杏「杏は天才だぜい」 (60)

モバマスSSです。

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 その日、私――双葉杏は出席日数稼ぎのために学校へ行き、仕事の予定もレッスンの予定もなかったのでまっすぐに家に帰った。

 カバンを放り出し、楽な格好に着替えて、さて昼寝の一発でも決めようかという矢先、スマートフォンが着信を知らせる。発信元は千川ちひろさん、私の所属事務所である346プロダクションの事務員さんだ。

『これから健康診断に行ってもらえませんか?』

 とちひろさんは言った。
 しかし健康診断だったら、346プロのアイドルはみんな定期的に受けている。私が前回強制連行に近い形でひきずられていったのも、ほんの2ヶ月前かそこらの話だ。
 つまり緊急の健康診断を受けろということになる。それもちひろさんからの指示ということは、

「プロデューサーが倒れたの?」

『……現在、自宅療養中です』

「理由は?」

『インフルエンザです』

 まあ予想通り。そういえば、最近外国で新型が猛威を振るってるとかネットニュースで見た覚えがある。

「プロデューサーだけ?」

『いえ、他の社員やアイドルの子も、確認できているだけで合わせて10人以上が発症しています。予約はこちらで取ってありますので、身ひとつで行っていただければけっこうです』

「しょうがないな……予約何時で取ってるの?」


 タクシーでの移動中にスマホでネットニュースの記事を見る。
 新型のインフルエンザは主にヨーロッパのほうで流行しているらしい。潜伏期間が短く、感染力が強く、回復までの期間が長いことが特徴だそうで、従来の特効薬の類は効果が見られないと。うーん、なかなかエグい進化をしたもんだね。

 血を抜いて、おしっこを採って、鼻の穴を綿棒でほじられて(痛かった)、たいして時間もかからずに検査は終わった。

 外に出ると、同じように検査を受けるよう指示されたらしい知った顔がいくつか見えたけど、事務所的には結果が出るまではあまり接触はしないでほしいはずだね、と思い、声はかけずにおとなしく帰りのタクシーを捕まえた。
 車内でちひろさん宛てに「終わったよ」とメールを送る。ほんの数秒後にスマホがぶるんと振動した。

 返事早いなぁ、と思いながら画面を見る。ちひろさんからの返信ではなかった。LINEの通知だ。
 発信者は諸星きらり、私のいちばん仲のいい同僚アイドルで、最近はモデルとして活躍の場を広げている。
『杏ちゃん検査受けた?』という、なんのデコレーションの施されていないシンプルなメッセージに、きらりらしくないなと首をひねりながら、『今終わったとこだよ。きらりは?』と返す。

 きらりは検査を受けていなかった。
 ちひろさんの言っていた、すでに発症が確認されている十数人、そのひとりがきらりだったからだ。


 翌日、ちひろさんからメールで「専務室へ行ってください」とお達しを受け、そのドアを叩いた。
「入りたまえ」と中から声がする。
 部屋に入ると、当然ながら美城専務がいた。それからちひろさんがいた。ふたりはそれぞれなにかの書類を手にして、眉間に皺をよせていた。

「……どうなってんの? これ」

 ウチのプロダクションはなかなかの大所帯だ。入口の傍らには昼夜問わず警備員が立っていて、エントランスに入ればカウンターの向こうに受け付けの女の人が3人いて、そこを抜けると、たちまち社員や所属アイドルたちの喧噪で埋め尽くされる、そのはずだった。
 なのに、建物に入ってからこの部屋にやってくるまで、たったのひとりの人間ともすれ違わなかった。まるで間違えて廃墟にでも迷い込んでしまったかのように。

「この事務所で働いている、全社員とアイドルの検査が完了した……その結果だ」

 専務が言う。

「つまり?」

「双葉杏、君は罹患していない」

「だろうね、くしゃみのひとつも出やしないよ」

 専務はそれ以上なにも言わなかった。わざわざ言わなくてもわかっているだろう、とでもいうように。
 いや、そりゃあわかるよ。わかるけどさ――

「……嘘でしょ?」

「私も、そう思いたい」

 ちひろさんが注目を集めるようにコホンと咳ばらいをする。

「検査を受けた、ほぼ全員に陽性反応が出ました。この事務所で陰性――罹患していないことが確認できたのは、私と、美城専務、それから杏ちゃん。……この3人だけです」

「むしろ杏たちが無事なのはなんで? って訊きたくなるね」

「かかりにくい体質というものがあるのかもしれないが、実際のところはわからないな。このインフルエンザは最近になって発見された新種のもので、ほとんど研究も進んでいないようだ」

「そう……それで、どうすんの?」

「……我が社のアイドル部門は規模を縮小し、最終的には解散という形をとることになる。所属アイドルたちは、もちろん本人の希望なども考慮するが、ほとんどの場合、他の事務所へ移籍という形になるだろうな」

 ちひろさんは沈痛な面持ちで黙っている。たぶん先に聞かされていたんだろう。

「なんで? お金の問題?」

「この後しばらくの、予定されていた仕事は全てキャンセルとなる。君の言うように多額の違約金が発生することになるが、それ以上に信用の失墜が問題だ。急なキャンセルはイメージを地に落とす。ひとりやふたりならばたいした問題ではないが、それが100人以上ともなると影響は計り知れない。今後は346プロ所属というそれだけで、仕事をとることは困難になるだろう」

「仕方ないじゃん、病気なんだから。そんなん誰だってかかるときはかかるでしょ」

「この新型インフルエンザは、世間でほとんど認知されていない。一般人では存在すらも知らないか、どこかで聞いていたとしても、それは自分とは関係のない話だと思っているだろう。人は身近でないものは正しく想像できないものだ。認識されるのは『346プロのアイドルがことごとく仕事をキャンセル』したという結果だけだ」

 そうかもな、と思ってしまう。
 私も偶然そんなニュース記事を見かけはしたものの、その時点で気に留めていたとは言い難い。ちひろさんからの電話がなければ、そのまま忘れていただろう。
 専務は更に続けて言った。

「そして……予定されていた『シンデレラの舞踏会』も、当然中止となる」

『シンデレラの舞踏会』は、346プロ所属のアイドル数十名によって行われる大規模ライブイベントだ。
 去年第1回を開催し、成功を収めたことで第2回の開催が決定した。選抜されたメンバーは、ここしばらくはそれに向けたレッスンに励んでいた。
 その本番は、もう1週間後に迫っていた。チケットも完売していて、すでにファンの手元に届いている頃だ。
 かなりの高倍率の抽選になったと聞いている。中止となったら相当な騒ぎになるだろう。
 私の調べたところだと、新型インフルエンザは、回復までにおよそ2週間もの期間を要する。1~2日程度の個人差はあるらしいけど、それでも1週間後の舞踏会には、絶対に間に合わない。

「プロダクションとしての批判は避けられないが、理由が理由である以上、個々のアイドルのイメージダウンは大きくはないと予測している。移籍はそう難しい話ではないだろう。散り散りにはなってしまうだろうが――」

「冗談じゃない」

 私は専務の言葉をさえぎるように言った。

「解散なんてさせない」

 感情的になっている、と思われたかもしれない。でも実際のところは、私の頭の中はこれ以上ないくらいに冷えていた。冷静に、ものすごい勢いで回転していた。

「させない、といっても、現実問題どうしようもなかろう」

「杏がやる」

「……なにをかな?」

「杏がみんなの仕事をするって言ってるんだよ。もちろん杏にもできないことはあるし、全部とはいかないだろうけどさ。予定してた仕事の中からできるやつ、特に影響の大きいものを選んで、片っ端から代役で出る。そうやって、キャンセルを最小限に留めたら、それでもプロダクション解散しなきゃいけないほどのダメージになる?」

「杏ちゃん!? なにを言ってるんですか!?」

 ちひろさんが慌てて口をはさんだ。

「ウチは未成年が多いし、学生は学業の妨げにならないように調整してるでしょ。個人単位での仕事量は、平均すればそんなに多くない。それにここしばらくは、人気があって普段忙しい人ほど、舞踏会に向けたレッスンを多くとるために、あんまり仕事入れないようにしてたはずだよ」

「ひとりひとりはそうでも……この事務所に何人のアイドルが所属してると思ってるんですか?」

 専務は、じっとなにかを考えこんでいた。

「相当に忙しくなると思うが」

「そうだね」

「舞踏会はどうする?」

「ひとりで演るよ。シンデレラの舞踏会改め、双葉杏の舞踏会ってね」

「……念のため訊いておきたいのだが、それは舞踏会を中止して、その代わりに君のソロライブを開催するのではなく、舞踏会のために抑えている会場で、既に売ってしまっているチケットで、規模を縮小させずに、予定通り執り行うということか?」

「うん、そうだよ。その通り」

「予定されていた舞踏会は、3時間を超える長丁場だ。君は、出演が決定していたアイドルの中でも、比較的出番が多いほうだとは思うが、それでも10曲分もあるまい? では、残りの時間はなにをする?」

「他の人の持ち歌を歌うよ。ウチは仲間内の曲をカバーしあうなんて珍しくもないでしょ。なにかまずい?」

「権利的には問題はない。しかし残り少ない日数で、トレーナーもいないこの状況で、観客たちを納得させられるクオリティが出せるのか、ということだ」

「できる」

「……簡単に言い切ってくれるな。……今から全員分の振り付けを覚えるというのは難しいだろうな。体力的な問題もある。すると、ダンスはなくし、歌に専念するということになるのかな?」

「専務が言ったばかりでしょ、お客さんを納得させられるクオリティじゃなきゃいけないって。ちゃんと踊るよ、ウチのアイドルのライブはダンスも売りなんだからね」

「数十人分をか?」

「数十人分をだよ」

「……本当に君が、他のアイドルの予定していた仕事を肩代わりするというのであれば、レッスンに割ける時間はほとんどない」

「レッスンはしない」

「君は――いささか思い上がってはいるのではないか? 君ひとりでなんでもできるつもりか?」

「そう思われても仕方ないかもね」

『シンデレラの舞踏会』は、今や346プロの看板と言ってもいい一大イベントだ。アイドルの間では、それに参加する権利を勝ち取る段階から、熾烈な競争が始まっている。そうして選ばれた者は、自分の持ち歌を歌い、踊るためだけでも日々足腰立たなくなるほどのレッスンを積んでいる。それでも失敗することはある。それを、たったの一度も歌ったことも踊ったこともない身で、レッスンすらせずにやってみせると言ってるんだから、『なめている』と思うのが当然だろう。

「――でも、杏にならできる」

 しばしの間、部屋の中は静寂に包まれた。そして、専務がふっと笑った。
 ……笑ったね。なんだかレアなものを見た気がする。

「千川君」

「は、はい」

「急ぎ、プロダクションのアイドルの当面のスケジュールをまとめてくれ。今日の分からだ」

「きょ、今日のからですか!? 急ぎですね! わかりました!」

 ちひろさんがバタバタと専務室を飛び出していく。
 これは、乗ってくれたと受け取っていいのかな。

「……ひとつ、質問をしてもいいだろうか?」

「どうぞ、いくつでも」

「君は、あまりアイドルの仕事に積極的ではなかったと記憶している」

「まあね」

「その君が、なぜそうまでしてプロダクションを救おうとする? 君ほどの知名度があれば、移籍先は引く手あまただ。条件等も君の要求を最大限考慮した交渉ができるだろう、そう悪い話にはならないはずだ。方や、先ほどの君の提案、それを実行するとなれば、想像を絶するような多忙に見舞われることになる」

 まあ、当然の疑問ってとこだろうね。
 正直言えば今だって、頭の中で「なにバカなこと言ってんのさ、考え直せ! 撤回しろ、はよ!」って、わめきたてている自分がいるよ。
 しばらくの間、地獄のような日々が続くことだって、もちろんわかってる。だけど、

「きっと、泣くから」

「君がか?」

 答えは返さなかった。必要ないと思ったからだ。

「……余計なことを訊いたかな」

「いいよ、べつに。それよりさ、杏としては専務があっさり認めてくれたことに驚いてるよ」

「私としても、このような形でアイドル部門をたたむことは本意ではない。存続の可能性があるのなら、賭けようと思ってもおかしくはないだろう?」

「そりゃそうだけど……あー、今更だけど、口の利き方こんなんだけど、いいよね?」

「むろん構わない。他にも希望があれば、なんでも言ってくれていい。私と千川君で、できる限りのサポートをしよう」

「……じゃあ早速だけど、出演予定だったみんなの、ライブ映像のファイルが欲しい。できたら最初から最後までひとりを追っているようなの。それを、できるだけ多く」

「ふむ、販売しているライブビデオの編集前のデータに、君の希望に近いものがあるだろう。通常破棄することはないから、何処かに保管はされているはずだ、確認しておこう」

「どうも。……あ、それからもうひとつ」

「なんだ?」

「飴ちょうだい」

     〇

 実のところ、私の運動神経はそう悪くない。自分で言うのもなんだけど、むしろ抜群に優れている方だと思う。

 子供の頃――小学校の体育の時間なんかは、ほとんど独壇場だったといってもいい。
 それから頭もよかった。勉強でも運動でも、一番であることが当たり前だった。当時の私は、本当になんでもできたんだ。なんら特別な努力をすることもなく。
 もちろん、英才教育なんてものを受けていたわけではない。なんてことのない、普通の子供の生活だったと思う。よく寝よく食べよく遊び、だだっ広さだけには定評のある北海道の大地を、自分ちの庭みたいに駆け回り、少しだけ本を読んだ。

 私はなにも変わらない。変わっていったのは周りのほうだ。

 きっかけらしきものは思い当たらない、だけどいつの間にやら、周囲から私に向けられる視線が、奇異、それから畏怖、そして、非難のようなものになっていた。
 周りの人たちからすると、どうやら『なんでもできる人間』なんてものは、いてほしくなかったようだ。
 なにかに優れているのは構わない、だけど、ある点で優れているならば、そのぶん別のところが劣っていなければならない。それが自然というもので、そうでなくてはならないのだと、そんなふうに思うものらしい。
 それでも、もしも『周囲』が学校の同級生だけだったら、たいして気にとめなかったかもしれない。

 男の子ばかりのサッカーチームに混じって大活躍する。
 大人も参加するクイズ大会で優勝してみせる。
 知能テストとやらを受けてみる。

 なんで、お父さんとお母さんは笑ってくれないのかな?
 前は笑ってくれたのに、喜んでくれたのに、すごいって言ってくれたのに。
 いつもと同じだよ。今に始まったことじゃない。私はずっとこんなだったじゃないか。
 なのになんで、私を、そんな目で見るのさ?

 たいして悩むこともなく、私は運動の類いっさいをやめることにした。私は小さかった。『小さいのに強い』というのが、特に疎まれる理由だったように思えたからだ。
 男の子に混じってサッカーやバスケットボールで遊ぶこともやめたし、学校の体育の時間は毎回仮病で見学をするようになった。
 教師が安っぽいプラスチックの笛をピーと鳴らし、子供たちがパッと散開する。私は少し離れたところでひとり、よっこいしょと地べたに腰を下ろす。そこが体育の授業における私の定位置となった。いつもその場所から、ワイワイと騒ぎ、駆け回る同級生たちをぼんやりと眺めて、「みんな、下手だなぁ」と思った。

 当然、それまで完璧だった成績表は、突如体育のみが底辺を這い始めることになったけど、同級生たちも、学校の教師も、実の両親までも、とりたてて気にすることはなかった。
 むしろどこか、安心しているようにすら見えた。



 このときから、双葉杏は『普通の人』となった。

『なんでもできる天才少女』は、私が自らの手で投げ捨てた。

     〇

 ゼエゼエと息を切らしながら戻ってきたちひろさんが、USBメモリをパソコンに差し、全所属アイドルのスケジュールをまとめたファイルを開く。

「幸いにも、今日予定されていた分に、さして大きな仕事はないようだ。決めなければならないことも多いから、これらはキャンセルしてミーティングにあてようと思うのだが……」

 パソコンの画面をにらみながら、専務が言う。

「まあ、仕方ないだろうね。当日にいきなり杏使ってくれってのも難しいだろうし」

「うむ……では、まずなによりも重要なのは舞踏会の内容変更だな。演者を双葉ひとりに、タイトルを『双葉杏の舞踏会 ~The Hyper NEET~』とする。大幅な変更だけに払い戻しの受け付けも必要だろう、早急なアナウンスが必要だ」

「……本当にそのタイトルでいいんですか? 考えたの杏ちゃんですよね?」

「インパクトがあっていいと思うが」

「ねえ、ひとつ提案があるんだけどさ、払い戻し受け付け期間を、舞踏会の次の日からにしてくれない? 舞踏会観に来ていても払い戻しできるって形で」

「どういうことだ? それでは……」

「あ、『お代は見てのお帰り』ですか?」

 専務は困惑しているけど、ちひろさんのほうはピンと来たらしい。

「なんだ、それは?」

「昔の見世物なんかで使われていた方式で、見て、気に入ったら帰りにお金を払ってもらうというものです。満足できなかったらタダでいいというので、お客さんを呼び込むわけです」

「そうそう。この場合、チケットはもう売っちゃってるから、満足できなかったら返金します、ってことね」

「そんなものが成り立つのか? 心の内など誰にもわからないだろう、見るだけ見て払い戻しすれば得ではないか」

「それが不思議なもんでね、人は価値のある体験をしたらそれだけの対価を支払いたいと思うものらしいよ。もちろん、これで杏が失敗したら、みんな払い戻ししちゃって大損害になるだろうけどね」

「しかし、古い時代のものなのだろう、現代でそのようなものが通用するか……」

「必要なんだよ。たくさんのアイドルが出るイベントだったんだから、その中に杏のファンはひとにぎりだもん。もともと杏の単独ライブとしてチケット売ってたんなら、いくらかは多くなるだろうけどね。払い戻し受けて、集計して、その分また売り出すような時間はもうないでしょ。だったら空席にしちゃうよりは、ものは試しでも来てもらった方がいい」

「……なるほど、では双葉の案を採用する。千川君、すぐに変更内容と払い戻しの方式をまとめて公式サイトで告知してくれ。それからチケット販売会社への連絡を頼む」

「す、すぐにですか! じゃあ、ハイ、やってきます!」

 ようやく息の整ったちひろさんが、再び部屋を駆け出していく。なにも走らなくてもいいと思うんだけどな。

「少人数だと意思決定が早くていいね」

「まったくだな。では千川君を待っている間に、明日以降に予定されていた仕事の中から、君が代役として出るものを選別する。これは君に判定してもらおう」

「はいよー。まあモデルとかは無理だよね、どうしても」

「佐々木千枝に雑誌モデルが予定されていたが、体型はあまり変わらないのではないか?」

「……子供服だよね、それ。詐欺になんないかな。べつにやってもいいけどさ」

「では提案だけ伝え、判断はクライアントに委ねるとしよう」

「うん……」

「次に移ろう、ラジオ番組がいくつかある。まず、『朝までダンサブル』」

「あー……それはパスで。その番組はヘレンさんしか求められてないよ、代役はお呼びじゃない」

「ふむ、了解した。では次に、『網よ聞いてくれ』」

「ん? 杏それ知らないな、誰のやつ?」

「浅利七海だな。15分間、CM等を抜くと実質13分程を、ゲストもなく、リスナーが参加するような企画もなく、ただひたすらに魚の話をし続けるというものだ」

「……だれが聴いてんのさ、それ」

「魚マニアしか聴かないが、魚マニアなら全員聴いているような番組らしい。意外にも聴取率は悪くない」

 なんだそりゃ。いや、ニッチ層狙いとしては、ある意味理想的なのかな?

「うーん、13分も喋り続けるとなると、かなり知識仕込まなきゃいけないね」

「共演者がいないため、収録の日は多少融通を利かせられるようだが……仕事は他にも山ほどある、準備のために勉強するぐらいなら、他に時間をあてた方がいいのではないか?」

「そうだね……じゃあこれもパスで」

「次にテレビのバラエティ番組、輿水幸子だな」

「出やがったな」

「どうする?」

「内容聞いてから決めるよ。どんなの?」

「……銛をもって崖から海に飛び込み、深いところに生息する魚を獲るというものだ」

「できるか!!」

「しかし、現地の住民は当たり前に行っている、伝統的な習慣で――」

「そいつらは子供のころから崖っぷちで遊んでんでしょ! いっしょにすんな!」

「だが、輿水はやる予定だったのだ」

 頭を抱えたくなった。
 この番組は視聴率も高く、幸子がレギュラーを務めるコーナーは特に人気が高い。CDの販売やライブといった音楽活動を除けば、ある意味では346の顔とも言っていいぐらいだ。たぶん金銭的にもイメージ的にも格別に影響がデカい。
 それにしたってアイドルが崖から海ってなんだよ。幸子は本当に内容知らされていたのか? 私の記憶によると、たしかあの子は泳ぎが苦手なはずだけど。

「…………やるよ」

「うむ」

 専務からは明らかな安堵の様子が見て取れた。
「やっぱやめる」と言いたくて仕方がないけど――ふと思いついてしまった。

「ねえ、そのへんって、珍しい魚がいたりする?」

「魚? ああ……企画書によると番組でメインの標的としている魚が美味であるにも関わらず広くは生息していないとのことで地元民から重宝されているようだが」

「だったらさ、それの撮影より後に『網よ聞いてくれ』の収録入れてよ。番組で見たり獲ったりした魚のこと話すから」

「……了解した」



 舞踏会の内容変更はやっぱり大きな騒ぎになって、事務所には苦情の電話が殺到した。まあ無理もない。
 このままだと、チケットを購入した人の多くは会場に足を運ぶこともしないだろう。だから、ここからの1週間が勝負だ。可能な限りの仕事を詰め込んで、『双葉杏』に興味を持ってもらわなきゃいけない。


 組み上がったスケジュールは、当然、朝から晩まで仕事尽くしだった。
 学校へは行かない。出席日数はそれなりに確保していたので、2週間程度休んでもどうってことない。授業の遅れなんてのは、それこそ誰に言ってんのさってなもんだね。
 ついでに、移動時間の削減のため、しばらく事務所に泊まり込むことにした。ここはベッドもあればシャワー室もある。エステルームには湯舟のついたお風呂もある。食事は元々自分で作ることはほとんどなかったから、寝るだけのために帰るぐらいなら、ここで生活したほうがよっぽど効率的だ。

 諸々の方針を固め、当面の宿と決めた仮眠室で一夜を過ごし、いよいよ代役ラッシュが始まろうという朝、なにやら大きな段ボール箱をかかえて、専務がやってきた。

「なによりも気にしなくてはならないのは君と私、それに千川君の健康状態だ。君が新型インフルエンザに罹患した瞬間、我々は全てが終わる」

「まあ、そうだね」

「そこで、このようなものを用意した」

 専務は箱を開き、その中身をふたつ、ゴトンと音を立てて机の上に置いた。

「これは……なに?」

「マスクだ。外に出る際はなるべくこれを着用してもらいたい」

 マスク、うん、マスクだ。なにも間違ってはいない。
 インフルエンザ予防にマスク、文句をつけられようはずもない。だけどさ、

「どう見てもデザインが『ガスマスク』なのは、いったいどういうこと?」

「通常販売され、使用されているような不織布のマスクでは、繊維の隙間がウイルスのサイズより大きいため、ウイルスは素通りできてしまう。全く効果がないわけではないが、対策として十分とは言えないらしい。真に機能性を追求するならば、どうしてもこのような形状になってしまうそうだ。……着けてみたまえ」

 着けるというより装備すると言った方が正しいような、なんて思いながらとりあえず顔に当ててみる。ふちの部分は、ゴムか合成樹脂か、そんな感じの素材でできていて、隙間を作らずぴったりと肌に張り付いた。で、ベルトを後頭部で締める、と。

「……どう?」

「……なかなか似合っているぞ」

 鏡を見てみると、ゲームだったら化学兵器を撒き散らすタイプの敵キャラみたいなのがそこにいた。菌だとかウイルスだとかにはいかにも強そうではあるけど……これ、ゴーグル部分は本当に必要だったのかな?

「専務も、着けてみてよ」

「そうだな……」

 ……うん、どう転んでも悪役だね、これは。
 シュコーシュコーという呼吸音がふたつになり、サイボーグ同士の会合でもしている気分になってくる。

「ふむ……こころなしか、少し息苦しいな」

「専務もなかなか悪くないね。杏嫌いじゃないよそーゆーの」

「それはなによりだ」

 と、互いを慰め合うように感想を口にしていると、ガチャリとドアを開ける音がして、

「あ、ここにいましたか」

 同じマスクを装着したちひろさんが入ってきたもんだから、とうとう耐え切れなくなって吹き出してしまった。見ると、専務も顔を背けて小さく肩を震わせている。

「……あのですね、専務も杏ちゃんも、同じような姿をしてるんですからね。忘れないでくださいよ」


 私は専務の運転する車の助手席に座って、テレビ局に向かった。

 そこで待っている仕事はトーク番組のゲスト役で、本来の出演者は相葉夕美さんだった。特に揉めるようなこともなく代役を認めてもらえたため、専務は付き添わずに私を降ろしたあとは別のところに打ち合わせに向かうらしい。

「専務、自分で運転できるんだ。重役なんてのは後ろでふんぞり返ってるもんだと思ってたよ」

「しばらくアメリカにいたからな。向こうでは車の運転をできないというのは脚がないに等しい」

「そういえばそうだったね。これ社用車じゃないよね、専務の車?」

「そうだ。……グローブボックスを開けてみたまえ」

 グローブボックスってこれかな? と助手席前の収納を開く。中には、飴の袋が大量に詰まっていた。

「好きなだけ取っていい」

「うん、どうも」

 私は袋をひとつ開け、中の飴を10個ほど取って自分のバッグに移した。

「む? 袋ごと持っていってかまわないぞ。ひとつといわずいくらでも」

「んー、杏にはちょっとした持論があってね、飴は人からもらって食べるのがいちばん美味しいんだよ。いっぱいもらいすぎると、一度自分のものになったって感じがして、食べるときに感動が薄れちゃうからさ。なくなったらまたちょうだい」

「そういうものか、いくつぐらいが境界線になるのかな?」

「さてね、考えたことないけど、せいぜい両手でつかめるぐらいかな」

「なるほど……ところで話は変わるが、これから君が出演する番組、きっちりした台本はない、ほぼフリートークだそうだ。急な話だが、大丈夫か?」

「そうだね……せっかくだから、このマスクを被って出るよ。まず見た目が面白いしね、これの話だけで乗り切れると思う」

 膝の上に乗せたガスマスクもどきをぽんぽんと叩く。

「なるほど、悪くない」

「あ、いいんだ? 専務、そーゆーの嫌いかなって思ってたけど」

「……ひとつ、つまらない話でもしようか」

「うん?」

「私の親族は皆学業が優秀で、有名な大学に入るか、あるいは海外留学するのが当たり前となっている。私自身も、あえて名前は伏せるが、およそ誰でも知っているであろうところの出身だ」

「あー、なんかそういう家系ってあるよね」

「だが、自分のことだからわかるのだが、私は決して生まれつき頭の良い人間ではない。いわゆるガリ勉というものだよ。子供のころから、ろくに遊びもせずに勉強ばかりしていた。その甲斐あってか、常に学校の成績はよかったが」

「そうなんだ」

「そんなある日――たしか中学生のころだったかな、当時の同級生から言われて、ずっと覚えている言葉がある。どのような話の流れでその言葉が発せられたのかは忘れてしまったが、『美城さんは頭がいいから、私たちの気持ちはわからないよ』というものだ。……よくある話だろう?」

「よくあるのかは知らないけど、よく聞くような話ではあるね」

「それを聞いて、別段ショックを受けたわけではない。ただ、『それは間違っている』と思った。一族の落ちこぼれと呼ばれないよう必死に勉学に励んでいた私は、できない人間の想いなんてものは、誰よりも強く知っていたのだから。それを言った娘などよりも、遥かにな」

「そうだろうね」

「しかし、ときどき思うことがある。できない人間の気持ちは、私を含め多くの人間が理解できるだろう。この世のほとんどは、そういった持たざる者だからな。――だが、それならば、本当に最初からできる人間の想いというものは、いったい、誰に理解してもらえるのだろうな?」

「……なにが言いたいのさ」

「有能すぎるのも困り物だ、ということだよ。きっと天才には天才の、私のような凡人には及びもつかないような苦悶があるのだろう。凡人には無数の同志がいる。しかし、天才はそうではない。違うかな?」

「そんなの、杏にはわかんないよ」

「そうか」

 そうこうしているうちにテレビ局に到着し、私は車から降りた。

「私はなにも要求しない。君は君の、思うがままに振る舞いたまえ、おそらく、それが最もよい結果をもたらすのだろうからな」

 そう言い残して、専務の車は走り去っていった。
 
「……買い被りすぎだっての」

     〇

 中学校3年生になり、進路について考え始めるころ「東京の高校に行きたい」と言ってみた。
 
『頭はいいけど運動はからっきしの怠け者』、その頃の私に対して、学校の友人や教師なんかが持つイメージはそんなもの。だけど両親だけはそれが私の創作であることを知っていた。

 自分が愛されていないなんて思ったことは、ただの一度もない。父も母も、ひとり娘である私を、十分過ぎるほどに愛し、可愛がり、甘やかしてくれたと思う。
 だけど、どれだけ愛しても、自分たちの子だと己に言い聞かせても、心の片隅に常にくすぶり続ける、得体の知れない怪物への恐怖、私にはそれが見えてしまった。
 それは論理ではなく、もっと根源的な、本能のようなものなのだろう。だから私はそれを責めようなんて思わなかった。それはそういうもので、仕方のないことなんだと理解していた。
 そして、実の娘に対して恐怖を抱かざるを得ない父母を、少し、可哀想だと思った。

 だから、これはひとつの転機だ。このふたりを開放してあげるための。
 先に教師を篭絡した。「よりレベルの高いところで、自分の力を試したい」あまりに使い古されていて、手垢で真っ黒になっているような文句であったが、中学3年生の担任教師は、ものの見事に言葉通りに受け取ってくれた。どこか感動すらしているようだった。

 両親は、それなりに渋りはしたものの、教師の後押しもあってか、最終的にはそれを認めてくれた。
 元々ウチはお金はけっこうある方で、ひとまずは成人するまでという条件で、東京でひとり暮らしするにしても十分すぎるくらいの仕送りも約束してくれた。



 受験が終わり、中学校を卒業し、晴れて東京でのひとり暮らしが始まる。
 ひとりってのは、やっぱり自由気ままなもんで、とにかく楽だったね。誰にも気を遣わなくていい生活がこんなに心地よいものだとは知らなかったよ。こっちに来てよかったって、心の底から思ったさ。
 まあ、親元を離れて、寂しくはなかったかと言われれば、

 寂しかったよ。寂しくないわけがない。

     〇

 覚悟はしていたつもりだったけど、仕事漬けの日々はなかなかにキツいものだった。
 朝から晩まで働きに働き、事務所に帰ったらベッドに倒れ込んで気絶するように眠る。入浴する気力なんて残ってるはずもなく、翌朝大急ぎでシャワーを浴びて、また仕事に出かける。空いた時間なんて全くない。湯舟に漬かれるなんて言ったのはどこの誰だろう、私か。

 ボロ雑巾みたいになりながら仕事を消化し、あとは事務所に帰るだけ、というある日、珍しくちひろさんが迎えにきた。

「ちひろさんも運転できたんだ?」

 助手席から問いかける。

「ほとんど通勤にしか使ってませんけどね」

「そういえば、これも社用車じゃないよね、ちひろさんの?」

「はい、乗り慣れてない車だと怖いので」

 すると、この車内はちひろさんのプライベート空間ってわけだね。
 どれどれ、とグローブボックスを開けてみる。

「あ! 杏ちゃん!? ……見てしまいましたね?」

「うん、1本もらうね」

 ぎっしりとエナジードリンク、通称エナドリが詰め込まれていた。

「はぁ……1本だけですよ」

 このエナドリと、姉妹商品のスタドリは、元々はそこらのコンビニでも売られていたんだけど、ある時期に何件かの死亡事故が相次いで起こったことによって、今は一般販売はされていない。
 死因はカフェイン中毒。これらには多量のカフェインが含まれていて、眠気覚まし的な用途で絶大な人気があった。それを多量摂取した結果――というわけだ。
 多量とは言っても、1日に1本や2本、どころか5本や10本飲んだところで、致死量には至らないはずで、死んでしまった人は、ちょっと普通では考えられないような量を飲んでいたことになる。だから商品自体に問題があるわけじゃない。
 それでも、人が死んだとなるとイメージが悪いのだろう。コンビニやスーパーといった小売り業者がことごとく販売自粛をし、すっかり店頭で見かけることはなくなった。
 しかしメーカー側もなかなかにしぶといもので、一般販売からは撤退した代わりに、企業向けの販売を始めた。元々サラリーマンが主な顧客だったこともあってか、人気は根強く、これはこれで商売として成り立っているらしい。
 346プロでは、ちひろさんがこの購入と管理を一手に引き受けている。社員はちひろさんに申請し、エナドリもしくはスタドリをもらう、その代金は給料から直接引かれるそうだ。
 また、この2種の商品は、一般販売がなくなったせいで、ちょっとしたプレミア的価値が付き、たまにネットオークションで定価の2~3倍ぐらいの値段で取引がされている。
 そんな事情もあって、社内ではちひろさんが立場を利用してこれらの横流しを行い、私腹を肥やしてるんじゃないかという黒い噂も――

「――流れてるんだけど、知ってる?」

「知ってますけどね、根も葉もない噂ですよ! 私がそんなことするはずないでしょう!」

「んー、でも杏だったらやるかも……だって確実に儲かるでしょ、それ」

「そんなの、バレたら確実に一発でクビですよ。私、これでも同年代にしちゃ、かなりいいお給料もらってるんですからね、そんなチンケな小遣い稼ぎのために首を賭けるようなリスクは背負いません!」

「なるほど、なかなか説得力あるね」

 けらけらと笑いながら運転席に目を向ける。ハンドルを握るちひろさんは不満そうに頬を膨らませていた。かわいらしいことで。
 最近のちひろさんは、外での仕事が多くなったためか、いつもの黄緑色のジャケットは封印し、ダークグレーのパンツスーツを着て、綱引きの綱みたいな三つ編みもほどいている。
 こうやって見ると、なかなか『デキる女』という感じがしてかっこいい。

「……ちひろさんて、彼氏いないの?」

 言った直後、車が急停止する。シートベルトが食い込んで痛かった。

「杏ちゃん……今事故なんて起こすわけにはいかないんですからね? あんまり変なこと言わないでください!」

「ごめんごめん」

 どうやら地雷を踏んだらしい。この手の話はやめとこう。

「じゃあ、なんかつまらない話してよ」

「また奇妙なオーダーしますね。そんなの言われたの初めてですよ」

「いや、こないだ専務に送ってもらったときにさ――」

 先日専務と交わした会話をかいつまんで説明する。
 できない人間の気持ちなんてものは、多くの人間が理解できる。だったら本当に最初からできる人間の想いは誰に理解してもらえるのだろう――というアレだ。

「ううん……私の考えは、専務とは少し違いますね」

「というと?」

「まず、凡人同士が理解しあってるというのが正しいか、私には疑問ですね」

「そっからなんだ」

「はい、たとえばですね『緑色の大きいの』って言ったら、なにを思い浮かべます?」

「うん? それだけだと何個か思いつくから……どれ言えばいいんだろ?」

「それが正しいんですよ。杏ちゃんはさすがですね」

「いや、意味が分からないよ。説明を求める」

「こういう質問を受けて思い当たるものがひとつしかないと、それのことだと思い込んでしまうみたいですよ」

「ふむ?」

「あるふたりで『緑色の大きいの』の話をしていたとします。どちらも、その特徴に当たるものはひとつしか知りません。だけどそれぞれは別のものを思い浮かべていて、えーと……片方が超人ハルクで、もう片方がドラゴンクエストのギガンテスだったとします」

「まあ、条件は満たしてるね。それで?」

「これでも会話が成り立ったりするんですよ。注意すれば『なんか変だな?』って思うはずなんですけどね。注意なんてしませんから。それでどうなるかというと、ひとりは『ハルクについて語り合った』、もうひとりは『ギガンテスについて語り合った』という認識になります」

「んー、なんとなくわかったけど、つまり?」

「本当は理解しあってるんじゃなくて、理解したと勘違いしている、ということですね」

「ひどい結論だ」

「そんなことないですよ」

「そう?」

「本当に理解しあいたいと思ったら、伝えようとする努力を、受け手は理解しようとする努力が必要です。なにもしなくても勝手に通じ合えるというのが間違いなんです。私は『最初からできる人間』が他人からは理解されないとも思いません。どうせわからないだろうという先入観で、伝える努力を放棄してるんじゃないですか?」

「ほほー」

「もちろん、それでも伝わるとは限りませんけどね、一方通行じゃ意味がないですし。……つまり私は、能力ではなくて意思の問題だと思うんです。伝えようとする意思と理解しようとする意志、双方にそれがあるのなら、誰だって、ちゃんと分かりあえます」

「なるほどね。なかなか面白い。そんで、ちひろさんて意外と理屈っぽいんだね」

「あ、すみません、なんかつい……」

「こりゃあモテないわ」

「杏ちゃん?」

     〇

『アイドルに興味はありませんか』

 東京でのひとり暮らしを謳歌していたある日、買い物をし過ぎて重みによろめいていた私の荷物持ちを手伝ってくれた男の人が、そんなことを言った。
 まず抱いた感想は「詐欺かな」だったよ。たぶん誰だってそう思う、私もそう思う。
 男の人は、その反応には慣れているといった様子で名刺を差し出してきた。346プロダクション……私でも知ってる、大手の芸能事務所だね。
 アイドルなんてものに憧れは持っていなかったけど、お金の話には興味を引かれた。
 上京してからの私は自堕落の見本のような生活をしていて、すっかり怠け癖がついていた。できることなら、一生のんびりダラダラと、なにも思い煩うことなく生きていたかった。

 猫を被ると後々面倒臭い、いっそ堂々と印税の話を聞かせてもらおう。と、駄目で元々の気持ちで、私はオーディション会場に行った。そこで初めて、きらりと出会った。
 オーディションを受け、なんだかんだで、私は合格してしまった。本当にいいのか? それで。
 建物を出ると、同じく受かったらしい、きらりがはしゃいでいた。同僚、ってことになるのかな?
 せっかくだからと帰り道の途中まで、いっしょに歩いて、少し話をした。

 きれいな衣装、すてきな歌、キラキラのステージ、か。私にはよくわからない。私が求めるのは植物のような平穏な人生というもので、申し訳ないけど、きらりが並べ立てたそれらには全く興味が湧かなかった。
 だけど、「怖がられたくない」っていう、その気持ちだけは、痛いほどによくわかった。

 私はなにも変わらない。でも、仲間ができた。

     〇

 そして、346プロダクションの命運を賭けた、たったひとりの舞踏会、
 ハイパーニートを迎える朝が訪れる。


 午前中に何件かの取材をこなし、午後からは通しのリハーサルをおこなった。
 といっても、実際に歌ったり踊ったりはしない。ステージ中央に組み立てたパイプ椅子に腰掛け、セットリスト(ほぼ私の独断で決めた)の通りに曲が流れたり照明が変わったりする様子を眺めていた。
 はたから見ていると、「意味あるのか?」と思われるかもしれない。でも、もちろんある。リハーサルは音響、照明、その他諸々のスタッフにも必要だし、私にも絶対に必要だった。
 リハーサルはつつがなく終了し、開場が始まる。

 しばらくして、スタッフから報告が届く。『ほぼ満員』だって。
 それを聞いた私は、魂が抜けてっちゃいそうなぐらい心の底から安堵した。崖からダイブした甲斐があったってもんだよ。



 開演までの間、私にできることはなにもない。
 スタッフがあわただしく駆け回る中、私は楽屋でソファに腰掛け、ぼうっとその時を待っていた。
 前回は、出演者で集まって円陣を組んで、掛け声を唱和とかしてたな、私は内心「面倒臭いなぁ」なんて思いながら付き合っていたけど、なんだかそれを懐かしく感じてしまう。大きな会場で、ひとりきりの楽屋は、とてもとても広い。
 ……寂しがってる場合じゃないでしょ、これから一世一代の大舞台だってのにさ。

 ドアをノックする音が耳に届く。「どうぞ」と言うと、専務が部屋に入ってきた。

「失礼する。……邪魔ではなかったか?」

「ん、へーき。こんなとこに来てていいの? 忙しいんじゃない?」

「この段階まで来てしまえば、責任者にできることなどないよ。下手にうろついていてもお荷物になるだけだ」

「そうかもね。それで杏の楽屋まで逃げてきたんだ?」

「もし迷惑でなければ、君相手につまらない話でもしようかと思ってな」

「奇遇だね。杏もちょうど、専務のつまらない話を聞きたいと思ってたところだよ」

 専務はふっと小さく笑った。

「インフルエンザの大量罹患が判明した最初の日、私と君と千川君で、専務室に集まったときのことを覚えているか?」

「一生忘れられそうにないね」

「あのとき私は、アイドル部門を解散すると言った。それが、損害を最も少なくする方針であったからだ。あの判断は、今でも間違っていなかったと思っている。私は立場上、被害を最小限に留める義務があった」

「そうだろうね」

「だが、その後の君の提案を聞いて、心が揺らいだ。……我が社のアイドルでは、単純な人気、知名度で言えば、君よりも高垣楓や渋谷凛のほうが上だ。しかし私は、仮に残ったのが君ではなくあのふたりのいずれかで、同様の提案を受けたとしても、首を縦には振らなかったろう」

「なんで?」

「不可能だからだ、彼女らには。わかっているだろう?」

「どうだろうね」

「双葉杏、君は合理的な人間だ。失敗の可能性が高いことに固執するよりは、別のところでリカバリーをはかるといった考え方をする。良くも悪くも諦めがいいとでもいうのかな」

「まあ、否定はしないよ」

「その君が、できると言った。あの時の君は、感情に流されているようには見えなかった。機械のように冷静に、冷徹に計算した上で、あの提案をしたように見えた。……私は自分の判断に自信が持てなくなった。そして、君の提案を受け入れた。責任者としては失格だろうがな」

「感謝してるよ、ホントにね」

 コンコンとノックの音が鳴る。時計を見ると間もなく開演時間だった。スタッフが私を呼びに来たんだろう。

 最後に大鏡で自分の姿をチェックする。髪・衣装・メイク、問題なし――あとは、これか。

「準備完了。じゃ、行ってくるね」

「……普通であれば、これから舞台に立つ演者にプレッシャーを与えてはいけないのだろうが、君は緊張などとは無縁なようだから、遠慮なく言わせてもらおうかな。この舞踏会、成功を期待している。君ならできる。おそらく、君にしかできない」

「専務ってさ、けっこう人をおだてるの上手いよね。重役の椅子なんか捨ててプロデューサーにでもなればいいよ」

「それも悪くない」

 どこまで本気で言ってるんだか、と苦笑しながら、楽屋を出てスタンバイ位置へと向かう。
 まあ、おかげさまで、ちょっとだけ、

「気合い入ったよ」


 場内に設置された大きいモニターには、今頃オープニング用のムービーが流れているだろう。
 私が立っているリフトはステージ後方の、真下ということになる。実はこれはスタッフによる人力で、リフトごと乗っている人をステージ上に押し上げる。けっこうなスピードが出るので、少し体が宙に浮く。
 アイドルたちの間では、遊園地のアトラクションみたいで楽しい、という子もいれば、怖いという子もいたりする。私は楽しんでいた方だったけど、もうこんなもんじゃ、スリルを感じなくなっちゃったね。

 体に強烈な荷重がのしかかり、ふっと消えてなくなる。

 視界が光の海に染まり、歓声が一気に大きくなる。

 浮遊感の中、最近のトレードマークとなっているマスクに手をかける。

 着地と同時にそれを引き剥がし、舞台袖のほうに放り投げる。

 ステージ中央に駆け寄り、そこに鎮座していたマイクスタンドに手をかける。



 ――今からほんの数時間、たったそれだけでいい。

 ――かつて自らが投げ捨てた、『なんでもできる双葉杏』を取り戻す。



「みなさんこんばんは!! 杏は、天才だぜい!!!」


 我ながらわけのわからない第一声を放ってしまったけど、盛り上がってるからよしとしよう。

 最初の曲は、みんな大好き『おねがいシンデレラ』。346プロのイベントだとだいたいセットリストに入ってくるから、ファンたちもずいぶん聴き慣れ、観慣れているだろう。
だけど、今日の私のおねシンは一味違う。……どう違うのかは、観てもわからないだろうけどね。
『わからない』、それが重要なんだ。他のアイドルがやるときと同じように歌い、踊っているように見せて、実は私はほとんど動いていない。
 慣性、重力、空気抵抗、ひるがえる衣装の裾までコントロールし、大きく動いて見えるように、可能な限り小さく動く。

 私はスタミナがない。346プロの中でも、下から数えた方がよほど早いだろう。
 だけど私は、いつだって楽をしようと考えてきた。同じ振り付けの中でも、少しでも疲れない方法はないかと、ずっと考えてきた。これはそうして編み出した、私だけの反則技だ。

 3時間以上の長丁場、ウチの事務所のどんな体力自慢でも持たないだろう。
 でもこの技術があるから、ただひとり――私だけが踊り続けられる。



 最初の曲が終わり、拍手と歓声が上がる。体力の消耗はほとんどない。でもまだまだ序の口、ここからが本番だ。
 私の持ち歌はそう多くない。この後は他のアイドルの歌を片っ端からカバーする。
 まずは未央から、歌を借りるよ。

 新型インフルエンザが発覚してから、私は一切のレッスンをしなかった。
 過去のライブで歌った経験もない。せいぜいが遊びに行ったときにカラオケで歌う程度で、到底プロのステージで披露できるようなシロモノじゃない。

 ――でも、歌える。踊れる。

 この1週間、私は馬車馬のごとく働く一方で、タブレット端末を肌身離さず持ち歩いていた。そして、同僚アイドルたちが舞台に立つ姿を、仕事の待ち時間、移動中、食事中、あらゆるわずかな隙間を使って、繰り返し観てきた。
 その動きと歌声を目と耳に焼き付けて、演じる姿を自分に変換して、省略できる動きを分析して、自分用にアレンジした。
 そうやって脳内で組み立てたイメージを寸分たがわずトレースする。
 私には、それができる。

 3曲目、4曲目、5曲目、6曲目、いくら省エネを心がけても、さすがに疲労が積もってくる。
 ちょくちょくMCも挟むけど、ひとりきりの舞台である以上、ほぼ喋りっぱなしの形になるから、休憩としての効果はあまりない。動かなくていい分、消耗が少なくなるって程度だ。
 しかしまあ、いろんなお仕事させられたせいで、話すネタにはこと欠かない。特に幸子の番組の話題はウケがよかった。二度とやらないぞチクショウ。


 セットリストのおよそ半分を消化したところで、「楽屋で寝てくるから起こさないでね」と手を振ってステージを後にする。
 もともと予定されていた休憩時間であることはお客さんも知っているので、笑い声が見送ってくれた。「おやすみー」って言ってる人もいたね。



 楽屋に引っ込んだ私はソファに身を沈めた。予定だと休憩は15分、ステージからここまでに30秒を費やしたから残りは14分と30秒、この隙に、本当に寝る。

「今から12分経ったら起こして」

 そう言って、返事も待たずに目を閉じた。
 


「――杏ちゃん」

 と、ちひろさんの声。目を開き、時計を確認する。ちょうど12分経過だ。
 やっぱり睡眠ってのはいちばんの回復法だね。短時間とはいえ、効果はなかなか大きい。
 
「エナドリちょうだい」

「あ、はい。……起きてたんですか?」

「いや? 寝てたよ、なんで?」

「ずっと見てましたけど、杏ちゃん、微動だにしませんでしたよ。だから、目を閉じているだけなのかと……」

「10分以上も杏の寝顔眺めてたの? 暇だね」

 エナドリを注いだコップを受け取る。ひといきに飲み干して、盛大なげっぷをした。下品だけどさ、胃の中のガスを抜いておかないといけないからね。

 ステージに舞い戻った私は、マイクに向けて「おはよう」と言って、大あくびをした。
 客席から「おはよう」の合唱が返ってくる。よしよし、いい空気だ。
 
 さて、ここから必要になってくるのは、疲労度の計算だ。
 ゲームと現実の違うところは、ダメージの影響というもので、現実世界では瀕死の人間に全力の一撃は放てない。
 疲労が蓄積すればどうしたって動きは鈍る。どれだけの影響が出るかは事前に予想はできない。
 だから、できるだけ正確に体力の残量を把握し、ここから更に積もっていくであろう疲労を予測し、それをごまかすためにイメージの修正をしなければならない。

 歌って踊ってしゃべくって、それと並行して計算とイメージ映像を作って。
 ……ここまで頭を使ってるのは、これまでの人生でもそうそうなかったよ。

 1曲歌い終わるごとにボディブローのように疲労が積み重なってくる。さすがに余裕はなくなって、徐々に体の動きも衰えてくる。
 それでも質は落とさない。中身はどんなにボロボロでも、表面上だけは優雅に舞う。

 再計算、再計算、体が追い付かない部分は、お客さんから見えない角度に持っていけ。



ガルパンスレだと感知がしたンゴ

杏次元ハタラケ杏

 舞踏会後半を終えて楽屋に戻る。もちろんこれで終わりではなく、アンコールも当然あるものとしてセットリストに組み込んである。実質的には3部構成の2部が終わったところだ。まだこれから、アンコール分として3曲を披露する。

「飴、ちょうだい」

 必死に呼吸を整えながらソファに身を沈め、ささやくように言う。もはや声を発する体力も温存したい。

「先ほどのように、少しでも眠ったらどうだ?」

 小さく首を横に振る。すでに体力は限界に近く、今眠ったらもう起きれる自信がない。
 専務が飴の袋を向けてくる。私はそこに手を突っ込んで4つほどつかみ出し、乱暴に包み紙をはがしてまとめて口に入れた。

「エナドリを」

 ちひろさんがエナドリを注いだコップを差し出す。それを受け取って、口中の飴を奥歯で噛み砕き、エナドリで飲み下す。
 空になったコップを返し、全身の力を抜く。誰も言葉を発さない。時計の針が進む音だけが小さく響き、やがて開始予定時間の1分前を告げた。

「……いけるか?」

 専務が問いかける。私はうなずきを返し、すっくと立ちあがった。

「杏ちゃん……ステージで死んじゃだめですよ。加蓮ちゃんじゃないんですから」

 ちひろさんがつぶやいた。加蓮は死んでないよ。 



 赤いライトが照らす円が複数、ステージを駆け巡っている。
 その軌道はランダムであるように見えて、実は一定の規則がある。それを知っていれば、ライトが照らすことのないルートを通ってステージ中央まで辿り着けるって寸法だ。

 マイクスタンドの前までやってきたけど、暗闇にまぎれてきたため、お客さんはまだ気付いていない。アンコールの声が響く中、そのままの位置でしばし待つ。
 やがて駆け巡るライトが中央で重なり、私を四方八方から照らしだした。その瞬間に、私は生まれて初めてのシャウトというものを披露した。

 アンコール一発目の曲は『毒茸伝説』、唯一無二のメタルキノコアイドル、星輝子ちゃんの歌だ。

 346プロのアイドルで楽曲をカバーしあうことは珍しくない。ただ彼女の曲に限っては、これまでほとんど歌われたことはない。理由は至極単純で、まともに歌いこなすことができるのが、本家本元の輝子ちゃん以外にいなかったからだ。
 だけど、私ほどではないにしろ、輝子ちゃんは相当に小柄なほうだ。人体の構造はそう変わらない。要は技術の問題だ。己の体が持っている機能を正しく使うことができれば、私にだってあの声は出せるはず――そして、出せた。

 アンコール前の楽屋で私は、ここで凛たちがアメリカンコミックヒーローみたいにジャジャーンと登場して、「もう大丈夫、あとは私たちにまかせて!」とか言って、舞踏会の残りを受け持ってくれたらいいのにな、なんて思っていた。
 もちろん現実は非情だから、そんなことは起こらない。原因が伝染病なんだから、たとえ奇跡的に体調が回復したとしても、お客さんが詰めかけてるこの場所に顔を出すことなんてありえない。
 だけど、私が望んでしまうのと同じように、ファンたちもそんな展開を期待したはずだ。絶対にするだろう。この状況で、まさかのシンデレラプロジェクト大集合なんてなれば大盛り上がり間違いなしなんだから。
 期待は落胆となって、満足度を押し下げてしまう。だから、それに代わるサプライズが必要だった。
 私が歌う、私に最も似つかわしくない、絶大なインパクトをもたらす、この曲のパワーが。

 そして結果は――上々の出来だ、今日一番の盛り上がりと言っていい。掲げられたサイリウムの光で、客席が炎に包まれたようになっていた。

 ただ、予想はしていたけど負担がキツイ。喉がゴリゴリと音を立てて削れていくようだ。同じような声を出していても、輝子ちゃんはいつもなんでもないように歌っていた。きっとなにか負担を減らすようなテクニックがあるんだろう。観て、聴いているだけではつかめなかった、私はまだその領域までは達していない。
 でもかまわない。どうせ残り時間はたいしてない。余裕を残すというのは無駄があるということだ。あるものは全部使い切る。舞踏会が終わったら、声も出せなくなってるぐらいがちょうどいい。

 ――あと2曲。

 間髪入れずに流れ始めた曲は、私の持ち歌のひとつである。
 ただしここで歌うのは、曲自体はそのままに、歌詞とセリフを大幅に改変した、誰も聴いたことのないバージョンだ。
 なぜなら、これは本来はデュエット曲だったから。
 私と、きらりで歌うための曲だから。

 エナドリ様の加護も切れてきたか、疲労は極限に達していた。
 体は服を着たまま水をかぶったように重く、喉はひと声発するごとにヤスリでもかけられるみたいに痛んだ。

 何度も自問した。
 こんなにも苦しい思いをして、柄にもなく一生懸命になっちゃって、
 どうして私は、こんなことをしているのか――


 このインフルエンザ騒ぎについて、私の中にはひとつの有力な仮説があった。

 このウイルスは、恐るべき感染力で短期間に爆発的に流行はするが、ある程度から先には広がらない。
 それは、短い潜伏期間と重い症状という特性によるものだ。感染者はろくに身動きもとれなくなるから、新たに人と接触することがない。この病気はそう遠くないうちに勝手に根絶される、間違えた進化をしたウイルスだ。
 だから、局地的に甚大な被害をもたらしつつも、世界中に広がってはいない。国内では今のところ346プロだけでしか発生が確認されていない。
 じゃあ、346プロにはどこからやってきた?

 専務は気付いているだろうか? ちひろさんはどうだろう? 今は多忙でそんなことを考えるどころじゃないのかもしれない。だけど、あのふたりも、寝込んでいるみんなも、いつかは必ず疑問に思う。この病気はどこからやってきたのかって。
 そんなの『外』に決まってる。
 健康診断より前に発症していた十数人、その中で、直近に海外渡航歴がある人間なんてそうはいない。この病気を日本に持ち込んだのは、おそらく、フランスでの仕事から帰ってきたばかりの、きらりだ。

 多くの人は、気になったとしても、わざわざ調べようなんて思わないかもしれない。
 だけど、きらり本人は間違いなく気付くだろう。

 ……誰もきらりを責めたりなんてしないよ。インフルエンザなんて天災と同じだ。誰が悪いわけでもない。それでプロダクションが潰れたとしても、きらりのせいでなんかあるはずがない。
 それでも、誰もきらりを責めなくても、きらりがきらりを責めるだろう。あの子は、根っこのところは誰よりも真面目で、責任感が強くて、とても繊細にできているから。

 私はなにも変わらない。双葉杏はいつだって利己的で、自堕落で、自分の都合のためにしか動かない。 
 事務所のためじゃない、仲間のアイドルのためでもない、ファンのみんなのためですらない。全ては私自身の、自分勝手な理由。



 ――だって、きっと泣くから。



 きらりの涙はもう見たくない。……ただ、それだけなんだよ。



 だから私はひとりでも歌う。
 こんなのは大したことじゃないって、これはどこにでもあるアクシデントで、ちょっとみんなで熱を出して寝込んだっていうだけの話で、ほとぼりが冷めたころにふと思い出して、「あのときは大変だったね」なんて笑い合う。
 ただそれだけの、ほんのささいな思い出話にするんだ。



 だから、今度はふたりで、いっしょに歌おうね。



 手を振って喝采に答えながら、激しく息をつく。
 体中の血が蛇口の壊れた水道みたいに暴れまわっている。
 苦しい。
 酸素が足りない。

 でも、どんなに苦しくったって、あと1曲で全てが終わる、1曲、たったのあと1曲だ。



 ――一瞬の油断。意識が途切れる。



 はっと我に返る。私は床に片膝をついていた。

 ……なんで膝なんかついてる? まさか眠っていた? どのくらい?

 落ち着け、パニックになるな――そう自分に言い聞かせ、現状把握につとめる。

 客席は、特に騒ぎにはなっていない。そして、意識のないままこの体勢を保持するのは不可能だ。眠っていたのは一秒にも満たないようなほんの一瞬のはず、マイクだってちゃんと握っている、なにも問題はない。



 問題はない――けど、

 立てない。脚に力が入らない。

 まったくもう……あと一曲だってのにさ。なんでここで気を緩めちゃったかな。

 視界の端にスタッフがうろたえている様子が見えたので、客席からはわからないように、そっと押しとどめるようなジェスチャーをした。ここで駆け寄ってこられては全部台無しだ。
 仕方ない、ちょっと見栄えは悪いけど、この体勢のまま歌ってやるさ、と考える。
 だけど、なかなか最後の曲は流れ始めない。曲が流れないことには、歌うこともできない。

 そういえば漫画やアニメなんかで、死の淵に瀕した人の脳裏にそれまでの人生が走馬灯のように流れるとかいうやつ。アレは一説によると、生き延びる術を求めて過去の記憶を高速で検索しているらしい。
 なんで突然そんなことを思い出したかというと、今のこの状況に、どこか覚えがあったから。
 それは――そう、ニュージェネレーションズのライブ、卯月のステージだ。
 その頃の卯月はスランプが続いていて、しばらく仕事とは遠ざかっていた。復帰の舞台だった。
 マイクを前にして立ちすくむ卯月、私はその様子を見ながら、『なんでさっさと音楽をかけないのさ、曲が始まれば卯月だって歌えるでしょ』そう思っていた。
 なぜ曲を流さないか、それは判断する術がないからだ。始めてしまっていいのか、そのまま時間を置くべきなのか、中止するのか、選択するための材料がないからだ。
 だから、こっちからの合図が要るんだ。
 卯月はどうしたっけ? あまり喋りは達者じゃない、個性的なパフォーマンスも持っていない、あの子はただ、不器用に叫んだ「島村卯月がんばります!」と。
 なるほど、だったら「双葉杏がんばります」……違うな。一番あってはいけない宣言だ。多忙のあまり気が狂ったと思われるかもしれない。
 そっくり卯月の真似をしてもダメだ、私は私の言葉で、客席のファンがいぶかしむことなく、それでいてスタッフには続行の意思表示と聞こえるような合図を送らなくてはいけない。いっそ堂々と「早く次の曲かけてよ」とマイクで言ってしまうか。私のキャラクター性なら、それもアリだろうか――と、

 思わず笑い出しそうになってしまった。
 よっぽど頭がボケていたらしい。
 合図なんて、意思表示の言葉なんて、考えるまでもないことだったのに。

 さすがになにかおかしいと思ったのか、徐々に客席がざわつき始める。
 再度脚の状態を確認する。相変わらずガクガクと細かく震えていて、力はまるで入らず、やっぱり立つことはできそうにない。

 だから、寝ることにした。

 転がるようにして床にあおむけになり、手足を受け身でもとるみたいに、大きく、わざとらしく床にたたきつける。
 衝撃で片方の靴が脱げてどこかにすっ飛んで行ったけど、気にしない。もう、靴なんていらない。

 大の字に寝そべった姿勢から、両手を顔の前に持っていき、大きく息を吸い込む。
 そして、握りしめたマイクに向かって、叫んだ。



「嫌だ! 私は働かないぞ!!!」


自分を杏だと思ってる一般人

 客席のざわめきがピタリと止む。

 不労宣言が虚空に吸い込まれ、消え、静寂に包まれた。その直後、前奏の音が流れるとともに怒号のような歓声が響き渡った。

 それは私のデビュー曲。ひたすらに紡がれる『働きたくない』というメッセージ、それを主張し、叫ぶことが私の仕事になってしまうという、パラドックスの歌だ。

 これまでに何百回と歌わされ続けたその歌は、傷つきしゃがれた喉でも、自分の脚で立つこともできないボロボロの体でも、まるで呼吸のように、心臓を鼓動させるように、眠るように、自然に歌うことができた。

 もうなにも心配はいらない。七面倒臭い計算をする必要もない。もう何も考えずに、ただこの歌を歌えばいい。
 気が付けば、全身を襲っていた疲労感が消えていた。
 動けもしないくせに、羽でも生えたみたいに体が軽く感じた。
「へんなの」と思った。それから「死ぬのかな?」と思った。最後に「懐かしいな」と思った。
 この感覚は知っている。昔はずっとこうだった。どれだけ遊び倒しても疲れなんて感じることはなくて、どこまでも無限に走っていけて、その気になれば、きっと空だって飛べた。
 世界はみんな私の遊び場、なんでもできる天才少女、だけど本当は、私にとってそんなのはどうでもよくて、ただ「杏ちゃんはすごいね」って褒めてもらうことが好きだった。頭をなでてくれる大きな手と、ごほうびの飴が好きだった。

 思えば、ちひろさんの言う「伝える努力」とやらを、私はずっと怠っていたのだろう。 いつも他人の気持ちは注意深く察して、自分が傷つかないように、他人を傷つけないように、先手を取って立ち回った。だけど、自分の気持ちなんてものは伝えようとは思わなかった。理解してもらう必要なんてないと、そう思っていた。

 私はなにも変わらなかった。でも――少しだけ、変わってみるのもいいかもしれない。

 この舞踏会が終わって、もう少しだけ仕事をして、事務所の皆が復帰したら、ちょっと長めの休暇をもらおう。そして北海道の実家に顔を出してみよう。
「杏はがんばってるぜい!」って、堂々と胸を張って、たくさんたくさん誉めてもらおう。
 また昔みたいに、「杏ちゃんはすごいね」って、笑ってくれるかな。

 歌が終わる。音楽が終わる。つぶやくような最後のセリフと共に、体力残量を示す計器の針が、ぴったりとゼロを指す。
『双葉杏の舞踏会 ~The Hyper NEET~』、その全行程が終了した。
 体はとうにヘトヘトで、もう客席に顔を向けることだってできやしない。だけど、ファンのみんなが喜んでくれたことはわかった。万雷の拍手と歓声が、それを伝えてくれた。
 ステージが完全に暗転するまでの短い間、もはや自力で動くこともできないから、ひたすらに天井を眺めていた。

 ゆっくりと光度を下げていくライトは、なんだか専務のくれる飴玉みたいに見えて、手を伸ばせば、私のこの小さな手でも、つかみとれそうな気がした。



 ふいに鼻面に痛みが走る。
 握りしめていたマイクが両手からすべり落ちて、顔面に降ってきたらしい。幸いにも音響スタッフによってすでにスイッチは切られていたらしく、音を拾うことはなかったけれども。

 せっかくいい気分で眠れそうだったのにさ、最後の最後に、締まらないでやんの――


 目覚めると、それなりに見慣れた天井があった。ここ最近の私の寝床となっている事務所の仮眠室だ。

 かなり長い時間眠っていたらしい、目と頭はさっぱりと覚めていた。ただし、疲労感と筋肉痛がただごとじゃない。
 首を動かして壁にかかった時計に目を向ける、10時だった。朝の10時だろう。このまま次の朝まで寝ていたいなと思うけど、もちろんそういうわけにもいかない。
 ベッドから体を起こし、大きく伸びをする。体の中からベキバキボキボキボキと複雑骨折みたいな音がした。

 眠りにつく前の最後の記憶は、鼻の痛みとステージの天井だ。
 照明が完全に落ち切ったあと、スタッフが私を回収したはず。そこまでは間違いないとして、それから眠りこける私を起こすのもしのびないと思ったのか、寝かせたまま、専務かちひろさんがここへ運んできたのだろう。
 なんとなく、専務のような気がした。特に根拠はないけれど。

 己の身をよく見れば、見覚えのないTシャツを着ていた。眠っている間に着替えまでさせられていたらしい。下はレッスン用のジャージを穿いている。まあステージ衣装のまま寝かせておくわけにもいかないか。しかし、よく起きないもんだね、私。
 そこらで買ってきたらしいTシャツは、白地に毛筆っぽいフォントで文字が書いてあった。えーと『一攫千金』かな、選んだのはちひろさんだろう。これは専務のセンスじゃない。

 ライブで疲れ果てているのは想定内、だから今日の午前中は予定は入れていないはずだ。午後からは、なんの仕事だったかな?
 専務かちひろさんを捕まえて確認しないとね、と錆びたロボットみたいに軋みを上げる体を引きずって仮眠室を出た。そして、本来ならそこにいるはずのない人物が目に映る。

「……プロデューサー?」

「双葉さん、おはようございます。昨日の舞踏会お疲れさまでした。あいにく私は直接観ることはかないませんでしたが、素晴らしい舞台であったとうかがっております。本日の9時よりチケットの払い戻しの受け付けが始まっていますが、1時間経過した今も、1件の申請もないようです」

 おう、そりゃあよかった。いや、それよりも、

「杏が聞いた話だと、回復するまでは、もうしばらくかかるはずなんだけど……」

「一ノ瀬さんが開発した薬を服用し、無事に完治いたしました」

 それからプロデューサーが語ったところによると、私がみんなの仕事を肩代わりして働きまくっている間、我が346プロダクションの誇るギフテッド、一ノ瀬志希さんが、病身を押して新型にも効く特効薬の研究・開発にいそしんでいたらしい。
 必要な材料はちひろさんが調達し、届けていた。そして、その話を聞いたプロデューサーが被験者として名乗り出た。当初志希さんは自分自身を実験台とするつもりでいたけど、もしも投薬によってなんらかの問題が発生した場合、志希さん自身が身動きとれなくなっているようでは対策も取れない、というプロデューサーの言を聞き入れたそうな。
 そうして完成した薬は、一切の副作用もなく、見事プロデューサーを全快させた。

「精密検査も受けまして、体内にウイルスが残っていないことは確認できております」

「だったら、他のみんなも?」

「はい。検査の結果、私に異常が見られないことを確認できたのちに一ノ瀬さんも薬を服用し、すでに回復しました。彼女は今、アイドルの皆さんとプロダクションの社員のもとを訪ねて回っております。正式に認可されたものではありませんから、あくまで本人の意思でということになりますが、現在のところ投薬を拒んだ方はいないようです。効果が出るまでに多少の時間がかかりますので、本日中というわけにはいきませんが、明日には皆、復帰が可能でしょう」

「ホ……ホントに……?」

 プロデューサーがこくりとうなずく。
 つまりそれは、私がこの地獄のごとき働きづめの生活から解放されるということだ。

「あっ! みんなが寝込んでる間は杏がひとりでこの事務所を守ってきたんだからね! 相応の見返りはいただくよ! 具体的には長期休暇と……あと臨時ボーナスを要求する!」

「そうですね。このたびの双葉さんの功績は計り知れません。明日にでも会議にかけることになりますが、反対する者はいないでしょう。臨時ボーナスは確約できると思います」

 おお、言ってみるもんだ。
 って、そっちはついでだから。重要なのはもうひとつのほうで、

「休暇は?」

 そう問いかけると、プロデューサーはスッと目をそらし、首の後ろに手を添えた。
 おい待て、ここにきてそのポーズはどういうことだ。

「……ここ最近の、双葉さんのめざましいご活躍、そして昨日の舞踏会の成功により、仕事の依頼が殺到しているようです。それも双葉さんの名声をよりいっそう広められるような、大型の案件が多く」

 名声なんてどうでもいいよ!
 私は働いたよ! 怠け者の私が! 働くことの大嫌いなこの私が! この1週間、誰よりも働いたよね!?

「たいへん申し訳ありませんが、もうしばらくのあいだ、ご多忙を強いることになってしまいそうです。……しかし私は、双葉さんならばきっと、この困難をも乗り越えてくれると信じています。なにしろ――」

 そう言って、プロデューサーは、ふいに顔をほころばせ、

「双葉さんは、天才ですから」



 ――なんて、

 ふだん口癖みたいに『笑顔笑顔』言ってるくせして、自分はいつだって鉄仮面みたいな仏頂面をしているプロデューサーが、これまでに一度も見せたことがないような極上の笑顔で言うもんだから、

 私は心の中で深くため息をつきながら、こう言うしかなかったんだ。





「ふざけんな、ばかぁあああ!!!!!」



   ~Fin~

きらりの話読んでたわ
どストライクな話でした
めっちゃ面白かった
乙!

くっそよかったぞ!
後日談とかあってもいいんだぞ
おつおつ

おっもしれえ!おつ!

最高だった めっちゃいい

おつ
きらりの話好き
これも良かった

杏さんマジハイパーニート。乙でした!


頑張るための原動力がきらりの為というのが杏らしいな

これが伝説のスーパーニートか…

>>4辺りでゾンビ物か大量死かと思った

おつおつ
すごい面白かった

杏おっつ
素晴らしいものを読ませて頂いた


面白かった

おつおつ 凄い面白かったです 過去作も読んできます

おつです!
懸命な杏も皆も本当にかっこよかったw

杏と専務の距離感の描き方が好きだわ
すげー面白い

大好き

面白かった

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