「壊したがり」 (22)

 湯呑みが割れ、その役目を終える音が聞こえたとき、私の興奮は最高潮に達した。
 つい数秒前まで陶器であったものは、原型を留めることなく無残な姿で、それも木っ端微塵に粉砕されていた。
 一つ五千円は下らない由緒正しい備前焼の湯呑みが、既に修復不可能な形で床に散在しているのである。
 これほどまでに高価な湯呑みを見るも無残な姿に変えてしまったのはどこの誰なのか。
 無遠慮にも興奮で上気した顔のまま、割れた陶器を見下ろしている愚か者は一体誰なのか。

 ──私だ。

 また、やってしまったのだ。


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 夕食のあと、この備前焼の湯呑みで日本茶を三杯飲み干して、計画通りに破壊してしまった。
 台所の床に張り巡らされたフローリングの上に新聞紙を敷き、湯呑みを天高く掲げ、親の仇に投げつけるかの如く全力で振り下ろした。
 湯呑みが砕け散ると同時に、脳内でアドレナリンが大量分泌されたのを、確かに感じ取ることができた。
 小さな破片が散らばっている様を、ただ静観する。
 一向に片付けを始める気配もなく、実家の台所で割れた湯呑みをさも嬉しそうに眺める気色悪い女子高生がここにいた。

「……想像していたよりは良かったな」

 誰に向けるでもなく独り言を口にする。

 値段の割には十分な刺激と快感を得られたのだから、一応成功ということにしておきたい。
 いや、そうでなくちゃ色々と困る。
 屈み込んだ状態で割れた破片をゆっくりと一つずつ回収しながら、湯呑みが割れた瞬間を脳内で繰り返し再生していると、奇妙な笑みがこぼれてくる。

 ああ──やはり大事にしていた分、壊れたときの喜びもひとしおだ。

 両親が久しぶりに夫婦水入らずの旅行に出かけると聞いたとき、私はある計画を立てた。
 それは以前、家族旅行に出かけた際、お土産として購入してもらった備前焼の湯呑みを秘密裏に破壊する、という計画だ。

 おそらく傍から見たとすれば、私のしていることは変人の域を超えた忌むべき行為なのだろう。
 なにせこの湯呑みは、父と母が駄々をこねる私にくれた最初のプレゼントなのだから。
 大切で、二つとない宝物。
 でもそれは私にとってであって、両親からしてみれば、この湯呑みに対しての想い入れなんて皆無といっていい。
 何故なら父も母も、この湯呑みをいつどこで買ったのかすら覚えていないからだ。
 人の記憶なんて、所詮そんなもの。
 誰かにとっては失いたくないかけがえのないものだとしても、他人からすればなんの変哲もないガラクタにしか見えないことだってある。
 だからこの湯呑みは壊すことが許される。
 これは私だけの宝物だった。
 壊されて悲しみを覚える人間は、私一人しかいない。

 今もまだ、この湯呑みを使っていた頃の記憶が残っている。それを反芻していると、深い喪失感と悲しみが胸を打つ。
 でも、この感情が堪らなく愛おしいのだ。
 自分が変人だということは重々理解している。頭のおかしい狂人だと罵られても、おかしくはない。
 だとしても、これでいい。
 誰も知らない私だけの秘密。
 これまで壊すことが許されるものと許されないものの境界を計りながら、破壊する快楽をいくつも味わってきたけれど、まだ一つだけ壊したことがないものがある。


 人だけは、まだ一度も壊したことがないのだ。


 もし人を壊してしまったら、一体どんな感情を覚えるのか。心という源泉から溢れ出す水は、どんな色をしているのか。きっと見たこともなければ、想像もつかない素晴らしい色をしているのだろう。
 理由もわからないまま、喉がごくりと鳴った。

2
「壊子さん、ちょっといいですか」

 問題が山積みとなり開催さえ危ぶまれていた文化祭も無事に終了し、八月上旬に予定されているコンクールに向けて静物デッサンの練習をしていた六月十日の放課後、校内の美術室で水の入ったカットグラスをデッサンしている織野が、声をかけてきた。

「ちょっと、とはどれくらいだ」
「からかわないでくださいよ。ここのパースについてアドバイスが欲しいんです」
 織野の背後から、スケッチに描かれたカットグラスの俯瞰や、遠近を確認する。
作業段階でいえばまだ中盤だが、もはや私がアドバイスする要素なんて微塵も残っていない。

「織野……人をからかうなと言ったな」
「ええ、確かに言いましたけど。それがなにか?」
「その言葉、そっくりそのまま返すぞ。この絵を見る限り、もう私から教えられることはなにもない」

 混じり気などない、本心からの言葉だった。

「そ、そんなことありませんよ!まだまだ教わることはいっぱいあります!」
「例えば?」

 うーんと腕を組みながら悩む織野の姿は、絵を描くときと同じぐらい真剣そのものだ。

「……ディティールとか」
「それは一年のときに教えた」
「曲線のタッチ」
「フリーハンドでも真円が描けるような後輩に教えることなんてない」
「ぐぬぬっ……じゃあ、線の圧とかは」
「単純な強弱の使い分けで君に敵うものは、県内中探してもいないよ」

 がっくりとうなだれる織野の肩を軽く叩く。
 もはやご愁傷さまとしか言いようがないのだが、まだ二年生である織野を指導できるほどの技量を持つ人物は、この高校には存在しない。
 感性も上達速度も、とにかくあらゆる面で規格外なのだ、この男は。

「でもこの前のコンクールでは壊子さんの絵、審査員の人から絶賛されてたじゃないですか!」
「ああ、そうだな」

 大袈裟に胸を撫で下ろしている目の前の男に向かって、とどめの一撃をお見舞いする。

「しかし、それはあの審査員達がジャッジを下せる範囲内での賞賛だ。あまりに年齢不相応で審査拒否されかけた君と比べられるなんて、甚だ心外だよ」
「そ、そんなあ!」

縋るような目で私を見上げるこの男は、織野工という。
高校二年生とは思えない童顔に、やたらと鬱陶しい前髪。
運動とは縁がなさそうな細身の身体は白く、見ようによっては女性的に捉えられるかもしれない。
 私が高校二年生の頃、校内で冬休みの話題が盛んになってきたとき、彼は脈絡もなく、唐突にこの総勢一名の美術部に入部してきた。
 動機はあなたのような絵を描けるようになりたいとか、展示されていた絵に惚れ込みました、とかだったような気がする。
あまり正確には記憶していてないのだけれど、とにかく必死そうに語るあの姿だけは、今でも忘れられない。

 そう、あのときからだった。


 私がこの男を──織野を壊してやりたいと思ったのは。


 彼は私がこれまで出会った人の中でも、最高の素材だった。
 純粋で濁りのない瞳に、素直な性格。なにかを作り上げるときのひたむきさと集中力。
中でも一番気に入ったのは、彼の手だ。
細くしなやかで長い指が鉛筆を包み、真っ白なキャンバスを塗り潰すべく、体格にしては大きな手が蠢いたとき、これだと思った。
私が探し求めていたものは、こんなに近くにあったのだと感じた。私は内心の高揚を抑え、平静を装いながら入部を許可した。
 できることならすぐにでも人気の少ない廃墟にでも連れ込んで、滅茶苦茶に壊してやりたかった。

けれど、それは随分ともったいない。
壊す為にはまず作ることが重要だ。彼と最高の関係を築き上げたときこそ、遠慮なく全力で壊すことができるというものである。

「織野はまず、私に教わるという習慣を壊すところからスタートするべきだよ」

どうやら落ち込んでいるらしい彼にとっては、今の言葉は中々に致命傷だったかもしれない。
織野は鉛筆を机に放置しており、絵を描く熱意など残っていないようだった。

「そうそう。先輩もこう言ってくれてるんだし、とっととうちに来ればいいじゃん」

 私に便乗するような形で勧誘を始める声が一つ。気配なんてまるでなかったのに、背後から聞き慣れた耳障りな声がした。

「そういう訳にはいかない……ていうかお前、どこから湧いてきたんだ」

織野の反応を見て、自身の背後に立っている人物が誰なのか、確信を得た。

江ノ島海里は、織野目当てで今年の春に入部してきた、幽霊部員だ。
人見知りしない明るい性格に男受けしそうなスタイルと相成って、一部ではファンクラブもできているらしい。
なんでも漫画研究会とかいう同好会と、この美術部をかけもちしているらしいが、普段は織野を誘うときにしか部活に来ない。
今回もおそらくは織野目当てだろう。
江ノ島は私の肩越しからひょいと顔を覗かせると、なにが楽しいのか喜々とした声色で答えた。

「うーんとね……そこの窓から、ちょちょいっと」

 江ノ島が指差す窓に視線を移すと、確かに女子生徒が一人通れるくらいの隙間があった。
 ただ問題はそこではない。この美術室は校舎三階に位置するのだから、ちょっと飛び跳ねたぐらいでは窓枠に手をかけることすらできない。

「嘘だろ──だってお前、ここ三階だぞ。窓を使ったってのはわかるけど、まさか壁をよじ登ったわけじゃないよな」

 呆れる織野を余所に、江ノ島はあの小さくて可愛らしい齧歯類が食料を溜め込むときみたいに、頬を大きく膨らませた。

「もう、花のJKがスカート履いたままコンクリートの壁をよじ登るわけないじゃない」
「だったらどうやって入ってきたんだよ。部屋の入口はお前が入ってこないよう、厳重に鍵をかけておいたはずだぞ」

 右手の人差し指を立て小刻みに動かす動作をとる江ノ島は、私達二人を小馬鹿にした。

「ちっちっちっ、二人ともわかってないねえ……簡単なことです。事務員のおじさんという協力者から得た魔法のアイテム『長脚立』を使い、この身から溢れる乙女力を発揮させ、恐々院先輩とたっくんの蜜月の時間をぶち壊すべく、忍者も真っ青なスニーキングスキルであの窓から颯爽と侵入したんだよ!」

 パリ・コレクションを練り歩くカリスマモデルでさえ絶対に似合わない大袈裟なポーズを決め、江ノ島は私と対峙した。
 前々から知ってはいたが、ここまで残念な子だったとは。

「……毎度のことだが、こういう危険なことをするのはやめなさい」

 一応本心からの言葉だ。まあ、彼女が怪我をしようが知ったことではないが、責任問題に問われたらかなわないからな。

「いやです!さっきも先輩、後ろからたっくんに抱き着こうとしてたじゃないですか!」
「あれは彼に頼まれて絵を見ようとしていただけだ。それに、ちゃんと入口から来れば入室を拒んだりしないよ」
「ホ、ホントですね。嘘だって言っても信じちゃいますよ。裏切ったら針千本ですからね」
「ああ、それで構わない。生憎、針を自分から飲もうとする奇特な趣向は持ち合わせていないのでね」

 どうやらこちらに対する警戒を解いてくれたようで、江ノ島から私に発せられる念は好意に姿を変え、そっくりそのまま織野に向かったようだった。

「よし、じゃあそうと決まったら善は急げ。たっくん、遊びに行こう!」
「行かねえしまだなにも決まってねえよ!」

 織野の腕を取り、強引に部室の外に連れ出そうとする江ノ島を眺めながら、私は首を傾げる。
 江ノ島に対する興味なんてまるでないのに、どうしてこの女が織野を連れて行こうとすると、胸が痛むのだろう。

3
 急な梅雨入りに対応できなかったのか、織野が珍しく体調を崩して早退したらしい。
 つまり、今この時に限り美術室は私の部屋も同然であり、新たな来訪者が現れなければ、こうして静かに外の雨音に耳を傾けることができるということである。
 生徒が授業中に使用するスチール製の椅子に腰かけながら、窓の外に視線を移す。
 天気は一向に回復する気配がなく、かといってこれ以上雨脚が強まる様子も見受けられない。
 適度なリズムで降り注ぐ雫が独特のメロディーを奏でる。それは季節が私に贈る、高校最後の初夏を告げる曲でもあった。

「恐々院先輩、いますか」

 教室の入口から遠慮がちなノック音が聞こえた。

「……鍵はかかっていないよ」

 控えめな動作で扉を開いて入ってきたのは、これまた珍しいことに江ノ島だった。
 織野がいないというのに、随分と律儀なものだ。その根気にはつくづく頭が下がる。

「今日は恐々院先輩一人なんですね」

 部屋に入るなり私のすぐ傍にある机の対面に位置する椅子に腰かけ、向かい合ってきた。
 織野がいないせいもあってか、なんとなくやりづらい。

「ああ……君も知ってて来たのだろう」

 花のように微笑みながら、江ノ島は答える。

「はい。たまには自主的に部活するのもいいかなあ、と思いまして」
「どういう風の吹き回しだ。君は織野がいなければ、ここに来る理由などないだろうに」

 少し嫌味も混ざった物言いになってしまった。でも、江ノ島は気に留める素振りさえ見せない。

「そうでもありませんよ。理由なんて、あとから適当に作っちゃえばいいんです。例えば……ほら、今日は恐々院先輩とお喋りするついでに部活がしたくなりまして、とかどうです」

 とんでもないことをさらっと口にする女だった。

「……君は幽霊部員だ」
「話し相手になってくれる幽霊なんて超素敵じゃないですか」
「私はオカルトの類は信じない」
「あらー、だとするとおかしいですよね。恐々院先輩、幽霊を信じないのに幽霊と話していることになっちゃいますよ……これって矛盾してません?」
「矛盾などしていない。君はごく普通の人間だ」
「なら部長として、普通の部員をないがしろになんてできるわけありませんよね。だって、幽霊じゃないんだから」

 今、確信した。
 この子に舌戦で勝つのは不可能だと。
 どんなコミュニティーに属していればここまで屁理屈こねられるようになるのだ。

「……雑談ぐらいなら付き合おう」
「雑は嫌です、密でお願いします」

 雑ではなく密に、か。
 密といえば、親しい。
 私と目の前にいる後輩には、相応しくない言葉だろうに。

「そういわれてもだな、生憎、こちらは君が興味を示しそうな話題を提供するのは難しいと思うぞ」

 私が若干困った表情を浮かべたところで、江ノ島は止まらない。そこには、何故か確固足る意志があるように思えてならなかった。

「話題ならあたしから出しますよ。今なら、ええ、今日このときならうってつけのものがありますので」
「……梅雨入りについてか?大して盛り上がりそうもないが」
「いいえ、もっと身近で楽しい話題です」

 不意に嫌な予感がして、江ノ島から目を背ける。

「──たっくんについて話しましょう、恐々院先輩」

 一瞬、空気が凍り付いてしまうような錯覚に陥った。

「構わないが、おそらくは君が期待してる事実なんてありはしないぞ」
「さあどうでしょう。ところで先輩、知ってましたか。私、たっくんのことが好きなんです」

 ああ、知っていたさ。
 そんなことはとうの昔に、君がこの部に入部してくる前から知っている。

「……織野に対する想いを告げて、私にどうしろと?」

 正面で向かい合っている江ノ島の表情が僅かに歪む。そこには微かに怒りが混じっているように見えた。

「ここまで言ってもとぼけるなんて……先輩って、凄く真面目な優等生って感じなのに、意外と意地悪ですね」
「君たちが勝手に優等生だと期待して、祭り上げているだけだ。好き勝手期待しておいて、期待に答えなければ失望するなんて、はっきり言っていい迷惑だよ」
「でもしっかり期待に答えてるあたり、本当はまんざらでもなかったりするんじゃないですか」
「だとしても、それを自覚したいとは思わんね」
「…………」

 やはり駄目だ。
 私はこの江ノ島海里という女と、致命的に合わない。
 江ノ島は小さく息を吐き出す。より良い闘争を続ける為、小休止を入れる戦士のように。
 微笑みながらも、その姿は完全に戦う女の様相だ。
 私も女の端くれだから、それぐらいは嫌というほどわかる。

「先輩はたっくんについてどう思っているんですか」
「どう、とはなにを指すんだ。異性としてなのか、それとも部活の後輩としてなのか、今の質問では答えようがない」
「決まってるじゃないですか、異性としてです!」

 机から身を乗り出しそうな勢いで立ち上がる江ノ島を見ても、私は動揺しなかった。

「特別視はしていない。だが、彼が憎たらしくて可愛い大事な後輩であることに変わりはないがね」
「……好きではない、ってことですよね」
「好きかもしれないし、嫌いかもしれない。或いはそのどちらでもないかもしれんぞ。ただ、今のところは君が心配しているような感情を抱いてはいないから安心しろ」

 私の発言を聞いて、江ノ島はふうと息を吐きながら全身の緊張を緩め、再びゆっくりと腰を下した。

「なら良かったです。恐々院先輩と争っても、正直、あたしじゃどうにもならないって思ってましたから」
「どうして?女性的魅力という点において、私では君に逆立ちしたって敵わないと思うが」

 恥ずかしそうにはにかむと、江ノ島は言った。

「多分、恐々院先輩の魅力って普通の女の子とはベクトルが違うと思うんです。儚いっていうか、危ういの方が近いのかな……そういう触れたら色々壊れちゃいそうな刺々しさがあるから、たっくんも惹かれたんだろうなあって。だから本気出してほしくなくて──」

 やはり江ノ島は勘違いをしている。
 私は織野を壊したいだけなのだ。その為にわざわざ丹精込めて慎重に、時間をかけて作っているだけ。
 異性としての興味なんて、持ち合わせているはずがない。

「無用な心配だな。君は君のやりたい通りにやるといい。私も私のやりたいようにやる」
「ですよね……変に遠慮する必要ありませんでした」

 照れくさそうに肩口まで伸ばされた髪の毛先を指でいじると、江ノ島は言う。
 まるで憑き物が落ちたかのような笑顔で。


「あたし、たっくんに告白します!」

4
 江ノ島の告白宣言を聞いてしまってから、私の生活は一変した。

 無論、良い方ではなく悪い方に、である。

 あんな女の一言一句に惑わされていては良くないとわかっていながらも、それを止めることはできなかったし、止める術も知らなかった。
 あの日から、織野と江ノ島が会話しているところを見ると、すぐに視線を逸らしてしまうようになった。
 期末試験の勉強も思うように捗らないし、破壊活動をしていても、全然気分が晴れないようになってしまっていたのだ。
 大好きだったビルの爆破映像を見ても、心が全くときめいていないことに気がついたとき、これは重症だとわかった。
 同時に、原因がなにかも理解できた。

 私は無意識の内に、恐れていたのだ。

 織野と江ノ島が男女交際を始め、私が織野とこれ以上の関係を望むことが困難となることに。
 だからこそ、色々なことから目を背け、逃げようとしていたのだ。作ることができなくなるという現実を、直視する勇気がなかった。
 しかし、もう決心がついた。
 私も江ノ島のように、織野との関係を今よりずっと素晴らしいものにする為の努力をしよう。
 例え、これまで作り上げたものを壊すことになるのだとしても。

5
 期末試験の準備で校内に残る生徒もまばらなってきていた六月二十四日の放課後、今後の部活動について相談があるという口実で、織野を校舎の屋上まで連れ出した。
 外は既に夕焼け色に染まっていて、普段は活気のあるグラウンドも、奇妙なくらい静まり返っている。

「壊子さん、相談なら美術室でも良かったんじゃないですか」
「……大事な話だから、他の人に聞かれたくなくてね」

 私は転落防止用の柵に背を預けた。大股一歩分ほどの距離で立ち尽くす織野を横目で見る。

「率直に聞こう。織野、君はこれからも美術部を続けるつもりがあるか」

 返事は、即答だった。

「なにがあっても絶対続けます!最後まで壊子さんのお供しますよ、僕は!」

 握り拳に力を入れ過ぎて、織野の身体はぷるぷると震えていた。

「ありがとう。しかし、私は次のコンクールを最後に引退。自由に絵を描いていられる時間も、残り僅かだ」
「そんな寂しいこと……言わないでください」
「私もできることなら、もっとずっと君と絵を描いていたいさ。でも、それはルール違反なんだ」

 目を伏せた織野のことを真っ直ぐ見据える為、私は柵から背を離した。

「限られているから、大事にしなければならないと思える。タイムリミットが短くなればなるほど、残りの時間が愛しく思えてくる。それを気づかせてくれたのは……織野、君じゃないか」

 伏せていた目を私に向けて、織野は馬鹿みたいに口を半開きにしていた。
 自分がなにを言われたかもわかってなさそうな織野の目を、正面からじっと見つめる。

「えっ……それってどういう──」

 しょぼくれていた織野の身体に活力が戻る。
 全く、現金なやつだ。こちらがどれだけ覚悟をしてきたと思ってる。それこそ、昨日なんて碌に眠れていないというのに。

「はっきり口にしないとわからないのか、この朴念仁め。二度も三度も言わないからよく聞け……私は君のことが──」
「ちょっと待った!ストップストップッ!」

 決死の覚悟を抱いて臨んだというのに、一番肝心なところで待ったをかけられた。
 これでどうでもいいことを宣い始めでもしてみろ、舌を引っこ抜いてやる。

「壊子さん、これってつまり……そういうことですよね」
「君の考えている通りだ。あとは煮るなり焼くなり好きにしろ……覚悟はできてる」

 緊張の為だろうか、喉が無性に乾く。答えを聞かずにこのまま踵を返して退散してしまいたい。

「いえ待ってほしいっていうのは変な意味じゃなくて、ええっと、なんていうか、その……」
「先輩だからといって気を遣う必要はない。むしろここで時間くれなどと言うのなら、私は君を軽蔑するぞ」
「違うんですってば!急に止めたのは、壊子さんからじゃなくて僕から伝えたかったからなんです!」

 次に口を半開きにするのはどうやら私の役目だったらしい。

「実は最近、江ノ島のやつにも同じようなことを言われて、迷ってたんです」

 やはり、あの子も宣言通りに行動したのだな。その結果がどうであれ、彼女の方が数段上の勇者であることは火を見るより明らかだが。

「……君達なら、良好な関係を築くのはそう難しくないだろうに」
「はい。やかましいところはあるけど……あいつとは中学時代からの付き合いだったから、思うところはあったんです。いっそ、一度一緒になればはっきりするんじゃないかなんて考えたりもしました。でもそれじゃ駄目だって気づいたら、もう受け入れられなかった」

 そこにどんな葛藤があったのか知ることができなくても、想像することはできた。
 双方による痛みの分け合い、か。

「元々絵が嫌いだったから、描くだけでも嫌だった。でも壊子さんに絵を教わって、嫌いを好きに変えることができた。褒められる度にもっと絵を描こう、もっと良いものを作ろうって思うことができた」
「……織野」

 絵が嫌いな人間が筆を取ろうするほどに、想いは強く、重かったのだろう。
 今、合点がいった。

 織野が描いてきた絵に宿る並々ならぬ迫力の根源は、彼の想いそのものだった。

「壊子さん……もし迷惑でないのなら、今より近い場所で僕と一緒に絵を描きませんか。壊子さんに手伝ってもらえれば、きっと、凄く素敵な絵が描けると思うんです」

 お互いの意思を汲み取るよう見つめ合った後、織野の真剣な眼差しから逃れるよう、くるりと回って背を向ける。

「あ、あれ?壊子さん、あのー返事を貰ってないんですが」
「──芸術は爆発だ」
「はい?」

 言っている意味がわからないと嘆く織野を無視して、私は続けた。

「織野はビルの爆破映像を見たことがあるか?」
「そりゃあ一度くらいはテレビで見たことがありますけど、しっかり観察したことはないっていうか……」
「人類が培ってきた英知を用い、長い時間をかけてようやく作り上げた鉄の塔が崩壊する瞬間に見せる輝きは、他にはない美しさを秘めてる」

 織野に背を向けたまま、夕焼け空を抱きしめるよう、大きく両手を広げる。

「すいません、ちょっと僕にもわかるように説明してもらえませんか」

 颯爽と振り返り、答えた。

「できるといいな」
「えっ?」
「爆発するぐらい凄い作品」

 意味を理解し、喜々とした表情で頷く織野。ああ、素晴らしい笑顔だ。
 今この場で織野と作り上げた関係をぶち壊しにしたら、一体どれだけの快楽を得られるだろう。
 込み上げてくる衝動を喉元でぐっと堪え、薄く微笑む。
 最高の壊れ方を目指すには、最高の関係を作らなければならない。
 いつか壊れる瞬間を夢見て、私は作り続ける。

 壊すに足りる、最高の作品を。





 終

練習として去年の夏頃に書いたもの
供養として投下しました

なんかすごい(小並感)

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