渋谷凛「これは、そういう、必要な遠回り」 (50)
■ 一章 不在
「申し訳ございませんが、部署をお伺いしてもよろしいですか」
とある芸能プロダクションを訪れ、受付で目的の人物を伝えたところ、返ってきたのはそんな言葉だった。
初めは、伝える情報があまりに少なかったせいで、部外者である私が関係者もしくはアポがあるかどうかの確認のために聞き返されたのだと思ったが、該当の部署と役職を伝えても、受付の女性は首をかしげるばかりであった。
最終的に受付の女性は「少々お待ちくださいませ」と頭を下げ、どこかへ内線で連絡をとり始める。
「お忙しいところ失礼致します。芸能課に――様という……はい、お客様がお見えで……あっ、はい。……はい。確認致します」
ことん、と内線電話の受話器が置かれる。
「お待たせ致しました。……その、――様なのですが、現在そのような者は在籍しておらず……」
「えっ」
そんなばかな、と声が漏れかけるのをすんでのところで押し留める。
異動だろうか。
いや、まさか。
あの部署以上にあの男の能力が発揮される場所など早々ありはしないだろう。
ということは。
「お客様のお尋ねの方かどうかは存じ上げず申し訳ございませんが、同じ苗字の方は昨年度で退職なされた、とのことでございます」
頭上に雷が落ちたような気がした。
一瞬、わけがわからなくなって、数秒経ってようやく脳が理解をし始める。
やっとのことで意味が呑み込めた私は、ただただ呆然とした。
「退職……」
目の前が真っ暗になる、というのはこういうときに言うらしい。
しかし、いつまでも受付前で立ち尽くしていては迷惑極まりないのも事実。
目的の人物がいない以上は、ひとまず退散するしかなさそうだった。
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受付を後にして、そのまま建物を出る。
訪れた芸能プロダクションの敷地からしばらく離れた後で、すぅと息を吸い込み鬱々とした気持ちを最大限乗せて大きく吐き出した。
ため息にしてはやや盛大なそれを吐き終わって、空を見上げる。
やわらかそうな雲がひとつ、ふたつ浮かんでいるほかは水色に澄み渡り、太陽は暖かな日差しを届けている。
手がかりが何もなくなってしまったなぁ。
目的の人物に独力で会うための手がかりが何一つ残されていないことに気付いて、項垂れる。
さて、どうしたものかなぁ。
思考を巡らせるも、当然だが良い案は浮かんでくる気配はない。
実は私は、先程の芸能プロダクションの所属アイドルとして契約をしていたことが、ある。
もちろん所属していた期間は短い(芸能人の人々が平均してどれくらい芸能界で活動するのか、というのは定かではないが、きっと私の所属していた期間というのは短い方なのだろうと思う)けれど、確かに私はほんの二、三年前まであの芸能プロダクションの所属アイドルであった。
そして、今日私があの芸能プロダクションを訪れたのは、とある人物に会うためだった。
その人物とは、かつての私の相棒とも呼べる存在。私を担当していたプロデューサーだ。
自称するのも変な話であるが、彼と私の仲と言えばそれはもう以心伝心の領域にあったと言ってもいいくらいで、お互いがお互いに絶対的な信頼を寄せていた。
そんな彼に支えられながら、私は華々しくデビューを果たし、その後も数多のライバルたちと切磋琢磨しつつトップアイドルへの道を駆け上ったものだ。
きっと名前を聞けば誰もが分かるようなタイトルもいくつか手にしてきたし、アイドルとしての私はそこそこに成功していたはずだ。
なんていう、栄華の絶頂とでも言えた時期に、私は引退を宣言しステージを降りた。
それがアイドルとしての私。
アイドル渋谷凛の幕引きだった。
私があの芸能プロダクションを去る日の、担当プロデューサーの泣き顔は今も記憶に新しく、ぼろぼろと涙をこぼし「寂しくなる」と小さく呟いた彼の言葉は、まだ、残響している。
さて、ここからがようやく本題。
私が彼を尋ねた理由。
それは、単純に連絡がとれなかったからである。
加えて、連絡をとろうと思ったのはアイドル時代にお世話になったことのあるロックバンドの公演のチケットをもらったからで、同じく彼もあのロックバンドの人たちとは面識があるはずであるので、一緒に行く相手に丁度いいかと思ったのだ。
しかし、久々に送ったお誘いのメールは数秒と経たずに自動送信によって送り返され、該当のメールアドレスはどこにも存在していないことを告げられた。
次いでかけた電話も同じような結果だ。
彼の使用していた社用携帯は所謂ガラケーであったので、数年経てばスマートフォンに変わっているのかもしれない。
その時点まではそれくらいの認識であったのだが、いざかつての職場を尋ねてみたのが、この始末だった。
二度目となる、ため息を吐いた。
肩から提げた鞄の金具をぱちんと外して、開く。
件のチケットを取り出して、公演の日程を再確認した。
タイムリミットは残り二週間というところまで差し迫っていた。
さて、どうしたものか。
強行的な手段はいくつか思い付くけれど、そこまでするのもなんだか変な話、というよりもあまり気が進まない。
なぜかと言うと、悔しいからだ。
向こうは私の携帯電話番号もメールアドレスも知っているはずで、退職したならしたで連絡を寄越すのが筋というものだろう。
というか、私ならば、そうするし、私はそうして欲しい。
欲しかった。
アイドルを辞したあとも個人的な付き合いとして何度か食事もしたし、近況報告のような電話やメールだってあった。
彼のことは少し年齢の離れた友人のように思っていた。
それだけに、今回のことは裏切りに感じてしまう。
もちろん、私も私であることは重々承知の上で。
少なくともひと月に数度は来ていた彼からの連絡がぱたりと途絶えた時点で私も何かを察するべきであったし、すぐにあのプロダクションに確認をしに行くべきだったのだろうと思う。
しかし、しかしである。
このような縁の切り方はあんまりではないだろうか。
そう思わずにはいられない。
自分の抱いているこの感情が怒りなのか、悲しみなのかは判別がつかないけれども、その他に悔しいという思いが含まれていることは断定できる。
そう。
私は悔しいのである。
あれだけ仲が良かった相手に、相棒とまで呼んだ相手に、何年もの間二人三脚で仕事をしていた相手に、一方的に縁を切られたことが。
なんとなく、頭の中の整理がついて、息を吐き出す。
今度のは、ため息ではなかった。
プロデューサーは、あの男は、忘れている。
自分の担当していたアイドルがどれだけ負けず嫌いで、諦めが悪いかを。
○
決意が固まったあとの私の行動は迅速だった。
自宅へと戻ったあと、まず行ったのは母にしばらく修行を中断させて欲しいと頼むことだった。
修業とは、家業である花屋の手伝いのことで、私は半年ほど前からより実践的な手ほどきを両親に受けている。
仕入れのこと。競りでの見極め方。経営のこと。父と母が花屋として培ってきた技術と知識の全てを吸収するべく、修行と称してこの半年間取り組んできたのである。
それを中断させて欲しい、と私が言ったとき、母は一瞬驚いたような顔をして「……案外、早かったわねぇ」と感慨深そうに呟いたので、慌てて訂正をした。
きっと母は、私が独立する気だと思ったのだろう。
隠すことでもないか、と正直に理由を話すと母はこれでもかというくらい大声で笑い、目に涙を浮かべながら「いいわね。それ」と言った。
そのついでに「うちの自慢の娘を袖にするなんて、良い度胸してるわ」とからかってくるのは、無視で返す。
そうして、しばしの間の自由を手にした私なのであった。
自室の壁に貼ってあるカレンダーに、赤いペンで丸をつける。
丸をつけた日は、招待されているライブの前日だ。
それは、自分で自分に課したタイムリミットだった。
この日までに、私がかつての担当プロデューサーを見つけることができなければ私の負け。
あまりに一方的な勝負であり、二週間以内にあの男に会うことができたとして、それが何にもならないことはわかっている。
関係を断った相手と再開したところで迷惑なだけだろう。
なんていう思いが浮かばないではなかったけれど、最低限理由を話してから離れて欲しい。
私を突き動かすのはそんな子供のわがままじみた衝動だった。
といった葛藤の末に決め、自分に課したのが先程のタイムリミットで、さらにもう一つルールを課すことにする。
私だけの力で再会すること。
かつての同僚アイドルやプロダクションの社長に頼めばきっと、彼の足取りは労せず掴めるであろうし、連絡先も容易に手に入ることだろう。
けれども彼は私に退職後の足取りを連絡しなかったわけで、私と会いたくない、もしくは会うことが憚られる理由があるのではないか。
つまり彼との再会を望むことは迷惑でしかない可能性が高い。
故に、タイムリミットとルールを設けた。
ここまでが建前。
本音は、私にもできないわけがないと思ったのである。
あの男は、この人だらけの都市で偶然私を見つけ、スカウトしたのだ。
彼にできて私にできないはずがない。そういう、根拠のない自信があった。
○
自室の収納ケースをひっくり返し、アイドル時代に使用していたスケジュール帳を三冊、つまりは三年分取り出して、再び家を出た。
最初に向かう場所は不思議と、悩むことなく決めることができた。事務所の系列であるレッスンスタジオから、徒歩で数分の小さな喫茶店だ。
そこは私がアイドルであった頃に、よく担当のプロデューサーと他愛もない話であったり、お仕事の打ち合わせであったりを繰り広げた場所である。
まずはその喫茶店で、これからどういう日程でどこを探していくのかなどの計画を立てる。
そう決めた。
○
喫茶店に入り、席に通されるのと同時にコーヒーを注文し、早速今後の方針を決めるため、持ってきた荷物を机上に広げた。
来るまでに購入したメモ帳と、アイドル時代のスケジュール帳が三冊。
さぁ、何から手を付けたものか。
まずはアイドルとなって初めての年に使っていたスケジュール帳をぱらぱらとめくる。
そして四月のページを開いて、気付く。
とある日付、数年前の今日に、控えめな字で『スカウト』と書かれていた。
そしてその翌週にも、控えめな字で『スカウト』と書かれている。
ああ、そういえば一回目は今日だったか。
すっかりと忘れてしまっていた。
アイドルであった頃は、この日が来るたびに「スカウト記念日おめでとう」なんて言って、プロデューサーがケーキを買ってくれていたことを思い出して、口角が上がる。
ちなみに、どうでもいいことであるが、翌週も同じように、彼は「スカウト記念日おめでとう」と毎年楽しそうに祝っていた。
なぜ二回もスカウト記念日があるか。
それはいろいろとワケありなのだが、端的に言えば私は、アイドルに二回、スカウトされている。
もう何年も前の話だ。
当時、高校に入学したばかりだった私は数奇な縁から芸能界への招待状を二度、受け取った。
一度目は当然、断った。
あまりにも現実味がなかったし、何よりも自分はそんな柄ではないと思ったからだ。
しかしながら執念というのは恐ろしいもので、この広い東京の街で一度偶然会っただけの私を探し出し、二度目のスカウトを行った男がいる。
それが私を芸能界に引き入れた張本人であり、芸能界での私と共に歩んだあの男、プロデューサーである。
詳しく語れば長くなるが、私が彼を探してやろうと思った理由を理解してもらうためには避けては通れない。
一度目のスカウトから順に話すとしよう。
■ 二章 体験入部
その夜はひどく冷え込んだ。
桜の時期に寒さが戻ってくることを花冷えなどというらしいが、まさにそれで、堪らず着ていたカーディガンのポケットに両の手を突っ込んだ。
はぁー、と息を吐けば白く濁るだろうかと考え、熱を思い切り込めて息を吐き出すも、当然だがそれは空振りに終わる。
携帯電話を見れば時刻は午後九時少し前であった。
駅前の雑踏を軽く眺める。働いている人たちにとっては休日前の金曜日は心躍る曜日であるようで、いつにもまして賑やかだった。
まぁ、学生である私も変わらないのだけれど。
というのも、先ほどまでクラスの友人に誘われ、カラオケに来ていた。学校終わりにお店に入り、それから今まで歌い通しであったので、心地よい疲労感が私を包んでいた。
余韻に浸っていたいのは山々だが、早く帰らないと両親(特に父)が心配する。
油を売っている暇はあまりない。
もちろん、今日の帰りが遅くなることは事前に伝えてあるし、愛犬であるハナコの夜の散歩は母に頼んである。
それでも心配をしてしまうのが親というものである。
どうやらそうらしい。
最近になって私はそれを理解した。
だから、できるだけ早く帰るに越したことはない。
人波に混ざって、駅の方向へと歩き出す。
制服を着ているというのにニコニコとして居酒屋さんへと呼び込みをかけてくるお兄さんたちをするすると避けるのも、すっかり慣れたものだ。
学校指定のローファーを鳴らし、来週は何か必要な提出物なんかはあったっけ、なんてことを考えていると、怒声が飛んできた。
威圧するような、あまりに大きなその声は、初めは私に向かって飛んできたのだと思ったけれど、周囲にそんな声を発している人間はいない。
立ち止まり耳を澄ませると、どうやらそれは一つ先の曲がり角から発せられているらしいことが分かった。
覗いてはいけない。
無用な野次馬根性で私まで危険な目に遭うことはない。
頭では理解しているのに、その曲がり角を通り過ぎる際に、横目で見てしまった。
ガラの悪い男の人が二人。
ビルの壁に押し付けられている男の人が一人。
オヤジ狩り、というやつだろうか。そんなような言葉を昔にテレビで聞いたことがある。
ひ弱そうなサラリーマンを狙い、脅し、時には暴力的な行為をして、金品を巻き上げる。
許せない、と思った。
けれども私がここで出て行ったところで、何の役にも立たないことは明白で、自分の無力さに嫌気がする。
ごめんなさい、ごめんなさい。
心の内で唱えながら、足早にその場を離れるしかなかった。
怒声からは遠ざかっていっているはずなのに、その全てがくっきりと聞こえ、私の耳にこびりつく。
知らない。
知らない。
私に何ができるわけでもないのだから、私は悪くない。
これは仕方がない。
自分に言い聞かせるように、念じるも、残念ながら罪悪感は一向に引いていく気配はなく、増すばかり。
このまま家に帰ったとして、両親にただいまを言って、お風呂に入って、あったかい布団でハナコと眠る。
なんていう、いつもどおりの日常に戻れるだろうか。
きっと今日、目を閉じ耳を塞いだあの怒声は、しばらく頭の中から消えないし、しばらくは嫌な後味が残り続ける。
唇を軽く噛んだのちに、小さく「よし」と呟いた。
先程の曲がり角まで一直線に戻る。
依然として壁に押しつけられている男の人の方を指さして、力の限り、叫んだ。
「ここです! ここで男の人が強盗に遭ってます!」
作戦は単純だった。
警察の人を呼んだ、というていで精一杯叫ぶ。
それだけだ。
全ては初手にかかっている一か八かの大勝負。
あの二人組が逆上してこちらに向かって来たら、もう打つ手はない。
さて、どう出る。
曲がり角の先の人物は不意を打たれ、ぽかんとしたのちに、こちらを見る。
あ、だめだ。
自分の策が甘かったことを痛感する。
彼らがこちらに踏み出して、通りを覗き込もうとしているのが、直感的にわかる。
あーあ。
余計なことに首を突っ込んだものだ。
不思議と、諦めがついているのが自分でもおかしい。
その刹那だった。
「お嬢ちゃん! もう大丈夫だから離れて! あとは警察の仕事だから!」
太く、鋭い声が飛来した。
曲がり角の先の二人組は、その瞬間に舌打ちをして、踵を返し路地の向こうに消える。
うそ。
なんとかなっちゃった。
少しの自失から我に返って、声が飛んできた方を見やる。
二十代前半くらい、だろうか。
それくらいの見た目のスーツ姿の男性が笑顔で立っていた。
当然、警察の人ではないだろう。
「なんとかなるもんだねぇ」
その男性が発した声が、さっきのものとは打って変わって雲がふわふわと浮かんでいるようなやわらかなものであったので、作り声であったことに気付く。
「はーい。お兄さんも災難でしたね。ほい、逃げましょう。ちなみに私は警察ではないので、通報するなら交番に早めに行った方がいいです」
私の前を素通りして、絡まれていた人に声をかけ、立ち去ることを促す。
そのあとに、私の方に振り返って「それでは、あの二人が戻ってきたら怖いので、とりあえず逃げましょう」と言った。
わけがわからないまま、「こっち!」と彼が言うままに、駆ける。
革靴とスーツという、およそ運動には適していない格好にもかかわらず、それなりの速度でぐんぐん進んでいくものだから、私もついていくのに必死だ。
やがて到着したのは、駅に程近い小さな公園だった。
肩で息をしながらベンチに腰掛ける男性に続き、私もその隣へ少し間を空けて座る。
「いやー、走った走った。ここまで来れば大丈夫でしょう」
彼は手に持っていた鞄を開いて、その中から真っ黒な長方形を取り出す。
公園の照明を鈍く反射しているのを見るに、革製の何かだ。
初めは小銭入れかと思ったが、彼が一枚の紙を引き出すのを見て、名刺入れだとわかる。
そして、彼は引き出した一枚の紙をそのまま私に差し出した。
「一応、自己紹介? というかなんというか。怪しい者ではないですよーっていう、その、あれです」
語彙力低めに渡された名刺を受け取り、手元に視線を落とす。
そこには芸能プロダクションの名前と、部署と役所と、おそらく目の前の男の氏名やらメールアドレスやらが記されていた。
「それにしても、だ。勇気ありますね……えっと」
「あっ、渋谷です」
「渋谷さん。見たところ、高校生でしょう?」
「はい。……その、無茶、でしたよね」
「うん。結構ね。僕が君のご両親なら怒るかなぁ。でも、確かに君の勇気で助かった人はいたわけだし、動かされた人間もいたんだから、僕が何か言う資格はないです」
「動かされた……?」
「僕のこと。だって、いつもだったら、ほら、気の毒だなぁとは思うけれど、首を突っ込もうとは思わないですから」
「あー」
「ただし、ああいうのはお勧めしないです。ホントにね。やめた方がいいと思います。危ないから」
「…………はい」
怒られているわけではないのに、彼の声も怒っている調子ですらないのに、すごくすごく怒られている感じがして、どうも居心地が悪い。
同時に、この人がいなければ、私まで危険な目に遭っていたかもしれないと思うと、途端に怖いことをしてしまったのだ、という実感がわいてくる。
「お説教みたいな真似してごめんなさいね。見ず知らずのオジサン相手に説教されても楽しくないですよね」
とてもオジサンを自称するような年齢には見えないが、私のような年齢の者からしたら社会人の男性は総じてオジサンと称される、との配慮からだろうか。
それとも見た目以上に実年齢は老けているのかもしれない。
なんて、どうでもいい考えが浮かび始めかけているのを、無理やり中断する。そんなことを気にするより、言うことがあるはずだった。
「いや、えっと、助けてくれてありがとうございました」
「あー。お礼は言わなくていいですよ。こっちもこっちで、自分のために渋谷さんに助け船を出したようなものですから」
「え」
言っている意味が分からず、首を傾げる。
「名刺、見てくれました?」
「はい」
「俺ね、芸能プロダクションでプロデューサー、なんてお仕事をやってるんですけれども、その、ただいま絶賛担当する子、つまりはプロデュースするアイドルを探してる途中でして」
言われて、再び渡された名刺を見る。
プロデューサー、という仕事はなんとなく聞いたことはあれど、具体的にどんなお仕事をしているのかはぴんと来なくて「はぁ」と返す以外できなかった。
「それで、ここからが本題。渋谷さん、アイドルになりませんか?」
「えっ。……えっ?」
「冗談とか、そういうのではないです。本気で渋谷さんをスカウトしています」
「……私を、アイドルに?」
「はい。臆することなく叫ぶ声に耳を奪われ、凛とした姿に目を奪われました。端的に言えば、一目惚れです。でも、本気で渋谷さんには才能がある
と思う。だから、アイドルになりませんか」
「……えー、っと。その……え、っと。……ごめんなさい」
「…………だめですか」
「……その、はい。ちょっと、そういうのは考えてないし、向いてない、と思うので」
「………………そうですかー」
彼はひどく肩を落として、ため息を吐く。
「だめなら、仕方ないですね。お話し聞いていただいてありがとうございました。また、気が変わったら名刺の電話番号にお気軽に電話してくださいね」
「はい、その、すみません」
「こちらこそご無理を言って申し訳ないです」
案外、諦めが良いのだな、と思った。
こういうのはひたすら食い下がって来るものだと思っていたので、少し拍子抜けしてしまう。
もちろん、食い下がられても困るのだが。
「でもでも、諦めないので! また街で見かけたらアプローチしてもいいですか?」
前言撤回。
めちゃくちゃ諦めが悪そうだった。
肯定も否定も返さず、軽く「あはは」という愛想笑いで以て封殺して、ベンチから立ち上がる。
「それじゃあ、えっと、今日はありがとうございました」
「ううん。遅くまでこちらこそごめんなさい。暗いし、気を付けて。駅までお送りしますね」
「あ。大丈夫です。すぐそこなので」
「……言われてみれば、そうですね」
「はい。……それでは」
「ええ。じゃあまた」
また?
彼の最後の言葉が引っかかりフリーズする。
けれども、突っ込んだら相手の思う壺な気がしてならないので、流すことにした。
絶対、こいつは私のこと探し出して会いに来るのだろうな、という最悪な確信があった。
○
明朝、がらがらがらがらと響く重い音で目が覚めた。
寝過ぎてしまった。
アラーム、設定していなかったっけ。
もぞもぞと枕元を探るも、携帯電話は見当たらない。
昨日は帰宅してからお風呂に入って、そのあとすぐに疲れて眠ってしまったので、あまりベッドに入ったときの記憶があまりない。
まだ閉じる気でいる瞼を気力で押し上げて、上体を起こす。
時計を確認せずとも、時間はなんとなく察しがついた。
がらがらというさっきの音は、花屋になっている自宅の一階のシャッターの音で、シャッターが上がるということは開店の三十分くらい前ということだからだ。
視線を自室の床の上に移す。
中央に配置してある犬用ベッドの上を見れば、そこにはもう愛犬であるハナコの姿はなかった。
あー、しまった。
お母さんがご飯あげてくれたのかな。
申し訳ないな。
完全に起き上がり、自室を出る。
階下のリビングに行くと、そこには母とハナコがいた。
「おそよう」
「……うん、ごめん」
「ハナコのお散歩、行ってあげてね」
「うん。ハナコもごめんね」
「珍しく疲れてるわね。昨日、お友達と何かあった?」
「んーん。何にもないよ、ただ帰り道でちょっと、いろいろあってさ」
「危ない目に遭ってないでしょうね」
「うん。それは大丈夫。困らせるようなことも、私が困るようなこともないから」
「なら、いいんだけど」
「あとで詳しく話すよ」
「ええ。聞かせてね」
母との会話のあと、そのまま洗面所へ行き、顔を洗って寝癖を軽く直す。
いつもならこの時間には既に回っているはずの洗濯機を見れば、口を開けて沈黙していた。
おそらく、私が起きてくるのを待っていてくれたのだろう。
寝間着を洗濯機へと押し込んで、洗剤を入れ、スイッチを押す。
ごうごうと音を立てて動き出したのを確認して、私は洗面所をあとにした。
再び自室へ戻り、手早く私服へと着替えを済ませリビングへ行くと、「ようやくね」という顔をしたハナコがソファの上で大きく伸びをしていた。
「ごめん、ハナコ。おまたせ」
声をかけると「本当に待ったわよ」と言いたげに私の顔をじっと見て、それから軽やかにソファからリビングの絨毯の上へ着地した。
「散歩。行こっか」
散歩、というワードに反応してハナコは私のあとについてくる。
とてとて小さな歩幅の足を、全力で回転させて私を追いかけるハナコを従えて玄関に到着する。
スニーカーを履き、靴箱にかけてあるリードをハナコの首輪につけて、お散歩の準備は万全だ。
その証拠にハナコは弾けるような勢いで、花屋の店内へと躍り出た。
軒先で開店準備をしていた父は、猛烈な勢いで迫りくるハナコに気が付いて軽い驚きの声を漏らしたあとで、私に「おはよう」と言った。
「おはよ。散歩行ってくるね」
「ああ、気を付けて」
「うん。行ってきます」
いつもどおりの、簡単なやりとりを経て通りに出る。昨日の夜の寒さが嘘みたいに、暖かだった。
右の植え込みに行ったと思えば左の電柱へ駆け出して、と大忙しなハナコの歩調に合わせてのんびり歩いていると昨日あった事件なんて夢だったのかもしれないという気さえしてくる。
もちろんそんなわけはなくて、私の部屋の机上にはプロデューサーを名乗るあの男から手渡された名刺が置いてあるし、ローファーで全力で駆けた反動か、じんわりとした疲労がまだ足に残っているのだけれど。
でも、そう錯覚するくらい、穏やかな空気と時間が流れていた。
これは、昨日あのまま脅されている人を見過ごしていたら訪れなかった時間で、褒められたことではないのかもしれないけれど、それでも私は行動してよかったのだ、と改めて思うのだった。
さて、事情を話すと言った手前、母には昨日にあった出来事をある程度話さなければならない。
どこまでを伝えるべきか思案しているうちに、いつもの散歩コースをぐるりと回りきって、自宅である花屋の前に戻ってきていた。
お店に入り、ハナコのリードを外してやる。
かちん、という金具の音と共にハナコは店内を真っすぐに突っ切って家の方へと消えていった。
丁度、来ていたお客さんに軽く会釈をして私もハナコに続く。
「あら。凛ちゃん」
呼び止められ、振り返る。
よく見れば、来ていたお客さんは昔から懇意にしてくれている近所の人だった。
「あ。お姉さん」
「うふふ、凛ちゃんは上手ね」
「え? いや、そんなわけじゃ……」
この女性は、私が幼稚園の頃からお店で度々買い物をしてくれていて、その頃には事実、お姉さんであった。
それから十年の時が流れお互いに年齢を重ねたからと言って、早々呼び方なんて変えられるはずもない。
だから、私としてはお姉さんはお姉さんなのであるが、どうやらこの人はそんなことが嬉しいらしい。
まぁ、それならそれでいいか。
真面目に説明をするのも何だか変な気がして「いつもありがとうございます。ゆっくり選んでいってくださいね」と当たり障りのないことを言い置いて、自宅へと戻るのだった。
玄関で靴を揃え、リードを靴棚にかけて、洗面所で手を洗う。
その全ての工程で、足元をちょろちょろとハナコが動き回るので倍近い時間がかかるのも、いつもの光景だ。
リビングでは母がソファに腰かけて「お昼、何がいい?」と聞いてくるので「おいしいの」と返す。
「おいしくない方が珍しいでしょう?」
「うん。だから、なんでもいいよ、ってこと」
「なら最初からそう言ってくれたらいいじゃない」
「なんでもいい、って言い方はあんまり良い気しないかな、って」
「案外、難しい質問なのかもしれないわね」
くすりとほほ笑んで母は立ち上がる。
実際、この手の質問は難問だと思う。
冷蔵庫にどんな食材があって、どの程度の手間なら快く受けてくれるかなど、そういうことまで考えだせばキリがない。
「ああ、そうそう。昨日あったこと、今聞かせて頂戴」
忘れていなかったか、と若干の苦い笑みを浮かべつつ頷いて、キッチンに立ちエプロンを身に着けている母へと、私は向き直る。
「んー、と。昨日は学校が終わって、普通に友達とカラオケに行ったのは知ってるでしょ?」
「ええ。だから、お散歩お願いって連絡あったのは覚えてるわ」
「それで、カラオケに行って、フリータイムの時間いっぱいまでいて、そろそろ帰ろうかってなってお店を出て、友達ともそこでバイバイしたんだけど」
「うん」
「帰りにちょっとしたトラブルがあって……あ。ちょっと待ってて」
話を一方的に打ち切り、ばたばたと階段を駆け上って、自室の机上から一枚の紙を、昨日プロデューサーを名乗るあの男からもらった名刺を取って、再び階段を駆け下りる。
「これ、見て欲しいんだけど」
「名刺? 芸能プロダクションのプロデューサーさんのをどうして凛が?」
「実は帰り道で、スカウトされて。それでちょっと話を聞いてたら遅くなっちゃって、それでなんか気疲れしちゃってさ、家に帰ってお風呂入ったら電池が切れたみたいに寝ちゃったんだよね」
「それで、今朝はお寝坊だったわけね」
ふぅん、と声を漏らし手渡した名刺をまじまじと眺める母の様子を窺う。
大丈夫、何も嘘はついていない。
例の事件を隠すことは胸がちくりと痛んだけれど、終わったことであるし、話したところで余計な心配を招くだけなのは目に見えているから、これが最善だろう。
「それで、凛はどうするの? スカウト」
「えっ。ああ、断ったよ。その場で、きっぱりね」
「……なんだ。てっきり、アイドルになろうと思う、だなんて相談されると思って構えちゃったじゃない」
「まさか。だって、私だよ? そんなの柄じゃないってば」
「えー? そうかしら? 結構良いセン行くと思うんだけどなぁ」
「自分の娘だから、贔屓目で見ちゃうだけだよ」
「そうかなぁ? ……まぁ、でも、そういうことなら安心したわ」
「うん。でも、もう二度とないだろうね。アイドルにスカウトされるなんて」
「そう考えたら貴重な経験だったと捉えることもできるわね」
「そうかも。ふふっ」
〇
アイドルにスカウトされた一件以降の私の日常は、まさに平穏そのもので、高校生としての生活にも慣れ、級友とも打ち解け始め、私の青春は順調と言えそうだった。
そして今日も、最後の授業の終鈴が校舎に鳴り響く。
教壇に立っている現代文の先生は「じゃあ、キリも良いしここまでにしようか」と手についたチョークの粉を払っている。
あとはホームルームを残すばかり。
担任の到着を今か今かと待ち、学校から解放される瞬間を心待ちにする生徒たちで俄かに教室は浮足立つ。
現代文の先生が綺麗に黒板を消し終えて、教室を出るのとほぼ同時に担任の先生がやってきた。
上下をスポーツウェアに身を包み、首からは笛を提げて、手には学級日誌。
おそらく、担当していた体育の授業が終わるなり、私たちのもとへと来てくれたのだろう。
まだ数週間しか関わりがないけれど、なんとなく良い人なのだろうな、という気がしているし、周りの友人たちも「担任、アタリでラッキーだよね」なんて言っていたので、おそらくはそうなのだろうと思う。
そんな先生が、ぱちんぱちんと二回手を鳴らして雑談が飛び交う教室を鎮め、注目を促す。
たったそれだけでぴたりと静かになるのだから、すごいものである。
「ほい。今週も一週間お疲れさん。授業が始まってしばらく経つけど、もうみんな慣れたか? 俺の見てないとこで寝てたりすんなよ?」
お調子者の生徒へ軽く先生が視線を飛ばし、生徒もそれを受けてわざと動揺した素振りをしてみせる。
「俺からの連絡事項は、朝伝えた以外は特になし! 体験入部の期間は来週の水曜までだから、今日も体験入部に行く者は限られた時間を大切にな。あと、俺のバスケ部は大歓迎だ。特に渋谷、お前はタッパあるんだからバスケやろう。な?」
急に話題が私のもとへ飛んできて、一瞬驚いてしまったがすぐに「あはは」と愛想笑いを返す。
それ以上の追及は何もなく、胸をなでおろした。
なんて、和やかなホームルームを経て、先生の「来週も元気な顔を俺に見せるように!」なんてお決まりの言葉を以て、私たち生徒は解放される。
一目散に体験入部へと駆けていく者、教室に残って下校後の遊ぶ予定を賑やかに取り決めている者、みんなそれぞれ思い思いの方向へと散っていく。
私はと言えば、席に着いたまま立ち上がれずに、ぼんやりと校庭を眺めていた。
先生がホームルームで言ったことが気になって、帰る気にも友人たちとの談笑に交じる気にもなれずにいたのだ。
体験入部、それは部活動に本入部する前のお試し期間のようなもので、一年生の生徒たちは自分に合った部活動を見つけるために様々な部活を見て回る。
私も初めは様々な部活を友人と共に見て回ったものだが、結局「これだ」というようなものには出会えず、未だに決めかねていた。
「入学を機に、何か始めてみるのもいいんじゃない」なんて、母は言っていたし、父からも「何か始めるなら必要なものなんかは用意してあげるし、部活で遅くなるならハナコも代わってあげる。だからその辺りの心配をして可能性を狭めちゃダメだよ」とまで言ってもらっているので、何か決めなくては、という焦りだけが募っていた。
はぁ。
短く息を押し出して、再び校庭を見るともなく、眺める。
どうしたものか。
ぐるぐると堂々巡りの思案を続けていると、不意に背後から声を投げかけられた。
「しーぶやさんっ、今日は?」
「わ。えっ、今日?」
「どっか体験入部とか行かないならさ、うちらこれからまた遊びに行くんだけど、凛も来ないかなぁ、って話してたとこでさ」
「あ、そうなんだ。どうしようかな」
「先週、一緒にカラオケ行ったじゃん? んで、凛めっちゃ歌上手いのやべぇってみんなに言ったら、あの子らも聞きたい! って」
「ちょっと大げさに伝え過ぎてない?」
「ないない。ちゃんと事実をそのままに、魅了されたー! っつって」
「それ、大げさって言うと思うんだけど」
「またまたご謙遜をー。んで? 来るよね?」
目をばっちり開いて爛々と輝かせている様は、まるで瞳までもが「来るよね? 来るよね?」と迫ってくるようだった。
彼女は誰にでもこんな調子で、初めて会った時から一貫して明るい。
場の空気を読めないわけではなく、敢えて読んでいないふうでもあるので、なんだかんだしたたかではあるとは思うが、悪い子ではない。
というか、普通に一緒にいて愉快な友人である、とこれまた数週間の付き合いではあるが、既に私はそう感じていた。
「んー。今日はちょっと、パス……かな。また誘ってよ」
「えー、外せない用事?」
「うん。私の家、花屋って言ったでしょ? それの手伝いでさ、今日はお店番する約束しちゃったんだよね」
「あちゃー」
嘘をついて友人のお誘いをかわすのは罪悪感を覚えたけれど、今日はどうしても気が進まなかった。
体験入部が迫っているということもそうなのであるが、何よりの理由は先週と条件が一致しすぎているということにあった。
金曜日、放課後、カラオケ。
先週の苦い経験を思い出して、なんとも言い難い気持ちになる。
今日はおとなしく真っすぐ帰って、土日でゆっくり考えをまとめよう。
そう思って、鞄を肩にかけて席を立つ。
談笑しているクラスメイト達に「次は参加させてね」と軽く詫びて、教室を出て学校を後にした。
〇
学校最寄りの駅から電車に乗って、揺られること数駅。
乗り換えをしなければならない駅に到着する。
車掌さんのアナウンスが二度駅名を読み上げて、ぷしゅーという音を立てて扉が開く。
わらわらと電車の外へ出ていく人の流れに私も混ざった。
地方から来た人が往々にして迷子になるという、多くの路線が入り乱れるこの駅での乗り換えも、週に五回も利用したら慣れたもので、配置されているお店もなんとなく把握しつつあった。
なんとなく、こうやって大人になっていくのだという感じがして、自分で自分が誇らしくなりながら改札に定期をかざして、出る。
半端にどこにどんなお店があるのかを把握しているせいでクレープのお店などに足が向きかけてしまうが、気力で以て制し、目的の路線の改札を目指す。
そんなときだった。
背後から「あの」と声が投げかけられて、思わず振り返る。私に宛てたものでない可能性もあったけれど、なんだか振り返らなければならないような、気がしたのだ。
体を半分、回して背後を見やる。
そこには、スーツ姿の一人の男が立っていた。
まだ一週間しか経っていないのだ。
忘れられるはずがない。
例の一件で私の窮地を下心ありきとはいえ救ってくれたあの男、私をアイドルへとスカウトしたプロデューサーを名乗るあの男が、いた。
人違いを装うべく、咄嗟に視線を下げて足早にその場を去ろうとする。
しかし、どうやら完全に気付かれてしまっていたようで「待って」と追撃を食らってしまうのだった。
「……渋谷さん、ですよね」
違う、と言ってやるのは簡単だが、明らかにそれは苦しい。
私に取れる選択は全力で駆けて逃げ去るか、応対するかのどちらかしか残されていないみたいだった。
前者はもっとも楽で、手っ取り早い。
だが、この男に何らかの不都合がある可能性がある。
女子高生が全力で目の前から逃げていったとあれば、この男は周囲の人々に怪しまれてしまうかもしれない。
それどころか、場合によっては警察のお世話になることもあるかも。
一応は恩人であるので、それは避けたいところだった。
であれば、非常に不本意ではあるが、私が取れる選択は一つであるようだった。
「……そう、ですけど」
「ああ、良かった。駅のホームで電車待ちしてたら、入ってくる電車の窓から渋谷さんっぽい人が見えたもので」
停車前の電車とはいえ、それなりの速度は出ているはずだ。
そんな状況下で、この男は私を視認したというのか。もしかすると、化け物じみた動体視力の持ち主なのだろうか。
などと、突っ込みたいのは山々であったが、そうすれば話が長引くのは明白であるので、ぐっと堪える。
「それで、何か用ですか。アイドルの話なら、以前きっぱりお断りしたと思うんですけど」
付け入る隙を与えてはならない。
そう思って、冷ややかに対応を行うよう努めるとする。
「それはそうなんですが、でもでも、前回は詳しいお話もできませんでしたし、一度じっくりお話させていただけないですか」
申し訳ないけれど、そんな時間はないのだ、と伝えよう。
今度こそきっぱりと断って、私のことは諦めてもらおう。
決意を固めて、口を開く。
そのすんでのところで、視界の端に紺の制服に身を包んだ人影を認める。
頭にはこれまた紺の帽子があり、中央には金色のエンブレムが輝いている。
一目で、誰もが何者か理解するその存在は一直線に私と目の前の男のもとへとやってきていた。
放ちかけていた言葉を押しとどめ、数秒待ってみれば、現実は危惧したとおりになった。
紺の制服に身を包んだ人影、警察の人が私と男の前で足を止めた。
「失礼しますね。女子高生に絡んでいるスーツの男がいる、と通報を受けたもので」
私に不利益はないはずなのに、どきりと心臓が跳ねる。
その通報は何一つ間違いではないが、この男が気の毒な目に遭うのは本意ではなかった。
男はと言えば、まさに顔面蒼白と言ったような面持ちで、裁定が下るそのときを待っているみたいだった。
今、自由に動けるのは、発言できるのは私だけなのだ。
否応にもそう理解させられる。
数秒の逡巡を経て、胸中で「仕方がない」と呟く。
これで、貸し借りはナシにしてもらおうか。
「あの、この人は怪しい人じゃなくて。プロデューサーです」
脳内にある情報を必死で辿る。
この男のプロダクションはなんと言っただろうか。所属部署はどこで、名前は何であったか。
「プロデューサー?」
「はい。私はその、この人の担当アイドルで……と言っても駆け出しで無名なんですけど。……あっ、えっとシンデレラプロダクションって名前の事務所で」
我ながらよくもまぁこれだけするすると嘘が吐けるものだ、と内心で驚きつつ、警察の人の出方を待つ。
「ホントだね?」
「はい。たぶん、名刺とかは常に携帯してると思うので、確認してもらっても大丈夫だと思います。……ね?」
男に目配せをすると、彼は心底安心したような表情になって「ええ」と返し、懐から名刺入れを取り出し、恭しく警察の人に渡す。
「……うん。このお嬢さんの言ってることと一致するね。……でも、こんな往来で口論みたいなことはしちゃダメだよ。怪しむ人もいるし、今回みたいに通報されちゃったりするからね」
問題はない、と判断したのか警察の人はすんなりと引き下がってくれる。その後ろ姿が完全に見えなくなるまで見送った。
「…………はぁ。緊張した」
つい、心の声が漏れてしまう。
私は何も悪くないのに、嫌な汗をかかされた。
肩の荷が下りて、精神的な疲労感がどっと押し寄せる。
「その、助かりました。渋谷さん、頭の回転速いんですね」
「頭の回転?」
「だって、咄嗟にあれだけ対応できるの、すごいですよ。俺なんか焦りまくりで。…………ますます欲しいなぁ」
危く御用になりかけたというのに、まだ諦めていない往生際の悪さは呆れを通り越して感嘆するばかりだ。
「それで? どうせ、ここでテキトーにあしらっても、またどっかで会ったら今日みたいに声かけてくるんでしょ? なら、きっぱり断ってあげるから、しなよ。話、ってやつ」
全力で敵意を出して、突き放す気しかありませんよ、という演出をしてみる。
「あはは。それ、演技でしょう? 渋谷さん、礼儀ができない子ではないのはもう僕は知ってるのに」
図星を突かれ、頭にほんのり血が上る。
自分の頬に朱色がさしていることを察し、やけくそ気味に「いいから。話、するんじゃないの?」とまくしたてた。
〇
男の「それでは、お見せしたい書類もありますので、立ち話もなんですし」という言葉に素直に従い、私は駅からほど近い喫茶店にやってきていた。
通された席に着いて、お冷とおしぼりが運ばれてきたあとで男はメニューを広げる。
早く本題に入って欲しいものだが、喫茶店に入った手前何か注文しなくてはいけないのは私でも理解できる。
「何頼みます? 好きなもの頼んでいいですよ。助けていただいたお礼もありますから」
私に向けて開かれたメニューを左から右へとざっと眺め「アイスコーヒー」とだけ返した。
私の返事を聞いて、男は店員さんを呼び「アイスコーヒーを二つ」と注文をした。
「あと」
あと?
「ガトーショコラを二つ。以上で」
注文を終え、店員さんが下がって行ったあとで、男は私の方を見て、にっこりと笑む。
「どうですか。当たり、ですよね?」
「当たり、って?」
「ガトーショコラ、見てましたよね」
ぎくり、と音が聞こえた気がした。
確かに、メニューを向けられたときに、ガトーショコラの前で一瞬視線が止まったのは確かだった。
「まだまだ若造に見えるでしょうけど、観察眼には自信ありますし、それなりに優秀なんですよ? 入社したときに、師匠にみっちり鍛えられましたから」
「でも、私が食べたいと思ってるとは限らないでしょ? ただ視線が止まっただけかもしれないし」
「それは、そうですけど。でも、それ以外にも条件、そこそこ揃ってましたし」
「条件?」
「前回お会いした時も制服を着てらしたので、高校生なのはわかってましたし、一般的な高校の下校時間と今の時刻は一致します。そこから逆算したら、どこかへ寄り道してきた、ということはなさそうだ、と察しがつきますよね」
「まぁ、うん」
「であれば、簡単です。この時間は、お腹空くんですよ。おやつ、食べたくなって当然です」
男はいっそうニコニコを強めて、私を見据える。
ムカつくけれど、すべて当たりだった。
「渋谷さん、下のお名前はなんて言うんですか?」
「……凛」
「渋谷さんにぴったりな、綺麗なお名前ですね」
「……別に、アンタに褒められても嬉しくないよ」
「手厳しいなぁ。あ、ほら、来ましたよ。渋谷さんお待ちかねのガトーショコラ」
お待ちかねじゃないし、私が頼んだわけじゃないんだけど。
そんな抗議の声は男の耳には届かなかったようで、運ばれてきたアイスコーヒーに口をつけて「おいしい!」などと言っている。
それも、ムカつく。
「ガトーショコラ、めちゃくちゃおいしいですよ。これ」
一向に本題に入る素振りはなく、目の前でガトーショコラを頬張る男に遠慮をするのも、なんだかもう馬鹿らしい。
フォークを手に取って「いただきます」と小さく呟いて、ガトーショコラを口へと運ぶ。
確かに、おいしい。
けど、それがなんだと言うのだ。
こんなものでは騙されはしないから、と軽く睨んでやる。
男はそんな私の視線を気にすることなくニコニコを崩さないので、私も意地を張るのに疲れて、ひとまずガトーショコラに集中することにした。
そんなふうにして私は食べ終えて、フォークを置く。
それを見て、男も「さて」と言った。
ようやく本題に入りそうだ。
「小腹も満ちたことですし、順番にご説明、させていただいてもいいですか?」
さも私を待っていました、というような口ぶりに腹が立ったが、いちいち突っ込んでいては日が暮れてしまうので、大人しく無視する。
「じゃあ、まず簡単にうちの事務所についてと、もし仮に渋谷さんが僕のスカウトを受けてくれた場合の条件などその辺り、ご説明させていただきますね」
ぱちん、とスイッチが入ったように男は業務モードに移行して、てきぱきと、それでいて私にでも理解できるくらいわかりやすく、説明をしていった。
とりあえずは、この男が先ほど語ったそれなりに優秀である、というのは信じてもよさそうだった。
「……と、ここまででご不明点はございますか?」
「特にない……です」
自然と私も襟を正して聞いてしまい、冷たくあしらう姿勢は取り辛くなっていた。
「では、ここまでは渋谷さんがうちに所属してくれた場合の話をさせていただきましたので」
「……まだあるんですか?」
「僕の勝負は、ここからです」
「?」
「渋谷さんを落とさないといけませんから」
言って、男はおどけて笑んで見せるが、これまでに見せた笑みとは打って変わって、笑顔の奥から真剣さが覗いていて、私まで何だか気が引き締まってしまう。
「渋谷さん、ちなみに何年生ですか?」
「一年生、ですけど」
「というと、まだ入学したばかりなんですね。大人びてらっしゃるから、てっきり三年生、少なくとも二年生くらいかと」
「……」
「ああ、ええと。三年生だと受験の関係で、いろいろとこちらとしてもお願いの仕方を変えなければいけないし、二年生だと現在部活に入ってらしたら……とかそういう、それだけの話です。他意はありません」
「……それで?」
「部活はもうお決まりに?」
「……まだ、体験入部期間中なので」
「それは素敵です。今日、下校されていたところを見るに、まだ入部する部活などは決めかねてらっしゃるんですよね」
この程度の会話から、ぴたりと私の状況を当てられてしまった。
しかし、驚きを表情や声に出しては相手の思うつぼだと考えて、無言で通す。
「じゃあ、体験入部してみませんか。アイドル」
想像だにしない、言葉が飛んできた。
「体験入部?」
「ええ。契約とかそういうまどろっこしいのは置いといて、とりあえずレッスンを受けてもらって、合いそうであれば僕の担当アイドルになってもらえたら嬉しいな、なんて」
「……そんなのでいいの?」
思わず、素が出てしまうくらい、驚きだった。
「はい。そんなのでいいんです。それで、僕のこと信用できそうだな、と思ってもらえて、アイドルも続けていけそうだと思ってもらえたら、契約しましょう。その後のことは、二人で考えましょう。渋谷さんの親御さんの説得とか」
なんだか良い様に口車に乗せられてしまっている気がしないでもなかったけれど、心のどこかでまぁいいかと思っている自分がいる。
そして、私はこの男のもとでアイドルになるのだろうな、なんて漠然と感じているのだった。
■ 三章 同じように、同じ道を。
古い記憶を紐解いて、胸の辺りがぽかぽかとしてくるのを感じて、自然と口角が上がってしまう。
机上で白い湯気を立ち昇らせているコーヒーに控えめにミルクを垂らせば、たちまち白と黒とが混ざり合った。
それをひとくち含めば、心と同じように体もぽかぽかとしてくる。
ああ、そういえば。
喫茶店で打ち合わせをしたり、時には特に理由もなく二人して入ったりするのは、あの二度目のスカウトを受けた時が始まりだったのだなぁ。
今更ながら、自分が喫茶店という空間をなんとなく特別に思う理由がわかった気がして、少し嬉しかった。
そして、ますます彼を探し出してやらなければという思いが強くなった。
といっても、気持ちが増すばかりで何か手掛かりがあるわけではないのだけれど、そこはそれ。
まだこの一方的な勝負は始めたばかりなのだから、悲観していても仕方がない。
とにかく、動いてみなくては。
スカウトの文字が並んでいる四月から、スケジュール帳のページを一つ進める。
ほとんどの日にレッスンの文字が書き込まれていて、その下に小さく出された課題やら簡単なメモ書きやらが並んでいる。
ああ、そうだった。
そうだった。
ダンスレッスン、あまり得意ではなかったなぁ。
なんて、トレーナーさんの厳しい言葉を浴びながら毎日毎日、レッスンスタジオの床を鳴らしていた日々は、今となっては良い思い出だ。
同じように六月、七月、と一つずつページをめくっていく。
徐々に増えていくお仕事関係の予定や、規模の大きなライブなど、密度が増していったり季節ごとのイベントがあったりと小さな違いはあったけれど、出てくるのは楽しかったという感想ばかりだった。
もちろん、楽しいことばかりじゃなかったし、辛いことも嫌な言葉を見てしまって辟易としたことも幾度となくあったけれど、それでもやっぱり最後には楽しかった、と言い切れる自分がいる。
そうして、自分が過去に歩んだ道のりを辿れば辿るほど、その道を進む私の隣あるいは後ろ、時には前にはあの男の姿があって、改めて私の中で彼の存在の大きさを思い知るのだった。
ついさっき悲観していては仕方がないと決意したばかりなのに、早くも弱気になりかけている自分を叱咤し、スケジュール帳の中からよく通っていた場所を抜き出して、持ってきたメモ帳へリストアップしていく。
そこからさらに候補を絞り、この二週間弱の間に回りきれるよう簡単に計画を立てる。
そうと決まればすぐにでも行動しよう。
机上に広げた私物を鞄へと片付ける。
まだ残っているコーヒーに口をつけ、綺麗になった机上へと視線を向ければ、そこには『期間限定濃厚ガトーショコラ』の文字が躍っていた。
そして私は、店員さんを呼ぶべくベルを鳴らす。
〇
お会計を済ませて喫茶店を出た私は「やるぞ」という気持ちに満ち溢れていた。
提供されたガトーショコラは冠された濃厚の二文字に違わぬ甘さで、それでいてしつこさを感じさせない珠玉の一品であったことは、今は関係がないので置いておく。
今日訪れる場所はもう決まっていた。
それは、かつて通っていたレッスンスタジオだ。
もちろん、関係者でなくては入ることはできないし、怪しい動きをしていては警備員の人に目を付けられるか、最悪通報されてしまうのだが、そこは顔パスでなんとかなるのではないか、などと楽観的に考えていた。
その予想は見事的中した。
レッスンスタジオの正面をそのまますたすたと通り、受付に顔を出せば、そこには見知った顔の職員の人がいてくれたのだ。
「えっ、えっ、渋谷凛……さんですよね?」
「はい。お久しぶりです。お元気そうで安心しました。……っていうか、昔みたいに凛ちゃんって呼んでくれていいんですよ?」
「もう三年くらいになるかしら? 変わらないわねー。相変わらずかわいいわ」
「あはは。ちょっと近くを通ったので挨拶でも、って思ったんですけど、今日って誰か私の知ってる人……いたりしますか?」
「あら、そうなの。てっきり芸能界に復帰するのかな? なんて思っちゃった」
「それはちょっと考えてない、です。期待を裏切っちゃって申し訳ないんですけど」
「あ、気を悪くされたらごめんなさいね。言ってみただけだから。それで、えっと凛ちゃんの知ってる人だと、そうね。トレーナーさんいるわよ。青木さん」
「どの青木さんですか?」
「今日は慶ちゃんが見てるわ。慶ちゃん、すごいのよ? もうお姉さんたち顔負けで」
「じゃあ……ちょっと挨拶していきたいな。中、入っても大丈夫ですか?」
「ええ、もちろん。あ、でも一応入館証を首から提げてね」
「ありがとうございます」
「帰るときはまた声をかけてね」
「はい。また」
一礼して、そのままレッスンスタジオの中を進んでいく。
トレーナーの青木さんと言えば、私と時を同じくしてアイドルをやっていた子ならば知らない者はいないくらいの存在で、四姉妹で私の所属していた事務所のアイドルたちのレッスンを一手に引き受けていた超人たちである。
慶さんはその四姉妹の四女であり、自身のことをルーキートレーナーと称して明るく接してくれるなど、その物腰の柔らかさとしても、年齢が近いという意味でもトレーナーさんたちの中では一番話しやすかった人だ。
そんな彼女が今ではお姉さんたち顔負けと評されるのだから時の流れというのはすごいものだ、と改めて思う。
来客用のスリッパを履いて、それをぺたぺたと鳴らしながらレッスンスタジオの廊下を進む。
数年経ったとは言えど、慣れ親しんだ施設であるため、迷わずに歩き回ることができた。
なんとなく、慶さんがいるであろう場所に見当をつけて来てみれば、丁度レッスンの真っ最中であったようで、廊下にはスタジオの床とダンスシューズが擦れて鳴る甲高い音と、音楽が響いていた。
音の方へと耳を澄ませば、聞こえてきている音楽は私のよく知るものだった。
というか、私の曲だった。
少しばかりの気恥しさを覚えながら、音が漏れているレッスンルームへと忍び寄り、中の様子を窺う。
慶さんと指導されている子は二人、どちらも知らない子だったが、目的の慶さんは見つけられた。
レッスンを邪魔するわけにもいかないし、部外者が入っていくのもあまりよくないだろう。
そう思って、踵を返そうとしたところ、その瞬間、ルーム内で指示を飛ばしていた慶さんの視線がこちらへ向いた。
ばっちり私と慶さんの視線が交差する。
逃げ帰る、わけにはいかないだろうか。
いかないだろうな。
観念して、とりあえず曲が鳴り止むのを待った。
私の曲を、知らない子が踊っている。
なんとも不思議な光景だ。
ああ、そうそう。
そこのステップ難しいよね。
私もめちゃくちゃ怒られた。
なんて、指導されている子たちに共感しながらレッスン風景を眺め、やがて曲が止まる。
ルーム内の慶さんははきはきと通る声で「汗拭いて、給水。呼吸を整えたら再開します」と言って、その場を離れ、真っすぐこちらへ向かってきた。
がちゃり、とルームのドアが開いて慶さんが出てくる。
「凛ちゃん、ですよね?」
「みんなその反応、するんですね」
「みんな? お姉ちゃんたちにも会ったの?」
「いや、受付で。入館証をもらうときに」
「あー。お姉ちゃんたち今日はいないから、きっと残念がると思うなぁ」
「よろしく伝えてください」
「うん。それで? 今日はどんな用事?」
「ああ、ええと。特に用事と言うほどではないというか、たまたま近くに来たので、軽くご挨拶をと思って。それで受付で慶さんがいる、って」
「えー、じゃあわたしにわざわざ挨拶しに来てくれたの。嬉しいなぁ」
「ふふ、でもお邪魔しちゃったみたいですみません。すぐお暇しますね」
「邪魔なんてそんな。……あ」
「?」
「じゃあ、ちょっと手伝ってもらっちゃおうかな」
「手伝う?」
首をかしげる私をよそに、慶さんは「凛ちゃん、足のサイズ変わったりしてないよね? ――センチならダンスシューズの用意があるから」と言う。
私の靴のサイズなんかを数年経っても覚えてもらえていることにびっくりしつつも、勢いに押し切られ私はただ「はい」とだけ返事をしてしまう。
私の返事を受けて、慶さんは「じゃあこっちに」と隣の部屋に私を引っ張っていく。
そこはどうやらトレーナーの人たちの私物がある部屋のようで、靴棚にはダンスシューズがいくつか並んでいた。
慶さんはその中から一つを取り出して「履いてみて」と歯を見せる。
促されるままに足を通せば、ぴったりで、驚くほど足に馴染んだ。
ぎゅっと靴紐を結んで、立ち上がる。
右足を上げて靴裏を掌でなぞり、次いで左足も同じようにする。
そして、強く床へと打ち付けて、甲高い音を鳴らした。
慣れた、それでいて久しぶりに行うその一連の動作は、なんだか感慨深い。
足にぴったりとくっついて、同化しているような軽やかな履き心地、長らく履いていなかったスポーツ用のシューズの感触に、心を躍らせている私がいた。
「ぴったり、です」
「よかったー。じゃあ、行きましょう」
どこに、と聞きたかったけれど、その答えはわかりきっていたので、やめる。
手を引かれるままに廊下へ出て、やはりというかなんというか、先ほどのレッスンルームに連れていかれた。
「はい。休憩は終わり! この人は、特別ゲスト。滅多にないことだから、みんな盗める技術は盗んでね」
慶さんが両の手を鳴らして注目を集めれば、彼女の生徒であろう女の子二人は無言で立ち上がり背筋を伸ばす。
その光景だけで、慶さんがもう一流のトレーナーであることが察せられた。
「あ、あの。もしかして……渋谷凛、さんですか?」
私から見て右側の、明るい髪色の女の子がおそるおそる手を挙げ、口を開く。
左側の黒髪でショートヘアの女の子が小声で「ちょっと」と制しているのがなんだか面白い。
「うん。びっくり、したかな。二人ともシンデレラプロダクションの子だよね?」
「え、っと。はい」
「特別ゲストらしくて……というのも、私はさっき偶然来ただけなんだけど、まぁせっかくだし何か力になれるなら、お手伝いさせてもらってもいいかな」
「そんな、えっ、もったいないくらいです」
「ふふ、そんなに恐縮しなくていいよ。私、もう芸能人じゃないし」
「でも、渋谷凛さんは憧れで、雲の上の人で」
何を言っても恐縮しきりの二人は初々しくてかわいいけれど、慶さんはそれだけのために私を招き入れたわけではないだろう。
「それで慶さん。私は何したらいいんですか?」
「あ、何の説明もしてなかったよね。ごめんなさい。えー、っと連れてきといて今更なんだけど、凛ちゃんさっきの曲、まだ踊れる?」
「……たぶん」
「よし、じゃあこうしましょう!」
それから、慶さんが言ったことをまとめると、こうだ。
私を中央にして、その両翼に二人を立たせ、慶さんは通常どおり指示を出す。
らしい。
何か提案ができるわけでもないので、私もそれに従う。
軽く息を吐いて、全神経を研ぎ澄ませる。
正面の大鏡に映し出された自身の姿を見据え、慶さんの手によって音楽が始まるのを待った。
久しく、忘れていた感覚が蘇る。
慶さんの指先が再生ボタンに触れて、押されるまでの一瞬の動作がスローモーションで見えていた。
一秒に満たない静寂。
その後に蹴り出すような前奏が始まった。
疾走感溢れるこの曲は、当然ダンスも激しい。
この振り付けで、これだけ動かせてマイクへ綺麗に歌声を乗せろというのだから、プロデューサーもトレーナーさんも鬼畜である、と当時は思ったものだ。
でも、それだけに「できた!」となったときの達成感もひとしおだった。
失敗するたびに怒られて、間違えるたびに泣きたくなって、それでもやり遂げた。
そういう一つ一つで私は、アイドル渋谷凛はできていたのだということを今更になって、気付く。
数年越しに本気で踊るというのに、足は思ったように動いて、指先にまで命令がすんなりと通る。
自分の体をちゃんと自分が操縦していた。
やれ、と命令した指示が足に腕に指先に、首に、腰に、果ては表情にまで行き届く感覚。
私は、しばらく忘れていた楽しさに酔いしれた。
やがて、音楽が止まる。
どうしても、鈍ってるなぁと感じてしまうが、数年のブランクがある中では踊れた方ではないだろうか、とも思う。
「はい。お疲れさまでした。まず凛ちゃんに話を聞いてみようかな。凛ちゃん、何かある?」
「……んー。そう、ですね。十か所近く間違えたし、二人もそれにつられちゃってたから、私と踊ると悪い影響出ちゃわないかな、ってのがまず心配で」
「正直だなぁ。凛ちゃんは」
「あと、たぶん私、この曲踊りながら、前みたいに歌えないと思います」
「あはは。後輩の前なんだからカッコつけたっていいのに。でも、そういうところは相変わらず素敵だと思う。あとね、悪い影響はないよ、たぶんね」
「どういう?」
「二人共、今までで一番良かったよ」
慶さんの視線が私から、女の子たちに移る。
「凛ちゃんが前にいたことで意識がいつもと違ったのかな。二人共ね、ただのダンスじゃなくて、表現に昇華できてた」
ね、と再び慶さんがこちらを向くので、頷く。
私は来るときに盗み見た一度、それも少しの間だったけれど、あのときよりも格段に私の後ろで踊る二人はなんというか、いきいきとしていた。
「その理由はたぶん、トレーナーの私より、表現者としての経験がある渋谷凛先輩に聞くのがいいと思う」
またしても急にこちらに振られて戸惑ってしまうが、慶さんが伝えようとしていたことはなんとなく理解ができた。
「えー、っと。ダンスってさ、それを専門にしてるプロの人がいるよね?」
言葉を投げかければ、二人は神妙そうに頷く。
「歌にしてもそうで、歌うことだけを専門にしてる人がたくさんいる。そんな中で、私たちアイドルって結構特殊な存在だと思ってて。でも、私はそのどれも負けたくなかったんだよね。悪く言っちゃえば、負けず嫌いで頑固なだけなんだけど。自分より上手な人がいるのを仕方ないと思えなかったんだ」
真剣な面持ちで私の話を聞いてくれる二人に向けて、一拍置いて「だからね」と再び口を開く。
「せめて、届けようと思ったんだ。そのときそのときの、全身全霊を。……でね、ここからはたぶん、の話なんだけど。今日もそうだったと思うんだよね。もう随分前に引退しちゃった私でも、何か二人の糧になれたらって考えて、でもよくわからなくて、とりあえず全力を尽くそう、って思ってやってたんじゃないかな」
話しながら、自分の考えていたことをまとめて言語化してみれば、なんとも抽象的な結論になってしまったが、きっとこれが事実なのだと思う。
慶さんに視線を送れば、彼女は頷いて、笑う。
「うんうん。二人も気付いてると思うんだけど、凛ちゃんのダンスは正直、所々ガタガタだったでしょ?」
なんとも辛口の評価であるが、間違っていないから異を挟むことなどできようはずもない。
「でも、すごかったと思うんだよね。技術的に、じゃなくて、表現としての力が。気持ちが乗ってる、としか言いようがないんだけど。もちろん、それをすぐに二人でもやってみせろ、なんていう気はない。一朝一夕に真似ができることでもないから。ただ、二人にはさっき見た光景を忘れないで欲しいと思います。きっと、あの光景は将来的に二人の表現の幅を増やす助けになってくれるので」
二人は大きく「はいっ」と声を揃えたあと、口元を引き結んでいた。
慶さんさんの言うように、何か力になれたのだろうか。
そうであるならば嬉しい限りだが、どうにもそんな気はあまりしなくて、もやもやとしてしまう。
そんなところへ慶さんがやってきて、私の肩を押し二人の前へ一歩進ませる。
「それじゃあ、貴重な経験をさせてくれた凛さんにお礼!」
ぴしゃりと慶さんがそう言えば、二人は深々と頭を下げてレッスンルームに響き渡るくらいの声で「ありがとうございました!」と言った。
何かを教えられた気もせず、お礼を言われるほどのことができたとも思えなかったので、どうにも受け取り辛い感謝だったが、ここで否定しても良いことはないと判断して、私はそれを受け取った。
そして、いくら私がかつての関係者と言えども、今を全力で駆け抜けている子たちの邪魔をする権利はどこにもない。
あまり長居してしまうのはよくないだろうと思って、ここらで失礼しようと慶さんに申し出る。
すると、慶さんに「なんか、無理やりでごめんね」と謝られてしまった。
私自身、久々に本気で踊ることができて楽しかったし、懐かしい思いをさせてもらったので何も迷惑には思っていないことを簡単に伝える。
すると慶さんはぱぁ、っと笑顔になって「よかった」と言った。
帰り際、女の子たちが私のもとへ寄ってきて握手を求められる。
それに応じて、私は再び「なんか邪魔しちゃってごめんね」と詫びた。
「そんな、とんでもないです」
「何か力になれたら良かったんだけど……あっ」
「?」
「歌に関してなら、教えてあげられるかも、って思って」
「えっ、いいんですか?」
「うん。やってた習慣とか、やってたトレーニングとか、あとはちょっとした相談なんかでもいいんだけど、そういうことでよかったら聞くからさ。もしよければ、でいいんだけど、連絡先交換しない?」
鞄から携帯電話を出して、メッセージアプリを操作する。
私が自分のプロフィールページを見せると、二人は飛ぶような勢いでレッスンルームを出ていった。
かと思えば、ものの一分少々で戻ってきて、その手には携帯電話が握られている。
更衣室まで走って行って、取って来てくれたのか。
なんだかまた申し訳ないことをした、と思いながら連絡先を交換させてもらった。
「大事にします!」
まさか連絡先を大事にします、なんて言われる日が来るとは思わなかったが、笑って流す。
「ホントに気軽に連絡くれていいからね。私はもう芸能人じゃないんだし、先輩とかそういうことも気にしなくていいから……そうだなぁ、近所のお姉さんとかそんな感じでいいよ」
ひらひらと手を振って、レッスンルームを出る。
借りていたダンスシューズを返して、スリッパに履き替え、ぺたぺた鳴らして私は受付へと戻るのだった。
〇
受付に戻って入館証を返し、少しの雑談を経たあとお礼を述べてレッスンスタジオを出る。
ほんの少し寄るだけのはずが、随分と長い間お邪魔してしまったが、新しい友達ができたので、良しとする。
ただ、私がアイドルをやっていた頃にすぐに誰とでも友達になれてしまうすごい子が同じユニットにいたけれど、あんなふうにはいかないものだ、と苦笑した。
プロデューサーを探す、という本来の目的からはいささか逸れてしまったように思うが、まだ初日だ。
こういうこともあるだろう。
懐かしい道をふらふらと歩いて、日が暮れてきた頃合いで、私は自宅の方向の電車に乗るのだった。
■ 四章 結露
レッスンスタジオを訪問した翌日、いつもどおりの時間に目が覚めた私を襲ったのは電撃のような痛みだった。
寝起きの頭であることも相まって、初めはわけがわからず妙な焦りを覚えたが、次第に思考が澄んでいけば、それが筋肉痛であると気付く。
自身の鈍り具合にほとほと呆れながら、ぴりりと痛む腹筋に鞭を打って上体を起こす。
腕を伸ばせばこちらも同様に二の腕の辺りがずしりと重く、足に至っては満遍なく痛い。
毎日ハナコと軽くジョギングのような運動はしているし、花屋のお仕事を手伝う中でそれなりに重いものを運ぶこともあるから、運動不足ではないと考えていたが、どうやら甘かったらしい。
というよりも、アイドルをやっていたときの自分があれほどの激しいダンスを含むレッスンを連日行い、お仕事もこなし、暇があれば友人と遊んだり家の手伝いをしていたりしたのだから、我ながら頭がおかしいのではないかと思ってしまう。
まぁ、当時の私はレッスンの後は入念にクールダウンを行っていたし、筋肉痛を防ぐためにアミノ酸を摂取するなど徹底的に管理をしていたのだから、比べてもあまり意味はないのだけれど。
でも、私、すごかったんだ。
なんていうどうでもいい自画自賛と、今の私との途方もない差に絶望しながら、床に置いてある犬用のベッドで眠っているハナコに声をかける。
ハナコはそれを受けて、ぴょんと起き上がりもう既に扉の前で私が開けるのを待っている。
気が早いなぁ。
小さなしっぽをぱたぱたと振って、扉と私とを交互に見る仕草はいつ見てもかわいさが極まっていると思うのだった。
さぁ、今日も頑張ろう。
ぐっ、と力を込めて立ち上がり壁に貼ってあるカレンダーの昨日の日付にバツをつける。
戦いはまだ始まったばかり。
ハナコの散歩と朝ごはんを終えたら、第二ラウンドといこう。
〇
いつもどおりの日課を終えた私は、すぐさま荷物をまとめて自宅を出た。午前中に向かうのは、よくお仕事で訪れたテレビ局に行くことにしていた。
当然、芸能人でもなんでもなくなってしまった私はもう建物に入ることはできないだろうから、周囲を歩くだけだけれど、彼がどこに出没するかわからない以上、手当たり次第歩いてみるしかない。
改めて思えば、計画的なようでいて無計画で無謀な作戦であるなぁ、と思いつつも独力で彼を探すと決めた以上は、こうする他ないのだ。
依然として状況は好転しないままであるが、昨日スカウトされたときのことを鮮明に思い出したことで、私のやる気は増していた。
連絡が取れなくなった程度で切れてしまう縁ならば、あんな大混雑のホームで再開を果たすこともなかっただろう。
だから、きっと、また会える。
自分を元気づける意味でもそう心中で呟いて、私はアイドルだった私の足跡を追うのだった。
〇
それからは、結果から言えば、何もなかった。
特に旧知の誰かと出会うこともなければ、新しい発見があるわけでもない。
ただただ、ああこの道よく歩いたなぁだとか、ここのコンビニでよくお菓子を買ってもらったっけだとか、思い出すのはそんな他愛もないことばかりだ。
そして、それが何より私を苛んだ。
それらの思い出の中には当たり前のような顔をして、彼がいつもいる。
今はいない。
その違いが、酷く私を寂しくさせた。
しかし、くよくよしてばかりもいられない。
かつて彼とよく行ったレストランで昼食を摂ってから再び歩き始めた。
景色を眺めつつも、すれ違う人であったり反対側の道を歩く人をつぶさに確認しているとスーツ姿の男性にいちいちどきりとしてしまうからよくない。
よくないとは思いつつも、背格好まで似ていたならば確認せずにはいられず、前方を歩くスーツ姿の男性を早歩きで追い越して、タイミングを見て軽く振り返る。
違ったか。
何十回目かの落胆。
まだまだこれから、と大きめに深呼吸をして踏み出す。
そんなとき、ついさっき私が確認したスーツ姿の男性がこちらへ近づいてきていた。
「あれ? 凛ちゃんじゃない?」
呼びかけられた方向へ首をひねって、しっかりと相手の顔を確認してみる。
誰だったろうか。
もしかして、ファンの方かな。
くるくると脳内のフォルダを漁ってみるも、すぐには出てこない。
だが、なんとなく見覚えがあるので、どこかで会ったことはあるのだろう、とも思う。
「やっぱり凛ちゃんだ」
私の正面に立って、嬉しそうな顔を見せる男性。
その段になってようやく、名前が出てきた。
部署や詳細な役職などは失念してしまったけれど、テレビ局の偉い人、だったはずだ。
「あっ。お久しぶりです」
当たり障りのない返事をして、相手の出方を待つ。
「奇遇だねぇ。凛ちゃんには一回会ってお礼が言いたかったんだけど、そんな機会なくてさー」
「お礼?」
「うん。引退したあとも、わざわざ挨拶を送ってくれたり、いろいろしてくれたじゃない?」
そうして並べ立てられた私がやったらしいことの数々は、何一つ、身に覚えがなかった。
引退後はかなり慌ただしかったし、様々なことに追われて、そんなことをしている余裕はなかったと記憶している。
けれども、私の名義でそういったことがあったというのであれば、そんなことをするのはおそらく一人しかいない。
きっと私に代わって、周囲への気配りなんかもプロデューサーがやっていてくれたのだ。
もちろん事務所として、というのはあるだろう。
私が引退したあともテレビ局とは関係を続けていく必要があるし、影響が及ぶのは私個人に限定された話ではない。
だから、彼がしたことは彼の業務の範囲内であるとも言えるのであろうし、私が特別に感謝の念を抱く必要はあまりないのかもしれない。
だが、そういったやりとりの全てを、私の手柄にしてしまっているのが、なんとも彼らしくて、相変わらず、ずるい。
そんなことを知る由もないテレビ局の人は私のことを褒めちぎり、ひとしきり話すと満足したのか「でも、元気そうで何よりだよ! また復帰するならウチで独占特番組ませてよ。ダハハ! それじゃ」と言って去っていった。
残された私は、ただ空を仰いで「勝てないなぁ」と呟くのだった。
〇
午前中に家を出て、懐かしの場所周辺を練り歩き、昼食を摂りまた練り歩く。
そのようにして一日を過ごすことを七度行ったとき、私の中で何かがぽきりと折れる音がした。
アイドルであった頃の私の足跡を辿れば辿るほど、当時は隣にいた彼の不在を否応なく思い知らされる。
馴染みの場所を歩けば、懐かしい顔に出くわすこともあれば、そうでないときもあった。
けど、全てに於いて共通していたのは、あるべきものがそこにないような欠落を感じることだった。
懐かしい顔に会えば、二日目のテレビ局の人との一件と同じく、身に覚えのない感謝をされるのが常だった。
もちろんそのどれもが、彼の仕事の範疇のものであったが、やはりというかなんというか、手柄は全て私個人のものになっていた。
なんで、気付かれないところまでカッコつけるかなぁ。
駅のホームにあるベンチにぺたん、と座り込んでため息を吐く。
一度弱気が押し寄せると、必死に抗おうとしても思うように心に火が灯らなかった。
立ち上がろうとしても、思うように足に力が入らない。
とっくに筋肉痛は癒えているはずなのに。
おかしいな。
唇を強く噛んで、私の底から湧き上がる何か堰き止めるも、耐えられたのは数秒だった。
外気との温度差で窓やらコップやらが汗ばむ現象を結露と呼ぶけれど、人間も心と外の温度が著しく異なれば、同じように結露するのかもしれない。
履いていたジーンズの紺が一層深まっていくのをただただ見送ることしかできなかった。
■ 五章 在
どれくらい、途方に暮れていたのだろうか。すっかり陽が落ちて、辺りは夜の帳が下りていた。
鼻で空気を吸うと、ずずっと何とも間抜けな音がした。
残念だが、この勝負は彼の勝ち逃げだ。
もう、それでいい。
なぜ彼が引退後も私の名声を守るどころか、評価を上げるようなことをしていたのかは終ぞわからず仕舞いだったが、わかったところで彼のことだ、どうせ大した理由ではないのだろう。
できたから、そうした。
それだけな気がする。
ため息のような、肩の荷が下りた安堵のような、どっちつかずのものを口から漏らし、再び鼻をすする。
ティッシュ、持っていただろうか。
鞄を開いて、がさごそとしていると、不意に手が伸びてきて目の前にポケットティッシュが差し出された。
「よかったら、使って」
親切な人もいるものだ。
素直に礼を言って、受け取る。
そのお礼の声が若干の涙声で恥ずかしかった。
「美人が泣いてるのが電車から見えて。それがあまりにも綺麗で、つい電車を降りちゃったんだけど、こんなことってあるもんだなぁ」
続く、あはは、という気の抜けた笑い声。
「え」
「久しぶり。元気にしてた? 今は元気なさそうだけど」
「なん、で、いるの」
「なんでも何も、さっき説明した通り、たまたまだよ」
「…………そっか」
思えば、この男はいつだって間が良い。
狙いすましたような、その瞬間しかありえないような、そんなタイミングを引き当てる。
そういう、天賦の才がこの男にはあるのだ。
もう、ここまで来たら、そう確信するしかなかった。
それを最初に味わったのは言うまでもなく、一度目のスカウトのときで、二度目にしても、そうだった。
きっと、どこかの部活に入部届を出していたら私はアイドルになっていないだろう。
丁度、どこの部活にも所属していない、宙ぶらりんの期間だったからこそ彼の誘いに乗れたのではないか、と思うからだ。
私がアイドルだった頃も例外ではなく、彼は機を見計らうのが上手かった。
最良であったのかどうかはわからないが、得てして彼が選ぶタイミングは概ね間違いがなかったように記憶している。
「間が悪かったかな。……聞いていいものかどうか、あれなんだけれど……その、何かあった?」
私の考えに反して、彼はそう言う。
「ううん。……実は、なんでもないんだよね。丁度、ついさっき、解決したから」
「嘘……ではなさそう、か。すっきりした顔してるし」
「そういうの、わかるものなんだ」
「たぶん、凛だけにしか通用しないけどね」
「どういうこと?」
「俺はさ、長いこと凛をずっと見てきただろ? 表情、歩き方、声の調子、ダンスのキレ、そういうものからでも不調を見抜かないといけなかったわけで」
なんでもないことのように言ってのける彼だった。
そこで私は、彼の服装が見慣れたスーツ姿ではないことに気付く。
「そういえば、スーツじゃないんだね」
「ああ、そうだね。見慣れない?」
「うん。プロデューサーと言えば、スーツだったから」
「プロデューサー、って」
彼が笑いながら、自身がそう呼ばれたことに照れくさそうにする。
しかし、私にしてみれば彼は出会った頃からずっとプロデューサーの人で、アイドルとなってからも私のプロデューサーであったし、ずっとそう呼んでいた。
私はもうアイドルではないし、彼も私のプロデューサーではないのだから、この呼び方は適切ではないとは頭では理解できるが、そうは言われても早々呼び方なんて変えられるはずもない。
故に、私にとってはプロデューサーはプロデューサーなのであるが、どうやら彼はそれが嬉しいらしい。
そして、私もこの呼び名を久しぶりに口にできたことを、胸の内で嬉しく思っているらしかった。
「学校の先生だって、卒業しても先生って呼んじゃうし、別におかしいことないでしょ?」
「まぁ、その理屈で言えばそうか」
「そうだよ」
「……でも、さ。実は俺、もうプロデューサーやってないんだよね」
「うん。知ってる」
「え」
「実は、少し前に会いに行ってさ。そしたら退職してる、なんて言われて」
「……バレちゃってたか」
「半年くらい連絡ないし、忘れられちゃったのかと思った」
「まさか。忘れれられるわけ」
「……じゃあ、連絡してこなかったのは、何も言わずに消えちゃったのは理由があるんだ」
「まぁ、あるにはある。でも、聞いたら笑うよ」
「……笑わない、とは約束できないけど、聞かせてよ。プロデューサーが私にしたことを思えば、それくらいの権利はあるんじゃないかな」
「俺がしたこと?」
「ふらっと消えたでしょ。何も言わず。プロデューサー、さっき言ったよね。私の調子が歩き方とか、表情とかでわかる、って」
「うん」
「そんな相手が、急に連絡取れなくなって、何も言わず消えちゃったら心配しない?」
「…………それは、その、そうだなぁ。申し訳ないことをしました」
「わかればいいよ。それじゃあ、まずはさ、理由を教えてよ」
「んー。幼稚な理由だよ。たださ、やっぱりどこに行っても何をするにしても、俺は渋谷凛の元担当プロデューサーとして見られて」
「うん」
「悪い意味でそう言われていたわけじゃないのは、わかってる。でも、どうしてもそういう目からは逃れられないわけで。新しく担当する子も俺を、渋谷凛を担当していた存在として、どうしても見ちゃうだろ」
「……そうだね」
「凛は知ってると思うんだけど、別に俺は特別な能力もなければ、天才的な指導センスもないんだ。ただただ、そのときそのときにできることを考えて、一つ一つ積み上げていく。それだけ」
「……うん」
「もちろん、凛をプロデュースしたっていう肩書きを利用して、少しの下駄は履かせてあげられるし、そうすることもあった。でもやっぱり、そこからは本人の能力と、努力と、時の運なんだよね」
言い終わって彼は一瞬だけ疲れた表情を浮かべて、さらに続ける。
「それを理解してくれる子もいたし、してくれない子もいた。失望する子もいれば、そこで一念発起する子もいた。そして、成功していく子もいたし、残念ながら俺の力が及ばずにあまり良い景色を見せてあげられなかった子も、いた。……そういう、繰り返しなんだなぁ、と気付いて虚しさを覚えたときに、思い出すのは凛といた頃のことばかりで、それで、疲れたー! って」
あはは、と笑って「幻滅した?」と彼が言う。
「なんか、こんなこと言うと変な話だけど、プロデューサーも人並みに人間なんだな、って私は思ったよ」
「どういうことなの、それ」
「どっかでさ、プロデューサーのこと超人みたいな存在だと思ってたんだよね。私は」
「超人?」
「人混みでもすぐ私を見つけるし、ベストなタイミングでいつも私の人生に現れるし、アイドルの頃も私の不調をすぐ見抜くから」
「ああ、そういう」
「だから、なんか、逆に安心した。プロデューサーも普通の人なんだな、って思って」
「そんな感想が返ってくるとは思ってなかった」
「あ。そうそう、全然関係ないんだけど、もう一個聞いときたいことがあって」
「ん?」
「実はちょっと前に、アイドルの頃にお世話になった人たちに会う機会があって、そこで身に覚えのない感謝をされることが多かったんだけど」
「あー」
「あー、って言うことはやっぱりプロデューサーの仕業なんだ」
「まぁ、そうなるな。ものによっては違うかもしれないけど」
「なんで、あんなことしたの?」
「凛が戻ってくる場所を、そのままにしておきたかったんだと思う」
「私が? アイドルに?」
「うん。でも、今思えばあれは俺が凛がいなくて寂しかっただけなのかもしれない」
「……ふぅん」
にやけてしまいそうになるのを、頬の内側を甘く噛んで抑える。
まったく、この男は臆面もなくこういうことを言うから、卑怯だ。
「私に会えて、嬉しい?」
「嬉しい。かなり」
「自分で姿を消しといて?」
「いやー、ほんとにそれはそうなんだけど」
「……実は、さ。私、さっきまでプロデューサーを探してたんだよね」
「え。いつから」
「先週から、かな。昔一緒に行ったとこを中心に探し回って、会えるかなぁ、なんて考えて。……だめだったわけなんだけど」
「……もしかして、ついさっき解決した、って」
「それ、普通聞かないでしょ」
「普通じゃない、と思われてた人間だからなぁ」
「根に持つんだ」
「うん。結構執念深いよ」
「一回断られれてもしつこくもう一回スカウトするくらい?」
「そうそう」
半年近い空白なんてなかったかのように、かつての調子で軽口を叩き合うのは、なんだかうまく言えないけれど、すごくしっくりくる。
「でも、その、なんだろう。いなくなったら探してもらえるくらい大事に思ってもらえていた、ってのは嬉しいもんだな」
「これからはそういう悩み事は私に言いなよ。聞いてあげるから」
「聞いてくれるだけなんだ」
「解決はしてあげられないと思うからね。でも、どうしよう、ってなったら私に言ったらいいよ」
「言ったら、どうしてくれるの」
「私も、どうしようってなってあげる」
「それは頼もしいなぁ」
「でしょ?」
「うん。すごく。……それにしても、なんで俺に会いに行こうと思ったの?」
「ああ、それは一応ちゃんとした理由があるにはあるんだけど、今はもうどうでもよくなっちゃった」
「よくわかんないんだけど」
「ほら、手段が目的になった、っていうか。プロデューサーに会うことが目的になっちゃってたから」
「あー」
「だから、そんな感じ」
「そっかそっか。にしても、泣いちゃうくらい会いたいと思ってくれてたなんてなぁ」
彼は先ほど身の上を語っていたときとうってかわって、にやけた顔を晒して小突いてくる。
そっちがその気なら、私にも考えがあった。
久しぶりに思い出させてやろう。私を怒らせると怖いということを。
「気付いてなかったの?」
「何が?」
「私、バレンタインデーに、男の人に本気でチョコを作るのなんてプロデューサーかお父さん相手にしかしたこと、なかったんだけどな」
「………………それは、ちょっと、反則じゃないですか?」
立ち上がり、彼の言葉を背中で聞く。
ずっとかたいベンチに腰かけていたからお尻が少し痛んだけれど、今はどうでもよかった。
「ほら、行くよ」
「どこに」
「お腹減ってない?」
「減った」
「減ったら、増やすべきだと思わない?」
「思います」
「だから、ご飯行こうよ。行くでしょ?」
「ああ、うん。行く」
「何食べたい?」
「おいしいの」
「おいしくない方が珍しいでしょ」
「なんでもいいよ、ってこと」
「なら最初からそう言ってよ」
「なんでもいい、って言い方はあんまり良い気しないかなぁ、と」
「……これ、案外難しい質問なのかもね」
どこか既視感のあるやりとりを経て、歩き出す。
久しぶりにいる、隣を歩く存在は、最初からそうであるかのように、馴染んだ。
そのとき、彼が大きく一歩を踏み出して、私の前に立ち塞がる。
「何?」
「言ってみたいセリフがあって」
「……どうぞ?」
すると、彼はごほんとわざとらしい咳を前置いて、ポケットから携帯電話を取り出し、言った。
「てか、ラインやってる?」
ぐっ、と力を込めて足の甲を踏んでやると、彼は「いてぇ」と間の抜けた声を上げる。
そうして私も鞄から携帯電話を取り出して、連絡先を交換した。
「大事にするよ」
連絡先を大事にする、なんて言われたのは人生で二回目だったが、彼には心の底から今度こそは大事にしてほしいと思った。
だから、「そうしてよ」と返す。
きっと。
私たちはこの工程を踏む必要があったのだろう。
終わりです。
良かった
ありがとう
乙!
乙!
他には何か書いてないの?
あーめっちゃ良かった
アニメ1話っぽい端々の描写もすき
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