レンアイカフェテラスシリーズ第153話です。
<過去作一覧>
・北条加蓮「藍子と」高森藍子「カフェテラスで」
・高森藍子「加蓮ちゃんと」北条加蓮「カフェテラスで」
・高森藍子「加蓮ちゃんと」北条加蓮「膝の上で」
・北条加蓮「藍子と」高森藍子「最初にカフェで会った時のこと」
~中略~
・高森藍子「加蓮ちゃんと」北条加蓮「熱量の残るカフェで」
・高森藍子「加蓮ちゃんと」北条加蓮「ほどほどに賑やかなカフェで」
・北条加蓮「藍子と」高森藍子「表情を見てくれるカフェで」
・北条加蓮「藍子と」高森藍子「私たちの大好きな場所で」
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前回のあらすじ:3日限定の『あいこカフェ』、開店だよっ。
歩行信号が点滅した時にスマフォを取り出すのは、連絡の確認だけ。ポケットにしまい直した私はうんと背伸びながら息を吐いた。
足早に駆けていくスーツ姿と、私とそんなに変わらない歳の女の子達。3人組のうち前髪の向かって右側が自己流に切りそろえられた子が、不思議そうに私のことを見た。アイドルバレした……ということではなく、横断歩道を渡らない私を疑問に思ったみたい。
私も昔は、あんな風に振り返っていたのかな。いい子ちゃんぶって、なんて悪態をついていたのかもしれない。
信号の色が交代し、カラフルな車が行き交っていく。右から左へと流れてゆくほんの数秒で目に入るものと言えばやはり、座席のぬいぐるみ。あと、運転手のサングラス……とか?
視線を移せばチョコレートのような扉がある。大通りのド真ん中にしては隠れ家のような雰囲気を放つ、雑貨屋とパン屋が合体した1軒だ。
お客さんはいるのかな……? いた。細い装飾の凝った腕時計を手首の反対側からちょっとずらしてつけた人が、もう片方の手でフランスパンをトレイに乗せている。
そこまで目で追ったところで、人並みが動き出したことに気付いた。ベビーカーをゆっくりと押すお姉さんが、やっぱり首を傾げながら私の隣を通り過ぎていく。
信号の点滅は守る癖して、横断歩道は駆け抜けた。看板の片足が塗装剥がれしている場所を通り抜けて薄暗い路地を横目に、入り口の左右にそれぞれ違う種類の自動販売機が設置された道を入る。なだらかな坂道を登るのに、私は左手でハンカチを用意しておく。
あたたかくなった、というよりは蒸し暑くなってきた5月中旬。早い地方では梅雨入りも発表された。また鬱陶しい季節が来る……なんて、もう思わない。それよりは傘の色が楽しみという気持ちが強い。
見える物が増えたことと、感情が動かされやすいこと――。
例えば、藍色の花を見かけて名前を思い出す程度には、感情が単純になって、揺れ動きやすくなった、とか。
たまに、藍子がアイドルとして笑顔を見せている場所のすぐ近くにいる時がある。お客さんに紛れること……よりは、スタッフとして混ざる方が多いかな。いつかの握手会の時、それと、気が付けば藍子の隣にいつも私がいることが、色んな人に認めてもらえているんだと分かった頃から、誰に向けているのか分からない建前を持って藍子の側にいることがある。それって同時に藍子の見ている景色、藍子を迎え入れているファンのみんなの顔が見える位置にいるってことでもあるよね。
まっ、私がその一部になることもあるんだけど。
握手会でも、LIVEでも、藍子を見る人々の目は優しい。大半が口元を自然に緩め、そうでない人も穏やかな眼差しで、身体がゆらゆらと揺れている人も極端な感情の揺れ幅は見られない。
それがなんだか不思議に思えた。だって私は、藍子の待っている場所へ歩いていくだけでもこんなにもあれこれ考えてしまうのだから。
あぁでもよく考えてみたら、私もそうだっけ。藍子と会ったら、私もそうなる。怒ったり笑ったり、自然と仮面が剥がれ落ちる感触はあるけど、それでも時間や空間に溶け込めていくような、藍子風に言えば自然体。全体で見れば特別なのかもしれないけど、1日1日はなんてことのない普通の連続に感情の波は穏やかになる。焦りにさえも似た時間を忘れてしまう。
思えば私、藍子とカフェで過ごした時間はたくさん覚えてるけど、カフェへ向かう途中のことはぜんぜん印象に残ってないっけ……。
自分の中で結論が出たところで、最後の曲がり角へと到着。都会の喧騒を後ろ髪のさらに向こうへと置いてきた場所には、もう少しだけ風が春の香りを残していた。
『あいこカフェ』
ボードにははなまると、薄い橙色のリボンが取り付けられていた。ちょっぴり申し訳無さそうに書かれた「準備中」という文字の横にはサンドイッチとホットドックの形をしたクリップが取り付けられている。ドアの上には来客を告げるベルが、これまた可愛らしいリボンと一緒にお客さんの笑顔を心待ちにしている。
ちりん、ちりん。
優しい音に1度立ち止まりたくなるところまで、きっと藍子の配慮。そうしている間におひさまのエプロンが出迎える。その主は、私の顔を見て、少しだけ悩んで……両手を前で合わせてから、マニュアル通りと言えばマニュアル通り、その中でワンオクターブだけのパッションをひそかに見せる声色で、私を歓迎してくれた。
「いらっしゃいませ、加蓮ちゃん♪」
今日も、藍子は朗らかな笑顔だった。
頭を上げたところでまたおひさまのエプロンが目に入る。つられて頭を2回も下げてしまったのならエプロンの端から肌のラインに合わせたカフェ制服が、足元では濃茶の編み上げブーツとハイソックスが垣間見え、落ち着いた印象をもたらす。藍子のヘアスタイルと言えばおだんごヘアー。今日も健在で、いつもに比べると動きやすく大きめにまとめている。
今日はオープン2日前。そろそろ緊張や、不安が生まれてもおかしくない頃だね。
そんな、自分に向けられたらお節介でしかない感情を半分だけ持って、藍子の立ち姿をもう1度上から見直してみる。
残念なことに、いつもと違うところは全然見受けられなかった。……ふふっ。残念なことに、ね。
「加蓮ちゃん?」
「ううん、なんでもっ。今日もよろしくね、藍子」
「はいっ、こちらこそ!」
と言っても、準備はほぼできている。まず建物自体は街並みから少し離れたところにあるドラマやその他様々な撮影でよく使われる場所を借りた。私もナチュラル&ガーリーのコーデ撮影の時と、あと腕時計と、室内用スポドリのCM撮影で使わせてもらった場所がある。もとから庭が付いていて、初日にして慣れた方々があっという間にテラス席へと作り変えてしまった。
木造の建物にはもともとフロア分けという概念がなく、ほとんどのカフェがそうであるようにドアを開くとワンルーム。個室の類はなし。四方の壁は無機質な白壁の上から、森の深いところで日差しをほどほどに浴びて育った木々を借りたような隠れ家的コーデが施されている。
半分がテーブル席で、半分がくつろぎ席。この辺りはあのクリスマス限定のパーティーカフェと一緒だね。
「……なんか準備することある?」
「今日は内装のチェックし直しと、それからスケジュールを確認する予定です。時間があまったら、当日の練習もしましょうっ」
「はーい。……時間が余ったら?」
「はい。時間があまったら」
「……」
「……加蓮ちゃん?」
「……藍子の口から、時間が余ったら、なんて言葉が出てくるなんて。これは当日は大雨かな」
「もうっ、どういう意味ですか!」
あははっ、怒らせちゃった! 両手をぎゅっと握る藍子から逃げて、内装のチェックに移ろっか。
……作者です。以前書いた形式のまま執筆しましたが、これはさすがに1文字空けた方が良さそうですね。
修正しつつ投稿します。どこか修正忘れがあったらごめんなさい。
まずはテーブル席へと歩いてみた。仕切りのない長机が2つと、手をめいっぱい伸ばして指先が届く程度の間隔で椅子が並んでいる。ふんわりクッション付きで、紐留めにもちっちゃなリボンがついているのが可愛い。
ここに座る人達はきっと、同じ空間を共有する相手を気にしないか、偶然の出会いを藍子みたいに嬉しく思うんだろうけど、一応の配慮として長机には椅子と椅子の中間地点にあたる場所ごとにフラワーアレジメントが置いてあった。クッションと違って、こっちはそれぞれ種類が違うみたい。花言葉……まで意識しているのかな。残念ながら私にはピンと来なかった。あとで藍子に聞いてみよう。
窓際には別の席として、四角テーブルとソファ型の椅子が揃って並んでいる。4人がけのものと2人がけのものがあり、ここにもテーブルごとに小さな造花で飾り付けがされていた。
それから、造花の隣にはメッセージカードが置いてある。持って帰るのは1人1つまで。四角テーブルではなく長机で時間を過ごした人には、帰る際にレジで手渡すようにしている。
カードには、来てくれた人への藍子のお礼の言葉が書いてあるんだよ。昨日まで、ずっと書いてたの。
だいたい「いつもありがとうございます♪」という言葉なんだけど、読点の有無や音譜マークと"っ"の違い、レアな物だともう一言添えられている物もある。文字の違いは藍子発案、レア物を混ぜたのは私が提案した物だった。
ちなみに極一部には、藍子の物ではない一筆書きの花びらが書いてある物もあったりする。手に取った人は相当ラッキーだねっ。
テーブルはどれもピカピカ。きっと藍子は当日の朝も磨き直すんだろうけど。遮光用の簾も欠けている様子は無し。窓枠のひまわりは生花だよ。雲間の光を少しでも多く浴びようと、花びらをぴんと張っているみたい。もし当日が曇りなら薄白のバラを、雨が降ったらサボテンを置くことも、藍子に確認できた。ここも準備はオッケー。
奥側にある、カフェに入って店内を何気なく見渡した時にパッと見ただけではそこにいる人の顔が分からない位置の2人がけ席には、私のよく知る造花が飾られていた。
思わず、ふんわりと笑ってしまった。花びらの先を小指で弾いて、反対側へと向かおう。
入り口から向かって右半分は、くつろぎスペースになっている。靴を脱いで上がり、壁際に置いたのはまず、このカフェ唯一の置き時計。こっ……こっ……と、1秒に1回ではなく3秒に1回、非常にゆったりとしたペースで針の音を立てる。店員として働く時に時間はいろいろと重要になりそうだけど、お客さんにゆっくりしてほしいという気持ちが上回り、スローモーションな時計が1つだけになった。
大樹の麓に小鳥が集うように座椅子や子供柄のクッションが用意されているかと思うと、足元にも身を埋める丸型のビーズクッションやキューブ型の枕などが無造作に転がっていた。
せっかく靴を脱いで、足を思いっきり伸ばし、他のお客さんがあまりいない時にはこっそり寝転がっちゃうスペースなのだから、整いすぎていても良くないんだって。
掘りごたつを連想させる木組みのテーブルは、端に少し焦げた跡。4人で並んで座れるように、おばあちゃんの家で見るような敢えて色を褪せさせた座布団が敷いてある。
その向こう、店の右上角に当たる場所には室内だというのに大きな大きな木が植えてあった。もちろんセットだけどね。藍子は、色んな道具の中でもこれを特に念入りに手入れしてたっけ。根本に腰を降ろし背中を樹木へ預けてみると、木陰て休んでいる感覚が湧き上がってきた。ここからならカフェの全体が見渡せる。面白そうな写真とか、小物とかを見つけて、チェックしてみるのも良し。木の精霊の気持ちにでもなって、そのまま目を瞑っちゃうのもアリだね。
……私も、目をつむってたら睡魔が襲いかかってきて……寝てたとしても5分か、10分か、それくらいだけど。一応は撮影の準備っていうお仕事みたいな状態なんだし。
ただ目を開けた時に目の前に藍子がいて、かがみ気味の姿勢で片手は膝に、もう片方の手を私に伸ばして、とっても優しく微笑んでいたのは……。
なんだか、すごく印象的だった。
口元の笑みに10%くらいのイタズラ成分が入っていなければ、私も素直に手を掴んでたかも?
出入り口から向かって奥側が、調理場所。キッチンだね。
区切りとなるカウンターは席にしていない。その代わり、背の低いカウンターの上にも小物がたっぷり。とあるテーマパークで有名なキャラクターの編みぐるみから玩具箱に放り投げられていたような飛行機模型。色んな 貯金箱が並んでたりインテリア用の急須が同じ方向を連続して3つ並んでたりと、ちょっとユニークなところも。向こうに見えるキッチンシンクには大量の道具と4つのアラーム時計が、隣の食器棚にはたくさんのお皿が並べられ、ここもいい雰囲気にごちゃっとしていた。
基本的に注文は藍子が対処する、つまり藍子はここにいることが多いんだけど、同時に接客も希望したので、時には違うスタッフさんが調理場に立つことも。だけど必ずどこかの行程で藍子が手掛けている姿を見せるようにしている。
調理箇所は全部で4つ。壁にはエプロン掛けが備わってて、藍子の気分次第で容貌を変えられるようになっている。さてさて、当日そんな暇があるかどうかは……?
半寝起きの私に手を掴んでもらえなかったことにまたしてもぷんすかモードになった藍子ちゃんを片手で払いながら、壁にかかった写真のズレを直す。
くつろぎスペース側の壁にはさまざまな写真がかけられていた。ほとんどはトイカメラで撮ったサイズの物で、2つだけ最新のカメラで撮った物を、不自然にならない程度に引き伸ばした物が混じっている。
トイカメラサイズの写真は、雲がぷかぷかと浮かぶ空、木陰がくっきりと見える場所、燦々とした晴れ模様が想像できる光り輝く砂浜と誰かのピース。今は誰も乗せていないブランコ、色んな人が思い思いに花を一輪ずつ突っ込んだ結果よく分からない物に仕上がった生花、街角で大あくびしている黒猫とカメラを意識している澄んだ眼の白猫、今からでも歩き出したくなるような靴――自然のショットから人工的な物まで、なんの法則もなく、上下も一定の位置を持たずに並んでいる。その隙間を山の上から撮った1枚がいい具合に埋めていて、ぐちゃっとした感じと整えられた様相を両立させていた。
もう1つの引き伸ばし写真は、どこかのカフェの店内。
ある街角にある、あまり知られていない場所。そこでは店長さんと店員さんが1人ずついて、のんびりと経営をしている。店員さんがあるアイドルに夢中になっていて、彼女を見る度に冷静な佇まいが崩れたり、手をあわあわと振り回すことを知っているのは……カフェを知っている人の中でも、本当に極一部。
もちろん店名は出していない。他のお客さんや、件の店員さんも映してはいない。
もしかしたら多くの人は、何の写真だろうと思ってしまうだろう。分かる人は分かるかもしれないけど、きっとそういった人達は真相を言いふらしたりはしないよね。
だから無造作なインテリアの中でも、異色を醸し出すほどに意味のない1枚。誰にでも楽しめる空間を――というフレーズを何度も口に出しながらたくさんの優しさと思いやりを溢れさせた藍子が、店内の目立たない場所に仕込んだ、ちょっとしたワガママなんだよ。
額縁の上に乗った、切りそろえた後の爪よりも小さな埃をふっと払って、また室内の反対側へ。
四角テーブル側には、壁取り付け型のラックと床置きの背の高いチェストが十分なスペースを空けて設置されていた。壁棚を取り付けたのはスタッフさんで、そこに置く小物を選んだのが藍子。大半が家にある、お土産だとか自作の置物、お母さんに借りた物がいくつか混じってるんだって。
ある棚に置いている物だけは全部、今日の為に作った物。赤ちゃんサイズのカップとおままごと用のソーサー、残念ながら開くことはできないミニ書物。16分の1スケールの制服は、藍子のユニット仲間がハマっているゲームの話をした時に、藍子がゲームという遊びそのものに興味を持って、お返しに教えてあげたら事務所全体でブームが起きてしまった、某スローライフなゲームの作り方を真似したの。もちろんこの服は、藍子が着けている物と一緒だよ。
この棚だけが特別ってことは、さて、何人が気付くでしょう? 残念ながらそれを確かめる方法はないけど、だからこそ空想の話題で盛り上がっちゃうのかも。
ひと通りチェックを終えたところで、閉じられた窓の向こうの猫と目があった。
カフェとなる建物の仕切りには簡単な動物避けが施されていて、テラス席に入って来ないようにされてる。
なんとなく追いかけようと外に出て、ベルを鳴らした時点で猫はさっと逃げちゃった。
そんなに怖い顔してたかなぁ、私……。当日は完全に裏方になるけど、ちょっとくらいは気をつけておかなきゃ。
さて、窓から外のテラス席。いつものカフェテラスと同じようにライトカラーのウッドデッキになっていて、出入り口から横に続く壁に沿って植木鉢が置かれているのも同じ。WELCOME、いらっしゃいませの手描き看板は ウッドデッキ出口に置かれていて、こっちからでも入れるようになっている。
丸テーブルには4人がけの椅子で、強い日差しに対応したパラソルが差し込まれている。藍子が何度も、倒れてしまわないか入念にチェックしてたところだ。時期的には雨の方が心配だけど……。降ったら降ってしまった時のこと。お客さんが雨に濡れた時の対処もバッチリだからね。
窓の内側には極薄の水色カーテンが設置されているけど、機能性というよりインテリアの範疇で、基本的に光を遮ることはしない。どうしても日差しが気になる時は簾を降ろすよう決めてるし。
そのおかげでテラス席からも中の様子がよく分かる。今も、店内でスケジュールブックをチェックしていた藍子と目が合った。手をふりふりと振られたので、私も振り返した。けど――
私だから気安く対応したけど、これ、藍子のファンがやられたら熱中症になっちゃうかもね。その対策もしなきゃ! ……なんてねっ。
でも、熱中症対策をしているのは本当のこと。もしお客さんがピンチな時は、裏方担当の私がヘルプに出ると決めてる。いつか藍子に厳しく教え込んだ対策を改めて書いていく間は少し気が引き締まってたんだよね。こんなの使わないに限るけど。
店内へ戻ると、藍子と、それから連絡を終えたスタッフさんがおかえりなさいと言ってくれた。私も片手を上げて、ただいま、と軽く言う。
今ここにいるスタッフさんは私を除いて3人。藍子によると、昔からよく同じ現場にいることが多い人が2人と、今回初めて会った人が1人みたい。
私にとっては全員が初めまして。とっくに顔も名前も覚えたけどね。
「みなさん、そろそろお昼ごはんにしませんか? 5人分のお弁当を、作ってきたんですっ」
藍子がそう言うと、スタッフさんは揃って笑顔を輝かせた。
準備を初めてから、何度も何度も見た顔だ。
「はい、どうぞ。ゆっくり食べて、大丈夫ですからね」
藍子が1人1人へと、名前を呼んであげながら手作り弁当を手渡してあげる。……どっちがスタッフさんなんだか、まったく。
最後に藍子が手渡してくれたお弁当を開けて、長机の角の席に座って割り箸を割る。白ご飯をつまんで、卵焼きを食べて、もう1個卵焼きを食べて、そうしたら隣の席のスタッフさんが声をかけてくれた。20代半ばで、全体的に芯が細く整った顔立ちはお嬢様というあだ名をつけたくなるけど、肩の上で跳ねるギザギザヘアーとまんまるな目、無邪気な笑い顔からして呼ぶとすれば「お嬢ちゃん」。……私の方が年下だから、言ったりしないけど。
そんな彼女は、めいっぱい飲み込んだご飯粒を口端につけたまま私にスケジュールブックの5ページ目を突き出し、ちょっとした確認を求めてきた。自分のブックのメモも確認しながら答えている最中……私が赤い太字で書いた言葉、「自分が北条加蓮だとバレないように! 今回は藍子のステージ」を――ステージ、っていうのはたとえ話だけどね。藍子の世界と書くには一抹の抵抗があったから。文字を目に入れて、バレないようにしなきゃねと呟くと彼女はなにかおかしそうに笑い出した。
たぶんバレちゃいますね!
だって。……なんで? 当日は裏方しかしないからバレないよ。そう聞いた答えが、この人と賭けてるんです! ……返事になってないよ。
彼女の言うこの人とは、2人目のスタッフさんだよ。笑顔が柔らかく、時々見てて不安に思っちゃう引け腰が少し不安な人。中性的な顔立ちだけど男性……なのかな? 名字の一部に、放っておくとすごい勢いで成長し、時には害になる植物の名前が入っているのが印象的で、対照的に名前は海産物を少しもじった物なんだ。藍子とは、CDデビューする以前くらいからの顔馴染みなんだってさ。
そんな竹林の中に筍と一緒に成長の時を待っていそうな人は、ギザギザヘアーさんに肩を掴まれるとものすごく慌てだした。うん、たぶん男性だ。この人も私より10個くらいは年上なんだろうけど男の子でいいや。慌てながら賭けにしたことを全力で否定し、彼女が勝手にやったことなんですという言葉だけなら説得力0の定番フレーズを口にして、でも……と続ける。
おふたりが一緒に活躍されているところは、たくさんの人が知っていますから。
……そう言われて思い出したのは、私達の元に来たファンレター。藍子のそれを読んだことはないけど、私の名前がよく入るようになったと言われたのも随分前のこと。
……アイドルバレって、実は結構嬉しいところがあるんだけど、今回はやっぱり全力で防ぎたいよね。
なんたって、藍子のカフェなんだから。
さて、私を対象とした賭け行為に対してどうイジメてあげようか考えている間、藍子は最後の1人、3人目のスタッフさんとお話をしていた。
少し灰ずんだ目が、ある病院の子供を思い出す。目の下のくっきりとした皺が特徴的の……ただし、年齢は控えておこうね。心の中ではお姉さんって呼ばせてもらおうっと。
見た目通りの聞き役性格、藍子もだいたいそんな感じだから、お互い割り箸をお弁当箱の上に並べてしまい、お昼ごはんがちっとも進んでいない。見なさいよ、こっちのエセ令嬢なんて口の反対側にまでご飯粒をつけてんのよ? だいたい、いくら時間がないからって――そこまで続けたところでやめておいた。なんか、他の人がいる前でそーいうことを言うのって違うと思う。スタッフさんがいくら馴染んだとはいえ今回が初めましてっていうのもあるけど、なんか……なんだろ。分かんないけど……そっか。そうやって藍子をイジメるのは1対1の時だけだね。
うんうんっ。そういうこと。
……頷いた私の笑顔は、よほど圧のあるものだったのか。アオタケさん(仮)がすんごい顔で私のことを見てた。
ナチュラルスマイル、ナチュラルスマイル。
はぁ。
なんとなくを察した藍子が慰めてくれて、箸で自分の分の卵焼きを取り出し。私の口元へと差し出そうとしたところで、慌てて引っ込めた。
好奇の目に頬を赤くするのは、藍子もまた同じようなことを考えたからだと思う。
……ふふっ。これでやらかしたのはお互い同じ。気にしすぎず、和やかにいこっか。
お昼ご飯は、一応お仕事中とは思えないほどのんびりと食べられた。
最後に箸を置いたのは、やっぱり藍子。時計の短針は2を過ぎてもうすぐ3へ差し掛かろうとしていた。
藍子にお礼を言ってお弁当箱は自分で洗い、片付けてからは作業再開。少し気が早いけど、「1時間後にオープンしても大丈夫なくらいの準備」って心がけで進めちゃうことにした。
それぞれのテーブルを改めて磨き直し、藍子お手製のメニューを置いていく。長机の一番手前と一番奥、それから2人がけの四角テーブルのこれまた両端の席にはメニューを開いて置いておく。
中には種類のたくさんあるサンドイッチを始めとして、敢えて家で撮った写真を掲載することで温かみが生まれた定食の案内と、広く知られるレシピを元に事務所のみんなからも手伝ってもらったオリジナルのスイーツが並ぶ。リストに並ぶ一品物も小さいながら写真が添えられていて、見ててお腹が空いてくる。
2ページ目はドリンク一覧。私の好きなメロンソーダや藍子の好きなココアはもちろん、なんといっても右半分を埋めるコーヒーの種類が魅力的だね。銘柄はおしゃれなフォントで。それを見てもピンと来ない方向けには下に、藍子によるとっても簡単で分かりやすい説明が加わっている。
そうそう。オススメを聞かれた時、藍子とスタッフさんはそれぞれ違う銘柄を言うって決めたんだよ。みんな好みの味がすごくバラバラで、どれかに統一しようとした、そのたった1回だけ現場が険悪な雰囲気になりかけた。そこでみんなが良いと思うものをみんなが勧めることを藍子が提案し、それで決まりっ。
一応、私もオススメを1つ選んではいる。……繰り返すけど私は裏方なんだから意味はないんだけどね。ただ、それを伝えてあげた後に藍子が何度かお客さんへの説明の練習をしていたみたいだから、もしかしたらそういうことだったのかも。
そして3ページ目――ここには限定メニューが記されている。
左半分には日替わり定食。もともと「1日目に来た人が、2日目も食べたいと思わせるように」って狙いで提案したけど、よく考えてみたら来客者を抽選式に……それにこの件は後で詳しく話すけど、けっこう人数を絞っちゃってるからアイディアが意味を成さなくなっちゃったんだよね。でも、日替わりのメニューはそのまま続行。みんな限定って言葉に弱いし、藍子のファンのみんなには後で盛り上がってもらいましょう♪
右半分のページにあるのは、季節限定メニュー。
もともとは抹茶のパフェと、春色を残しながら夏の具材を先取りしたパスタを準備する予定だったけど、もう梅雨に入ったって話も聞いちゃったから急遽予定を変えた。紫陽花をポップにした簡単に作れる手作りお菓子に、ほんのひとかけらだけミントの香りを立たせたパンケーキ、あとはブルーベリーワッフルになった。
……そう。ちょっとおかしなメニューだよね。
変更したのはいいとして、そもそもこのカフェは3日限定のオープン。こっちの限定も、ホントなら意味がない。日替わり定食と違って、季節限定メニューは途中で変える予定はない。
季節限定のことは、アイディアから中身まで全部藍子が選んだ。
ここにこれを置いている意味は、どういう意図なんだろう。
これから先も、カフェが続いていく、続けていきたいってこと?
「加蓮ちゃん。加蓮ちゃん、いまいいですか?」
ハッとなって振り返ると、藍子が大きく手を振っていた。玄関に業者さんが来ていて、他のスタッフさんも食材入りのコンテナを運び入れている。
トラックの音も、ベルの音も気付かなかった。考え込みすぎちゃってた。メニューを大げさに閉じて藍子の元へ。
……頭の片隅にしがみ続ける疑問は、ちょっとでも意識した途端に思考を占めてしまう。今すぐに藍子の両肩を掴んであの件はどうするのって言いたくなって……でもそんなことをしたら、藍子は絶対に困った顔になる。もし藍子が決断していたなら、カフェの準備中なんて状態は関係なく私に話してくれるだろうから。
だから今は我慢の時。少しくらい不自然な笑顔になってもいい。
裏方って立場に甘えさせてもらいながら、スタッフさんに混じってコンテナを運び始めた。
その後は当日のシミュレーションも兼ねて、藍子が実際にキッチンに立ち、調理し、それをスタッフさん――当日はこの場にいないスタッフさん含め数人が店員となり残りが裏方へと回る。例のギザギザヘアーな、当日は店員となるスタッフさんが荒い性格とは裏腹に、あるいは見た目通りに丁寧に運んでいって、お客さん役のアオタケさん(仮)へお出しする。それを何度か試し、メニューごとにかかる時間が想定と少しズレていたことに気がついてからは、全員でスケジュールブックを持ち合わせて再確認。そうこうしているうちに日が暮れて、夜が来て、今日はおしまいってことになった。
日が変わって開店前日。もう1回だけシミュレーションをして、時間のズレや接客態度、導線とトラブル対処まで確認する。
企画当初からPさんと打ち合わせし、ある程度のノウハウを引用したこともあって、どこも引っかかる部分はなかった。
「これならもう大丈夫ですねっ。あとは明日からです。お客さんが笑顔になれるように、頑張りましょう!」
藍子の号令にみんなが声を揃えた。歓声と安堵と、中にはちょっと間延びした声も。どうも不安が拭いきれないというか、当日が近づくこと、シミュレーションに伴う現実感に、むしろ藍子以上に緊張してしまっているらしい。
もちろんそれは、今日もギザギザヘアーさんに肩組みをされている竹の男の子だった。
……なんか、ダメ出しされそうなあだ名になっちゃってない? こんなことで相談するのも馬鹿みたいだから、別にいっか。
竹の子くんが埋め直されているのは放っておくとして、佇まいがお淑やかなお姉さまは連絡中。ってことで、私は藍子のところに行こうっと。
「ねえ、藍子――」
名前を呼んだ。
反応が返ってきたのは、随分と遅れてからだった。
その間の藍子は……ずっと、店内を見つめていた。
すごく嬉しそうに微笑んでいる。
――期間限定とはいえ、藍子は自分のカフェができあがることにすっごく喜んでた。
打ち合わせの間も何度笑顔を見たことか。スタッフさんの笑顔を見飽きたというのは、藍子から伝播する機会が何度もあったからという意味でもある。
藍子のカフェ好きな部分、一度語りだすとゆるふわを置き去りにして聞き馴染む熱弁を振るい出すこと、何よりも理想の実現――みんなに笑顔を、癒やされる時間を。藍子の信念に最も沿う形が作られていくことの嬉しさは、私でも想像きれないほどだと思う。
そんな膨大な感情を、優しい微笑に乗せていた。
しばらくが経って、ゆっくりと振り返る。
私はただ、どうでもいいことが喋りたくてテキトーに話しかけただけ。
今の藍子の顔を見ると……もっと、本音の部分を出したくなってしまう。
それは、今言うべきではないこと。
……もしかしたら、藍子が話すまで待ち続けた方がいいことなのかもしれない。
口を閉ざしかけた。
でも喋ることをやめることをやめた。
だってさ、こういう時に自分の気持ちに従って、相手のことを思いやるなんて独善的な考えを捨ててしまうのが、いつもの私達でしょ?
「この後のこと、決めた?」
藍子は最初、明日から始まる3日間のことだと思ったみたい。不思議そうに首を傾げ、そして私の言葉の意味に気がつき、わずかに目を見張る。
「カフェのこと。……どう? 実際に『あいこカフェ』がこうして形になった……なりつつある訳だけど、藍子の中で何か決まったこととか分かったこととかある?」
手近なメッセージカードを1つ取る。お礼の言葉に、「明日もいいことがありますように」という一文が付け加えられたレア物。
きっとアイドルとしてこの言葉を書いたに違いない。文字がそう物語っている――
藍子は首を横に振った。
困ったように、小首を傾けた。
「ううん、まだ何も。それに、加蓮ちゃんに言われるまで、何も考えていませんでした」
「……あぁそっか。ごめんね、無粋なこと言っちゃって」
「いえ。焦らすようになっちゃって、ごめんなさい……」
「そういうつもりじゃないって……」
嫌な沈黙。2度目の気まずさ。加えて周囲の気配が遠ざかるような感じが、髪の後ろのくくった辺りを焦がし始める。
まるでカフェにいる時に他のお客さんがBGMでしかない時と同じよう。顔と名前と、だいたいの性格と好きな物まで覚えたスタッフさんが一瞬にして全然知らない、なんとなく顔を見たことがあるかもしれない程度の同伴者となる。
そして。
……私がこうして心臓を締め付けられた時、優しくしてくれる人がいるのも、いつものカフェと同じ。
「加蓮ちゃん、謝らないで?」
あの場所と同じ。
「ずっと一生懸命になっちゃうくらい、今が楽しいんです」
藍子は続けてそう言い、髪を揺らした。
「自分の思い描いてた理想ができあがるのと、大好きな場所が組み立てられていくのが、一緒に見られて……つい、駆け回りたくなっちゃうくらいっ。でも、カフェは静かにしなきゃいけない場所なので、走ることなんてしませんけれどね」
「……そうだね。走り回る子供が来たりしたら、注意しなきゃ」
「つい、加蓮ちゃんに頼りたくなっちゃうけれど……今日は私が注意するんです。うぅ、ちゃんと言えるかな……? 泣き出したりしないかな」
「急に心配になる。そこもシミュレーションしとく?」
「それって、誰がお子さんの役になるんですか?」
……ランドセルってまだ家にあったっけ? それを藍子に。……いやいやいやいや。
「……たははっ」
「も~。加蓮ちゃん、いま私がやればいいって思ったでしょっ。私が注意する側なんだから、子どもの役はできませんよ」
じゃあ私が小学生にでもなろっかな。
いや、なる訳ないけど。
そうなれたらいいなって、もっと小さい頃藍子と出会えればよかったなと思ったのは雨が酷かった日だったよね。もう今を否定することなんて言わないんだから。
そして未来を否定することも。会話の切れ目にカフェを見渡し、時々くすりと笑う……その度に横目で私を見て、ふいと顔ごと逸らしてしまう藍子の頭を撫でてあげた。
どんな決断をしても、それはもうちょっとだけ後の話。
それに私達は、このカフェが終わったらもう1回、朝までかかっても話そうって約束した。
身勝手に突きつけられる診断結果とは違う。時に大人の都合で努力を叩き潰されてしまうオーディションの通知とも違う。
ちゃんと私も、相手の想いを知って、受け止める機会がある。
……うんっ。大丈夫。もっと言えば楽しみになってきちゃった。藍子の楽しいって気持ちが、少し形を変えて伝わってきちゃったのかも。
「藍子。やっぱりなんでもないっ。明日が楽しみだね」
それからはいつものカフェと同じように、時々スタッフさんも交えてお仕事モードになりながら、いつもより時計の針が早く聞こえる時間を過ごした。
□ ■ □ ■ □
いよいよ『あいこカフェ』のオープン!
……って言ったけど、あとの私は裏方だよー。
もちろんやることが無い訳じゃない。食材を搬入する業者さんや時々様子を見に来る設備業者の相手をするPさんに付き添い、何かあったら藍子達に連絡を飛ばす。レジの補充や備品の故障、電話対応も私が回ることになっていた。熱中症含む急ぎの事態があったらいつでも動けるようにはしているし、それから後日SNSにアップする『あいこカフェ』の様子を書く役割もある。
……と言っても、当日の問い合わせは受け付けてないしレジの補充もスタッフさんがその場に用意しているものをやってしまいそうだし、Pさんの付き添いってホントにただの付き添いなんだよね。『あいこカフェ』もサポート役。メインは藍子が書いて、私はちょこっと付け足すだけ。
だからどれも大した役じゃない、なんだったら中学生のやる社会勉強くらいかもしれない。
私の主な出番はオープン前の準備時間。そして藍子の近くにいて、藍子を見守ってあげることそのもの。
それ以降は裏方、ただの黒子の1人だよ。何かあるまでキッチンの両隣のドアから見守るだけ。きっと何もないって確信しちゃってるんだけどね。
表の看板を「準備中」から「営業中」へと変えてきた藍子が、ゆるふわな微笑みを携えつつ唇を軽く引き結んだ。
号令の代わりにフロアスタッフさんと目線を交わし合い、うんっ、と頷く。
頷くタイミングはそれぞれがバラバラで、コーヒーの件と同じようにみんなの個性を下手に合わせようとしない、のびのびとした空気が漂う。
スタッフさんの最後の1人が身を翻したところで、すぐ近くの壁が荒い息に叩かれていた。
……えーと。
私の斜め下に筋肉質をめいっぱい丸めている人がいる。……あ、目があった。
このスタッフさんは昨日や一昨日にはいなかったけど、壁棚を取り付けたり最初に大きなテーブルとかキッチン道具を運び入れた時に活躍してくれた人だよ。名字も名前も暑苦しそうなのにいつも冷静に目を細めていて、知的っぽいけどすごく筋肉質な人。藍子が、大道具を運んでもらう時によく頼りになってるんだってさ。
そんなヒート&クールのスタッフさんが、私の斜め下にいた。で、ぎこちなく笑った。とりあえず私も笑っておいた。たぶん、すっごくぎこちなく。
CDショップでミニライブをやってる最中トークの合間にクラスメイトを見つけた時みたい。ちなみに実話だよ。
絶妙な距離を空けつつ一緒に藍子達のことを見守るスタッフさんは、なんかすっごいハラハラしている。
うん、気持ちは分かる。私もかなりドキドキしてるもん。
ステージに上がる時の、胸が高鳴る感じとは少し違う緊張感。
足元から病熱の混ざる体温がせり上がって、その場を離れたくなってしまう。
藍子なら大丈夫だよ、って空想の中であのカフェにいる私が言うんだけど、自信満々な幻像を描いても気持ちは落ち着かなかった。
ちりん、とベルが鳴る。
最初のお客さんが来た!
季節柄のジャケットと真っ白なベルトが特徴的な人と……2人連れのもう1人は影になっててよく見えない。スポーツシューズっぽいのは目に映ったんだけど……。
お客さん達は藍子の姿を見て、ぴたりと立ち止まる。
ほんものだ……
誰かの笑い声がした。キッチンの近くにいるスタッフさんだった。彼女は途端に背筋を伸ばし、全力で左を向き、顔を思いっきり顰めた。
だけど咎める声はどこからも上がらなかった。近くのスタッフさん、例のギザギザヘアーさんがつられて人懐っこく笑い、藍子も頬を緩める。藍子に笑いかけられることで、2人組も破顔する。さらに藍子がおどけて、本物ですよ~、と手を肩より少し下の高さで振ってあげると、お客さんはいよいよバツが悪そうに舌を出した。お互いにくるぶしで蹴り、お腹をどつきあう。ひとしきり笑い声が収まったところで、藍子が両手を行儀の良い前揃えから、可愛らしい後ろ揃えへと変えた。
「いらっしゃいませ♪ 『あいこカフェ』へ、ようこそっ」
途端に上ずった声を吐き出してしまう2人。あーあ、顔を真っ赤にしちゃった。藍子もサービス旺盛なんだから。
だけど、始まる前の緊張感はもうとっくに消え去っていた。私の下半身を蝕む病熱も、斜め下で上腕二頭筋の汗でシャツを蒸すスタッフさんも、口の中に溜まった息を深く吐く。最初に"やらかした"スタッフさんも2人組が席に着くのを見計らってお冷とおしぼりを置く。立ち去ってからこっそりと、もう1つのおしぼりで額を拭いている姿はあったけど、これなら大丈夫みたい。
改めて確認になるけど、『あいこカフェ』は藍子のアイドルとしての活動。3日間限定のキャンペーンだよね。
アイドル活動だから、ファンのみんなにはもちろん事前通知している。
ただ、最初に伝えたのはだいぶん前――ではあるものの、カフェアイドルとしてすっかり定着していた藍子がメインということもあって来店希望者が殺到した。カフェとして借りるスペースもそれほど広くないし、人員も限界がある。何よりカフェが部活大会が終わった後のファミレスみたいに大騒ぎになることは藍子が望んでいない。
話し合った結果、来客者数を大幅に絞ることとなってしまった。
それではみなさんが可哀想だと藍子が言うので、来客希望を出してくれたファン向けにPさんが新たなキャンペーンを考えている。
……今回来れなかった人が次に藍子と会うのは、果たして握手会会場か、それともずっと先の話になって、カフェでのことになるか。それは……ひとまず置いておくとして。
来客者数を絞った代わりに、希望が通った人にはある程度時間の余裕を持たせてあげることにした。
時間はかなり大雑把。午前中とか、午後(前半)って感じだね。それ以上のことはファンのみんなに任せるんだって。
Pさんが、なんだか誇らしげに言ってたよ。確かに藍子のファンってみんな優しいし、こういう時に乱暴を起こしたりはしないもんね。
その代わり、あんまり長く居続けちゃうお客さんにはそれとなーく言って帰ってもらう。……このことも藍子は反対してたけど、これまたPさんが、ファンのことを信じてかつ告知時点で「他のファンのことも思いやってくださいね」という文言を加えて、それでも一応念押しでのルールだって言って聞かせた。それとなく言う係も、藍子ではなくスタッフさん。あるいは私にするんだってさ。
そんな経緯があってか、開店と同時にお客さんが殺到するということはなく。
次にベルが鳴ったのは、5分くらいが経った頃。すっかり和気靄々なムードがあたたかく迎え入れる。
カフェアイドル・高森藍子ちゃんによるキャンペーンということもあって、カフェには藍子目当てのお客さんがたくさんやってくる。でも、少し過ごすうちに――
開店から40分くらい経った頃、ドアをくぐったのは溌剌とした男性だった。彼もやはりこれまでのお客さんのように、まず藍子に目を留める。笑顔を向けられ、照れ感情をめいっぱい隠すように頬をひくつかせつつも目を逸らさない。ふらり、ふらり、とさっきまでの精悍な出で立ちはどこへ行ったのか、極上のハチミツを見つけた熊のようにちょっぴりだらしない足取りで藍子へ近付くと、手を差し出した。声は聞き取れきれなかったけど、握手、と言っているように見えた。
すかさず近くのスタッフさんが割って入る。藍子も、今日は店員の藍子ですから、と柔らかく拒む。
お客さんは露骨にがっかりしつつも、藍子の申し訳無さそうな顔、ついでにスタッフさんの静かながら離れたここにまで感じられる「圧」に負けて、手をだらんと下げてしまう。
これは事前にシミュレーションした通り。もともと藍子は握手を求められればしてあげるつもりだったみたいだけど、そんなことをしてたらキリがないし不公平になりかねない。Pさんと一緒に説得し、最後には先ほども言った言葉――今日は店員さんだから、という理由を用意することでようやく納得してくれた。ちなみにメッセージカードのアイディアを出したのは、そのすぐ後だったりする。
さて、藍子は納得したけどお客さんがそうとは限らない。
やっぱりどうしても、落胆したり、場合によっては怒ってしまう人もいるかもしれない。いくら藍子のファンが優しい人達ばかりといっても、少なからず欲望や荒い気性を持ち込んでしまう大人っている訳なんだから。
シミュレーションしたとはいえ初めて起こったケース。つい身を乗り出して、その後の顛末を見守ってしまう。……ついでに私の斜め下のスタッフさんも。鼻息が荒いんだけど。
握手を拒まれたお客さんは、藍子ではないスタッフに先導されとぼとぼと2人がけのテーブルへと案内された。
水をあおり、メニューを開き……への字になっていた口が、少しずつ緩んでいく。
5分くらいそうしていた後、彼は顔を上げた。注文をするのかと思ったけど、そうではない。店内を、最初はぐるりと見渡し始める。
感嘆の息を吐いてから、次は1箇所1箇所をじっくりと。何かを見つける度におかしそうに肩を震わせたと思うと、おぉ、と口をすぼめることも。
反対側の壁際、くつろぎスペースにかかる写真を見つけてからは、自分のスマフォと交互に見て何かを確認しているようだった。
……これは終わった後にSNSで見つけたことなんだけど、彼はもともとウォーキングが好きで、けっこう前から藍子のファンなんだって。で、藍子につられてカフェに行ってみるようになったり、写真を撮るようになったみたい。たびたびSNSにアップしてる写真の中には2桁の反応がついてるものもあった。
藍子のLIVEがあれば可能な限り予定を合わせ、最前列のチケットを買った日の呟きは……なんというか、ものすごいことになってた。文字制限いっぱいに、半分は同じひらがなを、もう半分はビックリマークを並べまくってたんだよね……。
それだけ熱心なファンだからこそ、握手してもらおうとしたのも、拒まれて落胆したのも分かる。
でも、それで暴れだすようなことはなくて……。
さらにその後、彼は注文で呼び止めた。彼の元へ向かったのは藍子ではなく、握手を制止にかかったスタッフさんだった。
これもシミュレーション通り。やらかした人の元へは藍子を行かせない。念の為、ね……。ところが彼は、自分のところに来たのが藍子ではなかったにも関わらず、ずっと朗らかな顔。注文に向かったスタッフさんも最初は警戒してたけど、すぐに表情がほぐれていく。彼はその後、卵に新鮮なトマトを加えた「いつでも食べられる朝食メニュー」にパンケーキを追加注文して、とっても満足した顔で帰っていった。
ちいさなトラブルの種は抜いてしまうのではなく、持ち味の花を咲かせる立ち回りもあって、『あいこカフェ』はそれからも順調だった。
中にはさっきみたいに、藍子に握手をお願いしたり、図々しくも色紙を出してくる人もいた。
その度に近くにいるスタッフさんが止めにかかる。同じことが何度か起きるとそのうち、制止役のスタッフさんが固定されるようになって、できるだけ藍子の近くにいようと立ち回り始めた。それに合わせてギザギザヘアーさんが導線を変え、それを見た別のスタッフさんもまた……と、自然なアドリブが発生していく。
サインを断られてしまった人も、カフェという空間に浸ることで、もやっとした気持ちとか、怒りの感情とかを溶かしてゆくのが見て取れる。メッセージカードを手に取って目を見開き、ちょっとだけだらしなく顔をふにゃっとしたり……席を立つ時にはやっぱり笑顔。
来てよかったという言葉は自然に出てきたみたいで、言った本人が一番驚いていた。レジ対応をしていたスタッフさんは、その時だけ店員としての顔ではなく、心からの笑顔を浮かべた。
一方その間、藍子はくつろぎスペースの方にいた。
レタスを下地に飛び出してしまいそうなほどの卵がまばゆいサンドイッチを慎重に運ぶ。そのままでは靴を脱げないので、片膝をつき空いた手で1人用のテーブルを引き寄せ、そこへお盆を乗せた。軽い膝立ちのような体勢で靴を脱いだら、注文したお客さんが壁掛けの写真を見つめていることに気がつき、友だちの距離よりも1歩半離れた位置から話しかける。
女性の笑顔を見ると藍子は遠慮の距離を詰める。カウンター裏の扉からは聞き取れきれないけど、たぶん写真について説明してる筈。
どこで撮ったか、誰と撮ったか――どうやら女性とは写真の趣味が合うようで、藍子の熱弁が始まってしまう。
シャッターを押した時のワクワク感を全身で表現したと思うと、女性から何かを……たぶん、シャッタースポットかな? 教えてもらうとエプロンの隙間から本来注文を受ける為に使うメモ帳を取り出し熱心に書き記し、今度は気を良くした女性がずいと近づいて……話の盛り上がっぷりに店内の注目を集め、そして藍子は近くまでやってきたスタッフさんに肩をつつかれる。
ハッとなった藍子が、慌てて首を左へ右へ。「さわがしくしてしまってすみませんっ」深々と頭を下げる様子に、みんながほんわかと笑う。
赤くなった顔をパタパタと仰いでいると、スタッフさんがまた藍子をつつく。次は気をつけましょうね、と言われている姿は、言葉こそ丁寧だけど誰がどう見てもアイドルとスタッフの関係ではない。カフェの店員同士の、ちょっとしたやり取りのようにしか見えなかった。
――今日は店員の藍子ですから
そう言った時の藍子は、どんな気持ちだったんだろ?
新しいお客さんがやってくる。笑顔が、横顔の端から見える。けどそれが、アイドルとしての物なのか、店員としての物なのかは分からない。
藍子はいま、どんな気持ちなのかな。
……キッチンにて、ハンバーグを焼き終えた藍子がふと顔を上げた。注文はスタッフさんに持っていってもらい、それから振り返る。
私の目を見る。
ぱちくりと瞬き。
小首を傾げる動き。
そして……にぱり、と笑う。
私もつられて笑ってしまった。……あのね、スタッフさん。いまちょっと大事な話をしてるの。むふーって鼻息を吐くのはやめてね?
えっと。……なんだっけ、もう! スタッフさんのせいで話が飛んで行っちゃったっ。
藍子がどんな気持ちだったか、って自己疑問だよね。そんなの決まってるじゃん。
今の藍子、すっごく楽しそう!
楽しさの種類を考える、なんて無粋なことはしたくない。それよりはもっと藍子の楽しそうなところを見守っていたい。
カフェはたった3日限定。まして藍子のせいで、時間はどんどんどんどん過ぎ去ってしまう。余計なことを考えてる暇なんてない!
もっと藍子のことを見ていたくて、裏方という立場も忘れて、私は身を乗り出した。するとスタッフさんが負けじと膝を前へと摺り出す。違うって、そういうのじゃないってば……。
こうして、『あいこカフェ』1日目は終了した。
結果は見ての通りの大繁盛。もちろん私も、時々Pさんを手伝いに行ったりしてたよ。ただ見てただけじゃないんだからね。
途中で交代休憩の時間も決めてたけど、藍子もスタッフさんも誰も長い休憩を取ることはなかった。
フロアを離れるとしたらトイレに行く時と……一応、藍子がスタッフさんに促されて昼食だけ取りに来たけど、おにぎり1つ食べただけですぐ戻るたった2分程度のもの。
その後で藍子が別のスタッフさんにも声をかけたけど、みんな同じように学校の合間の休憩よりも短い時間で戻っていった。それだけみんなが楽しそうにしているということだった。
そんな調子だから、閉店してからはもうくたくた。比較的元気な私に、ぐったりした藍子がもたれかかってくるという、とっても珍しいことが起きたりもしたんだよ。
ねえ、藍子
と名前を呼んだら、肩のところに頭を乗せる藍子が気だるそうに、でも嬉しそうに返事するから、何も言えなくなっちゃった。
そのままの流れで、私と藍子はここで寝泊まり。お風呂は備え付いてるし、着替えはお母さんに持ってきてもらっちゃった。
お布団に入ったらすぐに寝息。
お疲れさま。また明日も、いっぱい楽しもうね。
□ ■ □ ■ □
2日目。
寝坊をした。
朝起きたら8時55分だった。
咄嗟に布団を蹴り飛ばす。もちろん隣に藍子はいない。『あいこカフェ』のオープン時間は9時。一緒になって眠りこけていなかったことに安心しつつ自分の間抜けっぷりに頭を抱えつつも表まで出ようとして、仮眠室から通路へとそしてキッチンのすぐ裏まで進んでいったところでストップがかかった。Pさんだった。歯を剥きながら振り返ったけど次の言葉でハッと我に返る。その姿で……と言って、Pさんはそっぽを向いた。薄暗かったけど頬が紅潮しているのが見えた。
パジャマ姿だ。
右足が裾を踏んづけているせいでズボンがずり下がり、腰からショーツの境目が際どいところまで見えていた。シャツのボタンを留めていたのはまだ幸いだったけど……。
一応、開店前に藍子の顔を見て(あと寝坊したことをひたすら謝って)一言かけようって思ってのダッシュだったけど……時間的に開店直前、下手するともうお客さんが来ていてもおかしくない。そんなフロアに、加蓮ちゃんの寝起き姿大公開なんてなるとどういうことになるか。想像しただけで血の気が引いてしまった。藍子の笑顔をぶっ壊すことにならなくて本当によかった。
ということでPさん、止めてくれてありがとう。見ちゃったことは不問にしてあげるっ。
どうにか容貌を整えた私は、直後にやってきた設備業者さんとPさんとのやり取りを手伝いつつ終わり次第再び裏方モードへ。キッチンの裏、ドアをほんのちょっとだけ開けて、藍子の姿を探す。
……なんか、お客さん多くない?
昨日より明らかに席が埋まっているし、店員となったスタッフさんも駆け足が止まらない。
首を傾げていると、今日も私の斜め下を陣取っている覗き仲間が説明してくれた。
私が夢の世界をふわふわしている間、急遽1つの企画が決まったみたい。それは藍子が、藍子らしい時間で1度だけ歌うという物。アイドルのLIVEというほど大きなステージではない、例えるならカフェのピアノ伴奏くらいの規模くらいを用意したんだって。
ファンのみんなには告知済み……といっても今朝SNSに、それもはっきりとではなく「もしかして……?」という匂わせを含む文にしたみたい。
それを聞きつけた(見つけた?)ファンのみなさんが殺到。開店前に既に10人くらい並んじゃってたみたいだよ。
こうなることくらい予想できたと思うのに……。だけどPさんは、藍子と、スタッフさんの力があれば大丈夫と判断したんだって。何より藍子がやってみたいって強く言うから……最初は反対気味だったスタッフさんまでもすっかり乗り気。さらにPさんが今日は休みだった予定のスタッフさんに連絡して回ったら、ほとんどの人が駆けつけてくれることになったんだって。
しかし実際には予想以上の大賑わいに。ヘルプとして呼んだスタッフさんも、まだ数人も来ていない。
事前のお願いもあって長時間居続ける人は極稀だし、そういう人達もスタッフさんの言い聞かせで退店してくれたから、新しくやってきたお客さんが座れないという事態は回避できてる。だけどそもそもお客さんが多いこともあって、単純にすごく忙しそう。
藍子もキッチンに立つことが増えてきた。そのせいで、自分でもやるんだって張り切ってた接客に回ることができていない。藍子が接客できないことで、藍子の笑顔をファンのみんなが見る機会も減って、昨日よりも笑い声が少し減っているような気がした。
これ、私もフロアを手伝った方がいい?
Pさんにも、臨機応変に手伝っていいって言われてるし……。
けど私は裏方に徹すると決めてる。アイドルバレして騒ぎになるのは……。
ここはあくまでも藍子のカフェ。それ以外のことを持ち込みたくない。
なんて悩んでいるうちに、斜め下から汗臭い気配は消えていた。荒い鼻息とは全く反対の爽やかな姿がフロアにあった。
……。
…………いいや、私も行っちゃえ。
姿見で制服姿を3度見直して、ウィッグと、カラコンも着けちゃえ。口調は藍子の物を真似てひたすらに丁寧に。……うんっ、大丈夫。これくらいなら即興で化けられる。
フロアに出る1歩目の震えを土踏まずで踏みしめて、まずはキッチンにいる藍子の元へ。目を見開く藍子に手をひらひらと振る。
「私も手伝いますよ、藍子さん」
ほらどう? どこからどう見てもスタッフさんでしょ?
じゃあまずは注文を取りに行こう……そうだっ。お客さんがいっぱいいる店内の席より、テラス席の方がバレにくいよね。お客さんからの声が賑やかさに遮られて、注文を求める声に対応しづらくなってるみたいだし、こっちを手伝おう。
「大変お待たせ致しました。ご注文はお決ま――…………!?」
「あ、はい……? えっ、この声……?」
……。
…………待って。えっ……え?
「…………えっ!?」
「えっ、ええ!? ……書いてあったっけ!?」
テラス席にいたのは少しきっちりめに髪型を整え、最後に見た時よりも縁の細い金色と黄色の合間にベージュを足したメガネをつけた女の子だった。
いつかの藍子のカフェLIVEと握手会に来てくれて……メッセージカードに導かれて私達のカフェに来てくれた子。
ちょっとの間だけ時間を共有していたのに、いつの間にか顔を見なくなってしまっていた2人組の片割れの、苦労人担当の女の子だった。
最後に見た時よりもかなり大人びている。野暮ったい髪型は、今もお堅い印象はあるけどかなりきらびやかに、オイルケアやドライヤーを念入りにしていることもすぐ分かった。
でも、そんなことよりここにいたことが。
急に出会えたことがびっくりして、そしてすっごく嬉しかった。
彼女も同じく目を見開く。私のカラコン入りの目を見て瞬きを繰り返すと大急ぎでポケットからスマフォを取り出した。見ているのはたぶん、今朝呟いたという「期待を匂わせる」文章。何度も何度も画面と私とを交互で見て、徐々に目と口が大きく開いていく。慌てて顔を上げた先は店内。スタッフさん1人1人の顔を、目を細めてじっくりと見据える。
……なんだかひょっとしたら、勘違いされちゃってるのかもしれない。
「もしかして」の意味を、「もしかしてここにいるアイドルは1人ではないのかもしれない」という意味と捉えちゃってるのかも。
残念、ここにいるのは私と藍子だけ。それに……私がいて、他の子を探すのってどうなの。
しばらく顔を見せなかったよね? 会えたんだから……少しくらいは……ふふっ。
「……、」
どう声をかけようか。……そっか、まずはやらなくちゃいけないことがあるんだった。
私はいま店員さん。藍子を手伝う店員、スタッフさん。ハプニングにはしっかり対処してあげなきゃ。
「……!」
いったん周囲に気を遣い顔を寄せる……気の毒なくらい、彼女が動揺していることが分かった。相方が藍子のことを女神様みたいに崇めているのは覚えてるけど、この子も私のこと、けっこう応援してくれてたもんね。
「しーっ」
店員でいながらアイドルバレしたという事実を逆に利用して、イタズラっぽくウインク。至近距離で白い歯を見せて……トドメに、妖笑を添えて……。
ふふっ、ちょっと刺激が強すぎたかな? 本来ならこんなに接近することのない店員さん。相手が変装しているっていう背徳感。そして、私のことを慕ってくれるっていう感情。
全部利用させてもらったよ♪ ……利用、って言い方は嫌だから……じゃあ、全部引き出してあげた。こういうドラマよりもドキドキに満ちたことだって、やってみたかったんだっ。
こういう系は、藍子には通じないし……。ごめんねっ?
こくん、と無言で頷いたのを確認して、私は顔を離した。残念そうな吐息は聞こえなかったフリ。
そういえば、もう1人のあの子はどこにいるんだろ。
藍子の顔を見たらまた卒倒しちゃうんじゃないかな。私服姿でもたまに泡を噴くのに、カフェ制服姿なんて……ね?
……ううん。もうあの時とは違うかな。
「ふぅー、は、はぁー……あぁびっくりした……。えっ、アイツですか? アイツなら猫を見に行きましたよ」
「……猫?」
確か、テラス席の外をたまにうろついている子。準備中にも見かけたよね。猫よけを施してるから、中に入ってることはないみたいだけど……。
「猫がじっと見てるのを不思議がって、店員さん……スタッフさんですか? に聞いていました。この辺りにいる子だって聞いたら、追いかけに行っちゃって……。アイツ、最近いっつもそうなんですよ。何か見つける度に走ってって、それからすぐカメラを取り出して。何撮ってもブレるのに、バイトでお金を貯めてまでカメラを買って――」
「ふふっ……そっか、そうなんだね」
「あ。……スミマセン。あの……」
「ううん、いいよ。お客さんのお話を聞いてあげるのも、店員さんのお仕事ですから?」
藍子だって昨日やってたし、大丈夫だよねっ。
……って、藍子みたいにやってたら私まで他のスタッフさんにどつかれちゃう。それにこの子と再会できたのはすごく嬉しいけど、私は藍子やみんなを手伝う為に飛び出したもんね。ほどほどにして切り上げなきゃ……。
注文を再度聞くとパスタを2人分と答えた。伝票に書き留めて店内のキッチンへ向かう。立ち上がりかけた彼女を手で制し……カフェへ戻るその直前に、やっぱり1つだけ、どうしても確認しておきたいことがあって私は振り返った。
「ねえ……。あのね。今もまだ、藍子のことは応援してくれてる……?」
彼女は、またしても目を見開いた。人が意外な反応をする時の仕草。彼女にとって……私の質問は、当たり前の確認だったみたい。
「もちろんです! あー、その……。色々あったんですけど……また近いうちに行きたいって言ってましたよ、アイツ」
「そうなんだ……。ありがとっ。『あいこカフェ』、楽しんでいってね!」
注文を取り終えた店員としては少し大げさなくらいに恭しく一礼を残して、今度こそキッチンへ。後ろで組んだ右手をひらひらと振ってあげる、秘密のサインを忘れないように。
何度かテラス席と店内を十何往復することでようやく落ち着くことができた。廃棄物を抱えて建物の外周からゴミ置き場へと放り投げ、勝手口からバックヤードまで。壁に背を預けて大きく大きく息を吐く。
疲れたー……。
瞬間的に化けることは簡単でも、やり続けるのは楽じゃない。これが1日通しての撮影なら最初にスイッチみたいな物が入ったりするしやり通せるんだけど、なにせ急だったから……。ウィッグの蒸れもホントに鬱陶しい。寝室まで戻って、そういえば朝駆けで布団も畳んでいなかったことを思い出す。けっこう綿密に計画を練ってたのに、いろいろ綻んじゃったね。でも、これも楽しいからいっか♪
藍子も楽しんでいたみたいだし。額の汗を手袋の甲で拭う時に、少し違った笑い顔をしていたように見えた。
体中の汗を拭き終えたら、Pさんに頼まれた雑用をいくつか片付けて再びカウンター裏へ。
今は私1人。扉の向こうでは助っ人も到着し、そこそこ慣れた店内が広がっていた。2日続けて歩き回り続けたスタッフさんへ、藍子がねぎらいの言葉をかけてゆく。その途中で私を探していたみたいだけど、じ、と視線を送っていると私がここに戻ってきていたことに気付いて、こちらへやって来ようとした。その足取りが、急にピタリと止まった。
……何かあった?
慌てて壁時計の時間を確認しているみたい。
つられて私もスマフォを取り出す、14時43分……? いつの間にこんなに経っていたんだろ――。
あっ。
彼女らしい時間。藍子らしい時間って……もしかして、15時?
半信半疑の合点に首を傾げている間に藍子がばたばたと駆け込んでくる。荷物や衣装をまとめておいた寝室からいくつかの道具を手に戻ってきた、と思うと後ろからPさんが同じく焦りの表情でついてくる。
どうやら正解だったみたい! っていうか、ステージのことなら私にも相談してよ。こういう時こそ私の手伝いでしょっ?
……朝は寝ちゃってたけど。
バックヤードへ駆け込んだ藍子の姿を、お客さんも目で追っていた。午前に当たりをつけてやってきた人達は、残念ながらカフェのルールで退席済み。店内の、特に長机には空席が目立つ。
残ったラッキーな人達、あるいは正解を見つけられた人達は、スタッフさんのアナウンスに色めきだつ。くつろぎスペースでおひるねしていた人は足音で目覚め、来た時には無かった音楽器具やマイクに目を丸くしているようだった。
ひょっとしたら、告知を見ていない人だっているかもしれない。
いや、見ていても、ライブを聴きに来たという心づもりのなかった人もいる。
どんなお客さんが来るかは、その日の気分次第――。
それでもカフェは、たくさんのお客さんを笑顔にして、1人でも多くの人に癒やしを届けるためにありとあらゆる工夫をする。すべての価値観に合わせることはできないから、時に自分から作り出す。いつものカフェの限定メニューなんかがまさにそれ。『あいこカフェ』では、それがミニライブだった。
「みなさんっ。ごゆっくりされているところ、失礼します」
その気がなかったお客さんも、藍子が呼びかければ視線を向ける。彼女が上がっているのはミニステージ――と呼ぶのさえ違うと思ってしまいそうな、ただの平べったい台だった。高さもたかが数センチ。このあいだ事務所で起きたブーム――あるランウェイの主役に抜擢された子のレッスンから始まったハイヒール・チャレンジの最中に藍子が履いた時の身長変化と、ほとんど変わらないかもしれない。それでも最後尾の人にまで声を届ける。声色は優しく、眠っている人は起こしてしまわないよう――いや、鼓膜を揺らしながらも眠らせ続ける、夢に出演するような絶妙なバランス。それが藍子の、アイドルとしての姿だった。
「急に決まったことですけれど、私もアイドルですから……1曲だけ、歌わせてくださいっ」
コールを求める前フリ。ここはカフェだから、感情を吐露する叫声ではなく、声ですらない。ほっこりとした笑顔が店内に満ちる。
「~~~♪ ~~~~~♪」
やがて歌が始まった。声の柔らかさがリズムを帯びて、少しずつ形を変えてゆく。
森の奥で、妖精が楽しげに歌っているような――。
そういえば、いつだったっけ。藍子のことをカフェに住む妖精とか、あるいは魔女だなんて冗談を言い合った。
カフェの話をした時、だから……カフェのインタビューを受けた時? 藍子と一緒に、コラムの為のカフェ巡りをする少し前だよね。
あれはただの冗談だったけど、妖精っていうのも、魔女っていうのも本当のことかもしれない。
「~~~~~~♪ ~~~♪」
元々の歌は、過酷ながらも素敵な旅を続けて様々な世界と出来事を大切に想い、一期一会の旅だからこそ出会いを尊ぶ物。それをかなりキュートでポップアレンジした楽曲を、さらに藍子が「音だけ」で表現する。
「~~~~~♪ ~~~~♪」
それを聞いた人たちが顔を突き合わせて、たまたま隣り合った人も目を合わせて、会話の渦が生まれ始める。
気が付けば……藍子の全身から、何か気配のようなものが消え失せていた。ハイヒール程度の高さに登った時は、1人残らず目を惹き付けたのに。だけど、目を離し続けると何か落ち着かなくなる。また見たくなる……お客さんも私と同じで、顔を突き合わせつつも時に揃って藍子へと振り向き歌声に耳を傾け、またとりとめのない会話をする。
「~~~~~♪ ~~~♪」
いつかカフェLIVEで表現した、魅力を叩きつける物とは全然違う……自然に融けた声と、つい目で追いたくなる幻想感……。
カフェの音だ。
そう気がついた時、私は顔だけを前に出して、そして、歯と歯の隙間を熱い息が通り抜けていった。
ライブが始まる前は表情で背を押した、ファンのみんな。藍子が歌い終わった時には、拍手と、歓声で少女を迎えた。
それは歌を通じて、この場のみんなと同じ想いを共有できたのだと知っているから。寝ていた人も、スマフォ相手に顔をしかめていた人も、話している内容がちょっとだけ愚痴になりつつあったママ友も。密かにアイドル推しが趣味で、内気で誰とも好きの気持ちを共有できずに1人で来た人だって、やんわりと包み込んであげるのは――藍子だけではなく、藍子の優しさを受け取ったファンによるものだった。
伝播していった気持ちが最後には、より引き込む力の強い場所へ。
アイドルの藍子へと戻っていって、少女の笑顔をきらめかせる。
藍子がステージを降りると、スタッフさんは手早く機材を片付けていった。
その間、注文や接客の手が少しだけ止まってしまう。
そこへ立ち回るのは、今さっき主役だった藍子。何人もいる店員の1人に戻り、お客さんへ笑顔で接していく。
……やっぱり、もうちょっと。なんて私は思ってしまった。
どこか物足りなさを感じてしまう。もっとアイドルらしく……さっきの光景を見ているとさすがにそれは言えないけど、なんていうんだろう。カリスマ、オーラ……ピッタリ来る言葉はない。自分にも定義できない何かを、だけどはっきりともう1つ欲しくなるのは、私がアイドルだからだよね。藍子の決意を知っているからだよね。
Pさんでさえ見誤り、優しさを間違えることのある強い強い決意。普段は柔らかな言動と優しい性格の奥底に沈みきっている気持ちは、線香花火の日に開花し、トップアイドルになると宣言した。
分かってるよ、それが藍子らしさっていうのは。
他ならない、ゆるふわアイドル、高森藍子ちゃんの魅力だっていうのは分かってるつもり。
だから自分なりのワガママをお腹の奥へと押し込めて、藍子の姿を目で追い続けた。
ひと通り接客を続ける彼女――よく見れば僅かに、本当にほんの少しだけ、朝とは距離が違う。半歩分よりもずっと小さな距離だけ空けている。そうしてお客さんの望みをひと通り聞き終えたら、バックヤードへ。汗を拭いたり一休みを入れたり……あっ、だから小さな距離を取ってたんだ。そして藍子は私を見た。目を開いて、肩をちょっとだけ落として、苦笑い。
「次はもっと、アイドルらしく頑張ってみますね」
……見透かされてたんだ、私の身勝手な不満を。そしていま、藍子は次はって言った。次はまた、アイドルとして――
ううん。たった一言で結論を出すのはやめよっか。
言ったでしょ? 話す時間はたくさんある。歌い終えた高揚感と心地よい疲労と、ホッとした気持ちだけで、端っこが見えた本心だけで決めつけるのはやめておこう。変わりに、もっと言いたい素直な言葉を口にしよっか。
「ううん。藍子っ、今のすごかったよ。前に言った、私にとってのカフェは藍子のいる場所……っていうのは、間違ってなかったね」
「……ふふっ。いつのお話ですか。いまは、私にとっても加蓮ちゃんのいる場所です」
「それこそいまさらー」
「ですねっ」
軽い言葉を弾ませる方が、今は楽しい。甘ったるい紅茶と健康食品を渡してあげると、藍子はたっぷりの時間をかけて補給し、最後の汗滴を拭き取ってからゆったりと微笑んだ。
ミニライブが終わってからも、多くのお客さん、藍子のファンの人たちは席を立つことなく思い思いの時間を過ごしていた。
長く居座り続けるならそれとなく言うルール、というのはもちろん続いてるけど、新しいお客さんが来るまでは誰も追い払うことなんてしなかった。16時を回った頃からは新しいお客さんがほとんど来ず、店内でも時々思い出したかのように注文する程度で、店員役のスタッフさんは一緒になってのんびりとした時間を楽しんでいるようだった。
ときどき藍子が、ラジオ番組を真似たトークを始めてみたりする。お客さんから質問を募集して、それにのんびりと答えていく。
おすすめのコーヒーについて聞かれた時の、30分にも渡る事細かな解説には多くの人達が引き込まれていた。
しっとりとした、語りにも似たお話が終わった直後に、「店員さんは彼氏いますかー!」アレな質問が飛んでいったという、事件? もあった。
昨日からすっかりボディーガードとなったスタッフさんが制圧に向かおうとするも、質問対象が藍子ではなく他の人、よりにもよって店内にてたびたび藍子を護る彼女であり、様子に惹かれたという公開告白みたいな有様になった時は、ついみんなで笑い声を重ねてしまった。結果は……ふふっ。さあ、どうでしょう?
何事も起きない時間こそが、カフェでは大切な時間。
なんでもないことに笑い合える時こそ、あっという間に時計の針は動いてしまう。
気が付けば『あいこカフェ』2日目も閉店の時間。名残惜しくもお客さんが1人、また1人と去っていき、未練に顔を情けなくしている人にはボディーガードによる「圧」が待ち受けていた。
最後のお客さんをみんなでお見送りすれば、外はもう真っ暗。金銭計算を含む後片付けと明日の仕込みを済ませて解散した頃には、夜空に肉眼視できる明星が出揃っていた。
都会では一番星さえもなかなか見つけられない空を、私と藍子、2人だけで見上げる。弱々しくも輝く光に照らされた藍子はすごく綺麗――だったのだけど、それについて何か思う前に無粋なスマフォが着信音を立てた。送信内容は挨拶的なメッセージ。送信者は、お昼前にたまたま出会った子――。
「……たっはは」
「?」
隣の私が、よほど悪い顔をしていたんだと思う。藍子は疑問符を浮かべながらも、苦笑いしていた。メッセを指で送る私へと、寒くなってきたから……と、室内へ誘う。
2人だけになると、『あいこカフェ』はすごく広く感じられる。
事務的なものではない、ちょっとした椅子のズレや小物の配置と、あるいは気分次第の交換を1つ1つこなしながら、何かを手に取る度に藍子は立ち止まる。そっと目をつむり、微笑む。
「藍子っ」
藍子のちいさな身体に溜まっていった楽しい記憶を、私も共有したいと思った。
私が名前を呼ぶと藍子は、窓際の小物を近くの四角テーブルへとそっと移して、音が立たないよう簾を降ろし、私へと1歩近づく。
昨日のこの時間はずっと私にもたれかかって、たまに見上げる目の中は疲労一色。
1日経って、少し慣れたのかな。今日はもうちょっと大丈夫みたい。
じゃあ――
「藍子、そこに座って待ってて?」
私だって今日は店員さんだったから、頑張り続けた藍子は今だけお客さん。時計の針が、手作りの魔法を解いてしまわないうちに、キッチンへ。
コーヒーは眠れなくなっちゃうかもしれない。ココアにも同じ成分が入っていると聞いたことがある。ジュースを飲み干して悪い子! ……っていうのは、今やってもしょうがないよね。
考えついた結果が「白湯」という実物通り味のしない選択だった。とほほ、と肩を落とす私のことを、まあまあ、と苦笑しつつ撫でてくれた。
くっだらない意地を張ってうまくいかないのはいつまでもそう。そんな日々の失敗だって、藍子にとっては新しい思い出になるのかもしれないけどね。
「いただきます、加蓮ちゃんっ」
……だから白湯なんだけど。うん、もういいや。私の中でも楽しかった出来事ってことにしちゃえっ。
「ふぅ……♪ 加蓮ちゃん、今日もお疲れさま。お昼は手伝ってくれて、ありがとうございました」
「どう致しまして。バレてないといいんだけどね……」
「いまのところ、Pさんからバレたっていうお話は聞いていませんよ。だからきっと、加蓮ちゃんのことは誰にも分かっていないハズです」
「……あー、それはそれで」
「ふふ……。むかってしちゃう?」
「あのねぇ……」
白湯入りカップを片手にわざと音を立てる藍子は、いつもより近い距離まで顔を寄せてきた。眼光の残る瞳が、ふと、嫌な気持ちに歪む。さすがに無言で怒らせる心当たりはないので焦ったけど……忘れてた。カラコン、つけたままだった。
ウィッグは蒸れるしあれからヘルプに出ることもなかったから取ったままだったけど、カラコンは外し忘れてた。
普段あまりやらない着脱に苦戦しつつも完全に元通りの私に戻ると、藍子は満足げに唇を緩めた。私より先に白湯を飲み干し、椅子を前に。手を伸ばしてぎりぎり届く距離が、足のつま先が触れ合える距離にまで縮まる。
「加蓮ちゃんっ」
「ん、なぁに?」
「あのね……」
「うん」
「あの……」
「あははっ、なんなのー」
「……うまく言おうと思ったけど、言えないんですっ。楽しいって言葉ばっかり、浮かんできちゃってっ!」
そうだとは思った。ほっぺたのところ、ゆるゆるだよ? 上下にぐにぐに、左右にぐにぐに。ふにゃりふんにゃりとした抗議の声を流しながら、私もつられて笑う。
「藍子が楽しいって気持ちでいっぱいになるなら、よかった」
……つられて笑ったのって、何回目になるんだろ。
「ねえ藍子。ここでいつもみたいにのんびり喋るのもいいけど……。いつものカフェじゃないし、いつもの店員さんもいないんだから、せっかくだしいつもじゃないことをしない?」
「いつもじゃないことって?」
「それはね――」
実はやってみたいと思うことがあった。藍子の手を取って立ち上がる。連れて行く先はカフェの向かって右側、くつろぎスペース。靴を脱いで、藍子は引っ張られながらこんな時でも私の分も含めて靴を合わせて、先に座り込んだ私の隣に腰を降ろした。
次に私は、思いっきり寝転んだ。藍子を引っ張るようにしたから、藍子もその場に寝転がされた。
「わっ……」
「こうやって、ごろんってしちゃうのっ。普段は誰かに見られてるかもしれないし、アイドルとしてそんな姿は見せれないけど、今は藍子しかいないからっ!」
本当に藍子しかいないカフェは、この世界にここしかない。そしてここも、明日になれば冷たい白壁と表札もない建物へと戻ってしまう。
だからこんなことができるのは今晩しかなかった。
こうして寝っ転がると意外と頭が硬いので、片手でビーズクッションを引き寄せる。先に藍子に渡してあげて、私は子ども用のアニマルクッション。頭の体重でたぬきの柄がぐにゃりとなってしまう。
「あー……。きもちいー……」
「ふふ、ほんと……。こうしていると、きもちいいなぁ……」
クッションへと沈んでいく声。目の前には天井しか移ってないけど、すぐ近くに、本当にすぐ近くから藍子の姿が感じられる。
カフェで向かい合った時よりも、あるいはカフェ巡りの時に座席の都合で隣り合った時なんかよりも遥かに近い。膝枕の時よりも、もっと……。
寝返りを打ってみたら、藍子の顔がすぐ近くに来た。……さすがに、これは、ちょっと。カフェって一応は公共のスペース、姿が無くても他の人が利用する場所なんだし……という、最後の最後に残った意地のラインが私を反対側へと頭を向けさせた。
新鮮な柑橘のような甘酸っぱい笑い声もすごく近くて、むずかゆくて、ドキドキもした。
お昼に似たことをやっちゃったから、その罰かなー……。
「そういえば、藍子」
「うん、なあに?」
「会ったよ、前にほら……。カフェ仲間だった、藍子のファンの――」
「……来ていましたよね……あの2人。すごく久しぶりに見ました」
「やっぱり藍子も? 私も。テラス席に行ったら普通に座っててすごくびっくりしちゃった」
「私は、そんなにびっくりしなかったかな……?」
「えー?」
「カフェの計画を練っている時、どんなお客さまが来るかな、と考えていたら、ふっと思い浮かびましたから。ひょっとしたら、と思って……」
「なんだ、そっか」
少しがっかりしたけど、藍子らしい。
「……カフェさ、明日で終わっちゃうね」
「……そうですね。ひとまず、明日で終わってしまいます」
「なんだか寂しいね」
「うん。さみしい……」
「けど、明日もきっと楽しいよ」
「もちろんですっ」
「藍子の、いらっしゃいませ♪ って笑う姿、見てて和むんだよねー……」
「ふふ……。あんまり真面目に言わないでくださいっ。加蓮ちゃんも、変装してやってきた時にはびっくりしましたよ」
「突然だったもんね」
「テラス席にいたから、あまり見ることはできなかったけれど……お客さんに笑顔を見せる加蓮ちゃんも、見ていて笑顔を頂けましたよ」
「そーいうの、あんまり真面目に言わないでくださーい」
「先に言ったのは、加蓮ちゃんですっ」
……あぁ、寝転がっても、私達はやっぱりいつも通りだ。
ちょっとだけ特別な日に、いつものように言葉を交わして、笑って。
今日は傷つけたりしないから、そこは違うかもしれないけど……。ううん、藍子を傷つけることが……いつものことって言うのも、どうかと思うけどね。そうやって今まで過ごして来たから、なんとも言えないや。
「始まる前は現実味がなかったけど、終わるのは終わるので嘘っぽくなっちゃうな」
「もう何日も、こうしているみたい。加蓮ちゃんとも、こうやって――」
「それは嘘じゃないでしょっ?」
「そうでしたね。……加蓮ちゃんと一緒にいることも……ずっと一緒にいることも、改めて思い返すと不思議なんです」
「そう? 私は……あれっ、私もなんかヘンな感じがする」
「でしょ? でも、不思議に思った後で、もう1回だけ口にすると嬉しく聞こえるんです。ここはカフェで、私は、加蓮ちゃんと一緒にいるの……♪」
「……あはっ。魔女だー」
「カフェの魔女、高森藍子ですっ」
「ついに認めたね?」
「加蓮ちゃんの力をいっぱい抜き取って、どんなちいさな幸せでも、笑顔になっちゃう体にしちゃいますよ~」
「きゃー」
当たり前のことを不思議に思って、もう1度、口にしてみると嬉しく感じる――私は藍子と一緒にいて、どれだけの笑顔をもらってるんだろう。幸せな気持ちをもらったんだろう。
新しい1日を告げる鐘の音が、全身へとエネルギーを行き渡らせた。藍子も同じだったようで、私達は合図もなく、どちらかがどちらに引っ張られることもなく起き上がった。
クッションの汚れや食べ物の小破片がとても気になる。藍子も私の手を離し、長机の椅子をピッタリ並べ直しているようだった。
次は、と店内を見渡す目が、ふっと閉じる。
……頑張りたくなる気持ちは分かるけど、もう12時を過ぎちゃった。私も、すっごく眠たいや。
生まれたてのやる気はしまい直し、寝室へ。明日は『あいこカフェ』3日目、最終日。
昨日のことも考えて、3日目は裏方を止めて主にキッチンの雑用を担当することにした。ウィッグをつけなおし、変装と異物混入の阻止を兼ねた頭巾を巻く。藍子も真似しようとしたけど、看板娘に野暮ったい格好はさせられないので没収。
とは言っても……正直、私の手伝いはなくてよかったと思う。
最終日となる3日目は、『あいこカフェ』に力を貸してくれたスタッフさんが全員集まった。事務的な面を担った方も様子を見に来てくれて、周りに勧められて少しだけ店員としても入る。人手の多さもあって昨日みたいな忙しさはなく、何もないまま時間が過ぎていく。
今日初めてカフェに来たスタッフさんの店員としての振る舞いは、3日連続でフロアに立つ経験組にとって苦笑いの種になっちゃった。そんなハプニングとも呼べない事態があったくらいで、時間は緩やかに流れてゆく。客足も少なめ。大半のお客さんは昨日のゲリラライブにて抽選当たり券を使用したみたいなんだよね。
逆に盛り上がっていたのはSNSでのハッシュタグ「あいこカフェ」による呟きで、後から聞いた話だと一時期トレンド入りもしたみたい。
オープン直後は客がたくさんやってきて、ひと段落すると落ち着き、外の世界が賑やかになる。
リアルですねー……としみじみ呟く声に、その場の全員が頷いた。
リアルということは、それだけ『あいこカフェ』は本物のカフェらしいってこと。
……そんなポジティブ思考ができるのも、にこにこ笑っている藍子がいるからかな?
かといって私がバックヤードに戻ろうと、何も言ってもないのに思い立つと瞬間に藍子が道を塞ぐの。
「加蓮ちゃんっ」
ボディーガード役のスタッフさんみたいな圧もないのに足を床に縫い付けられちゃうのは、もうしょうがないよね。
藍子がまた新しい注文を完成させ、お届けする姿をぼんやり眺める。
……こうして見ると改めて、これが藍子の世界なんだって思う。
カフェとアイドル……。カフェアイドル、やっぱりやれるんじゃないかな。
ちょっとだけ、思い浮かべてみようか。プロデューサーさんや、マネージャーさんになった気持ちで……。
カフェの名前は、『あいこカフェ』。呼びやすくて可愛くて、誰が店長さんなのか一目瞭然だよねっ。ま、今回の藍子は店員さんだから、ちょっだけハズレだけど。
メニューには食べやすく柔らかい味の物が多い。ふわふわの卵と新鮮なトマトが美味しい朝食セット、藍子の大好きなサンドイッチ。中には具沢山のメニューもあって、お腹が空いたお客さんにもオススメっ。ドリンクはさらに多くの種類を備えております。初心者にも分かりやすい説明つきのコーヒー。何度も通って、どれがお気に入りか見つけてみてね。
ページをもう1つめくれば、ちょっとだけ色鮮やかな柄の限定メニュー。今は梅雨のシーズンが見えて来る頃だから、それにちなんで紫陽花のお菓子を用意してみたの。来週になれば、また違うメニューになるかも?
店内は、足をのんびりと伸ばせるくつろぎスペースと、大人っぽい雰囲気を体感できるテーブルスペース。お昼寝しても、店主が怒ったりはしません。クッションも置いているから自由に使ってね。
テーブルスペースは秘密のお話もできちゃう。カフェでは、他の人の話はもし聞こえても忘れるのがマナーだから。もし喧嘩しても大丈夫。頃合いを見計らって、優しい店長さんが声をかけてくれます。
だからって、惚れちゃダメだよ? 店長はなんと――実は、アイドルなんだよ!
持ち歌は「お散歩カメラ」って言って、毎日歩く道に面白いものや楽しいこと、てのひらサイズの幸せを見つける歌なの。
誰にだって見つけられる幸せは、この世界にたくさんあるんだよ。見ていたら、いつかあなたも気がつけるかもね。
普段はおとなしい子だけど、やる時はやるよ~? ステージを跳ねたり、大胆なチャレンジ企画を突破したりっ。写真が大好きで、ファンのみんなにも大切な時間を胸に取っておいてほしいんだって。
そんな優しくて、明るくて、笑顔が可愛い店長さん。
今日も彼女は、こう言うのでした――「来てくださり、ありがとうございましたっ♪」
最後のお客さんを藍子が送り出し、そのままドアの表側まで回る。表札を「準備中」へ、手癖で変えようとするも……寂しそうに一笑し、チェーン部分を手に表札ごと外してしまった。店内へ戻った藍子は、もう1度両手を前へ揃える。
「みなさん、ありがとうございました……『あいこカフェ』は、ただいまをもちまして閉店です!」
そう言うと、店内にたくさんの拍手が巻き起こった。1日目、2日目、3日目に見た店員さんよりずっと多い数の、これだけの人達が藍子の為に頑張ってくれた。暖かな気持ちを受け止め、もう1度お礼を言う。
「せっかくだから……片付けてしまう前に、みなさんで写真を撮りませんか?」
その提案に飛びついたのは、相変わらず元気いっぱいなギザギザヘアーのスタッフさん。3日の店員業に、青色の竹がちょっとくらい緑づいたかも? と思っちゃうタケさん(仮)の肩を強引に組んでいる反対側で、藍子のボディーガードを務めていたスタッフさんはこっそりとスマフォをチェックし、何かメッセージを打っているようだった。さてさて、誰に連絡していることやら。今回だけだよ?
店員役だったスタッフさんを筆頭に左右へ並び、真ん中はもちろん主役の藍子。セルフタイマーを長めにセットし、ゆっくりと歩いてくる途中に――人差し指で、涙を拭って――シャッターの合図は、「ありがとうございましたっ」だった。最後にお礼の言葉を揃えて、終わったんだと実感する顔がたくさんあった。
それからの後片付けはあっという間に進んでいく。手馴れた片付けと言えど昨日と一昨日よりも大規模なんだ。なにせ内装に家具、キッチンもすべて取り外してしまわないといけない。藍子は、自分だって疲れているのに汗をかいているスタッフさんへお水を持っていってあげたり、軽い運搬を手伝ったりしていた。
その時にたくさんの人たちが藍子へ話しかけていた。話題は次のLIVEのことやメイクに関する情報、レギュラー番組の打ち合わせとも言えない程度の雑談。気が早い人なんかは次回『あいこカフェ』の話とか、今度は違う期間限定の何かを持ちかけている。
藍子はそれらを軽く流してゆく。どこか困った顔なのは仕方がない。選択肢が突きつけられていることは、ほとんどの人が知らないままなのだから。
1つ1つのカフェだった物が運ばれてゆく度に、藍子はちらりと時計を見てしまう。もうちょっと、この時間が続けばいいのに――たった3日ながら、もう1つの家とも言えてしまう居心地の良さも、昨晩藍子と一緒に寝転がったくつろぎスペースも、なんの情緒もなく片されてしまう。――目を伏せる藍子はだけど、私が肩を叩くと、大丈夫だよと首を横に振った。
「……加蓮ちゃん、覚えていますか?」
「なにを?」
「カフェがカフェと呼べるために必要な物は、店員さんと、それからお客さんです」
これにて閉店、というフレーズの真意が込められた、重たい一言だった。
「……そうだね。そうだったね。じゃあもう、ここはカフェじゃないんだ」
「はい。それに……楽しかった思い出までもが、片付けられてしまう訳ではありません。私はみなさんから、たくさんの笑顔と時間をもらいましたから、もう大丈夫っ。寂しくても、へっちゃらです。……加蓮ちゃん、あっちも手伝いに行きましょう!」
「うん、行こっか」
それからの藍子は、私が近くに来た時のほんの一瞬を除いて寂しい表情を浮かべることはなかった。
解散したのは、まだもうちょっとあくびが出るには早い時間。とはいえ一旦の区切りであって、『あいこカフェ』の片付けはもう1日に及ぶ。残念ながら、私も藍子も明日はお互いレッスンやお仕事の予定を入れているので、もうここに来ることはない。
Pさんへの細かい報告やミーティングは明日の予定が終わった後でということになってる。車で私達を家に送ってくれると言う言葉に甘え――スタッフさん1人1人が去っていくのを藍子と一緒に見送ったら、Pさんの車に乗り込む。
「お疲れさまでした。……終わっちゃいましたね、加蓮ちゃん」
「お疲れ様、藍子」
「…………」
「…………」
ナイトラジオとは少しだけ合わない声色をかき消し、私達はほんのいっときだけ顔を見合わせる。でもそれは一瞬のこと。
信号が青に変わるをまるで合図に、来てくれたお客さんのこと、ミニステージのこと、カフェの制服のこと……たくさんの思い出話。
話したいことは山ほどあるけど、残念ながら車はさっさと藍子の家へと到着してしまった。あれだけたくさんの出来事を、帰り道の間にほんの片手分も共有し直せなかった。私も藍子も、動き続けていたのはもう口だけだし……明日からもまた毎日が始まる。名残惜しいけど、今日はこれでおしまい。
車から出た藍子はPさんと挨拶して、それから私にも笑いかけた。
「加蓮ちゃんっ」
「藍子」
「また今度、いつものカフェで会いましょうね」
「うん。また今度、いつものカフェで」
空に浮かぶ、灰雲に霞んだ月が少しだけ銀色に輝いていた。
――これが藍子にとっての、1つの到達点。
長い長い上り坂を進み、時に迷い、悩み、険しい道に何度も足を止めながらも、自分のやり方を探し続け、アイドルとして輝き続けた。
失われることなく持ち続けた強い気持ちが行く先に作り上げたのは、自分のカフェという優しい場所だった。
3日だけの出来事だったけど、たくさんの人に幸せの笑顔をもたらした。
だけどこれは、まだまだ終着点じゃない。もしもゴールに辿り着けたとしても、その後で話したいことがたくさんある。決めなきゃいけないことも。
だから藍子、またいつものカフェで。
私達がこれまでたくさんの時間を過ごした、いつもの場所で、またお話しようね。
【おしまい】
乙
結構読み応えあった
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