奇跡はない。
運命はない。
両手は神への祈りを捧げるためにあるのではない。
不断の努力。
練達の作為。
作戦を成功に導くのは弛まぬ訓練によって作り上げられた自らの身体であって、一度たりとも姿を顕したことのない何者かの存在ではないのである。
……と、そんなことを常日頃から口を酸っぱくして言い続けていた甲斐があったのか、はたまたなかったのか、それこそ神のみぞ知るところだった。
けれども俺は構わない。構いやしない。俺は別段、形無き名誉や名声、形有る徽章や飾緒などのために指揮を振るったわけではないのだ。
それが正義のためと大声で言えたのならばどれほど格好がつくだろうか。俺は俗物ではなかったが、傑物でもなかった。自らに任された仕事を十全にこなした。そして、こなした分だけ報われた。当たり前のことだ。なんでもない当たり前とは実に素晴らしい。
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青空に祝砲が上がってから、今日でちょうど一月が過ぎる。
深海棲艦との戦いは終わりを告げた。
やつらの勢力が弱まっているという情報は去年の暮れからまことしやかに流れていた。戦力の漸減による出没海域の縮小。EEZにおける漁船やタンカーの運航は次第にスムーズに進む様になり、艦艇や艦娘の護衛が必須ではない海域さえ生まれたのだ。
そうして先月、政府はほぼ六年に達しようかという非常事態宣言を解いた。それはつまるところ大規模な戦いの終わりを意味し――艦娘の兵役解除も当然含まれている。
奇跡ではなく、運命ではなく。
俺たちは不断の努力と練達の作為で、海の平和を取り戻したのだという実感が、胸の内にひしひしとあった。
とはいえ全てが終わったわけではない。全てはすぐさまには終わらない。
深海棲艦との大勢が決したのはあくまで日本のEEZ内のみであり、インド洋や大西洋では敵の拠点も点在しているらしい。日本としては順次そちらへ増援を送る形になるという。
各国と連携をとり、おいおい対処に向かうようではあるが、少なくとも俺のようなノンキャリアに与えられる仕事ではない。防衛省のお歴々と、呉やら横須賀やら佐世保やら、そういった防衛大出のエリートの仕事だ。
トラックは今日も暑い。
トラックに冬は訪れない。
なんら詩的な比喩ではなかった。赤道に近いこの泊地では、日本のような冬は縁遠い存在だ。
それでも現地の住民は、獲れる魚が変わる節目をポカスキと――より正確な発音であるならプォカスキィと――呼んで、神妙な面持ちで神事を行う。その意味や効果は、俺にはわからない。説明されても理解ができないのだと思った。
手元のスマートフォンで誰もが現在時刻と日付を確認できる今日びである。依然として残っているということは、俺が計り知れない理由がそこにあるのだろう。
日差しは少し汚れて曇ったガラスを突き抜け、首筋をちりちりと焼く。これが十一月の陽気とはとても信じられない。シャツは半袖から長袖に変えたが、だからどうしたというくらいの違いである。
とはいえ確かに季節は変わりつつある。街路樹の葉は色づき、あるいは既に落葉を始めているものもある。逆にようやく花を咲かせるもの、実をつけるものも。
泊地の艦娘たちの服装が一向に変わる兆しを見せなかったのも、季節感に戸惑う原因のひとつなのではないだろうかと今更に思った。神の加護を背負っていれば、外気温や天候はさほど問題ではない。それくらいでへたっては艦娘の名が廃る――とは神通の弁。
彼女に関しては頑張りすぎるきらいがあるので、話半分に聞くのがよさそうではあった。多少なりとも思いつめる回数は少なくなったらしいが、すぐには変わらないだろう。そちらのほうがいいとも俺は思う。人の心は季節と同じだ。ころころ変化されても参ってしまう。
変わらないものもあるし、変わりゆくものもある。そしてそれらは当たり前のことだ。
やはり、当たり前とは素晴らしいものである。
人間、色々あるものだから。
と言ってしまえばあまりに簡単に片づけ過ぎだろうか。しかし仔細を話せば殊更に長くなる。冗長を俺は好まない。そしてなにより、「色々」にも色々とあって……いいことも、悪いことも。話したくないことや思い出したくないことだって。
生きるということは前に進むということだ。必然的に、置いていかれた何某かも生まれることになる。
俺はそれを悪だとは思わない。
置き去りにすることは打ち棄てるの意を持たない。
「なぁにしんみりしちゃっているのさ」
執務室の扉を音もなく開けて、隙間から黒川博士が顔をのぞかせていた。黒川秋子。軍医。年齢不詳。医療工学のスペシャリスト。第二開発部基幹技術室主任。
黒縁眼鏡の向こうの三白眼には隈が目立ち、顔色は絶望的に悪い。寝起きでもないだろうに蓬髪があちらこちらへ飛んでいる。
俺は彼女が苦手だった。二年前にこの泊地へやってきてから、苦手であり続けている。ついに意識が変わらないままに終戦を迎えてしまうとは。
「そんなにみんなと離れてしまうのが嫌なのかい?」
「嫌……嫌、ですか。多分、その言葉を使うのは、違いますね。寂しくは思っています」
窓から見える一隻のフェリーを指さした。
あれには龍驤と、ゴーヤと、赤城が乗っている。彼女たちは横須賀で数週間か数か月を過ごしたのち、また全国のどこかへ再配置につくだろう。戦いの日常へと舞い戻るのだ。
ウチらはこういう生き方しかできんからな――龍驤が自嘲気味に吐いた言葉を思い出す。
そんなことはない、と俺は言いたかった。言ってやりたかった。
鳳翔は調理免許を取るために専門学校へ進む。夕張は高卒の認定を受けてから、高専か、工学部へ進んで人工知能の研究に携わりたいと言っていた。川内は貯まりに貯まった給金でバイクを買い、日本中を旅するらしい。
駆逐艦の殆どは遅れた勉強を取り戻すために、防衛省が用意してくれた学校への入学を決めている。天龍なんて整備班の男と結婚するそうだし、吹雪は地元に帰って稼業のレタス畑を手伝うと報告があった。みんな笑顔で日常へ戻る。戻れるのだ。
お前らだって、と喉元まで出かかった言葉は呑みこんだ。それが正しかったのかはいまだにわからない。きっと首を縦には振ってはくれないだろう。が、しかし、そんな言葉を期待していたんじゃないかと、少しだけ後悔する。
あいつらは、自らがそうなれるという将来を夢見ることができなかった。
これからのことについて幸せになれなかった。
「うまくやれるといいんですが」
「どこでだってうまくやれないということはないよ。民間出のきみだって、なんだかんだ提督として様になったように」
「そう……ですね」
「奇跡はない。運命もない。ただ不断の努力と練達の作為があるだけ。……ふふ、まさにその通りだ。そう思わないかい」
自らの口癖を改めて確認されるのは僅かに恥ずかしかった。俺はフェリーを視線で追うが、ついに建物の向こうへと消えていく。
「きみは民間に戻るんだって?」
「そうですね。やっぱりドンパチは性にあいません」
我が泊地は解体される。所属していた艦娘は散り散りに、それぞれの道を歩む。
当然俺もまた。
もともとの会社に戻れるわけもなかったが、幸い提督業をしていて顔だけは随分広くなった。斡旋された沿岸復興支援団体の職員としての人生が、俺の前には広がっている。
と、執務室がノックされた。最早この建物にいるのは、俺と博士を除けば一人しかいない。ゆえに誰何の必要はない。
「漣か、入っていいぞ」
何故だか不安げな顔をした漣は、俺と、そして博士の顔を確認すると、僅かに顔を曇らせた。そしてその表情はまずいと自分でも思ったのだろう、殊更に笑ってみせる。
「ご主人様ッ! 龍驤さんたち、無事出発しました!」
「あぁ、窓から見えた」
「わたしはそろそろお暇するよ。明後日の便で発つことになるだろうね。きみたちは?」
「……まだ、未定です」
答えると、漣が俺の手をぎゅっと握りしめてくる。まだ、未定。これからのことは決まっているけれど、それだけが。
博士は俺と漣の繋がれた手を見て爽やかに笑った。不健康そうな顔が一瞬だけ愉快そうに輝く。隠そうとしなくなってからは大体いつもこんな感じだ。
そのまま何も言わずに廊下へと消える。
「……」
「……」
「静かですねぇ」
ぽつりと漣が零した。俺は部屋の静寂や、聞こえるはずもない泊地全体の寂寞を確かに感じ取って、ゆるゆる頷く。
往時には三十名以上が在籍していたこの泊地も、いまや僅か三名。しかし想定していなかったと言えば嘘になる――否、そうなるべきだったのだ。警察にしたって軍隊にしたって、結局は暴力装置でしかない。必要とされないに越したことはない。
「なんか、変な感じです」
「俺もだ」
「ご主人様」
手の握りが一層強くなる。
「……しましょ?」
媚びるように漣は俺を見上げてきた。頭一つ分くらいは小さいその姿には、まるで似合わない。
嘗ての俺であれば喉を鳴らしたかもしれない。しかし俺は最早「提督」ではなかった。
手のひらが熱い。汗が滲んで、滑る。手繰り寄せるように漣の指を絡めた。
「……寂しくなるだけだろう」
「最後の思い出作りですよ」
「俺が寂しくなるから嫌だつってんだよ」
「へぇー? うふふ」
素直な物言いは、こいつに対しては、珍しい。漣はにんまりと笑う。悪戯っぽい表情だ。
自分の顔が赤くなっている自覚はあった。当然漣もそのことを論ってくる。耳を指さして、「真っ赤」と囃し立てる。
お前もだ。そう言って、空いたほうの手で、漣の柔らかい頬を突っついてみせた。
両者相討ちといったところか。
「漣のことが忘れらんない?」
「当分はな」
「当分じゃだめです。ずっと。ずっとがいい」
「なかなかハードルの高いことをおっしゃる……」
漣は長らく俺の秘書を務めてくれていた艦娘であり、同時に俺の……誤解を恐れない言い方をすれば、恋人であった。
泊地が解体され、みんながそれぞれのこれからを歩み出すように、当然漣にも彼女の新しい生活が、人生が、待っている。
人生を直線に喩えることがあるだろう。慣用句的には、それは交わったり、並行であったりする。そして情緒を含めれば、「いずれどこかで交わる」だとか、「交わることはなくとも隣にいる」だとか、そんな表現がされる。
正誤はともかく。
俺たちの人生は既に交わってしまった。ならばあとは離れていくだけなのだ。
悲しいことに。
「……博士に紹介されたとこいくのか、結局」
「……うん。そうするつもり。大学に行こうとも思ったんだけど、まだちょっと、不安だよね」
艦娘は年をとらない。精神的な成長は当然あるにしても、肉体の成長は皆無といってもいいだろう。こいつはこんなナリでも21だ。
海が平和を取り戻したとはいえ、その事実は陸の人間にはいまいちピンとこないものだろう。様々な疑いは実際あちこちで浮かび上がっていて……平和だけでなく、そもそもの深海棲艦やら艦娘やらにも、保守的で懐疑的な人間は存在する。
艦娘であったことをおおっぴらに掲げて生きていける世の中には、残念ながらなっていない。なりそうもない、と断言できるほどには俺は悲観してはいなかったが。
「まぁ、あれだ。お前くらいの年なら、いくらでもやり直しはきく」
「34歳は?」
「俺かぁ? 俺は……安定飛行が望ましいな」
「安定飛行を望むひとが、民間辞めてトラックで提督になりますかね?」
「しょうがないだろう、適性があると言われたし、広報官の説明から深海棲艦のヤバさは十分伝わったんだから」
給金も悪くなかったし、というのはこの際内密にしておこう。
「安定飛行のために、可愛い奥さんはいかがでしょ?」
制服のスカート、その裾を指先で摘まんで、漣はひらひらとさせる。白く健康的な太腿が眩しい。
大きくため息をついた。こんなときばかりは自らの理性が恨めしい。
勢いに任せて漣を押し倒せたらどれだけ、どれほど、幸せだろうか。気が楽だろうか。我慢は体に毒だ。一回りの年の差など大した問題にならないご時世であるし、お互いの合意の上でなら、お互いの愛が下敷きにあるのなら、障害はどこにもない。
俺が手をゆっくりと広げると、漣は一息に飛び込んでくる。胸板に頬を擦りつけながら、俺の匂いを十分に味わっている。
そんな桃色の髪の毛に左手を、セーラーの襟に右手を回し、彼女が息苦しくならない程度に力を回す。
あぁ、こいつ、体温高いんだよなぁ……。
「……申し訳ないが、だめだ」
「……天龍さんは結婚するのに?」
「あいつの場合は整備班だろ。俺とお前は、違う」
艦娘と提督の間には、作戦遂行に支障を来さないための措置として、互いを「嫌いにならない」処理が施されているという。
勿論それはこういった恋愛関係を推奨するものではなかったし、仮に行き過ぎても男女の関係に陥るほど強烈なものではない。だから俺が漣を愛しているのは、漣が俺に体を許してくれているのは、完全に自分の決定によるものだ。
とはいえ。
……あぁ、まったく、俺もじゃないか。
これでは龍驤たちに何も言えないのも当然だ。
「ご主人様、ちょっと頭、下げて」
「……ん。これでいいか」
「うん」
膝を曲げて屈んだ俺の頭は、ちょうど漣の胸元、セーラー服のタイが目の前にある。
しょーがないですねぇ、と彼女は呟いた。非難の色はそこにはない。困ったようで、それでいて大人っぽく振舞えることを楽しんでいるようでもいて。
「そんな怖いことはないですよ」
優しく抱きしめられる。
「『艦娘』と『提督』じゃなくっても、関係は変わりません」
そうだろうか? こいつの務める研究所には、きっと俺よりも高学歴のエリートがわんさかいるのだろう。そいつらは艦娘への理解も深い。漣は社交的だから、すぐに打ち解けられるはずだ。
振られるのが怖いというよりも、結局、いま胸の内にある情熱が、ただ一時燃え盛っているだけの火炎であることが、俺には何よりも耐え難いのだ。
日本が平和になり泊地が解体される。この機会は、またとない瞬間に思えた。連れ添って、そして、愛が冷めていくことを実感しながら生きるのは、俺にはきっと無理だから。
漣の方がまるで大人だった。まったき強かさを持っていた。
「……じゃあ約束しましょうよ」
「約束?」
「ほら、よくあるじゃないですか。お互いが30まで独身だったら結婚しようとか、なんとか、そういうの。
もしもまた漣たちが会えたら、そのときは、今度こそ一緒になりましょ? それまでに漣、もっといい女になってますんで」
「……漫画の見すぎだ」
「あははっ。かもしれませんね。
でもご主人様、漣は本気なんです。本気で言ってるんですよ。一旦離れ離れになって、それでもまた会えたなら、それは運命じゃないですか。奇跡だと思いませんか!」
……運命はない。奇跡はない。
「えぇ、えぇ、そうかもしれません。それならそれでいいんです。二人を結びつけるのは、運命や奇跡よりも、会いたいって気持ちなんです。そっちのほうがロマンチックじゃないですか!」
不断の努力。練達の作為。
「会いたいから会う! そのために努力する! 計画を練る! それのどこに問題がありますか!」
反論できない。
そんなのどこにも問題はないから。
両の頬に手が添えられる――よりももっと力強く、がっしりと、保持、そう保持だ、固定と言ってもいいかもしれないが、それくらいの全霊を籠めて、漣は俺の顔面を真っ直ぐに向き直させる。
触れ合う肌が熱い。彼女の手のひらが熱い。
真っ直ぐ見据えた、見据えてくる彼女の顔が、赤い。
「女の子にここまで言わせるなんて、ごっ、ご主人様は、ほんとに甲斐性がないんですから」
「……すまん」
「いいですよ。漣は優しいですから、許してあげます」
「……すまん」
重ね重ね、申し訳ない。
そのままどちらともなく唇をあわせた。漣からは桜のにおいがする。リップだろうか。それとも入浴剤だろうか。
歯列を割って舌を侵入させようとしたとき、漣が俺の舌を突き返してきた。絡めるのに失敗したわけではなさそうだ。
「ちょ、ちょっと! すとっぷ! たんま!」
半ば俺を押し返すように、漣は距離をとる。
「……逸った。悪い」
最初にしようと言ったのは漣からだったが、それを今更持ち出すのは、きっと女心がわからないと怒られてしまうに違いない。
漣は赤みを増す顔を片手で隠し、もう片方の手をこちらに伸ばして制空権を主張してくる。本気で嫌がられているわけではなさそうで、それが何よりの安心だ。
「い、いえっ。別にいいんですが、いいっていうか、確かにそう言う空気でしたけれどもっ!」
大きく深呼吸をして、
「今ここでしてしまうと、ご主人様に満足されちゃうと、のちのちの展開に響きそうなのでっ!」
なるほど。
「……なるほどね」
漣は、やはり、どうやら、……嬉しいことに、本気であるらしい。
会いたいから会おうとする。そのためなら俺にお預けを課すことも厭わない。運命も奇跡も頼りにしないのだとすれば、それこそが彼女なりの努力であり、作為であるのだろう。
「……」
桜のにおいが鼻孔に残っている。味蕾は甘い唾液によって不全にされた。温もりを覚えた肌は熱を醒ましそうにない。
端的に言って、覿面に効いた。男とはかくも単純な生き物で、意識せずとも涙が浮かぶ。
「さ、さぁっ! ご主人様! これからの話をしようじゃありませんか!」
* * *
* * *
実のところ、不安は消えてなくなっていた。
俺たちはお互いのことを知っていたけれど、知っているふりをしていた部分も確かにあって、どんな間取りの家に住みたいかだとか、子供は何人欲しいかだとか、犬派か猫派か、納豆には砂糖を入れるか入れないか、それどころかもっと単純な、好きな色、食べ物、映画、休日の過ごし方、孤独を愛して社交を楽しむ度合い、そういった様々を心行くまで時間の許す限り、隅から隅まで話し合うことは、劇薬じみた効果を発揮した。
それでも予め決めていたように、一度別れ、会いたい気持ちを我慢できなくなったときにまた会おうとなったのは、所謂一つの儀式だ。儀礼的行為だ。イニシエーションだ。
俺だけではなく漣も、ああは言っていたものの、確かめたかったのではないだろうか。
俺たちの間にきちんとした絆が結束しているのか。
物理的距離に惑わされず、新生活に忙殺されず。
もしくは、これからのことが一旦落ち着いてようやく、更なるこれからのことを考えることができるという判断なのかもしれない。決断を下すのは熱に魘された頭ではなく、冷え切った理性によるべきだとは、俺も漣も思っている。
だから殆ど出来レースなのだ。
心に幾許かの余裕をもって、俺はいま新居の前に立っていた。新居と言っても新築戸建などというはずもなく、築浅の集合住宅である。
博士などは「部屋を引き払うときには一報くれたまえ」なんて脅かしてくれたが、なかなかどうしてまともな家だ。どんな幽霊屋敷があてがわれるかとびくびくしていたのが馬鹿らしくなる。
深海棲艦によって被害を受けた沿岸地域の復興、それにまつわる一連の業務が俺の新たな仕事。職場は少しばかり意外なことに海の傍にはなかった。
潮騒が聞こえず、海のにおいもしない空間に立って初めて、俺は自らがどれだけあの環境に馴染んでいたかを知る。少し頭がくらくらするくらいだ。
「まぁ、おいおい慣れるだろうさ」
自分に言い聞かせる。正式な入社は二週間後。それまでは身の回りを整えたり、地理などを覚える期間にあてられている。
最低限の家具などは海軍から支給されているのがありがたい。とはいえ、パソコンや家電製品の大半は揃えなくてはならないし、スマホの契約なども手付かず。やらねばならないことは多い。
新しい町は、少し寂しい。雑踏、踏切、ティッシュ配り、街宣車、トラックにはなかったうるささで満ち溢れているというのに。
「……」
艦娘たちが今の俺の傍にはいない。
それも当然か。今の俺は提督ではない。
漣は俺よりも少し早く本土へと向かった。元気にしているだろうか。
棲家は知らない。漣自身も知らないとのことだった。博士から斡旋された仕事であるため、その都合なのかもしれない。
連絡先は知っているが、通信を確立していない以上、スマホもパソコンも無用の長物だ。ただすぐにこちらから連絡をとるのは恥ずかしさもある。寂しかったんですかぁ? とからかってくる漣の様子が眼に浮かぶようだ。
一ヶ月……二週間……、うぅむ。
十日。十日我慢したら、近況を尋ねてみよう。
俺は三つの菓子折りを持って扉を開けた。両隣と下には挨拶をしておいたほうが後腐れはない。そこまでうるさくつもりもなかったが、まぁ処世術だろう。
左隣のチャイムを鳴らしたが、反応はなかった。居留守をつかわれているのだろうかと思って用件を声に出してみたものの、変わらず。どうやら本当にいないらしい。
仕方がない。別にすぐにわたさなければいけないものでもない。気を取り直して右隣へ。
チャイムを鳴らすと、どうやらこちらは在宅のようで、中から「はーい」という声とともに少しばたついた音が。
扉が開く。
桃色が視界に広がる。
桜のにおいが広がる。
引っ越し祝いが俺の手から落ちる。
漣が、俺に飛びついてきたからである。
菓子折りのどさどさという音とともに、俺は勢い余って背中をコンクリの壁へと激突させる。痛い。痛いが、それよりも。
「な、なっ! なんで!?」
泣きそうな顔で漣は笑って、俺の肩をがたがた揺らす。そのたびに壁へと俺が背中を打ち付けていることには気が付いてくれはしないらしかった。
「奇跡?」
そんなものはない。
「運命!?」
だったらどんなにいいか。
「じゃあじゃあ、不断の努力――!」
した記憶はなかった。
「もしかして、練達の作為ッ!?」
博士の言葉が脳裏をよぎる――部屋を引き払うときには一報を。
「……やっぱり、運命だ、んむっ!?」
漣の口づけで思考が吹き飛ぶ。甘い甘い唾液は、俺をだめにする毒と何ら変わりがないように思えた。毒と甘露は紙一重なのだ。
やられっぱなしは性に合わなくて、背中の痛みを誤魔化すためにも、俺は漣の小さな、そして柔らかい体を掻き抱く。こいつの全てが俺のために用意されたようにすっぽり収まる。
「ご主人様ッ!」
息継ぎのために唇を俺から離し、漣は叫ぶ。
「結婚しましょう!」
「……俺から言わせろ」
余談ではあるが。
それから二か月分、使いもしない俺の部屋の家賃を払い続けていたのは、単純に癪だったからである。
【了】
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おしまい。
なんでGWなのに俺の隣には漣がいないの?大井っちもいないの?
わからん。謎だ……。
過去作もよろしくお願いします。潜水艦泊地もだらだら書いてますんでお待ちください。
待て、次作。
待つ次回
おつ 俺もとなりに欲しい…
乙
この作者さんの書くSSは面白いんだがどの作品もタイトルがイマイチなんだよな
もったいない
このSSまとめへのコメント
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