が終わると思っていた。
だが違った。いつも通りでないことが起こった。
夕食を食べ終え風呂にも入り、消灯時間が近付いてきたのでクリスタと女子寮に戻ろうとしていた時。
この男に呼び止められた。二人きりで話したいから来て欲しい、と。
はっきり言って面倒だったが、どうにも真面目な話のようだったので無視するわけにもいかず、承諾した。
先にクリスタを寮に帰らせると、傘を渡された。わざわざ外に出て行くこいつの後を付いて行くと、辿り着いたのはこの物置小屋の裏だった。
こんな人気のない場所で男と女が二人だけ。警戒するなという方が無理がある。
何をされるのかと身構えて相手の出方を待つつ、先にぶちのめしてやろうかとも思ったが我慢した。
しかし、そんな私に対してこいつが取った行動は、なんとも予想外のことで、
「ユミルが好きだ。付き合って欲しい」
などという、唐突過ぎる告白だった。
その時の私はさぞかし呆けた表情をしていたことだろう。そして目の前には大真面目な顔で告白した男。第三者が見れば大いに笑えた場面に違いない。
あまりに予想外だったため、拍子に傘を落としてしまった。小屋には屋根があったから濡れることはなかったが。
つまり傘を落とすくらいの驚きだったわけだ、私にとっては。
そりゃそうだろ。今までそんな素振り一つも見せなかったんだからさ、こいつ。
そもそもどこで私を好きになったのか分からない。私とこいつに何か特別な接点があったか?
考えてみたが思い付かない。そもそも会話すら満足になかったように思える。
特別な接点や会話もないのに好きになったということは……まさか、一目惚れか?
はは、それこそまさかだ。見た目で私に惚れる奴なんていない。それくらい自覚している。
クリスタやミカサならともかく、な。
だったらどんな理由でこいつは私を好きになったのか、と少しの間考えてみた。
だが全く心当たりがないし、告白に対する答えは決まっていたので、はっきり言ってやった。
「お断りだ。悪いな」
男は目に見えて落ち込んだ。「そうか……」と呟きながら吐かれた溜め息には、落胆の色が如実に表れていたように思う。
どうやら断られることは予想済みだったようで、それでも気持ちを伝えたかったらしい。
玉砕覚悟で告白するのもおかしな話しだ。付き合いたければ成功すると確信できるまでアプローチすればいいものを。
ま、どれだけ迫られても私が受け入れるとは思えないが。
好きでもない相手と付き合うなんて考えられないし、そもそも色恋にかまけている時間なんてない。
ハンナとフランツという例があるため、訓練兵だからという理由だけで色恋を否定する気はないが。
あいつらは恋仲になって明確に守るべき対象ができたからか、以前よりも訓練に励むようになったし成績も向上した。
そんなあいつらを見ていると、訓練兵でも恋愛の一つや二つあってもいいとは思うが……私には無理だ。
今のところ男に興味なんぞ持てないし、それに……クリスタのこともある。
そのあたりのことをこいつに説明してやる気はないし、現状じゃどう足掻かれても付き合うつもりはない。
だからきっぱり断ったんだが、少し失敗したかな。
この辛そうな顔を見ていると、私まで心苦しくなってくる。
仕方のないこととはいえ、純粋な好意を向けてくれる相手に酷なことを言ったのだから、それも当然か。
語気のない声で別れを告げた男は、私に背中を向けて去って行く。
その哀愁を帯びた背中を見てしまったからか、私は咄嗟に言葉を発していた。
「点呼までの10分間、一緒にいてやろうか?」
言い終えた瞬間、しまった、と思った。何を言ってんだ私は。血迷ったか?
こいつだって、自分を振った相手に同情のようなことを言われて嬉しいはずがないだろう。
いやでも、考える前に口が動いたんだから、私にはどうしようもなかったんだよ。
うん、あんな寂しそうな背中を向けるこいつが悪い。
こいつもそのまま帰るかと思いきや戻って来るし。聞き間違いと思って帰ってくれたらよかったんだが。
それにこういう甘いところを見せると、逆に期待させてしまいそうだし。
……まあ、言ってしまったからには無かったことするわけにはいかないか。
そんなこんなで、10分という僅かな時間ではあったが、屋根の下で二人きりの時間を過ごした。
一言も喋らなかった。そりゃそうだ。振られた男と振った女、気まずくなるに決まっている。やっぱり失敗だったな。
そんなことを考えているうちに時間が来た。10分なんてあっという間だ。
今度は私から別れの挨拶を告げて、小屋の壁に預けていた背を離した、その時。
「――ユミル!」
そう大声で叫ばれ、気付けば私はこいつの腕の中にいた。
告白された時以上の衝撃だった。完全に不意を突かれたため、抵抗することさえ忘れるほどに。
10分間無言だったこいつがこんな行動に出るとは思ってなかったというのもある。
だが考えてみれば、こいつはほぼ接点のない私を好きになって、そのまま告白する大胆な奴であったのだ。
一通り呆けた私は、数秒後ようやく我に返って抵抗を始めたが、しかしそこは男と女。純粋な力比べで敵うはずもない。
どうにもできそうにないので、最後の手段として、股間を蹴り上げてやろうと思ったのだが、
「ユミル……頼む」
こんな風に懸命に懇願されては、怒りの矛を収めるしかなくなってしまう。
一緒にいてやると言ったのは私だし、少しくらい許してやるかと、そう思ってしまったのだった。
……甘いなぁ。私ってこんな女だっけ。
再び無言の時間が続く。
その間、明日も雨かなぁとか、明日の立体機動の訓練きつそうだなぁとか、関係ないことを考えて気を紛らわそうとしたがやっぱり無理だった。
男に抱きしめられるなんて経験、初めてだし。
好きでもなく、たった今振った相手とはいえ、私も女だ。意識せざるを得ない。
身近に感じる男の体は思った以上に逞しくて、雨だというのにとてつもない熱を帯びているように感じる。
心臓も、強く速く脈打っているのが伝わってくる。
それは緊張からなのか、それとも興奮からなのか。私には分からない。
同時に思った。こいつの脈動が私に伝わるのなら、私のそれもこいつに伝わっているのではないか。
私だって緊張しているし(興奮はしてないが)、もしそれが知られているなら……少し恥ずかしいな。
でも……悪くないかもしれない。
男の腕の中は思った以上に居心地が良くて、安心できる。
これが、今まで感じることのなかった人の温もりってやつか、と少し大げさなことも考えた。
もし私たちの関係が恋人同士ならこんなものじゃないんだろうか。
それに雨の中で抱き合うってのも、なかなか趣がある気がしてきた。
こいつのことは何とも思ってないけど、この感覚は嫌いじゃない。
……そして、そろそろ時間的に限界が来たところで、私はようやく解放された。
私を抱きしめることができて満足げな表情をしているかと思ったが、そうではなかった。
久しぶりに男から発せられた言葉は謝罪だった。
よくよく考えてみればそれも当然か。こいつからしたら、抵抗しようとした私を強引に抱きしめんたんだからな。
反対に私はほとんど受け入れていたわけだが……ここで正直に言うとまた期待させてしまうよな。
だから、どうしてやろうか。
うーん……。
考え込んでいるうちにあいつが帰ろうとしたため、「おい待て」と、再び引き止めた。
今度は何を言われるのかと、期待と不安が入り混じった顔でこちらを窺ってくる。
その表情に私も胸に期待を抱きながら、告げる。
「明日もこの時間に、ここに来い」
……あれ? また変なこと言ってるぞ、私。
こいつも同じことを思ったようで、しばらく間抜けな面を晒していたが、言葉の意味が理解できたのか見る見るうちに笑みが浮かんでいく。
その顔に満足した私は今度こそこいつに背を向けて、手をひらひら振りながら物置小屋を離れた。
「じゃあな」
別れの言葉に対する男の返事は元気の良いもので、そのことも私の気分を良くさせた。
でも、なーんか変なことになっちまったなぁ。
あいつにとっては一番期待させる状況になってしまったんじゃないか? 自分で言ったこととはいえ、厄介な事にならなければいいが……。
……ま、いいか。
その翌日。雨は止み、さっぱりとした晴れの日だったように記憶している。
夜の点呼の15分前に物置小屋の裏に行くと、すでにあいつはそこにいた。
すると本当に私が来たことが嬉しかったようで、前日の別れ際以上の笑みを向けられた。
こいつ、私に振られたってことを忘れてないか?
振った相手に思わせぶりな言動をする私も私だが。
しかし私から言った以上それを破るのは気が引けるし、こいつは絶対に来るだろうと思ったから、行かざるを得なかった。
冷静に考えると何やってんだ私という感じだが、それも今日で終わりだ。ちょっとした気まぐれだと思うことにしよう。
前夜と同じように隣で壁に背を預けてしばらくすると、男が口を開いた。
今日も抱きしてもいいか、と。
もともとこうなるだろうと予想していたし、私もそのつもりでここに来たのだから、躊躇うことはなかった。
無言で頷くと、飛びつくように両腕を背中に回された。
前回ほど緊張していなかったからか、昨日よりも相手のことがよく意識できる。
興奮したように繰り返される熱い吐息や男性特有の強い匂い。そのどちらも不快ではなく、むしろ互いの距離の近さを再認識させられて悪くない。
余裕があるのは相手も同じらしく、腕の中の私を確かめるように何度も抱き直し、最も良い抱き方を模索しているようだった。
それでも両者とも言葉を発することはなく、私は抱きしめられたまま、こいつは抱きしめたまま、ゆっくりと時間は過ぎる。
この日も点呼ぎりぎりの時間になるとこいつの方から腕を離し、10分間の短い抱擁は終わりとなった。
沈黙のまましばらく向き合っていたが、こいつは名残惜しそうな諦め切れないような表情をしながら、それでも声だけは満ち足りたもので、
「ありがとう」
と二日間分の礼を言い、男子寮の方へ歩いて行った。
今度は呼び止めることはしなかった。
このわずかな時間の密会も抱擁も、単なる私の気まぐれで、二日も続いたことさえ驚くべきことだ。
それを分かっていたからあいつも満足げな声で礼を言ったのだろう。
だからこれでお終い。明日からはいつも通りの関係に戻って、時間の経過とともに忘却する出来事の一つになり下がる。
……そう、思っていたんだがなぁ。
さらに翌日の点呼前。この日も晴れだった。
理由は自分でも分からないんだが、私の足は自然とあの物置小屋に向かっていた。
特にやることもなかったし、なんとなく、本当になんとなく行く気になっただけだ。
10分間、あそこで時間を潰そう、と。
特に何をするつもりでもないが、誰もいない場所で一人で過ごすこともなかなかないしな、たまにはいいだろう。
……なんでいるんだよ、こいつ。
何故か今日も来ていたこいつを見付けた途端に回れ右しようと思ったが、その前に目が合った。
目が合ってしまった以上無視するわけにはいかず、かといって何かできるわけでもなく、その場で立ちすくむ。
あいつも相当驚いたようで、まるで幽霊でも見たかのように目をしばたたかせている。誰が幽霊だ。
そんなわけで互いに無言。ここで会うと本当に会話がねぇな、私たち。
いつまでも突っ立ってるわけにもいかないので、男の隣に陣取りいつものように背を預ける。
こいつは未だに困惑しているのかこちらをチラチラ窺ってくるが知らないふり。
だって私はこいつに会いに来たわけじゃない。ただ一人になろうと思ったらたまたまこいつがいただけだ。
だから……こいつが何をしようと関係ない。
無言の時間は続く。
このまま今日は終わるのかなと思い始めた頃、隣人が口を開いた。
「……今日も、いいか?」
もちろんこの言葉の意味は理解できる。だが私は肯定も否定もせず聞いてないふりを続ける。
こいつはその沈黙を肯定と受け取ったのか、慎重に、ゆっくりと私を抱いた。
三度目の抱擁は今までと違って弱々しいものだった。過去にあったような力強さも熱さもあまり感じない。
それはまだ戸惑っているからだろう。私がここに来たことも、抱擁を許したことも。
ああそうだ、抱擁を許すというのは確かに違うな。許してなんていない。
こいつの問いに私は肯定も否定もしなかった。普通なら迷っているか保留と捉えるところだろうが、抱きしめたいという欲が先行してしまったのだろう。
しかし私が首を縦にも横にも振らなかったのは、迷っているからでも保留にしたからでもない。
ついさっき決めたからだ……こいつが何をしようと関係ない、と。
だから問いには答えなかったし、抱きしめられても抵抗しない。だって関係ないから。
こいつが何をしようがこいつの勝手だ、私が気にすることじゃない。だって関係ないから。
……関係ないけれど、ちょうど目の前に誰かさんの肩があったので、そこに顔を寄りかからせてみた。
この行為をどんな風に受け取ったのか知らないが、弱々しかった腕の力が強まった。
しばらくすると体が熱を帯びてきたようで、この熱い体温をもう一度感じられたことに、私は安堵していた。
もちろん私がそう思っているなんて口にしないし、こいつも何も話さない。
だからお互いに何を考えているか実際には分からないわけだが、それでも私は不思議な一体感を得ていたのだ。こいつとの間に。
それは何故だろうかと思考を巡らせようとしたが、それよりも今はこの状況に浸っていたい。
いつまでも、いつまでも……。
……とまあ、たった10分がいつまでも続くわけがなく、三度目の抱擁は実にあっけなく終了した。
男は何か言いたげな表情をしていたが、その前に私は背を向ける。
すると「あ……」という男から出るとは思えないか細い声が聞こえたので、思わず吹き出してしまった。
後ろの男は何故笑われたか理解できないようで、困惑しているようだ。雰囲気で分かる。
その様子が余計おかしくて、声を出して笑いながら、背後に手を振る。そして、
「またな」
それだけ言って、男のもとを後にした。
この言葉を聞いたあいつがどう反応したかはもう分からなかったが、おおよその予想はつく。
呆けた後に嬉しそうにする姿を想像して、また笑ってしまった。
女子寮に帰る途中、ふと思った。
あいつに抱きしめられるのが本当に嫌だったなら、きっぱりと否定していたはずだよなぁ、と。
それこそ二日前に付き合ってくれと言われた時のように。
相手が傷つくかもしれないからって遠慮するような性格じゃないし、普段の私ならそうしたはずだ。
それなのに否定しなかったということは……。
嫌いじゃないみたいだな、あいつとの抱擁は。
納得のいく答えを得た私は、その晩ぐっすり眠れたのだった。
今日はここまで
変な改行できてしまったけど気にしないで
読んでくれてる人ありがとう
このSSまとめへのコメント
誰なんだよ
1みて吹いたwww