双葉杏「透明のプリズム」 (117)




デレマスのSSです




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晴れの日の空は青色、夕方の空は赤。では緑色の空はどこで見ることが出来るだろうか?


これは私が十七歳の頃――すなわち二年前だ――プロデューサーが私に出したなぞなぞだ。
その日は確か、私はCMを撮りにスタジオに来ていた。
撮影を難なく終わらせ、監督に適当に媚を売って、事務所へと戻る、その帰りの車の中でのことだった。
正確な時間は忘れてしまったけれど、スタジオを出る頃にはすっかり日が暮れてしまっていたのを覚えている。


「そういえば、こんななぞなぞがあるんだ」


話の流れも何もないタイミングだった。
普段通りの私ならば、なぞなぞごときに耳を貸すこともなかっただろう。
けれども、十五分間をいたずらに後部座席で過ごしていたそのときの私は、あまりに暇を持て余していた。
暇を持て余していたから、興味のある風に返事をした。
私が乗り気になったのが嬉しいのか、プロデューサーはかすかに上ずった調子で声を弾ませた。





『緑色の空はどこにある?』


私は考え込む。
なぞなぞと言うぐらいなんだから単純な言葉遊びかな、と思って、空とか緑とかの言葉を頭の中でくっつけてみたりしたけれど、それらしい答えは浮かんでこない。
方向性を変えて、緑色の空を想像してみる。
緑色の空の街――一本の道路がビルの大森林の間を貫いていて、車が次から次へと道路を通り過ぎていく。
そんなどこにでもあるような光景の真上に広がる、メロンソーダのような色をした空……。

息の詰まるような雰囲気だな、と感じた。
まるで上から誰かに抑えつけられているような、いくら重力に逆らって泳いでみても酸素を得られない水中にいるような感覚だった。
単なる想像にもかかわらず、私は気分が悪くなって、緑色の空というものについて考えるのをやめた。


「わからないよ、降参」


左手をひらひらと動かす。
運転席からは、「考える時間が短すぎる」だの、「もっとちゃんと考えてよ」だの、そういった類の愚痴が聞こえてきた。
めんどくさいの一言で一蹴すると、プロデューサーは口ごもった。
――窓の外を見上げると、街は一点の濁りもない純粋な闇に包まれていて、その黒さが私を安心させた。




「ねぇ、ヒント頂戴」


断続的に響く車の振動は苦痛なものだった。
私は左のポケットに、撮影前にプロデューサーから貰った飴玉が入っているのを思い出した。
薄暗い車の中で、包みに書かれた文字を読もうとする。
何味かをちゃんと確認してから飴を舐めるのが礼儀ってもんでしょ。


「そうだなぁ……日本にあるよ」


どうやらイチゴ味らしい飴は、私の無意識下で舌の上をころころと転がる。
緑色の空は、なんと日本にあるらしい。
私は記憶をあれこれ探ってみるが、日本のどこかで空が緑色になるというのは聞いたことがない。


「本当にわからないんだけど」

「そうか」

「そうか、って何さ。ねえ、答え教えてよ」


プロデューサーは答えなかった。
私は焦らされていたのだ。
教えないという選択肢を取ることで優越感に浸られるのは、癪だった。

ふうん、そんなことするんだ。
私は精一杯の拗ねた演技を見せる。こういうときに、アイドルとして培ってきた演技の技術は役に立つ。

プロデューサーは慌てて、いや、教えないこともないんだけど、と弁解した。
左頬を掻いて、言葉を選んで、
「ほら、もうちょっとさ、考えてみてよ。一週間考えてみて、それでも答えが思いつかなかったら、答えを教えてあげるよ」と続けた。

後部座席の私は、すぐに折れるのもそれはそれで癪だと思って、もう少しだけ緑色の空というものに思いを馳せてみた。
しかし目ぼしいアイデアが浮かばないまま、そのうち車は事務所へと到着したので、その日はもう、緑色の空について考えることはなかった。



だから、その日の一週間後にプロデューサーが答えを教えてくれるはずだった。
……こう言うということはつまり、プロデューサーは一週間が経過しても答えを教えてくれなかった、ということだ。
誤解が生まれそうなので先に弁解しておくと、プロデューサーがただ単にこの日のことを忘れていたわけではない。
いや、ただ単に忘れていただけなのかもしれないけれど、忘れていたにしても、ちょっとした事情があるから仕方がない、ということだ。

だってこの翌日――プロデューサーが緑色の空について話した翌日から、私はプロデューサーの担当を外れることが決まったんだから。

その日は何の変哲もないはずの月曜日だった。春休みでやることもなく家でだらだらしていると、プロデューサーから連絡があった。
今の部署から外れて、新設予定の部署へと移る要請があったこと、それに伴って私の担当を外れることになったこと、別の人が私の担当に就くこと。
画面に映る文字の羅列は、ただひたすらに文字の羅列としてのみ私の視界に入り込んできた。
私の身体は布団に入ったまますっかり硬直して、急激に早まった心臓の音が、他人事のように鼓膜を震わせていた。

小一時間部屋で固まってから、私は無言で立ち上がった。
頬を叩いてみても、少し部屋を歩き回ってみても、はっきりとした意識と五感が、これ以上ないぐらいにここが現実であるという現実を私に突き付けていた。
ただ頭が空回りするばかりで、素直な感情表現が出来ない自分に嫌気が差したのを覚えている。



数時間経って、仕事終わりらしいプロデューサーからメールがあった。


『色々と話すことがあるから、一度どこかで会おう』


プロデューサーからメールを受信したことに気付いた瞬間の私は、実は嘘でした、とか、勘違いだった、とか、そういう内容を期待していた。
そんなことがあるはずない、と口では呟きながらも、内心ではそんな安っぽい展開、安易な逆転劇が起こることを信じていた。
勝手に期待して勝手に失望する。そんな自分が滑稽に思えた。


『明日』


一言だけのメールをプロデューサーに送る。
その日の私は、その二文字をプロデューサーに伝えるだけで精いっぱいだった。

布団にうつ伏せに倒れ伏して、色んなことを考えた――明日のこと、これからのアイドルの活動について。
昨日のこと、昨日よりずっと前のこと。
新しい担当プロデューサーの人のこと、今の、「元」担当プロデューサーのこと。

――別に私もプロデューサーも死ぬわけじゃないし。
でも、もう駄々をこねたり、飴玉を貰ったりすることも出来ないのかも。

その日の私は結局、夜がすっかり更けきるまで、半ば眠ったように起き続けていた。



目覚めは最悪だった。
4時間ほどしか寝ていないうえに、中途半端なタイミングで一度起きてしまって、そこから先は眠ろうにも空腹で眠れない。
そういえば昨日の昼から何にも食べていなかったことを思い出した。
捻じれるように痛む頭を働かせ、昨日のことに思いを巡らせる。

携帯電話の受信履歴を見て、昨日のことが嘘ではないことを確かめた。
文字列は昨日と一字一句違わない。
……茫然自失のままに『明日』と送信したけれど、具体的な日時や場所を伝えていなかった。
何ならそもそも考えていなかった。

時計は朝の8時を示していた。
この時間なら、今から家を出れば事務所にプロデューサーがいるだろうと考え、家を出る準備をすることにした。



「まぁ、座って」


プロデューサーの様子は普段と変わりがなかった。
この四角形の部屋も、間取りや向きは私の記憶と寸分違わない。
異なるところを挙げるとすれば、棚のぶ厚いファイル群が外に運び出されていることや、とにかく大量のもので混沌としていたプロデューサーのデスクが、新品同然に片付いていること。
そんな何気ない現実が、私の心から熱を引き抜いていった。


「いつからなの」


私は平静を装って、俯いて言葉を切り出した。
――私はプロデューサーに動揺を悟られまいと、必死に立ち回った。
この期に及んで演技で場をやり過ごそうとすることは馬鹿らしいことだと思うかもしれない。今の私もそう思う。
それでも当時の私は、プロデューサーに頭の中を覗かれるのを、何よりも恐れていた。


「えっと、俺もよく分かってないんだけど――」


プロデューサーは手元の資料を参照しながら答える。
正式に担当が変わるのは明日からだけど、プロデューサーは三日ほど引継ぎとして私について回るらしい。


「ずいぶん急だね」

「俺も突然のことで混乱してるけど」


プロデューサーは情けなさそうに笑って、困ったように頭を掻いた。
それからプロデューサーは、相変わらず資料に目を落としたまま、書いてある事項を棒読みで私に伝達する。
眠気やら動揺やらのせいで、私の脳はプロデューサーの声を雑音程度にしか受け付けなかった。
プロデューサーも私が真面目に聞いていないことに気付いているのか、はたまた機械的な伝達に意味を見出していないのか、最後の方を適当にはぐらかしていた。



「新しい人って、明日から来るの?」

「そうだね」


資料の伝達が終わったので、私はもう帰るなりすれば良かった。
それでも私は、プロデューサーに何気ない質問を投げかけた。
プロデューサーも律義に質問に答える。
そうやって永遠に質疑応答を繰り返すことが出来れば良かったのに、と本気で思っていた。


新しい人ってどんな人なの。
俺より若いよ。
そもそもプロデューサーいくつだっけ。
25くらいだな。
くらいって何さ。
あんまり覚えてないんだよ。
そういうものなの?
そういうものだよ。


私たちは無意味な日常会話を繰り返した。
その無意味な日常会話が、日常会話の無意味さが、何よりも意味を持っていることも分かっていた。

最後に、こんな質問をした。


「プロデューサーの新しい部署って、どこにあるの」

「一階下の、エレベーターを降りて右の部屋」


何でそんなこと聞くの、と生意気なことを言うので、別になんだっていいじゃん、と突き放すように答えておいた。




結局のところ、当時の私が不安視していたほど、担当替えという行事は怖いものではなかった。
新たに私の担当となったプロデューサーとはすぐに良好な関係を築けたし、仕事の質や量は担当替えの前とさして変わらなかった。
私は単純に、担当プロデューサーが変わることよりも、永遠に続くと思っていた毎日に歪みが生じるのを恐れていただけだったんだと思う。


そしてここまでが、話の前日談だ。
私とプロデューサーと緑色の空にまつわる話は、ここから始まる。









「双葉さん」


後部座席で舟を漕いでいた私は、新しいプロデューサーの声で意識を覚醒させた。
眠気のもたらした涙が視界をぼやけさせていて、目に映る物体の輪郭ははっきりとしない。
目を擦って視界を確かめる。
新しいプロデューサーが運転席から身をわざわざ乗り出して私を見ていた。

背伸びをして、大きな欠伸をする。
品も何もない私の欠伸を、彼は黙って、ともすれば不安が読み取れるような表情で、そっと窺っていた。


「お疲れですか」

「そりゃね」


不貞腐れたような声を出す。
担当替えが行われてから二週間が経過したが、仕事の量は以前とほとんど変わりがない。
担当プロデューサーが変わったんだし、仕事の量もレッスンの回数も少しは減らしてくれるだろう、といった目論見は外れてしまった。

とはいえ彼は、仕事とレッスンに埋もれる私をいくらか、というよりかなり心配しているらしく、実際に行動の節々に私への気遣いが表れていた。
厳しく扱われているのか甘やかされているのか。私には判断がつかなかった。
――冗談じゃなく死ぬほどのレッスンを課されたかと思えば、明らかに過剰なまでの気遣いをされる。
そんな風な彼のどっちつかずな行動は、時として私をどぎまぎさせることもあった。
今思えば、彼は不器用だったのだろう。


「この後私は所用があるので、申し訳ありませんが事務所待機でお願いします」

「おっけー」



夜7時の事務所にはひんやりと冷気が漂っていた。
そもそもこんな時間まで残っているようなのは私ぐらいのもので、他の子たちは出払っているし、社員の人ですら多くが勤務を終え会社を後にしている。


『一階下の、エレベーターを降りて右の部屋』


エレベーターを待っているとき、ふと思い出した。
乗り込んでから、一階下の階――七階だ――のボタンを押すことを考えた。
でもその日の私には、7の数字を押す勇気はなかった。
そわそわとエレベーターの中で立ち往生しているうちに、社員らしき人が乗り込んできたので、慌てて8のボタンを押した。
その人は私がエレベーターを止めてくれていたと思ったらしく、ありがとうね、と言っていた。









「双葉さん」


後部座席でスマートフォンを弄っていた私は、新しいプロデューサーの声で、事務所に辿り着いたことに気付いた。
時計は20時を過ぎたあたりを示していた。
もうそんな時間なの、と呟くと、もうそんな時間です、と鸚鵡返しの返答が聞こえてきた。
独り言に返答をされるのは気恥ずかしい。
――車のドアを開けると、地下駐車場のコンクリートの凝縮した香りが鼻を突いた。


「お疲れ様です」

「まったくだよ」


むくれたような返事をする。彼からすれば、私はいつも懲りずに拗ねているように見えたことだろう。
でもそうやって拗ねるように見せているのは、彼を困らせたかったからではない。
私はきっと、そういうキャラクターを演じたかっただけなんだと思う。
双葉杏というキャラクターは、色々と生きやすい。


「双葉さん」

「何さ」

「今日も別の用事があるので、事務所でお待ちいただけますか」

「ああ、うん」


世の中のどっちを向いてもつまらなさそうに拗ねているような体を装っている一方で、当時の私はあくまで従順だった。
仕事にもレッスンにも決して好意的ではないが、やれと言われればやる。
それが双葉杏だった。



「双葉さん」

「何?」

「何か、欲しいものはありますか」

「……藪から棒にどうしたの? ……欲しいもの、かぁ」

「出来れば、休み以外でお願いします」


休み、と答えようとした矢先に、先回りされてしまった。
色々と欲しいものを頭に巡らせる。
そりゃ、お金だとか不労所得とか安定した生活だとか、欲しいものは色々ある。
けれども、質問の意図はおそらくそういうことじゃない。
これはきっと、環境の話だ。
例えば、部屋に本棚が欲しいとか、ソファーにクッションが欲しいとか、そういう類の質問だ。


「そうだなー……」


そして、私が欲しい環境は、もっと独善的なものだ。


「飴、かな」

「飴ですか」

「なんで意外そうにしてるの」


彼は大きく目を見張っていた。
彼のそんな顔を見るのはこれが初めてだった。
そして、彼がそんなに分かりやすく驚く理由も掴めなかった。
――アイドル双葉杏が飴玉を好物としているのは、周知の事実だったからだ。



「いや、ずっとキャラを作ってるものだと思ってたから」


彼は驚きのあまり、丁寧語というオブラートを取り外したようだった。
曰く、担当になってから2週間が経過しても「飴くれ」のあの字も言わないし、飴玉を頬張っているのを見ることもないから、飴が好きというのは戦略的なキャラ付けだと思い込んでいた、とのことだった。
――私が飴をここしばらくの間口にしていなかったのは、飴をくれる人もいなかったし、ものぐさな私は飴を自分で買いに行く選択をしなかったから、というだけだ。


「飴は好きだけど、わざわざ人に向かって言わないでしょ」

「飴、やっぱり好きなんですね」

「……それさ、丁寧語は止めた方がいいよ。変に壁作っちゃうし」


私の言葉に説得されたかどうかは怪しいけれど、それ以来、彼は丁寧口調で話すのをやめるようになった。
無理して丁寧語使っても胡散臭いよ、と正直に思ったことを口にすると、彼は、そんな風に思われてたのか、と脱力するように呟いた。
あまりに情けなく聞こえて、思わず吹き出してしまったのを覚えている。








次の日から、彼は飴玉を持ち歩くようになった。
一口に飴玉といっても種類は豊富で、爽やかな柑橘系、メロンやイチゴなどの主要な果物類、ソーダやコーラといったドリンクの味を再現したもの、黒糖やミルク、梅やハッカに至るまで、幅広い味の飴玉を、まるで毒見役であるかのように消化させられた。

彼は私の好みの味の飴を探し当てようとしていたんだと思う。
でも私は、特定の味に価値を見出しているのではなく、色々なバリエーションの味を楽しめることこそが飴玉の素晴らしいところだと考えていた。


私にどんな飴玉を与えても、私は「美味しい」しか言わないので、彼は随分と骨を折っていたように思う。
後々になってこの話――私の飴の好みの話――をすると、随分と溜飲を下げたようで、「盲点だった」「その可能性は考慮してなかった」としきりに頷いていた。


次に話が動くのは、彼が飴玉を携帯するようになって一週間ほどが経過した頃だ。
新しいプロデューサーの持ってくる飴の味は、不規則的に変化する。
ボーカルレッスンの前後はのど飴であることが多かったが、それ以外の場合には、飴の味をある程度でも予測するのは難しいことだった。
そんな中、飴の味について思いを巡らせることが、私の日々の楽しみのひとつになっていた。
日常に不確定要素が存在するというのは想像以上に楽しいものなのである。



その日の仕事はラジオの収録のみで、午後には事務所から帰宅できるとのことだった。
ラジオの収録のみとは言うけれど、宣伝を念頭に入れてのトークは精神力を使うものなのである。
――宣伝というのは私のCDの宣伝だ。
この頃はCDの収録や宣伝でスケジュール帳が真っ黒になっていて、アイドル辞めてやろうかと真剣に考えた覚えすらある。

しかし、貴重な休みを手に入れたところで、あくまで私は私だ。
この日の午後は目いっぱい家でだらだらしよう、と決意した。
出来るだけ早く家に送ってもらうよう懇願し、私は悲願の午後休を手に入れたのである。

ラジオの収録スタジオから事務所へと車に揺られる。
新しいプロデューサーは今日も私に飴をくれた。

それはメロンソーダ味の飴だった。
口に放り込んで、舌の上で転がす。
炭酸の弾けるような刺激は、不思議と苦痛じゃない。
メロンソーダの爽やかな香りが鼻を通り抜け、砂糖の甘味が私の頭を支配する。
……今日の飴も美味しい。
パッケージに描かれたメロンソーダを見る。


――よく思い出せたものだ、と思う。
私はしばらく記憶の奥底で眠っていた、緑色の空のことを思い出していた。
すっかり忘れていた。
裏を返せば、私はそれだけ忙しかったのだ。

プロデューサーがあのなぞなぞを私に出してから、一ヶ月が経過した計算になる。
時間的にも質的にも、当時の生活と今の生活は遠く離れている。
――ずっと、プロデューサーが私を担当し続ける。
そんな青写真を当然のものとして心に仕舞い込んでいた一ヶ月前の私と、現実を知った私。
二人の双葉杏は、あまりに隔たっていた。


「あのさ」


バックミラー越しに彼と目が合う。
彼の眼は驚きを湛えていた。
思えば、私から話しかけることは少なかったから、彼が驚くのも無理からぬことだった。
車はちょうど赤信号に捕まって、ゆるやかな減速の後に停止した。



こんななぞなぞがあるんだけど。

プロデューサーの言葉を私は一字一句覚えていた。
記憶の彼方にあったはずのなぞなぞを、耳が記憶している通りに、声帯が勝手に震える通りに、声に出してみる。


『緑色の空はどこで見ることが出来るだろうか?』


僅かに間をおいて、私は再び口を開く。
「プロデューサー、分かる?」



数秒間の沈思黙考の末、彼は恐る恐る切り出した。


「オーロラってさ、緑色じゃないか?」


私は一瞬、腑に落ちかけた。
しかし直感はその答えを否定する。
もしこのなぞなぞの答えが「オーロラの見える場所」というのなら、これはなぞなぞなんかじゃない。ただの知識問題だ。

もっとも、その直後、直感よりも信じるに値する否定材料を思い出したのだけれど。


「日本にあるらしいから、オーロラじゃないと思う」


プロデューサーは、緑色の空が見られる場所は、日本にあると言っていた。
オーロラは北海道で観測されることもあるらしいけど、もしオーロラが見られる場所というのが答えならば、プロデューサーは「日本にある」ではなく、「日本にもある」と言うはずだ。


「オーロラじゃないのなら、もう分からないよ」


彼は左手をひらひらと動かした。
その途中で信号が青に変わって、彼は慌てて左手をハンドルに戻し、しかし車はゆっくりと発進させる。
車の運転に関しては彼の方がかつてのプロデューサーより慣れていた。



「で、答えは?」

「杏も知らないんだよ」

「え」


耳に入ってきたのはひどく素っ頓狂な返事だった。
私はなぞなぞを口にしたはいいものの、その先のことを考えていなかったのだ。
――彼を宙吊り状態にしてしまったことに、少しだけ申し訳なさを感じた。


なんだ、それ。
だからさ、一緒に考えてよ。
答えを知らないのに出題したのか。
答えを知らないから出題したんだよ。
すごくもやもやする。
杏だってもやもやしてるんだよ。


それからは、二人で懸命に答えを考えた。
でも、乾ききった布を絞っても水が溢れ出してくることはないように、無い知恵を絞ったところでそれらしい答えは得られなかった。
結局、いっそ忘れようという結論に達して、事務所に着く頃には、そんな会話があったことも頭の中から抜け落ちつつあった。


その日の午後はすぐに家に帰る予定だったけれど、私は新しいプロデューサーに断りを入れて、事務所で過ごさせてもらうことにした。
何故かって?
答えが分からないのは、もやもやするからね。








時間の猶予が欲しいときに限って、エレベーターはてきぱきとやってくる。
手を伸ばして数字の7を押し込むと、エレベーターは、我関せずといったそぶりで、上空に向かってぐいんと加速する。
あっという間に7階へと私を連れていくと、私を吐き出したエレベーターは扉を閉ざし、淡々と一階へと向かっていった。


『一階下の、エレベーターを降りて右の部屋』


同じフレーズが何度も何度も頭の中で反響する。
7階にひとり閉じ込められた私は、無理やり足を右方向に向かわせた。

廊下は閑散としていた。
エレベーターの前を右に折れた先に、金属製の簡素な扉が見えた。
すりガラスからは白色の光が漏れていて、電気が点いていることが窺える。


想像よりも素っ気なかったらどうしよう。
笑われないかな。
何しに来たの、って言われるんだろうな。


私は想像に憑りつかれる。想像上のプロデューサーが、私を苦しめる。
ずっと左手に持っていたうさぎのぬいぐるみを、両の手で抱きしめてみる。
深呼吸を2回。それから、無意味に伸びをしてみる。
大きく息を吸い込んで、目を閉じる。
金属の扉をノックした。

反応はなかった。
もう一度、気持ち強めにノックしてみる。
やはり反応は無い。
ドアノブを握る。
ひんやりとしたそれを、右周りに回転させ、ドアを押す――


「どうかした?」

「ひっ」


プロデューサーが、背後に立っていた。



プロデューサーは私の叫び声を皮切りに大笑いを始めた。
性格が悪いよ、と拗ねると、プロデューサーは開き直って、知ってるよ、と返した。

――久々に聞いたプロデューサーの声が、確かな熱を帯びて、乾涸びた私の心の隅々に広がっていく。
驚きのあまり地面に落としてしまったうさぎのぬいぐるみを拾い上げ、うさぎに付着した埃を軽く払って、プロデューサーと向かい合う。

彼も私も、見た目に大した変化はなかった。
プロデューサーは相変わらずよれたスーツを着ているし、私も左手にはうさぎのぬいぐるみを持って、いつものTシャツを着ていた。
時として外見の変化は中身の変化に比例しないことを、私はよく心得ていた。


「久しぶりだな」

「プロデューサー」


上手くやってる?
新しい子たちとはどう?
ネクタイ曲がってるよ。
スーツ、新調した方がいいんじゃないの?
髪、伸びたね。


頭の中には、幾多もの選択肢が浮かんでいた。
だけどどれひとつとして声に出すには相応しくないような気がして、私は言葉を続けることができなかった。
無数の選択肢があって、そのうち正解はせいぜいひとつかふたつ。
――コミュニケーションなんて、所詮そんなものだ。

口ごもっている私に、プロデューサーは尋ねる。


「……どうかしたのか? なんか用事とか?」


私は、あのなぞなぞの答えを知りに来た。
でも、そのためにわざわざプロデューサーのところに来たと思われるのは、子供っぽいと馬鹿にされそうで嫌だった。
今思えば子供っぽいとかを気にしている時点で充分子供っぽかったのだけれど。
とはいえ、当時の私は、そもそも実際に子供だった。

なぞなぞの答えを知るためには、それとなく会話をその方向に誘導する必要があった。
当時の私にはそんな技術はなかったし、いきなり緑色の空の話を切り出すのに必要な勇気も持ち合わせていなかった。



「……元気?」

「ああ、上手くやってるよ」


結局私は、とにかく会話を繋げる方針へと舵を切った。
それからは、花粉症がひどいとか、仕事が忙しいとか、そういった類の凹凸のない世間話が続いた。

でも話題の数はたかが知れていて、会話には不自然な隙間が生まれ始める。
いよいよ話すことが思いつかなくなると、私たちはまるで突然記憶を失ったかのように、会社の廊下で向かい合って立ち尽くすばかりだった。
私たちは誰に見られているわけでもないのに、不自然な会話を避けようとしていた。
正常に成立した会話を目指す心理が、かえって異常な状況を作り出していた。

そんな状況下で、沈黙を破ったのはプロデューサーだった。


「そうだ」


プロデューサーは金属のドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを押していく。


「せっかくだし、中で話そうよ」


せっかくだし。
何がどうせっかくなのかは知らないけれど、私の身体を部屋へと向かわせるには十分な言葉だった。








広い部屋だった。
私がその部屋を広いと感じたのは、単純に面積が広いというのもあったけれど、それ以上に置かれている物が少なかったからでもあったと思う。
デスクで場所をとっているものは画面の大きなパソコンとファイルの棚、充電されているタブレットぐらいのもので、プロデューサーの持ち前の片付け無精は鳴りを潜めているらしかった。

部屋全体を見渡してみても、デスクの上にあった小さな棚とは別の、いかにも本棚らしい本棚と、ローテーブルに黒いソファー。
部屋の領域は完全に持て余されていたし、そのくせ天井も高かった。


「これでもね、アイドルの子たちがやってくるとね、結構狭いものなんだよ」


プロデューサーは新部署で、少なくない数のアイドルの子たちの担当をしているらしかった。
私を担当していた時代は私一人の専任だったのだから驚きだった。
とはいえ本人は、担当するアイドルがひとりのときと大勢のときでやることの量は大して変わらない、と言っていた。
今はユニットの活動がほとんどだから、車に大勢を乗せて送迎するだけでいいけど、ソロ活動が増えていくと個別に車を出さなきゃいけないから大変なんだろうな、と他人事のように呟いてもいた。



「飴がね、余ってるんだ」


プロデューサーはデスクの引き出しから飴の大袋を取り出す。
テーブルの上にあった木製のお皿に、飴玉を全て流し込んだ。
このまま飴玉を放置しておけば、アイドルの子たちが勝手に数を減らしていってくれるだろう、という算段らしかった。
プロデューサーは飴玉の小袋をお皿に移し替えただけで何も言わないので、私はどう返事したものかと考える。
考えて、結論を声に出す。


「ね、ひとつ貰ってもいい?」


ゴミ箱に飴の大袋を捨てていたプロデューサーの背中に言葉を投げかける。
彼が否定するわけがないことは分かっていた。挨拶みたいなものだ。

飴玉の山を形作っている袋のひとつひとつをじっくりと眺める。
メロンにレモンといったスタンダードなものから、スイカやジンジャーエールだとかいうような変わり種まで、味を想像してみて、吟味する。




私は決して優柔不断ってわけじゃないんだけれど、どの飴玉を選べばいいのか、決めることができなかった。
私は飴のどこが好きなんだろう。
少し考えてみて、ひとつの結論に辿り着く。


「アメの味を自分で決めたこと、なかったな」

「へぇ」

「杏、たぶん、何味のアメを貰えるのか直前まで分からなかったから、アメが好きだったんだよ」


プロデューサーはデスクに腰掛けて、引き出しの文房具を整理していた。
送りに車を出してから迎えに行くまでのこの隙間の時間は、随分と手持ち無沙汰なものらしかった。


「自分で決めなくていいのは楽だよね」


いくつかの選択肢があって、その中からひとつを選ぶ。
間違った選択肢を選べば後悔するし、間違った選択肢を選んだと思っていても、それが最善の選択肢だったりする。

選択をするのは、疲れる。
頭を使って疲れるぐらいなら、目をつぶってでも選んでしまった方がマシだ。
私は両目を閉じ、飴玉の山の中に手を突っ込んで、くじ引きの要領でひとつの飴をつかみ取る。


コーヒー味だった。
口に含んで、舌で転がす。
コーヒーの独特の風味が口の中いっぱいに広がる。
これぐらい甘ったるい方がちょうど良い。

――やっぱり、自分で選ぶよりも適当に選ぶ方が、気は楽だし、後悔もしないで済む。
仮に間違えた選択肢を選んでも、自分以外のせいにできるんだし。



プロデューサーは相変わらず暇そうにしていた。
タブレットを真っ白な布で拭いていて、いよいよやることがないらしい。
サボってるわけじゃないよね、と念を押すと、プロデューサーは「むしろ仕事が欲しい」と嘆いた。


「それは理解が出来ないよ」

「社会人になるとな、仕事以外にやることがなくなるんだよ」


私は社会人になった自分を想像してみる。
自分で言うのもなんだけど、小学生がスーツを着ているようで、あまりに不自然だった。
――コーヒー味の飴は既に半分ほどの大きさになっていた。
噛み砕いてしまおうとしたけれど、気が変わって、もう少し舐めていることにした。


「そういえば」

「どうしたの」

「杏はお昼ご飯を食べていなかった」


お昼休みはとっくに終わっていた。
気付かない間に、長針は文字盤の上を2周半回っていた。
私の言葉はプロデューサーを幾許か驚かせたようだったが、その驚きは、お昼ご飯を食べていなかったことそのものよりも、その事実に今の今まで気付かなかったことから来ているらしかった。
うさきのぬいぐるみの耳をまとめて握りしめる。
ソファーを立ち上がると、胃に風穴が開いたような空腹感が不意に襲ってきた。


「あのさ」


帰り際に、ふと振り返る。
プロデューサーは右手で器用にボールペンを回しながら、暇そうに頬杖をついて、天井の模様を眺めていた。
そういえば、昔のプロデューサーは――私を担当していた頃のプロデューサーのことだ――ずっとせかせかと動いていた。
今のプロデューサーがこれだけ時間を持て余しているのは、種を植えてしまえばあとは芽が出るのを待つばかりなのと同じなのだろう。


「また、アメを舐めに来るよ」


プロデューサーの視線は一瞬だけ私に移る。
「ああ」と一言だけ答えると、視線はすぐに天井に戻った。
情けなそうに口元を綻ばせていたのが印象的だった。


なぞなぞの答えを聞き忘れたのに気付いたのは、日が暮れてからのことだった。
また聞きに行けばいいか。ちょうど、口実も出来たんだし。
そう考えて、その日の私はそれ以降、緑色の空のことを考えるのをやめた。









「思いのほか、みんなが飴を消費しちゃって」


その日は初めてプロデューサーの部署の部屋を訪れてから一週間が経過した日だった。
プロデューサーがこの曜日のお昼頃にここで仕事に勤しんでいることは知っていたし、むしろそれ以外の時間帯にここにいる確証が無かったから、私は一週間後のこの日にプロデューサーの部署を訪ねることにしたのだ。

木のお皿は空になっていた。
あんなにうず高く積み重なっていた飴玉の山が忽然と姿を消したのは、どうやら新部署のアイドルの多さに起因するものらしい。
恐るべし女子高生のパワー、とプロデューサーは意味不明なことを繰り返し呟いていた。


「こうなるんだったら、杏のぶんを確保しておくんだったよ」

「せっかくアメを貰いに来たのに」


口では不満を垂れながらも、実際のところ飴の供給は充分間に合っていたわけで、私はほとんど冗談のつもりで拗ねたふりをしていた。
ところがプロデューサーは私が本気でいじけていると思ったらしく、申し訳なさそうに平謝りをしていて、それが私の嗜虐心めいた感情を刺激した。


「あーあ。杏、何しにここに来たんだろ」


恨みのこもったような言葉を漏らすと、私の予想通り、プロデューサーは焦った様子で、解決策や折衷案を考え出そうとしていた。
ソファーに横たわってうさぎのぬいぐるみを枕にしながら、プロデューサーをじいっと睨むように眺めていると、しばしの沈黙の後、プロデューサーは「埋め合わせをさせて欲しい」と切り出した。
私の都合のいい方向に状況が転がっていくのが面白くて、私はさらに調子づく。


「埋め合わせかぁ」

「何でも、ってわけにはいかないけど」


プロデューサーは視線を下に泳がせる。
私は何とも思っていないのに、プロデューサーは判決を待つ囚人のような、深刻な顔つきをしていた。



さて何をしてもらおうかと少し考えたところで、私は、具体的な埋め合わせの内容が思いつかないことに気付いた。
プロデューサーと一緒に居られれば、埋め合わせが何であれ、それで充分だったのだ。

その自覚が芽生えた瞬間、私は急に気恥ずかしくなって、そういう類の心情を抱いたときに膨れ上がる熱に全身を支配されてしまった。
なんせ私は当時まだ十七歳だったのだ。
そういうお年頃だったから、そういう種類のよくある微熱に浮かされるのも無理からぬ話だった。
さっきまでの調子はどこへやら、私の様子は一変する。顔を見られまいと寝返りを打ち、「まぁ、何でもいいよ」と誰に対してでもなく呟いた。


「急にどうしたの」

「その、何というか、飽きたんだよ」

「さっきまでめちゃくちゃ拗ねてたのに」

「別にそんなに拗ねてないよ」

「拗ねるのも面倒になったのか」

「最初から拗ねてなかったんだってば」

「え、そうなの?」

「アメなんていくらでも貰えるし」


背後から、「気付かなかった」だの「本気で怒らせちゃったかと思った」だの、そういう言葉が投げかけられる。
一方の私の頭はさっきの自覚のことでいっぱいで、プロデューサーと会話をする余裕なんてまるで生まれなかった。
うさぎのぬいぐるみに顔を思いっきり押し付け、目を閉じる。
うさぎは埃っぽい香りがして、でもそれはかえってありがたいことのように思えた。



「どうしたのさ、急に静かになって」


私は無言を貫いた。
プロデューサーは、充電が切れたようにあまりにも突然動かなくなった私の扱いに困っているようだった。
どうしたものかとその場をうろうろしているのが分かる。
私は何も出来ずに、ソファーの上で眠ったように固まっていた。
そうやって私はプロデューサーが行動を起こすのを待っていたのだ。


プロデューサーの足音が近づいてくる。
心臓の刻む音は分かりやすく速まっていく。
近づいて来て欲しくなくて、でも心のどこかでは、プロデューサーが私のもとにやってくるのを期待していた。

私は何かから逃げるように、必死にうさぎに顔を押し付ける。
具体的に何から逃げようとしていたのかは、はっきりとしなかった。


「なぁ」

「……何さ」

「どうしたんだよ、突然」

「どうもしないよ」

「どうもしないってことはないだろ」

「どうもしないんだよ」

「やっぱり、拗ねてるんじゃないか」

「拗ねてないんだってば」


埒が明かないと思ったのか、プロデューサーはそれっきり言葉を発しなかった。
――自分から強引に私の心をこじ開けるのではなく、私が自分から話を切り出すのを期待していたのだろう。
そのときの私はひどく意固地になっていて、そういう態度をとられればかえって相手の期待する態度をとりたくないような、そんな気分だった。
相手の思い通りに動くのは、強制されているようで、嫌だった。
当時の私はそれだけ子供だったのだ。



プロデューサーは私が思うところ――具体的にはどうして拗ねていたのかだとか、どうして突然拗ねるのをやめたのかだとか――を打ち明けるのを待っていた。
膠着状態の打破のためには、私が口を開かなければならなかった。


うるさいなぁ。
放っておいてよ。


私は本来、自分から話を始めるという選択をしなければなかなかった。
何をどう話すかという無数の選択肢の中から、ひとつを選ばなければならなかった。

選ぶのは、疲れる。
だから、私は逃げた。


ソファーからむくりと立ち上がって、視線を落としてドアへと向かう。
その間プロデューサーの視線は私をずっと貫いていた。
顔を窺うことは出来なかったから、プロデューサーがどんな顔をして私を見ていたのかは今でも分からない。
プロデューサーは、感情のひとつも心の檻から漏らさずに、ただ私を静観していた。
ドアノブに手をかけて――それでも私は、ドアに向かって、ひとことだけ言葉を発する。


「じゃあね」


この言葉が口から出たことに大した理由はない。
私にとってはただの挨拶のつもりだった。
しかしこの言葉は、ここから先一週間の私を苦しめることになる。
何の気なしにこの言葉を口にした瞬間の私は、そんなことにも気付けないでいたのだ。








間違えた、と思った。
7階で私を飲み込んだエレベーターは、水に沈むようにじわじわと下降する。
エレベーターの半無重力状態の中で、私は自分の行動を思い返していた。


客観的に自分を見てみて、初めて気付くことがある。

最初に私は拗ねた演技をしていた。
プロデューサーの困惑した様子を見るのが、何となく楽しかったからだ。
それから矢庭に押し黙った。
その理由を測りかねたプロデューサーがしつこく私に言葉を迫るから、私は本当に拗ねた。
そして――逃げた。

ここまではいい。
問題は、逃げた私が去り際に置いていった言葉の方にある。


私は選択を間違えたのだ。
私の口にした言葉には、部屋を出るときの挨拶には決して匂わせてはいけなかったはずの、言外の意味が含まれている。

私が本当に言うべき挨拶は、例えば「またね」とか、あるいはもっと具体的に「来週までにアメ用意しておいてよね」とか、私に怒りの感情がないことを示す言葉でなければならなかった。

――あんな場面で「じゃあね」なんて突き放すような言葉を投げかけられてしまえば、誰だって愛想を尽かされたと感じてしまうに違いないのだ。
私はプロデューサーに、あまりに自分がしつこい態度をとったせいで、私がプロデューサーに嫌悪感を抱き、怒りに任せて部屋を出ていった、と勘違いをさせてしまったのだ。


私はあのとき、プロデューサーに怒りの感情を決して抱いていなかった。
いや、抱いていたとしても、それは怒って部屋から出ていくほどの怒涛を湛えていたわけではなかった。
私が途中で本当に拗ねていたのだって、私の心の中に常時渦巻いていた、プロデューサーに対する思い――プロデューサーと一緒に居れればそれでいいという私の深層心理――に思い至って、微熱を帯びたような恥ずかしさを感じたからだし、プロデューサーの意図を汲まずに部屋から立ち去ったのだって、私がそうやって恥ずかしがっている理由を積極的に露わにできるはずもないからだ。

でも、私が突然いじけ始めたのも、その理由を話さないのも、動き出したかと思えば部屋から出ようとするのも、あるいは「じゃあね」という去り際の言葉も、理由はどうあれ私がプロデューサーに腹を立てているように見える。
――当時の私がこんなにも冷静に自己分析が出来たかどうかは怪しいけど、私は概ね同じようなことをエレベーターの中で考えていたのは確かだ。


せっかく、プロデューサーに会いに行ける口実が出来上がっていたのに。
私は、それを自ら潰してしまったのだった。



――エレベーターは一階に辿り着く。一歩一歩足を踏み出すたびに、行き場のない後悔が肥大化して、私の胸をゆるやかに締め付けた。


どうしよう。
間違えた。
やっちゃった。
謝りに戻ろうかな。
メールで弁解しようかな。
無かったことにできないかな。

 
頭に浮かぶどんな選択肢も、私には間違いのように思えた。


『謝りに行くって、何を謝るっていうの』
『メールで弁解するって、具体的にどうやるんだ』
『今さら無かったことになんて出来るわけがないじゃん』


理性は次々に思い浮かんだ案を棄却していく。
――今思えば、頭の中で打開案を否定していたのは私の理性ではなく、私の感情のほうだった。
私の頭の回転の速さは、案を却下する正当な理由を即座に思いつくことではなく、自身を納得させ得る理由を多少強引にでも作り上げることに寄与していた。
十七歳の私は、こういうところに関して器用だった。


散々頭を抱えたものの、結局のところ私は、何もせずに家に帰った。
私はその場から動かずに目を閉じることで、選択することから逃げていた。
そうやって逃げていれば、いつか誰かが私の代わりに選んでくれると思っていた。









私の想像に反して、一週間が経過しても、プロデューサーからの接触は無かった。
携帯電話の受信欄はこまめに確認していたけれど、当たり前のようにメールも電話も来ていない。
エレベーターの前で7階のボタンを押すことを躊躇っているうちに、誰かがやってきて、諦めて8階のボタンを押す。
そんな日が一週間続いた。


その日は4月に入って初めての水曜日だった。
プロデューサーが飴をくれるはずの曜日でもあった。
先週と同じくオフだった私は、家でただ横になっていた。
そのまま一日を終えるつもりだった。

テレビをつけて朝のニュース番組を観ていた。
スタジオのセットはすっかり装いを変えていて、桜だとか土筆だとか、春っぽいモチーフで彩られていた。
――ふと、来週から新学期だということを思い出した。
来週から学校が始まるということは、それはつまり、来週のこの時間は私は事務所に行けないということだ。


ここで初めて私は、問題が思っていた以上に差し迫っていることに思い至った。
――プロデューサーがひとりで事務所にいる時間帯を、私は水曜日のこの時間以外には知らない。
来週のこの時間帯には学校に行っているのだから、プロデューサーに確実に会いに行くためには、今日事務所に行くしかないのだ。


どうする。
行かなきゃ。
行ってどうするんだ。
どんな顔をして、プロデューサーに会いに行けばいいんだ。
別に今日行かなかったとしても、会いに行けなくなるわけじゃないでしょ。
お互いに忘れたあたりで、メールとかで連絡をとればいいんじゃないの。


私の頭はどうにかして逃げる方法を模索していた。
頭を回転させ、自分で自分を納得させる言い訳を作り上げようと必死だった。
一方で、確実にプロデューサーのところに行く機会を失って、彼と私を繋いでいた細い糸が完全に切断されてしまうのを恐れていた。
私は選択をしなければならない。決断を下さなければならない。
事務所の7階に行くか、行かないか――



ニュース番組はポップな音楽とともに、星占いのコーナーに移った。
そうだ。
自分で決められないのなら、他人に決めてもらえばいい。


 
もし、星占いの結果が真ん中よりも上だったら。
乙女座が6位よりも上だったら。
私は、プロデューサーに会いに行こう。

 
――こんな馬鹿げたことを思いつくぐらいに、そして馬鹿げたことを馬鹿げたことだと認識できないぐらいに、私は選択というものに恐れを抱いていた。


 


11位。
10位。
9位。
8位。
7位。


乙女座の文字は現れない。


6位。
5位。
4位。
3位。
2位。


乙女座の文字は現れない。
残るは1位と12位。
私は息をのんだ。
今日に限って。
そんな偶然が、あってたまるものか。

 
乙女座は――










星占いなんてテレビ局の人間が何も考えずに順位を選んでいるに違いないと思う。
それだけに、当時の私は、この日の星占いの結果をこんな風に仕立て上げたテレビ局を恨んだ。


乙女座は12位だった。
堂々の最下位だ。
だから、私は事務所に行くのをやめる。




そのつもりだった。
こう言うということはつまり、私は事務所に行って、プロデューサーの部署を訪ねたということである。
何故かって?


 

 
ラッキーアイテムが、飴玉だったからだよ。











人が変わるためには何が必要か。
人というものはしばしば、この問いについて考える。
変わるのではなく変えるのだとか、変わらなければならない環境に身を置くのだとか、変わろうという覚悟を持った時点で変わっているのだとか。
巷でよく聞く答えは決まってそういった類の綺麗事だ。

でも、例えば私がただの高校生からアイドルを志す人間に変わったのだって、たまたまプロデューサーが東京でひとり暮らしをしていた私に出会ったからだ。
人が変わるきっかけなんてのは、結局のところ偶然がほとんどだと思う。
私がこの日、自発的に行動をすることに思い至ったのだって、「ラッキーアイテムが飴玉」なんて偶然が起こったからだ。
思い返してみれば、随分と馬鹿げている。
ラッキーアイテムが飴玉だからって、それは私がプロデューサーに自分から会いに行く理由にはならない。
でも、テレビの画面を睨んでいた私は、直感的に、これがプロデューサーに会いに行く理由だと悟っていた。

私は、偶然を信じてみようとしたのだ。



大きく2回深呼吸する。
事務所の埃っぽい空気を吐き出して、7階のドアをノックした。
ドアの向こうから、聞き慣れた声の返事が聞こえてくる。
3秒間は、水中に潜ったときのように長く感じられた。


ドアを開けたときのプロデューサーの顔は、今でもはっきりと思い出せる。
表情の半分は驚きで、もう半分は、情けないような息苦しいような苦笑い。
そのふたつを混ぜてぐちゃぐちゃにしたような、そんな顔だった。
プロデューサーはもごもごと口ごもって、ようやく状況を飲み込んだかと思えば、何も言わずに私を部屋に通した。



「もう来ないのかと思ってたよ」


プロデューサーは開口一番、本質を突くようなことを口にした。
デスクの横の椅子に腰を掛けて、私の出方を窺っている。
私は無言を貫いたまま、左手にうさぎを握りしめ、ソファーに横になる。
天井を眺めながら、何をしにここに来たのか思い出そうとしていた。
そのうちに思い出すのも面倒になって、頭を使うのを一旦やめることにした。


……このままこの部屋のソファーで、ずっと天井を眺めていられれば、それでいいや。


プロデューサーは慎重になっていた。
どうしてあんなに私を腫れ物のようにそっと扱うのだろうと思っていたけれど、頭を再稼働させ、一週間前の私の言動を思い出せばその理由は自ずから見えてきた。
私は間違えて、「プロデューサーが私を怒らせて、起こった私がプロデューサーに愛想を尽かした」という幻想を彼に抱かせてしまっていたのだった。
一週間という時間は、私の体感した焦りや冷や汗の記憶を薄めるのに十分な長さだったから、そのことをしばらく失念していたのだ。


目線をプロデューサーの方に向けてみる。
90度回転したプロデューサーは私をぼんやりと見つめていた。
目が合って、彼は慌てて視線を突飛な方向に移した。


私は誤解を解かなくちゃいけない。
彼の抱いている幻想を幻想だと認識させ、私が敵意を抱いていないことを再認識してもらわないといけない。



だから私は、とりとめのない話をすることにした。
唐突に始まった世間話は、何の身にもならない話ばっかりだったけれど、ふたりの間に漂っていた奇妙な緊張感を弛緩させるには十分なものだった。


「ねぇプロデューサー」


私はそのまま、自然な流れで飴玉を要求することにした。


「やっぱり、アメ、頂戴」

「……あぁ」


プロデューサーは思い出したように引き出しを開く。
見たことのない飴の大袋を3個ほど取り出して、前と同じようにテーブルの上のお皿に盛りつけた。
どうやらプロデューサーは、新しく飴を買ったようだった。


「ね、プロデューサー」


横になったまま、プロデューサーに声をかける。
どうしたの、という返事が、部屋の生暖かい空気を通じて私の耳に届く。

――透明な水に赤の絵の具を落としてしまえば、その赤色が消えることはない。
でも、赤色の水を透明でいくらでも薄めることができるように、一週間前の出来事と、私の抱いた痛みや喪失感だって、いつかは無かったことにできるのかもしれない。
当時の私は、そんな月並みなことを考えていた。


「アメ。ひとつ選んでよ」


彼は渋々といった表情で、寝転がった私のもとへやってくる。
彼の手の一番近くにあった飴玉をひょいと寄越すと、椅子へと戻っていった。

黄色い包みには、レモンと書いてある。
レモンの酸味を舌で堪能しながら、ここ一週間のことを考えた。


ひとつ思ったことは、一週間は長すぎるということだ。
黄色い飴玉は、ここ一週間の私の痛みを、爽やかな酸味で塗り替えていった。



「ね、それよりもさ」


時計は九時を回ったあたりを指していた。
レモンの飴が口内を散々跳ね回って消えた頃合いで、私はやらなければならないことを思い出した。
――プロデューサーに、平日の昼間以外で私がこの部屋に来ることのできる日時を尋ねなければならない。
すっかり忘れていたけれど、そもそも今日ここに来た最たる要因は、今日が春休み最後の水曜日だということだ。


「何だ?」

「えっと」


私は前のめりになっていた。前のめりというのは体勢の話ではなく、私の会話に対する姿勢の話だ。
言い換えるなら、私は状況を進展させるのを急ぎすぎていた。
それよりも、の後に続ける言葉を考えていなかった。

急かされていれば、思いつくはずのことも思いつけなくなるものだ。
頭を回転させようとするけれど、何ともかみ合っていない歯車がぐるぐると空回りするように、私の脳は無意味にエネルギーを消費するだけだった。
軽率に口にした言葉は上空にぐんぐんと浮かんでいって、二度と取り戻せはしないような高さで、それに続く言葉を待っている。


「それよりも、何だよ」

「何だっけ」


そんな会話に関する一連のやりとりはあまりに面倒だった。
何もかも放り出したくなったから、私はソファーに倒れこんだ。
革製の黒いソファーはひんやりとして心地が良い。
体の動くままに、何となく目を閉じてみる。
頭の位置が低いのが気になって、左手に握っていたうさぎのぬいぐるみをソファーと頭の間に挟んだ。



「何でもいいや」

「何でもいいってことはないだろ」


私は返事をすることなく黙っていた。
これは単純に色々と思考を巡らすのが面倒になったからであって、一週間前みたいに拗ねたりいじけたりしていたわけではない。
――プロデューサーの近づいてくるような足音が耳に入って、誰かに追いかけられているような緊張感と期待感が、私の胸を高鳴らせた。


「あのな、杏」


何をするのかと思っているうちに、プロデューサーはソファーに腰掛けたようだった。
振動が直に伝わって、私の頭をぐわんと揺らした。
寝息を立てるように、わざとらしく呼吸の音を響かせてみる。
プロデューサーは私が狸寝入りしていることに気付いていたのだろう、そのまま言葉を続けた。




「そうやって急に黙られても困るんだ。言わなきゃ分からないんだよ」




「……別に、分かってほしいわけじゃないし」

「やっぱ起きてるんじゃん」

「うるさいなぁ、もう」

「……担当が変わったこと、まだ拗ねてんのか?」

「……別に」


目を開くと、目を閉じる前と同じように、視界いっぱいに天井が広がっていた。
身体を起こして見遣った時計は十時半を越えたところを指していて、窓の外はいつの間にやら真昼の様相に様変わりしていた。
そのまま軽く勢いをつけてソファーから立ち上がる。


「……杏は」


プロデューサーが微かに身体を震わせたのが分かる。
私はそんな彼の反応を見て調子づく。
口の動くままに言葉を発する。


「杏はさ、死ぬまで一生……とまでは言わないけど、少なくともアイドル辞めるまではさ、プロデューサーと一緒にいるものなんだと思ってたよ」


今思えば、私はムキになっていたのだろう。
言わなきゃ分からないなんて当たり前のことを、さも私が知らないことのように悟った風に言われて、反撃をしたくなったのだ。

そっちがそういうことを言うなら、私にだって考えがある。


「ね、プロデューサー」


プロデューサーがもう一度身体を震わせるのを見て、心の中でほくそ笑む。
ソファーに腰を下ろしているプロデューサーの顔を睨むように見つめると、彼はふいと目を逸らした。

プロデューサー、それは甘いよ。
目、逸らさないでよね。



「担当替えにどんな事情があったかなんて知らないけどさ」

「杏は、辛かったよ」

「辛くて苦しくて、なかなか眠れなくて、はじめは食事も喉を通らなくて」

「でもね、平気なフリをしてたんだ。ずっと」

「ねぇ、プロデューサー」

「杏は寂しいんだよ、ずっと、ずっと」

「プロデューサーに会えなくて、寂しいんだ」

 
右足を一歩踏み出すと、プロデューサーは大げさに身体を震わせた。
ここまであからさまに動揺してくれなくても、と思う。
真昼の空気を吸い込んで、ひとつ吐き出す。
プロデューサーは俯いて、覚悟めいた表情を決め込んでいた。


――私の独白は終わった。
事務所の一室は今、雲一つない青空のような沈黙に支配されている。
プロデューサーに向かって、にやりと口角を吊り上げると、彼は、本当に参った、というような表情で私の方を窺った。


ねぇ、プロデューサー。
杏は全部吐き出したよ。何もかも。
次はプロデューサーの番だよ。
ほら、早く。
言わなきゃ、分からないんでしょ。
言葉にして、杏を安心させてよ。
ちゃんと、杏の思いが一方通行じゃないってこと、証明してよ。


心の中に生まれた言葉をプロデューサーに目で投げかける。
やがて彼は重々しく口を開いた。
窓からは焼けつくような日光が射し込み始めた。
事務所正面の大通りを一台の自動車が通り過ぎる音が耳の裏側を掠めていった。
それを除けば事務所は無音そのもので、お互いの息遣いがしっかりと感じられるほどだった。


「俺だって」




「ずっと、お前を担当していたかったよ」


彼の言葉を反芻する。
――その言葉は、私に暖かな安心感を与えるとともに、僅かな違和感を気付かせた。

私とプロデューサーは同じことを言っている。
私はずっとプロデューサーの担当でいるものだと思っていたし、彼はずっと私の担当でいたかったと言っていた。
違和感の源流はおそらく、プロデューサーの口調だ。
彼の口調には怒りが込められていた。彼にそう言わしめた感情の正体は怒りで、これは私が持ち合わせていない感情だった。

次に続いたプロデューサーの言葉は、より彼と私とのずれを意識させるものだった。



「心残りでしょうがないんだ。アイドルとして、中途半端なタイミングで担当を辞めることになったのが」



私は急に突き放されたような気分になった。
彼にそんなつもりは全く無かったのだろうけれど、しかし私は実際に突き放されたのだ。
私が彼を一人の人間として見ているのに対し、彼は私をアイドルとしてしか見ていなかった。
彼にとって、私は恒久的に双葉杏というアイドル像そのものだったのだ。

身の毛のよだつのを感じた。
何もない空間に突然放り出されたような、全身から熱という熱を一気に引き抜かれたような、そんな気分を覚えた。
怒涛のように感情の波が押し寄せ、未だ整理のつかない頭の中を一層混乱させた。



そこから先のことを私はあまり覚えていない。
白々しい相槌を打つしかなくて、一人で勘違いして浮かれていたことが恥ずかしくなって、居た堪れなくなって、その場から一刻も早く逃げ出したくなって、何かしらの理由をもって部屋を飛び出したことは覚えている。
ただ、血の通っていない会話の中で、プロデューサーがこの部屋にいて、他の子がいない時間帯が土曜日の夕方であることを私は聞き出していた。
私は最低限のラインを死守することは怠らないような人間だった。








わがままな人間だったと思う。
レッスンはサボりたがるし、事務所にも時間の限度ギリギリに到着する。
口を開けばやれめんどくさいだのやれアメが欲しいだのとごちゃごちゃうるさい。
怠惰の限りを尽くすくせに口だけは一人前で、プロデューサーに迷惑をかけてばかりいた。

そんな私にプロデューサーが愛想を尽かさないのは、私が越えてはいけない一線を我が物顔で通り過ぎるほど頭が悪くないこともあっただろうけれど、それ以上に私は、長い間一緒にペアを組んできたが故に、私のことをちゃんと理解してくれているから、だと思っていた。
確かにそれは理由の一つだと思う。でもおそらく、主たる理由ではない。
 

プロデューサーが私に愛想を尽かさないのは、単純に私にそこまで興味がなかったからだ。
全部、私の思い過ごしだったんだ。
私の思いは全て、一方通行だったんだ。
私たちは初めから、どうしようもなくすれ違っていたんだ。
ずっと一緒に居たから、たまにはアイドルじゃない本当の私を見てくれていると思っていたのに。

勝手に期待して、勝手に失望する。
最近はいつもそうだ。



味のないコンビニのアイスクリームをお腹の中に詰め込んで、私は布団を被る。
139センチの体躯はこういうとき便利だ――全身をすっぽりと掛布団で覆えてしまえるから、簡単に外界と自分を隔絶できる。
時間的にも物理的にも先ほどの出来事と距離をおいて、私は色々と考えた。
複雑な感情の洪水が収まって残ったものは、信じていたものがあっけなく崩れ去った結果訪れた、更地のような虚無感だった。
 
何が、ラッキーアイテムが飴玉だ。
ああでも、乙女座は12位だったね。
それなら、あの星占いも捨てたもんじゃないな。

左ポケットをまさぐると、私の左手は飴玉を掴んだ。
掛布団の真っ暗闇の中で、飴玉の味を確認する。
オレンジだった。
口に放り込めばたちまち、花の咲くように、甘味と酸味、それからオレンジの風味が全身を通り抜けた。
 



まるで落雷のようだった。
かちり、と音がした、ような気がした。
電流が頭の先から足の爪までを一瞬のうちに流れる。
鼓動は再び早まっていく。
十二時ちょうどを通り過ぎた時計の針が、一日の後半の脈動を動かし始める。


――私は、ラッキー、なのかもしれない。





ポジティブシンキングと言われればそれまでだと思う。
ただ当時の私の抱いた結論は、結論ありきで途中の論理をこじつけにこじつけたような、ありがちな嘘ではなく、順繰りに思考を巡らした結果偶然にも得られた、私に希望を抱かせるような結論だった。

順を追っていけば分かることだ。


プロデューサーが私をアイドルとしてしか見ていなかったのは何故?

――私がプロデューサーの担当アイドルだったからだ。

今のプロデューサーにとって、私は?

――元担当アイドル。それ以上もそれ以下もない。

今のプロデューサーと私の関係は?

――何か形式的な繋がりがあるわけではないけれど、決して赤の他人ではない。言わば旧友のような関係。
 

それなら今のプロデューサーは、私のことを一人の人間として見てくれるんじゃないだろうか?
たとえ今までがそうじゃなかったとしても、私が彼の担当を外れた今というのは、私を覆っていた双葉杏という偶像の内側を彼に認識させるチャンスじゃなかろうか?
今までプロデューサーが私の内面に目を向ける必要がなかったように、今の彼が私の内面に目を向けてはいけない理由もない。
それなら、私の努力次第でいくらでも状況が好転する今の方が、よっぽど幸運なんじゃないだろうか?


閉め切っていたカーテンを開けると、どうしようもなく晴れやかな空が目に映る。
――当時の私はプロデューサーに、アイドル双葉杏としてではなく、一人の少女である双葉杏として認識されることを目標として動いていた。
そのときの私はその動機――私がどうしてプロデューサーに、アイドルとしてではなく一人の人間として認識される方を選んだのか――を考慮にすら入れなかった。
後になって考えてみてもこれは判然としない。私がプロデューサーからどのように見られようが、私は損も得もしなかったはずなのだ。
 
ここから先は推測だけど、そうやって私は彼との繋がりを断たないようにしていたのかもしれない。
あるいは、ずっと長い間意図せずとはいえ私を騙していた彼を、見返したくなったというのもあるだろう。

ガラスの向こうに浮かぶ空を眺めながら、これから先のことを考えた。
色々考えて、頭を使って、それで――途中でどっと疲れが押し寄せてきて、ばたんと布団に倒れ伏した。
その日はそれ以上は何もせずに終わったのを私はよく覚えている。









「飽きもせずによく来るよね」


私は開き直っていた。

その週の土曜日の夕方に、プロデューサーの部屋を訪ねた。
ドアを開けると、次の瞬間には突き刺すような西日が視界に入る。
その手前には呆けた顔のプロデューサーが座っている。
開口一番に失礼なことを言うので、うるさいなぁ、とあしらっておく。

私はもはや、プロデューサーに対する感情を隠さずにいた。
当たり前のことだ。
だって私は面と向かって、プロデューサーに会えなくて寂しい、と伝えたのだから。

ずかずかと部屋に入り込んで、ソファーに陣取る。
簡素なテーブルの上には今日も飴玉が山のように積まれてあって、私はゲームセンターにあるお菓子の山を見たときのような、楽しい気分になった。


退屈な日常会話で時間を潰した。
私のCDがどうだとか、逆にプロデューサーの部署がどうだとか、あるいはこの飴はどこで買っただとか、都内の桜がどうだとか。
ある程度話題の選択肢が削られてきた頃合いを見計らって、私はプロデューサーに尋ねる。


「ね、プロデューサー。今度さ、どこか遊びに行こうよ」


澱みなく言い終わって、プロデューサーの顔を窺う。
彼の顔には驚きの表情が張り付いていた。
それは私の予想通りでもあったので、思わず笑ってしまった。


「そんなに驚かなくてもいいじゃんか」

「だって、あの杏が」


彼は文字通り鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
私の想像と寸分違わないリアクションだ。
考えてみれば分かる。
私を、年中無休で休み続けているような、能動性の「の」の字もない人間だと思い込んでいるプロデューサーが、突然その私に自発的な勧誘を受ける。
一種の天変地異だと思われても仕方がない。

私にとっては、これは誤解を解くチャンスだ。
――二度と訪れないかもしれない、またとないチャンスだった。
私はこのまま、思い通りに事を運べる。そういう確信があった。




「あのね。プロデューサー」


雨の降り始めのように、ぽつりぽつりと話し始める。
私は何としてでも、このことを彼に伝えなければならない。
伝えなければ、一生一方通行のままだ。


「その杏は、アイドルの杏であって、あくまで私じゃないんだよ」


驚きを湛えていた彼の表情はさらに、疑問の色で上塗りされていく。
それでいい。プロデューサーが今まで理解できなかったことを理解してもらうために、私はこの部屋を訪れたのだ。


「プロデューサーが今まで追いかけてきた杏は、世間一般のニーズに応える双葉杏ってアイドル像であって、本当の私は別に存在するんだよ」

「だから、さ」

「そのふたりを、一緒にしないでほしいな」

「今の私は、本物の私なんだよ?」


そこまで言い切ると、私は首元が苦しくなるような、そんな錯覚に襲われた。
水銀のようなひやりとした汗が額を走って、ソファーに滴り落ちていくのが見えた。
右頬に触れてみる。火傷でもしてしまいそうな温度だった。

私は赤くなっていた。

慌てて火照った顔をうさぎのぬいぐるみで隠して、それでいての耳の隙間からプロデューサーの出方を窺う。
プロデューサーは固まっていた。
え、とか、ああ、とか、排気口から漏れ出す風のような、こもった声を出していた。
その様子は、営業先に向かってはきはきと喋る普段の姿と、まるっきり別人だった。
何を言うわけでもなくひたすら狼狽える彼の姿は、やはり私の嗜虐心を刺激する。



――これは罰だ。
今まで私を無視してきたことへの、罰だ。
私をただのアイドルとしてしか見ていなかったことへの、罰だ。


「プロデューサー、なにか言ってよ」


彼は何も言わない。
うさぎの隙間から見えるプロデューサーは、少し落ち着いたのか、考え込むようなそぶりで俯いていた。

彼の動揺する姿は珍しかった。
記憶をたどってみても、彼の狼狽する姿というのは思い当たらない。
私が遅刻しても彼は笑いながら窘めるだけだったし、逆に喜びを爆発させるようなこともなかった。
とはいえ彼に喜怒哀楽の感情が無いわけではなく、ただ単にその振れ幅が小さいだけだったように思う。
社会人というものは大体がそのように、自分の感情を殺して生きている。

彼の眼をじっと睨んでみる。水晶体の奥には、どんな感情が渦巻いているのだろう。
彼は今、どうにも判別がつかない眼をしていた。
喜びとも怒りとも哀しみとも楽しさともつかない、何色かどうかも分からない感情が眼の奥に浮かんでいた。


「杏」


やがて彼は口を開いた。
澱を振り払うような、鋭い声だった。床を向いていた彼の視線の捉える先が、突然私に移動した。




それは青色だった。

私には青色に見えた。

とめどない青色。

触れたら消えてしまうような、水泡のような青。

世界の果てから果てまでを、どうしようもなく覆い尽くしている青。

――彼の眼の奥には、そんな群青色が揺蕩っていた。

それはきっと、その青色の感情はきっと、若さだとか、怯えだとか、そういった言葉で形容できるような、ひどく人間的で血の通った感情だったのだと思う。

私はその青を、初めて見た。



「ずっと、間違ってたよ」


「お前は何にも興味が無くて、何につけても無気力で、でも惰性でアイドルを続けてるんだと思ってた」


「間違ってたんだ」


「それは本物の杏じゃ、なかったんだな」


「事務所ですらゴロゴロだらだらして、でも飴玉をくれてやると妙にやる気を出して、俺のことなんか目覚まし時計程度にしか思ってなくて」



――そんなお前は、双葉杏の半分でしかなかったんだな。



プロデューサーはそれだけ言い切ると、僅かに視線を泳がせて、それからゆっくりと俯いた。








――杏。


――何さ。


――アイドル、楽しいか?


――それは、どっちの杏の話?


――本物の方だよ。


――そうだね。楽しくないこともないかな。


――そうか。















私はよくプロデューサーに会いに行くようになった。

わざわざ階を下りて、昼休みの時間にご飯を一緒に食べたりした。
休日に出掛けて会いに行ったりもした。
貴重な休日を潰すことに抵抗がないわけではなかったけれど、太陽が昇って沈むのを部屋で眺めることに一日を使うよりは確実に有意義な休日の使い方だったし、彼も吝かではなさそうだった。

とはいえ私も彼もとりたてて行きたい場所があったわけではなかったので、出掛けるときはその日の気分で目的地を決めた。
特に観に行きたかったわけではないけれど何となく興味を引かれた映画を観たり、ゲームセンターに必要以上に長居したりした。水族館に行ったこともあった。
 


「あいつとはどう?」


私は窓の外を眺めていた。
平日の夕方だったけれど、プロデューサーは会社を休んでいた。
休んでいたというのは有休を消化していたとかそういうことではなく、彼にとって会社が休みの日だった、ということだ。
――プロデュース業というものは学生が丸一日を使える土日に仕事が入ることが多く、その代わりに平日に休日が割り当てられる制度らしかった。

せっかくの休日だというので、私は彼と会う約束をしていた。
小雨が降り始めたのは、駅で落ち合って大通りへと出た矢先のことだった。
特に行く宛ての無かった私たちは、ちょうどそのとき目の前にあったカフェに入店したのだった。


「あいつ?」

「ああ、お前の今のプロデューサーだよ」

「ああ、あの人ね」


新しいプロデューサー。担当が変わってから随分経ったんだし、新しいという枕詞をつけるのもおかしい気もするけど、彼とはそこそこ上手くやっていけていた。
今のプロデューサーは元プロデューサー以上に歳が近いから話が繋がりやすいし、価値観も似通っている節があった。


「そうだなぁ……あんまり前と変わらないかな」


前、というのは担当プロデューサーが変わる前のことだ。仕事の量も質もそんなに変化していないし、変わったことといえば、むしろ元プロデューサー――すなわち私の目の前にいる彼だ――との関係の方だった。





あんな事件があって、私はずっとひた隠していた内面を赤裸々にされてしまった。
私の内側で燻っていた気持ちをあれだけ言葉にして彼に伝えたのだから、流石に私たちの関係も少しは変わったように思う。
でも彼の私に対する視線はというと、以前とさして変わりがないように思えて仕方がない。

そんなもどかしさや腹立たしさから、私は悪態を吐いた。


「あ、でも、車の運転は新しいプロデューサーの方が上手いよ」


プロデューサーは、へぇ、と他人事のように返事をした。
でも声がわずかに上ずっていて、どうやらショックを受けているらしい、ということが察せられた。
彼は強がっていた。男の人は、劣のレッテルを貼られるのに弱いのだ。
私はさらに、皮肉めいた謝罪の言葉を口にしてみる。


「ごめん」

「謝られると、余計傷つくよ」


くふふ、と笑うと、彼は見るからに落ち込んだようなそぶりを見せた。
畳み掛けたいのをぐっと堪えて、私は手元のクリームソーダのストローを咥える。
折れ曲がったストローは子ども扱いされてるみたいで嫌だけど、身長も座高も低い私にとって飲みやすいのは確かだった。

そんな何も起こりそうにないような起伏のない状況で、彼が何気なく口にした言葉は、あまりに重い意味を持っていた。
今思うに、彼は重苦しい意味を持った言葉を、出来るだけ軽い状況で口にしてしまおうとしていたのだろう。
案ずるより産むがやすし、とよく言うけれど、つまりそういうことだ。


「もしもの話なんだけどさ」

「?」

「俺が杏の担当に戻れるとしたら、どうする?」




私はメロンソーダを吸っていたので、すぐには返事ができなかった。
飲むのを一旦中断して、息を吐き出して、それからやっと、質問の意味を飲み込めた。

額面通りに受け取るなら、私は軽い気持ちで返事をすれば良かった。
空返事や愛想笑いで受け流しても問題はなかった。
でも、字面のままに受け取ってしまってはいけないほどに深い意図が含まれている言葉であることを、私は察知していた。


「えっと、え?」

「もしもの話だよ。宝くじが当たったらとか、そういうタイプの話」


プロデューサーはたとえ話を付けてまでして弁明している。でも、私は分かっていた。
その弁明は、嘘だ。

これはもしもの話なんかじゃない。
プロデューサーは、やろうと思えば本当に私の担当に戻れるのだ。
100%そう言い切れるわけじゃないけれど、それでも私はほとんど確信に近いものを感じていた。

だって、そんな無意味で誰も得をしないようなたらればを人に向かって尋ねるのは、あまりに不自然だ。
彼は言葉をじっくり選んで意思疎通を行うような人間で、ひと時の思い付きや気まぐれで私に話しかけるようなことは決してしなかった。

彼は私に選択を迫っているのだ。
元プロデューサーの担当に戻るか。
それとも、今のプロデューサーの担当アイドルのままでいるか。
私は彼の回りくどさに呆れながらも、考えることに時間を割いてみる。



「もしもの話、ね」


そうやって少し頭を働かせてみて、私は確固たる理由をもって選択肢のどちらかを選ぶことが出来ないことに気付いた。
当たり前だ。

仮に担当が元のプロデューサーに戻ったところで、私を取り巻く環境は変わらないはずだから。
このまま今のプロデューサーの担当アイドルを続けるとして、何かが変わるわけではない。
一方で、私が元プロデューサーの担当アイドルに戻るとして、やっぱり何かが変わるわけではない。

だから私は本来なら、どっちでもいい、と即答すべきだった。


「少し、考えさせてよ」


私が保留を選んだのは、今の均衡状態を保持したい自分と、やっぱり元に戻りたい自分、その二人が脳内に同居していたからだ。

今の状態は壊したくない。アイドルとしての仕事の量は、決して少なくはないけれど、特に問題なくこなせる程度だった。
今のプロデューサーとの関係も悪くはないし、それに、プロデューサーの担当に戻らなくても、プロデューサーに会うことは出来ている。
あくまで可能性の話だけど、プロデューサーの担当に戻って、何か面倒なことが起こりでもしたら大変だ。無理に今の状態を崩すことはない。

でもそれなら、プロデューサーの担当を外れるのが決まったときの、あの苦痛は何だったんだ、という話になる。
あんなに苦しんでたじゃないか。
なのに今になって、せっかくその権利が与えられたのにそれを行使しないというのは、筋違いだ。


「ああ」


プロデューサーはさっぱりと言葉を返した。
それからは、風船が割れた後のように静かだった。
少しだけ時間が経って、プロデューサーが思い出したかのように「もしもの話だけどな」と言ったのが印象的だった。

――彼は何故か体裁を気にしていた。
彼の質問が、単なる「もしもの話」なんかじゃなくて、重大な選択問題であることに私が気付いているのは明らかだったのに、彼はなおも「もしもの話」という設定を維持しようとしていた。

無理に取り繕わなくてもいいじゃない。
私はそう返そうとして、でも思い留まった。
その言葉は、私たちの関係における一線を踏み越えている気がしたのだ。








選択を保留にしたはいいものの、私はどちらを選ぶかを決められずにいた。
選択肢のどちらも私に大した影響を及ぼさないことは分かり切っているのに、如何せん保留を選んでしまったせいで、どちらかを選ばなければ引っ込みがつかなくなってしまったのだ。

その日を境にプロデューサーの態度が変わった――なんてことはなくて、彼がたとえ話をする以前と以後で、別段彼の態度に違いは見受けられなかったし、返事を急かされるようなこともなかった。
ただ、返事を急かされないからこそ、選択を保留し続ける権利を与えられているからこそ、私は選択する義務をしばらくの間負い続ける羽目になった。

ひたすら保留し続けて、それで時間が経つのを待って、忘れてしまったふりをしてしまっても良かった。
あるいは、本当に忘れてしまっても良かったのかもしれない。

私が選択の自然消滅を拒んだのは、プロデューサー以上に私自身が私の選択を待っていたからだ。
この二択問題に答えを出すのは、何よりも自分自身のためだったのだ。
それは自問自答にも似ていた。自問自答であり、しかしその結論は直接未来の自分を拘束する。
よくある話だけれど、選択の自由がかえって私を束縛しているような、逆説的な状況だった。








「プロデューサー」


話はここで、事務所へ戻る途中の車内に移る。

私がプロデューサーと呼ぶ人間はふたりいる。
「今の」プロデューサーと、「元」プロデューサーだ。
そして今、私の目の前で車の運転に勤しんでいるのは、「元」プロデューサーではなく、「今の」プロデューサーだ。

運転中の彼はしばしば、険しい顔をしていた。私と面と向かっているときには絶対に見せない、無自覚の表情だ。
私が話しかけたことに気付くと、その表情は一転して見慣れた柔和な表情へと変貌する。
彼は社会人固有の二面性を持っていた。

しかしそれは前のプロデューサーが持ち合わせていなかった性質で、それを垣間見る度に私ははっとさせられた。
薄気味悪く感じられもしたし、彼が自発的には私に見せようとしない裏側の部分を、もし私に見せるような時があったら――そんなことを想像するだけで、私は暗闇で背筋を撫でられるような爆発的な恐怖を感じずにはいられなかったのである。


「アメ。ない?」

「鞄の中。好きなの取っていっていいよ」


鞄を引き寄せて中を探る。
手探りで引き上げた飴の大袋は、既視感のあるようなないような、不思議なパッケージデザインをしていた。
飴玉をひとつ取り出すと、夜に覆われて薄暗い車内でも、その飴が独特の形状をしているのが分かった。
目を凝らしてみれば、飴玉は作り物のような青色をしているのが窺えた。私は脳内で味に当たりをつける。


「これ、不思議な形してるよね」

「星型のやつか」

「うん」


味で攻め、色で攻め、形で攻める。
十人十色と言うけれど、飴玉のようがよっぽど個性があるんじゃないか。
そんなことを考えながら、飴を舌で転がしてみる。

私の予想通り、その飴はソーダの風味だった。
ただひたすらに甘ったるいだけではなくて、夏休みに見上げる青空のような爽快感があった。

飴を舌で撫でながら、私は今日も件の二択問題について考えていた。
考えるといってもそれは思いを巡らす程度のもので、決して生産性があるようなものではなかった。
そもそも私自身はこの問題に「どちらを選んでも大した違いはないから、私にとってはどちらでもいい」という結論を既に出していたのだから、今更思考や議論の余地など存在しなかった。
要するに、お手上げだったのだ。

しかし同時に、この停滞から抜け出す方法を私は知っていた。

自分で決められないのなら、誰かに選んでもらえばいいのだ。




私は今のプロデューサーに答えを出してもらおうとしていた。
これは決して不自然な行為ではない。
状況を単純化して考えれば、私の担当プロデューサーが元に戻るか戻らないかというのは、私を含め三人の人間に影響を与えることになる。
勿論それは、私と、私のプロデューサーと、元プロデューサーの三人だ。

元プロデューサーが選択を私に委ねたのは、私に決めて欲しかったからなのだと思う。
そしてその私の出した結論は、どちらでもいい、というひどく差し障りのない答えだ。
それなら、関係者の残りの一人である今の私のプロデューサーに選択権が譲渡されるのは、何ら不思議なことではないのだ。


「ねぇ」


車は滑らかに夜を走り抜けていく。運転席の彼は頭を僅かに左に動かして、私に言葉を続けるよう促した。
やや慎重に言葉を選ぶ。私は本質を突くようなことを回避しなければならなかった。
「元のプロデューサーの担当に戻れるんだけど、どうしたらいい?」だとか、「杏が元のプロデューサーの担当に戻りたいって言ったら、どうする?」だとか、それに類することを言ってはいけなかった。

プロデューサーが私に婉曲的な方法をもって選択の権利を与えたのは、直接的な言葉を使うことができない理由があったからだ。
私が元のプロデューサーの担当アイドルに戻るか否かについて、私情を持ち込んでいることが誰かに知られてしまったら、色々とまずいのだろう。
元のプロデューサーは、私の意志決定を上層部の決定ということにして、穏便に融通を利かせてくれようとしていたのだと思う。


「プロデューサーは、杏の担当をやってて、その、どう思う?」


だからこそ私は、ひどく曖昧な質問から入ることにしたのだ。



「……いきなりどうしたんだ?」

バックミラーを覗いて、彼の顔を窺う。
顔中に疑問符が浮かんでいた。
当時の私はその理由――彼が私の言葉を不思議に思う理由は、なんの文脈もなく込み入った話をし始めたからだと思っていた。
でもそれは半分間違っている、と今なら思える。

彼もまた、私を見誤っていたのだ。
元のプロデューサーと同じだ。
私の演じている双葉杏を、私そのものだと誤認していた。
だから彼は、「双葉杏」からそんな言葉が出ることに驚いていたのだ。


「まぁいいじゃんか、答えてよ」

「えっと」


私の心臓はゆるやかに、でも着実に鼓動を速めていく。
全身に冷たい緊張感が走る。
私はそれを悟られないように、窓の外を眺めているふりをしていた。

質問の意図はふたつあった。
ひとつは言うまでもなく、今のプロデューサーに選択をしてもらうためだ。
もし今のプロデューサーから、負のイメージの言葉が飛び出れば、私は元のプロデューサーの担当に戻ることを決断する。
逆にそれが正のイメージならば、私は現状維持の選択肢を選ぶ。

もうひとつの意図は、私の不安に由来している。
当時の私は、私が今のプロデューサーの足枷になっていないかを気にしていた。
双葉杏というアイドルのもつ性質は、根本的にプロデューサーに負担をかけるようにできている。
一線を踏み越えない程度とはいえ遅刻や寝坊を繰り返していたのは事実だし、仕事を持ってくれば口から飛び出すのは文句や愚痴。
楽屋やレッスン室からなかなか動き出そうとしない私を車に乗せるだけでも一苦労だし、何ならアイドルの仕事を嫌々やっているようにすら見える。
そんな私のプロデュースに、いつ今のプロデューサーがモチベーションを失ってもおかしくはなかった。

私にとってはこの瞬間は、言わば審判のようなものだった。



「えっとな、俺はそもそも、アイドルのプロデュースは初めてだから、どう思うもこうもないんだ」

「ただ、何というか、想像よりは楽だよ」

「双葉さんが元より売れっ子だった、ってのもあると思うけど」


彼にとっての初めての担当アイドルが私だということは、私に知らされていなかった情報だった。
その情報が私から遮断されていたのは、おそらく無闇に混乱を招かないための措置だ。
誰だって自分が新人の研修のための実験台にされていると分かれば気分は良くないだろう。
しかしその事実以上に、私はこれが彼の初めてのプロデュースであることが驚きだった。
彼は私の元プロデューサーと比べても引けを取らないぐらいに、いやそれ以上に、あらゆることに落ち着き払った態度で接していた。

ともあれ、私は彼の口から、私に対する恨みつらみに類する言葉が出てこなかったことに、ひとまず安心した。
――数秒遅れて、それが私を傷つけないための嘘であり、彼がただ無理をしているだけであるという可能性に思い至った。
なんせ、大人は嘘を吐くのが上手い。


「本当に?」

「割と本音だけど」

「杏が言うのもなんだけどさ、大変じゃない? よく遅刻とかするし」

「そりゃ、そういうのは困るけど。でも心臓には悪くない」

「逆にさ、心臓に悪いってどんな状況なの」

「えっと」


彼は長考に入る。
赤信号に差し掛かって、彼は車を滑らかに停止させた。
車の奏でる無機質な音が、一層車内の沈黙を引き立てていた。

信号が青に変わるのと同時に、彼は話し始めた。



「ほら、例えばさ。デビューしたてのアイドルの担当をするとするだろ」

「仮にその子がすごく几帳面な子で、レッスンには十五分前からやってくるし、空いた時間に自主レッスンだったり台本の予習だったりをするような、典型的に真面目な子だったとする」

「そんな子の担当をすることになったらさ、疲れるだろ?」

「仮に俺が適当にプロデュースをしてしまって、そのせいでいつまで経っても大きな仕事を持ってこれないんだとしたら、あまりに報われないだろ。だからそうなった場合、俺は全力でプロデュースをしなきゃいけない」

「責任が大きすぎるんだ。精神的に疲れるし、心臓に悪い」

「今の双葉さんのプロデュースは、精神的に疲れないんだ」

「だから楽なんだよ」


私はその理屈に、妙に納得してしまった。
なるほど確かに、アイドルとしての志が高ければ高いほど、その子のプロデューサーにかかる責任は重大になる。
努力の分だけ報われてほしいと思うのが人情だし、誰だって努力に裏切られた人の顔は見たくない。
その上私は既に、充分にアイドルとして売れていた。
私が今のプロデューサーにかけていた負荷は、責任がのしかかることに起因する精神的負担に比べれば可愛いものだ。

それならば私は、今のプロデューサーのもとを去る必要は無い。そう結論付けて、選択を終えようとした。
その矢先だった。
厄介事はいつだって、思いがけない方向から、突然やってくる。
彼は何の気なしに、こう呟いたのだ。


「それもまぁ、あと二ヶ月で終わりなんだけど」


ちょうどその時、私はスマートフォンを取り出して、時間を確認していた。
それもまぁ、二ヶ月で終わりなんだけど。
その言葉を聞き流そうとして、手放すのを寸前のところで食い止める。


……あと二ヶ月で終わり?



「ちょっと待って、え?」

「あれ? 聞いてない?」


何でもないことのように、彼はこう続けた。




「双葉さんは二ヶ月後に、また元のプロデューサーの担当に戻ることになってるって聞いたけど」




その後、彼から聞いた話ではこうだった。


二ヶ月後、私は元のプロデューサーの担当へと戻る。
今のプロデューサーの部署には、おそらく新しいアイドルが迎え入れられることになる。
元のプロデューサーは、今担当しているアイドルの子たちと私を同時並行で担当することになる。

それだけなら、まだ良かった。
誰かの意向でそういう風に決まってしまったのなら仕方がなかった。
せっかく練り上げた結論を捨てることにはなるけれど、黙って決定事項に従うだけだ。


ところが、思い出してみてほしい。
――私が元のプロデューサーの担当に戻るか否かについては、元のプロデューサーに一任されていたんじゃなかったか?

つまり、私に選択を促したにもかかわらず、当のプロデューサーは、私が彼を選ぶことを当然としてことを進めているんじゃなかろうか?

私は今のプロデューサーに、誰からの情報なのか尋ねてみた。
――もしこれが例えば会社の上層部の誰かから仕入れた情報なのであれば、元のプロデューサーに選択を一任するのが無かったことになっただけの可能性もある。
既にプロダクション全体にまで彼が外堀を埋めている可能性も無きにしも非ずではあるけれど、そんなハイリスクな行動を彼が取るとも思えなかった。
 
今のプロデューサーからの返答は、果たして「元のプロデューサーから」との答えだった。
九割方、確定だ。
彼は、私が彼の担当に戻るという選択肢を選ぶことを前提として動いている。



この事実に思い至った私は、何というか、ずいぶんとあっけらかんとしていた。

本来なら、怒りだとか、あるいは気味の悪さだとか、そういう感情を抱いて然るべきだったと思う。
彼は私の先回りをして、私の心を読んだつもりになっていたのだから。
でも私は、彼が私の心を読もうとしていたことを、大して気に留めなかった。
私の興味を引いたのは事実そのものではなく、それに至った根拠だった。

どうしてプロデューサーは、私の選択を決め打ちして動いていたのだろうか?

やがて私は、ひとつの仮説に辿り着く。
――その瞬間、邪な感情が舞い降りた。










リュックサックとオレンジ色のキャップと赤い眼鏡。
私の変装は常にこうだった。
変装するという行為は自意識が過剰な気がして、あまり気が進まない。
しかしプロデューサーから変装をしろとしつこく言われるので、休日に出掛けるときはいつも最低限の変装を身にまとっていた。

たまたま私とプロデューサーの休日が重なったので、私たちは時間を合わせて出掛けることにしていた。
私も彼もほぼ同じ時刻に駅に到着し、落ち合ってすぐに正面に見えたレストランに入った。

私は、彼に例の件について問い質すことに、この日一日を使うことにしていた。
彼にとっては何ということのない一日になるはずだったことを考えると、優越感や充足感に似た感情が刺激されるのを感じた。
私はこの日に、彼を遣り込める算段を立てていた。


「プロデューサー」


 私たちは窓際の四人席に通された。
目の前に座るプロデューサーは穏やかに口元を綻ばせている。
対する私は、これから彼がどんな反応をするのかについて思いを馳せ、ほくそ笑んでいた。

私はこの状況を目いっぱい楽しむつもりだ。
目の前にいる彼の、知的な眼差しや、飄々とした態度。それが歪むのを想像してみる。
――当時の私は、彼に子供として扱われているのを気に食わなく思っていて、何とかして見返してやろうという欲望に駆られていた。


「例の件の話なんだけど、ほら、もしもの話の」

「ああ、あれね。あの件なら――」



「杏、今のプロデューサーのところに留まろうと思うんだ」


瞬間、プロデューサーの身体が、跳ね上がるように震えた。
その様子があまりにもおかしくて、私は吹き出しそうになる。
ぐっと堪えて、真顔で演技を続ける。


「なんというか、担当をいちいち変えるのってめんどくさいでしょ。そういうわけだから、よろしく」


あえて軽口のように言い切ってみる。
神妙な顔を保ったまま、彼の様子を窺う。

私の予想以上に、彼は動揺していた。
必死に動揺を隠そうとはしているのだけれど、目はあちらこちらに泳いでいるし、手は落ち着きなく、まるで砂をかき集めているかのような動きをしていた。


「えっと、うん、分かった……。そうだね」


それから彼は、上ずった調子で力のない返事をした。
体裁を取り繕おうとはしているのだろうけれど、そこまで気が回らないのか、言葉の節々が震えているのが窺えた。

――ここまで動揺するとは思っていなかった。
少しは私が今のプロデューサーの担当アイドルであり続ける方の選択肢を選ぶ可能性も考慮したらどうなの、と思う。
現に私は、今のプロデューサーを選ぶつもりだった訳なのだから。

やはり、彼の頭の中にいる双葉杏と、本当の私との間には、幾分かの乖離がある。
思い返せば、今までもそうだった。
彼は私を、どんな方向性であれ、形容詞ひとつで言い表せる人間だと思っている。
あるいは、誰に対してもそうなのかもしれない。
この前までは私のことを面倒臭がり屋だとしか認識していなかったし、今は恐らく、自分のことを慕う年下の友達とだけ認識している。

彼は本質的には変わっていなかったのだ。
人間の誰しもが保有する多面性の存在を知りながらも、本当にそれが実在することを信じていなかったのだ。



私は息を吸い込む。ここからは演技を捨てて、ネタばらしの時間だ。
狼狽と怯えに身体をすっかり乗っ取られてしまっている彼の眼を見て、私は思わずくつくつと笑ってしまう。
あの言葉を言い放つ。大人がよく使う、あれだ。
人類の英知が生み出した、便利なシステムを指す、あの言葉だ。



「プロデューサー。嘘だよ」



そのときのプロデューサーの顔ときたら、見物だった。
大きく開いた目は、冗談じゃないと言わんばかりに瞬きを繰り返していた。
半開きの口から、壊れたラジオのスピーカーのような声が断続的に聞こえる。

彼は混乱していた。

私はそんな彼の混乱が落ち着くのを、笑顔で待っていた。
紙に印刷してそれを顔に貼り付けたような営業スマイルだ。

――少し時間をおくと、彼は微かに冷静さを取り戻して、ああそうなの、とか、理性の欠片が窺えるような言葉を呟いていた。
向かいの席の彼の眼に浮かんでいたものは何であったのだろうか。
騙されたことに対する純粋な怒りだったのかもしれないし、あるいは、散々自分を掻き乱した私の言葉が全て嘘であったことへの安心感だったのかもしれない。
年下の人間に言い訳できない程度に騙されたことへの羞恥もあったかもしれない。
でもそれは、何だって良かった。

私は気を引き締める。
――ここからが本題だ。
手段と目的を取り違えてはいけない。
私はプロデューサーをただ騙して楽しむためにこんなことをやってのけたのではない。それではただの性格の悪い子供だ。
私の目的は、あくまで尋問なのだ。








「ところでさ、プロデューサー」


私の欲しかった材料はすべて揃った。後はそれらを手にして、プロデューサーから言葉を引き出すだけだった。
プロデューサーは何故、私が彼の担当に戻るという選択肢を選ぶことを前提として動いていたのか。
私がプロデューサーを選ぶという確信があったのか、それとも――他に別の理由があったのか。


「どうして、プロデューサーは、さっきあんなに焦ってたの」

「おかしいよね。ふたつ選択肢があったのに、片方を選ぶだけであんなに動揺して」

「まるで、私が必ずもう片方を選ぶと確信してたみたいに」

「ね、プロデューサー」

「杏は全部知ってるんだよ」

「聞いたんだ。今のプロデューサーから」

「私がプロデューサーの担当に戻る方を選ぶと思って、今の私のプロデューサーにそう伝えたんだってね」


私の言葉で彼は一転、しまった、という表情になって、苦々しそうに額の辺りを掻いた。
私は終始、彼に対して優位に立っていた。調子に乗りそうになるのを堪えて、私は冷静に、プロデューサーへの詰問を続ける。
私の得るべき情報は、外堀を埋めるという彼の行動の真意についてだ。


「プロデューサー」

「どうして、私がプロデューサーを選ぶと思ったの」

「それとも、何か別の理由があったわけ?」

「答えてよ」




間があった。
数十秒の沈黙が霧のように立ち込めていた。

彼の眼には、諦念に近いものが映っていた。
情けなさそうに首元を掻いていた。
観念したのか、俯いて言葉を紡ぎ始めた。

私は有利に状況を進めている。
そう思っていた。
でもその構図は、あっという間に瓦解した。
というのも、彼の口から飛び出した言葉は――あまりに、私の想定の範囲の外にあったのだ。


「違うんだ」

「俺はただ、杏にこれ以上、辛い思いをして欲しくなかったんだ」

「だってお前、担当が変わったとき、あんなに辛そうだったじゃないか」

「辛そうで、見てられなかったんだ」


今度は驚かされたのは私の方だった。
だってそれは、あまりにも、私の想定と異なっていたから。
全て私の為だった。――そう聞かされて、私の心に芽生えた感情は、まさしく罪の意識、罪悪感だった。

私の想定解は、もっと、独善的な理由だった。
プロデューサーは私に戻ってきてほしいからこそ、私への伝達もなしに勝手に事前処理を行っていたものだと思っていた。
でも彼の言うことを信じるなら、彼の外堀埋めは、彼自身のためではなく、私自身のために行われていることになる。

どす黒い色をした罪悪感という感情は、想像を栄養にして、心の中でひとり生長していく。
雷雲が空を埋め尽くすように、後悔だとか申し訳なさだとか、そういった類の感情が私の理性を丸呑みしていった。


あんな嘘まで吐いて、騙すことは無かったんじゃないか。
真意に気付けなかったのは私の方でしょ。
自分のためを思って行動してくれた人に対して、その仕打ちはひどい。


自己嫌悪の波がどっと押し寄せていた。私は居た堪れなくなって、目を伏せて謝罪した。


「その、なんというか、嘘ついてごめん……」


私の言葉を聞いた彼の顔を、私はよく覚えている。
意外だ、とでも言いたいような顔をして、ふっと口元を綻ばせていた。
煙草を吹かすように大きく息を吹き出すと、こう返したのだった。


「こっちこそ、ごめん」


私はその表情の表すところに気付けなかった。

――私は子供だったから。



騙された。
その言葉がずっと頭の中をぐるぐると回っていた。



あの後帰路についた私は、帰宅してすぐ布団に潜り込んだ。
流石に着替えないとまずいと考え直して、変装用のキャップと眼鏡を外す。
今日のためにクローゼットの奥から引っ張り出して着ていたスプリングコートを脱いで、改めて横になる。

ショックだった。
邪な気持ちに唆されて、人を傷つけてしまった。
似たようなことをした経験はいくらでもある。
人を傷つけてしまったことに気付くたびに、私は一日を思い返して、反省をするのだ。
私は自己嫌悪をいつまでも溜め込んで引きずるようなタイプの人間だった。

例に漏れず、私はその日のことを時系列順に思い出していた。


――こっちこそ、ごめん。


この日のことを思い返してみたときに、初めに違和感を感じたのはその言葉だった。
何か引っかかる。

……ごめん?


あの謝罪の言葉を、私は「勝手に私の思いを決めつけてごめん」だと解釈した。
でもそれは、本当に正しい解釈だろうか?
仮に正しいとして、それなら何故、彼はあんな表情でそれを口にしたのだろうか?
それからはまるで箱の中身をひっくり返したときのように、今日の記憶が次々フラッシュバックしていた。


向かい側に座るプロデューサー。
私のついた嘘。
私の選択。
彼の真意。
謝罪の言葉。


記憶の糸を辿る。
よくよく考えてみれば、おかしな点はまだある。
私に辛い思いをして欲しくなかったという彼の主張。
どう考えても、繋がらない。

私に辛い思いをして欲しくないからというのは、彼が断りなく外堀を埋めていたことの理由になり得るのだろうか? 
確かにそれは、彼が自分の担当アイドルとして私を連れ戻したいと思う理由にはなるかもしれない。

しかし、だからといって、勝手に私を連れ戻そうとするのは、明らかにやり過ぎだ。
それは、ただの独善だ。
独善。





――やっぱり彼の行動は、全て独善に起因していたんじゃないだろうか?


 
急に頭の先を糸で引っ張られるような、そんな感覚を覚えた。
やっと腑に落ちた。
私は彼の言葉の背後に潜む独善を見抜けなかったのだ。
それは間違いない。
――でも、それは何故だ?

隠れていた?
違う。

隠されていたんだ。

悪夢から覚めたときのように、私は突然上半身を起こす。
あまりの衝撃だった。


プロデューサーは、言葉の背後に独善を隠していた。
それは決して過失じゃない。
故意だ。
独善を偽りの言葉で隠匿して、私を騙したんだ。
それは、何だ?

大人がよく使う、あれだ。
人類の英知が生み出した、便利なシステムを指す、あの言葉だ。

言葉にすれば、その事実は確かな質量を得て、私に圧し掛かってくる。


私は嘘を吐かれていた。
しかも、嘘を吐かれていたことに気付けなかった。









私は騙されていたんだ。
プロデューサーを騙したつもりが、逆に騙し返されていて、しかも私は家に帰るまでそれに気付くことが出来なかったんだ。
プロデューサーは、私の罪悪感と同情の心を的確に刺激して、私から、彼の嘘の背後に匿われている独善を遠ざけていた。
それなら、彼の謝罪の意味も察しがつく。
あれは、直前の私の言葉と同じで、嘘を吐いてごめん、という意味だったんだ。

なんて大人げないんだ。
嘘を吐くなんて、許せない。

最初は彼に対する怒りや苛立ちが、心の中で赤くめらめらと燃えていた。
でも当時の私は賢いことに、そんな感情を抱いてはいけないことに思い至った。
そのような感情を抱くことが許されるかはまた別問題なのかもしれないけれど、その態度はあまりに自分本位で、論理的でないのだ。

だって、最初に嘘を吐いたのは私だ。
私が嘘を吐いたから、プロデューサーは嘘を吐いたのだ。
そうだ。
私はやり返されただけなのだ。


――それなら彼の嘘には、私に対する報復の意図が含まれていたのではないだろうか?


あのとき彼は、尋常ではない程度に動揺していた。
あれだけ動揺させられて、結局手のひらの上で転がされていただけだと、綺麗に騙されただけだったと思い知らされれば、意趣返しを図るのも無理はない。
彼の嘘は、真意を隠す意図があったことは確かだけれど、それ以上に、彼がやり返したかったからこそ吐かれたものだったのかもしれない。



そう考えると突然、プロデューサーが子供っぽく思えた。
脳内で冷笑的な笑みを浮かべていた彼が、動揺させられた腹いせに私に対する報復の機会を窺っているような、そんなちっぽけな存在に変貌を遂げた。
その想像は、私の感情の起伏を和らげるのには充分なほどに喜劇的だった。

 
「……ふふっ」


あまりのおかしさに、ついつい笑いが零れてしまう。
子供っぽいという言葉までがおかしく思えてくる。


あのプロデューサーが、子供っぽい、か。
でも意外と、そういうところはあるよね。
部屋の前で私を驚かせたり。
よく分からないなぞなぞを出題したり。


そんなことを考えているうちに、怒りや羞恥のことはすっかり吹き飛んでしまった。
――私が邪な感情でプロデューサーを騙したのと同じように、彼もまた、邪な感情で私を騙したのだろうか。
それは勝手な妄想だったけれど、でも、もしそうだったら。
もしそうだったら、きっと。


私たちは、よく似ている。
そのフレーズは私には気恥ずかしく感じられて、慌てて布団とうさぎのぬいぐるみに顔を埋めた。









私と彼の間に、本当に大事な話をするときは事務所で、という暗黙の了解があった。
私はいつもの時間帯――土曜日の夕方だ――に、彼の部署の部屋を訪れていた。
この時間帯は暇だと言っていたけれど、でもその割にはいつも私の話を聞く片手間で仕事を処理していたりした。
しかしこの日は本当に暇らしく、彼はもう開き直ってテレビを観ていた。


土曜のこの時間のテレビって、こう、ノスタルジックだよな。
確かに。
どうしてだろう。
小学生向けのアニメとか放映してるからじゃないの。
……百年来の謎が解けたよ。
大げさだよ。


プロデューサーはどことなく、本質的な会話を避けようとしていた。
あるいは、話を始めるタイミングの決定権を私に譲渡しようとしていたのかもしれない。
いずれにせよ、私はなかなか例の件の話――選択の話と、彼の行動の真意の話――に踏み込めないでいた。
私に固有の面倒臭がりな性質が、このままテレビを観れればそれでいいや、という投げやりな感情に針を振れさせていた。

私が今日この七階の部屋を訪れたのは、彼の真意を聞き出すためだ。
彼が嘘を吐いてまで隠したかったもの。
私は、概ね答えに当たりを付けていた。

その仮説は一度は否定されてしまったけれど、否定材料が嘘だと分かった今、やはりそれが真実なんじゃないだろうか、という確信に近い疑いが強まっていた。
そして、もしその仮説が正しいのなら。
彼はまだ、目の前にいる私から目を逸らしていることになる。



「プロデューサー」


私の声を契機にして、プロデューサーは慌てて神妙な面持ちを作った。
ソファーの横に座る彼の方へと体を向ける。
――彼は依然、テレビの方を向いている。

ふとその場面が、私たちの関係をよく表しているその場面が、あまりに象徴的に思えた。
私が彼の方を向いているときでも、彼は明後日の方向を向いている。
私の方を見向きもせずに、申し訳程度に耳だけ傾けて、テレビをぼんやり眺めている。
いつだって彼は、私から目を逸らしていた。近づいてみても、目を見てみても、彼の目に私の全てが映ることはない。

早い話が、私は認められたかったのだ。
アイドル双葉杏としてでもなく、何をするにつけてもものぐさな私としてでもなく、何に対しても無気力な私としてでもなく、全てにおいて無関心な私としてでもなく。
子供っぽい私としてでもなく、子ども扱いされるのを嫌う私としてでもなく、あるいは、口ではあんなことを言いながらも、心の底ではアイドルを楽しんでいる私としてでもなく、それらを全て――全て含んだ、一人の人間として、認められたかったのだ。




「私、今のプロデューサーのところに残ることにするよ」


今度のプロデューサーは冷静だった。
流石に二回目ともなると、心の準備も出来ているのだろう。
分かった、と念押しのように言うと、私から返事が無いのを確認して、それから炭酸の蓋を開けたときのように、口内に貯め込んでいた空気を一気に吐き出した。

私がその意志――今のプロデューサーのもとに留まる意志を強くしたのは、私が元プロデューサーのところに戻ることになっていると伝えられたときだ。
あの感覚をどう形容すればいいのだろう。焦燥感という言葉が一番相応しいのかもしれない。
あのとき私は、プロデューサーのもとに戻ることを恐れていた。

もし私が彼の担当アイドルに復帰するのなら、彼にとっての私は、世間一般のために上手に拵えられたアイドル双葉杏に戻ってしまう。
この日まで私がやって来たことが、全て無かったことになる。
それだけは避けたい。
私は、元の関係には戻りたくなかった。
せっかく巻いた螺子を、空回りさせたくはなかった。

それは、一人の人間として認められたいがゆえの選択だった。
かつて私と彼とを繋ぎとめていた糸を断ち切ってまで、私は彼に認められようと必死に背伸びをしていたのだ。


「杏の」


口を開いたのはプロデューサーだった。


「杏の考えてることは、ときどき分からないよ」

「そうかな」


そんなことを言いながらも、彼は随分と、憑き物が落ちたような顔をしていた。口元を綻ばせて、穏やかな笑顔を見せていた。





俺のところに戻りたいんじゃなかったの。
今はもう、そうでもないかな。
寂しいって言ってたくせに。
そういえばそんなことも言ったね。
でも、あいつのところに残るんだろ。
今はそういう気分なんだよ。
俺には杏が分からないよ。
人間なんてそんなもんだよ。


私は私で、僅かに張りつめていた空気から解放され、清々しい気分に浸っていた。
その傍らで、私は次の会話のシミュレーションをしていた。
忘れてはいけない。彼の真意を問い質すことが、私がやるべきことのもう半分なのだ。

部屋に痛々しいぐらいに射し込んでいた夕暮れの茜色は、気が付かないうちに消え入りそうな薄い赤になっていた。
それと交代するように、藍色が空を漂い始める。
日は既に沈んでいるようだった。
段々と日の入りが遅くなってきたとはいえ、夜は人の気が付かないような速度で忍び寄ってくる。

家まで送っていってやるよ、と立ち上がったプロデューサーを、私は言葉で制する。


「待って」


――まだ、聞いていないことがあるんだよ。


彼は心底不思議そうな顔をしていたけれど、私はその表情の中に、微かな怯えを感じ取った。
プロデューサーなりの、虫の知らせというやつだったのかもしれない。
そしてその予感は、ちゃんと的中している。

私は尋問の続きをしに来たのだから。








あえて言葉を選ばずに言うなら、私は性格の悪い子供だった。

私の尋問の目的は何だったのだろう。
そもそも尋問を働こうと思ったのだって邪な気持ちが湧いたからなんだし、初めから正当な目的なんて存在しなかった気がする。
私は尋問を楽しんでいた。そして、楽しむために尋問をしていた。

尋問の目的は、半分が私の予想が正しいかどうかを確かめること。そして、もう半分は、仕返しだ。


「プロデューサー。結局さ、プロデューサーが杏に黙って外堀を埋めてたのはどうして?」


次の瞬間、彼の表情は凍り付いた。
時間が止まったように固まっている彼に構わず、私は言葉を続ける。


「誤魔化せたとでも思ってたの?」

「……外堀って、そんな人聞きの悪い」

「はぐらかさないでよ」

「もしかして怒ってるのか? それなら謝るから、さ」

「あのね、杏は理由を聞いてるんだよ」

「どうして笑顔なの」

「話を逸らさないで」


いたちごっこだった。
プロデューサーが話の方向性を別の軌道に逸らそうとして、私がそれを阻止する。
まるで会話になっていなかった。
そのくせ私は努めて笑顔を作っていたし、彼も穏やかな笑顔を浮かべていたから、不思議を通り越して不気味な状況だった。



「杏、俺はそろそろ時間なんだ」

「時間って、何の?」

「……とにかく、時間がないんだ」

「うん。時間がないし、早く答えてよ」

「えっと、何だっけ。忘れちゃったよ」


まだ続けるのか。
苛立ちは加速度的に膨らんでいく。
それは彼が時間稼ぎに精を出しているからというのもあったけれど、それ以上に、彼の行動の節々に私を子ども扱いしているような態度が現れていたからだった。

――彼のその態度は、子ども扱いという言葉が適切かどうかはわからないけれど、そうと表現する以外に言いようがない。
見下しているだとか軽蔑しているだとか、そういう類の態度ではないことは確かだ。
ぞんざいに扱われていたわけでもないし、むしろ彼は私を丁寧に扱っていた。
どちらかと言えば、彼の私に対する態度は、丁寧過ぎたとも言える。

彼の中には、彼自身が定めていた、踏み越えてはいけない一線というものがあったように思う。
彼はその一線を踏み越えないように、慎重にコミュニケーションをしていた。
私に必要以上に干渉しないようにしていたのだ。

確かに、コミュニケーションにおいて、過干渉になり過ぎないことは大切だ。
でもそれは、出会って日の浅い人間同士の話だ。
長い間アイドルとその担当プロデューサーという関係だったのに、お互いに無闇に干渉しないというのは、あまりに淡泊すぎる。
彼は私に関心のあるふりをしていたけれど、本質的なところで無関心だった。
私自身に、関心を持ってほしかったのだ。

そうやって、肝心なところで私から目を逸らすんだ。
私は『プロデューサーに会えなくて寂しい』とまで言ったのに。
人にあんなことまで言わせておいて、自分はだんまり。
これだから大人は狡いんだ。




「でもね、プロデューサー」

私は、彼に外堀を埋めるという行動を選択させたその理由を知っていた。

――それはひどく独善的な理由だ。
ものすごく単純で、笑ってしまいそうになる理由。

彼は、私が彼を選択すると確信していた。
そしてそれは、彼自身の希望的観測によるものだ。
彼は「もしもの話」を、私に選択肢を与えるつもりで話したのではない。
彼が口にすべきだった言葉は、おそらくこうだ。


――やっと俺の部署に杏を受け入れる余裕が出来たから、戻ってきてくれ。


彼は本来、私に対して、「自分のところへ戻ってきてほしい」と頼み込むべきだった。
でも彼はそれに類することは口にせず、「もしもの話」を持ち出した。
彼がその真意を、わざわざ「もしもの話」という建前をもって隠したのは何故か。



彼は、私に「戻ってきてほしい」と言いたくなかっただけなのだ。


彼の中にある踏み越えてはいけない一線が、「戻ってきてほしい」という言葉を言わせなかったのか。
あるいは、大人の持つプライドがそれを許さなかったのか。
いずれにせよ、彼は自分の意志を隠す意味で、「もしもの話」をした。

そしてそれは、私に捻じ曲がって伝わった。
――私にはまるで、プロデューサーから別の選択を迫られているように思えたのだ。


彼が提示したつもりになっていた選択肢は、「はい」か「いいえ」の二択だ。
しかし私はこれを、「プロデューサーのところに戻る」か、「今のプロデューサーのところに留まる」の二択だと解釈した。
この二択は、一見すると違いがない。
実際に、選択肢の内容は同じことを指している。

しかし、選択する側にとって、このふたつの問題には大きな隔たりがある。
なぜなら、肯定の選択と否定の選択は対等ではないからだ。


私だって、戻ってきてほしいと言われていれば、彼のところへ戻る気持ちを強くしただろう。
否定することには勇気が必要だし、私の頭の中にはちゃんと、「プロデューサーのところに戻りたい」という意志があった。
肯定をしない理由がない。

しかし、そのふたつの選択肢が対等に提示されたら?
選択には、常に程度の概念が付きまとうこととなる。
現に私は、プロデューサーのところに戻りたいと思う気持ちと、今のプロデューサーのところに留まりたいと思う気持ちを水平的に比較して、その程度を根拠に選択をしようとしていた。

それに、対等な二つの選択肢から一つを選ぶのに、否定するための勇気は必要ない。
一つを選べばもう一つを否定することになるわけだけれど、それはどちらを選んでも同じなのだ。
否定することを仕方のないことと割り切れるのなら、簡単に踏ん切りがつく。



結局は、彼の思惑通りには物事が進まなかった、という話だ。
そしてそれの直接的な原因になったのは、彼の独善的な感情――私に、「戻ってきてほしい」という言葉すら言えない、彼のちっぽけなプライドのせいだ。

笑ってしまうような結末だ。
でもこう考えれば、色々なことに説明がつく。

例えば、彼が「もしもの話」をした日。
彼は最後に、「もしもの話だけどな」と言っていた。
あれは体裁を保とうとする形式的な言葉などではなく、「まだ確定じゃないけど」という意味の、万が一私がプロデューサーのところへ戻れる権利を失ってしまったときの、逃げ道の確保のための言葉だった。

彼の予想以上の動揺にも今なら納得がいく。
あのとき彼は初めて、自分が提示したはずの選択肢と、私が解釈した選択肢が異なっていることに思い至ったのだから。
きっと彼は、自分のしでかしたミスを認めたくはなかっただろう。
認めたくはなくて、でも認めざるを得なかったからこそ、諦念と不甲斐なさの入り混じった表情を浮かべていたのかもしれない。


「私はね、プロデューサーが何を考えてたか、知ってるんだよ」

「プロデューサー、言ってたよね」

「言わなきゃ、分からないんでしょ」

「杏にあんなことまで言わせておいて、自分だけ言わないってのは、ずるいよ」


だから、これは罰なんだ。
自分だけ逃げようとしたことへの、罰だ。
私には内心を打ち明けさせておいて、自分だけそれを回避しようとするのは、あまりに都合が良すぎる。


プロデューサーは何も言わなかった。
否定も肯定もせずに、ただ沈黙を貫いていた。
何の反応もないことは、私の仮説が正しいことの何よりの証拠だった。



プロデューサーが顔を上げる。
彼の視線は、私を捉えている。
目が合う。



電流が走る。
記憶が呼び覚まされる。
ただならぬ予感が芽生えて、心の中が嵐の夜のようにざわつく。



また、だ。

私の視界に映る彼の目には、青色が揺らめいていた。

あの青色だ。

流れ星のような青色。

一瞬で空を真っ二つに切り裂いて、一秒足らずで世界を大きく作り変えてしまうような、流れ星のような青色。



私はその青色の正体を掴みかけている。
掴みかけているけれど、まだ、はっきりとはしていない。



「大人はね、ずるいんだ」



――言わなくても伝わるからって、それに甘えていたんだ。



彼の目に宿った青が、静かに燃えている。










初夏の夜はわずかに生ぬるい。
コートを着込むにはあまりに蒸し暑い。かといって春物のコートを脱ごうとすれば、その矢先に冷たい風が私に突き刺さる。
暑さと寒さが交互に押し寄せる、どっちつかずな気温だった。

事務所から駅までの道のりは、長くもなく短くもないような、中途半端な距離だ。
私は車で家に送ってもらいたかったのに、プロデューサーは時間がないと言うし、今のプロデューサーは既に退社しているような時間だった。
私は仕方なく、しかめっ面で駅まで歩いていた。


「あ」


その帰り道だった。
私は答えを見つけた。
私は思わず、間抜けな声を辺りに響かせてしまった。


答え――一番最初に話した、緑色の空にまつわるなぞなぞの、答えだ。
妙に腑に落ちる感覚があった。
かといって、納得がいくような答えでもない。


……このなぞなぞは、ずるい。
こんなの、思いつくわけがないじゃんか。




だってこれは、空じゃない。












炎と空と人の一生は似ている。
炎。
1500℃の炎は青色だ。
温度が下がれば、炎は赤色になる。
やがて燃え尽きると、そこには消し炭の黒が残る。


空。
昼間の空は青色だ。
太陽が傾き始めると、空は焼けるような赤色に染まる。
やがて日が沈めば、そこには黒が残される。
人はそれを夜と呼んでいる。


人。
日本語では若さを青で表現する。
やがて年を取れば、その青は消え去って、赤が残る。
その赤は、いつかは黒になる。
人はそれを死と呼んでいる。




どうしてこんな話をするのかって?
もっともな疑問だ。
こんなの、杏らしくない。

これは、プロデューサーの受け売りだ。
彼はこういうことをよく言うような人間だった。
考察や思索で逐一アップデートされる円熟した価値観と、その思索により得られた結果を嬉々として私に語るような子供っぽさを、自身の中に共存させていた。

彼がこの話をしたのはいつだったか。
どんな場所で、どんなタイミングでその話をしていたかを、私はよく覚えていない。
彼がその話をした理由だって、彼の気分によるものだったのだろう。
しかしこの話は、この話だけは、私の脳裏に深く刻み込まれているのだ。








あの件以降も、私たちは定期的に集まってどこかに出掛けることが多くあった。
あの件というのは、私が今のプロデューサーのところに留まることを決めた件のことだ。

私たちはその流れ――暇な時間にどこかの駅で落ち合って、宛て所もなくぶらぶらしたり、思いついた場所に行ってみたりして、適当な時間に解散する流れ――を、打ち合わせと呼んでいた。
無論打ち合わせというのは名ばかりで、あくまで形式的な呼称だった。
どちらが初めて打ち合わせという言葉を使い始めたのかは覚えていない。
外聞が良いし、負い目を感じないので、私たちはその呼称を好んで用いていた。

打ち合わせは、多いときには週に二、三回のペースで行われていた。
彼は定時で帰れることが多かったし、この業界にしては珍しく完全週休二日制を手にしていたので、彼は積極的に私に付き合ってくれた。

六月に入っても、相変わらず打ち合わせは定期的に開催された。
雨がよく降るようになって、出来るだけ傘を差さずに済むような場所を選ぶようになった。
水族館に行ったのも確か六月だった。

その、六月の頭のことだった。



私はカフェの二人席に座っていた。
プロデューサーがどうしても観たい映画があるというので、それに付き合っていた。
上映後に映画館近くのカフェに寄って、プロデューサーが会計を済ませるのを席で待っていたのだった。

「緑色の空」のなぞなぞの答えを見つけて以来、私はよくそのことに思いを巡らせていた。
答えが分かってしまったのだから、今更何を考えることがあるのか、と思われるかもしれない。

私が考えていたのはその答えについてではない。
何故、彼があんななぞなぞを私に出題したのか、についてだ。

大した理由はない、と投げやりな態度で処理しても良かったのだろう。
しかし私の頭の中には、彼がなぞなぞを出題した動機に対する疑問が尽きなかった。

果たして本当に、彼は特に理由もなくあんななぞなぞを出題したのだろうか?
それにしてはおかしい点がある。
彼は、答えを言うのを渋っていた。
しかも最終的に、その答えを明かさなかった。
あまりに不可解だ。

多少渋るくらいならまだ分かる。でも、たかがなぞなぞの答えぐらい、その場で言ってしまう方が禍根を残さないはずだ。
あの日、プロデューサーが答えを口にすることは無かったのだし、教えてくれそうなそぶりも見せない。

違和感を感じる点はまだある。
そもそも、車の中で突然なぞなぞを出すのも変だ。
あのときの私は暇を持て余していたからすんなりと受け入れたけど、ものぐさの私にあんななぞなぞを出題することだって不審だ。
普通の私なら、耳を貸そうとすらしなかったのかも知れないのに。

不可解な点が多すぎるのだ。
同時に私は、その違和感を全て打ち消してしまえるような、たったひとつの答えがあるような予感を感じ取っていた。
思考の末、私はひとつの仮説に吸い込まれていく。


――彼は初めから、私が答えを出すことに期待をしていないんじゃないか?


いや、むしろ、彼は私に、答えを出して欲しくすらないんじゃないか?




「杏」


思考の海に潜っていた私を、プロデューサーが現実へと引き戻した。慌てて生返事を返すと、彼は首をかしげた。


「大丈夫か? なんというか、上の空みたいだけど」

「あ、うん。ちょっとね」


頭の中で、ついさっき生まれた結論をこねくり回してみる。
なぞなぞの答えを出して欲しくない状況というのはたくさん思いつくけれど、そのいずれも極端な状況で、今の私たちには合致しない。


「映画のアクションが予想以上に激しくて、疲れちゃったんだよ」


ふと、思い付きの嘘を口にしてみる。
嘘を吐くのは嫌いではなかった。
昔はよく嘘を吐いてはいけないと教えられたものだけど、私は嘘を吐くことの罪の大小は嘘のもたらす結果にのみ左右されると思っていたから、小さな嘘を吐くことに抵抗が無かったのだ。

それに、彼もよく嘘を吐いていた。
お互いに嘘を吐き合って、でもそういう嘘が私たちの関係を円滑に進ませることを、二人とも熟知していた。


「そんなに激しかったかな」


プロデューサーは私の嘘を鵜呑みにしていた。
彼は嘘を吐かれていることに気付かない。
無理もない。
疑うことは疲れる。信じるために頭を働かせる必要は無いのに対して、疑うためには常に頭を働かせなければならない。

それに、疑い尽くして嘘を暴いたところで、得られるのは私が些細な嘘を吐いたという事実と、その嘘に理由はないという空虚な真相だけなのだ。
彼の目をじっと睨んでみる。
彼もこうやって、半ば無自覚に小さな嘘を積み重ねているのかもしれない。
いや、きっとそうだ。


緑色の空の話。
彼はきっと、あの件に関して、何かを隠している。
彼が「もしもの話」をしたとき、あのときと同じように。
彼は本心を、嘘と演技で覆い隠している。


「プロデューサー」


だから私は、踏み込むことにした。
彼の目の奥、心の中に。


「あの……さ」



――「緑色の空」の話、覚えてる?


彼の反応は、意外にもあっさりとしていた。
彼から返ってきたのは、ああ、という相槌に近い返事だった。


「そういえば、そんなこともあったね」

「覚えてるの? 随分と前のことなのに」

「そりゃ、覚えてるよ」


同時に私は、彼にとって「緑色の空」が、ただのなぞなぞ以上の意味を持っていることに対して確信を強めた。
「緑色の空」の話を思いつきで口にした程度なら、そんな些末なことを覚えているはずがない。
たまたま記憶に残っていた可能性も無きにしも非ずではあるけれど、それは彼がそれを覚えていることが当然であるかのような口ぶりで話していることと食い違う。


「あれってさ、どういう意味なの」

「意味? ……ああ、問題文の意味が分からないってことか」

「違うよ。あの問題の意味というか、存在理由というか」

「何だそりゃ」


プロデューサーは穏やかな含み笑いを見せた。
随分と難しいことを考えてるんだな。
私を小馬鹿にするように呟いて、目の前のコーヒーを啜る。
――彼のその、私の言葉を相手にしようとしない態度は珍しいものではなかったし、私とて他人の何気ない言動にいちいち腹を立てるほど子供でもなかったのだけれど、その態度は私にもやもやとした影を落とした。


「ね、教えてよ。どうしてあんなクイズを出したのさ」

「どうしてって言ったって……。気分だよ」

「せめてもっとマシな嘘を吐いてよ」


彼は参ったというように首の付け根に手を当てた。
私に構うのが面倒だと言わんばかりの表情だった。
私は彼が、質問の返答として適切な言葉を考えているのではなく、その場を穏便に済ませるための文句をこねくり回していることをうっすらと察していた。

彼が口を開く。思い返せば、私は随分と身構えていた。
先ほどの彼の、私を冷やかすような態度に対して拗ねていたんだと思う。
私は彼の返答から綻びを見つけ出し、矛盾点を彼の目の前に突き付け、崖際まで彼を追い詰めることに躍起になっていた。
嘘が吐けなくなる状況にまで彼を追い詰めて、そして本音を引っ張り出そうとしていた。


「杏」


とどのつまり、私は彼の喉元から弁解の言葉以外の何かが飛び出ることを、全く予期していなかったのである。



「大人はね、ずるいんだ」


これは彼の本音だ。
言葉を聞き届けたその瞬間に、私は直感で悟った。
嘘でも何でもない、真実を端的に言い表した言葉だ。
その言葉を発したときの彼の態度が、あまりに普段と異なっていたのだ。
私はそこに、どれだけ強い力を加えてみても風を掴むようにすり抜けてしまう、底知れない彼の本質を見た。


あの日――彼が緑色の空の話をした日から、彼の全身を巡っていたひとつの信念を、私は垣間見たのだ。
行動という形で外の世界に現れていたものは全て、信念という名の一本の大動脈に支えられていた。
当時の私――十七歳の私には杳として知れなかった彼の本質。
あの頃から二年が経った今の私は、彼の軸というものを知っている。
有体に言ってしまえば、彼は最初からずっと、本心を嘘で隠していたのだ。



誰だって一度は、自分と他人の誰かが似ていると思ったことがあるはずだ。
でもそれは、無数にある自分の性質とその人の性質の中に、たまたま一致したものがあっただけだったりする。
そして、同じ時間を長く共有していればその分だけ、似ていると感じる部分が多くなるのだ。

十七歳の私はそんなことにも思い至らずに、私と彼は似ているのだと信じて疑わなかった。
私も彼も思考回路がやや中性的だったから、価値観が合うことが多かった。
普段は一歩引いて周りを見ているのに、ふとした瞬間に感情的になるところも似ていた。

確かに彼と私は、一部分においては似ていたと言える。
それでも、肝心なところで私たちは異なっていた。


彼の行動の理由を考えるとき、私は決まって、彼になりきって、彼の思考回路を類推してみる。
そしてそれは、大抵の場合上手くいっていた。
しかし今回の件――彼が「緑色の空」の話をした理由に関して、彼の気持ちを想像してみても、どうにも思い当たるものが無かった。

私は見返したかったのだ。
嘘と演技のバリケードで覆い隠されている彼の本質を見破って、一泡吹かせたかった。
彼の本質を見抜いたその先に、彼に認められるような未来があると信じていた。

一種の反骨精神のようなものだったと思うけれど、振り返ればそれは、彼の目にはただの反抗期のように映っていたのかもしれない。
相変わらず真剣に取り合ってくれないような言動がほとんどだったし、私はそんな彼の態度にいちいち怒っていた。
私はこんなにプロデューサーのことを考えているのに、どうして彼は私に見向きもしないんだ。
そんなことを考えては、しょげたり拗ねたり苛立ったり、急に恥ずかしくなったり情けなくなったりしていた。


二年も経てば、さすがに自分を客観視できる。
二年前の私はあまりに傲慢だった。
他人に努力を望むくせに、自分は労力を払わないような人間だった。
それに気付くのはもう少し後の話だ。
当時の彼の眼中には、ちゃんと私が映りこんでいた。


私がその事実に気付けなかったのは、彼が本音を隠していたからだ。
大人は本心を隠すのが上手い。
そして、大人は狡い。








その年の六月の終わり頃は大変だった。

ただでさえ梅雨のせいで体が重いのに、スケジュールは多忙を極めていた。
七月に事務所開催の合同ライブがあるというので、私は歌やらダンスやらを叩きこまねばならなかったし、かといって写真撮影や雑誌の取材などの通常の仕事の手も休まらなかった。
レッスンや長丁場の仕事でボロボロになりながらも這う這うの体で帰還し、やっと帰れると事務所を出たところで雨が私に追い打ちをかける。
私は、このまま私が突然失踪したら皆はどんな顔をするのだろうかというのを想像し、その想像だけで何とか毎日を乗り切っていた。


七月頭のライブが終わって、ほぼ同時期に梅雨が明けた。
燃え尽きて消し炭になった私は、ライブの日を境に、部屋でごろごろ寝転がって時間を潰すことが多くなった。
六月の下旬はプロデューサーと打ち合わせに行く時間がないのを惜しく思っていたけれど、いざ暇になると、やっぱり外出しようという気分にはならない。

ひとりで寝転がる時間が増えると、考え事をする時間も増える。
「緑色の空」のこと、彼のこと、私のこと。分からないことが増えるばかりで、状況は少しも進展しなかった。


私はふと考える。
彼の本質に踏み込むためには、私は何かしらの行動を起こさなければならないんじゃないか?


突然脳裏に姿を現した言葉は、私の急所を的確に突いていた。
当時の私に欠けていたものは行動力だった。
何かに必死になろうとする度に、理性の皮を被った感情が邪魔をしていた。
些末なことに本気になることは格好悪いと決めつけて、泥臭くなろうとする自分を押し留めようとする心理が働いていた。

振り返れば、今までだってそうだ。
私は常に、流れに身を任せて生きてきた。
十五年間を生きた北海道を離れて、東京に独り暮らしすることになったのだって、私の自堕落な生活を見かねた両親の計らいによるものだ。
アイドルをやっているのだって、印税で儲かるというプロデューサーの口車に乗せられたからだ。
――口車に乗せられたというのは半分は建前で、アイドルに興味があったというのも理由のひとつだった。

自分で選択に踏み切った経験がなかった。
私は自身の選択を、全て他人に任せて生きてきた。
目の前に映る選択肢から目を逸らし、選択肢を選ぶことに伴う責任から逃げてきた。


でも、そんな生き方もそろそろ、限界なのかもしれない。
私にはいずれ、選択をしなければならない日が来る。
そんな直感があった。



「あの、さ」


その翌日に、私はプロデューサーの部署の部屋を訪れていた。
夕方もいい時間だったけれど、夏と言うだけあって、日はまだ落ち切ってはいなかった。

プロデューサーは伏し目がちに私と会話をしながら、パソコンを叩いていた。
何をしてるの、という質問に対する彼の答えは『メールの処理』とのことで、これが何故か印象に残っている。

――私はプロデューサーが仕事として具体的に何をやっているのかについて、よく知らないままにアイドルをやっていた。
その当時は、メール処理なんかやらされるのか、と殊更に感銘を受けたけれど、今考えれば電子メールの処理をしない社会人の方が珍しいように思う。


「プロデューサー。『大人はずるい』って、どういう意味?」


一瞬彼の手が止まる。何事も無かったかのように仕事を再開すると、彼はぱっとしない返事をした。


「そのままの意味だよ。大人はずるいんだ」


はぐらかそうとしているのは明々白々だった。
しかし私は、彼の法則を知っている。
彼は私を無視しない。
必ず返事をする。
私はそのことに気付いていた。

むしろそれこそが、彼が嘘を吐く理由なのかもしれなかった。
本当のことを言いたくはないけど、私を無視したくはない。
そんな行動規範に縛られた彼の行き着いた最適解が、嘘を吐くことなのかもしれない。


「大人はずるいから、嘘を吐くんだよね」

「……そうだな」

「プロデューサーは、いつ嘘を吐いたの?」


彼は答えに窮していた。
無理もないことだ。
人は常々無数の嘘を吐いて生きているし、吐いた嘘をいちいち覚えているような人間は神経質を通り越してもはや異常だ。

それでも、私の知りたかったことは、彼がいつ嘘を吐いたのか、なのだ。
彼はあの日――映画館に行った日だ――最後に、大人はずるいんだ、と口にした。
それは言わば自白のようなもので、彼が「緑色の空」の話をしたとき、あるいはそれに関する出来事の中で、何らかの嘘を吐いたことを認めたようなものなのだ。
しかし私は、彼のどの言葉が嘘だったのか、特定できずにいる。
それが分からなければ、何も始まらない。



「いつって言われても、範囲が広すぎるよ」

「『緑色の空』の話をしたあたりだよ」

「ずいぶんと前だね」

「でも、覚えてるんでしょ」


彼は、そうだなぁ、と右頬を掻く。
言葉を練り終わったのか、ため息交じりに口を開いた。


「強いて言うなら、嘘を吐いてはないかな」

「……それ、本当?」

「今さら嘘は吐かないよ」


これは私にとって衝撃だった。
彼は嘘を吐いていない。
解けかけていた糸が再び絡まり合ってしまった。
彼が嘘を吐いていないということは、どういうことなのだろう?


「じゃあ、何か隠してたの?」
 

彼の目には迷いが浮かんでいた。その態度から察するに、彼が何かを隠しているのは明らかだった。
私が知りたいのはその先、具体的に何を隠しているか、なのだ。
彼の迷いはどうやら、その先についてどこまで言及するか、に関するものらしかった。




「ねぇ、何を隠してたの?」


プロデューサーは答えなかった。
彼はいつだって、直接的に答えを明かすことがない。
彼の行動の裏側には常に、漠然としたものを言語化することへの拒絶があった。
輪郭のぼやけたものを言葉にすることに伴う副作用を、極度に恐れていた。
曖昧を曖昧のままに放置することで、身に災いが降りかかるのを防いでいたのだ。

しかしその態度は、この質問への返答を与えることを不可能にしていた。
それでは埒が明かない。


「プロデューサー」

「別にさ、答えを直接言ってくれなくたっていいんだよ」

「ヒントでいいんだ」

「ねぇ、プロデューサーは何を隠してたの?」


顔を上げた彼と目が合う。
彼の表情には憂鬱と倦怠感が刻まれていた。
その表情のまま、やおら口を開く。


――本心を隠すのには、別に嘘じゃなくたっていいんだよ。




記憶を順番に辿ってみる。


『そういえば、こんななぞなぞがあるんだ』

『緑色の空はどこにある?』

『そうだなぁ……日本にあるよ』

『一週間考えてみて、それでも思いつかなかったら、答えを教えてあげるよ』


彼は嘘を吐いてはいないと言った。
しかし本心を隠していたことも確かだ。
嘘以外で本心を隠す方法。

演技。
私の頭にふと浮かんだその言葉。

演技だ。
彼はあの時点、緑色の空の話をした時点で、演技をしていた。
具体的にどんな演技をしていたのか?

答えは喉元まで出かかっている気がした。



『彼は私に、答えを知ってほしくないんじゃないか?』


これは少し前、彼と映画館に行った日に行き着いた仮説だ。
しかしこの仮説は、彼の発言と矛盾する。


『一週間考えてみて、それでも思いつかなかったら、答えを教えてあげるよ』


彼は一週間後に答えを教えてくれるはずだった。
だから本当なら、この仮説は誤っている。

――私がこの仮説を捨てきれないのは、彼があのなぞなぞの答えを私に打ち明けるのを渋っているからだ。
答えを言うのを先送りにし続けることの理由は、答えを知ってほしくないから、以外に考えられない。



でも、もし、一週間後に答えを教えるつもりがなかったとしたら?
あるいは、一週間後に、なぞなぞの答えを私が催促する可能性が低いことを知っていたとしたら?

私があのなぞなぞの答えを彼に聞くことが出来なかったのは、「緑色の空」の話をした翌日に、プロデューサーの担当を外れることが決まったからだ。担当替えのごたごたに巻き込まれて、一週間後の私はなぞなぞのことをすっかり失念していた。


――もし、彼が担当替えのことを事前に知っていたとしたら?


突如私に舞い降りたその仮説は、瞬く間に現実味を帯びて私の脳内に浸透していく。
彼がもし担当替えの件を、「緑色の空」の話をした時点で知っていたとしたら。
彼があの話をした一週間後には、彼と私が面と向かって会話する機会は極端に減少する。何ならそんな機会が存在しない可能性だってある。
 

この二つの仮説を正しいとすれば、彼の取った行動はこんな流れになる。

彼は何らかの理由で、出題することだけに意味があって、答えを知られてしまうと意味がないなぞなぞを出す。
答えを言うのを一時的に先延ばしにするため、彼は一週間後に答えを教えることを約束する。
しかしその一週間後というのは、担当替えが行われた後だ。
彼と私が会う機会も理由も存在しないはずだ。
だから、その約束は有耶無耶にできる。




私にはこの想像が、辻褄が合っているように思われてならなかった。
論理的整合性がどうとかそれ以前に、あまりに彼らしく思えたのだ。
計算高く綿密に練られた計画が、約束を反故にするという子供じみた結果を生み出すところが、いかにも彼らしい。

それに、この仮説をもとにすれば、彼の演技とは何だったのかについても簡単に特定できる。
 
彼は、担当替えのことを知らないフリをしていたのだ。

「緑色の空」の話をする前から、彼は担当替えが決まったことを聞かされていたのだろう。
しかし彼はその決定を、ぎりぎりまで私に隠し通した。
それは私に対する一種の配慮だったのかもしれないし、あるいは、適切なタイミングを窺っていたのかもしれない。


視界が一気に開けたような感覚を覚えた。
あちこちで絡み合っていた謎が連鎖的に消滅した。
あと少しだ。
残存する不可思議な点はたったひとつだ。
――どうして彼は、出題自体に意味があって、解かれてしまってはいけないようななぞなぞを出したのか?


でも、例の仮説を元に考えてみたら、答えはすぐに見つかった。
分かってしまえば、あまりに呆気ない。
何と言えば良いのだろう。


私たちは、やっぱり似ていた。









扉の前で僅かに気を引き締める。
目を閉じて二回深呼吸してみて、初めてここに来たときもこんな感じだったことを思い出した。

私は緊張していた。
緊張しない性質なのだと思っていた。
どんな大きな番組であろうが生放送であろうが、私は緊張とは無縁だった。

でもそれは、アイドル双葉杏という殻が自分を守っていたからだ。
今の私は、本当の自分――一人の人間としての双葉杏だ。

左手に握っているうさぎのぬいぐるみを、両手で持ちあげてみる。
そいつの間抜けで心底何も考えていないような顔を見ると、少しだけ緊張が和らいだ。



扉を押して中に入る。
彼はいつも通り、奥のデスクで作業をしていた。
私を視界の縁に入れると、すぐに穏やかな面持ちを作った。
飴玉を要求すると、彼は引き出しから一個を取り出して、私に投げてよこした。


「ね、プロデューサー。こっち来てよ」


ソファーに座るように催促すると、渋々といった表情で私の横に腰掛ける。
私は目の前に飛んできていた飴玉を口に含んだ。
緑色の包みにはメロンの写真が印刷されていた。
果物系統の飴玉は基本的にハズレがない。私は飴玉を舌で堪能しながら、用意してきた言葉を口ずさむように呟く。


「大事な話があるんだ」














――杏はあまり長ったらしいのが好きじゃないから、短く済ませるつもりだよ。
面倒臭がりなのはアイドルの杏も今の杏も同じこと。
だから、黙って聞いててくれればいいよ。
プロデューサーが黙ってる限り、私の出した答えが正解だってことで、私は話を続けるから。



「緑色の空」の話、覚えてるよね?
流石に覚えてるって?


でもそれ自体、本当は変なんだよ。
だってそんななぞなぞを覚えてるなんて、おかしいじゃんか。
半年近くの前のことなんだよ?
気まぐれで出したそんなクイズを覚えてる方が不自然なんじゃないかなぁ。


可能性としてはあり得るって?
そりゃそうかもね。
でもね、プロデューサー。仮にそうだとして、それなら何で、プロデューサーは答えを言うのを渋ってるの?



ねぇ。本当はこのなぞなぞ、意味があるんでしょ?
杏も色々考えたんだよ。
全部分かったんだ。





――「緑色の空」の話をしたのって、杏に担当替えの話が伝わったその前日だったよね?
担当替えの日のこと、覚えてる?


あの時期はやたらと忙しくって、あんまり覚えてないかもね。
プロデューサー、こう言ってたよね。
正式に担当が変わるのは明日から。


でもさ、おかしくない?
担当替えなんて大事な連絡、ふつう前日にするかなぁ。


あの日にプロデューサーから送られてきた担当替えについてのメール、転送だったよね?
メール欄をさ、遡って見てみたんだ。



転送元のメール、担当替えの日の一週間前に送信されたものだったんだよ。
あのときはあまりに動揺してて、そんなことに目が行かなかったんだ。


あはは。そんな謝らなくたっていいよ。
でもさ、いつ杏に伝えるかってのを悩んで悩んで、結局保留にし続けて、前日に送るって、あまりにもプロデューサーらしいよね。



話を戻すよ。
転送元のメールがその日の一週間前に送信されたものなんだったら、プロデューサーはその日の一週間前から、担当替えのことを知ってたってことになるよね。


杏、気が付かなかったよ。
プロデューサーは、ずっと演技をしてたんだ。



杏にその情報を漏らさないように。



大人はずるいよね。
全く。





それはさておいて、それならプロデューサーは、「緑色の空」の話をした日の時点で、既に担当替えの話を聞いていたことになるんだよ。
これは、プロデューサーが緑色の空の話をした動機に関わってくるんだ。


おかしいよね。絶対に答えを知られたくないなぞなぞなんてさ。
永遠に分からないままだったらさ、一生もやもやしたまま過ごさなきゃいけないじゃん。
答えが分からないのは、もやもやするからね。



でも、それ自体が狙いだったんだ。
プロデューサー。



あのなぞなぞは、杏とプロデューサーが、いざというときに会えるようにするための口実だったんだよね?



……沈黙は肯定だよ。

杏は最初、これは答えじゃないと思ってたんだ。

だって、時系列が逆じゃん。
プロデューサーが「緑色の空」の話をしたのは、担当替えが決まる前だったから。


でも、「緑色の空」の話をしたときに、既にプロデューサーが担当替えの話を知っていたとしたら?
すごく辻褄が合うんだよ。





プロデューサー。


あのなぞなぞは、会うための理由だったんだ。


杏の担当プロデューサーが変わって、プロデューサーの担当アイドルも別の子たちになる。
離れ離れになってすぐの頃こそ無理に会ったりもするけれど、そのうち疎遠になって、やがてぷつんと縁が切れる。


そんな状況に陥ったときに、私たちを繋ぎとめてくれる、最終兵器だったんだ。



昔、そんな感じの本を読んだことがあるんだよ。

二人の女の子がいて、片方の子がもう片方の子の家に遊びに行くんだ。
で、遊びに来た方の子はいつも、もう片方の子の家に忘れ物をしていくんだよ。

何でだと思う?
察しの悪いプロデューサーでも、さすがに分かるよね。

会いに行く理由を作るためなんだ。



それを読んだ当時の杏は、よく分からなかったんだよ。

別に、会いに行くのに理由なんてなくたっていいじゃん。


でもさ、そういうわけにはいかないよね。
何か理由がないとさ、後ろめたいよね。

お互いはお互いに会いたいと思ってても、自分の思いが一方通行なんじゃないかって可能性を考えずにはいられないんだ。

だから無理にでも理由を作りでもしないと、会いに行けないんだよね。



「緑色の空」だって同じだよ。
あのなぞなぞの答えを明かさない限り、杏は「なぞなぞの答えを聞きに来た」って口実でプロデューサーに会いに行けるし、プロデューサーはプロデューサーで、「なぞなぞの答えを教えに来た」って口実で、杏に会いに来ればいい。


現に杏がプロデューサーの部署を初めて訪れたのは、あのなぞなぞの答えを聞きたかったから、だった。


杏はまんまと手のひらの上で踊らされてたんだよ。





でもね、プロデューサー。


「緑色の空」の役割は、これだけじゃないんだよね?



そんなに驚かなくてもいいじゃん。


杏がそれに辿り着けないとでも思ってたの?




杏はね、実はもう、「緑色の空」の答えを知ってるんだ。


驚いた?


……そんなに驚かないでしょ?


このなぞなぞは、そもそも核の部分はそんなに難しくはないんだ。


でも私は、四ヶ月は考えないと分からなかったよ。


何でだと思う?



プロデューサーはあえて、なぞなぞを難しくしてたんだよね。


晴れの日の空は青、夕方の空は赤。
あんな前置きを付けたら、誰だって、緑色に染まる空を想像するよ。


でもさ、あのなぞなぞの答えで言うところの「空」って、その意味の空じゃないよね?




ミスリードだったんだよ。
プロデューサーは私から答えを遠ざけるため、ミスリードをしたんだ。




あのなぞなぞは、本来、こうだったんでしょ?
――緑色の『空の字』はどこで見ることができるだろうか?




杏、完璧に引っかかっちゃったよ。





話を戻すね。


ここで問題なのは、プロデューサーが出したなぞなぞの難易度なんだ。


なぞなぞが「最終兵器」としての役割を果たせばいいだけなら、プロデューサーは、そもそも解くことが出来ないクイズを出題すればいいんだ。
クイズとして成立していない、適当な日本語を出鱈目にくっつけたなぞなぞっぽい何かを出題してもいいし、何ならクイズじゃなくてもいい。
とにかく私の気を引く何かであれば、何でも良かったんだ。


でもそれならどうして、プロデューサーは「緑色の空」のなぞなぞを出したんだろう?


あのなぞなぞは、時間こそかかるかもしれないけれど、街中を注意深く観察していれば、いつかは答えに辿り着けるような難易度のクイズだよ。



プロデューサー。



本当は、解いて欲しかったんでしょ?


あのなぞなぞを解いて、それから、プロデューサーがあのなぞなぞを出題した理由を知って欲しかったんでしょ?



「緑色の空」が「最終兵器」なら、このなぞなぞは本来解かれちゃいけないものだった。

でも万一、解かれてしまったら?

それでお終い、なんてことにはならないでしょ。

自然と、プロデューサーがあのなぞなぞを出題した動機に目が行くはずなんだ。

そうなれば、よっぽど察しの悪い人じゃない限り、「緑色の空」の一つ目の役割に気付くんだよ。

それが、もう一つの役割に関わってくるんだ。





杏はね、プロデューサーの口から聞きたかったんだ。

認められたかったんだよ。



――私はあなたを必要としています。



その言葉を聞きたかったんだ。

認められたくて、でもプロデューサーは杏をすぐ子ども扱いするし。
プロデューサーに会えなくて寂しい、って告白紛いの言葉まで言ったのに。



悪かったって? 今さらだよ。

でもね、プロデューサー。

プロデューサーは既に、その言葉を杏に伝えてるんだよね?

だって、そう思ってもみなきゃ、会う理由なんてわざわざ作らないでしょ?



だから「緑色の空」は、その言葉――私はあなたを必要としています――という言葉を伝える役割も担ってたんだよね?





……沈黙は肯定だよ?

あのさ、プロデューサー。

ちょっとさ、婉曲的すぎるんだよ。

杏、気付くのに半年かかっちゃったよ。

もっと真っ直ぐ言葉にしてくれればさ、杏もプロデューサーも傷つかずに済んだのにね。



杏たち、似てるんだよね。

そんなに似てないって?

……杏ね、プロデューサーが何も言ってくれないからさ、ずっと杏の一方通行だと思ってたんだよ。

杏はこんなにプロデューサーの方を見てるのに、プロデューサーは杏に目もくれない。

そう思ってたんだよ。

違ったんだ。



最初から、「緑色の空」のときから、ずっと杏を見てたんだね。





プロデューサー、言ってたじゃん。

――俺のことなんか、目覚まし時計程度にしか思ってなくて。

あれだってそうだよ。



プロデューサーはあのときまでずっと、プロデューサーの一方通行だと思ってたんだよね。



ほら、似てるでしょ。

杏、ずっと気が付かなかったよ。

お互いがお互いを誤解してたんだ。

全く、大人はずるいよね。

そんな本心も隠しちゃうんだから、さ。



ね、プロデューサー。

「緑色の空」なんて道具に頼ってまで、苦痛を味わい続けるぐらいならさ、嘘なんて吐かなきゃいいのに。

今回はたまたま杏が察せたから良いけど。

次があるなんて思っちゃだめだよ。



だから杏はね、「緑色の空」を捨てるよ。







緑色の空。



あれって、駐車場の、空車のマークでしょ?







……合ってるよね?

うん、良かった。

ほんと、ずるい問題だよね。

漢字で書けばどっちも空だけどさ、読み方としては「ソラ」じゃなくて「カラ」の方が正しいじゃんか。



さて、と。

これでもう、「緑色の空」は使えなくなったよ。

杏たちを繋ぐ最終兵器は、晴れて粗大ごみになったんだ。

これが杏の選択だよ。

プロデューサー。

これは誰かさんの受け売りだけどさ。

言葉にしなきゃ、分からないんだよ。

ね、そうでしょ?



プロデューサー。









青色だ。

彼の目には青色が映っている。

私には、青色が映っているように見える。

吸い込まれそうな青。

世界中の青という青を集めて、ひとつにしたような群青。

遠くから眺めた海のような、近づけば消えてしまう青色。

私はその正体を知っている。



その青は、本物の彼だ。



例えばそれは、杏から、アイドル双葉杏を抜き去って残る、本物の私のようなもの。

誰もが心に住まわせている、隠された本性。

プロデューサーから、ひとりの社会人として、ひとりの大人として生きる彼を取り除いたときに残る、もう一人のプロデューサー。



彼はかつて、こう言っていた。

炎と空と人の一生は似ている。

青に始まって、赤を経由して、黒で終わる。



青色。



それなら、本物の彼は。





大人じゃなくて、子供だ。

彼は、大人としての自分と、子供としての自分を同居させているのだ。

杏と同じなんだ。

私たちは、どこまでも似ていたんだ。

子供と大人の中間にいるんだ。

中途半端な存在なんだ。

最初から、ずっとそうだった。

全てを真っ直ぐに言葉にできるほど無垢じゃない。

でも、全てを完璧に隠し通してしまえるほど、強くも賢くもない。

だから、時には嘘を吐いて、時には間違えて、そうやって進んできた。



私の世界の色は、何色だろうか?

ふと、そんなことを思う。

青でも赤でもない。

何色でもない。

いや。

何色にだってなれるんだ。

無色透明のプリズムが、無数の色を映し出すように。














あれから二年が経過した。
大学生になった私は、少しだけ地に足を付けた格好をするようになった。

変わったことといえばそれぐらいで、アイドルはまだ続けているし、身長は相変わらずのままだ。
プロデューサー、すなわち私の元プロデューサーは、私以上に変化がない。
社会人なんてそんなものだ。
でも、人は小さな変化に気付きにくいと言うから、彼は彼で少しずつ変わっていっているのかもしれない。

私だってそうだ。
自覚がないだけで、刻々と変化していっているに違いない。



大人になるというのは、背負う責任が増えることだ。
散々聞かされたそのフレーズ。
私はその言葉を聞くたびに、憂鬱な気分になる。

責任。
嫌な言葉だ。
出来ることなら、何も背負わずに生きていたかった。

左手にうさぎのぬいぐるみだけ握って、一切の重たい荷物を持たずに、宙を泳ぐように生きていたかった。
でも、そんな生き方は机上の空論だ。
初めから分かっていた。





――目の前には、無数の選択肢が転がっている。

どれを選んでもいいし、何も選ばないという選択肢ですらちゃんと目の前に落ちている。
どれを選んでも、選択の結果として、当然のように責任が付きまとう。
そのうち正解はひとつかふたつ程度だし、何を選ぼうが後悔することになる場合だってある。



でも、だからこそ。

選ばされるんじゃないんだ。

選ぶんだ。

選んで、無数の責任を背負って、時に後悔して、時に過去の自分を恨んで、そうやって生きていけばいい。

大丈夫。

人は後悔できるようなつくりになっている。



何色だっていい。

青色でも、夕焼けのようなオレンジ色でも、一点の濁りもない白だっていい。

夜明けのような黄色でも、太陽の沈みゆく瞬間の藍色だって許される。

空は緑色だっていいし、世界を真っ赤な嘘で塗りたくったっていい。



君の世界に色を塗るのは、君自身なんだ。




終わりです
お付き合いいただきありがとうございました


よかった

読みごたえあったわあ
クイズの答えは目から鱗w


気が向いたので少しだけ過去作の話をさせてください。

だいぶ前の過去作 高森藍子「終末旅行」
高森藍子「終末旅行」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1499442756/)

ちょっと前の過去作 モバP「ハッピーハロウィン!!! イヤッホォォォォウ!!!」
モバP「ハッピーハロウィン!!! イヤッホォォォォウ!!!」 - SSまとめ速報
(https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1541309987/)

などを書いてます。良ければそちらもよろしくお願いします。

おつ

おつおつ
最高やんこんなの
やっぱり杏がナンバーワン!

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