「路地裏で猫を撫でたら、不思議な場所へ着いた」 (15)


「やぁ、美しくうら若き乙女よ。紅茶でも飲むかね」


目を開ければ猫。
そいつは確かに口を開いて、手に持ったカップを掲げて紅茶を勧めてきた。

神崎 篠(かんざき しの)は心臓が止まりそうになった。

猫にしては随分と大きい。
黒いローブの下からでも主張しているでっぷりとしたお腹に、中世のヨーロッパを思わせるくるりと巻いた口ひげが何とも愛らしい。

少なくとも危険ではない事は悟ったが、篠は状況が掴めず辺りを見回した。


「ここはワシの家じゃよ。そこの戸棚にあるのはほれ、冬用のジャムの蓄えじゃ」

「あの……」


猫が立って喋っているだけでも十分怪奇現象だが、彼女は色々をぐっと押し殺し、口早にまくし立てた。


「ここはどこ?!私、あれ?!さっきまで猫を……」

「ははは、まあ掛けたまえ美しくうら若き乙女よ、もてなそう。ワシも久々の客人で心がうきうきしているのだ」

「ねえ、ちょっと!」

「はは、細かい事はいい、いい。今君の紅茶を取ってこよう。秋のボーデン樹の蜜を入れようね、きっと気に入る」


額に汗を浮かべた篠とは対照的に、老猫は穏やかだった。


「ここ……どこなのぉ……?」

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どこに危険じゃないと悟る要素があるのかね?


「……それで、そのシンガクジュク? とかいう建物の近くの隙間に入り込んで猫と遊んでいたら、気が付けばここにいたと」

「ビミョーに違うけど、もう何っ回も説明したからそれでいいです」

「はっはっは、ならば細かい事はいい、いい」


タップリと名乗るその猫は愉快そうに口ひげを震わせた。
何とも大きな腹に似合った名前である。

彼女が『飛ばされた』のは、どうやらこの猫の屋敷にある応接室らしかった。
一つの樹をくり抜いて造られたらしい、継ぎ目のない椅子が四脚と、透明な水晶で出来たテーブルが部屋の真ん中に置かれており、
周りには骨とう品や本棚や、タップリの身長程もありそうな大きな樽が置かれていた。

見れば見るほど不思議な空間だ。
部屋の隅にある大きな支柱の周囲では、小さな星々がゆっくりと軌道に乗って回っていた。

タップリのマイペースさに一時は声を荒げた篠だったが、勧められるままに口にした紅茶の不思議な甘さに、自然と気持ちは静められた。


「しかし珍しい、尻尾も耳もないとは」

「私がさっきまでいた所だったら、猫が立って話して紅茶飲むなんて有り得ないんですけど」

はよ!


「はっはっは、猫は立つし話すし、紅茶も飲むじゃよ」

「夢でも見てるみたい」

「それから、きちんと仕事もな」


タップリは棚から一冊の本を持ってくると、篠の前に置いた。


「ワシは『不思議文学』という分野の研究をしておるのじゃ」

「ふしぎぶんがく……」


馴染みのない言葉に首をかしげる篠。
しかし本の表紙に書かれた文字を見て、一つ驚く事があった。


「『不思議文学のふしぎ』……著 アマカラ タップリ……」


知らない文字なのに読める。
一つ一つの文字に見覚えはなかったが、書かれた意味は直感で理解できた。

算数の問題で、計算をすっ飛ばして答えを思いついたような、奇妙な感覚だった。


「不思議文学はこの世に存在している『伝説』や『神話』のうち、文字に関係するものの正体を突き止めたり、古文書の失われた言語の解読なんかをする、ひっじょ~~~~に知的で面白く不思議な文学なのじゃよ」


文字の事が気になり、タップリの力説する不思議文学の魅力は半分も頭に入らなかった。
説明がひと段落するとタップリはふう、と息を吐き、空になった紅茶のカップを持ち上げた。

「ま、行く当てがないのなら家に住んだらええのじゃよ。退屈はせんぞぉ、何せ不思議文学者の家じゃからな」

「あの、とても嬉しいんだけど!……私も、帰らないとお母さんが心配するし」

「ふむ、帰り方は分かるのかね?」

「えっと……電車とか新幹線とかって……」

「電車はあるがね、多分カノンの知っている駅名はないと思うじゃよ」


カノン?
聞きなれない呼ばれ方に再び首をかしげたが、タップリは何も言わずに応接室を出た。
しばらくして戻ってきた彼は、手に路線の地図を持っていた。


「ほれ」

「あ、ありがとう……」


そこには、やはり見た事のない駅名ばかりが戦で繋げられていた。
『風の分岐点』『狐尾っぽ』『猫尾っぽ』『クリーム木星町』『キナコもち市場』……


「やはり分からんか」


篠が首を振ると、タップリはため息をついた。


「ほいじゃ、帰り道も分からん事だし、当分はゆっくりして行きなさい。幸い春の入りでジャムも多いしの」

「あの、」

「はっは、誰かと暮らすのなんぞ何十年ぶりじゃて。カノンの部屋は後で案内するでな、ああ服は出ていった娘のを貸すから、今着てるのは畳んでその辺にまとめておくといい。それから――」

「えっと、」

「食器は何組かあるで、問題ないな。そうだ街へ行こうかの、何か買ってあげなければ」


急にうきうきと喋り出したタップリに、中々口を挟めない篠。
タップリの中ではもう篠がここに住むことは決定したようで、手を揉みながら古着を取りに行こうとした。

ここを出たところでどうせ行く当てもなく、帰り道も分からない。
置いてもらえるならそれ以上の事はないと考えた篠は、一つだけ気になっていたことを口にした。


「あの!」

「ん?」

「何で私の事『カノン』って呼ぶの?」

「はっは、君は『神崎 篠』だろう? だからカノンだ。よろしく、カノン」

「略して……?」

「名前など、皆そうして決まるのじゃよ。さて、着替えたら街だ。馴染みの店でカノンに似合うものを買ってあげよう」


カノン。
篠は小さく口に出してみる。
何かの曲名だったようなその言葉は、不思議と耳に心地よかった。

新しい世界と、新しい名前。
不安より好奇心が勝り始めた彼女は、再び早くなっていく鼓動を感じながら、大きな猫の後をついていった。


季節は春の入口。
窓の外では茎の光るタンポポの群生が、風に揺れて煌めいていた。


―§1 綺羅星とレンズ―


前に終電を寝過ごしたら~を書いてた人?

>>9
そうです!
覚えててもらえてうれしいです

前作もよかった期待


タップリの案内でクリーム木星町にやって来た二人は、彼の馴染みの店があるという商店街まで足を運んだ。
身体を包み込む金木犀の花の香りがなんとも心地よい。

辺りの木々には薄い黄色の花が小さく咲き乱れている。

小さい頃に祖母の家の庭で嗅いだのを最後に、随分とご無沙汰していた。
新宿では縁のなかった香りが懐かしく、カノンは胸いっぱいに吸い込んだ。


「昔嗅いだ金木犀より、優しい匂いがする……」

「ここの金木犀はクリーム木犀という種類で、花は橙じゃなくてクリーム色なんじゃよ。季節も金木犀とは反対に春咲きの花じゃ」


タップリ達の住む『風の分岐点』という町は、深い『森』に覆われた町だったが、この町は反対に『市街地』だった。
道はきちんと舗装され、植えられた街路樹は先ほどから香るクリーム木犀である。


「不思議な町……」


カノンはぽつりと呟いた。
道の行きつく先に建てられた家々は、お茶碗をすっぽりと地面にかぶせたようなドーム型で、クリーム色の外壁に様々な色の屋根が乗っている。

行き交う人々は多くが猫。
ローブを被っているのも、今風なファッションの女の子も、パリッとしたスーツを着こなしたダンディも、皆猫。

ローブに耳用の穴が開いていたり、尻尾用に後ろに切れ込みが入っているのには感心した。


「わ、すごい!」

「ほっほ」


しばらく続いたドームの街並みを抜けると、目の前にアーケードが見えてきた。
元の世界の商店街に似た構造で、天井にはガラスが張られ、道の両側には所狭しと様々な店が並んでいた。

『店主がマタタビ酒を飲みすぎたため本日は休業です』

ふと見たシャッターにはそんな文言が張られていた。
相変わらず直感で文字の意味がわかる違和感に襲われるが、店が酒屋だということに気付いてカノンはクスリとした。

店の酒でも飲んだのだろうか。
それとも、友達と居酒屋で飲みすぎでもしたのだろうか。

歩く猫たちのそんな人間らしい様を想像すると、不思議と笑いが込み上げてきた。


「いろんな店があるのねー」

「ここは50年の歴史を誇るふるーい店が多いのじゃよ。ほれ、そこの網焼きせんべいの店なんかはワシの知り合いがやっとるが……」


タップリが「おーい」と手を振ると、網の上でせんべいを焼いていた主人は手を止め、すすと汗だらけの額をぬぐった。


「いよータップリのォ。横にいんのぁおめーのてんつぶ(この地方の方言で「子供」)かぁ?!」

「そんな訳ねーのじゃよ! しっかし久しぶりに会ったと思ったら、相変わらず網焼きばっかり作っとるんだなあ」

「がはは、俺あこれが好きなのよ!」


豪快に笑う店主は、名をゴマと言った。
無精ひげの生えたトラ猫で、頭に鉢巻を巻いている。


「元気そうでよかったのじゃよ。網焼き二つくれ」

「あいよう、あんがとなっし! 銀貨2枚な!」

「何、この朋友から金を取るというのか」

「がははは、朋友なら銀貨2枚ちゃちゃっと出さんかいや!」

「ほっほ、違いないのじゃ!」


タップリは耳の二つ付いた白猫型の小銭入れを懐から出し、銀貨をゴマに手渡した。


「ほらよっ、嬢ちゃん火傷すんなよ!」

「ありがとう!」

「ほっほ、美味そうなのじゃ」


カノンは湯気の出るせんべいを、息を吹きかけながらそっと一齧りした。


「あっ、あふっ、おっ、美味ひい!」

「ふほっ、ふ、じゃろうカノン!」

「がははは、何でお前が言うのだタップリ」


網焼きせんべいは砂糖の練り込まれた焼き菓子で、せんべいというよりは表面がサクサクとしたカステラの味に近い物だった。


「ほんじゃ、また来んさいよっ」

「ほほ、しばらくは来んよ、ゴマ」


ゴマと別れた二人(一人と一匹)は網焼きせんべいを齧り齧り、アーケードを散策した。

ゴマのように威勢よく声を張り上げる猫、路上でアクセサリーや小物を売る爺さん猫、行列の出来た食べ物屋。
幾度となく通り過ぎたそれらは、カノンにとってどれも目新しいものだった。


「タップリ、私こんな素敵な場所に来たの、初めて!」

「それはよかったのじゃよ、カノン」


『地球』にこの猫を招待したら、今の自分のように反応するのだろうか。
ふと思いついた疑問は、一見素敵なことのように思えた。

行き帰りの方法がわかったら、タップリにも新宿を見せてあげたい。

でも、猫が服を着て歩いていたら、きっと騒ぎになるだろう。
写真を撮られてネットに挙げられるだけでは済まないかもしれない。

そこまで考えたとき、カノンは、歩く猫々が全く自分を見ていないことに気付いた。
ハッとしてタップリの方を向く。


「ねえタップリ」

「ん?」

「みんな私の姿に驚かないけど、なんで?」

「? 何を驚くことがある」


タップリは不思議そうな顔で答えた。


「皆姿も声も性格も違う。耳のないものや体が長いものや声が高いものや不思議で恐ろしいものを、ワシはたくさん見てきた。姿かたちが違うことで、何を驚くことがあるのじゃ」

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