渋谷凛「ソールド・アウトマーク」 (35)
■ 一章 半分と半分
私の全身がすっぽりと入ってしまうくらい大きな姿見の前で、くるりと一回転。
片方の脚を上げてみたり、腕を広げてみたり、私の動きに伴って、当たり前だけれど鏡の中の私も動く。
そうやってしばらく鏡の中の自分を眺めることに夢中になっていたところ、ノックの音が三度飛び込んできた。
「どうぞ」
私がドアの向こうへ声を投げると、数秒の間があって、その後にゆっくりとドアノブが回る。
おそるおそるとも言うべき控えめな開き方でドアが少しだけ開いて、その隙間に滑り込むようにしてノックの主であろう、一人の男がやってきた。
視線がぶつかる。
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「おおー……」
「その……どう? ですか?」
「うん、良い。良いですね。めちゃくちゃ似合ってます。やっぱり黒と白でメリハリが効いてますし、何より渋谷さんはスタイルが良いのでこういうシンプルなものが一番映える」
しきりにうんうん頷いて、まじまじと見てくるこの男こそ、私を担当しているプロデューサーだ。
プロデューサーであると同時に私を芸能界へ引き込んだ張本人でもある。
彼との出会い、スカウト、そして私が決断するまではそれはもういろいろなことがあったのだが、今は横に置いておきたい。
というか、あまり思い出したくない。
「サイズ、問題ないですかね。採寸してからの発注なので問題ないとは思うんですけど」
「はい。大丈夫です。ぴったりで」
「良かった。……それにしてもやっぱり似合うなぁ」
またしても彼の視線が私の胸元からふとももにかけてを往復し始める。
今日は、撮影のお仕事で使用するという水着の試着と、そのお仕事に際しての諸々の確認をするべく事務所に呼び出されていた。
黒のビキニスタイルの水着に、白のショートパンツを合わせた至ってシンプルな水着だが、確かにセンスは悪くない。
胸の真ん中にあしらわれた大きなリボンはかわいいし、用意してくれているブレスレットや髪飾りなどの小物類も、私をイメージしてデザインされているだけあって特別感もひとしおだ。
しかし、これら全てがこの男の趣味であったらどうしようか。いや、どうしてくれようか。
などと考えながら、未だ私のことをまじまじと眺めているプロデューサーの視線から逃れるように一歩右にずれた。
「その、気に入ったのはわかったので。もう、いい?」
「あっ。ごめんなさい。はい、大丈夫です。素敵でした」
最後はただのお前の感想ではないか。
そうツッコみかけて、踏み止まる。
「ん。じゃあ着替えるので、また出てもらっても……」
「あ、はい。すみません、すぐに」
今度は慌ただしくドアノブを回し、ばたんと部屋からプロデューサーは出ていった。
裸足のまま、ぺたぺたと事務所の更衣室のタイルを歩き、ドアのもとへ。
疑っているわけではないが、まだプロデューサーとアイドルという関係になって一年程度なわけで、全幅の信頼を置けているかと言われると、そうではない。
だから申し訳ないけれど、鍵を閉めさせてもらった。
再びぺたぺたとタイルを踏んで、自分の荷物のもとへ戻る。
鞄から元々身に着けていた私服を取り出してから、背中に手を回した。
しゅるりと後ろ手に紐をほどき、汚さないように机上に乗せる。
ショートパンツも、下の水着も同じようにして、それから順番に私服を身につけていった。
スニーカーに足を入れ、片方ずつ靴紐を結んで、爪先を鳴らす。
一応、姿見の前で衣服が乱れていないことを確認し、ドアの鍵を開けた。
「着替え、終わりました」
ドアの向こうに呼びかけると、またしても最初と同じように控えめな入室方法でプロデューサーがやってくるので、笑ってしまう。
「なんでそんな忍び込むみたいに入るんですか」
「いや、女性用の更衣室なんて普段入らないから、ちょっと緊張して」
ぶんぶん手を振って、焦りながら愛想笑いを浮かべるプロデューサーはなんだかおかしい。
「ああ、そういえばなんですけど、渋谷さんに言おうと思ってたことが三つくらいあって」
「? 私になにか」
「まず一つ、敬語じゃなくていいですよってことをずっと言いたかったんですよね」
「理由を聞いても……?」
「えっ、っと。ほら、最初にスカウトさせてもらったときに結構、渋谷さんフランクな感じだったでしょう。アレくらいラフに来てもらっても全然かまわないので」
「……あれは、その」
言葉に詰まってしまう。
実は私はこの男、プロデューサーにスカウトされたときに随分と随分な態度で接してしまった過去があったりする。
それ故に先程スカウトのことを思い出しかけた際に、無理矢理頭の隅に追いやったのだが、どうも簡単には忘れさせてくれないらしい。
もちろん、私だけに非があったとは思っていないし、この男の少ししつこいスカウト方法にも問題があったことは添えておきたいのだけれど、それでも私はこの男に割と強めの対応をしてしまっているのだ。
具体的にはアンタ呼ばわりしたり、キツめの言葉を言ってしまったりした。
したがってスカウトされたときの記憶は私、渋谷凛が普通の高校生からアイドルとなることになった重大な事件ではあるものの、綺麗な思い出とは言い難く、今でも思い返すと恥ずかしくなってしまうのだ。
「思ったことずばーんって言ってもらえそう、っていうか。あっちの渋谷さんの方が素だと思うので、あっちを希望したいんですよ」
黙ったままの私に次々と追撃が来る。
なるほど、なんとなく意図は読めた。
彼は普段の私が遠慮をしていると感じているのだろう。
「……でも。プロデューサーは私のこと渋谷さん、って呼んでるし、それにまずプロデューサーが敬語なわけで……」
小さな声で、必死の反論を返す。
「んー、そうか……じゃあ……凛さん」
「さん、もいらないです」
「……えっと。凛」
「はい」
「………………仲良くしようね?」
「……あまりにもテキトーじゃない?」
あまりにも、あまりにもテキトーな話題の出し方に、ぽろっとタメ口が出てしまった。
「あ」と訂正しようとするも時すでに遅く、プロデューサーは「それを待ってたー!」と嬉しそうにしている。
どうやら掌の上で転がされていたようだが、もうどうでもいいか。どうでもいいよね、と諦めた。
「プロデューサーが良いって言うなら、私としては別にいいんだけど……」
「そうそう。そんな感じでお願いしま……したい。渋谷さ……凛はちゃんと場面に応じて言葉を使い分けられると思ってるから、その辺りも心配してないし。俺に対してはそんな感じだと嬉しいなぁ」
「ねぇ。言いだしっぺがめちゃくちゃぎこちないのどうにかならないの?」
「仕方ないだろ。今までずっと渋谷さん、渋谷さんって呼んでたんだから」
「あ、ちょっとムキになるとプロデューサーも口調がラフになるね」
「変な研究もしないで」
「ふふ。それで? あと二つくらい言いたいことあるんでしょ?」
「あっ、そうだった。二つ目は業務連絡です。その水着は買い上げたので、撮影が終わったら凛の私物になるから自己管理をよろしくお願いします」
「えっ、買い上げた? なんで?」
「それはまだ秘密」
「まだ私に話せない内容ってこと?」
「そういうわけではないんだけど、プライバシーがこう……あれになるので……」
「あれ? あれになるってなに?」
「あれはあれです」
「……確認するけど、業務に関係することで言えないわけではないんだよね?」
「うん」
「じゃあ教えてくれないともう口きかない」
「えー……それはちょっとずるくないですか……」
「ずるくないよ。ずるいのは隠し事するプロデューサーでしょ?」
「……絶対、引かないって約束してもらえます?」
「内容にもよると思うけど」
彼は大袈裟にすぅー、と息を吸い込んで、はぁー、と吐き出す。
それを何度か繰り返して「めちゃくちゃかわいかったし、渋谷さんに絶対に似合う。似合わないわけがないと思って経費をごにょごにょして買っちゃいました」と舌を出すのだった。
「………………」
「引かないって約束したじゃないですか……」
「約束はしてないでしょ」
「そうだっけ」
「うん。でも、それいいの?」
「問題はないはず。おかげさまで凛に使っていい予算は今年度は結構もらえたし」
「今年度、始まったばっかだけど」
「……それは、その。追々と考えましょうね……」
本当にこの男が担当プロデューサーで大丈夫なのだろうか。
そう思って仕方がない。
けれども、まぁ確かにかわいい水着だとは思っていたし私に損はないのだから、もらえるならばもらっておいてもいいかもしれない。
「……はぁ。……悪いコトしたわけじゃないし、まぁいっか」
「うんうん。凛はもらえてラッキーくらいに思ってもらえれば」
「理由はわかったけどさ、なんでまた買ってくれたの?」
「深い意図はないんだけどね。こう、記念になるかなぁ、って」
「記念?」
「そう。凛と一緒に仕事するのもちょうど一年くらい経つからさ、何か形に残るプレゼントしたいなぁ、と」
「……そっか」
この男はしれっとこういうことを言うから、侮れない。
格好をつけられるような人ではないことはもう十分わかってるし、寧ろ格好をつけようとすればするほど逆にダサくなってしまうような人だけれど、何気なくしてくれることは不思議と格好いいのだから、よくわからなくなる。
ただ、ここはやはり素直にお礼を言っておかなければならないだろう。
「プロデューサー」
私の前で「あ。でもですね。経費を使ったって言っても、そんなに高くなくて。というか、先方のご厚意ですっごく安くお譲りいただけて……」などと聞いてもいない言い訳を重ねているのを強引に遮る。
「その、これ、プレゼントしてくれたんだよね」
「えっと、はい。そうですね」
「そっか。……なら、うん。まずはありがとう。嬉しいよ」
人差し指で頬をなぞりながら、率直な気持ちを言葉にした。
アイドルとして活動を続けてきた甲斐あって、以前よりはマシになったと思いたいが、それでもまだ私は愛想がない方だと思うので、なるべく伝わるように伝わるように言葉を選ぶ。
「プロデューサーが私のために用意してくれた衣装、大事にするね。お返し……じゃないけど撮影も全力で頑張るから」
私が言い終わると、プロデューサーの顔がぱぁっと花が咲いたように明るくなる。わかりやすい人だ。
「良かった。てっきり困らせただけかと思って、不安で」
「もう。一年も一緒にいるんだから、ちょっとは察してよ。これでも結構本気で嬉しいんだってば」
彼は私の言葉を聞いて、心底安心したようで「そっかぁ。……そっかぁ」と繰り返していた。
机上に置いてある先程まで着ていた水着に視線を移す。
彼が贈ってくれたこの水着に恥じない働きをしたい。する。私は強くそう誓うのだった。
「そういえば話が逸れちゃったけど。三つ目は?」
「ん。三つ目?」
「三つくらい伝えたいことがあるって、さっき」
「あー。三つもなかった。さっきので終わり」
「……はぁ」
ちょっと見直したばかりなのに、すぐに評価を下げるのは呆れを通り越してもはや感嘆するばかりだ。
でも、頼れるところと頼れないところが半々くらいの、こんな塩梅がちょうどいいのかもしれないな、なんて。
■ 二章 夜に溶かす
燦々と照りつける太陽。
潮の香り。
もくもくと盛り上がる入道雲。
足の裏全体に伝わる砂の柔らかな感触。
私は今、海に来ていた。
身につけているのはもちろん先日プロデューサーに贈ってもらったあの水着で、理由も当然撮影のお仕事だ。
撮影のお仕事自体は、天気に恵まれたこともあって順調に進み、お昼を回って少し経った辺りで私の分は撮り終わった。
けれども卯月と未央はまだしばらくかかる、ということで一足お先に私はビーチに繰り出させてもらっていた。
「日焼け止め、塗り直しときな。あと、怪我だけはしないように。何か欲しいもの、食べたいものがあったら遠慮なく言うんだぞ」
まるで注意事項が列挙されている看板みたいに口うるさいプロデューサー付きではあるけれど。
「ちゃんと聞いてる? 返事は? 危ないところには行っちゃダメだからな」
「聞いてるってば。……なんか最近、過保護な親みたいになってきてるよね。プロデューサー。敬語も出なくなったし」
「自覚はある。だけど、言っとかないと気が済まないんだもん」
「そんなに心配ならついてきたらいいでしょ。海に」
「ええー。だって」
「わざわざ水着に着替えたのに、砂浜にずっといるだけなんてもったいないと思うよ」
「そうかなぁ」
「そうだって」
「でも島村さんと本田さんの担当さんらに見られたら、こう、気まずいし……」
「なんで?」
「え、だって、あの二人は今仕事中なわけで……」
「プロデューサーだって仕事中でしょ。私の護衛っていう」
「業務内容に護衛なんてあったかなぁ」
「ないなら今日から追加したらいいよ」
「護衛手当みたいなの、出る?」
「あとでかき氷ひとくちあげる。」
「かき氷なんてどこにも売ってないだろ」
「探せばあるんじゃないかな」
「いや、探してもないよ……海の家すらないんだから」
「もう。いつまでも渋ってないでさ、覚悟決めなよ」
「んんん……まぁ、行くかぁ」
「最初からそう言えばいいのに」
「あ。でも、海に入るなら……」
言って、プロデューサーは左手をぼうっと眺めたあとで「外しとくか」と薬指の指輪をぐりぐりと外した。
その様を見て、何故だか胸の当たりがちくりとする。
今の痛みはなんだろう。
疑問に思うも、もう既にその痛みは消えていて、そもそもそんな痛みなどなかった気さえしてくる。
「荷物と一緒に置いといても大丈夫かな。誰も盗んだりしないだろうし」
「え。大丈夫? 車に置いて来るとかした方が」
「へーきへーき。よっぽど大丈夫だと思うよ」
「プロデューサーがいいならいいんだけど……」
「よし。海行こう! 海!」
「さっきまであんなに渋ってたのに、急にノリノリだよね。もう」
「一回踏ん切りついちゃったらもう、な」
その感覚はわからないでもない。
というか、実体験として知っているからわかってしまう。
なぜなら、アイドルとなってからの私がそうだったから。
そんなガラじゃない。何かに夢中になったことなんてないし。と二の足を踏み続けていたにも関わらず、いざ始めてしまったらがむしゃらにレッスンに励み、オーディションの結果に一喜一憂し、アイドルとしての活動に熱中している私が今ここに在る。
だから、「そういうの、あるよね」と心の底から返した。
彼もそれに対して「あるよなぁ」とにやついている。お互い、胸の内で思っていることはどうやら筒抜けのようだった。
さて、と前置いてプロデューサーは大きく伸びをする。
「やるか」
私が「何を?」と口を挟む前に彼は駆け出した。
高校生の私から見ても随分と気合の入ったダッシュを目の当たりにぽかんとしてしまう。
一歩、二歩、三歩。
足を取られるはずの砂浜にも関わらず力強い踏み込みで、あっという間に波打ち際まで辿り着いたプロデューサーはエビ反りに跳び上がる。
「海だー!」
呆気にとられて、依然ぽかんとしたままの私に向かって彼は仁王立ちになって、叫ぶ。
「次は凛の番!」
言われて、周囲を見渡す。
まだハイシーズンには遠く、気温こそ高いが水温は低い上に、撮影用に選ばれただけあって辺鄙な場所に位置するこのビーチに人の気配はない。
はぁ、とため息に似た何かを吐き、腹を括る。
いいだろう。受けて立とうではないか。
それに、これも撮影だと思えば恥ずかしくはない。
先程目の当たりにした彼の全力ダッシュを思い出しながら、重心を落とす。ぐっ、と前のめりになり、出した左足が踏みしめる砂の感触が強くなった。
砂の感触を確かめるように視線が下に移り、そこではたと気が付く。
波打ち際まで続くプロデューサーの足跡。少し足をずらして、なんとなくその足跡を踏んづけてみると、私の足よりも一回り大きくて「あんな調子でも立派に男の人の体格なんだなぁ」と当たり前のようなことを思うのだった。
「まだー?」
もう待てない、といったふうに彼は手を振り回して、私を催促してくる。
もう、わかってるってば。
左足で思い切り砂浜を蹴る。
次いで出た右足は、前方のプロデューサーの二歩目の足跡よりも手前に着地した。
歩幅さえこんなにも違うものなのか。
体格の違いを実感しながらも、間髪入れずさらに左足を出す。
右、左、右、左。
前傾姿勢でどんどんと加速していき、プロデューサーのもとへあと数歩ほどというところで、大きく踏み切り、私も跳んだ。
「海だー」
いける。
そう思ったのに、口から出たのはどこか棒読みじみた声だった。
「うーん。恥ずかしさに負けたな」
肩で息をする私へ、追い討ちのように辛口評価が飛んできた。
「普通、あんなばかみたいに叫べないと思うけどね」
やられっぱなしも癪なので、仕返しをする。
「必要に応じてバカにでも何にでもならないと。凛はもうプロなんだから」
「お仕事では、でしょ?」
「普段できないことはお仕事でもできないぞ」
「できるってば。やらなかっただけ」
「本当かなぁ」
不毛なやり取りが、お互い決着がつかないことを悟るまでの間しばらく続いた。
そうして、ひとしきり言い合ったのちに、ばからしくなってきて、どちらともなく吹き出してしまったのだった。
「ほら。時間は限られてるんだから海で遊ばなきゃ損だよ」
「……って言ってもなぁ。泳ぐには水温低いだろ」
「海だー、ってやってたときはあんなにハイテンションだったのに」
「アレでなんか満足しちゃった」
「撮影の時ちょっと入ったけど、今日は陽射しが強いから足までなら丁度良かったけどね」
私が言い終わるとすぐに、プロデューサーはじゃぶじゃぶ海へ入っていく。
「ん。本当だ。気持ちいいくらいだな」
「でしょ? 多少入れたところでどうやって遊ぶのって話ではあるんだけどさ」
「まぁ、結局そこに着地するよなぁ」
青く澄んだ海に白い砂浜、よく晴れた空。
絶好の条件こそ揃っているが、何をして遊べばいいかという最初の一歩で躓く私たちだった。
二人して頭を捻るも、画期的なアイディアなど出るはずもない。
足先だけ海に入って、棒立ちしているというのは傍から見たらなんともシュールな光景なのだろうな、と思った。
少しして、何もしないことに焦れてきたプロデューサーが「そうだ」と言って、さらにじゃぶじゃぶと沖の方へ歩いていく。
どうせろくでもないことなのだろうが、一応見てやるとしよう。
そう思って彼の動向を見守っていると、急にその姿が倒れ込むようにして海の中へ消えた。
え。
足でも滑らせたのだろうか。
それとも、攣ったとか。
悪い予感ばかり浮かび、慌てて彼が姿を消した場所へ急ぐ。
必死で地面を蹴っているのに、水の抵抗で思うように速度が出ないことに苛立って仕方がない。
早く、早く、早く。
そのとき、ざぶんと水中から彼が顔を出した。
「あれ。なんで泣きそうな顔してんの」
「……え?」
○
それから、詳しく事情を聞くところによると、プロデューサーは海藻を使って遊ぼうと考えたらしく、その海藻を集めるために潜ったようだった。
急に消えるものだから、私は本気で心配したというのに。
やってきた安堵が一段落すると、今度はふつふつと怒りが沸いてくる。
「溺れたかと思うでしょ。急に海に消えたら。それもあんな倒れるみたいに」
心配するこっちの身にもなってよ、と私は怒りのままに彼にまくしたてる。
彼はと言えば、そんな私の説教もどこ吹く風で、にこにことしているばかりか「そんなに心配してもらえてうれしいなぁ」などと言うのだから、私の怒りは収まるどころか増す一方だった。
「そんな怒んないで、って。ほら、海藻あげる」
腰に両の手を当てていた私の両肩に一枚ずつ、海藻が貼られる。
相手にしたらだめだ。コイツはさらに調子に乗るぞ、と無視を決め込んで私は説教を続行する。
「二枚じゃ足りない。いいだろう。大サービスでもう一枚!」
次は私の頭の上に置いてくる。たらりと額から鼻の頭にかけて垂れたそれは、さながら中国の妖怪のような外見になっていることだろう。
しかし、ここで無視をやめてしまってはこれまでが水の泡だ。
説教さえやめて、目さえ閉じて、口もきいてやらない作戦に出る。
されるがままなのは癪だけれど、無視をし続けることで、その内に罪悪感の方が勝り謝ってくるに違いない。
この男はそういう男である。そう確信して、全てに無反応を貫いていたところ、耳に機械的な音が届いた。
かしゃっ。
「え」
瞼を上げて状況を確認する。
目の前にはスマートフォンを持ったプロデューサーがいた。
「なんでスマホ持ってるの」
「防水だし。良いオフショットが撮れるかなぁって思って」
もう我慢の限界だった。
頭上と両肩にに置かれた海藻を剥がし、右手で思い切り握りしめ、振りかぶる。
「え。ちょっ、凛さん?」
プロデューサーが油断している内に顔面目掛けて全力で投げつけてやった。
直撃の瞬間、海藻は三方向に別れ、べちーんという音を立てて直撃し、プロデューサーの顔面に綺麗に貼り付く。
すぐさまカメラアプリが起動されたままの彼のスマートフォンをひったくり、この間抜け面を十連射で記録するという仕返しに私は成功した。
でも、記録したはいいが消されてしまっては意味がない。
ならばどうしたらいいか。簡単だ。
このスマートフォンを取り返される前に彼が関与できない場所に送ってしまえばいい。
飛び退くようにして一歩下がり、水しぶきが跳ねる。彼のスマートフォンを操作して連絡先の一覧を開くと、最上段に私の名前があった。
渋谷でサ行であるはずなのに一番上にあるのは何故だろう。疑問に思いながら自分の名前をタップすると読みが『アシブヤリン』となっていて、なるほどと思う。
業務上でおそらく彼が最も電話をする相手が私だから、すぐに発信やメールの送信ができる位置に置いておきたいのであろうし、至極合理的ではあるのだが、その方法がなんとも面白かった。
和みつつ、さらに自身のメールアドレスをタップして、メールアプリを開く。添付ファイルに先程のプロデューサーの写真を添付して送信ボタンを押した。
直後「取った!」と取り返されてしまったが、もうやるべきことはやったので問題はない。
「何見てたんだ……? あれ。メール送ってる? 凛に? ってこの写真!」
何をされたのか彼も気が付いたようで、絶叫が響く。
「さぁ、攻守逆転だね。プロデューサー」
「……何が望みだ」
「んー。どうしようかな。じゃあ、プロデューサーは今日一日、私に聞かれたことには全て、嘘偽りなく答えること。これでどう?」
「銀行口座の暗証番号とかナシだぞ」
「そういう悪質なのは聞かないから安心していいよ。だいたい、聞くわけないでしょ。聞いて悪用したとして、これからどんな顔でお仕事したらいいって言うの」
「それもそうか」
「だから、この条件でいい?」
「……まぁ、それくらいならいいよ」
「嘘偽りなく、だからね」
「わかってるわかってる」
「もし返答に嘘があったと判明したら、罰として私の言うことに何でも一つ従う、ってのも追加」
「めちゃくちゃ余念がないな」
「いつだって全力なのが私だからね」
「海だー、って全力で言えない癖によく言うよ」
「そんなこと、今の私に言っていいんだ?」
「あっ、何か悪質な質問をする気だな!」
「正解。プロデューサーの五日前のお昼ご飯、なんだった?」
「えっ、待って。昨日は事務所の近くの定食屋だろ? その前は時間なくて何も食べてなくて……その前は……待って、待って。三日前で既に思い出せない」
「ほら、早く五日前のお昼ご飯を嘘偽りなく教えてよ」
「待って待って待って。ハンバーガーだ! ハンバーガー! 凛が買ってきてくれたやつ!」
「ふふっ、当たり。ちゃんと覚えてたね」
「発想の転換だよ。凛が答えを知ってる俺の昼メシとは何か。そこから考えればすぐだった」
「まってまってまって、ってめちゃくちゃ慌ててたの見てたんだけど」
「あれは演技です」
「芸能人顔負けの演技力だね」
「今からでもなれちゃう? 俳優」
自分が不利な状況にあるというのに、相も変わらず彼は楽しそうで、からからと笑っている。
この男を困らせてやれるような質問は、どんなものだろうか。
ぐるぐる思考を巡らせていると、彼が「あ」と声を上げた。
何かあったのか、と続く言葉を待っていたところ、彼は人差し指で遠くの砂浜を示す。
誘導に従って指先の延長線上に視線を移すと、そこには未央と卯月が走ってくる姿が見えた。
「じゃあ、ここらで俺は退散しようかな」
「あー、ごめん。気を遣わせて」
「ぜんぜん。寧ろありがとう。楽しかった」
「……まぁ、ホントに楽しそうだったよね。プロデューサー」
「それはもう。……じゃあ、シャワー浴びて着替えたら、俺は撮影のスタッフさんに挨拶して、撤収作業手伝って、そしたら車にいるから。頃合い見て戻っておいで」
「うん。わかった」
「何かあったら大きい声で人を呼ぶこと。俺もなるべく定期的に様子を見に行くようにするし、あの二人の担当さんとか、誰かしらいるはずだから」
「うん」
「危ないところには行かないこと。怪我はしないように。日焼け止めはこまめに塗り直す。それから……」
「全部最初に聞いたよ、それ」
「楽しんで」
「それは聞いてなかったかも」
ひらひらと手を振ってプロデューサーは行ってしまう。
その後ろ姿が小さくなるのを眺めていると、入れ替わりで、ざぶざぶと水しぶきを上げて卯月と未央の二人が私のもとへやってきた。
今日は一日、退屈しなさそうだ。
○
くたくたになるまで三人で遊んで、気付けば海も空も真っ赤に燃えていた。
太陽がゆっくりゆっくりと海へ落ちて、その丸さを欠いていく様はなんだか溶けてるみたいだ。
「いやー、遊んだねー」
「名残惜しいけど、そろそろ帰らなきゃだね」
「また来ようね! 凛ちゃん! 未央ちゃん!」
「うん。お仕事じゃなくて、オフでもさ。また来ようよ」
今の今まで、全力で遊んでいたのに、もう次の話をしているのだから我ながら気が早い。でも、本心からの一言だ。
用意してもらっている仮設のシャワー室へと向かい、シャワーを浴びてそれぞれの担当プロデューサーのもとへ戻るまでの最後の一秒まで、私たちの間には笑い声が絶えなかった。
プロデューサーの車を見つけ、助手席の方へと回る。
ドアにロックがされていなかったので、そのまま乗り込んだ。
プロデューサーはと言えば、運転席の椅子をめいっぱい倒して、寝息を立てていた。
待たせすぎちゃったかな。
反省を覚えつつ、寝顔をぼんやり眺める。
あまりにもよく眠っているので、起こすのが気が引けてしまう。
それに、きっと疲れもたまっているはずだ。
今日なんて、朝からこの海まで私を連れてくるために運転して、午前中は撮影に立ち会って、午後は私と遊んで、それからスタッフの人たちと何やらお仕事をしていたみたいだし。
すぅ、すぅ、と一定のリズムを刻んでいる彼の姿をしばし見つめ、自分のスマートフォンを鞄から取り出す。
カメラを起動して、おそるおそるシャッターを切った。
狭い車内に、かしゃっという音が響く。
「んん?」
彼がくぐもった声を上げる。
しまった。起こしてしまったか。やめておけばよかったかな。
申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、もう一回寝ていいよ、と念を送ってみる。
しかし、その念は不発に終わったようで、彼は強めの瞬きを数度したあとで、倒していた椅子を元に戻し起き上がった。
「ごめん。寝ちゃってた。今何時?」
「大丈夫だよ。私も今戻ってきたところだから」
「ん。そうか。ごめんなぁ。情けないところを見せた」
「気にするほどのことじゃないって。疲れは取れた? 取れてないならもっかい寝た方がいいよ。私が運転代われたらそれが一番なんだけど」
「いや、大丈夫。かなりぐっすり寝られたよ」
「それならいいんだけどさ」
ぐぐっ、と再び彼が伸びをして、首をぽきぽき鳴らす。
「じゃあ帰ろうか」
そう言って、彼はシフトレバーを操作してから、アクセルを踏む。車はゆるやかに動き出し、穏やかな振動が体に伝わってきた。
「海は楽しめた?」
「うん。プロデューサーたちが作ってくれたんだよね。遊ぶ時間」
「あれ、バレてたか」
「だって、撮影終わってからの自由時間が多過ぎるし、誰でも気付くって」
「まぁ、普段忙しくさせてるからさ。何かしてやりたいですね、って島村さんとこと本田さんとこと話して。どうにかこうにか時間作って、みたいな」
「……そっか。ありがとね」
「凛たちが楽しかったって言ってくれるのが何よりの報酬、ってやつだよ」
「あ。かっこつけようとしてる」
「ついてる?」
「んー。ふつう、かな」
「ふつうって何?」
撮影が終わり次第、帰るようにしていればプロデューサーたちは他のお仕事なり休むなり、いろいろなことに時間を使えただろうに。
自分達の時間を削ってまで、私たちが楽しむ時間を作ってくれた、というのは感謝しなくてはならないし、ありがたいことであるな、と思った。
「そういえば、プロデューサーにずっと聞きたかったことがあるんだけど」
「ん?」
「ちょっとプライベートな話だし、言いたくなかったら言わなくていいんだけど」
「いいよ。今日は一日どんな質問にも嘘偽りなく答える、って約束だしね」
「ふふ、そういえばそうだっけ」
「そうそう。だから、どんと来いってもんよ」
「じゃあ、その。プロデューサーの奥さんってどんな人なの?」
私がずっと聞いてみたかったこと。
それは彼の奥さんがどんな人物であるか、ということだ。
個人的な話もお互いに割とするし、日常であったことなんかを話題に出すことも常なのだが、何故か彼の口から彼の奥さんの話を聞いたことがなかった。
意識的に言わないようにしてるのか。他になにか理由があるのか。
見当もつかないけれど、気になってしまってからは聞いてみたいとずっと思っていたのだ。
そして、その千載一遇のチャンスが今と判断した私は、この質問を投げた。
「そうきたか……」
少し照れ臭そうにして、彼は笑う。
「ええ、と。どんな人、かぁ。そうだなぁ。笑顔がかわいくて、気が利くところがあって、優しくて、でもちょっと不器用なところがあったりして。……抽象的なことしか言えないけれど素敵な人だよ」
自分で聞いておいて勝手だと我ながら思うけれど、何故だか胸の奥にもやぁっとしたものが立ち込める。
どうしてだろう。
どうして、プロデューサーがプロデューサーの奥さんの話をしているのを聞いていると、あまり良い気分になれないのだろうか。
依然として困ったような顔で笑うプロデューサーを前に、考え込んでしまう。
そうして、しばらく考えた末に私は「ああ。そうか」と自分の気持ちをなんとなく推測することに成功した。
きっとそれは、普段私のことを綺麗だとかかわいいだとか褒めてくれる彼の言葉が重さを手放していくように感じられるからだ。
もちろん、彼が褒めてくれるのは本心からなのであろうが、きっと彼の一番は私ではなく奥さんで、この順位は未来永劫覆ることがない。
つまるところ、負けず嫌いな私は、このどうしようもない“敗北”に対して無意識の内に不快感を覚えているのではないだろうか。
なんとなく自分の感情に察しがついて、幼稚だなぁ、と自分に呆れてしまう。
けれども、不快感の正体が掴めたら、先程感じた言い様のない気持ち悪さはなくなったように思う。
「そっか。ちょっと聞いてみたかっただけ」
軽くプロデューサーにそう返す。
「ん。……他に何か質問は? この際だし、なんでもいいよ。気になることは今の内に聞いてくれたらいいよ」
「ううん。もうないよ。何も」
言って、窓の外を見る。
外は既に真っ暗で、そこにあるはずの白い砂浜も青い海ももうなくなってしまったみたいだった。
■ 三章 ソールドアウト・マーク
久々のオフをもらえた私は、午前中は愛犬であるハナコの散歩に、実家の花屋の手伝いに、と自宅での時間をまったりと過ごしてから、昼食を摂ったのちにあてもなく街へ繰り出した。
仲の良い同じアイドルの友人たちは今日は揃いも揃ってお仕事と聞いているし、学校の友人も部活で忙しそうだったから、足の向くままにショッピングでも楽しむとしよう。
花屋の店先のひさしから一歩日向へ踏み出すと、太陽は今が最盛とばかりにじりじりと私目掛けて照りつける。
せっかくのオフなのだ。
暑さに負けてだらだらと無為に過ごしてなるものか。
そう思って、負けじと次の足を踏み出して、最寄駅へと向かう。
ただただ歩いているだけなのに、駅の構内に入る頃には背中に汗が伝っていた。
どこに行くかは未だ決まっていなかったが、ひとまずはこの暑さから逃れたい一心で、丁度来ていた電車に行き先も確認せず飛び乗った。
空いている席を見つけ、腰をおろす。
ふぅ、と息が漏れかけるのを喉元で止めて、出入り口付近のディスプレイをぼんやりと眺めた。
私が乗った電車は、奇しくも普段通勤に利用するものだった。
無意識で事務所に行くつもりだったのだろうか。
職業病一歩手前かもしれない、と自分で自分が恐ろしくなりつつも同時に、そういえば事務所のロッカーに忘れ物をしていたのだった、と思い出した。
それは来週に収録する予定のラジオの台本で、まだそれなりに期間はあるが、回収しておくのも悪くない。
事務所の付近にもショッピングに適した施設はいくつかあるし、何より無料で涼めるのだから、ついでに寄るのは選択としてはアリだ。
こうして、最初の行き先が決まったのだった。
○
電車を降りて、いつもの道順で事務所を目指す。
せっかくのオフだというのに、私は何をしているのだろうと、何度か冷静になりかけたが、その度に「これは忘れ物を取りに行くだけである」と自分に言い聞かせた。
そのようにして、うだるような暑さの中辿り着いた事務所は、玄関からこれでもかという程に冷房が効いていて、天国のように感じられる。
さぁ、忘れ物を取って、少しだけ休憩したら次はショッピングだ。
ひんやりとした心地の良い空気を全身で味わいながら自分のロッカーへと向かう。
その途中で、デスクでお仕事中の私の担当プロデューサーが視界に入った。
今日は事務所にずっといる日なのかな。
今は忙しいだろうか。話しかけても平気だろうか。
廊下からオフィスの様子を窺う。
彼は左手を顎に当て何か考え込むようにしてモニターを覗き込んで動かない。
これはどうだろう、声をかけても大丈夫かどうかの判別が難しい。
まぁ、「お疲れ様です」の一言くらいならお邪魔にもならないか。
そう判断した私は、彼のデスクへと向かう。
十分声が届くであろう距離まで近づいて「プロデューサー」と言いかけたところで、彼のスマートフォンが鳴った。
一コール目で彼はその着信を受け、はきはきとした声で受信時の定型文を言ったあとで「それで……どうでした?」と電話先に聞いた。
ややあって、彼の声の調子が落ちる。
「そうですかー……。いえ、ご無理を言って申し訳ないです。はい。また機会がございましたら。はい、失礼致します」
そうして、彼はスマートフォンを雑に机上に放り、はぁーっという長い長いため息を吐いた。
「……ごめん。忙しそうだね」
私に気付いていないプロデューサーに軽く声をかける。どうもタイミングが悪かったようだから、忘れ物を取りに来ただけであることを伝えて、今日はそそくさと退散しよう。
「ん? あれ。凛?」
「うん、お疲れ様。ちょっと忘れ物があって、近くに来たからついでに」
「ああ、そうなんだ。ごめんな、ちょっと立て込んでて」
あはは、と疲れた顔で彼が笑う。
あまり深入りしてもよくない、とは思いながらも「何かあったの?」と聞かずにはいられなかった。
「んー。今日さ、ちょっとした音楽フェスみたいなのがあってさ。そこで、ウチの所属の子とロックバンドがコラボする予定だったんだけど。どうもこの暑さでウチの子が……ね」
「うわ、大変だね」
「ウチの子はゲスト枠みたいなもので、そのバンドのコーラスとして軽く入るのと、一曲披露するのと、簡単に喋って進行の補助をするくらいだから代役立てられるかなぁ、と思ったんだけど」
「なかなか見つからない、と」
「まぁ、そういうことになる」
「そっか」
「でも、そこまで緊急事態ってわけでもないから、凛は心配しなくていいよ」
プロデューサーは笑顔を作って、言う。
きっと、私がオフであることに気を遣っているのだろう。
つまりは私が代役を買って出ないようにこう言ってくれているに違いない。
あれだけ深刻そうに電話をかけて、ため息を吐いていたというのに、この期に及んでまだ自分の事情よりも、私を優先するというのか。
素直に助けて欲しい、と一言伝えてくれたら私は断らないし、断れないだろうに。
一番切り易いカードを手札に抱えながらも、それを頑として使おうとしないのは何とも不器用な人だなぁ、と思う。
しかし、この男のそういうところを、私が気に入っているのも事実で。
このまま私は「そっか。大変だと思うけど、頑張ってね」なんて軽く声をかけて、回れ右をするだけで、平穏なオフの一日に戻ることができる。
彼も本心でそれを望んでくれているであろうし、きっとここで私が手を挙げずとも、彼ならば問題なく代役を見つけるだろう。
だが、それが何の言い訳になろうか。
私が、私のために取る選択は、もう決まっていた。
「そのステージ、何時間後なの?」
「五時間後だな」
「まだ結構余裕あるんだね。場所は? ここから遠いの?」
「いや、車で一時間もかからない距離だけど」
「ふぅん。ステージ自体はどのくらいの時間もらってたの?」
「次のアーティストとの入れ替え込みで三十分だな」
「そっか。じゃあ、プロデューサーは進行表とコーラスで入る曲の音源。私のスマホに送っといて」
「……は?」
「私は衣装室行って衣装選んでくるから。それから演るのはなんでもいいよ。ロックバンドの人に私の持ち歌教えて、リクエスト聞いてみてよ」
「ちょっと待って。なんか凛が出るみたいな意味に聞こえるんだけど」
「それ以外の意味があると思う?」
「いや、だけど凛は今日オフだろ」
「うん。だからそれなりにギャラは弾んでもらいたい、かな」
「それは、まぁ、もちろん。事務所としてもできる限り出してもらうように言うけど……」
「あ。そういうのじゃなくて、さ」
「そういうのじゃない?」
「うん。今日はお寿司の気分なんだよね」
「……なるほど」
「じゃあ私は衣装選んだらそのままスタジオにいるから、プロデューサーは時間になったら迎えに来てね」
「スタジオ?」
「アップ、済ませとくからさ。あと、演る曲決まったらできるだけ早く教えてね」
「あ、ああ。でも本当にいいのか? せっかくのオフなのに」
「何回も確認しなくてもいいってば。ほら、プロデューサーは早く先方に電話して確認取ってよ」
「この恩は必ず返すよ」
「ふふっ。期待しとく」
本当にありがとう、と何度も何度も言って頭を下げてくるプロデューサーに手を振って、まずは衣装室を目指す。
音楽フェスに見合うようなカジュアルなものが見つかるといいけれど。
さて。
あれだけ自信満々に引き受けたのだ。
完璧にこなさなくては格好がつかない。
というか、失敗しようものなら恥ずかしさで死にたくなることこの上ないだろう。
お客さんやロックバンドの人たちからしたら、完璧にこなして当然で、正直なところ私に旨みは全くと言っていい程にないステージであるが、不思議と私はいま、燃えていた。
冷静になって自分の状況を客観視してみると、とんだオフになったものだと笑ってしまいそうになるけれども、まあ。
やってやろうじゃないか。
○
メールで送信してもらった進行表を頭に叩き込み終わる。
今度はもらった音源を幾度も再生して、耳に馴染ませる作業に移った。自然にコーラスへと入ることができるように、ネット検索で表示した歌詞を穴が空くほど見入って、曲に合わせてぶつぶつと呟き続ける。
そんな最中、私のいるレッスンルームに電子音が鳴り響いた。
音の発生源は私が歌詞を見ているスマートフォンで、さっきまで再生していたはずの音楽は強制的に止められ、見ていた歌詞の画面は電話を発信してきている相手の名前、『プロデューサー』と大きく表示されているだけになっていた。
そこで我に返り、時計を見やる。
時刻はプロデューサーに伝えられていたステージの時間の二時間と少し前を示していた。
うわ、もうこんなに時間が経っていたのか。
焦りながらスマートフォンを操作して、電話を受ける。
「もしもし」
『俺だけど。どう? 行ける? もう下に車つけてるよ』
「わかった。すぐ行く」
短く電話を打ち切って、荷物をまとめる。
大丈夫。大丈夫。
やれることはやった。
自己暗示をかけつつ、待っているプロデューサーのもとへ急いだ。
○
レッスンスタジオを出て、すぐ正面にプロデューサーの車は停まっていた。
彼も私が来たことにすぐに気が付いて、こちらに視線を送ってくれるので、そのまま助手席に乗り込みシートベルトを締める。
「じゃあ。会場までよろしくね」
「ああ。……その、今日は本当にすまん」
「謝らなくていいよ。プロデューサーが悪いわけじゃないし。誰に非があるわけでもないんだからさ、そういうの、言いっこナシ」
「代わりのオフが取れるように、調整するよ」
「それは、うん。遠慮せずにもらっておこうかな」
私が言うと、彼は「うん。約束する」と笑った。
助手席の椅子に体重を預け、運転する彼の横顔を見る。今日はじめに会った時よりは表情が晴れたかのように思うけれど、平常時よりもやや緊張しているような面持ちだ。
それもそうか。数時間程度の準備時間で、担当のアイドルをステージに送り出すのだから。
いくら彼が私を信じてくれているとは言え、完全に心配を消し去ることなどできないのだろう。
そう思って彼を観察すると、握っているハンドルさえ、心なしかいつもより強く握りしめているような気がした。
そして、ハンドルを握っている彼の手を見て、私はあることに気が付いてしまった。
あるべきものが、あるべき場所にないのである。
場所、それは彼の左手の薬指で、ないのは指輪だ。
どきり、と心臓が跳ねるのを頭で否定する。
だめだ。
それはしてはいけない、許されない期待だ。
「……あれ。プロデューサー、指輪は?」
あくまで平静を装い、聞いてみる。
「ん。あー、ああ。……あれか。あれな。えー、っと失くしちゃって」
どこか歯切れ悪く答える彼に、違和感を覚えずにいられない。
「失くした? えっ、大事なものだよね」
「んー。そうなんだけど、ほら、春の終わりくらいに仕事で海、行ったでしょ。あれ、そのまま忘れてきちゃってたみたいで」
「取りに戻らなかったの?」
「気付いてその日の内に戻ったよ。でも、なくてな。まぁいっか、って」
「え……よくないよね。奥さん怒ったでしょ?」
「んんんー。ああ、そうか。よくはないな。よくはないんだけど……。その……あー、でも、凛にならいいか、言っちゃっても。え、いいのかな。まずいか? でも凛とはもうそれなりに長いし……」
失くしたものの話をしていたはずなのに、急に謎の自問自答を始めるプロデューサーだったが、私にはわけがわからない。
そのため、ひたすら頭上にクエスチョンマークを浮かべるほかなかった。
しばらくして、どうやら踏ん切りがついたようで「まぁいいか。……その、これは秘密にして欲しいんだけど」と彼は前置いて、口を開いた。
「あれさ。特に意味のないものなんだ。結婚指輪だけど、実は俺結婚なんてしてなくて」
え。
思わず声が漏れる。
どうして、そんな嘘を。
脳内は一瞬で疑問で埋め尽くされる。
そして、ほとんど隙間がないくらいに敷き詰められた疑問の数々の中に、私はひとかけらの喜びの感情を見つけてしまった。
さっき、あんなにしてはいけない期待だと封じ込めたものが、徐々に力を取り戻していくみたいだった。
「なんでまたそんな嘘ついてたの?」
「あれはさ、俺の師匠とも言える人からもらったもので、つけてる理由も受け売りなんだけど……なんでも“間違いがないように”ってことらしいんだ」
「間違い?」
「そう、間違い。あんまりこんな話をしちゃうのもアレなんだけれど、ほら、長いこと男女が一緒にいることになるわけだろ。プロデューサーとアイドルって。それで、アイドルの方は基本的に恋愛禁止を敷かれるワケで。そういう状況下で、“恋愛”をしてもバレにくいって言ったら言い方悪いけど、そういう相手って必然的にその担当のプロデューサーが有力になっちゃうでしょ。余所だったらマネージャーの人とかもあるかもだけど、とりあえずウチの場合は」
「……あー」
問題の解決の仕方が強引ではあるが、理屈は理解できる。
つまり、結婚指輪をすることで相手にその気を起こさせず、かつ自分も一度ついた嘘を貫き通す必要があるため易々と一線は越えられない。
そういうことなのだろう。
なるほど、と思ってしまうくらいには合理的ではあった。
「だからその、な。あれはぶっちゃけどうでもいいものなんだ。今まで黙っててごめん」
謝られ、咄嗟に私は「謝ることではない」と返すべきだった。
頭ではそう理解していても、どうしてもその言葉が出ない。
代わりに、瞼の端がぼんやりと滲む。
あれ。うそ。なんで。
何で悲しいんだろう。自分で自分が理解できず、わけがわからなくなってしまう。
混乱に陥りながらも、涙だけは悟られるものかと瞬時に外の景色を見るふりをして肩口で拭う。
一拍置いて、「そっか」と声を絞り出した。
沈黙が流れた車内で、自分の感情について思考を巡らせてみれば、悲しい理由はすぐに見当がついた。
プロデューサーがこれを私に話すこと、話したこと、それ即ちプロデューサーは“私とそうなるはずはない”と判断したからに他ならない。
結婚指輪の牽制がなくとも、私には絶対にその一線を跨れないと彼は思っており、なおかつ自分もその一線には近付く気などない、というわかりやすい宣言だからだ。
先程までの私は、何を喜んでいたというのだろう。
彼が結婚してようが、していなかろうが、私の手が届くことはないのに。
愚かにも淡い期待を抱いた自分を呪った。
気付いてしまってからというもの、何も喋る気になれない。
ただただ窓の外を流れる景色を、見るともなく眺めることしかできなかった。
どうやら私は、狙っていた役のオーディションに落ちたときより、全力で収録した楽曲がお蔵入りになったときより、落ち込んでいるらしい。
ごめんなぁ、などと言って笑い、必死に雑談の方向へと持って行こうとするプロデューサーにも生返事以外、できなかった。
そして彼は、そんな私の様子を察せないような人ではない。
当然のように私の異変に気が付いて「ごめん。怒ってるよな」と神妙な顔になって、こちらを窺ってくる。
怒ってるわけじゃないよ。
そう言いたかったが、声にならない。
沈黙を肯定と受け取ったプロデューサーは、努めて私の機嫌を取り戻そうと「帰り、寿司のあとはケーキも買って行こうか」だとか「最近は晴れが多いから、ハナコも喜んでるんじゃない」だとか語りかけてくるのがまた、私の神経を逆なでする。
「……なんで私が怒ってるって思うわけ?」
ああ、私、嫌な奴になってる。
自分でわかってるのに、嫌な奴になるのを止められない。
「嘘をついたから。信頼関係が大事なのに、自分からそれを損なうようなことをしたから。……やっぱり、嘘をつくなら貫き通すべきだったよな……。でも、これ以上、凛に嘘つくのもしんどくてさ……」
落ち込んだ声で、ぽつりぽつりと言い訳を呟くプロデューサーの最後の言葉が、強く印象に残る。
「しんどくて?」
「……ん? うん。しんどくて」
「プロデューサーは私に嘘をつくの、しんどかったの?」
「え、うん。そうだけど」
「……それはなんで?」
「えっ、なんで? なんでって…………あれ。言われてみればなんでだろう」
心底不思議である、と言ったふうにプロデューサーは首を傾げる。
「まぁ、わかんないならいいんだけど……じゃあもう一つだけ、聞いてもいいかな」
「どうぞ、なんなりと。もう信用がないかもしれないけど……」
「そこはもう、信じるよ。これで裏切ったら次は知らない。……で、質問なんだけどさ。前に私が奥さんってどんな人って聞いたでしょ? それで咄嗟に答えられたのはなんで?」
「あー、あれかぁ。…………えーっと、それは秘密でもいいですか」
「だめ。秘密にしたらもう絶交だから」
「絶交はちょっと嫌……どころかめちゃくちゃ嫌だなぁ……」
「じゃあ答えて」
「……はぁ。えっと、あれさ、凛のことなんだよ。笑顔がかわいくて、気が利いて、優しくて、でもちょっと不器用で……素敵な人、って」
少年のように耳まで真っ赤に染めて、プロデューサーが言う。
「あー…………」
私も返答に困り、顔の方に血がのぼっていくのが自分でわかってしまう。
しまいにはお互い真っ赤になって、車内は再び沈黙に包まれた。
静けさに耐え切れなくなって、カーオーディオを操作しようとしたプロデューサーを制止するように、私が口を開く。
「……ねぇ、それって、そういうこと?」
「えー。あの話をしたあとでそれ聞く……?」
「いや、だって。……気になるでしょ?」
「………………んんん……そう、だなぁ。いや、でもここはノーと言わせて欲しい。いいですか。ノー。ノーです」
「……まぁ、そう言うしかないよね」
「……」
「……。ふぅ、じゃあ、さ。この十分間くらいにあったことはお互い、なかったことにしよっか。そうしたらこれからも支障ないと思うし」
「……うん。ありがとう。そうしてくれると助かる」
黙り込んでしまうプロデューサーに「あ。それともういっこ」と追撃をかけるべく、話しかける。
「海に行ったとき、質問には嘘偽りなく、って約束したよね。……嘘ついてたら私の命令に何でも一つ従う、っていうのも。」
「あー……。はい。謹んでお受け致します」
すぐに私の言葉の意味するところを悟って、彼は素直に受け入れる。
「うーん。命令、命令か。……よし、決めた。プロデューサーさ、安いのでもいいから、新しい指輪買いなよ。センスに不安があるなら私が選んであげるから」
「……それはまた、なんで? 凛にバレた今となってはもう意味なんてないのに」
「いいから。じゃないと今日のこと忘れてあげない」
「……わかった」
「決まりだね。それに今日のお礼に、またオフもらえるように調整してくれるんだよね? だったら私と合わせてよ。プロデューサーのオフ。その日に指輪、選んであげる」
「え、そんな急がなくても」
「早い方がいいに決まってるでしょ?」
「……そういうもん?」
「そういうもんだって」
「そうか……じゃあ、よろしくお願いします」
「うん。お願いされました」
「……最後にさ」
「? なに?」
「俺も一個だけ聞きたいんだけど……なんでもう効き目がないのにまた指輪を買わないといけないんだ?」
「それは秘密」
どうしても口角が上がってしまうのを抑えられない。
彼はそんな様子の私を見て、私の機嫌が直ったことで安心したのか「秘密かぁー」とだけ呟いてそれ以上は何も聞いてこなかった。
なぜ効き目がないのにまた結婚指輪を買えと言うのか。
プロデューサーはその理由にきっと気が付いていないはずだ。
ずっと、気が付かないでくれたらいいとすら思う。
効き目はまだあるよ。
残念ながら私にだけ効かないだけで。
上がりっぱなしの口角をそのままに目を閉じて、私は胸の内でそう呟く。
「改めて、になるんだけど」
ごほん、というわざとらしい咳払いをして、彼が言う。
「今日は引き受けてくれてありがとう」
「気にしなくていいって。これからは一番に私のこと、頼った方がいいよ」
「あはは。頼りになるなぁ」
「それは、もう。笑顔がかわいくて、気が利いて、優しい。誰かさんの自慢の担当アイドルだからね」
「ちょっと不器用、を省略する辺り、流石だよ」
彼はわざと口を曲げて、不服そうな表情を作ってみせるが、目が笑っているのを隠せていないせいから目元と口元の感情があべこべで、なんだかおかしい。
ぽーん、と電子音が鳴って、カーナビが目的地への到着が間近であることを告げる。
道中のちょっとしたアクシデントのせいで、ほんの少し気合が抜けてしまったけれど、程良く肩の力も抜けた。
全力で叩き込んだ進行とコーラス、それから私が披露する楽曲を思い起こして、頭の中で動かしてみる。
よし、大丈夫。問題はなさそうだ。
今日は私史上最高においしいお寿司が食べられるだろう。
終わりです。
ありがとうございました。
そして、本日は渋谷凛さんのお誕生日です。
渋谷凛さん、お誕生日おめでとうございます。世界で一番好きです。
乙
乙
3代目シンデレラガール、さすがの貫録
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