中野有香「雨上がり、今日は朝から」 (37)
濡れた草むらに思い切り足を踏み込むと、水滴が勢い良く宙に舞い、キラキラと光った。昨日一日しとしと降り続いた雨を忘れてしまうくらい、今日は晴れだ。
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あたしの一日はランニングから始まる。元々は空手のために始めた習慣だが、アイドルにとっても体力は資本なのでずっと続けている。河川敷を走って、いつもはそのまま道場に向かうのだが、今日は少し特別だ。今からやって来るその特別な時を思うと、気持ちがはやる。
そんなことを考えていると、すぐに足音が聞こえてきた。あたしにはその足音が誰のものか、なんとなくわかる。まだ心の準備は十分には整っていないけれど、今更思い悩むことは何もない。覚悟を決める。
「おはよう。有香、誕生日おめでとう!」
「押忍! ありがとうございます!」かけられたその言葉が嬉しくて、あたしの顔は思わずほころぶ。今、自分の顔はとても空手少女には見えない、なんとも情けない表情をしていることだろう。道場では絶対に見せられない。
「俺より早く来ていたみたいだけれど、待ったか?」
「いえ、あたしも今来たところです」
やってきたその人はあたしのプロデューサー。あたしのアイドル活動を一番近くで支えてくれている人だ。
「ところで有香のその服、いつもと雰囲気が違うな! 走る時はいつもそういう感じなのか?」とニカッと笑いながら聞いてきた。
今日選んだ服はあたしが持っている運動用の服の中でもとびきり可愛らしいものだ。色は白にピンク、ちょっとしたフリルまで付いている。以前、かわいい! と思って衝動的に買ってしまったが、いざ着てみようとすると自分には可愛すぎると思えてきて、いつも躊躇してしまう。アイドルだから仕事で可愛い服を着せてもらうことはたくさんあるが、プライベートではまだいまいち自分に自信が持てない。結局、今まで一度も着られていなかったが、今日はなぜか、つい衝動的に着てきてしまった。
いきなり心配していたことを聞かれてしまったので、あたしは狼狽した。Pさんには全部お見通しなのだろうか。
「いえ、今日はその……いつもとは違う感じのを着てきたのですが、似合っていないでしょうか?」
「いや、可愛らしくて有香に似合ってるよ、すごく」
「そ、そうですか!? ありがとうございます!」
今日はいつも以上にPさんが嬉しい言葉をかけてくれる。今日があたしの誕生日だから? でも朝からこんなに幸せでいいのだろうか。えへへ……。
「それじゃ、早速走ろうか!」
「押忍!」
そう、今日はPさんと一緒に走るのだ。なぜ一緒に走ることになったのか、それは昨日の出来事だ。
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「おはよう、有香」
「押忍! おはようございます」
「今日は雨だな」
「そうですね」
その日は朝から雨が降っていて、なかなか止みそうにない雰囲気だった。太陽の光は雲に覆われ、外は暗かった。こんな日は気分も落ち込んでしまうもので、事務所に来てはみたものの特に何をするわけでもなく、ただ暇を持て余していた。
「ところで有香、誕生日プレゼント何がいい?」
「随分唐突ですね!? あたしの誕生日明日ですよ!?」
Pさんは割と物事を直前にいうタイプというか、無計画というか……とにかくこういうことがよくある。
「いや、すまん、決して忘れていたわけじゃなくてな……何がいいかなとは考えていたんだけど、結局決まらないまま今日まで……」
「もう、それなら早く言ってくれればいいのに……」とは言ってみたものの、今欲しい物と言われても特に思い浮かばない。でも何も頼まないと、きっとPさんはまた頭を悩ますことになるのだろう。それは申し訳ない。欲しい物、欲しい物……そうだ。
「Pさんは明日朝時間ありますか?」
「朝? 何時かにもよるが、一応出勤する日だからな……」
「そうですか、そうですよね……」
「明日俺が暇だったらどうするつもりだったんだ?」
「朝のランニングに付き合っていただこうかと思いまして」
「ランニングか、俺の場合習慣にもなっていないし、仕事前だときついかな……」
「いいんじゃないですか。付き合ってあげましょうよ」と突然出てきたちひろさんが言った。
「ちひろさん! いつの間にそこにいたんですか?」とPさんは驚いた様子で言う。あたしも気づかなかった。
「まあまあ、明日は特に大事な仕事もありませんし、休みを取っても大丈夫ですよ」
「本当ですか!?」あたしが真っ先に立ち上がり問う。
「ええ」
「じゃあお言葉に甘えさせていただきます。有香、俺は最近運動してないからお手柔らかに頼むよ」
「押忍!」
「有香ちゃん、頑張ってくださいね」といつもの不敵な笑みを浮かべたちひろさんがあたしだけに聞こえるように囁く。
「お、押忍!」
本当に叶うとは、言ってみるものだなと思った。仕事ではいつも会っているけれど、プライベートでは二人で会うのは初めてだ。二人でランニング……そういえばこの前雑誌で『ランニングデート』なるものを見た気がする。そんなことを考えると急に恥ずかしくなってきた。さっきまで退屈していた頭が今は、明日何着ていこう、髪はどう結ぼう……そんなことでいっぱいになって、フル稼働している。楽しみな気持ちと少しの不安が胸を覆いつくした。
外では今も止みそうにない雨が降り続いている。明日もこの雨が降り続いたら……もしもそうなったらとても残念だと思うけれど、少しホッとする気もした。
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結局雨は夜のうちに止んだ。空が晴れると不思議と気持ちまで晴れ晴れとするもので、今のあたしの胸は嬉しさ、楽しさと、ドキドキで埋め尽くされている。この胸のドキドキは走っている時のドキドキとは違う、それを自覚すると余計に鼓動が速まった。
いつもより少しゆったりとしたペースで走るあたしの隣をPさんが走っている。自分では運動不足だと言っていたけれど、それほど脚が鈍っているようには感じない。あたしよりかなり広めのストライドを取るしなやかな脚を見て妙に感心した。
「しかし、有香は本当に良かったのか?」
「へ? どういうことでしょうか?」
「いや、誕生日プレゼントに何が欲しいか聞いたら、一緒に朝のランニングをしてほしい、って言われたからこうして河川敷に来たわけだけれど、有香くらいの年頃の女の子だったら欲しい物いっぱいあるんじゃないかと思ってさ。もしかして俺の財布に気を遣ってるのかな、とか考えちゃって」
「いえ、そういうわけではなくて……Pさんとはいつも仕事で忙しい中でしか会っていないので、ゆっくり話す時間が欲しかったのです」
「ゆっくり話す時間、か……それなら、わざわざランニングをすることはなかったんじゃないか? ほら、俺はおじさんだからもうクタクタ」
Pさんはわざとらしく疲れたフリをして、おどけて見せた。Pさんはあたしの仕事の前にもこうしてふざけたフリをしてみせることがよくある。それを見ると、あたしはいつも自然とリラックスできる。今だってそうだ。
「Pさんだってまだ若いじゃないですか、あたしからは全然おじさんに見えませんよ」
「そうか、それはありがたい」
「ランニングにしたのは、たぶん恥ずかしかったからだと思います」
「何が?」
「誘うのと、あとこうして走っている方がいつものあたしのペース、という感じがして……」
「うん、なんとなくわかる気がする」
それから少しの間、何も話さなかった。でもそれは決して居心地の悪い沈黙というわけではなく、お互いの足音を聴いて歩調を合わせる、そんな感覚がたまらなく心地よく感じた。
しばらくしてPさんが口を開いた。
「いつもはどこまで走ってるんだ?」
「ええと、もう少しで見えてくるはず……ほら! あそこの花壇までです」
「あそこだな。よし、じゃああの花壇まで競争だ!」
そう言うや否やPさんは一目散に飛び出していった。
「あ、待ってください!」
「待たない! 待ったら負けるもん!」
なんて大人げない……勝負事になるとPさんはこういう子供っぽいところもある。苦笑しつつも追いかけるが、自称おじさんのくせに意外と速い。これは後で本格的にスポーツ経験を問いたださなくてはならない。
Pさんが花壇の目前まで来て、もう追いつけないかな、と思ったところで突然Pさんが足を止め、うずくまった。
「どうしたんですか!?」
「……脚攣った」
「何をしているんですか、もう……」
立ち上がれないPさんの脚を伸ばす。やはりいい筋肉が付いている。この筋肉をどこで付けたのか聞きたいところだが、それよりも先に聞かなくてはならないことがある。
「ちゃんと準備運動はしましたか?」
「うぐっ、していません……いでででで!!!」
「Pさんももういい歳なんですから、運動前のウォームアップくらいはしてください」
「さっきはまだ若い、って言ってくれたのに……!」
おじさんと言われたことと脚の痛みで半泣きになるPさんのうめき声を無視して、脚を伸ばす。
「無理してけがでもされたらあたしが困るので、ちゃんと体には気を遣ってくださいね」
「はい……」
「よし」
これではまるで道場の後輩を相手しているみたいだ、と思いながらも、ちょっとかわいいとも感じてしまう。これは、惚れた弱みというものだろうか。惚れた……惚れ……惚れ…………。
「おーい、有香?」
「お、押忍! なんでしょうか!?」油断していた。
「この花壇きれいだな」
「そうですね。きちんと手入れが行き届いている感じがします」
「この花の名前はなんて言うんだろうな」
「あとで夕美さんに聞いてみましょうか」
「それがいいな。なあ有香?」
「なんでしょう?」
「帰りは歩いていこうよ」
「それがいいですね」
* * *
あたしとPさんは河川敷のさっき来た道を歩いて戻る。太陽も高く昇ってきて、ぽかぽかした春の陽気が心地良い。吹き抜ける風も暖かく、自然が全身で春の喜びを表現しているかのようだ。
「有香、桜も咲き始めているな」
「本当ですね」
ゆっくり歩いていると、走っている時には見えなかった色々なものが見える。今までここを通る時は大体走っていたけれど、歩くのも良いものだ。
「この蕾なんか、有香みたいだと思わないか?」
「どういうことですか?」
「うーん、なんとなく!」
「…………」
「あーウソウソ! ほら、小さいけれど中身がしっかりしていて強さを感じる。こいつはきれいな花を咲かすぞ! って感じ」
「ここの桜はもう少しすると満開になって、本当にきれいなんですよ。……あたしもあんな風にきれいな花を咲かせることができるのでしょうか」
「咲かせられるさ。そりゃもう、全身のいろんなところからぶわーっと花が咲くんだ」
「ふふっ、なんですか、それ」
「……二人で、咲かせような」
「……押忍!」
「あー! そうだ! 忘れてた!」
「なんですか?」
自分で作った雰囲気を自らぶち壊しにするPさん。
「実はな、プレゼントが一緒に走るだけ、というのも流石に申し訳ないと思って、ひとつ買ってきたんだ。これ」
思わぬサプライズに目が点になる。そういうところは変な気を遣うのが実にPさんらしい。
「あ、ありがとうございます……これは?」
「香水。ちょうど桜の香りなんだ」
「あたしが、これを……?」
「きっと似合うと思って選んだんだ。……いや、本当はただの俺の好みだけど」
「えへへ、嬉しいです! ありがとうございます!」
「喜んでもらえて何よりだよ。あ、でも包装がくしゃくしゃだ。やっぱりジャージのポケットなんかに入れてくるんじゃなかったな……」
「そんなの気になりませんよ」
「いいや、このままじゃ俺が格好付かない! 有香、今日これから空いてるか?」
「空いていますが、何を?」
「出かけよう。有香が欲しいものを見つけたら何でも買ってやろう」
「何でも、ですか?」
「……俺の財布が許す分は」
「ふふっ、わかりました! なら一度帰って着替えなくてはいけませんね」
「ああ、そうと決まれば急ぐぞ!」
そう言うとPさんは再び走り出し、あたしも後を追う。Pさんはこういう時はすぐに調子が良くなる。いきなりの誘いには面食らったけれど、何かあるかも、と期待して午後の予定まで空けていたあたしもあたしだと思う。
Pさんと二人、どこへ行こうか。かわいい洋服を見繕ってもらうのもいいかもしれない。あたしのかわいさを一番引き出してくれるのはPさんだから。
家に帰ったら、あたしにできる限りのオシャレをしよう。たった今もらった香水も付けて……本当にあたしに似合うのだろうか。でもPさんが好きな匂いらしいからきっと間違いない。
春の太陽も草木もうきうき気分のあたしを優しく見守ってくれているようだ。太陽にも、草木にも、この気持ちを分けてあげたいな。
今日は幸せな一日!
おしまい。有香誕生日おめでとう!
読んでくださった方、ありがとうございました。
乙
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