【モバマス】桔梗 (84)
*
「はー……ホント、良い天気で平和な時間ってことで。あたしも平和でいたいんだけどなー」
春風に煽られた銀髪が白い肌を撫でる。
塩見周子は名も知らない公園の芝生の上で暖かな陽射しを全身に浴びながら寝転がっていた。
気だるい声をあげ、眼前に広がる公園の様を見てぼそりと呟き、それからもう一度視界を巡らせる。柱に埋め込まれた時計の短針は、頂点を過ぎた位置を差していた。
「平和、ホント平和なんだよねー……」
周子のいる公園はそれなりに大きな施設だった。彼女が寝転がっている芝生は綺麗に刈り揃えられており、一面を見る限りは掘り返された跡もなく、シートを敷いて弁当箱を広げている親子連れがいた。
視線の先にはフェンスで仕切りを立てているグラウンドが広がっており、子供から大人まで笑顔を見せながら戯れている。
周子の言葉どおり、平和で穏やかな公園であることに間違いは無かった……が、彼女の内心は穏やかではなかった。
「もう貯金もないし、どうしよ……テキトーにホテルに泊まったの、失敗だったかも」
芝生の上で一度寝返りを打つ。すると芝生の上を、誰かの飼い犬が気持ちよく駆けていく姿が見えた。
周子は一ヶ月ほど前までは京都の実家に住んでいた。家はそれなりに名の知れた和菓子屋だった。少なくとも、周子自身は実家の和菓子よりも美味しいと思える菓子を知らない。洋菓子は別の話であるが。
去年の暮れ、冬の十二月で周子は十八歳になった。通っていた高校は、今年の三月には卒業した。その直後に実家から追い出されたのである。
『進学はしない、それでいて実家も継がないのなら自分で働きなさい』
その言葉と共に、これまでの周子の生活は音もなく崩れ去った。少しばかり手元に残っていたお金に、家を出る前に両親から渡されたお金、周子はたったそれだけ外に放り出されてしまった。
元々高校に通い始めた頃、一年の秋頃には両親からそんな話はされていた。進学するか、家を継ぐか選んでおきなさいと。言われる度に周子の中ではもやもやとした何かが心を覆い、考えるのが億劫になるのでいつも適当にやり過ごしていた。
そんな生活を三年も続けていたのだから、両親が口を揃えて言う家から出て行けという言葉に、周子は別段驚くこともなかった。ただ、もう少し考える時間があってもいいんじゃないかと思ってはいたが。
言われるがまま家を出た後、仲の良かった学校の友人を数人ばかり当たってはみたが、皆は進学や就職が決まっており忙しそうにしていた。友人達も周子のことを気にはしたが、それ以上に自分自身ことで手が一杯だった。
その様子を見て周子は察し、友人たちに頼ることを諦めて最後は一人で東京へと向かったのだった。東京であれば、働き口は見つけやすいのではないかと思っての行動だった。
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「お腹空いた……何食べよっかな」
もぞもぞと横になった体を動かしていると、腹の虫が鳴った。昨日まで泊まっていたビジネスホテルは今朝方早々にチェックアウトを済ませて、朝からずっとこうしている。
まだ十八歳の少女であったが周子自身、何事も物を考えない子ではなかった。最後に両親からある程度持たされたとはいえ、少ない手持ちのお金でビジネスホテルに数日泊まってしまえば、あっという間に無一文になるのは誰でも分かることである。
それでも、周子はそうしてしまった。心の中に一切の余裕はなかったが、その余裕の無さを誤魔化したいがために、そんな行動を取ってしまったのだ。
そしてその行動は、やはり周子自身を追い詰めてしまった。
「またバイトやってみよっかな……でもなー」
嫌な記憶が蘇る。ホテルの部屋を取ってすぐに、周子は手持ちの携帯電話で日雇いのアルバイト求人を調べた。
周子自身は、自分が要領の良い人間だと思っていた。事実、彼女は初めてやることでもそつなくこなしたり、また必要であればある程度の努力も惜しむことは無かった。
だが、今回に限っては環境が悪すぎた。
内心では追い詰められていた周子は自分自身ではそれに気付かず、行った日雇いのアルバイト先では散々な結果に終わった。
アルバイトの内容は遊園地で行われる子供向けイベントの臨時スタッフだった。やんちゃな子供相手でも、一日くらいなら大丈夫だろうと高を括っていたが、結果は想像以上に難しい子供達に振り回されていただけである。
イベント会場の敷地から脱走しようとする子供を捕まえ、暴れる子供には更に引っ掻かれもした。もしうっかり声を上げて子供を泣かせてしまったら、バイト代が出ないのではないか。
目の前の予想以上の困難とそこから来る先への不安で周子の心は一杯となり、最後の最後でついには泣き出してしまった。
泣き喚くことはせず、けれども涙を流したまま、子供を捕まえて会場に戻しているところを正規のスタッフに見られてバックヤードに連れて行かれた。
イベントの時間も終わりを迎える頃だったので、スタッフは涙を流したままの周子に予定していた賃金を手渡し、遊園地の外へと彼女を送ってあげたのだった。
その出来事から、周子は働くことを躊躇うようになってしまった。また同じ失敗はしたくないと心がブレーキを掛けて、もっと大事なことからも目を背けるようになってしまっていた。
「でもさー……お金ないんじゃどうしようもないよね。そうだよね……いっそ体でも売る?」
ぼそりと呟く。同時に、背筋にむず痒さと寒気が襲ってきた。
最後の手段である水商売、これなら何とかなるのではないかと周子の脳裏にちらついてくる。容姿にはある程度の自信があったので、尚更のことであった。
友人たちとの間で冗談でそんな話をしたこともあるが、商売の仕組みはもちろん知らないし、どんなことをしなければならないのかもハッキリとは分からない。
それでも、お金を稼げるということだけは知っていた。本当にそれだけしか知らなかったが、今の周子にとって何より必要なのは今後生活していくための手段であった。
「もうやっちゃおっか……でもどこ行けばいいんだろ。適当なお兄さんとかに声掛けて聞いてみたり……?」
昨日、ついに支払い滞納により携帯電話を使うことが出来なくなった。日雇いのアルバイトを探したときのように、何かを調べることも出来ない状態である。
何だかんだと踏み切るところまでには至らず、内心ではほっとした部分もあった。
だが、結局は現状が変わるわけでもない。ただひたすら、芝生の上で時間が過ぎていくだけであった。
あとは言われるがまま出て行った実家に戻り、両親にすみませんでした、働くなり進学するなりするので勘弁してくださいと頭を下げに行くか。それは何となく悔しく思うが。
「……んー、良い風だぁ」
もう一度風が吹き、煽られた銀髪が周子の白い肌を撫でる。今度は先ほどの風よりも強く、思わず目を瞑って身をよじる。
「ん?」
そのとき、周子の体が小さく上下した。何かの視線を肌で感じ、反射的に目を開き上体を起こした。
目の前には、紺色のスーツを着こなしている若い男が立っていた。
……
…………
「……」
周子はそれから、ピクリとも動かなかった。
視線の先にいるスーツの男は、瞬き一つせずに周子を見ていた。時折、腕組をするか、顎を擦っている。
「……あのー」
ようやく捻り出せた声だった。だが、男はまるで反応しなかった。
――声が小さかった? それとも、周りの音で聞こえなかった? 木の葉っぱとかがガサガサしてるし。実はあたしの後ろを見ていたりする?
ぐるぐると思考を巡らせて、周子はもう一声何かを言わねばと思ったが何も声が出なかった。
「うん」
そこで、男が周子よりも先に声を発した。
「うん……うん……」
一度、二度、頷いてそれから男は周子に向かって歩き出した。
舗装された公園の道から、革靴で芝生に乗り上げてゆっくりと周子に近づく。周子は、ピクリとも動かなかった。
「失礼、少しお時間を頂けますか?」
「あ、はい、どうぞ」
近づいてきた男に呆気に取られて、周子は生返事をした。男の声ははっきりと聞こえたが、そもそもその声に対してどう反応するのが正しいことなのかが分からなかった。
男は周子の目の前で立ち止まり、彼女を見下ろした。背はそれなりに高そう、と周子は心の中で男を評価していたが、直後にどうでもいい内容だと頭を振った。
「突然で申し訳ありません。私、こういう者でして」
男はスーツの胸ポケットから、黒い革製の名刺入れを取り出した。一枚、名刺を抜いてその場にしゃがみ込む。
その名刺は、胸の前に当てていた周子の左手の前に差し出された。
「……CGプロダクション、プロデューサー……P?」
「はい」
周子は名刺を手に取り、印刷されている文字に目を通した。
分かったことは、目の前の男――PがCGプロダクションという聞いたことも無い事務所に所属するプロデューサーということ、それと住所と電話番号だった。
名刺に印刷された文字を見て、周子は男を訝しんだ。まず、思ったことは一つしかなかった。
「お兄さん、怪しい。詐欺師?」
「まあ、みんなそう言います」
慣れているようにPは軽く笑ってみせた。それから一度咳払いをし、肩に掛けていたビジネスバッグに手を伸ばした。
そこから取り出したのは薄型の小さなノートパソコンと書類の入った封筒だった。
鞄の中にはそれ以外何も入っていないのか、Pは鞄を芝生の上に置いて、それを尻に敷いた。
「こういう仕事ですし、よく言われますけどね。まあ……ええと、とりあえずコレを見てもらえますか?」
Pがキーボードを叩き、それから周子に向けてモニターを見せた。そこには事務所のホームページ映されている。
「新しい芸能事務所なんです。所属タレントはまだ一人もいない状況なので、実績はまだ無い状態ですが……」
「事務所についての資料は、この封筒に一式入れているので差し上げます」
「はあ……どうも」
差し出されるまま、周子は書類の入った封筒を受け取ってしまった。
手に取った封筒の重みを感じたとき、周子はハッとして面を上げた。
「え、これ……なんでくれるの?」
「いや、あの……一応これでも、スカウトのつもりだったんですけど……」
「スカウト? あ、スカウト……スカウトね、うん」
二度、三度、周子は言葉を繰り返して何度か頷く。頷いてから、つい口を滑らせてしまった。
「え、それってエッチな仕事とか?」
「違います。アイドルのスカウトです」
その周子の言葉に、Pは静かに返した。恐らく、これもよく言われることなのだろうと周子は思ったが、今度は口に出さなかった。
Pは周子が再び封筒に目を落としたところ見てから立ち上がり、尻に敷いていた鞄を数度叩いた。
「それじゃ、私はこれで失礼します」
「えっ、帰るの?」
「はい。もし資料を読んで頂いて興味があれば、名刺に書いてある電話番号までお願いします。あ、契約内容についてはしっかり読んでください。トラブルの元になりますので」
踵を返してPは舗装された道へと戻っていった。最後もう一度だけ周子に振り返り、一礼をした。
周子は最後まで姿勢を崩さず、芝生の上で上体を起こしたままだった。
……
…………
「うーん……いまの子は良さそうだったんだがなぁ」
公園の外に停めていた社用車のドアを閉める。
Pは先ほどの女性の姿を思い返しながら独りごちて、車のキーを捻った。
商談先の会社からの帰り途中、気分転換に煙草を吸う為に偶然通りかかった公園に立ち寄っただけだった。
公園に設置されている喫煙スペースで煙草を一本吸い、せっかく来たからと公園の中を一巡りして帰るだけのはずだった。
芝生の広場を通りかかったときに、偶然見つけたのが先ほどの銀髪の女性だった。一目見てPの中で小さな星が光り、少し悩んでから彼女に声を掛けたのだった。
「どうだろうなあ……まだ誰も連絡してくれないからなぁ」
これまで、Pは何度かスカウト活動を行っていた。
新設の事務所で働き始めたのは半年前のことである。元々は別の芸能事務所に勤めていたが、縁あって現在の社長の元へと移ることになった。
――新しい環境で働くのも悪くない。そう思っていたPだが、実際に所属アイドルが一人もいない環境は思っていた以上に難しいものだった。
Pが職場を移して半年、新設の事務所の所属アイドルは誰もいない。名前だけの事務所のままである。
「そろそろちひろさんも本当にやることが無くなるだろうし、後は昔の伝手でも頼ってみるか……」
同僚の肩を落とす姿を思い浮かべる。とはいえ、P自身も虚脱感に襲われるときもある。
愚痴を漏らすだけなら誰でも出来ると、Pは脳裏に浮かべていた同僚の姿を振り払い、車のキーを差し込んだ。
そのキーを捻る前に、乾いた音が数度響いた。
「あのさー……」
ドアのガラス越しに、公園の芝生の上で寝転がっていた女性が立っていた。左手には、先ほど渡した資料入りの封筒が握り締められている。
その姿を見たPは一瞬、自分の心が浮き立つのを感じた。
……
…………
公園から飛び出して左右を見渡すと、視界の隅に一台の車が停車していた。
幸いなことに、エンジンは掛かっていなかった。周子は車を見るや否や、一目散に駆け出して車のガラス窓を叩いた。
中に乗っている人物を確認する前で、咄嗟の行動だったが、これまた幸いなことに乗っていた人物は先ほどの男だった。
「あのさー……」
とはいえ、思わず駆け出してしまった周子は、Pに対して何を話せばいいのか考えてもなかった。
一人虚しく公園で寝転がっていた自分に声を掛けてきた男が怪しく見えないはずはなかったし、芸能事務所の話のくだりについても詐欺の常套手段と聞いたことがある。
それでも、周子は今を変えるきっかけはこれしかないと感じていた。
そんなことを考えているうちに、Pは車から降りて周子の前に立っていた。どうやら鞄は助手席に置いたままのようだ。
「どうかしましたか?」
Pの声は、公園で会話したときと同じような調子だった。
それならこちらも同じ調子でいたほうがいい。周子は心の中で一呼吸置いてから、Pに話しかけた。
「えーっとさ、なんだっけ、アイドル? そうそう、アイドルのスカウト」
「はい」
「それ、気になるから詳しく聞きたいなーって思ったの」
一度、Pが肩で大きく息をしたのを周子は見逃さなかった。
間違いなく、Pは自分の発言に驚いている様子だった。表情は一切変わらなかったが、肩の動作はハッキリと見えていた。
「……失礼ですが、差し支えなければ年齢を教えて頂けますか?」
「え、なんで?」
「未成年であれば、詳しいお話をする際は保護者の方にご同伴願いたいのですが」
Pのその発言に、周子は思わず普段の調子で喋ってしまった。
「ああ、そこんところ大丈夫だよー。あたし、とっくに学校は卒業してるし、そろそろドコかで働こうかなーって思ってたところだから」
――誤魔化したけど、嘘は言ってないもんね。
周子は心の中で自分を納得させ、軽く笑って見せた。
その様子を見たPは頭の上から足の爪先まで周子を見直す。周子は居心地が悪かったが、平静を装い何事もないように見せた。
「分かりました。それなら……駅前の喫茶店まで行きましょうか」
「はいはーい。それじゃあ運転お願いね」
「いえ、歩きます」
「え?」
Pは言いながら車のドアを開け、助手席に置いていた鞄を手に取ってからドアをロックした。
周子はきょとんとした表情でPに聞き返したが、
「まあ、そういうものです。知らない男の車に乗って、遠いところに拉致されても嫌でしょう?」
Pは短くそれに答えた。
後になって周子は、それもそうかと納得した。
……
…………
駅前の喫茶店で、周子はPとテーブル席に座る。互いの自己紹介も程々に済ませて、事務所の説明が始まった。
二人用の丸テーブルを敷き詰めるように事務所についての資料が広げられており、今後予定している仕事先、レッスン等々で発生する費用の有無等、周子は資料に目を通しながらPから一通りの説明を受ける。
今一つピンと来ない話もあったが、聞けばPはその都度説明をし直してくれた。その中でも特に、周子にとっては諸々の活動費用は全て事務所から払われるということに感心していた。
「うちの事務所はそういう方針です。スカウトされたのに自分でお金を払ってレッスンをして……なんて嫌だと思いませんか?」
「まあねー」
「それに私個人の考えですけど、最初にお金出せなんて言ってくる相手ってイマイチ信用できないし」
「あ、それお兄さんが言っちゃうんだ?」
周子は少しずつ、意識しなくとも普段の調子を取り戻していた。
Pと話せば話すほど、スカウトの話が本当のことだと納得出来る。少なくとも今のPからは、出会い頭の怪しさは既に感じなくなっていた。
しかし、今の周子にとってはそれ以上に嬉しく思うところがあった。
「へー、あ、この仕事ってあたしみたいに何も知らなくても出来たりする?」
「最初は難しいかな。端役から少しずつ実績上げて、いい役もらえるようになってからかな」
「まあそんなもんだよね。最初っから何でもできるならみんな苦労しないもんね」
周子は遊園地での日雇いのアルバイトを最後に、誰かと話すという機会がほとんど無かった。あったとしても、ふらりと寄ったコンビニで買い物をしたときに、店員に一言礼を言うくらいであった。
Pから話しかけられたことに答えて、自分から聞いたこともPが答えてくれる。ごく当たり前の会話であったが、実家から追い出され、一人で東京までやってきた周子にとってはそれまでの中で何よりも充実した時間となっていた。
昼頃まで考えていた、今後の生活に対する不安はどこかに消え去っていた。
「どうですか? アイドル、やってみようと思いますか?」
「うーんそうだねー。あたしも働かないと生活できないしなー」
少しばかり難しい表情を浮かべて唸って見せると、Pも合わせて難しそうな表情を浮かべている。
Pが自分を何とかその気にさせようと必死になっている様子を見て、周子はすっかり気を良くしていた。
「まあでも、こんなに説明してもらったしねー。アイドルも楽しそうだし……やってみようかな?」
「本当ですか!」
椅子に座っていたPの腰が浮き上がり、膝がテーブルを蹴った。足の浮いたテーブルは、資料と一緒に並べられていた二つのコーヒーカップを揺らしたが、すっかり飲み干していたのでテーブルの上にぶちまけるものは無かった。
代わりに、広げていた資料の数枚がテーブルの上を滑り、ひらひらと床に落ちていく。
周子は興奮した様子のPを見て一瞬驚いたが、軽く笑って見せた。
「ホントホント。それに、ここに書いているけど寮もあるんでしょ? 事務所に行くのも楽そうだし、仕事は車で送り迎えでしょ? 仕事終わったらすぐ帰れるし最高じゃん」
「寮は今後、所属アイドルが増えた際に改めて検討という形になります。その代わり、塩見さんには社宅という形で事務所近くのマンションをご提供しますので」
「あ、そういうこと。でもマンションで一人暮らしもいいねー」
ホテルでのその日暮らしではない、自分の部屋。大学に進学して一人暮らしをすると言っていた友人が何人かいたが、同じような気持ちになったのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、周子は手に掛けていた資料のページを捲る。
最早、すっかり事務所に所属した気でいたのだった。
……
…………
喫茶店での話も一通り済んでから、二人は事務所に移動した。気が付くと、外はすっかり日が落ちていた。
Pが運転する社用車の助手席に座った周子は、何度かシートの感触を確かめるように頭を揺らしていた。つまり、まったく落ちつかなかった。
ふと自分の体の動きに気付いたときには、体を揺らすのを止めて運転しているPを横目で見る。
浮かれていた自分の様子をPに気付かれていないかを確認して、大丈夫そうであればまた同じようなことを繰り返していた。
周子自身、見られて特に困ることでもなかったが、浮かれている自分の姿を想像すると恥ずかしさを感じていた。
そんな調子でいざCGプロダクションの事務所に到着し、細かい契約の話になると周子は冷や汗を掻くことになった。
「ん……んんん……」
喫茶店にいたときとは違い、自然と周子の口から唸り声が漏れる。
Pはそんな周子の様子を見て、思わず声を掛けた。
「どうしました? 何か、問題でもありましたか?」
「あ……いや、うん……」
歯切れ悪く周子が答える。
向かい合ったソファに腰掛け、テーブルを挟んでいる二人の様子を見かねて、事務員の千川ちひろが声を掛けた。
「どうしたんですか? 塩見さん、もしかしてPさんから伺っていたお話と違う内容でもありましたか?」
遠くからPを一瞥して、ちひろは周子に確認をした。Pはそんなことは無いと小さく首を振ったが、Pと周子が座っているソファから離れた自分の机に座っていたちひろからは、Pの様子はハッキリと見えていなかった。
そんなPとちひろのやり取りにも気付かず、周子は頭を悩ませていた。
(どうしよ……これじゃダメだよねぇ)
ダメ、と思ったのは契約内容のことではなく、契約書のサインそのものだった。
既に一通りの話は聞き終わって、いざ契約書にサインをするときに周子はふと気付いたのだ。この紙に、自分の実家の住所を書かなければならなということに。
家を追い出された身で、勝手に芸能事務所に所属して、そんな話がPやちひろを通して両親に届いたらどんなことが待っているのだろうか。
知らないことだと突き放されるか、馬鹿なことをやっていると怒鳴られるか、追い出された理由が理由なだけに、嫌なことばかりが浮かんでは消えていく。
「……あのさ、あたし、実は」
とはいえ、誤魔化しが効くことだとは周子は思っていない。何があるかはさておき、黙っていたままではPやちひろの迷惑になるのは目に見えている。
それは周子にとっても不本意でしかなかった。ここまで来て正直に話すのは何とも情けないと自分に呆れてしまうが、恥ずかしさと共に口を開いた。
「ちょっと前に、実家追い出されちゃって……だから、今は住んでる場所もないし、契約書に住所も書けないかなーって……あはは」
なるべく普段通りの調子で話した。話したはずだった。最後には、無理やり笑ってみせた。
だが現実としては、全然普段通りに喋れてはいなかったようで、Pとちひろは二人揃って周子の言葉を聞いて目を点にしていた。
周子はばつが悪くなり、その場からいなくなりたい気持ちで一杯になっていた。
そんな周子の様子を見て、Pは一度咳払いをしてからスーツの袖を直した。
「そうですか……一つお聞きします。アイドルをやりたいという気持ちは本当ですか?」
「へ?」
Pから掛けられた言葉は予想外のものだった。
周子はてっきり、どうしてそういうことは早く言わなかったのか、そういう事情があるならばこの話は無かったことにするとか、そういうことを言われるものかと思っていた。
だが掛けられた言葉は自分に対する問い掛けだった。
「……」
さすがに周子も、これには言葉を詰まらせてしまった。
嘘を付いていたわけではないが、こちらの事情を隠していたのは事実だった。それでも自分を見つけてくれた目の前の男は、そんなことを言ってくるのだ。
ここでばつの悪さに、自分から話を無かったことにしてしまえば、昼間までの後先が見えない生活に逆戻りするのは確実である。
周子の返事は一つしかなかった。
「うん。プロデューサーさんの話聞いて、楽しそうだし、アイドルやってみたいなーって思った」
言ってから、こんな言葉で良かったのか、もっと言えることはあるんじゃないかと周子は心の中で自問自答を始めた。
残念ながら高校生活の中では、先生たちと職員室で会話するときですら、怒られない範囲で適当に思ったことをつらつらと喋るだけであった。
こんなときにしっかりとした言葉を話せない自分を憎く思ってしまうくらいである。
だが、周子はPから目を逸らさないように姿勢を正して真っ直ぐに身体を向けていた。自分を拾おうとしてくれたPに対して、今の周子が出来るせめてもの礼儀だった。
「よしわかった。ちひろさん、明日中に事務所から近い部屋、いくつか見つけておいてください。四、五件ほど見繕って彼女に部屋を選んでもらいましょう」
「アイアイサー、了解です。それまではどうします?」
「うーん……それなんですよねえ」
今度は周子が目を点にする番だった。
Pとちひろは突然、周子を置き去りにして話し始めてしまった。
「塩見さん、そういった事情であれば一先ず住む場所を優先して用意します。契約については入居先が決まってから改めて行いましょう」
「あ、はい……え?」
「それまでは待機というか、待ってもらうことになっちゃいますね。塩見さん、その間はどうしますか?」
「え? いや、どうするって言われても……」
ちひろが上機嫌で周子に話しかけてくる。周子は、ちひろがどうして機嫌良く話しかけてくるのかが理解できなかった。
「とりあえず社長には明日説明して、部屋は確保できたら一通りこっちで家具も準備しましょう。あとはなんだ、何かあるかな……」
Pも同じように機嫌を良くしていた。少なくとも、昼間よりも声の調子が高くなっていた。ちひろに至っては、一度電源を落とした自席のパソコンを再び起動させていた。
周子はついに我慢できなくなり、ニ人に向かって声を上げた。
「ちょ、ちょっとちょっと! 結局あたしってどうなるの?」
その言葉に、Pとちひろはお互いに顔を見合わせた。
「アイドル、やってくれるんですよね?」
「お部屋なら急いで探しますよ? あと何かありますか?」
「あ、いやぁ……ないけど……仕事も住む場所も貰えるなら何も言うこと無いっていうか……」
「まあ本当にお仕事があるかって話については、Pさん次第なんですけどね」
「そこは様子を見てやっていくってことで。最初は育成期間になりますし、その間に何とかするか……」
「いやー、ようやく私たちも仕事になってきますね」
ニ人にとって、周子は既に契約したかのような扱いになっていた。Pもちひろも、ようやく仕事をすることが出来ると胸を撫で下ろしている様子だった。
(あー、つまり……お互いメリットしかないってワケか)
周子にとっては仕事と住む場所の確保、Pとちひろにとってはアイドル不在の事務所にようやく乗っかってきてくれた最初の一人ということである。
ある意味で、仕事に困っていたのは周子だけではなく、この場にいる全員であったということである。
「でもさー、あたしもうお金持ってないからしばらく寝泊りする場所もないんだけど」
「さすがに入居先が決まるまで野宿はないですね……ちひろさん、どうします? 事務所使ってもらいますか?」
「いえいえいえ、それは無理ですよ! 夜の事務所に一人でいさせるわけにはいきませんし……」
「そうですよねえ……しばらくの宿泊代もこっちで出しますか?」
「でもカプセルホテルだと色々不便ですし、とはいえビジネスホテルもそれなりに掛かるんですよねぇ」
今度は二人揃って難しい表情を浮かべる。ここに来てから、周子は申し訳ないと思うばかりであった。
何度か首を捻った後、ちひろがそうだとPを指差した。
「そうです! Pさん、しばらくは塩見さんのこと、よろしくお願いしますね! Pさんの借りてるお部屋、確か二つくらい部屋余ってましたよね?」
「え?」
「え?」
ちひろの言葉に、周子とPは揃って同じような反応を返した。
……
…………
社用車に備え付けれている液晶画面に表示されている時計を見ると、既に二十二時を過ぎている。周子は助手席に座りながらぼんやりと画面を眺めていた。
画面はバラエティ番組の様子を映しており、周子も知っている芸人が何人か登場することもあった。
東京出身のヤツはやっぱダメだねーとか、大阪の芸人はキレがあるとか、出来るだけ下らないことを考えようとしていたが、結局諦めてしまった。
何せこれから、運転席に座っているPの家に行くことになってしまったのだから。これはもう、隣に座っている男が再び怪しい人物に見えても仕方が無い状況だった。
『明日ネットで調べてお部屋決めたとして、審査や契約も入れると二週間くらいですかね。それまでは塩見さんには我慢してもらいましょう』
事務所でちひろが言っていたことを思い出す。いくらこちらの事情が普通の人よりも少し特殊で迷惑を掛けているとしても、二週間も今日初めて知り合ったばかりの男と生活することになったのだ。
もしかしたら、ここまでが事務所の人間たちの計画で、Pの家に着いた途端に襲われるかもしれない。下手をすると明日の朝日を拝めなくなるかもしれない。
周子がぐるぐると嫌な思考を巡らせていたとき、Pが声を掛けてきた。
「疲れましたか?」
「ううん、別に」
正直なことを言うと、周子はくたくたで仕方が無かった。
昼間は公園で呆けて夕方は喫茶店で話し込み、夜は事務所で更に難しい話を聞いた。事務所を出てから一度駅前に戻り、実家から持ってきた少しばかりの荷物を預けていたロッカーに立ち寄った。
夜中にこっそり家を抜け出して、趣味のダーツを投げるために地元のバーで酒も飲まず遊んだ後に襲ってくる気持ちの良い疲労感ではなく、ただただ疲れたとしか言えなくなる気分だった。
それでもこの後何が起こるのかが分からないこともあり、何事も無いように振舞った。
「私は疲れましたよ。だけど、今日ようやく事務所のアイドル第一号が誕生したので苦労した甲斐があったと思ってます」
「まだなーんにもしてないけどね」
「契約もまだですからね」
これだけ手間をかけたんだからしっかり働けよ、ということか。Pの様子は事務所にいたときとは変わりなかったが、周子の耳にはそんな声が聞こえたような気がした。
「大丈夫だって。色々してもらってるし、その分ちゃーんとやることはやるよ、あたし」
「期待しています」
「ま、どんなことするのかも、よく分かってないけどねー」
そんなことを話しているうちに、車が上下に揺れた。窓ガラス越しに外を見ると、車は縁石を乗り越えて、どこかのマンションの敷地内に入っていた。
少し見上げるようにしてマンションの外観を確認したが、車の中からだと最上階は見えない。電車の広告で見かけるような、ずいぶん立派なマンションだと周子は思った。隣で車を運転しているPが住んでいるマンションとは思えないくらいだった。
――芸能人が住んでそう、でも住んでなくても、あたしが芸能人になって売れたらこういうとこに住んだりするのかな。
未来の自分の姿を何となく想像していると、やがて車のエンジン音は止んでいた。駐車場に着いたようで、Pは一度外にで後部座席のドアを開けた。
ノートパソコンを入れた自分の鞄と、駅前のロッカーから回収した周子の荷物もまとめて肩に掛けた。
「あ、自分で持つよ」
「いえ、すぐそこですし気にしないでください」
すぐそことPは言ったが、それから数分は歩いた。
駐車場からマンションの入り口まで移動した。上を見上げるとマンションの最上階がやたらと高く見えて、つい溜息が出た。
視線を正面に戻して、ガラス製のエントランスドア越しからマンションの中の様子を伺ったが、ぼんやりとした明かりに照らされた白く綺麗な内観が見える。
「ここ、もしかしなくても高級マンション?」
「いや……うーん、まあ……そこそこ高いみたいです。確かに社宅なのに、ちょっと豪華ですよね」
「絶対高いってここ……」
「多分、社長が奮発してくれたんですよ。私とちひろさんが初めての社員だったみたいなので」
ふうん、と周子は返したが、マンションの内観が気になって仕方がなく、歯切れ悪く言うPの話はとうに聞いていなかった。
Pに付いて歩き、エレベーターホールに到着した。ここも随分と見栄えがする空間だった。エレベーターに乗ったとき、Pは十ニ階のボタンを押した。
エレベーターの中は思っていた以上に明るく、周子は目を細めた。やがて目的の階に降りて、程なくしてPの部屋に到着した。
……
…………
事務所でちひろが言ってた、二部屋余っているという話は本当のことだった。
玄関に立つと、廊下の左手にはトイレと洗面所があり、正面の突き当たりに一部屋目のドアが見えた。
そこを右に曲ってすぐに並んで二部屋目のドアがあり、更に奥にはリビングのドアがあった。リビングの中には、三部屋目のドアがあった。
リビングには三人掛けのソファと、その前にはテーブルが置かれていた。奥にはダイニングテーブルとキッチンが見える。Pは自分の鞄と周子の荷物をソファの横に置いた。
「たまに社長やちひろさんが泊まりに来るときもあるから、汚く使えないんですよね」
「へー……ホントだ」
周子は廊下に戻り、興味本位で二部屋目のドアを開けて部屋の中を見た。
部屋の中はベッド以外目立つ家具はほとんど置かれていなかったが、なるほどと納得する。置かれているベッドも、見た限りシーツは綺麗にされてる。特に怪しい物も見当たらなかった。
色々と気になりはじめて、部屋の中を物色する。トイレのドアを開けても臭いはなく、風呂場を確認しても汚れてはいなかった。
「塩見さん、廊下の手前の部屋を使ってください。荷物、ここに置いておきますから」
「うん」
風呂場のチェックから周子がリビングに戻ると、Pは既にスーツから部屋着に着替えていた。知り合って一日目だが、無地のシャツとスウェットの姿のPを見て、少しばかり違和感を覚えた。
「遅くなりましたけど、晩御飯はどうしますか? 一応近くにファミレスくらいならありますけど」
「うーん……ちょっとお腹空いてるけど、もう疲れちゃったしご飯はいいかな」
「そうですか。それじゃあ明日は起きたら生活用品を買いに行きましょうか。夕方前には一度事務所に寄って、ちひろさんが探してくれる入居先の相談をしましょう」
「いいの? あたしばっかりに構ってたら仕事にならないんじゃない?」
「まあ、今までスカウトの仕事以外あってなかったようなものですから。事務所のほうはちひろさんが大体やってくれてますし」
「そうなんだ。それじゃあ、明日お願いね。あたしも、寝坊しないように起きるから」
「分かりました。冷蔵庫やシャワーとか、部屋の物はご自由に使って下さって構いませんので」
言いながら、Pはリビングの隣の部屋に続くドアを開けた。
周子は待って、とPを呼び止めた。
「あのさ、何時頃に寝るの?」
「え? 持ち帰った仕事があるので、少しパソコンに目を通してからと思っていますが」
「ふーん……」
周子が訝しんでいる様子を、Pは見逃さなかった。
一瞬考えて、Pは溜息を吐いた。
「分かりました、今日は私も寝ます。これなら安心できますか?」
「あー……うん、一応」
どうやらPが察してくれたらしい、と周子も深く息を吐いた。Pの様子からしても、どうやら自分に危害を加えようとする気はなさそうだと、ようやく安心することができた。
「ま、まあほら、あたしだって女の子だしさ、ちょっと気にするっていうか、ほら……ね?」
「私のほうもこういう状況になるとは思っていなかったので、あまり気にしていませんでした。すみません」
「ああいや、謝らなくていいんだけど……」
周子は苦笑したが、安心した途端にPに申し訳なくなった。一日色々と世話をしてもらって、なお疑っていたのだから。
それでも自分を守るためだったから仕方がないと思うようにした。恐らくPなら、そんな自分の気持ちも察してくれるかもしれない。
「ははは……それでは塩見さん、お疲れ様です」
Pはそう言って部屋のドアを閉めた。周子はそれを確認し、リビングから廊下に出る。
リビングのドアを閉める前に、もう一度だけリビングを振り返り、Pが部屋から出てこないかを確認してから部屋に入った。
……
…………
「疲れた……」
周子は着替えもせず、薄くした化粧を落とすことも忘れて部屋のベッドに身体を投げ出した。部屋は明かりも付けず暗かったが、窓の外から月の光が差している。カーテンは開いたままだった。
飛び込んできた周子を、ベッドは軋む音も立てずに迎え入れた。布団に顔を埋めて、大きく深呼吸をするとどっと疲れが出てきた。
何度か繰り返していると、徐々に瞼が重くなってきた。
(寝ちゃっていいかなー……いいよね、多分、大丈夫っぽい人だし……いいよね……)
意識が深い闇の底に沈んでいく。今日一日、色々あって考えることも多かった。今も、考えておかなければならないことがあるのかもしれない。
家を追い出されてから一ヶ月経ったが、これから本当に生活していけるのか、仕事はちゃんとやれるんだろうか、ひとまずは納得したけど本当にPを信じていいのか。
考え始めたら終わらないし、今日一晩で考えただけで納得出来るはことは何一つないだろう。
あれこれと考えるのも面倒に思えてきて、襲ってきた睡魔に周子はついに負けてしまい、静かに寝息を立て始めた。
月の光が、泥のように眠る周子の姿を照らしていた。
……
…………
*
周子は目を覚ますと、一度ベッドの上で寝返りを打った。
何度か身動ぎしてから、突然意識がハッキリとした。
「あっ」
昨夜までの出来事が頭の中を巡り、自分がどこにいるのかを思い出す。芸能事務所のプロデューサーにスカウトされ、何だかんだ色々あった結果、そのプロデューサーであるPの家で一晩過ごしたのだ。
周子はベッドから飛び出し、リビングへと向かった。
「おはようございます。随分とお休みしていましたね」
リビングには三人掛けのソファが設置されており、そこにはPが座っていた。
テレビを見ていたPは周子が起きてきたのを見て笑顔で迎えた。ソファの前のテーブルの上にはノートパソコンが置かれており、電源も入っている。
「おはよう……もしかして、仕事?」
「まあ、昨日やろうと思っていた分が残っていたので」
Pは先日、周子の頼み通り仕事をしないで休みを取った。周子が寝た後を見計らって好き勝手することも出来たが、まずは信用してもらうことを優先した。
「なんかゴメン、あたしが変なこと言っちゃったから……」
「気にしなくていいですよ。気持ちは分かりますし、それに今日はほとんど休みみたいなものですから」
「あ、そっか、買い物行くんだっけ」
昨晩、明日は生活用品を買いに行くという話をPとしたのを思い出した。夕方頃には事務所に行って入居先を選ぶという話もあったなと、周子は思い出してからリビングの時計を見た。
早朝といえる時間でもなく、既に十時を過ぎているところだった。
「……寝坊しちゃった」
あちゃーと、周子はPから見える位置で申し訳なさそうな表情を見せた。
Pはそんな周子を見てソファから立ち上がって台所へと向かった。
「とりあえず、髪の毛くらいは直したほうがいいと思いますよ」
「ん?」
言われて周子は髪を撫でた。銀髪はボサボサと寝癖になっており、白肌と合わせて歪な表情を見せていた。
「それじゃ、シャワーも借りていい? 歯ブラシとかは持ってるからさ」
「いいですよ。そこら辺は好きに使ってください」
タオルは元々持っていた物があるし、ビジネスホテルからチェックアウトする前にアメニティは一通り失敬していた。
周子はPが了解してくれたので部屋に戻って洗面道具を取りに行こうとしたが、ふとその足が止まった。
「覗かないでよ」
「了解」
周子は冗談で言ったが、Pはちょうど冷蔵庫を開けて中を確認していたところだった。
声の調子も変わらなかったし、ちゃんと聞いてなかったのかなと思い、Pの反応を諦めてシャワーを浴びに向かった。
……
…………
外は昨日と同じく、暖かな陽射しと穏やかな風が吹いていた。
周子はPに連れられ、マンションから車で十数分先のショッピングモールに足を運んでいた。
二人の両手には、既に買い込んだ物を入れたビニール袋が下がっている。中身は全て周子の生活用品が詰められている。
周子は持っているビニール袋を、大きく揺らしていた。
「疲れましたか?」
「ううん、疲れてないけど、ちょっと休みたいなーって思ってただけ」
「それならどこかお店に入りますか?」
「別に大丈夫だよ。今日は事務員の人、待たせちゃってるんだよね? それに出掛ける前にご飯食べちゃったし」
「ちひろさんには連絡しているから大丈夫ですよ。あと、社長にも今朝方一通り話しておきました」
出掛ける前に、周子はシャワーを浴びた後にPが用意してくれた食事を済ませていた。
リビングに戻ってみると、ダイニングテーブルには昼食が用意されていた。メニューもサラダと目玉焼きがカラープレートに盛り付けられており、味噌汁、白いご飯が並べられていた。
Pは周子が戻ってくるのを待っていたのか、自分の食事には手を付けず新聞に目を通していた。
部屋も貸してくれて食事までと何とも至れり尽くせりと、周子は食事を済ませる前から満足していた。Pに礼をしつつ食事を頂いたが、味は思いのほか普通だった。
「そういえば、Pさん」
「はい?」
「今日のご飯のことなんだけどさ、いつもあんなご飯食べてるの?」
「そんなまさか。普段は適当に済ませてますし、朝は食べない日のほうが多いですよ」
「やっぱり? なんかゴメンね。わざわざ用意してもらって」
「いえ、家にいる間は塩見さんはお客さんですし」
「ちなみに……ちひろさんが泊まったら?」
「まあ夜遅くまで飲んでから寝るので、お互い好き勝手朝起きてご飯にしてます。たまに社長も混ざったりしますけどね」
聞いてみたはいいものの、あまり想像できない話だった。周子の中にいるPとちひろの二人は、どうも酒を飲んで騒ぐような人間には見えなかった。
そんなことを話しながら残っていた買い物を済ませる。新しい着替えと、部屋に置く組み立て式の小さいカラーボックス、後はレッスン用のジャージやシャツをまとめて買った。料金は全て会社に請求すると言い、Pは領収書を切ってもらっていた。
「色はどうします?」
「何でもいいかなー。Pさん何がいい?」
「私が着るジャージじゃないんですけど」
下らないやり取りを挟んで、結局決まったのは深い青色のジャージだった。
それからも、周子が白色がいいと選んで買ったカラーボックスをPが小脇に抱えながら、欲しいものは無いかと何度か確認を取っていた。
一通りの消耗品から着替え、レッスンに使う物まで買ってもらったのだ。ちらほらと気になった物はあったが、自分のお金で買うわけでもないし、無駄な物を買ってもらうほど周子は図々しくはなかった。
買ったもので両手が塞がっていたが、平日の昼間でショッピングモールに訪れる客もそれほど多くなかったので、歩くのは辛くなかった。
「あ、そういえば」
窓の向こう側に設置されたテレビから、新作ゲームのデモムービーを流している店を通り過ぎたときに周子は足を止めた。
Pも周子が突然声を上げたのにつられて足を止めたが、バランスを崩して小脇に抱えていた組み立て前のカラーボックスを落としてしまいそうになった。
「ゴメン、あたし携帯も止まってるんだった」
聞いてからPは、個人の携帯電話の支払いをどうやって会社の経費で落とそうかと悩んだ。
それからしばらく悩んでいたPが溜息を吐き、周子をショッピングモール内の携帯電話ショップに連れて行く。周子の携帯電話代は、Pの財布から支払われることになった。
……
…………
周子とPは、昼間に買い物を一通り済ませた後、そのまま事務所に向かった。ちひろが首を長くして待っていたようで、二人が事務所に顔を覗かせてきた途端、にんまりとした笑顔を見せてきた。
テーブルの上にちひろがインターネットで調べた賃貸マンションの物件情報をコピーした紙が十枚ほど並べられ、三人は額を寄せ合って周子の住む部屋を検討した。
ここは日当たりがいい、事務所から一番近い、スーパーが傍にある、下の階の部屋はダメだと、三人は思い思いに言い合って、ふと周子が呟いた。
「いつか寮に移るなら、そんなに良い所じゃなくてもいい気がする」
Pとちひろが互いの顔を見合わせた。なるほど言われてみれば、そもそも所属タレントが増えれば予定していた寮の準備も進めるし、いずれ周子も寮に移ることになるだろう。
「そうですけど、事務所の今後次第では塩見さんがしばらく住む場所になりますので」
「どうせ事務所からお金出るんですから、良い場所選んじゃいましょう」
「いやまあ、二人がそう言うならいいけど……」
新しい部屋を選ぶことに周子の心は躍っていたが、自分よりもPとちひろのほうが張り切って選んでいた。よほど、事務所のアイドル第一号の登場が嬉しかったらしい。
それから三人はもうしばらく話し合い、候補の十件から五件まで絞り、明日実際に部屋を見てみようということで話の区切りが付いた。外はもう、すっかり日が落ちていた。
「どうします? せっかくですし三人でご飯でも食べにいきます?」
「そうしますか。こっちも、今日は一日買い物してから事務所に来てと疲れましたよ……」
「いやあの、一日中事務所にいた私のほうが疲れてると思うんですけど」
「まあそれを言われると……それじゃ塩見さん、晩御飯にしましょうか」
程なくして、事務所を閉めて三人は外に出た。周子も戸締りを手伝ったが、ちひろがここぞとばかりに戸締りの手順を周子に教えてきた。まあ今後やることもあるでしょ、と周子は大人しく言われるがまま手伝うことにした。
それから三人は事務所近くの焼肉屋に足を運んだが、そこで問題が起きた。
店自体は食べ放題メニューがあり、Pとちひろが揃って仕事を切り上げた日にはたまに訪れて、仕事が少ないことへの愚痴を言い合う場所でもある。
座敷席でテーブルごとに仕切りがあり、七輪もテーブルに埋め込まれているので広々と皿も並べられて悪くない店だった。隣のテーブルには先客がいるのか、肉の焼ける香ばしい匂いが漂っている。
店自体は悪くないのである。問題は、Pがメニューを片手に二人に飲み物を聞いたとき起きた。
「三人ともビールでいいですか?」
「あっゴメン、あたし未成年だからウーロン茶でいいよ」
言ってから、周子は凍りついた。周子の言葉に、Pもちひろも固まっていた。
「……未成年?」
「……うん」
やっとの思いでちひろが口を開いて、周子もそれに答えた。周子はPとちひろが固まっている理由の見当が付いていた。
絶対、間違いなく、契約の話だろうと、むしろ何か確信に近いものを持っていたかもしれない。
「……未成年、未成年、かぁ」
「ええぇ……」
Pは難しい顔をし、ちひろは肩を落とした。店に着いた直後の二人のテンションとは比べ物にならないほど低くなったのが見て分かり、周子は体を小さくした。
「ご……ごめん、なさい……」
喉の奥からようやくそれだけ捻りだすことが出来た。何はともあれ、まず謝るしかないと思った。果たして謝ったところで、どうにかなることではないと分かってはいたが。
昨日までは周子自身も色々と思うことがあり騙す形を取っていたが、よくよく考えなくても未成年が勝手に事務所と仕事の契約が出来るはずがない。細かい話は知らなくとも、周子もそれくらいは分かっていた。
「まあ何とかなるしいいや。とりあえず何か頼みましょうか」
罪悪感で一杯になっていた周子を尻目に、Pが店員を呼びつけていた。
は? と周子は呆気に取られて、それからちひろを見た。
ちひろは丁度下を向いていた。周子の視線に気付いたのか、ちひろは顔を上げて、もう一冊置かれてあったメニューを開いた。
「そうですね。それじゃ塩見さんはウーロン茶でいいですか? あ、最初に盛り合わせも一緒に頼みます?」
「んじゃ肉と野菜両方頼みますよ」
――え、なに、もしかして大した話じゃなかった?
最初は狼狽えていた二人だったが、今は何事も無く店員を呼びつけてメニューを指しながら注文している。
思っていたより自分が未成年だという話は大したことはなかったのかな? と周子は思ってきていた。自分が思っているよりも世の中、上手く都合が付く世界なのかもしれない。
現に目の前で、ちひろとあれやこれやと注文した肉の話をし始めたPが何とかなると言ったのだ。
本当に何とかなるのかは分からないが、少なくともPがそう言うなら、周子は信じるしかなかった。むしろ、信じていたほうが気楽だった。
「塩見さん、何か注文したい物ありますか?」
言いながらPは周子にメニューを手渡した。Pがすっかり昼間と同じ調子に戻っていたので、周子は気にしないことにした。
思うことはあるが、とりあえずはそうしておいたほうがいいのだろう。
「んー……鳥軟骨」
メニューに載せられている肉の写真を見て、周子はそれ以上考えるのをやめた。まあ何とかなるでしょ、と追加の注文を頼んだ。
……
…………
焼肉屋の日から一週間の間、周子の思っていた以上に暇な一日を過ごすことになっていた。
まず、家――正確には居候しているだけでPが借りている部屋だが、家主であるPが家にいる時間がほとんど無かった。
周子が朝起きる時間にはとうに家を出た後で、リビングに行くと周子の分の朝食だけが置かれている。毎日の朝食メニューはカラープレートにサラダと目玉焼きのセットが定番で、白いご飯と味噌汁か、トーストのどちらかが付いている。目玉焼きはベーコンエッグの日もあった。
『まあ、仕事ありますから』
何となく、一度だけ普段より早起きしてPが家を出る前に顔を合わせようとした日は、それでもPが仕事に向かう直前だった。その日は朝の六時で、Pは早起きですね、と言ってくれた。もちろん周子は、Pを見送った後に二度寝をした。
一人で部屋で過ごすのも退屈だったので、借りた合鍵もあるのでマンションを出て近場のショッピングモールに足を運んだ日もあった。とはいえ、何を買うわけでもない、小腹が空いたからと買い食いをするもなく、ただ歩き回るだけだった。
何せ、周子は仕事を始めるまで収入が無い。家を追い出されたときに持っていたお金もほとんど残っていない状態である。年頃の女の子がそんな状況なのが可哀相と思われたのか、Pが小遣いのつもりなのか、毎朝朝食が置かれているテーブルの上に五千円も置いてくれていた。
さすがにそこまで厚かましくは無いと、周子は五枚の千円札を見て最初は腹を立てたが、それも今更かと思い大人しく小遣いを懐にしまっていた。もちろん、無駄に使うことはなかった。
「何かお人よしっていうか、変な人っていうか……っといけないいけない、お世話してもらってるのに変な人って言うのは失礼か」
そんなある日、周子はPの家に居候してから初めて電車に乗った。
ふと思い立って事務所に行こうと思い、気の向くままに適当なタイミングで家を出たのだ。
偶然席が空いていたので座り、電車の揺れにしばらく身を任せながら携帯電話を手に取る。携帯が復帰してから久しぶりにLINEを起動してみると、友人達からの個別メッセージが大量に届いていた。
どれもこれも、メッセージの内容は周子を心配している旨の内容だった。LINEの新着通知が煩わしくて普段から通知をオフにしていた周子は、申し訳なさと共にメッセージを送ってくれた友人達にそれぞれ返事を返した。
『いま東京にいるんだー。ま、とりあえず上手くやっていけそうかも』
瞬く間に返事が返ってくる。最初は一通ずつ開いて中を確認して返信して、と繰り返したが、しばらくして電車が目的の駅に停車したことに気付いてLINEを落とす。夜にでも返事すればいいかと、周子は電車から降りた。
改札を出て、事務所の場所を思い出す。事前に住所は教えてもらっていたので、携帯で地図を開きながら事務所まで歩いた。
駅から歩くこと三十分、事務所が入っているビルが見えてきた。
「Pさんいるのかな……」
周子がぼそりと呟く。特別、Pに会いに来たというわけではなかった。用事があったわけでもないし、忙しければ来るだけ邪魔にしかならないのは分かっていた。
早起きした日、スーツを着こんで家を出たPを見送ったときに見た彼の背中を思い出す。その背中を見て、自分のような暇人とは違い、Pが毎日仕事の忙しさに追われているのは想像に難くなかった。
そこまで考えて、そんなところに冷やかしで自分が入り込むのは申し訳ないと思い、せっかくここまで来たけど仕方が無い、と周子は踵を返した。
「あら、周子ちゃん? こんにちは」
目の前で、コンビニのビニール袋を片手にちひろが笑顔を見せてくれた。その笑顔は、ここまで来た自分を労ってくれている笑顔なのかもしれない、と周子は思った。
……
…………
周子が昼間に事務所に来たのは二回目だった。一回目は焼肉屋に行った次の日、午前中にPと事務所に行き、ちひろと合流して三人で社宅候補に挙がっていた物件を見に行ったときだ。
そのときは候補のマンションに着く度に、Pとちひろは部屋を見ながらああでもないこうでもないと、周子を他所に盛り上がっていた。
たまに周子に話が振られたりもしていたが、周子がここは嫌だと言えば二人はあっさりと他の場所に行こうとするし、良さそうといえば念入りに不動産屋に確認をしていた。
何だかんだと結局は最後に訪れたマンションで周子は決めて、社宅の契約は別の日にちひろが済ませてくれた。
そんな日以来の、ほぼ一週間ぶりの事務所だった。
「あれ、Pさんいないの?」
がらんと静まり返った事務所を見渡し、周子はちひろに尋ねた。事務所の窓際の一角にPとちひろの机は置かれてあり、ちひろはコンビニで買ったコーヒーを自分の机の上に置いていたところだった。
「今はお仕事ですよ。お手伝いです」
「お手伝い?」
「Pさんが前に勤めていた事務所の助っ人に行ってるんですよ。この事務所、まだ誰も所属してませんからね。向こうから助っ人のお話がきたら出稼ぎに行ってるんです」
「へぇー、そりゃ大変」
「なので周子ちゃんが来てくれて、ようやく私もPさんもまともにお仕事できるようになったんですよ」
「あ、それは何となく気付いてたよ」
ちひろとは何度か顔を合わせるうちにすっかり仲良くなっていた。夜にPの家に顔を出す日もあり、彼女は周子がいるからと来た日は必ず泊まっていた。
泊まった夜中は、ちひろは周子の部屋に行き、女二人で他愛ない話をして盛り上がる。様子が気になるのかPが顔を覗かせにくるときもあったが、
『女同士のお喋りなので、Pさんはお引取りください』
と、冗談交じりに言うちひろに、Pは苦笑しつつ自分の部屋に戻っていった。いいのかな、と周子は思ったが、ちひろが別にいいと言うので特に気にしなかった。
前の職場の話、最近見たテレビの話、その日あった面白い出来事など、ベッドの上を転がりながら話していくうちに自然と打ち解けていた。
「今日はPさん、遠出してるから戻ってくるのが遅いんですよね」
「へー、どこ行ってるの?」
「えっと……そうそう、大阪です、大阪」
周子はドキリとした。地元の隣にPが行っていると聞いて、胸がざわつく。
もしかしたら、Pはその足で京都まで行くことはないだろうか、契約書に住所を書くという話が最初に出たとき、出身地は京都だと話してしまっていた。もしPが変なことを思い立って自分の実家を探そうとしていたらどうしよう、と周子は不安に駆られた。
何せ両親は電話を掛けても一切通話に出てくれないのだ。家を出て一ヶ月以上が過ぎ、それまで何度か電話を掛けたが実家には一度も連絡が付かなかった。もしやと思い、両親の携帯電話にも掛けてみたがこちらも同じく無駄に終わった。
親も相当頭にきていたということだろう。周子はそんな両親の気持ちを想像して、ふと嫌な気分になる日もあった。Pに拾われてからは、あまり考えることはなくなったが。
「大丈夫ですよ。Pさん、お仕事が終わったらすぐ帰るって言ってましたから」
「大阪から東京間を日帰り……」
溜息が出る話だった。自分もアイドルになったら、そういうスケジュールで仕事をすることになるのかと思うと、ひどく疲れたような気分になった。
そりゃあ毎朝あんな時間から仕事に行くよね、と周子は新幹線辺りに乗って眠りこけているPの姿を想像してみる。想像してみたが、浮かぶのは新幹線の中ですらノートパソコンを膝に乗せて仕事を続けるPの姿だった。
「というわけで、まあせっかく来たならのんびりしててください。どうせ定時には事務所も閉めるつもりでしたし、晩ご飯一緒に食べましょうか」
「はーい。それじゃテレビでも見て待ってるよ」
言いながら周子はテレビの前のソファに寝転がった。横着して寝転がりながらテーブルの上に置かれていたリモコンを掴み、テレビの電源を入れた。
テレビが光ると、そこには最近流行りの若いアイドルユニットが映し出されいた。五人組のユニットで、十代から二十代の年齢層に人気のユニットである。歌もいくつかリリースされており、周子もその中の一曲くらいは聴いたことがあった。
見ていると、番組の司会役がVTRを見ながら最近のイベントの話や、ユニットメンバーの一人を弄っていた。
(あたしも有名になったら、こんな番組に出たりするのかなー)
ぼんやりとテレビに映る映像を見ながら、周子は大きな欠伸をしつつ体を震わせた。
……
…………
「ただいまー」
夜、マンションに帰った周子は借りた合鍵を使って家に入る。もちろん、誰が返事をするわけでもなかった。
返事が返ってこないのは分かりきっていたので、周子は特に気にせず靴を脱いで真っ暗な廊下を歩いてリビングに向かう。
リビングの明かりを付けて、誰もいない空間を見つめて立ち止まる。
「……」
何か言葉が出るわけでもない、ただ、その誰もいない空間を見て寂しさを感じた。
夕方、周子は仕事を終えたちひろと二人で事務所から出て駅に向かい、ファミレスに入って夕食を済ませた。
食事中にちひろの話が始まり、今日は一日暇だったとか、明日もう一度不動産屋に行くとか、そんな話を聞いて過ごしていた。何とも無い話だったが、周子にとっては居心地が良かった。
居心地が良かったからか、誰もいないリビングを見つめて、ふと思い出してしまった。実家なら、ここには家族がいたんだなと。
普段は全く考えることもなかったのに、どうしてか今日に限ってそんなことを考えてしまう。気分が沈んでしまい、周子はリビングの明かりを消して部屋へと戻った。
「なんだろ、あたし……ホームシックとかなんかなぁ……」
自分で言えてしまうだけ、ホームシックだとしてもまだ大丈夫だろうと周子は思った。
部屋を明るくしてからベッドの上に転がる。何度か身動ぎをした後、携帯電話を取り出してLINEを起動させて昼間の友人達からのメッセージが溜まっていたことに気付いた。
LINEで友人達とメッセージのやり取りをして、電話も掛けて、それも一通り済んでしまうと周子は携帯を枕元に置いて目を瞑る。
一度気になって、部屋の隅に置いたPが綺麗に組み立ててくれてくれた小さな白いカラーボックスの上にある時計を見て、また目を瞑る。時計の短針は十二時を差していた。
意識が落ちかけていたところで、玄関から物音が聞こえた。
音を聞いた周子は、意識がハッキリとなり、ベッドから飛び起きた。部屋から出て廊下の曲がり角から玄関の様子を伺うと、ちょうどPが靴を脱いでいるところだった。
「おかえり」
聞こえるか聞こえないかというくらいの周子の声はどうやらPに聞こえたようで、Pは動きを止めて周子を見た。
「……ただいま」
呆気に取られたような表情でPが返事をしたのを見て、周子は満足した。
そんな周子の様子が気になったのか、Pが靴を並べながら聞いてきた。
「何かあったんですか?」
「ううん、何も」
「そうですか」
「あ、でも今日は事務所に遊びに行ったんだよねー。そしたらちひろさんが教えてくれてさ、明日また不動産屋に行くって言ってたんだ」
「そういえばちひろさんからそんな連絡が来てたような……であれば、契約書類でも取りに行く頃か……そろそろ塩見さんの引越し準備もしておきますか」
何気なく言うPに、周子は一瞬迷った。
迷っていたが、思わず声を出してしまった。
「あのさ、引越しした後なんだけど」
「はい?」
「暇なときに、ここに来てもいい?」
どうしてこんなことを言ってしまったのかは、周子自身も分からなかった。
分からなかったが、一つだけ確かなことがある。先ほどまでこの家に一人きりで、寂しさを感じて仕方が無かったはずが、Pが帰ってきた途端に全部吹き飛んでしまって心地良い場所に変わっていた。
ああ、やっぱりあたしはホームシックになってしまっているのかもしれない、と周子は思ったが、Pの一言にそれも消えてなくなった。
「いいですよ」
満足げだった周子の顔が、次にはにんまりとした笑顔を見せていた。
……
…………
*
「はい塩見さん、もっとお腹に力入れて!」
――キッツイわ。
最近の周子の率直な感想だった。
ちひろから社宅の用意が出きたという連絡をもらい、それから引越しを済ませて新しい生活を始めてから一ヶ月が過ぎていた。外はそろそろ、春の暖かさは感じられなくなってきていた。
色々一悶着でも起きるかと思っていた周子自身の事務所との契約も恙無く終わった。何となく腑に落ちない気持ちもあったが、面倒なことが起こるよりはずっと良かった。
新居に身を移して、周子のアイドル生活がようやく始まったのだ。とはいえ、三週間ほどレッスン場に通い詰めになっているだけだが。
「もう一回、さっきより声出して」
レッスンの指導をしてくれているトレーナーが、周子の腹に力いっぱい手を押し付けてくる。Pと一緒に選んで買ったジャージ越しから物凄い圧力が掛かる。
その手を腹で押し返すように、周子は呻き声と共に声を上げる。相変わらず苦しいとは思っているが、発声練習には随分と慣れて来た頃だった。
最初の頃はボイストレーニングのレッスンだろうが、ダンスレッスンだろうが関係なくその日のレッスンが終わると疲れ果てていた。
我侭を言ってPに家まで送ってもらうこともあった。送ってと直接周子から言うことは無かったが、レッスンが終わった後にPに連絡を入れてその日の話をするときに、
『疲れた』
と一言言うとPは決まって、
『大丈夫ですか?』
なんて聞いてくるものだから、しめしめと周子はほくそ笑んでからもうダメと続ける。それからレッスン場近くの喫茶店で暇を潰していると、Pが車で迎えに来てくれる。
顔を合わせない日でもPが毎日忙しくしているのは周子も十分理解していたし、もちろん自力で家に帰る日もある。
それでも、車の中の短い時間でPと直接話すのは面白かった。
今日はどれくらい声が出たとか、前のレッスンよりも足が動いたとか、レッスンの話は少しだけでそれほど長くすることはない。
レッスンの話が終わったあとは決まって、いつ頃からちゃんとした仕事が始まるのかという話になる。いまの自分のやっていることが、どんな形で結果に繋がるのか周子にはまだ想像もつかなかった。
「うあー……」
一通りの発声練習が終わり、少しばかりの休憩を挟む。
周子は休憩のたびに情けない声を出して床に座っていた。まだまだレッスンも基礎ばかりで、ボーカルトレーニングも触り程度にしかやらせてもらえていなかった。
持ってきていたスポーツドリンク入りのペットボトルに口をつけて一息入れていると、レッスン場に電子音が響いた。程なくしてトレーナーがドアを開けて外に出て行ったので、どうやら携帯電話の着信音だったらしい。
それから少しして、トレーナーが戻ってくる。何故かその後ろに続いてPがレッスン場に入ってきた。
「あれ?」
「お疲れ様」
「お疲れー……ってどうしたの?」
「明日、十時に事務所に来てください。宣材写真を取りに行きますので」
「洗剤?」
「今後の仕事で使う写真のことです。事務所のプロフィールやオーディションの書類等に使います」
「あ、そっちね。うん、宣材」
つまり、写真を取られること。なるほど写真か、と周子は納得したように頷いたが、直後にえっ、と短い声を発した。
「それって仕事?」
「仕事です」
「へー……それじゃあたしの初仕事だ」
「そういうことです。衣装は一応レンタル出来る物を使う予定ですが、それなりの服装で来てください」
はーい、と周子は返事をしたが、何となく仕事が来たという実感が湧かなかった。あれだけレッスンがある度に、いつ仕事が始まるんだろうとPに話していたはずだったのに。
まあ実際に仕事となるとこんなものなのかな、と思いながら周子は笑顔で付け足した。
「まっ、なんとなーく上手くやっとくよ」
……
…………
「おおう……」
翌日、撮影スタジオに来て周子は思わず声が漏れた。
実際のスタジオ現場は、周子が思っていた以上に本格的な物だった。
撮影場所の背には白い布が掛けられており、レフ版やアンブレラもまとめて設置されている。数人のスタッフが話し合いながら撮影準備をしていた。
パーティションを挟んだ隣はメイク用のスペースになっている。なるほど、メイクもここで済ませるのかと周子はあちこちに視線を彷徨わせる。
「本日はうちの塩見をよろしくお願いします」
「よろしくお願いしまーす」
Pがスタッフ達に挨拶をするのに合わせて、周子も笑顔で頭を下げる。スタジオに来る前の、車で移動している最中にPからは撮影するときは無理しない程度に笑顔で、と言われていた。
まあまあ笑うのは得意だから大丈夫、と周子も気にしてはいなかったが、実際に現場に来てみると思っていたよりも自分が固くなっているのが分かった。
「それじゃメイクが終わったら撮影にしましょうか。こちらは待機してますので」
軽快に言うスタッフにもう一度頭を下げて、周子はPに連れられてメイクスペースへと移動する。
そちらでも軽く挨拶を済ませてから、周子は鏡の前に置かれた椅子に座らされる。いよいよもって周子の白い肌に手が入るというところで、Pが声を掛けた。
「私は撮影場所のほうで待っていますので」
メイクが始まったのを見て、Pはパーティションを越えて見えないところに行ってしまった。
鏡越しに見えていたPの背中が消えて、周子は何とも言えない気持ちになると共に、撮影前にじっと座っていなければならない状況に気を揉んだ。思っていたより、自分はこういうことに対して耐性が無かったようである。
それからしばらくしてメイクが済んだ。見繕われた衣装に着替えていよいよ撮影が始まった。
「はい笑ってー」
「はいはーい」
スタッフが言うと、撮影用のカメラからフラッシュが焚かれる。
なるべく自然にしようと周子も軽く言いながら笑顔を作るが、カメラを抱えたスタッフは一度その手を下げた。
「もう一回ね、もうちょっとだけ笑顔で」
「ん、はーい」
どうやら満足してもらえなかったようで、もう一度笑顔を作る。
「もう一回ね」
スタッフがカメラは動かさずに首を傾げる。どうやら、またしても満足できなかったようだった。
「ちょっと笑顔が硬くなっちゃってるかな。顎も少し引いて」
スタッフの一人が周子の傍に来て、メイクと髪が崩れない程度に頭に周子の頭を動かす。思ったよりも顎が上がっていたようだった。
遠くで様子を見ていたPも近寄ってきて、周子の目の前に立つ。
「大丈夫ですか? 無理しない程度の笑顔でいいですよ。塩見さんは元気のいい笑顔よりも、少し落ち着いたほうが様になると思います」
「う、う……うん……」
突然覗き込んできたPに、周子はどもってしまった。何となく恥ずかしさを覚えて、心配して来てくれたPを大丈夫だからと言って手で追い払ってしまった。
(もう……)
Pにあれこれと言われるのは、何となく悔しかった。前の日に上手くやっておくと言った手前、結局面倒を掛けさせてしまっている。
けれども、改めてPがしっかりと自分を見てくれていること、周子は内心ほっとしていた。何かあっても、Pがいるなら最後は上手く出来るかもしれないと思うと、少しばかり張っていた気持ちが緩んだ。
そんなときに、不意にフラッシュが焚かれた。
「いまのイイね。もう一枚、今の感じで撮るからね」
「あれ、今の?」
「そうそう、今の笑顔良かったよ」
「あたし笑顔だった?」
自分でも気づいていなかったが、どうやらそうなっていたらしい。スタッフが満足しているなら、まあとりあえずはいいかと周子は同じ調子で笑顔を見せる。
それからスタジオ内に何度かシャッターの音が響いて、ようやく撮影を終えることが出来た。終わった後、周子はレッスンの日以上にくたくたになっていた。
……
…………
助手席のシートを斜めに倒し、周子は車の中で呆けていた。Pの運転が特別荒いわけではないが、右折や左折をする度に体が左右に揺さ振られ、その感覚が心地良かった。
「疲れましたか?」
正面を向いたまま、Pが周子に聞いてくる。別に、と周子は答えたが、ほんの少しだけ疲れを覚えていたのは本当だった。
「まあ写真撮るだけだったしさ、それだけ疲れてたらやっていけないでしょ?」
「そうですね。お疲れ様でした」
笑いながら言うPの顔を横目で見ていると、見透かされたような気がして周子はむっとしたが、それ以上何か言うほうが情けないので言葉を飲み込んだ。
とはいえ、Pなりに気遣ってくれているのは分かっていた。周子は一度大きく息を吐いて、それから窓の外に目をやった。
撮影は午後から始まったはずだが、何だかんだと色々あって時間が過ぎて、外はオレンジ色の様子を見せている。
Pは宣材写真の撮影も仕事と言ってくれたが、実際はデビューもしていないのだからそれも違うだろうと周子は思った。
撮ってもらった写真は、早ければ明日には出来上がってるとのことで、Pが取りに行ったら見せてくれるらしい。綺麗に取れているのか、周子は気になって仕方が無かった。
「ねえねえPさん。あたしっていつデビューできるの?」
「もう少しってところですかね」
「えー、何それ」
めでたく初めての仕事をこなした後なので、いつ仕事が始まるの? とは聞かなかった。周子の次の目標はデビューすることである。
アイドルの最初の仕事は、どんなものがあるんだろうか。最初からテレビに出るか、それとも雑誌に載るところから始まるだろうか? 何気ない日常の中にある色々な媒体でアイドルの姿を見てきた周子だが、実際にデビューするときはどうなのだろうかと考える。
オーディションでいきなりドラマの主役はどうなのかな、でもやっぱり最初は難しいか、とあれこれ考えるが、どれもいまいちピンとこなかった。
「色々考えているんですけどね。それよりもまず塩見さんは、もっとレッスンを頑張ってください」
「それ言っちゃう? ま、あたし元々素人だし仕方ないけどさ」
養成所とか通ってなかったし、と最後に付け足して周子はPを一瞥した。
相変わらず正面を向いたままだが、その横顔は何やら普段と違い嬉しそうな表情を浮かべているように見える。
(気のせいか……)
しばらくの間、特に話すこともなくなり、周子が疲れていたこともあって二人は周子の家に着くまで沈黙していた。
別れ際、Pからレッスンを頑張ってくれと念押しをされたので、周子は適当に上手くやっておくと答えた。
それから一ヶ月が過ぎた後だった。周子の耳にデビューライブの知らせが届いた。
……
…………
「はいストップ! 今のパートもう一回!」
首に掛けた白いタオルで、周子は額の汗を拭った。
目の前で、自分以外のアイドルたちが、レッスン場の中で凄みのある声を響かせているトレーナーの指示を受けてダンスレッスンを繰り返している。周子はレッスン場の隅に座り込み、休憩ついでにその様子を眺めていた。
暑さを感じ始める六月も半ば過ぎた頃、周子は大手芸能事務所の中にあるレッスン場に通っていた。そこはPの元職場ということで、目の前で指導しているトレーナーもPとは面識があるとのことだった。
周子のデビューライブは、ここの事務所のアイドルが予定しているミニライブの前座という形で行われることになった。P曰く、こういうときの昔の伝手、とのことらしい。
「お疲れ様。さっきの動き、足が動くようになっていたわよ」
「ん、ありがと、奏ちゃん」
隣に座ってきたこの事務所の所属アイドル、速見奏が周子に声を掛けてきた。
言葉の端々が落ち着いていた雰囲気を醸し出している彼女は、周子が初めてこの大手事務所に来た日にPから直接紹介されてからの付き合いになる。
とはいっても、初めて顔を合わせてから半月も経っていない。Pが調整して周子と奏のレッスンの日を合わせており、奏は実質的にレッスン中の周子のお守り役になっていた。
『別に、彼女のレッスンを見てあげるのはいいけど……あ、そうそう塩見さん、私ね、Pさんが事務所を移る直前まで担当してもらっていたアイドルなの』
『なんだよ、突然また自己紹介なんかして』
『ふふっ、何でもないわよ。ただ私は、担当アイドルがいるのに他の事務所に移る薄情なプロデューサーさんがいるって塩見さんに教えてあげただけよ』
『耳が痛いな……』
奏はPが担当していたアイドルだったらしく、半年程前にデビューをしてCDもリリースしているらしい。というより、周子も彼女が歌う曲を聴いたことがあった。
好んで聴いたというわけではないが、高校卒業前、クラスの友人の一人が学校の昼休み中に彼女の曲を携帯にダウンロードしていたのを聴かせてもらったことがある。
随分大人な曲を歌うアイドルだな、とそのときは思うだけだったが、こうして話してから分かったことだが、何と自分より年下だというのだから驚いた。見た目も自分より大人っぽいし、完全に詐欺だと周子は思った。
「どう、デビューに向けて準備はバッチリ?」
「まだダンスも全部通してないけどねー。まあでも、大体出来てるし何とかなるでしょ」
周子のデビューライブは奏のミニライブと一緒に行われる。ついでと言っていいのかは分からないが、どうやらライブの後のミニトークにも出ることになっているようだった。
台本は近々渡されるとのことで、ひとまずトークのことは忘れることにしたが、レッスンは一人でやっていた頃から更に難しくなり辛いと感じていたところだ。
少し前からボーカルレッスンもはじまったが、聞かせてもらった曲のサンプルが自分の好みだったので、そちらは楽しくやれそうだった。
「もうさー、レッスンはキツイでしょ? やめたいなーって思うでしょ? でもやめれないんだよねこれが」
「いつもそんなこと言ってるわね。Pさんが聞いたら、あの人悲しむわよ?」
「まあ、今のところあたしは事務所的に穀潰しみたいなもんだしさ、少なくてもデビューするまでは頑張らないと」
ご飯食べてレッスンしてるだけだからお金稼いでないし、と周子は笑ったが、レッスン場にいる人間でデビューを済ませていないのは周子だけだったので、自分で言って少しばかり悲しくなった。
周子が自傷している様子がおかしかったのか、奏も一緒に笑っていた。奏は大人びているが、こうして笑っているところだけは歳相応だなと、周子は思った。
そんなわけで二人は同じミニライブに出ることもあり、色々と話していくうちに自然と一緒にいる機会が多くなっていた。Pがレッスンの日を合わせているのもあるが、互いに相手のことを嫌ってはいなかった。
「周子なら大丈夫よ。Pさんが面倒を見てくれるなら、デビューも上手くやれるわ」
「そう? まー何だかんだ、なるようになるっていうしね」
「そうじゃないわ。Pさんは私をデビューさせてくれたもの、少なくとも私はPさんが傍にいてくれるなら大丈夫だと思っているわ」
「Pさんってめっちゃ仕事できそうだもんね」
「出来る人よ。だけど、私以外のアイドルだって担当していたし、それなのに他所の事務所に移るなんて本当にヒドイ人」
ヒドイ人、と言う奏の表情は柔らかかった。それだけPのことは信頼していて、彼が事務所を移るときも後腐れはなかったのだろうと周子は思った。
「あははっ、それじゃあたしってけっこー恵まれてるってことかもね。拾ってもらって住む場所も仕事ももらっちゃって」
「そうね。本当に、羨ましいわ」
冗談交じりで言う周子の言葉に、最後に奏がぼそりと呟いた。
呟きはレッスンをしているアイドルたちの熱気に掻き消えたが、周子を見る奏の表情はどこか寂しさを見せていた。
……
…………
レッスンの日は瞬く間に過ぎていき、周子は事務所の中でミニライブのトークで使用する台本に目を通していた。
ソファに寝転がり、暑さを感じて手元に置いていたエアコンのリモコンを弄る。周子に向けてエアコンの風が送られると、また台本の文字に視線を戻した。
七月のじめじめとした暑さに周子はうんざりしながらも、明日のライブは上手くいくと良いなとか、歌詞が頭から飛ばないかなとか、そんなことを考えながらぼんやりとしていた。
デビューとなるミニライブの場所は、都内にある小さなライブハウスだった。今日のリハーサルも含めて、何度か周子はPに連れられて足を運んでいる。
『最初にしては随分大きい場所ですよ』
Pがそう言ったので、周子もそんなものかと思うようにした。いよいよ明日が本番、ということにあまり実感が湧かなかった。
とはいえレッスンも仕上げたし、読んでて面白くはなかったがトークの内容もある程度頭に入れている。まあ後は、何だかんだやっていけるでしょと思っていると、背中から事務所のドアが開く音が聞こえてきた。
明日の本番は周子のデビューライブだが、イベントの自体の本命は奏のライブである。その打ち合わせのため昔の職場に行っていたPが帰ってきた。
窓の外を見ると、すっかり日が落ちて夜になっていた。
「あれ、塩見さん、まだいたんですか?」
「勉強ちゅー。外暑くて帰るのめんどくさいし、ここで台本捲ってたんだー」
「明日は本番なんですから、早めに帰って体調を整えておいてくださいね」
周子にとっては、自分でも珍しくレッスンは怠けず頑張ったつもりだし、その分楽しみも不安もある。
かといって今更慌てることも心構えをしておくこともないし、なるようにしかならない。それならいつも通り適当にしてればいいと思っていた。
Pが事務所に戻ってくるのは昼間のリハーサル中に話を聞いて分かっていたし、ちひろに話すと特に何ともなさそうに、じゃあいいですよ、と言ってあっさりと彼女は帰ってしまったし、それならここで待つかと周子は居座ることにした。
「どうかしましたか?」
「台本読むのつまんなくてさー、なんか覚えたこと話すのって面白くないよね」
パラパラと台本のページを捲りながら、周子はついに飽きて台本をテーブルの上に寝ながら放り投げてしまった。
歌のレッスンも、ダンスのレッスンも楽しかったが、途中から入ってきたトークだけはどうにも面白さを見出せなかった。
適当にやろうにも、自分だけのトークならまだよかったが奏と一緒に話さなければならなかったし、彼女に迷惑を掛けるわけにもいかない。
大きな溜息を吐きながら、胸元に抱えていたクッションを叩いているとPが近寄ってきた。
周子が投げた台本を手に取り、一ページずつ目を通している。
「面白くないですか?」
「うん」
「まあ、面白くないですよね」
「でも奏ちゃんは真面目にやってるし、あたしがそんな適当やるのってダメだしさー。まあ大体覚えたからちゃんとやれると思うけど」
周子がそんなことを話していると、Pが突然台本を投げてきた。驚いて周子はクッションを床に落としながらも台本をキャッチすると、捲られたページに色が付いている事に気付いた。
「それを読んで、明日は頑張ってください」
「……この赤線だらけの台本のドコを読めと?」
ほぼ全てのページに赤線でバツ印が付けられていた。なんだれこれはと周子が思っている横で、Pは自席に戻り机の上を片付けを始めた。
付きっぱなしだったノートパソコンの光が落ち、丁寧に鞄の中に戻される。
「好きなこと話していいですよ。少し詰まっても、まあ皆さん気にしないと思います」
「これ、奏ちゃんとのトーク困らない?」
「奏なら大丈夫ですよ。彼女なら上手くやってくれますし、気にしないでください」
Pが言う奏、という一言に周子は何となく引っ掛かったが、さてどうしたものかと悩んだ。
本番前につまらないことで我侭を言う自分にPが見かねてこんなことをし始めたのか、はたまた本当にこれでいけると思ってくれているのか。
Pを見ると、相変わらずいつもの調子だった。特に周子の反応を待っているわけでもなく、事務所の戸締りを始めている。
だが、窓の鍵を確認していたPが、突然口を開いた。
「私は、塩見さんなら出来ると思っていますよ」
――出来る。
誰に迷惑を掛けるかという話ではなく、Pは自分に出来ると言った。
その一言で、周子はPが自分のことを思っていた以上に期待してくれていることと、それ以上に奏のことを信頼していることに気付いた。何せ奏のことは気にしなくていいと言っているのだ。
周子はPが奏を信頼していることと、自分と奏が比べられた気がして、少しばかりの悔しさを感じた。
その悔しさから不貞腐れたことを言いそうになったが、周子はぐっとこらえて、Pと同じくいつもの調子で答えた。
「それじゃー、適当に上手くやっとくよ」
絶対明日は上手くやってやる、と周子は心の中で固く決意した。
……
…………
ムカつく程の清清しい青空だった。デビューライブの本番当日、周子は朝早くから電車の渋滞に揉みくちゃにされ、駅から事務所までの道を暑さで汗だくになりながらも歩き、やっとの思いで事務所に辿り着いた。
事務所のドアを開けると、中はエアコンが効いており涼しく快適だったが、周子は持ってきていたタオルで首筋の汗を拭った。
Pとちひろは、朝から熱心に自席に座ってパソコンに噛り付いている。
「おはようございます周子ちゃん。今日はいよいよ本番ですね、頑張ってください!」
「だいじょーぶだって、何とかなるなる」
周子に気付いたちひろは、挨拶もそこそこに突然激励してきた。デビュー直前で緊張しているとでも思われたのか、周子は大丈夫だと笑って答えた。
「今日はちひろさんも、事務所閉めて見にくるらしいですよ」
「え、何それ? あたし聞いてないんだけど」
「事務所第一号のアイドルになる周子ちゃんのデビューですからね。応援くらい行きますよ」
周子は途端に恥ずかしくなり、いやいやと首を振った。
事務所を閉めてまでちひろが自分の応援に来るなんて、まるで授業参観に張り切ってやってくる母親みたいなものである。それだけ楽しみにしてくれるのは嬉しかったが、恥ずかしさのほうが勝ってしまい素直に喜べなかった。
「まあそれは半分冗談で、今日はちひろさんもうちのスタッフの一人としてのお手伝いってことです」
「えへへ、常勤三人みたいなものですからね。周子ちゃんがデビューするのに、うちのスタッフがPさん一人だと向こうに申し訳ないですからね」
ちひろの言う向こうとは、奏の事務所のことである。奏がメインのミニライブということで、スタッフの手配もほとんどが向こうで済ませており、Pとちひろは当日スタッフの一人として現場に顔を出すことになっている。
まあその手配も、Pさんがやっちゃったみたいんですけどね、とちひろは続けて言った。
「前の職場ですし、そこら辺の勝手は知ってますからね。結局場所も間借りしてもらった形になってますし、こっちでやれることはやっておきませんと」
「次もこっちからお願いできるかもしれませんしねー」
「うちの事務所も今は名前を覚えてもらう時期ですからね。こういうときこそ昔の伝手です」
あたしより張り切っちゃって、と周子は二人を見ながらソファに座った。現場に行くまでは得にすることもなかったので、肩に掛けている鞄から台本を出してページを捲った。
台本の中身は、昨日ほとんどPが赤線を引いた状態になっているが、一ページ目にはト書きのような一文が添えられてあった。
『時間内なら好きなことを喋って良し』
台本で顔を隠しながら、周子はこっそりと自席に座っているPを見た。ちひろと漫才のようなやりとりをしながら、背中に置かれているプリンタから印刷した紙を手に取っていた。
この字を書いたのが、周子の知っているPなのがどうしても納得いかなかった。
周子から見たPはお人よしで、少し硬くして、融通が利いて、出来るサラリーマンの見本のような印象である。融通が利くとは思っていたが、適当でオッケー、なんてことを言う人だとは思っていなかった。
「このこのぅ! 自分だってウキウキしてるくせに」
「ちょっ、やめてくださいよ。ちひろさんには言われたくないんですけど……」
二人のやり取りを見て周子はふと、Pと自分との間を隔てている壁があることに気付いた。
そうだ、自分と話しているときのPはいつも調子が同じだった。公園のときも、喫茶店のときも、事務所にいるときも、Pの家にいるときも、宣材写真を撮りに行ったときも……思い返すと、ずっと同じ調子なのだ。
今のPは、仕事をしている姿はいつもと変わらないが、ちひろに弄られて困っている顔ですらどこか楽しそうにしている。
『奏なら大丈夫ですよ』
なぜか昨日のPの言葉を思い出した。奏を信頼しているPの言葉、周子の中に引っ掛かっているもの、そうだ、Pにとって自分は未だにお客さんなのだ。
今の自分はよく分からないところで寝転がっていたお客さんで、誘ってみたらアイドルをやりたいと言ったもんだから、そのまま手を引いてもらってるだけに過ぎない存在。
そこまで考えて、周子は猛烈に腹が立った。怒りの感情も覚えて、ぶん殴ってやろうかとも思った。
どうしてそこまで思ったのかは自分自身でも分からなかった。けれども、Pと自分の関係を改めて見つめ直して、そこまで考えて……次に感じたのは疎外感だった。
Pにとって、自分は見えるところにいるけど、少し離れたところにいる存在。Pの傍にはちひろや奏だけではなく、まだ知らない人たちがたくさんいる。
自分はこれから、Pにとってどんな存在になるのだろうか。
そもそも、自分はどうしたいのだろうか。
ぐるぐるぐるぐると、周子は思考の海に沈んでいくようで、考えても何も浮かんでこなかった。
「塩見さん」
「ん?」
Pの呼び掛けに、周子の思考は中断された。ソファから起き上がるとPとちひろはいつの間にか外出の準備を済ませていた。
「そろそろ行きましょうか。車出してきますので、準備してください」
「はーい」
Pが一足先にドアを開けて出て行く後ろ姿を見て、ああ、とりあえず今日の仕事は上手くやってやるんだった、と昨日の決意を思い出した。
……
…………
ライブハウスのバックヤードから外に出て、周子はぼんやりと空を眺めていた。
空の下地は燃えるようなオレンジ色で、上にはグラデーションの夜空が見えている頃だった。もうそろそろで夜になるのか、と周子は思っていた。
昼過ぎにライブハウスに着いて、本番のステージの状態を確認して、合流した奏と二人で並ぶときの立ち位置も確認した。
ステージより奥、客席になる場所は誰もいなくて薄暗く、やっぱり狭い場所に見えていた。
それからメイクも済ませて控え室で待機していると、開場時間になった頃から客がぞろぞろとライブハウスに集まってきた。
狭い客席が埋まっていく光景が気になり、周子が興味本位で舞台袖から客の様子を伺おうとしたとき、丁度聞こえたのだった。
『塩見周子って誰だろ』
『さあ、知らない』
今日ここに来る客の誰もが周子のことを知らない。
『奏ちゃんの前の前座でしょ?』
事実その通りだが、その言葉が妙に心に残った。
何となく嫌な気持ちになって、周子は舞台袖から離れて、外の空気を吸いたくなってこうして外に出ている。
もう衣装に着替えて、メイクも済ませている。汚れないように地面には座らず、ただ立ち尽くしていた。
幸いバックヤード側の出入り口は柵がある都合上、表からは来ることはできないので奏のファンがこちらに来ることはない。
他のスタッフたちも忙しそうに舞台裏で右往左往しており、奏はまだメイクの途中だった。ここは周子一人だけの空間になっていた。
「どうしましたか?」
背後から扉の開く重たい音が聞こえてくると共に、Pの声も聞こえてきた。
なんもないよ、と周子は振り返って答えたが、お構い無しにPは周子の隣に並んできた。
「もう少しで本番です。外は暑いですし、休憩するなら控え室のほうがいいですよ」
「なんか、そんな気分じゃなくてさ」
Pが戻るように促してきたが、周子はそれを遮り、空に向けている視線を外さなかった。
「……どうかしましたか?」
Pがもう一度聞いてきた。何となく、この男は自分の考えていることが分かっているのかもしれないと周子は思い、ゆっくりと口を開いた。
「今日来たお客さんって、みんなあたしのこと知らないんだよね」
「そうですね」
「奏ちゃんのために来た人たちばかりで、あたしって邪魔者なのかなって」
「そうかもしれません」
「プロデューサーなのにそんなこと言うんだ」
「まあ、そう思う人もいるかもしれない、というくらいです」
Pの言葉がグサグサと周子の身体に突き刺さった。ここに来てこの男は容赦が無さ過ぎると、周子はPを軽く睨み付けた。睨み付けたが、Pはまるで気にしていなかった。
「それじゃああたしがここにいる意味ってあるの?」
奏の邪魔をしたくて来たわけではない。それならもっと別の形でデビューすればよかっただけのことである。
しかしPは、さも当然のように周子に言った。
「いる意味はありますよ。今日来た人たちに塩見周子の存在を覚えさせてやるんです」
Pの言葉に、周子は固まった。風が吹いて、夕日に照らされた周子の銀髪が小さく揺れる。
「お前達は知らないだろうが、ここには速水奏だけじゃなくて、塩見周子というアイドルもいるんだ。私を見て驚いて、そしてファンになれ……そういうアピールをする日です。少なくとも、今日は」
――ああ、そうか。
Pの言葉に、周子はどうして昨日、Pと自分の関係を思って疎外感を覚えたのかが分かった。
それは周子自身もPのことを知らなかったから、知ったような気でいたからそう思えてしまっていたのだ。
京都の実家で、自由気ままのんびり気楽にやれた自分の世界ではない。今この場……それよりも前、Pと初めて出会ったときから、自分の知らない世界に足を踏み入れていた。
しかし踏み入れただけで、今日まではその世界の入り口でもたついていただけ。ここまでは手を引かれて、入り口まで連れて行ってもらっていただけである。
これからは自分でその世界に入っていかなければならない。塩見周子という存在を、ちひろや奏、いつか出来るかもしれない自分のファン、それに何より自分を拾ってくれたPに対して知らしめてやらなければならない。
「……ま、そーだね。今日のあたしは、あたしなりに、あたしらしい姿をみんなに見てもらわないと」
昨日までの自分は、どれだけいい加減で怠け者だったのだろうか。昨日のPに対する感情も我侭でしかなく、そんな下らないことを考えている暇があるなら、怠け者なりにでもまずはやるべきことをやるべきなのだ。
そこまで思って、周子の心の中はすっかりと晴れやかになっていた。そろそろ夕日が沈む空に、朝に見たムカつくほどの清清しい青空が重なった。
「さて、それじゃあ戻りましょうか」
「うん」
周子はPの言葉に、今度は笑顔で答えた。
ライブハウスに戻る前にもう一度振り返り、空の色を目に焼き付けた。
……
…………
ステージに立つ周子は、何度も客席を見渡した。
奏のためにこのライブハウスに集まった客は、恐らく全員が周子を知らない。
それなら周子は、まずは自分がこの場にいる人たちを覚えようと、一人一人の顔を見るように視線を動かした。
「えーっと、塩見周子です」
今は自分だけのステージで台本は無い。正確には台本はあったが、昨日赤線が入れられて投げ捨てたのでもう忘れていた。
「今日はみんな、奏ちゃんのためにここに来てくれたのに、出てきたのがあたしでゴメンね?」
マイクを片手に笑いながら言う周子と、それに対して青いサイリウムをゆらゆらと揺らして反応してくれる客が数人。後は沈黙している。
「あたし、今日がデビューなんだけどさ、縁があって奏ちゃんのライブにお邪魔しちゃったんだ。あ、奏ちゃんは後で来てくれるから安心してね」
もう一度客席を見渡す。反応してくれた人たちが少しでもいたことに、周子はもう一度笑顔になった。
「みんなあたしのこと知らないだろうけど、あたしは今日、みんなにあたしを知ってもらうために来たんだよね。あたしなりに、あたしらしく……みんなを後悔させないように頑張ってみるから、ヨロシク」
静寂を漂わせていた会場に音楽が響く。
次にマイクから聞こえてきた周子の声は熱を帯びて、音楽に乗って会場内を包んでいった。
……
…………
「お疲れ様、それじゃ後でね」
「はいはーい、あとはヨロシク」
舞台裏に戻った周子は、奏とすれ違いざまに手を合わせた。
周子のステージは、歌が終わった頃にほとんどの人たちが拍手をしてくれた。
歌の最中、奏のステージのために用意してくれていたのであろう青いサイリウムが、曲が進むたびに少しずつ増えていき暗かった客席に青い波が出来ていた。
周子はその波が、ともすれば星の海に見えて思わず見とれてしまいそうになっていた。だけど、自分が歌うのをやめればその波は消えてしまうのだと、最後まで歌い切った。
歌い終わった後に、青い波が一際大きく揺れた。周子はその波を見て高揚感を覚えた。満ち足りて、ずっと見ていたいとさえ思った。
それでも、手前にあった小さなモニターから、舞台裏に戻るようにとのメッセージが光った頃に、周子は現実に戻された。
最後に会場に向けて小さく手を振り、笑顔で舞台裏に戻る。幕の裏に完全に入るまで、周子は客席から目を離さなかった。
「あっ」
奏と交代して、舞台裏で周子を待っていたのはPだった。
今の周子にとって、暗がりでもPの顔ははっきりと見えていた。今まで見たことがないほどの満足げな表情を浮かべている。
「歌ってきたよ」
Pの傍まで駆けて、一瞬悩んで周子はPに飛びついた。飛び込んだとき、Pの存在がとても大きく感じた。
汗で顔に張り付いた銀髪が煩わしかったが、倒れることなく受け止めてくれたPに、周子は満面の笑顔になる。
「お疲れ様。すごくよかった」
「そうでしょ? まっ、上手くやるって言ったしね」
Pの声もどこか興奮しているように聞こえた。
――どうだ、これがあたしだ。そっちは何となく拾ってきただけなのかもしれないけど、あたしはここまでやったんだぞ。
やりきった嬉しさのあまり、周子は思わず言いそうになったが、Pの笑顔を見ているとそれもどうでもよくなった。
「お疲れ様です周子ちゃん。大成功でしたね」
奥のドアからちひろもやってきた。周子はPから体を離してちひろとハイタッチをする。
「まーまー、シューコちゃんもやれば出来るってことで」
「本当によかったです。私、モニターで見てて感動しちゃいましたよ」
興奮気味に駆け寄ってくれたちひろを見て、周子は嬉しくて仕方が無かった。嬉しくてたまらなくて、今度はちひろに飛びついた。
ちひろも受け止めてくれて、もっと嬉しくなった。
「ほらほら、ここに立ちっぱなしだと邪魔になりますから一旦戻りますよ。汗を拭いて、化粧が崩れていないか確認して、奏が歌い終わったら後の二人のトークもあるんですから」
「はーい。分かってる分かってる」
そうだ、この後は奏と二人でのトークもある。
ここまで来たんだ、奏を食ってやるくらい振り回してやろう。今日の主役は奏だろうが、構わず振り回して会場の人たちを心に自分を完全に植えつけてやろう。
そんなことを考えて、周子はニヤリとした笑顔をみせた。それに気付いたPは、静かな声で周子に念を押した。
「好きにしていいとは言いましたけど、程々でお願いします」
「あ、やっぱり?」
その後はもちろん、周子ステージ上でアドリブで奏を散々振り回した。
振り回されている奏の姿は新鮮だったのか、客からは大いにウケていたが、戻ってきてからPにはこっ酷く叱られてしまった。
それでも今日という一日は、迎えてくれたPの笑顔と共に、周子の心の中に鮮烈に焼きついた。
……
…………
周子のアイドルデビューから翌日、事務所のソファで周子は不貞腐れていた。
昨日の打ち上げは奏をはじめ、数人のスタッフも含めてライブハウスの近場にある居酒屋で行われて大いに盛り上がった。
酒の飲めない周子と奏と、車を運転するPもジュースで乾杯した。ちひろはPの代わりに大いに酒を飲んでいた。
そんな盛り上がった昨晩、打ち上げが終わる頃には全員が疲れ果てて、最後はぐったりとしながら解散した。
ライブのことで、周子はPに思ったことや感じたことを色々話したくして仕方が無かったが、あまりにも疲れていたので、明日事務所で話せばいいか、などと思ってしまった。
家までは車で送ってもらい、Pとちひろと別れてから、その日はベッドに飛び込むなり眠ってしまった。
「ホント、仕事熱心なことで」
そんなわけで事務所に来たのはいいが、肝心のPはどこにもいなかった。ちひろがのんびりとパソコンのキーボードを叩く音が聞こえるくらいで、二人きりの事務所になっていた。
「Pさん、今日から出張なんですよね。遅くても二、三日で帰ってくるとは思いますけど」
そんな話は聞いていない。いや、自分に言う必要はなかったのかもしれないが、教えてくれてもよかったのではないか。
ますます周子は不貞腐れて、クッションをぼすぼすと音を立てて叩く。
「まあまあ、周子ちゃんのお仕事の関係でPさんも朝から出張に行きましたから」
そう言われては、周子は文句を言うにも言えなかった。
自分の仕事のためであれば、何であれPに文句を言うのは筋違いだし、自分の話に付き合うよりも全然大事なことである。
けれどもそれはそれ、これはこれと納得できなかった。
「でもさー、せっかく事務所のアイドルのデビューが無事に終わってさ、それではい次の仕事ーなんて、ちょっと淡白すぎない?」
「そんなことないですよ? Pさん、帰ってきたら私達だけで打ち上げもやるって言ってましたし」
「あれ、そうなの?」
「PさんはPさんで、周子ちゃんのデビューが上手くいって凄く喜んでいましたよ」
なんだ、それならそうと早く言ってくれればいいのに。
もう一回打ち上げをやるなら、その場で言いたかったことを全部言ってやればいいと周子は思った。日にちが経って若干物足りなさを感じるところはあるが、そこは仕方がない。
ちひろとそんな話をしていると、テーブルの上に置いていた携帯が震えた。手に取ってみると、奏からLINEでメッセージが送られてきていた。
『昨日はお疲れ様。トーク、Pさんから聞かされていた以上に好き勝手やられちゃったけど、デビューってことで今回は許してあげる』
メッセージを見て、周子は返事を返す。ああ、そういえば散々好き勝手やったな、と昨日の困り果てた奏の顔が浮かんできた。
Pが言った通り、奏は出だしから台本を無視した周子のアドリブトークに見事についてきてくれた。最初はダンスレッスン中に奏が勢い余って足を滑らせて盛大に転んだ話をした。
観客もウケてくれたようだったので、次にある日奏と二人でレッスン帰りに喫茶店に寄った話をした。二人で駄弁って暇をしていたとき、奏が手慰みに紙のコースターに書いた猫の絵があまりにも珍妙な何かだったことを話した。
その話もウケたようだったので、奏に関する面白そうな話をこれでもかと喋り続けた。最後には奏の顔が茹蛸のように真っ赤になっていたので、
『でも奏ちゃんはあたしのこと面倒見てくれて、とってもいい子なんだ』
と最後に付け足しておいた。どうやら最後のフォローでは全然足りなかったようで、舞台裏に戻ってから奏に思い切り叩かれてしまったが。
『ゴメンゴメン。でも、昨日はありがとね。こっちも凄く楽しかったし』
『私は散々な目に遭わされたけど……まあいいわ、次のお仕事も頑張ってね』
まあまあ、根に持たれていなかったようでよかった、と周子はLINEを閉じた。
さて、Pが何の仕事のために出張に行ったのかは知らないが、帰ってくるまでは仕事もレッスンも休みと、周子は久しぶりの暇な時間を楽しむことに決めた。
……
…………
遅くてもPは二、三日は帰ってこない、とちひろが言うものだから、周子はてっきりPは三日いっぱい出張先で仕事をしてから帰ってくるものかとばかり思っていた。
どうやらそれは違ったようで、次の日にはPは事務所の自席に座っていた。周子は昼頃に暇つぶしに事務所に来てPの様子を見ていたが、遠目で見て分かるほどなぜか機嫌が良さそうだった。
「焼肉でいいですか?」
「オッケーですよ! お昼抜いちゃおうかなー」
Pだけではなく、ちひろも上機嫌だった。どれだけ機嫌が良くても、キーボードを叩く手は相変わらず忙しそうにしていたが。
「せっかくですし、今日の打ち上げはPさんに奢ってもらいましょうかねー?」
「よしきた。任せろ」
「よっし!」
あまりにもテンションの高い二人に、周子はソファに寝転がりながら静かに引いていた。そんなに自分のデビューライブが無事に終わったのが嬉しかったのか、それにしてもデビューした当の本人を放っておいて盛り上がり過ぎである。
「二人とも暑さで頭やられた?」
周子は頭を上げて二人を白い目見たが、そんな煽りを全く気にせず二人のテンションは更に高くなっていく。
「周子ちゃん、今日は焼肉でいいですよね! Pさんがお金出してくれるみたいなので何でも食べていいんですよ!」
「まあでも、次の日に支障が出ない範囲でお願いします」
やれやれ、と周子は再びソファに寝転がった。夜の焼肉までは暇な時間か、と盛り上がっている二人を他所に静かに寝息を立て始めた。
……
…………
「それじゃあPさん周子ちゃん、お疲れ様でーす」
「おつかれー」
「明日、遅刻しないでくださいよ」
夜、周子のデビューライブの打ち上げは行きつけの焼肉屋で行われた。それなりに三人で盛り上がり、焼肉を腹一杯食べて満足して、ついでに終わり際に電話を掛けてきた社長からおめでとうの一言をもらった。
周子は未だに社長の顔を見たことがなかったが、まあ偉い人からのお褒めの言葉だ、と素直にありがとうと答えた。どうやら社長は忙しかったようで、周子の言葉を聞くや否や電話を切ってしまったが。
「それじゃ私たちも帰りますか」
「んー……」
ちひろは中々の勢いで酒を飲んで帰っていったが、Pは周子を車で送るため酒は飲まずにいた。
Pの一言に、周子は立ち止まって首を悩んだ様子を見せた。
「たまにはPさんのマンション行っていい?」
「うちですか?」
「うん、あたしの着替えとかも置きっぱなしだしいいでしょ?」
しばらく周子が居候していたPのマンションの部屋には、周子の着替えどころかちひろや社長の着替えすら置いてあり、部屋のクローゼットの中に片付けられている。
周子の荷物だけは、初めてPと一緒に買い物に行ったときに買ってもらったカラーボックスの中に収められており、周子が社宅に移る直前のままの状態で部屋の隅に置かれている。
「まあ、明日は私も特に急ぎの仕事もありませんし、構いませんが」
「それじゃーいこっか。ごーごー」
Pが了解して、周子は上機嫌になった。何だかんだとあの部屋は愛着も湧いていたし、そろそろ行きたいと思っていた頃だった。
……
…………
「ただいまー」
マンションに着いた頃には、既に夜の二十二時を過ぎていた。
そういえば、はじめてこの部屋に来たのもこれくらいの時間だったような気がする、と周子は思い返してから薄く笑った。
思えば最初にここに来たときは、まだPのことを怪しい奴と思っていたんだったか、ここに来て何をされるかと内心警戒していた自分がいたな、と少し懐かしい気分になった。
まだ二、三ヶ月ほど前の出来事であり懐かしむにはそれほど昔の話でもないが、周子にとってはこの部屋に来た日から今日まで、これまで体験したことのない日常を過ごしていたこともあり遠い昔のように感じていた。
Pが廊下の明かりをつけて、それからリビングへと向かった。周子は手前の部屋のドアを開けて、部屋の明かりを付ける。
「あたしがいなくなってから誰も来てないの?」
「社長が一度遊びに来ましたよ。酒飲んでそのままリビングで寝ちゃいましたけど」
部屋の中は周子が最後に見たままの景色だった。綺麗に整えられたベッドに、部屋の隅には白いカラーボックスが置かれてあり、周子の着替えや置いていった小物が入ったままだった。
自分がいた頃のままの姿で残っている部屋を見て、周子は嬉しくなった。部屋に鞄を放り投げてからPのいるリビングに行き、テーブルの前に置かれているソファにダイブした。
そんな周子の様子を見て、冷蔵庫に冷やしていた麦茶を開けていたPは苦笑していた。
「ねえねえPさん」
「なんですか?」
「あたしね、ライブ楽しかったんだ。思ってたより、なんだか色んなものが綺麗に見えてさ。みんなが振ってくれたサイリウムが波のように見えたってゆーか……」
「そうですか。私はステージに立ったことはありませんけど、塩見さんが見えたものは、綺麗だったんでしょうね」
「キレイもキレイ。それに最初はあんまり気にしてなかったけど、お客さんも来とるわーって改めて思ってさ……なんか、凄いなって思ったんだ」
ライブが始まる直前まで、そこは小さいライブハウスだとずっと思っていたが、いざステージの上に立つと随分と大きく見えた。
正面のどこを見ても誰かと視線が合う、自分が見られている。隠れる場所も無かったし、恥ずかしいとも、怖いとも思ってしまった。
それでも、ここにいるのは塩見周子だと言わんばかりに声を上げた。ステージを見てくれた人たちはそれに応えてくれた。それは、周子の目に映ったサイリウムの青い波だった。
しばらくは忘れられないかもしれない。もしかしたら、ずっと覚えているかもしれない。そんなことを一人で延々と話していたが、Pは黙って最後まで聞いてくれた。
「塩見さんが満足してくれたなら私も嬉しいです」
「ちひろさんとあんなにはしゃいでたもんねー」
「あれは……まあ、そういうものです」
周子はニヤニヤと意地の悪い笑顔でPを見た。それでもPは、優しい表情で笑ってくれていた。
周子にとっては、それがたまらなく嬉しかった。
「どうですか、アイドル……続けられそうですか?」
静かな声でPが聞いてきた。その声は優しく聞こえたが、しっかり周子に問いかけられた言葉だった。
周子は少し悩んだフリをした。悩むこともなかったが、何となくそんなことをしたい気分だった。
「んー……そだね。アイドル楽しいし、これからもテキトーに頑張ってみよっかなって思うよ」
周子の言葉を聞いて、Pはもう一度笑顔を見せる。その笑顔は、舞台裏でPが見せてくれた笑顔と重なって見えた。
周子の心の中でPがとても近く、傍にいてくれたような感じがした。
……
…………
*
「おはよー」
「おはようございます、周子ちゃん」
「寒いさむいー……はぁ、事務所は暖房効いててあったかいねー」
コートを着込んで体を小さくしながら事務所に入ってきた周子を、ちひろが笑顔で迎える。
七月の周子のデビューライブから半年が過ぎていた。年を越して一月の末、周子は何だかんだと気楽にアイドルを続けていた。
少しずつだが仕事も増えて、目立った仕事は八月の地方の料理バラエティ番組の収録、九月は雑誌のモデル、十月は事務所を跨いで奏と二人で旅行代理店の広告のイメージガールの仕事も貰った。他にも小さな仕事を色々とこなしていた。
特に十月のイメージガールの仕事は、どこからそんな仕事を取ってきたのかとPに聞いたら、
『いや、周子って秋っていうか、そういう季節が似合いそうって思ったし……ああ、夏も似合いそうだな』
『それあたしが京女だからとかそんな理由?』
『うーん、京都って関係あるんだろうか……』
なんて、Pでもよく分からないまま何となく仕事を取ったのか、それでも仕事先からは良い絵になってますね、と奏と一緒に太鼓判を貰った。
そんなこんなで十一月の終わりにはショッピングモールの野外ステージでミニライブを行い、十二月には仕事とは関係ないが周子の誕生日を事務所で祝ってもらった。
誕生日を祝ってもらうのは嬉しかったが、年末は忙しいからとミニライブの打ち上げのときにまとめて祝われたので微妙な気分だった。
何せ周子の誕生日は十二月十二日なのに、ライブの打ち上げは十一月末に行われたのだ。いくらなんでも誕生日を祝ってくれるのには早すぎると、思わず文句を言ってしまうくらいだった。
「お、周子来てたのか」
「おはよーPさん」
周子がコートをハンガーに掛けていると、営業で外出していたPが戻ってきた。
「来週のイベントの準備できてるか? 台本、全部読んだか?」
「読んだ読んだ。読んで投げ捨てたよ」
「捨てちゃうなら台本作らなくてもいいんじゃないですか?」
半年経って、周子はすっかりPとは砕けた仲になっていた。適当というわけではないが、Pは最初の頃のように丁寧に自分に接することは無くなり、適当な自分に合わせてPも何となく適当に合わせてくれるようになった。
適当とは言うが、本当に適当気ままにやっている自分がいる裏で、相変わらずPには色々と苦労を掛けているのは周子も分かっていたので仕事はしっかりとやっている。
ほんの少し、周子はPに対して申し訳ないと思うこともあったが、結果として上手くやってきているつもりなので、結局気にしないことにしている。
「まあ一応ですよ。それに自分のイベントですし、周子に好き勝手喋らせたほうが楽だと思いますよ」
「そーそー、台本覚えるのもめんどくさいし」
二人の調子に、ちひろはすっかり呆れてやれやれと首を振った。まあ、それでいいならいいんですけどね、と最後に付け足してから仕事に戻る。
Pも自席に座り、鞄からノートパソコンを取り出して電源を入れるているところで、周子は気になって声を掛けた。
「そういえばさ、いつ奏ちゃんのところに行くの?」
「ちょっと待っててくれ、行く前にメール見ておかないと」
「そっか」
二月の月末に予定しているファンイベントは小さな会場で行うが、ゲストに奏を呼ぶことになっている。
周子と周子はデビューライブ以降すっかりと仲良くなり、事あるごとにお互い自分の仕事にそれぞれ相手を呼び合っているような状況で、最早二人で仕事をしていると言われてもおかしくないくらいだった。
Pとしてもそれは気にしていないらしく、むしろ周子の仕事の機会も増えるし、一度自分から手を離した奏の様子も見れるので丁度良いと思っていた。
送られてきたメールに一通り返信を打ち込んでから、Pは大きく体を伸ばした。今日は朝から営業に出て、ようやく事務所に戻ってきたばかりである。この後は周子を連れて昔の職場に行かねばならないと思うと、少しばかり疲れを感じていた。
「おっ」
そんなPの様子を見て、周子はソファから起き上がり給湯室へと向かった。
棚からPとちひろのカップを取り出して、更に上の段にある八橋を三つ取って二人のところに戻る。
Pとちひろの机の上に持ってきた八橋を一つずつ置いて、電気ポットの横に置きっぱなしにしているインスタントコーヒーの瓶を手に取る。
「あら、ありがとうございます周子ちゃん」
「別にいいよー。この八橋、さっさと食べて新しいの買いたいし」
周子は三つ目の八橋を口に咥えながら、Pとちひろのカップにお湯を注いでコーヒーを作る。棚に入れておいた八橋は、周子がある日駅中でやっていた地方の物産展で見つけて気まぐれに買った物だった。
インスタントコーヒーの安っぽい香りと、どこの店の銘菓かのかも知らない八橋の組み合わせでPとちひろは一息吐いた。
Pが肩を回して休憩している様子を見て周子は満足したが、もそもそと口に含んだ八橋の飲み込んで、
「うちの店のヤツのほうが美味しいわ」
ダメ出しをしながらインスタントコーヒーの瓶の蓋を閉める。そういえば久しぶりに実家のことを考えたな、と周子は思った。
「ふー……よし、それじゃ行くか」
「はいはーい」
もう一度大きく息を吐いてからPは席を立った。
周子はそれを見てつい先ほどハンガーに掛けたばかりのコートを手に取り、外の寒さを思い出した。
寒さを思い出して、一度Pを見る。見ると、Pは鞄の中にノートパソコンを入れながらちひろに頼みごとを言っている。
そんなPの様子を見て、周子は嬉しそうな表情を浮かべていた。
……
…………
奏の事務所の会議室は随分と広く、部屋の真ん中に大きな長テーブルで四角が作られている。
周子とP、奏の三人は四角の隅に固まって座ってイベントの打ち合わせをしていた。
「テキトーに喋って時間になったら歌って、そのあとテキトーなタイミングで奏ちゃんが入ってきてアドリブトークでオッケー」
「それじゃあ打ち合わせしている意味がないでしょう?」
「まあそれで上手くやれるならいいかなーってね?」
周子と奏の打ち合わせは、いつも二人がそれぞれ思い思いに好きなことを言い合い、その中からよさそうなものを見つけて採用したり、ああだこうだとブラッシュアップしてイベントの企画に入れたりする。
二人が盛り上がっているときは、Pは声が掛からない限り任せきりにしていた。話が脱線して仕事と関係ない話に偏り過ぎたときには二人に声を掛けるが、ほとんどそれくらいしかやることはなかった。
「ねえPさん、今回は私、周子の歌が始まるとき乱入しようと思っているけどどうかしら?」
「あ、それダメダメー。シューコちゃんのイベントなんだしそこは勘弁してー?」
「あんまり好き勝手やって自滅しなけりゃ俺は何でもいいよ」
奏も周子の影響されてきたのか、たまに突拍子もないことを言うようになってきていた。それでも、周子ほど適当なことは言わないが、Pが付いていた頃と比べると随分変わっていた。
まあ周子と奏の組み合わせはお互いのファンからも好評だしこれはこれでいいか、とPも特に気にすることは無かったが。
そんな二人の話を聞いていると、突然Pの携帯が会議室の中で鳴り響いた。
「はいもしもし」
社用携帯に掛かってきたところ見ると仕事の話か、と周子と奏は二人揃って口を閉じた。
少し経ってPが電話から耳を離して席を立った。
「すまん、俺がここに来ているのが分かって電話掛けて来たヤツがいてな。ちょっと行ってくるよ」
足早にPが会議室から出て行ったのを二人は見送った。仕事の話か何かで助っ人として声が掛かったのだろうとアタリを付けて、二人は揃ってテーブルに突っ伏した。
「どうしよっか?」
「しばらく話したし、Pさんが戻ってくるまで少し休憩しましょうか」
「さんせー」
それから小一時間ほど経ったが、Pが戻ってくる気配は無かった。
周子はテーブルの上にだらしなく体を伸ばしながら、携帯を片手で弄っている。そんな周子の様子を奏はぼんやりと眺めている。
「それでさー、Pさんがお金出してくれるっていうからピザ2枚頼んだんだけどさ、結局食べきれなかったんだよね。最後はPさんに頑張ってもらったんだけど」
携帯を弄りながら、周子はつらつらと最近の出来事を話す。
話していると、突然奏が割り込んできた。
「あなた、ずいぶんとPさんのことばかり話すわね」
「そう? それじゃ何か他の話しよっか。えーっとね……」
奏に言われて、周子は頭の中に浮かんでいたPの幻を脇に放り投げた。放り投げて、さて最近他にあったことは、と考えた。
考えて、考えて……浮かんできたのは去年、東京に向かう新幹線乗っている途中で見た街の景色だった。
もう少し遡って記憶を辿ると、次に浮かんできたのは実家の和菓子屋の看板だった。
「……なーんもないわ」
「そう」
――何もない。
でも何もないはずがない。
あの日、公園でPに拾われるまで色々あったはずだ。拾われた後だって、アイドルなんてものをやりはじめて、一人暮らしだってして、失敗したことだってそれなりにあったはずだった。
実家にいたときは手伝いで面倒に思いながら店番をしていた。でもアイドルは楽しくて、やりたいと思うことも色々ある。
実家にいると自分が何もしなくても朝ご飯に昼のお弁当、晩ご飯が必ずあった。一人暮らしをしている今は面倒な日は朝ご飯は抜くし、昼のお弁当なんてもちろん無くて、夜はコンビニかスーパーに寄って何か買って済ませている。
こっちに来てから自分の周りの色んなものが変わった。変わったものの数だけ、色んな出来事があったはずだ。
だけど、何も浮かばなかった。正確には、浮かんでも消えていった。
実家にいた頃の記憶と、新しい生活の記憶がせめぎあって消えていく。実家にいた頃のことばかり浮かんでくる。
「周子?」
「ん、なーに?」
「いえ……Pさん、遅いわね」
「うん」
携帯を弄りながら周子は返事を返す。その目には、目の前の明かりは映っていなかった。
……
…………
「ただいまー」
「おかえり」
夜、周子はPのマンションで寝ることにした。
靴を脱いで、周子は足早に部屋に向かう。Pが言ったおかえりの一言が嬉しくて、何かに優しく背中を押されたような気分だった。
つい先週この部屋にちひろも入れた三人で来たときは、ちひろがただいまと言ってくれて、それも嬉しかった。
「さむさむー……暖房つけよ」
部屋の明かりをつけて、暖房のスイッチを入れる。
一月の冷えた夜に、部屋の中も冷え切っていたので周子は着ているコードは脱がずにベッドに飛び込んだ。飛び込んだベッドが冷たかったので、そのまま跳ね起きた。
「周子ー、晩飯はどうする?」
「何でもいいよー。食べに行くならコート脱がないし」
リビングからPの声が聞こえてきた。最初の頃と比べて随分と口調は変わったが、周子にとっては相変わらずの調子に聞こえる。
ベッドに座りなおして、ふと視界の隅に映ったカラーボックスを見る。
白いボックスの中は、周子の着替えと、半年分のアイドルの仕事をした記憶が置かれている。
地方イベントのロケの現場で撮った写真、初めて載せてもらった雑誌の見本誌、旅行代理店の広告のポスター、ライブの日にファンからもらった手紙と、色々な物で詰まっていた。
どれもこれもが、Pと一緒に仕事をした思い出だった。たった半年、Pと一緒にいるだけで物凄い勢いで思い出が増えていって、何だかんだとどれも楽しいことばかりだった。
楽しいことばかりで、それとも今日に限って偶然八橋なんて物を食べたからなのか、周子の心は寂さでいっぱいになっていた。
「周子?」
幾らか呼んでも周子からの返事が無く、Pが気になって部屋へと入ってきた。
周子はベッドに座って足を揺らしながらカラーボックスを見つめていた。
「どうした?」
「……なーんか、あたしも色々仕事したなーって思って」
周子の口から、静かに声が漏れる。それから口を噤んでしまった。
Pは周子の横に並んでベッドに座り彼女を待ったが、やがてベッドに仰向けに寝転がった。
静かになった部屋に、エアコンから流れる風の音だけが聞こえてくる。二人は顔に掛かる暖かい風と、足に伝わるフローリングの床の冷たさを感じていた。
「アイドル、楽しいんだよね。楽しくて、楽しくて……どんどん遠いところ行ける気がして」
「隣でPさんが手を引いてくれて、奏ちゃんとちひろさんがその反対側にいてくれて……だけど、後ろを振り返ったときに見えるような気がしたんだよね」
実家の和菓子屋の看板が浮かんでくる。何気なく食べていたけれどやっぱり美味しかった八橋の味や、こっちに来てから色々あって行くことはなくなったが、夜中にこっそり家を出て遊びに行ったダーツバーでの思い出も浮かんでくる。
アイドルをやって、その先に楽しいことがあるからどんどん遠くに行く。Pが一緒にいてくれるなら何も気にすることは無いと思っていた。
だけど、置き去りにしてしまったものもあった。それは間違いなく、それまで周子自身が大事にしてきたもののはずだった。
置いていく必要なんてなかったはずなのに、いつの間にか自分で勝手に諦めて大事なもの傍からいなくなってしまっていた。
――親とも、しっかり話すことだって出来たはずなのに。
「Pさん、あたし……帰りたい」
考える間も無く、自然と言葉が出た。
ああ、自分はずっと帰りたかったのかもしれない。公園で呆けていたあのときから、今更戻るのは恥ずかしいと思っておきながらも、ずっとそうしたかったはずだった。
だけど、Pと出会って外の世界も案外楽しいものだと思い知らされてしまった。今までのように適当で済むこともあれば、本気でやらなきゃならないこともあった。どれもが楽しかった。
先に行く道があるのに立ち止まるのは嫌だったし、置き去りにしたままなのはもっと嫌だった。
「帰りたいか?」
「うん。仕事あるんだけどね」
「二月のイベントが終わったら帰ってもいいぞ」
あっさりとPは言った。
周子は目を丸くして聞き返す。
「え、いいの?」
「いいよ。三月はまだ仕事入れてないし」
「……でも、今更帰って、どうすればいいんだろ」
「何でもいいんだよ。帰りたいなら帰る。俺はそれでいいと思っているし……あ、遅くても四月には戻ってきてくれよ? こっちは周子が帰ってくるのを待ってなきゃならないんだから」
自分が帰ると言い出しても、Pは待っていると言ってくれる。
周子はたまらなくなって寝転がっているPに覆い被さった。暖房が効いて部屋の中は大分暖かくなっていたが、着ているコート越しでもPの体の温かさが伝わってくるようだった。
「ちょっ、やめろよ恥ずかしい」
「なーに言ってんの。この前ちひろさんと肩組みながらお酒飲んでバカ騒ぎしてたくせに」
「それは酒飲んでるときだったからいいんだよ」
恥ずかしがるPに、周子はニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべた。
周子の中では、先ほどまで悩んでいたことはすっかり吹き飛んでしまっていた。こんなに簡単な話だったんだなと、今更ながらに思った。
それから一ヶ月後、周子は奏と二人で自分のファンイベントを恙無く終わらせた。
その日来てくれたファンの顔、褒めてくれたPとちひろの顔、一緒に楽しんだ奏の顔を何度も思い返しながら、周子は三月の春に京都へと帰っていった。
……
…………
*
奏はわざわざ周子がいないタイミングを見計らって、Pとちひろのいる事務所に来ていた。目的はもちろん、京都に帰った周子の話をするためだった。
周子がよく座っていたソファに腰掛け、事務所を移る前と変わらず熱心にパソコンの画面を見ているPとちひろを見て苦笑していた。
「周子ちゃん、いつ頃帰ってくるんでしょうかね。帰るときは連絡するって言ってましたけど」
「いいじゃない。家出娘が一年ぶりに実家に帰ったんだもの、しばらくはゆっくりさせてあげても、ね?」
「家出娘じゃなくて、家を追い出された娘だけどな」
Pの訂正に奏は思い切り笑ってしまった。ちひろも同じように笑っていたが、ひとしきり笑った後に、ふとPに尋ねた。
「そういえばPさんって、どうして周子ちゃんをスカウトしたんですか?」
「ん? ああ……なんでだったかな」
Pは頭を捻った。周子を見つけたのも偶然だったし、事情を知った最初は本当に実家に帰すか、話を無かったことにしよう思うこともあった。
しかし、最後までそうしなかった。面倒なことも全部周子の見えないところで済ませたし、一通り落ち着くことが出来たときには、周子のデビューに随分と喜んだものだった。
「まあ、しいて言うなら……周子が可愛かったからですかね」
目に留まって声を掛けてスカウトしたのなら、結局はそういうことなのだろう。自分が一目見てときめかない女をスカウトなどするものかとPは思った。
そんなPの言葉を聞いて、奏はあからさまにむっとした表情で頬を膨らませたが、気付いたのはちひろだけだった。
「またそんな適当なこと言っちゃって」
「ははは……まっ、しばらくはのんびりとうちの事務所のアイドル第一号が帰ってくるのを待ってましょうか」
「その間は仕事もないでしょう? 私の仕事、付き合ってもらうわよ」
「はいはい、分かったよ」
奏の一言にPは優しく答えた。ああ、周子がいなくてもこっちはこっちで仕事はあるか、と肩で息を吐く。
周子から、そろそろ東京に帰るというメールが飛んできたのは、それから一ヶ月後のことだった。
……
…………
*
その日、周子は夕方にPと駅前の喫茶店で待ち合わせをしていた。待ち合わせをしていたが、周子はちょうど一年前に呆けていた公園の芝生の上に寝転がっていた。
京都の実家のドアを開けるまで、どんなことが待っているかと冷や汗を掻いていたほどだったが、驚くほど何もなかった。
おかえり、と何事も無く両親が言うものだから、周子はむしろもう少し何かあってもいいのでは無いかと思っていたが、
『プロデューサーさんからお話は全部聞いていた』
その一言に周子は衝撃を受けてしまった。
曰く、周子のデビューライブが終わった次の日には、両親はPと直接会って周子のことを話してもらっていたということだった。
「あーもう……ムカつく」
芝生の上で周子は身動ぎした。結局少し前にあれこれと自分が悩んでいた横で、Pは普段通りの何ともなさそうな顔で、全部話をつけていたということだった。
自分のためにPが苦労してくれたのは有り難かったし嬉しかったが、やっぱり無性に腹が立って何度も芝生の上を転がる。
何せ一人でうんうん悩んで、結局両親からはあんたは今更過ぎると言われ、意気込んで帰ったはいいものの肩透かしで終わってしまったのだ。
こんな話で終わってしまったものだから、次にPの顔を見たら蹴り飛ばしたくなる衝動に周子は駆られていた。
なので周子はPとの待ち合わせをすっぽかして公園に来ていた。鞄の中に突っ込んだままの携帯電話が何度か振動したような気がするが無視した。
かれこれ一時間ほど公園で時間を潰していた。怒りのあまりPには悪いと思うことはなく、むしろ自分が待ち合わせの場所に来なくて困ってしまえとさえ思っていた。
「ま……別にもういいんだけどね」
芝生の上で枕代わりにしていた鞄に手を伸ばし、家を出るときに持たされた八橋入りの箱を取り出す。
帰りの新幹線の中でほとんど食べてしまって、最後の一個となっていたが構わず口に放り投げる。
もそもそと口を動かし、やっぱりうちの八橋がいいかな、と周子は改めて思った。
「さて、と……そろそろ駅前に戻っておこうかなー」
口の中の八橋を片付けていると、風が吹いて周子の銀髪が白い肌を撫でた。
ふと周りを見渡すと、いつの間にか夕日が差してきており、公園には周子だけしかいなかった。つい先ほどまでは春の暖かさを感じていたはずが、四月の夕方は少し肌寒かった。
「あ……」
視線を戻した先に、見知った顔があった。
夕日に照らされて顔は少し見えにくかった。そこから伸びた影は、周子の横を過ぎていた。
「Pさん、あたしがここにいるって、よく分かったね」
「まあ、去年もここにいたしな」
丁度一年前のことだった。どうやら目の前にいる男は覚えていてくれたようだった。
そのときの出来事も、周子の中で大切なものの一つになっていた。
「ありがと」
言ってから周子は恥ずかしくなったが、構うもんかと開き直って笑顔を見せた。
「……ただいま」
「ああ、おかえり」
空の下地は燃えるようなオレンジ色と、上にはグラデーションの夜空の景色に周子は見覚えがあった。忘れられない、あの日見た色だった。
――ああ、前にも見たっけ、こんな景色。
少し早い桔梗の色に、周子とPの姿はゆっくりと重なり溶けていった。
……
…………
機会があって某ヤクザみたいな脚本家の人が書いた本を読んでその真似事をしようと思い立ってはじめたけど、正直やるもんじゃないと思った。
HTML化依頼出して終了。
乙
乙です
周子は実家を追い出されたのに実家大好き京都大好きなのが周子らしい
ぶっちーかな
乙
>>79
先週読んだその本を1、2週間書いたという100kgのバーベルを持ち上げる脚本家です
淡白な三人称の地の文と周子って組み合わせの良さが半端ないな
乙
周子の地の文ものは名作が多い
おっつ
いかにも波乱がありそうな展開なのになんとなーくうまくいってしまう感じがいかにも周子のドラマだなあと思った
最高です
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