明日を追い越して (77)





「……行き、最終電車が発車します。」




仕事。

納期、トラブル、無能、残業、残業。
休出、無能、正社、残業、残業。
ミス、自戒、周り、ヘラヘラ、残業、残業。


磨耗した心はつまらない事を文章で考えたりはしない。
圧縮して省スペースしたはずのゴミみたいな単語が、くずかごのように心の中に溜まっていた。


ま、金出るだけまだいいか。


しばらく心をガサガサ漁って、つまらなくない文章を探したらこんなものしか出てこなかった。
ギュムッ。


妥協。


そんな自分がつまらなくて、また圧縮した。

「閉まるドアに、ご注意ください。……」



忘年会、愚痴、陰口、下品、下卑、馬鹿騒ぎ、媚び、説教、仕事。
年の瀬、帰京、不安、顔出し、旧友、人生、値踏み。


「ふう……」


いつにも増して酷く散らかった、都心のくずかごみたいな俺。
誰もいない車両は、乗車賃さえ払えば温かい座席で俺を出迎えた。




「たまには帰ってきなさいよ、ってねえ……」



母の声が思い出される。
顔は浮かばない。
嫌いでもないが、疲れるので思い出したくない。

ギュムッ。


不肖の息子。


いや……。
ギュムッ。


愚息。


これでいいだろう。すっきり。
ライフワークというより、心の安寧を何とか保つための悪あがきが毎晩のように繰り返されていた。

終わりはあるのか、終わりはないのか。
俺の限界は来るのか、限界は来ないのか。

フタもカパカパ開き気味になったくずかごが、大きなレールの上を揺られていった。





ガタンゴトン……ガタンゴトン……





「最終電車が発車します。……」




各駅停車の繰り返されるアナウンス。
開くドアが運んでくる冷気と物音。
用意された音だけが響く静けさ。



……。

「ふふっ」

圧縮はしなかった。





しばらく揺られて2駅過ぎ、まだ少しかかる。

「……。お忘れ物のないよう、ご注意ください。」

また1駅、その駅。






「ドアが、開きます」






物語は、そこから始まる。




男「……ん?」



ドアの先には、ベンチに腰掛けた人がいた。
うなだれて、動かない。




○○行き、最終電車です。
お乗り過ごしのないよう、ご注意ください。
~♪




男(寝てるか……!?)

もう鳴ってる。

泥酔?居眠り?終電逃してお前も独り?

寒いだろう。可哀想。

引きずる?起こす?声かける?

可能?不可能?俺しかいない?

間に合わない?俺が困る。見て見ぬ振り?俺が困る。


……急げ。悩むな。早くしろ!!


ダッ!



男「あのっ!!」



肩を掴み、大声とは裏腹に軽く揺すった。
ビクンと震えた全身。持ち上がる顎。見開かれる眼。
コートに包まれていたのは女性だった。

女「ん、……えっ」


音楽の調子が上がる。
まずい、荷物ば電車の中だ。


男「早くッ! あんた、もう出ますよ!!」

女「あ、ちょ」

男「荷物! それ! 早く!」

女「は、はい!」



プシュー……



男「はー、はー……」

動悸、ときめき、逃避行。
そう見えるようなワンシーン。
息切れ、緊張、安堵感。

ふう、よし、オッケー、間に合った。

期待




とりあえずさっきまで座っていた座席に腰かけると、連れ込むようにして引き込んだ女性も横に座った。
ボリュームのあるマフラーで、口元が少し隠れている。



男「平気ですか?」

女「はい……すいません」

男「これ……この電車、乗るつもりで合ってましたよね」

女「……はい。」



ガタンゴトン……ガタンゴトン……



動き出した電車にふたり。
定員何十人の車両で隣り合わせ。


女「助かりました」

身体を少し斜めにすると、女性もようやくこちらを向いてそう言った。
こちらに向けて笑おうとしたのだろうが、緊張がいまだ収まっていないようで変な顔になっている。
不器用そうな女性だった。

男「いえ……寝てましたか」

女「はい。終電、逃すところでした」

男「終電じゃなかったら俺も助けてませんでしたよ。はは」

女「あ……ごめんなさい」

男「あ、いや、嫌々したわけじゃないです、その。すいません」

人の事を言えない。ぎこちない。



女「今日は遅くて、疲れてて……それで、つい」

弁明するように、申し訳なさそうに言う。
そんな眉毛して欲しくない。

男「忘年会ですか?」

女「え。……は、はい。そうです」

なんで分かるの?という顔。
いやいや仕事納めの時期じゃないか。

男「俺もだからですよ。2軒目の帰りです」

女「あ……」

彼女のほほが緩む。



女「あなたも、ですか?」



ようやく、同類と認めたような安堵を見せてくれた。
遅いよ。もう。

妄想乙とか言わないで、死ねる
おやすみ

おつ
愚痴しかないよ全く

良いんじゃないかな



男「そうですよ」

俺と彼女を同じと見なすにはあまりに情報が足りなすぎた。
しかし、互いに何となく疲弊したような様子が一体感をくれた。

女「私も、酔った方に2軒目まで付き合わされて……終電までちょっと余裕ありましたけど、先に失礼しました」

男「その方と一緒じゃなかったんですか?」

女「え。あ……はい」

彼女の顔がこわばった。
野暮か。

男「ま、道中何もなくて良かったです」

年末は変な人も多い。



男「ふう」

この話はおしまいがいい。
わざとらしくお茶を飲む。

女「……」

彼女は、そんな俺の様子を控え目に伺っていた。
マフラーをつまんだ手を、口元に当てる仕草で。

男「どうしました」

女「あの、最寄りは、どちらですか」

男「え?」

意外な質問だった。

女「あ、その、どこで降りるんですか」

男「○○。その、終点の○○駅です」

つい答えてしまった……いや、危ない事はないよな?

女「あ……」

彼女がいっそうマフラーをつまみ上げ、顔を隠している。
困った眉をして、縮こまっている。



女「私も、同じ。同じなんです」



男「……。あら」

女「その、はい」

出た返事が「そうなんですか」で無いあたり、俺は彼女に興味を抱き始めていたんだと思う。


ガタンゴトン……




「まもなく終点、○○、○○ です。……」



プシュー……

電車からは3人ほど人が出てくるばかり。
ぶつかる影もないのに、彼女は俺の後ろを小さく歩いていた。

男「酔いとか、眠気とか、平気ですか? なんか飲みます?」

女「あ、その、いえっ」


……?
どこか違和感があって彼女の顔付近を覗き込む。


男「……耳」

女「えっ、な」

男「耳がだいぶ赤いです。さっきので、風邪でも引きましたかね」

女「え……! それは、その」

男「無理しない方がいいですよ」



自販機に電子マネーをかざす。
彼女が両耳をグニグニ握って冷やしている隙に、冷たいお茶と温かいレモネードを買った。

女「あ、あの……?」

男「冷たいのと、あったかいの。どっちなら飲めそうです?」

女「ぁえ!?」

ふたつ差し出すと素っ頓狂な声をあげた。

男「俺ふたつも飲めないんで、早くもらってください」

我ながら強引でいやらしい。でも、もらってくれなさそうな人への常套手段でもある。

女「そ、そんな。そうとは言っても、う……」



……
改札への階段を登る間、彼女は黄色のボトルを両手にギュッとおさめていた。




男「……」
ピッ。

女「……」
ピッ。



終電後特有の、各所から漂う「おしまい」の雰囲気。

発車予定のない電光掲示板、シャッターの降りた店、酒をコンビニ袋に入れてゆっくり歩く人、仲間たちと夜にたたずむ人。
各所からは「お気を付けて」「良いお年を」なんて声も聞こえてきて、普段よりいっそうその空気は強い。

同僚とも上司ともそうしてきたばかりなのだ。
後ろの影とて例外ではない。



男「さて、」

女「あのっ」

振り返って声をかけようとすれば、マフラーから顔を出した彼女がこちらをまっすぐ見上げていた。
……。長い睫毛と、光っている瞳。

射抜くとまではいかなくても、男の視線を磔にするには充分な何かが漂っていた。



女「その……ありがとうございました。色々」

見とれていた俺は話を譲ることになる。
視線はお互い外れないままだ。

女「その、なんと言っていいのか、なんてお礼をしたらいいのか」

男「ちょ、ちょっと。ほとんど大したことしてないでしょう。気にしないでください」

女「でも……」

でも、の先に続く言葉は、何となくわかる。
その言葉は、まず他人に出てこないだけで。

モノじゃなくて、気持ちが嬉しいとか。
偶然であっても、何となく親しみを感じたとか。
繋ぐ道理がなくても、少し名残惜しいとか。

わかる。
でもまず言えない。照れて恥ずかしくて難しくて。

女「んん、でも……」

そこからは続かないようだ。
俺の話をさせてもらおう。



男「よかったら、送って行きましょうか? 夜道、危ないですから」



女「……えっ。」

男「いや、その、迎えに来てくれる方や、自転車があるんであれば、いい、んでしょうけど、その」

俺は途中から何を言っているのやら。
一緒に帰ろう、だなんて学生以来なのに、サラッと言う力はどんどん退化している。

女「それは、その、えーっと、はう……」

また口がマフラーの中に隠れてしまう。
かわいらしいが、見るからに彼女は困っていた。
仕方ない、か……。


男「……分かりました。お家知られるのも怖いですもんね。くれぐれもお気を付けて」


男「では、失礼します」
女「あっ……!」


この30分ほどの出来事。


ギュムッ。

所詮。

あ、あれ。ギュムッ。

失恋。

ち、違う違う。ギュムッ。

失望。

いやいや。ギュムッ……。

ぜんぜん潰せない。くそ。




グイッ!
女「あ、のっ……!」

コートが急に引っ張られた!

男「のわっ。あ」

女「ごめんなさい、そのっ」

振り返ると、慌てた様子の彼女がいる。
……やはり不安は不安だったのだろうか? 悪いことをした。

男「……。すいません、やっぱりご一緒しますか」

女「いえ、あの、その」


女「その、でも、うう」



女「私が、そのぅ……」




ごにょごにょした呟きはどんどん先細って消えていってしまった。
俺は、彼女のそれを聞き取りたくて耳を寄せる。






女「私を、泊めてください……」






その瞬間。
ゼロ距離から、すごい甘いのが耳から脳をブチ抜いていった。



駅から、徒歩で10分。
我ながら、割といい場所を借りられたとは思う。


ただ、女の人を泊めるのに充分な広さであるとか、距離であるとかなんて全く考えた事はなかった。

男「……」
女「……」

同様に、今日それが起こりうる事であったなんて。






少し前。

女『ご、ごめんなさい不躾なのは分かってますが、その、お願いします!』

俺から寄せた耳にとんでもない不意打ちを返した彼女は、知ってか知らずか性的なニュアンスから遠く離れたお辞儀をした。
逆に、その意図も無くいきなり男の家に泊めてもらうというのも少し世間知らずなのかとも思った。

女『やっぱり……ダメですかね』

断る理由は何個でも浮かぶ。冷たいものから柔らかいものまで、なんなら連絡先を聞き出しながら別れる事だって出来なくもないと。
しかし、彼女にその気がなくとも俺はその仕草、その声、その縁を手放しがたいと思っていたのも事実であった。

男『……』

女『う。ごめんなさい』

男『謝らないでくださいよ。分かりました、ワケは聞きませんから』

今年はもう仕事も無い。
彼女の忘年会がそうとは分からないが、今日が金曜日で無いあたり明日仕事なんて非常識な事はありえないと思う。

女『あ……』

女『ありがとうございます!』

こんなかわいらしい笑顔を見せてくれる女性が、こんな事で微笑んでくれるというのなら。





……

女「ふふ」

駅のホームで歩いていた時より、半歩くらい近くをついてくる彼女であった。



……ガチャ。


男「どうぞ。ちょっと散らかってますけど」

女「お、お邪魔します……」

テーブルを見ると出がけに慌てて食べていったカップ麺の残骸が転がっていて、今朝の自分を激しく後悔した。
暖房を入れ、コートをかけるハンガーを探す。

男「荷物、ソファにでも置いてください。お茶入れてきますか?」

女「さっきもいただきました、大丈夫です」

男「はは、そうでした」

とりあえず大きなハンガーを彼女に渡し、先にくつろいでもらった。



もう日付が変わる。
手早く部屋を片付けた後、風呂に湯を張った。
幸いにしてシャンプー類は刺激の強くないものが揃っている。

部屋に戻ると彼女は縮こまっていた。

男「お湯、先にどうぞ」

女「あ……いただきます」

男「ところで着替え、どうするつもりです?」

女「あ」


彼女の口癖は「あ」とか、「その」とか、そういうのらしい。


男「……あまり着てないシャツでよければ」

女「ごめんなさい、お借りします……」



無防備すぎやしないかと、少し心配になった。



シャワーを浴びる音が聞こえる。


出てきた時の事を考えると、やはり緊張してならない。
そもそも、なんで彼女は泊まらなければならなかったのか?
その必要性がなかったのなら……なら、こう、そこまで縮こまる事も無いのではないか?


……今から送り届ける事も考えたが、野暮なのか。


普段寝ている温かい布団に消臭剤を吹き、乾け乾けとバサバサバサ。
とりあえずコタツ周りのクッションを枕に見繕って、俺の寝床は確保した。




ガチャ。




女「……」

身体を抱くようにして、Yシャツの彼女が出てきた。
白い生脚と対照的な赤い顔を、どうにか隠すようにして。

男「……」

俺は正直惚けていた。
彼女の細腕で身体を隠そうと、あまりに逆効果だ。
煽ってるのかと言いたいくらい。

女「あき、ました……」

男「は、はい」



薄い唇、締まったふくらはぎ、浮き上がる腰のライン。
あちこちに意識が振られて、ガン見も凝視も、ホント失礼も良いところ。

しかしまあ身長はあって、それを薄く包む女らしい丸みと危うさを孕んだ細いくびれ。
そのスタイルの良さとは裏腹に、過度な自信を宿していない瞳、淑やかかつ遠慮がちな仕草。


「女」だとか「オンナ」だとか、「女の子」や「女の人」だとか。
そういう形容の似合わない、「女性」らしい魅力的な……危ない、人。
もっと言うと、男好きしすぎる。


女「あ、の……なんか、その、見てます?」

男「あっ、すいません!」



ガラガラ……ピシャ。



男「かわ、いい」

逃げこむように入り込んだシャワーの中でも、先の肢体を反芻する事からは逃れられなかった。

わあテクニシャン
期待



……ピシャ。


男「戻りましたよ」

女「あ……はい。こたつ、借りてます」

男「どうぞどうぞ。そうしてください」



戻ると、彼女はある程度落ち着いた表情をしていた。
身体をこたつの中に隠しているからかもしれない。



男「もう日付変わっちゃいましたね」

女「そうですね」

男「……休みましょうか。俺こたつで寝るんで、布団使ってください」

女「あ……」



女「寝たら、明日が来ちゃいます」



ふと彼女は印象的な言葉を言った。
日付が変わったと言った矢先の事だから尚の事……言わんとする事はよく分かる。

男「……そうですね。起きてたいですか?」

女「ごめんなさい」

男「いえ。俺も、分かります、そういうの」



男「早く休まないと明日に差し障ると分かっていても、寝たら明日が一瞬で来ちゃいますから」

女「はい。そうですよね」

男「でも、ずっと今日を過ごそうとしても明日からは逃げられない……」

女「……。私、小さい頃は今日と明日が繋がってるなんて信じてませんでしたもん。寝てる間はもっと特別な何かがあるんだって」




男「うーん。じゃあ今日のうちに、話したい事なんかあります?」

俺も寒いのでこたつの対面にご一緒する。

女「……。無くはないです」

男「何でもとは言わないですけど、遠慮しないでいいと思いますよ」

女「その前に……です。何で、いきなり泊めてほしいだなんて言葉が出てきたのか、知りたくないですか?」

男「ワケは聞かない、とは言いましたけどね。お話ししたいなら聞きますよ」

既にぬくもった彼女の足が、ちょんと触れた。

女「私もなんで……その……そんな、大胆というか、おかしな事思い付いたのかよく分かってなかったんですよ」

男「……自覚あったんですか」

女「ちょっと、変な人と思わないでくださいよ。いや、変ですけど、いきなり男の人の部屋に泊めてもらうなんてどんな事なのか分かってます!」



女「でも、この人はそんな人じゃないって、すぐに分かりましたから」

男「……今、釘を刺されたんですかね?」

女「ふふ。そんな事する必要ないと思いますけど」

男「どうだか」

女「顔を見れば分かります」


自信を持って言われてしまうと、あまりに無害そうと言われているようで微妙な気分。
でも、正しい。


女「で、それが前提として、ですね。お願いしたい事があります」

男「……。なんでしょう」

少し緊張する。



女「私と寝てもらえませんか」



おい。

男「流石に、アウトでしょう」

女「ダメですか……? ってのは、ナシですかね」

男「ナシです。どう寝るにしても、どっちの意味にもなりかねません」

女「ともねですよ」

なめらかな足が、こたつの中ですねを撫ぜる。

男「……勘弁してください」

女「あはは……ごめんなさい。つい」





女「今日、私、独りになりたくなかったんです」

女「独りになったら……いろいろと、壊れてしまいそうで」

男「嫌な事、あったんですね」

女「はい……ありました。」



女「飲み会で疲れて、それで悩みでも疲れて……その折にあなたが来て、優しくしてくれて」

女「知ってて仲の良い人達でも悲しい事嫌な事があって、……名も何も知らないあなたはうれしい気持ちにしてくれて」

女「女性の集まりみたいに親身じゃなくても……それでも心から共感してくれて」

女「なんというか、その、無意識に……この人のもとで休みたい、この人のもとで目を覚ましたいなんて、思ってしまいまして」

女「つい」

女「つい……なんです。ごめんなさい。で、でもこんな事まさか、ついついしないですよ? はじめてしますよ、こんなことっ」

女「うう」



女「私、最寄りも、○○駅じゃないんです。離れがたいなって、最悪タクシーで良いかなって。」

な……
ガワは落ち着いてるようで、この人結構とんでもない人だ。

男「そうだったんですか!? 俺が冷たい奴で、タクシーも捕まらなかったらどうするつもりだったんですか!」

女「あ、その……でも」



女「……いえ。ごめんなさい」

男「済んだことでも、心配しますよ。もう」

女「私、人を見るのは得意みたいで……あなたは大丈夫って確信があったんです」

男「分かりました、分かりましたよ、終わりにします。……俺もさっきから気恥ずかしいんですからね」



男「……」

女「それで、ですね」

男「寝ましょう。すいません、こたつ切ってください」

女「え、あ……」

男「枕とクッション、どっちがいいですか」

女「あっ……! ク、クッションください!」

真っ正面から嬉しそうな笑みが、いい加減奥手な俺の中の俺を吹っ切らせた。
自分の中でまで抑えて嘘ついてどうすんだ。



男「冷えますから。早く、入りましょう」

女「お隣、失礼します。……えへへ」

この人良い。
この人、ホントかわいい。

かわいい




女「ごめんなさい……狭いですよね」

男「いえ、その……布団、ちゃんと掛けてください」


理性を保とうとする時。
人を苦しめるのはムラムラではなくドキドキなのだと初めて知った。


もぞ、もぞ……。
ぴくん!


女「っ……」
男「……ぅ」


自分のふくらはぎが、彼女のつま先に触れる。
背中合わせであるとはいえ、同じ布に体温を閉じ込めるということ、自分以外の体温が感じられるということ。
それが異性のものであるということ。

長らく渇きと孤独に晒されていた心は、思春期のごとく高鳴っていた。

女「寝れそう、ですか?」

男「ちょっと……緊張が、はい」

女「……わたしもです」



女「でも……いいですよね。なんか、こう」

男「はい。別に悪く、ないです」

女「わたしは……良いです」


ゴロン。


彼女のお尻が……俺の腰に触れる。
ぐいっ、と身を寄せてくる彼女の肉は心地よく、遠慮がない。
温かさ、柔らかさ、なめらかさ、加えて重みまで感じてしまったら、たぶん、本能的に全身で抱き締めてしまう気がする。

期待する身体が、ピリピリ敏感になっていた。

男「ダメですよ」

女「嫌ですか」

男「いえ、ダメというか、その、もうダメですから」

女「ごめんなさい。あなたは、優しいから……甘えてしまいます」


少し、身体が退いた。助かった。
温もりが遠ざかり……残念な心地がするのは、仕方ないか。


女「でも、良い人です」

男「……良い人じゃなくなったら、嫌な人ですか?」

女「……。そんな事ないですよ。わたしそんなわがままに見えますか」




男「……」

誘ってるんですかと口にしそうになり、つぐむ。



ぴと。

男「っ……!」

そうしていると、彼女の掌が、俺のわき腹に置かれた。
後ろ手に……足先などとは違った、明確な触れる意思を持った感触。


女「がまん、してますか」


彼女の声はだいぶ甘い。
またトクトク ドクドク バクバクと早くなっていく。

男「……ずっと、してます」

女「ごめんなさい。はっきり、言います」




女「さわっていいですよ」



女「さわって、ください」



女「さみしいです」




女「……もっと、いわないと、だめですか」

男「いえ、その、すいません」


きゅ。


男「これで」
女「……はい」

少しだけ体勢を変えて、同じく後ろ手に彼女の手を取った。
指は絡めないで、なるべく優しく。

雰囲気好き


彼女の指を上から包むようにして、その感触を確かめる。
細くて、小さい。

触れた指の節は自分の手より少しひんやりとしたが、ぐっと押し付けるようにすると、しばらくして優しい体温を取り戻す。



女「……あったかいです」

男「よかったです」



甘い声が、より嬉しそうに囁く。
嫌な事は忘れてしまえとも、逃げてしまえとも、すぐに片付けてしまえとも言わないけど。


男「指……失礼します」
女「え。んっ!?」


休んで、融けて。
この温もりにほどけてしまえばいい。
ゆっくり、眠くなるような時間をかけて。





女「……声。」

男「はい?」

女「恥ずかしいです。変な、声……」

男「ぴくってしましたね」

行き止まりまで抱き締めた指のまたが、確認するように、くい、くいと引き寄せてくる。
恋人つなぎ……いや、なんだろう? 互いの手のひらが1つの面になるような、直列恋人つなぎ。

指の肉と温もりが、男の俺からして未知なほど柔らかい。

それはきっと、女なら誰でもというわけではなく……今の彼女の指だから。

女「……。あなただって、指の間すごいですよ。分かりませんか、どく、どくって」

男「えっ。脈って、そんなとこから分かりましたっけ」

女「きこえてますよ。ほら」



ぎゅうっ。



女「どく」
どく。

女「どく」
どく。

女「どく。……でしょう?」
どく。
男「う、わ。ホントだ」

どく。
女「ふふ」
どく。

どく。
女「あ、またすこーし、早くなりましたよ」



男「……言わないでください」

女「あっ」


色々と、彼女が紡ぐ囁きが良くない。腰や、ソコに。
恥ずかしくて、ジョイントを少しゆるめる。
隙間が空いて、その間を通る空気は……寂しいものと思いきや、ほこほこと温かい。

女「えい」

またも引き寄せられた手は、きゅっと固く締められてしまった。
抵抗できない。

女「中指、つかまえました」

女「……あ。さっきより、よく、わかっちゃいます」


そんなの、俺が一番感じてる。
どく どく どく どく って。
漫画みたいに、心臓は激しく叩いてるわけでもないのに、心地よく早く、押さえられた血管がどくどくと。

男「……」
女「……」









不思議な高揚感。
雲に巻かれるような気持ち。
ささやかで切実な欲求。


眠りたい。
この人と、眠りたい。


男「ねむれそう……ですか……」

女「……」
きゅむっ。


気持ちいい。
気持ちいい……
きもちいい…………


男「おやすみ……」

女「ぅん……」



……………………







眠りの時は長い。
しかし、その間の意識はごくごく短い時間。
なだらかに与えられる安心と心地良さと癒しが、眠りに落ちる一瞬へと煮詰められて。


誰もがとろける、快楽の味になる。


つまらない明日に出会うためのおやすみじゃない……自分から求めてしまいたくなる、最高のおやすみ。











男「……んっ」

ぴくん。
女「ん、……ぅー。んふっ……」

夢も見れないほどに脳が融けたまま……部屋に差す陽が昨日の終わりを告げた。



男「ん……」


朝。
いつもと違う朝。

鳴らない目覚まし。
抗いがたい温もり。

女「すぅ……すぅ……」

傍らにいる存在。



男「そうか、昨日」



疲弊し、磨耗したまま何かの巡り合わせで出会った彼女。
連れ合うほどに信用されたような俺と、危ないほどに身を委ねてくれた彼女。
癒し、癒されて温め合い、どこかで通じ合った彼女。


女「ん、う。……?」


眠りにつく最高の瞬間とはまた違う、朝起きた布団に人が居るやすらぎ。
彼女にも分かって欲しい、味わって欲しい。

一夜繋いだままの手をもう一度握り直す。




男「おはようございます」




女「……あ」



彼女の瞳が覚醒していく。
驚きも混じっているように見えるのは、俺と同じくいつもと違う朝を迎えたからだろう。
布団は温まったままの状態から、変わらず温かい。


女「おはよう、ございます……」

男「……よく眠れましたか?」

女「ふふ、はい。とても」

男「俺もです」


背中合わせの状態から、どちらからともなく繋いだ手を引く。
身体はずるずると転げ、俺と彼女は肩を寄せ合う形になった……遠い方の手を恥ずかしいほど固く繋いだまま。


女「朝ですね……」

男「朝ですよ」

女「起きないと、いけないですか」

男「起きないといけませんよ」

女「ふふ、そうですね……」


彼女との会話を子守唄にするように受け流していると、また瞼が落ちてきてしまう。
また内からふわふわとした快感が溢れてきて、じんわりと飲まれていく。





女「……。自分で言って、寝ちゃうんですか?」

女「いけない人です」

まだあ?
寒いがな




のしっ。



女「これで、私もいけない人……です」

女「ん……」

女「………………」

女「すぅ……」




男「ん……」

女「すぅ……すぅ……」

男「え」



浅い眠り。
夢の、続きかもしれない。



俺の胸に、彼女が覆い被さっている。
シャツと下着だけが隔てる重み。
しゅるしゅると音がしそうな、生脚の絡んだ感触。

繋いでいた手は俺を抑えつけるような形に変わっており、まるで彼女が押し倒したかのようである。



女「すぅ……ふひゅ……」

男「……っ!」



首にかかる、寝息。
ぞわぞわ、ぞくぞくする。

これは、まずい。
やめるのを躊躇ったら魅せられてしまう。



男「ちょっと。ね、起きましょう」

性的な疼きをきっかけに、意識と理性も急激に覚醒する。

女「んんん~……」

いいところで





…………

女「……すみません」

男「いえ、その。はい」

女「つい、なんか、良くて」



彼女に布団を譲り、なんとか堕落の園から抜け出す。
ふとすればあの中にまた足を突っ込みたい衝動に駆られるのだ。



男「つい、で身体預ける人がいますかい」

女「はい、で胸貸してくれる人は素敵だと思いますけど」

そりゃ貸すさ、男なら誰でも。
けど、そういう話ではないのだろう。

男「とりあえず暖房付けてきます……床冷えますから、まだ入っててください」

こたつとエアコンのスイッチを入れる。
30分もしないで温まりきるだろうが、朝食を準備するには充分だ。

女「あの……?」

男「ブランチになっちゃいましたけどね。サンドイッチ、食べられますか?」

女「え、あ、はいっ」


冷蔵庫にあるハムの封を切った。




女「……ご馳走様でした」

男「かしこまらないでください」



こたつで食べるサンドイッチ。
時刻は11時、昼までの繋ぎにはなるだろう。

男「じゃとりあえず駅まで送ってい」





女「――」





安らいだ彼女の表情が……一瞬で凍った。
一夜逃げた程度で癒えるほど、浅い傷ではない。
空いた口から不平もわがままも諦めも出てこないほどの。

すぐに直感した。
昨日出会った時点で折れてしまいそうなほど疲弊していたのだ。

男「……きます。駅前でも良いですし、気に入ったのなければ探しにいきましょう」

女「へっ、え?」

男「ずっとその格好はまずいでしょう。必要でしょう? 衣類」





我ながら、すましている。
大胆で、そんなスマートな文句でもない。
でも。

女「?……」

女「……!!」

女「は、はいっ!!」

男「行きましょう。ジーパンとコート貸します」



見送る顔が笑顔でないのなら、居てくれ。

ラブラブを期待する



バタン!……カチャリ。


男「じゃ、行きましょか」

女「はい」


結局シャツだけ貸すことにして、服やコートは昨日着ていた通勤用のそれを使ってもらうことにした。
既に日が昇っているのでコートの前は開いた装いになっている。




年末前の住宅街は散歩している子供連れも多い。
大掃除の音も聞こえる。


女「ほんとに、もう一日居ても良いんでしょうか」

男「居てください」

女「ふふ、はっきり言われちゃいました。でもこれ、win-winが成り立っているかと言われると」

男「……いいんですよ。俺だって一昨日までは、明日死にます、みたいな顔して毎日眠りについてたんです。だから、その」



女「今夜も。ですか?」



男「はい」

女「ふふっ。すごい真剣な顔してますよ?」

男「え、そうですか? すいません、つい」

女「いえ……私こそ、お願いします。いっしょに寝ましょう」

結婚させてくれ
そして老師まで頼む




男「もう着きますね」

女「いや、実は、昨日初めて来たんですよ。○○駅」

男「……本気ですか」

女「ふふ、マジです」



終点ということもありそれなりに駅前は発展していると思う。
今日も元気にスーツを着ている人の中に、ラフな格好で出歩くおじさんや連れ立ってだべるマダムがちらほら。



男「とりあえず安いとこから見てきます?」

女「えーと、はい。その……下着とか、肌着とか、欲しいです」

男「そうですよね。荷物持ちならいつでも言ってくだっ、こっち!」


こちらを見つめる彼女は後ろに気付いていない!
素早く手首を引く。


女「へ? ……わ」

男「この辺、狭いわりにそこそこ車通るんです、すいませんね」

女「い、いえいえいえ。こちらこそすいません、ありがとうございます」


次の曲がり角で、車道からそっと彼女を隠した。


女「――」


老師じゃなく老後だ




年末、歳末セール!
お客様のニーズに応えるをモットーに、……



男「う、わ。すごいっすね」

女「あはは……」

初売りからでも遅くないだろうに、年末の百貨店、婦人服売り場には人が集中していた。

男「俺は待ってますか? ついて行きますか?」

女「連絡先分からないですし、」

男「あ、交換しますか」

女「い、いえ! それは」



……断られてしまった。現実と火遊びの境みたいなものが、まだちゃんと残っているのだろう。



女「違います、いやじゃなくて、でも」

寂しさや冷めた感じが顔に出ていたらしい。

女「はぐれたら……いやです、から。連絡先なんて、教えて、消されて、無視されてしまったら、二度と会えない、頼りないですから……」

……。俺は馬鹿か。



ギュッ!

女「!? あ、あの。その、分かりました、でも、強いっ」
女「そんなにぎゅうっ、て。はずかしいですから」

男「ふーん。寝る時は恥ずかしくないのに、ここでは恥ずかしいんですか?」

女「う……どっちでも、恥ずかしくないわけない……です」



男「どこも行きませんから……変なこと言わないでください」

彼女の手は小さいが温かく、同じ手とは思えないくらいしなやかで柔らかい。


女「……ごめんなさい」

男「俺も、役得ですから。」

お堅いコートに身を包んでいるとはいえ、強く指まで絡めて隣に置いた彼女。ほんの少し、男として優越感にだって浸る。
見る目には清廉で、振る舞いは淑やかに、口を開けば愛らしく、覗く心は甘えん坊。


女「そんな……自信ないですよ。でも、ありがとうございます」


彼女は控え目に微笑み、それでも充分に嬉しそう。




ああ、いい。
彼女の言葉や仕草には、社会の言葉や雑踏の声から漂う紛い物の香りがしない。

男「普段買い物に行ったり、おめかししたりは好きなんですか?」

女「あ……はい。やっぱり、私も女ですから……小綺麗にしたいなって」
女「似合わない、ですかね? その。お堅く見えるみたいですし」

男「まさか、横で見るのが楽しみでしょうがないです。買い物嫌いだったら許しましたけど、好きと言うなら……今日は満足してもらうまで付き合いますからね」


彼女が欲しいという、暗い気持ちの中に。
ただ喜んで楽しんで安らいで欲しいという、想いがひと粒。


女「……色々、買いますよ?」

男「ふふ。あっちの方、気になってるんですよね? きっと似合うと思います」

女「うっ。なんで分かるんですか……」

頑張って書いてくれ



レディースの衣類は、下着とインナーとアウターで充分な野郎とは事情が違う。
どれくらい居るつもりなのかはわからないが、シャツやパンツなど無難なものをあまり迷わずにテキパキと揃えていく。


1時間もすれば大きな紙袋が一杯になるほどで、結局繋いだ手はほどき荷物持ちを請け負った。


女「下着、見に行こうと思うのですが……」

遠慮がちに聞いてくる。
微妙なラインだが、堂々としてた方がいいだろう。

男「俺は構いませんよ。あまりキョロキョロしませんし」

女「……申し訳ないです」

男「気にしないでくださいよ」





女「し、試着してきますので、まってて……」

仕方ないけど下着売り場にぽつねん。
まあ実際のところ恥ずかしいが、付いてきて得した事もちゃんとある。

男(桜色と、水色……)

そそくさと持っていったそれは彼女の好みかもしれない。
今朝味わった、あの薄い肉のついた肢体を、あの淡い色が纏うさまを想像する。



……。

大きな紙袋を身体の前に回した。

女「すみません、お待たせしました。これ、一緒に入れてもらえますか」

男「……いいご趣味で」

女「へ? ……ふぇ、見てたんです!?」

男「つい」

女「ついじゃないです……まあ、良いんですけど」

男「い、」
良いのか……

ふぁー!何かこの距離感たまらん!




女「こんなものでしょうか」

男「あ、はい……」



彼女がこんなもんと称した衣類は、どどん!と効果音を付けてしまいたいくらいに多い。
大きい紙袋が2つパンパン。彼女セレクションの福袋である。
確かにところどころ渋い顔をしながら買い控えている様子も見受けられたが、それでこれか。

女「も、持ちます? ちょっと私も買いすぎかなとは思うので、その」

男「ダメです。せっかく横に居るんですから、ちょっとくらい良い顔させてください」



どう持って帰るのとか、50kは飛んだんじゃないのとか、色々野暮ではあるが、さすが女性のショッピング。
男とはひと回り違う楽しみっぷりは、満足してもらうと豪語した甲斐があるというもの。

……もっとも、本当に満足しているかと言えば怪しいが。




男「イタリアンで良いですか?」

女「はいっ、ご一緒します」

男「……なんか仕事みたいになってません?」

女「あう……ご、ごちです。あ、違います違います払いますけど!」

けっきょく駅前で充分に揃ったようなので、そのままレストランに駆け込んだ。



店員「いらっしゃいませ、2名様でよろしいですか」

男「はい……ふたりです」

いいな



……


ありがとうございました!


男「ご馳走様です」
女「ご馳走様でした。美味しかったです」


あ……ありがとうございます!
またお越しくださいませ!




男(……彼女の言い方の方がよかったな。初めて来たけど美味かったわ)

女「ちょっとアワアワしてましたね」

男「あなたみたいに言う人、少ないからだと思います」

女「え、ほとんど同じじゃないですか?」

男「顔向けて、微笑んで、目を閉じてまで会釈して。……素敵だと思います」
男「俺はいつもの癖というか、ルーチンですから」

女「えはは、その……照れます、ね。でも、何も言わない人とは比べるまでもないです。」


注文はパスタにすると、合わせて彼女もそうした。
俺はペスカトーレ、彼女はボンゴレ。

洒落た感じの店だったので腹は八分目だが、遅めの昼食ならこれで良いだろう。


女「いるんです。会社の中にも、店員さんに対して荒い人。自分でも勤め人なのに、どうしてそういう事が出来るのか」

男「あー……ウチにもいます、そういう先輩。悪い人じゃないって分かってるから、余計に、なんというか、残念というか」

女「自分がしてしまうよりは、悲しくないですけどね。」

男「……ふふ。おんなじです。よく分かります」




自分のそういうところを大切に出来るか。
社会は心の隙をついて、いつもそれを奪いに来る。
何度か負けた覚えもある俺だが、この人となら奪い返せる気さえする。



男「さて、あとは見るところないですか」

女「はい。ひとまずは」


男「分かりました。じゃあ、ケーキ見に行きませんか?」

女「へ? え?」

男「いいじゃないですか。ひとりだと買うのも食べるのも複雑なんですよ。年の瀬くらい贅沢しましょう」


嘘です。
美味いの知ってるから教えたいんです。
ひとりでもストレスフルなら堂々と買いに行きます。



……

男「どうも。いつも、お世話様です」
ペコリ。


ありがとうございますっ!



カランコロン……

女「……直しました?」

男「あら、バレましたか。様になってますかね」

女「うっふふふ……はい! 喜んでましたね」

いい女だな



カチャ。

男「ふう……ただいま。鍵、閉めてもらえますか」

女「あ、はい。」

カチャン。



女「荷物、ありがとうございます。お疲れ様です……重かったですよね」

男「いえいえ。それでも結構、厳選してましたよね?」

女「……実は。こういう形じゃなければ買ってたもの、いくつもあります」

男「もったいない事しちゃいましたね」

女「いいんです。そもそも、男の人に買い物付き合って頂いた事なんて無かったですし」

男「え? そりゃ嘘でしょう?」


重ね重ね、彼女は見た目にしろ振る舞いにしろ、男好きしすぎる。馬の骨から相応しい人まで、いくらでも言い寄って来るだろう。
社会人になる前の過去を知るわけではないが、野郎がほっとくわけがない。


女「女の子と出かける事が多かったので……」

男「あ、なるほど……」


友人ウケもすこぶる良くて変な虫が付かないように保護されてたか、あるいは引っ込み思案で埋もれてたか、逆に目立つために使われてたか。

……やめよう。失礼だ。




女「やっぱり、あなたにも気を遣わせちゃうって、分かるんですけど。んしょ」

男「遣ったら、嬉しそうにしてくれるからです。それに、気は遣うものじゃなくて利かすもの」

女「――」

男「……という事にしておいてください」

へえ。という顔をされた。
少しご高説垂れてるような気もする。


男「何か入り用でしたら、また付き合いますから」



男「これ、ハンガー余ってますから、好きに使ってください」

女「助かります。ここ掛けちゃって良いですか?」

男「どうぞどうぞ。それアイロン要ります?」

女「あ、お借りします。……マメなんですね」

男「いえ、あんま使いません」

女「あはは……女子力、負けてるかと思いました」

男「まさかあ」


紙袋を解体しながら自分の片付けもする。
終わる頃にはケーキの美味しい時間帯だ。


男「水入れて、ここ押せば出るはずです」

女「ありがとうございます。……あっ」

男「どうしました?」

女「歯ブラシ……」

男「あとで、コンビニ行きましょう」





生活の準備をふたりで進める行為というものは、予想以上に緊張や遠慮を消し去ってくれた。
普通に話しかけて構わない人で、話しかけられて普通に応えられる人。
今までの生活に、こんな当たり前のようで貴重な人は居なかった。同じ境遇の人が、世の中には何人もいるだろう。

女「? どうしましたか」

男「……。あ、いえ。ぼーっとしてました」

苦しかった一年が、この出会いだけで報われた気がした。


……

もむ、もむ。


女「……。美味しいんですが」

男「だから言ったじゃないですか」


もむもむもむもむ。

洋菓子店のお気に入りは抹茶仕立てのフロマージュ。
チーズと抹茶、酸味と苦味の良くないところを打ち消し合い、なめらかな味わいと濃厚な香りだけが残る。



もむもむもむもむ……

男「……。」
女「……。」

もむもむもむもむ!

女「な、なくなってしまいました……」

美味しいものを食べる時は余計な事は喋らない方がいい。うんうん。
あっという間ではあるがいい時間だった。

男「片付けてきます」

女「あ、すいません」



フォークを洗い戻ると、コタツに6割ほど飲まれている彼女がいた。

女「おいしかったです……」

男「緩んでますね。」

女「女の人はスイーツに弱いものなんです。不可抗力と思います」

男「ふふふ……選んできた甲斐があります」

女「わたしをこんなにして、どうしようって言うんですか。いけない人です」

男「いけない人ですからね。ふにゃふにゃにして、安らいでもらおうという魂胆です」

女「ふふ……かてませんね……」

ノックアウトした彼女はもう2割ほど飲み込まれていった。

いい雰囲気だ


男「夕飯はカレーで良いですか……あれ」

女「すう……すう……」


いつの間にコタツから寝顔が生えている。
いけない。


男「しっかり。身体、おかしくしますよ」

女「ん、んん……」

女「…………」

女「すう……」

開いた瞼がじわじわ落ちていくのを見るのは面白いが、風邪を引かせては大変面白くない。


男「しっかりしてください。ほら」
ゆさゆさゆさ。


女「……っあ。え、はっはい。はい」

男「しっかり。寝ぼけてますね」



女「……。はい」

男「はいしっかり! また落ちてますよ!」

女「はい。うん……」

男「……お疲れですか?」

女「いえ……でも、……きっとそうです」


ため息ひとつ。
クッションを持って、小さいコタツの一辺に無理やりお邪魔した。
当然入り口は狭く、腰やももが密着する。


女「んう……」

少し不快そうな彼女の髪を梳き、首からそっと持ち上げた。

女「……あ」

男「風邪ひきますから……長くはダメですよ」

女「あぁ、ありがとうございます……」


彼女は頭の下に滑り込ませたクッションを大事そうに抱える。

男「何分おやすみしますか」

女「……1じかん」

男「はい。」


頭に優しく手を乗せ、指でとんとん、と軽く叩く。
見る見るうちに彼女の力が抜けていく。






男「休んでください。起きるまで居ます」

女「……。」

男「怖いことは何もないです。俺が守ります」

女「……。」


……閉じた目のはしから、光が溢れている。


男「おやすみなさい。」

まだかな
メチャ楽しみにしてる

こういうのすごく好きだわ

まだあ?






男「……んじゃ、そういうことだから。別にいいだろ……とにかく帰らないから。大事なことあんの。じゃ」
ぷちっ。





女「……ん」

男「あ……起こしましたかね」

女「…………」





見間違いではなかったらしい。
ポロポロと、珠のような頬を伝う雫。

男「ああ」

ぽた、ぽた、……、ぽた、……





彼女を現実からは守れないのだろうか。

どんなに肌を貼り付けても、独りの心地なのだろうか。

それとも、ここにいる自分が惨めになったのだろうか。




男「っ。どれも……」


どれも、違うだろう!

……違ってほしい。



女「…………」

綺麗で、たっとい顔がある。
いつの間にプルプルしていた拳と太ももを抑え、鎮める。
そっと頭に掌を乗せると、震えと共に苛立ちが吸い取られていくような、そんな気がした。



男「……」

ぽろ、ぽろ……

男「っ」

またこぼれていく。
ふとすると震えてしまうこの手は、頬の光をすくうことも出来ない。
新人も派遣も笑えるものか。俺は無力だ。


……

女「ん……あ、おはようございます……」

男「――おはようございます。」

女「? ふふっ……」





……夕飯のカレーは、彼女の食べっぷりとは対照的に、ロクに食べた気がしなかった。
色々足しても、所詮レトルトだ。




男「はぁ……」

ギュムッ。
安飯。



ガラガラ……ピシャ。

女「お風呂……空きましたよ」

男「はい。歯ブラシ、そこにあるので使ってください。じゃ」



ガラッ、ピシャ。


女「あ――」




女(……ありがとうございますも、言えませんでした)

女(彼に……なにか、したんでしょうか。わたし……)




ガララ……



女「あ」

どこか物憂げな表情から、ふわりと優しい笑みに変わる。
彼女は既に布団に潜り、寝床を温めていた。


女「おかえりなさい」

男「ただいま戻りました……」

シャワーを浴びている間も結論は出なかった。
彼女を帰したいのか、帰したくないのか。
帰した方がいいのか、帰さない方がいいのか。

今日も寝るのか寝ないのか。


男「……俺、コタツで寝た方がいいですかね?」

女「えっ」

男「いえ、お疲れみたいですし。あなたが癒えるのにも時間が要ると言うのであれば、その方がいいのかな、と」

女「それで……だんまりだったんですか?」

男「……」



女「……わたしが、何も大事なところを……原因を。言わないから分からないのは、確かにそうだと思います」



女「でも。今までみたいな時間なんて、もう要らないんです。飽き飽きしてるんです」

女「遠まきに腫れものみたいに扱われるだけなら……ここには居れません」

男「そ、そういうつもりじゃ……」




女「わたしが隣でうたた寝してから。あなたの顔も、ものすごいつまらなそうでした。話し掛けても、ご飯食べても。わからないですかね」

女「なにか、してしまいましたか、わたし。出掛けてる時も、昨日いっしょに眠った時も、あなたは楽しそう、というか……柔らかい雰囲気だったのに」



女「もしも、わたしのこと以外で嫌なことがあったのなら……わたしにも何かさせてくださいよ」

女「あなたがそうしてくれるように。」


男「俺は、何も」

男「だって……泣いてたじゃないですか」

女「あ……」

男「それで、このままで良いのかなと。あなたの為になるのかなと」

男「つらいのが治らないなら……俺が居る意味なんて、無いなって」




そこまで告げる。
すると、彼女の顔は一転優しくゆるんだ。
脈絡が分からず、俺はキョトンとする。



女「寝てください。いっしょに」

男「……なんでですか?」

女「その方が、明日最初に見る顔が素敵になりそうなので」

女「わたしと寝るの、嫌ですかね」

男「い、いえ」




今度は背中合わせではなく、肩を寄せるように……同じ布の中へ。
……温かい。

女「あなたが、怖いものから守ってくれるって。それを夢うつつで聞いた時、本当にうれしかったんですよ?」

2人がこの部屋でずっと寝られますように




女「ふと、目が覚めて」

女「横にいてくれて」

女「本当にずっといてくれたって分かって」




女「深く眠ってしまうと怖くなって、夜中の2時に跳ね起きて。時計を見て、遅刻じゃないと胸を撫で下ろして。」

女「夢の中で職場の内線が鳴って、自分が受け答えする寝言で起きて。代わりに取ったスマホを投げたくなる衝動に駆られて。」

女「休日なのに、休み明けの仕事が気になって目が覚めて。嫌なこと思い出して、心臓が握られるような心地がして。」




女「でも、昨日も今日もそんな事ない……怖くない」

女「なにもしてないだなんて、ないです。ないんです」

女「本当に、あなたが……守ってくれてるんです」



彼女の言葉は控えめなようだが、いつも一途でまっすぐだ。
簡単で短い言葉の切れ端をつないで、その強さを伝えてくる。



男「……本当ですか」

女「ホントのホントです。うれしくて、心地よくて」

女「頭に置いただけの手が、あんなにも温かくて」

女「だから、その……まぶたが熱い、にじむと思ったら、こぼれていました」

女「勘違いさせてごめんなさい。」



寝ながらに彼女は感涙していたのだ。
それも、俺がいることで。

男「いえ。こちらこそ、ごめんなさい」

謝りはするけど、頬はゆるむし目尻も下がる。嬉しいし照れるし、とても満たされた気分になる。
恥ずかしいからと目も閉じれば、昨夜の安らぎがすぐに思い出された。


女「……泣いたのなんていつぶりか分からなくて、スッキリしました」

男「ふふ。胸、貸しますか?」

女「今のはちょっと邪ですね」

男「あ、分かりますか」

女「はい」



女「……んっ!」
ガバッ!



男「あの」

女「貸してくれるんじゃ、なかったんですか?」

男「いや、その。よこしまだって言ったじゃないですか」

女「いやとは言ってないですよ」




女「ん……ふ」

柔らかい髪を、胸板にぐりぐりされる。
こそばゆい。それと、ぞわぞわする。
小さくない胸がわき腹に触れている。

やばい。

女「今朝みたいに……また、いいですか?」

あ、ヤバい……。

早く抱きたい女だな



きゅ。

女「んっ」

あっ、と思った時には遅かった。
つい彼女の首に両腕を回してしまう。
腕の中の感触に、たまらなくなる。

ぎゅっ……


衝動的に強く抱き締めそうになるのを、理性でなんとか押し留める。
このまま強くしたら潰してしまいそう……なんてことを考えてる。
もう、離すことなんて考えてない。

女「ふ……」




彼女は何も言わない。
しかし吐息が半音高い。
嬉しそうに頬を擦り付け、ちらちらとこちらを見上げる。



女「…………」



ぎゅうう……

女「!」

ついに遠慮なく抱き締めた。

そのまま、おそるおそる彼女の頭に顔を寄せる。
なんの香りか認識する前に、鼻孔に来る刺激だけで衝動や熱がぶわっ、と膨れあがった。
しかも、酷くいい匂い。同じシャンプーのはずなのに。


女「か、嗅がないでくれますか」

男「いえ……だって、ダメですよ」

クンクン




その通り。
これはいけない。
ダメになってしまうやつだ。

分かっているのに腕がほどけない。
分かっているのに顔を寄せてしまう。
分かっているのに、密着した身体を意識してしまう。



男「ダメですよ、これ……」

女「その、寝れませんよ……恥ずかしくて……」

男「まだ、眠くないので付き合ってください……」

女「あなただって、ダメですよ……? ダメですから、こんなの……」

男「眠れませんか……?」



女「とても……どきどきして」

男「おれもです」

女「すごく、きこえます」



……ぎゅううっ!



女「っ、く」
男「……っ」

わきの下を締める、小さくて細い指。
猫のように、くたりとしなだれかかる首。胸。おなか。
そこにいると分かる、女体の重さ。


少し苦しそうと分かってても離せない。
むしろ貪りたい。

どこを……?



すり、すり……



足先で足の甲をくすぐってきた。
疼く。
もうダメだ。


男「――」


理性が飛ぶってこういうことだ。
理性はどこへも飛んでないんだ。

勝手に動いて止まらないんだ。





むぎゅっ!




女「はぅ……!?」


甘く切ない呻きが、胸で広がる。
俺の掌は、背中から腰をわしづかみにし、熱い滾りのそばまで抱き寄せていた。


男「声……いいです」

ぎゅう! むに、ぎゅむ!

女「まってくださ、あう、あうぁぅ……」

胸郭にソプラノが響く感覚が、ひどく俺の男を満たした。

男「すごい……かわいい」

女「う! の、あの、っ!」



わき腹と腰をなぞるたび、首の後ろをかき抱くたび、彼女は声と身体を甘く震わせ、再度ねだるようにきゅうきゅうと抱きつく。
ああ、いい。


美味しそう。
いい匂い。
食べてしまいたい。


頭に浮かび上がる渇望たち、なるほど狼さんとは暗喩ではなかった。
欲情と愛情をシェイクした衝動は、実に猟奇的で情熱的だ。


ぐいっ!


彼女は俺の知らないことを教えてくれる。


男「顔、見たいです」

女「や、いや、はずかしいです……」

男「いえ、綺麗で、素敵です。ほら」

女「!」


胸同士を擦り合わせる位置まで抱き寄せる。
はらはら落ちる彼女の髪が、俺を覆い包むようなとばりになった。
そのうちの前髪を、指にかけ、どかす。

女「あ、ぁ……」

頬を血色に染め、喉を鳴らした、見るからに切ない女。
愛しい女。
あ、今愛しいって言ったか?




まあ、いいや。

いい





女「んっ……!」



男「…………」

女「んん、んっ」

男「……ん?」



唇の感触より、かかっていた体重が軽くなった事が気になる。
胸に添えるようにしていた腕とひじが、自重と緊張のために震えていた。



男「ふはっ。肩、すごい力。身体、預けてくれますか」

女「あ、ああ……はい」

男「……合わせるだけで、いいですから」

とさっ、と胸の中に身体を戻してくれる。




女「――。」

男「ん」

女「ん……」




隣り合うだけ。
柔らかさも感じないほどの淡い触れ合い。
しかし、閉じた息の中で、強い鼓動の音が脳裏に聞こえている。


胸が高鳴るだけのキス。


女「ん、ふ」

男「ふふ……」

女「んぅ、ん。んふふ」

甘い上澄みの、贅沢な口付け……


男「……んっ」
女「んんっ……!?」


だけでは我慢できない。

舌で口を開けていくんだ

まだかなー

待ってたんだけどな

はよ

マダー?

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