北条加蓮「運命的、あるいは作為的」 (55)


奇跡だとか、運命だとか。

その類の言葉があまり得意ではなかった。

目に見えない存在に成果を横取りされている気がして、どうにも好きになれなかったのだ。

何より、これまでの紆余曲折を運命の二文字で片付けられてしまうのは寂しい。

私がこの言葉たちを好意的に解釈できるようになったのは、つい最近のことだ。

そして、それはたった一人の所業だったりする。

これから、私はその人物の話をしようと思う。

私のそれまでの価値観を全部全部壊してしまった、私史上最高に自分勝手で、私史上最高に信頼できる人の話を。


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とは言ったものの、いきなりその人の話をしても、あまり伝わらないだろう。

だから、まずはその人に出会う前の話をしよう。


■ 1 



真っ白な牢獄にも夏は来る。

うんざりするほど青い空に、もくもくと盛り上がる入道雲、それからやかましい蝉の声。

生命の躍動を嫌でも感じさせられるこの季節は、一年の中で最も自身の無力さを思い知る。

檻の外に出ることは許されず、このまま一生をここで過ごすことを定められた自分にとって、夏は苦痛以外の何物でもない。

のっそりとベッドから体を起こし、テレビカードの残額を確認して、溜息を吐いた。

お母さんが来たときに、また買ってもらわないと。

辛そうに笑顔を作る母の顔を思い浮かべて、また大きな溜息を吐いた。




カーテンの外からの「加蓮ちゃん」という声で、アタシは見ていたテレビを消す。

ベッドの横に置かれているデジタル時計をちらりと見やると検診の時間であることに気が付いた。

「はぁい」と返事をして、カーテンを開ける。

そうして看護婦と担当の医師にいつもどおりの検診を受けたが、結果はいつもどおりではないようだった。

「先生、これ」

看護婦が言う。

それを制止するかのように担当の医師は返事をして、努めて冷静を装って「ちょっと待っててね」とアタシを病室へ戻した。

遂にか、と思った。




病室に戻されて半時ほど過ぎた頃、服を着たまま川遊びでもしてきたのではないかというくらい全身をぐっしょり濡らした母がやってきた。

「そろそろ切れるかと思って」

母は疲れた顔で笑って、アタシにテレビカードを差し出すと、医師に導かれてどこかへ行ってしまう。

まだ少し残額のあるテレビカードを無造作に放り投げ、新しいものを挿し込んでテレビをつけた。

輝くドレスを身に纏って、スポットライトを一身に浴びて、歌い踊るアイドルの姿が映し出される。

ああ、ああ、アタシもこう在れたら。

そんな自分の姿を夢想して、一層虚しくなった。




テレビはアタシにとって、空白を塗り潰す数少ない手段だった。

そして、この病室備え付けの小さなテレビだけが、アタシが外の世界を垣間見ることのできる窓でもあった。

テレビを通して見る世界はどれも煌びやかで、アタシのいる世界とは別物に思う。

音楽番組なんかで歌って踊るアイドルでさえもフィクションのように感じられ、その非現実感が好きだった。




アタシがテレビを見るでもなく、流し始めてから少しの時間が経ち、母は思っていたよりも早く戻ってきた。

それと同時に、とてつもない勢いでカーテンが開け放たれる。

わけがわからず、呆気にとられているアタシをよそに母は「加蓮!」と叫んだ。

おそらく涙を流したせいであろうか、母の顔は化粧が崩れてぐちゃぐちゃだ。

「加蓮」

母がアタシを力いっぱい抱き締める。

大丈夫、何言われたって驚かないよ。

心の中で呟いて、母の次の言葉を待った。

「治ってきてるんだって!」

時が止まったような気がした。










病状が良くなっていることが分かってからしばらくして、退院が決まった。

担当医や看護婦たちから「奇跡だね。よかったね」と何度も何度も祝われ、病院を去った。

斯くして、生涯ここで暮らしていくのだとばかり思っていた白の牢獄から、アタシは蹴り出される。




そうしてアタシは、華々しく人生の再スタートを切る。

と言いたいところだが、そう甘くもないのが現実の辛いところだ。

退院を果たしてまず直面したのが勉強の壁だった。

入院中に自主的な勉強や周囲の大人たちから手解きを受けていたとは言え、やはり一週間に最低でも五日間を勉学に費やしている普通の子の進度と比べてしまうとその差は歴然だった。

それだけなら、まだよかった。

それだけなら、努力でなんとかなった。

でも、それだけじゃなかった。

同級生の子たちはどこかよそよそしく、腫物を扱うかのようにアタシに接するのだ。

きっと、良かれと思っているのだろうが、それがより一層アタシを惨めな気持ちにさせた。

そんなだから、学校に来るたびに周囲との時間的、精神的な隔たりを嫌でも感じさせられてしまい、アタシは少しずつ擦れていった。



■ 2 



学校の成績は相も変わらず低空飛行だった。

かと言って、青春を謳歌できているわけでもなく、何をするにも周囲の子との距離を痛感させられる。

周りに優しくされればされるほど、アタシと周囲とが等速ではないことを実感させられる。

アタシのスタートラインだけみんなより遙か後方にあって、その埋めようのない距離は、アタシに諦めを覚えさせるには十分すぎるものだった。

今更努力を重ねたところで、マイナスからのスタートである以上大した成果は見込めない。

であるならば、と開き直って生きていくことをアタシは選択した。




終鈴を告げるチャイムが校舎に響く。

担任が手短に明日の連絡事項を伝え、日直へと合図を送る。

それに従って、日直が号令をかけ、クラスメイトたちは思い思いの行先へと散って行った。

やがて教室内に残る者も少なくなり、校庭からは部活が始まったであろう元気な声が聞こえてくる。

机の中に教科書やノートを置き去りにして、ほぼ空に等しいスクールバッグを肩にかけ、教室を出た。




「北条さん、またねー」

大きな金管楽器を抱えたクラスメイトと廊下で鉢合わせた。

「……ああ、うん」

素っ気のない返事をして、足早にその場を離れる。

勉強、スポーツ、芸術。

みんなみんな何かしらに一生懸命で、直面している今に対して、全てを燃やし切ることに一切の迷いがない。

努力が水泡に帰することを恐れない彼ら彼女らのことがアタシは羨ましくあり、怖くもあった。

下駄箱に踵の潰れた上履きを押し込んで、代わりに取り出したローファーをあてつけのように地面へ叩きつける。

あと何日間、これが続くのか。

まだまだ折り返してもいない高校生活が煩わしくて仕方がなかった。




下校中、目の前をひらひらと一匹の蝶が飛んで行った。

何でもないようなことだけれど、アタシはその姿をいいなぁ、と思った。

卵から生まれ、芋虫、さなぎと順を追って最終的に蝶となる。

ある朝、目が覚めたら自分には羽があって、這うことしかできなかった昨日が嘘のように自由に飛んで行ける。

それくらいの劇的な変化がアタシにも起きたなら。

なんて、くだらない妄想。

それを打ち切って、駅の改札にパスケースをかざした。




駅のホームで無機質なアナウンスが響く。

「ただいま――駅で発生した人身事故の影響で、運転を見合わせて」

何もかも、ままならないな。

そう思って、溜息を吐いた。

ホームにいる者は、一様に困った顔をして時計を眺めていたり、どこかへ連絡を取っている。

一方でアタシは時間を気にする必要もなければ、この後の予定も空白。

同じく立往生を食らっている身でありながらどこか他人事に思えた。

そんなとき、隣にいた男の携帯電話が鳴る。

「お世話になっております。シンデレラプロダクション、アイドル課」

男は矢継ぎ早に自身の所属と名前を名乗っていく。

晴天の霹靂だった。




何故かは分からないが、幼い頃に淡く描いた夢がフラッシュバックする。

病室という白の牢獄で夢見た世界。

こう在れたらと願っては、無理無理と脳内で打ち消して自嘲気味に笑っていた世界。

その世界の住人が突如として隣に現れた。

これだ。

そう直感して、男と同じ振替の電車に乗り、男の正面の座席でじっとどこかの駅で降りるのを待った。




電車に揺られ、どう声をかけたものかと頭の中で何通りも何通りもシュミレーションを行う。

見てくれは、悪くないはずだし、運よく向こうから声をかけてくれないだろうか。

かけてくれないだろうなぁ。

先程の男の名乗った役職から考えて、彼は所謂プロデューサーというものにあたるのだろう。

そういう人たちがスカウトを行うケースはあまり聞いたことがないし、望みは薄そうだ。

なら、こちらから声をかける他ないのだけれど、それも良い方法が思いつかない。

なのに、男が電車を降りたら何かしらのアクションを起こすことはアタシの中で決定事項だった。

どうしてこんなにもやる気になっているのか、自分が何に突き動かされているのかすらわからず、自分で自分が不思議だった。




遂に男が電車を降りた。

その姿を見て、アタシも慌てて席を立った。

人波をすり抜けて、一定の距離を保ったままで後を追う。

それから、人通りの少なくなったところで、早足で一気に追い越した。




アタシの考えた作戦は、こうだ。

このまま少し距離を離し、ある程度のところで、落とし物をする。

落とし物はなるべく重要度が高くて、すぐに届ける必要があるものがいい。

ヘアピンやキーホルダーなんかじゃ拾ってもらえない可能性もあるだろうし、かといって生徒手帳なんかも学校に届けられたら意味がない。

考えの末、落とす物は現在の所持品の中から二択にまで絞り込んだ。

携帯電話か、財布。

どちらかをわざと落とす。




ポケットからコンパクトを出して、変わらず後方に男がいることを確認する。

「よし」

自分に言い聞かせるように呟いて、作戦を決行した。




鞄から滑り落ちるのを装って、財布を地面へと落下させた。

もちろん、中から大事なものは全て抜いてある。

しかし、念のために中を確認された場合を想定して、現金はそのままにしてあった。

流石に空では怪しいと思ったからだ。

故に、持ち去られてしまってもそのダメージは最小限で済む。

しばらくお昼ご飯抜き、くらいだろう。

元々食が細い身だ。なんとかなる。

だから、素知らぬ顔ですたすたと歩き続けた。




そのとき、革靴がとっとっとっとっ、と早いリズムでアスファルトと打ち合う音が聞こえた。

心臓が跳ねる。

「あの」

人差し指で、控えめに肩を叩かれた。

来た。

振り返る。

「これ、落としましたよ」

作戦は成功らしかった。




こうしてアタシは、接点など何一つなかった芸能界への切符を手に入れた。

つまるところ、アイドルにスカウトされた。

ただ落とし物を拾ってもらっただけに終わる可能性も十分にあった無茶苦茶な作戦だったけれど、どうしてか全てが思い通りになった。

名刺を渡されて、名前を聞かれて、簡単な説明を受ける。

そのあとで「まだお時間、大丈夫ですか?」と男が遠慮がちに聞くのを「大丈夫です」と食い気味に返す。

すると男はどこかへ電話をかけて、事の経緯を説明し始めた。

どうやら自身の事務所へと連絡しているらしかった。

「申し訳ありませんが、私はこれから行くところがありまして」

前置いて、男は携帯電話を操作しながら言う。

「うちの者が応対可能とのことですので、事務所の方へ行っていただくことって……」

またしてもアタシは「大丈夫です」と返した。




男の呼んだタクシーに乗り、事務所なる場所に到着した。

どうやら精算の必要はないらしく、運転手は「ありがとうございましたー」とだけ言ってドアを開けた。

きっと男の事務所と、このタクシー会社との間で何かしらの契約があるのだろう。

ということは、運転手からはアタシが芸能人に見えている可能性があるのか、と思うと少しくすぐったく思う。

車を降りて、目の前の建物へと入った。




インターホンを鳴らし、しばらくしてがちゃりと扉が開く。

出てきたのは美人な女の人で、いかにも事務員といった服を着ている。

「あ、えっと。北条、北条加蓮です。さっきスカウトされて……」

若干しどろもどろになりながら、そう告げると女性は「あー!」と声を上げた。

「そんな急な、と思いましたけど……なるほど、納得しました。どうぞどうぞ」

言って、女性はすごく自然な満面の笑みを浮かべる。

その言葉の意味はよくわからなかったけれど、歓迎はされているみたいだ。

案内に従って、女性の後をついて行った。




通された部屋で待つこと数分、お盆に湯呑とお茶請けを載せて、さっきの女性が戻ってきた。

女性はそれらをアタシに差し出すと、目の前に座る。

「さて、何から話せばいいのかしら……」

女性は少し思い悩む素振りを見せて、持ってきた大きな封筒から書類を取り出した。

「あ、まずは自己紹介ですね。私、ここで事務員をしております。千川ちひろと申します」

にこやかな表情を浮かべ、千川さんはアタシに挨拶してくれた。

「えっと。北条加蓮です。高校生です」

言い終わってから自分の服装が制服であることを思い出して、言わなくてもわかることだったなぁ、とちょっと後悔をした。

「さっそくなんですけど」

そうして、千川さんは書類をアタシの前に並べ、ひとつひとつ説明をしてくれる。

契約の話だとか、提出が必要なものだとか、この事務所の所属となることで受けることができる福利厚生だとか、そういう話を一通り聞かされた。

「他に何かご不明な点などありましたら、気軽に聞いてくださいね」

「特には、たぶん。大丈夫です」




やがて説明は終わり、千川さんに見送られ事務所を出た。

「では、またお会いできるのを楽しみにしていますね」

玄関まで出てきてくれた千川さんに「はい」と返事をする。

このとき既に、アタシの答えは決まっていて、あとの問題は親をどう説得するか、くらいだった。




帰路、ふと考える。

今思えばアタシ、めちゃくちゃ不用心だったなぁ。

知らない男の人の話を信じて、タクシーに乗せられて、知らないところに行って……って。

冷静になった頭で振り返ると、自分が相当舞い上がっていたことに嫌でも気付かされる。

でも、これで本当になれるのだ。

憧れであったアイドルに。




というわけで、ここまでが例の人に出会うまでのアタシの話だ。

そしてここからがやっと本題となる。

私のそれまでの価値観を全部全部壊してしまった、私史上最高に自分勝手で、私史上最高に信頼できる人の話だ。



■ 3 



ある日を境に、アタシをアタシとして証明してくれるものが一つ増えた。

これまでは高校生だとか、どこそこの病院の患者だとか、ありふれたものしか持っていなかったが、ちょっとだけ特別感のあるものが一つ増えたのだった。

シンデレラプロダクション所属アイドル、北条加蓮。

それが、アタシの手にした新しい身分だった。

もちろん現時点では世間的な知名度は皆無だし、一般人となんら変わりはないのだけれど、今までの人生で部活のような何かに所属するという経験自体がなかったアタシにとっては、それだけで嬉しくなった。

しかし、すぐにアタシは現実に引き戻されることとなる。

知ってしまったのだ。

ここ、アイドルの世界、芸能界も学校とそう変わりはしないという事実を。

つまり、アイドルになってもアタシの運動能力が向上するわけでもなければ、抜群の歌唱能力が得られるわけでもないのである。

なんていう当然の事実を思い知ったのは、初めてのレッスンのときだった。




デビューを目指してレッスンを積もうにも現時点の能力値を知らないことには、ということでアタシは一通りの能力を測定される。

学校でやるような簡単な運動能力測定や、至極単純な歌唱レッスンが行われた。

全てが測定できた頃には、まさに満身創痍と言っていい体たらくで、アタシは醜態を晒すだけに終わった。

体力は早々に限界を迎え、足はもつれるし、腕も上がらない。

肩で息をする始末だ。

何よりその指導にあたってくれたトレーナーの表情を見れば、結果を聞かずともアタシがどれだけ酷いかなんて、容易に察することができた。




結果が記された書類をトレーナーが持って来るのと同じくらいに、レッスンルームにアタシをスカウトしてくれた……アタシの策略にはまってくれたあの男が入ってきた。

「お疲れ様です。丁度、終わったみたいですね」

言動から察するに、アタシの測定の結果を見に来たというところだろう。

ああ、ああ。

アタシ、バカみたいだったなぁ。

何の能力もないのに、ちょっと人より見てくれがいいってだけで、アイドルになれる、って一人で舞い上がって。

きっと幻滅される。

身体能力の測定だけで息が上がるような者はお呼びでないだろうし。

ただただ俯くしかなかった。




男は手渡された書類を見て、一言二言トレーナーと話したあとで、アタシのもとへとやって来た。

「北条さん」

「…………何」

「実はですね。俺が君の担当プロデューサーとなることが本日、正式に決まりました」

「で? アンタがアタシをアイドルにしてくれるって言うの?」

「それは違う。北条さんはもうアイドルだからね」

「はぁ? ファンもいないってのに何を……」

「いますよ。ここに」

自分が最初のファンだとでも言いたいのだろう。

大人が真顔でそんなことを宣うものだから、あまりにも滑稽で笑ってしまった。

「あ、えっと……プロデューサーはその担当アイドルの最初のファン、なんて話はこの業界ではよくあるものなんだけどなぁ」

ギャグを言ったと勘違いされたと思ったのか、男は自身の発言に説明を加える。

「あのとき財布を落とした北条さんを咄嗟にスカウトしてしまったの、一目惚れみたいなもので」

わたわたと補足を続ける男の言葉を嘆息で断ち切って、アタシは口を開く。

「でも見たんでしょ? 測定結果」

「ええ」

「メッキ、剥がれちゃったね。どう? 幻滅した? 見た目に騙されて欠陥品掴まされたと思ってるんでしょ?」

これ以上ないくらいの悪態をついて、半ば睨むように男に視線を投げつけた。

しかし、返ってきたのは笑い声だった。

「なんだ」

男は、あっはっはと大笑いしながら言う。

「そんなことか」




「え、ちょっと。はぁ?」

何が何やらわからないアタシをよそに、男は笑い続ける。

「北条さん、よく聞いて。今の君は絶望的に体力がないだけだ」

「だけって……それが全てでしょ。何一つまともにできないんだから」

「運動、全然してこなかったんだよね?」

「……」

「それは欠陥なんかじゃないし、これからどうとでもできることだ」

「そうは言っても、他の人……一般的な女子高生に比べて劣ってるのは確かでしょ」

「かもね。でも、それだけだ」

「またそれだけって」

「それに、歌唱能力の評価もトレーナーさんに聞いたんだけど」

「そっちだって、まともに練習したことなんてないし、第一体力がないから息が続かなかったし」

「声質がね。すごく綺麗だって。これは北条さんが持ってる北条さんの強み。違う?」

「ちが……わないかもしれないけど、いくら声質が良くても肝心の歌唱力がないんじゃ意味ない」

「後からつければいい。体力だってそうだ」

「でも、周りの人たちよりスタートラインが遙か後方にある事実は変えられないじゃん」

「追いつけばいいし追い越せばいい」

「簡単に言わないでよ。どれだけ時間がかかるか」

「かければいいよ。時間」

「……付き合う、って言いたいわけ。こんな何一つまともにできないアタシに」

「やっと伝わった」

男は再び笑って、そう言った。




こうまで言われて、諦めましたやっぱり辞めます、なんてのはアタシのちっぽけなプライドでも許せなかった。

もう、アタシを動かしているものはただの意地だった。

「いいよ。じゃあ、乗せられてあげる」

「よし。というわけで、今日から北条さんの担当プロデューサーになりました。一緒にてっぺん目指して頑張ろう」

男はずいっと手をアタシに向けて差し出す。

握手を求めているようだ。

アタシはその手をぱちんと叩いて「よろしく」と返す。

「手厳しいなぁ。あ、そうそう。これ、明日からのレッスン予定表」

手渡された予定表には、ほとんど隙間なんてないくらいにびっしりとレッスンが組み込まれていた。

「え、ちょっと。これ……」

「死ぬ程ハードだけど、死にはしないし、頑張ろう。俺もできるだけ顔出すから」

異を挟む余地のない満面の笑みを浮かべるプロデューサーだった。








■ 4 


レッスン漬けの日々は、アタシの生活を目に見えて変化させた。

具体的には階段程度では息が上がらなくなったし、学校の体育の授業も少しずつ参加できるようになった。

本当に些細な変化ではあるが、体力が向上していることを実感する。

何よりレッスンを通して、一つ一つできることが増えていくのは、アタシにとって初の体験だったから、純粋に楽しかった。




そんな矢先のことだった。

ダンスレッスンの真っ最中に、アタシは倒れた。




目を覚ますと、そこはレッスンスタジオの医務室だった。

青い顔をしたプロデューサーがいて、アタシの顔を覗き込んでいる。

「ん。あれ、アタシ……」

アタシが起きたことに気が付いて、プロデューサーは心底ほっとしたような表情を見せた。

「ごめん。本当にごめん。気付けなかった。無理させてたなんて」

ここで、ようやく思考が追い付く。

そうだ。アタシはレッスンの途中で倒れたのだ。

プロデューサーはそれを聞き付けて、飛んできてくれたのかな。

よく見ると、目が赤い。

意外と泣き虫なんだなぁ、とちょっとだけ面白かった。

同時に嫌な記憶も蘇る。

赤い目で寝顔を覗き込まれるのは、入院していた頃にたくさん、見てきたから。




のっそりとベッドから起き上がり、時計を見やる。

あまり時間は経っていないみたいだった。

「もう起きて平気なの」

心配そうに言うプロデューサーに「大丈夫」と返す。

「貧血だって」

「そっか」

「……」

「アタシね。昔めちゃくちゃ病弱でさ。ずっと入院してたんだよね」

「ごめん、そうとは知らずに……」

「んーん。責めたいとか、そういうことじゃなくて。それに、昔の話。今は健康そのものだよ?」

「だけど……」

「倒れたのはたぶん、無茶したから」

「無茶?」

「そう、無茶。レッスン終わってから、実はこっそり自主練もしてたんだよね」

「……知らなかった」

「だから、倒れたのはアタシのせい。プロデューサーが謝ることじゃないよ」

「でも、気付けても良かった。そしたら、それに合わせてメニューを組み直す相談をトレーナーさんとすることもできたし」

「もう。過ぎたことを言っても仕方ないよ。だったらさ、これからは体力トレーニング、付き合ってよ。また倒れたら困るでしょ?」

「そういうことなら、うん。喜んで」




そのあとで、一応念のためにプロデューサーが家まで送って行ってくれることになった。

アタシはそこまでしなくていいと言ったのだけれど、プロデューサーが頑として譲らず、根負けしたのだった。

「なんか北条さん、キャラ変わったよね」

車の外を流れる景色をぼーっと眺めていたところ、声をかけられた。

「……え、キャラ?」

「ほら、最初にプロデューサーとして会った日、覚えてる? すごくトゲトゲしてたように思うから」

「あー……。うん、そうだね。あのときは正直、半信半疑だったんだよね」

「何が?」

「アタシみたいなのが、憧れのアイドルになれるってこと自体が」

「それで、あんな感じだったんだ」

「うん。だってあんな有様だったからさ。ここで戦力外通告を言い渡されるかもしれないー、そうでないにしても途中で付き合い切れなくなって匙を投げられるだろうなぁ、って思ってたんだ。だから、口も態度も悪くなっちゃって」

「でも、違った……と」

「そう。何もかもダメダメなアタシとちゃんと向き合ってくれて、ゆっくりでも一緒に進もうとしてくれたの、プロデューサーが初めてだったんだよね。学校でも病院でもアタシができないことは誰かしらが『やってあげるよー』って手を貸してくれてさ。たぶん、そっちの方が楽なんだよね。アタシに何かをおっかなびっくりやらせるより。だから、アタシが何かをできるようになるまで付き合ってもらえるなんて考えてもみなかったし。この人なら信用してもいいのかなぁ、なんて」

「……」

「もう自棄になったり、何かを諦めたりするの、やめようと思えた」

「……」

「ねぇ、もしかして泣いてる?」

「泣いてない」

「泣いてるじゃん」

「泣いてないって」

「アタシが気を失ってた時も泣いてたんだよね」

「なんでそれを」

「やっぱり泣いてたんだ」

「あ」

「あはは、意外と泣き虫なんだね」

からかってやると、プロデューサーは拗ねたフリをする。

さっきの言葉に嘘偽りはなく、全部本心だ。

それがどれくらい伝わっているかはわからないが、とりあえずはデビューするその日まで、やれるだけやってみるつもりだ。






ああ。それと、もう一つ目に見えて変化したこと。

泣き虫のプロデューサーと歩み始めてからアタシは「よく笑うようになったね」と言われるようになった。





■ 5 




相も変わらずレッスン漬けの日々を送っていたある日、いつも以上にニコニコとした顔でプロデューサーはスタジオにやってきた。

何か嬉しいことがあったのだろうな、と思ったが、敢えてそれを聞かないでおいた。

すると、プロデューサーは我慢ができなくなったのか「なんと!」と仰々しく声を上げる。

「北条さんの曲ができました!」

「え、嘘」

こればかりは、本気で驚いた。

「嘘なんてつかないよ。ほら、これに仮歌が入ってるし、振りも既に上がってきてる。後は北条さんが歌いこなして踊りこなすだけ」

「また簡単に言うなぁ」

「俺と走り込みしてるし、もう体力も十分ついてきた北条さんなら楽勝でしょ」

「そう思う?」

「思う思う」

「なら、うん。頑張ってみる」

「あと、それだけじゃなくて」

「まだ何かあるの?」

「デビュー、決まったよ」

「えっ!?」

さっき以上の驚きがアタシを襲った。




「デビューって言っても、とあるアイドルの前座なんだけど」

「なんだ」

「お客さんは3000人くらいかな」

「え」

「使える時間は一曲分とちょっと。コネをフル活用して無理に無理を重ねて北条さんをねじ込ませてもらいました」

「……初ステージがそんな大舞台、って」

「できればさっき渡した曲、やりたいんだけど……北条さん、できる?」

話の展開があまりにも猛スピードで進むから、理解が追い付かない。

順番に整理しよう。

まず、アタシは自分だけの曲をもらった。

これはすごくすごく嬉しい。

次に初仕事が決まった。

これもすごくすごく嬉しい。

問題はそれが無茶苦茶なオーダーだということ。

でも、自分の状況を振り返ってみれば、端から失うものはあまりないことにも気が付く。

――だったら。

「うん。やる」

「じゃあ決まりだ。アイドル北条加蓮の快進撃、ここから始めよう」

アタシは向かうべき明確な目先の目標地点を手に入れた。




それから、たった一曲を全力で磨き上げる日々が幕を開けた。

歌は、これまでのレッスンが力をくれた。

ダンスも、プロデューサーと一緒に走り込んだ毎日が支えてくれた。

努力は必ずしも報われるわけではないけれど、無駄にはならないのだということをアタシは実体験として知った。



そうして、遂にデビューの日がやって来た。

プロデューサーと二人で前座をやらせてもらう今日の主役のアイドルのもとへと挨拶に行き、そのあとで宛がわれた楽屋で準備を整える。

パテーションで雑に仕切り、そこで衣装に着替えた。

「覗かないでよ?」

「覗かないって」

緊張していないと言えば、嘘になる。

そのせいか、いつも以上にプロデューサーと交わす軽口も多いように思う。

でも、どこかわくわくしている自分もいた。

「どう、かな」

着替えを済ませて、プロデューサーに衣装を見せる。

いつかテレビで見た、憧れのドレスを身に纏う自分。

感極まって涙が溢れそうになったが、寸でのところで踏み止まれた。

踏み止まれた理由は、アタシ以上に感極まっている人が、目の前にいたから。

「また泣きそうになってる」

「なってない」

「ちょっと声震えてるし」

「震えてない」

プロデューサーをいじっていると、不思議と緊張はほぐれていった。




場内に、間もなく開演となることを告げるアナウンスが響く。

スタッフの人達がわたわたと忙しなく動き回っている。

暗い舞台袖で、アタシとプロデューサーはそれを眺めていた。

「そんな心配そうな顔しないでよ」

今にも泣きそうな顔で、拳を握りしめているプロデューサーを見ていたら、緊張はどこかへ行ってしまったようだ。

「だって」

「ホント、本番に弱いよね。この無理難題持ってきて、大口叩いたの、プロデューサーなのに」

「それはそうだけどさぁ……」

すぅ、と息を吸い込んで、吐く。

それを三度繰り返し、背筋を伸ばしてマイクを握りしめた。

出番を告げるブザーが鳴る。

「大丈夫。貴方の育てたアイドルだよ」

熱いくらいのスポットライトが射すステージへ、アタシは駆けた。












出番が終わり、アタシたちは楽屋へと戻る。

衣装のまま安っぽいパイプ椅子に腰かけて、大きな大きな息を吐いた。

それは憂いからくるものではなく、安堵からくるものだ。

何を隠そう、ステージは自分でもびっくりするくらいの大成功で終わることができたのだった。

「お疲れ様。これ以上ない、最高のステージだったよ」

「うん。自分でも驚いてる」

「これが第一歩、だな」

「だね。その……ありがと。今まで」

「何、急に改まって」

「思えば、お礼を言う機会、なかったなぁ、って。実は、ずっと言いたかったんだけどさ、なんか自信ないやら恥ずかしいやらで言いだせなくて。それで今なら言えるかな、って。だから、ありがと。プロデューサーさん」

「こちらこそ、どういたしまして。そして、これからもよろしく」

「うん。よろしくお願いします」

「……それにしても、プロデューサー“さん”かぁ」

「何、さん付けしちゃおかしい?」

「いや、ううん。ちょっとくすぐったいけど」

「あとさ、これからは名前で呼んでよ。アタシ……私のこと」

「一人称も変えてくんだ」

「こっちの方がお淑やかでしょ?」

「さぁ、どうかなぁ」

「もう……あはは、楽しかったなぁ」

本当に本当に、楽しかった。




ひとしきり話して、束の間の沈黙が訪れる。

今日という日の成功を、お互い噛みしめていた。

「大成功、だったなぁ」

しばらくして、プロデューサーさんがぽつりと呟く。

「うん。って、また泣いてる」

「なんか緊張解けたら、ダメだった」

「はいはい、ほらハンカチ貸してあげる」

「……ありがとう。加蓮」

「んーん。お礼を言うのはこっちの方だし」

「……思えばさ」

「……ん?」

「運命的だよなぁ。俺らの出会いって。奇跡的って言ってもいい」

「あ、初めて会った時のこと?」

「ああ。加蓮が落とした財布を拾ってさ」

「……ねぇ、今からちょっとずるいことを言うんだけど、怒らない?」

「? ああ、怒らないけど」

今から、私は彼に全ての種明かしをするつもりだ。

そうしたら、プロデューサーさんはどんな顔を、するのかな。

また泣くかもしれないな、と思うと、ちょっと楽しみだ。



おわり


いい雰囲気でいいわー


とても好きだった

よかった

「貴方が育てたアイドル」という対加蓮P必殺兵器


よいのぅ

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