【シャニマス】芹沢あさひ(17)「わたしも、変われてるっすか?」 (79)

 変わるものと変わらないものがある。

 身長や髪の長さ、ストレイライトが集まる頻度。それに対して、事務所の場所、わたしがアイドルであること、プロデューサーさんの身長。どこに違いがあるんだろう。

 空が高い。濃いくらいの水色に、宇宙船くらいありそうな入道雲が映えている。襟の中に籠る熱を逃がそうと、服を摘んでパタパタと仰ぐと、胸元には風が入ったけど、襟周りはちっとも涼しくならなかった。暑い。ミーン。蝉の声。

 信号が変わって、アスファルトをスニーカーで蹴り上げると、ちょっと古くなったスニーカーはキツいような気がした。新しく大きいのを買った方がいいかもしれない。今やってる舞台が終わったら買いに行こうかな。
 昔は靴や服なんて使えれば何でもいいと思ってたけど、最近は少しだけ選ぶようになってきた。たぶんあの2人の影響だ。最近会えてないけど。最後に会ったのはいつだろう。すぐに思い出せなくて、額に浮かんだ汗をぬぐったら、思考がバラバラになった。

 ストレイライトって、解散したのかな。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1626348365

 十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人。
 誰に言われたわけでもないけど、誰かに言われたように、いつからか頭の中にこびりついている。

 自分で、自分は他の人と違うということは理解していたけど、自分を神童や天才と思ったことはなかった。でも周りがそう扱っていると、次第に自分の中でもそういう気になってくる。
 扱ってくれていたけど、どこかでそれは「芹沢あさひはまだ幼いから」という前提がついてくる。私は中学生だった。だからすごかった。

 高校の制服は少し大きくて、スニーカーはキツい。1.6メートルの空間に存在する感覚は対照的で、わたしの身体はあべこべだった。

「おつかれ、あさひ」

 事務所の扉を開けると、寒すぎるくらいの冷房が顔に吹き付けてきた。でも銀行とかの方が涼しい。健康的な温度設定だ。もっと冷えててもいい。襟の中が冷たくなって、想像よりも汗をかいていたことを知る。

「おつかれさまっす」
「稽古どうだった?」
「普通です」

 プロデューサーさんは自分の席に座っていたので、あんまり近づかないようにしながらキッチンに向かった。冷蔵庫を開けてみる。

「プリン食べていいぞ」
「うーん」

 喉が渇いた。プリンはなんだかコッテリしてる気がして、頷くだけ頷いてすぐ閉めた。後で醤油と混ぜよう。コップを取り出して冷凍庫から氷を掬い、水道水を入れる。

「お茶もあるよ?」
「水がいいっす」

 パキ、パキ、と音を立ててヒビが入る氷を掌の中に感じながら、くるくる回して一気に飲み込んだ。喉が癒える。水道臭くて美味しくはない。お茶にすればよかった。

「おれもコーヒーおかわり」
「えっ」

 いつの間にかプロデューサーさんもキッチンに来ていた。わたしは汗かいてるのに。首元を押さえて、しゃがみながらソファに飛び込んだ。ボフン。重力。

「元気だな」
「そうっすよー!」

 返事をしようとするとやたら大きい声が出て、自分でびっくりした。
 変な匂いしてないかな。寝転がったまま自分のシャツを嗅いでみる。制汗剤の匂い。大丈夫なはず。

「あさひもコーヒー飲む?」
「え~?」
「いい香りがするやつなんだ」

 やっぱりちょっと匂ったのかもしれない。眉間がぎゅっとなる。

「あさひはしばらく舞台の方がメインになるな」
「そっすね」

 不機嫌な顔をしてしまっていたのか、プロデューサーさんはソファには座らず、自分の席に戻った。わたしは膝を抱えて、プロデューサーさんが淹れてくれたアイスコーヒーを眺める。

「本番までもう少しだな、台本は完璧?」

 台本の暗記について不安に思うことはない。息を吸って、3つ数えて、頭の中でカチッと音がしたらもうセリフは口からこぼれてくる。

「大丈夫です」

 プロデューサーさんは、昔は舞台の稽古にも顔を出してくれてたけど、最近はあんまり稽古場所には来なくなっていた。さみしいけど、たぶんわたしがそんな年齢じゃなくなったのが理由だと思う。中学生の練習を見守ってるのは普通だけど、高校生にもなって保護者が必要だとは思わない。いて欲しいけど。

 プロデューサーさんが直接きてくれることは減ったけど、こうしてわたしが帰りに事務所に寄るとだいたいいるので、会う頻度が減ったわけではなかった。ストレイライトとは違う。

 愛依ちゃんと冬優子ちゃんとは、2年くらい前から会う機会が減っていた。愛依ちゃんが20歳で、冬優子ちゃんが21歳の時。たしか、さみしいなと思ってしばらく経った頃、気が付けば、事務所のテレビでドラマを通して冬優子ちゃんをみることの方が多くなってた気がする。でもあれは冬優子ちゃんじゃない。ふゆちゃんだ。愛依ちゃんもだいたいそう。

 あの頃から、2人と繋がりたくてSNSをよく見るようになった。今では意味もなく開いてしまうこともあるけど、きっかけはそこだった覚えがある。果穂ちゃんの投稿にいいねをつけて、スマホをソファに投げ出した。

「愛依ちゃんと冬優子ちゃん、元気すか?」
「ん? 最近会ってないのか」
「前回会ったの仮歌受け取った時っす」
「あー……2週間くらい前になるんだな」

 別に避けられているとは思わない。わたしはむしろ一緒に遊びたい。でも2人は仕事があるし、わたしも当然仕事がある。だから仕方ない。変わるものがある。

 プロデューサーさんがコーヒーを一口飲む。彼は少し潔癖の気があるのか、それとも職業柄、清潔であろうとしてあるのかわからないけど、何か手に付くとすぐに手を拭く仕草をする。グラスの水滴も例外ではなくて、コーヒーを飲むたびに、意外と細い手指をハンカチで拭いていた。

 変わらないものもある。

 プロデューサーさんは、ずっとわたしのこと見てるって約束してくれた。だからこうして事務所に来れば会えるし、稽古の様子も聞いてくれる。

 ストレイライトはグループとしての仕事仲間だから会わなくなることもあるけど、プロデューサーさんは仕事の相棒だから、会わなくなることはない。ずっと一緒。

「プロデューサーさんは変わらないですもんね」
「?」

 プロデューサーさんがコップを傾けて、自分のコーヒーを飲み干してしまった。休憩終わりの合図だ。またパソコンにこの人を取られてしまう。

「俺も変わるよ」
「え?」

 コーヒーに手が伸びかけていた手が固まる。

「だってずっと同じだと、あさひをトップアイドルにできないだろ?」
「…………」

 テーブルに置かれた自分のグラスを見る。まだ一口も飲んでいない。たっぷり氷が入ったグラスには、部屋の水分が集められて結露ができている。コースターに染み込む水は、汗のように見えた。

「あさひは将来、何のトップになるんだろうな」

 プロデューサーさんはいつもみたいに先の話をして、ちょっとわたしの顔を見たあと、またパソコンの方を向いてしまった。
 ずっと見ててくれるって言ったのに。
 グラスの側面で、水滴が揺れている。重力。

 変わってしまったものは元には戻らない。

 例えば、切った髪は簡単には元の長さには戻らない。見慣れてないからかもしれないけど、わたしは髪が長い方が冬優子ちゃんらしいと思う。

「何よ、埃でもついてる?」

 わたしの視線に気づいた冬優子ちゃんは、肩までしかない後ろ髪を押さえながらこちらを振り返った。ジャージから、制汗剤の香りがふわりと漂う。いい匂い。香水かもしれない。

「別に、何もついてないですよ」
「じゃあジロジロ見ないで」

 髪を切った冬優子ちゃんと会うのは、これで3回目だった。ばっさりいったのは2ヶ月くらい前らしいけど、それからは全然会う機会がなかった。余程の用事がない限り、事務所に来てないのかもしれない。

「冬優子ちゃん」
「何」
「久しぶりっすね」

 トレーナーさんがくるまでストレッチをしながら、二人しかいなくて広く感じるレッスン室で、わたしは冬優子ちゃんを味わっていた。

「あんた、また背伸びた?」
「わかんないです」

 180度に足を開いて、つま先を天井に向けたまま身体を床に押し付ける。身体の柔らかさも自分の武器だと気づいたのは、割と最近だった。

 冬優子ちゃんが前屈をしようとしていたから、背中を押そうと後ろに近づいて、やっぱりやめた。何事もなかったようにバーに手をついて、アキレス腱を伸ばす。

 変わるものは外側だけではなかった。たぶん内側の、わたしも変わっているのだと思う。
 冬優子ちゃんがわたしのことを好きじゃないことは、なんとなくわかっている。でもそれは別に嫌われているとかそういうことではなく、本来であればわたしは冬優子ちゃんに構ってもらえるタイプの人間ではない、という意味に近い。
 ユニットメンバーだから構ってくれる。逆に、わたしもユニットが違ったら冬優子ちゃんとはあんまり話してなかったかもしれない。
 そんなことを考えてアキレス腱を伸ばしていたから、わたしは、

「あんた、舞台の本番もうすぐなのよね」
「えっ」

 冬優子ちゃんが、わたしの舞台のことを聞いてきたことが意外で、咄嗟の返事が出なかった。

「そ……そうっす! 再来週です!」
「再来週ね。空けとくわ」

 冬優子ちゃんは鏡越しにわたしの顔を見ながらストレッチをしている。

「来てくれるんすか?」
「はぁ?」

 気がついたら、鏡に映る自分の顔がにやけている。冬優子ちゃんは別に笑ってはいない。

「そりゃ、ユニットメンバーが出るんだから行くに決まってるじゃない」
「ユニットメンバー……」

 冬優子ちゃんが来てくれることが思ってたよりも嬉しかったみたいで、わたしの顔は楽しそうに花を咲かせている。

「ただでさえ最近絡み少ないんだし、ツイスタでアピールもしときたいじゃない」
「それもそうっすね!」
「なに嬉しそうにしてんのよ」
「1番いい席用意してもらうっす!」
「端でいいわよ」

 開脚をしている冬優子ちゃんの背中に飛びついて、抱きつきついでにぎゅーっと体重をかけた。冬優子ちゃんは「あだだっ」と悲鳴をあげたけど、怒られはしなかった。いい匂いがする。嬉しいな。
 冬優子ちゃん、来てくれるんだ。それはもちろんわたしのためじゃなくて、SNSでのアピールのためってのもあると思うけど、それでも嬉しい。目的があって来てくれる方が理由がわかってスッキリする。

 これから生きていく上で、自分が何をするべきか分かってるから、わたしに何かしてくれる。1番安心できる。

 やっぱり冬優子ちゃんはすごい。

 トレーナーさんがレッスン室に入ってくると、冬優子ちゃんはふゆちゃんになってしまった。寂しいと思うことはなかった。

 カチ。
 音が鳴ったら、レッスンは終わってた。

「お疲れ様、2人とも今言った課題を次のレッスンまでに完璧にしてきてね」
「はい、わかりましたぁ」

 隣を見ると、汗だくのふゆちゃんがにこりと可愛く笑っていた。

「あさひちゃんは?」
「了解です」

 トレーナーさんもすこしこめかみに汗を浮かべていて、部屋に入ってきた時は険しかった表情が少し疲れているような顔に見えた。
 わたしも筋肉が痙攣する脚の疲れを感じて、レッスンが終わったのだと実感する。今日もがんばった。たぶん途中で逃げ出しそうになったけど、それはアイドルをする上でやっちゃダメなことだから、我慢した。

 トレーナーさんが部屋を出て行くと、冬優子ちゃんは少しだけ自主練をしていて、わたしは後ろからそれを眺めたり、真似したり、身体が覚えているままに、さっきのレッスンでやったであろうステップの練習をした。なんとなく、まだ帰りたくない。流れる汗をそのままにしておくと、ターンした時に飛び散っていった。遠心力。

「冬優子ちゃん」

 冬優子ちゃんが着替えに向かったので、わたしもそれに倣って着替えを済ませて、冬優子ちゃんに汗拭きシートをわけてもらって、制服に着替え直した。シャツを新しいのに変えたから気持ちいい。

「もう帰るんすか?」

 わたしが事務所に向かおうとすると、冬優子ちゃんと道が分かれてしまって、駅の方に歩く綺麗な後ろ姿に手を振った。冬優子ちゃんは振り返らなかったけど、1回だけ手をあげてくれた。満足。

 ジィー。油蝉。喉が渇いた。スニーカーはキツい。
 街路樹の幹を眺めながら歩いていると、羽化しようと木を登っている蝉の幼虫を見つけた。ラッキー。
 無事に羽化できるといいね。

 事務所に戻ると、リビングには誰もいなかった。でも鍵はかかってないから誰かいるはずで、いろんな部屋を開けてみる。倉庫は埃っぽくて、最近は使われていない様子だった。空の抜け殻だ。

 社長室を10回ノックしてみると、中から「芹沢か」と声が聞こえた。誰かいたことが嬉しくて、そうっす! と返事をしながら入ると、社長さんが飴をくれた。もう子供じゃないのに。でもよくみると黒あめだった。うーん。

「プロデューサーさん知りませんか?」

 リビングのより少し高級そうな(実際はそんなに変わらないらしいけど)ソファに横たわって、飴を噛み砕きながら尋ねてみると、今日は定時で帰るように言っているからそろそろ戻ってくると思うぞ、と教えてくれた。
 定時なんだ。珍しい。

 プロデューサーさんは放っておくとずっと事務所にいたがるから、たまに社長さんが早く帰るように言っている。そういう時は大体次の日元気そうにしてるから、やっぱり社長さんはプロデューサーさんのことよく見てるんだと思う。

 ソファの隙間に手を突っ込む。ひんやりして気持ちいい。
 社長さんとわたしは何を喋るでもなく、万年筆が紙の上を滑る音に耳を澄ませていた。悪くはない。心地は良い。でも暇だ。
 リビングに戻ろうと社長室の扉を開けると、帰り際に社長さんが向こうから話題を振ってきた。

「芹沢、」

 ちょっと迷った風に声をかけてきて、あー、なんだ、と咳払いしている。

「なんですか?」

 特に急いでなかったから、ドアノブをかちゃかちゃしながら続きを待つ。

「敬語が上手になったな」
「そうっすかね」

「敬語が上手になったな」

 リビングでなんとなく社長さんの物真似をしてみたけど、全然似てなかった。あんなに低い声出ない。

 1人のリビングはじっとしてると時計の針の音がよく響いてて、その奥に冷蔵庫の駆動音が混じっている。霧子ちゃんにはユキノシタさんの声も聞こえるらしいけど、わたしには植物の声は聞こえなかった。医学部に行けば聞こえるのかもしれない。ジィー。窓の外から油蝉。喉が渇いた。

「喉渇いた」

 冷蔵庫を開けてみる。駆動音が大きくなる。ピッチャーのお茶がちょっとしか残ってない。レッスンの前はたくさんあったのに。たぶん最後に飲んだの透ちゃんだ。わたしが飲んだ後にこれだったら、次の人のために作っておきなさい、と冬優子ちゃんに言われてしまう。でも最後に言われたのはいつか覚えてない。

 お茶はなかったけど、ペットボトルのコーヒーはあった。プロデューサーさんは基本的に自分で淹れてるけど、多分めんどくさい時はこれを飲むんだと思う。結構ストックがあるからこれ飲もう。

 コップに注ぐ。コトコト音がする。冷たい飲み物を注いでるのに、音の響きは温かい。あべこべになる。もしかしたらコップに入った途端温かくなってるのかもしれない。そんなわけない。一口飲む。

「やっぱ冷たい」

 定時で帰る、と言っていた。19時。
 戻ってくるのを待っていたら、もしかすると晩御飯一緒に食べれるかな、と期待して、ちょっと胸が躍った。でもまだ18時過ぎ。1時間はある。
 何時に事務所に戻ってくるかはわからないけど、戻ってくる前にどこかで晩御飯を済ませてしまっているかもしれない。それに、よく考えると1人とも限らない。誰かを送るついでに、一緒に食べてるかも。

 全員分の予定が書き込んであるホワイトボードを見てみると、透ちゃんの撮影がちょうど終わったくらいだった。あぁ。

「うーん」

 プロデューサーさんと晩御飯を一緒に食べたい、以外に自分が今ここにいる理由がないことに気づいて、ちょっと恥ずかしくなる。誰に対して? わからない。
 ホワイトボードに落書きをする。

 プロデューサーさんが戻ってきたら、家まで送ってくれるかもしれない。でも別に1人でも帰れるしな。1人で帰ろうかな。待つのも変だし。あんまりお腹は空いていないし。
 最後にプロデューサーさんと晩御飯を食べたのはいつだったっけ。もしかしたら、まだ衣替えする前かも。ちょっとさみしい。

 事務所を出ながら、なんとなくチェインを開いて、冬優子ちゃんに「大人なお店連れていって欲しいです」と送ってみた。
 すごい早さで既読がつく。まだ電車なのかな。返信はこない。
 しばらく待っても返信はなかったから、スマホをポッケに突っ込んで「冬優子ちゃーん」と声に出してみた。何も起こらない。ユキノシタさんは返事をしてくれない。

 本当はプロデューサーさんに向けた言葉であることが、見透かされているような気がした。

期待

2

 変わったものもある。
 今思いつくもので挙げると、小宮果穂ちゃんとの関係は出会った頃と変わったと思う。

「プロデューサーさん遅いね」
「ですねぇ」
「収録間に合うのかな」
「まあ、緩い現場ですし」

 果穂ちゃんが所属する放クラも、ストレイライトと同じで全盛期から数年経つと活動は緩やかになった。それにつれてユニットメンバーと顔を合わせる機会は減ってしまうけど、そうではないメンバーは会う頻度が変わらないから、逆によく会っているような感覚になる。
 事務所の中でも歳が近い果穂ちゃんは、お互いそういう感覚だと思う。ちょっと仲良しになったと、ほぼ同年代で1番話しているのは果穂ちゃんだと、わたしは思っている。

 実際、お行儀がいい第一印象だった果穂ちゃんが、今はわたしの前でスリッパを脱いでソファに横たわってる。わたしは直角になるように床に横たわってる。

「女と梅酒は待つほどうまいっていいますし」
「なにそれ」
「誰かが言ってた気がします」
「へぇ~」

 果穂ちゃんの脚の上にわたしの脚を乗せると、左脚が逃げ出して両脚を挟まれてしまった。お互い無言のまま、どちらの脚が上になるか三つ編みのように脚を乗せ合う。2人の靴下が片方ずつ脱げたところで、争いは終わった。
 ちょっと笑いが漏れる。

 今日はかなり暑いけど、事務所のリビングはエアコンが効いていて、もし朝からこの場所にいたとしたら、きっと外が暑いことは知らないままだったかもしれない。

「果穂ちゃん、最近夏葉さんに会った?」
「あー、最近久しぶりに会いましたね」

 果穂ちゃんは脚に力を入れたり抜いたりして、暇そうに寝そべっている。

「どうかしたんですか?」
「んー、昨日テレビつけたら見かけたから」
「あー」

 事務所で会う頻度より、テレビや街頭広告で会う方が増えてきた人も多い。変わってしまうもの。最後に夏場さんに出会ったのはいつだろう。今の髪型のあの人を、わたしは対面で観た事がない。

「あさひさんって制汗剤使ってます?」
「そりゃ、まあ」
「やっぱ冬優……ふゆさんが選んでくれるんですか?」
「え?」
「……なんでもないです」
「そっか」

 わたしが夏葉さんとなら会っているかな、と思ったように、果穂ちゃんからすると、わたしと冬優子ちゃんは会えているイメージがあるのかもしれない。

 手を伸ばすと、テレビの上にリモコンがあった。机の角度に対して水平になるように動かしていると、指がボタンに触れたようで、テレビが映像を流し始めた。

 夏祭りの映像だ。見たことあるリポーターの人が、東京のはずれっぽい商店街の夏祭りを紹介している。
 見たことあるのは、テレビで見たからなのか、仕事で一緒になったからなのか、よく覚えてない。

「夏祭りとか、行きたいですね」
「金魚掬いやりたいよね」
「たこ焼き食べたいです」
「屋台のって味濃いもんね」
「ね」

 果穂ちゃんはソファの淵から頭を落とすようにして、逆さまにテレビを見ている。見辛くないのかな。

 でもわたしも机の下から覗いてるから、画面の上半分は見えてない。見辛い。テロップで時間を確認しようとしたけど、下半分しか見えてないから確認できなかった。

「もうすぐ浴衣の撮影があるんですよ」
「え、今日そうだっけ?」
「いえ、また来週のやつです。今日はスピンズの案件ですよ」

 びっくりした。今日は特にそんな気分じゃなかったから、浴衣だったらスイッチを入れるのに時間がかかってしまっていたかもしれない。

「先のお仕事のことも考えてるんだね」
「週末は泊まりの撮影があるんですよ」
「いーなー!」
「凛世さんとロケです」

 凛世ちゃん。凛世ちゃんも最近会っていない。もしかしたら、ここ1ヶ月の間で事務所で会った人の方が少ないかもしれない。透ちゃんはいつもいるイメージがあるけど。会いたくなったらだいたい屋上にいる。

「お土産楽しみにしてるね」
「河原の石とかでいいですか?」

 はは、と笑って、それから2人とも黙ってテレビを眺めていた。眺めていただけだから、少なくともわたしの頭の中にはリポーターの人の言葉は入ってこなかった。

 果穂ちゃんはバラエティにも出てるし、わたしと同じでモデルのお仕事もある。歌も歌ってるし、本人は自信がないみたいだけど、ドラマなんかにも出演してる。夏葉さんや結華ちゃんほどではないけど。
 つまり、いろいろしてはいるけど、これから先、何をするかは決めていない様子だった。

 何をするか決めてない人。冬優子ちゃんは何をするか決めててすごいって思うけど、果穂ちゃんは親近感が湧く。そりゃ、果穂ちゃんはまだ15歳だし、わたしだってまだ17歳。先のことなんて考えられない。

「あさひさん、」

 ちょっと言い淀んだイントネーションで、果穂ちゃんが話しかけてくる。テレビはもう飽きちゃったみたい。

「何?」
「あさひさんは、普通の人生、歩みたかったですか?」

 テーブルの上のリモコンを探す。
 果穂ちゃんも、最近はコロコロと話題を変えるようになった。出会ったばかりの頃は子供ぽいというか、理路整然としすぎてて話に飽きちゃうこともあったけど、最近ではそんな感じはしない。大人になったんだと思う。2歳しか離れていないのにそう感じるのは、何様だ、とも思う。

「普通の人生?」
「アイドルにならなかった、みたいな」
「あー」

 リモコンがあったので、適当にボタンを押して消そうとする。チャンネルが変わった。間違えたみたい。

「アイドルやってないとしたら……みんなと会ってないってことだよね」
「まあ、そうですね」
「果穂ちゃんもだし、愛依ちゃんもだし、冬優子ちゃんも」

 いろんな人が頭に浮かぶ。あの人も浮かぶ。ちょっと心臓が揺れる。
 もう一度ボタンを押してみると、テレビの電源は落ちた。部屋が急に静かになる。

「プロデューサーさんと出会わない人生は、嫌だなぁ」

 冷蔵庫の駆動音が大きくなる。

「そうですか……」

 果穂ちゃんはトーンの低い声で返事をすると、膝を曲げながら横に寝返りを打った。
 脚が絡まって、汗をかいていないふくらはぎがサラサラと擦れる。気持ちいい。
 テーブルが邪魔で顔は見えなかったけど、たぶん、ちょっと元気がなさそうに見えた。何かあったのかな。

「辛いもの食べに行く?」
「……なぜ?」
「元気なさそうだから」
「そういうのって普通、甘いものじゃ?」

 冬優子ちゃんとは違うらしい。ちょっと間が空いて、果穂ちゃんがくすくすと笑い始めたから、よくわからないけど、わたしも可笑しくてちょっと笑った。

この果穂はあっちのまんまだにゃ

2.5

 カチ。髪型が変わっている。控室には果穂ちゃん以外にも同じくらいの歳の子達が何人もいて、わたしたちの撮影は終わった後のようだった。

 果穂ちゃんは長机に置いてあるケータリングを口にしながら、他の子と談笑している。プロデューサーさんは、と思ったけど、今日の撮影は送迎だけしてくれて、中は別の案件の打ち合わせがあるとかでいないんだった。プロデューサーさんのお迎え待ち。
 服は着替え終わった後で、スイッチが切れるのが脱いだあとでよかった、と思った。撮影で使う服の匂いはあんまり好きじゃない。生活感がないというか、工場の匂いがするというか。
 たまに柔軟剤のいい香りがすることもあるけど、基本的にはあんまり好きではないので、着るときや脱ぐ時がちょっと嫌だった。

 部屋の端にハンガーラッグがかけてあって、夏らしい明るめの色の服がお行儀よく並んでいる。

 隣に座ってる子が何か話しかけてきてた気がするけど、頭の上の方で鳴っている鏡のヒーターの音の方が気になって、あんまり入ってこなかった。機械の駆動音は鮮明に聞こえてくるけど、隣に座ってる人の話は聞こえてこない。でも無視するのも良くないと思って、スイッチを入れた。
 3、2、1、息を吸う。カチ。

「今日は現場に人多かったと思うけど……どうだった?」
「?」

 帰りの車は、果穂ちゃんがあんまり喋らなかったから、心なしか静かだった。その果穂ちゃんもさっき家に吸い込まれていったから、今はわたしとプロデューサーさんしかいない。

「ほら、お喋りした、とか……その、気が散った、とかさ」
「あー」

 助手席から身を乗り出して、エアコンの送風口に手を突っ込んでかちゃかちゃと弄る。右に曲がるときには右に向けて、まっすぐになったら正面に戻す。運転してる気分になる。楽しい。

「なんかうるさかったです」

 横目でプロデューサーさんの顔を見ると、ハンドルを握ったままちょっと困ったように笑ってた。送風口に突っ込んだ指先が冷たくなって、感覚がなくなってくる。

「はは、そうか」

 前の車に従って、車が静かにブレーキをかける。信号が赤だ。夏はこの時間でもまだ明るくて、信号の赤より夕焼けのオレンジの方が色味が強い。

「舞台の稽古では、他の人と話さないのか?」

 舞台の稽古を思い出す。リノリウムが敷いてある広い部屋で、その日練習する場面ごとに違うメンバーで固まって、演技の話や役の話をしている。わたしはいつもと変わらず思ったことを言うだけだけど、舞台の稽古の時だけは、周りの人がわたしの話を聞いてる。面白そうに頷いてくれる。

「あの人たちは舞台の話しかしないから、楽かなって」
「なるほどな」

 外の音に耳を澄ませてみても、エアコンの音が大きくて蝉の声が聞こえない。スイッチを連打してエアコンを止めると、プロデューサーさんが「寒いのか?」と尋ねてきたので、「暑いっす」と答えた。

「じゃああさひは、やっぱりそういうプロフェッショナル的な仕事が向いてるのかもな」
「プロフェッショナル?」
「あー、なんというか、専門的? というか」
「それはわたしの先のことの話っすか?」
「? まあ、そうなるな」
「そっすか」

 そういうことを言われてもよくわからない。自分のことを分析されるのはあんまり好きじゃない。だいたいみんな的外れなことを得意げに言うし。

 でも、プロデューサーさんがわたしの先のことを考えているのは嬉しくて、全然嫌な気持ちにならなかった。

 車が前に動き出す。エアコンを付ける。プロデューサーさんが「ありがとう」と言う。なんで?

「そういえば、明日は愛依に会えるかもな」
「え! 本当っすか!」
「稽古が長引かなければ、だけど」
「やったー!」

 嬉しくなって、シートベルトを伸ばしたり縮めたりする。摩擦で手のひらが熱くなる。
 久しぶりだ。愛依ちゃんも仕事がかぶることが少なくて、あんまり会えていなかった。舞台のチケットの話も直接できてないし、渡すのは事務所に置いておくのでいいとしても、来て欲しい、ということは口で伝えたかった。愛依ちゃんは好きだから。

「あ、あさひあれ見て」
「ん?」

 プロデューサーさんがフロントガラスから、空を覗き込んでいる。

「あの雲、龍に見えないか?」
「えー?」

 窓を開けて、身を乗り出す。空はオレンジ色から藍色に染まりかけていて、雲の輪郭がぼやけ始めている。正面を向くと明るいけど、後ろを振り返ると夜が染み込んできていた。

「どこー……」

 風を浴びながら色々探してみたけど、それっぽい雲は見つからない。一応ホンモノも探してみたけど、どこにもいなかった。

「わかんないですね」
「えー、見えるけどなぁ」
「ふーん」

 空を見ていて気づかなかったけど、もう家の前まで来ていたらしい。
 わたしとプロデューサーさんを乗せた車はゆっくり止まって、助手席の鍵が開く音がした。肋骨を持ち上げて心臓が跳ねる。痛い。

「じゃああさひ、また明日」

 プロデューサーさんが優しい顔で、わたしの方を向く。右手はハンドルを握ったまま。

「…………」

 今日は1人で晩御飯を食べる日だ。たしか、プロデューサーさんも今日はこれで帰る日。だったら、少しくらい一緒にご飯でも、

「少し上がっていきませんか、」

 と声に出そうとして、いや、もしまだ残って仕事をしたいのだとしたら邪魔になるな、と考える。余計なことを考えてしまう。
 こんなことまで頭が回るようになったのはいつからだろう。少なくとも昔はこうして誘って、冬優子ちゃんに怒られていた。

「あさひ?」
「……ん」

 カバンを持ち上げて、シートベルトを外す。少しゆっくりとした動きで、半分脱いでいた靴を履きながら車を降りる。

「また明日っす」
「あぁ、お疲れ様」

 助手席のドアを閉めようとすると、わたしの左手は反対方向に引っ張られてしまったけど、無理矢理力を込めてバタムと閉じた。

 プロデューサーさんが手を振ってくれて、車が走りだす。わたしは手を振り返さなかったけど、なんとなく、車が見えなくなるまで、ナンバープレートの数字で17を作る計算を続けていた。

 変わらないものがある。

 冬優子ちゃんは髪を切ったけど、かわいいという事実までは変わらない。

「暑いね~」

 愛依ちゃんは髪を染めたけど、やっぱりくるくるしてる毛先はかっこいい。

「そっすね~」

 稽古の帰りに事務所に向かっていると、ちょうどレッスンが終わった愛依ちゃんとたまたま出会った。嘘。ほんとはちょっと探した。
 顔を見るとすぐ分かったけど、髪の色が前と違ったから、思わず「え!」と声が出た。愛依ちゃんは「ドラマの撮影あるのよ」と、右手の甲で茶色に染まった毛先を持ち上げてくれた。かわいい。好きだ。

 2人で、夏が熱した道を歩く。目玉焼きくらい絶対作れる。キツいスニーカーは歩き易くはないけど、足の裏が焼けてしまうことだけはしっかり防いでくれていた。十分。
 愛依ちゃんの足元を見ると、おしゃれなヒールのサンダルを履いている。日光が当たって、装飾のきらきらが目を眩ませる。

「熱くないんすか?」
「熱いよ、めっちゃ熱い」
「なんで靴履かないんすか?」
「今このサンダル、マイブーム」
「あ、爪塗りました?」
「彼氏か」

 愛依ちゃんに彼氏ができたらどうなるんだろう。レッスンの帰りに迎えに来られでもしたら、わたしとの時間がなくなってしまう。
 いや、アイドルの練習場所に彼氏は来ないか。来たらすぐ見つかってしまいそう。プロデューサーさんも、外で長居しないように気を付けてるし。

 空は高くて、肩車してもらっても届きそうにない。今はわたしの方が身長は高いから、愛依ちゃんを肩車することになりそうだけど。
 一応手を伸ばしてみたけど、まだ雲は掴めなかった。

「あさひちゃんは相変わらず舞台?」
「そっす!」
「上手だもんね~」
「上手とかあるんですか?」
「あるよ、ウチ演技とかできないし」

 それを言うか、とは思ったけど、愛依ちゃんの中では別なのかもしれない。最近は明るい愛依ちゃんも出てきてるし。

 汗が流れる。愛依ちゃんが「こっち歩こ」と日陰に誘ってくれる。好きだ。ジィー。

「油蝉だ」
 なんとなく呟いた。
「まだわかるん? 蝉の声」
「下の句だ」
「え?」

 ジィー。わかるというか、これは油蝉の声だ。

「ほら、歳とると虫のことって忘れちゃうじゃん?」
「えー、そんなことないっすよ」
「ウチも子供の頃は分かったけど、もうカマキリとか触れないし」

 でもたしかに、そういう感覚はわかるかもしれない。昔は街中で逆立ちだってできたし、靴が邪魔だと思ったら裸足で外を歩いたりもした。
 でも、今はそんなことしないと思う。世界の解像度が上がって、選択肢は減ってしまった。

「あ、ちょっとコンビニ寄っていーい?」
「いいですよ!」

 事務所の近くの緑のコンビニ前で、愛依ちゃんが立ち止まった。ここからコンビニに入るには日陰を出なければいないけど、愛依ちゃんは何事もなさそうに歩いて行った。
 ジャンプで届きそうな影を探してみたけど、植木鉢の小さな影しかなかったので、流石に諦めて日向を歩いた。ゲームオーバー。

 愛依ちゃんが開けた自動扉を潜ると、事務所よりも冷たい空気が顔に当たった。顔の次に、体を包み込むように冷房がわたしを冷やす。気持ちいい。
 「あー」という声がハモって、愛依ちゃんも同じ気持ちなんだと知る。当然なので別に笑いはしないけど、嬉しくて、胸が躍った。

 愛依ちゃんが冷蔵庫から水を取り出すのをぼーっと眺める。扉を開けた時に冷蔵庫の空気が冷たくて気持ちよかったけど、棚が邪魔で中には入れなかった。扉なのにその先は行き止まり。変なの。

「あさひちゃん、アイス買ってあげよっか」
「やったー」

 別に欲しくはなかったけど、愛依ちゃんが何か買ってくれるのが嬉しくて、甘えた声を出した。適当な棒アイスを選ぶ。愛依ちゃんはチョコの高そうなやつを選んでいた。
 アイスを取るついでに右手を冷凍庫の底に突っ込むと、やっぱりすぐ行き止まりだった。気持ちいいのに。

 アイスを齧りながら歩く。袋は捨てたから、溶け切る前に食べてしまわないといけない。
 後から喉が渇くのはわかってるのに、アイスって喉が潤ってる気がする。美味しい。一時凌ぎでしかないのに。
 最後の信号が赤になって、愛依ちゃんと2人で少し後ろ向きに歩いて影に入る。しまった。ここは長いのに。この間もここで雲を眺めていた。
 この時期に信号待ちは暑くて焼けてしまう。少し会話がなくなって、はた、と思い出す。

「そういえば愛依ちゃん」
「んー」
「将来何するか決めてるっすか?」

 最近のホットテーマを場に浮かべてみる。プロデューサーさんや冬優子ちゃんは、多分決めてる。果穂ちゃんは、たぶんきめてない。じゃあ、愛依ちゃんは、

「なーんも!」
「え」

 別に大したことなさそうに、チョコをパリッと噛み砕きながら愛依ちゃんは答える。口に物が入っているから、ちょっと声がこもってる。かわいい。好きだ。

「そりゃもちろん、しばらく先の仕事の予定とかはわかってるけどさ」

 愛依ちゃんは横目でわたしの顔を見ると、ちょっとだけ目を逸らして「んー」と唸った。この人の目に、わたしがどう映ったのかはわからない。

「これからずっと先にさ、どういう人と仲良くなればどんな仕事が回ってくるかな~とかはウチだって考えてるけどさ」

 冬優子ちゃんの受け売りだけど、と付け加える。

「考えてるけど、でもやっぱ会う人みんなと仲良くして損はないし。1年後に何してるかはわからいかなぁ~」

 プロデューサーの受け売りだけど、と付け加える。
 超絶大人気アイドル! ってほどでもないしね! とも、ちょっと困ったように付け足した。

 まあ、それはそうか。アイドルのことはそんなにわからないけど、昆虫だって環境が変わればいなくなる。もう2年くらいミヤマクワガタ見てないし。考えても無駄なことだってある。
 だから、明日もなんとかなると思ってる。

 でも、みんなを見てると、ウチも思うよ。愛依ちゃんがアイスの最後の一口を食べた。わたしも真似して、少し多いけど最後の一口を頬張る。
 信号が変わった。私たちと同じ向きに並んでいた車がゆっくりと進み始める。風が起こって、背中の汗がぬるくなる。

「ウチも将来のこと、考えなきゃなーって」

 事務所の階段を登っていると、愛依ちゃんのスマホが鳴った。

「あ、冬優子ちゃんだ」

 コンクリートの階段は涼しくて、この石には熱を吸収する効果があるんじゃないかと思う。触ってみたらひんやりしてて、わたしの手のひらの熱は吸収された。
 愛依ちゃんが事務所のドアに手をかけながらわたしの顔をみた。

「あさひちゃん、いまスマホ持ってる?」
「あー」

 そういえば昨日から触ってない気がする。SNSを見ようとも思わなかった。見るものが溜まってるかもしれない。普段なら陰鬱な楽しさを感じることなのに、今日はそれが億劫に思えた。なんでだろう。
 リュックの中をまさぐってもスマホは見つからなくて、代わりに2週間前に駅前でもらったチラシが出てきた。新しいバーが開店するらしい。未成年なのにもらっちゃった。

 事務所の忘れ物ボックスを覗いてみると、わたしのスマホが大人しく座っていた。そういえば果穂ちゃんと話してた時、机の下に投げっぱなしだった。お待たせ。

 1日ぶりに画面に光を灯してあげると、ツイスタの通知が99件と、冬優子ちゃんからのチェインが溜まっていた。
 どっか連れてってあげるから、都合がいい日を教えて、とのことなので「月曜日とかがいいです」と返信しておいた。冬優子ちゃんとお出かけだ。楽しみ。日程は正直どこでもいい。稽古がある日ならいつでも行ける。

「あさひちゃー、アイスのゴミー」

 愛依ちゃんと予定が被ることはないと、これまでのことでわかってたから、誘いはしなかった。

「はーい」

 左手に持ったアイスの棒は、何も書かれていないシンプルなデザインだったけど、噛み跡が付いて歪んでいた。

更新終えたなら終えたって書けば?

次も楽しみ。

期待

 愛依ちゃんは社長さんと何か話した後、少しだけリビングで涼んで帰ってしまった。名残惜しくて駅まで見送った後、また事務所まで1人で歩いた。プロデューサーさんから話があるって社長さんが言ってた。
 帰り道は何を考えていたか覚えてないけど、この前の木に蝉の抜け殻があったことだけは覚えている。あの幼虫が残したものかどうかはわからないけど。

 ホワイトボードにはプロデューサーさんがもうすぐ帰ってくると言うことが示されていて、らくがきは消されてなかった。うまく描けたと思ってたのに、今見ると形が歪んでる。親指で雑に消した。
 1人のリビングでは静けさを持て余してしまったので、逆立ちで社長室まで向かった。足でノックをしても意外に音が鳴らなくて気づいてもらえなかったので、仕方なく普通に立ってノックをした。本当は逆立ちしたまま扉を開けてもらいたかったのに。

「舞台の千秋楽、私も観に行けることになった」
「本当ですか」
「あぁ。楽しみにしてる」
「やった~」

 ソファで黒飴を噛み砕きながら、社長さんとお喋りをした。そんなに盛り上がらなかったけど、耳に響く低い声が気持ちいいので、適当に相槌を打ちながら、身体を揺らして聞いていた。

 社長さんはしばらくひっきりなしに喋っていたけど、4つくらい話題が終わると黙ってパソコンに向き合ってしまった。

 じーっと顔を眺めてみる。
 キーボードを叩く音が聞こえる。窓の外から微かに蝉の声が聞こえる。エアコンのこもった音が室内で反射して、濁った響きはまとめてわたしの鼓膜を揺らした。

 普段、プロデューサーさんをこうして眺めていると、なんだか目を逸らしたくなってしまう。ずっと見ていたいのに、でもずっと見ていられない。社長さんはそんなことはない。
 わたしの視線に気がついてちょっと恥ずかしそうにしてるけど、別にわたしは目を逸らそうとは思わないし、でも別にずっと見ていたいわけではない。
 うーん。

「見て欲しいっす、社長さん」

 飽きたので、最近覚えた振り付けを見てもらった。社長さんはパソコンを閉じて真剣に見てくれて、そのあとアドバイスをくれた。言う通りにしてみると、心なしかレベルが上がった気がした。
 
 その後もプロデューサーさんが来るまで他の振り付けだったり、舞台の演技だったりを見てもらってたけど、社長さんはまあまあ楽しそうにしてくれてたので良かったと思う。わたしもまあまあ楽しかった。

 社長さんとは仲良しだ。

 プロデューサーさんは、帰ってくるなりわたしをリビングに呼んだ。プロデューサーさんとおしゃべりできるのは楽しいので、わたしは社長さんにまた明日を告げて部屋を出た。わたしが去った後のあの部屋には、どんな音が残るんだろう。

 ソファに座ると、熱いマグカップが2つ机に置かれた。薄い湯気が空気に吸い込まれていく。
 わたしにはミルクが入った色の薄いやつを出してくれたけど、コーヒーは別にミルクを入れても甘くはならない。プロデューサーさんは苦い水を啜っている。

 わたしも真似して啜ってみたけど、熱いし、甘くはないし、よくわからないからちょっとしか飲まなかった。プロデューサーさんは下手な雑談を振ってきて、なんとなくわたしをリラックスさせようとしてるのが伝わってきた。この人は大事な話をしようとすると急に不器用になる。かわいい。

「次の舞台の仕事のオファーが来たんだ」
「いいっすよ」

 いよいよ本腰を入れて声音を変えてきたけど、さして重要そうな話でもなかったので、わたしは即答した。

「あさひ、そうじゃないんだ」

 けど、プロデューサーさんは声音を変えない。わたしの目を見てる。

「?」

 8秒くらい見つめ返したけど、なんだか恥ずかしくて逸らした。心臓が大太鼓になったみたいに胸が痛い。
 冷蔵庫の駆動音が大きくなったことに、わたしは気付かない。

「次の舞台は日替わりキャストの準主役なんだ」
「それがどうかしたんですか」

 準主役くらいなら、前にもやったことがある。確かに練習量は増えるし稽古も厳しくなるけど、それがこんなに彼を難しい顔にするものだった記憶はない。

「それまでよりも規模自体が大きな数舞台なんだ、だから……」

 プロデューサーさんは言葉を詰まらせて、両手のひらを強く握っている。目線はマグカップの水面を向いていて、迷っているのがなんとなく伝わってきた。

「あさひは将来、何になりたい?」

 心臓が揺れる。プロデューサーさんの目を見た時とは違う方向に。

「…………」

 プロデューサーさんを見ながら何を言葉に迷っているんだろう、と考えていたのに、今度は私が言葉に迷っていた。
 何になりたいか。そんなの、

「わかんないっすよ」
「……そうだよな」

 プロデューサーさんは話題を変えたみたいで、今度はするすると言葉を続け始めた。
 もし、この役を務めるとなると、練習量も増えることになる。これから先舞台をやっていく、という選択肢は大いにあると思う。
 おれはできると思うし、そんなあさひをみてみたいと思うけど、もしそうなると、普通に大学に通うのは厳しいかもしれない。

 普通の大学に通うのは厳しいかもしれない。なんとなく、自分は高校を卒業したら大学に入って、これまでより楽しいことを研究できると思っていた。

 たぶん入れるには入れるだろうけど、あさひがやってみたいと思ったことを、すぐにできるような上の大学は難しくなる。何より、入ってからもうまくいかないかもしれない。大学だって好きなことだけをできる場所ではない。
 もちろん大学は後から入ることもできるから、もし舞台を引き受けるなら、今後少なくとも5年くらいかけて、舞台に対して本気で取り組んでほしい。アイドルとして、芹沢あさひとして。

 プロデューサーさんは、慎重に言葉を選びながらそう言った。ずっと目があっていた。わたしの心臓はいろんな方向に揺れている。

「じゃ……」

 返事をしようとすると、口の中がべたついて、少し咳き込む。

「じゃあ、プロデューサーさんは将来、なにしたいっすか」
「え?」
「プロデューサーさんは、将来……っす」
「おれの将来は関係なくないか」
「あります」

 ずっとわたしを見てくれるって約束した。わたしの隣にはプロデューサーさんがいて欲しい。だから、わたしだってそうである将来を選びたい。

「おれは……」

 喉はべたつくけど、コーヒーを飲もうとは思わない。プロデューサーさんの声を聞き逃したくなかった。

「ずっとみんなを支えられたら、って思うよ」
「…………」

 薄々気付いてはいた。

「そっすか」

 みんなを、ってことは、それはわたしも含まれるんだろうけど、でも結局、

「プロデューサーさんは、わたしだけを見てくれてるわけじゃないんすね」

 浮かんだ言葉は、べたついた喉に張り付いて、声になることはなかった。

今回の更新終わりですか?

pixivでやればいいのに


楽しみにしてるのでそのまま続けてくれ


待ってる

長いだけで内容がない

 月曜日になった。

 舞台の準主役の話はまだ時間があるから、ゆっくり考えてくれ、とあの日は答えを出さないまま解散した。その日のシャワーは長かった。

 今日は冬優子ちゃんに会える日。事務所で待ち合わせをしていたので、社長さんと少し遊んでから、冬優子ちゃんの仕事が終わるのを待った。
 今日はバーに連れて行ってくれるらしい。バーってお酒を飲むところ? 未成年も入っていいのかな。
 なんでバーなんだろう。この前リュックの底から出てきたバーのチラシを思い出す。あれどこにやったんだっけ。冬優子ちゃんに渡した覚えはない。

 耳を澄ませると、外の木からクマゼミの鳴き声が聞こえてきた。珍しい。エアコンが付いてるから迷ったけど、窓越しではあんまり聞こえなかったから、少しだけ隙間を開けた。外の熱と一緒に夏が流れ込んでくる。賑やかになった。
 1人の広い部屋は家と変わらなくて、たまにポツンとした気持ちになるけど、ここは家と違ってたくさんの人がやってくるから、寂しいけど安心感はあった。変わらないもの。

「お待たせ、待った?」
「待ってないっすよ」

 冬優子ちゃんは予定の10分前にやってきた。服装はいつもと同じで可愛くて、髪はアイロンをかけたのかツヤツヤして見えた。

「そう」

 わたしはバーに行くと聞いて、一応襟付きの私服を着てきたけど、冬優子ちゃんの服装を見る限りそんなにドレスコードとかはなさそうだった。
 大人のお店はわからない。

 夜ご飯は普通にファミレスだった。夜にお店に入る前に他のお店に入るの、ちょっと罪悪感がある。無駄に緊張して歩いていたから、冬優子ちゃんに笑われた。
 わたしはハンバーグを食べた。冬優子ちゃんは坦々麺を食べていた。

 その後タクシーに乗って駅の近くまで行って、冬優子ちゃんがよく行くというバーに連れて行ってもらった。

「誰かと一緒に来るんですか?」
「別に、たまに誰かといることもあるけど……基本1人よ」

 誰かと、とは言ってたけど、誰とは教えてくれなかった。
 横顔を眺める。何よ、と言われたので、別に、と答えた。

 冬優子ちゃんが扉を開けてくれて、促されて中に入った。細長い部屋。薄暗い空間に、青っぽい間接照明が店内をほの明るく照らしている。壁にお酒が並んでいて、どれも半分くらいしか量がないけど、どれもカラフルで化学の実験室みたいだった。
 いつも入るようなお店とは全然雰囲気が違って、息が詰まる。他にお客さんはいないみたいだった。

 店員さんに案内されるのを待っていると、冬優子ちゃんが「こっち」と勝手に歩いて行ったので、どうしようと店員さんの顔を見ると、特に気にする様子もなく「お疲れ様です」と言っていた。いらっしゃいませじゃないんだ。店員さんは1人しかいない。

「何系が飲みたいとかある?」
「え……」

 わたしがキョロキョロしていると、上着を脱いだ冬優子ちゃんが、ファミレスの時よりちょっと大人な声で尋ねてきた。

「全然わかんないです」
「声ちっさ」

 冬優子ちゃんにクシャっと頭を撫でられる。照れる。

「オレンジ系とグレープフルーツ系だと?」
「グレープフルーツがいいっす」
「じゃあブルームーンと、スプモーニをノンアルで」

 何を言ってるのかさっぱりわからなかったけど、店員さんが動き始めたので注文だったのだと思う。

 丸椅子に座ると目の前のお酒がより光って見えて、下から照らされているビンはそれぞれがカラフルな照明みたいだった。冬優子ちゃんがわたしの顔を眺めている気がしたけど、それより物珍しい店内が気になったので、わたしもいろいろ眺めていた。

 カウンター席の端にメニューがあったので開いてみると、料理かと思うような値段が書いてあって、声が出た。すぐ閉じる。

「何」
「いや……」

 財布を開いて中に入っているお金を確認する。昨日おろしてきた1万円札が4枚と、その倍の量のレシート。なんだか恥ずかしくなって、レシートはくしゃっと丸めてリュックに詰めた。

「4万円で足りるっすよね……?」
「出すわよ今日くらい」

 冬優子ちゃんはカウンターに肘をついて、手のひらに顎を乗せていた。こうして暗い中で見ると、髪を切ったことも少し紛れて、昔の彼女に見える。
 ほんとに髪ないのかな、と思って冬優子ちゃんの背中あたりで手を振ってみたけど、冬優子ちゃんは何も言わなかった。

 いつのまにか、目の前にグラスが置かれていた。冬優子ちゃんの前にブルームーン、わたしの前にスプモーニ。さっき言ってたのを覚えた。

「じゃあ、カンパイ」

 冬優子ちゃんは三角に足が生えたみたいな不安定そうなグラスを指で摘んで、軽やかにわたしの方に傾けた。

「いただき……ます」

 わたしのグラスは普通の水を飲むやつみたいな円錐形だったけど、どうやって持てばいいのかわからなくて、両手の指先で繊細に持った。合っているかどうかはわからない。
 グラスをぶつけるのかと思ったら、触れない程度で離れていったので、慌てて引っ込めた。音は鳴らなさいんだ。

 冬優子ちゃんのお酒は、ブルームーンという割には青くなかった。どっちかというと紫っぽい。愛依ちゃんの色だ。
 わたしのスプモーニは、オレンジ寄りの明るい赤だった。こんな赤い食べ物トマトくらいしか知らない。でもトマトの味はしない。よく考えたら、わたしの色だ。
 苦い。お酒は入っていないと思うけど、なんだかちょっぴり大人な気分になった。

「なんで急に大人なお店なんて行こうと思ったのよ」

 静かにグラスを置きながら、冬優子ちゃんが前を向いたまま尋ねてきた。店員さんを横目で見ると、程よく離れたところにいて、会話は聞こえてなさそうだった。

「えっと……」
「……いや、あんたももうガキじゃないしね」

 冬優子ちゃんが脚を組み直す。

「なんとなく、まあ、言わなくても良いわよ」

 スプモーニは苦い。

「そうですか」
「敬語も少しはマシになってきたし」

 冬優子ちゃんは空のグラスを傾けると、お店の人に同じものを注文していた。
 わたしのは普通のコップで来たからまだまだ残ってるけど、冬優子ちゃんのは猫の水飲みのような量しかきてない。あれいくらするんだろう。やっぱり3000円とかするのかな。

 静かな時間が流れる。少しソワソワしながらちびちびとスプモーニを飲んでいると、他のお客さんがやってきた。男女2人。
 冬優子ちゃんの方を見て指示を仰いだら、特に帽子を被るようには言ってこなくて、冬優子ちゃんもマスクは外したままだった。普段から来てるみたいだし、そういう場所なのかもしれない。
 横目で眺めると、女の人は機嫌が悪そうで、男の人は甲斐甲斐しく上着を預かったり注文を決めてあげたりしていた。なんとなくだけど、わたしたちと同じような仕事をしている人たちに見える。
 そういえば、果穂ちゃんは今日浴衣で撮影があるって言ってたな。

 人を眺めるのは好きだけど、こういう場所だとあんまり良くないと思って、すぐに目線を冬優子ちゃんに戻した。
 細い喉が波打って、青いお酒が吸い込まれていく。可愛いというより綺麗だ。

 ピアノの曲が流れている。生演奏ではないけど、スピーカーから流れてくる音は不快ではなかった。グラスに水滴が浮かぶ。指でぬぐうと、まとまった大きな水滴は、コルクのコースターに吸い込まれていった。重力。

「カルーアミルクを」

 冬優子ちゃんはまたグラスを空にした。ちょっと早い気がするけど、大人はそういうものなのかもしれない。

「聞いたことあるやつっす」
「居酒屋とかにもあるしね」

 わたしも残り半分のスプモーニを一気に流し込んだ。苦い気がしてたけど、たくさん飲むとちょっとだけ甘みを感じた。でも苦い。
 お店の人は無言でグラスを片付けると、流れるような動作で新しいお酒を作り始める。

「あんたもなんかいる?」
「えっと……じゃあ」

 そう言われても、咄嗟に思い浮かばない。えっと、

「同じやつで」

 お店の人は頷いた。大丈夫かな。冬優子ちゃんと同じやつが来たらどうしよう。

「気に入ったの? アレ」
「まあ、はい」
「そう」

 冬優子ちゃん、いつもより低くてかっこいい声だな、と思って横を見ると、彼女の頬は少し赤みを帯びていた。もしかして酔ってるのかな。可愛い。お酒ってすごい。

 先にカルーアミルクが運ばれてきて、また冬優子ちゃんは半分くらい飲んでいた。喉が滑らかに揺れる。雰囲気や頬の赤さが相まって、ちょっと扇情的な感覚を抱く。ゴクリ。喉が鳴った。

 スプモーニじゃないやつが目の前に置かれて、わたしが少し動揺していると、お店の人が「少し甘めのものにしました」と小声で囁いてくれた。グラスの中身は、照明が乱反射して水色で綺麗な光を放っている。
 嬉しい。次からマスターって呼ぼう。

 一口飲むと、爽やかなカルピスみたいな味がして、スプモーニより断然飲みやすかった。美味しい。

 冬優子ちゃんは苦いお酒を飲むし、プロデュースさんも苦いコーヒーを飲む。大人になると苦いのが美味しいのかもしれないけど、わたしにはまだちょっと早いみたいだった。

「あんた、あいつのこと好きでしょ」
「、え」

 グラスを握った手が固まる。
 宙に浮いた脚が冷える。
 スニーカーはキツい。

 急に隣から飛んできた言葉は、頭を貫く矢のようにわたしの脳に刺さって、すぐに言葉が出てこない。
 潤った喉からも、返す言葉が浮かんでこなくて、わたしは、

「それは、冬優子ちゃんも……」

 グラスの水滴が右手に落ちる。重力。

「そうね、好きだったわよ」

 気付かないうちに、変わっているものがある。

「好きだった、て……」

 過去形だ。ということは、今はもう、

「言葉選んだんだから汲み取りなさいよ」

 酔った冬優子ちゃんはちょっと早口で、さっきより甘い声になっている気がする。

「フラれたのよ」
「…………」
「あいつに」

 何も言ってないのに、冬優子ちゃんは最後まで言ってくれた。わたしが急かしたみたいな言い方してるけど、この話題を急かせるほどわたしは器用ではなかったし、わたしなりに気遣いは学んでいるつもりだった。

 冬優子ちゃんは、そのままゆっくり話を続けてくれた。わたしに話している、というよりは、1人で振り返っているような印象を受けた。

 話自体はなんでもない。登場人物を2人のキャラクターとするなら、たいしたことのない、無名の頃に経験を積むために出演するような脚本と大差ない話だった。ヤマもオチも平坦だ。
 仕事で知り合った2人が信頼し合うようになって、片方はそこに別の感情を持ってきた。もう片方はその感情を抱いてなくて、打ち明けた後、少し気まずさは残るけど元の関係のまま続いていく。

 問題は登場人物はキャラクターではなくて、冬優子ちゃんと、それから、プロデューサーさんである点だった。

 そして、わたしもプロデューサーさんのことが好きだから、この話を聞いていて、心臓がいろんな方向に揺れたのだと思う。

 事情は大体わかった。

 冬優子ちゃんは最後に、愛依には話したからあんたにも、と思ったから話した、と言った。

「あんたももうガキじゃないしね」

 グラスに残ったカルーアミルクを飲み干すと、また聞いたことのない名前のお酒を作ってもらっていた。マスターと目があったので、頷いておいた。マスターも頷いてくれた。

 もしかすると、わたしにこの話をするために、たくさんお酒を飲もうとしてたのかもしれない。わたしにはまだわからないけど、たぶん酔うと話しやすくなるのだと思う。話題が話題だし。
 そう考えると冬優子ちゃんが愛おしく思えて、カウンターの上に置かれた手を握りたくなった。握った。
 冬優子ちゃんはしばらくじっとしてたけど、掌を返して握り返してくれたから、繋いだ手はカウンターの下に隠して2人の秘密にした。
 彼女の手は熱かった。

 プロデューサーさんの手は熱いのかな、と考えたけど、気恥ずかしくてすぐ別のことを考える。

 冬優子ちゃんはかわいい。本人がかわいくなるための努力をしているから当然だけど、それにしてもかわいい。
 出会った頃の冬優子ちゃんと今の冬優子ちゃんは全然違うけど(髪も切ってるし)、根本的な部分は変わってないし、今だってわたしは冬優子ちゃんが好きだ。プロデューサーさんとは違う好き。愛依ちゃんと同じ好き。

 そんな冬優子ちゃんの、心なしか弱った姿を見て、わたしは見てはいけないものを見るような気分になる。握った手が熱くて、離す気にはならなかった。

「冬優子ちゃんは、」

 わたしは反対側の手でグラスの水滴を撫でながら、聞こえるか聞こえないかくらいの声で話しかけた。

「冬優子ちゃんは、これからどうするか考えてるっすか?」

 運ばれてきたお酒は薄い緑色で、赤いさくらんぼが入っていた。小さなホールケーキみたいなグラスに脚が生えていて、少ない代わりに美味しそう。
 冬優子ちゃんは左手で少し揺らしてたけど、持ちづらい、と言うと、わたしの手を解いて右手で持ち替えた。
 離れた手のひらは急に冷えて、汗をかいていたことに気づく。

 彼女はグラスに浮かんだ液体を一口含んだ後、ぽつぽつと続けた。
 なんとなく、アイツにフラれるまではふわふわと未来を考えてて、言ってしまえばそれは未来ではなく夢だったけど、今は違う気がする。アイツのこと吹っ切れて以降は、しっかりと未来に向き合って、現実的に何をすればいいか明確に考え始めたと思う。

「いや、違うわね」
「……違う?」
「考えようとしてる、ってところかも」


 冬優子ちゃんがさくらんぼを摘んで、いる? とわたしの口元に運んできたので、わたしは指に触れないように赤い実をついばんだ。

「将来は、せめて生きていけるお金を稼ぎながら、私を肯定してあげたい」

 口の中で赤い実を潰す。お酒の香りが舌の上に広がって、思ったよりも強いアルコールに身体が動揺した。
 冬優子ちゃんが自分のことを「私」と呼んだことに違和感を覚えたけど、それよりも難しいその発言を頭の中で咀嚼した。

 まあ、なんというか、

「あさひには私が大人に見えてるみたいだけど、ふゆも案外、何も決められてないわよ」

 返事はせずに、さくらんぼの実を種ごと飲み込む。今のわたしたちの口の中は同じ味がしていると思うと、一歩だけ、冬優子ちゃんを近くに感じられたような気になった。

またそのうち書きます

待ってる

書き手に主体性のない、『どこかでみたキャラクター像』でしか動けてない登場アイドルたちのお話ですねぇ……
もうちょっとオリジナリティとか考えて書いてください。 ま、がんばれ

>>63
なんだこのゴミ

 カチ。

 1週間が経った。

 何事もなく時間は過ぎて、わたしは舞台の準主役を引き受けるか悩んだまま引きずり、今の舞台の稽古を仕上げていた。もうすぐ本番。
 いざ悩んでみると今を過ごすことに精一杯で、改めて考える時間というのはなかなか生まれない。でも、明日には答えを出さなければならない。
 わたしの中で転がっている不安は、手をつけないまま孵化しようとしていた。

 レッスンが被って、久しぶりに果穂ちゃんと並んで踊った。曲は全然違うから一緒なのは前半の基礎レッスンだけだったけど、交代しながら振り付けを見てもらってる時間、ぼーっと果穂ちゃんを眺めてると、また背が伸びてるような気がした。

 シャワシャワシャワ。蝉の声。
 風が吹くと制汗剤の香りが強くなって、暑い空気とは対照的に鼻の奥は涼しくなった。

「お腹空きません?」
「ペコペコかも」

 2人で少しまったりしたくて、どちらからともなく事務所に向かってゆっくり歩いていた。

「商店街寄りましょうよ」
「いいね」

 商店街になった。

 何も考えていない。これくらいの心持ちで行き先が決まればいいのに。
 空は晴れていたけど、風がよく吹く日で、不思議と汗は流れなかった。暑くはあるけど、日陰を歩けば何とかなる。

 果穂ちゃんと何でもない話をしながら歩いていると、ふと声音が前と違う気がした。ちょっと明るくなった気がする。

「最近何かあった?」
「んー?」

 返事がしばらく帰ってこなくて、代わりに街路樹の蝉がシャワシャワと間を持たせる。
 スニーカーがキツい。

「ファミレスに行きました! 放クラで」
「え、すごい。5人で?」

 前に会えないという話をしていたから、ちょっと驚いた。3人でも集まるのは難しいのに、5人がたまたま集まるなんて。
 商店街が見えて、2人とも少し歩調が早まる。

「はい、たまたま揃ったんですよ」

 商店街はミストが吹いていて、どちらからともなくその中に入っていくと、思ったよりしっかり顔が濡れて2人で笑った。

「あさひさんは?」
「わたしはね、冬優子ちゃんとバーに行った」
「バー?」
「そう、お酒が出るところ」
「かっこいい~」

 飲むんですか? と聞かれたので、まだ飲んだことないよ、と笑う。気になるけど、流石に人前では飲むことはない。ダメなことをして見つかってしまうと、プロデューサーさんに迷惑をかけてしまう。

 そういえば、さっき何となくプロデューサーさんの話が出てきた時、果穂ちゃんの声音がいつもと変わらなかった。最近はちょっとひっかかるところがあったのに。

「果穂ちゃん、何かあった?」
「んー?」
「プロデューサーさんと」

 独特の間が開く。

「別に、何もないですよ」

 何もないらしい。そういうこともあるのかもしれない。何もなくても、変わるものもある、のかもしれない。
 わたしは、自分で決断しなければ変われないところにいる。

 商店街とはいっても買い食いできるところはそんなになくて、目的地はなんとなくわかっていた。
 果穂ちゃんについて行くように精肉店に寄って、150円の牛肉コロッケを2人で買う。5つくらい食べられそうだったけど、持ち歩くのは面倒なので、わたしは1つしか買わなかった。果穂ちゃんは2つ買ってた。

「そいえば、果穂ちゃんもう16歳だ」

 ふと思い出して、口に出してみる。誕生日以来会ってなかったから、16歳の果穂ちゃんとははじめましてだ。

「そうなんですよ」
「おめでとう」
「当日もチェインくれたじゃないですか」

 はは、と果穂ちゃんが笑って、コロッケを大きく齧った。わたしも同じくらい齧ってみると、熱くて口の中を火傷しそうになった。

 歳はふたつ違う。果穂ちゃんはまだ1年生。身長は果穂ちゃんの方が高いし、でも、そんな気はしないけど、一応歳下ではある。そんな果穂ちゃんが、今年もまた先に一つ歳を重ねた。先に行った。わたしはまだ迷っている。

 自分が決めなければならないこと、見つからない判断基準、聞こえてこない孵化の音、頭の中にモヤがかかったように不安が募っていた。

「あさひさん、週末から舞台本番ですよね」

 ぼーっと歩いていると、果穂ちゃんが自販機でいちごオレを買っていた。ガコン。

「そうだよ」

 もうすぐそこまで迫っている。今日は最後の稽古休みだったけど、体力はあったのでプロデューサーさんにダンスレッスンを入れてもらっていた。疲れは溜まらない。
 明日からの仕上げで他のみんなと合わせれば、本番に向けた心配はない。

「見に行きますね! 1番おっきい花贈ります」
「絶対見にいく、開演前に」
「お客さんに見つかっちゃいますよ」

 プロデューサーさんに「本番に向けた心配はない」という話をすると、褒められたことがある。すごいことだって。
 おれはいくら準備しても不安はたくさんあるから、それだけ自信があるのはあさひが才能もあって努力もしてる、ってことだと思う。そして、それができるということは、今やっていることが正解だということかもしれないな。

 この道が、正解なのかもしれない。あの人はそういっていた。

 果穂ちゃんがわけてくれたいちごオレを一口飲んで、手についた水滴を頬に塗る。冷たい。

undefined

「あさひさんも特別ですよ。あたしの中で」
「え?」

 わたしが立ち止まると、果穂ちゃんとの距離はさらに開いた。シャワシャワシャワ。油蝉じゃない。

「わたしは普通だよ」

 頭によぎる言葉がある。

「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」

 誰に言われたわけでもないけど、誰かに言われたように、いつからか頭の中にこびりついている。
 それは、わたしも変わってしまっているということでもあって、何も考えなければ、望まない方向に変わってしまうこともある。それがうまく選べないわたしは、

「ただの人だよ」

 雲が動いて、日陰がなくなる。商店街を抜けて道路に出ると、刺すような日差しがわたしの頭に直撃して、暑さで脳を揺らす。
 何をしても正解ではない気がする。熱を持つ不安はわたしの顔を暗くして、気がついたら目線は足元に落ちていた。キツいスニーカー。

「でも」

 でも、の声が、少し大きくなった。前を歩いていた果穂ちゃんが、こちらに振り返っている。

「あさひさんは、あたしの中では特別です。ずっと前から」

 ずっと前から。
 顔を上げる。目線より少し上に、果穂ちゃんの顔がある。明るい顔だ。

 変わらないものがある。

 変わっていくものもあるけど、その中でも、変わらないものがある。わたしはそれを守りたい。
 そのために選ばなきゃいけないことがある。自信はない。でも、わたしも、果穂ちゃんの中では特別。
 わたしが特別と思っている人が、わたしのことを特別といってくれている。

「わたしも、特別」
「はい」

 もしかしたら、わたしは大丈夫なのかもしれない。
 少なくとも、果穂ちゃんはそう信じてくれそうだった。

 頭の中にあった選択肢が、ひとつになっていた。孵化の音が聞こえる。

>>69

「果穂ちゃんって次の仕事決まってる?」
「え?」

 自分の思考に一区切りついた気がしたので、果穂ちゃんに同じような質問を投げかけてみた。
 急に話題が変わったからか、果穂ちゃんはぽけっとした顔をしている。

 以前より大人な顔つきになったと思う。

 そうですね、と果穂ちゃんはコロッケを齧って、思い出すように空を眺めた。高い。

「しばらくはモデルのお仕事ですね、あとは樹里ちゃんとラジオがあるかも」

 前に果穂ちゃんがゲストのラジオを聴いたけど、意外に低くなった声が聴きやすくて耳に馴染んでた記憶がある。向いているかもしれない。

「じゃあ、これからはラジオとモデルでやっていく感じ?」
「? そんなことはないと思いますけど……でも、ありかもです」

 まだ先のことはわかりませんし。

 果穂ちゃんの言葉に、歩みが止まる。アスファルトを擦る靴の音は、ジャリッと足の裏に振動を与えて、それが頭まで伝わってくるような錯覚をする。

「なんだって出来ますからね、アイドルは!」

 すごいな、と思う。先のことを考えても不安にならなくて、そして選べるものならすぐに決めてしまえるというのは、

「特別だね、果穂ちゃんは」

>>69

 わたしはまだ迷っている。

 舞台の仕事を引き受けることに抵抗はない。でも、今回の仕事はいつもとは違う。それはプロデューサーさんの言葉でそう伝えられたし、声や様子もいつもと違った。
 これを引き受けることが、そのままわたしの将来に繋がるのかもしれない。

 これまでプロデューサーさんが撮ってきた仕事は、だいたい何も考えずにやってきたし、それなりに上手くやってこられたと思う。
 けど、今回はたぶん違う。あの時のプロデューサーさんの目を思い出す。一瞬しか見てないはずなのに、鮮明に覚えている。それだけ真剣だった。

 わたしはプロデューサーさんにずっとわたしのことを見ていて欲しい。それは当たり前のことだと思っていたけど、当たり前だと思っていた冬優子ちゃん、愛依ちゃんはどんどん変わっていってしまった。もしかしたら、プロデューサーさんだって、いつかは変わってしまうかもしれない。

 なら、そうならないために、わたしは彼にずっと見てもらえるように先のことを考えなければならない。

投稿ミスって申し訳ない
またそのうち

なんか泣けてくる

まだ?

まだ?

エタったか

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom