屋上に昇って (1000)
校舎裏で青春ドラマが始まったのを、部室の窓から見下ろしていた。
時刻は午後三時四十分。
「告白?」
となりからの声に、俺は曖昧に頷いた。
「それっぽいよなあ」
園芸部が管理している畑のそば、
裏庭にひろがる雑木林の手前くらいに、男子と女子の背中がひとつずつ。
たぶん、下級生だろう。
どことなくだけど、そんな感じがした。
快晴とまではいかないが、天気は晴れだった。
最近は日も長いし、四時前の時点じゃまだまだ明るい。
東校舎三階の窓から、裏庭の様子ははっきり見える。
声までは聞こえないし、顔まではわからないけど。
がっつり覗きたいってわけでもない。
ある意味ちょうどいい距離感とも言える。
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「ロケーションはそこそこだね」
なんて偉そうなことを、窓から顔半分をつきだした出歯亀女が言った。
かくいう俺も出歯亀男なわけだけど。
「そう?」
「放課後、校舎裏、ふたりきり」
「はあ」
「言葉だけでもドキドキしない?」
「どうかなあ」
覗きがいるぜ、って言おうと思ったけど、やめておいた。
言わぬが花って言葉もある(ちょっと違うか?)。
どうでもいいことを考えているうちに、眼下のふたりに変化が起こった。
「あ、手握った」
言葉のとおり、ふたりは手を握り合っていた。
というより、片方が片方の手を掴んだらしい。
三秒、四秒……。
見ていられなくなって、視線をはずして窓から離れた。
窓際から距離をとって、わざとらしく伸びなんかして見せると、覗きの相棒は不満げに唸った。
「なーにさ、冷めたふりしちゃって」
口を尖らせている。
俺は気取って肩をすくめた。
「こっ恥ずかしくて、見てらんないっすよ」
「やーね、そこがいいんじゃない?」
ワイドショーを見たがる中年の主婦みたいに、彼女はにへらっと笑う。
それから、覗きにも飽きたんだろう、体を屋根の内側にしまいこんでから、窓をピシャリと閉めた。
ちょっとアテられたみたいな疲れた声音で、彼女は呟く。
「いいよねえ、新入生には未来があってさ」
「俺らにだってあるでしょうよ」
俺の言葉にすぐには返事をせずに、彼女は窓辺を離れた。
ちんまい体で跳ねるように歩き、定位置のパイプ椅子まで戻ると、
くるっと翻った勢いのまま体を落として座る。
彼女のそういう動作はなんとなくおかしくて、見ていて飽きない。
去年、本人にそんなことを直接言ってみたら、
「見物料払え! 一回百円だぞ!」と脅されたものだった。
よおしと思った当時の俺は、財布から取り出した千円を彼女に手渡して、
「じゃあやって見せて。最初のは引いて、残り九回ね」と焚き付けてみたりした。
彼女は困ったような怒ったような顔になって、
しばらく唇を物言いたげに動かしていたかと思うと、
最後には「うがー!」とバカみたいに吠えて、俺に野口を突き返してきた。
「あのねえ、たっくんさ、ちょっと考えてもごらんなさいよ」
おどけた口調、わざとらしい呆れ顔。
今度はどこかのコメンテイターみたいなすかした感じで、彼女は言った。
"たっくん"は、俺のことだ。
「彼らは高一」、と既に閉めきった窓の外を指さして彼女は言う。
次に自分の顎を人差し指でつっついて、「うちら高二」とけだるげに呟いた。
「ほーらね?」と彼女は得意顔になったけど、俺にはよくわからなかった。
「つまり、どういうこと?」
「たっくん、カレンダー見て」
五月。
「五月だね」
「そう。五月。うちらにしたら、高二の五月。彼らにしたら?」
「高一の五月」
トン、と両足を揃えてふたたび立ち上がると、彼女はツタツタと窓辺に歩み寄った。
「分かる? 彼らにはこれから、高一の初夏、梅雨、夏、夏休み、秋に冬……が、あるわけ」
「はあ」
「わたしたちにはある?」
「ないね」
「そう。ないの。ないのよ。一生に一度の高校一年生の学校生活は、うちらにとっては過去ってわけ」
はー、とこれみよがしに溜め息をつく女子生徒。名を高森 蒔絵と言う。
中学時代のあだ名はマッキー(だったとかなんとか)。
以前、気まぐれにそう呼ぼうとしたら、
「次にその名で呼んだら呪う」と、哀しみのこもった瞳で睨まれた。
けっこう嫌だったらしい。
代替案として、タッキーとかモリリンとか、そういうあだ名を提案してみたこともあるけど、結局ぜんぶ棄却された。
「普通に呼んで」と懇願されてからは、特に理由がないかぎり彼女のことを「高森」と呼ぶことにしている。
ちょっとつまらない、と思う。
そんな高森と俺はいま、東校舎三階の一角にある文芸部室にふたりきり、だ。
見ようによっては青春ドラマ的と言えなくもないかもしれない。
「放課後、文芸部室、ふたりきり」
と、さっき高森がやったのと同じ調子で試しに呟いてみると、彼女は目を丸くして、
「はあ」
と溜め息のような声をもらした。
「言葉だけでドキドキする?」
「言葉だけならね」
手厳しい。
まあ、俺だって、いまさら高森と青春ドラマが発生するなんて思っちゃいない。
べつに付き合いが長いってわけじゃないけど、一年一緒にいても相手を意識するようなことも起こらなかった。
入学したときクラスが一緒で、部活も同じところに入ったから、自然と顔を合わせる機会が増えたってだけ。
よく言えば気さく、悪く言えば馴れ馴れしいって感じの高森は、受け身がちな俺にとっては話しやすい相手だ。
本人には言わないけど、結構ありがたい存在だったりする。
「なーんかこう、ああいう青春ドラマを見せられると、うちらは去年一年間で、いったい何をしたっけって思うよねえ」
「勝手に一人称複数にしないでくれる?」
「思わないの?」
「べつになあ」
「充実してた?」
「……ってわけでも、ないけどさ」
高森はつまらなそうな顔をしていた。
でも、俺は自分の高校生活の一年目に、これといった不満があったわけでもない。
クラスメイトとの仲だって悪くなかったし、これといったトラブルに巻き込まれた記憶もない。
派手に遊んだり騒いだりってこともなかったし、恋愛関係の出来事なんて皆無だったけど、けっこう楽しかった。
「じゃあ、高森はああいうことしたかったわけ?」
「ああいうことっていうと?」
「つまり、放課後、校舎裏、ふたりきり、みたいなこと」
「そう言われると、そうでもないんだけどね」
肩をすくめて、高森は溜め息をつく。そこで会話は終わった。
文芸部室にふたりきり。もともと部員数の少ない部活だけど、今日はいつもより人数が少なくて、なんだか気だるい。
本を読んで、ときどき適当に何かを書いて、あとは年に四度、部誌を出すだけの部。
退屈ってわけでもないけど、情熱を燃やすような部活でもない。
「彼氏ほしいなあとかも思わないんだよね、不思議とさ」
「そういうもん?」
「自分の時間が減っちゃうからなあ」
「趣味人はたいへんだねえ」
からかうつもりもなくつぶやくと、彼女はジトッとした視線をこちらにぶつけてきた。
よくは知らないが、高森は昔からネットゲームにハマっていたらしくて、そのなかで友達がたくさんいるらしい。
「土日は経験値が二倍だから、出かけたくないの」
結構前に、そんなことを言っていた。
未知の領域。ゲーム内ではネナベの友達と結婚しているらしい。
「たっくんはー?」
「たっくんいうなマッキー。……なにが?」
「マッキーいうな。彼女ほしいとか思わないわけ?」
「思わないって言ったら、負け惜しみって思う?」
「べつに。きみ性欲なさそうだし」
いやあるよ、と否定しそうになって、思いとどまる。
からかわれるのが目に見えていた。
「……俺だって思春期っすよ」
「じゃあ、好きな子とか、いるの?」
なんてことない世間話、暇つぶしのための話題振り。
いかにも『どうでもいいです』という高森の態度に、ちょっとむっとしつつ、それでも少し考える。
と、一瞬、脳裏をよぎった女の子がいたけど、すぐに振り払った。
「いませんな」
「いませんか」
ほうほう、なるほどね、と、何度もわざとらしく頷いたあと、ありもしない眼鏡を直す手振りをして、
「うそだな」
と高森は言った。
「なにゆえ」
「うそつきのスメルがした」
あっさり看破しやがって。
「年上? 年下? 同い年?」
「……」
「……年下か」
「エスパーか、きみは」
「やーい、年下年下ー」
「子供かよ」
からかい方が意味不明だ。
「べつにそういうんじゃなくて、昔ちょっと……」
「ふうん?」
つっついてきたくせに、高森はたいした興味もなさげに相槌を打って、それ以上は何も言ってこなかった。
「それにしても、部長遅いね? どこまで行ってるんだろう」
「部員が非協力的だから、拗ねてるんじゃないの」
「たっくん、だめじゃん」
と高森は言った。
「そうだぞ、たっくん」
と俺も虚空に向かって話しかけてごまかそうとしたが、高森は相手にしてくれなかった。
むべなるかな。
「しっかし、まだ五月だってのに暑いねえ」
「まったくだ」
ぼやいてから、ふたりそろって黙り込んだ。
話題も尽きた。無駄話だっていつまでも出てきやしない。
高森は落ち着かないように部室を歩きまわって、また窓を開けた。
吹きこんだ風が日に焼けたカーテンをふくらませる。
気だるい熱気と薄暗さのなか、午後のゆるやかな風は干したての布団みたいに気持ちいい。
黙っていたら、居眠りしそうなくらいだった。
◇
「ただいま」という静かな声で、俺の意識は浮かび上がった。
すぐに、自分が座ったまま眠りかけていたことに気付いた。
「あ、おかえりなさーい」
高森が部室の入り口に向けて手を振った。
視線を扉の方に向けると、部長が戻ってきたところらしい。
文芸部部長は三年女子。物静かで取っ付きづらい印象がある。
顔立ちは綺麗だけど、どちらかというと冷たそうな感じがする。
表情も変化はあんまり多くない。
片側だけ耳にかけられた前髪が、気の強そうな雰囲気に拍車をかける。
話しづらそうだな、というのが第一印象だった。
あくまで、第一印象、だ。
部長は自分の定位置のパイプ椅子に腰掛けて、長めの溜め息をついた。
傍においてあった自分の荷物から下敷きを取り出したかと思うと、うちわ代わりに仰ぎはじめる。
よっぽど暑がっているらしく、額には汗が滲んでいる。
下敷きがつくった小さな風が、肩のあたりまで伸びた黒い髪をさらさらとなびかせていた。
「ずいぶん遅かったですね」
べつにたいした意味もない言葉だったのに、部長は「よくぞ聞いてくれました」という顔で口を開いた。
「それがね、先生に見せたら勧誘の文句があれじゃダメだって言われて……」
「描き直したんですか?」
「もうめんどくさいから、文字書いたところ塗りつぶして、そのうえに新しく書いちゃった」
あいかわらず、見かけに反して豪快な人だ。
「だから時間かかったんですね」
「そうそう。職員室でペン借りて三十秒で終わらせたんだけどね」
「はは」
と俺は適当に笑った。高森も「ははは」と笑った。
そのあと俺たちふたりは黙りこんで、静かに視線を交わす。
……三十秒で終わったなら、何に時間が掛かったんだ?
少し気になったけど、考えないことにした。
降って湧いた沈黙のなか、部長は首をめぐらせて視線をあちこちにさまよわせはじめた。
「あれ、ゴローくん、帰っちゃったの?」
部長の問いに、俺と高森は目を見合わせた。
俺が黙っていると、高森が答えてくれた。
「よくわかんないですけど、帰っちゃいました」
「なんで?」
「なんか、『ミートソースとボロネーゼの違いが分からない』って打ちひしがれてて」
高森の言葉に、部長は一瞬硬直した。
「……え、名前が違うだけじゃないの?」
「そうなんですか?」
「たぶんだけど。だってミートソースって英語でしょ。イタリアだとボロネーゼって言うんじゃない?」
「あ、ミートソース……あ、そうですね。英語ですね、ミートソース。そういえば」
「でも、こないだ行ったお店だとメニューに別々に載ってましたよ?」
「え? じゃあ何が違うんだろうね」
……すごくどうでもいい会話だ。
こほん、と部長が咳払いをする。
「そんなわけで、一応ポスター掲示板に貼ってきたから」
気を取り直すように背筋をピンと伸ばして、俺たちふたりの顔を順番に見てから、部長はそう言った。
「お疲れ様です」という俺の声に、「でもいまさらですよねー」という高森の声が重なる。
「そうなんだけどね。仮入部期間も終わっちゃってるし。でも、先生うるさいから」
いかにも真面目そうな態度、落ち着いた表情なのに、話す言葉はあまりに普通。
俺のものの見方が妙な先入観に侵されているだけなんだろうけど、
部長が普通のことを喋るたびに、それを聞くのが少し楽しい。
「それにしても、勧誘の文句、ダメだったんですか」
「そう。ごめんね、せっかくふたりに考えてもらったのに」
「全然いいですよ」と俺は曖昧に笑う。
自分がどんな提案をしたのか、既に覚えていなかった。
なんとなく高森に視線をやると、彼女は彼女で、
「なんて書いたんだっけ?」
とぼんやり首をかしげていた。
ふたりの視線が俺に集まる。
沈黙。
「……忘れた」
また沈黙。
やがて、部長がくすくす笑った。
「……えっとね、最初は、"まったりしましょう"でいいってタクミくんが言って」
タクミくん、も俺のことだ。
「蒔絵ちゃんが、それじゃ面白くないって言って、"レッツまったりトゥギャザー"にしようって言って……」
「……うわあ」
俺は自分たちのセンスのなさに身震いした。
高森の方に視線をやると、彼女もまた「トゥギャザーはないわ……」と頭を抱えていた。
「はは、トゥギャザーって、文章からにじみ出る頭の悪さが文芸部とは思えないな」
俺はひそかに自分を棚にあげた。
「頭悪いって失礼だな。……というか、たっくんもわたしの案、『最高!』って褒めてたじゃん!」
「え、そうだっけ?」
「うん。『お、いいじゃん。グローバリゼーションだよな、やっぱ』とか言ってさ」
「……たしかに言った気がする」
部内は雑談のノリが軽いから居心地がいいんだけど、話す内容が悪ノリに流れがちなのが困ったところだ。
後になって自分の発言に悩まされることも少なくない。
「……で、採用された文章はなんだったんですか?」
部長はブレザーの内ポケットからスマホを取り出して、「ん」と画面をこっちに向けた。
どうやらポスターを撮ってきたらしい。
俺と高森は画面に向かって揃って顔を寄せた。
掲示板に貼られたポスターの写真。文面は以下のようになっていた。
「文芸部部員募集中! お気軽に部室まで」
担当顧問の名前と部室までの案内が、ポスターの右下にそっと添えられている。
勧誘文句の脇には、椅子に座って本を読む「考える人」の絵が描かれていた。
描いたのは部長だ。クオリティは無駄に高い。
「やっぱ部長、絵うまいっすね」
俺の言葉に、部長は「やー、そんなことないよー」と照れた感じで前髪を何度も直しはじめた。
自分の言葉で女の人が照れたと思うと、妙にうれしいのはどうしてなんだろう。
俺がそういうほのかな幸せを感じている横で、高森はちょっと不満そうな顔をしていた。
「……部長、日和りましたね」
「あ、ばれた? やっぱりちょっとおかしいよね。よく見ると足が短いもんね」
「絵の話じゃないです」
「え?」
「絵の話じゃないです。文です」
「え、文?」
「なんですか、この文……」
「なんかまずかった?」
「まずいっていうか……」
なんとなく、不穏な気配が広がった。
いったいどこが気に障ったのか分からないが、段々と彼女の声は大きくなってきている。
妙な緊迫感。
「高森、どうしたんだよ。べつに普通のポスターだろ、これ」
「だって、これじゃ――」
俺は生唾を飲み込んだ。
「――これじゃ、普通の文芸部みたいじゃないですか!」
大真面目な顔で、高森はそう言った。
俺と部長はあっけにとられる。
「……いや、普通の文芸部だろ、うちは」
はあ、と溜め息が出た。何かと思えば、くだらない話だった。
「そうだけど! だからこそ勧誘ポスターくらい面白くしたいじゃない?」
その結果がトゥギャザーだろ、とは言わないでおいた。
「大いに不満です。こんな定型文みたいな勧誘文句じゃ、部員なんて来ませんよ」
「うーん、そこはもともと、あんまり期待してないんだけどね」
部長はふわっと苦笑した。
「日和っちゃダメです、部長。五月ですよ。この時期にこんな文じゃ、新入生は興味も示しませんよ」
どうやら、テンションのスイッチが切り替わったらしい。
高森は妙な盛り上がりを見せ始めた。
対して、俺と部長のテンションは低空飛行を続けている。
顧問が「勧誘くらいしろ」とうるさかったのと、どうせ暇だったから、ってので作っただけのポスターだ。
新入部員が来るかどうかなんて、正直どうでもよかったりする。
「わたしたちは文芸部なんですから、文章には責任と誇りをもたないと!」
「……うーん」
部長が「ちょっとめんどくさいかなあ」という顔をしたので、仕方なく俺が高森に乗ってやることにした。
「責任と誇り?」
「仮にも創作活動をする部なんだから、借り物の言葉じゃ駄目なんだよたっくん!」
だからその結果がトゥギャザーだろ、と。
「たとえば、どんなのならいいの?」
俺の問いかけに、彼女は口舌をとめて真顔に戻った。
「えっと……」
「うん」
「東京モード学園のCMみたいな……?」
イメージからして借り物なのに創作活動とはよく言ったものだ。
なんてことを俺が言うより先に、
「創作は模倣からはじまるんだよ!」
高森は言い逃れするみたいに断言した。
「ふむ」
と俺は頷き、鞄から筆記用具を取り出した。
「じゃあ、今から考えてみるか。どんな文章ならポスターにふさわしかったか」
高森は目を輝かせて頷いた。
どうせ退屈していたのだ。暇つぶしの手段は多いに越したことはない。
乗り気になった俺たちふたりを見て、部長は、
「なんできみたちの熱意ってスロースターターなのかなあ」
と溜め息をついていた。
それから俺と高森は熱心にキャッチコピーを考え始めた。
やがて、せっかくだから作ってしまおうという話になり、部室の隅で埃を被っていたPCを起動する。
一応ネットには繋がっているから、そこから適当に、それらしいフリー画像をダウンロードして背景にする。
さすがに速度はあまり出ず、画像ファイルを落とし終えるのに数分かかることもあった。
部室の場所と顧問名を記載してから、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しつつ、考えたフレーズを入れてみる。
まずは夕焼けに染まる街をバックに、
「世界は君の言葉を待っている。」
と一言。
「おお、東京モード学園っぽいよ、たっくん」
「なんかテンション上がってくるな」
「……でも、たぶん、世界は新入部員の言葉なんて待ってないよね?」
まあ、たしかに。
「世界からしたら寝耳に水だよね、このキャッチフレーズ。『いや、別に待ってませんけど?』みたいな」
「じゃあ、『世界は君の言葉なんて待っていない。』にしとくか」
「うん、なんかそっちの方が文芸部っぽいかも」
文芸部っぽさってなんだろうね、と部長がぼそりと後ろで呟いたが、俺たちは聞こえないふりをした。
世界は君の言葉なんて待っていない。
大きめの明朝体。白字に黒い縁取りをつける。
「でも、ちょっと長いね」
「二行に分けてみる? こう、下の行のインデント変えて」
世界は君の言葉なんて
待っていない。
「なんか微妙だね」
「下の行が短すぎるな……」
「上の行を少し削ってみる?」
「って言ってもな。削れそうなのが『世界は』しかないぞ」
「となると……『君の言葉なんて待っていない』になっちゃうね」
「勧誘ポスターにそのフレーズじゃ、ただのツンデレになっちゃうな」
「たしかに……。縦の方がいいかもね。うーん、まあ、別のパターンも作ってみようか」
とりあえず、『世界は君の言葉なんて待っていない.docx』を保存する。
「じゃあ次……」
「あ、応答なしだ」
「また? 重すぎでしょこのパソコン。部長、先生に新しいPC買ってもらいましょうよー」
「どうせ普段使うのは軽めのテキストエディタだし、そんなに支障ないでしょ」
「部誌つくるときはワードじゃないですか」
「コンピュータルームに借りにいけばいいじゃない?」
「不便ですよー」
「部誌まとめてるのわたしだもん。蒔絵ちゃん、代わりにやってくれる?」
「……さて、たっくん、次いこっか」
「うっす」
「……薄情だなあ、ふたりそろって」
俺は聞こえないふりを続けた。
次の画像は綺麗な青空の写真を選んだ。
「綺麗な空の写真にそれらしいフォントでそれらしいこと書いとけば人目を引くよ。わたしなら見るもん」
と高森は言った。
誇りと責任はどこにいった、と思ったが、声には出さなかった。
「フレーズはどうする? モード学園系?」
「どんなのあったっけ……」
高森はルーズリーフを見ながら、しばらく悩んでいたようだった。
「じゃあこれ」
と彼女が指さしたものを、フォントをいじりながら入力する。
『原稿用紙の上に、法定速度はない。』
「意味が分からんな」
「意味の分からん爽快感はあるよ」
「うわっつらだけって感じが否めないっす」
「でもこれだったら、二行にしてもちょうどよさそうだね」
「空が背景になってる理由がさっぱり分からないけどな」
「いいの! 盗んだバイクで走りだす前に原稿用紙に思いの丈をぶつけてみるの!」
そもそも、うちは原稿用紙なんてめったに使わない。
「あと、これだと勧誘ポスターだってわかりにくいし、しっかり何のポスターなのか書いておこうよ」
監督の指示に従い、キャッチフレーズの下に小さめのフォントで『文芸部、部員募集中。』と追記した。
「ダッシュとか使ってみない?」
『――文芸部、部員募集中。』(明朝体、黒縁白字)
「やだ、こんなかっこいい部員募集ポスター見たことない」
「フォントと縁取り変えただけで結構ハイセンスに見えるな」
部長がうしろで溜め息をついたのが聞こえた。
「次行ってみよう!」
「ノリノリだな、おい」
「楽しくなってきた。次これね」
そんな調子で、俺と高森は適当な写真に適当な言葉を乗せるという作業を十数回繰り返した。
テンションが落ち着いてくる頃には四時半を回っていて、
その頃には俺の目もじんわりと疲れを訴えはじめていた。
「……たっくん、あのさ」
と、パイプ椅子にもたれて、顔を天井に向けたままの高森が声をあげた。
疲れた声、気だるい姿勢。机に顔をのせている俺も、たぶん、似た風に見えているのだろう。
「なに?」
あのね、と高森は言う。
「……すっごい徒労感」
「言うな……」
「どうする? このファイル……」
とりあえずデスクトップにフォルダを作り、完成したファイルを入れておいたが、用途は皆無だろう。
「貼ってきたらいいんじゃない?」と部長は言った。
「いやです。こんなの実際に貼れません。勧誘ポスターは自己表現の場じゃありませんので」
高森は部長の提案をあっさりと拒絶した。
じゃあなんで作ったんだ?
……問うまでもなく答えが浮かんだ。その場のノリだ。
「わたしは良いと思うけどな。『文章は、吃音症者が発しそこねた言葉の残骸だ。』とか」
「うわあああ!」
と俺は頭を抱えた。
十分前の自分が恨めしい。
「タクミくんが書くものって、だいたい思春期全開だよね」
「……し、思春期まっただなかの人間の言葉だけが、思春期の少年少女に届くんです! きっと!」
なるほどね、と部長は楽しそうにくすくす笑う。
「吃音症者に対する配慮が欠けてるよ!」と、横で聞いていた高森が唐突に口を挟む。
「たしかに」と頷いたものの、正直もうどうでもいい。
「……やっぱトゥギャザーが一番ダメージ少ないよな。笑われてもネタにできるし」
「たっくん、冷静になって。トゥギャザーも相当アレだったよ」
俺と高森は体力と気力を使い果たし、パイプ椅子にもたれるだけの脂肪の塊と化した。
部長はずいぶん前からひとりマイペースに本を読み始めていて、俺たちのことは一顧だにしない。
そんな静寂が二、三分続いたあと、高森は、
「あ」
と声をあげたかと思うと、勢い良く立ち上がった。
「どうした?」
「バスの時間。いかなきゃ」
「じゃあねー」と、部長が本から顔を上げてゆらゆら手を振る。
「おつかれさまですー、また明日!」
高森がバタバタと部室を出て行ったあと、俺と部長は静けさの中に投げ出された。
「さて」と、本をぱたんと閉じて、部長は立ち上がった。
「どうしました?」
「印刷しちゃおう、さっきのデータ」
「え」
口を開けた俺にむけて、部長はにやりと笑った。
「わたしの『偽・考える人』だけが衆目にさらされるなんて、どう考えてもフェアじゃないもんね」
「ちょ、っと待ってください。文をさらすのと絵をさらすのじゃ、だいぶ違いますって」
「違わない違わない。大丈夫、この部屋の壁に貼るだけだよ。悪用しないって」
「やめましょうよそれ、俺と高森、後悔と向かい合いながら生活するハメになりますって」
「それ、いいね。それもポスターにしちゃおう。『後悔と向き合いながら、生活する。』」
「無駄! 資源の無駄ですって!」
俺が必死になるのがおもしろいのか、部長はいつにもない笑顔でパソコンに向かいはじめた。
「ほんと、勘弁してくださいって。……ひょっとして、何か怒ってます?」
「べつに。わたしひとりにポスター作成任せたくせに今更やる気になるなんてむかつくとか、
さっきまで無視されてて腹が立ったとか、そういうんじゃないよ」
根に持たれていた。
「……あの、すみませんでした」
「うん。許す」
にっこり笑いながら、部長は印刷ボタンをクリックした。
旧式のプリンターがガッコンガッコンと不穏な音を立てながらA4用紙を吐き出しはじめる。
負い目があるので止めようにも躊躇するが、高森と俺の名誉の為に、どこかの段階で阻止しなければならない。
「部長……あの、勘弁してください」
「『ことばが、こころを守る。』」
「マジで勘弁してください!」
彼女は俺の懇願を尻目に、鼻歌まじりに印刷を続ける。
「あとで職員室のコピー機で拡大印刷しようね?」
「……分かりました。好きにしてください」
お手上げのポーズをして、俺は溜め息をつく。
仕方ない。こうなったら、とりあえずは一旦引こう。
俺が抵抗をやめる素振りを見せると、案の定、部長はつまらなそうな顔をした。
おそらく、からかって面白がっているだけなのだ。
あとは部長が飽きたときに、あるいはパソコンから離れた隙に、データを消してしまえばいい。
印刷されてしまったものに関しては……部長の行動に注意を払っておけば、晒しものになることは避けられる、はず。
「……ふむ。思ったよりいい感じだね」
プリンターが吐き出したポスターの出来栄えに、部長は感心していた。
「……環境省に怒られますよ」
「だいじょうぶ。ちゃんと使えば、無駄遣いじゃないもんね」
「……あのー」
「好きにしてって、言ってたじゃない?」
部長は完成したポスターをぺらぺら揺らしながら立ち上がった。
俺はうしろから静かに忍び寄り、部長の手から紙を奪い取ろうとする。
「おっと」という声と同時、彼女は体をひらりと翻し、後ろ手にポスターを隠す。
「やりますね、部長……」
「こう見えて、わたし、G級ハンターだから」
「……絶対関係ないですよね、それ」
意外な言葉に戸惑っているうちに、プリンターが次のポスターを吐き出しはじめていた。
とっさに伸びた俺の手より先に、部長がそれを確保する。
「『給水塔の鴉が、僕に何かを伝えようとしていた。――文芸部、部員募集中。』」
勧誘ポスターだということをすっかり忘れて、それらしいだけの言葉を並べ始めたのが敗因だ。
「捨ててきます」
「環境省に怒られますですよ?」
部長はわざとらしい敬語でそう言ってにっこり笑った。
ほんとに、いい性格してる。
「……仕方ないですね。俺も腹を括りましょう」
「やっと諦めてくれた?」
「ただし、俺のだけじゃなく高森の書いたものもですよ」
「うん。よーし、じゃあ下駄箱あたりに貼りにいこっか」
彼女が胸の前にポスターを戻したのを狙って、
「とったあ!」
と腕を伸ばした。
「おっと」
さっきと同じようにポスターは後ろに隠される。
惜しい、ちょっと掴んだのに、なんてことを考えられたのも束の間。
部長が「あっ」と声をあげた。俺が引っ張ったせいで、ポスターは彼女の手からすべり落ちたらしい。
A4用紙はひらひらと風に乗り、開けっ放しだった窓の外へと舞い降りていった。
「げっ」
「あーあ」
「う、うわあ!」
思わず本気の悲鳴が口からこぼれた。
窓辺に駆け寄って外を見下ろす。
校舎裏の草むらに俺たちの考えたキャッチフレーズがさらされていた。
「しーらない、と言いたいとこだけど、ちょっとごめん」
やりすぎちゃった、という顔で、彼女はぽりぽりと頭を掻いた。
「ちょっと取ってきます。さすがに文芸部って書いてあるし」
「そっか。ばら撒いたら勧誘になるかもね」
「美化委員に怒られますよ」
というか俺と高森が怒る。
「とりあえずいってきます」
「いってらっしゃい」
部長はひらひらと手を振ってくれた。
◇
階段を駆け下りて、一階の渡り廊下から土足で校舎裏に回る。
一応土のないところを選んで歩いたが、汚れてしまったらあとで洗うなり拭くなりしよう。
くしくも、園芸部の畑の近く。
さっきの青春下級生たちは、もういなくなってしまったらしい。
そりゃそうか。あの出来事から三十分は経っているのだ。
そうだよな、今時間だと、もう誰もいないはずだ。
ほっとして溜め息をつきかけたところで、視界に人影を見つけた。
しかも、何かの紙のようなものをじっと見つめている。
制服のままってことは、園芸部の連中ではあるまい。
あんまりな不運だ。
こんなことってあるだろうか。なんだってこのタイミングで、こんな場所に誰かいたりするんだ。
俺はどうにかごまかす手段を考えたが、結局正直に声をかけるしか打つ手はなさそうだった。
「あの、ちょっといい?」
仕方なく、俺はその見知らぬ女子生徒に声をかけた。
「え?」
彼女は、びくりと大きく体を跳ねさせた。
こんな人気のない場所で、話しかけてくる奴がいるなんて思わなかったんだろう。
ちょっと悪いな、と思ったけど、状況が状況だから仕方ない。
彼女が手にもっているのは、たしかにさっき落としたポスターのようだった。
なんて不運だ。
たまたま紙が落ちたタイミングに、たまたま人が来るなんて。
「それ、うちの部のなんだ。上から落としちゃって」
と、俺は三階のあたりを指さした。
「勧誘ポスターなんだよ」
内容のセンスに関しては、こちらからは触れないことにした。
「……そうだったんですか。突然降ってきたから、なにかと思いました」
「ごめん。拾ってくれてありがとう」
俺は必死に体裁を取り繕いながら、ポスターに書かれた文が俺ではなく高森の考えたものであることを祈った。
「文芸部なんですか?」
「うん。きみは新入生?」
そう問いかけたところで、彼女と目が合う。
そのとき初めて、彼女の容貌をはっきりと意識した。
背丈は、高森よりは高いけど、部長よりは低い、ちょうどまんなかあたり。
低くもなく、高くもない。細く見えるのは、手足の関係か。
「はい」
どことなく緊張した様子。
それでも彼女は、ぎこちなく微笑んだ。
俺はひそかに見とれていた。
肩まで伸びた髪は、毛先までストンと落ちるようなストレート。
夕日のせいかもしれないけど、栗色に光って見えた。
雑木林の木々が風でざわめく。
不器用そうな笑い方。柔らかい雰囲気。
べつに際立って線が細いとか、色素が薄いとか、そういうわけじゃない。
それなのに、ふとした瞬間に滲むように消えてしまいそうな不確かさ。
気のせいだろうか。どこかで、会ったことがあるような気がする。
それどころか……いや、まさかだ。
「これ、もらっちゃだめですか?」
「……え?」
「ポスター」
大真面目な顔で、彼女は自分の手元に視線を落とした。
「まだ、部活決めてなかったんです。ちょっとだけ、興味がわいたから」
いや、部室の場所だけ教えるから、ポスターは返してくれないか。
と、そう言いたかったけど、そんな空気じゃなかった。
「……ああ、いいよ」と、俺は仕方なく頷く。
「よくできてますね、これ」
彼女の視線がポスターの紙面に落ちるのを見て、心臓がドクンと震える。
俺は気が気じゃなかった。
「興味があったら、部室まで来てよ」と俺は言った。
「放課後なら、いつでも誰かしらいるからさ」
じゃあ、と言って、俺は背を向けた。とにかくいますぐこの場から逃げ出したかった。
「ありがとうございます」
と、後ろから声が掛けられる。さっきより緊張がとけた感じの、軽やかな声。
俺は返事ができなかった。
◇
なんとなくすぐに部室に戻る気になれなくて、俺は東校舎の屋上へと向かった。
本校舎の屋上も東校舎の屋上も、一応開放されてる。
天気の良い日には本校舎の屋上をランチに使う生徒もすくなくない。
もともとそういう用途だったのだろう。芝生が植えられていて、ベンチなんかも置かれていたりする。
東校舎の屋上は、そういうのとは違う。すこしそっけなくて、どちらかといえばひとりになるための空間に近い。
ベンチも芝生もない。その差はなんとなく、示唆的だという気がする。
よく晴れた五月、じっとしているだけで汗の滲んでくる肌を、屋上に出た途端、フェンス越しの風がゆるく撫でた。
頬をたれた汗を手のひらで拭う。空はゆっくりと夕焼けに近付いていく。俺は何かを思い出しそうになった。
さっきの女の子の顔を思い出す。
見間違いかもしれないけど、俺は彼女のことを知っているような気がする。
考えないようにしていたことを、また、考えてしまう。 そんなタイミングで、
「暇なの?」
って、うしろから声がした。
「……びっくりした」
振り返ると、校舎につながる鉄扉のすぐそば、かくれるみたいに、ひとりの女の子が膝を抱えて座っていた。
変な日だ。女の子とばかり会う。ゴローは帰っちゃうし。
「……佐伯?」
「うん。佐伯ですよ」
と言って、彼女は手に持っていたシャボン玉用のストローをふっと吹き込んだ。
吹きこまれたシャボンはまんまるく光ながら風に乗る。
いちおう、文芸部員である佐伯。物腰が落ち着いていて、く大人びているんだけど、
ときどきこういう、変に子供っぽいところを見せる。部活サボって屋上でシャボン玉吹いたり。
「……なんでこんなところにいるわけ?」
「朝、コンビニ寄ったらシャボン玉おいてあってさ」
「はあ」
「ちょっとやりたいなって」
「なるほどな」
おまえの方が暇なんじゃねーかと思った。
「浅月、なにかあったの?」
浅月、も、俺のことだ。
「なにが」
「すごい顔してたよ、今」
「どんな顔?」
「誰かに似てたな。誰だっけ……」
そう言ったきり、彼女は何か考えこむような様子で黙りこんでしまった。
「部活は?」
「高森とゴローは帰ったよ。そっちこそサボり?」
「べつにさぼってないよ。こういう時間が必要なんだよ」
「知らないけどさ」と、俺は溜め息をついた。
「浅月」
「なに?」
「なんかつらそうだよ」
「……や。そんなことないけど」って、俺はごまかし笑いをした
「やっぱり誰かに似てるなあ」って佐伯は言った。
佐伯がつくりだしたシャボン玉が、屋上にふわふわ浮かびながら、昼下がりの太陽を浴びてきらきら光っている。
なんとなく、いろんなことを思い出す。順不同に。
子供の頃の夏。中学のとき、屋上で言われた言葉。眠られずに起きたとき聞いた、両親の会話。途絶えたメール。誰かの泣き顔。
「……そろそろ帰るよ」
「そう? そうだね。もうそういう時間だね」
じゃあばいばい、って佐伯はひらひら手を振った。
◇
部活を終えてマンションに帰ると、静奈姉はもう帰ってきていたみたいだった。
ダイニングのソファに寝転がって、クッションを抱えたままテレビを眺めている。
「ただいま」と声をかけると、「おかえりなさーい」と声だけは元気に帰ってきた。
「遅かったね」と静奈姉は言った。
「いつもどおりだよ」と答えると、彼女はちらりと掛け時計の針を見つめたあと、小さくうなずく。
「うん。たしかに。そうかもしれない」
地元から遠くの高校に進学すると決めたとき、俺は一人暮らしをしようと思っていた。
というと因果関係が逆で、実際は一人暮らしがしたかったから遠くの高校に進学しようとしたんだけど。
当然、両親からは猛反対を食らって、何回も説得されたけど、最終的には折れてくれた。
折れたというより、諦めたって感じだったけど。
それでもいきなり一人暮らしなんてさせるわけにはいかないから、せめて親戚の家に下宿という形で、と言われたが、
俺はこれも拒否した。自分でもワガママ言い放題、困った子供だとは思う。
べつに自立心が旺盛だったわけじゃないし、なんでも自分ひとりでできるとたかを括っていたわけでもない。
それどころじゃなかっただけだ。
進学先の高校の近くに親戚が暮らしていることは分かっていた。
だからこそ、そこを選んだという面もある。
お目付け役をつける形なら、話も通ると思ったのだ。本当はそれだけじゃなかったけど。
とはいえ、そもそも下宿と言っても、子供のワガママの為に親戚に迷惑をかけるのは、両親の望むところでもなかった。
そこで手を挙げてくれたのが、大学に通うために一人暮らしをしていた静奈姉。
五歳か六歳だったか、年上の親戚。
子供の頃から従姉弟のように遊んでいて、お互い知らない仲じゃない。
なによりも俺の心情を汲んでくれて、
家賃や諸々の生活費を折半することを条件に、俺がここで暮らすことを許してくれた。
おじさんたちと静奈姉には頭があがらない。
もちろん、実際に俺が払うべき金を出してくれている両親にも、感謝はしている。
そういう状況になってはじめて、うちが世間一般的には、比較的裕福な家庭に属するのだとも知った。
……そういうことの諸々が、俺としては嫌だったんだけど。
「タクミくんさ、何部だっけ?」
寝転がったまま、静奈姉は気の抜けた声でそう訊ねてきた。
「文芸部」
「……文芸部かあ」
何かを思い出すみたいに、彼女はしばらく黙り込んだ。
「……ごはん、つくろっか。お腹すいたでしょ」
そう言って笑った静奈姉は、ソファから起き上がった。
「手伝う」
「いいよ。疲れてるでしょ」
「運動部でもあるまいし、べつにたいして疲れてもないよ。静奈姉こそ、バイトだったんでしょ?」
「いーの。タクミくんにご飯つくらせたりしたら、お父さんたちに何言われるかわかんないもん」
「世話になってるのは俺だし」
「……このやりとり、何度目だっけ?」
「忘れた」
「変わんないよね、お互い」
彼女はくすくす笑ってからヘアゴムで長い髪を後ろにまとめて、ビリジアンのエプロンをつけた。
かたちから入るタイプなんだ、って、ここに来てすぐの頃に言っていた。
変わらないと彼女はいうけど、昔の静奈姉はもっとはしゃいだり、感情をあらわにすることが多かったような気がする。
もちろん、歳をとって落ち着いてきた、といえばそうなんだろうけど。
そういう些細な変化が、この街にいなかった俺には少し寂しかったりする。
時間の流れを突きつけられるようで。
そのままキッチンに向かって、静奈姉はひとりで料理をはじめてしまった。
俺はとりあえず着替えることにした。
一応2DKで、俺用の部屋も用意してもらえた。もともとは物置として使っていたらしい。
荷物をおいて部屋着に着替えてからダイニングに戻ると、
「お皿出してもらえる?」と声を掛けられた。
うなずいて俺はキッチンに入り込み、棚から食器を用意した。
食事ができあがってからテーブルに運び、向い合って座る。
「いただきます」
「めしあがれ」
そして黙々と食事がはじまる。お互い喋らないってわけじゃないけど、何を話せばいいのか分からなかった。
そういう雰囲気がまるまる一年続いて、なんだかお互い、口数も段々減ってきたような気がする。
気まずさを感じているのは、俺だけなのかもしれないけど。
「……学校、どう?」
ときどき、沈黙を嫌うみたいに、静奈姉は俺にそういう質問をぶつけてくる。
気まぐれなのかもしれないし、ずっと話しかけるタイミングを窺っていたのかもしれない。
俺には知りようもないことだ。
「楽しいよ」
「そっか。ならよかった」
静奈姉はふんわり笑った。
この人に迷惑をかけているのだと思うと、すぐにでもここを出て行くべきだという気持ちになる。
でも、ぜんぶがいまさらだ。
途中でやっぱりなし、にするわけにも、たぶん、いかないのだろう。
「新学期だけど、新入部員とか来たの?」
「いや。全然だよ。部員全員、やる気ないし、勧誘もとくにしてるわけじゃないし」
ポスターの話をしようかどうか迷ったけど、どう話せばいいのかわからなくて、結局やめた。
会話が途切れるのをおそれるみたいに、静奈姉は言葉を続けてきた。
「……明日は、バイト?」
「うん。夕方から」
「ご飯はどうする?」
「適当に買って済ませるけど……どうして?」
普段からそうしているから、いまさら聞くこともないのに。
「ううん。明日、ともだちにご飯誘われたから、どうしようかと思って」
「行ってくればいいじゃん」とすぐさま言ってから、ちょっと偉そうだったかな、と反省する。
「俺に気使うことないよ」
「そうかな」と静奈姉は曖昧に笑った。そうもいかないよ、と内心では思っているんだろう。
「いつも俺のせいで迷惑かけてるんだし、そこまで気使われたら、俺、申し訳なくてここにいられないよ」
静奈姉は少し戸惑った顔をしていたけど、やがて取り繕うように笑って、頷いた。
申し訳ない、だってさ。俺は自嘲する。ここにいる時点で、いまさらだ。わかってるのに。
「うん。じゃあ、明日、帰り遅くなるかも」
「了解」
その話が終わると、気まずい雰囲気はきっかけもなく徐々にほぐれていった。
俺と静奈姉は、ふたりで並んでテレビを見ながら、出ているタレントについてのゴシップめいたあれこれについて話した。
お互いが思っているだろうことについては、何も喋らなかった。これまでそうしてきたように。
つづく
まーたSSじゃないタイプの小説かよ……
期待してるぞ
いいね
屋上さん期待
◇
「時間は取り戻せません」と、去年の入学式の後、教卓に立っていた当時の担任は言った。
「どんなふうに過ごしていても時間は流れます。楽しくても苦しくても、何もかもが過ぎていきます。
なにかのきっかけで大きく変化してしまうこともありますし、
ちょっとした変化だったはずなのに、積み重なって大きく変わってしまっていたことに気付くこともあります。
ごく当たり前のことです。仲の良かった人といつのまにか話しづらくなったり、
以前は想像もしていなかったような相手と、気付いたら深く結びついていたりします」
それでも時間は、すべて地続きになっています、と彼は話を続ける。
「ふとしたときに、ふるい友達のことを思い出して、懐かしくなったり、寂しくなったりします。
以前とは大きく変わってしまっていることに不意に気付き、悲しくなったりします。
大事だったもの、楽しかった繋がりが、いつのまにか失われていることに気付いて、耐えられなくなることもあります」
彼はそこで笑った。
「年寄りのたわごとです。笑ってください。あなたたちはそれが許される年齢です」
実際、何人かはバカにして笑った。
「覚えていてください。どんな人間も、突然大人になるわけでも、突然子供でなくなるわけでもありません。
過去を現在から切り離すことは困難ですし、未来は現在の地続きにあります。
地続きですが、それでも変化は必ず訪れます。
変化が不可避なら、後悔も不可避です。あなたたちは、可能なかぎり現在に真摯に、誠実に生きてください」
気付いたときに何もかも手のひらからこぼれ落ちている、そんなことにはどうかしないでください。
そんな、それだけの言葉を、俺は不思議と覚えている。説教臭いって鼻で笑おうとしたのに。
◇
そして、そんな取り戻すことのできない貴重な高二の初夏の土曜に、
俺は友人の家で怠惰にゲームにふけっていた。
『じゃあ、セント・マキエルの街でシーカーたちを壊滅させたのは……』
『あなたの仕業だったのね! グレイル!』
「なー。タクミくんさあ」
ゴローの部屋のゴローのベッドで横になったまま、ゴローは、俺にそう声を掛けてきた。
「あい?」
俺はボタンを押した。
『……話す義務はない』
『どうしてだ、グレイル! どうしてそんなことを!?』
「ゲームすんのは別にいいんだけどさあ」
「おう」
『……ふん』
『グレイル!』
『勘違いしないでほしいものだな。最初からおまえたちの仲間になった覚えなどない。私は常に、私の目的の為に行動している』
「……人んちで、がっつりRPGすんなよ」
『グレイル、てめえ……!』
「んー、でも、ここまで来たら続き気になるし……。な、最近のゲームって当たり前みたいにボイスあるんだな」
『グレイル! ちくしょう、おまえみたいな奴を、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ良い奴だと思ってた俺がバカだったよ!』
「タクミ、あのさ……」
「んー?」
『……好きに罵ればいい。そんな言葉などでは、何ひとつ取り戻せん』
「グレイル、死ぬぜ」
「……おい、まじかおまえ」
「レオン庇って死ぬ」
「マジか、おい」
「ちなみにグレイルの目的はレオンの肉体に宿った呪印の副作用を除去することでな……」
「やめろ、おいやめろ」
「そのために必要な魔鉱石の加工技術を手に入れるために敵組織に参加して……」
「ごめんゴロー、俺が悪かった」
「それというのもグレイルの正体はレオンの姉の元許嫁で、死んだ恋人の弟の命を守るために恋人の仇である組織のしもべとなり……」
「うわー、あーあーあー!」
俺はコントローラーを放り投げて頭を抱えた。目を閉じても耳を塞いでも手遅れだった。
知ってしまったことを、知らなかったことにはできない。
刻まれた情報は、抹消することができない。
俺がこの短い人生の中で学んだいくつかの教訓の中で、もっとも実感に基づく言葉が、また思い出された。
ベッドに寝転がるゴローを睨んだ。こいつには慈悲というものがないのか。
「どういうつもりだ、貴様!」
思わず詰め寄った俺に対して、ゴローは呆れたような溜め息をついた。
「どういうつもりはこっちの台詞だ。何しに来やがった」
「遊びにきたんだよ! で、遊んでたんだよ!」
「どうぞ続けてくれたまえ」
と言って、彼は手のひらでコントローラーを示した。
知的に眼鏡の位置をくいっと直しながら、首を動かして前髪を揺らす。切れ長な目元がかすかに笑っている。
「続けられるか! ネタバレされて!」
「大丈夫。世の中にはネタバレを読んでから叙述トリックミステリを読むような人間もいるんだぜ」
俺はゲーム機本体の電源を切った。
「……セーブしなくていいのかい?」
「いいさ。人生はオートセーブだからな」
「ま、たしかに」
ゴローは神妙に頷いてから、さっきからぺらぺらとめくっていた漫画雑誌をパタンと閉じて、体をベッドから起こした。
「たしかに。なるほど。言い得て妙。セーブポイントからやり直しってわけにはいかないさな」
しきりにうんうん頷きはじめる。変なところでひっかかる奴だ。
それ以降急にゴローが黙り込んでしまったので、なんだろうと思って、俺は奴の顔をしばらく眺めていた。
ゴローとも、なんだかんだで一年以上の付き合いになるのだと思うと不思議な感じがする。
べつに性格が合わないってわけでもないけど、ゴローは積極的に誰かと話すタイプじゃなかったし、俺もそうだ。
それでも一応、少人数の部活で長い時間一緒にいるとなれば、よくも悪くも距離は近くなるわけで、
気付いたころには、けっこう仲良くなってた。
「……は。ため息も出ねえな」
なんて、不意にゴローは言って、はー、とため息をついた。
出てるじゃねえか、と思ったけど口には出さなかった。
どうでもいい。
「どうしたんだよ」
尋ねると、眼鏡の向こうの二対の瞳が、くるりと動いてこちらを見た。
ちょっとどきりとする。
「どうかしたのはおまえの方じゃないか?」
「え?」
「普段だったら、ゲームに飽きて出かけようって言いだす頃だろ」
「え、いや……」
言われてみれば、いつもはたしかにそういうパターンが多かった。
時計を見ると、正午を回っていた。腹をすかせて出かけている頃だ。たしかに。
「べつに、どうかしたってわけじゃないけど」
「ふうん?」とゴローは意味ありげに首をかしげてから、ベッドを降りた。
「変だぜ、今日のおまえ」
真顔で、ゴローはそう言った。
「去年の今頃もそんな感じで上の空だったな」
「ホントに、べつに何も……」
「ホントに?」
「……なくはないけど」
「内容には、興味はないけどな」
ゴローがぽつりと呟いたときに、開けっ放しだったドアの隙間から三毛猫がえらそうな顔で部屋に入り込んできた。
そいつはそのまま俺の膝あたりまでやってきて、太腿あたりに額をこすりつけてくる。
そいつの頭をそっと撫でた。
「……よくわからないんだよな」
「なにが」
「なにが分からないのかさえ、よくわからない」
「自分で分からないことが、他人に分かるわけもないわな」
ゴローはうんうん頷く。俺もそう思う。分かってもらえるなんて思ってたわけでもないけど。
「タクミくんさ、一年の頃からずっとそうだよな」
感慨深げにゴローは溜め息をつく。
「何がそんなに引っ掛かってるんだ?」
なんだろう。それは難しい質問だ。答えるのが、とてもむずかしい。
たくさんのこと。いろんなことの、重なり。さまざまな行き違い、座礁、混乱。
掛け違いのボタン、誤字だらけのメール、宛先不明の郵便物。
「つまり、俺は……」
と、口を開く。
「俺は?」
とゴローは続きを促す。
「俺は……ロマンチストなんだよ」
「ほお?」
けったいな言葉が出てきやがった、とゴローは肩をすくめた。
「ロマンチストだから。自分が暮らしてる世界が、もっと素晴らしくドラマティックであるべきだと思ってるんだな」
「ふむ?」
「楽しくて、きらきらしてて。昔は、そういうふうに見えたんだ。でも、ずっとそのままってわけにはいかない」
「そうかい?」
「いつのまにか、会えなくなった人とか。せわしなくなって遠ざかった縁とか。楽しかったこと、ずっと続くと思ってたんだ、俺」
「なるほどね」
「いつのまにか、会えなくなってた。いろんな人と。そうこうしてるうちに俺にもいろいろあったし、昔のままじゃいられない」
「……」
「気付いたら、見える世界は偏ってて、退屈で、どこか色褪せてて、昔みたいにきらきらしなくなってた」
「はあ」
「これからもう、ああいうきらきらした景色に出会うことはないのかなって思うんだ。
ぜんぶ変わっていって、なくなっていって、残るのはこういう、やりきれない気持ちだけなのかもしれないって」
昔は何も知らなかった。何も知らなかったから、楽しかった。
今は、少しだけど知ってしまった。変わっていくこと。流されていくこと。
「ふうん、なるほどね」
ゴローはどうでもよさそうにうなずいて、俺のかたわらの猫を抱き上げて、肉球をふにふにしはじめた。
「じゃあさあ、タクミくん。こうしないかにゃ?」
「きもちわる。いまどっから声出した?」
「喉から。……なあタクミくん、俺と賭けをしないか?」
「賭け?」
そう、賭けだよ。ゴローはそう言って眼鏡をはずして、枕元のボックスティッシュから紙を二枚抜き取ってレンズを拭いた。
そんな何かの片手間みたいなどうでもよさそうな調子。それなのに、ゴローの声はいつもより真面目そうに響いた。
「きらきらじゃなくなってしまった世界。楽しいことが過ぎ去っていく世界。なにもかも悲しくて悲しくてとてもやりきれないだけの世界。
いま、おまえが言ったのは、そういう世界のお話だ。違うか?」
「違わない」
「じゃあ、賭けをしようぜ、タクミ」
そう言ってやつは、猫の肉球で俺のうなじをパンチしはじめた。くすぐったい。
「この世は本当に、なにもかもやりきれないだけの、退屈なだけの世界なのか?
それとも、世界はもっときらきらしていて、ドラマティックで、素晴らしいものなのか?
どちらかが真実で、どちらかが嘘なのか?」
「……は?」
「世界は、退屈か? それとも、きらきらか? そういう賭けをしようぜ」
季節は初夏。けだるい土曜の午後、天気は晴れ、部屋には人間が二匹と猫が一匹。
くしくも、夏への距離は遠くない。
「……何を、どう賭けるんだよ」
「おまえが勝ったら、なんでも言うこと聞いてやる。俺が勝ったら牛丼おごれよ」
「勝敗の基準は?」
「簡単だろ。これからおまえの日々に、きらきらが起こるかどうか、だ」
きらきら。きらきらってなんだよって思った。どういうことだよ、きらきらって。
でも、
「いいよ」って俺は頷いた。
こうして、この土曜、まどろんだような心地のまま、俺とゴローの賭けははじまった。
べつに深い意味なんてなかったんだけど。
その土曜は結局することもなくて、仕方なく本屋にいったり中古ゲームショップにいったりしたけど何も買わなかった。
昼食はマックで済ませて、あとは自転車でそれぞれの家に解散した。大概の土曜はそんな感じだ。
当然、日曜だって何か特別なことが起こるわけでもなかった。
眠かったから寝て、腹が減ったから起きだして、昼過ぎからバイトだった。
バイト先に選んだのはコンビニだった。
距離的に近かったからというのもあるし、仕事が楽そうだったから、というのもある。
ガソリンスタンドやなんかは雰囲気に馴染めそうになかった。飲食店でもよかったのだが、時間帯と距離の都合でやめた。
当然バイトはただのバイトで、とくにきらきらとしたことは起こらなかった。
暇な時間に他のバイトの学生と無駄話をしていたら仕事は終わっていた。
もちろん、こんな調子で何かが変わるわけもない。
で、翌週の月曜、当たり前のように登校して、自分の席に腰掛けて、「やっぱり五月だってのに暑いな」ってぼやいてたら、
「たっくん!!」
って、泣きそうな顔の高森が教室ににやってきて、春からのクラスメイトたちは面食らっていた。
「たっくんって誰?」というふうにさまよう同級生たちの視線。
この状況で立ち上がるのはいやだなあと思ってたら、高森が俺の姿を見つけて急ぎ足でツタツタ歩み寄ってきた。
「たっくん、どういうこと!」
「な、なにが」
「心当たりがないなんて言わせないからね? これ!」
と高森が俺の顔の前に突き出してきたのは、先週つくった例の勧誘ポスターだった。
"ことばは、きみの思いにかたちを与える"――文芸部、部員募集中。(高森作)
「下駄箱のとこに貼ってあった!」
「……まじで?」
「たっくんじゃないの?」
「俺、知らない」
「……え、じゃあ部長?」
「いや、部長はさすがに、そういうことしないと思うけど」
「じゃあゴローくん? それともちーちゃん?」
「どっちもあの日は部室にいなかっただろ」
「じゃあ誰!」
「高森、犯人探しは後にしようぜ」
「でも!」
「冷静になれよ、一枚貼られてたってことは……」
「……まさか」
そこからの俺と高森の行動は迅速だった。危険でない程度の速度で廊下や階段を素早く移動。
掲示板や壁をくまなく調査し、例のポスターが貼られていないかどうかを確認。
もし発見された場合はすぐに回収。画鋲は放置した。
結果、回収されたのは九枚。下駄箱、各階廊下の掲示板やトイレ前の壁など、実にさまざまな場所に掲示されていた。
俺と高森は回収作業を終えたあと、東校舎と本校舎をつなぐ渡り廊下の出入り口に座り込んで呼吸を整えた。
「何者かの敵意を感じるよね」と高森は疲れきった声でぼやく。
「最悪の朝だ」と俺も思わず唸った。
何が悲しくて月曜の朝から校舎中を駆け回らなきゃいけないんだろう。
「やっぱり陰謀だと思う?」
「誰の」
「第二文芸部とか」
「まさか。あいつら俺らに興味ないだろ」
「じゃあ生徒会? PTA?」
……文芸部の勧誘ポスターを貼ってそいつらに何のメリットがあるんだ?
と、高森の行き場のない怒りが疑念になって方々に向かいはじめたまさにそのとき、
「おおい」と校舎の方から声が掛けられた。
ハンプティダンプィみたいなまんまるい体型。普通の人より一回り以上大きい体躯。
太っているせいで、首がどこにあるのかよくわからない。
整えられているわけでもない伸びっぱなしのまばらな無精髭、ぼさぼさの髪はくるくると渦巻いている。
野暮ったい黒眼鏡から覗く瞳は熊のように優しげだ。
「ポスター剥がしちゃったのかあ?」
「あんたか!」
と俺と高森の声がそろった。
「え、なに?」と戸惑った様子でおどおどしはじめた大男は、文芸部顧問の中田 英之。
担当教科は現国。あだなはヒデ。
「先生か……盲点だった」
高森に恨ましげにみつめられて、ヒデはかわいそうなくらいにおろおろしはじめた。
「え、なんかまずかった? 部室に勧誘ポスターあったから、みんなやる気になってくれたんだなあと思って……」
「……どういうこと? 印刷したのは先生じゃないんですか?」
やべ、処分してなかった、と俺は視線を逸らした。
「……たっくん?」
「あー、うん」
やは、とごまかし笑いが出た。
◇
そんな騒々しい朝の顛末の影響は、案外早く訪れた。
といっても、問題になったのはポスターそのものじゃない。
その日の放課後のこと。
いつもの文芸部室には、今日は四人の部員がいた。
俺にゴロー、高森、部長。佐伯はたぶん、屋上かどこかだろう。
気だるい午後の日差しのなかで、ゴローは居眠り、部長は読書、俺と高森は"バリチッチ"をやっていた。
朝のポスター騒動も、早めに対策をとれたおかげで被害はなかったし、多少責められはしたが、高森は上機嫌だった。
「チッチッチッチー、バリチッチ。2」
「あっ」
「ふふふ。たっくん、まだまだだね」
「……なに、その遊び」
部長は呆れ顔だった。
「子供の頃やりませんでした?」
「覚えてないなあ」
「わたしも従兄に教わったんですけどね」
「俺は親戚に」
そんな話をしてるときだった。嵯峨野 連理があらわれたのは。
ノックの音は、なんとなく威圧的に聴こえた。どこか肩肘の張ったような。
でもとにかくノックはノックだったし、ポスターは回収したけど、一応文芸部は部員を募集中だ。
不意の来客があっても変なわけじゃない。
「どうぞ」と部長が言うと、ドアは静かに開かれた。
「失礼します」と儀礼めいた声音で呟いた男は、見るからに身長が180センチ前後はありそうなすらりとした男子だった。
長い手足に整った顔立ち。髪は短めだけど、ワックスかなにかでふんわりボリュームを出して整えてある。
切れ長の目元、しゅっとした顎。体つきは細いけどガリガリってわけでもなさそうだ。
その人は扉の内側に体をしまいこんでから、あたりを落ち着いた様子で見回して、
「第一文芸部の部室はここでいいのかな?」
静かに訊いてきた。
「そうですよ」と部長は答えた。
「何か用事? 嵯峨野くん」
俺は部長の顔と例の男子生徒の顔を見比べた。
「部長のお知り合いですか?」
「同級生」
「はあ」
先輩なのか、と思った。まあなんとなく、そうじゃなかったら落ち込んでたけど。
「いや。朝、廊下でその子とぶつかって」と、彼は高森の方を見た。
「あー」という顔を高森はした。
「その節はとんだご迷惑を……」
「いや。こっちも不注意だった。それで、そのときにこれを落としていったから、使うのかもしれないと思って」
彼は手に持っていた紙を前の方に掲げた。
「あ、それ」
「勧誘ポスターみたいだけど、今時期たいへんだね」
嵯峨野先輩はにっこり笑って、部長にポスターを差し出す。
「ありがとう。教室で渡してくれてよかったのに」
「ああ、うん」
そのとき彼が、ちらりと高森の方を見たような気がした。気のせいかもしれない。
「それにしても、第一文芸部って、活動してたんだね」
「してましたよ」と部長は心外そうに言った。
「てっきり都市伝説みたいなものだと思ってたから、部室があるって知ってびっくりしたよ」
「そりゃ、第二に比べたら人数も少ないけどね……」
なんでかわからないけど、俺は居心地悪く感じた。
「よくわからないんだけど、どうして文芸部って分裂してるの?」
「なんだろ、音楽性の違いかな」
部長の適当な返事に、先輩は軽快に笑った。
「それじゃ、行くよ。お邪魔しました」
背を向けた先輩に対して、部長は「うん。ばいばい」と言ってひらひらと手を振る。
少しの沈黙が残る。
「わたし、あの人苦手」
ぼんやりこぼした高森に対して、ゴローが無責任に、
「そう? かっこいいじゃん」なんて言った。
たしかに、と俺も思う。
そのときはそれで終わりだと思ったのだ。
◇
それから高森は手遊びにも退屈したのか、しまってあった部誌のバックナンバーに目を通し始めた。
手持ち無沙汰になった俺は部長とどうでもいいような話をはじめた。
「シンデレラってあるじゃないですか」
「あるね、シンデレラ」
「めでたしめでたし、で終わるじゃないですか」
「うん」
「あれ、どう思います?」
「どうって?」
「シンデレラは王子様と結婚して幸せに暮らしましたとさ、めでたし、めでたし、で物語は終わりますよね?」
「うん」
「もしそこに続きがあったとしたら、部長は知りたいと思いますか?」
「めでたしめでたしの、その続きってこと?」
「はい。もしかしたら、シンデレラはもっと幸せになっているかもしれないし、もしくは、突然の不幸に見舞われているかもしれない」
幸せな終わり方をする物語、御伽話。めでたしめでたし、の物語。
その物語の続き。
恋愛映画でようやく結ばれた男女は、三ヶ月後には価値観の違いで別れているかもしれない。
青春小説で固い絆で結ばれた友人たちは、やがては離れ離れになるだろう。
さまざまな思索の末にささやかな幸せを実感できた中年男性は、日々の忙しなさに負けて、また元通り憂鬱な生活を送るのかも。
仲の良かった友達が自分のことを忘れるかもしれないし、大好きだった人たちが、喧嘩別れをしているかもしれない。
物語に続きがあるとすれば、それは幸せなだけではないかもしれない。
好き合っていた男女だって、うんざりしてすぐに別れてしまったのかも。
「タクミくんは、知りたいの?」
「それを迷っていたんです」
「……どっちにしても、知らない方が幸せなことってあるよね」
「……」
知らない方が幸せだったこと。知ってしまったら、元には戻れないこと。
「もし、不幸な結末に耐え切れないなら、どうすればいいか分かる?」
部長は静かにそう訊ねてきた。俺は首を横に振った。
「ページをめくるのをやめればいいんだよ。幸せなページで、続きを読むのをやめてしまえばいい」
だからそれは、覚悟の問題なんだと部長は言った。
「あるところに男の子と女の子がいました。ふたりは仲良くなって、お互い好き同士になって、付き合うことになりました」
めでたしめでたし、と部長は言う。
「その先に何があるのかな? もしかしたら、そこがもっとも幸福な地点なのかもしれない。もちろん、そうじゃないかもしれない。
でも、ページをめくるのをやめてしまえば、続きは知らずに済む。物語を幸福で終わらせられる」
だから、と部長は言った。
「不安ならページをめくらなければいい。その先に何があるのかなんて誰にも分からないんだから。
ひょっとしたら、知ってしまったら後悔することになるのかも。何もかも、台無しになってしまうかも。
それでもどうしても"つづき"が知りたいなら、"その後"を知りたいなら、それなりの覚悟をしなきゃいけないよね」
だって、その先に幸福が約束されてるなんて、かぎらないんだから。
――これからもう、ああいうきらきらした景色に出会うことはないのかなって思うんだ。
――ぜんぶ変わっていって、なくなっていって、残るのはこういう、やりきれない気持ちだけなのかもしれないって。
自分が発した言葉を、なぜか今思い出す。続く未来に幸せがないなら、ページをめくるのをやめてしまえばいい。
幸せなページで、読むのをやめてしまえば、幸せな場面で物語が終われば、それは幸せな物語だ。
幸せに物語を終わらせたいなら、そうすればいい。
でも、それは、まるで……。
考えかけたところで、また、部室の扉がノックされた。
さっきとおんなじように部長が「どうぞ」と言うと、失礼します、と声が聞こえた。
女の子の声。聞き覚えのある声。
俺は少しだけ緊張した。
「文芸部の部室はこちらですか?」
みんながみんな、きょとんとした。
部長も、ゴローも、高森も。
俺だけが少しだけ違った。
先週、校舎裏で見た顔。見覚えのあった顔。ポスターを拾った少女。
彼女は俺の顔を見つけて、ほっとしたように息をついた。
「えっと、文芸部に興味があって、見学させていただきたいんですけど……大丈夫ですか?」
「……入部希望者?」
「あ、はい」
部長の質問にうなずくと、彼女はにっこり笑ってぺこりとお辞儀をした。
「一年の藤宮ちはるです。よろしくお願いします」
土曜の昼にゴローとした賭けのことを、俺は思い出した。
なんとなく、いろんなことが怖くなる。
それでも、藤宮ちはるは、うかがうように俺を見て、
それからもう一度にっこり笑った。
つづく
41-1 く大人びて → 普段は大人びて
見てます
おつ
◇
「ちーちゃんは既にいるから、なんて呼ぼっか。はるちゃん? るーちゃん?」
高森のそんな馬鹿げた質問に、藤宮ちはるは得意の笑顔で「じゃあるーちゃんで」とあっさり言った。
「よろしくるーちゃん」と言って高森は藤宮の頭をくるくる撫で回す。
あはは、って首を竦めて藤宮はくすぐったそうに身をよじった。
「藤宮ちはる」と俺は口の中だけで復唱した。誰にも聞こえなかったと思ったのに、ゴローだけは耳ざとく気付いたらしい。
「知り合い?」なんて訊いてきたから、とっさに「いや」って否定してから藤宮の方を見ると、彼女もこっちの方を見ていた。
一瞬だけかち合った視線があっというまに逸らされる。
そうこうしているうちに部長がささっと戸棚から紙切れを用意して、はい、と藤宮に差し出した。
「なんですか、これ」
「入部届」
有無を言わせない強引な勧誘だった。
「……見学って言ってませんでしたか?」
「G級ハンターは狙った獲物をのがしません」
気まぐれめいた俺の質問に部長から帰ってきたのは、そんな声だった。
つい先週まで勧誘に対するやる気なんて片鱗も見せなかったくせに、一変大攻勢だ。
……もしかしたら、やる気がないからこそここで捕まえて終わりにしたいのかもしれない。
「あ、かまわないですかまわないです。入ります」
不思議とまったく戸惑いも見せずに、藤宮ちはるは入部届を受け取った。
まるで最初からそうすると決めていたみたいにあっさりと、にこにこと。
高森が差し出したボールペンを受け取ると、ペン先を紙に押し付けたままの姿勢で、彼女は少し沈黙する。
それからまた俺の方を見た。
「……ひょっとしてご迷惑ですか?」
うかがうように。
「いや。……どうして俺に訊くの」
「なんだか、そういうふうに見えたので」
「べつに、迷惑じゃないよ。きみの好きにすればいい」
藤宮ちはるは、やけに俺のことを気にかけているみたいに、視線や、言葉を、向けてきたような気がする。
でもそれは、ひょっとしたら逆で、彼女は普通の態度で俺に接しているのかもしれない。
俺が彼女を気にかけているからそう見えるだけなのかもしれない。そういうのを察して、気にしているのかもしれない。
本当のところは分からない。
藤宮から目を逸らすと、高森と目が合った。
「なに?」って訊いたら、「なんでもない」って彼女はそっぽを向く。
変な日だ、と思った。
◇
入部届には印鑑と保護者の連絡先が必要なので、実際にどうなるのかはまだ分からない。
それでも藤宮の態度を見るに、もう部員としてやっていく気でいるらしかった。
「ま、これで第一文芸部存続の危機は乗り切ったね」
部長はあっさりそう言った。
「……え?」
「存続の危機って、どういうことですか?」
俺と高森がおんなじところに違和感を覚えた。
気付いてなかったの? と部長は目を丸くする。
「今の二年生は、タクミくんにゴローくんに、蒔絵ちゃんにちえちゃんの四人でしょ」
「はあ」
一瞬だけ、ちらりと藤宮ちはるがこちらを見た気がした。たぶん、さっきから自意識過剰になっているんだろう。
「部活動の存続に必要な部員数は五名以上。わたしは今年の十月で引退だから、もし新入生が入らなければ部員数が五人を下回って……」
「……廃部だったんですか?」
うん、と部長はあっさりうなずく。
最初に言えよ、と思った。
「厳密に言うと、廃部か同好会格下げか……一番ありえたのが、合併吸収だったね」
「っていうと……」
「第一が第二に吸収されてたかもってことですか?」
高森と俺はげんなりした。ゴローはどうでもよさそうに机に突っ伏して眠り始めた。
「えっと……第一と第二があるんですか?」
藤宮だけが、不思議そうに首をかしげる。
誰も質問に答えようとしなかった。
……誰か答えろよ、と俺は思った。
「部長」
「えっとね、パスいち」
「いや部長。こういうとき部長が説明するもんでしょう」
「パスはパス。蒔絵ちゃん?」
「わたし日本語わかんない。パスに」
「いやおまえ。文芸部が日本語わかんないっておまえ」
「たっくん、よろー」
「……ゴロー?」
返事はない。
……どいつもこいつも。
「……とりあえず、座って」
俺は壁に立てかけてあったパイプ椅子を出して、適当な位置に置いた。
藤宮はぺこっと頭をさげてから腰を下ろす。
俺もまた定位置に腰掛けた。
「紳士だね」と高森が茶化す。
「きみらが適当すぎるんだ。それで、なんだっけ。第二の話か」
「はい。あ、その前に……」
「ん?」
「あの、名前……」
俺は一瞬、緊張した。
「俺の?」
「あ、はい。……えと、みなさんのお名前を、まだうかがってないなあ、と」
「あ、ああ」
勘違い。そりゃそうだ。普通、自己紹介くらいする。べつに正式に入部したときでもいいとは思うけど。
だからこういうの、部長の役目のはずなのに。
そう思って彼女の方を見ると、ふうん、というような顔で俺と藤宮の方を眺めていた。
どうでもよさそうな、それでいて興味深そうな顔。
犬のトリミングを初めて見るみたいな顔だ。
こういうふうにやるんだ、と感心はするけど、そもそも興味があるわけではない、みたいな。
高森は高森で、眠そうな目でこっちを眺めるばかりで何も言ってくれない。
……なんなんだろう、いったい。
「名前に関しては、あとでそれぞれ各自に自己紹介させよう。めんどくさいから」
「あ、はい。わかりました」
めんどくさいから、ってところで、彼女は苦笑いした。
「とりあえず俺の名前は……」
やはり、少しだけ躊躇してしまう。ためらう理由なんてないはずなのに。
でも、偽名を名乗ったところで意味なんてない。結局すぐにバレてしまうことなのだ。
「浅月。浅月拓海」
「……あさづき、たくみ」
何か、音の響きをたしかめるみたいに藤宮ちはるは復唱した。
「……呼び捨て?」
「あ、た、タクミ……先輩」
「はい」
「わたし、藤宮ちはるです」
「……さっきも聞いたよ」
「はい。藤宮です」
「うん。それで、藤宮……」
なんと呼ぶべきか、一瞬だけ迷って。
いちばん違和感のある呼び方を、けっきょく選んだ。
やっぱり、彼女は"そう"なんだろうか。名前からして、そうとしか考えられない。
でも……そうだとしたら、彼女の方から、何か言ってくるはずだ。
もし、覚えていれば。
もし"そう"だとしても、忘れているなら仕方ない。
たぶん、忘れてしまっているだろう。子供の頃のことだ。もうずっと昔のこと。
あれから背だって伸びた。声変わりだってした。内面だってあの頃のままとはいかない。
屈折したりひねくれたりしてきた。当時の自分がどうだったかなんて、思い出せない。
彼女がもしも本当に"そう"で、俺のことを忘れてしまっているんだとしたら。
俺が恐れていたとおりに、何もかもが変わってしまっていたんだとしたら。
やっぱり少し悲しい。それが恐くて、探すことだってできずにいたのに。
「それで、第一とか第二って……?」
藤宮ちはるの質問に、俺は考え事を一時中断する。
いまさら考えたって仕方ないことだ。
「……うちの学校には、文芸部がふたつあるんだよ。第一と第二。で、うちが第一」
「はあ。どうしてまた?」
「方向性の違いだな。もともとはひとつだったんだ。部員数も多くて人気の文化部だった。
今の第一は部員数が五人。きみを含めると六人になる。第二はたぶん新入生合わせて、十八人くらいかな」
「じゅうはちにん」
と藤宮は復唱した。
「ええと、方向性って……?」
「つまり、もともとの文芸部っていうのが、文芸部とは名ばかりの茶飲み部だったんだ。
かろうじて年に一回部誌を発行して活動はしてたけど、それすらまともに出さない奴がいた。
それで、普通の文芸部として活動したい奴らが集まって、不真面目な奴らの排斥運動を行ったんだな」
「……排斥」
「そしたら、真面目な奴の方が少なくて、不真面目な奴らの方が多かった。結果、第二の方が人数が多い」
「なんだか、なんだかなあってお話ですね」
「あいつらは基本的に、第二理科実験室でお菓子食べながら喋ってるだけだから。それもそれで悪くはないんだけどな。
ただ、あっちは文芸部とは名ばかりだし、所属してる奴らのノリも、こっちとはちょっと違う」
そういう確執は何年か前に起こったことで、今となってはそれぞれ別の部として何のしがらみもなくなっている。
とはいえ、人種が違うというのはたしかで、一緒にいると、どうしてもエネルギーが吸い取られるのを感じる。
あっちはこっちを苦手に思っていなさそうなのが、かえってしんどかったりもする。
「じゃあ、つまり、この部の人たちは真面目な文芸部員ってことですか?」
「いや?」
俺の否定に、藤宮はきょとんとした。
「昔はそうだったけど、今はこっちはこっちでサボり部だな。
要するに、あっちは騒ぎたいサボり部、こっちはまったりしたいサボり部って感じ」
「どっちにしてもサボり部なんですね……」
「入部を取り下げるなら今のうちだよ」
「いえ。ぜんぜん問題無いです。サボり、どんとこいです」
どんとこいて。
「まあ、といっても、一応年四回部誌は発行してる。これ、想像するより忙しないペースだったりするんだよな」
「はあ。部誌ですか。何を書くんですか?」
「好きなもの。小説とか詩とか川柳とか散文とか戯曲とか随筆とか」
「タクミ先輩は何を書くんですか?」
「随筆が圧倒的に楽だな」
「ずいひつ……」
「去年は冬の深夜に小腹が空いた時に夜食として食べるカップヌードルの魅力について書いた」
割と好評だった。
「それはそれは……」と藤宮は愛想笑いをした。
「まあ、きみもそのうち書くことになると思うから」
俺が言いかけたところで、部長が「あっ」と声をあげた。
「ていうか、作るよ、部誌」
突然の断定に、俺は戸惑った。
「いつですか?」
「六月中には出したい」
「ていうと、来月中ってことですか」
「うん。言ってなかったっけ?」
訊いてませんでした。
「……ま、そういうわけで、けっこう忙しないんだよ」
「そうみたいですね」と藤宮は困った顔で頷いた。
◇
「そんなわけで、部誌作るらしいぜ」
バイトがあるからと言って部活を早めに抜けだしたあと、東校舎の屋上に気紛れに顔を出すと、佐伯がこのあいだと同じように座り込んでいた。
「了解」
また、シャボン玉を吹いている。
退屈じゃないんだろうか。何をどう繰り返したところで、シャボン玉はシャボン玉だ。
何個つくったところで、どれだけ長く飛んだところで、同じものなのに。
「それで、新入部員はどんな子?」
「……」
「かわいい?」
「……まあ」
「何か思うところでもあるの?」
「まあ、ある」
「ふうん?」
「子供の頃、一緒に遊んだことがある」
「浅月、高校に入学するときに引っ越してきたんじゃないの?」
「うん。子供の頃、夏休みの間だけ、こっちの親戚んちに遊びに来てたことがあるんだ。そのときに、会った子だと思う」
「思う、って?」
「名前は一緒」
「顔立ちとか、立ち居振る舞いは?」
「……似てるな。振る舞いとか仕草に至っては、懐かしいくらいだ」
「なのに、思う、なの?」
「……話さなかったから」
「訊いてみればいいのに」
「違うかもしれないし、あっちは俺のことなんて覚えてないだろうし」
「へんなの」と佐伯は言った。俺もそう思う。
子供の頃、一緒に遊んだだけの相手。そう思えるなら、べつに相手が覚えていなくたってかまわないはずだ。
声をかけて覚えていなくても、何か問題があるわけじゃない。子供の頃の話なのだ。
たしかめるのが怖いのは、どうしてだろう。
自分だけが過去に取り残されているような気がするからだろうか。
あれから、数年経って、連絡を取り合わなくなってからも、お互い、いろんなことがあったはずだ。
小学生だった。でも、歳をとって、中学生になって、今は高校生になって。
部活とか、受験とか、友達関係とか、恋愛とか、いろんな変化があったはずで。
そんななかで、一緒に遊んだだけの相手のことなんて、もう覚えていないかもしれない。
それを確認するのが怖いのかもしれない。
俺はこんなに過去に執着してるのに、相手にとってそれがたいしたことのないことだったら、と。
「臆病だね」
佐伯は何かを察したみたいにそう言った。
「たしかに」と俺は頷く。佐伯に対しては、俺は妙に素直になってしまう。
覚えているのか、訊いてみたい気もする。でも、訊いたところでどうなる、という気もする。
よくわからない。
「そろそろバイトだから、いくよ。佐伯も、部活顔出せよ」
「部誌の原稿は遅れないから、へいき」
そういう問題じゃない。
「じゃあね、浅月」
ばいばい、と手を振る佐伯に見送られて、俺は体を校舎にしまいこんでから溜め息をついた。
藤宮ちはる。名前は一緒だ。俺が間違えるはずがない。表情も、仕草も、あの頃とは違うけれど、面影がある。
「違うかもしれない」なんて言いながら、俺は確信していて、そのうえで知らんぷりをしている。
あの子は、たぶん、“るー”だ。
つづく
おつ
るー!?!?
あのるーが高校生になったのか……
タクミくんとるーか!
◇
五時から九時まではバイトだった。
平日の夕方というのはけっこう混みあうもので、仕事内容は簡単とはいえけっこう忙しかったりする。
七時過ぎくらいに高森が気の抜けた私服姿でやってきて、
「これちょうだい」
と言いながら二千円分のウェブマネープリペイドカードを差し出してきた。
「躊躇ないね」
「今八周年イベントで経験値二倍キャンペーンやってるの。ペットいないと不便なの」
「ふうん」
「今月のパッチで高レベル向けの新しいマップとグループクエストが実装されてね、みんなで行こうって約束してるんだ」
「はあ」
「そんなわけで帰るね。友達狩場で待ってるし。あんまり待たせちゃうと薬切れちゃうかもだし。たっくんがんばってね」
「そっちもなんか知らんががんばれ」
「おうともさ」
高森はウェブマネーと牛乳と食パンとチーズ、それからポテチと箱アイスを買って帰っていった。
納品されてきた商品を棚に並べて在庫を整理し終わる頃には客足もおさまってくる。
一緒のシフトに入っている大学生の人はウォークインに入って飲料の在庫の整理、もうひとりは売り場を見ながら発注業務。
残った俺はレジにぼんやり立ちながら煙草や資材の補充をしていた。
ぼんやりしながら、俺はるーのことを考えた。
るー。
藤宮ちはる。
あの眩しかった夏のこと。
あのときは、あんな夏がずっと続くんだと思ってた。
次の年も、その次の年も、当たり前みたいに、夏になれば会えると思ってた。
中学に入って、部活や勉強や塾で忙しくなって。
夏休みになっても、親戚の家に遊びに行っている暇なんてほとんどなかった。
そもそも、墓参りなんかで行っていたわけではなくて、単に親が親戚に相談したいことがあって、そのついでにしばらく世話になっていただけだったようだし。
るーとは、会わなくなってからもメールのやりとりをしていたけど、
年が一個違う分、生活のなかで興味を持つ対象もずれてきて、
共通の話題だっていくつもなかったし、あったとしても、そんなにずっと続くようなものじゃない。
結局、いつのまにか、連絡をとらなくなって。
そうこうしてるうちに、一度携帯を壊してしまい、そのときに連絡先のデータが消えてしまった。
今では、連絡のとりようもない。
藤宮ちはる。
彼女は覚えてるんだろうか。
◇
バイトを終えて部屋に戻ると、先に静奈姉が帰ってきていた。
「おかえり」と静奈姉はふんわり笑った。
前と変わらないような笑顔。俺はなんとなく気まずく思う。
るーに会ったということを、伝えるかどうか迷う。
こっちに来てから、俺と静奈姉はほとんどあの頃の話をしていない。
もちろん、お互い、忘れたわけじゃないことは分かっている。
昔話をしたことだってないわけじゃない。
でも、あの夏の話をすると、静奈姉はある地点で話すのをやめる。
まるでその地点から先のことが、まだ未消化のまま彼女の内側でくすぶってるみたいに。
それはたぶん、俺の知らない話なんだろうと思う。
俺がこの街を去ってから、きっと、何かがあって、前まで通りではなくなってしまったんだろう。
今ではなんとなく、その理由は想像がついていたりもする。
だからこそ、俺は静奈姉に、あの夏一緒にいてくれた人たちの話をできずにいた。
あんなに近くにいた人たちのこと。
何をしてたんだっけ? 今じゃもう、思い出せない。
映画を見たりゲームをしたり、バーベキューにプール、夏祭り。
みんなで集まって泊まって騒いでたこともあった。
みんな、わくわくしてた。みんな笑ってた。楽しそうだった。
るーも、静奈姉も、俺も。
「……タクミくん?」
「え?」
ふと気付くと、静奈姉が俺の顔を覗き込んでいた。
「な、なに?」
「なにかあったの? すごい顔してたよ」
「すごい顔って。してないよ」
「してたよ。今世紀いちばんすごい顔だったよ」
意味がわからない。
「悩み事? バイトでなにかあった?」
「いや、べつに。始めてもう一年経つし、いまさら何もないよ」
「そう? そういえば、新人さんとか増えた?」
「いや、何人か面接に来たらしいけど、落としたって聞いた」
「そうなんだ。……今日はご飯、食べてきたの?」
「一応、帰りに廃棄もらって」
「そ。それで足りた?」
「うん」
「そっか」
それっきり会話はなくなってしまった。
とりあえず最初にシャワーを浴びて着替えてしまった。
他人と共同生活をしているとなると、好きな時間に入るというわけにもいかない。
風呂からあがって自室に戻り、タオルで髪を乾かしながら、今日の授業のことと、出された課題のことを思い出す。
面倒だけど、やらなきゃいけないことを先延ばしにしているわけにもいかない。
でも面倒だな、って思ってベッドに寝転がる。
この部屋には漫画もゲームもテレビも何もない。
暇を潰すとなるとスマホをいじるくらいしかないわけだ。
俺はなんとなくの思いつきで、子猫の画像を検索しはじめた。
小動物の画像をながめているとあっというまに一時間が潰れてしまった。
課題はとうぜん手付かずだ。
猫の魔力はおそろしい。
とりあえず、明日の朝考えることにしよう。
そう思ってベッドに入ってから、部誌の話を思い出す。
藤宮ちはる……にはああいったけど、今回はどうしたものか。
部長にも、俺の書くものはたいがい思春期全開だって笑われたし。
かといって、何も出さないわけにもいかない。
まあ、一応一ヶ月はあるはずだし、今考えなくてもどうにかなるだろう。
次に気がかりなのは、るーのこと。
……明日、声を掛けてみるべきかもしれない。
でも、と頭は混乱する。
話したところで、分かったところで、お互い気まずいだけなのかもしれない。
俺にとっては、覚えられていなくて、ああ、残念だ、で終わってしまえるほど、るーの存在は小さくない。
自分でもばかみたいだと思うけど、彼女に会えることを期待して、この街に来た部分もある。
まあいいや、と俺は思った。
ぜんぶ、明日考えよう。そう思って寝た。
◇
夢見が悪くてうまく寝付けず、おかげで朝は寝過ごしそうになって、静奈姉に起こされた。
食パンにチーズをのせて焼いて、あとは牛乳を飲んで、それが朝食。
カーテン越しに差し込む朝の日差しを浴びながら、ダイニングのテーブルで向い合って食事する。
「今日もバイト?」
「だね」
「がんばってね」
「うい」
寝付きが悪かったせいで、目がしょぼしょぼした。
「……眠そうだね」
「眠りの体感時間って、どうしてあんなに差があるんだろうね」
「さあ。なんでだろう」
十五分ですごく寝た気になるときもあるし、何時間寝ても疲れがとれないときもある。
あれを操作できたら人生がすごく幸せになると思うのに。
「昨日は眠れなかったの?」
「いろいろ考えてたら、寝付けなくて。課題のこととか、部誌のこととか」
「……やっぱり、何かあった?」
こういうところ、静奈姉は妙に鋭い。
「なにもないって」
「そう。なら、いいんだけど」
たぶん、べつに納得したわけじゃないと思う。引き下がってくれたんだ。
年頃の男の子だし、秘密のひとつやふたつ、みたいな。
……それはそれで不名誉な気がする。
◇
準備を終えて外に出ると、五月の朝は晴れやかだった。
「まさに五月晴れって感じだなあ」
「そう? 違うと思うけど」
「違うの? 五月に晴れてりゃ五月晴れじゃないの? 五月晴れってどういうのなの?」
「分かってて"まさに"って言ったんじゃなかったの?」
静奈姉は呆れ顔をする。言葉は知ってるしなんとなくのイメージもつかめるけど、具体的にどういうものを言うのかは知らない。
「五月晴れっていうのは、梅雨時に見られる晴れ間のことらしいよ」
「え、五月って梅雨なの?」
「昔の五月は、いまでいう六月」
「あ、そういうこと」
「……どっちにしても、良い天気だね、今日は」
本当なら静奈姉はもっと朝がゆっくりなんだけど、今日は午前中に友達と会う約束をしているらしく、一緒の時間に出掛けることになった。
「そっか。でももうすぐ梅雨だね」
「雨はいやだな。洗濯物、乾かないし。湿気で髪ボサボサになるし……」
「まあまあ、雨だってがんばってるんだから」
俺はなぜか雨の肩を持った。
さて、と俺は静奈姉と別れて学校へと向かう。
とりあえず、学校についたら課題やらないとな。
ランドセルを背負った小学生たちの流れ。
俺は駅へと急ぐ。
懐かしい街ではあるけど、俺が前に世話になったのは静奈姉の家だ。
今俺と静奈姉が暮らしている部屋とは、当然だけどけっこう離れている。そうじゃなきゃ部屋を借りてる意味がない。
だからなんとなく、俺はこの街に疎外感を抱いている。
自分ひとりが仲間はずれにされてるみたいに。
まあ、望んで来たんだけど。
◇
「よくよく考えたらだよ、たっくん」
と、高森は朝から俺の教室にやってきて、俺の机に座って、不満気な顔で人差し指を立てた。
「六月に部誌出すっていったって、もう再来週には定期テストが始まるわけじゃない?」
「だな」
「正直、テスト勉強とかしたいわけじゃない?」
「まあ、そのためにテスト期間中は部活が休みなわけだし」
「でも部誌を出すって言われたら、原稿書かないわけにはいかないじゃない?」
「おう」
「つまり、わたしが勉強しなかったのは部誌の原稿を書かなきゃいけないからなんだよ」
「ん?」
「だからテストの結果が悪くても、それは部活のせいであってわたしのせいじゃない」
とんだ言い訳だ。
「それは建前で?」
「昨日買ったばかりのペットの期限がもったいないから勉強するよりゲームしたい」
「おまえちょっと生活改めた方がいいよ」
高森はうがーって吠えた。こういう愚痴ならクラスメイトに言えばいいのに。
と思うけど、まあ、部誌のことは部員に言うのが一番共感を得られるか。
「たっくん眠そう?」
不意にこっちを向いて、はじめて気付いたみたいに高森はそう言った。
「まあ、うん」
「寝不足? 駄目だよ、ちゃんと寝ないと」
「おまえだってネトゲで夜更かししてるんじゃないの?」
「経験値二倍なの、夜十時までだから、日付変わる前には寝るよ」
こいつ、ネトゲの経験値で就寝時間決めてるらしい。筋金入りだ。
「というかね高森さん。僕はこれから勉強しなきゃいけないから、ちょっと机をどいてもらえない?」
「どうしたのたっくん。熱でもあるの?」
「俺だって勉強くらいする」
高森は俺の机から降りると、隣の席の椅子を勝手に借りた。
どうせその席の主も、他の誰かの席を無断借用してるみたいだからいいんだけど。
俺が筆記用具を取り出したところで、高森は思い出したみたいに、
「そういえば昨日の新入部員」
と口に出した。俺の意識はそこで急停止を迫られた。
「藤宮ちはる?」
「そう。その子。たっくん、知り合い?」
「なんで?」
「なんとなくそういうふうに見えたから」
「知り合いっていうか……」
どう答えればいいか分からなくて、困った。
「わかんない。なんとなく、知ってるような気もするけど」
「ふうん?」
どうしよう、と思う。
藤宮ちはる。やっぱり話してみるべきかもしれない。気になるのはたしかなのだ。
つーか、今は課題だ。
「ほら、自分のクラスに帰れ。俺は勉強するんだ」
「ちぇ。はーい」
高森はようやく去っていったが、俺は奴の言葉のせいで課題に集中することがなかなかできなかった。
63-13 にに → に
つづく
乙です
乙です
◇
昼休みになった途端、俺はぐだあっと自分の席に突っ伏した。
結局どうしよう、こうしようなんてことを考えてるうちに授業に集中できなかった。
こういうのが俺の問題点だ。
考え事に気を取られて、現在の状況そのものを疎かにしてしまう。
過去の後悔や未来の不安ばかりに足を取られ、現在を楽しもうという意識が欠けている。
ゆとりがないのだ。
そんなことをぶつぶつ考えながら窓の外をながめて"地上の星"を鼻歌で歌っているとゴローがやってきて、
「タクミ、飯食お」
と誘ってきた。
「断る」
俺の一言にゴローは面食らっていた。
「なぜ?」
「いや。特に理由はないけど」
「じゃあ飯食お」
「いいよ」
「……なんで断ったんだよ」
「一回目はとりあえず断っとこうみたいな」
ゴローはめんどくさそうに弁当の包みを持ち上げて、俺を促して教室を出た。
俺も昼食を鞄から取り出して彼の背中を追う。
ゴローは高いところが好きだ。
だから彼と昼食をとるって話になると、だいたい屋上に行こうって話になる。
本校舎の屋上。芝生とベンチのある憩いの空間。
広々としていて、何組もの生徒がそれぞれに集まって過ごしている。
「調子はどうだい?」って、ゴローはベンチに座って弁当の包みを広げながら訊ねてきた。
「何の?」
「賭けさ」
「ああ」
そんな話もあったっけ、と俺は思った。
もう遠い昔の出来事という気さえする。
「どうかな」
俺は首をかしげる。きらきら……? どうだろう。たしかに、平凡で退屈なだけではないかもしれない。
じゃあこれがいいことの前触れかと言われると、正直よくわからない。
空は青く澄んでいる。頭上にはツバメが飛んでいる。五月のツバメ。
ベンチの脇に置かれたプランターのパンジーを眺めながら、俺はコンビニの袋からサンドイッチを取り出した。
最初の頃は静奈姉が張り切って弁当をつくるって言ってくれたけど、俺のために早起きさせるのは申し訳なかった。
俺自身が自分でつくってもよかったんだけど、そうしようとするとやっぱり静奈姉が作ると言い出す。
だから、結局コンビニで買ってくることにしている。
「今日もツナサンド?」
「おう」
「よく足りるよな、それで」
「自分でも結構不思議なんだよな」
「燃費いいよな。太んねえだろ」
「ときどき困る」
「ふうん」
そんなふうに俺とゴローがぼんやり過ごしていると、高森と佐伯が並んで屋上にやってきて、
「おっす」
と声を掛けてきた。
「うす」
「一緒していい?」
「どーぞどーぞ」
喋っていたのは高森だけで、佐伯は高森の斜め後ろからいつものぼんやりした目で俺たちを眺めていた。
佐伯と高森は同じクラスらしくて、けっこう一緒に行動することが多いらしい。
パット見の印象だとタイプが違うように見えるから微妙に不思議だ。
でもまあ、高森も騒がしい印象はあるけど、内面的にはやっぱり第一文芸部的なところがあるし、合わないことはないのだろう。
「ねむ」と、高森はあくびをしながら弁当の包みを膝の上で広げる。
「部誌の原稿、どうするか決めた?」
「いや。まだ何も考えてない」
俺はそう答えてから、ゴローは、と訊いてみた。
「いつもどおり適当に書くけど」
「そっか。どうしよっかな。何書こうかな」
悩み深そうに溜め息をつきながら、高森はたまごやきを食べた。
ときどき顔を合わせると、このメンバーで昼食をとることがある。
学年と部活が一緒ってだけだし、普段からみんなで遊んだりはしないけど、こういうふうに過ごすことは珍しくない。
みんな中身がまったりしててテンションが一定だから、付き合いやすかったりする。
「高森、あれ書かないの? オリエンタルファンタジー風味のやつ」
高森は去年一年間、四回の部誌の発行を、まるまる一本の小説に使った。
中世東洋風異世界ファンタジー。
漫画みたいだったけど、けっこう面白かった。長かったけどその分の読み応えもあった。
「あれ、もう完結したもん」
「スピンオフとか書けそうだったじゃん。俺、隠れ里の竜人の話読みたい」
うーん、と高森は唸った。
「でもねえ、違うんだよ」
「違うって何が?」
「つまり、あの話は一度あそこで完結しちゃってるわけ」
「はあ」
「そこに何かを付け足そうとすると、もうそれは別のお話になっちゃうわけ。
けっこう、他の人にも書かないのって言われたりするんだけど、そのたびに悩んじゃうんだよね」
「ごめん、言ってる意味わかんない」
つまりさ、と彼女はからあげを咀嚼、嚥下してから語る。
「あれ、評判は悪くなかったけど、じゃああの続きとして、あの雰囲気のままのものを書こうとしても無理なわけね。
問題は解決して、一定の展開を見せた以上、それまでの雰囲気通りのものは書けないわけじゃない?」
「はあ」
「あれを読んで楽しかったって言った人が求めるのは、続きじゃなくて反復なんだよ。
"あの感じ"がまた読みたいのであって、"続き"が読みたいわけじゃないんだと思う。
でも、"続き"を書くとなると、"あの感じ"にはならない。べつに書いたっていいけど、それは誰かが求めるものとは違っちゃうんだよ」
"わたしはそれを書く/あなたの望むかたちとは違うかもしれない/あなたの望む通りではないかもしれない/とにかくわたしはそれを書く"
「なるほどな」
俺はよくわからなかったけどうなずいておいた。
「たっくんはどうするの? 部誌」
「……どうすっかなあ」
正直、気分としてはそれどころじゃなかった。
藤宮には随筆と言ったけど、厳密に言うと俺の書いたものは随筆風の創作小説だった。
内容に関しては「よくわからない」とみんなに言われた。俺もそう思う。
何かを書くというのは、体力を消耗する行為だ。
わりと疲れるし、楽しくて書いてるときもあれば、しんどいのに書いてるときもある。
なんでかはわからないけど、しんどいからやめちまおうとは思わない。
しんどいけど書き続ける。そういう精神が、けっこうな頻度で必要になる。
それができなければ、何かを完成させることなんて、まぐれか幸運でしかできやしない。
「……考え中」と俺は答えた。
そんな話をしていると、「あっ」という声がすぐそばから聞こえた。
どきりとする。
声だけで誰だか分かるって、どういうことだよって思った。
顔を合わせて何日も経ってないのに。
「あ、るーちゃん」
と、高森は決めたばかりのあだ名で彼女のことをあっさり呼んだ。
そのまんますぎて、俺にはしんどい。
「こんにちは」と彼女は笑う。
「皆さんでお食事ですか?」
「そうそう」
妙にかしこまった言い回しと、気取らない自然な表情。
彼女のうしろには友達らしい女の子がいた。
ふたりは「それじゃあ」と言ってあっさりと去っていく。
「……声、かけないの?」
そう言ったのは佐伯だった。途端に、三人の視線は俺に集まる。
「……待て。なんでそうなる」
「知り合いかもしれないんでしょ?」
と言葉を返してきたのは高森だった。二人揃ってどういうことだ。
「まあ」
「確認してみたらいいじゃん」
煽る高森に、
「昔遊んだ子なんでしょ? 浅月が覚えてるくらいなら、あの子も覚えてるかも」
佐伯が追随する。
なにそれ聞いてない、って高森が食いつくもんだから、佐伯がぺらぺらと説明をはじめた。
「なんだよ、ちゃんと面白そうなことになってるんじゃないか」
ゴローは眼鏡をくいっと直した。
「じゃあ、ひょっとしてこないだ言ってた、たっくんの年下の女の子って、るーちゃんのこと?」
なんだ、年下の女の子って。
「なにそれ」と訊ねたのはゴローだった。
「ゴロちゃん知らない? たっくんに好きな子いるのってきいたら、年下の女の子と昔なんかあったって言ってた」
「言ってねえよ」
「ゴロちゃんっていうな」
「でもエスパーかって言ってたし、あたってたってことでしょ?」
俺とゴローからそれぞれ別々のツッコミが入ったが、高森は片方にしか反応しなかった。
佐伯が冷静な調子で話を整理する。
「つまり、子供の頃一緒に遊んだ女の子のことを、好きな子をきかれたときに思い浮かべたんだね」
佐伯の場合、からかうつもりもなく、純粋に質問してくるからタチが悪い。
「そういやタクミ、自分のことロマンチストって言ってたもんな」
たしかに言った。
三人寄れば文殊の知恵とよく言うが、この場合、それぞれに対する俺の発言を整理すれば辻褄が合ってしまうわけか。
そうやすやすと他人に何かを話すもんじゃない。猛省する。
「じゃあ、ひょっとして浅月の初恋?」
俺は返答に詰まった。
「……」
詰まった、のが答えのようなものだった。
「たっくん……しかも、たっくんとその話をしたの、るーちゃんが入部する前だったよね」
「……そうだっけ?」
「つまり、るーちゃんがこの学校にいることに気付くよりも先に、好きな子のこと訊かれてるーちゃんを思い浮かべたんでしょ?」
「……いや、どうだったっけ?」
「浅月、漫画みたいだね」
どういうたとえだ。
「うるさい。シャラップ。もういい。この件に関しては口出し無用だ。第一証拠はあるのか、証拠は」
「なるほどなあ、初恋の相手で、しかもモロに引きずってたから、話しかけるのを躊躇してたわけか」
「口出しするなというに」
「自分はめちゃくちゃ引きずってるのに相手が覚えてなかったらショックだもんね……」
「でも、遊んでたって言っても子供の頃なんでしょ? 中学ならまだしも高校入ってそれって、浅月、それもう一途とかじゃないよ。妄執だよ」
「そういうんじゃない! 俺はただるーと……」
「るー?」
三人は言葉を止めて俺のことをじっと見つめた。
俺はうつむくことしかできなかった。
◇
そんなことがあったから、放課後になってもすぐに部室に顔を出す気にはなれなかった。
かといって他に行き場もないし、部屋に帰るつもりもなかった。
どっちにしてもバイトまではどこかで時間を潰さなきゃいけない。
俺は東校舎の屋上に向かった。
もしかしたら佐伯がいるかもしれない、とも思ったけど、今日はそんなことはなかった。
本校舎の屋上に出たあとだと、やっぱりこっちの屋上には寂しい印象を受ける。
それに、こっちの屋上にひとりでいると、どうしてもいろいろなことを考えてしまう。
逃げるようにこの街にきてから一年が経つ。
未だに消化できずにいることが、俺の前に横たわっている。
フェンス越しに、街を見下ろす。
この街で暮らしている人々のこと。俺の住んでいた街で暮らしていた人々のこと。
いろんなことを想像する。いろんな人達が、いろんなふうに生きているところを、想像する。
いろんなことが、分からなくなっていく。
そんな気分のときにこの屋上に立っていると、決まって彼が現れる。
「ひさしぶりだな」
と、そいつは言った。
給水塔の脇。ハシゴを登った先のスペースから足だけを出して座っている。
口元には煙草。真っ黒の長い前髪が顔を隠していて、表情はほとんど覗けない。
骨ばった痩身の体格、ひょろ長い身長。骸骨みたいだと思う。骨格標本みたいだ、と。
ずっと前からの顔見知り。学年もクラスも知らない。けど、彼がここで煙草を吸っていることは俺も知っている。
あんまりにも堂々としているせいで、誰も咎めないのか。そもそもこんな屋上にやってくる奴は、そうそういないけど。
他の誰かがいるときは、不思議と顔を見せない。いったいどうやって他人を察知しているのか。
俺ひとりでくると、ときどきここで煙草を吸っている。
べつに咎める気も沸かないけど、一応第二文芸部に所属しているのに、部活に顔を出さなくていいんだろうか。
「鷹島 スクイ」
と彼はずっと前、俺に名乗った。
「変な名前」と思わず口に出したら「俺のせいじゃない」と彼は笑ってた。
「親のせい?」
「いや、おまえのせいさ」
俺は意味も分からず笑ったものだった。
「何を考えてる?」
スクイは煙を吐き出してから楽しげに笑って、そう訊ねてきた。笑いどころなんてひとつもなかったのに。変な奴だ。
「女のことか?」
「あたり」
「姉貴のことはいいのかい?」
「……」
まあ、俺には関係ないけどな。スクイはそう言った。
「そっちこそ、部活はいいの?」
「そういやあ、、部誌作るって言ってたな。奴らも思いつきでよくやるもんだ」
「珍しいね」
「俺は何も書く気がしないけどな」
「きみね、協調性とかないの?」
「協調性っていうのは、自分の判断や価値観や物事の正否の判断を一旦留保して、周囲の流れに合わせる能力のことか?」
「……そういう定義だっけ?」
「みんなが魔女狩りをしているときに魔女を火炙りにしたり、みんながユダヤ人を殺しているときに隣人を通報したりできる能力のことだろ?」
「……発言がいちいち黒すぎるんだよなあ、おまえ」
「みんながお国の為にって言ってるときに、戦争反対って言ってる奴がいたら、非国民だって村八分。なあ、それが協調性ってやつさ」
俺はコメントを差し控えた。
話せば話すほど、第二文芸部向きの性格じゃない。
ていうか、(俺が言うのものなんだけど)社会生活に向いてない。
「本当の協調性っていうのは、みんなに部誌の原稿を寄せることを強要するもんじゃない。
部誌の原稿を書きたくない奴の気持ちにも配慮して、書いてほしい奴と書きたくない奴の間の折り合いをつける。
それが協調性ってもんだろう」
だから俺は合唱コンクールも球技大会も修学旅行も不参加だ。スクイは堂々とそう宣言する。
おまえらが、「したくない」という俺の意思を尊重しないなら、「みんなでするべきだ」というおまえらの意思を、俺は尊重しない。
彼が言うのはそういうことだ。
いろんな人がいるもんだ。
さて、とスクイは梯子の上から跳ね降りる。
結構な高さだというのに、なんてこともなさそうに。
「俺は行くよ」
「今日は何?」
「べつに用事があるわけじゃない。用事なんてあるわけがない」
「ふうん」
「まあ、おまえもがんばれよ。優等生」
「そっちもな。劣等生」
は、とスクイは皮肉げに笑う。どこか、うれしそうだった。
規律を無視し、秩序を乱し、集団を軽んじ、協調をあざ笑う。
大人はそれを思春期と呼ぶ。俺たち学生も、スクイみたいな奴をどこかでバカだと感じる。
でも、スクイにとってはそうではない。
スクイにとっては、スクイの言葉を理解しない奴が、バカなのだ。
そんなバカだらけの世界を、スクイはまともに生き延びようとは思わないのだ。
ドッジボールで勝利するのはドッジボールに熱中して楽しめる奴だ。
「そもそもなんでドッジボールなんてしなきゃいけないんだ?」なんて考えはじめる奴は、残念だけどドッジボールの勝者にはなれない。
たぶん、次からは誘ってももらえなくなるだろう。
でも、そういう奴はべつに負けたところで悔しくはないだろうとも思う。
なぜドッジボールをするのか、なぜドッジボールで勝たなければいけないのか。
その前提に対してひとたび疑問を抱けば、「こうだ」と言える理由なんてひとかけらだって見当たらないことに気付けるはずだ。
勝たなきゃいけない理由がないなら、負けたところでなぜ悪い?
不参加を決め込んで不戦敗になろうと、何が悪い?
そう悟ってしまえば、ドッジボールなんて知ったことじゃない。
「そういうルールのそういうゲームをやるのはきみたちの勝手だけど、僕がそれに参加してあげる義理はないよね」
と、そう言ってしまえばそれで済んでしまう話なのだ。
ドッジボールで勝って大会に優勝してトロフィーをもらって嬉しいって、そういう気持ちもまあわからないでもない。
でも、みんながみんなトロフィーを欲しがってるわけじゃないし、ドッジボールを好きなわけでもない。
そもそもドッジボールなんて嫌いだって言う権利だってやっぱりあるはずだ。
天秤を疑うこと。たぶん、それがスクイの価値観だ。
でも、それは鷹島スクイの価値観であって、浅月拓海の価値観ではない。
スクイが去ってしまってから、俺はいくつかのことについて考えた。
姉のこと、みんなのこと、スクイのこと、
るーのこと、
を、考えはじめた途端、鉄扉がぎいと音を立てて軋んだ。
振り返ると、そこには思い浮かべたままの顔が立っていた。
息を切らせて、肩を上下させて、いかにも階段を駆け上ってきたという風情。
彼女は屋上に昇って、いま俺の前にいる。
夕日を正面から浴びた彼女の表情は、ちょっと苦しげだった。
たいした距離じゃないのに、どれだけの勢いで走ってきたんだか。
そういえばあの子は、運動が得意じゃなかったかもしれない。
彼女の表情は夕日で橙色に染まっていたけど、彼女から見たら、俺の顔は逆光でよく見えなくなっているだろう。
逆光の中に、影法師みたいに映っているはずだ。
誰そ彼。
屋上の縁、フェンスの傍に俺は立っている。
そこから、入り口の鉄扉まで、距離は短くもないけど、長くもない。
その距離のまま、彼女は息を整えて、俺はその姿をじっと眺める。
「どうしたの」と俺は近付かずに声をかけた。
「佐伯先輩が、きっとここにいるだろうって」
「……何か用事?」
「部活、出ないのかな、って」
はあ、と大きく息を整えてから、彼女はこっちへと歩み寄ってきた。
「呼んでこいって言われた?」
「いえ。わたしが勝手に」
「はあ。それはまた」
彼女は俺の隣までやってきて、俺がしていたように、フェンス越しに街を見下ろす。
わあ、と声をあげた。
「いい景色ですね」
たしかに、と俺は思う。
うちの学校はちょっと高台になっているから、屋上から街を見下ろすとなると、けっこうな高さからになる。
東校舎からは夕日も見える。
日没まではまだあるけれど、空は暗くなりはじめている。
こういう景色は、たしかに悪くない。
そういえば。
ポスターを拾われたとき以来か。彼女とふたりきりになったのは。
「景色を見ていたんですか?」
「うん。いや、どうかな」
「……どっちですか?」
彼女はくすくす笑う。
「考えごとをしてた。いろいろ」
「……考えごと、ですか?」
「うん。答えが出ないこととか、考える前に行動すれば済むこととか。それでも最初に考えちゃうんだ」
「はあ。それは、たいへんですねえ」
他人事みたいな言い方が、なんだかなつかしくて、うれしかった。
「部室、いこっか。暗くなってきたし」
結局何も言えずに、俺はフェンスに背を向けて、扉へと向かった。
ドアノブに手をかけたタイミングだった。
「あの」
と声をかけられて、振り返る。
今度は彼女の表情が逆光になってよく見えない。
「浅月、拓海先輩」
「……なんで急にフルネーム?」
「わたし、藤宮ちはるです」
「……うん。知ってる」
「……ちはるです」
動悸が走る。
どう応えるべきか、迷った。
彼女の表情は、よく見えない。
何を俺に伝えようとしているのか、分からない。
いや、分かるような気もするけど。
それはなんとなく、俺の勝手な期待なんじゃないか、とか。
勘違いだったらどうしよう、とか。
「……わたしのこと、覚えてませんか?」
……そんなことばかりだ。
結局、俺は自分のことばっかり気にしてる。
自分を守ることばっかりだ。
顔が見えなくたってわかるのに。
彼女の声は震えてるのに。
彼女は何回も何回も、繰り返し俺に名前を告げた。
それはきっと彼女なりのシグナルだったんだろうと思う。
俺は自分が傷つきたくないがために、その信号を無視し続けていた。
「名前、おんなじです。同姓同名じゃないですよね。珍しい苗字だし」
言葉を重ねるほどに声が震えていく。
俺は自分が嫌になった。なんで、この子にそんなことをさせてしまったんだろう。
分かってたのに。
「タクミくん、なんですよね? どうして、何も言ってくれないんですか?」
悲しいのか、怖いのか、よくわからない、取り繕おうとするような、冷静なふりをした、不思議な震え。
彼女はごまかすみたいに、笑う。
「どうして、連絡くれなくなったんですか? ……わたしのこと、きらいになったんですか?」
るー。
るーだ。
下手なごまかし笑い。強がりぐせ。大人ぶった口調は、もうだいぶ馴染んでいるけど。
素直で天真爛漫に見えるのに、相手を気遣って自分を抑えこみがちな性格。
去勢を張って強がるけど、臆病で怖がりで甘えたがりの。
それがわかってるのに、姿形が違うから、時間が流れたからって、俺は彼女のことを無視していた。
我ながら成長しない。むしろ退化したのかもしれない。子供の頃より、怖いものがたくさん増えた。
「るー」
そう呼んだ途端、彼女の肩からすっと力が抜けたのが分かった。
「ごめん。久しぶりすぎて、戸惑ってた」
会いたかった。会いたくなかった。話したいことがたくさんある。知られたくないこともたくさんある。
藤宮ちはる――るーは、急に跳ねるみたいに駆け出してきた。
俺に向かって、早歩きよりちょっとはやいくらいの駆け足で。
まっすぐに。そう長くない距離を。そのままのスピードで。
ていうか。
ぶつかる。
「うお!」
と声をあげたのは俺だけだった。るーは減速もせず、勢いも殺さず、飛びつくみたいに体をぶつけてきた。
せめて抱きつくくらいにしてほしかったけど、ほとんどタックルだった。
俺の体はるーの勢いと鉄扉に挟まれて軋んだ。
体重が軽いからたいしたダメージじゃないっていっても、危うく頭を打つところだった。
「危ないって、るー!」
俺は思わず抗議の声をあげる。
彼女は一瞬だけくっついた体をパッと離して距離をとり、俺の両側のほっぺたを、両手でつねってのばした。
「なんで連絡くれなかったんですか!」
「いたひいたひ」
今度はぱっと指を頬から離して、握りこぶしをつくると俺の腹のあたりをぽすぽす叩き始める。
こんなテンションだっけ?
さっきまでのおしとやかとすら言えそうな雰囲気とのギャップに、少し戸惑う。
「こっちにきてるなんて、聞いてないです。タクミくんのばか。ばか」
「いや、待てって。いろいろ事情があったんだよこっちにも」
「どんな事情ですか!」
「えっと、つまり、いろいろと……」
「説明してください!」
「待て、ひとまず落ち着け」
「落ち着けません。わたしをカナヅチにした責任、とってもらいますからね!」
「まだ泳げないのか? ていうかそれ、俺のせいか?」
「タクミくんのせいです! とにかく、言いたいことがたくさんあるんですからね!」
「……あー、待て。ほんとにひとまず落ち着け」
ふー、ふー、と息を荒くして、尻尾を踏まれた猫みたいに肩をいからせて、るーは俺をじとっと見つめてる。
目が潤んでる。
ていうか。
「……なんで泣くの」
「……泣いてないです。これは、目にゴミが」
うつむいて、ぽろぽろと涙をこぼしはじめる。
これはもう、言い逃れはできないな、と思った。
俺はしばらく黙ったまま、るーが落ち着くのを待った。
とりあえずポケットティッシュを取り出して彼女に渡した。
るーは子供みたいに鼻をかんだ。
るー……だよなあ。こういうとこ。
「とりあえず、説明は全部する」
「……逃げませんよね?」
「逃げられないだろ」
「……え?」
「でも、とりあえず話は後にしよう。ここだとなんだからな」
「どういう意味ですか?」
俺は扉の方を向いて、深呼吸をしてから、ノブを捻って勢いよくドアを開けた。
高森とゴローと部長が揃って扉の近くに立っていた。
「……高森。おまえその覗き癖治せ」
「あはは」
と高森は苦笑した。
振り返ると、まだ赤い目元をこすりながら、るーは笑ってた。
つづく
乙
乙です
◇
「じゃあ、今日は部活サボってずっと屋上にいたんだ」
部室についてから、部長はどうでもよさそうに言った。
「ずっとって……ちょっと屋上行ったら、すぐ顔を出すつもりでしたよ」
「ちょっと、ね」
と言って、部長は窓の外に視線をやった。
夕焼け。
……夕焼け?
「もうすぐ下校時間だよ」
「……そういえば」
さすがに、ちょっと戸惑う。
そんなに長い時間、俺は屋上にいたのか?
よく思い出せない。
「いったい何やってたの?」
「考えごとをしてたんです」
「まあべつにいいんだけどね。顔出せる日に出してもらえれば」
って、やばい。
「バイト……」
時計を見ると、バイトの時間まで三十分を切っていた。
「うわ」
「どうかしたんですか?」
すっかり落ち着いた様子のるーが、横から俺の顔を見上げた。
距離感は、さっきまでよりずっと近付いてるけど、その顔は今の俺には見慣れない女の子のものだ。
思わず目をそらす。
「や。今日、バイト。いそがないと、間に合わない」
「ずいぶんぼーっとしてたんだね」
部長はちょっと驚いた表情で、俺の顔をじっと見つめてくる。
視線から逃れるみたいに他の奴を見ると、ゴローもまた、こちらをうかがうように眺めていた。
「行かないと」
るーの方を、俺は思わず振り返って、目が合った瞬間、戸惑った。
べつに、怒ってもいなかったし、悲しそうでもなかったし、悔しそうでもなかった。
ただ取り繕ったような無表情で一拍呼吸をした後、
「仕方ないですね」
と笑った。
彼女はこんなふうに笑ったっけ? もうよく思い出せない。
「ごめん」
「いいです。ちゃんと説明してくれますよね?」
「うん。約束する。じゃあ……」
「はい」
にっこりと、また笑う。
その笑みが、衒いのないものなのか、それとも昔のような強がりなのか、見分けがつかない。
当たり前だ。いくら一緒に遊んだことがあるっていったって、言ってみれば"それだけ"だ。
この子のこと、この子の過ごしてきた時間のことを、俺は何も知らない。
さっきだって、ひさしぶりに仲の良かった友人に会ったから感極まっただけだったんだろう。
俺が彼女に抱いているような感情を、彼女もまた抱いているかもしれないなんて、そんなことは考えちゃいない。
そう思っておかないと、すがりつきそうになる。
店までの道を急ぎながら、俺はるーに、何をどこまで説明すればいいんだろうと考えた。
るーに会いたかったのは本当だ。
でも本当は、話したいことなんてなかったのかもしれない。
一緒に何かをしたかったわけでも、見せたいものがあったわけでもない。
それでもなんとなく、心が暖かくなっているのを感じる。
彼女は俺を覚えていた。それが嬉しかった。
店についたのは時間の五分前で、一分で着替えて売り場に出ると、先輩たちは「珍しいね」って笑ってくれた。
俺は遅れそうになったくせに上機嫌だった。
常連のおじちゃんに「なにか良いことでもあったの?」って訊かれるくらいに。
なんでもないですよ、なんて答えながら、俺は気持ちを落ち着かせる。
その日はひとつもミスをしなかった。クレームもトラブルもなかった。
いつもこうならいいのに、と思った。
そんな調子でバイトを終えて店を出ると、軒先のアーチ型バリカーに腰をかけている女の子がいた。
いや、女の子っていうか。
「……るー?」
「あ」
と、彼女はこっちを振り返った。ぎくっとした感じで。
「えっと、奇遇ですね?」
また、笑う。私服姿だったから、一瞬、反応に困った。
「……奇遇か?」
「ほんと。ほんと偶然」
「高森に聞いたの?」
そう訊ねると、るーはちょっと表情を凍らせたあと、素直にうなずいた。
「……はい。帰りに部長と蒔絵先輩と三人でケーキを食べに行ったんですけど、そのときに」
「ケーキ」
帰りにケーキを食べに行く。
「へ、へえ……」
高森にそんなおしゃれアンテナあったのか。
つーか部長もそういうのに付き合うのか。
女子部員と男子部員じゃ、当たり前だけど距離感が違うんだろう。
それにしても高森がそういうことをするのも珍しい。いつもはネトゲだバスの時間だってうるさいくせに。
ああ、でも、このあいだはイベント期間中だったから早めに帰っただけだったのかもしれない。
女子って行動範囲が男とは違うもんなのか、やっぱり。
俺は彼女たちに対する認識を改めるべきなのかもしれない。
なんて思って黙り込んでいると、
「ごめんなさい!」とるーは唐突に謝った。
「……怒ってます、よね?」
びくびくした調子でこちらを窺う彼女の態度に、俺は面食らう。
「な、なにが」
「いえ、ちがうんです。わたしも迷ったんです。学校一緒なんだからべつに明日でもかまわないって」
「はあ」
「それにいくらなんでもバイト先にまで押しかけて待ちぶせって、どう考えてもストーカー的ですし……」
「あ、うーん。そう?」
「べつにそういうつもりじゃないんですよ? 蒔絵先輩が、会いにいっても怒らないだろうって言ってくれたので……」
「るー」
「でも、やっぱり気味が悪いかなあとか、いろいろ……」
「るー、落ち着け」
「……はい」
るーは空を仰いで、ふー、と軽く息を吐いた。
緊張しているのか、上気して赤くなった頬を、彼女は右手でパタパタ仰いだ。
そういうのがわかると、こっちはかえって落ち着いてくる。
「一回帰ったの?」
「はい?」
「服」
「あ、はい」
「で、わざわざこっちまで来たんだ」
「……はい」
「わざわざ」
静奈姉の部屋から近い店を選んだから、るーの家からだと、けっこう離れてるはずだ。
地下鉄二駅分くらい。
「……やっぱり、ちょっと、変ですよね」
「べつに気にしてないよ」
そこまでされるとは思ってなかったら、けっこう意外だけど。
るーは何を言ったらいいのか分からなくなったみたいに「あー」とか「うー」とか言い始める。
何を俺相手にそんなに緊張することがあるんだ分からない。
「とりあえず、もう遅いし帰ろう。送るから」
「……はい」
なんだか気まずそうに、るーは俯いた。
送る、という言葉に、特に異論もないらしい。
そりゃ、まあ、そんな話はいまさらか。
何か話したいこととか、訊きたいこととかあって会いに来たんだと思った。
だから彼女が話しだすのを待っていたけど、しばらく黙っていても、るーは何も訊いてこなかった。
たぶん、似たようなことを考えてるんだろう。そう思った。
「お姉さんたち」
「……はい?」
「元気?」
「あ、はい。それはもう」
「今何してるの?」
「ちい姉は、いまは大学で、すず姉は、専門です」
呼び方が変わってるな、なんてことを思った。たぶん、彼女は気付いていないのかもしれない。
離れていた分、そういう些細な変化にいちいち気付いてしまう。
「専門って、何の?」
「動物です」
「あー」
似合う。
そんなふうに、誰がどうしてるとか、何がどうなったとか、当時頻繁に顔を合わせた人たちの話で盛り上がる。
それくらいしか、共通の話題はなかった。
ひとしきりそういう話が終わる頃には駅についていた。
切符を買って改札を抜け、車両を待つ間、しばらく沈黙が続く。
「……どうして」
と不意にるーは言った。
「どうして、連絡くれなかったんですか?」
「……えっと、まあ、それはいろいろあったんだけど」
というか。
彼女の方も、俺とそんなに連絡を取りたがってなかったんじゃないかと思ってた。
最初の頃はともかく、徐々に面倒になっていったんじゃないかって。
それでも、彼女にとって俺は友達だったのだろう。
今になってそう思えるのは、なんとなくうれしい。
怒ってくれたことがうれしい。
「携帯壊れたんだよ」
「……は」
「データ飛んじゃって。連絡先、わかんなくて」
親戚でもなんでもない、一緒に遊んだだけの相手。
それでも、人づてに頼めば、どうにかなったかもしれないけど。
静奈姉に頼めば、どうにかなるかもしれないと思ったけど、
俺が帰ったあとくらいから、あのとき一緒に遊んでいた人たちと連絡をとらなくなったらしかった。
頼もうとしたときも、気乗りしない雰囲気だった。
だから、頼めなかった。
こっちに来てからも、るーや、他の人たちがどうしているのか、静奈姉には聞けなかった。
るーは長い間押し黙っていたが、やがてくすくすと笑い始めた。
「そ、そうだったんですか」
それだけのことだったのかと、ほっとしたみたいに。
「いや、うん、そんなわけで、こっちに来るときも連絡したかったんだけど、覚えてるかどうか、わかんなかったし」
「……いつ、こっちに来たんですか?」
「去年の春だよ」
「一年前、ですか」
「うん」
「今はどこに住んでるんですか?」
「静奈姉の部屋」
「……静奈さん、元気ですか?」
「うん。たぶん。……どうなんだろう」
やっぱり、るーが静奈姉の近況を知らないってことは、そのあたりの繋がりは途絶えていたんだろう。
車両がやってきて、音を立てて扉を開けた。
乗り込もうとした瞬間、背中から、
「覚えてましたよ」
と、そんな声が聞こえた。
乗客の数は多いとは言えなかった。おかげで、小声なら話を続けられそうだった。
時間が時間だし、終点に近いから、無理もない。
「いつから俺だって気付いてたの?」
「さあ? いつからでしょう。タクミく……先輩は?」
「べつにいいよ。呼び方そのままで」
「でも、いちおう」
「かえってくすぐったいから」
「……じゃあ、タクミくん」
彼女はまた笑った。
「なんで笑うの」
「このやりとりの方がくすぐったいです」
たしかに。
「それで、タクミくんは?」
「……内緒」
「ということは、けっこう前から気付いてたんですね?」
「……」
相変わらず、ぐいぐいくるなあ。
「気付いてて、無視してたんですね?」
「……や。まさか本人だとは思わなかったし」
「本当に?」
俺は目を逸らした。
「ほんとうに?」
隣から、るーは顔を覗き込んでくる。
学校の外だからか、さっきから妙に距離が近い。
いや、それとも俺が変に意識してるからそう感じるだけで、彼女にしたら子供の頃の友達だから、当然の距離なのかもしれない。
「まあ、もしかしたらとは、思ってたけど」
「じゃあ、名前名乗った段階で気付けたじゃないですか」
「それは、お互いさまじゃない? 俺も名前言った段階で反応なかったから、てっきり別人か、覚えてないかのどっちかだと思ったし」
「……それは、それは、そうかもしれないです」
たぶん、お互いがお互い、おんなじことを考えて、声を掛けられなかったんだろう。
今になってそう分かった。
そう分かった途端、ばからしくて笑ってしまう。
駅を出て、るーと一緒に歩く。
こんなふうに歩いていると、不思議な気持ちになる。
前を向いているるーの横顔を歩きながら盗み見ていると、彼女はふっと視線を合わせてきて、「なんですか?」って顔をした。
しかたなく、俺は正直に話すことにした。
「本当は気付いてたんだよ」
「なにがですか?」
「るーだ、って。ポスターのときから」
「……」
「でも、なんとなく、話しかけづらくて」
「なんでですか?」
「ずいぶん長い時間が経ったし、もともとそんなに長期間顔を合わせてたわけでもない。
忘れられてるかもしれないし、覚えてたとしても、今となってはどうでもいい存在なのかもって」
「なんでそういうこと言うんですか?」
るーは、ちょっと戸惑ったみたいだった。
「だいぶ久しぶりだったし」
「それは、そうですけど、でも、そういうの、へんですよ」
「かも」
たしかに。変かもしれない。普通に話しかけて、なつかしいね、で済んだ話なのかもしれない。
「それに、なんとなく、遠く感じて」
「遠く、って?」
「なんか、綺麗になってたから」
「……は」
るーは一瞬あっけにとられたように口を広げたあと、眉をつりあげて俺の肩をばしっと叩いた。
痛い。
「なんですか急に。タクミくんのくせに」
「いや、俺のくせにってどういうこと」
「お姉さんをからかうの、よくないです」
「……俺の方がお兄さんなんですけどね」
「年上だって、聞いてなかったです」
「俺は知ってたけど」
「てっきり下だと思ってました」
……まあ、当時は身長もるーの方がちょっと高いくらいだったし、仕方ないのかも。
「……背、伸びましたね」
「そりゃ、まあ。るーだって伸びただろ」
見上げられて、思わず目をそらす。
「男の子みたいです」
「……男の子だよ」
「そういう意味じゃなくて……」
と言ってから、彼女は首を横に振って話すのをやめた。
歩いているうちに、懐かしい道へと近付いていく。
あの頃、何度か通った道。
景色は少しずつ変わっていて、夜だから、前に見たときと印象も違うけど。
そういえば、夏が近いんだ。
「どうして、こっちに来たんですか?」
俺は、答えに窮した。
窮して、
「るーに会いたかったから」
と、試しに言ってみた。
ばし、ってまた叩かれる。
「タクミくん、変わりました」
ふてくされたみたいに、るーはそっぽを向いた。
「言ってみただけだよ」
「なおさら問題です」
「嘘ってわけでもない。るーに会いたかったのも、本当」
るーは口をもごもごゆがませて、困ったような、怒ったような顔をした。
「……まあ、わたしだって、会えてうれしくないわけじゃないですよ」
「ならよかった」
と、それだけ言って、話をごまかす。
べつに、嘘をついたわけでもないけど、それだけじゃないのも、本当だ。
「タクミくん、女の子慣れしました?」
「なこと、ないと思うけど」
そりゃ、子供の頃よりは多少は、とも思う。
けどまあ、綺麗とか、会いたかったとか、ちょっと軽々しかったかもしれない。
「蒔絵先輩……」
「ん?」
「……やっぱり、なんでもないです」
「高森がなに?」
「聞こえてるじゃないですか。……なんでもないです」
そう言ったきり、るーは何も言わなくなった。
俺たちはそのまま、彼女の家までの道のりを歩く。
直接訪れたことはなかったけど、何度か家の近くまできたことはあった。
見た目の印象は、何も変わらない。広い庭、大きな家。
「あんまり、夜遅くにひとりで出歩くなよ」
一応、俺はそう言っておいた。
「世の中、良い奴ばっかりじゃないから」
るーは戸惑ったような顔のまま、しばらく返事をしてくれなかった。
「どうした?」
「あ、いえ。本当に、背、伸びたなあ、って」
「……何の話をしてるんだ」
「声も、変わりましたね」
「そりゃあ……」
そりゃ、そうだ。
喉仏がつきだして、声変わりがあって、体格だって変わる。
そういう変化は、俺だけじゃない。
るーだって、相応の変化が……。
なんてことを考えたらまた意識してしまいそうだから、やめた。
「とりあえず、明日学校で」
「あ……はい」
まだ何か、話し足りないこと、聞き足りないことがあるような気がした。たぶん、お互いにそうなんだろう。
でも、それはまた、思い出したときに話せばいい。
「とりあえずは、先輩後輩だな」
「タクミくんが先輩って、変な気分です」
俺も変な感じがするが、るーにそれを言われるといろいろと複雑だ。
年上として見られてない、というか、なんなら男としても見られてない感じがする。
たぶん、この子にとって俺は、弟分とか、子分とか、そういう存在だったんだろう。
なんとなくそう思う。
「また明日」
と俺は言った。
「はい。また明日」
るーも、そう言った。
るーが家に入るまで待とうと思ったけど、彼女はこっちを向いたまま動こうとしない。
仕方なく背を向けて振り返ると、彼女はにっこり笑ってひらひら手を振ってくれた。
誰に見られてるわけでもないけど気恥ずかしくて、俺はうなずいて軽く手をあげるだけにしておいた。
歩いても歩いても、足の裏の感触がうまくつかめなくい。
夢でも見ているのかもしれない、とぼんやり思った。
126-15 、、 → 、
162-14 つかめなくい → つかめない
つづく
おつおつ
乙
◇[Wounded Deer]
嵯峨野先輩が文芸部の部室をふたたび訪ねてきたとき、部室にいたのは俺とるーだけだった。
高森とゴローは図書室で調べ物、部長はコンピュータルームで原稿の雛形作り。
佐伯はたぶん、屋上。
「こんにちは」と嵯峨野先輩は言った。
まさか新入部員のるーに応対させるわけにもいかず、「どうも」と返事をしたのは俺だった。
いったい何の用事だろう、と思っていたら、
「あの子はいないの?」
と先輩は部室を見回しながら訊ねてきた。
「はあ。部長なら……」
「あ、いや。由良さんじゃなくて」
「はい?」
「えっと。ぶつかってきた子」
「……高森ですか?」
「あ、うん。そうそう」
嵯峨野先輩は気まずそうに頬を掻いた。
「高森に何か用事ですか? 治療費なら払えないと思いますよ」
そんな金あるならウェブマネーにつぎ込んでるだろうし。
「治療費?」
「ぶつかったことで何か言いにきたのかと」
「あ、いや。ちょっと遊びに来てみただけなんだよ。文芸部っていうのに興味があって」
「はあ。面白いことは何もないと思いますけど」
俺はるーと顔を見合わせた。
あの夜以来、俺とるーは一応、お互いをお互いと認識しながら、特にそれ以上の何かがあるわけでもなく、
ごくあたりまえの部活動の先輩後輩としての距離を保っていた(……ただのそれよりは、若干距離が近いかもしれないけど)。
だからふたりきりになって沈黙があったって気まずさはなかったんだけど、誰かが入ってくると途端に空気が乱れる。
まず、第三者の前で「るー」とか「タクミくん」とか呼び合うのは、思った以上に照れが入る。
おかげで俺たちの口数は、三人以上のやりとりでは極端に少なくなった。
「そっちの子は、新入部員? 勧誘した甲斐があったね」
嵯峨野先輩は顧問みたいな口調でそう言って、るーを見る。
彼女はぺこりと頭をさげた。たぶん、この部とどういう関係がある人なのか、わからないんだろう。
なにせ俺も分かってない。
「今は何をやってるの?」
「部誌の原稿作りです」
突然、部誌に寄せて何かを書けって言われたって、普段書く習慣がないかぎりそうそう書けやしない。
そういうわけで、新入部員るーの教育係に、俺は任命された。
部長も高森も面白がってる様子だったけど、まあ、いまさら俺もるーもそういうのを気にしたりはしなかった。
というか、俺が気にしたとしても、るーが気にしてないんだから仕方ない。
俺に教えてもらえって言われたときの、るーの「じゃあ是非」って満面の笑み。
あの笑みには不思議と逆らえない。
そういうわけで、基本的な文章作法(国語の授業で習うけど、意識しないとすぐに忘れがちな)とか、
あとは随筆や小説や散文の違いなんかを、おおまかに、るーに説明しているところだった。
「部誌なんて作るんだ。……他の人たちはどこにいるの?」
俺とるーは、ふたたび顔を見合わせた。
でも、答えて困ることにもならないだろうと思って、俺は素直に返事をした。
「部長はコンピュータルームに。残りのふたりは、図書室で調べ物です」
「ふうん。図書室」
……この人、なにか変だ。
変っていうか……いや、まあ、俺には関係ないんだけど。
「そっか。ふうん。じゃあ、がんばってね。おじゃましました」
「あ、先輩」
颯爽と去っていこうとした先輩の背中に、俺は声をかけた。
「先輩の名前、なんていうんですか?」
「嵯峨野連理」
と彼は言った。
「さがのれんり」
「紙とペンを貸してもらえる?」
俺が手元にあったルーズリーフとシャープペンを差し出すと、彼はさらさらとそこに字を並べ始めた。
嵯峨野 連理。
「すごい名前だろ? 五十五画ある。小学校高学年あたりから、テストのたびに書くのが大変だった」
小学生で習う常用漢字だけでできてるような俺の名前とは発想からして違う感じだ。
「かっこいいですね」
「どうかな」
と彼は照れ笑いしてから、再び背を向けて去っていった。
「どう思う?」
扉がしまってから、俺はるーにそう訊いてみた。
「なにがですか?」
「今の人、文芸部とは何の関係もない、ただの三年生なんだけど」
「はあ」
「何しにきてるんだと思う?」
「よく来るんですか?」
「今日で二度目」
「なんだか、蒔絵先輩のことを聞きにきたように見えたんですけど」
るーはシャープペンのノックボタンで自分のほっぺたをつつきながら首をかしげた。
「俺にもそう見えた」
「蒔絵先輩と仲良いんですか?」
「いや。このあいだ廊下でぶつかったのが初対面らしい」
「一目惚れですかね?」
「やっぱりそう思う?」
「やっぱりそうなんですか?」
「知らない。俺も会うの二回目だし」
「世間ってすごいですねえ」
俺とるーはそろって感心した。
「一目惚れかあ」
しばらく沈黙があったあと、るーはまた自分のほっぺたをシャーペンでつつきながら溜め息のように呟く。
「一目惚れって、見た目が好きってことですよね?」
元も子もない。
「フィーリングかもしれない」
「でも、フィーリングって、話してみたら違ったってパターンの方が多いと思うんです」
……まあ、もしぱっと見た瞬間の印象と実際が合致してたとしたら、すごい確率だとは思う。
「ていうか、話してもない段階でフィーリングとかあるわけないじゃないですか」
「立ち居振る舞いとか、話し方とか、表情とか」
「そういうのって、ある意味、見た目にいれちゃっていいと思うんですよ」
「ふむ。なるほどな」
正直どうでもいいなあ、と思いながら話を聞き流しつつ、俺はルーズリーフに残された嵯峨野連理という文字を眺めた。
改めてすごい名前だ。
嵯……山が高く険しい。
峨……山が高く険しい。
野……自然の。
「連理の山は高く険しい、というのでどうでしょう」
「……タクミくん、わたしの話きいてました?」
「きいてたきいてた」
つーか、人の名前で遊ぶのはやめとこう。
少しするとゴローが部室に帰ってきて、並んで座る俺とるーをちらりと見たあと、窓際の定位置に腰掛けてノートを広げ始めた。
「何か書くの?」
「ミートソースとボロネーゼの違いについて書く」
ゴローは真剣な顔をしていた。
「どこかに必要としている人がいるかもしれない」
「……まあ、いるかもなあ。高森は一緒じゃないの?」
ゴローは一瞬、よくわからない顔をした。何かに納得がいかないような。
「わからん」
「……一緒だったんだろう?」
「うん。図書室だった。なんであんなのがモテるんだ?」
あんなのて。
ゴローはべつに高森を嫌っているわけではないが、喧嘩友達として近付きすぎて、女子として見られなくなってしまったらしい。
「モテてたの?」
「こないだの先輩。あいつに声かけてた」
俺とるーは顔を見合わせた。
さらに少し経ったあと、高森が疲れたような顔で部室のドアにもたれるようにしながら戻ってきた。
「おかえり」
「ただいま……」
ふらふらと覚束ない足取りで、自分の定位置へと戻ると、彼女はぐったりと机に突っ伏した。
「……どうした?」
「つかれた」
「調べ物は?」
「わたし、何調べにいったんだっけ」
俺が知るかよと思った。
「そうだ。アナグラム考えにいったんだ」
「……アナグラム?」
「うん。アナグラム。人名辞典片手にアナグラム考えようと思ったの。小説に使おうと思って」
「はあ」
「アナグラムってなんですか?」と、るーが俺に小声で訊ねてきた。
「暗号みたいな奴だよ、文字入れ替えて別の文つくったりする奴」
「人名って言ってましたけど」
「よくあるんだよな。ある人物の名前を入れ替えると別の言葉になったりするの。あとは別の名前になったり」
「何か意味はあるんですか?」
「ある場合もあるし、ない場合もある」
大抵の場合はあるが、たいした意味がない場合もある。
「おもしろいですね」
「まあでも、そういう小細工に凝り始めると本筋がおろそかになりがちなんだよな」
「そうなんですか?」
「タイトルや登場人物の名前を考えるのに時間をかけすぎて本編書く時間なくなったりな」
「経験談ですか?」
「……」
俺は黙秘した。
「オリキャラの名前で姓名判断とかするようになったら末期だよねえ」
高森はぼんやり呟く。いろいろ痛い流れになってきた。
「でもけっこう楽しくない? 合ってても楽しいし、合ってなかったら話のアイディアになるし」
そこらへんから高森とゴローは、高校の文芸部らしいようなそうじゃないような、という話題で盛り上がり始めた。
そっちの会話には混ざらずに、るーはちらりと時計を見て、
「タクミくん、今日はバイトですか?」
と訊いてきた。
「いや。今日は休み」
「じゃあ一緒に帰りましょう」
一瞬、むっと言葉に詰まる。いちいちそういう反応になってしまうあたり、俺もバカみたいだ。
そもそも、誰かと一緒に帰ったりすることが少ないからなんだけど。
会話が一段落して、自分の原稿の作業に入ったゴローの横で、高森は憂鬱そうに溜め息をついていた。
「どうしたの?」
訊ねると、何か言いにくそうに口をもごもごとしはじめる。
まあ、なんとなく想像はつく。
「ナンパされた?」
「たっくんエスパー?」
「されたんだ」
どうでもいい会話のつもりだったんだけど、部誌のバックナンバーに目を通していたるーが顔をあげて何かを言いたげにした。
「どしたの?」
「なんでもないですなんでもないです」
聞いたら聞いたで、そっぽを向く。
なんなんだろう、と思いながら、高森の話の続きを聞く。
「知らない先輩に声かけられて……」
「はあ。珍しいね」
たぶん知らない先輩じゃないぞ、と言おうか迷ったけど、高森はたぶん嵯峨野先輩の顔をよく見ていない。
人懐っこそうな印象と裏腹に、高森はけっこう人見知りが激しくて、目上の人や異性が相手だとうまく話ができないらしい。
俺やゴローや部長に対しても、最初の頃はけっこう警戒心旺盛だった。
最終的に仲良くなれたのは、たぶん、文芸部全体がお互いに対して放任主義を貫いているからだ。
他人のスタイルに口出ししない。他人の生活に踏み入らない。
そういう相手に対しては高森も自分を出せるらしくて、最終的には自分が踏み込んでいくタイプになっていく。
そっけない猫ほど懐けば飼い主の傍を離れないもんなのだ(たぶん)。
「知らない人と話すの、疲れる」
「まあ、だろうね」
彼女はけっこう猫かぶりで、周囲に心を許せる相手がいないと、声が小さくなったり人と目を合わせなくなったりする。
ずっと前に、
「こう見えてわたし、すっごい人見知りなんだよ!」
と胸を張ってドヤ顔で言っていた。なぜか自信満々で。
「で、なんて声かけられたの?」
「……なんだっけ。文芸部がどうこう言ってた気がする」
「ふうん」
「また今度遊びに来るって言ってた。活動に興味あるからって」
「なんて答えたの?」
「お好きにどうぞって」
まあ、そう応えるしかないだろう。
「おつかれ。たいへんだったね」
「ありがとうたっくん。わたしのことを分かってくれるのはたっくんだけだよ」
いつのまにか俺は高森の中で唯一の理解者ポジションまで出世していたらしい。
そんな話をしていると、るーが控えめに「あのー」と手をあげた。
「その、たっくんって……」
「ん?」
「……あ。なんでもないです、なんでもないです」
るーは手をぱたぱた振った。
◇
駅までの道をるーとふたりで歩きながら、特に話すことのない自分たちに気付く。
文芸部の部誌のバックナンバーの話とか、俺の書いた文章の話とか、そういうこと。
ゴローや部長のついてとか、嵯峨野先輩と高森の話とか。
るーはやっぱり何かを言いたげにしているように見えたけど、聞いても何も言ってくれない。
言いづらいことなのかもしれないし、ほんとうになんでもないのかもしれない。
どちらにしても、何かを言われるまで放っておくことにした。
「部誌、何か書けそう?」
「うーん、どうでしょう」
るーはふんわり苦笑した。
「楽しそうだなって思いますけど、書くってなると、ちょっと照れが入りますよね」
「誰にも見せない日記とか書くようにすると、けっこう慣れるよ」
「タクミくん、やってたんですか?」
「去年はやってたな。最近、ぜんぶ捨てちゃったけど」
「どうしてですか?」
「静奈姉にみつかって……」
「あー」
そのときはしばらく静奈姉の顔を見れなかった。
「見せないつもりで書くと、いろいろ書いちゃうんだよな」
「それは……困りますね」
「ブログに鍵とかつけたりとか、ラインのタイムラインで、自分にしか見れないようにして投稿とかって手もあるけど」
「……間違って公開しちゃったりしません?」
「気をつければ平気だと思うけどね」
「ラインと言えば……」
「ああ」
と、ポケットから携帯を取り出す。るーも鞄を開けて、内側のポケットから同様に。
「ふるふるする?」
「位置情報オンにするの、めんどくさいです」
「いいじゃん、ふっとこうぜ」
「しかも振らなくてもできるじゃないですか、あれ」
「そうなの?」
「はい」
「……そうなんだ」
「なんでショック受けてるんですか?」
「いままで振ってたから」
るーはくすくす笑った。
「番号、交換しましょう。登録すればでてきますよね」
「あ、うん」
るーの番号を教えてもらって、電話帳に登録する。
出てくるかな、と思ったけど、よくよく考えたら友達の自動追加機能をオフにしていたんだった。
設定を変えたら、すぐに出てきた。
名前は「るー」になっていた。
「るー」
「はい。るーです」
どこでもるーなんだなあ、とぼんやり思う。
妙な感心をしていると、スマートフォンが短く二度振動した。
画面を見ると、るーからのメッセージだった。
うさぎが地面に寝そべっている奇妙なスタンプだけ。
るーはいたずらっぽく笑っている。
ちょっと笑ったけど、俺はノーコメントを貫いた。
「既読スルーですか!」
やかましい。
「そういえば、こっちに来てから一年なんですよね? どうですか?」
「どうって?」
「慣れました?」
「まあ、普通に生活する分には……」
といっても、普段買い物に行く場所とか、学校の周辺や、ゴローの家のあたりが俺の行動範囲の限界だったりする。
それ以外の場所はほとんど訪れない。もともと出掛ける方じゃないし、知らない土地となればなおさら、腰は重たくなる。
「あんまり出掛けたりしないんですか?」
「うん。土地勘ないし、土日、バイトの場合多いし、そうじゃない日はゴローと遊ぶか、家にいるし」
「そうですかー」
ぼんやりとした調子で相槌を打つと、るーは黙りこんだ。何かを考えているらしい。
そうこうしているうちに駅について、そこからは明日の天気とか、コンビニのデザートの新商品の話とかをした。
それじゃばいばい、と別れて駅を出た頃には、外は赤く染まっていた。
つづく
乙です
乙です!
◇
そして翌週の放課後になると、嵯峨野先輩は文芸部の部室に長い時間居座るようになった。
「入部しちゃおうかなあ」なんて冗談めかして笑う表情はいかにも好青年的な爽やかさ。
それでも「ぜひそうしてください」って声を掛けるような部員はひとりもいなかった。
かといって嵯峨野先輩が来ることに文句を言う奴もいない。
(なんせどうでもいい)
とはいえ、嵯峨野先輩の高森に対するアプローチは誰から見ても分かりやすかったために、
高森だけがやたらと疲弊する結果になった。
二日目には嵯峨野先輩は高森のことを「蒔絵ちゃん」と呼び始めた。
この人すげえな、と俺とゴローは感心していた。
感心しつつ、スルーしていた。
「もうやだ」と高森が言い出したのは水曜の朝のこと。
そのとき、高森とゴローが俺のクラスに遊びにきていた。
「はっきり迷惑ですって言えばいいんじゃないの?」
「でも、べつに何か直接言われたわけじゃないし、自意識過剰かも……」
高森は先輩に対しては妙な気弱さを発揮していて、それが話をよりいっそう面倒にしていた。
「だったら放置するしかないな」
「ゴロちゃん冷たいよ?」
「俺は高森とあの先輩のことより、タクミと新入部員のことの方が気になる」
流れ弾をくらったな、と俺は思った。
「そういえばわたしも気になる。一緒に帰ったりしてるみたいだけど、付き合うことになったの?」
「いや」
そういうんじゃないって、前も言った。
「つまんない」
「つまるつまらないで人間関係に口出しするなよ……」
「他人のことはひとごとで楽しむのが当然でしょ?」
「じゃあ高森も嵯峨野先輩とよろしくやってくれ」
「たっくん冷たい」
なんせ他人事だ。
「ほんとにあの先輩が入部したらどうする?」
「泣く」
俺の質問に、本当に泣きそうな顔で高森はうなだれた。
「そんなに苦手なの?」
「とても苦手な部類」
「悪い人じゃないと思うけど」
「わたしのペースを乱す人は、たいがい苦手」
いい人だとよりいっそう苦手、と高森は頬杖をついた。
「まあまあ」
なんてなだめていたら、高森は深々と溜め息をつき、たっぷり十秒黙りこんだかと思うと、
「カラオケいきたい」
と言い出した。
「なぜ急にカラオケ」
「カラオケいきたい。今日行こ? 部のみんな誘って」
俺とゴローは顔を見合わせた。
こういう高森の思いつきに付き合わされて、ボーリングだのなんだのに行くことは、今までも何度かあった。
もうすぐ中間で、しかも部誌の原稿作業もある。
が、まあ、そんなことを言っていたら永遠に何もできやしない。
いつだってしなきゃいけないこととやりたいことのバランスを取って生きていかなきゃいけないのだ。
「部長とちいちゃんと、そう。るーちゃんも誘ってさ。そだ。るーちゃんの歓迎会ってことにしよ」
るーともほぼ初対面のはずなのに、そっちに抵抗はないらしい。
まあ、異性・同性、年下・年上って差もあるから、不自然ではないのかもしれない。
「たっくん、るーちゃん誘っておいて」
「誘うも何も、いくとしたら部活の後だろ?」
「るーちゃん誕生日まだでしょ? 部活の後だと一時間くらいしか歌えないじゃん」
「どっちにしても、部室に集まってからみんなに予定確認すればいいだろ」
「そっかあ、そっかなあ」
高森はそんなふうにうめいた。
◇
その日の昼休み、俺は本校舎ではなく東校舎の屋上に向かった。
案の定、フェンスのそばに座り込んで、佐伯はサンドイッチを食べていた。
「うす」と声をかけると、「うす」とどうでもよさそうに返事が帰ってくる。
「わざわざこっち来たの?」
「それは俺が言いたいことでもある。今日は高森と一緒じゃないの?」
「いつも一緒ってわけじゃないよ。一緒じゃないときもけっこうある」
「高森は一緒にいたがるんじゃない?」
「まあ、うん。マキはわたしのことすきだからね」
自信、というわけでもないだろう。困ったような調子で、佐伯は笑う。
「ここから何か見える?」
「浅月には何か見えるの?」
「街とか」
「漠然としてるね。きっと浅月には、世界も漠然とした見え方がしてるんだろうね」
「どういう判断? それ」
「屋上からの景色判断」
佐伯は自分の隣を手のひらでとんとん叩いて、どうぞ、と手招きした。
招待を受けて、俺は彼女のとなりに座り込んで袋からパンを取り出す。
「今日はクリームパンですか」
「チョコデニッシュもある」
「甘いのばっかりだね」
「おいしいよ」
「知ってる。ねえ、わたしのところに来てよかったの?」
「なにが?」
「彼女さん、怒るんじゃない?」
「彼女?」
「ちはるちゃんだっけ?」
「彼女じゃない」
「そうなんだ」
話を振ってきたわりに、佐伯はどうでもよさそうだった。
「みんなして、そういう話をするんだな」
「思春期だしね」
「……よくわかんないんだよな、俺には」
「なにが?」
「好きとか、そういうの」
「みんな、実は分かってないよ。分かったつもりになってるだけ」
わたしにだって分からない。そう言って佐伯は自嘲気味に笑う。
「佐伯は、彼氏とかいたことある?」
少しの沈黙。
「……ない。浅月は?」
「彼氏はさすがにいないなあ」
「そうじゃなくて」
「俺のことはいいだろ」
二秒くらい俺と目を合わせてから、何かを察したみたいな顔で、佐伯は話をやめた。
「そういうの、考えたことなかったんだ。いろんなこと、あって」
佐伯は、いつも、遠くを見ているような顔をしている。
彼女は俺を誰かに似ていると言っていたけど、俺に言わせれば、彼女のそういうところの方こそ、誰かに似ている。
目の前の何かではない、頭のなかの何かを見つめるようなその表情は、誰かに似ている。
「同じく」とつぶやくと、佐伯は「おそろいだね?」って誰かみたいに笑った。
それからぼんやりと、彼女は俺の知らないうたを口ずさんだ。
「トンネル抜ければ、そこはまた、大きな、トンネルのなか」
昼の太陽は俺たちの頭上で光を撒き散らしている。
屋上に届く音は何もかもが透明な膜越しに聞くように遠く感じる。
「そういや、高森がカラオケいきたいって。今日」
「わたしも?」
「行かない?」
「いいよ」
俺はポケットから携帯を取り出して、佐伯の参加を高森に伝えた。
ポケットにしまいなおすと、携帯がすぐにブルっと震える。
やけに早いな、と思って取り出して画面を見ると、メッセージの主は高森ではなかった。
『秋津 よだか : こっちは雨です。』
メッセージと一緒に、どこかの屋上からの景色が添えられている。
暗く立ち込める雲の下、雨の街は薄暗くて、いま見ている空と繋がっているなんて、うまく想像できない。
でも、それはたしかに、いまこの瞬間、遠い街でたしかに存在する景色なのだ。
本校舎の屋上で、いまも誰かが楽しげに昼食をとっているんだろうとも思う。
たぶん、この場所の雰囲気とは、まったくちがうかたちに。
「佐伯って、きょうだいいる?」
「兄がいます」
彼女はなぜか敬語だった。俺は肩をすくめる。
「仲良い?」
「どうかな。基本的には好きだよ……その分、憎らしくなるときがあるかも。浅月は一人っ子だったよね?」
「うん。まあ、たぶん」
「……どういう意味?」
「いろいろあるんだよ」
「……そっか。まあ、いろいろあるよね」
「好きとか嫌いとか、よくわかんないんだよな」
「そうなの?」
「うん。ずっとこのままじゃだめなのかな。仲がいいだけ。何も変わらずに」
「ああ、うん……。わかる。わかるよ」
佐伯は何度かうなずいてから、首を横に振った。
「でも、変わらずにはいられないよ。ぜんぶぜんぶ、変わっていくんだよ」
「……」
「浅月はそうでも、ちはるちゃんの方は、どうなのかな」
俺は黙りこむ。
「変わることを、望んでるのかもしれないよね」
……。
「かわいい子だし、中学のときも、彼氏くらいいたかもね」
「……」
「そういうの、きっと、当たり前のことなんだよね」
「たぶんね」
と俺は平気なふりをした。
◇
放課後になって文芸部室にいくと、既に部員たちが全員そろっていた。
佐伯もゴローも部長も高森も、それからるーも。
高森は既にみんなにカラオケの話をしていたらしくて、部長も乗り気みたいだった。
さて、じゃあヒデに話して部活は課外活動ってことにしてもらおう、という流れになったタイミング。
そのときに扉がノックされたから、高森は一瞬びくびくした顔で扉を見つめていた。
でも、入ってきたのは嵯峨野先輩ではなかった。
「失礼するよ」と部室に入ってきたのは、見知らぬ男子生徒だ。
どこかで見たような顔という気がしたけど、たぶん話したことはない。
何かの機会で顔を合わせただけだろう。
彼は部員の顔をひととおり眺めたあと何かを確認するみたいにうなずいて、部長の方を見た。
「由良さん、ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな」
「どちらさま?」
部長はぼんやり首をかしげた。
「第二文芸部の部長をやってる及川です」
「あ、及川くん?」
名前を言われればわかるのに顔を見てもわからないあたり、部長もひどいと思う。
こほんと咳払いをしてから、及川先輩とやらは話をはじめた。
どこかわざとらしい口調で。なんとなく、敵意のような含みを感じる。
「ちょっとお願いしたいことがあるんだ」
「なに?」
「そのまえに訊きたいんだけど、きみたちも六月中に部誌を出すんだって?」
「"も"ってことは、第二も出すの?」
「ああ。そのことで提案があるんだ」
「提案?」
「うん。オリエンテーションみたいなものなんだけどね。ちょっと勝負をしないか?」
部長は首をかしげて、俺やゴローの顔を助けを求めるみたいに見回した。
何言ってるのこの人、という顔で。
「同じ日に、部誌を発行して、全クラスに配布しないか」
「……はあ。そのこころは?」
「その翌週に、昇降口の傍に投票箱を設置して、どちらの部誌が面白かったかを投票してもらう」
「……」
「つまり、部誌の出来を競い合うゲームをしないか?」
何言ってんだこの人、という顔をみんながした。
「はあ。なんでまた?」
「楽しそうじゃない?」
及川さんはにっこり笑う。
べつに楽しそうでもない。
部長は数秒、考えこむような表情をしていたけど、五秒くらいしてからいかにも「考えるのがめんどくさい」って顔をして、
「いいよ」
と独断で決めた。
「いいんですか。そういうの、許可とか必要あるんじゃ……」
俺の疑問に答えたのは部長ではなく及川さんだった。
「もう、両方の顧問と、他の先生方の許可もとってあるよ。生徒会にも一応」
おいおい。先にこっちに話を通せよ、と俺はちょっと呆れた。
「で、提案なんだけど」
「……はあ」
部長はちょっとうっとうしそうな顔をしていた。
「もし投票で俺たちが勝ったら、第一と第二を交換しないか?」
「はい?」
「つまり、俺たちが第一、きみたちが第二になる」
「……」
「勝った方が第一文芸部。そういう賭けをしないか?」
俺は、部長の表情を見る。「すごくどうでもいいしめんどくさい」という顔。
ゴローと高森を見ると、「この人が何を言いたいのかわからない」という顔をしている。
俺にもよくわからない。
「なんでそんな賭けを?」
「特に理由はないよ」
「だって、そんなの、わたしたちで決められることじゃないでしょ?」
「言ったろ。もう許可はとってある」
俺はちょっと笑いそうになった。
くだらないことにたいして、すごく真面目な行動力を発揮している。
ある意味で第二文芸部らしい。
「俺たちが勝ったら、これからは俺たちが第一文芸部だ」
「いいよ」
と部長はうなずいた。
それから部員たちの表情を見回して、「いいよね?」と首をかしげる。
俺もゴローも高森もうなずく。るーは、どう反応していいか分からない顔をしている。ずっと。
「なんなら今すぐでもいいです」という俺の言葉に、
「それじゃおもしろくない」と及川さんは笑った。
俺たちは既に楽しめそうもない。
それから及川さんは、期日とか、部誌の内容についておおまかなルールを決めたあと、
「じゃあ、よろしく」と背を向けて部室を去ろうとした。
その背中に俺は声を掛ける。
「聞いてもいいですか?」
彼は肩越しにこちらを振り向いた。
「なに?」
「もしこっちが勝ったら、第二は何をしてくれるんですか?」
考えていなかった、という顔を彼はした。
そのときだ。
そのとき、俺はイラッとした。
勝負なんてどうでもいいし、どっちが第一でどっちが第二かなんてどうでもいい。
でも、そういう顔は、ムカつく。
「考えとくよ」と及川さんは言った。アンフェアだとは、どうやら思わないらしい。
俺は苦笑して、ゴローの顔を見た。ゴローは肩をすくめていた。
「俺たちが決めてもいいですか?」
「……まあ、対等な条件ならね」
「じゃあ、何か考えておきます」
「ああ、よろしく」
そう言って及川さんは去っていった。
閉ざされたドアをみんなで十秒くらい見つめたあと、沈黙が起こる。
高森と俺は苦笑いをして、ゴローは眠そうにあくびをした。
るーは、なにがなんだかわからないような顔。
部長だけが、真面目な顔でずっと自分の手の甲を見つめていたけど、しばらくしたら手のひらを打ち鳴らして、
「じゃ、カラオケいこっか」
とにっこり笑う。一連の流れに置いてけぼりにされていたるーだけが、きょろきょろとみんなの顔を見回していた。
つづく
毎日読むの楽しみにしてます。乙です
乙
◇
職員室に行くと、ヒデは自分の机で何かの作業をしているようだった。
「中田先生、部誌の話なんですけど」
「あ、うん。第二と合同で何かの企画をやるんだろ? やっぱりみんなやる気出してくれたんだね。新入部員も入ったし」
部長はちょっと溜め息をつきそうになって、さすがにやめておいたみたいだった。
「第一と第二が入れ替わるかもって」
「うん。第一の座を賭けて勝負なんて面白いよね。きっと、普段文芸部の活動を見てない人も興味を持つよ」
やさしげな熊みたいな顔で、ヒデはぽわぽわ笑った。
「……そうですね、そうかもしれない」
部長はべつに異論を唱えたりはしなかった。どうせもう引き受けてしまった勝負なのだ。
「それで、みんなそろって何の用事?」
「今日は新入部員の歓迎会をしたいので、活動を休みにしたいんです」
「ああ、うん。了解。戸締まりは?」
「しておきました」
「分かった。うん。部誌の作業は、いつもどおりみんなに任せていいよね?」
「はい。最終確認だけしていただければ」
「了解。しっかりね」
そんなわけで、顧問公認でカラオケに行くことになった。
◇
昇降口を出てから、少しだけみんなが靴を履き替えるのを待つ。
女子集団は移動するにもおしゃべりをしていて、おかげで男子とは足並みがなかなか揃わない。
そんなタイミングでゴローとふたりきりになると、彼は少し困った感じに笑った。
「どうやら、あの賭け、勝てそうもないな」
「べつに負けたっていいだろ。名前が変わったってやることが変わるわけでもない」
「そっちじゃない。俺とおまえの賭けのことだよ」
「……ああ。そっち」
そういえば、あれもあれで賭けだったんだっけ。
すっかり頭から抜け落ちていた。
「……勝てそうもないって、どういうこと?」
「うん。なんとなく分かった。藤宮が入部してきたときは、ちょっとどうにかなるかとも思ったんだけどな」
「……きらきら?」
「そう。タクミくんにとってのきらきらの話」
藤宮ちはるが、俺にとってのきらきらになりうるかもしれない、とゴローは思っていたらしい。
そして、その考えを今翻した。
俺はちょっと意外に思う。俺の方こそ、敗北宣言をしなきゃいけないかもしれないと考えそうになっていたのに。
「でも、どうやら無理みたいだな」
吹奏楽部の音階練習の響きが聞こえた。日差しがあるせいで、外は少し暑い。
グラウンドで野球部が練習をしているのが見える。剣道部が敷地の外周をランニングしている。
「タクミが退屈そうにしてたのは、楽しいことがないからだと思ってた。毎日が平板で退屈だからだと思ってた」
違うんだな、とゴローは言う。
「おまえは何かに気を取られていて、目の前のことを素朴に受け取ることができなくなってるみたいだ」
「……」
「なにが目の前にあったって、他のことを考えてる」
「……」
「おまえ、本当は、藤宮に会いたくなかったんじゃないか?」
勝手なことを言われている、と思った。
怒ってもいいところだ。たぶん。
"たぶん"と思うということは、俺は怒ってない。
「なあ、日々はそんなに退屈で、世界はそんなに平板か? 本当に?」
あの夏のことを思い出す。何もかもがきらきらに輝いていた。
昼寝の午後、プールの水面、みんなで出掛けた道、祭りの金魚、
台風の夜、大騒ぎのバーベキュー、UFOキャッチャーのぬいぐるみ。
朝から遊んで、遊び疲れて昼寝して、昼食をとってからみんなで出掛けたような日々。
隣にはるーがいた。傍にはみんながいた。
るーの姉たち。静奈姉。それから、遊馬兄と美咲姉、遊馬兄の友達。
きらきらしていた? きらきらしていた。
でもそれは、俺が"知らなかった"からだ。
ものごとのひとつの側面しか見えていなかったからだ。
隠されていたもの、裏側にはりついていた影、マジックミラーの向こう側。
「日々が退屈だとも、世界が平板だとも、べつに思わないよ、俺は」
そう答えた。本当にそう思った。
「つまり俺は、ロマンチストなんだよ」
ゴローは納得がいかないような顔をしていた。
俺はポケットから携帯を取り出して、"秋津よだか"とのトークを開く。
例の写真を、もう一度見る。彼女は濡れながらこの画像を撮ったのだろうか。
俺はカメラを上に向けて、透き通るように晴れ渡った五月の空を撮影する。
こっちは晴れてるよ。そう添えて、その画像を送った。
それが本当のことだ。誰がどう感じようと、それはそういうものだ。
「……それにしても、遅いな、あいつら」
ゴローはぼやきながら後ろを振り返る。たしかに、みんな遅い。
◇
で、やっと出てきた女子部員たちに、ひとり男が混じっていた。
「やあ」
と嵯峨野先輩はにっこり笑って俺たちに向けて手を挙げた。
「どうも」と俺たちは頭をさげる。
「カラオケ行くんだって? 俺も一緒に行ってもいい?」
恐れのない人だなあと俺は思ったが、まあ案外こんなもんなのかもしれない。
自分が遠慮がちだからそう感じるだけなのかもしれない。
「だめです」
と、それでも俺は断っておいた。高森が救いを見たような顔をする。
「え、駄目?」
「……や、べつにいいです」
でも聞き返されると断りきれなかった。自分を悪者にしたくないタイプなのだ。
高森は裏切られたような顔をしていた。
よっぽど苦手らしい。
とはいえ、どうやって断れというんだ、こんな言われ方をして。
そんなわけで俺たちは駅前近くのカラオケ店に連れ立って向かった。
男子三人女子四人、計七名。
冷静に考えれば奇妙な組み合わせかもしれない。
いっそ嵯峨野先輩が本当に文芸部に入ってしまえば、この奇妙さも少しは軽減されるような気もする。
部屋に入ってデンモクをまっさきに掴んだのはゴローだった。
こういうとき一番乗りするのはいつも高森なんだけど、嵯峨野先輩のせいで少し緊張状態にあるらしい。
「ほら、タクミ」
「俺?」
「一発かましてくれ」
「わー」とるーがうれしそうに笑った。
仕方ないな、と俺は覚悟をきめて、少し考えてから曲を入れた。
カラオケの定番やランキングに入っているような曲は歌えない。
というか普段ならそういうことを意識しないのだが(みんな気にしないし)。
とりあえず「1000のバイオリン」をほどほどノリながら歌った。
歌うのは嫌いじゃない。上手くないけど。愛想っぽい縦ノリが痛い。
誰かが勝手に採点をオンにしてたらしく、曲が終わると点数が表示された。83点。
一曲目歌ったあとの沈黙は、ノッてる奴がいないと痛い。
が、大声で歌う俺を見ているうちに、高森も気を使うのがばからしくなったらしい。
嵯峨野先輩を気にしても仕方ないと悟ったのか、俺の次に歌ったのは彼女だった。
高森が歌ったのは大森靖子の「絶対絶望絶好調」だった。無駄に上手い。
91点。
ああ、もうこれで俺が気を使わなくても大丈夫だ、と思った。
◇
部長とるーはほとんど歌わなかった。ときどき思い出したみたいに高森とデュエットしたりしてたけど。
それもそのはずで、そもそもは高森の気分転換のためのカラオケだったのだ。
気分転換どころか、ストレスの原因(といったら可哀想だけど)が一緒に来てしまったけど。
ゴローはずっとタンバリンを鳴らしていた。
佐伯はというと、意外にも好きなタイミングで好きな曲を入れて勝手に歌っていた。
たいてい、みんなの知らない曲だった。
それで嵯峨野先輩はというと、ひたすらにバックナンバーを歌っていた。
どうやら好きらしい。
俺は妙な対抗心を働かせてバックホーンを歌ったけど、冷静に考えたらあんまり対抗できていなかった。
ともかく高森は嵯峨野先輩のことが気にならなくなるくらいに熱心に歌った。
途中からその歌いぶりにみんなが聞き惚れていた。
高森が宙舟を歌えばみんながほおっとなった。高森が地上の星を歌えばみんなが我が身を省みた。
高森が糸を歌えば誰もが涙ぐんだ(中島みゆきが好きなのかもしれない)。
「糸」を歌いきったあと、「この曲を藤宮ちはるさんに捧げます! 入部してくれてありがとう!」と高森が叫ぶ。
俺たちは感涙しながらぱちぱちと拍手をした。るーはにこにこと「ありがとうございます!」と返事をしていた。
俺は新入部員の歓迎会という建前を忘れていたが、「るー、ありがとう!」と騒いだ。
みんながみんなるーに「ありがとう!」と声をかけた。
ちょうどいいタイミングでゴローの頼んだコロッケを持ってきた店員は、宗教の集まりを見るみたいな顔をしていた。
つづく
高森さん可愛いなw 乙です
チェリーの名前が出てびっくり
乙です
遊馬っていうんだ
チェリー達は今どうしてるのか気になるけどこわいな
まだチェリーはチェリーなのかなる
乙です
◇
歌をうたう高森のハイテンションぶりをみて、嵯峨野先輩がどんな反応をしたかというと、これが意外にも好印象だったらしい。
高森の方もまた、一度テンションの殻を破ったところを見せてしまうと、彼のことが平気になったらしい。
「蒔絵ちゃん、歌うまいんだね」
「まあそうですね。そういうとこあります」
なんて、ふたりで楽しそうに会話していた。
そんな調子で高森のテンションが高めになったところで嵯峨野先輩が連絡先をきくと、彼女はあっさり教えていた。
華麗なやり口だと俺は思った。
それから先輩は映画を観るのが趣味だとかそういう話をして、知っている映画をいくつか挙げた。
高森がそのうちのひとつに反応を示すと、「実はその映画の監督の新作が今やってて……」という話になり、
最終的に「じゃあ今度一緒に見に行かない?」なんて誘いにいつのまにか変わっていた。
俺が同じことをやろうとしてもこうは行くまい。
「あ、いや……ふたりでですか?」
と高森がちょっと冷静になって難色を示すと、嵯峨野先輩はあっさりひいて、
「いや、何人かでさ。ここにいるみんなでもいいけど」
と当たり前のようにみんなの顔を見回す。
「今週の土曜にでも、どう?」
俺たちは顔を見合わせた。
「……あ、や。待ってください」
と高森が言いかけたところで、
「俺はいいっすよ」
とゴローは言った。
俺たちは面食らった。
「タクミは?」
「……土曜? バイト夜からだし、まあ平気だけど」
「高森も暇だって言ってただろ?」
「え……」
「どうせ家でゲームやるだけだって言ってたじゃん」
事実を婉曲的な表現で持ちだしたゴローに対して、高森は「うっ」と言葉に詰まる。
「蒔絵ちゃん、ゲームとかやるんだ。どんなの?」と嵯峨野先輩が妙に食いつく。
さすがに、怪訝に思う。この人ちょっと変じゃないか?
とはいえ、今それより気になるのは、むしろゴローの対応の方だった。
「映画館に観に行くより、レンタルショップで借りてきた映画をひとりで見た方が面白いし数も見れる」と豪語してたのに。
何のつもりだと思ってゴローを見ると、彼はどうでもよさそうに部長と佐伯にも予定を確認しはじめた。
ふたりは一瞬ずつ、ちらりとゴローと目を合わせて、なにかを察したような顔をして、
「大丈夫」「平気だよ」とそれぞれ頷いた。
最後に彼はるーの方を見て、
「藤宮は?」と訊ねる。
「……皆さんがいくなら」と、突然の流れに戸惑いながらも、るーは頷く。
どういうつもりだと問いたかったけど、嵯峨野先輩はすごく乗り気で、「じゃあ上映時間調べてから連絡するよ」とにっこり笑った。
マジでか、と俺は思った。
◇
とにかくその場はそれで解散になり、その週の土曜に出掛けるという話になった。
家に帰ってからラインに通知が来て、何かと思ったら文芸部のトークグループをゴローが勝手につくったようだった。
『第一文芸部(5)』
るーの連絡先は知らなかったらしく、彼女は含まれていない。
『そんなわけで土曜日映画です』
『どういうつもりだ!』
ゴローのメッセージに対して、即座に高森から怒りの返信。
『え、いいじゃんべつに。みんなで映画観たかったんだよそう、きっとそう』
ゴローは文字媒体だと五割増しくらいで発言が適当になる。
『わたしは観たくない!』
『どうせ暇だろ』
『休日の使い方なんて自由なはず!』
『どうしてもっていうなら行かなくてもいいと思うけど、べつに』
通知がうざい。
とりあえず通知をオフにして、様子をうかがう。
ところがそれから十五分くらい返信が途絶えた。
俺がちょっと不安になったところで、高森から『行く』というメッセージ。
……たぶん、『自分がいないところでみんなで出掛けてるのもそれはそれでいや』ってことだろうな。
佐伯も部長も抵抗なさそうだったし。
しかし、これはどういうつもりなんだろう、とちょっとだけ思う。
部長も佐伯も、あんなに簡単に話に乗るとは思わなかった。
考える隙なんてほとんどなかったはずなのに。
まあいいか、と俺は思う。そんなのは気にしたって仕方ないことだ。
どうせ今日はまだ水曜。土曜のことなんかより、明日のことを考えなきゃいけない。
そういえば、例の第二文芸部とのやりとりのこともある。
なんで今急に、いろんなことが起き始めているんだろう。
そんな疑問を持ったけど、それもまた考えても仕方ないことだ。
ほとんどのことは、俺とは無関係に起きる。
『そういえば、みんな、部誌は何書くの?』
訊ねてきたのは部長だった。
『ミートソースとボロネーゼの違い』とゴロー。
『じゃあわたしカルボナーラとペペロンチーノ』と高森。
俺は『ナポリタンの起源』と答えた。すぐに既読4ついた。
みんな暇なのか? 俺もだけど。
『わたしは何も書きたいことがないということについて書きます』と佐伯。
『あとはりねずみのこととか』と続く。
『なんだそれ』とゴロー。俺もそう思った。
『はりねずみかわいいよね。ひらがなにするともっとかわいい』
そう語る佐伯のラインのアイコンはピンク色の、オウムかインコかよく分からない鳥の写真だ。
『動物全般がかわいい』と高森。
『猫がいちばんかわいいけどな』とゴロー。
部誌の話はどこにいった。
『蒔絵ちゃんは小説?』と、部長が話を戻す。
『たぶんそうなると思います』
『タクミくんは?』
……そうか。ゴローは本当にパスタ系で行くらしいから、答えてないのは俺だけってことになるのか。
俺は、第二文芸部の、及川さんとの会話を思い出す。
『ほどほどに、疲れない感じのものを』
『随筆?』
『ほどほどに疲れない感じのものを装ってはいるけど、よく読むと疲れる感じのものが理想です』
『ジャンルを聞いてるんだけど……』
『ノリに任せます』
『……出来を見て判断します』
書き始めの段階では日記だったつもりが、気付くと小説になってる、というパターンが割と多い。
まあ、そんな調子で結局小説であることが多かった。
突然、ゴローからグループに画像が送られてくる。
どうやらゴローの家の猫の写真らしい。丸くなって、クッションのうえで眠っている。
『かわいい』と佐伯。
『寝てる猫はだいたいかわいい』と高森。
『まあ飼い主に似るっていうしな』とゴローは調子に乗っていた。
俺はそこでとりあえずラインを閉じた。
部誌のこと。本当に、例の企画めいたことをやるつもりなら、ヒデが言っていたように、普段より注目は受けるかもしれない。
第二の行動力は半端ではないし、お祭り騒ぎが好きな奴らだ。
教師陣や生徒会にまで許可をとった以上、各学級にホームルームで通達とかしかねないし、ポスターくらい作りかねない。
それを思うと少しだけ気分が重くなった。
勝ち負けで言ったら、たぶん負ける。それが分かっているのが、ちょっとだけしんどい。
もちろん、勝つために書くわけではない。だからといって、負けの烙印を押されたら、悔しくないわけがない。
溜め息をついたところで、ラインの通知が鳴った。
またか、と思ったけど、よく考えたらグループトークの通知はさっきオフにしておいたのだった。
メッセージを見ると、どうやらまた、秋津よだかからのものだった。
一日に何度もメッセージをよこすのは珍しい。
『こんな日だけど、夜空はきれいです』
添えられた写真は、どうやら夜空を写したものらしいが、俺には真っ黒にしか見えなかった。
◇
誰も誘わないもんだから、仕方なく俺がるーにグループへの招待を送った。
べつに誰が困るわけでもないだろうし、困るなら別のグループをつくれば済むことだ。
るーは儀礼めいた挨拶だけすると、それ以降は発言しなかった。
それから個別ラインで、俺に『ありがとうございます』とメッセージをよこした。
実物より文面の方がそっけない感じになるのが、いかにも彼女らしい。
それからまた、個別の方で追撃が来る。
『ちょっと訊きたいんですが、タクミくんって、蒔絵先輩と付き合ってたんじゃないんですか?』
俺は一瞬混乱した。
『なんでそう思ったの?』
『たっくんて呼んでましたし、仲良さそうでしたし、よく話してましたし、付き合わないまでもいい感じなのかな、と』
『それは気のせいだな』
『気のせいでしたか』
『高森は人をあだ名で呼ぶくせがあるんだよ』
『そうだったんですか』
『大抵、あだ名の方が名前より長くなる』
タクミ→たっくん、ゴロー→ゴロちゃん、ちえ→ちーちゃん。見事に長くなっている。
『かんちがいしてました』
『そういう事実はないです。もう寝なさい』
『おやすみなさい』とるーは素直に返事をよこした。
ふう、ようやく落ち着いたな、と思ったところで、またラインの通知。
普段は一日に一度も鳴らない日の方が多いのに、今日に限っていったいなんなんだろう、と思って画面を見る。
『しあわせってなんだろうね?』
秋津よだか。
知るかよ、と俺は思う。
『探せば?』
『見つかると思う?』
『どこかにはあるかも』
『そうだといいよね』
『ないかも』
『なかったら悲しいね』
『悲しい』
『おやすみ』
『おやすみ』
そして俺は携帯の電源を落とした。
課題をしてから少し部誌の原稿の内容について考えて、思いついた言葉や題材のメモをノートに残す。
"遠足、楽しげな顔、地球の裏側、燃え続けている、秋津よだか、
星、鳥、燃え続けている、飛行機事故、虫刺され、知ること、知らないこと、ハッピーエンド、
ページをめくらないこと、猫の死体、鷹島スクイ、鉱質インク、手首、花火、目を瞑る、“
ふと気付くと随分長い間ぼーっとしてしまっていたみたいだった。
「まだ寝ないの?」と扉の向こうから静奈姉が声をかけてきた。明かりが漏れていたらしい。
「もう寝るよ」と俺は答えた。そして実際、シャワーを浴びて眠った。少しだけ夢を見た。
つづく
乙
猫の死体来た
屋上大好きなこの人なら、るーや高森じゃなくさらっと佐伯ルート行ってもおかしくない
るーちゃんかわいい乙
◇
そして問題の土曜の朝、待ち合わせの場所に指定された駅前のドーナツ屋に姿を見せたのは、嵯峨野先輩と高森とるーだけだった。
ちょうど約束の時間を過ぎた頃、ゴロー、佐伯、部長、それぞれから示し合わせたように連絡が来た。
「急用が出来たので今日はいけない」とゴロー。
「歯医者の予約を入れていたのを忘れていました」と佐伯。
「部誌の作業が遅れているので」と部長。
みんな急用ができたみたいです、と報告すると、嵯峨野先輩は「そうなんだ」とちょっと困った顔をした。
高森は「仕方ないね」と溜め息をついていたが、るーはどっちでもよさそうだった。
土曜の朝十時過ぎ、開店直後のドーナツショップにはあまり人気がなかった。
俺たちを除いて何組かの客がいるだけで、まだどちらかというと朝の静けさを引きずっているような様子。
「じゃあ、とりあえずこの四人で映画に行く?」
「……に、しますか」
一度観に行くことを受け入れたわけで、そうなると集まらなかったからといって解散するのも気が進まない。
ましてや、一人二人ならともかく、四人揃っているわけで。
というか。
そういうことを見越してゴローが謀ったのではないかと疑ってしまう俺は性格が悪いのか?
高森もるーも、そういうことを一切疑っていない様子で、おかげで俺は自分がひどく疑心暗鬼の状態なんじゃないかと悲しくなった。
「それにしても、みんな揃って用事とはね」
「まあ、土曜はみんな忙しいですからね」
たぶん。知らないけど。
高森は「それならわたしだって経験値……」とぼやいていたけど、俺はしらんぷりした。
「映画の上映時間だけど、昼過ぎからみたいなんだよね。それまでどっかで時間潰そうか」
まあ、そうなっちまったもんは仕方ない、と嵯峨野先輩に従う。
彼も彼で人数が少なくなると落ち着いて仕切り始めた。
このあいだは俺たちに乗っかったかたちだったけど、今回は彼が提案した形になる。
ちょっとだけ彼の対応が変わっているあたり、責任感が強くて柔軟なタイプなのかもしれない。
悪い人じゃないんだよな。
馴れ馴れしいけど。
「映画館って、モールですよね?」
と訊ねたのはるーだった。モールというのは近隣にある大型複合施設の通称だ。
以前、この街に来た時も行ったことがある。ほとんどよく覚えていないけど。
あのときもみんな一緒だった。
「モールに映画館なんてあったっけ?」
「昔はなかったんですけど、モール自体が改装されて、そのときに映画館がすぐ傍に……」
ずいぶん思い切った改装だ。
「モールでぶらぶらしながら時間つぶして、お昼食べてから映画行く?」
「それがよさそうですね」と高森は頷いた。
なんだか、普段とメンバーが違うせいで、高森のノリも違うような気がした。
こういうとき、行き先を決めたりするのはもっぱら佐伯や部長で、高森は決めたことにただ従う場合が多かったのに。
人間って柔軟な生き物なんだなあ、と妙な感動を覚える。
ひとりでいることが多いと、そんなことすら分からない。
そういうわけで、その場で軽食をとってから駅へ移動。モールへと向かった。
モールと言った途端、高森がやけに乗り気になったのが気になって、
「妙に乗り気だけど、モールに何かあるの?」
と訊ねると、
「ゲーセンでプリパラする」
と反応に困る返事が来た。
特にコメントもない。
嵯峨野先輩は移動中、天気とか、部誌の話とか、いろいろみんなに話題を振ってきた。
膨らませ方がうまいのか、次から次へと話題が転がり、会話が途切れることはなかなかない。
というか、聞き上手なんだろう。
自然と話は嵯峨野先輩と高森、俺とるーのふたりに分かれていった。
嵯峨野先輩が高森に話題を振るもんだから、当然と言えば当然だ。
「るーは、モール、よく行くの?」
気紛れにそう訊ねると、意外な質問だったみたいに、彼女は一瞬だけ黙りこんだ。
「あんまり。ときどき、お姉ちゃんたちについていくときはありますけど」
「そうなんだ。映画とかは見ないの?」
「たまに気になるのがあるときは観に行きますよ。でも、そんなには」
「休みの日とかって何してるの?」
俺は適当に「困ったらこれを振っときゃ間違いない」みたいな話題を振った。
「えっと、買い物に出掛けたり、本を読んだり、友達と遊んだり」
「ああ、一緒一緒」
「おそろいですね」
「ですねー」
ホントかよ、と俺は思った。たぶん俺と彼女じゃ「買い物」の意味も違う。読む本さえ違いそうだ。
「……本って、どんなの?」
俺は嵯峨野先輩を見習って、ちょっとだけ話題を膨らませてみた。
「基本的に、小説が多いですね」
「どんなの?」
「だいたい、映画とかドラマの原作が多いですね。文学みたいなのは、あんまり」
るーは照れたみたいに笑った。そういう表情が珍しくて、ちょっとどきっとする。
して、一個下の女の子の照れた顔にどきっとしてしまう自分の耐性のなさに情けなくなる。
「最近だと……」と、るーは今やっているドラマの原作本を挙げた。
「ああ、読んだそれ」
「おもしろいですよね」
「うん。あの作者、昔はシリアスなものをシリアスにやってたけど、最近はシリアスなものを軽やかにやってるんだよな」
と俺は適当に思いつきの批評をした。本当にそう思ってるんだけど、言ってからなんとなく後悔する。
「そうなんですか?」とるーは気にした風もなく首をかしげる。俺は恥ずかしくなる。
「うん。そんな感じがする」
と俺は曖昧にぼかした。
「タクミくん、けっこう本を読むんですか?」
「……そんなには。図書室でときどき借りて読むくらいで」
「さすが文芸部員」
話題を誘導する技量がないから、すぐに自分に都合の悪い展開になってしまった。
なるべくなら、自分の話はしたくない。
「……そういや、るーは部誌、何書くか決めた?」
「あ、えっと……まだ悩んでます。早めに決めないといけないものなんですか?」
「部長が気にしてたんだよな。たぶん、早めにレイアウト組みたいんだと思う。配置考えてるの、部長だから」
「……単純に、並べるだけじゃないんですか?」
「あの人、変なところで凝り性だから」
「はあ。そうでしたか」
また話がずれてる。
俺に相手から話題を引き出す能力はないらしい。
そんなこんなで話していると目的の駅について、そこから徒歩五分のモールへと向かった。
それにしても、意外と話せるもんだな、と俺は思った。
何を話せば良いのかわからないって、本当はなんとなく困ってたのに。
それもきっと、彼女のおかげなんだろう。
◇
冗談かと思ったんだけど、高森はモールについた途端迷わずにゲームコーナーへと向かった。
店の外観は以前見たのとほとんど変わらないが、店内に入るとすぐに記憶との違いが目につく。
もちろん、当時は今よりずっと背が低かった。
あのときは何もかもが大きくて広く見えた。人だって、ずっとたくさんいるように感じた。
何かのテーマパークのようにすら、俺は感じていた。天井はずっと高く感じた。
けれど今となっては、それはどこにでもある大型複合商業施設にしか見えなかった。
何かを知るというのはそういうことなのかもしれない。
テナントはいくつも入れ替わり、内装も以前とはかけ離れていて、昔軽食屋のあったスペースがただの休憩所になっていたりした。
時刻は十一時ちょっと前と言ったところ。
付近にあるフードコートには、混みあう前に昼食を済ませてしまおうという層か、それとも遅い朝食をとろうという層のどちらかが何組か。
開店してからそう時間が経っているわけではないから、人気はそう多くはないけれど、かといって空いているというふうでもない。
ゲームセンターでは、親の買い物に付き合わされて飽きた様子の子供たちがはしゃいでいる。
高森は本当に女児向けカードゲームコーナーに座り込みはじめた。
どうやらバッグのなかにカード入れを持ってきたらしい。最初からそのつもりだったんじゃねーか、と困る。
最初は三人で並んで高森のプレイを見ていたけど、さすがに何分も見ている気にはなれなくて、嵯峨野先輩だけをおいてその場を離れた。
「タクミくん、UFOキャッチャーありますよ」
「ああ、うん」
「タクミくん、得意ですよね」
「……」
得意。得意か。
プライズキャッチャーの前に、子供がふたりいた。プライズは子供向けアニメの人気キャラクターのぬいぐるみ。
男の子がクレーンを操作しているのを、女の子がわくわくした顔で眺めている。
が、とれない。
「あらら」とるーは残念そうな顔をした。
それから子どもたちはうしろから見ていた俺たちを振り向くと、ちょっと機体から離れた。
どうやら順番待ちだと思われたらしい。
俺は財布を取り出して小銭を突っ込み、さっきの子どもたちが狙っていたぬいぐるみを動かす。
とれない。三度ほど同じように、ぬいぐるみをクレーンでつついた。
「昔は、一発でとってましたよね」
「まあ、そういうことだよ」
「……何がですか?」
俺がゲーム機から離れると、さっきの子どもたちがふたたびクレーンゲームの前に立った。
小銭をつっこんで、緊張した面持ちでクレーンを操作する。
今度は、クレーンがしっかりプライズを掴んでいた。
「……あ」
「遊馬兄も同じことをやってたんだよ。とりやすいように、位置とか角度をちょっとずらしてから、俺と代わったんだ、あのとき」
「……そうだったんですか?」
「うん。そういう人だった」
ぬいぐるみを手に、うれしそうにはしゃぐ子どもたちの姿を眺める。
「……お兄さんが」
「うん。俺が取れたのは、遊馬兄のおかげだよ。俺がすごかったわけじゃない」
るーはちょっと黙りこんだまま、俺の顔を見上げてきた。
少し、落ち着かない気分になる。今更こんな種明かしをしたって、誰が得をするわけでもない。
ちょっとだけ、後悔する。
「……でも、じゃあ、あの子が今ぬいぐるみを取れたのも、タクミくんのおかげなんですか?」
「いや。取りやすくしただけで、実際に取れたのはあの子の実力だよ」
「じゃあ、やっぱり、タクミくんはすごかったんですよ。それに、取りやすく調整するのだって、誰にでもできることじゃないです」
そう言ってにっこり笑った。
参ったな、と俺は思う。これだからるーは苦手なんだ。
俺がどんなことを言われれば喜ぶのか分かってるみたいだ。
なんにもできない自分、誰かにやさしい言葉をかけることのできない自分。
意識してしまう。そういうことを。
「そういえば、まだカナヅチなんだっけ?」
「……なんで急に、その話になるんですか」
ちょっと困った顔で、るーは目を泳がせた。
「泳げないからって死ぬわけじゃないって言ったの、タクミくんです」
「それを言われると、ちょっと責任感じるな」
「じゃあ、責任とってわたしに水泳教えてください。今年の目標は25メートルです」
また、にっこり笑う。
「ああ、うん……機会があったらね」
曖昧にして逃げようとした俺を、
「約束ですよ」
とるーは捕まえる。
本当に困った子だ。
かなわない。
少し、くすぐったくて嬉しいような、そんな気持ちになる。
そういうときにはいつも、俺はよだかのことを思い出してしまう。
彼女は今どうしているんだろう、なんてことを、考えてしまう。
それにしても、るーは、遊馬兄が今どうしているのかを知っているんだろうか。
知りたいような気もしたし、知りたくないような気もする。
知ってしまうのが恐くて、俺は気になることを聞けないままだった。
一年間、静奈姉にそうしていたのと同じように。
つづく
乙です
乙
乙です!
乙です!チェリーの近況が本当に気になる…
◇
高森がゲームに飽きたあと、昼食をフードコートで簡単に済ませてから、時間までぶらぶらと店内を回ることにした。
歩いていると、俺たちと同年代くらいの人がけっこういたりして、すれ違うたびに自分たちがどう見えるかを意識してしまう。
男女四人で、近いようでどこか距離のある四人。
友達同士というには距離がある。かといって、特別な関係に見えるほど親密そうでもないだろう。
あらためて、この四人というメンバーのおかしさを感じる。
そもそも俺だって中心に立って動くタイプじゃないし、高森だってそうなのだ。
集団の斜め後ろくらいが安心できる。
「タクミくん、見てくださいこれ」
と、雑貨屋の入り口にあった商品を手にとって、俺を手招きする。
「なに?」
「くまー」
と、彼女は奇妙な顔をした熊のキーホルダーを掲げてきた。
「……お、おう。どうしたそれ」
俺は奇怪な形をした熊の眼力に圧倒されて一瞬怯んだ。
「かわいいです」
「……かわいいか?」
目の位置が高くて蛙のように思えるが、るーはローテンションのままそこそこご機嫌にその熊を眺めていた。
「知らないんですか? 最近一部で人気のゆるキャラですよ」
「ゆるいか?」
「わたしの周囲にも理解者はいませんが、このキャラクターの公式ツイッターアカウントのフォロワーは三百人を越えています。じわじわと人気が広がってるんですよ」
ホントかよ。
「……その熊、片耳ないけど」
「おなかをすかせた自分の子供に食べさせたという設定があります」
「首に巻かれた包帯は?」
「あ、それはファッションって設定です」
「瞳があらぬ方向をむいてるのは……なぜなんだ?」
「ふなっしーだってそうじゃないですか」
言われてみればそうなんだけど、このキャラをあれと並べていいものなのだろうか。
「ちなみにそのキャラ、なんて名前なの?」
「くまのくらのすけです。人気急上昇中ですよ!」とるーは胸を張った。
くらのすけって顔か?
話をぐだぐだと聞いていると、るーは「ちょっと待っててください」と声をかけて、レジまでとたとたと走って行ってしまった。
……むかしはもっと、シンプルにかわいいものに惹かれてた気がするんだけど。
まあ、数年間会っていなかったわけで、趣味くらい多少変わっていても変ではない。
というか、むしろちょっと安心してしまった。
再会してからのるーは、どこか一歩引いていて、話していてもちょっと遠慮がちなところがあった。
でも今のるーは、昔みたいに楽しそうで子供っぽくて、単純に楽しそうだった。
なんにも変わってないみたいに笑っている。
そういう姿を見ると、ちょっとほっとする。
「おまたせしました」とレジから戻ってきてすぐ、るーは俺に向けて「はい」と紙袋を差し出す。
みれば、彼女は袋を二つ持っていた。
「……え、なにこれ」
「プレゼントです。記念に」
「……あの、開けていい?」
「はい」と彼女はにっこり笑う。
出てきたのはくらのすけだった。
「おそろいですよ」とにっこり笑う。
こういうの、たぶん、意識しないでやってるんだろうなあ、と思う。
彼女の方からしたらきっと、なんでもないことなのだ。とにかく今一緒にいたから、という理由だけで。
「……ありがとう?」
「わたしだと思って大事にしてくださいね」
冗談めかした口調のるーに、「この熊をるーだと思うのは無理があるよなあ」と、俺は大真面目に思った。
それにしても、と、改めてるーの姿を見る。
再会して初めて見る私服姿は、昔の印象とはちょっと違う。
昔はやっぱり服装も子供っぽくて動きやすそうな、活発な印象のものをよく着ていたように思う。
(まあ、それにしてもけっこう女の子らしい服装ではあった気もするが)
それが久しぶりに会ってみれば、パッと見で「高校生くらいの女の子」らしい服装でやってくるわけだ。
いや、そりゃそうだ。
俺たちが会っていたのは小学生の頃のことで、今俺たちは高校生なわけだ。
でも、なんでだろう?
一定の年齢以上の私服姿の女の子っていうものには、妙な威圧感がある気がする。
年下だったり同い年だったりしても、自分が圧倒的に後手に回ってしまっている気分にさせられるのだ。
その時点でちょっと遠く感じたりもする。
……たぶん、普段女の子とあんまり遊んだりしないからなんだろうけど。
るーもそうだけど、高森の方も私服で会うとけっこう印象が違う。
まあ、とはいえこんなふうに一緒に出掛けたのがはじめてってわけでもない。
文芸部でカラオケに行こうとか、そういうときだって今までもあった。だから、初めて見たってわけじゃないんだけど。
そういうことがあるたびに思うのが、ネトゲにすべてを捧げてるように見える高森が、意外とファッションなんかに気を遣う女の子なんだってことだ。
髪型や服装ひとつとったって、ちゃんと見られることを意識してる。
少なくとも(年頃の女の子ってことを考慮すれば、べつにおかしくはないけど)適当にひっつかんだ服を適当に着回してる感じではない。
「女の子らしさ」を殺さない程度のボーイッシュ、とでもいうような。
そもそもの話、見てくれはそこそこかそれ以上、という奴なのだ。
髪とか肌とか、自然な風にして、手入れされているような。
前に一度、そういう感想が口をついて出てしまったときがあった。
「髪きれいだよな」なんて。思わず出てきた言葉だったけど、我ながらちょっとどうかと思う。
高森は一瞬戸惑った顔をしてから、わざとらしくふふんと鼻を鳴らして、
「まあね、女の子だからね。ちょっとだけなら触ってもいいよ」
なんて得意がっていた。たぶん照れてたんだと思う。
ちなみに本当に触ろうとしたら逃げられた。
俺は渡された紙袋のなかの熊をもういちど眺めてみる。
変な顔。こういう変なものに惹かれるのは、やっぱり「るーらしい」のかもしれない。
そこに、やっぱり少しだけ安心する。目の前にいるのは「女の子」だけど、「るー」だ。
とにかく、私服姿の女の子を前にすると、ちょっと萎縮してしまう、というお話。
◇
映画館はそこそこ繁盛している様子だった。
混んでいるからちょっと不安だったんだけど、チケットはあっさり買えた。
どうやら今週から上映される人気シリーズの影響で混み合っているだけらしくて、俺たちが観る映画はそこまで人気ではないらしい。
高森と出掛けるための口実なのかと思ったら、嵯峨野先輩は今日の映画を本当に楽しみにしていたらしい。
好きな監督なんだ、と言っていた。
ずっと昔にこの人の映画を観てから、いろんな映画を観るようになったんだよ。
単純な娯楽作品として見たらそんなに面白くはないかもしれないけど、綺麗な映画を撮る人なんだよ。
そんなふうに。
何についてもそうだ。好きなものについて話す人は、いつだって楽しそうだ。
だから、俺は彼のことを、今までより少しだけ好きになる。
憧れに近い気持ちで。
チケットを買って、ポップコーンと飲み物を買い終える頃に、入場案内のアナウンスがされた。
シアター内に入ると、騒々しかったロビーとは打って変わって静けさに満ちた雰囲気に飲み込まれる。
映画館のこういうところは嫌いじゃない。
価格設定を見なおしてもらえれば、毎週のように来るかもしれない。
「楽しみですね」って、るーは俺の隣りに座って笑った。
席順は、嵯峨野先輩、高森、るー、俺の順番。
妥当と言えば妥当な感じもした。
新作映画の予告を観ていると、見終わる前から、また来てみようかな、なんてことを思う。
我ながら単純だ。
なんとなく、隣に座るるーを見ると、彼女もこっちを見ていた。
「なんですか?」という顔をされたので、「なんでもない」と軽く頷く。
「そうですか」というふうにちょっと笑って、彼女はスクリーンに視線を戻した。
「……前から思ってたけど、なんでふたりってそんなに意思疎通できてるの?」
ことの成り行きを横で見ていたらしい高森が、小声でそう問いかけてくる。
「いや。表情とかで分かるだろ、こういう場合」
「……そっかなあ」
なんて高森は首をかしげていた。
さて、もうすぐ映画がはじまるみたいだ。
スクリーンに集中しよう。
嵯峨野先輩の話を聞いていたら、俺も興味が湧いてきた。
◇
……映画。
そういえば、遊馬兄の部屋に入ったことがある。
お調子者、三枚目って感じの印象だったけど、彼の部屋には洋画のDVDや翻訳小説なんかが小奇麗に並べられていた。
部屋の片隅においてあったアコースティックギター。「インテリアだ」って本人は笑ってたけど、ちょくちょく触っていたみたいだった。
漫画やアニメをけっこう見ていたから、なんとなくそういう趣味の人なんだと最初は思った。
よく話を聞いたら、そういう趣味の友達に勧められて観たり読んだりしはじめたんだと言っていた気がする。
べつに嫌いでもないけど、その友達がいなかったらそんなに興味もなかったと思う、って、そう笑ってた。
俺がやっていたようなゲームを持っていたけど、それだって「子供の頃からやってるシリーズだから」って言って笑ってた。
一度だけ、彼がギターを弾くのを見せてもらったことがある。
そんなに上手でもなかったけど、だからといって下手でもなかった。
遊馬兄は、他人の趣味や特技に関心を示したりすることはあったけど、自分の趣味を他人と共有したりしようとはしなかった。
そういうことをなんとなく思い出す。
お調子者で、突拍子もなくて、何も考えてなさそうで、いつも楽しそうな変人。
それなのに今にして思えば、彼はいつだって、他人との距離感みたいなものを意識していたみたいに思える。
他人との距離をはかって、一定に保とうとしているかのような。
どこまで踏み込んでいいのか、どこから踏み込んだらまずいのか、常に気にして、一線を保とうとするような。
あの頃の彼の年齢を思い出すと、それを今の自分が上回ってしまっていることに愕然とする。
俺が見ていた彼は、今の俺なんかより、ずっとずっと大人みたいに見えたのだ。
みんなと一緒にいると楽しそうに笑っているけど、ふと気付くと、とても寂しそうな顔をしたりしていて。
それを見ているこっちに気付くとなんでもなさそうに笑うから、気のせいだったのかって納得したりして。
あの人は、本当に俺が見ていた通りの人だったんだろうか。
そんなことを思う。
◇
映画は、思ったよりも面白い映画じゃなかったけど、思ったよりは楽しめた。
「面白さ」と、それを「楽しめるか」というのは別なのだ。
そういう意味では、俺にとっても好みの映画だった。
というか、わりと感動していた。
「ラストシーン手前で、主人公がひとりで料理を作るシーンがよかったですね」
「うん」
「ふと鏡を見て、自分の顔を見て驚くところ」
「うん」
「胸が締め付けられました」
「うん。よかったね。俺としては、中盤の雑踏のシーンが一番キたな。風船持った女の子とすれ違ったとこ」
「あのあとの女の台詞もいいですよね」
「そうそう」
と、俺と嵯峨野先輩は女子そっちのけで盛り上がった。
「……なんか仲良くなってるね」とうしろで高森がぼやくのが聞こえる。
「いいことですよ、たぶん」
「……なのかな。たっくん、複雑に見えてけっこう単純だよね」
「そういうところ、ありますね」
「単純に見えて複雑なとこもあるけど。るーちゃんも、こんなの相手だと苦労するねえ」
「な、なんですか、それ」
「そこ。人が余韻に浸ってる横で陰口叩くな」
口を挟むと、
「陰口じゃないもーん」
と高森は子供みたいな顔でそっぽを向いた。るーの方を見ると、また目を泳がせる。
カナヅチのくせに目だけ泳がせるとは器用な奴だ。
「さて、このあとはどうする? そろそろ解散しよっか?」
あんまり遅くなってもあれでしょ、と嵯峨野先輩は提案する。
「……ですね。今から帰ったら夕方ですし」
「浅月、この監督の映画に興味あるなら、うちにDVD何本かあるから、今度貸すよ」
と、嵯峨野先輩は言ってくれた。
「ホントですか?」
「うん。オススメのがけっこうあるんだ。今日の奴が好きだったら、ハマるのもいくつかあると思う。好みはあるけど」
「ぜひお願いします」
俺は嵯峨野先輩に対して心の中で多大な謝罪を送った。
今まで爽やかイケメンナンパ野郎とか思ってたけど、ぜんぜんいい人だ。
感動に涙が出そうになる。
「じゃあ今度、学校に持ってくよ。放課後は文芸部の部室にいるんだろ?」
「はい。ありがとうございます! 一生ついてきます!」
「なんだそれ。大袈裟だなあ」
俺たちはひとしきり笑い合う。
うしろでるーが、
「将を射んと欲すれば……の、馬、ですかね」
と、溜め息をついて、
「いや、普通に仲良くなっちゃったんじゃない?」
と高森が苦笑したのが聞こえた。
空は、午前中より少し暗くなっている。
雨が降り出しそうな雲だった。
つづく
乙ですー 登場人物の他の視点からのチェリーの描写、本当に興味深い
sageときますね
乙
タクミにこんなアホっぽい一面があったなんてなー
しかしこの人は臆病な童貞を書くのが好きというかなんというか
>>1は臆病な童貞なの?それともただの童貞なの?
◇[Wild Nights]
翌週の月曜の朝、登校するとゴローと佐伯が俺の席の近くで話をしていた。
「土曜はどうだった?」とゴローは訊いてくる。
「まあそこそこだよ」と俺は答えた。
るーにもらったへんてこな熊のキーホルダーを、俺は鞄につけておいた。
他に使い道が思いつかなかったし、かといってどこにもつけずになくしてしまうのもなんとなく申し訳ない。
「そこそこね」と佐伯は意味ありげに頷く。
「きみら、用事ってなんだったの?」
「歯医者」と佐伯。
「耳鼻科」とゴロー。
「……」
「ほんとだよ」
ちょっと間を置いてみたけど、佐伯もゴローもそれ以上は何も言ってくれなかった。
ほんとだよ、というあたり、疑われる心当たりがあると言っているようなものだ。
まあいいや、と俺は割り切って、別の話を振ることにした。
「部誌の原稿、調子どう?」
ゴローと佐伯は顔を見合わせて、首をかしげた。
「なんか、どうにもおかしいんだよな」
「わたしも」
「……おかしいって?」
「いつもの調子が出ない」
ゴローは心底疑問だというふうに溜め息をついた。
いつもの調子。いつもの調子ってなんなんだろう。いつも、好き勝手に書いているだけなのに。
本当に、ふたりは不思議そうだった。何が原因なのかわからない、というふうに。
高森や、部長が言うならまだ分かる。
彼女たちは、他人の視線を意識する人たちだから。
でも、このふたりがそんなことを言うのは意外な気がした。
周囲の状況に惑わされず、いつでも自分であり続けることができる人たち。
俺はふたりを、そういう性質の人として理解していた。
「浅月はどうなの?」
「俺はまだ白紙」
「まずいんじゃない?」
「まずいね」
窓の外はどんよりと曇っていた。もう、季節は梅雨へと入り込もうとしている。
「午後から雨が降るかもだとさ」
俺の視線の先を見て、ゴローがそう言う。
「雨……」
雨。
ふと、頭痛を覚える。風邪でもひいたのだろうか。それとも、寝不足のせいだろうか。
曇り空。何かを思い出しそうで、何も思い出せない。いつもだ。
どうでもいい会話が途切れたタイミングで、高森がやってきた。
どいつもこいつも、自分のクラスに話し相手がいないのか、と思う。
……もちろん、いるんだろう。べつに、ここじゃなくてもいい。ここだっていいけど、ここじゃなくてもいいのだ、みんな。
高森は、空模様のせいか、いつもよりずっと元気がないように見えた。
「おはよう」と告げる声だって、どことなく頼りない。
思わず「どうしたの?」と訊ねると、なんでもなさそうに「なにが?」と笑う。
だったらそれ以上何も聞けやしない。
そう見えただけだったのだろう。
◇
昼休みに東校舎の屋上へ向かうと、鷹島スクイは当たり前のような顔で立っていた。
「調子はどうだい」と俺は訊ねる。
「最悪だな」とスクイは言う。
「何も書けやしない」
ああ、そうか。こいつも文芸部なんだっけ。
……そうだったっけ? 俺はその話を、どこで聞いたんだろう。
たぶん、どこかでいつか聞いたんだろう。そういうものとして、俺は記憶している。
「みんなそう言うんだ。何をそんなに、揃って調子を崩してるんだろう?」
「おまえだって人のことは言えないだろ。浅月拓海」
「俺のことを知ってるみたいなことを言うね。鷹島スクイ」
彼は俺の言葉を軽く受け流すと、梯子を昇って給水塔のスペースへと上がっていった。
「来いよ」と彼は言う。俺はそれに従う。
「佐伯ちえも、林田吾郎も、由良めぐみも、一見強そうだ。軸がぶれない。周囲に影響されない」
そういうふうに見える、と鷹島スクイは言う。
「でも、本当のところ違う。あいつらは、人並みに他人に影響されやすいんだ。
ちょっとした出来事や天気の違い、状況や体調に、当たり前に影響される。
そう見えないのは、あいつらが周囲の影響を受け取らない生き方を選択してるからだ」
「選択」と俺は繰り返す。
「ひとりでいる奴は、強い。でも、ひとりでいる奴が強くいられるのは、ひとりでいるときだけだ」
「……意味がわかんねえ」
「たとえどのような生き方を選択していようと、他人と関わらざるを得ないタイミングがある。
そのとき、ああいう奴らは、自分の選択した生き方と、周囲との兼ね合いに苦労するのさ。
自分が独立した一個ではなく、何かのうちの一個だと意識したとき、ああいう奴らは弱い」
「……つまり、何が言いたいの?」
「藤宮ちはるが読むかもしれないってことを意識すると、いつもの調子で小説が書けないんじゃないか?」
俺はぎくりとした。本当に、見てきたみたいにものを言う奴だ。
「そういうことだよ。読むかもしれない『誰か』を意識すると、文章は弱くなるんだ。『自分』だけでいられなくなる」
「今までだって、部誌は出してた」
「誰も読んじゃいなかった。読んでいたとしても、大雑把に、だ。
精緻に読み解こうとする奴なんていなかった。文芸部はよくわからんもんを書いてるな、で終わりだ。
でも……今度はちょっと、違う。検証されるかもしれない、と、みんな思ってる」
部誌にあげる原稿なんて、みんな、娯楽作品として書いているつもりはない。
ただ、自分が書きたいもの、書こうと思えるものを、書く。
それが誰にどう思われるかどうかなんてこと、いちいち気にしない。
適当に義務感だけで書くなら別だろうけど、うちの奴らは基本的に、書くのが好きな部員ばかりだ。
だから、そこには自意識が投影される。
自分のこと、自分が好きなもの、自分が望むこと、自分が怒りを感じること、自分が悲しいと思うこと。
そういうものを書こうとする。
だから、それが誰かに見られ、咎められるかもしれない、と思うと、筆が止まる。
ぎこちなくなる。
「……例の、第二とのやりとりが原因ってことか?」
「だろうな」と鷹島スクイは確信しきった調子で頷く。
「本当は、どいつもこいつもひっそりやりたいんだ。だろ? 戦わせるつもりなら文字になんてしない」
「どうかな」と、そこに対しての同意は保留する。
「べつに俺は、そういうつもりで書いてるんじゃない」
「……本当にそうか?」
鷹島スクイは笑う。
「じゃあ、どうしておまえは、死んじまった猫の話ばかり書くんだ?」
「……」
「誰にも愛されなかった猫、誰にも顧みられなかった猫、誰にも悼まれなかった猫。どうしてそんな猫の話ばかりを書く?」
どこかで分かってるんだろ、と鷹島スクイは続けた。
「そんなものを読んだ相手が、どんなふうに感じるか。本当は予想がついてるんだ。
おまえだって、べつに誰かに読んでほしいわけじゃない。でも、腹の底に溜め込んでもいられない。
だから書くんだろ。誰にも耳を傾けてもらえないだろうことを、文章にして、残しておきたいんだろ?」
「……」
「藤宮ちはるがいると、楽しいかい?」
不意に、彼は話を変える。俺は、彼が何かを言うより先に、彼が何を言うつもりなのか分かった。
分かったうえで、頷く。
「姉貴のことはいいのかい?」
咎めるように、鷹島スクイはそう言った。
俺は答えられなかった。
答えられずに、話をする。
「遠足が、あるだろ」
「……遠足?」
「そう、遠足。バスに乗って、みんなでどこかに行くんだ。楽しげに童謡なんか歌いながらさ。
どっかの丘の上の自然公園とかだ。ついたらアスレチックで遊んだり、シートを広げてお弁当を食べたりする」
「……それが?」
「行きの道の途中で、車に轢かれた猫の死体があったら、どんな気分になる?」
「……どんな?」
「みんな、どんな気分なんだろうな? 俺はそれを上手く想像できないんだ。
いたたまれなさ? 水を差されたような居心地の悪さ? もっと素朴に、"かわいそう"って同情するのか?」
「さあね」と鷹島スクイは鼻で笑う。
「楽しい遠足の途中に一瞬だけ猫の死体が割り込む。そうすると俺は、もうその遠足を、素直に楽しむことができなくなる」
だってそこで、その日、猫が一匹、死んでいたんだ。
「でも、じゃあ、その死体がそこに転がっていなかったら、ずっと楽しい気分のまま遠足が終わるのかな?」
鷹島スクイは答えない。
「だって、猫は死んでるんだ。どこかで死んでるんだよ。いつも。じゃあ、幸せを感じることなんて、不可能じゃないか?」
ずっとずっと、いたたまれなさと、居心地の悪さと、同情とが、邪魔をする。
自分が何かを楽しんでいるとき、その裏側に、誰かの悲しみがあることを想像する。目に見えなくても、それはいつでもそこにある。
「おまえ、変だぜ」と鷹島スクイは笑った。
「そう、変なんだよ」
そんなことを考えなければ、見ないふりをしていれば、知らないふりをしていれば、人は幸福でいられる。
隠されていたもの、裏側にはりついていた影、マジックミラーの向こう側。
知らずにいれば、覚えずに済む罪悪感。
だから、知ろうとしてはいけない。幸福でいたければ、考えるのをやめなくちゃいけない。
ページをめくっちゃいけない。何が潜んでいるか分からない暗闇に光を当ててはいけない。
知ってしまったことを知らなかったことにはできないんだから。
「"世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない"」と鷹島スクイは言った。
俺は一瞬だけその言葉について考えて、ごく自然のなりゆきとして秋津よだかのことを思い出す。
それから笑った。たいした皮肉だ。
「幸福は、感受性の麻痺と想像力の欠如と思考の怠慢がもたらす錯覚だ」
と彼は言う。
「幸福なんてものは、ありえない」
と鷹島スクイは言い直した。
◇
不意に、物音が聞こえた。
俺は息をひそめる。誰かが、近付いてきている。
扉が軋む音がして、俺たちの真下から、誰かがやってきた。
「息が詰まるよな」と男子生徒の声が聞こえた。
「及川さん、張り切ってるもんな。第一とか第二とか、正直どうでもいいんだけど」
「だよなあ」
……狙いすましたようなタイミングだ。
及川、第一、第二。たぶん、第二文芸部の部員たちなんだろう。
例の部誌の話、彼らがどう思っているのか気になってはいたが、どうやら一枚岩ではないらしい。
当然か。部員数が多いんだから。
「でもまあ、正直第一の奴らを打ち負かせたら気分がいいよな」
「おまえ、第一嫌いなの?」
「だってあいつら、書くものも態度も偉そうじゃね?」
「読んだことも話したこともねえからわかんねえよ」
「なんか、"自分たちはなんでも人より分かってます"って感じでさ。書くものも妙にまどろっこしいし」
「あー、たしかに小難しい感じのが多い気はする」
「俺らのことバカにしてる気がするんだよな。自分たちが書いてるものが正当で、俺らのことお遊びでやってるとか思ってそう」
「そっかなあ。被害妄想じゃねえ?」
「かな」
「コンプレックスとか」
「それもあるかもしんねえけど」
「まあ、でもちょっと分かる。感じ悪いっていうか、排他的だよな」
「うん。べつに"分かってくれなくてもかまわないよ"って感じの態度が、妙に鼻につくんだよ。
分からせようとする気がないだけじゃねえかって思う」
「おまえ、言い過ぎな」
「ま、いいだろ。俺とおまえだけなんだし。でもさ、及川さん、なんであんなこと言い出したわけ?」
「あー、うん。俺、ちょっと他の先輩に聞いたんだけどさ」
「ん?」
「及川さん、第一の部長に告ったことあるらしいよ」
「え、マジで?」
マジか。部長、及川さんが部室にきたとき、「どちらさま?」って言ってたぞ。
「で、振られたんだって」
「はあ。で?」
「それだけ」
「……それが部誌の話とどう繋がるわけ?」
「あっちの部長、書くことにやたらこだわってる感じだろ」
「あー、たしかに、熱量は半端じゃねえよな。図書室で調べ物してるとことか、ちょっと怖いもんな。美人だけど」
「美人かあ?」
「感想は人それぞれだな」
「まあ、ようするに、腹いせなんじゃねえの?」
「……どういうこと?」
「相手が一番こだわってることで自分が上位に立ってるって見せつけて、プライドを傷つけたいんじゃねえ?」
「え、及川さん性格悪いな」
「憶測だけどな。本当だとしたら、付き合わされるこっちの身にもなってほしいけど」
「でもまあ、どっちにしても部誌出すのはもともとの予定だったし、影響ないっちゃないだろ」
「まあな」
それからふたりは、第二文芸部のかわいい女の子といい感じだとかどうとかいう話をして盛り上がったあと帰っていった。
ちょっとした息抜きをしにきただけだったらしい。
俺は溜め息をついて空を見上げた。
ぽつりと、鼻先に粒が当たる。
雨が降ってきたみたいだ。
つづく
おつ
乙
◇
放課後の部室にはみんながそろっていた。
俺が来るよりも先に嵯峨野先輩が顔を出しにきたらしい。
部長は俺に「あずかりもの」と言って紙袋を差し出してきた。
中身は数本のDVD。律儀な人だ。今度、礼を言っておかなきゃならない。
部長、高森、ゴロー、佐伯、それからるー。
全員がそろっていて、全員が黙っていた。
べつに、それ自体は珍しいことじゃない。
るーが入ってからは、彼女に気を使って話しかけたりして、みんなうるさいときもあったけど。
基本的にはみんな静かな奴らなのだ。
唯一の例外ともいえる高森も、今日は様子が変だった。
なんだかな、と思った。
昼休みからずっと、なんとなく気分が重い。
何か理由がありそうな気がしたけど、思いつかなかった。
今日、印象的なことなんてほとんどなかったような気がするのに。
頭がぼんやりする。
誰かと、何かを話したような気がするのに、思い出せない。
誰だっけ? 何を聞いたんだっけ?
外では雨が降っている。
「もう梅雨だね」と、部長が言った。
「ですね」とゴローが相槌を打つ。
「みんな、傘持ってきた?」
「一応」と俺は答える。「はい」とゴローとるーも返事をする。
高森は黙り込んでいる。
部長は、それについて何も言わなかった。
俺は話を変えることにした。
「部長って告白されたことありますか?」
とっさに出てきた言葉がそれだったのは、自分でも意外だった。
どうしてそんな疑問を覚えたのか、よくわからない。
「なんで?」と部長は首を傾げる。
高森が顔をあげて、部長の方を見た。
「なんとなく、訊いてみただけです」
「あるよ」と部長はあっさりうなずいたかと思うと、「たぶんね」と曖昧にぼかす。
「相手のこと、覚えてます?」
「一応。でも、忘れるようにしてる」
「なんで?」
「断ったら、そう頼まれたから。なかったことにしてくれって」
「じゃあ、話しちゃまずいことなんですかね」
「ああ、そうだね。ごめん。今のナシ」
残念、と俺は思う。
話したことはなかったことにはならない。
「どんな」と高森は不意に言葉を吐き出した。
途切れ途切れの呼吸。どこか思いつめたみたいな顔。
彼女の瞳がぼんやりと部長の方へと向かう。
「どんな気分でした?」
「……何が?」
「告白されたとき」
「困った、かな。知らない人だったし、戸惑った、かも」
部長は、衒いもなくそう呟く。
「じゃあ、振ったときはどんな気分でしたか?」
「どんな、って?」
訊ね返されると、高森は急に黙りこんで、俯いてしまった。
俺たちは彼女の態度に戸惑う。
何があったのか、よく分からない。
やがて、彼女はポロポロと涙をこぼしはじめた。
頼りない、小さな嗚咽だけが、雨と沈黙のなかでいやに大きく響いた。
「わたしは悪くない」と高森は震えた声で言った。
「わたしは悪くない」と彼女は繰り返す。
何度も何度も。わたしは悪くない、わたしは悪くない。
彼女がそう言うなら、きっとそうなのだろう、と俺は思った。
「ごめん、タクミくん」
と、部長は言う。
俺はパイプ椅子から立ち上がって、ゴローとるーに目配せをする。ふたりは頷いた。
俺たち三人は、高森を部長に任せて部室を出ることにした。
他に何ができる?
◇
「蒔絵先輩、どうしたんでしょう……」
るーは心配そうに呟く。「さあ?」と俺は首を傾げた。
本当にわからなかった。一年間一緒にいて、こんなことは初めてだ。
何かがあったのは間違いないだろう。
彼女が泣いたのは、俺のせいなのかもしれない。
俺が部長に振った話題が、彼女の感情のどこかを揺さぶってしまったのかもしれない。
だとすれば……だとしても……。
俺はそれを知らないし、だから何も言う資格はない。
「ほっとけばすぐに治るさ」とゴローは言った。
少しだけ、ゴローのことが憎くなる。
俺の冷めた部分を指摘して否定するくせに、ゴローは時折、他人に対して俺以上に淡白だ。
「本当にそう思う?」と俺は試しに訊いてみた。彼は怯んだ様子もなく、
「そう思えないなら、おまえが心配してやれよ」と、やはり他人事のように言った。
何もかもが噛み合わないような気がした。
やりとりを横で見ていたるーが、心配そうな視線を投げかけてくる。
俺は深呼吸をした。どうも、変になっている。俺もゴローも。
「高森は、悪くないってさ」
ゴローは呟いた。そのことについて、俺は何も知らない。
「何か知ってる?」と試しに訊いてみる。「知らない」とゴローは言う。
「あいつが悪くないって言うんなら、悪くないんだろうな」
それは高森に対する信頼から出た言葉、という感じではなかった。
ごく当たり前の事実を受け止めるように、算数の検算をするみたいに、ゴローは呟いた。
高森は悪くないのだろう。でも、それはあまり意味のないことだ、とでもいうふうに。
廊下を歩いて、文芸部室を離れる。べつに目的地があったわけじゃない。
どっちにしても同じ場所に居続けるのは息が詰まった。
「……さっき、部室に嵯峨野先輩がきたとき」
歩きながら不意に口を開いたのはるーだった。
俺は彼女の方を見たけど、彼女は自分の足元を見ながら歩いていた。そういうものだ。
「ふたりとも、様子が変でした。そういえば。嵯峨野先輩が、蒔絵先輩に謝ってて」
「……謝ってた?」
「はい。たしか、"変なこと言ってごめん"って。ひょっとしたら……」
「そういえば、さっきの高森、告白ってワードに引っ掛かってたな。振ったときの気分、っても言ってたっけ」
ああ、なるほど、と俺は勝手に納得した。確証があるわけじゃないけど、ない話じゃない。
「……だとして、なんで高森が落ち込んでるんだ?」
俺は、なんとなく分かるような気がした。
でもそれはあくまで想像で、口には出さない。きっと、ふたりもそうだったと思う。
「"わたしは悪くない"、か」
素直で純粋なところがある高森らしい発言だ。
でも、悪いことをしなければ、誰も傷つけずに済むわけではない。
当たり前のことだ。
なんとなく立ち止まって、ポケットから携帯を取り出す。
よだかから、メッセージが来ていた。
「会いたい」
と一言。
俺は、返信しなかった。
つづく
おつ
複雑なようで単純そうで難解だよな
◇
しばらくしてから部室に戻ると、高森と佐伯がいなくなっていた。
部長は窓際でパイプ椅子に腰掛けて、ぼんやりと外の雨を眺めている。
「あいつらは?」
と訊ねると、
「行っちゃった」
とよく分からない答えが帰ってきた。まあ、今はここにいない、というだけで、状況は十分すぎるくらいに想像できる。
べつに、何が変わるというわけでもない。
理由に関しては、聞かないことにした。
どっちがいいのだろう。
泣いている理由を探られるのと、あれこれ勝手に想像して納得されること。
どっちも、俺だったら嫌だ。
だから、すぐに考えるのをやめる。
かといって、それが何かの救いになるわけでもない。
ふう、と溜め息をついて、部長は鞄からノートを取り出した。
それからシャープペンを握って、何かを書こうとしはじめる。何かを言おうとすることもない。
「何をするんですか?」と俺は訊ねる。部長は「ん?」という不思議そうな顔をした。
「部誌の原稿。もう六月になるし、みんなも原稿完成させてね」
俺はちょっとだけうんざりした。
でも、きっとそれは彼女なりの正解なのだ。
「書けそうにないな」とゴローは呟いて、自分の定位置の椅子に体を投げ出すみたいに座った。
「なにが理由か分からないけど、何も書けそうにないです。なんでだろう、なにかおかしいんだな、今回は」
「なにかって、なに?」
困ったように部長は苦笑した。ゴローがこんな抽象的な言い方をするなんて、珍しい。
「よくわからない。いつものように書こうとしてみても、どうも止まっちゃうんです」
部長はゴローの言葉を聞いて、少し考えるような仕草をした。
「……まあ、どうにか書いて」
と、結局彼女は笑った。
文章は、結局、書く人間の裁量次第でどうにでもなる分野だ。
適当に書こうと思えば書ける。
文字と単語を並べさえすればいいのだ。
意味のない言葉を意味ありげに並べ立てても、読んだ人間にはそこそこのものに見えてしまう。
意味のない描写を繰り返し続けるだけで、読んだ者はそこに意味があるかのように受け取ることができる。
そこに意味を込めるか込めないかは、結局は書く人間の選択次第だ。
込めたところで意味を掬い取ってもらえないときもあれば、込めなくても勝手に意味を読み取ろうとする者もいる。
書いた人間と実際の文章の間には断絶があり、実際の文章と読んだ人間の間にも断絶がある。
書いた人間の期待する読み方をしてくれる人間なんてほとんどいない。
だからといって、伝わらないからといって、伝わらない文章を書いても意味はない。
書く人間は、読む人間に伝わるかどうかを一旦棚上げして、それでも伝わるような努力をしなければならない。
越境不能の断絶を、少しでも埋め続けなければならない。
その努力をするかしないかは、結局書く人間の選択次第だ。
部長はノートのうえにシャープペンをさらさらと走らせる。
「部誌のエピグラフ、こんなんにしようと思う」
彼女は楽しそうな顔で俺たちにその文字列を見せてくれた。
“Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -
und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
ICH BIN ich und DU BIST du -
und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schon,
wenn nicht, dann ist auch das gut so.”
残念ながら、これは伝わらないタイプの文言だ。
でも、こういうセンスは嫌いじゃない。
読んだ人間に、「これはいったい何を言おうとしているのか」という問いかけを生む文章。
それを読み解こうと欲するものにだけ応じてくれる文章。
個人的には、そういう文章が好きだ。
「それは、なんですか? ドイツ語?」
「ゲシュタルトの祈り」
と彼女は教えてくれた。
「それと、メッセージ」
「誰に対する?」
「及川くんとか、読む人とか」
俺は少し笑った。
「タクミくんの調子はどう?」
「まだ白紙です」
「そろそろ書いてね。期限、すぐだよ」
「わかってます」
「それと、任命」
「……はい?」
「藤宮さんに、書き方、教えてあげて」
「……書き方?」
不意に部長の口から名前が出て、るーは戸惑ったみたいだった。
「困ってるみたいだから」
「なんで俺が」
と言いかけて、普段ならともかく、今はほかに適任がいないことに気付く。
ゴローはいつだって自分の書いたもの以外に興味が無い。
佐伯は基本的に参考にならないし、高森は人に教えるのがうまくない。
俺だってうまくないけど、高森は「なんとなくカチって感じ」みたいな教え方をするし。
「……教えるっていったって」
「タクミくんなりのやりかたでいいよ。参考にならないことはないと思う」
「……」
「タクミくんの書くもの、この部のなかでいちばん技巧派……っていうか、技巧頼みって感じだし」
……暗に中身が無いとバカにされた気がする。
「藤宮さん、小説が書きたいみたいだから」
俺はるーの方を見る。彼女はきょとんとした顔で俺を見返してきた。
「そうなの?」
「はい」
訊ねると、にっこり笑う。
こういうときにありがちな照れもない。
「なんとなく、おもしろそうだと思って」
怯えもない。こういう奴は何が飛び出してくるかわからないから怖い。
「じゃあ、図書室いくか」
「ここじゃ駄目なんですか?」
「駄目ってことはないけど」と言いながら、俺はちらりとゴローの方を見る。
どう見ても、行き詰まってイライラしている。
集中したいときは周りの雑音が気になるタイプだ。
あいつが書けるにしても書けないにしても、話すなら外でやったほうがいい。
本当は、図書室は私語厳禁なんだけど、うちの学校は利用者も少ないし、広いから端の方なら迷惑もかからない。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」と俺は部長に声をかけた。
「いってらっしゃい」と部長はひらひらと手をふってくれる。
◇
佐伯と高森は帰ったのだろうか。それとも、どこか別の場所にいるのだろうか。
ひとまず、どうでもいいか、と思う。
俺は階段の踊り場で一度立ち止まって、携帯を取り出して、「ゲシュタルトの祈り」について調べてみた。
それを読んで飲み込んだあと、少しだけ考えて、携帯をしまった。
「入部してけっこう経ちますけど、いまだにちょっと、部の雰囲気、つかめないです」
るーは困ったふうに笑いながらそう言う。「だいたいあんな感じだよ」と俺は答える。
「俺もよくわかってない」
「タクミくんも、わからない人筆頭なんですけどね」
「俺なんかいちばん分かりやすいよ」
「それはたぶん、タクミくん自身のことだから、そう思うんだと思いますよ」
「……まあ、そうかもしれない」
るーが言ったような認識は、文章においても大切だ。
自分で書いたものの仕掛けや構造は、自分では分かる。
けれど、読んだ人間が、他の雑多な文言や意味ありげな言葉に惑わされず、"仕掛けや構造"だけを見つけることは難しい。
兼ね合いってものがある。
そういう認識を最初から持っているだけ、るーは文章……というより、伝達、表現の才能がある。
あるいは、俺が苦手としているからそう思うだけで、誰でもみんなそんなことは知っているのかもしれない。
図書室の奥にある窓際のカウンター席に並んで座り、俺とるーはノートと筆記用具を広げる。
「小説って、どんなの書きたいの?」
その質問に、るーは即座に答えた。
「穏やかな話が書きたいです」
……あー、こいつは第一向きだ、と思った。
第二向きの奴は、ジャンルを言う。ホラーとか、ミステリーとか、ファンタジーとか。
あるいは、あらすじを説明しだしたり。
第一向きの奴は、漠然としたイメージだけを言う。
根本的に、そういう奴っていうのは、何かを書くのに向いていない。
書くのにも設計図がいるし、設計図には具体的なイメージがいる。
それを楽しんでやれる奴がおもしろいものを書く。楽しんでやれなくても、設計図を作る気になれる奴は人を楽しませることができる。
それができない奴は、人を楽しませることを、一旦思考の埒外におくしかない。
そういう奴でも何かを書くことは許される。それが文章のいいところだと個人的には思う。
「一般論としてだけど、話をつくるうえでいくつか言えることはある」
「はい」
「まず、テーマとか、モチーフを決めること。変な力を持った女の子とか、未来のことが書いてある日記とか」
「はい」
「あとは、起承転結を意識すること。主に、転と結を。序破急でもいい。骨組みはなんでもいい」
「はい」
「ショートショートならアイディア勝ちみたいなところはあるな。読者をあっと言わせたら勝ちだ」
「……はい。あの、ひとつ訊いていいですか?」
「うん」
「タクミくんは、それをやってるんですか?」
「いや、してない」
俺は堂々と断言した。
「……」
「……ま、そんなもんなんだ」
展開が地味だとか、盛り上がりに欠けるとか、そういうのは外見の話だ。
そういうのも大事だけど、それより大事にしたいものがあるなら、なくてもかまわない。
盛り上がるシーンをばっさりカットしたり、重要な台詞を無意味そうに書いたり。
そういうのも、自分が書きたいもののイメージと一致してるなら、断然アリなわけだ。
「……俺も、作劇の勉強なんてしっかりしてないから、参考になれることなんて言えないな」
「いえ、参考になりますよ。……たぶん」
るーはちょっと不安げに目を逸らした。
「俺は俺のことしか言えない。でも、俺の真似をしても仕方ないから、とりあえず俺のやりかたを知って、あとは自分なりに考えればいいと思う」
「……さっき、部長が"技巧頼み"って言ってましたけど」
「たぶん、対比とかメタ構造とか、そこらへんのことだと思うけど……」
と、マジックの種明かしをするように、部室から持ってきた去年までの部誌を出して、自分の書いたものの解説をしてみる。
どのような効果を意図したか、それが上手くいったかどうか、反省点はどこか。
その検証をひたすらに説明してみせる。
すらすらとそんなことができる程度には、俺は自分の書いたものを何度も読み返していた。
「けっこう、いろいろ考えてるんですね」
「考えてるというか、考えないと書けない。そしてそのほとんどが誰にも伝わってない」
じゃなかったら、説明してはじめて「いろいろ考えてる」なんて言われない。
「……はあ。もっとわかりやすく書けばいいのでは。こう、気付かれるように」
「気付かれるか気付かれないかぎりぎりのラインが楽しいんだよ」
「……難儀な人ですね」
るーは呆れたふうに溜め息をついた。
他人の書くものをこちらで制御したりするわけにはいかないので、結局るーは自分なりに自由に書くしかない。
自由というのは、けれどいちばんむずかしい。
だから、分かりやすいアウトラインをひとつ、自分で手に入れるしかない。
構造。
それは入り口と出口の対比であったり、多層的に入り組んだジグソーパズルであったり、フラクタルであったりする。
まったくの自由で書き始めるというのは難しいので、文芸部では初心者にまず、何本かのお題小説を書かせる。
三題噺とか、そういう奴。
俺や高森やゴローもそれをやった。たぶん、部長もやった。佐伯はやっていない気がする。
書きたいという欲求を持っている奴は二種類に分けられる。
書きたいものを持っている奴と、書きたいものが分からない奴。
だから、三題噺をさせる。すると、同じテーマで書いても、テーマの処理の仕方がそれぞれに異なる。
テーマが独自性を決めるのではなく、その調理の仕方に個性が出る。
そして自分なりの"調理の仕方"を覚えれば、いろいろなものについて、同じ手順で書き進めることができるようになる。
……はずだ、たぶん。
そういうわけで、それからるーに何本かの三題噺を書いてもらった。
最初は行き詰まっていたが、三本を完成させる頃には、るーもなんとなく書くコツみたいなものを掴んできたようだった。
書き始めるときの最大の壁は、「物語はかくあらねばならない」という自分の決めたイメージを一旦帳消しにすること。
それができれば、とりあえず書くことに対する苦手意識は消える。
……と思う。たぶん。
そして最終的には、自分が書いたどの小説にも必ず存在している"なにか"を見つけられるようになる。
別の何かについて書いても、必ず顔を出す"なにか"。テーマが変わっても通奏低音のように響く"なにか"。
それが見つかれば、それがそいつの"書きたいこと"だ。
……たぶん。
「とりあえず、なんとなくイメージはつかめた?」
気付けば一時間近い時間が経っていた。そろそろ部室に戻ってもいい頃だろう。
「なんとなくは」とるーは不安そうな顔をしていた。
「なんなら、今書いた話をちょっと手直しして部誌に載せてもいい」
「……でもこれ、習作ですよ」
「みんな習作だよ」
「……そういうものですか?」
「完成の基準なんて、自分で決めるしかないし、自分がどこまでできるかだって、自分で判断するしかないからな」
「もうちょっと、いろいろ書いてみたいです」
「じゃあ、とりあえず部室に戻ろう。もうひとりでできるだろ?」
「分からないことがあったら、訊いてもいいですよね?」
「もちろん」
「ありがとうございます」とるーはにっこり笑う。
本当に、俺は何かの参考になるようなことができているんだろうか。
なぜだか俺も、意外と集中していたらしく、一段落つくと頭がぼーっとするのを感じた。
高森はどうしてるだろう。そんなことを考える。
よだかに、なんと返信すればいいだろう、なんてことも。
そして、部長がノートに書いた文字列を思い出す。
来月からは、第二文芸部になるかもしれないし。
つづく
乙です。
シャボン玉で気づいたけどこの佐伯さんも・・・
世界観のつながりを考えるとこれまた面白いです。
おつ
乙です
◇
部室には、部長とゴローしかいなかった。
バイトがあるからといって抜けだした後、なんとなく屋上へと向かう。
佐伯がいるかもしれない。そう思ったのに、いたのは高森だけだった。
東校舎の屋上と高森という人物は、どことなく不釣り合いな感じがした。
高森は、扉の音にも足音にも振り返らず、ただフェンスの傍に立って街を見下ろしている。
こっちを向いてくれないから、泣いているのかどうかさえ、分からなかった。
不意に、鳥影が頭上をかすめる。
「たっくん、知ってた?」
彼女は振り返らずに言葉を発した。
「このあいだの映画の日、みんな、わざと、わたしたちを四人にしたんだって。部長も、ゴロちゃんも、ちーちゃんも」
そんなことだろうと、俺は思っていた。
「知らなかった」と俺は答えた。
「わたし、嵯峨野先輩、苦手だった」
「うん」
「みんな、それを知ってたはずなのにね」
「ひどいって思う?」
「少しだけ」
「でも、べつに悪いことってわけでもない。嵯峨野先輩を応援してたわけでもないと思う」
「うん。そうなんだろうね」
高森は、まだ振り返らない。
「たぶん、ちがうの」と高森は言った。
「ちがうって、なにが?」
「わたしと、嵯峨野先輩のことじゃない。たぶん、たっくんとるーちゃんのこと、みんなは気にしてたんだよ」
「……」
「たっくんが、部室になかなか来なかった日、あったじゃない。たっくんが、るーちゃんのこと、"るー"って呼ぶようになった日」
屋上でぼーっとしていた俺を、るーが迎えに来た日。
いつのまにか、日が沈みかけていた日のこと。
「あの日、たっくんが来る前に、部室で、みんなでるーちゃんに訊いてみたんだ。たっくんとの関係。るーちゃん、教えてくれて……」
「……」
「たっくんが覚えてるかどうか不安なんだって、るーちゃん、言ってた」
そのとき、初めて高森は振り返った。
いつもの楽しげなものとは違う。さっきまでの、落ち込んだような顔とも違う。
感情の見えない、それなのに透き通って見える、不思議な表情。
「だからけしかけたの。問い詰めちゃえば、って。たっくんがるーちゃんを覚えてたのは、わたしたちみんな、知ってたから」
高森はそこで、少し笑った。
「軽蔑する?」
と、おそろしげに訊ねてきた彼女に、
「どうして?」
と心からの問いを返す。
高森はまた笑った。
「人のこと言えないんだ」と高森は言った。
それを言ってしまえば、誰にも何も言えやしない。
「でも、そんなことじゃないの。悲しいのは、そこじゃないの」
「誰のことも傷つけられずに生きられる人間なんかいるかよ」と俺は言った。
高森は何も言わなかった。的外れだったのかもしれない。
「望むと望まざるとにかかわらず、俺たちはいつだって誰かを傷つけていくんだ。
俺たちにできるのは、俺たちに選び取れるのがそういう生き方だけなんだってことを、自覚したうえで受け入れることだけだ」
「……たっくんはどうなの?」
「なにが」
高森は、俺の目をじっと見据えた。鋭いというわけでもない、睨むというのでもない。それなのに、射すくめるような瞳。
「たっくんは、受け入れられるの?」
「……」
「自分が悪いわけじゃない。でも、自分の存在が誰かを傷つけている。そう気付いたとき、それを受け入れて開き直ることができるの?」
「……」
「たっくんは、口先だけ、だね」
◇
六月がやってきて、第一文芸部の部員たちは、白々しいような違和感に包まれたまま、部誌を完成させた。
るーは小説を、習作として五本ほど。部長はよくできた短編を五本と、読んだ本の感想を三つ、編集後記と雑感等をいくつか。
高森は、前に言っていた小説のスピンオフを結局書いた。
ゴローはというと、よく分からない散文をいくつか、どうでもいいような随筆を一本、景色のようなオチのない小説を一本。
佐伯は、閉ざされた扉をノックし続ける男の話。
俺は、随筆のような小説を一本。
結局部長は、例のエピグラフを使わなかった。
無難な編集、無難なまとめ。
完成させてからも、何か、嘘をついているような感覚がずっと残った。
そのせいだろうか。部室に行っても、今までのように会話があったりしなかった。
今までどんなふうに話をしていたのか思い出せないくらいの沈黙が、"みんな"を覆っていた。
なんでなのかは分からない。
嵯峨野先輩はときどき部室にやってきていたけれど、やがてそれも途絶えた。
たぶん、高森に気を使わせないつもりでやってきていたんだと思う。
気にしてない、と主張するために。
それもかえって互いを疲れさせるだけだと気付いたのかもしれない。
第二文芸部との対決(というと違和感があるが、そうとしか言えない)については、教師陣の協力があった。
第二が中心になって、全クラスの担任に頼み込み、部誌をホームルームで配布してもらう。
昇降口近くに投票箱を設置し、どちらの部誌が面白かったか、そのなかのどの文章を気に入ったかを、任意で投票してもらう形。
「楽しみだね」と、本気か冗談か、部長は笑っていた。誰も同意しなかった。
その対決の決行の一週間前に、それは起こった。
◇
その日の放課後、るーが提案して、女子部員たちは帰りにどこかに買い物に行くという流れになっていたらしい。
“佐伯、高森、部長、るーは、一緒に買物に出掛けていた。”
ゴローはその日、用事があるといって部室に顔を出さなかったが、これは“耳鼻科の診察を受けていた”とあとで確認できた。
そして俺だけが部室に残って少し作業をしていた。少ししてから屋上に行くと、例のように鷹島スクイがいた。
「書けたか?」と彼は訊いてきた。
「まあ、一応」と俺は答えた。書けなくても、本当はどうということもないのだ。
例の、給水塔の陰のスペースで煙に巻かれていると、また第二文芸部の部員たちが屋上にやってきた。
聞こえてきたのは陰口だった。
俺とスクイは何も言わずに黙ってそれを盗み聞いていた。
その日の夕方、校舎裏の、今は使われていない焼却炉で、第二文芸部の部誌の原稿が燃やされていた。
◇
「おまえらだろ!」
と、第二の部員の何人かが、こっちの部室に怒鳴りこんできた。
「おまえらのうちの誰かだ!」
そう怒鳴る男子生徒の声を、俺はどこかで聞いたような気がしたけど、どうしても思い出せなかった。
「わたしたちじゃないよ」と部長は毅然として言った。
るーも、高森も、どこか不安そうだった。佐伯やゴローは、いつものように壁を張ったように様子を眺めている。
乗り込んできた男子生徒と、それを落ち着くように諭す、他の部員たち。
けれど彼らも、どこか疑わしげな視線を、俺たちに向けていた。
「他に考えられない」と、憤った調子で男子生徒は続ける。
「でも、そんなことする理由がないよ」
「負けたくなかったからじゃないのか」
「……」
ふう、と部長は溜め息をついた。その態度が、余計に彼を苛立たせたみたいだった。
本当に、俺たちがそんなことをする理由はない。
勝ち負けになんてもともとこだわっていないし、みんな、人のつくったものを踏みにじれるほど無神経じゃない。
でも、それはこっちの言い分だ。
たしかに、第二文芸部の立場からすると、俺たちの仕業としか考えられないだろう。
「とりあえず、落ち着け」と、怒鳴り声をあげている男子生徒を、他の生徒が諭す。
そこに及川さんが現れて、彼らにひとまず部室に戻るように言った。
「悪いね。興奮してるみたいなんだ。許してやってくれ」
と、彼は部長の目を見て言った。
「うん。仕方ないよ」
他の第二の部員たちが部室に戻ってから、及川さんは俺たちの顔を見回した。
「とりあえず、誰がしたのかは分からないけど、原稿自体はもうパソコンに入ってるから、発行は問題なくできるんだ」
「……誰かがしたと、思ってるんですか?」
高森が、おそるおそる、そう訊ねた。及川さんは、怒りのこもった皮肉げな笑みを浮かべた。
「たまたま風にさらわれて、たまたま焼却炉に入って、たまたま火がついたんだって思う?」
どっちにしても、あんまり気分の良い話じゃない、と彼は言う。
「きみたちを疑ってるわけじゃないよ」と彼は首を横に振った。
「原稿をしまっていた場所は部員しか知らないし、かといって、誰にも見つからないようにしていたわけでもない。
疑うつもりになれば、誰のことだって疑える。きみたち以外にも、うちの部員に個人的な恨みがある人間がいたのかもしれないし」
それに、と彼は言葉を続ける。
「犯人探しをするつもりはないよ。でも印刷していた原稿は何部かあって、そのうちの一部だけだったんだ。
つまり、べつに原稿を台無しにするつもりでやったわけじゃないんだと思う」
「……それって、何部か一緒にしまってあったってことですか?」
そう訊ねたのはるーだった。質問に、及川さんは頷いた。
「そのなかの一部だけが燃やされてた?」
「そうなるね」
……したところで何の得にもならない行為。ただ、気分が悪くなるだけの行為。
"誰かの気分を悪くさせるためだとしか思えない行為"。
るーは苦しげに俯いた。
それは、あきらかに誰かの悪意だ。
達成すべき目的のためではない、何かの意図があってのことではない。
ただ、悪意ある何者かが存在するということを、誇示するためかのような。
「……とりあえず、焼却炉が使われてて騒ぎになったから、うちもしばらくは騒がしくなるかもしれない。
でも、なんとか落ち着けて、予定通りに例の投票はしたいって思うんだ。そっちも原稿はできてるんだろ?」
「うん」
部長はうなずいた。俺はなんとなく後ろめたくなった。
及川さんが帰ってしまったあと、俺たちは自分たちがその日、何をしていたのかを話した。
はっきりしたアリバイがないのは俺だけだったけど、だからって俺を疑うような奴は誰もいない。
翌週から俺たちは第二文芸部になった。
季節はもう梅雨になっていて、その週はずっと雨が降ったり止んだりを繰り返していた。
秋津よだかがこの街にやってきたのは、その週の土曜のことだった。
つづく
乙です
乙
自演なのかいじめなのか
おつ
乙です
◇[Boanerges]
金曜の夜に連絡をよこして、翌日の土曜の昼過ぎに、秋津よだかは新幹線駅にやってきた。
明らかに日帰りする気のない大荷物を抱えて新幹線を降りると、彼女は俺の姿を見つけてパタパタと駆け寄ってきた。
「ひさしぶり」と彼女は笑う。
髪の長さも、風貌も、歳相応と思えば歳相応に見えるのに、動作や態度が妙に落ち着いているせいで、十歳くらい年上にも見えてしまう。
動きは遅いわけじゃないけど、どこか鈍い印象がある。
声のか細さ、線の細さ、表情の希薄さ。姿勢も声音も表情も主張が薄い、空気に溶けるような少女。
それなのに、ぶれない軸があるみたいに、よだかは周囲の景色や流れに溶け込まない。
動き続ける景色のなかで、彼女だけが強い磁力か何かで地面に縫い付けられているような、強さ。
最後に姿を見たのはもう一年以上も前のことなのに、彼女から受ける印象はおどろくほど変わっていなかった。
「ずいぶん急だったな」
「会いたかったから」
「そう」
素朴に笑うよだかに、俺は安心と怯えがないまぜになったような不思議な気分になる。
六月半ばともなれば、春先の透き通るような肌寒さも褪せたような色調の曖昧さもすっかりなくなっていた。
空をすっぽり覆う灰色雲から降りしきる静かな雨は、昨日の夜から降り続けていて、今も止む気配を見せない。
気温はそこまで高くないが、湿気があるせいで、空気は妙に肌を刺激してうっとうしい。
荷物を受け取ってホームを歩き始めたとき、よだかは俺の顔を見上げるように覗き込んできて、
「たくみ、なんか変わった?」
と言った。
「一年経てば、少しはね」
「もうそんなに経つんだね」
よだかは溜め息をつくようにそう呟いた。
「今日中に帰るつもりなの?」
駅を出てすぐ、俺は気になっていることをよだかに訊ねた。
「だったらそんなに荷物持ってきてないよ」
「ホテルとってるの?」
「ううん」
「……どうするつもりなの」
「たくみのとこ、いこうと思ってたけど」
「……無理だよ」
「どうして?」
「言ってないっけ。いま、親戚の部屋にいるから」
「知ってる」
「……あのな。知ってるなら、あらかじめ連絡してくれ。いきなり来られて許可とれるわけないだろ」
こういう奴だとは知っていたけど、呆れる。
何も変わってない。
「じゃあ、今晩ラブホいこ」
「……なにいってんの、おまえ」
「たくみの部屋がだめなら、そうするしかないでしょ」
「なんで二択なんだよ。……なにしに来たんだよ、おまえ」
「たくみに会いにきたんだよ」
よだかはぶれない。怯まないし、恐れない。
表面的にはそう見えるし、そうである以上、本当に怯んでいないのか、恐れていないのかなんて、見ているこっちには分からない。
何を考えているのか分からない女。
「……とりあえず、静奈姉に頼んでみるよ」
「親戚って、女の人なの?」
「言ってないっけ」
「それは聞いてない」
「じゃあ、今言った」
「そうなんだ。へー」
よだかはどうでもよさそうだった。
「これからどうするつもりなの?」
「とりあえずどっかに、荷物置きたいかな」
「……だから、置く場所がないだろ」
「じゃあ、とりあえずタクミの部屋で預かってよ。泊まるかどうかは、今はいいからさ」
「コインロッカーとか」
「……」
よだかは黙りこんで、俺の目をじっとみつめてくる。
いつもこうだ。こいつはいざというとき、ただ黙って俺のことを見上げてくる。
甘えてくる。
そういうことをする女の子は、俺の周りにはほかにいない。
みんな、どこかで不器用で、他人にすがりついたり、頼ったり、甘えたりってことが素直にできない。
よだかは逆だ。
他人にすがり、頼り、甘えることしかできない。
見抜かれているような気さえする。
「たくみの住んでるとこ、見てみたい」
俺は、仕方なく頷いた。
荷物を置くだけだ、と自分に言い聞かせる。
たぶん、静奈姉に頼めば、彼女はよだかを泊めることを嫌だとは言わない。
言わないけど、それはマナー違反だ。
だからあくまで最後の手段。荷物は、ひとまず預かるだけだ。
静奈姉は朝から出掛けていた。
最近は大学で何かあるのか、けっこう慌ただしくしている。
バイトに勉強に交友関係にと忙しそうで、家事も俺がこなすことが多かった。
ゆっくりと話をする時間なんて、最近はとれてないかもしれない。
だから女を連れ込んだなんて言われるのは、ちょっと嫌だ。
一応、静奈姉には、「友達がうちに泊まりたいって言ってるんだけど」と連絡しておく。
そういう言い方が、一番無難だという気がした。
「……とはいえ、女であることを隠しておくのもアンフェアという気もするよな」
部屋について荷物を置いてから、メッセージの文面を考えているとき、ひとりごとのつもりで呟いた。
「いまさら公正さなんて気にしてどうなるの?」
と、よだかはどうでもよさそうに言った。
自分のことを話しているのに、他人事みたいな言い方をする奴だ。
「たくみがフェアであることをいつも気にしてるのって、嫌われたくないから?
“嘘をつかない”“遅刻しない”“他人の秘密を漏らさない”“だから俺を受け入れて”っていう、自信のなさの裏返し?」
俺はとりあえずその言葉を無視した。
つまらなそうな顔をして、よだかは俺のベッドに勝手に倒れ込んだ。
スカートから伸びた細い足がぱたぱたと何度も上下する。
なんとなく、足首の動きに目を奪われる。
骨のように細く、陶器のように白い。
生きている感じがしない。無機物めいた、作り物めいた、石膏めいた、それが動いている。
「荷物置くだけって言っただろ。何寝てんだよ」
「たくみの匂いがする」
といって、よだかは顔を枕に押し付けていた。
「やめろ」
「わたしの匂いかぐ?」
「……あのな」
「でも、今日はちょっと汗くさいかも」
俺が溜め息をつくと、よだかはくすくす笑った。
「冗談だよ、冗談」
そう言って、彼女はベッドに寝そべったまま、彼女は部屋を見回しはじめた。
「ここがたくみの部屋かあ。何にもないね」
「……人の家だしな」
テレビも観ないし音楽も聴かない。ゲームも、ゴローの家にでも行かないかぎりやらなくなった。
漫画なんかも、昔読んでた奴が完結してから、新しいのに手を伸ばさなくなった。
勉強するか、文章でも書くか、図書室で本でも借りて読んでいるか、そうでもなければバイトでもしているのが俺の時間の潰し方だ。
「つまんないね」
「じゃあ帰れよ」
「やだよ。新幹線代高かったもん。元とってから帰る」
「元ってなに」
「とりあえず、匂い?」
「……だからさ」
……よそう。たぶん、延々と繰り返すだけだ。
俺の反応を面白がってるだけだ。そのうち飽きるだろう。
「このあと、どうする気?」
話の流れを断つつもりでそう訊ねると、それまでとは違う心細そうな声で、小さな、頼りない声で、よだかは、
「わかんない」
と言った。
「ねえたくみ」
「……なに」
「こっちきて」
寝そべったまま、彼女はこっちにふざけた感じで両腕を伸ばしてくる。
少し警戒したけど、また例の目でしばらく見つめられて、結局俺は折れた。
言われるがままに距離を詰めると、彼女は俺の腕を引っ張ってひきずり倒そうとしてきた。
バランスを崩して膝を床につくと、体を起こして俺の首に飛びつくみたいに腕を回してきた。
「……急になに」
本当に、嫌気がさす。 強く拒絶できない自分。それを知って、イタズラをしかけてくるよだか。
俺たちは、たぶん共犯で、お互いが被害者で、お互いが加害者だ。
よだかは、俺の肩に額を押し付けて、顔を隠したまま、何秒か黙りこんだ。
そして、不意に、
「たくみ、結婚しよ」
なんて言い出す。
「……あのな」
「いや?」
俺がその言葉に反応しかけたときに、彼女は顔をあげて、至近距離で俺の目をじっとみつめてきた。
その瞳が、すがりつくように真剣で、振り払えない気持ちと、踏み込めない恐れとが同時に襲ってきて、俺を一気に混乱させる。
「……うそだよ、ばーか」
そう言って彼女は俺の拘束をほどいて、またベッドに寝転がると、そのままこっちに背を向けた。
「たくみのばーか。だまされてやんの」
ふてくされたような、でも、感情を隠すみたいに強張った感じの声。
反応に困ったまま、俺はよだかの黒い髪が、枕のうえで広がるのを眺めた。
「ねえ、街を案内してよ」
こっちを見ないまま、彼女はそう言う。
「たくみが住んでる街。通ってる学校。通る道とか、バイトしてる店とか。見てみたいな」
俺は、仕方なく頷いた。それがたぶん、俺にできる限界だ。
「……分かったよ」
溜め息まじりの俺の言葉に、よだかは、「ごめんね」と小さく呟いた。
つづく
乙
チェリーが遊馬、幼馴染が静奈、妹が美咲でいいのかな
全然覚えてないが面白いことだけは確かである
おつ
おつっす
これの前作のタイトルってなに?
おつ
>>337
幼馴染「……童貞、なの?」男「」
>>338
ありがとう
◇
雨と呼ぶにはあまりに弱々しい霧雨だった。
煙るように白んだ街並みを、俺とよだかは傘もなく歩いた。
薄く広がった灰色の雲が太陽の光を濾して鈍く散らばらせ、街は水中のように景色を曖昧に、けれど静謐に見せている。
風はぬるい。
「夢の中を歩いてるみたいじゃない?」とよだかは言った。
俺は適当にそれに頷く。
「さて、どこに行こうか?」
よだかの問いに、俺はとっさに言葉に詰まる。
どこ? どこに行こうにも、よだかがどこに行きたいのかわからないのだ。
俺が暮らしている街、とよだかは言った。
でも本当のところ、俺はこの街で暮らしているという実感が、未だに築けていない。
他人のための空間に、忍び込んでいるような据わりの悪さ。
誰かに「受け入れてもらっている」かのような居心地の悪さ。
そしてそれは本当にそうなのだ。
この街に自分が"住んでいる"のだという実感は、俺には未だに沸かない。
それはちょうど、家のことと重なって思える。
「たくみ、バイトしてるんでしょ?」
「ああ」
「どこ?」
そういう流れで、俺たちは静かに濡れながら街を歩いた。
六月の雨降りの土曜は人気が少ない。
よだかが俺の生活している場所を見たがることについて、俺は何も訊かなかったし、文句も言わなかった。
そういうことだってあるだろうと思う。
よだかは濡れることを厭わなかった。
これが土砂降りだったら俺だって止めた。
俺ひとりなら、土砂降りの中だって平気だ。
今は人の部屋を間借りして暮らしている身だから、服や部屋のことを考えると濡れないようにしてしまうけど。
でも、ふたりで居て、片方は女の子で、それなのに雨に濡れながら歩くというのはあからさまに馬鹿げていた。
霧雨はけれど、服の表面に粉のように貼り付くだけで、水分というよりは塵のように思える。
「雨だね」とよだかは言った。彼女にしては静かな言い方だった。
「雨だ」と俺も繰り返した。互いの顔も見なかった。話すことだって何もなかった。
バイトをしているコンビニに辿り着くと、よだかは駐車場の入口からその景色を携帯で撮影した。
「なにをしてるの」と訊くと、記録、と言う。
「今日の景色」と彼女は笑う。それに何の意味があるのかはよくわからなかったけど、たぶん彼女は意味の有無なんて気にしていない。
店の中に入ると、専門学生の女の人と高校生の男の子が俺に気付いて声を掛けてきた。
「浅月さん、バイトサボってデートですか?」
そう声を掛けてきたのは高校生の方だった。
「隅に置けませんなあ」と専門学生の方が言った。
そんなんじゃないですよ、と答えて、俺は傘を買った。
「嫌な雨だね」とレジを打ってくれた専門学生は言った。
「そうですか?」と俺は本心から尋ね返す。
「雨好き?」
「まあ」
「変わってるね」
彼女が本当に変なものを見る目で俺を見たから、俺は自分が本当に変な人間なんだという気さえした。
それから俺とよだかは一本の傘に入って街を歩いた。
粉のように軽い霧雨は、傘の下から潜り込むように俺たちに近付いてきた。
傘は傘である意義を失っているような気さえする。
それでもないよりはマシだという気がした。
景色は薄明のような透明感をたたえている。
よだかは感想を何も言わなかった。
俺たちは黙ったまま地下鉄駅に向かった。
切符を買って改札を抜け、ホームで電車を待つまでの間、俺たちは何も話さなかった。
地下鉄は、それでも空いてはいなかった。
人々はどこか憂鬱そうで、話し声さえどこかひそやかだ。
そういうことになんとなく安心する。雨が好きなのはそういう理由だ。
学校に辿り着くと、よだかは当然のように中に入りたがった。
校内には誰もいないような気がしたけど、たぶんそれはただの錯覚で、今日だってどこかしらの部活が活動しているはずだろう。
「駄目だよ」と俺は言った。
「どうして?」
「ここはおまえの居場所じゃないから」
よだかは少し傷ついたような顔になった。
昼近くになって、俺たちは近くのファミレスに寄って昼食を済ませた。
何か話すことがあるような気がして、長居をしようとドリンクバーを頼んだけど、やっぱり話すことはなかった。
「どうして今日、こっちに来たの」と、俺は仕方なくそう訊ねた。
でも、本当はどうでもよかった。
「理由はないよ」とよだかは俺と目を合わせないで笑った。
そうだろうと思った。ただなんとなく、そうしたかっただけなのだろう。
それから俺たちは何もすることを思いつけずに、ぼんやりと窓の外の雨を眺めながら時間を過ごした。
それはべつに悪い時間じゃない。でもきっと、他の人に言っても信じてもらえないんだろう。
本当にこういう時間なのだ。
長い時間が過ぎて懐かしく思うのは、きっとこういう時間なのだと思う。
少なくとも今まではそうだった。
遊園地に行ったことを思い出すとき、俺が思い出すのはアトラクションの最中のことじゃない。
食事やアトラクションの列に並んでいる時間、トイレを探して迷っている時間、そういう時間だ。
午後三時を過ぎた頃、静奈姉から連絡が返ってきた。
俺はとりあえず電話をかけて、今例の友達と一緒にいる、と言った。
連れて行ってもいいか、と訊ねると、どうぞ、と静奈姉は言っていた。
俺はよだかが女であることを言い出せないまま、とりあえず部屋に戻ることにした。
そして実際戻ると、静奈姉は明らかに戸惑った顔をした。
「えっと、彼女?」
あきらかに強張った表情で、彼女はよだかの顔を見た。
「初めまして、秋津よだかです」とよだかは名乗る。
「彼女じゃないよ」と俺は言った。よだかはなぜかつまらなそうな顔をした。
「友達?」
静奈姉はいっそう戸惑ったみたいだった。
「あっちの友達。遊びに来たんだけど、どうやら宿がないみたいなんだ」
「……」
いろいろと、静奈姉は想像をたくましくしているらしかった。
そりゃ、俺が逆の立場でもそうなる。
「泊めてあげたいんだけど……」
「えっと。待ってね」
静奈姉はいろいろと考えるような顔をした。
「まずいような気もするけど、宿がないなら泊めざるを得ない。でも、そもそもそれならこういうタイミングでその話になるのはおかしい」みたいな。
実際それはそのとおりだろう。
俺はよだかに、とりあえず俺の部屋に言って、濡れた服を着替えてくるように言った。
ふたりきりになった途端、静奈姉は珍しく大人ぶった顔をした。
「彼女じゃないんだよね?」
「もちろん」
というか、彼女ならこんな状況にはしない。
「どういう関係?」
俺は答えに窮する。
「友達」と、仕方なく俺はさっきと同じ嘘をついた。本当のところ、赤の他人だ。
「ただの?」
「……とは、言えないかもしれない。でも、あんまり、説明したくない」
「あのね、タクミくん。ここはわたしの家だし、タクミくんをここで預かってるのはわたしなんだ。
だから、ここで何かあったら、わたしとしては責任を感じるし、困るんだ。
もしタクミくんが自分の家に住んでるなら、何をしてもいいと思うけど……」
「迷惑だって分かるよ。でも、急だったし、俺だってこういうつもりじゃなかったんだ。困ったことにはならないって誓う」
静奈姉は、でも、既に困った顔をしていた。
でも、俺だって本当にこんなつもりじゃなかった。
静奈姉を困らせるようなことなんて、本当はしたくない。
……でも、実際困らせるようなことをしているのだ。
よだかの言うとおりだ。
そもそも、俺がここにいることだって、周囲に迷惑をかけることにしかなっていない。
いまさら迷惑をかけたくないなんて、世迷い言だ。
「……静奈姉。ごめん」
「ごめんじゃなくて。できたら話してくれると嬉しいんだ。家出か何かなら、おうちに連絡しなきゃでしょ?」
「……」
俺はちょっときょとんとしたけど、まあたしかに、そういうふうにも見える。
というか、普通に考えたら、そう見えるのか。
「ほんとにそういうんじゃないんだよ。普通に友達として、遊びに来たんだ。急だったけど、俺も知らなかったんだ」
静奈姉は、まだ考えるような素振りを見せていた。
そこで、ドアが開く音がした。
「姉です」と、よだかは言った。
俺と静奈姉は、よだかの方を見る。
薄手のパーカーとジーンズに着替えたよだかは、まだ少し湿ったままの髪を指で梳かしながら、こっちを見ている。
「姉って……誰の?」
「わたしは、たくみの姉です」
「よだか」と俺は咎める。彼女は俺を睨むようにしてから、それでも話を途中でやめてくれた。
静奈姉に話すことじゃない。
他の誰にも話すことじゃない。
いや、でも……。
よだかが話したいなら、俺には止める資格なんてないのかもしれない。
彼女には、その権利があるのかもしれない。ひょっとしたら。
もし彼女がそう主張するなら、俺はそれを受け入れることもできる。
「……タクミくんにお姉ちゃんなんていないでしょ? わたし、親戚だよ?」
静奈姉は、あきらかに咎めるような目でよだかを見た。
静奈姉のなかでよだかは、もう、嘘つきになってしまった。
けれどよだかは、そんな目には慣れてる、というふうに、気にした素振りも見せなかった。
でも、本当のところ、よだかがそういうふうに見られることに慣れていないことだって、俺は知っている。
静奈姉が、そんな目をしたくなる理由はわかるつもりだ。
でも俺は、よだかがそういう目で見られることが耐えられない。
なんなんだろう、これは?
大好きな人達なのに、優しい人たちなのに。
その優しさはきっと、よだかだって受けられるはずだったものなのに。
「よだかは、俺の姉だよ」
俺はそう言った。でも、そう答えるのは間違っているような気もした。
本当にそうなんだろうか……? よだかは、俺の姉なんだろうか、本当に?
でも、そんなのはもう関係ないことだ。
俺はよだかを、姉だと認めた。本当のことは分からない。でも、もう認めた。だから俺はこの街に来た。逃げてきた。
「……それなら、おじさんたちに確かめてもいい?」
静奈姉の言葉に、よだかは、
「やめておいた方がいいと思いますよ」と、きっと本心からの忠告をした。
それを静奈姉は、嘘がばれないための方便だと解釈したのだろう。電話をする、と言った。
仕方なく、俺は言葉を重ねた。
「してもいいけど、できたら、母さんじゃなくて父さんに話して」
その言葉には、さすがに彼女も戸惑ったみたいだった。いいかげん、嫌気がさしてくる。
人に囲まれて生きることはむずかしい。
人に助けられずに生きるのはむずかしい。
それにもかかわらず、自分のことを自分だけで考えたいと思うのは、もっとむずかしい。
「……静奈姉、そういえば、俺も訊きたいことがあったんだ」
「なに?」
「遊馬兄とは、もう会わないの?」
静奈姉は、ちょっと傷ついたみたいな顔をした。
その表情に、俺は少しの後悔と、少しの嗜虐心が芽生えるのを感じた。
「あんなに仲が良かったのに、今はもう会ってないの?」
静奈姉はしばらく黙りこんでから、よだかの方をちらりと見て、諦めたようにため息をついて、
「振られたんだよ」
と苦笑した。
「いつまでもつきまとってもいられないでしょう?」
ああ、そうだったんだ、と思った。
そういうふうにバラバラになっていくんだ。
つづく
乙です
おつー
乙
◇
結局、静奈姉は俺の家に連絡をしなかったみたいだった。
どうしてかは分からない。
結局、よだかのことは見逃してくれたらしい。
一晩だけという俺の言葉を信用してくれたのかもしれないし、面倒事を避けたのかもしれない。
とにかくそうなってしまったらすぐに割りきれてしまえるのが彼女の美点なのかもしれない。
突然の来客であるよだかと一緒に夕食をとることにも、彼女が風呂場を使うことにも何の抵抗もないようだった。
夕食を食べ終える頃には、ふたりはすっかり馴染んで、会ったときのギスギスとした雰囲気はなりを潜めていた。
とはいえ、よだかが俺の部屋に泊まることには反対されてしまったので、結局俺がリビングで眠ることになった。
静奈姉はしばらくよだかと話をしたあと、なにかやらなければならないことがあるとかで自分の部屋にこもってしまった。
俺が自分の部屋に戻ると、よだかも当然のようについてくる。ほかに居場所もない。それはそうなるだろう。
俺は机の上にノートを広げて勉強を始めた。何かすることがあると、気が紛れる。
「静奈さん、いいひとだね」とよだかは言った。
彼女は当たり前みたいに俺のベッドの上に横になっていた。
そう。静奈姉はいいひとだ。
「ねえ、たくみ、訊いてもいい?」
「なに」
どうせ、駄目って言ったって訊くくせに、と俺は思った。
「たくみがこの街に来たのって、わたしのせい?」
「そうだよ」
俺は間髪おかずに答えた。
「やっぱり?」
「うん」
「わたしと会わないほうが、たくみは幸せだったね」
本当に真剣な声で、よだかはそう言った。
自分が誰にとっても余計ものだと信じているみたいに。
俺はそれを否定できない。
「たしかにね」と俺は答えた。
中学二年のあの春の日に、ひとりの女の子が母親の遺書を握りしめて俺の家に来ていなかったら、俺は今でも幸せでいられた、かもしれない。
ひとりの男がいた。
男には恋人がいた。長年連れ添った相手だった。女が妊娠すると、ふたりは籍を入れた。
ちょうどいいタイミングではあった、と後に語っていた。
そしてふたりは幸せな家庭を築きましたとさ、めでたしめでたし。
――反転。
けれど女の妊娠が発覚する少し前まで、たった数ヶ月の間だけ、男は浮気をしていました。
浮気相手は職場の後輩、男より五、六年下の、社会人になったばかりの女の子。
男は恋人がいることを彼女に隠して、数ヶ月の間騙し通したのです。
さて、男が浮気をやめた途端、見計らったように恋人の妊娠がわかり、彼はびっくりしました。
まるで運命のようなタイミングだと彼は感じ、自分が浮気相手を捨てたことを間違っていなかったと感じました。
彼にはそれが、自分が誠実さを取り戻したことに対する福音のように感じたのです。
生まれた子供は、仲の良い両親に見守られ、すくすくと育ちました。
――ここで終われば、まだ幸せな物語だった。
そして中学二年の春の日、同じ中学に通うひとりの少女が、彼らのもとを訪れました。
聞けば彼女は、父が結婚するまえに恋人関係にあった女の子供だと言います。
彼女は妊娠していたのです。
それも、母が彼を身ごもるより先に。
少女は彼の腹違いの姉だったのです。
父の認知がない以上、戸籍上は赤の他人だったとしても。
同じ中学に通う同級生の女の子が、学校で何度か顔を見たこともある少女が、自分の腹違いの姉であった事実。
その根本となった父の不誠実。
この場合、どっちが『不貞の子』ってことになるんだ?
彼はそう思いましたとさ。
なんでも彼女の母親は、もともと体が弱かったうえ、女手一つで子を育てるのに相当無理をしたらしく。
体を壊して、しまったらしく。
あっさり死んで、しまったらしく。
娘は母の遺書に書いてあったとおりに、「実の父親」を頼りにしてみましたが、
「俺の子かどうかなんてわからない」と、あっさりつっぱねられましたとさ。
めでたくなしめでたくなし。
中学二年生までに得たすべてのもの。
両親の愛情(らしきもの)。友人たちとの時間。気のいい親戚たちとのふれあい。
楽しかったこと、嬉しかったもの、それを幸せと呼んだ。
その裏側には、常に『よだか』がいる。光に炙りだされる影のように、俺の幸福の裏側にはよだかが張り付いていた。
俺が両親に抱かれていたとき、よだかは母親とふたりきりだった。
俺が友達と遊んでいるとき、よだかは家事の手伝いをしていた。
俺がるーと遊んでいたとき、よだかは学校の友達にいじめられていた。
光と影は反転しうる。
俺はよだかだったかもしれない。
俺は、たまたま拓海だった。『こっち』だった。
胸をなでおろして、はあやれやれ、どうやら俺の人生は、「父に選ばれた方」だった、一安心だ、なんてことにはならない。
知らなければ幸福でいられた? ……たしかに。
でも、知ってしまったことを知らなかったことにはできない。
知らないこと。目を瞑ること、耳を塞ぐこと、口を噤むこと。それを幸福と呼べるだろうか?
それを幸福と呼ぶのなら俺は誰に対してだって断言してやれる。
幸福は、感受性の麻痺と想像力の欠如と思考の怠慢がもたらす錯覚だ。
幸福と真実を秤にかけたとき、ためらわずに幸福を受け取れる奴になんてなりたくない。
だったら俺は、幸福になんてならなくていい。
よだかはいつか言っていた。
――人生はプラスマイナスゼロって言うじゃない?
悪いことがあったら、そのうち良いこともある、とか。
でも、ねえ、本当にそうなの? 本当にプラスマイナスの収支がつくって信じて、そんなことを言ってるのかな。
そうだとしたら、彼らの頭のなかでは、アンネ・フランクの短い人生にはその理不尽な不幸に見合うだけの幸福があったことになるのかな。
そうだとしたら、そこで収支がプラスマイナスになっているんだとしたら、彼女の死はありふれたものでしかないのかな。
そうだとしたら、わたしたちは、その死からなにひとつ学ぶことはないってことにならない?
どこにでもある、誰もと同じ、プラスマイナスゼロの生でしかないってことにならない?
アンネ・フランクの生と死は、悲しむにも嘆くにも悼むにもたらない、ただ当たり前のものでしかないのかな。
誰かがそれを、屁理屈だと言った。
俺はそうは思わなかった。
生きることは理不尽だし、良いことと悪いことの収支なんてつくはずがない。
数字のようには割り切れやしない。
都合のいい気休めなんて、聞き流すのに体力を使う分むしろ有害だ。
欺瞞を欺瞞と呼べば、ひねくれていると後ろ指をさされる。
話の通じない相手に耳を貸すのは、疲れる。
「ごめんね」とよだかは言った。
「なにが」
「なにか、考えてる?」
「なにも。変な感じがすると思って」
姉であり、元同級生であり、同い年の女の子である少女。
よだかと俺は、けれどいつのまにか、仲良くなっていた。
友達でもなく、姉弟でもなく、なんでもないはずなのに、近くにいた。
結婚しようよ、とよだかはよく言う。
それが俺には、彼女を認知しなかった父へのあてつけのためのように思えてしまう。
もしくはそれは単に俺が穿った見方をしているだけで、彼女は誰かとの繋がりを求めているのかもしれないけど。
「ごめんね」とよだかはまた言った。
「わたし、居なければよかったね」
それはきっと、今、この場に限定された、なんでもない言葉。選び方が少し不穏なだけの言葉。
それは、けれど、中学のとき、彼女の口から発せられた言葉を思い出させた。
――ごめんね。
――わたしがいなければ、きみは幸せな子供でいられたね。
――わたしがいなければ、お母さんも、ほかのひとと幸せになれたかもしれないよね。
――わたしがいなければ、きみも、お父さんのこと、素直に尊敬できてたよね。
――わたし、生まれなければよかったね。
そんなことを泣きながら言った女の子。
彼女のことを、俺がどうして無碍にできるだろう。
「どした?」とよだかは俺を見て笑った。
「なんでもない」と俺は目をそらす。
すると彼女は、ベッドを下りて、俺の真後ろまでとたとた歩み寄ってきて、
「どーん」とうしろから抱きついてきた。
俺たちは姉弟で、でも、中学のときに初めて顔を合わせた、無関係の男女でもある。
そのいびつさが、俺たちの振る舞いに、不思議なほどの違和感を与えてくれる。
「なんだよ」
「お姉ちゃんが恋しいのかと思って」
「誰がお姉ちゃんだ」
「たまには素直に甘えてごらん、弟よ」
「調子乗んな」
ああ、でも、とふと思い出した。
「そういえばさ、よだか」
「なに?」
「俺、子供の頃、お姉ちゃんがほしかったんだよな」
「そうなの?」
「うん」
「わたし、弟がほしかった」
「そう?」
「うん」
俺は少し笑った。
「ばかみたいだな」
「ほんとにね」
よだかも笑った。
ばかみたいに。
つづく
乙
おぉう…
興奮してきたぞ!
おつ
乙
うわー
乙です
◇
翌日の朝、リビングのソファのうえで目を覚ました。
朝の五時半をまわったばかりだったが、普段と違う場所で眠ったせいか、寝直す気にはなれない。
六月の日曜の朝、五時。窓の外は少しずつ明るくなっているようだったけど、雲はやはり空を覆っている。
ぼんやりする頭で少し考えごとをしてから、キッチンに立ってお湯を沸かしてコーヒーを入れる。
それからまたソファに座り込んで、コーヒーから立ち上る湯気を見つめながら掛け時計の針の音を聴き続けていた。
いくつかのことを思い出したり、忘れようとしたりした。
俺の部屋の俺のベッドにはよだかが眠っているはずだ。
静奈姉は遊馬兄に振られたという。るーはそのことを知っていたんだろうか。
結局、第二文芸部……現、第一文芸部の部誌が焼却炉で燃やされていたのは、いったいなんだったのか。
嵯峨野先輩から借りたDVDを、そういえばまだ返していない。
近頃の高森は、表面上は元気を取り戻したみたいに見えるけど、それだってどうなのか分からない。
俺たちの部誌は、結局、不完全燃焼のまま、完成ということにしてしまった。
この憂鬱はなんだろう。何もかもが行き詰まっているような、そんな感覚。
落ち着けよ、と俺は自分に言い聞かせる。
部誌は完成させた。思い通りではなかったかもしれないけど、完成したんだ。
静奈姉のことだって、静奈姉のことだ。よだかのことだって、いまさらの話だ。
べつに俺は、何かをする必要なんてない。
すべきことなんてひとつもない。
今日は夕方からバイトだ。よだかは昼過ぎに新幹線で帰るらしい。課題はもう終わらせてしまっている。
それだけだ。
俺がすべきことなんて、ない。だから、この妙な焦燥も、憂鬱も、出処が分からない。
何かに追われているような気さえする。
わけがわからない。
コーヒーを飲んで、頬を軽く両手で叩く。目がさめた気がしない。
服を寝巻きから動きやすいものに着替えて、外に出た。
玄関を出るとき、扉を開ける音がやけに大きく響いた気がした。
外に出ると、空気はなんとなくそっけない気がした。梅雨時とはいえ、薄着だと少し肌寒く感じる。
雨が降っていたことに気付いて、一度玄関に戻り、傘を持ちだした。昨日買ったものだ。
傘をさして、街を歩く。当然だけど、日曜の早朝だ。人気はない。
沈黙を埋め合わせるみたいに、雨粒がそこらじゅうを撫でるように打つ音が聞こえる。
何かを考えたくて歩きはじめたのに、何を考えたらいいのか分からなくなってしまった。
俺は、何がしたくて、この街に来たんだろう。
逃げてきた。それだけは分かってる。
向かい合うことができなかった。何と?
父のこと? よだかのこと? 俺自身のこと?
ゴローとの賭けを思い出す。あやふやになってしまった、「きらきら」のこと。
俺は、それを求めていた、ような気がする。こがれていたような気がする。
たとえば、るーと再会して、話ができたり。
誰かと一緒に過ごしたり、なにかを分かちあったり、成し遂げたりするようなことを。
散歩の道順は適当だった。別に目的地はなかった。
駅近くにある、自然公園まで足を伸ばす。
杉や檜や松が生い茂る丘に沿うように、人の手で整えられた散歩路がいくつも伸びている。
大きな池には魚だっている。水面は光を浴びればきらきらと光る。
広さがちょうどいいのだろう。朝早くからジョギングや犬の散歩をしている人の姿が見えた。
入り口近くにある広場ではときどきなにかのイベントが行われたりするが、普段は親子連れがキャッチボールをしていたりする。
昼過ぎにでもなれば、今日もそういう景色が見えるのだろう。
けれど早朝のこの場所は、そんな景色が嘘くさく思えるくらい、静かであたたかみに欠ける。
見方を変えれば、どんなに明るい場所も、こんなふうに寂しげになる。
それが嫌だってわけじゃない。あたたかい時間だって、嘘になるわけじゃない。
けれど……。
「暇なのかい?」
顔をあげると、散歩路の脇のベンチに、鷹島スクイが座っていた。
紙パックのオレンジジュースをストローですすりながら、彼はこっちを見ている。
たぶん、見ているのだと思う。相変わらず、前髪で隠れていて表情は覗けない。
「……お互い様だろ、その台詞は」
「俺はただの散歩さ。日課なんだ」
「嘘だろ?」
「嘘だよ」
悪びれるふうでもなく、鷹島スクイは笑う。どうでもよさそうな、雑な反応だった。
「何しにこんなところに来た?」
「気紛れだよ。深い意味はない」
「……姉貴は元気だったかい?」
俺は答えない。
「おまえは何がしたいんだ?」
唐突な問いかけに、戸惑う。スクイは、やっぱりどうでもよさそうに笑っている。
「死んだ猫の話を書くために、楽しむことを放棄した奴」
俺には、言葉の意味がうまくつかめない。
「うまく楽しむために、死んだ猫の話を書くのをやめた奴」
つかめない。
「おまえはどっちだ?」
わからない。
スクイが何を言わんとしているのか、俺には理解できない。
「どっちもか?」
答えられない俺を、スクイは笑った。
「姉貴に、おまえは何かをしてやれるつもりでいるのか?」
「……」
「なにかできると思ってるのか?」
「……」
「おまえは、あいつの人生までは引き受けられないだろ」
「……」
「――なあ、藤宮ちはるのことはいいのかい?」
雨音が、少し、強まった。
天秤を思い浮かべる。
◇
それからどうやって帰ったのか、覚えていない。
部屋に戻る頃には六時を回っていたが、日曜の朝だ。まだふたりとも眠っているらしい。
まだ、頭がぼんやりする。
顔でも洗おうと洗面所に向かい、ドアを半ばあけたところで、衣擦れの音が聞こえた。
途中まで脳の命令に従っていた俺の腕は、その引っ掛かりを保留してそのまま指示を達成する。
「なあ!」
と膨らむような声がして、視界に見慣れない肌色がうつって、俺はあわててドアを閉めた。
「びっ、くりしたあ!」
とドアの向こうから声が聞こえる。よだかだ。図らずも、目が冴えてしまった。
「あー、ごめん」
「っとにもう! ノックくらいしてよ!」
「まだ寝てるもんだと思ってた。鍵、かかってなかったし」
「あ、それは、まあ……そっか」
血縁上の姉弟とはいえ、一緒に暮らしたことすらない、事実上は他人。
そんな女の子の着替えを覗いてしまって、反応に困る。
正直、血縁関係についてはともかく家族という意識はない。
よだかを異性として見れない、なんてことは、少なくとも俺にはない。
とはいえ、こういう状況っていうのは、誰が相手でも気まずいだけなんだけど。
カチャ、と鍵の閉まる音がして、しばらくしてから、よだかはゆっくりと扉を開けた。
「たくみのへんたい」
じとっとした目で見てくる。
俺はさすがに仕返ししたくなった。
「誰かさん、昨日はラブホ行こうとか言ってたくせにな」
よだかは「う」と悔しそうに口をもごもごさせた。
「宿泊施設として利用しようとしただけだもん」
「そうですか」
苦しい言い訳を流してやると、よだかはむっとした顔のまま俺の顔を睨んできた。
「……今日帰るんだろ?」
話を変えるついでに質問をすると、よだかはすぐに頭を切り替えて、返事をしてくれた。
「うん。昼前には、駅にいかなきゃかな」
「じゃあ、ちょっとゆっくりしてから向かうか」
「おばあちゃんにおみやげ買ってかないと」
「……なんて言ってこっちに来たんだ?」
「『ともだちに会ってくる』って」
……まあ、そうとしか言えないか。
よだかの祖母から見れば、俺は『娘を弄んだ男の子供』だ。
憎むとまではいかなくとも、心穏やかではないだろう。
「今日も雨だね」
そう言って、彼女は窓の外を見た。
俺も釣られて、外の景色を見る。
「……そうだな。雨だ」
静奈姉が目を覚ますまで、俺とよだかは俺の部屋で休むことにした。
「一晩過ごした感想だけど、たくみの部屋、生活感ないね」
「……ほっとけよ」
「褒めてるんだよ。たくみらしい。それに、たくみの匂いはする」
「昨日も言ってたけど……」
「なに?」
「そっちの方が変態みたいだ」
よだかはまた、むっとした顔になった。
そのまま会話が途切れる。
少し強くなった雨音が、部屋のなかに静かに響く。
ベッドに腰掛けたまま、よだかはトントンとつま先を揺らした。
それから不意にこっちを見上げる。
「たくみ、あれして」
当たり前みたいな顔で、そう言った。
俺は、どう反応したものか、迷う。
「だめ?」
例の目で、彼女は俺を見た。
俺がベッドの上に腰掛けると、彼女は手足で這って傍によってきて、体を反対に向けて、俺の膝の上に座った。
それから俺の腕を勝手に掴んで、自分の膝を抱えさせる。
この行為に何の意味があるのか、俺には分からない。
わからないというか、わかるような気もするけど、でもこれは、俺とよだかの関係性には明らかにふさわしくない。
「匂い」
とよだかは言って、くすくす笑う。同じ方向を向いているせいで、彼女の表情は俺にはわからない。
俺は可能なかぎり背中を逸らして、よだかとの接点を減らそうとする。
それをいやがるみたいに、よだかは俺の両手を掴んで離さない。
よくわからない。
よだかは、こういう、抱きついたり、くっついたり、手を繋いだり、そういう身体的な接触を好む。
弟だからなのか、それとも、単に親しい男子だからなのか、そのどちらでもないのか。
いずれにせよ、欠けた何かを埋め合わせるみたいに、よだかは擦り寄ってくる。
温度か、匂いか、感触か、触れ合っているという実感か。
そうしないと自分の形がわからなくなってしまうみたいに。
彼女は、こういうふうにそばにいると、すごく安心したような吐息を漏らす。
姉というより、妹みたいだ、とときどき思う。
対する俺は、同い年の女の子と接触することで気分が落ち着かないわけだけど。
それを役得と思う気持ちも必ずしもないとは言えないし、その一方で、罪悪感もある。
複雑だ。
よだかを、無碍にはできない。けれど、よだかを引き受けることもできない。
だとしたら、俺は、結局父と同じことをしているのかもしれない。
そんなことをぼんやり思う。
そうだとしたら、この子にやさしくしたいと思う気持ちも、やっぱり欺瞞にすぎないのだろうか。
つづく
357-12 感じた → 感じられた
乙です
◇
よだかは最後に、俺が通う学校をもう一度見たいと言い始めた。
別に逆らう理由も思いつかなかったから向かったが、だからといって何かがあるというわけでもない。
雨は止んだけれど、分厚い雲が空を覆い隠している。
暗い並木道を歩きながらよだかは、
「どうしてなんだろう」
とポツリと呟いた。
太陽の光は薄ぼんやりと、けれどたしかに地上まで届いている。
学校までの道を歩く途中でよだかは不意に俺の手の甲に触れてきた。
そっと指先で撫でるように触れてきて、そのまま指だけで俺の手を掴んだ。
俺はその手を拒めずにいた。
見通しのいい並木道には、かすかな人の気配しかない。
鳥の鳴き声が聞こえる。
風がかすかに空気を運んでいる。
木々は雨粒に濡れてしっとりと艶めいている。
何かを覆い隠すような曇り空もどこか遠くで、薄いカーテンのように心地が良い。
今は六月で、雨はあがって、埃を洗い落とした空気を吸い込むと体が内側から透き通っていくような気さえする。
よだかは不意に鼻歌を歌い始めた。
古いアニメのオープニング。その響きはなんとなくこの場には似つかわしくない感じがして、おかしかった。
「すいみん不足」だ。
よだかのささやくみたいな歌声は、雨上がりの並木道の静けさに溶けるみたいに広がっていった。
それは悪くない感じだった。
正面から、誰かがふたり、並んで歩いてくる。
よだかの鼻歌はまだ続いている。
俺は目を凝らして、近付いてくる誰かの姿を見る。
俺は、
よだかの手を振り払った。
俺は、よだかの方を見る。彼女は一瞬、かすかな驚きを表情に浮かべた。
歌は止んでいた。
そうなってからはじめて、俺は自分が手を振り払ってしまったことを意識する。
「浅月?」
そう呼びかけられても、俺はとっさに反応できなかった。
自分の手がそういうふうに動いたことを、なぜか認めたくなかった。
「やっぱり浅月だった。デート?」
正面から歩いてきたのは、佐伯とるーのふたりだった。
日曜なのに、なぜか制服を着ている。
「違う」と俺は答えた。
ふたりはちらりとよだかの方を見た。俺も釣られてよだかを見た。
よだかは一瞬、俺を見上げたあと、さっと視線を逸らしてから、何も言わずに頭を下げた。
「……姉」
と、俺は答えた。よだかのことについては、上手い答えが見つからない。
「タクミくん、お姉さんいたんですか」
るーは、何の疑問も覚えずに、俺の言葉を信じたみたいだった。
「ああ」
頷きながら、俺はよだかの方を見ないようにした。
「昨日からこっちに来てたんだよ。今日、帰るけど」
「そうでしたか」とるーはにっこり笑って、よだかに向き直る。
「はじめまして」と挨拶してから、るーはよだかに自己紹介をした。
よだかは戸惑いつつ、「はじめまして」と返事をして、思い出したように自分の名前を付け加える。
「秋津よだか」と名乗ったことに引っかかりを覚えなかったわけもない。
それでもるーは、そんなことはなんでもないことだというように笑う。
「……ふたりは、学校に行ってきたの?」
なんとなく据わりが悪くて、話を変えると、頷いたのは佐伯だった。
「そう。ちょっといろいろ、確認したいことがあったから」
「確認したいこと、ですか」
「例の、焼却炉の話。なんとなく、気になって」
佐伯は、いつもみたいにちょっと遠くを見るような目をした。
気になる。それは、分かる。俺だって気になる。
「……犯人探し?」
「みたいなもの、かな。部長とか林田は興味ないみたいだし、マキはちょっと怖がってるし。
とりあえずちはるちゃんに協力してもらって、いろいろ話を聞きに行こうと思ったんだ。
第二……今は第一か。顧問の先生と及川さん、今日は学校にいるみたいだったから」
「第一の顧問か。……ヒデは何か言ってた?」
「タチの悪い悪戯だけど、何かの損害があったわけでもないから、犯人を見つけても穏便に済ませたいって、それだけ。
先生たちとしては、特に犯人探しをしてる感じじゃないかな。暴力事件とか、窃盗事件ってわけでもないしね。あっちの顧問も同じ感じ」
「……及川さんは?」
「あっちの部員たちの一部は、やっぱりわたしたちの仕業だって疑ってるみたい」
わたしたち、というより。
「疑われるなら、俺だよな」
「まあ、そうなるかな。わたしたちが口裏合わせてると思われてる可能性もあるけど」
俺が佐伯と話している間、るーはよだかと話していた。
この場に居づらそうにしているよだかに気を使ったのか、それとも意識せずに、そういうことをしたのか。
よくわからない。
るーは、よだかが住んでいる街のこととか、俺のこととか、そういう話をしているみたいだった。
どうしてそういうふうに、今日会ったばかりの他人と親しげにできるのか、不思議になる。
でも、どうなんだろう。親しげ、ではないのかもしれない。それがなんなのか、よくわからないけど。
「調べてみて、何か分かった?」
横目でふたりのやり取りを眺めながら訊ねると、佐伯は曖昧に首を傾げた。
「しいて言うなら……燃やされてた部誌は、『部誌』だと分かるように燃やされてたってことかな」
「まあ、そうじゃないと、何が燃やされてたかなんてわからないもんな。全部燃やさないなら尚の事だ」
「つまり、犯人……とりあえず今はそう呼ぶけど……は、燃やしたと分からせるためにそうしたってことだろうね」
「ああ」
それについては、単純に思いつく可能性がひとつ。
「……愉快犯って可能性が高いよな」
佐伯は、俺の目を見て頷いた。
「誰かを陥れたり、邪魔をしたりする目的なら、燃やせるものは全部燃やしてるはずだ。
部誌は同じところにしまってあったのに、ひとつだけが燃やされてた。
しかも、わざわざ焼却炉を使う理由はない。処分するだけなら、原稿なんて全部持ち帰って捨ててしまえば、証拠も残らないし騒ぎにもならない。
なのにわざわざ、騒ぎになってほしいみたいに、焼却炉まで使って、しかもわざと、燃え残りで部誌だと分かるようにしてあった」
でも、そうだとしたら打ち止めだ。
はっきりした目的があったなら、特定はできるかもしれない。
でも、腹いせや嫌がらせ、八つ当たりが目的だったとしたら、特定なんてできやしない。
第二……第一文芸部の部員に恨みを持つ誰か、部員内のいざこざ、まったく関係のない誰かの、意味のない嫌がらせ。
範囲は広がっていく。
「……そうかも、しれないけどね」
佐伯のつぶやきは、「そうともかぎらない」と言いたげだった。
「燃やされてた原稿は、第一稿だったんだって」
「……第一稿。部誌の、ってこと?」
「そう。それで、顧問の先生が調べたら、第一が使ってるパソコンから、一稿目のデータが消されてたんだって」
「……」
「どう思う?」
……第一稿が燃やされてた。第一稿に何かまずいことが書かれていて、それを誰かが人目につかないようにした?
それが動機だとしたら、容疑者はぐっと絞られる。第一文芸部の部員以外に、部誌の中身を知っていた奴はいないはずだから。
「……いや、でも、それはそれでおかしいだろ。だったら燃やす意味がない。隠れて処分すればいいだけだろ」
「うん。わたしもそう思う」
「それに、パソコンに原稿データが残ってるんだとしたら、第一稿目だけを処分する理由がない。
データがあるってわかってるなら、全部処分した方が話が早いだろ? だってそうしないと……」
そうしないと、第一稿目を処分するのが目的だと、特定されてしまう。
「……なんだ、それ」
混乱する。
矛盾してる。
第一稿を処分したのは、そこに見られたくない何かがあったから。
にもかかわらず第一稿だけを処分したのも、わざわざ焼却炉で燃やして騒ぎにしたのも、第一稿が目的だったと誰かに気付かせるため?
「わけわかんないでしょ?」
佐伯は困ったみたいに溜め息をつく。
「でも少なくとも、パソコンからもデータが消されてたってことは、単なる腹いせとか嫌がらせではなさそうだって思う。
もちろん、手の込んだ悪戯って可能性も否定はしきれないけど……」
俺は最初から、これがただの嫌がらせだと思い込んでいたし、だから特定なんて不可能だと思っていた。
それなのに佐伯は、実際にそれを確認して、そうじゃないかもしれないという可能性を引っ張り出してきた。
なんとなく俺は、それを怖いと思った。
「とにかく、第一稿と第二稿以降に差があるなら、その差が、第一稿が処分された理由だよね。
だとすれば、手直しをした部員に話をしらみつぶしにきいていけば、特定できるかもしれない」
でも、と彼女は言う。
「もしこれが悪戯だったら犯人探しはためらわないけど、何かの理由があってそうしたんだったら、
わたしが首を突っ込むことじゃないのかも。そんな感じもするよね」
「……たしかに、わけがわからないけどな」
「そもそも、手直しした生徒って、ほぼ全員なんだけどね。誤字脱字の修正とか、ページの見切れとか」
「……気合入ってたんだな、あいつらも」
「だからこそ、あんなに怒ったんだろうしね」
聞けば聞くほど、面倒な話だと思う。
すっきりしない話になりそうな気がしてきた。
◇
話を終えたあとふたりと別れて、よだかを見送りに駅まで向かった。
よだかは歩きながら、何か不思議そうな顔をしていた。
ずっとるーと話していた。てっきり、そういうのは苦手だと思っていたんだけど、べつに疲れてもいないようだ。
「たくみ、あの子のこと、好き?」
不意に彼女は、そう問いかけてきた。
俺は迷って、
「どっちのこと?」
と問い返す。
「わたしと話してた方」
……どうして分かってしまうのか、俺にはよくわからない。
それでも結局、嘘をつくことに意味はないから、
「好きだよ」
と答えてしまった。答えたことに、少しほっとした自分もいた。
「そっか」
よだかはそれから、ほとんど喋らなかった。
「……夏祭り」
「え?」
「夏休みになったら夏祭りがあるから、また遊びにきてくださいって、言ってた」
「……」
「ともだち、みたい」
俺はいつものように答えに迷う。
よだかにどんな声をかければいいのか、俺はいつも分からない。
本当はわかりたくないのかもしれない。彼女への態度を、俺はずっと保留しておきたいのかもしれない。
「帰るね」とよだかは最後にそう言った。
「静奈さんと、あのふたりによろしく」
俺は彼女のために何かを言ってあげたかったけど、さっき手を振り払ったことをなぜか思い出して、何も言えなかった。
よだかはもう、甘えた素振りさえ見せない。何かを隠すみたいな無表情だ。
よだかを見送って駅を出ると、雲の切れ目から太陽の光がそそぎこんできた。
天使の梯子だ、と誰かが言っていた。
灰色雲の隙間から差し込む光は、わずかな青空を裂け目から連れてきた。
少し眩しかった。
るーのことが好きか、と俺は自分に問いかける。
好きだ、と俺は答える。
でも、それをどうしたらいい?
その気持ちで、いったい何をすればいいんだろう。
俺にはきっと、何かを素直に楽しもうという意思が欠けているのだ。
つづく
乙です
何か胸が痛む 乙です
悲しい
切ないな…
乙
◇
「浅月、聞いてる?」
そんな声で、意識がふっと浮上した。
声の方を向くと、隣に佐伯が座っていた。どうやら、東校舎の屋上。空を見るに、まだ昼休みだろう。
「……今、どっかトンでたよね、完全に」
呆れた顔でこちらを見上げてくる佐伯に、俺は戸惑う。
それから冷静に、思考をまとめる。
うん、大丈夫だ。ちゃんと分かってる。
「……えっと、ごめん。何の話だっけ?」
佐伯は、変なものを見る顔をした。さっきの、呆れた感じの顔とは違う。
なんだか本当に、変なものを見る目。
「……浅月、大丈夫?」
彼女はそう訊ねてきてから、視線を落として弁当箱の中の卵焼きを自分の口に運んだ。
自分で作っていると、前に聞いた。それどころか、家事のほとんどは自分でこなしているとか。
そういう話を聞くと、自分がどれだけ甘ったれているのかを意識させられて、嫌になる。
「大丈夫って、なにが?」
「ついさっきまで話してたでしょ。なんで急にわかんなくなるの?」
「いや、それは俺に訊かれてもな……」
「上の空って感じじゃなかったし……まあ、いいんだけど」
「……さっきまで、何話してたっけ?」
こんなふうに急に、状況がわからなくなるようなこと、今まであったっけ?
なんとなく、不安になる。
佐伯はまだ、俺が冗談を言っている可能性でも疑っているのか、訝しげな視線を向けてきた。
俺の顔を見てそれも邪推と気付いたか、彼女はすぐに話してくれた。
「部のこと。けっきょく、投票は大敗だったでしょ。みんな気にしてるだろうな、って」
「……投票」
ああ、そうだ。そういえば、今日、嵯峨野先輩に借りたDVDを返すつもりで持ってきたんだっけ。
そういえば俺は……彼のクラスを知らない。部長に確認でもすれば、どうにかなるだろうけど。
「浅月?」
「あ、うん。聞いてる。投票のことな」
投票。第一の座を賭けた、文芸部部誌対決。妙な騒動のせいで、すっかり興がさめて、みんな乗り気じゃなかった。
結局、俺たちは負けた。
言い訳は並べられる。
あっちのほうがこっちよりたくさん部員がいて、層が厚いから、とか。
あっちは交友関係が広い奴が多いから、友人票がたくさん入ったのかもしれない、とか。
でも、自分に都合よく考え始めたらきりがない。
いくら友達が部誌を出して、それで投票があるからって、わざわざ手間をかけて票を入れる奴なんて、そうそういやしない。
だからこの負けはなんでもない当たり前の結論を出す。
あっちより、こっちの部誌がつまらなかった、ってことだ。
気にする、か。
まあ、気にするよな。
とはいえそもそも、負ける以前から、こっちの部員は部誌づくりに集中できていなかった気がするけど。
普段通りならもっとマシなものを書けたはずだ、と負け惜しみのようなことを言うつもりはない。
でも、みんな変だった。
……いろんなことがいっきに起こりすぎて、よく分からなくなってきた。
――読むかもしれない『誰か』を意識すると、文章は弱くなる。
そう言っていたのは、誰だっけ。
「気分転換とか、したいよね。動物園いったりさ」
「行けばいいんじゃない?」
「そうじゃなくて。みんなで」
「みんなで、ねえ……」
「そう。何かない?」
佐伯がこんなことを言い出すのは、珍しい。
というか、佐伯は本来、そういうキャラじゃない。
いつも周囲と距離を置いて、壁を張って、他人に踏み込もうとしない。誰にも踏み込ませない。
他人の気分の上がり下がりなんて、自分とは無関係の対岸の火事みたいに考えているんだと思っていた。
「そういえば……」
「ん?」
「水族館、あたらしくできるらしいよな」
「……あ、うん。そういえば。七月に、オープンするらしいね」
「オープンしたら、みんなで行く? 来月になったらテストもあるし、タイミング見計らわなきゃならないけど」
「混みそうだけど、それもいいかもね」
「ま、テストが終わったら夏休みだけどな」
「……浅月」
「なに?」
「……なにかあった?」
“なにか”?
佐伯は首を横に振ってから、思い直すみたいに溜め息をついて、食べ終えた弁当箱を包み直した。
それから傍に置いてあったビニール袋からシャボン玉を取り出して吹き始める。
「好きだね、それ」
「べつに好きじゃないよ」
真剣な顔で、シャボン玉を吹いている。こんな顔でシャボン玉を吹く女の子というのは、そこらにはちょっといない。
シャボン玉というのは、もっと楽しみながら吹くべきものなのだ。そういうことを想定してつくられた遊びなのだ。
梅雨の雲は、今日は少し薄い。それでも天気が良いとはお世辞にも言えなかった。
曇天の下で真面目な顔でシャボン玉を吹く佐伯は、真相を探り当てようと思案する探偵みたいにシリアスだった。
「そういや、例の焼却炉の話。進展はあった?」
「特にないよ。調べるべきかどうかも迷ってる」
「……ふうん?」
「藪をつついて蛇が出てきたとき、責任をとれるとは限らないからね」
「……どういう意味?」
ふー、と、シャボン玉が吹き出て、風に乗って周囲に舞う。
「誰かに愛されたくて、苦しんでる人が、目の前にいるとするでしょう?」
突然の話題の転換に、俺は戸惑いつつ頷く。
佐伯の目は、シャボン玉を追いかけている。その目は俺を見てはいない。
「その人に対して、他人が絶対にやっちゃいけないことって、何だと思う?」
「……見て見ぬ振り?」
佐伯は首を横に振った。
「その人のことを、受け入れようとすること、だよ」
俺は、戸惑う。
「たとえばね、深い悲しみや苦しみのなかでもがいている人がいるとする。
その人は、自分にやさしくしてくれる誰かを求めているとする。
でも、その人に対して、やさしくしちゃ、いけないんだよ」
「……どうして?」
「際限がないから。愛情飢餓を抱えた人に愛情を与えようとしたら駄目なんだよ。
愛情を手に入れても、その人はちょっとしたことで不安になる。ちょっとしたことで、愛情を疑う。
でも、やさしい人はその疑いを晴らそうとする。不安をなくしてあげようとする。一生懸命にね。
でも、最後には……疲れて、離れていっちゃうんだ」
「……」
「そうなるとね、かわいそうなのは、その人なんだよ。
信じられる相手を見つけても、愛してくれる相手を見つけても、その人も結局、自分に嫌気がさして去ってしまう。
去られた後は、去られる前よりずっと孤独なの。そして次にやさしくしてくれる誰かに、もっと大きな愛情を求めてしまう」
――最後まで責任を取れないなら、やさしさなんてないほうがマシなんだよ。
佐伯はそう言った。俺には、断罪しているみたいに聞こえた。
「自分をからっぽにして、すべてを犠牲にできるなら、応えてあげてもいいかもね。
学校や仕事でも、大事な用事でも、家族が急に倒れても、その人が“会いたい”って言ったときに会う覚悟があるなら。
そういうことを一度でもないがしろにしてしまうと、深く傷ついてしまう人っているんだよ」
「現実的じゃない」
「そうだよ。まともじゃない。そんなの不可能だよ。もちろん、投げ出した人が悪いんじゃない。そんなの無理だもん。でも、そういう人っているんだよ」
「……そういう人たちには、やさしくしちゃいけない?」
「うん」
「じゃあ、どうするのが正解なんだ?」
俺は本心からそう訊ねていた。どうしてか、責められているような気がした。
「強くなってもらう、か、線を引いてあげる、か、すべてを捧げる、か」
「……」
「いずれにしてもね、中途半端なやさしさなんてない方がマシなんだよ。
半端な覚悟で何かを覗きこむことなんて、しない方がいい。知ってしまったら、知らなかったことにはできないんだから」
それが何かの答えになっているのか、俺にはよくわからなかった。
「……やっぱり、わたしもちょっと変になってるのかな。部誌のこととか、マキのこととか」
佐伯は、ちょっと後悔したような顔で、そう呟いた。
「やっぱり気分転換が必要だね。なにか、考えないと」
そうなんだろうか、と俺は少し考えた。
真上を一羽の鳥が飛んでいった。
佐伯はまたシャボン玉を吹く。
俺は、必要なのは気分転換ではないと思う。
高森はともかく、部長やゴローまで調子を崩してしまっているのは、例の勝負で負けたから、ではない。
俺もそうだから、なんとなく分かるような気がする。
俺たちが悔しいのは、勝負に負けたことじゃない。
勝負を意識して、自分たちの書きたいものを思い切り書けなかったことが悔しいのだ。
負けたけど、俺は俺の書きたいものを思い切り書いた、と、そういう実感さえあれば、敗北をいくら重ねたって強くいられる。
その実感がないことが、俺たちの敗北感の理由だ。
自分の書いたものを、“他人に受け入れてもらいたい”と思う弱さ。そこに宿った、媚び、阿り。
それが、俺たちの敗北感の理由だ。
あっちに負けた。それも事実だ。でも、それは問題じゃない。
必要なのは気分転換じゃない。ふたたび書き上げることだ。
書くことから発した敗北や悔しさは、書くことでしか帳消しにできない。
……そう思ったけど、どうだろう。べつにそんなこともないのかもしれない。
よくわからない。
そんなふうにして、昼休みはただぼんやりと過ぎていった。
つづく
年末年始は更新が滞りがちになるかもしれません
乙です
乙です
乙です
読んでて胸がざわざわする
◇[Birds]
第一から第二にナンバリングが変わったからって、部室を移動したりするわけじゃない。
これまで上手く回っていたものを変にいじくりまわすのは誰にとっても厄介なことだ。
だから俺たち、現第二文芸部は、相変わらず、東校舎三階の文芸部室に集まっている。
勝負の後、一度だけ及川さんがここにやってきて、「お疲れ様」とか「ありがとう」とか「また何か企画しよう」とか言っていった。
でも、たぶん実現はされないだろうと思う。
例の騒動のせいか、彼自身、どこか疲れた感じの顔をしていた。
嵯峨野先輩とのことでどことなく様子がおかしかった高村は、その騒動に更に気分を引っ張られてすっかりふさぎ込んでいた。
佐伯やるーも彼女をどうにか元通りにしようとがんばっているようだし、高村自身がんばってはいるようだけど、やはり以前までとは違う。
だからこそ佐伯も、例の騒動のことを調べようと思ったのかもしれないけど。
俺は俺で、いろいろと考えたいこと(というより、考えたくないこと)があったせいで、平常通りの態度とはとても言えなかった。
対照的に、つい最近まで様子がおかしかった部長とゴローは、どちらも調子を持ち直していた。
よだかが帰っていった日の翌週の水曜、ゴローは不意に顔をあげて、
「そりゃそうだ」
と呟いた。
「……なにが?」
と思わず尋ね返すと、よくぞ訊いてくれた、というふうに彼は大きく頷く。
「ミートソースとボロネーゼの違いについて何かを書いたところで、誰も読みやしない」
「……そのこと?」
ゴローがそういうふうに開き直ったことを言うのは今に始まったことじゃない。
彼はどこかで自分のことを客観視している部分があって、自分の行動が起こす結果をはっきりと意識したがる。
今回のも、たぶんそれだ。
「そうだろ? 何を落ち込んでたんだ、俺は」
言いながら、彼は立ち上がった。彼の膝の裏に押されたパイプ椅子が、床に擦れてギイと音を立てる。
「そんなもんで票が稼げるわけがない。分かってたんだ。当たり前だろ? 票を稼ぐつもりで書いたわけじゃないんだ」
ゴローは胸の前に握りこぶしをつくって、演説するみたいに言葉を吐いた。
「そうだ。票を稼ぐつもりで書いたわけじゃない。負けたって当たり前だ。負けたくないなら、もっとそういうことを意識しなきゃいけなかった」
「……べつに、ミートソースとボロネーゼの違いを書くにしても、票を稼ぐことを意識しようと思えばできるもんね」
答えたのは部長だった。ふたりを除く部員たちは、彼らのテンションに呆気にとられたまま沈黙する。
「題材が一般受けしないなら、文体とか、そういうところに面白みをつくれればいいんだろうし」
部長の言葉に、ゴローは少し考えたような素振りをみせた。
「たしかに。……でも、それは擦り寄るってことじゃないですか?」
「歩み寄る、って言い方もできるよ」
「……」
「上から目線で言えば、譲歩、でもいいけど」
「……なるほど。譲歩ですか」
ゴローはうんうん頷いた。
「譲歩。いい言葉だなあ。それで行きましょう。要するに俺は、自分で思ってたより勝ち負けにこだわってたみたいだ」
ゴローはにやけた顔でまた頷くと、ゆっくりとパイプ椅子に座ろうとして、大きな音を立てて床に尻もちをついた。
「いってえ!」
パイプ椅子は彼が立ち上がった拍子に、彼が思っていたよりもうしろに押し出されてしまっていたみたいだった。
「……なにやってんだ、おまえ」
さすがにみんな、ちょっと笑った。
「うっせえ」と、照れたのか、ふてくされた顔で彼は俯いた。
改めて座り直して、ゴローは真面目な顔になった。
「さて、"それはそれ"だ」
彼はそう呟いて、俺たちの顔をゆっくりと見回した。
「なんでこんなに気分が落ちてるのか、俺も自分でちょっと考えてみた。そしたらなんとなく分かった。
たぶん、いくつかの要因が重なってるんだ。一個一個、それを分割して考えてみなきゃいけない。一個目はそれ。負けたことだ」
それについてはいい、次勝てりゃいい、と彼は手をひらひら揺すった。
「もうひとつの原因は、水を差されたことだ」
みんな、ゴローに注目していた。こいつがこんなふうに、部員全員に何かを言うことなんて、珍しい。
いつもはひとりで、隅の方で個人作業に打ち込んでいるような奴だから。
「焼却炉で部誌の原稿を燃やす。おかしな話だよな。なんでそんなことしなきゃならない?
そのせいであの勝負は、勝っても負けてもすっきりしなかった。負けたから余計にすっきりしない」
佐伯の顔をちらりと見る。彼女はいつもみたいな、感情の読めない静かな顔で、ゴローの方を見ていた。
「あっちの部員の何人かは、俺らの仕業って疑ってるくらいだ。正直、ムカつく」
だろ? とゴローが同意を求めてきたので、俺は曖昧に頷く。
たしかに、いい気分はしない。
「……あれ、誰がやったんだ?」
ゴローの言葉に、みんなが沈黙した。
そんなの、知るわけない。
おかまいなしに、ゴローは言葉を続けた。
「部長、やりました?」
「やってないよ」
部長は戸惑う素振りも見せずに否定した。
「佐伯か?」
佐伯はしずかに首を振った。
「高森」
「まさか」
高森は、心外だ、というふうに大袈裟な身振りをした。
「藤宮?」
「……いえ」
るーもまた、首を振る。
「そんじゃ、アリバイのないタクミ」
注目が俺に集まる。ゴローの視線は射抜くみたいに冷たく思えた。
もちろん、気のせいなんだろうけど。
「……俺じゃない」
と答えると、少しの沈黙のあと、みんなの緊張がわずかに緩んだのが分かった。
「俺たちじゃない」とゴローは断言した。
「でも、誰かがやったんだ」
"誰か"。
「……誰なんだ?」
さっきと同じ問い。また、同じようにみんなが沈黙する。
「なんのつもりか知らないけど、ムカつく。腹が立つ。わけがわからないし、混乱する。その分余計に腹が立つ」
「……話の流れが、よく見えないんだけど」
高森は、不安そうにゴローを見た。佐伯の方をうかがうと、彼女もまた、ちらちらと俺やるーの方をうかがっている。
話すべきか話さないべきかを、決めあぐねているようだ。
「つまりゴロちゃんは、何が言いたいの?」
「もしあれが、誰かの悪意なら、それをやった奴は、俺たちを混乱させて、第一の奴らを戸惑わせて、喜んでるかもしれないだろ?」
それはムカつく、とゴローは言う。
「そういうのを想像すると、すごく腹が立つ。そいつに、一言言ってやらなきゃ気が済まない。
……どうにかして、"そいつ"が誰なのか、調べることはできないかな」
ゴローの言葉は、基本的に一人称単数で、話の根拠は基本的に自分の感情だ。
「であるべき」とか、「なければならない」みたいな言葉は使わない。
俺はむかつく。だから俺は調べたい。それを単純と呼ぶか誠実と呼ぶか、俺には判断がつかない。
「ひとつ質問」
静かに手を挙げた佐伯に、ゴローの視線が向く。みんなが彼女の方を見た。
「それが悪意なら、っていうのは分かったけど、じゃあ、それが悪意じゃなかったら?」
ゴローは、眉間を寄せた。何が言いたいのかよくわからない、という顔だ。
「それが悪意じゃなくて、何かの理由がある行為だったとしたら?」
「どんな?」
「それはわからないけど、わたしたちにはわからない、止むに止まれぬ事情があったとしたら?
林田は、そのときどうするの?」
「事情次第だけど、文句は言わないかもしれない」
「でも、その人が、調べられたくない問題なのかもしれないよ。知られたくないことかもしれないよ」
「……そんなの、調べてみなきゃわからないだろう」
ゴローは妙にはっきりとした口ぶりでそう言った。
「とにかく俺たちは、程度はどうあれ、そいつの行動に迷惑してるんだ。
知られたくないなら無理に知ろうとしたくはないけど、でも、悪意だったらそいつは野放しだ」
たしかに、そうなのだ。
関わられるのが嫌なら、他人に飛び火しないように、やらなきゃいけない。
飛び火した以上は、「知られたくない」じゃ済まない、のかもしれない。
それでも佐伯は、考えこむように俯いていた。
その"誰か"に感情移入してしまっているみたいに見える。
まるで彼女自身、知られたくないことを持っているみたいに。
もちろんそんなのは、それこそ程度はどうあれ、誰にでもあるようなことなんだろうけど。
やがて佐伯は、諦めたみたいに溜め息をついて、俺とるーの顔を順番に見た後、口を開いた。
「だったら、一応話しておく」
そう言って彼女は、土日を使って彼女が調べあげたことと、そこから生まれた仮説についてみんなに話した。
部長とゴローは、「佐伯がそういうことをした」ことに驚いていたが、すぐに話を聞くのに集中し始めた。
「なるほどな」
話を聞き終えると、佐伯の質問の意図が分かったからか、ゴローは得心したようにしきりに頷く。
そこからまた静かな沈黙があった。
高森とるーは口を挟まない。俺も、何も言わずにおく。
「たしかに何か事情がありそうな感じがするな」
「……と、そう思うのは、わたしたちが文芸部だからかもしれないよね」
部長のその言葉に、みんなが一瞬虚を突かれた。
「どういう意味ですか?」
「本当は、意味なんてない、ただの嫌がらせなのかもしれないよ。
それを意味ありげに感じるのは、わたしたちが、物語をつくるって形で、点と点を結ぶことに慣れてるからかも。
空白はただの空白で、点はただの点なのかもしれないじゃない?」
「……でも、俺は気になります。だから調べます。いいですよね? 部長」
「うん。駄目とは言ってない。わたしも、たしかに気にならないことはないし。がんばってね」
部長は、協力する気なんてさらさらなさそうだった。俺はなんとなく意外な気がした。
俺は、一連の流れに、戸惑うばかりだった。
「……どうした、タクミ?」
察したみたいにかけられた声に、とっさに上手く返事ができない。
「……いや。本当にそれ、俺たちが関わってもいいことなのかな」
ゴローは不思議そうに眉をひそめた。
「関わるべきじゃないのかもしれない、と思う」
ゴローは、戸惑ったように周囲を見回した。みんな、戸惑ったような顔で、俺の方を見ている、ような気がする。
「――なあ、タクミ、おまえ、何言ってるんだ?」
俺は、言葉に詰まる。自分が言ったことが、そんなにおかしいことだとは思わない。
でも、みんな、やっぱり、不思議そうな顔で俺のことを見ている。
俺は、言葉をなくして、俯く。からだが、こわばる。居心地の悪さに、身が竦む。
……俺は、何か変なことを言ったのだろうか。
つづく
乙です
乙です 緊張してきた…!
◇
屋上から見上げる空には鳥が飛んでいる。
六月下旬の空は高い。
俺は東校舎の屋上に立っている。ほとんど習性のようなものだ。特定の気分に陥ると、俺は高い場所に行きたくなる。
でも、高いところ、じゃないのかもしれない。屋上という場所の、もっと別の要素を求めて、俺はここにくるのかもしれない。
それがなんなのかは、うまく思いつかない。
今日受けた授業のこと、何気ないクラスメイトとの会話、最近読んだ本、バイト先での先輩やお客さんとのやりとり。
そういうことは俺にだって起こる。俺にだって生活というものがあるのだ。
特定の商品の組み合わせで自動的に出力されるキャンペーンレシートの説明が面倒だという話をバイト先でした。
授業で差されたとき、自分ではうまく答えられたつもりだが、教師の質問の意図とは違う答えだったせいで間違ったような雰囲気になった。
図書室で本を借りるとき、委員側の手違いで貸出の処理がされておらず、返却のときに待たされた。
コンビニで傘を盗まれた。ぼーっとして歩いていたら地下鉄の改札で引っ掛かって恥ずかしかった。何もないところで転びそうになった。
部活帰りにるーと一緒に歩いていたら、翌日クラスメイトに彼女じゃないのかと囃し立てられた。帰り道の途中の公園でいつも見る猫がようやく抱かせてくれた。
そういうことを、俺は、どうして素朴に楽しめなくなってしまったのか。
なんてことを考えてしまって、意識が頭の中に引きこもるから、きっといろんなものが遠くなったんだろう。
いつのまにか。
こんなときに、遊馬兄のことを思う。
たぶん、彼は逆だったんじゃないか、と。
彼には、世界が逆だったんじゃないか。
思考にとらわれ、行動を疎かにする俺とは反対に、彼の意識はまず行動し、思考は追いかけるように存在していたんじゃないか。
そんな気がする。
俺は遊馬兄じゃないから、遊馬兄の考えることは分からない。本当のことなんて、分からない。
子供だから、というのもあったけど、俺は遊馬兄と静奈姉が好き合っているものだと思っていた。
少なくとも静奈姉は……でも、今は、違う。
当時から、そうだったんだろうか。
よくわからない。俺が考えることでもないような気がする。
「ここにいたんですか」
と、うしろから声がした。
るーだった。
そうだな。
試しにやめてみよう。
「やあ」と声をかけてみた。
放課後の屋上に来客があるのは珍しいことじゃない。というか、むしろ俺だって、来客側なのだ。
佐伯や、他の部の部員たち。内緒の相談ごとや気分転換にやってくる奴は少なくない。
そういえば以前、第一の部員たちがここで何かを話していたっけ。
そのときのことを思い出せば、例の件についての何かのヒントにならないだろうか。
人間関係や、トラブルの種になりそうなできごとがわかれば、
ストップ。
「どうした? こんなとこに」
「タクミくんを探してたんですよ」
るーはにっこり笑う。
「何か用事?」
「そういうんじゃないですけど、様子が変だったので、気になって」
「変だったかな」
「はあ。まあ、ちょっと。怖い顔してました」
「怖い顔か」
怖い顔。顔っていうのも不思議なものだ。心はすぐに体に出る。顔に出る。
分かりやすい奴と分かりにくい奴はいる。でも、訓練でもしないかぎり、絶対に出る。
出ないとしたらそいつは何かの病気だ。鈍くなっている奴だ。
ペンギンの翼で飛ぶことができないように、意味のない表情はなくなっていく。
他人とコミュニケーションをとらなければ、表情はきっと、
ストップ。
さて、と俺はとりあえずの成果を意識する。ストップ、と思考を止めればどうにか思考は止まってくれる。
この調子だ、と"考えつつある"自分を意識の中の言語化される前の混沌の中に追いやる。
と、考えている自分は既に考えているのではないか、と……ストップ。
まあ、慌てるな。
「タクミくんは、変わらないですね」
「……そうかな。自分ではけっこう、変わっちゃったなあって思うんだけど」
「わたしが言うんだから、そうなんですよ」
そうだろうか? 彼女と俺は、たしかに子供の頃に一緒に遊んだ。でも、ちょっとの期間だけだ。
ずっと知っていたわけではない。彼女が知っている俺なんてごくごくわずかなものだし、それは俺の方からしたってそうだろう。
記憶だって印象にぼやかされて曖昧だ。彼女の漠然とした印象と現在の俺が合致したからって、それは変わってないってことには、
ストップ。
溜め息が出そうになる。
気を抜くと、自分のことばかり考えてしまう。
反射、スキーマ、自動思考。癖になっている。
そんなことより俺はもっと、目の前のことを大事にするべきなんだ。
そう思って、るーの方を見る。
彼女の髪が柔らかになびいている様子のこととか、
その穏やかな表情が、俺の方を見るとちょっと困ったふうになることとか、
不意に落ちた影を追って鳥を見上げるときの顔に、あの頃の面影があることとか。
そういうことばかりを考えていればいいのに。
「るーも変わらない」
「……なにがですか?」
ちょっとうさんくさそうに、彼女は笑った。
俺の好きな笑い方だ。
「表情が。懐かしい」
「……なんかそれ、恥ずかしいですね。ホントですか?」
「俺が言うんだから、間違いない」
彼女はまた笑う。
……本当か? それはただ、"言われてみれば"とか、そういう思い込みの類では、
ストップ。
そう思ったのは本当だ。
「ね、タクミくん」
「なに?」
「なんか無理してません?」
……あっさり見透かされてしまった。
「……なこと、ないけど」
「そう、ですか?」
否定すると、ちょっと自信なさげになる。
「そういうふうに見えた?」
「見えました。けど、気のせい、みたいですね」
否定するなら、そういうことにしておこう、というふうに。
「ねえ、るー。ゴローの言ってたこと、どう思う?」
そう訊いてみたかったのに、俺は結局口には出さなかった。
訊いたところで、どうなるというわけでもない。
乗り気なゴローと、傍観の部長。第二文芸部の態度はまっぷたつに別れた。
というより、どっちもべつに、部全体を巻き込もうと言う気はないらしかったけど。
ゴローよりの態度を示したのが、意外にも高森だった。
あの出来事に理由があったならわたしは知りたい、と彼女は言った。
反対に、ついこの間まで積極的に調べていた佐伯は、参加を決めあぐねていた。
俺とるーは、態度を保留した。どちらかといえば傍観になるが、だからといってまったく気にならないわけでもない。
あのときのゴローの表情が、ずっと頭にちらつく。
――なあ、タクミ、おまえ、何言ってるんだ?
「ストップ」
と今度は口に出して言ってみた。
沈黙を破った俺の声に驚いて、るーはこっちを振り向く。
「な、なんですか?」
「あ、や……なんでもない」
「……ちょっとトンでました?」
「まあ、そんなとこ」
ああ、くそ。
心配されてる。のか。いや、そう見えるだけで、それは思い上がりなのか。
俺なんかを、気にかけてくれるなんて、思い上がりじゃないのか。ただ付き合いがいいだけで、面倒がっているんじゃないのか。
それともそう思う卑屈さは、相手に対して失礼なのか。
わけがわからないんだ。どうしてこうなったのか。
いろんなものが頭の中に押し寄せてきて、いろんなことが楽しくなくなって、楽しめない自分が、周囲から浮いているような気がしてきた。
そういう混乱を、俺は未だに持て余している。
考えてみれば当たり前だ。
“どう反応するのが正しいのか”なんてことを誰かと話すときにいちいち考えてしまう奴なんて、コミュニケーション能力に欠陥があるに違いない。
普段はここまでじゃない。ないはずなのに。
今日は、近頃は、やけに……神経症的だ。
「ね、タクミくん。よだかさん、元気ですか?」
「え?」
突然割り込んできた声と、そこで出た名前に、ちょっと驚く。
「もっとお話してみたかったです」
どうして急に、と思ったけど、そういえばるーは、以前もそうだった。
知らない人と話したり仲良くなったりするのが得意だった、わけではない。
共通項があるのかないのかは知らないが、ある特定の人たちに対して、るーは懐くのが早い。
静奈姉とはあまり話していなかったけど、遊馬兄とはよく話していた。
そんなふうに。
「……わからない。帰ってから連絡、きてないから」
「そう、なんですか?」
何を言えばいいかもわからないし、それに、よだかの連絡に反応するばかりで、俺から連絡をしたことはほとんどなかった。
「タクミくんからは、送らないんですか?」
「……」
考えていたことを言い当てられて、俺は少し戸惑った。
「……べつに、死んではないだろうし」
「それはそうでしょうけどね」
でもそれは間違いだ。ひょっとしたら死んでいるかもしれない。ないとは言い切れない。
「また遊びにきたりしないんですか?」
「……そのうち、連絡が来るとは思うよ」
「そうですか。また会ってみたいなあ」
けれど結局、七月になってもよだかからの連絡はなかった。
つづく
乙
得意の夏休みが近いようなw
乙です
乙、そういやるーは物怖じしない人懐っこいタイプだった懐かしい
乙っす。確かにタクミくんとチェリーはタイプが大分違う気がする。
◇
「きみはいつもつまらなそうだね?」
嵯峨野連理はそう言った。放課後の図書室、窓際の席で、彼はひとりで本を読んでいた。
七月のある日のことだ。
俺は部長に嵯峨野先輩の居場所を訊いて、ここにやってきた。
いつもではないけれど、彼は図書室で本を読んでいることがある、と彼女は言っていた。
借りたものを返さなければ人の道に悖る。
というわけで、借りっぱなしだったDVDを彼に返すために、俺はここにやってきていた。
西日差す本校舎二階。先輩は本当にそこにいた。
その彼が、ページに目を落としたまま、少しからかうような調子で言った言葉が、俺の気分を妙に沈ませる。
「そうですか?」
尋ね返すと、彼は困ったふうに笑う。こんなふうに笑う人だっただろうか、と俺は少しだけ考えた。
けれどよく考えれば、嵯峨野先輩とふたりきりで話す機会なんて、今まではほとんどなかった。
思い返してみれば、俺は彼について何かを知っていると言えるだろうか。
答えがもらえなかったから、俺はひとまずDVDを手渡した。
「どうだった?」
「おもしろかったです」
それ以上の感想を言う気にはなれなかった。映画の感想のようなものを、俺はあまり他人と共有する気になれない。
「そう。ならよかった」
彼はこっちに目すら向けてくれない。俺のことなんてどうでもよさそうな態度だ。
印象とはだいぶ違う。
人当たりがよく、誠実な人間。そんなイメージを勝手に抱いていた。
それは錯覚だったのかもしれない。それとも、本に集中したいだけなのか。
「……何を読んでるんですか?」
どっちなのか確かめたくて、俺はそう訊ねてみた。
彼は本を持ち上げて背表紙をこちらに向けてくれた。
宮沢賢治全集。
なんとなく、そのタイトルが嵯峨野先輩のイメージとつながらなくて、俺は戸惑った。
「好きなんですか?」
「どうかな。試しに読んでみただけなんだけど」
彼はそう言って、本を閉じた。
「よだかの星。読んだことある?」
「……」
彼はただ、今読んでいた話のタイトルを挙げただけなのかもしれない。
それはただの偶然なのだろう。そうとしか思えない。
その奇妙な偶然が、俺の胸の内側をざわつかせた。
「ええ、まあ」
俺は、そう答えた。
「"一たい僕は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。"」
嵯峨野先輩は、ささやくようにその一文を諳んじた。
「バカな鳥だと思わないか?」
今度は、俺の目を見て、彼はそう言う。
「名前なんて捨ててしまえばよかったんだ。そうすれば、生きることはできた」
「それで幸せになれたでしょうか?」
とっさにそう聞き返すと、彼は怪訝そうに俺の顔を見た。
鳥。
そういえば、嵯峨野先輩の下の名前は連理だ。
おそらく、由来は連理の枝だろう。
男女の深い絆を、隣り合った木々の枝が絡みあい結びつくさまにたとえた言葉。
白楽天は、それに比翼の鳥という言葉を並べた。
片翼ずつの羽を持ち、雌雄一対となって空を飛ぶ、空想上の鳥。
一羽では飛ぶことのできない生き物。
比翼の鳥、連理の翼。
並べて、比翼連理と呼ばれる。
在天願作比翼鳥
在地願爲連理枝
切れない絆、不断の愛情、一個として完成するふたつの魂。
ひとりでは飛ぶことのできない鳥。ひとつでは孤独のままの樹木。
その名を背負うというのは、どんな気分なのだろう。
バカな鳥、と嵯峨野先輩は言う。
俺はそうは思わない。思えない。
一疋の甲虫が喉を過ぎたときの、「せなかがぞっと」する思い。
その「胸のつかえ」。「大声で泣き出し」たくなる気持ち。
それを俺は、どうしても他人事とは思えない。
自分のことのようにさえ感じる。
「宮沢賢治は、あんまり好きじゃないな」
嵯峨野先輩はそう言って、本を机の上に置いた。
俺は、今なら、彼に気になっていたことを訊けそうな気がした。
これまで、どこか繊細そうな印象があったからためらっていた。
でも、それは錯覚か、彼自身の無自覚の演技だったのかもしれない。
少なくとも今目の前に居る彼は、俺の言葉などするりとかわしそうに見えた。
「気になっていたんですけど、嵯峨野先輩は、高森のことが好きだったんですか?」
自分でも驚くほど、踏み込んだ質問だった。
こんなふうに誰かに踏み入ることを、なぜだろう、俺はいつも避けていたような気がする。
嵯峨野先輩は軽く笑ってから、目を合わせずに答えてくれた。
「気になっていた、が正しいかな。仲良くなりたくてふたりで出かけたいっていったんだけど、断られた」
俺は少し意外に思う。
てっきり、告白でもしたのかと思っていた。
「きっぱりとね。そういうのはできない、って」
できない。高森の言いそうな台詞だ。
女であることにどこか戸惑っているような彼女らしい。
それは俺の、勝手なイメージなのかもしれないけど。
「じゃあ、高森のことはもういいんですか?」
彼は少し笑った。
「本当に、仲良くなってみたいだけだったんだ。好意というか、惹かれてるところはもちろんあったけど。
でも、そこで終わってしまえばそれだけのものだろ? べつに彼女だけが女の子ってわけでもない」
俺は反応に困った。
「俺はよく思うんだけど、好きな相手なんて変わるものだろ? そのときどきの気持ちを抱えるのもいいとは思うけど……。
ずっと同じ相手にこだわってばかりでも仕方ない。終わったことは終わったことで、始まるものは始まるものだ。
一個一個を大切にしすぎると、結局ひとつひとつをないがしろにする結果になってしまうと思うんだ」
その言葉の割り切りのよさ、切り替えの速さが、好きじゃない、と俺はなんとなく思った。
混乱。
静奈姉のこと。父さんのこと。俺自身のこと。
所詮人間は動物で、恋愛は社会的な枠に取り込まれた、欲望の別の言い方に過ぎない。
そこにそれ以上のものを求める人間は、どこかで破綻を迎えるしかないのかもしれない。
……自分で言うのもなんだけど、やっぱり俺はロマンチストだ。
「……本当にそう思いますか?」
彼は、その問いに困った顔をした。やさしい表情だった。
「恋愛っていうのはさ、はっきりいって幻想の投じ合いだと思うんだ。
自分のなかで本当に満ち足りた、完成された愛情というのが生まれるのは、相手が傍にいるときじゃない。
相手と過ごすときじゃない。それがうつくしいのは、相手が傍に居ないときに、真実でない相手の幻影を見るときだ。
自分のなかの相手のイメージを愛しく思うときだ」
「……」
「そこに、相手の真実の姿や生活を持ち込むと、愛情に現実的な手触りが追随してくる。
そうすると、うつくしいだけではいられない。相手が得られないとき、恋はもっとも綺麗なんだと思う。
それがすべてとは思わない。でも、そういう形があってもいいとは思う」
ずいぶん、詩的な、そして独善的な言葉だと思った。
相手の気持ちを、存在を、まるごと無視するような。
俺はそれを、なぜか理解できると思ってしまう。
知ってしまわなければうつくしいままなら。知ってしまって失われるものがあるなら。
それを幸福と呼ぶなら。
「蒔絵ちゃん、元気?」
「……ええ、まあ」
落ち込んでいる、なんて、俺は言いたくなかった。それに、本当にあのまま落ち込んでいるわけでもない。
「そっか。よろしく伝えておいてよ」
そう言って彼は立ち上がった。
俺は呼び止めなかった。
机の上には宮沢賢治の全集が置かれたままだった。
手に取り、ぱらぱらとめくってみる。
銀河鉄道の夜、よだかの星、めくらぶどうと虹。
宮沢賢治という空想家、理想主義者。
詩人、作家、哲学者。
俺は彼のことを嫌いになれない。
少しすると、入り口の方から足音が聞こえてきて、俺の傍へと近付いてきた。
「タクミくん」、と声は言った。
るーが居た。西日に照らされた表情は、薄暗さにまぎれて、こめられた感情がうまく読み取れない。
「探しました。ね、一緒に買い物に付き合ってくれませんか?」
「……買い物?」
現実から遊離した、茫漠とした意識に、その言葉は、奇妙な響きを持って聞こえた。
「はい。このあと、用事ありますか?」
「いや」
「だったら付き合ってください」
俺はうなずいて、本を棚に戻す。それから図書室をふたりで後にした。
言葉にすらならない考えごとが、頭のなかでしばらく渦巻いていた。
現実感を取り戻すまで、しばらく時間がかりそうだと思った。
つづく
乙です
◇
「もうすぐ蒔絵先輩の誕生日なんですよ」
並んだまま校門を抜けてすぐに、るーはそう言った。
冷静に考えれば、るーが入部したのは五月のこと。それからもう二ヶ月近い時間が流れている。
時間の流れというのが、今の俺にはなぜか他人事のように思える。
密度や重みや実感というものが、感じられない。全部が遠いのだ。
「プレゼント、買うの?」
「はい。とりあえず、小物とか、文房具とかにしようと思うんですけど」
並んで歩くとき、
それにしても、誕生日プレゼントか。
「絶対あいつ、ウェブマネーの方喜びそうだな」
「否定できませんねー」
「で、どこに行くの?」
「とりあえず、商店街の方に見たいお店があるので」
るーに流されてついてきたものの、そういえば近頃は、ろくに部室に顔を見せていない。
荷物を置いたりはしているから、一応出席している形にはなっているが、
大半の時間を他の場所で潰したりしている。
みんながどうしているのか、いまいち分からない。
まあいいか。……第一、なんだって部活のことばかり考えていなきゃいけないんだ。
べつに、なきゃ困るってもんでもない。
……こういう、極端な考え方をしてしまうところが、よくないのかもしれない。
なんてことを考えているうちに、大通りの雑貨屋にやってきていた。
店に入ってすぐ、キーホルダーの並べられた棚で立ち止まると、るーは「くらのすけー」とか言いながら目をきらきらさせはじめた。
やっぱり何度見ても変なキャラクターだ。
とはいえ、今日の目的はくらのすけではない。
「高森、どんなものなら喜ぶんだろうな」
るーは「うーん」と唸りながらキーホルダーを置いた。
さすがにくらのすけのキーホルダーで高森が喜ぶと思うほど盲目ではないらしい。
それから彼女は、ちらりと俺が背負っていた鞄を見た。
「タクミくんは、つけてくれてますよね」
なんとなく、含みのある感じで、るーの視線は鞄につけられたキーホルダーへと向かう。
「そりゃ、まあ……」
さすがに、もらったまま部屋に放置というのは、なんとなく申し訳ないし。
それに、嬉しくないというわけでもなかった。物自体に関してはともかく。
「ふむ」
とうなずいて、るーは満足気に笑った。
「……なに」
据わりの悪さに思わず拗ねた感じの声が出たが、彼女は気にしたふうでもなく、
「いえ。贈り物を身につけてもらえてると、やっぱり嬉しいものですね」
素直に喜んでみせた。
それから彼女は背負った自分の鞄を俺の方に向けて、
「おそろいですよ」
と、やっぱり変な顔の熊のぬいぐるみを向けてくる。
かなわない。
「かわいいですよね」
……かわいいってなんだっけ。
店の奥へと足を踏み入れて、るーは手近な商品を品定めしはじめた。
「タクミくんならどんなものをもらったら嬉しいですか?」
「どんなものでも、祝われれば嬉しいと思うよ」
「そうですか。あんまり参考にはなりませんねー」
……まあ、一月も経てば、昔の調子を取り戻しもするか。
こういう子だった。
「蒔絵先輩のほしいものがわかれば簡単なんですけど……」
「ウェブマネーだろ?」
「……まあ、ほしいものは自分で買いたいってタイプの人もいますもんね」
二度目以降はスルーらしい。
「……タクミくんなら、どんなものをもらったら嬉しいですか?」
「……俺?」
「欲しいものとか、ないんですか?」
ほしいもの……。
「……特にないけど、もらうなら使いやすいものだと嬉しいよな」
「……ペンとか、手帳とか?」
「そこらへんは、自分で買って気に入ってるって場合もあるしな」
「実用品に関しては、そうかもですね。最悪、使ってもらえなくても仕方ないですけど」
「……」
高森が喜びそうなもの。本当にウェブマネーしか思いつかない。
……ネットゲームのサントラとか? あるのか?
るーはしばらく店内をうろうろして、いろんな商品を手にとったりしていたが、めぼしいものは見つからなかったらしい。
難しいものだ。
しかし、高森に誕生日プレゼントか。
「タクミくんは、何かプレゼントするんですか?」
不意にそんなことを訊かれて、俺は戸惑った。
「……え? 高森に?」
「はい。去年は?」
「何もしなかったよ。そもそも誕生日知らないし」
「……そんなものですか」
ふーん、とるーは頷く。
「でも、せっかくですし今年は何か渡してみては?」
ほらこれとか、とるーはジョークグッズっぽい猫耳風カチューシャを自分の頭につけた。
なんでそんなもん売ってるんだ。
「やめとくよ。そういうの、今更だし。戸惑わせるだけだろうし」
「……ふむ?」
るーはちょっと怪訝そうな顔をしながら、カチューシャを外した。
結局、るーが何を選んだのか、俺は知らない。
ファンシーショップは客層以前に色彩からして居づらくて、彼女の会計を待たずに、俺は店の軒先へと出た。
七月ともなると夕方でも空はそこそこ明るいが、図書室を出た時点で空は赤みがかっていた。
もう、とうに日は暮れ始めている。
「おまたせしました」と店から袋を提げて出てきたるーと、地下鉄駅へと向かった。
「もう一月もしないうちに一学期が終わるんですね」
歩きながらのるーの言葉に、意外なほどの驚きを覚える。
そうか、と思う。
もうすぐ夏休みなのだ。
「……その前にテストがあるな」
「ですね。勉強しないとなあ」
「るーは、勉強できるんだっけ?」
「うーん……教科によりますけど、得意とは、言いがたいかもですね」
ま、それはともかく、とるーはごまかすみたいに話を変える。
「夏休み、ですよ。せっかくですし、夏らしいこと、したいですよね」
「夏らしいこと……」
「タクミくんは、何かしたいこととかないんですか?」
したいこと。
……こういう質問に途方に暮れてしまうのって、俺だけなんだろうか。
やりたいこととかないの、とか、ほしいものとかないの、とか、休みの日は何をしているの、とか。
答えに詰まるたびに、自分に何かが欠けているような気分になる。
誕生日を祝われることだって、いつのまにか、そんなに嬉しいことではなくなってしまった。
いつのまにか、なんとなく。
きらきら。
「……特には」
「そうですか。昔は、バーベキューとかしましたよね」
「ああ、うん」
「タクミくんは……」
何かを言いかけて、るーはそのまま押し黙った。
うかがうような沈黙。俺は反応に困る。急に話が途切れてしまった理由が、俺にはわからなかった。
「あの、タクミくん」
さっきまでとは違う声。怖がっているみたいな。
何か言いたげで、でもそれがうまく言葉にできないというように、口を開けたり、閉じたりを繰り返す。
俺は一度立ち止まって、彼女の方を振り向く。
るーは、俺の方を見て、何かを言おうとした。
でも、すぐに目を逸らしてしまう。
前にもこんなことがあった。
いつだっけ。
ああ、そうだ。
屋上だ。
五月。るーが入部したばかりの頃。
まだ、るーをるーと呼べなかった頃。
あのときも、彼女はこんな顔で、何かを求めるように俺を見た。
そのときも俺は、彼女に言わせたのだ。自分は口を噤んだまま、言いたいことを言わないまま、彼女にそれを言わせた。
でも、今、彼女が何を言おうとしているのか、俺には分からない。
目を閉じて深呼吸をしてから、覚悟を決めるみたいにまっすぐ俺を見て、るーは口を開く。
橋の上だ。街の影とは対照的に、川の水面が夕陽を反射して眩しい。
すぐ傍の相手の顔さえ、暗がりで見るようによく分からない。
駅への距離は、あとすこし。歩道沿いの並木は緑。そんなことさえ、立ち止まるまで意識していなかった。
逆光のようだ。
「タクミくん、あの……わたし、つきまとったら、迷惑ですか」
俺は、言葉に詰まった。
図星をつかれたからではなく、意表をつかれたからだ。
どうしてそんな言葉が出てきたのか、俺にはよくわからなかった。
「なぜ?」
本当に素朴な疑問として、その問いが浮かんだ。
なぜ、そんなことを思うのか、よくわからない。
るーは苦しそうな顔で俯いて、顔を隠したまま首を横に振った。
こんなことを言うはずではなかった、というふうに。
「……わかんないです。タクミくんが、何考えてるのか」
「どうして、そういう話になるの?」
「わかんないです!」
るーが言わんとしていることが、俺にはわからなかった。
でも、たぶん今、彼女は自分自身の気持ちに戸惑っている。
整理がつかなくて、混乱している。
たぶんそれは、俺のせいだ。
それは分かっているのに、その繋がりが分からなくて、戸惑う。
あのとき屋上で感じたのと同じような、やましさ。
逃げ出した自分に対する負い目。
「……ごめん」
「どうして、謝るんですか……?」
そう訊かれると、俺は何も答えられない。
「……タクミくん、五月に言ってました。わたしだって気付いてて、声を掛けなかったって」
「……ああ」
「わたしも、そうでした。タクミくんかな、って思っても、最初は自信持てなかったです。でも、名前とか、顔の面影とかで、気付けました」
「……」
「でも、名乗ったあと、反応なかったから。ひょっとしたら違う人なのかもって……」
「……」
「声を掛けてくれなかったのは、わたしが“覚えてないかも”って思ったからなんですよね?」
「……うん」
「さっきタクミくん、蒔絵先輩にプレゼントをあげたら、蒔絵先輩が戸惑うだろうって言ってました」
「うん」
「焼却炉の件、調べようって話になったときも、タクミくんは、“関わるべき問題なのか”って言いました」
「……」
「気付いてないかもしれないですけど、タクミくんは、五月に会ってから、ずっとそうです。
“自分が覚えている”なら、わたしが覚えていなかったとしても、声を掛けてもいいはずなのに。
“掛けたくないから”じゃなくて、“わたしがどう思うか”で、声を掛けるかどうか、決めてました」
「……」
「自分があげたいかあげたくないかじゃなくて、“蒔絵先輩がどう思うか”で、プレゼントをあげるかどうか決めました」
「……」
他人の顔色をうかがう癖がついたのはいつからだろう?
ずっと昔からの習性なのかもしれない。
自分のしたいように自然に振る舞う。
肩の力を抜く。
それってどうやればいいんだろう。
「タクミくんが、どうしたいのか、分かりません」
「……」
「相手がどう思うかなんて、相手が決めることなのに。自分がどう振る舞うかは、それとは関係ないはずなのに。
タクミくんはそうやって、相手のせいにして、自分で判断することから逃げてます」
その突然の告発に、俺は戸惑った。
「今日、買い物に付き合ってくれたのは、そうしたかったからですか。そうしてもかまわないと思ったからですか。
それとも、断ったらどう思われるだろうとか、わたしが望んだからとか、そういうことを気にしたせいですか」
「……」
「合わせてもらってばっかりじゃ、タクミくんがどうしたいのか、わたし、分からないで……ずっと、不安なままです」
俺は、うまく返事ができない。
どうしたいか。どう思うか。どう振る舞いたいか。
何が欲しいか、何がしたいか。
そんなのは、俺自身にさえ、とっくのとうに分からなくなっていた。
◇
「良い子だからだよ」、と、いつだったか、鷹島スクイは俺に言ったことがある。
おまえは親の期待に応え、教師の期待に応え、そこそこ優等生に振る舞った。
勉強やスポーツのことじゃない。日常的な振る舞いのことだ。
おまえは廊下を走らない。信号無視をしない。遅刻をしない。サボらない。
クラスメイトが集まって煙草を吸うときも、おまえは吸わない。
門限を守った。小遣いをあまり無駄遣いしなかった。
宿題はちゃんとやったし、掃除や片付けもちゃんとやった。
家出もしない。万引きもしない。夜更かしもしない。
おまえは言いつけを破らない子供だった。
だから苦しいのさ。
親を軽蔑して逃げ出した今でも、染み付いた生き方を変えられずにいる。
他人の顔色をうかがって、他人の望むように振る舞う癖がつくと、自分の顔色が分からなくなるものなんだ。
だからおまえは、たったひとりになると途方に暮れるんだ。
やりたいこともほしいものもひとつもない自分自身に気付かされるんだ。
レールを敷いてくれる人間なんていない。
おまえは自分の意思でどこかに行かなきゃいけない。
それがおまえには恐怖なんだ。自分の内部に道標がないから、誰かの敷いたレールがないと不安なんだ。
未だにそのときどきの、目の前にいる人間の顔色をうかがって、その場しのぎに物事を判断している。
そしていつのまにか、自分が何を望んでいるのか、わからなくなってしまった。
おまえは自分の声を聞き流しすぎたのさ。
◇
「るー」
「……なんですか」
拗ねたような顔のまま、るーは俯いている。
後悔しているのかもしれない。腹を立てているのかもしれない。
俺は、どう反応すればいいんだろう、と、またその場しのぎの思考。
話したら軽蔑されないだろうか。
面倒な奴だと、避けられはしないだろうか。
そんなふうにまた、相手の考えばかりを気にしてしまう。
そもそも俺は、話してしまいたいのだろうか。
よくわからない。
「るー」
「だから、なんですか」
もう、ごまかせそうにないな、と俺は溜め息をついた。
「迷惑じゃない。まったく合わせてないってわけでもないけど、嫌々で一緒にいるわけでもない」
どうして、こんなことを言うだけで、緊張するんだろう。
「それって、べつに普通だろ?」
「……はい。たぶん」
「こんなことを言ったら、変だって思うかもしれないけど、俺はしたいことのない人間なんだ。
欲しいものもないし、行きたい場所もないし、目標もなければ趣味もない。つまらない人間なんだよ」
るーは黙って俺の言葉を聞いている。
俺は、言いながら既に後悔しそうになっている。
言いたくない言葉が噴き出しそうになる。
だから俺は黙りこむ。誰かの期待に添うことはできないから、最初から期待されないように。
みんなを楽しい気持ちにはできないから、みんなとなるべく関わらないように。
そのくせ、誰かが自分をどこかに連れ出してくれることを期待している。
子供のように。
あの夏も、連れ出してもらうまで、ずっとそうしていたように。
でも、もう俺は高校生で、そういう自分がどうしようもなく嫌で。
それなのにやっぱり、したいことも、楽しいことも、簡単には思いつかない。
……なるほど、ゴローとの賭けに勝ってしまうわけだ。
それでも。
「るーと会えたのは嬉しいし、一緒にいるのは楽しいよ」
唐突に話が変わったからか、るーは、ちょっと驚いた顔で俺を見た。
「でも、不安なんだよ。俺はつまらない人間だから、退屈させやしないか、がっかりさせてないかって」
こんなこと、年下の女の子に話すようなことじゃない。
子供のように甘ったれた内面。自分でも対処しかねるような自意識の問題。
話さないまま関わりあうことだって、できるはずなのに。
それなのに。
大部分を聞き流して、るーは笑った。
「一緒にいると、楽しい、ですか?」
「……うん」
「だったら、いいんです」
そう言って、るーは笑った。
「話してて気付きました。わたしも、人のこと言えないです。
タクミくんが、わたしと居て楽しいのかなって、そればっかり、気にしてました」
――なあ、日々はそんなに退屈で、世界はそんなに平板か? 本当に?
――きみはいつもつまらなそうだね?
俺だってとっくに気付いていた。
世界が平板なんじゃない。周囲が退屈なんじゃない。
俺が、そういうふうに世界を眺めてるんだ。
「……るー。あのさ」
はい、と、るーは頷いた。
「夏休み、さ、楽しいこと、しようか」
はい? と今度は首を傾げる。
「文芸部のみんなでとかさ。いろんなところに行ったりいろんなことして遊んだり、しようか。みんな誘って」
ぼんやりとした目で、るーは俺を見上げる。
「そうしたい、って思う。それは、楽しそうだ。……駄目かな」
駄目かもしれない。みんなが、俺と同じように思ってくれるとはかぎらない。
みんなにだって予定はある。やりたいことも、行きたい場所も、一緒じゃない。
でも、それを口に出すくらいなら、かまわないはずなのだ。
口に出して断られても、それはそれでかまわないはずなのだ。
そんな当たり前のことを、どうして今まで、気付けずにいたんだろう。
こんなささやかなことで、心臓が跳ねる自分が嫌だった。
みんなみたいに、当たり前みたいな顔をしていたかった。
そういう気持ちを、きっとるーはほとんど見抜かないままで、
「……はい!」
と、笑って頷いてくれた。
その表情を見て、俺はすこしほっとした。
笑顔が嬉しかった。だから俺は、一瞬よぎった誰かの表情を、俺は意識の外に追いやった。
66-3 ハンプティダンプィ → ハンプティダンプティ
つづく
おぉ?ついに夏休みかー 乙です!
乙です
不穏な空気を取り払うるーの女神ぶりがやばい、乙
◇
第二文芸部の部員は全員揃っている。部長、ゴロー、高森、佐伯、俺、るー。
ゴローが、例の騒動について調べると言い出してから、まだほんのすこししか経っていない。
彼は第一文芸部の連中に聞き込みをして、第一稿段階から原稿の内容を変更した部員たちを特定した。
候補者は数人。彼らに変更した内容やその理由を訊ねることで、ゴローは例の出来事の原因を特定しようとした。
それが始まってすぐのこと、思わぬ展開になった。
「それでね、話があるから集まってほしいってことなんだ」
そう言ったのは顧問のヒデだった。
隣には、今となっては第一文芸部の部長となった及川先輩と、同様に第一文芸部の顧問になった教師。
「……話?」
みんながみんな、訝しんだ。
心当たりとしては、ゴローの調査を快く思わないものが、顧問を通じてそれをやめさせようとしているのか、くらい。
とはいえ、まだみんな本腰を入れて調査に乗り出したというわけでもない。
この段階で水を差されるようなことになるのは、俺たち全員からして、あんまりに意外な出来事だった。
「うん。実は先生もまだ、何の話なのかは聞いてないんだけど……」
戸惑った感じで、ヒデは苦笑しながら頬を掻いた。
「詳しい説明は、第一の方からしてもらえるらしいから」
そうなんですよね? というふうに、ヒデは第一の顧問の顔色をうかがう。
顧問は頷く。
及川さんは、どこか浮かない顔のまま、口を開いた。
「……大事な話になるから。きみたちにも迷惑がかかったし、話すのが筋だろうという話になった」
ということは、第一文芸部で既に話し合って、その場で俺たちにも話を通すことになった、というわけか。
「よくわからないんですが、何のお話なんですか?」
口を挟んだのはゴローだった。
この場で第一の例の騒動にいちばんこだわっていたのは彼だから、当然といえば当然かもしれない。
「それについては、みんながいるところで話すよ。まだ、うちの部員でも聞いていない奴がいるから。
とにかく、視聴覚室を借りられることになったから、そこに集まってほしい」
部員みんなが、顔を見合わせた。
なんだかよくわからないけど、従うほかになさそうだ、というのがみんなの表情から読み取れる流れ。
「……とりあえず、お話があるんですよね?」
部長が、話を進めた。及川さんは頷いた。
「じゃあ、とりあえず聞こう。今からですよね?」
「うん。もう、第一の部員は視聴覚室に集まってるんだって」
ヒデの言葉を聞いて、部長は立ち上がった。
「じゃあ、行きましょう。ここにいたって仕方ないし」
みんなが顔を見合わせて頷いた。
及川さんは、まだ、浮かない顔をしている。
いったい、何が飛び出すやら。
視聴覚室の席の半分は第一文芸部の部員たちで埋まっていた。
ドアを開けて部屋に入った瞬間、きしりと空気が固まったような気がした。
奇妙な緊張感だ。どいつもこいつも、表情がこわばっている。
聞いていない奴がいる、と及川さんは言った。
それがなんなのかは知らないけど、この空気からすると、楽しい話にはなりそうにない。
俺たちがそれぞれに席につくと、教室前方の壇上に、及川さんとふたりの顧問が立った。
「みんなそろってるかな?」
ヒデの質問に、及川さんは周囲を見渡して、頷く。
それからヒデは、俺たちの後ろの席に腰掛けた。
内容はヒデも知らない、と言っていた。なら、これから何の話があるのか、ヒデ自身も知らないんだろう。
一度、及川さんと第一の顧問が視聴覚室を出た。
何かの確認でもしているんだろうか。
再び彼らが戻ってきたあと、及川さんは壇上に立った。
「急に集まってもらうことになってごめん。突然のことだったから、みんな戸惑ったと思う」
誰からも返事はなかったが、さっきまでかすかにあった囁きの交わし合いは、その言葉で途切れた。
第一の顧問は及川さんの斜め後ろに立ち、室内の様子を見守っている。
「実は話があるのは俺じゃないんだ。詳しい内容については、本人が説明してくれると思う。
みんな訊きたいことがあるだろうけど、まずはそいつの話を聞いてみてほしい」
及川さんの声には、はっきりとした言葉とは反対に、どこか躊躇しているような澱みが宿っていた。
まるで自分の言葉のひとつひとつが、本当にこの場にふさわしいのかを確認しようとしているみたいに。
それから彼は、ひとりの生徒の名を呼んだ。
「……嘉山」
室内の注目が、ひとりの男子生徒に移る。
俺たちの視線は、第一の部員たちの視線の先を辿って、その男子生徒のもとへと向かった。
カヤマ。
聞いたことのない名前だ。
「……原稿を変えた奴だ」
小さく呟いたのはゴローだった。たぶん、隣にいた俺にしか聞こえなかっただろう。
ゴローは、俺に聞こえていると知ってか知らずか、訂正するような言葉を続けた。
「……第一稿で部誌に載せたはずの原稿を取り下げて、そのまま原稿を再提出しなかった」
そいつは、物静かそうな顔をしていた。
背丈は決して高くないし、顔つきは悪いわけじゃないが特別良いとも言えない。
髪は黒く、整髪料のたぐいはつけているようにも見えない。ボサボサの前髪で、目元が隠れている。
地味、というのが第一印象だ。
みんなが話している横で、合わせるような愛想笑いを浮かべたまま、自分は決して会話に混ざろうとしないような、そんな印象。
それが俺の一方的な偏見なのかどうかは分からない。
それでも、第一文芸部の面々もまた、彼の名がここで呼ばれたことに戸惑っているみたいに見える。
意外そうな、戸惑ったような。誰も、彼に声を掛けようとはしなかった。
嘉山は、そんな視線を受けたまま、立ち上がって、及川さんのそばへと歩み寄った。
その足取りはどこかふわふわとしていた。
べつにふらふらしているわけじゃない。歩き方が覚束ないというのでもない。
でも、どこか、いまこの場所から遠く離れているような足取り。
この場にいるはずなのに、どこかに行ってしまっているような不思議な錯覚。
及川さんが脇に避ける。
嘉山は何も言わずに壇上にあがり、俺たちを見下ろした。
「皆さん、突然のことで驚かれたと思います」
その声は、なんだか不思議な感じがした。思わず俺は、周りにいた連中の表情をうかがってしまったくらいだ。
でも、みんな当然のような顔で、彼の声に耳を傾けているようだった。
だからその違和感は、俺だけの錯覚だったのかもしれない。
嘉山の声は、耳からするりと抜けるように、俺の意識に何の印象も残さなかった。
決められた台詞を読むような感情のなさ。
にもかかわらず、そこには何かを演じるような緊張やこわばりがない。
からっぽな機械が決められたメッセージを読み上げているような。
「二年の嘉山孝之です。及川部長や顧問の先生方に頼んで、みなさんにお話する機会をつくっていただきました。
まずはみなさん、俺の話のために時間をとらせてしまったことをお詫びします。申し訳ありません」
そう言って彼は一度頭をさげたが、その仕草はやはり無感動で機械的に見えた。
「前置きを長くしても戸惑われるだけだと思いますので、単刀直入に申し上げます。
先月、部誌の配布の直前に起こった焼却炉での騒動を、みなさんも覚えているかと思います」
彼はそこで一拍置いて、前方に座る部員たちの顔を見回した。
一瞬だけ、俺も彼と目が合う。
俺は、その視線が本当に俺を見たのかどうかわからなかった。
「あれをやったのは俺です」
嘉山はそう言った。
誰もが沈黙したままだった。いったいこいつは何を言っているのだろうと、そんな空気が、あたりを包む。
俺は思わず、及川さんの方を見た。
彼は、ただ嘉山の続きを待っていた。
「第一文芸部……当時の第二文芸部の部誌を燃やしたのは俺です。
家から持ち込んだライターを使って、焼却炉で部誌を燃やしました」
誰も話さない。
みんなが説明を待っている。
「……申し訳ありませんでした」
そこで嘉山はもう一度頭を下げた。
いくらかの沈黙のあと、第一文芸部の部員の誰かが、
「本当に?」
と訊ねた。誰も他に何も言わなかった。
「本当です」と嘉山は間髪置かずに答える。
「申し訳ありませんでした」
「どうして?」
と同じ奴が訊ねた。
「皆さんには大変ご迷惑をおかけしました」
「そうじゃなくて、どうしてそんなことをしたの?」
誰かの追及。みんな、そいつの質問を正しいと思ったのだろう。声は、ほかにはあがらない。
どうして? それが一番の謎だったから。
質問した奴の方を、嘉山は数秒間、まっすぐに見つめた。
表情は浮かばない。
ごまかし笑いでも、つよがりでもない。ただ無表情のまま、
「ストレス解消のためです」
と答えた。
◇
そこから急に騒がしくなった。
罵声とも怒号ともとれない雑多な音が、第一の連中の口から暴れだした。
ヒデはその流れをおろおろと見守っている。
俺たち第二側の連中は、ただ事態のなりゆきを見守るしかない。
嘉山はもうそれ以降、本当に申し訳なかった、としか言わなくなった。
他の連中の戸惑いと怒りを、及川さんと第一の顧問が諌めはじめる。
俺はなんとなく不思議な感じがした。
第一の顧問は一旦全員を黙らせると、嘉山を壇上からおろし、自分で全員に向けて声をあげた。
それから彼は、嘉山に対しては自分から厳重に注意をし、事情をきくことを宣言した。
もちろん焼却炉を無断で使用した件については、他の教員からも指導があるという。
嘉山の詳しい事情についてはみんなには話せないかもしれないが、彼にも事情があるようなので、皆から責めることはあまりしないように、と話を収めた。
嘉山は自分からみんなにこのことを告白して、みんなに直接謝罪したいと言った。
その気持ちをどうか汲んでやってほしいと。
そこでみんな押し黙った。誰も何も言わなかった。
話はそこで収まった。
気持ちが収まったかどうかは知らない。
つづく
467-19 だから俺は → だから
乙です
なかなかキラキラ路線に行かせてくれないのな
もやもやするけどしかし続き気になる乙
◇
態度を決めかねていた。
みんなそうだ。俺やゴローだけじゃない。佐伯や高森だってそうだったろうし、及川さんやヒデだってそうだろうと思う。
あの場で、嘉山に対して、誰も何も言うことができなかった。
第一の顧問が最後に嘉山をかばわなければ、誰かが文句のひとつでも言えたかもしれない。
でもそれは「もしも」の話で、結果として誰もが沈黙せざるを得なかった。
嘉山は詳しい事情について黙して語らなかったし、そもそも細々とした話を聞かされたところで誰も納得なんてできなかっただろう。
だから、結果として、みんながみんな、納得できないままで黙りこむほかに、術を持たなかった。
特に、俺たちは、基本的に部外者だ。
第一の連中が俺たちを疑ったこともあるにはあった。
けれど俺たちは犯人ではなかったし、燃やされたのは俺たちの部誌ではない。
結果として巻き込まれただけの、俺たちは部外者だ。
部室に戻ってから、俺たちは誰一人言葉を発しようとしなかった。
沈黙。
沈黙。
沈黙。
それを破ったのは高森だった。
「やめよ」
彼女は、ぽつりと、それだけこぼした。
「何を?」と俺は訊ねた。
「終わったんだよ。焼却炉の話。だったらもう、やめようよ、考えるの」
「そだね」と頷いたのは部長だった。
「わたしたちの人生で、この一年は一回だけなんだよ」
部長の声を無視するみたいに、高森は続ける。
「高二の夏も、高二の秋も、高二の冬も、一回きりなんだよ。一度通りすぎたら、もう二度と取り戻せない。
だから、他人のことにかかずらうのはやめよう。わたしたちは、わたしたちの今を楽しもうよ」
そう言って、彼女は内側でくすぶる何かを吐き出そうとするみたいに長く息を吐いて、それから笑った。
強がりみたいに見えた。
「……だな」
と、俺はとりあえず頷いた。
そういうことなのだ、結局。
俺たちに関わりのないところで起こって、俺たちに関わりのないところで終わった。
そういうことだ。だったら、これ以上こだわって時間を無駄にする必要もない。
ゴローは、黙りこんだままだった。何かを考えているみたいだ。
それが何なのか分からない。……分かるような気もするけど、きっとそれは錯覚だ。
「ね、打ち上げしようよ」
高森は手を打ち鳴らして、そう提案した。
「打ち上げ? ……何の?」
「部誌完成の。まだやってなかったでしょ?」
「……ああ」
というより、そんなの今までしたことなかった。
「わたし、ボウリングしたい。ボウリング」
俺は、周囲を見回した。
部長は、何も言わない。ゴローも何も言わない。
るーも、佐伯も、何も言わない。
何も言わない奴らばかりだ。ここは。
俺もか。
ああ、もう。
めんどくせえ。
「よし。部長、ボウリング行きましょう。みんなで」
急に話を振られたからか、部長はきょとんとした顔をした。
「タクミくん……?」
「嫌いですか?」
「ううん。べつに、そうじゃないけど……」
「ゴローと佐伯は? このあと予定あるの?」
「ないよ。行ける」
と即答したのが佐伯。黙ったままだったのがゴロー。
「ゴロー」
「ああ、行くよ」
「るー」
「みなさんが行くなら」とるーは、どこか戸惑ったように笑う。
「じゃ、決定。ボウリング行こう」
「決定! たっくんのおごりね!」
「嫌だ!」
振り払う。振り払おうとする。
たぶん、痛々しく見えただろう。
◇
そんなわけで俺たち第二文芸部の部員たちは、何もかもを忘れてボウリング場へと向かった。
部活を放り出してきた。ヒデには何も言ってこなかった。そうしたら何かが違ってくるような気がした。
部長、高森、ゴロー、佐伯、るー、俺。六人。
ぎりぎり一レーンでプレイできないこともなかったけど、時間がかかるから二レーンに三人ずつ分かれることにした。
組み分けはグーパーで決めた。
たとえばシューズを借りるときに、部長の靴のサイズが思っていたより小さかったことに気付いたりした。
そういうささやかなことの連続を俺は見逃していた。
わけのわからない、自分とは関わりのないことにこだわって、見逃していた。
そういうことの反省だ。
「さて、せっかく組み分けしたし、勝負でもする?」
提案したのは高森だった。
「そっちとこっちでチームに分かれて、合計点数を競うの」
「……いいだろう」と俺は答えた。
「負けた方は、罰ゲームね。みんなもいい?」
みんな頷く。
「罰は何がいいかな……。最初に決めとかないと、ぐだぐだになりそうだもんね」
高森は9ポンドのボールを構えながらそう呟いた。
「……待て、その勝負、俺たちもやるの決定か?」
不満気に、ゴローは呻く。
「当然だろ。部全体のイベントなんだから」
「……部長?」
ゴローに助けを求められた部長は、楽しげに肩をすくめた。
「こうなったら、開き直るしかないよ」
「……くそ。なんでそんなことまで」
「あっれー? ゴロちゃん、もう負けたときの心配?」
いくらなんでも分かりやすすぎる高森の挑発を、ゴローは鼻で笑い飛ばした。
「……バカ言うなよ。勝ちの決まってる勝負なんてやる気がしないって言ってるんだ」
にやりと笑う。
こいつも大概ノリがいい。
組み分けは、俺、高森、佐伯と、部長、ゴロー、るーになった。
「まあ、妥当かな」
男女比も学年も、均等といえば均等だ。
「さて、罰ゲームだったな」
あっさり乗り気になったゴローが、不穏な笑みを浮かべながら顎を撫でた。
「俺たちの勝ちは決まってるからな。おまえらには、何をさせたら面白いだろう」
やけに強気だ。本当に自信があるのかもしれない。
「だったら、こういうのはどうでしょう」
言い出したのはるーだった。
彼女は自分の鞄をがさごそとあさりはじめる。
みんながその動向に注目した。
「じゃん」
と言って取り出したのは、このあいだ店先で見た猫耳風カチューシャだった。
「負けたチームは、明日から三日間、部活のときこれをずっと装備。で、どうでしょう?」
「……なんでそんなもの持ってるんだ」
「こんなこともあろうかと、買っておきました。一個だけですけど」
どんなことを想定してたんだよ。
「……待て、それは女子はともかく、男子のリスクが高すぎないか」
「あれ? タクミくん、もう負けたときの心配ですか?」
いたずらっぽく、るーは笑う。
合わせてゴローも、にやにや俺を見る。
逃げ場がない。
「……ああ、いいぞ。やってやるよ」
「じゃ、決定ですね。負けた方は明日からこのカチューシャをつけて、語尾に『にゃん』をつける義務を負います」
なんか追加されてる。
「……待って。わたしも普通にいや、それ」
佐伯が本気で嫌そうな顔をする。俺はちょっとだけ躊躇したが、結局強がって笑うことにした。
「佐伯、心配するな」
「……え?」
「勝てばいいんだよ、勝てば」
「……ギャンブルにハマってる人って、みんなそう言うよね」
彼女は呆れ顔だった。
そんなわけで始まったボウリング勝負の第一投は、それぞれ俺とゴローに決まった。
「ところで、つかぬことをお聞きするけど、たっくんはボウリングって得意なの?」
俺は11ポンドのボールを構えながら、高森のその質問に笑みを返す。
「心配すんなよ、高森。こう見えて俺は……」
そう。俺は。
「生まれてこのかた、一度もボウリングなんてしたことない」
「だめじゃん!」
「眠ってた才能が火を噴く時がきたな」
「たっくん! なんで勝負受けたの!」
高森が本気で嫌そうに騒いだ。おまえが言い出したからだ。
「やめてよ? 負けたら猫耳だよ? それはまだしも語尾もつくんだよ?」
だからおまえが言い出したんだ。
軽く助走をつけてボールを放るとき、高森の悲鳴に近い懇願が聞こえた気がした。
「ほんとにたのむよ、たっくん!」
俺の放ったボールは静かに回転しながら、吸い込まれるようにレーン外へと進んでいった。
ガコン、と音を立てて、ボールはあっさりと溝を転がっていく。
ピンまでの距離は15メートルと言ったところか。
「……ふむ。まあそこそこだな」
「どこがよ!」
高森が騒ぎ、佐伯は頭を抱えた。
「やったことないんだから仕方ないだろ!」
「いくら初めてだってもうちょっと行けるでしょ!」
「あーうるさい。このくらいはハンデだハンデ」
「これは本当に、俺たちが勝負をもらったな」
俺たちのやりとりを横目にみてくすくす笑いながら、ゴローはボールを構えた。
「悪いがタクミ。俺は生まれてから一度も、そう一度も……ボウリングでガターを出したことがない」
ごくり、と俺は固唾を呑んだ。
ゴローは自信満々の表情でボールを構える。
その仕草は、たしかに俺よりも様になっているように見えた。
「覚悟しろよ、佐伯、高森。おまえらの明日は猫耳だ」
「いやだあ! わたしそっちチームがいい!」
高森がわめく。諦めの悪い奴だ。
「ははは。楽しみだなあ諸君」
言ってから、ゴローは投球フォームにうつる。なめらかな体重移動。
指先から離れたボールは、ファウルラインから二メートルほど過ぎたところで右側の溝に落ちた。
みんな黙りこんだ。
「……ゴロー?」
「俺はこれまでボウリングでガターを出したことが一度もない」
ふっ、と意味ありげにゴローは笑う。
「なにせ一度もボウリングをしたことがないからな」
こいつらマジか、という目を、みんなが俺とゴローに向けた。
「……さっきの自信ありげな雰囲気はなんだったの、ゴローくん」
部長の溜め息も、いつもよりちょっと情感こもって聞こえた。
「なんかいけそうな気がしてたんですよ。案外駄目ですね」
「うちの男どもはあてにならない……」
佐伯が深刻な調子で呟く。そう言われても仕方ない状況とはいえ、ちょっとひどい。
三人の女子の目が静かに燃えた。
みんなが揃って、「わたしがなんとかせねば」という目をしていた。
ひとり取り残されたるーは、ごまかすみたいに、
「えっと。勝負は分からなくなってきましたね……?」
自信なさげに、そう呟いた。
つづく
乙です
佐伯さんw
乙、遊馬みたいになって来たけども…
◇
第一投者である俺とゴローが双方無得点というまさかの形で勝負の幕は上がった。
二番手は、こちらは高森、あちらはるーだった。
「たっくんがアテにならないとなると、わたしたちでなんとかするしかないね、ちーちゃん」
佐伯は深々と頷く。
「まあ、向こうもひとりアテにならないみたいだから、実質二対二ってだけだろうけどね」
「……」
「頼むよ、マキ」
「おうともさ」
……同じチームのはずなのに、俺が完全に蚊帳の外である。
「……さっきは言わなかったけどね、たっくん、ちーちゃん」
そう言って高森は、静かに球を構えた。
「わたしも、ボウリングでガターを出したことがないんだよ」
「……マキ、やめようそれ。パターンだから」
諌める佐伯に向けて、だいじょうぶだいじょうぶ、と高森は気楽げに笑った。
「ホントホント。小学生の頃子供会で一番だったんだからね。まあ、わたし以外もみんなガターなんて出さなかったけどさ。
それ以来一度もやったことないけど、たっくんとかゴロちゃんに比べたら、わたしのがまだ才能あるよ」
「……高森、それさ」
「なに?」
「ノンガターレーンだったんじゃねえの?」
「……え?」
高森はボールを抱えたまま硬直した。
「……マキ?」
佐伯の声はいつもより暗い響きをともなって聞こえた。
「……だ、大丈夫大丈夫。球を転がしてピンを倒すだけなんだし」
どうしてかわからないが、自分が投げる時より今の方が緊張してしまっている。
そして高森の転がしたボールは、ゆっくりとレーンを転がっていき、端の方のピンを二本倒した。
「……ほ、ほら。大丈夫大丈夫」
「うん。まだ二投目があるしね」
そして高森は二投目で逆端のピンを四本倒した。
「……口程にもないな」
「まったくだ」
ゴローのつぶやきに追随すると、佐伯と高森がぎらりと俺たちの方を睨んだ。
おまえらが言うな、と視線が語っている気がする。
隣のレーンのスコアを見ると、俺たちが騒いでいるうちにるーが投げ終わっていたらしい。
一投目が七本、二投目がゼロ。
一本差であちらの優位だ。
高森と佐伯の表情は暗い。猫耳カチューシャをつけた自分の姿でも想像しているのかもしれない。
「……あ、俺、飲み物買ってくる」
居心地の悪さに立ち上がると、みんなが声をあげた。
「たっくん、わたしコーラ。ちーちゃんは?」
「お茶」
「俺アクエリな」
「わたしもお茶がいいな」
「持てねえよ。持てないですよ」
「あ、わたし手伝います」
るーがそう言って立ち上がったので、断るにも断れない感じになってしまった。
いやまあ、別にいいんだけど。
俺たちはレンタルシューズコーナーの脇にある自動販売機で指示通りのものを買い揃えた。
計六本。どっちにしたって手は塞がる。
「ね、タクミくん」
「ん?」
自販機が吐き出したコーラを嫌がらせに軽く振ったところで、るーがそう呟いた。
「……あの、それ蒔絵先輩のじゃ」
「いや。振ってない。振ってないよ」
「そうですか」
俺はコーラをるーに手渡した。
「るーは何飲む?」
「わたしはポカリで。あ、お金……」
「いいよ。みんなの分俺出すから。バイト代出たばっかだし」
「いますよね、給料日直後はすごく羽振りのいい人」
「うん。それ俺」
悪い癖だとは思うが、他人に奢るのは意外と気分がよくてついついやってしまう。
こうやって集団から少し距離を置くと、冷めてしまいそうな自分に気付く。
だから半分、るーがついてきてくれたのを、助かった、と思う。
もう半分は、冷めてしまいたがっていたのかもしれない。
奇妙なものだ。こころというのは、どうも、元の状態に戻りたがる性質があるらしい。
自己嫌悪が常態になれば、人は折にふれて自己嫌悪したがるようになる。そういう癖がつく。
変化しないことに安心する。だから、容易には人は変われない。
嫌でたまらない自分の性質。それを嫌がっている自分。そこに安心してしまう。
「俺もコーラ、と」
「ね、タクミくん。気付いてました?」
「なにを?」
「今日、蒔絵先輩の誕生日なんですよ」
「え?」
「七月七日。七夕です」
驚きつつも、なんとなく納得する。
だから、あんなふうに、暗いまま流れる時間を嫌ったのかもしれない。
運の悪い奴だ。誕生日にあんな話になるなんて。
結果的には、よかった、のかもしれない。
あとで知ったら、俺まで落ち込んでいただろう。
「七夕か。……今日は晴れてたよな」
「はい。催涙雨にはならないみたいですね」
「……催涙雨?」
「七夕の日に降る雨を、そう呼ぶんですよ。雨が降ると天の川の水かさが増して、織姫と彦星は会うことができないそうなんです。
そのふたりの涙が、雨になって降るとかなんとか」
「……それ、おかしくない? 雨が降ると会えないんだろ? 会えないから泣いて、それが雨になるんだろ? どっちが先なんだ?」
「えっと、どうなんでしょうね……?」
「そもそも、なんで地球に降った雨で天の川が増水するんだ?」
「あの。知りません。そんなの」
るーは呆れた感じで笑ってくれた。俺も笑った。
「再会できたよろこびに涙を流しているとか、やっと会えたのにまた離れなければならないから泣いているって話もあるみたいですけど」
「どっちにしても、今は泣いていないわけか」
そういえば、天の川に橋をかけるのはかささぎだったか。
「よし。戻るか」
「はい」
俺たちは飲み物を抱えて友人たちの待つ場所へと戻った。
戻ってみると、部長がストライク、佐伯がスペアを出していた。
「……おお、盛り上がりどころを見逃した」
「今のところ、わたしたちが優勢ですね。タクミくん、がんばってくださいね」
「ああ」
頷いて、チームごとのジュースを渡しあって、俺たちも席に戻った。
そして、ふと気付く。
どっちが振ったコーラか分からない。
るーの方を振り返ると、彼女はいたずらっぽく笑った。
教えてくれる気はないらしい。
してやられた。いや、俺がやったんだけど。
そして続く二フレーム目、俺とゴローはまさかというか期待通りというべきか、無得点のままだった。
続く高森は六本、るーは五本。
佐伯は九本。部長はまたストライクだった。
「もはや大勢は決したな」
ゴローがなぜかドヤ顔だった。
佐伯と高森の顔は緊張の冷や汗に滲んでいる。
「よろしくないね、この流れは」
「というか、部長が意外と……」
佐伯と高森の言葉に、部長はにっこり笑った。
「わたし、こういうの得意」
俺たちは思わず黙りこんだ。
佐伯もがんばっているが、このままの流れで行くと負けは確実だ。
「……ひとつ提案があります」
そこで佐伯が、重々しく口を開いた。
「どうぞ」と部長。
「この勝負の罰ゲームとは別に、最下位とブービーの二名に別途罰ゲームを設けるのはどうでしょう」
「げ」
「賛成!」
「異議なし」
口を挟む間もなく、高森と部長が賛同した。
あからさまに俺とゴローが狙い撃ちにされている。
「賛成多数で可決です」
「待て待て。まだ票とってないだろ。俺とゴローは反対だぞ」
「弱者の票は数えません」
「一票の格差だ!」
氷の瞳で佐伯が俺を見た。俺は怯みつつ、政治参加の平等を訴えた。
「藤宮さんは? 賛成三票、反対二票だけど」
「じゃあ賛成で」
佐伯の質問に、躊躇もなく、るーは頷いた。
「可決」
マジか。
「……ちなみに、罰ゲームの内容は?」
「最下位とブービーが三十秒ハグ」
王様ゲームかよ。
高森と部長はあっさり同意した。
「おい、何かに目覚めたらどう責任とってくれるんだ、それは」
ゴローの文句を、佐伯は取り合わなかった。独裁政治だ。
「目覚めたときは、浅月に責任とってもらって」
「……仕方ねえな」
「仕方なくねえよ。とらねえよ。まず目覚めねえよ」
「タクミくん。勝てばいいんですよ」
にっこり笑うるーに、高森が「そうだそうだ」とやけっぱちに頷く。
……こいつら、自分たちがブービーに転落する可能性とか考慮してないんだろうか。
佐伯め。追い込まれると我が出るタイプだったとは。
現状だと、一位が部長、二位が佐伯、三位と四位が同数で高森とるー。
ブービーと最下位も同数で俺とゴローだ。
罰ゲームを回避するには、ゴローだけでなく高森とるーを越えなきゃいけないわけか。
……。
でも、よく考えるとこれ、俺が四位以上になってしまうと、ゴローが女子とハグする結果になる。
佐伯、ちょっと早まったんじゃないか?
などと思っているうちに、ゴローが三フレーム目の球を転がした。
ストライク。
「……え?」
みんながポカンとした。
「……能ある鷹は爪隠す」
「まぐれだろうけど、ナイス、ゴローくん」
部長はうれしそうに拍手した。
高森とるーが、俺の方を見たのが分かる。
……まずい。
ゴローが空気を読まずに高得点を連発してしまうと、最下位とブービーの罰ゲームは男女混合の気まずいものになってしまう。
これを回避するには、俺がゴローを追いかける点数を出して、高森とるーを下位に追いやるしかないわけだが……。
こうなってしまうとるーと高森も、罰ゲームを避けるために高得点を狙うはずで、つまり……。
くしくも、みんながみんな本気で勝ちを獲りに行かなければならない状況になってしまった。
「……マジか」
つーかそれ以前に、部長とゴローにストライクなんて出され続けたら、俺たちの明日は猫耳カチューシャ。
このままだと俺のひとり負けだ。
「……たっくん?」
「お、おう。心配するな。俺だってやるときはやる」
とは言うものの、ボウリングにはまったく自信なんてない。
佐伯が罰ゲームなんて言い出したせいで、考えなきゃいけないことが増えてしまった。
……いや。
やめよう。罰ゲームとか、立ち位置とか、気にするのは一旦やめだ。
とりあえず、勝ちにいけばいい。
罰ゲームのことはあとで考えよう。
俺は深呼吸してからアプローチに立ち、ボールを構えた。
振り子。俺は振り子だ。
軽く助走をつけて、球を転がすだけ。
そして体を動かすと、足がもつれて、腕の角度が曲がり、球はまた溝へと落ちた。
「……たっくん」
振り向くと、高森が本気で頭を抱えていた。
俺はとりあえず気を取り直し、球が戻ってくるのを待った。
「よし。俺はやれる、俺はやれる……」
「……浅月、背中に哀愁が宿ってるよ」
「うるさい。黙って見とけ」
もう一度深呼吸をしてボールを転がす。
球はゆるやかなカーブを描きながら、ピンへと向かう。
狙ったわけではないが、ボールは中央付近へと斜めに向かっていき、ピンを全てなぎ倒した。
「よし!」
と思わず握りこぶしをつくる。とりあえずスペアだ。
振り返ると、みんながみんな黙りこんで、互いの様子をうかがいあっている。
流れは本格的に混沌へと向かいはじめているようだった。
……ひとりくらい歓声をあげてくれてもよくないか?
心地よい緊張感に喉が渇いてコーラを開けようとすると、泡が勢いよく噴き出しそうになって慌てて締め直した。
るーはくすくす笑っていた。
つづく
乙です
るーかわいいよるー
乙
◇
部員たちのプライドが懸かった勝負は、そこから混乱の様相を呈し始めた。
調子をあげはじめたゴローとは反対に部長と佐伯のスコアは下降の一途をたどりはじめる。
高森とるーはというと相変わらず、多くもなければ少なくもない本数で、じわじわとスコアを稼いでいた。
俺はというとさすがに高森と佐伯の不興を買うのがおそろしくなり、無難にボールを転がしてスコアを稼いでいた。
どうにかコツを掴んで、何度かスペアが出せるようになった頃には、ゲームは終盤に差し掛かっていた。
合計点数の詳細は分からないが、現段階ではるーと高森がほぼ横ばいでブービー争い。
調子のあがらないままのふたりと、俺は、点数があまり変わらないところまで来ていた。
一位争いは佐伯と部長のふたりで白熱していたが、圧倒的な追い上げで、ゴローもふたりを射程圏内に収めていた。
ただし終盤になるとストライクとスペアの連続で、詳細な点数は計算しないことにはわからなくなっていた。
とはいえ、チーム戦としては、上位にゴローと部長のふたりを抱えた向こうが優位なのは明らかだ。
それでも部長と佐伯の失調や、序盤のゴローの低スコアを鑑みれば、勝負が決まったとは言い切れない。
そして訪れた最終フレーム。
俺とゴローはそれぞれにボールを構えた。
「なあタクミ、ひとつ賭けをしないか」
「……なんだ?」
「このフレームで点数の多かった方が勝ちだ」
また賭けか。賭け事の好きな奴だ。
猫耳、ハグ、十分すぎるほどの緊張感だ。これ以上何を賭けるっていうんだ。
「何を賭けるんだ?」
「気になってたことがあるんだ」
「……なんだよ」
「教えてほしいことがある。俺が勝ったら、それについて話してほしいんだ」
「俺についてのこと?」
「……そうだな。そういうことになる」
「そんな言い方じゃ、いいとも駄目ともいいにくいな」
「ああ。だから、教えてくれるかどうか、考えてくれるだけでいい」
「……俺が勝ったら?」
「そうだな……」
ゴローはそこで少しだけ押し黙った。
「おまえが決めてもいいんだが」
「いや、俺は特に、してもらいたいこともないしな」
「それじゃあ、アンフェアだな。……だったら、前金だ」
「……?」
「俺が負けたら、俺は佐伯に告白する」
「は」
「……不満か?」
「いや、不満っつーか」
そうだったのか、とか、告白って俺が思ってる告白で合ってるのか、とか。
そもそもそんなもん賭けるもんじゃねえ、とかいろいろ思ったけど。
「……そこまで言われて賭けませんって言えないだろ。退路を奪いやがって」
「いいだろ。どうせおまえは、負けても何も答えないって選択ができるんだ」
べつに、賭けに乗らないことだってできた。
俺との賭けで、ゴローの告白がどうこうって話になるのは、なんとなく責任を感じるわけで。
でも、そんなことを言い出したってことは、ゴローは賭けなんかなくても、いずれはそうするつもりだったのかもしれない。
そう考えれば、この賭けはフェアと言えばフェアだ。
俺は負けてもペナルティを負わないことができる。
ゴローはペナルティを負うが、その罰の内容を自分で決められる。
なるほど。逃げ場はない。
とはいえ。
……勝ったところで俺に旨味がないのは気のせいか?
なんとなく、うしろを振り返って佐伯の方を見てしまった。
目が合うと、彼女は不思議そうに首をかしげた。
それから思い出したみたいに、
「浅月、頼んだよ」
と、彼女にしては大きな声で応援してくれる。
まいった。
なんか気まずい。
「……訊きたいことって?」
「それは、勝ったときに話す」
「……勝手に完結しやがって。いいけどさ」
ただでさえ最終フレームは考えることが多い。
部長の失調があるとはいえ、チーム別の点数はあちらが有利なままだ。
ゴローが上位に踊り出た以上、さすがに下位ふたりに対する罰ゲームを俺が受けるのは気まずい。
(というかそれに関しては、ごねれば回避できそうな気はするけど)
そのうえゴローとの賭け。
……まあ、俺にはデメリットがないから、べつにいいっちゃいいんだけど。
それでもゴローは、気安い笑みを浮かべながらも、どこか真剣な瞳で並ぶピンの方を睨んでいる。
まあ、どっちにしても、やることは変わらない。
とりあえず、できるかぎり点を稼ぐこと。それが俺にできることだ。
そんなことを考えているうちに、ゴローが一球目を投げた。
ストライクでも出されたらどうしようかと思ったが、球は大きな弧をえがいて、端の方のピンを四本ほど掠めただけで終わった。
ここに来て突然調子を崩したゴローに、高森と佐伯が期待の声をあげ、反対に部長は頭を抱えたが、自分も不調だからかさすがに何も言わなかった。
「……まったく。賭けなんてするから調子崩すんだよ」
「見てろ。ここからだ」
さて。とりあえずは、俺も投げるしかない。
チームを劣勢から持ち上げるために、少しでもスコアを稼いでおきたいところだし、それを考えるとスペア以上は狙いたい。
……いや。とりあえず、余計なことは忘れてしまおう。
いざとなったら賭けなんて無視してやる。
と、そんなことを思って投げた球は、中央付近へとまっすぐに向かっていき、七本ほどピンを倒した。
そして俺たちは、それぞれにどうにかスペアを出した。
最終フレームの三球目。
なんとなく、じっと固まっていたらいつまでも投げられないような気がして、俺はすぐにボールを転がした。
それは今日いちばんじゃないかと思うくらいのゆっくりとしたスピードで、ゆるやかな弧を描きながらピンへと向かった。
倒した本数は九本。惜しくもストライクとはならなかった。
俺はゴローの方をちらりと見た。
彼は目を閉じて深呼吸をしている。
俺はいろいろ考えそうになったけど、それを全部やめにして、ただ成り行きを見守ることにした。
ゴローの球は、結果から言ってしまえば、ストライクだった。
俺は、それに少しだけほっとした。
「それで、訊きたいことって?」
ゴローはワンゲームを投げ切った心地よさからか、いつもより爽やかに笑って、
「それは明日な」と言った。
次の投者たちは、なかなか球を投げようとはしなかった。
高森はしばらく、手首を動かしたり指を伸ばしたりして、「ちがうなあ」とか「こうでもない」とかぼやいていた。
るーは、そんな高森の様子をなぜかうかがっていたが、しばらくすると諦めたように球を投げた。
意外にも、一投目で倒したピンは二本だった。
最後の最後で調子を崩してしまったのか、と思ったが、ゴローの例もあるから、まだ分からない。
るーの球が戻ってきても、まだ高森は腕を組んだり首をかしげたりしている。
「マキ、なにをしてるの?」
呆れて佐伯が声をかけると、高森は首だけで振り向いて、
「わたしのルーティンさがしてんの」
と真顔で言った。
そういうもんじゃねえだろ、と思ったけど、俺たちは口を出さないことにした(もうだいぶ疲れてたし)。
うーん、とまた考えこむような素振りを見せたあとに、るーは困ったみたいに高森の方を見て笑った。
それから投げた二球目もまた、さっきとは逆側の角をわずかに掠めただけで終わる。
計四本。疲れが出たのかもしれないし、集中が切れたのかもしれない。
それが終わってから、高森は両手のひらで頬を軽く叩くようにしてから、ボールを構えた。
ストライク。
「……お」
「あは」
と、るーはなぜか、なにかに失敗したみたいに苦笑した。
続く二球目も、頬を叩いてからボールをかまえ、ストライク。
「え」
と部長の声がした。
「見つけた! わたしのルーティン!」
だからそういうもんじゃねえって、というツッコミを入れようか迷っているうちに、頬を叩いた三球目。
ストライク。
「……うそだろ」
「ターキー……」
俺と佐伯は言葉を失った。
振り向いた高森は満面の笑みで、
「大番狂わせ! ジャイアント・キリング!」
と叫んだ。目がきらきらしていた。
「今度こそ勝負がわからなくなってきたね!」と高森はひとりで盛り上がった。
他のメンバーはしばらくただ唖然としていたが、やがて部長と佐伯は立ち上がった。
さて、どういう戦いになるのやら、と思ったら、あっというまに佐伯は球を投げた。
八本。
気負いや緊張とは無縁そうに見えた。消化するみたいに、ただ球を投げた。
二球目はスペア。三投目は八本。
部長の方は、一投目でストライクを出して、調子を取り戻したのかと思いきや、二球目と三球目では数本ずつしか倒さなかった。
それでも佐伯とほぼ同数だ。
「ハイライトはわたしのターキーだね!」
そして出たスコアのチーム合計は、やはり優勢だった部長たちの勝利だった。
「あれ? ターキーってすごい加算されるんじゃないの?」
「普通はね」
不服げに口を尖らせた高森に、部長が説明をした。
「第10フレームだと、倒したピンの数だけが点数になるんだよ」
「……せっかくターキーなのに?」
「うん」
そういうわけで、結局番狂わせは起こらなかった。
個人ごとのスコアの順位は、一位が部長、二位が佐伯、三位がゴロー、四位が高森、五位が俺で、六位がるーだった。
結局は中盤の趨勢通りの結末になった。
意外だったのが、結局は最下位とブービーの入れ替わりだけという結末。
第10フレームの得点差で、俺とるーの順位は僅差で入れ替わったのだ。
反対に高森はターキーで大量点を稼いだが、第10フレームでは他の部員たちもスペア以上を出していたため、追い上げとはならなかった。
「……あは」
るーは頬をかいて、困った顔をした。
俺たちはとりあえずボウリング場を出た。
終わってからは疲れと達成感が先に来て、賭けのことは誰も言い出さなかった。
外に出ると、あたりは暗くなっていた。いつのまにか地面は濡れている。どうやら、雨が降って、もうあがったらしかった。
「……催涙雨だっけ? いつのまにか降って止んだみたいだな」
「――え?」
うしろを歩くるーに声をかけると、彼女は何か物思いにふけっていたかのように、ぼんやりとした反応だった。
「……どうかした? もしかして、体調悪い?」
だから急に調子を崩したのか、と考えかけたとき、
「あ、ちがいます、ちがいます!」とるーはぶんぶん手を振って否定した。
「……なにか考えごと?」
「あ、いえ……えっと。なんでもないです」
それからるーは、何かを待つみたいに他の部員たちを見回したけど、みんなボウリングの内容の反省以外には何も言わない。
気になることでもあったんだろうか。
なんでもない、と言われたから、俺はそれ以上何も聞かなかった。
俺はなんとなく、心地よい虚脱感のなかで、ぼんやりと首を動かして、空を見た。
「ほら、空」
「……はい?」
「星」
「……あ」
「天の川は、見えないな」
「……運が良ければ、見れるらしいですけど。時間帯とかもありますし」
「へえ?」
るーは、またひとりで笑った。
「どうしたの、さっきから変だけど」
「……なんでもないです。わたし、ばかだなあって」
照れたみたいに、ごまかすみたいに笑う。
「どうした、急に」
「だから、なんでもないです。タクミくんには、教えたげません」
「……なんだそりゃ」
それからるーは、ぼんやり空を見た。
駅までの道のり、俺とるーの少し前を、四人がまとまって歩いている。
べつに意識して離れたわけじゃないけど、るーと話すのに歩調を合わせていたら、いつのまにか距離ができていた。
少しの沈黙。
俺は、ゴローのこととか、佐伯のこととか、それから猫耳風カチューシャのこととか、いくつかのことを考えながら歩いた。
不意にるーが、うたうみたいに、呟いた。
「“ではみなさんは、そういうふうに川だと云いわれたり、
乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。”……」
「……」
るーはこっちを見上げて、いたずらっぽく笑う。
どきりとする。
嵯峨野先輩のこと。よだかのこと。それから、嘉山のこと。
思い出しそうになって……考えるのをやめた。
駅についても、みんな、どこかまだ楽しさの余韻に包まれていた。
別れ際、高森にみんなで、「誕生日おめでとう」と言った。
「お祝い金は三千円ずつでいいよ」と高森はうれしそうに笑った。微妙にリアルな額だ。
そうして、みんなと、笑って別れた。
なんとなく、すぐに動く気になれなくて、ホームで立ち止まっていると、るーもまた、おんなじように立ち止まったままだった。
「帰らないの?」
たずねると、るーはまた、困ったみたいに笑う。さっきから、ずっとこんな感じだ。
「……かえります、よ?」
「うん。……ばいばい」
俺は、名残惜しさを振り払うみたいに、わざとそっけない態度で、そう言った。
ひとりになると、きっと寂しくなる。
るーは顔を隠すみたいに俯いて、ちょっとこわばった笑顔で、俺と目を合わせないまま、
「それじゃ、ばいばいです、タクミ、くん」
と、とぎれとぎれの声で、なんとなく何かを言いたげにしたまま、俺に背中を向けた。
俺は切符売り場の前の柱に背中をあずけて、目を閉じて溜め息をついた。
人間は、ひとりでいる方が寂しくない。
一年中予定のない人が、ゴールデンウィークに誰とも会えないからといって突然寂しくなったりはしない。
誰かと比べて虚しくなることはあるかもしれないけど、休日を丸一日ひとりで過ごしたって、彼は別に平気だろうと思う。
けれど、頻繁にいろんな人と顔を合わせている人に、誰とも会えない時期が続けば、それは寂しいことのはずだ。
寂しさが強烈な痛みを伴うのは、祭りの後、パーティーの後、馬鹿騒ぎの後、耳鳴りのしそうな沈黙と静寂が訪れたときだ。
賑やかな花火の後だからこそ線香花火は切ないのだし、きらきらと光るものが通り過ぎていくから夏の終わりは物寂しい。
だったら……最初から祭りに参加しなければ、パーティーにいかなければ、馬鹿騒ぎをしなければ、人は寂しくならないはずだ。
その寂しさは、たかが知れたもので済むはずだ。
だから、避けてたのに。
そうやって、必死で守ってきたのに。
気まぐれにバカをやって、騒いで、それがやっぱり楽しくて。
だからほら、また寂しくなってしまう。
自分がどうしてこうなったかなんて、思い当たる節も、納得のいく説明も、いくつもありすぎて、結局よくわからない。
やっぱり、ばかみたいだ。楽しかったのに、楽しかったから、こんなことを考えてしまう。
そしてこんなふうに、満たされた夜にひとりきりになると、俺はよだかのことを思い出す。
彼女にもこんな夜はあるのだろうか、と。
そんなことばかりを思う。
俺がよだかに、何かをしたわけじゃない。俺がよだかに、何かをできるわけでもない。
それでも、楽しい時間を過ごしたあとに、よだかのことを思い出したとき、俺の心を覆うのは……後ろめたさだ。
楽しむことへの、後ろめたさだ。
――“世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない”
――“幸福は、感受性の麻痺と想像力の欠如と思考の怠慢がもたらす錯覚だ。”
「……」
――“ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない。”
――“ほんとうのさいわいは一体何だろう。”
不意に、
服の裾を引っ張られて、俺は目を開けた。
すぐそばに、るーが立っていた。俯いた彼女の髪が見えた。本当に、それくらい、近くだった。
「……るー?」
「……」
「……どうしたの?」
「……あの。べつに、深い意味はないんですけど」
彼女はそう言って、静かに顔をあげた。
「なに?」
「……えっと」
彼女は、俺の服の裾をつかんだまま、あたりをうかがうみたいに、ちらちらと左右に目を泳がせた。
「どうしたんだよ、いったい」
「だから、その、罰ゲーム、じゃないですか」
「……え?」
「わたしが最下位で……タクミくんがブービーで、そういう賭けだったから」
「……」
「罰ゲームだから。みんなで決めたこと、だから。……しかたない、ですよね?」
そう言って彼女は、許しを得ようとするみたいに俺を見上げて、
俺はどうして、彼女の方がそんな顔をするのか分からなくて、
反対じゃないかって思った。
俺は、こんな、なのに、まるで、
――そんな目で。まるで…・…。
無理にやらなくても、とか。
そういうことを言おうかとも思った。
みんな冗談で言ってただけだろうし、って。
むりやりそんなことをさせるような奴らじゃないし、みんな許してくれる、って。
……期待してたわけじゃないけど、考えなかったわけじゃない。
望んでいたわけでもないけど、それは嫌だからってわけじゃない。
大袈裟だと自分でも思うけど、なんとなく……恐れ多いような気すらするのだ。
「……」
「……えっと」
「……」
「その……」
「……はやくしてください。女の子に恥をかかせるつもりですか」
と、るーはまた顔を隠した。おどけたような声は、でも、少しだけ震えてる気がした。
からだの感覚が、妙に鋭敏になっているのを感じる。
この膠着状態を、どう打ち破ればいいのか、俺にはわからなかった。
嫌だってわけじゃないけど申し訳なくて、
だからといって、嫌がってるとか、そんなふうに思われるのも嫌で、
こんなふうに、あやふやなままにしてしまっていいのか悩んで、
そんなことを考える自分がおかしいのかもしれないと不安になる。
でも、結局は、ほしいものをさしだされれば、受け取ってしまうから、
俺の腕は、吸い寄せられるみたいに、ぎこちなく動いて、
彼女のからだを抱き寄せていた。
からだのからだに、ぎゅっと力が入ったのが分かる。
互いのぎこちなさに、たぶん互いが気付いていた。
なにかが変わってしまうのが、急に怖くなって、
手を離してしまおうかとも思ったけど、それはなんとなくもったいなくて。
だからごまかすみたいに、
「……罰ゲーム、だし」
そう、呟いてみた。
彼女のからだは、俺の声に一瞬だけ竦んで、
それからくすくす笑う声が聞こえた。
「――そう、ですよ。罰ゲームです」
開き直ったみたいな声でそうつぶやくと、彼女は静かに体の力を抜いて、こっちに体重を預けてきた。
背中に腕を回されて、頭を首の根本あたりにこすりつけられる。小さな子供みたいに、眠たげな猫みたいに。
「……罰ゲームなら、しかたないよな」
「……うん」
口には出せないけど。
意識したらまずい。
が、意識しないなんてできるわけもなく。
髪の感触とか、匂いとか、そういうものが……。
くすぐったくて、気持ちいい。
俺は、るーに気づかれないように、少しだけ隙間を開けようとしたけど、
背中には柱があったから、るーが体重を預けてきた分、余計に近付くことになってしまった。
「いま、何秒ですか?」
「え、あ……数えてない」
「だめじゃないですか」
「るーは、数えてなかったの?」
「……数えてなかったです」
照れたみたいに笑う声が甘ったるくて、他のことを考えられなくなる。
ああ、もう。動物だ。
なにやってんだ、俺たちは。
「……じゃあ、数えますね」
お互いに顔をそむけて、視線をどこにやったらいいか困っている。
るーは照れくささをごまかすみたいに、おどけた感じで数を数え始めた。
「いーち、にーい、さーん、しーい」
……なんだよ、これ。
あたりにだって、人がいないわけじゃないのに。
なんだって、こんな公衆の場所で。
そういえば今日は高森の誕生日で。
七夕で。昼には、きっとこんなこと想像できないくらいに憂鬱で。
ああ、でも、そういうことが、なんだか……。
……まあ、いいか。
「……じゅういち、じゅーに」
俺がそんなふうに、理性とよくわからない何かとの戦いに混乱していると、不意に、ひとりの女の子が俺たちの様子をじっと見ていることに気付いた。
うちの制服を着てる。
顔見知りかと思ったけど、違う。
彼女は真剣な表情で、俺とるーの姿を見ている。
そして、制服のポケットから携帯を取り出して、構えた。
「……」
かしゃ、と、少し遠くから音が聞こえた。
数を数えていたるーは、その音に気付かなかったらしい。
「にーじゅう、にーじゅいち、にーじゅに」
「……」
女の子は、画面を真剣な瞳で見たあと、俺と目を合わせてにっこり笑ってから、手のひらをこっちに向けて、「どうぞどうぞ」というポーズをした。
そのまま背中を向けて、人混みの中に去っていった。
「……」
……なんだあれ。と、そう思ったけど、なんだか頭がぼーっとして、うまくものを考えられない。
「……にーじゅーきゅーう、さーんーじゅーうー……う!」
「……」
「……タクミくん?」
「……え?」
「あの、数え終わりましたよ?」
「あ、うん」
「……」
「……」
「……その。えっと」
「どうした?」
「……離さないんですか?」
「あ、うん……」
と、頷いてからも、俺はなぜか、腕を動かせなかった。
いや、もちろん動かせなかったわけじゃなくて、動かしたくなかったわけなんだけど。
「……いや、なんか、動くのめんどくさくて」
「そう、なんですか?」
「……うん」
「えっと。……それなら、しかたない、です、か?」
「……うん」
それから、ちょっとのあいだ、黙ったまま身動きもとらずにいた。
どっちも、文句もつけなかったし、からかったりもしなかった。
よくわからないような。
わかっているような。
「……あの、タクミくん」
不意に、るーは、ちょっとこわばった声をあげた。
「なに?」
「あの、つかぬことをおききしますけど……」
「うん」
「……ひょっとして、わたし、いま、汗くさくないです?」
「……え、どうだろ。べつにくさくはないけど」
ぼーっとした頭のまま、鼻先を耳のあたりに近付けて匂いを嗅ごうとしたら、
「……ぅあう!」
とるーは変な鳴き声をあげて、俺の胸を両腕で押し、強引に距離をとった。
突然の大きな声に、俺の意識もパッと切り替わる。
るーは俺から距離をとって背中を向けると、何回か深呼吸をした。
俺は俺で、柱にもたれたまま、瞼を閉じて額を抑えた。
……やっべえ。
なにやってんだ。
「あ、えっと、ごめん」
さすがに悪い気がして謝ったけれど、
「えっ? なにがですか?」
るーは何に対して謝っているかわからないように戸惑った声をあげた。
「いや、さすがに匂いとか、その……」
「た、タクミくん!」
「は、はい」
「えっと……今日のところは、帰りませんか?」
「あ、うん。だな……」
「……罰ゲーム! も、終わりましたし」
「……うん」
「えっと。また、あした」
「うん。……また明日」
るーは、とたとたと逃げるみたいに去っていった。
残された俺は、とりあえずいろんな事情で身動きをとりたくなかったから、また額を押さえた。
こまったことに、頬が火照っている。
……まいった。ほんとに、かなわない。
つづく
おつ
るーも高森も可愛い
乙
乙です
悶えた
どきどきがとまらないぞどうしてくれる
◇
「タクミくん、朝だよー、起きてるー?」
と、静奈姉がドアの向こうから声をかけてきたときも、俺はぼんやりしたままだった。
昨日の夜は帰ってきてからずっとぼーっとしていた。
何にも手がつかなくて、仕方なくシャワーを浴びて早めに寝たけど、夜中の二時過ぎに一度目を覚ましてから、なかなか寝付けなかった。
そんな調子で起きたり寝たりを繰り返して、結局朝の四時には眠りにつくのを諦めて、ベッドの中でもぞもぞと寝返りを打ち続けていた。
気付けば窓の外から小鳥の鳴き声が聞こえる時間になっていた。
理由は明白だ。
少しとはいえ、眠った分だけ頭が冷静になって、昨日の出来事を思い出すたびに「あー」とか「うー」とか唸っていた。
学校が終わった後にボウリングなんてやって、たぶんテンションがおかしかったのもある。
というか、そうとしか考えられない。
だけどおかしかったのはたぶんあっちもだ。
普段もいろんな考えごとで眠れなくなることはあるけれど、こんなふうにひとつのことばかり考えていたのは初めてだ。
夢にまで出てきた。
「タクミくーん?」
「あ、うん。もう起きてるよ」
眠たかったけど、ベッドを出た。
起き抜けの頭についた寝癖を手のひらでぽんぽん触りながら、自分の手のひらを見る。
それから、手のひらを鼻先に近付けてみる。
このくらいの距離に、るーの首筋があったんだよな、とか、
そんなことを思い出してる自分が気持ち悪くてすぐにやめた。
「……正気か、俺は」
……るーのことばかり考えていても仕方ない。
とりあえず学校にいかなきゃいけない。
昨日はいろんなことがあった。
嘉山のことに……ボウリング。
ゴローの訊きたいことって、そういえばなんなんだろう。
猫耳の罰ゲームって、ホントにやるんだろうか。
それから……と、結局るーのことを考えそうになったので、頭を働かせるのはそこでやめた。
「タクミくん、今日はバイトだっけ?」
「……ああ、夕方から」
「じゃあ、晩ごはんは食べてくるんだよね?」
「だね」
「……タクミくん、何かあった?」
「え……なにかってなに」
「なんかいつもより機嫌良さそうに見えたから」
「……や、そんなことないと思うよ、うん」
「そう、かなあ?」
静奈姉は不思議そうな顔で首を傾げた。
女の人ってなんでこう、妙に鋭いんだろう。俺が分かりやすいだけかもしれないけど。
まあ、なんかって言ったって……べつにあんなこと……。
「……きりがないな」
"あんなこと"でここまで取り乱すんだから、俺も案外単純だ。
「……そういえばさ、タクミくん」
思い出したみたいな口ぶりだったけど、ずっと前から訊くことを決めていたようなはっきりとした調子で、静奈姉はまた口を開く。
「夏休みは、あっちに帰るの?」
「……え?」
「わたしも一応家に帰ろうかと思ってるし、どうするつもりなのか確認しとこうかなって」
「……あ、うん。どうしようかな」
去年は、帰る、と嘘をついてゴローの家に数日泊めてもらった(あとでバレたけど)。
「早めに考えとくよ」
「うん。おばさん、心配してるみたいだよ」
「……心配?」
それは、まあ、そうか。
うっとうしいと思うわけではない。母に対しては、特に思うところもないのだし。
申し訳なく思う気持ちはある。
でも、だから帰るのかと問われると、それとこれとは別だ、と言いたくなる。
結局、俺の身勝手なんだろうけど。
◇
午前中は、勉強にも何にも身が入らなくて、ずっとぼーっとしていた。
クラスメイトたちともほとんど話さなかった。
昼休み頃になるとさすがにこのままではまずいと思い、目をさますために外の風を浴びることにした。
本校舎の屋上は、いくつものグループで賑わっていた。
天気が良いせいだろう。梅雨明けも、近いのかもしれない。
なんとなくぼーっとしながら、買ってきたサンドイッチをひとり、フェンスの傍で食べていると、
ぱしゃ、
と音がした。
驚いて音の方を向くと、携帯を構えた女の子がそこに立っていた。
当然だけど、うちの制服。小柄で華奢な体格。髪型は活発そうなポニーテール。
にっこり笑った表情は、子供みたいに素直そうだ。
そして彼女は、至近距離で俺の食事風景を撮影したかと思うと、後ろ向きに足を動かして、そのまま去っていこうとした。
「待て待て待て」
さすがに慌てて肩を掴んだ。
「は、はい?」
すっごく意外そうな目で見られる。
「なんですか? こさちはちょっと用事があるのですが」
こさち。
一人称? 名前か?
「きみ、だれ」
「これは申し遅れまして」
と彼女は体をこっちに向き直し、
「こさちは小鳥遊こさちです。小鳥が遊ぶと書いてタカナシです」
「へえ。こさちはどう書くの?」
「幸を呼ぶ、で、呼幸であります」
「じゃあ、とりあえずおまえのこと座敷わらしって呼ぶわ」
「呼ばれた幸、でも可」
「どっちでもいいよ」
「あのー、先輩先輩、お気づきでないのかもしれませんが、あだ名の方が長くなってますよ?」
「ツッコミ遅いな、おい」
……なんか、独特のテンポの子だ。
「で、なに」
「なに、とは?」
「えっと、小鳥遊、さん?」
「どうぞ、こさちのことは遠慮なさらず、こさちちゃんとお呼びください」
「なんで俺のこと撮ったわけ?」
「こさっちゃんでもさっちゃんでも構いませんが、こっちゃんだけはなんとなく嫌です」
「聞けよ」
なんだこいつ。
「こさちが先輩のことを撮る理由なんて、決まってるじゃないですか」
「……決まって、るの?」
いや、決まってないと思うけど。すくなくとも俺には分からないし。
「そう。決まってます。こさちが先輩のことを好きだからです」
「……はあ」
沈黙。
「はあ?」
「……あのあの。嘘ですよ? ひょっとして信じました? すみません、冗談だったんです。よもや信じるとは夢にも思わず」
「……きみね」
というか、こいつ。
「……きみ、昨日駅で」
「駅。はて?」
「駅でも、撮ってたよね、俺のこと」
「先輩先輩、それは自意識過剰というものですよ。こさちは先輩ではなく、切符売り場の柱を撮っていたんです」
「いや、その言い訳は苦しいんじゃないか?」
「まさかまさか。わたしが先輩と藤宮さんの抱擁シーンを撮影したという証拠でもあるのですか」
抱擁って。抱擁ってなんだよ。抱擁じゃないだろ。
……抱擁じゃないならなんなんだ、と聞かれたら、答えに困るけど。
「……るーのことは知ってるわけだ」
「あや。先輩、カマをかけましたね!」
「かけてねえよ」
言葉と同時のオーバーリアクションのたびに、ポニーテールがくるくる跳ねる。
暴走特急めいたしゃべりかたに立ち振舞い。うっとうしいようで、不思議と目が離せない。
「……きみ、俺のこと知ってるの?」
「しりませんしりません」と小鳥遊は首を振った。
「……先輩って呼ぶってことは、俺が三年だってことは知ってたんだろ?」
「先輩先輩、その歳でボケたらあかんですよ。まだ二年生ですよね?」
「……なんで知ってんだよ」
「あ、あ。謀られました」
……本当に、なんなんだ、こいつ。
「あ、間違えました。学年章です。学年章でわかりました」
「学年章……どこについてるんだよ」
「何をおっしゃいます先輩。この学校の男子生徒は誰もが襟元に学年章をつけているじゃないですか。ほら先輩の襟元にも……」
「……」
「……ついてないですね」
「けっこう前に失くしてな」
「……あや」
……こういうゲームあったな。証言を揺さぶって矛盾をつきつける奴。
「……こさちは、先輩のことなんて知りません」
「……」
「ごめんなさい、嘘です」
「で、なんで撮ってたの、俺のこと」
「……甘いですね、先輩」
「は?」
「こさちが先輩のことを知っていたからといって、こさちが先輩のことを撮っていたことにはならないのですよ」
「……」
「こさちは、屋上から見える鳥たちを撮っていたのです。あ、あれはうぐいすかな?」
「あのさ……」
「はい?」
「そういうのマジでいいから。ホントに」
「あ、先輩、ちょっと顔怖いです。ごめんなさい。冗談です。かわいい後輩のおちゃめなジョークです」
ジョークで済むか。
「……さすがに隠しきれませんね。たしかにこさちは、先輩のことを知っている、のです」
「はあ」
隠すつもりがあったようには見えなかったが。
「浅月拓海。文芸部所属。二年生」
「うん」
「A型、九月八日生まれの乙女座……」
「……」
「通学手段は地下鉄、親戚のお姉さんの部屋に下宿中、コンビニでバイトをしています。家族構成は、父、母、それからお姉さんがひとり」
「いや、怖いわ。なんだおまえ」
列挙された情報のインパクトに驚いて、気付くのが一瞬遅れた。
「……"お姉さん"?」
「こさち、先輩のことなら、なんでも知っているのです」
本当に、なんだ、こいつ。
……気味が悪い。
「藤宮さんと仲良くしたいなら、スクイとばかり話していてはだめですよ。あれはあれで、いいやつですが、付き合ってたら擦り切れる一方です」
「……」
「こさちとの約束です。それでは、これにて」
ぱしゃり、とまた一枚写真をとって、小鳥遊こさちはとたとた走り去っていった。
つづく
乙
謎な子だな…
乙です
◇[escape]
小鳥遊こさちに言われたからってわけじゃない。
鷹島スクイに会おうと思ったからでもない。
それでも、放課後になるのとほとんど同時に、俺の足は東校舎の屋上に向かっていた。
どうして屋上なのだろう?
よくわからない。
ごく当たり前のように俺の足は屋上に昇って、当たり前のように視界に広がる景色を見下ろす。
こだわりがあるわけでも、思い出があるわけでもない。
どうして俺は……屋上に昇るのだろう。
屋上には、誰もいなかった。
佐伯も、スクイも、他の誰も。
今日は夕方からバイトだし、部室にちょっと顔を出したら、すぐに店に向かわないといけない。
フェンスに近付いて、金網を掴んだ。
見下ろすのは、街だ。人々が暮らし、生き、生まれ、死ぬ街だ。
だから、ここに来るのかもしれない。
街のなかから、街を見ることはできない。
自分の目で自分を見ることができないように。
街を見るには、街から離れなければならない。
自分を見るために、視座を自分からずらさねばならないように。
屋上に昇って「街」を見下ろすとき、俺は「街」のなかに含まれていない。
……それは不健全だという気もする。
なんとなく、スクイがそうしていたように、給水塔のスペースへの梯子を昇った。
深い意味はない。
ただなんとなく、高いところに登りたくなった。
背負っていた鞄から、持ち歩いていたMP3プレイヤーを取り出す。
こんなことをしている暇は、本当はないんだけど。
あんまり良い天気だから、ひなたぼっこだ。
イヤフォンをつけて音楽をかけ、寝転がって日差しを浴びる。
流れだしたのはくるりの「How to go」だった。
快適だ。
世界の終わりみたいだ。
好きな音楽を瞼を閉じて聴きながら、瞼のすり抜けるあたたかい日差しを感じる。
視界はやさしい肌色。
世界は完成されていたのに、それを邪魔する気配があった。
俺は体を起こして、イヤフォンを外す。
静かに体を動かして、下を見下ろした。
ふたりの生徒が立っている。男子と女子。別れ話ならよそでやってくれ、と最初にそう思った。
でも、男子の方に見覚えがあった。
嘉山だ。
「……孝之は、これで本当にいいの?」
女子は、嘉山のことをそう呼んだ。
ふうん、と思った。
それにしても。
……“これで本当にいいの?”って、なんだ?
盗み聞きの罪悪感からイヤフォンを付け直そうかとも思ったが、やっぱり好奇心の方が勝った。
「いいもなにも、俺は何も頼んでないだろ」
「でも、わたしは!」
「余計なお世話だって言ってるんだよ」
……話の筋は、いまいちつかめない。
でも、なんとなく、重要そうな話をしているのは分かる。
「いいか。べつに今のままで問題ないんだよ。余計なことはしないでくれ」
「……じゃあ、孝之はずっとこのまま生きてくつもりなの?」
「ずっとって言ったってな。べつに、そんなに長い期間じゃないだろ。もう一年もない」
「……孝之が、どういうつもりなのか、わたしにはわかんない。悪いのは嵯峨野先輩でしょ? なんで黙って受け入れるの?」
……“嵯峨野”?
「……あのさ、俺はこのままで問題ないって言ってるんだよ。口出しされるいわれはない」
「でも!」
「おまえには関係ないって、そう言ってるんだよ」
「……分かった。でも、ひとつだけ聞かせて」
「なに」
「どうして、名乗り出たの?」
「……事実だから、じゃない?」
「……ごめん。孝之、わたし、本当に、余計なこと、しなければよかったね」
「ほんとにな。おかげで部活に顔出しにくいし。つうか、退部させられたらどうしようかな……」
……こいつら、何を言ってるんだ?
話がさっぱり読めない。
嘉山は、視聴覚室の集まりで見た時と、かなり印象が違う。
それでも、通底した印象はある。
何かを隠している、何かを見せないようにしている。
何かを押し殺している。……そういう顔。
ふたりは、それからしばらく小声で何かを話していた。そのとき、また、校舎の方から足音が近付いてきて、扉が開いた。
嘉山たちは、少しのあいだ黙りこんだ。やってきたのが誰か、たしかめるつもりだったのだろう。
屋上の扉をしばらく見ていた。開いた扉の先は、俺のいる場所からは見えない。
そのとき、嘉山の表情が、なにか、信じられないものを見るみたいに、動いた。
「……え?」
「あ、ごめんなさい……取り込み中でしたか?」
聞き覚えのある声。
というか高森の声だ。
ちょっとまずいかもな、と思い、俺は身を隠した。
「えっと、ほかに誰かいませんでした?」
高森は、嘉山たちにそう訊ねた。案の定、俺を探しに来たらしい。
「いや……いなかったけど」
さっきまでと、嘉山の受け答えは違って聞こえた。
本当に驚いたみたいな態度だ。
何に驚いたんだろう。
高森。……高森の顔、姿、とにかく、ぱっと見て分かる何かだろうけど。
……そういえば、嵯峨野先輩も、高森にこだわっていたな。
特に深くは考えなかったけど、嵯峨野先輩と高森は、ただ“ぶつかった”だけだったらしい。
それなのに、嵯峨野先輩は高森のことを気にして、文芸部の部室までやってきた。
……嘉山と一緒にいる女子は、「嵯峨野先輩が悪い」と言った。
どういうことだ?
なんて、考えるだけ無駄だ。
きっと、俺には関係のない話だろうから。
他人のことに首を突っ込んでも、ろくなことはない。
無神経に、無思慮に、掘り返すことはない。
人のことは人のことだ。
知られたくないことは、誰にでもある。
「……じゃあ、俺たち、いくから」
動揺した感じの響きだった。
嘉山たちは、そのまま屋上を立ち去ってしまったらしい。
さて、どうしたもんかな、と思ったところで、下から物音が近付いてきた。
「やっぱりいた。たっくん、サボり?」
高森は、どうやら俺がここにいると気付いていたらしかった。
「出るに出られなくてな」
「それで盗み聞きしてたの?」
「そんなとこ」
「ゴロちゃんが、たっくんに話があるって言ってたよ」
「あ、うん」
「それから、部長が罰ゲーム実施するからって」
「……猫耳?」
「そ。たっくんだけ逃がすわけにはいかないからね」
「俺、今日バイトだよ」
「サボれば?」
「ってわけにもいかないし、悪いけど、佐伯とふたりで耐え忍んでくれ」
「うーん。まあ、仕方ないか。来られる日につけてくれればいいよ」
「……」
逃げ場はないらしい。
「……な、高森。前に言ってたよな」
「ん? なにを?」
「小説の続きを求める人が本当に欲しがってるのは、“続き”じゃなくて“反復”だって」
「……うん。言ったね」
「だったらどうして、読者は同じ話を読み返さないんだろう?」
「……一回目と二回目じゃ、読むお話は別物だからだよ」
「別物?」
「新鮮さがないから。読者が求めるのは、「同じ雰囲気」だけじゃない。同じくらいの「新鮮さ」も、だよ。
同じお話を何度も読み返しても、失われた新鮮さは戻ってこないから……だから、新しい反復を欲しがるんだ」
「なるほどね」
「……それがどうかしたの?」
「べつに、意味はないよ」
本当に意味はない。ただ思い出しただけだ。
嘉山のことより、俺が考えなければいけないのは、ゴローの質問についてと、それから……るーに対する態度のことか。
平常心、とはいかないが、まあ、なるようにしかならないだろう。
そんなふうに、他のことを考えることで、俺は嘉山のことを頭から追い出した。
つづく
乙です
乙です 前作は何回も読んだけどなぁ…
乙
まあ確かに初見のときはライブ感も加わってたし一番ワクワクがあった気はする
◇
一応部室に顔を出すと、みんなが既にそろっていた。
五月頃はサボりがちだった佐伯も、最近はずっと顔を出している。
「さて、じゃあ罰ゲームの時間ですね」
と、るーが鞄からみっつのカチューシャを取り出した。
佐伯と高森は「うっ」という顔をした。
「つけてあげますね」
にっこり笑って、るーは高森と佐伯のうしろを通り過ぎるようにさっとカチューシャをつけた。
「……屈辱」
「語尾はにゃんですよー?」
「……」
語尾つけるくらいなら黙ってた方がマシ、と言わんばかりに佐伯は俯いた。
「りぴーと・あふたー・みー」
とるーが煽る。
「にゃん」
「……」
「にゃん?」
「……にゃん」
ぴこん、とゴローの手元から音がした。
「林田……?」
「気にすんな。記念だ」
動画を撮っていた。
「撮らないでよ」
「黙れ敗者。立場を思い出したら語尾ににゃんをつけろ」
ぐっ、と佐伯はうめいた。女子相手になかなか手ひどい扱いだが、それでこそゴローという気もする。
それも高森相手じゃなくて、佐伯に対してこの態度っていうのがまた、彼らしい。
「……撮らないで、にゃん?」
佐伯はどこににゃんをつけるのか迷っていた。律儀な奴だ。
それにしてもこの罰ゲーム。
……おもしろいのか? すごいシュールだ。
るーはにこにこ顔で猫耳つきの先輩ふたりを眺めてご機嫌な様子だ。
「ていうか! にゃんはいらなかったと思うの! やっぱり!」
と、抗議したのは涙目の高森だ。
「にゃんはやめよう! にゃんはやめようよ! 猫耳は甘んじて受け入れるから!」
「あはは、そういうのよそうよ、蒔絵ちゃん」
笑顔でたしなめたのは、奥の席でにやにやしながら様子をうかがっていた部長だった。
「もし勝ってたら、蒔絵ちゃん、同じことを言ってたと思う……?」
ぐ、と、高森もまたうめく。
「……にゃん」
ホント律儀な奴らだ。俺はちょっと感心した。
「なんでこんなことになったの……誰が言い出したの、罰ゲームなんて……」
「高森だよ」
「……え?」
「高森だよ。罰ゲームって言い出したのは」
「……にゃん」
と彼女は言った。俺はちょっと笑った。
「……浅月、なに他人事みたいな顔してるの?」
「佐伯、語尾」
「……してる、にゃん? え、語尾ってこれでいいの?」
ホント律儀な奴らだ。
「俺はほら、これからバイトだから」
「……逃がさないにゃん」
と高森は言った。
「はは、高森、それ最高。それじゃ」
俺は鞄を背負って逃げ出そうとしたが、肩をつかまれて足を踏み出せなかった。
掴んだのは佐伯だ。
「……浅月」
すごい迫力。
「はい」
「つけろ。にゃん」
すごい圧力。
こええよ。
「るーちゃん、早く」
と高森がるーを呼んだ。呼ばれた方はきょとんとしていた。
「は、はい?」
「たっくんにも、早く猫耳を! この男に猫耳を! にゃん!」
ほとんどやけになったみたいに、高森と佐伯はにゃんにゃん言い始めた。
部長とゴローが腹を抱えて笑っていた。
「あ、ええと……」
「るーちゃん! なにやってんの!!」
「は、はい!」
るーは両手で猫耳風カチューシャを掴んでから、俺の方を見た。
妙な態度だ、と思った。
ひょっとして……昨日のことを意識してるのか?
まさか。
でも、そういえば、さっきから視線がずっと合わないような気がする。
ごくり、と喉を鳴らしてから、るーは立ち上がった。佐伯が俺の右腕を掴み、高森は左側にまわって俺をとらえた。
「さあ、かがむのだ、たっくん。にゃん」
雑すぎるだろ。語尾が。
「浅月だけ逃げようったって、そうは問屋がおろさない、にゃん」
エクリチュールが人格を規定するって本当なんだろうか。佐伯の口調がいつもより流暢だ。
つーか、やっぱ楽しいかもしれない。
佐伯がにゃんにゃん言ってるってだけでおもしろい。
思わず吹き出すと、
「笑うな!」
と佐伯が怒って、それをきいたゴローが、
「どうせなら"笑うにゃ"って言えよ」
と煽って、そんな言葉に高森が、
「ふざけんにゃ!」
と騒いだ。こいつら、ホントノリいいな。
そんなやりとりをしている最中にも、るーの手は俺の頭に近付いてきた。
目が合う。
と、るーの瞳は泳いだ。
「……るーちゃん?」
「――そういえば」
と、口を開いたのは部長だった。
「ビリとブービーにも、罰ゲームがあったんだったよね?」
「……あ」
「あ、それは……」
「そういえばそうでしたにゃ」と高森は開き直って猫語を使いこなしていた。
「こっちの罰ゲームだけっていうのも、ずるいよね。にゃん」
反対に佐伯は語尾を言葉になじませるのを諦めはじめていた。もうちょっと粘れ。
「や、あの……」
「ふたりとも、抱き合っとく?」
「……」
るーと目が合う。
『やりました』とは、言いづらい。
なんでやったの、と言われたら答えに窮するし。
となると逃げ場はないわけで。
またやるしかない、のか?
というか。
どうなんだろう?
もう一度機会があるなら、と、俺はもしかして、それを望んではいないか?
とはいえ。
みんなの見ているところで?
いや、見ていないところならいいのか?
「……分かりました」
とるーは言った。
「おい、マジか」
「……罰ゲームですもん、ね?」
昨日みたいなことを、るーは言う。
「ていうか、おまえら、前にも一回抱き合ってたじゃん。屋上で」
どこかしらけた調子で呟くゴローに、
「抱き合ってねえよ」
と訂正しておく。
「じゃあ、あれなに」
「あれは……るーが抱きついてきたんだろ」
「だ、抱きついてません!」
「じゃあなんだったにゃん?」
と、あのとき覗き見していた自分を棚に上げて、高森は問いただす。
「あれは……その、タックルです」
「タックルて」
まあたしかにそのくらいの勢いだったけれども。
「とにかく、抱きついてません」
「……いや、どっちでもいいけどさ」
会話が途切れると、みんなが俺とるーに注目した。
「ホントにやるの? この場で?」というお互いの視線。
「ええい、ままよ!」
と一言叫んだあと、るーはぽすんと俺に体をぶつけてきた。
体重をのせるみたいに軽く傾けて。
ふわっと浮かんだ髪の匂いが鼻先をくすぐった瞬間、俺は、
(『ええい、ままよ』って……)
などとどうでもいいことを考えていた。
「……」
沈黙。
と、感触。
「……」
互いが互いをうかがうようにして、視線を向け合う。目が合って、くすぐったい間が降ってくる。
るーは思い出したみたいに両腕をごそごそと動かすと、背伸びをして、腕を伸ばして、俺の頭に例のカチューシャをつけた。
こっちを見上げて、ちょっとからかうみたいに笑って、
「……にゃー」
と、ちいさく、ささやく。
「……」
……だからこいつは。
「……ていうか、ホントにやるんだね」
と、部長がちょっと驚いた感じで言って、俺とるーは慌てて周囲を見回した。
みんな、ちょっと戸惑った感じで、俺たちを見ていた。
「てっきり、どっちかが嫌がるとか、拒否するかと思ってたにゃん」
「だよね。にゃん」
にゃんにゃんうるせえ。
「あ、えっ?」
あわてて、るーは俺から離れた。
「えっ、と。冗談でした……?」
「うん」
部長はあっさり頷いた。
なんとなく痛々しい沈黙のなか、るーは数秒うつむいたかと思うと、俺の頭から猫耳を奪って自分につけた。
「どうした……?」
「……えっと。特に意味はないです」
意味はないらしかった。
「ていうか、気になってたんだけど、ふたりは付き合ってるにゃん?」
と、高森は言う。まだ続けるのか、それ。
「付き合ってない」
「付き合ってないです」
俺とるーは揃って否定した。
「……そうにゃの?」
……もう猫語に突っ込むのはやめよう。
「あ、俺、そろそろ帰るわ」
べつに時間が切羽詰まったってわけじゃないけど、バイトに行かなきゃいけないのは本当だったから、俺はぬけ出すことにした。
さいわい罰ゲームは回避できたっぽい流れだし。
「あ、ごめん。わたしも今日は帰らなきゃ」
と、佐伯は猫耳をつけたまま立ち上がった。
「ちーちゃん、何か用事?」
「うん。ちょっと、いろいろ」
「ふうん。またね」
みんな一通り満足したのか、罰ゲームのことを言い出して引き止める奴はいなかった。
俺はちょっと迷ってから、佐伯が荷物を準備するのを待って、一緒に部室を出た。
「それじゃあ、また明日」
みんなにそう声をかけると、返事をしてくれたのは部長だけだった。
「じゃあねー」
他のみんなは、何かを訝しむみたいに、俺の方を見ていた。
「浅月は……」
廊下に出てすぐ、佐伯は口を開いた。
「なに?」
「藤宮さんのこと、どう思うの?」
「なんだよ。ひやかすつもり?」
「そういうんじゃないけど。なんとなく、かわいそうだなって思うだけ」
「……」
「わたしがいうことじゃ、ないかもしれないけど」
「うん」
「浅月は、何か意味があって、そういう態度なの?
それともただの、いくじなしなの?」
「……どっちかっていうと、後者だと思うけどな」
「やっぱり似てる」
「誰が、誰に?」
佐伯は教えてくれなかった。
「佐伯はさ、自分が幸せになっていい人間なのかって、考えたことはない?」
「……」
「誰かを差し置いて、自分が幸福になってもいいのかって。
幸福になることで、何かを忘れてしまうんじゃないかって、思うことは、ない?」
「あるよ」
佐伯は踊り場で立ち止まった。
「でも、それは、同情?」
窓から差し込む日差しを背負って、彼女は俺を見下ろした。
逆光だ。彼女の表情は、よく見えない。
「幸せになれない誰かが“かわいそう”だから、浅月も幸せにならないの?
それって、哀れみのつもり? ずいぶん、傲慢なんだね」
なにかが、逆鱗に触れたみたいに、佐伯は怒りのこもった声をあげた。
「……バカにしないでよ。決めつけないでよ。“かわいそう”なんて、“不幸”だなんて、決めつけないでよ」
……。
「誰も、わたしが不幸だから、あなたも不幸でいてください、なんて、言ったりしない。
“あなたがかわいそうなので、わたしもかわいそうでいます”なんて、そんなの……馬鹿にしてるようにしか聞こえないよ」
「……」
「勝手に、誰かの苦しみまで引き受けた気にならないでよ。その人の苦しみは、その人のものだよ。あんたのものじゃない」
……正論だ。佐伯は、ぐうの音もでないほど、正しい。
でも、こっちだって、理屈で抱いているわけじゃない気持ちなのだ。
持て余している感情なのだ。
どうだろう?
同情と言われると痛い。
だからよだかを突き放せないのか、と言われれば、俺は頷くだろう。
好意じゃない。
だから、手をつなぐのは平気でも、それをるーに見られそうになれば、離してしまう。
欺瞞だ。中途半端なやさしさはないほうがマシだと、そう言っていたのも、そういえば佐伯だった。
でも、じゃあ。
よだかのことなんか忘れてしまえばいいのか? 自分のことだけに集中して、自分の幸せを追求して。
そうして、この側頭部のあたりでぐるぐると熱を持つ憂鬱のことも忘れてしまえばいいのか。
忘れてしまえるのか。
よくわからない。
「……とりあえず、さ」
とりあえず。俺は佐伯に声をかける。
「それ、はずしたほういいよ」
頭をさす。佐伯は自分の頭の上に手をやって、つけっぱなしのカチューシャに気付いて赤面した。
俺が自分からよだかにラインを送ったのは、その日のバイトあがりのことだ。
『夏休み、こっちに遊びに来ないか』
後先は考えなかった。その日のうちに、返信はなかった。
つづく
乙です
乙
◇
と言ったって、べつによだかにラインを送ったのは、ただの思いつきってわけじゃない。
俺は俺なりにいろいろと考えているのだ、だいたいろくなことじゃないかもしれないけど。
「なんかむずかしい顔してるね?」
納品されてきた商品を片付け終わったあと、レジで一息ついていたら、一緒のシフトに入っていた大学生の女の人に話しかけられた。
夕方からのシフトは夜勤との入れ替わりまでが基本で、ピークタイムと荷物の片付けを乗り切るために、高校生がフォローとして入っている。
夕方のピークが過ぎて荷物を片付け終えれば、あとはレジに立ってぼーっとするか、暇つぶしにカゴでも磨くか棚掃除でもするかしか仕事もない。
「考えごとです」
「仕事中だよー?」
もう既に二十分近く、ほとんど客が来ていない。
立地的にそこまで流行っている店ではないらしく、夜の七時半を過ぎた頃から客は一気に少なくなる。
この時間、シフトに入っているもうひとりの先輩は飲料系の商品の整理で裏に入っている。
やることもないので、残った二人は、いつも何かで暇を潰しているわけだ。
「すみません」
「うん。駄目だよ。仕事に集中しないと」
そんなふうに俺を注意するこの先輩は、雑誌コーナーから持ってきた「人を思い通りに動かす心理学」みたいなムックをふむふむ言いながら読んでいた。
「浅月ってモテるでしょ」
雑誌から目をあげずに、先輩は言った。
「は?」
「顔もまあ、そこそこだし、同年代に比べて落ち着いてるってよく言われない?
仕事もテキパキしてるし、愛想はちょっとないけど、感じ悪いってほどでもないし、客受けもけっこういいし」
「……いや、どこかにモテそうな要素あります? それ」
「土日に入ってる佐藤ちゃんも、浅月のこと褒めてたよ。仕事できるし話しやすいから一緒のシフトだとほっとするって」
「……いや、そんなことないとおもいますけど」
「そうやって、照れて謙遜しちゃうところもまた、かわいいんだよねー」
「……はあ。そうですか」
「どう?」
「なにがですか?」
「今の。再否定の話術っていうらしい。相手が謙遜した内容を更に否定すんだって」
「まず、前提になる褒め言葉の流れがうさんくさくて戸惑いしかありませんでした」
「……わたしにメンタリストは無理かあ」
先輩はバッと本を閉じた。
「あ、佐藤ちゃんが褒めてたのはホント。よかったね」
「それ、俺聞いちゃってよかったんですか?」
「ま、佐藤ちゃん彼氏いるけどな」
「そうですか」
「いまちょっと残念だって思った?」
「いや、べつに」
「……あ、そういや、別れたっつってたかな」
「……」
「……いまちょっと期待した?」
「いや」
次顔を合わせたとき気まずくなるので、あんまり他人を絡めたいじりかたはしてほしくないな、と思った。
「そういえば、廃棄見たっけ?」
「さっきやっときましたよ」
「おー、さすが」
「和菓子、見逃しありました」
「何時の奴?」
「朝九時で下げる奴ですね」
「うわ。朝からずっとみんなで見逃してたってこと?」
「けっこう多いですよ。日付下げだと思って、みんな見てないんだと思います」
「……うーん。あとでノート書いとく」
「何がまずいってこれ、普通にレジ通っちゃうんですよね……」
「ね。食パンとかもそうだけど、気付かずに売っちゃったらまずいよね」
「まあ、お客さんも気付かずに食べてるかもしれないですけどね」
「あはは。気付かずに美味しくいただいてくれたら助かるよねー。わたしらも廃棄食べてるけど平気だし」
そんなことを話していたら、電話が鳴る。
「……クレームだったりして」
「……だったら嫌ですね」
「浅月よろしく」
「……いやまあ、いいんですけどね」
先輩はいそがしそうな顔をしてまた本に視線を落とした。
バックルームで電話の応対をしてからもういちど売り場にでると、先輩は眠そうに瞼をこすっていた。
「電話なんだった?」
「予約でした。来週の土曜、朝六時におにぎり各種数個ずつとお茶とスポーツドリンク」
「なんかの部活の大会でもあるのかなー」
「当日は急ぎらしくて、レジ通して処理を終わらせて、代金払うだけにしててほしいそうです」
「領収書は?」
「準備しててください、って言ってました」
「ん。あとで一緒にノート書いとく」
「お願いします」
「それにしても……来ないねえ、お客さん」
「ですね」
「あ、そういえばあの人来たっけ?」
「……どの人ですか?」
「えっと……ホープライト二個のおじさん」
「あー、今日はまだだと思いますけど」
「あの人こないだポイントカード置いてったんだよね。わたしいないときに来たら渡してもらえる?」
「今日、来ますかね?」
「どうかな。まあ、次来たときでいいよ」
「了解です」
「浅月は真面目だねえ」
「……はい?」
「真面目だから、ついつい仕事を任せちゃうよね……佐藤ちゃん、お客さん覚えてないもんなあ。電話避けるし」
「いや、まあ……あの子はたまにしか平日入らないですし、お客さん覚えてないのは仕方ないかと」
「……あの子こないだ、フライヤー揚げるときに時間押し間違えて、フランク真っ黒にしちゃってたよ」
「……」
「廃棄かけて、まあ捨てるのもなんだからってみんなで試しに食べたんだけど……けっこう美味しかった」
「食ったんですか」
「なんか普通よりパリッとして歯ごたえあった。あんまんも、揚げて食べるとおいしいって、オーナーが言ってたんだよなあ。やってみたいなあ」
「今は中華まんないですもんね」
「でも絶対体に悪いよなあ……」
「……いや、コンビニの商品なんてもともと半分以上体に悪いと思いますよ」
「よし。冬になったらやろうね」
「俺もですか?」
「わたしおごるから大丈夫」
「おごってもらえるなら、いただきますけど」
「うい奴うい奴」
こんな適当なノリだけど、真面目な相談をすれば真面目に返事をくれる。
とはいえ、その『真面目さ』というのが、ちょっと偏っている。
『形而上の悩みなんて、娯楽よ』
と、彼女は以前、大真面目な顔で言っていたことがある。
『思弁的に悩んでなきゃ人間じゃないみたいな顔してる奴がときどきいるけど、わたしに言わせりゃあんなの、ただの暇人だよ。
虎に追いかけられてる最中に記号学や言語論について思いを巡らせることができる奴がいたら、褒めてやる。
考えたり悩んだりするのは、それが間接的であれ直接的であれ、そいつにとって快楽だから。そうじゃなきゃ、防衛か逃避だから』
眠そうな顔で、そんなことを言っていたっけ。
『生きる意味とは何か? なんて、そんなに難しい問いじゃない。大仰な意味なんて基本的にないよ。
動物には自己保存の欲求があって、遺伝子を残すようなことをすると気持ちよくなるように体ができてる。
多くの女が子供を見ると庇護欲をおぼえるのも、多くの男が若い女を魅力的だと思うのもそう。脳味噌が、そうできてるの』
『人を殺しちゃいけないのは、自己保存や自己快楽のために他人を際限なく犠牲にしてもいいと認めたら、
他人の生存や快楽のために自分や自分の近しい人が犠牲になるかもしれないから。
だから、他人の自由を制限するかわりに、自分の自由も制限されてる。社会的な契約というか、一種の合意』
この先輩はけっこう語りたがりで、機嫌がいいときは相槌を打っているだけでぺらぺらと喋ってくれる。
快刀乱麻を断つような彼女の口ぶりが俺は嫌いではない。
あまりの割り切りのよさに、ときどき足元がおぼつかなくなるような恐怖すら覚えるけど。
だから、よだかのことを、彼女には相談する気にはなれなかった。
ばからしいって一蹴されそうで。
「さーて、暇だねえ。わたし今のうちにトイレ掃除でもしてこよっかなあ」
と言って、先輩は売り場にムックを戻してから、本当に掃除をしにいってしまった。
残された俺は、もうとっくに補充し終わった箸やスプーンなどの資材をチェックする。
減っている煙草もない。コーヒーマシンの豆も足りてる。
仕方ないので売り場の商品の陳列を直している(お客さんが来てない以上、売れてないから直すところもないわけだが)。
と、ひさしぶりにお客さんがやってきた。
「や、どもども」
と手をあげて入ってきたのは小鳥遊だった。
「……きみ」
「あれ、こさちのこと、お忘れですか? 健忘ですか?」
「きみさ、ストーカーなの?」
「譫妄ですか?」
……譫妄って、そういうもんじゃないと思うけど。
「こさちを迷惑防止条例違反者扱いしないでください。健全に買い物に来たんです」
「はあ。いいけど」
「アマゾンギフト券一万円分ください」
「……大きく出るな。そっちに置いてあるよ」
「こさちのなかで、電子書籍がアツいです。いつでもどこでもスマホで読めるのがグー」
「はあ」
「文字サイズもいじれますし、語義をすぐに調べられますし、何より本棚に並べたくない本を躊躇なく買えます。
目が疲れるとかいう人もいますが、電子媒体に慣れ親しんで育ったイマドキ世代としては全然平気です」
「そうかい」
「ちょっとえっちっぽい漫画とか、一巻がおためしで一円とかになってると、つい買っちゃいそうになるんですよねえ……。
ほっとくと次々そういう漫画おすすめされるようになって困ったりしますけど」
俺はどう返事をすればいいんだ。
「でも読みたい本が電子化されてないので、今回は普通に頼みます」
なんだったんだよ、今の話。
相変わらずツッコミが追いつかない奴だ。
「……本とか、読むんだ?」
「好きな作家は森絵都さんです。最近、平置きされてる本の帯に『衝撃のラスト。あなたは必ず二回読む』系のコピーがあるとげんなりします」
「聞いてねえよ」
「そういや関係ないですけど、『ほしいものリスト』のほかに『ちょっと気になるリスト』がほしいなって思いません?」
「知らねえよ。ふたつ作って片方それに使えばいいだろ」
「……せんぱい、あったまいいー」
……感心されてしまった。
「今回は何買うの?」
「……知ってどうするんです?」
いや、知ってもどうすることもできない情報だと思うのだが。
「言いたくないならいいけど」
「『終わりの感覚』です」
「あ……ジュリアン……ジュリアン・バーンズ? だっけ?」
「はい、たしかそんな名前の。フランスかどっかの」
「イギリスな」
「なんとか賞、とったらしいです」
「ブッカー賞な」
「先輩、詳しいですね」
「……いや、有名だと思う、けど……」
まあ、興味のない人は知らないかもしれない。
ブッカー賞レベルの本は日本の本屋でも平置きされてるし、受賞作品はあたりまえみたいに帯にそう書いてある。
そういうのを何度か経験すれば、ブッカー賞がイギリスの文学賞だってことくらいは、いつのまにか覚えているわけで。
つまり、ジャンル関係なく読み散らすタイプなら、そのうち覚える程度の知識だ。
しかも、知識として知っているだけで、俺はブッカー賞受賞作なんてほとんど知らないし、読んでもいない。
名前は覚えていたけど、「ジュリアン・バーンズ」の本だって、その一冊しか読んでない。
翻訳されているのかどうかすら知らない。
「読んだんですか?」
「読んだよ」
「おもしろかったです?」
「うん」
感想を言おうかと思ったけどやめておいた。
そしたら会話はそこで途切れた。
ギフト券を買ったあとも、しばらく彼女は雑誌コーナーで立ち読みをしていた。
日用品の棚の埃を落としていると、自然と溜め息が出た。
「どうしたんです?」
と、小鳥遊は訊ねてきた。
「いや、幸せってなんだろうなーって」
「はは、ウケる」
俺が適当に返事をすると、彼女はさめた感じで笑った。
「……ウケますか」
「ウケます。答え、出てるじゃないですか」
「ん?」
「『幸せとは何か?』という問いが成立するということは、発問者は『幸せ』の見当がついてます」
「……え、どういうこと?」
「たとえば、『やかんとは何か?』という問いを立てるためには、『やかん』について朧気にでも知っている必要があります。
『やかん』を知らない人が『やかんとは何か?』という問いを立てるのは不可能です。
『これは何なのか?』『やかんという言葉がさすものは何か?』という問いにしかならないのです。『幸せとは何か?』という問いを立てられるのは、
幸せについて知っている人だけです」
「幸せという言葉がさすものは何か?」
「幸せは、状況ではなく、実感です。悲しいとか、嬉しいとかと、違うようで、やっぱそういうものなのです。
たとえば『悲しみという言葉がさすものは何か?』とか言っている人がいたら、こさちはやっぱりウケます。
普通に生きてれば当たり前に感じる、どこにでもあるものです。
本気で言ってたら、通院を薦めます。病気か何かですよ。神経物質の伝達異常とかの」
思いの外毒舌、なのか、それとも本気でそう思っているのか。
「幸せは幸せです。楽しいとか悲しいとかと同じ、感情……そう呼ぶのが不的確なら、『心境』です。
思うに、『幸せとは何か?』なんて言いたくなっちゃう人は、幸せというものに幻想を抱きすぎです。
幸せにだって賞味期限がありますし、劣化もしますし、ほかの気持ちとごちゃまぜになったりします。
百パーセントの幸福も、永遠の幸福もないです。ほしかったらどこかに入信することを薦めます」
"本当の悲しみ"とか、"本当の喜び"とか、"本当の幸せ"とかも、幻想です。
"本当じゃない悲しみ"はつまり偽物で、偽物なら、それは"悲しみ"ではないです。
だったら、"本当の悲しみ"という言葉が意味するところは、"悲しみ"と一緒です。
ちょっとそれらしいだけの、言葉遊びなんです。
みんなが当たり前に感じた悲しみ、喜び、寂しさ、幸せ、が、"本当の"気持ちです。
「……小鳥遊は」
「こさち」
「こさちはさ」
「はい?」
「誰かに幸せになってほしいって思ったこと、ある?」
「……うーん」
どうかなあ、という顔を、彼女はした。
ちょっとだけ、ほっとした。ためらわずに頷かれたらどうしようかと思った。
「どうでしょうね。幸せになってほしい、か。そういう言われ方をすると、こさちの話、間違っている気がしますね」
「そう?」
「だって、心境としての“幸せ”と、“幸せになってほしい”という言葉のなかの“幸せ”は、ちょっと違う気がします」
たしかに。
「そういう言い方をするとたしかに、幸せってなんだろう、と、いう気持ちになりますね」
「……」
「むずかしいこと、よくわからないです」
「もうひとつ質問」
「はい?」
「たとえば、誰かが助けを必要としてるとするだろ?」
「はあ」
「その人はすごく困ってて、途方に暮れてるんだ。助けを、必要としている、と、思う」
「はあ。前提が揺らいでますね」
「たとえば、きみは、その人のことを助けようとする。でも、全部は手伝えないかもしれない。
途中までしか、手伝ってやれないかもしれない。それでも、手伝ってやるべきだと思う?」
「……はい?」
「……ん?」
「いや、“べき”か“べきじゃないか”で言ったら、まあ、“べき”なんじゃないんですか?
“したい”“したくない”で訊かれたら、こさちは基本的にごめんこうむりますが」
「……でも、途中までだよ。無責任じゃないか? 中途半端なやさしさって」
「えっと……それ、よくわかんないです。うまく説明できるかわかりませんが、いいですか?」
こさちは今の今まで持ちっぱなしだった雑誌をようやく棚に戻した。
「道端で、ものを落として困っているおばあさんがいるとします。たとえば……うーん、まあ、石? 石でもいいですか?」
「あ、うん」
「じゃ、石です。なにかの。で、こさちが、散らかった石を一緒に拾ってあげるとします。
そしたらおばあさんが、『お嬢さんありがとう』って言うわけですよ。
『実はこの石をあっちの通りのお店まで運ばなきゃいけないんだけど、手伝ってくれないかい?』とおばあさんが言ったとします。
こさち、用事があったり、ちょっとめんどくさいなあって思ったら、ごめんなさいって言います」
それを無責任と呼びますか?
こさちは、当たり前のことを言うみたいに、俺の目を見た。
「こさちは、それを無責任とは呼ばないと思います。それは親切です。
もちろん、大変そうだったり、時間に余裕があったり、機嫌がよかったりしたら手伝いますけど、
そうできないときに手伝えないからって、途中までの親切が不親切になったりしないと、こさち、思います。
もしそう感じるとしたら、それは『こさちの問題』じゃなくて、『おばあさんの問題』なのです」
「……」
佐伯も、そういえば言っていた。俺はどうも、聞き逃していたらしいが、たぶんそういうことなのだ。
――強くなってもらう、か、線を引いてあげる、か、すべてを捧げる、か。
『線を引く』。
それが正しいのかどうかは分からない。
立ち上がったあとも一緒に歩き続けられるわけじゃないかもしれない。
それはひょっとしたら、誰かにとってはつらいことかもしれない。
それでも、転んだ奴に手を貸すくらいのことは、べつに悪いこととは言えない。
べつにその意見を、真っ向から受け入れる気になったわけでもない。
でも俺は、やってみよう、と思った。
それはべつに、やさしさと呼ばれなくてもかまわない。
転んだ奴に手を差し伸べないこと、落し物を拾わないこと。
それは……据わりが悪くて落ち着かない。
それだけだ。
……そう思った後も、それでもさんざん迷って。
結局バイトが終わったあと、勢いだけでよだかにラインを送ったのだ。
頭のなかで、いろいろあったのだ。それもまあ、先輩に言わせれば、防衛か逃避らしい。
逃避って説が有力だ、と俺は自嘲気味に思った。
つづく
乙
おっつん
乙です
◇
よだかからの返信は、翌週になっても来なかった。
月曜日の昼休みに、俺はゴローに呼び出されて、文芸部室にやってきていた。
放課後にならないと、他には誰もいない。たまに女子たちが昼食をとっている日もあるらしいが、この日はそうではなかった。
「例の質問、忘れかけてたもんでな」
ゴローはそう言った。
「……で、質問って?」
「ああ。おまえ、煙草吸うか?」
「……煙草?」
「ああ」
「いや、吸わないけど」
「……そっか。ならいいんだ」
ゴローは、少しほっとしたような顔をしていた。
「……訊きたいことって、それ?」
「東校舎の屋上で、煙草を吸ってる奴がいるって、噂になってる」
ゴローは俺の顔を見ずに、パイプ椅子に腰掛けて、そう呟いた。
「あそこに一番出入りしてるのは、俺が知るかぎり、おまえだ」
「……なるほど」
それで、俺、ということになったのか。
「……煙草くらい、隠れて吸ってる奴、いくらでもいそうだけどな」
「べつに他の奴が吸う分には知ったことじゃないよ。部員が吸ってて面倒になったら嫌だって、そう思っただけだ」
……なるほど。
「ところで、誰なんだろうな。学校で煙草を吸うアホは」
「さあな。心当たりもないな」
「……それらしい奴、見かけたりはしなかったのか?」
「いや、知らない」
「そっか。まあ、所詮噂だしな。で、本題」
「……今のが質問じゃないのか」
「いや、質問はさっきの。こっちはまあ、ついでだな。なあ、おまえ、うちの部の三年生って、誰がいるか知ってるか?」
「……誰、って、部長だけだろ?」
ゴローは、そこで一拍置いた。
「これ、見てくれ」
ゴローが差し出してきたのは、何年か前の、うちの部誌だった。
「棚においてあったバックナンバーで見つけたんだ。二年前。俺たちが入学する前の部誌だな」
「……二年前」
ペラペラとめくってみると、たしかに二年前のものらしい。
『由良 めぐみ 一年』
部長が一年生のときのもの、ということになる。
「……一年生、二人」
「名前」
『及川 忠臣 一年』
「……及川、って、及川さん?」
「うん。たぶん」
「あの人、一年のときはこっちの部にいたのか」
「やっぱり、知らなかったか」
「おまえは知ってたの?」
「いや。おまえ、部長から何か聞いてないかと思って」
「部長から? 何を?」
「いや、たまたま見かけたから、どうしてあっちに移ったのか知りたいと思って。ただの野次馬根性だよ」
「……ふうん?」
「ひょっとしたら、及川さんがこっちに絡んできたのって、部長と何かあったからなのかな」
それに関しては、心当たりはないでもなかったけど、俺だって本人たちに直接聞いたわけじゃない。
他人が噂しているのを聞いただけだ。事実と呼ぶには、心もとない。
だから俺は、それについては何も言わなかった。
そういえば。
部誌をつくるとき、部長が引用すると言っていたエピグラフ。
"Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -
und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
ICH BIN ich und DU BIST du -
und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schon,
wenn nicht, dann ist auch das gut so."
ゲシュタルトの祈り。
部長はあれを、『及川さん』や『読む人』に宛てたエピグラフだと、言っていたっけ。
結局使うことはなかったけど。
「まあ、あんまりほかの人の人間関係に首突っ込むこともないだろ」
俺がそう言うと、ゴローははっきりと頷いた。
「たしかに」
部長のことは、部長のことだ。
「で、その部誌、どうだったの?」
「……それがさ、ちょっと読んでみて、びっくりしたんだよ」
「なにが?」
「読んでみれば分かる。部長の」
俺は目次から部長の書いたものの載っているページを開いた。
「……ん?」
「な。びっくりだろ」
「これ、部長が書いた奴だよな?」
「名前見る限り、そうだな」
「今とぜんぜん違うな」
部長の書く文章は、はっきり言って一般受けしそうにないものが大半だ。
情景描写と比喩と対比と詩情。整然とした、抑制的な文体で、主観的な描写が排され、感情を直接書き入れることもない。
登場人物の心境や物語の動きの因果を、与えられた細かなヒントからこちらが掬い上げることを想定したような。
硬質な曇りガラス越しに見せられるような、静かで、どこか神経質な感じのする、端的に言えば『分かりにくい』もの。
でも、目の前にあるのは、そうではなかった。
会話文を多用して、登場人物が流れのまま奔放に動きまわる。動作や言動はあっさりと、どこかコミカルに描写されている。
文章の正確さよりも、むしろ軽妙なテンポを楽しむことを想定しているような、飾り気のない文章。
静謐さや硬質さではなく、軽快さやキャッチーさ。明鏡止水ではなく、奔流のようなダイナミズム。
ストーリーだって、凝っているわけじゃない。ただ流れに身を任せて、行き着くところに勝手に行き着いたような話。
「意外だな」
「……これ読んで、ちょっと気になったんだよな」
「なにが」
「だって、これ……最近部長が書いてる奴より、楽しそうに書いてないか?」
文章から、書き手が楽しんで書いているかどうかなんて、伝わりっこない。
そう思ったけど、これはたしかに、文章の流れに身を任せることを、楽しんでいるような話だ。
「こんなに楽しそうな文章を書く人が、どうして今みたいなものを書くようになったのかな、ってさ」
「……書き続けてるうちに、好みが変わっただけじゃないか」
「かもな。まあ、別にいいっちゃいいんだけど」
でも、たしかに俺も気になった。
俺たちが入部した頃には、部長はもう、今みたいな、神経質そうな、どこか緊張感のある話を書くようになった。
こんなふうに楽しそうな話を書いていた人が、どうしてそんな変化を辿ったんだろう。
◇
「夏休みが、来る!」
放課後、俺とゴローが部室についてから、数分遅れでやってきた高森が、切羽詰まった感じの顔で、そう騒いだ。
「……はあ。来ますね」
そういう時期だ。みんな、そわそわしはじめる頃だ。
「夏休みが、近い!」
高森はまた、同じように騒いだ。
「と、いうことは?」
と今度は疑問符をつけて、みんなの顔を見回した。
今日も今日とて、文芸部の部員は揃っている。
誰も、高森の問いに答えない。
「ということは!」
とふたたび高森は問いを重ねた。
「海に行きたい?」
「ちがいます!」
部長の答えはハズレだったらしい。
「テストです! テストが来るんです!」
ああ、とみんな納得した。それで騒いでいたのか。
よだかからの返信はまだない。
それはまあ、俺が動いただけで事態が変わると考えるほど、思い上がってはいないつもりだけど。
よだかがこんなに長い期間連絡をよこさないなんて、めったになかったから、少し不安になる。
今までは、なんでもないようなことを、よく送ってきたのに。
「やばいよ。勉強してないよ……」
「普段から勉強してないから、こういうときに慌てることになるんだよ」
佐伯は優等生っぽいことを言って高森をたしなめた。
るーとゴローも、どことなく呆れ顔だ。
「なに? ここには優等生しかいないの? たっくん! ここは敵ばっかりだよ!」
「……いや、俺は勉強してるし」
「なんで!」
「授業でテスト範囲言ってくれてるんだから、その範囲勉強すればいいだけだろ」
「だいたい学生には時間がなさすぎるんだよ!」
高森は俺の言葉を聞き流した。
「わたしだっていろいろ忙しいんだもん!」
主にネットゲームだろう。
「誰か勉強教えて!」
と、それが本題だったらしい。
「ちいちゃん。ちーちゃん!」
「……やだ。一緒に勉強すると、マキ、遊び始めるもん」
「今回は言うこと聞くから!」
「……やだ。浅月」
「残念だけど、俺は人に教えるほどの頭ではないな」
高森は一瞬だけゴローの方をちらりと見たあと、部長にすがりつく勢いで迫った。
「部長! 勉強教えてください!」
「……おい、なぜ今俺から目を逸らした」
ゴローの声は低かった。
「うーん、わたしも余裕ってわけではないし」
「そんな……頼れる人はほかにいないのに」
「おい、俺はどうした」
「じゃ、ゴロちゃん教えて」
「やだよ」
「じゃ、言うな!」
高森はまたわめく。うるさいやつだ。
「誰でも良いから勉強教えて! 数学がピンチなの! 三角関数の存在意義がわからないの!」
「けっこういろんなとこで使われてるよ」
部長があっさり答えた。
「じゃあ部長教えてください!」
「受験生に無理言うなよ」
「俺が昔読んだ小説なんだけどさ」
と、ゴローが唐突に口を開いた。
「主人公が高い場所にものを打ち上げるとき、数学を使って着弾位置を予想してたシーンがあったんだよ」
「……それが?」
「学校の勉強の範囲を咄嗟に応用してる主人公が超かっこよくてな。それ以来狂ったように数学を勉強するようになった」
「……」
「数学なんて日常では使わないって言う奴がいるけど、あれは言いすぎだ。
学んでみるとけっこう応用がきくもんなんだよ。すげえぞ、数学。象牙の塔なんかじゃねえよ」
「ゴロちゃん、勉強教えて!」
「ちなみに勉強はしたが、俺は平方根の使いどころすらよくわからなかった」
「……えっと、建築なんかで使われてるって、先生が言ってましたよ」
るーが苦笑しながら付け加えたときには、高森は肩をがくっと落としていた。
「……仕方ないなあ」
佐伯が、呆れたみたいに溜め息をつくと、高森の目がぱっと輝いた。
「ちーちゃん!」
「まあ、いいよ。どうせ勉強はするわけだし」
「わーい!」
はしゃぐ高森の横で、ゴローが手を挙げた。
「佐伯先生、俺にも教えて」
「……やだ」
「じゃあ、どこで勉強しよっか。ちーちゃんのうち?」
「うちは……お兄ちゃんいるから、だめ」
「お兄さんいると駄目なの? ちーちゃんのお兄さん見てみたい」
「やだ。見たっておもしろくないよ」
「でも、よく話に出てくるし……」
「出てこないよ」
「え?」
「出てない」
「……あ、うん。出てないかも」
なんだか前にもあった気がするが、佐伯は兄の話になると、妙に態度が子供っぽくなる気がする。
「でも、わたしのうちは狭いし……」
「図書館とかじゃ駄目なの?」
「だって騒いだら迷惑になるでしょ?」
「なんで騒ぐの前提なの……?」
なんだか既に先行き不安なやりとりだ。
と、そこでるーが手を挙げた。
「あの。だったら、うちでやりませんか?」
「え?」
みんな、きょとんとした。
「でも……」
「あ、あの。教えてほしいってわけじゃなくて。ひとりでやるより、誰かと一緒のほうが集中できるんです、わたし。それに……」
そこで言葉をちょっとつまらせて、照れくさそうに俯く。
「ちょっと、やってみたかったんです。勉強会みたいなの」
「……」
みんな黙った。
「よしやろう!」
と、高森は心を打たれたみたいに力強く言い切った。
「るーちゃんちで! お菓子とジュースは各自持参で!」
「……勉強する気、あるんだよね?」
「もちろんですよ!」
当然、と頷いた高森に、佐伯はまだ疑わしそうな目を向けていた。
「もうこうなったら、みんなでやる? ゴロちゃんもたっくんも部長も集まって」
「いや、でも、藤宮さんちでやるなら……」
「あ、わたしは全然かまいませんよ」
……なんか知らない内に巻き込まれなかったか、今。
「わたしに三角関数教えて、ちーちゃん。わたし、ゴロちゃんとたっくんに三角関数教えるから」
三角関数だけやっても、範囲には追いつかないと思うが。
「俺としては願ったり叶ったりだけどな」
ゴローは、なんでか偉そうな態度でそう呟いた。
「えっと……どうしますか?」
るーは、俺と部長に交互に視線を送ってきた。
「……まあ、みんながやるなら」
俺はひとまず頷いて、部長の返事を待った。
「ときどきは、そういうのもいいかもね」
彼女もまた、頷いた。
「じゃあ、決まり! もう部活も休止期間に入るし、ちょうどいいね!」
「……入る、っつーか」
と、俺は時計を見た。
「……今日から、のはずなんだけどな。ヒデ、来ないな」
休止期間に入る前に話したいことがある、と言っていたから俺たちは集まっていたのだが、当の顧問がやってこない。
「忘れてるのかな?」
首を傾げた高森に、
「有り得るよな、ヒデなら」
とゴローが頷く。
なんて噂をしたところで、せわしない足音が扉の向こうから迫ってきた。
「ごめんごめん、遅くなった」
巨体を揺らしながら、ヒデはドンっと扉をあけて、部室に踏み込んできた。
「先生、ドア壊れます」
無表情でたしなめた部長に、ヒデはまた「ごめんごめん」と謝る。
「話ってなんですか、先生。わたしたち、早く帰って勉強したいんです」
いつにもないキリッとした顔で高森がそう言うのを聞いて、他の部員たちはちょっと笑った。
「あ、いや、そんな大層な話じゃないんだけどね。一応テスト明けまで部活休みになるっていうのと、
それからちょっと早いけど、夏休みの部活の日程表、渡しておこうと思って」
と言って、ヒデは片手に持っていた紙を部員たちに配り始めた。
たしかに気が早い。
「夏休みが明けてちょっとしたら文化祭もあるし、そうなるとまた部誌を作らなきゃいけないだろ。
その原稿の内容についても、一応各自考えといてください。
それから……文化祭、ステージ発表の有志も募集するみたいだから、もし何かやりたい人がいたら先生に言って」
……いや、ホントにそれ、夏休みの直前でもいい話だろ。
そう思ったけど、なんとなく。
本当に、夏休みが近いんだって気がして、そわそわしてきた。
みんなも、そんな感じだった。
「ごめん、遅れて。それじゃ、みんな、テスト勉強がんばってください」
ヒデはそう言ってにっこり笑った。
「解散!」
とヒデは言った。
そのようにして、俺たちは一時的に部室を追い出されることになった。
つづく
乙です
乙です あれ、佐伯さんってひょっとして作者さんの今までの作品に出てきてる感じ…?
おつ
>>629
それ思ったけど思い当たる節が無い…
なぜ触ったしの子かなと思ったけどそっちは兄さん呼びだった
「わたしは、待ってるんですからね」の主人公の妹の名前がちえ
明言はされてないけどそれの続編っぽい描写が多かった「そこから見えるのは、どんな景色ですか?」の主人公の苗字が佐伯
>>632
なるほど。もう一回読み直してこようかなぁ
◇
決行するならすぐだろ、って言い出したのはゴローで、奴は制服のシャツの胸元をバタバタさせながら額の汗を拭っていた。
乗り気のままの高森とゴローを横目に、「大丈夫なの?」って佐伯は心配していた。
るーはにっこり笑って、「いつでも平気ですよ」と嬉しそうに言った。
「わたしたちの予定も確認してほしいよね」と部長がぼやくと、
「何かあるんですか?」と耳ざとく反応した高森が真顔で訊ねる。
「いや、ないんだけどね」と、部長は困り顔で苦笑した。
そういうわけで。
この街に来て一年以上のときが流れた今、ようやく俺は、あの懐かしい道を歩いている。
みんなで通り過ぎた公園があって、
遊馬兄と静奈姉の家があって、ずっと先にるーの家がある。
通りは細くなっていて、家も塀も低くなっていて、公園は狭くなっていた。
ホントによかったのかな、と思った。
こんなふうに、るーの家に行って。
誰かに後ろめたいような気がする。
誰かが誰だかわからないけど。
ふと気付くと、ゴローが隣を歩いていて、
「まだ何か考えてるのか」
と訊ねてきた。
どうだろうな、と俺は思う。
「今日は風があるから涼しいな」
当たり障りのない天気の話だ。俺は頷いた。
「日差しは暑いくらいだけど、まだ過ごしやすいな」
「ああ」
「もう、梅雨明けたんだっけ?」
「どうだったかな」
「そういえば今年、紫陽花を見てないな」
俺はちょっと笑った。
「なんで笑う?」
「いや。急にそんな話ばっかりだから、どうしたんだろうと思って」
「おまえの目にちゃんと、そういうことが映ってるのかと思ってな」
「どういう意味?」
「そのままの意味だよ」とゴローは言う。
「俺の言葉に深い意味なんてない。いつだって、そのままの意味だ」
「……なーんか、含みのある言い方だって思うけどな」
そして俺は、改めて周囲を見渡してみる。
七月上旬の空はからりとした晴れ空だ。のろのろとした雲がゆるい風に押されて頭上を通り過ぎていく。
前方を、女子集団が歩いている。不思議と居心地は悪くないけど、普通だったら居づらさを感じそうなものだ。
さっきの寄ったコンビニには、昔よく行った。
アイスを買ってもらって、歩きながら食べたりした。
勉強会にそなえてジュースやお菓子を買って、じゃんけんに負けたゴローがひとりで荷物を持っている。
まさかまた来ることになるとは思わなかった。
「どうかしたんですか?」
前方からこっちを振り向いたまま、歩調を緩めて、るーが俺たちの横に並ぶ。
ゴローは、一瞬ちらりと俺の方を見た。
「こいつが、つまんなそうな顔をしてるもんだからな」
俺は慌てて「おい!」と声をあげた。
くくくと笑って、彼は平気そうにしていた。追及する気もなくなる。
案の定、るーはまた、前に橋のそばで見たときみたいに、不安そうな、うかがうような目をする。
やめろよ。
「藤宮は、どう思う?」
「なにがですか?」
「こいつが、つまんなそうにしてる理由」
ゴローの言い方には、棘があるというのとも、挑発的というのとも違う、どこか核心をつくような響きがあった。
俺は、るーにその話をしてほしくない、と思った。
でも、るーの顔を見たとたん、そんなの気のせいだって否定するための力が肩からすっと抜けた。
彼女は、そのことか、っていうみたいに、笑った。
ずっとまえから分かってましたよ、っていうふうに。
戸惑う。
「たぶん、いろんなことがあるんですよ」とるーは言った。
ゴローはつまらなそうな顔をしていた。どんな反応を期待したのかは分からないが、的外れだったらしい。
「それに、最近は、楽しそうですよ、そこそこ」
「そこそこ、ね」
その言い回しに、ゴローは納得したふうに頷く。
「いいんです。ずっとつまんなそうな顔なら、ちょっといやですけど、楽しそうな顔もしてくれるなら、べつにいいんです」
「……」
どういう意味だろう、とちょっと思った。
「だってタクミくん、子供の頃からそうだったもん。笑ってるときより、仏頂面してるときの方が多かったですから」
「……や、そんなこと、ないと思う。子供の頃はもっと……」
と、なぜか、『つまらなそうにしている』ことを否定することも忘れて、反論してしまった。
「変わってませんよ。そんなに」
ばっさり、るーは切り捨てた。
「タクミくんは、タクミくんのままです」
にっこり笑う。
自信ありげに。確信しきったみたいに。
「ニヒルっぽいのに熱血で、クール気取りだけど軟弱で、そっけないけどやさしいのが、タクミくんです」
やめろよ。
って、また思った。
なんでだろう。
こんなふうに笑ってもらえるのは、うれしい。
許されたみたいな気がする。
街路にこもった熱気を風が静かに運んでいって、街路樹の枝葉がかすかに揺れた。
季節の気配が入れ替わったような気がした。
――じゃあ、賭けをしようぜ、タクミ。
――世界は、退屈か? それとも、きらきらか? そういう賭けをしようぜ。
肩まで伸びたるーの髪は、夏の日差しに照らされて白っぽく光った。
きらきらしてた。
ああ、まずい。呑まれる。まただ。ボウリングの後、切符売り場の前、あのときと同じだ。
呑まれる。忘れてしまう。そうだよ、誰かに言われなくたって知ってる。
俺は恵まれていて。
俺の世界は不足がなくて。
俺の世界に不幸はなくて。
学校に通って、バイトをして、部活をして、みんなでカラオケに行ったり映画を観たり買い物したりボウリングしたり。
そんなことをして、楽しんでいて、つまらない顔をしてるのなんて、ぜんぶ、嘘だ。
きっとそうだ。とっさに笑えないのは、ただ子供の頃からの癖だ。最初から気付いていた。
俺は生きてるのが楽しくて、るーに会えてうれしくて、みんなといるのが楽しくて。
みんなに会いたくて、るーが笑うとそれだけで嬉しくて、そんなときに必ず、
――わたし、生まれなければよかったね。
泣いていた女の子のことを思い出す。
わけがわからなくなって、どうしろっていうんだよ、って怒鳴りたくなったけど、
なんでか泣きたくなったけど、さすがにそういうことができるほど子供ではなくなっていた。
俺はどうにか作り笑いをして、何をどうすればいいのかを考えた。
でも答えなんてどこにも落ちていなかった。
ゆるい風にるーの髪が揺れるのを見ていた。
栗色に光る、肩まで伸びた髪。なんとなく手を伸ばして、彼女の頬をつねってみた。
「……なんですか」
と、彼女はつねられたままの顔で言う。ちょっとまぬけな響き。
「るーも、るーのまま、変わってないなって思っただけ」
俺は指を離した。彼女は文句もいわずに自分の頬を手のひらで撫でた。
「そうでもないですよ。こう見えて、いろいろあったんですよ」
「何にも考えてないようにして考えてて、奔放に見えて気遣い屋で、天真爛漫に見えて臆病だ」
「……」
「はずれ?」
「え、っと。自分では、そういうことはわからないですけど……」
ちょっと照れたみたいに、戸惑ったみたいに、るーは視線をそらす。
「るー、俺は」
と、一瞬何かを言いかけて、慌てて自分の口を塞いだ。
あぶねえ。何を言いかけた、今。
気まずさをごまかすみたいに、るーの頭にぽんと手のひらをのせてみた。
単に置きやすい位置にあったから、っていうだけの理由で。
いやがられないかなってちょっと心配したけど、案の定彼女はむっとした顔になった。
思わず手を離すと、彼女はふてくされたような顔のまま、自分の手でささっと髪を整えた。
「やっぱり、タクミくん、ちょっと変わったかもです」
「どこ?」
「ちょっと生意気になりました」
拗ねたみたいなるーの言い方に、ゴローは一瞬あっけにとられて、それからくつくつ笑いはじめた。
つられて俺も笑う。
「なんで笑うんですか」って、るーがまた拗ねた感じで言う。
前を歩く高森たちがこっちを振り向いて、「なにしてんの、置いてくよー」って道の先を歩いていく。
るーの家がどこかなんて、おまえら知らねえだろって、俺はまた笑う。
ブロック塀の隙間から通りの家の庭と縁側が見えて、
風に揺れる風鈴の音が道を歩く俺の耳に届いた。きっと、隣を歩くるーやゴローの耳にも聴こえたと思う。
街路樹の影がこもれびをくっきりと描いている。
視界は明瞭で、意識は浮かんでて、隣にずっと会いたかった人がいる。
どこにも不満なんてない。景色はきらきらしている。
「ゴロー」
「なに」
「今度牛丼おごるよ」
「え、なんで」
「なんでも」
「うし。大盛りな」
……どこか遠くで、雨が降っている。そのことが、なんとなく分かる。
でも、俺がいるこの場所はよく晴れていた。ポケットから携帯を取り出して、空の写真を撮る。
送る相手は決まっていた。
『こっちに来いよ』
それが何かの役に立つかどうかもわからない。かえって状況を悪くするだけなのかもしれない。
でも、俺は、祈るみたいに送信ボタンを押す。
余計なお世話かもしれない。煙たいだけの言葉かもしれない。
それでも俺は、彼女がこの場にきて、それが彼女にとっての何かになってくれたらいいと思った。
ポケットにしまいなおした途端、携帯がブルブル震えた。
『来た』
と、文字が並んでいた。添付された画像を開く。
駅だ。この街の。新幹線の。
「……え?」
「どうかしましたか?」
隣を歩いていたるーが首を傾げた。
「……いや、え?」
……マジか?
つづく
乙です
もう終わりに入ってる?
乙!
◇[Amethyst Remembrance]
秋津よだかは、駅前の喫茶店で本を読んでいる。「対訳ディキンソン詩集」だ。
大荷物を机の下に寄せて、俺の真向いに座って。
顔を合わせた時、よだかは、
「ひさしぶり、弟くん」
と皮肉っぽく笑った。
「誰が弟だ。……どうしたんだよ、急に」
「来いって言ったから」
「……いや。五分も経ってなかっただろ、送ってから」
「愛のなせる技だよね」
「つーか、あれは"夏休みに"って意味だ」
「そういう意味だったんだ。気付かなかったな」
とぼけて見せたよだかを連れて、俺はひとまず喫茶店に入った。
そしたらこいつは、本なんか読み始めた。なんとも話が進まない。
「ディキンソン?」
「うん。暇だったから」
「……あのさ、よだか」
「なに?」
俺は一拍置いて、溜め息をついてから、彼女の頭を手のひらでぐりぐり押した。
「いたいいたい!」
「ちゃんと連絡しろって、俺は前にも、言ったよな?」
「痛いってば! ごめん!」
実際にはそんなに痛くもなさそうに、よだかはちょっとだけ息を整えて、平然と俺を見返してきた。
「……どうしたんだよ、急に。まだ学校終わってないだろ」
「べつに。なんでもない」
す、っと、よだかの雰囲気が変わる。硬質な響き、問いかけに答えない鉱石のような沈黙。
それが分かる。打っても響かない態度。
……。
「なんでもないで、済むか」
よだかは不審そうに顔をあげた。
「なんでもないで済むか! バカ!」
と俺は怒鳴った。
静かな平日の昼下がり、喫茶店に響いた声は明らかに浮いていた。
店員がさりげなく近付いてきて、俺に着席を促し、注文を取っていった。
実にいい手際だ。俺は自分が恥ずかしくなった。
怒鳴られたよだかは、俯いて、反応をよこさない。
しまったな、と少し考える。
コーヒーがやってきた。口をつけてしばらくしてからも、沈黙は続いている。
理屈で納得できたからって、うまい振る舞いが実際的にできるかって言われたらそうじゃない。
結局これまでとおんなじだ。
よだかに対する態度を、俺は決めかねたままだ。
よだかはこっちを見ようともせずに、
「……たくみ、なんか変わった」
と、拗ねたみたいに呟く。俺は、なんでだろう、ちょっとだけ傷ついた。
「帰る」
よだかは荷物を掴んで立ち上がる。
いや待てよ。
と止めたかったけど、止めて何を言えばいいのかわからなかった。
甘ったれんな!
そう怒鳴ってしまいたかったけど、そう怒鳴ってしまったら、俺は自分を許せないだろう。
対処に困っているのだ。
よだかはスタスタと歩いていって、二人分の会計を勝手に済ませて、入り口のベルを揺らしながら外へと出た。
暗い影のような涼しげな喫茶店を出ると、夏の日差しは嘘のように眩しくて熱い。
俺はよだかの腕を掴んだ。
「待てって!」
「離して!」
「いいからとりあえず話を聴け!」
「したい話なんてない! たくみなんて大っ嫌い!」
「……な、んでそこまで言われなきゃいけないんだ! このバカ!」
「またバカって言った……! 最低!」
「いいから待てって! とりあえず話を……」
「だから話したいことなんてないってば!」
「だったらなんで来たんだよ!」
「たくみが!」
「……俺が、なに」
「……たくみが、来いって言ったから」
言葉に詰まる。
何を言えばいいのか、わからなくなった。
こいつの天秤がよくわからない。
何を大事なものとして、何を望んでいて、何を目指しているのか。
それがつかめなくなってしまった。
前までは、もっと彼女のことを、彼女の考えていることを、理解できたような気がする。
それがいい傾向なのか、悪い傾向なのか、わからない。
この場面に限って言えば、いい傾向ではなさそうだ。
どうしたものか考えながら、救いをもとめてあたりを見回すと、
物陰からこちらを覗く、見覚えのある影を見つけた。
建物の影。
「……高森?」
「あっ」
ドタドタと慌てるような音が続いた。
俺は角に向かって駆け出す。
「……おまえら」
佐伯、高森、ゴロー、るー、部長。
全員だ。
俺と目が合うと、るーはごまかすみたいに笑った。
「わたしは止めた」
と佐伯は言った。
「わたしも」
と部長。
◇
よだかから連絡を受けたあと、慌てて駅へと向かった俺を怪しんで、高森とゴローはその場から俺をつけていたらしい。
るーたちは一旦目的地について荷物を置いたあと、「たっくん見知らぬ女と合流なう」という高森からの連絡を受けてこの場に急行したとのこと。
「様子がへんだったから、心配したんだよ!」
高森はあからさまな嘘をついた。その点ゴローは正直だった。
「俺は心配してなかった。なんか面白そうだと思ってつけてきた」
なんてやつだ。
みんなの影に隠れていたるーが、ふっと前に出てきて、よだかの顔をじっと見た。
「おひさしぶりです、よだかさん」
そうしてにっこり笑う。
よだかは眩しさから目をそむけるみたいに視線を泳がせた。
「うん。ひさしぶり」
佐伯もまた、似たような言葉をよだかにかけた。
なんだか不思議な感じがした。
「で、たっくん、そちらは……?」
その子誰、という言い方を本人の前でするのは気が咎めたのか、高森は妙に丁寧に質問した。
「姉」
と俺は答えた。
「……お姉さん?」
よだかは何かを諦めるみたいなふうに、よそゆきの笑顔を張り付けた。
「はじめまして。秋津よだかです。みなさんはたくみの学校のお友達ですか?」
姉っぽい調子で。
こういうふうな口調だと、たしかに年上っぽく見えるかもしれない。
ゴローも部長も、一瞬ちらりとこちらを見ただけで、何も言わなかった。
まあ、大方の想像通り、
「え、たっくん一人っ子だよね?」
と言ったのは高森だった。
「うん」
「いま姉って」
「それな」
「いや、それな、じゃなくて」
別に説明したってよかった。
でも、きっと説明したら面倒な雰囲気になる。
気を遣わせるのも嫌だから、俺は黙る。
「姉なんです」
とよだかは言った。
それで高森は納得した。「そうなんだ」、と、まだ何か言いたげだったけど。
そこで話が終わってしまうと、話は振り出しに戻った。
帰る、と言ったよだか。俺は彼女に対してどうしてやればいいんだろう。
静奈姉のことは、説得するつもりではいた。
そのつもりでよだかをこっちに来いと誘ったのだ。
でも、今日急に言ったらどうだろう。
前も似たような状況だったのだ。ちゃんと説明したならともかく、今度こそ彼女も許してくれないかもしれない。
よだかを責める気にはなれない。でも……。
「よだかさん、タクミくんちに泊まるんですか?」
「……あ」
るーの言葉に、顔をあげる。
どう答えるか、迷う。
「今日は遊びに来ただけなんだ」
そう、よだかは言う。
嘘だ。聞いたわけじゃないけど、そう思った。
こいつは帰る気なんてなかった。
どうにかして、この街で過ごす気だった。
逃げてきたんだ。
なんとなく、そう思う。
「タクミくん、どうします?」
「……あ、えっと」
ふむ、とるーは少し考えるような素振りを見せた。
それから笑った。
「よだかさんも、一緒にうちに来ませんか?」
みんな、きょとんとした。
いちばん驚いたのは、俺とよだかだと思う。
「……いや、るー」
「何か予定でもありました?」
「そういうわけじゃないけど」
るーの顔を見て、俺の頭をよぎった考えがあった。
この子は気付いているんじゃないか。
よだかと俺が普通の意味の姉弟ではないことも、
今日、よだかがここにいることが、俺にとって想定外のことだったということも。
そのうえでこの子は、助け舟を出してくれてるんじゃないか、と。
「これからみんなで勉強会しようって話だったんです。どうでしょう?」
だからって。
知らない人を誘うか? 他のメンバーだっているんだぞ。るーはよくても、他の奴は気をつかうかもしれない……。
「いいんじゃないか」
とゴローが言った。
「うん。ここまできたら何人いようと同じだし」
そう言ったのは佐伯だった。
「賛成! 人数は多い方が楽しいし!」
高森が声を上げた。
……こいつら、なんなんだ?
他人事みたいに、そう思う。
「でも……」
「もちろん、都合が悪いなら、いいんですけど……」
そんなふうに、るーはよだかを見つめた。
◇
どうしてなのかはわからない。
俺とよだかはふさわしい反論も見つけられずに(見つけたかったわけではなかったはずだけど)、結局るーの家まで来ていた。
大きな門があった時点でまさかとは思ったけど、入ってすぐ、庭の広さに驚いた。
背の高い松、苔生した岩、敷き詰められたつるりと丸みを帯びた砂利、綺麗な飛び石、小さな池……。
「鯉でもいそうだな」
ゴローがつぶやくと、「昔はいましたよ」とるーはちょっと困り顔で答えた。
家の外観は二階建ての和風建築だった。といっても古そうな感じはしない。
むしろ最近建てたばかりと言われても信じられそうな綺麗な見た目。
「とりあえず入ってください」
玄関の引き戸や、内玄関の敷石すら綺麗だった。
俺たちは生活レベルの違いを沈黙のなかに感じながら、フローリングの床の上をするする滑りながら障子の並ぶ廊下を歩いた。
最初は広さを頭の中で測っていたけど、途中でばからしくなってやめてしまった。
るーが俺たちを連れてきたのは、広々とした和室だった。どうやら広間のような使われ方をしているらしい。
「いま麦茶もってきますね」
そう言って、るーはすたすたと部屋を出ていった。心なしか、さっきまでより歩き方が上品に見えた。
「やばいよちいちゃん、わたしたち、ひょっとしたらとんでもないところにきちゃったのかもだよ」
「わたしと部長は、もう驚く段階終わらせたから」
そういえばさっき、最初から俺を追ってきていたのはゴローと高森だけだったのか。
「すごいよね。スナック菓子とか買ってきちゃったけど、畳汚しそうでお菓子たべたくないもんね」
部長もちょっと萎縮した感じで、部屋のあちこちを見回した。
「……ま、とりあえず休んでようぜ」
ばからしいと笑うみたいに、ゴローはさっさと荷物を置いて腰を下ろした。
さっきまではアスファルトの熱気にあてられていたけれど、この家に入った途端ひんやりと涼しい感じがした。
「……すごい家」
思わずこぼしたように、よだかは言った。俺は頷いた。
「……あの襖、いくらくらいするんだろう」
「相場がわからんからなんとも言えないな……」
高級なのだと何十万ってするらしいよね、と部長がぼそっと言った。
「たくみ、穴あけてみて」
「絶対洒落になんねえ」
「や。たぶんここのは、そんな高いのじゃないと思う……っていったら失礼だけど、そんなところにお金かけるのは、よっぽどお金持ちで物好きな人だけだよ」
「まあ、たしかに。家は広いし、綺麗だけど……ごてごてした感じはしないっすね」
ゴローが部長の言葉に同意する。俺も部屋を見回して、頷いた。
高級なものを使っているというよりは、そこそこのものを丁寧に使っている印象だ。
そんな話をしているときに、るーがトレイにいくつかのコップを載せてやってきた。
「……手が足りませんでした」
とるーは困った顔で言った。
「あ、わたし手伝うよ」
立ち上がった部長を連れて、るーは再び部屋を出ていく。
やばい。なんか、るーに対する態度が変わりそうでいやだ。
「ていうか、たっくんはるーちゃんちに来たことあったんじゃないの?」
「……いや。近くまで来たことはあったような気もするけど、入ったことはないかな」
「そうなんだ……」
「裏庭に竹林とかあるみたいだよ」
佐伯のつぶやきに、みんなで溜め息をついた。竹林。響きだけで心が洗われそうだ。
「おまたせしましたー」とふたりが戻ってきたときも、俺はなんとなくこの場にそぐわないような感じで落ち着かなかった。
つづく
乙
待機
乙です
おつ
屋上さんいるのかな
乙
おらわくわくしてきたぞ
高まる↑↑
◇
妙な流れにはなったし、家の大きさにも戸惑ったけど、やることは変わらない。
勉強会の名目で集まったわけだし、よだかが来ようが来なかろうが試験の日取りは変わらない。
現実は非情なのだ。
そういうわけで始まった勉強会だが、基本的に恩恵を受けるのは高森とゴローくらいのものだ。
るーの成績については知らなかったが、特別悪いわけでもないらしく、テスト範囲くらいの勉強なら問題なさそうだ。
高校に上がったばかりの一学期。基本ができていて復習を欠かさなければ、大きな苦戦はしないだろう。
まあ、それができなくて苦戦する奴がやまほどいるのが現実なのだが。
高森の教育担当は佐伯になった。なにせそういう話だった。
ゴローの方はというと、なぜか俺が教えるはめになっていた。
「すまんなタクミ」
ゴローは知的っぽく眼鏡の位置を直した。
なんでこいつこの見た目で勉強できないんだ。
「俺に教えられるって相当だぞ」
「言うほどおまえもバカじゃないだろ」
まあそりゃあ、何にもしてないわけじゃないから、そういうのはある程度成績に出ているだろうけど。
だからって優秀ってわけでもない。
るーはというと、暇そうにしていた部長にわからないところを聞いたりしていた。
よく考えると、バランスは取れているのかもしれない。
高森の苦手科目は俺もあんまり得意じゃないし、その点全教科を満遍なくこなせる佐伯は高森のフォロー役には適していた。
ゴローの方は、口で言うほど理数系の成績は悪くない。
むしろ暗記教科の重要項目が頭から抜けている場合が多い。
「似たような名前が出てくるとわけわかんなくなるんだよな」
「まあ、分かるけど」
とはいえそこらへんはどうにか「覚えていないところ」を埋めていくしかない。
「自分なりに年表作ってみると良いっていうよな。ひとつの出来事じゃなくて、出来事と出来事の繋がりで覚えるって感じの」
「そういやクレオパトラってエジプト人じゃないんだってな……」
「どうした急に」
「現実逃避だ」
「真面目にやれ」
「やるともさ」
といって、ゴローは本当に教科書、資料集とにらめっこをはじめた。
普段やる気がないだけで、一度スイッチが入ってしまえばそこそこ熱中するというのがこいつのすごいところだ。
普通は、普段から継続的にスイッチを入れるようにしておかないと、なかなか始まらない。
年を取ればとるほどエンジンがかかりづらくなっていって、何かをはじめるのが億劫になる。
……なんてことを言う年齢では、まだないんだろうけど。
るーはわからないところを部長に聞いたりしているらしいが、疑問だったこと、うまく理解しきれていない部分を質問するだけで、あとは自分の力で勉強していた。
部長の方もるーに教えながら、自分の勉強をこなしているらしい。
あのふたりだけで並んでるとすごく優秀に見える。
よだかはというと、手持ち無沙汰そうにしながら俺の斜め後ろあたりで本を読んでいた。
時折思い出したように俺にちょっかいをかけてきたけど、ゴローに勉強を教えている手前、あんまり絡んではこなかった。
気を遣ってか、本当なのかわからないが、るーが何かとよだかに声をかけたり雑談を振ったりしていたのが意外だった。
小一時間も経った頃にはみんな一段落して、小休止をいれようという話になる。
そういうわけで麦茶とお菓子をひろげて、みんなで雑談する流れになったわけだ。
「よだかさんは今何年なんですか?」
高森の質問に、よだかが、
「高二だよ」
とあっさり答えて、それでまた高森は何かを聞きたそうにした。
どうしようかなあと思う。
「同い年だし、さん付けじゃなくていいよ」
よだかは、そういうのを全部ひっくるめて受け流す。
そういうのには慣れっこなのだ。
「……まあ、よだかのことはいいとして」
「たくみ、ひどい」
といって、よだかはがしがし俺の肩を叩いた。
「……ちょっと話あるから、来い」
といって、俺はよだかを連れて廊下に出た。
「ひとまず、静奈姉には連絡するから、今日はうちに泊まれ」
「……いいよ。わたし、帰るから」
「いいよ。とにかくいろよこっちに」
「でも、明日も学校だし」
「……今日も行かなかったんだろ?」
「開校記念日だもん」
と彼女は嘘をついた。俺にはそれがなんとなく分かった。
「それに、たくみは……わたしのこと、関係ないんでしょ」
関係ない。
まあ、そりゃそうだ。
「でもなんとなく、今はおまえをほっといたら、ダメな気がする」
「……なにそれ」
「学校いかなきゃだめだろとか、いまさらそんなこと言わないよ。そんなの、おまえだって考えてるだろうし」
「……」
「なにかあったら会いに来たっていいんだ、別に。なにもなくたって、べつにいい。俺だってそうする」
「……どうしたの、たくみ」
庭の方からさしこむ昼下がりの日差し。
木々の葉が日差しに照らされてきらきらと光る。
静かな広い庭。夏の日差し。
「ずっと考えてた。俺はおまえにとってどういう存在になるべきなんだろうって」
「……」
「俺は俺で、いろいろあって。おまえはおまえでいろいろあって。おまえのあれこれを、全部引き受けてやれるわけじゃない」
「……うん」
「姉弟でもなければ、友達でもない。家族でもなければ、ただのクラスメイトでもない。
俺はおまえに対して、どういう態度をとればいいんだろうって」
よだかは、黙って俺の言葉を聞いている。
聞いているんだと俺は信じる。
「でも、そんなのべつにはっきりさせなくたっていいんだよな、たぶん。
なんとなく危なっかしくて、おまえのこと、放っておけない。
でも、だからって手助けとか、そういうのをおまえが必要としてるとも、あんまり思わないんだ」
「……たくみ」
「だから、しんどかったら、頼れるところは頼ってくれていいし。
なんもなくても、愚痴くらいはきくし、相談くらいは乗るし」
よだかは、何かを言いたげにした。
――それは、罪滅しのつもりなのだろうか?
同情なのか? 憐れみなのか?
少しは、それもあるかもしれない。
うまく言葉にならない。
「……たくみ、そんなこと考えてたんだ」
「……うん。どうだろ」
「あのね、たくみ」
「なに」
「わたし、明日帰る。……ねえ、夏にさ、また、遊びにきてもいい?」
「うん」
「今晩は、ごめんだけど、静奈さんのとこ、泊めてもらってもいいかな」
「うん」
「ちょっと、ちょっとだけ、いやなことがあったんだよ」
「うん」
「疲れて……もう、だめかもって、思ってたんだ」
「……うん」
「……たくみに、甘えてるって、分かってたよ」
「……」
「たくみ、好きな子、いるんでしょ」
「……うん」
「でも、わたし、甘えてもいい?」
「……限度はあるけど」
「……うん」
よだかは静かに俺の手をとった。
「ね、わたし、たくみのお姉ちゃんってことでも、いいかな」
「……どうしたの?」
「……家族ってことに、してくれないかな」
「……」
「いいんだ、べつに。一緒に暮らしたいとか、本当の姉弟みたいになりたいとか、思うわけじゃない」
「……」
「拠り所が、ほしいんだ」
「……」
「ね、たくみ。わたし……生まれてきてよかったのかな?」
どう答えようか、一瞬迷って、
「よだかは、どう思う?」
そう、問い返した。
「俺は、生まれてきてもよかったのかな。どう思う?」
よだかは一瞬、とまどったような顔をして、
それから笑った。
「そんなの、たくみ次第だよ」
「そうなんだよな、きっと」
◇
俺たちが部屋に戻ると、佐伯と高森がこっちをじっと見上げてきた。
「……え、なに」
「秘密のお話?」
高森が何の抵抗もなさそうに問いかけてくる。
「……ていうか、今日の夜のこと。泊まる場所とか」
といって、よだかを親指でさした。
「こいつ、何の連絡もしないで来やがったから」
「たくみが来いって言った」
「……だから」
と、この流れは一回やった。
俺たちのやりとりを見て、高森と佐伯は顔を見合わせてうーんと唸ってから、るーの方をちらりと見た。
「……え、と?」
るーは、戸惑った顔をしている。
部長もゴローも何も言わない。
なんだこの空気、と思ったところで、玄関の方から物音がきこえた。
「るー、いるー?」
と、そんな、聞き覚えのある声。
「あ、お姉ちゃん帰ってきました」
平常通りの顔つきで、るーが立ち上がった。
「るー、ちょっと手伝ってー」
また、玄関の方からるーを呼ぶ声。
「家でも“るー”って呼ばれてるんだ」
高森が感心したみたいに言った。
「はい。小さい頃からなんです」
にっこり笑う。
「ねえ、るー。この声、ひょっとして」
「……どっちか、分かります?」
いたずらっぽく、るーは俺に向けて笑った。
「……すず姉?」
「正解です」
◇
どうしようか迷って、俺はるーに付き添って玄関へと向かった。
玄関には荷物が並んでいた。どうやら食材の買い出しにいっていたらしい。
スーパーかどこかの袋には、野菜やら果物やらカレーのルーやらお菓子の袋やらが入っていた。
「卵とアイスあるから、しまっといて」
「はーい」
とるーがいつもよりどこか子供っぽい返事をしたとき、すず姉は俺に気付いて、
「お」
と声を上げた。
「るーの彼氏?」
「あはは、ちがうよ」
とるーは笑いながら否定して、袋を持った。
「タクミくんだよ」
「へー、タクミくんって言うんだ。……」
すず姉は一瞬真顔になってから、俺を二度見した。
「タクミ……?」
「……お久しぶりです。あの、覚えてますか」
「……え、タクミって、あのタクミ?」
「ですよー」
と、軽く返事をしながら、るーは俺とすず姉を置いて荷物を片付けにいった。
「え、なんで? こっちにいるの?」
「……るーから、聞いてません?」
「なんにも、聞いてない」
唖然とした顔で俺を見て、
少ししてから、すず姉は笑う。
変わってない。
短めの髪も、ちょっと勝ち気そうに見える目元も、優しげな笑い方も。
服装も、着飾りはせず、主張は少ないのに、上手くハマってお洒落に見える感じで。
さすがにさりげなくメイクはしていて、ちょっと大人っぽく見える。
「タクミかあ、すごい。おっきくなったね」
そんなことを、
本当に嬉しそうに笑いながら言うんだ。
すず姉は靴を脱いで、俺の前に立った。
子供の頃、俺が遊びに来ていたとき、彼女は中学三年生だった。
クールそうなのに優しくて、物静かに見えて子供っぽくて、壁があるように見えて気遣い屋で。
年齢は追い越してしまったけど、当時のすず姉ほど、俺は大人になれた気がまったくしていない。
それなのに。
「うわ。背、越されちゃってる。もうそんなになるんだね」
すず姉の身長を、俺はいつのまにか追い越してしまっていたらしい。
「いま、一緒の高校に通ってるんだよ」
戻ってきたるーが、どうだと言わんばかりに楽しげな顔でそう呟く。
まるで驚かせたかったみたいに。
「なんで教えてくれなかったの、るー?」
「なんとなく、言い出しにくかったというか……」
困り顔で、るーは頬をかいた。
「そうなんだ。へえ。こっちに来てたんだね」
「はい」
「それでふたりは……付き合ってるの?」
「ませんよー」
とるーはあっさり否定する。
俺はなんとなく、もうちょっと戸惑ってくれてもいいんじゃないかな、と思って、そう考えてる自分に気付いて混乱した。
「うちに遊びに来たの?」
「部の人たちと、勉強会してるんだよ」
なんとなく、敬語じゃないるーというのは新鮮な感じがした。
どうだったっけ。あの頃も、姉たちには敬語じゃなかったんだっけ?
……たぶん、敬語が混じったり、とれたりしていた、気がする。
「そうなんだ。仲良いんだね」
「仲良いんです」
るーは得意気に胸を張った。
「そっか。また会えたんだね。よかったね、るー」
感慨深げに、すず姉は言う。
るーが、ちょっと慌てたみたいに目をそらして、
「うん」
と静かに頷く。
それを見てすず姉はうんうん頷いて……。
「いや、よかったよかった」
と何度も繰り返して、最終的には涙ぐみはじめた。
「え……なんで泣くんです?」
「最近、すぐ涙腺緩んじゃうんだよね。歳のせいかなあ、やっぱ」
……いや、まだそんな年齢じゃないはずだろう。
それにしても。
昔より、ちょっと、話すときのテンションが高いように思える。
「まあ、ゆっくりしていきな」
すず姉は、俺の頭をわしわし撫でた。
めでたしめでたしの、その後。
誰も俺のことなんて覚えてなくて。みんなきっと忘れてて。
俺にとって大事なことなんて、みんなにとって大事なことじゃなくて。
みんな俺のことなんて、べつに気にかけていないんじゃないかって、そう思っていた、五月のことを思い出した。
知るのを怖がって、一年、誰にも会おうとしなかった。
こんなふうにあっさり、書き換えられてしまうものなんだなと、そう思った。
恐くて知ろうとすらできなかったこと。
それが今、考えていたよりずっと、やさしい形であらわれている。
心配性を笑うみたいに。
なんとなく泣きそうになったけど、誰にも気付かれないように笑って見せた。
変わってない。
楽しいくらいに懐かしい。
胸が締め付けられるくらいに嬉しい。
「タクミくん?」
と、不思議そうにるーが首をかしげる。
俺はるーのほっぺたを引っ張った。
るーは何も言わないで困った顔で笑う。
俺も笑って、それから指を離した。
つづく
おおぉ!後輩だ!とても懐かしい 乙ですー
乙
スタイリッシュな後輩だっけ
乙
後輩だ
スタイリッシュだ
乙です
◇
意味があったんだかなかったんだか分からない勉強会が終わって、一応の達成感に包まれながら、みんなはるーの家を出た。
「また来てくださいね」とるーはにこにこしていたが、背景の家屋全景は俺にはどことなく厳つく見えた。
夕方になったとはいえ、この頃は随分明るくて、日もまだ出ている。
よだかは俺の隣を歩いている。前方に、高森、佐伯、ゴローの影。少し離れて、部長が黙りこんだまま歩いていた。
俺自身、よだかの来訪やすず姉との再会でなかなか気付かなかったけど、勉強会の途中ころから、彼女が妙に沈んでいるように見えた。
訊ねようか訊ねまいか迷って、結局口に出す。
「どうかしたんですか?」
「……え? なにが?」
自分に言われたものだと思わなかったのか、部長が反応するまで、少し間があった。
「なんだか、浮かない様子ですね」
まさか勉強が思うように進まなかったから、というわけでもないだろうが……。
「あ、うん……まあちょっと。いろいろ考えてたらさ」
「テストのことですか?」
「ううん。部誌のこと」
「……次に作るの、夏休み明けですよね? もう考えてたんですか?」
部長はごまかすみたいに笑った。なんとなく俺はよだかの方を見たけど、彼女は薄紫に染まりつつある東の雲を見ていた。
何かを、訊くべきだという気がした。
もちろんそんなのは俺の錯覚で、本当は訊くべきことなんてひとつもないけど。
今ここで、彼女に何か、訊くべきことがある気がした。
なんだったろう。
「……部長、そういえば気になってたんですけど」
「なに?」
部長はもう、いつもどおりを装った笑みをたたえていた。俺を振り向いたとき、髪がかすかに夕陽で光った。
「及川さんって、一年のとき、こっちの文芸部に所属してたんですか?」
部長の表情が、一瞬途切れた。
凍りついた笑みはすぐに元通りになった。彼女は「そうだよ」と当たり前みたいに言った。
「でも、どこで知ったの? そんなこと」
「一昨年の部誌に、及川さんの名前が載ってたんで」
「あ。そっか。そうだよね。そう考えたら、いまさらだね。何度も読んだことあるでしょ?」
「あんまり、気に留めてなかったんです。知らない先輩の名前は全部、卒業した人たちだと思ってたから」
「……そっか。だよね」
そこから部長は、息を微かにためて、今度はあきらめたみたいに笑った。
よだかは高森に呼ばれて、前方の影に混ざった。どんな話をしているのか、こっちには分からない。
「どうしていま、そのことを聞いたの?」
「……どうしてですかね。なんとなく、このあいだ、知ったので」
「そうなんだ」
「……こんなこと聞いていいかわからないですけど、部長と及川さんって、何かあったんですか?」
「なにかって……それはたとえば、付き合ってたりしたかってこと?」
「そういうのだけじゃなくて、なんだか……」
「べつに隠すようなことじゃないから、質問されれば答えるよ、タクミくん」
部長の笑顔は自然だったから、俺は少しだけほっとした。
懐かしい道を歩きながら、前の方から聞こえる部員たちの話し声を聞きながら、どこか神妙な気持ちになる。
前にも、こんな景色を見たことがあるような気がする。
「及川くんとはさ、喧嘩しちゃったんだよ、一年のときに」
「喧嘩? 部長と及川さんが?」
「想像できない?」
「正直言って」
「正直でよろしい」と部長は笑った。
「今思うと、喧嘩ってほどのことじゃなかったのかもしれない」
「……」
「あれ、でも部長、及川さんが前に部室に来たとき……」
――どちらさま?
「いろいろあったんだよ」
部長はそっけなくそう言った。
「喧嘩って、でも、何が原因で……」
「小説」
「……小説?」
「わたしの小説、なのかな。及川くんは、怒ってた。でも、わたしはわたしの勝手だって思う。今でもそうだと思う」
でも、及川くんが正しかったのかもしれない。
部長はそう呟いた。
彼女は道の先を見つめていた。あるいは、前を歩く三人を見ていたのかもしれない。
「……書けなくなっちゃったの」
「……え?」
「最初にわたしが書いたのはね、すごく楽しい話だった、と思う。
そうしようと思ったんだよ。そう思って、書けて、みんなにほめてもらえた。
でもね、何か足りないような感じがしたんだ」
「……自分の書いたものに、ですか?」
「うん。それでね、自分なりにいろいろ考えたんだよ。何が足りないのか。
要素を分解して、効果を言語化して、演出を意識して……自分の書いたものを解体したの」
「……解体?」
「うん。解体。人物とテーマの連関、素材の取り扱い方、出来事と出来事の繋がり方。
いろんなものを分解して、いったいなにが足りないのかを、確認しようとしたの」
「……」
言いたいことが、よくわからなかった。
「次に試したのはね、再現だった。素材と組み合わせ方がわかれば、また似たようなものを作れるはずだから。
ちょっとだけ素材を入れ替えて、人物の立ち位置を変えたりしてみたり、演出の仕方をいじってみたりもしたけど……。
でもね……書けなかったの」
「どういう意味ですか?」
「最初に書いたようなものは、二度と書けなかったの」
「……」
「一作目のテーマはね、"とにかく楽しい"だった。それを実現するために、わたし、どうしたと思う?」
「……どうした、って」
「"覆い隠した"んだよ。わたしもともと、暗い話しか書けないんだ。だからね、登場人物にはみんな、裏側があったの。
悲しみとか、やるせなさとか、そういうものがあったの。でも、思弁的なところや、苦悩の描写や、重い設定なんかは全部隠した。
"信頼できない語り手"。現在進行形、一人称だったけど、主人公の認識はかなりいじってたんだ」
ただ楽しいだけの話を書くために、そうまでするものなのか?
「同じようにしようとしても、無理だったの。隠せない。どこかから、噴き出してくる。
何かが部屋の隅から、自分の背中を見つめてるみたいに。
そうなってしまってからは、その"隠したもの"を掘り下げる作業をはじめた」
噴き出した登場人物たちの暗闇を掘り下げ、そこに含まれているものを"浄化"しようとした。
「つまりね、隠蔽することによって手に入れた幸福は、他の人からどう見えたとしても、本人にはどこか嘘くさいってわかってるんだよ」
「……」
「だから、それを一旦、明るい場所にさらけ出して、弔ってあげないといけなかった。
わたしのせいで抑圧された、わたしのせいで押し殺されていた、"楽しいだけの話"の暗がりに潜んでいた魔物みたいなものを」
「……そうやって、どうなりました?」
部長は首を横に振った。
「いつのまにか、捕まっちゃってた。
抜け出せないの。わたしは、暗闇に手を突っ込んでかき回すことで、自分がもっといいものを書けるようになるはずだって信じてた。
及川くんはそれを、露悪趣味だって責めた。でも、わたしはそうすることが、物語に対する誠実さだと思ったのね。
自分のせいで隠されたものを、わたしが弔わなければ、誰も弔ってくれない」
でも、
「間違いだったのかもしれない。いまでも、書けないまま。どんどん深みにはまっていくんだ」
「……」
「わたしは、自分は自分なりの物語を書けばいいんだと思ってた。それがキャッチーである必要も、ポピュラーである必要もない。
ただぶつかっていけば、前みたいな偽物じゃない、本当に楽しいだけの話が書けるようになると思ってたんだよ」
甘かったかな、と部長は呟く。
「……方向性が変わってから、及川くんはわたしのことを心配した。たしかに、傷口を自分でいじくりまわすみたいな話ばかりだったから。
でも、わたしはそれが書きたいんだって言った。だから放っておいてって、及川くんに言ったんだ。
でもね、本当は違うの」
「……」
「強がってたの。わたしは、楽しい話を書かなくなったんじゃない。
他の話が書きたくなったんじゃない。……楽しい話が書けなくなったんだよ」
俺は部長の顔を覗き見る。何を言えばいいのかはわからないし、どう反応するのが正解なのかも分からない。
「まあ、それで……及川くんは一年のうちにこっちをやめちゃって、あっちに移ったんだよ。
わたしのことだけが原因とは思わない。ほかにもいろいろあったし……でもわたしは、本当は……」
何の為に、文章なんてものを書くんだろう?
俺はときどき、その理由がまったくわからなくなる。
文章を書くことの効用は何か?
そんなことを言い出してしまう奴は、きっと文章を書くことに向いていない。
誰かに認められるため、褒めてもらうため……。
でもそれは、たぶん、それだけなら、他の何かでもいいのだ。
なぜ文章なのか? なぜ、文章でなければ駄目なのか?
絵とは違うのか? 音楽とはどうなのか? 陶芸や彫刻ではどうか?
映画はどうか? 家具作りやガラス工芸のようなものとは何が違うのか?
文章は文章でも、なぜ物語なのか?
詩やエッセイではいけないのか? 日記や評論では?
"物語"の意義とは何か?
なぜ、手にとった武器が文章だったのか。
部長は、それを求めた。文章を書くことの意義ではなく、文章で書くことの意義を求めた。
"文章である必要がある文章"。写真とも、絵とも、映画とも、伝わり方が違う文章。
絵が文章と異なる訴求力を持つように、写真が絵とは違う伝達力を持つように、映画が写真とは違う見せ方をするように。
――だから書くんだろ。誰にも耳を傾けてもらえないだろうことを、文章にして、残しておきたいんだろ?
いつか、誰かが俺に言った言葉。それを思い出す。
部長の態度に比べれば……俺の目的の、なんて邪なことか。
日常生活を営むうえで、多くの人間は小説のような文章を必要としない。
新聞でニュースを知り、テレビのテロップで速報を知り、業務連絡を印刷物で知り、書類として情報を残す。
役に立つ文章、便利な文章、必要な文章。
「……物語なんて、本当は書かなくてもいいんだよ」
部長は静かに、そう言った。
「必要もなければ、何かの役に立つわけでもない。嫌だったら、やりたくなくなったら、いつやめたって、本当は誰も困らない」
なのに……。
「不思議だよね? 思う通りのものが書けないだけで、どうしてこんなに苦しいんだろう……」
喉の奥に詰まるみたいな、
ささくれの痕が痛むような、
もどかしさ。
その、奇妙な熱。
――もう、書けないかもしれない。
部長はそう言った。
俺は何も言わなかった。
書けなくなった文章、失われた書くことの楽しさ。
使われなかったエピグラフ、増えいてく偽物の装飾。
たくさんの歌枕と引用で上げ底した、裸になれば退屈なだけの物語。
手段と目的が入れ替わり、虚仮威しの技法や表現にばかり意識がいく。
「何が書きたかったのか?」
それが思い出せれば苦労しない。
部長は笑った。
「そういえば、及川くんの妹さんも、あっちの文芸部にいるらしいんだよね。タクミくんと同じ学年だと思うけど、見たことある?」
「……及川さんの、妹さんですか?」
急な話題の変化に、俺は置いてけぼりにされた。
どうしていま、そんな話になったんだろう。……話を変えてしまいたかったのか。
「そう。たしか及川くん、嵯峨野くんと仲が良かったらしくて、なんでも嵯峨野くんと及川くんの妹同士が――」
そこで、部長の言葉は途切れた。
何かに驚いたみたいな顔で、道の先を見ている。
「……あの、部長?」
「……嵯峨野くんと……」
部長はそれ以降、何も言わずに黙り込んでいた。
俺は不審に思ったけれど、なんとなくそれ以上何かを訊く気になれず、ひとりで言葉の意味を探り当てようとする。
及川さんは、嵯峨野先輩と仲が良い?
嵯峨野先輩と及川さんの妹?
それがどうしたんだろう。
嵯峨野……。
――悪いのは嵯峨野先輩でしょ? なんで黙って受け入れるの?
嘉山が“受け入れている”こと。
……単純に想像すれば、例の焼却炉の騒動を起こしたのは……嵯峨野先輩、ということになるのか?
今頃そんなことを考えてどうなる?
俺は首を横に振った。
別に気にしたって仕方ない。話は終わった。もう誰も気にしてない。
そんなことより今考えなきゃいけないのは、テストのこと。よだかのこと。そのふたつだ。
それから部長と俺は、別れるまで何の話もしなかった。
駅でみんなと別れたあと、よだかとふたりで静奈姉の部屋までの道を歩く。
何か話したいような気もしたけど、黙っていた。
額の奥をさすような頭痛が疼いた。
それは一瞬のことだったけど、そのかすかな痛みのせいで、少しずつ意識が現実の出来事から浮かび上がっていくのが分かる。
◇
「どうしてこう、急なのかな」
静奈姉は慌てた様子で夕飯の用意をしている。エプロンをつけて、髪をうしろでまとめていた。
「ごめんなさい」とよだかは謝った。
「今回限りにします。本当にすみません」
前とはちょっとだけ、静奈姉に対する接し方も違う。
静奈姉もちょっと毒気を抜かれたみたいだ。
「まあいっか」と困ったみたいに笑っていた。
本当はもっと、気になることとか、心配なことがあるんだろう。
それでも静奈姉は何も言わない。
「よだかちゃん、ちょっと夕飯の準備手伝ってくれる?」
「わかりました」
ふたりはキッチンに並んで料理をはじめた。静奈姉と並ぶと、よだかの表情にも歳相応の女の子らしい子供っぽさが宿ってみえる。
「あ、タクミくん、ドレッシングない」
「……買ってきます」
「お願い」
そんなわけで、おつかいだ。
扉をしめてすぐ、なんとなく溜め息が出た。一日でたくさんのことがあって、疲れたのかもしれない。
空を見上げるともうすっかり夕暮れだ。
「……日が暮れると、ちょっとは涼しいかな」
今日は風もある。七月上旬とはいえ、だいぶ過ごしやすい。
財布だけを持って道を歩く。ずいぶんと、このあたりの土地にも慣れてきた、ような気がする。
……でも。
どうするのだろう、俺は。
静奈姉は、大学を出たらどうするのだろう?
俺は、どうするのだろう?
いつまでも静奈姉と暮らせるわけじゃない。
高校を出たら、俺は……。
あの家に帰るのか、それとも、こっちで暮らせる方法を探すか。
いずれにせよ、避けては通れない。
両親と、ちゃんと話をしなければいけない。
俺はそれが憂鬱だ。
父さんと、面と向かって話ができる気がしない。
「……どうすればいいんだろう」
瓶入りのドレッシングを買ってコンビニを出ると、軒先の灰皿の傍で、私服姿の鷹島スクイが堂々と煙草を吸っていた。
「……おまえ、平気なの?」
「なにが?」
「こんなとこで、堂々とさ」
「さあ、どうかな」
どうかなって。
まあ、大通りに面した店ではないし、車や人の通りもそう多くはない。
怪しむ奴はいても、通報したりする奴はそうそういないかもしれない。
俺も疑われそうだから一緒にいたくはないが。
スクイは煙を吐き切ってから、灰を落とした。
「最近の調子はどうだい?」
スクイはそう訊ねてきた。
俺は、どう答えようか迷う。
「……特段、悪くはないな」
そういえば、と俺は思う。
「おまえ……小鳥遊こさちって女子、知ってるか?」
「……小鳥遊?」
意外な反応だった。小鳥遊の口ぶりは、スクイのことを知っているようだったから。
「小鳥遊、こさち」
「知らない?」
「知らない。知らないが……どういう奴かは、たぶん分かる」
「どういう意味?」
「あんまり気にするな。深い意味なんてねえよ」
「……仲良いのかと思った」
「名前については、確実に、とはいえないが、俺のせいだろうな」
とスクイは言う。俺はその言葉の意味がつかめずに問い返す。
「誰の名前?」
「小鳥遊こさちのさ」
「……」
また、よくわからないことを言っている。俺はその言葉を無視する。
「よだかのことは、どうだい?」
「……たぶん、大丈夫だと思う」
「そうかい」
スクイはどうでもよさそうに笑ってから、煙草に口をつけて、
「――疚しさは消えたかい?」
そう訊ねてきた。
俺は答えに詰まる。
「……どうしろっていうんだよ」
「俺が知るかよ」とスクイは言う。
それはそうだ。俺は聞く相手を間違えた。
「もう夏だな」
何かを思い出したみたいにスクイは顔をあげる。
つられて俺も空を見る。
夏だ。
それは分かってる。
「夏は終わるぜ」
とスクイは言った。
「夏は終われば秋が来る」
「……だからなんだよ」
「深い意味なんてねえよ。秋は好きか?」
「べつに、好きでも嫌いでもない」
「疚しさは消えたかい?」
スクイは同じ質問をもういちど繰り返した。
俺は答えない。
夏が終われば秋が来る。
夏が本番を迎える前に、そんなことばかり考えてしまうから、俺はいつだってこうなんだ。
スクイはイヤホンを取り出して、俺に差し出した。
俺は差し出されるままに受け取って、それを耳につける。
音楽が流れ始めた。
知っている曲だ。昔聞いていたバンドだ。
中学の時に好きだったバンド。そういうバンドっていうのは、音楽の好みが変わっても嫌いになれない。
今聞いてもきっと好きじゃなかっただろう、そんな印象さえ覚える。
でも好きなのだ。まるでその音楽を通して、あの時期を生きていたような気さえする。
あの頃聴いていた音楽たちが、今の俺を形作っているような気さえする。
“Friends are alright
There's nothing so sad
And the foods are good today
It looks like things are going right
But I feel I'm all alone”
スクイと話してばかりいても、擦り切れるだけだ、と彼女は言う。
そうなのかもしれない、と俺は思った。
イヤホンをはずしてスクイに返す。俺はそのまま、彼に背中を向けた。
「またな」とスクイは言う。
俺は応えなかった。
それなのに、さっき聴いた曲のメロディーが頭から離れない。
目を閉じて振り払おうとする。額を抑えてイメージを追いだそうとする。
効果はない。それだって分かってる。
“You said today is not the same as yesterday
One thing I miss at the center of my heart”
当たり前みたいな顔でドレッシングを買って帰って、当然みたいに三人で夕飯を食べたあと、よだかと少しだけ話をした。
悪いことなんて起こってない。俺は俺の中の澱みを、少しずつ振り払いつつあったのに。
よだかが来た。すず姉と会った。みんなで勉強して、ばかみたいな話をしたりした。るーの家は大きくて綺麗だった。
不自由はない。退屈でもない。
それなのにどうしてこんなに胸が騒ぐんだ?
◇
夕飯を終えて部屋でテスト勉強をしていたら、文芸部のグループトークが通知を鳴らした。
「せっかく第二文芸部になったことだし、文化祭のステージでバンドでもやらねえ?」
と、ゴローからのメッセージ。
「どこが“せっかく”なのかわかんないよ」と高森。
「俺ギターやるから」
「弾けるの?」
「先月買った」
「おー、見して見して」
高森の食いつきの数分後、ゴローが画像を送ってくる。赤いストラトキャスター。
「高森ボーカルな」
「なんでわたし!」
「歌上手いから」
「しょうがないなー。曲は何やる?」
と高森はさりげなくノリノリだった。
「いぬのおまわりさん」とゴロー。
「いいね!」と高森。
正気かよこいつら。
「正気?」と沈黙を守っていた佐伯がさすがにツッコミを入れた。
「佐伯はいいよ。タンバリンで」
「やらないし」
「タクミはベースな」
「持ってないし」
「買えよ」
「いやだよ」
「うちのお姉ちゃん、ベースやってますよ。言えば貸してくれるかもですし、教えてくれるかも」
るーがトークに参加してくる。
「じゃあタクミは決定だな」
「いや……高森が弾きながら歌えば?」
「そんな器用なことできないよ、わたし」
「ギターボーカルの方映えるだろ」
「……え、みんな本気なの?」
佐伯の問いかけには誰も応えなかった。俺もどこまで本気なのか知りたい。
「ドラムがいないな。タクミ、知り合いでドラムやってる奴いねえの?」
「……待て。正気かおまえら」
「正気なんかとうに捨てた」
「みんな勉強はいいの?」
部長のそのメッセージを境に、トークが途切れる。
俺も携帯を放り出して、勉強に戻ろうとしたけど、なんとなく集中できなくてベッドに倒れ込む。
よだかは静奈姉と一緒に何かを話しているらしい。何を話しているかは、俺の知ったところではない。
たぶんもう、心配もいらないだろう。何か話したとしても、それはよだかのことだ。
俺はスクイに聞かされた曲のことを思い出す。あの曲の入ったCDはどこに置いたっけ?
好きだったマンガは? 友達と一緒にやったゲームは? 家族で旅行にいったときのおみやげの置物は?
みんなどこにいったんだ?
つづく
乙です
乙
乙です
第二文芸部でバンド
つまりタクミが女装してベース弾くんだな
◇
そんな気分だって翌朝になれば消えてしまっていて、窓から七月の朝日が俺の部屋を照らしていた。
眠気と戦いながら昨日のことやテストのことを思い出して、顔を洗って制服を着替えて朝食をとった。
日々はあくまで過ごしやすい。
いい気分も、悪い気分も、一晩眠れば全部リセットだ。
そう思って、居直りかけて、やっぱりやめた。
リビングにいくと既によだかが起きていて、静奈姉とふたりで朝食をとっていた。
「おはよう、たくみ」
「おはよ」
返事をしてからあくびをすると、よだかはちょっとうれしそうに笑った。
「……なに」
「べつに、なんでもないよ」
そう言ってまた笑う。
なんだっていうんだ。
「タクミくん、今日はバイト?」
「……いや、今日は、ないはず」
「そっか」
静奈姉はそれだけ訊くと、よだかとの話を再開してしまった。
「今日の夕方に、帰ることにしたから」
よだかはそう言って、また笑う。
なんだか変だ。こんなに笑う奴じゃなかったのに。
俺はなんとなく狐につままれたような気持ちのまま、朝の支度を済ませた。
「見送りは、いけないかもしれないよ」
「いいよ、べつに」
また、よだかは当たり前みたいな顔で頷く。
ご機嫌は悪くはないみたいだ。
「じゃあ、いってきます」という段になっても、よだかはにこにこ顔で、「いってらっしゃい」を言うだけだった。
◇
及川ひよりが俺のクラスを訪ねてきたのはその日の朝のことだった。
俺はその出来事に至るまでの連綿たる経緯について考えると、気が遠くなるような思いになる。
まず、高森蒔絵が俺のクラスに来ていなければ、及川ひよりは俺と会っていなかった。
「聞いてよたっくん、昨日の話、ゴロちゃん本気で言ってたみたいなんだよ!」
と高森が俺のクラスに駆け込んできたのがその日の朝のはじまりだった。
「このままじゃ全校生徒の前でにゃんにゃんにゃにゃんとか歌うハメになる」と嘆く高森は、前日のゴローとのやりとりが原因でこの教室へ来ていたわけだ。
そしてゴローがバンドなんて言い出したのは、どうも「第二文芸部になったから」らしい。
第二文芸部になってしまったのは例の部誌対決が決行されたからだ。
その部誌対決の決行は及川さんが言い出したことだ。
及川さんが部誌対決なんてものを持ちかけてきたのは、おそらくは部長とのことが原因だ。それがどんなことなのかは分からない。
付け加えれば及川ひよりは、この間屋上で高森と顔を合わせていなかったら、高森のことなんて考えもしなかったに違いない。
あの日高森は、偶然俺を屋上まで迎えにきた。そして及川ひよりと嘉山孝之は、嵯峨野先輩について話をしていた。
もしも及川ひよりが変な気を起こさずにまっとうな原稿を例の部誌対決に提出していたら、
あるいは嵯峨野連理が及川ひよりの原稿を見逃していたら、
焼却炉の騒動なんてものは起きなかっただろうし、その場合は彼らは屋上で何かの話をすることもなく、
そうなっていたら及川ひよりは高森蒔絵にまったく会わずにいたかもしれない。
そして及川ひよりが変な気を起こすことになった間接的な原因は、高森蒔絵でもある。
高森蒔絵が嵯峨野連理に出会っていなかったら、焼却炉騒動なんてものは起きなかったかもしれない。
嵯峨野連理が高森蒔絵に会ったのは、悪ふざけで作った部員募集のポスターの回収のとき。
考えてみれば不思議なものだ。あのポスター作りがなければ、俺だってるーに会っていなかったかもしれない。
高森は嵯峨野先輩と出会わず、その結果及川ひよりは妙な文章を書かずに済み、例の焼却炉騒動も起きなかったかもしれない。
でも、そのときの俺は何も知らなかったから、及川ひよりがやってきたとき、ただ怪訝に思っただけだった。
◆
るーは、妙によだかに興味を持っているように見えた。
ひとなつっこい奴だけど、そういう態度は子供の頃以来見たことがなかったから、意外に思ってなんとなく訊ねてみたことがある。
「どうして、よだかをそんなに気にかけるの?」
俺の質問に、るーはちょっとだけ困った顔をして考えこんだ。さて、どうしてだろう、と自問しているみたいに見えた。
それから思いついたように、何度か頷いて、呟いた。
「たぶん、似てるんです」
「似てる?」
「はい。よだかさんは」
「誰に?」
「……あの頃の、ちい姉です」
「……そうかな」
「タクミくんは、知らないから、わからないかもしれない」
「似てるから、気になるの?」
「……はい。変でしょうか」
「……べつに変とは思わないけど、やっぱりよくわからないな」
「きっと、そうなんでしょうね」
でも、似ているから気になるんです。とてもよく似ている気がして、気になるんです。
るーはそう言っていた。
◇
及川ひよりがその日、高森蒔絵に会おうとしたのだって、別に深い意味があったわけじゃないだろう。
ただなんとなく、その顔をもういちど確かめておきたかっただけに違いない。
それでも及川ひよりは「わんわんわわん」と騒いでいた高森蒔絵の背中に声をかけた。
たぶん、どれが高森かなんて確認する必要もなかったんだろう。
「ちょっといいかな」
と、そう声をかけた及川ひよりの声にはかすかな緊張が含まれていた。
「ん?」と振り返った高森の顔はこっちからは見えなかったけど、その顔を見て及川ひよりが息を呑んだのは分かった。
「……」
しばらくの沈黙。
「えっと……誰?」
高森は忘れていたけど、俺は覚えていた。もっとも、彼女の方は俺が分からなかったろう。
このあいだ、嘉山とふたりで話をしていた女子。「悪いのは嵯峨野先輩」と言っていた女。
何かを知っているかもしれない生徒。
俺は口を挟まなかった。
「……高森蒔絵、さん?」
「……はい?」
名前を呼ばれて、高森は怪訝な顔をする。向かい合う女子生徒はただ、彼女の顔を見つめている。
「突然だけど、親戚に嵯峨野って苗字の人がいたりする?」
「……いません」
「……だよね」
彼女はそう言って、自嘲気味に笑った。
「ごめんなさい、わたし、二年の及川ひよりって言います。第一文芸部の。ちょっと気になったことがあって。ただの気にしすぎだったみたいだけど」
「……及川?」
俺の疑問符に、及川ひよりは反応した。
「あなたの第二文芸部?」
「ああ、まあ」
「第一の部長の及川は、わたしの兄です」
何となく、丁寧で几帳面な口調だったが、話し方自体は柔らかい、。
警戒するような距離を感じるのは、どうしてだろう。
「……嵯峨野、って苗字、珍しいよな」
俺はそう声をかけてみた。及川ひよりは、「そうかも」と頷く。
まあ、そんなことを言ったら、浅月だの秋津だの藤宮だのって苗字も、十分珍しいかもしれないけど。
「知り合いにいるんです」
「その知り合いにさ、妹っていたりする?」
昨日の部長の言葉を、俺はそのとき思い出していた。
嵯峨野先輩と及川先輩の妹同士が……、と、彼女は言っていた。
悪趣味な言い方だったかもしれない。それでも及川ひよりは、あからさまな反応を示した。
「……あなた、誰?」
敵意とすら呼べそうな鋭い視線を俺に向けてくる。
「ただの質問だよ」と俺はごまかした。
「なんとなく、そんな気がしたんだ」
とは言っても、俺はその質問の答えを得て、自分がどうするつもりなのか、よくわからなかった。
「……あなた、なにか知ってる?」
「……なにかって」
そうだ。
たとえば前日のうちに、部長がひとりごとのように二人の妹の存在を漏らしさえしなければ、
俺だって、及川ひよりをただ通り過ぎるだけの存在として扱えていたかもしれない。
「きみこそ、何を知ってるの?」
俺はそう訊ねた。
どうしようか、迷ったけど。
でも、けっきょくこうなる運命だったのかもしれないと考えることにした。
何度忘れようとしても、何度遠ざけようとしても、迂回して近付いてくる何か。
嘉山たちのことは、俺にとってそれだったのかもしれない。
知らない方が幸せってこともある。この場合がどちらだったのかは分からない。
いずれにしても、知ってしまったことを知らなかったことにはできない。
「……来て」
と及川ひよりは言った。
俺と高森は顔を見合わせてから、彼女のあとを追った。一番戸惑っていたのは、高森だったかもしれない。
つづく
693-17 増えいてく → 増えていく
乙
716-4「あなたの第二文芸部?」は「あなたも~」かな?
716-4 あなたの → あなたも
>>719
助かります
乙です
乙です
おぉぉ…
乙
部長がはまってしまった部分は序盤に高森が言っていた事を思い出したわ
楽しい夏ばかりじゃなさそうな予感でざわざわする乙です
◇
及川ひよりは、当たり前みたいに屋上に繋がる扉を開けた。
彼女の背を追いながら、俺と高森は黙り込んでいる。
屋上に昇って、俺たちは辺りを見る。
本校舎の屋上に、人影はない。
見下ろす街、鳥の影、夏の雲、穏やかな夏の日の朝。
ゆるやかな風に髪をなびかせながら、及川ひよりは振り返った。
「あなた、どこまで知ってるの?」
「どこまでって、何について?」
「……嵯峨野先輩に、妹がいるかって」
「いや、そんな気がしただけだって」
俺のごまかしを、及川ひよりは厳しげな視線で暴こうとする。そこに高森が口を挟む。
「……えっと、さっきから話に出てる嵯峨野先輩って、嵯峨野連理先輩?」
「……そう」
「それであなたは、及川さんの妹さん、なんだよね?」
「……そう。及川ひよりって言います」
及川ひよりは真剣な顔で高森を見つめた。射すくめるような視線に、高森は居心地悪そうに背中を丸めた。
「嵯峨野先輩が……どうかしたの?」
高森は、少し慎重な口ぶりで、及川ひよりに訊ねる。
「……あなたたち、本当に何か知っているわけではないの?」
「なんにも」
と高森が答えた。
「何かって、嘉山のこととか?」
俺はまた、カマをかけてみた。
このあいだ、屋上で盗み聞きした、嘉山とこの子との会話。
そこで嵯峨野先輩の名前が出ていたんだから、何かしらの繋がりがあるのかもしれないと踏んだ。
案の定、及川ひよりは警戒心を強めたようだった。
スクイやこさちはこんな気持ちだったのかもしれない。
「ねえ、あなた……名前は?」
「浅月拓海」
「浅月くんは、孝之……嘉山と嵯峨野先輩の関係を知ってるの?」
さて、困った。
「知らない」
「……本当に?」
「本当に」
「だったらどうして、そこで孝之の名前が出てきたの?」
「……逆に質問したいんだけど、いいか?」
「……なに?」
「おまえたちは、どうして高森を気にするんだ?」
高森と及川が、そろって言葉をなくした。
高森は、自分が急に話に出てきたからだろう。だとしたら、及川の方は、図星をつかれたからか。
「嘉山もそうだった。高森を見て、驚いてた」
「……浅月くん、孝之の知り合いってわけじゃ、ないんだよね?」
「ああ」
「嵯峨野先輩と嘉山のこと、どこまで知ってるの?」
「ふたりが知り合いだとすら思ってなかった」
「……そうなんだ」
及川ひよりは、戸惑ったような顔で、高森の方をちらりと見た。
高森は高森で、居心地悪そうに足をゆらゆらさせている。
「俺や高森が嘉山のことを知ったのは、例の焼却炉騒動の件で、第一と第二の部員が全員集まったとき。あの視聴覚室の集会のときだ」
「……それ以前のことは?」
「俺たちは、それ以前も以降も、嘉山と話したことはない。……高森もそうだよな?」
「うん……。あ、このあいだ屋上で、ちょっと顔は合わせたと思うけど」
「……嵯峨野先輩のことは?」
俺たちは答えなかった。
「……そっか。ありがとう。ごめんね。知らないならいいんだ」
そう言って、及川ひよりは俺たちに背を向けようとした。
「待って」
と声をかけたのは高森だった。
「……どうして、わたしに声をかけたの?」
及川は、立ち去ろうとした姿勢のまま、何も答えなかった。
「嵯峨野先輩がわたしに声を掛けてきたのは、ひょっとして、何か、理由があるの?」
その問いかけはたぶん、すごく切実なものだった。
切実で、純粋だ。おそるおそる、という響きだった。
その切実さが届いたわけではないだろう。
ただの気紛れか、他の意図があったのか、及川ひよりは容易く答えた。
「似てるからだよ」と及川ひよりは言う。
「高森蒔絵さん。あなたは、そっくりなの。瓜二つ。葉羽に、そっくり」
「……はばね?」
「嵯峨野先輩の妹で、わたしと孝之の幼馴染だった」
「……」
「あなたの顔が、嵯峨野葉羽にそっくりなの。理由はきっと、それだけ」
高森の表情が色を失ったように見えた。
たぶん、傷ついたのだと思う。深く、深く。
無理もない。俺だって、あんまりだと思った。
だって高森は傷ついていたのだ。
悩んで、必死に考えて、落ち込んでいたのだ。
一生懸命に、嵯峨野先輩に対して、彼女なりの誠実さをもって接しようとしていた。
その全部が、彼にとってはどうでもいいものだったのかもしれない。
彼が興味を持っていたのは、ただ、高森の顔だけ、だったのかもしれない、なんて。
「……いや、待て。意味わかんねえよ」
言葉を失った高森の代わりに、俺が会話を引き継ぐ。
このまま話を終わらせては駄目だ、と思った。
「妹に似てるからって、なんで……」
――嵯峨野先輩の妹で、わたしと孝之の幼馴染だった。
……“だった”?
「死んじゃったの」
「……」
「二年前の夏。川で溺れて。連理さんと葉羽は、ほんとうに仲の良い兄妹で……。
だから、連理さんは、葉羽にそっくりな高森さんを無視できなかったんだと思う」
何を考えてるんだ、こいつ。
自分が何を言っているのか、わかってるのか?
死んだ妹そっくり? だから無視できなかった?
そんな話を、今生きている高森が聞かされて、勝手に重ねられて、どう感じると思ってるんだ?
満面の笑みで光栄ですとでも言うと思ってるのか? それはぜんぶ、おまえらの事情じゃないか。
俺は一呼吸置いて、冷静さを取り戻すよう努めた。
訊いたのは高森と俺だ。こいつは質問に答えただけだ。
腹が立つのは俺の都合だ。
「……だからって、それが高森に何の関係があるんだよ」
苦し紛れのような、俺のそんな言葉に、及川ひよりは、少し気の毒そうな……どうでもよさそうな声で、
「ないよ」
と言った。
「ごめんね」
とさらに、あっさり謝る。
あなたはある人の死んだ妹そっくりなのです。
だからあの人はあなたに近付いたのです。
でもその話はあなたには関係ありませんでした。ごめんなさい。
「……おまえさ」
「そうだったんだ!」
言いかけた俺の言葉を遮るみたいに、高森がことさら明るい調子で声をあげる。
「だから嵯峨野先輩、わたしにやたら絡んできたんだ。なるほどー、そういうことだったのか」
それからうんうん頷いて、
「そりゃ仕方ないよね、亡くなった妹さんそっくりだったら、たしかに気になっちゃうもんね」
なんてことを言う。
俺は何も言わないことにした。
何で腹が立つんだ。高森は笑ってるのに。
「それじゃ、わたし行くね。なんか、ごめんなさい」
そう言って去ろうとした及川ひよりを、今度は俺が呼び止める。
「部誌を燃やしたの。……嵯峨野先輩なのか?」
「……わたしは、そうだと思ってた」
「……思ってたって?」
「孝之は、自分が燃やしたんだって言ってた。意味もなく。でも、絶対に嘘。連理さんが、孝之に何かしてるんだ」
「わかんねえな。なんで嵯峨野先輩がそんなことをするって話になるんだ?」
「……分からない。たしかなのは、どちらかが部誌を燃やしたってことだけ。
連理さんが燃やしたのか、孝之が燃やしたのかは分からない。でも、どちらかがたしかに燃やした」
「なんで、そんなことが分かるんだよ」
「燃やす理由が、わたしの原稿だったから」
どういう意味、と問いかけるより先に、及川ひよりは言葉を続けた。
「連理さんは孝之に暴力を振るってる。日常的に。毎日みたいに。
わたしは、それを告発しようとした。わたしは告発文を書いた」
先生に言ったって、呼びだされて話をきかれて、場合によっては注意されて終わり。
誰かに相談したって簡単には信じてもらえない。
だから、大勢の人に、疑ってもらおうと思った。そうすれば簡単には、手出しできなくなるから。
疑いの目を向けてもらうために、大勢の人に、告発文を読んでもらおうとした。
「……部誌になんか載せたって、誰も読まないだろ」
「普段だったら、そうだよね」
……例の部誌勝負。
投票、勝負という形にしたせいで、普段は文芸部に興味もない奴らが、手にとって目を通していた。
反響は、俺たちが思った以上だった。意外なほど、生徒たちは対決に興味を持った。
言い出したのは誰だ?
及川さんだ。
「最初からそのつもりだったわけじゃないよ。兄さんが部誌勝負なんて言い出したときは、馬鹿みたいって思った。
でも、五月の終わり頃から、連理さんは孝之に暴力を振るうようになった。
あの人、外面は優等生だから、誰に言っても信じてもらえない。部誌は告発するには絶好の機会だった」
「……五月の、終わり頃?」
繰り返したのは、高森だ。
「……そう。何か知ってる?」
俺には分かった。
高森と嵯峨野先輩との間に何かがあって、彼が部室に来なくなった。ちょうどその頃だ。
誘いを断られただけだ、と嵯峨野先輩は言っていた。
本当にどうだったのか、俺には分からない。
「……嵯峨野先輩は、それ以前に、嘉山くんに暴力を振るってたり、した?」
問いを重ねたのは、高森だ。
俺は止めたかったけど、止めなかった。
及川ひよりは、少し怪訝そうにしながらも、答えてくれる。
「つらくあたることはあったけど、直接的に暴力を振るうようになったのは、わたしが知る限りは、それ以降だと思う。
そうじゃなかったら、わたしはずっと前に、連理さんを止めようとした」
「……そう、なんだ」
高森が何を考えているのか、俺には簡単に分かった。
「高森」
名前を呼ぶと、彼女ははっとしたように俺の方を振り向いて笑った。
「なに?」
「そろそろ教室、戻んなきゃだよ」
「あ、だね……」
それじゃ、と及川ひよりは、最後にもう一度謝った。「ごめんなさい」と。
ふざけんなと俺は思ったけど、そんな気持ちだって、俺の都合といえば俺の都合でしかなかった。
「高森」
「なに、たっくん」
「バンド、どうする?」
「あ、どうしよう、ね」
困ったように、高森は笑った。
俺はそれ以上何も言わないことにした。
216-7 、。 → 。
つづく
乙です
おつ。
うーん…
乙 妹の死亡とか「こんな日が続けばいいのに」を彷彿とさせるな
過去
◇[Moor]
「不自然なところがいくつかあるよな」
鷹島スクイは、昼休みの東校舎の屋上で、煙草を吸いながら、そう呟いた。
「高森蒔絵のことが原因かどうかはさておき……話を総合すると、嵯峨野連理が嘉山孝之に暴力を振るうようになったのは五月の終わり頃だ」
スクイはそこで言葉をくぎって、俺の顔を見た。俺は何か返事をするべきかどうかを考えて、考えるのがばからしくなる。
「部誌の発行は六月の半ばだった。焼却炉での騒動が起こったのは配布の一週間前だ。単純に考えて、六月上旬ってことになる」
一週間から、長くても二週間。
嵯峨野連理が暴力を振るうようになり、及川ひよりがそれに気付き、告発文を書き、どちらかがそれを燃やすまでの期間。
「早すぎる。暴力に気付くまではともかく、そんなタイミングで、告発文なんて回りくどい手段を真っ先に採用するか?」
「及川ひよりが、嘘をついてるってこと?」
「どうかな」
「……他の、不自然なところって?」
「今も言ったが、告発文だな。話の内容が内容だ。手段として間違ってるだろ。誰かの目に止まったとしても、悪ふざけにしか見えない」
「……」
「告発したのが、嘉山孝之ではなく及川ひよりだっていうのも、変だ。なぜ及川ひよりがそんなことをする?
幼馴染だから? 友人だから? でも、嘉山はそれを公にされることを望んでいたのか?」
「……」
俺は黙りこむ。
「処分の方法も妙だ。もしその内容が不都合なものだったからという理由で処分したなら、どうして部誌を燃やしたりする?」
「……」
「原稿のデータを消す。印刷された部誌を処分する。だったら持ち帰って捨てちまえばいい。
誇示するように焼却炉で燃やしたのもおかしいし、問題部分は燃えていたにしても、全部燃やしてしまわない理由も分からない」
「……」
「何か、隠してるのは間違いないだろうな」
及川ひよりは、嵯峨野先輩の妹のことについて、あっさりと俺たちに話した。
普通なら、話すのを躊躇しそうなものだ。内容が内容だけに、簡単に誰にでも話すようなことではない。
すべてを疑うわけではない。
でも、あそこまで饒舌だったのは、何かを隠すためだったのかもしれない。
「……だったとして」とスクイは続けた。
「それを知ろうとしたところで、何もできやしないけどな」
たしかに、と俺は頷く。
「難儀な奴だな、おまえも」
鷹島スクイは、そう言って煙草に火をつける。
「おまえには関係のない話だ。気にしても仕方ない、無関係の出来事だ。
頭を悩ませて、及川にカマをかけてまで、どうしてそんなことを知ろうとした?
結果はどうだった? 気分が悪くなるだけだっただろ。及川ひよりのせいでもない。高森蒔絵のせいでもない」
おまえのせいさ、とスクイは言った。
「おまえが知ろうとしたから、そんなことになったのさ」
俺は否定できない。
「関係ないのさ、本当は」
俺たちには、ぜんぜん、ちっとも、これっぽっちも、関係ないんだ。
俺は溜め息をつく。
「……教えてやるよ」
煙を吐き出しながら、スクイは言う。
「本当は知ってるんだ、俺は。嵯峨野連理が、嘉山孝之を憎む理由。
燃やされた部誌の、問題の原稿の内容も。俺は、それを読んだんだ。
……燃やした犯人だって、俺は知ってる」
「……え?」
「告発文なんかじゃない。嵯峨野連理の暴力についてなんか、一言も書かれてない。
及川ひよりの文章は、おそらく、嵯峨野連理と、嘉山孝之にしか伝わらないように書かれていた」
「知りたいか?」と鷹島スクイは言う。
知ってしまったら、戻れないとしても?
◇
風が吹く。
煙に巻かれて、スクイの姿はいつのまにか消えていた。
いつもそうだ。
いつのまにか現れて、いつのまにかいなくなっている。
偏在する風みたいに。
示し合わせたみたいに、鳥の影が落ちる。
扉の開く音がした。
嘉山孝之が、そこに立っていた。
どこか透徹した瞳、何かを諦めたような表情。
礫岩を思わせた。
削られ、侵食され、角を失っていったような、不思議な印象。
彼は鼻をスンと一度鳴らして顔をしかめると、
「煙草の匂いがする」
と静かに呟いた。
それから俺をまっすぐに見据えて、
「はじめまして。浅月拓海」
笑いもせずに、俺をまっすぐに見据え、そう言った。
「はじめまして。嘉山孝之」
俺もまた、それに答えた。
嘉山はかすかに笑う。
「俺を知っているんだな」
嘉山は、そう言った。俺は頷いた。
「視聴覚室?」
「そうだな」
「そっちも俺を知っているみたいだ。視聴覚室ってわけでも、ないんだろ?」
嘉山もまた、頷いた。
「……不思議な奴だな、おまえは」
そう声を掛けると、嘉山は鼻で笑う。
べつに、問い詰めようと思ったわけじゃない。でも、疑問は口から、自然と溢れだしていた。
「嵯峨野連理に本当のことを話さないのは、やさしさのつもりなのか?」
余裕ぶった表情に、少し違う気配が混ざる。
含まれているのは驚きと、
予感が確信に変わったような、不自然な動揺。
「豪雨の日の河川敷で、嵯峨野葉羽とおまえは一緒にいた。嵯峨野葉羽は濁流に呑まれて死んだ。
彼女は、氾濫しそうな川辺りに近づいたおまえを止めようとして、流された。それで合ってるか?」
「踏み込んでくるね、浅月くん」
「……及川ひよりと、俺は同意見だな。どうして、嵯峨野を庇う?」
「……」
「おまえが理由もなく川に近付いた。そういうことに、おまえはした。
でも違うんだろ? 嵯峨野葉羽は探しものをしてたんだ。嵯峨野連理からの贈り物だった腕時計だ。
なくすことをおそれて、嵯峨野葉羽は落とした腕時計を探していたんだ。そうだろ?」
嘉山は静かに笑った。礫岩のような笑み。棘も毒もない。
「どうして、自分のせいってことにした? 俺にもまったく、理解できない。
嵯峨野連理に憎まれてまで、どうしてあいつに本当のことを隠したんだ?」
「……今となっては、俺にだって分からないよ」
嘉山はまた笑った。
「高森蒔絵の顔を見て、びっくりした。連理兄も動揺したんだろうな。いまさらまた俺を責めはじめた。
あんまり酷い言い草だったもんだから、ひよりもさすがに、連理兄に本当のことを教えようとした。
そういう結果が、例の騒動の……半分だ」
半分、と、嘉山は言う。
「でも、今日話したいのは別のことなんだ」
「……話したい? それは、俺とか?」
「ああ。どうしておまえは――『それ』を知ってるんだ?」
一瞬答えに窮した俺に、嘉山は言葉を続ける。
「なあ浅月。現第一文芸部の部員に、鷹島スクイという男子生徒がいるのを知ってるか?」
俺は、
なぜだろう、少し驚いてから、
「……知ってる」
と、そう答えた。
「どうして知ってる?」
「どうして、って」
「誰も見たことがないんだ」と嘉山は言った。
「部誌を作る時期になると、いつのまにかそいつの名前で原稿が提出されている。
でも、普段そんな奴が部室に来たことはないし、名簿を見ても、そんな名前の奴はいない。
きっと、名前を知られたくない奴が筆名を使ってるんだと、気付いた奴らはそう思ってた」
「……『思ってた』?」
「該当者がいないんだ。部誌を出すごとに、毎回何人か原稿を書かない奴はいるが、
全部の時期を見てみると、一応全員が、バラバラにではあるけど、提出してるんだ。
鷹島スクイは去年の春以降、ずっと原稿を提出してる。二本、名義を分けて提出してる可能性もないではない。
でも、どうしてそんな名前なんて使う?」
「……」
「『鷹島スクイとは、誰か?』」
なんだ、こいつは。
どうして俺は、こんな話を今、されているんだ?
「鷹島スクイの小説には、いつも屋上が登場する。屋上と煙草と飛び降り自殺。
虚無的で厭世的な言葉の羅列。あれは、ほとんど呪詛だ」
「……」
「ずっと気になってたんだよ。そんな文章を書く奴が、いったい誰なのか。
あんな内容だったら、たしかに本名をさらしたくないのは納得がいく。
べつにたいした理由があったわけじゃない。誰にも言ってなかったけど、俺はそいつが誰なのか、ずっと調べてた」
鷹島スクイとは、誰か?
鷹島スクイは、鷹島スクイだ。
他の誰かじゃありえない。
「屋上によく出入りしている生徒を調べた。本校舎の方じゃない。スクイの小説に登場する屋上は、あっちじゃない。
こっちだ。東校舎の屋上が、明らかにモデルになってる」
「……」
「ここで煙草を吸ってる奴がいるって噂、浅月は知ってるか?」
「……聞いたことはあるな」
「部誌の第一稿のデータを消したのは俺だ。ひよりは、葉羽が死んだ理由を、連理兄に明かそうとした。
俺はそれを止めたかった。でも、部誌を燃やしたのは俺じゃない。あれは、俺が処分するまえに、部室からなくなってたんだ」
「……」
「焼却炉は以前から使用不可になっていた。火を持ってる奴じゃないと、燃やすなんてことはできない」
「……」
「火なんて誰でも用意できる。ライターだろうがマッチだろうがその辺で売ってるし、誰にでも手に入れられる。
わざわざ部誌を燃やすために火を用意するっていう不自然さを棚上げするならな」
「……」
「犯人はたぶん、文芸部の関係者だろ。あいつらは基本的に真面目な奴らばかりだから、火も使わないし、煙草も吸わない。
心当たりがあるとすれば……ひとりだけ。鷹島スクイだけだ」
嘉山は、また笑った。
「……奇妙な名前だよな。鷹島スクイ。つじつま合わせみたいだ」
「鷹島 スクイ」と、彼はずっと前、俺に名乗った。
――変な名前。
――俺のせいじゃない。
――親のせい?
――いや、おまえのせいさ。
「なあ浅月……制服の内ポケット、膨らんでないか?」
「……」
「――煙草じゃないのか、それ?」
―― 不安ならページをめくらなければいい。その先に何があるのかなんて誰にも分からないんだから。
―― ひょっとしたら、知ってしまったら後悔することになるのかも。何もかも、台無しになってしまうかも。
―― それでもどうしても"つづき"が知りたいなら、"その後"を知りたいなら、それなりの覚悟をしなきゃいけないよね。
俺は、
右手をあげて、左胸の内ポケットのあたりに触れる。
かすかに硬い感触。
覚えは――ない。
鷹島スクイ。
タカジマスクイ
takazimasukui
――アナグラムってなんですか?
――暗号みたいな奴だよ、文字入れ替えて別の文つくったりする奴。
――よくあるんだよな。ある人物の名前を入れ替えると別の言葉になったりするの。あとは別の名前になったり。
takazimasukui
a azi s ku
t k ma u i
―― 一作目のテーマはね、"とにかく楽しい"だった。それを実現するために、わたし、どうしたと思う?
――"覆い隠した"んだよ。
「――はじめまして、だな。鷹島スクイ。部誌を燃やしたのは、おまえなのか?」
つづく
おぉぉぉ!乙です!
乙です
乙
おつ
そうではないかと思ってたけど途中から不安になってた
少しの間更新滞ります。
嘘だろ……こんないいとこで……
確かに焦れる所で
ゆっくり待ってます乙
◇
――カメラのシャッター音が聞こえた。
直前まで居た場所を引き剥がされたあと、奇妙な浮遊感とともに運ばれ、地面に叩きつけられた、ような、錯覚。
そんな目覚め。
瞼を、開きたくない、と思った、のに、開いてしまった。
俺は、硬いコンクリートの上に寝そべって、空を仰いで寝そべっていた。
七月の青空は高く澄んでいて、俺はいろいろなことを忘れてしまいそうになる。
――どうして捨てたの?
いや、違う、逆だ。
忘れていたことを、思い出しそうになったんだ。
――他にどうしようがあった?
「起きました? せんぱい」
声の方に、目を向ける。動かしたのは、肩かもしれないし、首かもしれないし、目かもしれない。
小鳥遊こさちが、こっちを見て笑っていた。
真昼の太陽を浴びて、彼女の髪は白い光をまとって透けている。
空に近い場所なのに、妙に暗い。そう思ってふとあたりを見ると、給水塔の影に入り込んでいた。
いつのまに、こんな場所に来たのだろう。
「はやく起きてください。こんな機会、なかなかないんですから」
言われるままに、俺は体を起こす。
妙な倦怠感、虚脱感。
給水塔のスペース、梯子を昇った先、屋上の、さらに上。
見下ろす屋上には、嘉山孝之と、鷹島スクイが立っていた。
「逆にひとつ、訊ねたいことがあるんだ」
と、スクイは言う。
「訊ねたいこと?」
嘉山は、怪訝そうに眉をひそめる。
ふたりのやりとりを、俺は見下ろしている。
この、不自然な視座。
自分の立ち位置に対する違和感。
現実と結びついていないような浮遊感。
身体から切り離されたような、欠落感。
「残念ながら、こさちは性格があんまりよろしくないので、分かりやすい解説なんてしてあげないです」
そう言って、彼女は携帯をポケットにしまう。さっきのシャッター音は、どうやらまたこれだったらしい。
「……どうなってるんだよ。俺、さっきまで嘉山の前に」
「そ、ですね」
「スクイはいつのまに戻ってきたんだ? どうしてあいつがあそこにいる」
「不思議ですね」
「こさちは、いつからここにいた?」
「こさちは、いつでもせんぱいを見守っているのですよ」
「……」
「なぜならこさちは、せんぱいの守護霊だからです。あ、うそです」
「……せめて信じるか疑うかの反応をうかがってから否定してくれ」
「ちょっとは和みました?」
「うざい」
「あは、案外平気そうですね」
こさちはからから笑う。
そんな俺達の声がまるで聞こえないみたいに――聞こえていないのだろうか――下のふたりは、話を続ける。
「部誌を燃やしたのは、おまえじゃない。だったら、どうして犯人だと名乗り出るような真似をした?」
「本当にわからないのか?」
「ただの確認だよ」
「……タチが悪いな」
「そういう役割なんだ」
「……おまえたちが、部誌が燃やされた理由を、調べようとしたからだ」
部誌。……そうだ。部誌を燃やしたのは、スクイだったかもしれない。嘉山はそう言っていたんだ。
どうして忘れていたんだろう。どうしてスクイが、部誌を燃やしたりするんだ?
「ありゃ、やっぱそうなっちゃってましたか」
こさちが俺の顔を見てそう呟いた。
「なに?」
首をかしげると、彼女は「なんでもないです」と顔の前で手を振った。
「ところでせんぱい、こさちがひとつお話をしてあげましょう」
「……なに」
「分離脳って言葉をご存知です? 左右の脳をつなぐ脳梁って奴をズパッと切っちゃうやつです」
「はあ」
「まあ、ちょろっと知ったかぶりしたいだけの知識なんで、詳しくは知らんですけど、てんかんとかの治療に行われたりするらしいですね」
「実際に行われてるの?」
「そんなん知りませんよ。こさちは神様ですか?」
「……」
「あ、神様じゃないですよ。神様じゃないです」
「どうでもいいよ」
「ま、そんなこんなで、脳をまっぷたつにしちゃうわけです。どうなると思いますか?」
「どうなるって……」
「……」
「どうなるの?」
「素直でよろしいですね。分離脳になっちゃうと、たとえば左目で見た絵に描かれているものがなんなのか、答えることができなくなります」
「なんで?」
「めんどくさいんであとでウィキペディア見てください。言葉とかそこらへんを司ってるのが右脳なんじゃないんですか」
「いや、言語はたしか左脳だし……ていうかそもそも左目とか右目じゃなくて、両目の右視野と左視野で分かれてるんじゃ……」
「じゃあそれでいいです! どうでもいいんで水差さないでください!」
どうでもよくはないと思うし、あんまりな付け焼き刃だとも思う。
「それで、いいですか。分離脳の人の左目に「立ち上がれ」と書いた紙を見せるとですね……」
「左視野な」
「うるさい人ですね! 本が間違ってたんです! どうなると思います?」
「立ち上がるんだろ」
「そう! それで……」
「『どうして立ち上がったのか』と訊ねても、『紙で命じられたから』とは言わない」
「……知ってたんですか。なかなかに性格悪いですね」
「作話だろ。それらしい理由を、脳は勝手にでっちあげる。本人はそれが真実だと思い込む」
「そうです。なので、気付いたら突然さっきまでと別の場所にいても、人間の脳は合理的な理由をでっちあげるのかもしれないですよね」
「……」
「『夢でも見てたんだな』、みたいな」
「……で?」
「なんでもないですよ。なんでもないです。せんぱいのこと嫌いになってきました」
「……何が言いたいんだよ」
「認識も記憶も、けっきょくのところ、事後的なつくりものなのかもしれないですよね」
「……」
何が言いたいのか、さっぱり分からない。
嘉山とスクイの話は続いている。
「おまえたちが……第二の奴らが、部誌を燃やした犯人を調べ始めた。佐伯と、林田。
データは処分できたけど、部誌を燃やしたのは俺じゃない。もし燃やした奴が、ひよりの書いた原稿部分を切り取って燃やしてたら……。
もちろんそんなことをする理由はないけど、何かの拍子で、連理兄の目にもとまるかもしれない。それは避けたかった」
「火消しってわけか」
「まあ、そうだな」
「なるほどね……そのせいで、第一の連中に疎まれるはめになってまで、わざわざ」
「……」
鷹島スクイは、制服の内ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。
嘲るように笑う。
嘉山は挑発的な態度を取り合わず、質問を繰り返す。
「それで……部誌を燃やしたのは、おまえか?」
鷹島スクイは、それがまるで、たいしたことではないというふうに、
「そうだよ」
と肯定した。
俺は、その言葉に烈しいショックを受けた。
なぜかは分からない。だってスクイは、関係がないと言っていたのだ。
俺たちには関係のないことだと、俺にはそう言っていたのだ。
「……どうして、そんなことをした?」
「どうしてだろうな?」
「……」
「知りたいか?」
スクイのその言葉を聞いて、俺はまた何かを思い出しそうになる。
……逆かもしれない、何かを忘れようとしているのかもしれない。
「せんぱい、ジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』は読んだんでしたよね?」
「……また、話題の変化が唐突だな、おまえ」
「おまえじゃないです。こさち、です」
ふてくされたみたいに、こさちはそっぽを向く。結ばれた後ろ髪が子猫みたいに揺れ跳ねた。
「どんな話だか、覚えてます?」
「……記憶の話だったと思う。それが?」
「でしたね。べつになんでもないです」
「……なんなんだよ、おまえ」
俺たちの会話なんて存在しないみたいに、ふたりの会話は続いている。
映画の観客にでもなった気分だった。自分の発言や行為が、まったく現実に影響を与えていないような、感覚。
「残念だけど、口止めされてるんだよな」
スクイは、そう呟いた。嘉山は、苛立ったようにスクイに詰め寄る。
「誰に?」
「知ったところで、意味なんてないと思うよ。おまえや及川には、関係のない相手かもしれない。
そいつが何の関係もなく、部誌を燃やしたい理由があったのかもしれない。
なんなら、俺が『ストレス解消に燃やしました』ってことにしてもいい」
「……いいから言えよ」
嘉山の声は低く震えた。
「関係ないなんてわけ、あるかよ。なんで燃やした。誰が、口止めなんかするんだ?」
嘉山の腹立たしそうな声を、スクイはあっさり受け流して、
「心当たりがあるから、問い詰めるんだろ?」
そう言って笑う。
「スクイはホント、性格が悪いですねえ」
「ホントにな」
「他人事みたいに言いますね?」
こさちは俺の肩をぱしぱし叩いた。
「……連理兄か?」
嘉山は、震える声で、スクイに訊ねる。
スクイは肯定も否定もしない。
「連理兄は、あれを読んだのか?」
「……さあ?」
「答えろよ」
「……何か勘違いしてないか、おまえ。部誌を燃やしたのは、おまえってことになってる。なにせ自白したんだからな。
いまさら俺がやったなんて言っても、誰も信じない。仮におまえが俺を告発したところで、俺はぜんぜん、困らない。
おまえは優位者じゃないんだ。おまえの問いに親切に答えてやる義理が、俺にあるか?」
「……」
嘉山は黙りこむ。
「スクイは悪役が似合いますね」とこさちは言う。
「……悪役」
その言葉に、ちくりと胸が痛む。
「しいていうなら」とスクイは言う。
「手段は指定されなかった。だから燃やした」
「……『指定』。頼まれて、燃やしたのか」
「オイディプス王がどうして盲いたかを知ってるか?」
「……何?」
「……本当のことなんて知ってどうする? 知ったらろくでもないことなのかもしれないぜ。
いいんじゃないのか、おまえの行動には理由があって、俺の行動はそれとは関係ない。それでいいだろ」
「いいから答えろ!」
「そんなに心配なら、嵯峨野連理に直接訊けばいい」
「……」
「答えてくれるかもしれない」
俺はなんとなく、怖くなる。
鷹島スクイ。怪物のようだと、ぼんやり思う。這いうねる影のように、ゆっくりと首筋に手を伸ばし、静かに締めていく、そんな。
「嘉山、勘違いするなよ。俺はおまえのことなんて、どうでもいいんだ」
「……」
「俺はおまえのことなんてどうでもいい。だから本当は、教えてやってもいい。
約束はしているが、知らずにいるのも哀れな気もするし、知ってしまうのも哀れな気もする。
だからいくつかヒントはやった。あとはおまえ次第だろ。知ろうとするのも、知らずにいるのも勝手だ。
どうしても気になるなら、心当たりに訊いてみろよ。あたりかはずれか、話してもらえるかどうかは、俺の知ったことじゃない」
嘉山はしばらく黙りこんだまま俯いて、じっと何かを考えているようだった。
それから静かに踵を返し、屋上を去っていく。
扉を出る瞬間、わずかに立ち止まって、
「俺は、おまえが嫌いだ」
と、そう呟く。俺は不思議と傷ついた。
「……こさち、前に『あれはあれでいいやつ』って言ってたっけか?」
「今のやりとりを見ると、前言撤回したくなりますね。さすがに好き放題です」
「……敵に回したくはないな」
「でもま、スクイにもいいところはあるんですよ。定期テストを真面目に受けてたときは、ちょっと笑っちゃいましたけど」
「……定期テスト?」
ほら、と言って、こさちは携帯を俺に差し出してくる。
画面に映っているのは、教室だ。生徒たちが席について、机にかじりついている。
問題用紙と答案用紙。いつかの、試験の写真。
「こんなのどうやって撮ったんだよ」
「そんなの、気にしたってしゃーないです。ほら、ここ」
といって、こさちは画面に映っている生徒の一人を指す。
それは、俺の姿だった。
「……これが、なに」
「記憶にありますか?」
「……記憶にもなにも」
――六月に部誌出すっていったって、もう再来週には定期テストが始まるわけじゃない?
「……」
……定期テスト?
俺は……受けたか?
いや、思い出せないだけで、受けたんだろう、きっと。どうして覚えていないかはわからないけど。
――浅月、聞いてる?
――ついさっきまで話してたでしょ。なんで急にわかんなくなるの?
――上の空って感じじゃなかったし……まあ、いいんだけど。
「……」
「とはいえ、そういうことが起きるようになったからこそ、こういう事態になったんでしょうけどね」
「……何を言ってるんだ? もっと分かりやすく言ってくれないか」
「べつに、無理して分かる必要もないと思いますよ? それでもべつに、生きてはいけますし」
「……」
「でも、そうですね。スクイも、悪い奴じゃないってだけで、良い奴じゃないかもです」
ほら、とこさちは新しい画像を俺に差し出す。
写っていたのは、コンビニの店内だ。カウンターに立っているのは、俺のように見える。
「そりゃ、そうですよね。年齢確認で身分証の提示を求められたら、学生の身分で煙草なんて買えないです。
でも、自分が売る側なら、タイミングを見て買うことなんていつだってできますよね。
たとえば、ほら。誰かひとりが裏で在庫の整理をして、もうひとりがトイレ掃除にでも行ったら、カウンターに残されたひとりは買おうが盗もうが自由です」
「……」
「防犯カメラはありますけど、何かないかぎり頻繁に確認なんてしませんし、買うにしてもお金をレジに入れとけば違算にもならないです。
盗むにしても、会計を立てなければレジ金のチェックだけじゃ分かりませんからね。棚卸しで同一商品だけがマイナスなら、おかしいと思われるかもしれませんが」
まあ、ちゃんとお金を払うのがスクイの律儀さですよね、と、こさちは付け加えた。
画像のなかに客はいない。俺はひとり、手のひらで覆った何かをレジに通している。
それが何なのかは、俺にはよく思い出せない。
「こさちは、ときどき考えるんです」
隣で、彼女はそう呟く。
「さっき、スクイも言っていました。知ってしまうことは、必ずしも幸福ではないかもしれない。
オイディプス王は、知ってしまったからこそ盲になってしまったんです。
でも、だからといって、知らずにいて、それで幸せになれたんでしょうか?」
いつだったか、スクイが言っていた。
"幸福は、感受性の麻痺と想像力の欠如と思考の怠慢がもたらす錯覚だ。"
「知らずにいたところで、オイディプスは幸福にはなれなかったと思う。
何かを覆い隠して、ごまかして、見ないふりをして手に入れた幸福は、その見ないふりをした何かに、やっぱり食い殺されてしまうんだと思う」
こさちの言葉は、たぶん俺に何かを伝えようとしているんだろう。
それは俺にだって分かる。
「テイレシアスの言葉がオイディプスを苦しめたのではないはずなんです。それは、オイディプスの内側に、すでに巣食っていたものなんです」
「……」
高森が、"続き"を書くのを嫌がっていたことを思い出す。
求められるのは反復で、続きじゃないから、と彼女は言った。
人も、景色も、変わっていって、前のままではいられない。
俺だって、そうだ。
るーに会うのが怖かった。
昔の自分のことなんて、もうろくに覚えてないけど、
その自分との違いに、がっかりされたら、うんざりさせたら……。
今の俺を知ることで、るーががっかりしたら、
俺は、
だから、るーに会いたかった。
るーに会いたくなかった。
今の自分を知られたら、きっと失望させるだけだから。
退屈させるだけだから。
世の中には俺よりまともな奴がたくさんいて、俺より優れた奴も、楽しい奴も、優しい奴も、たくさんいて。
年を取れば取るほど、誰だって、世界にはたくさんの人がいることがわかってくる。
そんななかで、俺みたいな奴と一緒にいてくれる奴なんて、よっぽどの変わり者だけだ。
そんな変わり者がそばにいることを期待するほど、俺は無邪気じゃない。
「だから隠した」とこさちは言う。
俺は分からないふりをする。
「本当にそうなんでしょうか?」とこさちは言う。
その言葉がどこに掛かっているのか、俺には分からない。
「隠されたものは、でも、なくならないんです。ずっと奥の方で、機会を待っている。
堆積して、鬱積して、それが重ければ重いほど、強ければ強いほど、
見えないところで、勝手に歩き始める。誰かがそれを、影と呼んでいました」
そう言って彼女は笑う。
「でも、それもおしまいですね」
「なにが、おしまい?」
「聞こえませんか?」と彼女は言う。
俺は耳を澄ます。
「もうすぐですよ」
「……なにが」
「ほら」
――扉が開く音。
◇
「タクミくん、ここにいたんですね」
その声が聞こえたとき、俺の隣にこさちはいなかった。
スクイの姿も消えていた。俺は給水塔のスペースではなく、屋上の中央に立っている。
変わらない真昼の太陽が、なぜかさっきまでより肌に突き刺さる。
俺は、
振り返る。
るーがそこに立っているのが、分かる。
指先にも、唇にも、煙草の感触はない。でも、口の中に気持ち悪い味が残っている。
「……」
抜けるような青空。
日差しはもう、夏のものだ。
蝉の鳴き声がどこかから聞こえる。
俺は死んだような顔をしている。
きっと。
「タクミくん?」
どこか、怯えたような顔を、るーはした。
足元に落ちた吸い殻のせいじゃない。
"目"のせいだ。
俺はそれを知っている。
鷹島スクイの目。
彼の目が、他人にどういうふうに見えるのか、俺は知っている。
だから、前髪で隠していた。見えないように、気付かれないように、嫌われないように。
"続き"なんて、失望させるだけだ。
めでたしめでたしで物語が終わったのなら、その先なんて知ろうとするべきじゃない。
るーは、いつもみたいに笑おうとして、失敗していた。ちょっと、驚いて、動揺していた。
俺はその動揺が分かるのが嫌だった。
「来るなよ」
と、そう言った。初めてかもしれない。
「それ以上、近付くな」
るーは、そこで立ち止まった。
俺は彼女に背を向けて、フェンスの方に近付いていく。
見下ろす街には、ひとびとが暮らしている。
何を考えて、何を思っているのかは、ここからじゃ分からない。
彼女のことが好きだ。
会いたかった。会いたくなかった。話したいことがたくさんある。知られたくないこともたくさんある。
本当のことなんて、隠したままで、本当の気持ちなんて、知られないままで。
そのままぼんやり、へらへら笑ったって、本当は、それでもいいはずなんだ。
でも、誰かの目に映っている自分と、自分で思う自分が乖離していって、まるで、
騙しているような気分になる。
俺が彼女に求めているものを、彼女はきっと俺には与えてくれない。
彼女が俺に求めているものを、俺はきっと彼女に与えられない。
るーは、立ち止まる。
それでいいんだ。
適当にごまかして、それらしい言い訳をして、今日みたいな日は隠しきればいい。
いつか彼女も、俺のことを忘れる。
それでいい。
近付くのは怖いから、知られて軽蔑されるのは嫌だから、落胆されるのは嫌だから。
るー、俺は変な奴なんだよ。
逃げて、怯えて、隠れてるくせに、それがバレるのが嫌だから、強がって、当たり散らして、見下してるふりをしてるんだ。
ちっぽけな自分を知られるのが嫌だから、飾り立てて、ごまかして、底上げしたつもりになってる。
どうしてみんな、笑いながら生きていられるのか、俺にはそれがよくわからないんだ。
どうしてみんな、あんなふうにすいすい言葉が出てくるんだ?
どうしてみんな、あんなふうに笑っていられるんだ?
俺にはそれが、ひどく恐ろしいことのように思えるんだよ。
真似事を、してきたけど、そこそこ楽しんでもきたけど。
本当は、根っこの部分じゃ、分からないままなんだ。
そんなことを知ったらおまえだって俺のことが嫌になるだろう。
だから、どっかに行けよ。
そう思った。
「人に迷惑をかけちゃ駄目だよ」「ちゃんと言うことを聞きなさい」
「聞き分けがないと置いていくよ」「いいから我慢しなさい」「よくできたね」
「おまえには向いていないよ」「どうせ続かないだろう?」「いつもそうなんだから」
「人には向き不向きってものがあるのさ」「あの子とはあまり遊ばない方がいい」
「買ったってどうせすぐ飽きるだろう?」「いいから勉強しなさい」「おまえのことはちゃんと分かっているよ」
「そんなことをやってどうする?」「そんなことを言っていいと思っているのか?」
「そう言って続いたことが一度でもあったか?」「自分の意見というものがないのか?」「ちゃんと返事をしなさい」
「同い年くらいの子は、そんなことは当たり前にできるんだぞ」「その程度で満足するな。出来て当たり前なんだ」
「今度の連休は旅行にでも行くか。どこがいい?」「あれなら捨てておいたよ。どうせ使っていなかっただろう?」
「ああ、いたのか」「そんなに勝手なことばかり言うな。こっちだって仕事で疲れてるんだ」
「成績上位なんだって? 誇らしいよ」「何かしたいこととかないのか?」「つまらない奴だな」
「おまえが何も言わないから、いつも俺が決めてやっていたんじゃないか」「つまらないことばかり言ってないで、勉強しろ」
「それしか取り柄がないんだからな」「いったい誰に似たんだ?」「何か熱中できるものとか、ないのか?」
「おまえはいつもどこか冷めた感じだな」「ときどき心配になるよ」「頭が良いからなんだろうな」
「そんなことを言ったって仕方ないだろう?」「他にどうしようがあった?」「俺だってやりたくなかったさ」
「よし、母さんは出掛けてるし、ふたりで外食でもいくか」「俺は、あんまり好きじゃないな、これ」
「酒を飲むのは、おまえにはまだ早いさ」「あんまり悪いことはするなよ」「遊馬くん、だったか? 騒がしい子たちだったな」
「あんなふうにはなるなよ」「いいか、タクミ」
「人を裏切るようなことだけは、するな」
どうせ俺のことなんて、みんな嫌になる。
楽しいことがわからない。自分がしたいことがわからない。
何を望んでいるのか、何がしたかったのか、何が楽しいのか、分からない。
子供の頃は、分かっていたのか?
それさえ分からない。
隠していたもの、見ないふりをしていたものが、頭の奥から噴き出してくる。
わけもわからずに、叫びだしたくなる。
よだかのことだって、全部、俺は本当はどうでもよかったのかもしれない。
父を得られず、母を亡くしたあいつが不幸なら、
父と母が生きている俺は幸福なのか?
誰か俺に教えてほしい。みんなどうして生きていくんだ?
何が支えになってるんだ? 何を拠り所にしてるんだ?
俺にはまったくわからないんだ。
俺なんて、誰にとっても換えのきくどうでもいい存在で。
いなくなってもかまわないがらんどうで。
タチの悪いだけのまがいものだ。自分ってものが、まったくどこにもないんだ。
「本当にそうなんでしょうか?」と、こさちは言った。
背中が、
掴まれた。
「……俺は、来るなって」
そう言った、と、言おうとしたけど、心臓がうまく動いている感じがしなくて、続く言葉が出なかった。
「……はい」
と、すぐうしろから声が聞こえた。
「逆らっちゃいました」
あんまり、あっけなく言うものだから、言葉を返すつもりにはなれなかった。
「煙草くさいです、タクミくん」
「……うん」
「何か、あったんですか?」
「何もないよ。何もない」
「……」
俺のことなんて、気にするなよって。
気にかけてもらえるような人間じゃないんだって。
そう言いたかったけど、そんなことを言ったら逆効果だろうから、言わなかった。
「……そうですか」
と、るーはそれきり、黙りこんでしまった。
こんなことばかりだ。
本当に不思議なんだ。
愛想を尽かされてもいい頃なんだ。
なんでいなくならないんだ?
予鈴が鳴ったのが聞こえた。
背中に、トン、と何かが当てられる。
首だけで振り返ると、るーが、俺の背中に額を押し付けていた。
「じゃあ、わたしも、なんでもないです」
「……」
「……話してくれても、いいです」
「……」
「話してくれなくても、べつにいいです。笑ってなくても、いいです」
この子は、どうして、
俺のことを嫌がらないんだろう。
「不思議ですか?」
「……うん」
「教えてあげません。きっと、信じないだろうから」
「……信じないって」
「うん。今のタクミくんは、きっと、信じてくれないだろうから」
だから言いません、と彼女は言う。
「いつか、そのときが来たら、全部話します」
「……」
「今は、そんなの、いいですから。もうすぐテストで、終わったら夏休みで、夏休み明けには文化祭で」
「……」
「楽しいこと、たくさん、するんですよね?」
本当に、そうできたら、どれだけいいだろう。
鷹島スクイは、俺だ。
俺のなかに住んでいる。さっきまで、分からなかった。追い出して、吐き捨てたものが、人の形になって歩き回っていた。
あれは俺だ。俺のなかの泥濘だ。
その処置に、俺は迷う。
この高校を卒業するとなったとき、俺はどこに行けばいいんだろう。
誰が、俺と居てくれるんだろう。
そんなことばかりを、俺は考えてしまう。
「タクミくんの、ばか」
考えごとの最中に、そんな声が聞こえて、
「ばか」
聞こえて、
「ばーか」
くすぐるような甘い声が、
考えごとをやめさせた。
「なんだよ急に」って振り返ったら、るーは「してやったり」って顔で、へへっと笑った。
猫みたいだと思った。
嘉山のこと。スクイのこと。こさちのこと。嵯峨野連理のこと。
あまりに未整理で、混沌としている。
よくわからないことの連続。
どうするべきかは、今は分からない。
よくわからないことだらけだ。
それを俺は、どうするべきなんだろう。
「……たばこくさい、です」
るーが、そう呟く。
そうなんだろうな、と俺は思う。
つづく
745-4,5
「そうだな」
「そっちも俺を知っているみたいだ。視聴覚室ってわけでも、ないんだろ?」
↓
「そうだな。そっちも俺を知っているみたいだ。視聴覚室ってわけでも、ないんだろ?」
乙です
つづけ!
もうよくわからん
るーかわいい
乙です!
俺もよくわからんがるーがかわいい
続け
鬱屈は人を避けると余計拗らせるんだからおとなしくるーと楽しいことをするんだ
るーかわいいよ乙です
◇
「あ、そうだ。タクミくんに話があって探してたんですよ、わたし」
と、さっきまで俺の背中に額を当ててたことなんてなかったみたいな当たり前の顔で、るーは口を開く。
予鈴がとっくに鳴り響いたあとの廊下を、俺たちはゆっくりと歩いていた。
「話?」
「すず姉に、タクミくんがバンドやるかもって話をしたんです」
「するなよ」
しねえぞ。
「そしたらすず姉乗り気で、『なんならベース教えるよ』って」
「……はあ」
「ということを話すためにタクミくんを探して教室に向かったところ、ゴロー先輩がいたので先にそっちに話したんです」
余計なことを。
「と、ゴロー先輩、ノリノリでして」
「だろうね」
俺は溜め息をついた。
タチが悪いのは、すず姉やゴローだけじゃなくて、るーもけっこう乗り気だってことだろう。
じゃなきゃ、そんな話をすず姉にしたりしない。
「まずかったですか?」
「まずいとは言わないけれど」
うまいとも言えないのが困ったところだ。
「嫌ですか?」
「嫌ってわけじゃ……」
「……」
「……まあ、正直」
「どうして?」
「文化祭は夏休み明けすぐで、俺は初心者、ゴローもほぼ初心者、ドラムはいない」
「はあ」
「無理があるだろう」
「そうですかね?」
そうだろ。
階段を降りていくるーについていきながら、俺は話を続ける。
「恥をかくか、真面目にバンドやろうとしてる奴に水を差すだけだよ」
「恥をかくか水を差すかって、語呂いいですね」
「聞けよ」
「タクミくんの言いたいことも分かりますけど……」
と、るーは俺の顔を見上げながら不満気に続ける。
「試しにちょちょっと触ってみて、悪乗りだけでバンドやったって、別に怒られはしないと思いますよ」
「どうかな。ステージ発表を募集してるっていっても、やりたがる奴の中から選考されるんだろ」
「発表に堪えないレベルならふるい落とされるんですから、なおのことやってみてもいいんじゃないですか?」
「……」
「タクミくんは口を開くとやらない言い訳ばっかりですねー」
るーは拗ねたみたいに、おどけたみたいに、からかうみたいにそう言った。
まあ、図星だ。
るーは階段を降りていく。
「とにかく、すず姉が乗り気だったんです。それで、よかったら今日うちに連れて来てって」
「今日?」
「すず姉、暇してるみたいなので。ゴロー先輩も来たいって言ってました」
「あいつ、調子がいいときはフットワーク軽いよな。でも、俺ベースとギターの違いも弦の数くらいしか知らないし」
「タクミくんは乙女心がわからないひとですね」
となぜか乙女心を説かれる。
「なんのかんの理由をつけて、すず姉はタクミくんに会いたいんですよ。タクミくんが懐かしいんです」
「……や。なことないと思うけど」
「そうなんです!」
「……ホントにすず姉?」
「なにがですか?」
「なんのかんの理由つけて俺を呼ぼうとしてるの、るーじゃないの?」
「……ど、どーしてそう思うんです?」
「るー、おまえ、すず姉が会いたがってるとかどうとか言って……」
「……」
「俺にバンドやらせたいだけだろ」
「……はい?」
「違うの?」
「……あ、はい。それでいいです」
微妙な反応だ。
「……まあとにかく、タクミくんに乙女心は分からないということで」
「さっぱり納得のいかない結論だな」
「まあまあ、いいじゃないですか。ちょろっと触ってみるだけでも。すず姉のベースすごいですよ。アンプとかすっごいでっかいですよ」
「言われてもすごさが分からんしな」
「ちなみにアンプとベースを繋ぐ線のことをシールドと呼ぶそうです。コードと言ったらまぎらわしいらしいです」
「ああ、和音をそう呼ぶからだろ?」
「……なんでそんなこと知ってるんです?」
「前に本で」
「タクミくんのそういうところ、ときどきすごいと思いますよ」
とるーは呆れ口調で笑う。
「……ところで、俺たちはどこに向かってるの?」
「はい?」
「教室、過ぎてるよな」
「え? 体調を崩したわたしのために保健室まで付き添ってくれたから、タクミくんは午後の授業に遅刻したんですよね?」
「……いや、なんだそれ」
「ごほっ、ごほっ」
わざとらしい咳をし始めた。
「あー、体調悪いなー、誰かが保健室まで付き添ってくれないかな―」
猿芝居だ。
「……サボるなよ」
「サボりじゃないですよ。ちょっと熱っぽいんです。ホントですよ。無理をしてテスト本番に影響しても困るんです」
戦略的撤退です、とるーは真顔で言った。
俺はためしにるーの額に手のひらを当ててみる。
「……熱はなさそうだけど」
「……た、タクミくんの手が熱いのでは?」
「否定はできないけど」
るーは、バレバレの嘘を叱られると思ったのか、俺と目が合わないように視線を泳がせている。
ちょっと緊張した素振りが、なんとなく新鮮だ。
「……まあ、本人が体調悪いって言ってんだから仕方ないよな」
それに、遅刻の理由は俺だ。たぶん。そう言っていいのか、いまいちわからないけど。
なんだか、俺のせいで遅刻したって思うのは、内心だけでも、なんとなく傲慢な気がする。
思い上がっているという気がする。
「と、とにかく!」
と、るーは頭を揺すって俺の手を振り払って、怒ったみたいに顔をそむけた。気安く触れられたのが気に入らなかったのかもしれない。
「保健室! です!」
「……あ、うん」
まったくもう、とどこか困った調子でつぶやきながら、るーは俺の少し前を歩く。
こんなに元気な病人がいるもんか。俺は少し溜め息をついて、それから内心で感謝した。
言葉にしたら無碍にしてしまう気がして、言わなかった。
「俺もさ」
声を掛けると、「なんですか?」とるーが振り返る。
「るーのそういうところ、すごいと思うよ。ホントに」
彼女は一瞬、怯んだように口を「むっ」と結んでから、慌てたみたいに前に向き直る。
「なんですか、そういうところって!」と不満気に呟く彼女の困った声がおもしろくて、俺は少しだけ笑ってしまった。
つづく
乙
かわいい
溶けそう
乙です
◇
るーの証言と俺の証言に食い違いを生むわけにはいかなかったから、俺は「体調を崩した後輩に付き添って保健室に行った」と報告した。疑われなかった。
自分の身体がなんとなくタバコ臭いような気がして気になったけど、周囲は特に反応しなかった。
俺は自分の制服の内ポケットに触れてみる。そこにはたしかに何かがある。四角い箱と丸みを帯びた楕円柱。煙草とライターだ。確かめなくても分かる。
テスト前の授業なんて出題範囲についての解説だ。聞いておくに越したことはないけど、まあ今はいいだろう。
ちょっと考えてみよう。
俺は記憶を手繰る。嘉山孝之と遭遇した昼休みのこと。そこで俺は鷹島スクイを見た。小鳥遊こさちに会った。
大丈夫、そこまでは覚えている。記憶がまがい物でないなら。
鷹島スクイは部誌を燃やしたという。嘉山孝之は俺が鷹島スクイだという。俺の制服には覚えのない煙草が入っている。
小鳥遊こさちは?
彼女は何かを言っていた。何かを俺に見せた。……そうだ、写真だ。俺が定期テストを受けている場面、煙草を買っている場面。
燃やした覚えはあるか? ――ない。
定期テストを受けた覚えは? ――ない。
煙草を買った覚え。 ――ない。
にもかかわらず、俺はそれを行っている。
……いや。
でもそれはあくまで、こさちや嘉山の言ったことだ。
こさちの写真だって、どこまで信用できるかわからない。
そもそも彼女自体、不自然なところしかないのだ。
スクイが俺であるという証明は、されていない。
しいて言えば、この煙草だけ……。
でも、そもそも、どうして俺はこれまでこの煙草の存在に気付かなかった?
誰かが制服に勝手に入れていた? 着替えか何かのタイミングがあれば不可能じゃない。
それでも再び着替えた段階で気付かないのは、ありえないとは言わないが簡単ではない。
こさちの写真は加工、煙草はスクイが勝手に入れた、こさちと嘉山とスクイは三人で俺をはめようとしている。
……通らない筋じゃないが、大掛かり過ぎる。
『鷹島スクイとは、誰か?』
煙草、画像、名前。物的証拠も情況証拠も揃っている。
嘉山の言うことを信じるなら、俺だ、と考えるのが、他人から見れば正解だろう。
問題は……。
鷹島スクイが俺だとして、『鷹島スクイがとったとされる行動』のほとんどすべての記憶が、俺には存在しない、という部分だ。
……解離性同一性障害。
多重人格?
まさか。
そんな症状を起こすような心当たりなんてない。
……ない。
ない、が……。
離人感、記憶の虫食い……。
そもそも、「心当たりがない」というのは、こういう場合はあんまり参考にはならないか。
「……」
でも、どうして煙草に気付かなかったんだ?
気付かないふり、知らないふり、『認識』……。
気付いたとしても意識から追いやられていた。これもまあ、ない話じゃなさそうだ。
「……」
――良い子だからだよ。
――おまえは自分の声を聞き流しすぎたのさ。
……さすがに、ないと思うんだけど。
手持ちの知識だけだと、心当たりがある部分が多すぎる。
……いや。
情況証拠だけ見れば、たしかに疑わしいかもしれないが、俺は鷹島スクイと顔を合わせて、対話したことがある。
あいつはたしかに存在する人間、のはずだ。
……でも、どうだろう?
俺は、俺以外の前にスクイが姿を現すところを見たことがあっただろうか。
誰かが来た途端姿を消したり、していなかっただろうか。
かといって、あんなふうに他の人格をはっきりと人間のように感じられたりするものなのか?
それに関しては……まあ、なってみないと分からなそうだけど。
通常は、存在に気付かないものではなかっただろうか。
とはいえ、まあ、似たような存在なら聞いたことはある。
イマジナリーフレンド……。
こさちは、そういえばなんて言っていた?
“影”と、そう言っていた。
思いつくのは、ユングの元型。
でも、それを言ったのはこさちだ。
こさちは、何なんだ?
……アニマ?
でも、元型論ってそもそも夢の話だったような……。
……駄目だな。
妙な知識ばっかり集めたせいで、変な方向にばっかり頭が冴える。
今俺が考えなくちゃいけないのは、俺の身体に別の人格がいて、そいつが俺の身体を勝手に動かしてるなんていうのは、“気持ち悪いし考えにくい”ってことだ。
スクイとこさちが協力して俺を担ごうとしてるだけかもしれない。
嘉山が俺をスクイと呼んだあとの記憶は、俺にはない。
そのあいだに、俺の知らない何かがあって、こさちは俺をからかっただけなのかもしれない。
いずれにしても……気になることは気になるけど……気にしても仕方ない。
俺が今考えなきゃいけないのは目前のテストのこと。
それから……なんだっけ?
◇
「そういうわけで、わたしの家に行きましょう」
と、放課後になると同時にるーとゴローが俺の教室にやってきた。
「テスト期間だけど」
「ご心配なく。わたしは勉強しますから」
「いやそうではなくてね」
「タクミ、おまえ冷静になれよ」
「……何がだ」
呆れ風味の溜め息をついて、ゴローはやれやれと肩をすくめた。こいつの妙に芝居がかった仕草を誰かにどうにかしてほしい。
「文化祭まで、夏休みがあるっていってもそう期間はないんだぜ。事態は一刻一秒を争うんだ」
「誰もやるって言ってねえよ」
「ま、ま。とりあえずすず姉に会うと思って」
「……それに関しては、異論はないんだけどな」
うまいこと丸め込まれる自分が目に見えるようで、なんとなく嫌だ。
なんてことを話しているうちに、廊下から軽い足音が聞こえてきて、教室の入り口ががたっと揺れた。
「たっくん! ゴロちゃんから招集メッセージだよ! たぶん例のアレだよ! 早く逃げよ!」
高森だった。こっちを見た瞬間、「うっ」となってる。
自分に届いたメッセージの内容を見れば、俺にも届くって分かりそうなものだ。
わざわざ教えに来ずに素直に逃げればいいものを。
「飛んで火に入る夏の虫だな」
「ゴロー、おまえ火でいいのか」
「誰が虫か!」
「……テスト期間なのに、先輩がたはみんなげんきですね」
るーの呆れた溜め息が、なんとなく納得いかなかった。
つづく
乙です
◇
「それじゃ、わたしの家に行きましょう!」
と、そんなわけで、ノリノリとるーとゴローに連行されて、俺と高森は彼女の家へと向かうことになった。
さすがに俺だってテスト前ともなれば勉強がしたかったけど(内容どうこうではなく、静奈姉が心配するから)、そこはそれ、でもある。
俺だって勉強なんかするよりみんなと遊んでいる方が楽しい。
(そうなんだよな)
相変わらずの懐かしい道は、それでもどこか遠い感じがした。
いつもよりどこか。視界に膜が張ったみたいに。
それが何のせいなのか、誰のせいなのか、俺にはよく分からない。
きっと俺自身のせいだ。
「バンドやるのはいいけどさ」と高森が言う。いいのか。
「ドラムはどうするの?」
「心当たりは一応あるんだ」
ゴローはそう答えながら、ポケットからブラックガムを一枚出して噛み始めた。
「いる?」
「いらない」
「わたしもいらないよ」
高森の言葉に、「おまえには最初からやらん」とゴローは拒否の姿勢を示す。
「うん、いらない」と高森ははっきりと頷く。
「いい天気ですね」って、ぐーんと伸びをしながらるーが言う。
彼女は楽しげに、ステップでも踏むみたいに路上を歩いていく。
どうしてだろう?
見惚れる。
それはたぶん、似たような景色を見たことがあるからだ。
目が離せない。
俺が見ていることに気付いて振り向くと、るーはちょっと恥ずかしそうにむっとした顔をつくって、なんですか、と呟く。
なんでもないよ、と俺は目をそらす。
いつもそうだ。俺は大事なことから目を逸らしている。
自分でも分かってる。
本当に俺がすべきなのはきっと、
――にゃー。
と、猫の声がした。
「……」
振り返ると、一匹の白い猫が向こうの角で立ち止まっている。
「タクミくん、どうしたんですか?」
「猫だ」
「どこですか?」
るーが俺の視線の先を追う。
「もういっちゃいました?」
「……ああ」
猫はもういなかった。
「ざんねん」とるーは言う。
「いたら、どうするつもりだったの?」
「べつに、どうもしませんよ。好きなんです。猫」
「そう」
「タクミくんは、犬派ですか? 猫派ですか?」
「……どうかな」
「俺は断然猫派だ」
とゴローが言う。
「なにせ飼ってるからな」
「……」
猫。猫。猫のことばかり考えてしまう。忘れるなって言ってるみたいだ。
俺はそんなことを考えるのをやめてしまうべきなんだろうか。
ただ楽しそうに笑っていれば、それを幸福と呼べば、それだけでいいんだろうか。
ふと、思い出して、俺は携帯を開く。
よだかから、連絡はない。
俺は彼女に電話を掛けてみる。
数コール待つと、彼女は出た。
「なに?」
俺は、自分がどうしてよだかに連絡しようと思ったのか、それがわからなかった。
「いまから、るーの家に行くんだ」
「そうなの?」
「うん。……来るか?」
「でも、今日帰るし、わたしが行っても仕方ないでしょ?」
「うん。俺もそう思う」
「それに、他の人たちもいるんでしょう?」
「うん。そうだよな」
「……どうしたの、たくみ?」
「分からない」
「……わからないって」
「ずっとそのことを考えてたんだ」
よだかは電話の向こうで押し黙る。
「……行かない」
とよだかは言う。
「ね、たくみ。わたしのことは、もう気にしなくて大丈夫だよ」
「……」
「……ありがとう。助かった」
「よだか、俺は」
「たくみがいてくれて助かった。たくみには感謝してる。たくみのことが好きだよ。
でも、ごめんね。たくみ、わたし、“かわいそうな子”の役は、いやだよ」
「――」
「わたしはもう、わたしをかわいそうとは思わない。たくみが、そう思わせてくれたんだよ。
だからもう、たくみもそれをやめていいんだよ」
電話が切れて、
俺は七月の路上に放り出される自分を見つける。
見限られた、と思った。
音が遠くなる。
血の気が引くのを、本当に感じた。
何かがさっと切り替わって、意識が急に身体を取り戻す。
心臓がバクバクと動くのが分かる。
よだかの言葉は、俺の何かを言い当てた。
たぶん、俺のいちばん醜い部分を、彼女は言い当てた。
「……タクミくん?」
るーが、立ち止まったままの俺を振り返る。
気付かれてしまった。
慌てて電話をかけ直しても、よだかは出てくれない。
動悸にとらわれて、頭がうまく働かない。
どうしてそうなったのかすら分からない。
“かわいそうな子”。
“かわいそうな子”としての、よだか。
俺はそれを、
「――なあタクミ、おまえ、ベースだよ」
「……え?」
見ると、前方で立ち止まっていたゴローが、こっちを見ていた。
「おまえはベースで、俺がギターで、高森がボーカルだよ」
「……いや、だからそれは」
何かを言おうとして、何を言おうとしたのか忘れてしまった。
「もうさ、面倒なのはやめにしようぜ。おまえが何かに囚われてることなんてみんな分かってる。
藤宮だって、高森だって、佐伯だって、たぶん部長だって、みんなみんな気付いてる。おまえ、ちょっと変だから」
「……変、って」
「だからさ、おまえベースやれよ」
「……話の繋がりが」
まったくわかんねえよ、と、言ったら声が震えていて、自分でもびっくりした。
「忘れろとか、今を楽しめとか、そういう都合のいいだけのことなんて言わねえよ。
だから、言いたいことがあるなら、思いっきりベースを鳴らせよ」
「……」
「誰にも、おまえの気持ちなんてわかんねえよ。だから口ごもるのも言いかけてやめるのも、終わりにしろよ。
抱えてるものを忘れることも捨てることもできないなら、抱えたまんまで騒いで踊ろうぜ」
「……」
「それが、ロックンロール、なんだぜ?」
ゴローはくいっと眼鏡の位置を直す。
俺は、こらえようとしたけど、
「……意味がわかんねえよ!」
気付いたら怒鳴り声をあげていた。
「意味がわかんねえ! なんで俺がそんなことしなきゃいけねえんだよ! 誰もそんなこと頼んでねえ!」
「たっくん、」
高森が何かを言いかけたのがわかってるのに、
「知るかよそんなの! けっきょくおまえの都合じゃねえかよ! ベースなんて他に探せよ!」
言葉がとまらなくて、
「わけわかんねえんだよ全部! 意味がわかんねえ! なんでこんなことになったんだ?」
俺のせいじゃない……。
俺のせいじゃない!
そう思い切り怒鳴ったとき、るーの、心配なのか不安なのか、よくわからない悲しげな表情が見えて、
余計に抑えがきかなくなった。
「わけがわかんねえんだよ! なんでこうなんだよ! 何がどうなってこうなったんだよ!
嫌なんだよ全部! どうしてみんな楽しそうなんだよ! なんでみんな、平気そうなんだよ!」
“かわいそうな子”が、
どこかで悲しんでいるのに、
どうして平気で笑っていられるんだ、と。
そう思ったときに、気付いてしまった。
俺はどこかで、“かわいそうな子”としてのよだかを、必要としていた。
憐れむために。
その子のために何かをするために。
死んでしまった猫を必要としていた。
「“それ”だよ」とゴローは言った。
「おまえに足りねえのはそれだよタクミ。いいあぐねて口ごもって言葉に詰まって言いたいことを言わない。
どうせ分かってもらえねえって思ってるんだろ? その通りだよ。拗ねた子供かよおまえは。
おまえの考えてることなんて、口酸っぱく説明されたって誰にもわかりゃしねえんだよ」
拗ねた子供、と、
俺はそれを否定できなかった。
「おまえのせいじゃねえよ」とゴローは続けた。
俺は何かを言いたくなったけど、途中でやめてしまった。
「おまえのせいでもないし、他の誰かのせいでもない。世の中の大半のことなんてだいたいそうだ。
責任なんて言葉は、本当はどこにもふさわしい場所なんてねえんだよ。
生まれる前に、“こんなふうになりますけど、いいですか?”って誰かに訊かれて、“いいですよ”って答えたわけでもない。
自分が自分であることは、今がこんなふうであることは、基本的に不条理と理不尽でできてるんだよ。誰のせいにもできない」
だから、とゴローは言った。
「文句をつけろよ」
「……なんだ、それ」
「どうせ分かってもらえない。誰のせいでもない。みんな平気な顔で、それでも受け入れて生きてる。
消化するのがうまいんだよ、みんな。でも、おまえはそうじゃないんだろ?」
「……」
「だったら騒げよ」
俺は納得がいかないんだって、俺のせいでもないし、誰のせいでもないけど、黙って受け入れるのは嫌だって、騒げよ。
ゴローはそう言った。
「重ねて言うが……それがロックンロール、なんだぜ?」
さっき直したばかりの眼鏡の位置を、ゴローはまた直した。
俺は急に恥ずかしくなって、俯いた。
「……ごめん」
「そうさ。あんまり騒ぐなよタクミ。赤ん坊が昼寝をしてるかもしれないんだぜ」
「……」
そのとおりだな、と一瞬うなずきかけて、
「いや、おまえ今騒げって言ったじゃねえか」
思わずツッコミを入れると、ゴローは平気そうにからから笑って、
「比喩だよ、比喩」
と言った。
◇
触れたこともないベースにちょっと触る気になったのは、たぶんゴローの言葉のおかげなんだと思う。
よだかのこと、嘉山のこと、死んでしまった猫のこと。
“それはもういいのだ”と、俺は言いたくなかった。
“そんなことよりも”とか、“考えても仕方ないから”とか、思いたくなかった。
ゴローも、よだかも、まるで見えてるみたいに、簡単そうに俺の心のありようを言い当てる。
それが少し恥ずかしい。
でも、そんなことこそ、それこそ、仕方ないことだ。
るーの家は以前みた通りの大きな建物だった。
「どうぞ」と通されてリビングらしき部屋に入ると、すず姉が麦茶を飲んでいた。
「来たね」
ソファにもたれて足を組んだまま、グラスの中の氷をくるくる揺らしながら、すず姉は麦茶を飲んでいた。
「バンドやるんだって?」
「……どうも」
とりあえず頭をさげると、すず姉はちょっとさびしそうに微笑んだ。
「そうなんです」とゴローは言った。
「文化祭でやるの?」
「はい」
「へえ。何やるの?」
「考えてません!」
「……文化祭、いつだっけ?」
「九月ですかね」
「……あ、みんな楽器そこそこできるとか?」
「素人です」
「……」
すず姉はちょっと戸惑ったみたいだった。
「……え、ホントに?」
「はい」
「……きみたちは、あほか」
と、すず姉の呆れたような笑いをあえて無視するみたいに、
「どうせならオリジナル曲とかやりたいっすね!」
とゴローは強気だった。
そこで奥の扉が開いた。
美人が奥から出てきた。
すらっとした身体が薄手のシャツとスウェットで包まれている。
眠たげにあくびをしてから、台所へ向かって、水道の水をグラスに汲んでから一気に飲み干した。
長い睫毛、細い指先。線の細い印象があるのに、張り詰めたような強い存在感がある。
「ちい姉、お客さん」
とすず姉は言った。
ああ、ちい姉だ、と俺は思う。
「……ん」
と頷いて、彼女は俺たちを見た。
「ちい姉、寝てたの? ていうか、いたの?」
「うん」
見た目とはあんまりそぐわない、眠たげで甘ったるい声が、ゆったりとした話口調が、なんとなく意外に思える。
あの頃、遊馬兄や静奈姉と話していたときは、もっと緊張感のある話し方だった気がする。どこか切羽詰まったみたいな。
家族に見せる顔は、また別だということだろうか。
それとも、彼女も変わったのか。
「今日、デートって言ってなかった?」
「明日。今日は午後までバイトなんだって。そのあと、市内のコンビニめぐってディズニーの一番くじ見てくるって言ってた」
「……なんで?」
「ティーポッドがほしいんだって」
「……なんでまた」
「いま、ほしいものランク一位なんだって、ティーポッド。B賞」
「あいかわらず先輩は意味わかんないなあ……」
「美咲ちゃんがほしがってたみたい」
「あいかわらず先輩はシスコンだなあ……」
「ほら、もうちょっとで誕生日だから」
「なるほど」
ちい姉のことは、なぜだろう、よく覚えていない。
あんまり話さない人だった、という印象がある。
口数が少なくて、表情もあんまり動かなくて、正直、少し怖かったような気がする。
帰る頃には、多少話すようになって、細やかな気遣いとか、気づきにくい優しさとか、そういうものが分かるようにはなったけど。
そんなに話をしなかったから、どんな人なのか、今でも分からない。
つかめない。
「ね、ちい姉。気付かない?」
「ん」
何が、という顔で、あたりをちい姉は見渡す。
俺達がいると分かったあとも、ずいぶん自然体だ。
「いらっしゃい」、と、落ち着いた声で俺とゴローの顔を見たあと、こっちに再び視線を寄せて、
「あ」
と声をあげた。
「……タクミ、くん?」
「……あ。おひさしぶりです」
声を掛けると、ちい姉は急に顔を赤くして、ばたばたと扉を出て行った。
「着替えてくる!」
「いってらっしゃい」
すず姉がくすくす笑う。
「……なんで急に」
戸惑いながらつぶやくと、すず姉が説明してくれた。
「知ってる人だと思ったら、気の抜けた格好が恥ずかしくなったんじゃない?」
「……そういうもんですか?」
「わかんない。ちい姉、ちょっと特殊だから」
るーの方を見ると、彼女は困ったみたいに、呆れたみたいに笑った。
そんな顔を、あの頃のるーは、ちい姉にはしなかった。
いつもちい姉に気を使ってるみたいに見えた。
「それにしても」、とるーは言った。
「ちい姉、タクミくんのこと、すぐにわかっちゃいましたね」
「……」
俺も、それがいちばん意外だった。
すず姉だって名前を言うまで気づかなかったし、るーに至っては何日も経ったあとにようやく確認したのに。
「そういう人だからね」
というすず姉の言葉に、るーはちょっと複雑そうな顔をしていた。
つづく
乙です
おつです
屋上さん!遊馬!!
屋上さん!!まだチェリーと付き合ってたんだね!!なぜかほっとしてしまった
◇
「さて、じゃあとりあえず特訓しよっか」
と、すず姉は立ち上がった。
「特訓?」
「ベースの」
「……いや、すず姉、あの」
「なに?」
「俺、やるなんて一言も……」
「ここまで来てガタガタ言わない! 男の子でしょ! 楽器のひとつくらい弾けなくてどうする!」
こんな強引な人だっただろうか。
「……ていうか、さっきの会話に気になるところがあったんだけど」
「そっちのふたりも来て。ギターもちょっとなら教えられるから」
「了解っす。お願いします」
俺と高森は目を合わせて「どうしよう」という顔をしあった。
「るー、飲み物」
「どこでやるんですか?」
「離れ」
そんなわけですず姉はちい姉が戻ってくるよりも先にパタパタと歩き始めた。
宣言通り離れ座敷に連れ込まれた俺達は、その部屋の様子にまず唖然とした。
「うわ、なんすかこれ」
「アンプ」
「このちっこいのは……」
「エフェクター」
「この機械は?」
「マルチエフェクター」
「こっちは」
「そっちはギター用のアンプ」
「このちっこいのは」
「それもアンプ」
「これは……ギターですか?」
「ベース」
「こっちは」
「弦四本がベース、弦六本がギター。ベースの方が一回り大きい」
「おお……」
ゴローとすず姉の会話を横目に、俺と高森は黙りこむ。
テスト期間なんだけど、とか、よだかが帰るところなんだけど、とか。
そういうことを考えていた。
部屋にあふれる機材、キーボードにパソコン、ところどころに熊のぬいぐるみが置かれていた。
「タクミ」
「はい」
「とりあえずベース教えるけど……」
と、彼女は二本並べられたエレキベースのうちの一本をスタンドから持ち上げた。
「はい、これ」
俺はひとまずそれを受け取る。片手で受け取ると、ずしりと重い。
「ぶつけないように気をつけてね。まあ、安い奴だからいいけどさ」
それでも平気で万を超えるのだろう。
「とりあえずストラップついてるから、首にかけて」
「ストラップ?」
「それ」
言われた通り、俺は楽器につけられているベルトみたいなものを首から下げてみた。
やっぱり重い。
「ちょっと長いかな。立って演奏するんだろうし、最初から立って弾く練習した方いいね」
「はあ」
「これピック」
と、小さなツメみたいなものを渡される。
「好みはあるけど……まあスタンダードに。指弾きって手もあるけど、うーん……まあ、やってみてかな」
すげえ。何言ってるのかわかんねえ。
「ひとまずピックで弦弾いてみて」
「弾くって……」
「手首ではじくイメージ」
言われた通り、俺は弦を弾いてみる。……鳴らない。
何度かためしてみると、ボーンという低い音が響くのが分かった。
「意外と音小さいね」
「そのままだとね」
と言って、すず姉は機器同士をつなぐコードみたいなものを引っ張り出してきた。
「これシールド。で、とりあえずアンプにつなぐね」
「はあ」
彼女は言葉の通り、俺からぶら下がったベースの下方の穴にシールドの端子を差し込んだ。
そのもう一方を、さっきアンプと呼んでいたスピーカーみたいなものに繋いでいく。
「電源入れるよ」
と、言うと同時、アンプの電源を示す赤色の光が灯った。
「鳴らしてみて」
「……」
さっきと変わらない。
「だよね。ちょっといじるよ」
彼女は楽器についているツマミのひとつをひねった。
それからアンプも同様に。
「鳴らしてみて」
俺はピックで弦を弾いた。
低い音が響く。
「……おお?」
「たっくん、うるさい」
「俺のせいじゃない……」
「ま、ベースもギターも、こういうふうにアンプに繋いで音をおっきくするわけ。大雑把に言うと」
「はあ……」
俺はひとまず、テレビや写真で誰かがしていたように弦を抑えながら、弾こうとしてみる。
「……指、痛いんだけど」
しかも音が鳴らない。
「うん。そういうもんだから。ちょっと貸して」
と言って、すず姉は俺に向けて手を差し出す。
俺はストラップを首から外して、ベースをすず姉に手渡す。
すず姉はストラップを首にかけてすぐ、ピックももたずに弦を押さえた。
右手の指が弦の上を滑るように弾くのと同時に、音がうねりはじめた。
波濤の壁が部屋を押し広げた。
右手の指がさらりさらりと簡単そうに動くのとほとんど同時に、左手の指はうねうねと指板の上を這いうねる。
そのたびにアンプは音を伝える。
すげえ。
すごすぎて何をやってるのかも分からないし、そもそも本当にすごいのかどうかも分からねえ。
「……と、とりあえずこんな感じで」
「……はあ」
俺たちは言葉を奪われた。
「で、タクミにはこのくらいできるようになってもらうから」
「……え? いや……」
「ちなみにベースはあんまり存在感がないわりにミスるとすぐにバレるパートだから」
「え、なにそれ……」
「ま、特訓ね」
そして俺の頭は無駄な思考を働かせる余地を奪われた。
◇
次に窓の外を見た時には日が沈みかけていた。
「……指痛い」
「練習!」
すず姉のやる気のボルテージはまったく衰えなかった。
ゴローはゴローで高森にギターを教えていて、すず姉はそっちの様子を見ながら俺にベースを教えてくれたけど、成長できたとは言いがたい。
「まあでも、初日にしては弾けるようになったよ」
と彼女は慰めてくれた。
「簡単な曲なら、がっつり練習すれば一、二週間で弾けるようになると思う。簡単な曲ならね」
ホントかよ、と思った。
ようやく弦を押さえながらピックを動かすのにも慣れてきたけど、押さえる場所が変わるときにいちいち動きが止まってしまう。
とてもじゃないけど、まともに弾けるようになる気になんてならない。
左手の指が赤くなっている。
なんで俺はこんなことをやってるんだろうなあ、という気分になる。
ずっと横で様子を見ていたるーが、ここに来てようやく口を開いた。
「そういえば、タクミくん、さっき何か言ってませんでした?」
「……なにか?」
「はい。気になることがどうとか……」
「気になること……」
ああ、そうだ。言われるまで忘れていた。
「さっき、ちい姉がデートするとかなんとかって……」
「ちい姉だって年頃の女の人なんだから、彼氏くらいいるよ」
すず姉はスポーツドリンクで喉を潤しながらそう言った。
「すず姉は?」
「わたしはいいの」
いいのか。
「いや、気になるのはそこじゃなくて、さっき、美咲って名前が」
「覚えてない? 美咲ちゃん」
「……美咲姉のことなの、やっぱり」
「うん」
と、いうことは。
「ちい姉の彼氏って、ひょっとして……」
「はい」とるーは頷いた。
「お兄さん……遊馬さんですよ」
「あ、タクミは知らなかったんだ」
すず姉は平気そうな顔をしている。
ちょっと待て。
「いや、でもすず姉」
「なに?」
「すず姉って……」
「タクミ」
すず姉は、ゆっくりとペットボトルの蓋を締め直したあと、口の前に人差し指を立てて笑った。
「まあ、生きてればいろいろあるもんだよね。歳を取るってこういうことなんだなあ」
そう言ってすず姉は、部屋の隅のテーブルの上においてあった一対の熊のぬいぐるみを見つめた。
その意味は俺にはよくつかめない。
「……遊馬兄とちい姉が」
じゃあ、静奈姉は……。
……ちい姉?
よりにもよって、と言ったら、ちい姉に失礼なのかもしれない。
でも、俺には……その選択がよくわからないものに思えた。
「さて、じゃあタクミ、ベースとアンプと教本は貸してあげるから、家に帰っても練習すること。夜はあんまり音出しちゃ駄目だよ。ヘットホンつけてね」
「……あ、うん」
と、練習することに、なぜか同意してしまった。
「よろしい。蒔絵ちゃんの方も、ギターは貸してあげる。ゴローくんは、思ってたよりできるから大丈夫」
「ありがとう……ございました?」
なし崩し的に参加を余儀なくされていた高森と俺は疲れきっていた。
ゴローはひとり元気で、「あとはドラムを揃えれば完璧だな!」とか言ってる。
「そういえばゴロー、ドラムの心当たりって誰のことだ?」
「あ、うん。声かけてみてから紹介する。おまえも知ってるやつだよ」
知ってる奴……。
「とりあえず荷物も多いだろうし、今日はわたしがみんな車で送ってってあげる」
すず姉はそう言って立ち上がる。
俺達も疲れていたから、遠慮もせずに申し出を受け入れることにした。
「るーは乗れないから、お留守番」
すず姉の言葉に、「えー」とるーは子供みたいな声をあげた。
それでもしぶしぶ頷いて、玄関まで不服そうな顔で見送ってくれた。
「誰の家が一番近い?」
「俺の家かな」とゴローは言う。
「わたしの家が一番遠いと思います」と高森。
「そっか。じゃあ、ゴローくんおろして、高森さんち」
「……俺んち、中間地点だよ」
「タクミは最後。今、静奈先輩のところにいるんでしょ?」
「……あ、うん。聞いてたの?」
「るーから、ちょっとね。わたしも静奈先輩と久しぶりに会いたいし」
「……うん」
何を考えればいいのかわからなくなってしまって、俺は助手席に乗せられてから、ずっと窓の外を眺めていた。
高森やゴローは、練習をしている間に思いの外すず姉になついたらしくて、今となっては俺よりも彼女に馴染んだ口調で話しかけていた。
すず姉の受け答えは「こども」に対する「おとな」の口ぶりで、それはあの頃、俺に接していたものよりもずっと遠く感じた。
宣言通り高森とゴローを送り静奈姉の部屋に向かう頃には、あたりは暗くなりだしていた。
「学校で、るーはどう?」
すず姉はふたりきりになった途端、そんな話を振ってきた。ずっと訊きたかったのかもしれない。
「どうって?」
「友達とか?」
「さあ。学年違うから」
「ま、そりゃそうか」
そこで一度話が終わって、すぐに話題が変わった。
「ねえ、タクミ、あんたはどうしてこっちに来たの?」
そんなことを訊かれると思わなくて、俺は言葉に詰まってしまった。
夏の日暮れはほのかに明るくて、街の影は長い。あの頃みたいに、夕焼けはオレンジ色だ。
昔はそれを赤一色に感じたものだったけど、今の俺は、そこに混じっている紫や濃紺の色合いを見つけられる。
歳を取るってこういうことなんだなあ、というすず姉の言葉が、不意に耳に蘇った。
「あ、答えたくないことなら、いいよ。もっと単純な理由かと思ってたけど、思ったより複雑みたいだね、その顔を見るに」
俺はちょっと笑った。
「どんな理由だと思ってたの?」
「ほら、るーとの約束があったからかなって」
……約束?
「あのとき、別れ際に、言ってたんでしょう? わたしたちは知らなかったけど。
るーが嬉しそうに言ってたよ。タクミくんはまた来るって言ってた。そして本当に来てくれた、って」
「……」
そういえば、言ったような気もするけど、そんなこと、彼女は忘れているものだと思ってた。
「……あれ、ひょっとして、わたし今、言わなくていいこと言った?」
「いえ……」
だとしたら、会ってすぐ声をかけようとしなかった俺に、るーが怒ったのも無理はないのかもしれない。
「覚えているものなんですね。忘れられてると思ってた」
「……それは、約束のこと?」
「他の、いろんな人も。すず姉も、ちい姉も、俺のことなんて覚えてないと思ってた」
「あのね、わたしたちがそんなに薄情な人間に見えた?」
「……そういうわけじゃないけど、でも」
俺にとって大事なことが、他の人にとってどうかはわからない。
俺にとって重大なことは、他の人にとってはたいしたことではないかもしれない。
そんな不安……それともそれは、傷つかないための予防線だったのだろうか。
考えごとをしながら、帰り際にすず姉に手渡された缶コーラに口をつける。
「ね、タクミ、訊いていい?」
「なんですか?」
「るーのこと、好き?」
俺はむせた。
「あは、いい反応」
すず姉はあくまでクールだった。
「あの。好きとか、いや、好きっていえば好きですけど」
「……ふうん?」
「……好きですよ、たぶん」
「ほー」
楽しげに、すず姉は頷いた。
「いいね、若いって」
「……」
あんたも十分若いだろう、と言いたいのを飲み込んだ。
「……好きですよ。でも、なんだか申し訳なくて」
「申し訳ない? って?」
「なんだか、うまくいえないんですけど……」
「小難しいこと、考えてるわけだ」
「……」
「先輩も、そうだったんだろうなあ、たぶん」
……。
「……遊馬兄のことですか?」
「うん。あのひともきっと、そうだったんだろうね」
「どういう……」
「全部想像だし、無責任なことは言えないけど。でも、とても臆病な人だったんだろうなって思う」
「……すず姉は」
「なに?」
「すず姉は、遊馬兄のことが好きだったんじゃないの?」
彼女はハンドルを握ったまま、少し黙った。
「それが難しいところなんだよね」とすず姉は言った。
難しいところなんだよ、と彼女は繰り返す。
「ちい姉はさ、小さい頃、わたしたちとは別の街で暮らしてたんだよ」
「……そう、なの?」
「うん。聞いてなかった?」
「なにも」
「そっか。でも、わたしたちとるーの血が半分しかつながってないのは知ってるでしょ?」
「……なんとなく、そうなのかなって」
「うん。異母姉妹なんだよ、わたしたち」
「……」
「お父さんが前結婚してた人が、わたしたちの母親で、再婚相手が、るーの母親。今のお母さん。
小さい頃のことだから、わたしも自分のお母さんの顔はよく覚えてない。ちい姉は、覚えてるかもしれないけど。
お母さん、おばあちゃんとの折り合いが悪かったらしくてね。お父さん、気の弱い人だったから、いろいろ大変だったみたい」
……。
「よっぽど、嫌いだったみたいで。おばあちゃんがほとんど追い出すみたいに……って言っても、喧嘩別れだったみたいだけど、
お母さんとお父さんが別れちゃって。それで、おばあちゃん、お母さんがいなくなったあと、ちい姉に手をあげるようになったんだって。
お父さんは弱い人だから……おばあちゃんには逆らえなくて、家を出ることも、できなかったみたい。見た目通り、ちょっと厳格な家だから」
「……」
「それで、仕方なく、遠くの親戚の家に、ちい姉を預けることになったんだ」
「……どうして、ちい姉だけ?」
「……不思議だよね? わたしは、おばあちゃんには嫌われてなかった。むしろ大事にしてもらった記憶だってある。
小さい頃から別の家で暮らしていたちい姉を、遠い親戚のお姉さんみたいに感じることはあったけど、おばあちゃんはわたしにとっておばあちゃんだった」
「……」
「顔が、似てたんだって」
「……顔?」
「うん。お母さんに、ちい姉はそっくりだったんだって。それにきっと、ちい姉はお母さんのこと覚えてたから、お母さんを泣かせてたおばあちゃんが嫌いだったのかもしれない。
だからおばあちゃんは、ちい姉につらくあたってたんだって。わたしはそんなこと、なにひとつ知らずに生活してた」
「……どうしてそんな話、俺にするの」
「わかんない」
俺は少しだけ、今聞いた話の意味について考えようとして……やめた。
「お父さんは、ちい姉を親戚の家に預けたあと、すぐ再婚しちゃった。あのひともあのひとで、傷ついてたんだろうけど……。
それで、すぐにるーが生まれて……」
「……」
「ごめん、なんか余計な話してるよね」
「……うん。たぶん」
「ごめんね」
「いいよ」
よだかは、ちい姉に似ている。
そう言っていたのは、るーだった。
るーはきっと、両親の祝福を受けて、暮らしていた。
ちい姉は、それを得られずに暮らしていた。
その形は、たしかに、重なっているような気がした。
勝手な思い込みかもしれない。それはすこし、俺とよだかの境遇に、似ているような気がした。
「……でも、るーは、楽しそうですよ」
すず姉は、きょとんとした顔で俺を見た。
「きっと、すず姉のこともちい姉のことも大好きなんだと思う」
どうしてなんだろう、と俺は思った。
彼女は本当に楽しそうに笑うのだ。
笑えずにいる自分が恥ずかしくなるくらいに。
「すごいでしょ?」
「……うん」
「なにせ、自慢の妹だからね」
すず姉はにっこり笑った。
つづく
乙です
乙
乙です!
◇[sting]
「タクミくん、よだかさんの見送りいかなくてよかったの?」
俺がすず姉の車に送られて部屋に戻ると、静奈姉はまっさきにそのことを訊ねた。
痛いところをつかれたと思って俺が黙ったとき、すず姉がうしろから「どうも」と入っていった。
「お久しぶりです、静奈先輩」
「ひさしぶり」
静奈姉は当たり前みたいな顔ですず姉を受け入れた(電話してたんだから当たり前だけど)。
「タクミがこっちに来てるって、どうして教えてくれなかったんですか?」
「だってすずちゃん、連絡しても見ないし」
「そりゃ……鳴らない携帯なんて持ち歩きませんし」
「ね」
いや、鳴っても見ないなら鳴らさないだろう、誰も。
「お酒買ってきました」
「……すずちゃん、今日何で来たんだっけ?」
「車です。泊まってっていいですか?」
静奈姉はくすくす笑った。
「変わらないね、その、なし崩し的に泊まろうとする癖」
「性分なんです」
「ていうか……まだ十九じゃないっけ?」
「そうでしたっけ?」
すず姉は平気な顔で靴を脱いであがりこむと、ダイニングテーブルの上にコンビニ袋を置いて腰を下ろした。
「ちょっと疲れました」
とすず姉は笑った。
静奈姉は「いつぶりだっけ?」なんて言ってる。
「いつでしたっけ? 静奈先輩がこっちに来てから、一回は来てるはずですけど」
「あ、だよね。調子はどう?」
「普通ですかね。先輩は?」
「普通かな」
まったりしながら、すず姉はチューハイを取り出した。
「グラス用意するね。タクミくんは?」
「俺、明日も学校なんだけど」
「ちょっとなら平気でしょ?」
「いや、でも……」
……『駄目だ』と誰かが言う。
「はい、グラス」
「……そもそも俺、ハラ減ったんだけど」
「仕方ないなあ」
といって、静奈姉は立ち上がった。
「ご飯作るから、そのあと付き合ってよ」
「……」
しぶしぶ、俺は頷いた。
◇
「静奈先輩、遊馬先輩とは会ってるんですか?」
グラスに口をつけながら、すず姉がそう訊ねると、静奈姉は「ぜんぜん」と言った。
「連絡も来ないよ。前から、そういうところあったけど」
「そうなんですか?」
「もともと、メールのやりとりとか電話とかするような仲じゃなかったし。ほら、なにせ……」
「……学校いけば、会えましたもんねえ、そりゃ」
「あ、でも、お母さんとはたまに会ってるみたい」
「静奈先輩のお母さんと? 先輩が? ですか?」
「うん。お母さんはおかまいなしだから」
「あはは」
「ちひろちゃんは元気?」
あ、そうだった、と、話を聞いていた俺は思う。
ちい姉の下の名前、ちひろだった。
すず姉は一瞬ためらうみたいに間を置いてから、視線を泳がせて、
「元気ですよ」
という。
「……そのさあ」
と静奈姉はけだるげに首をかしげた。
「いいかげん、振られた女に対する妙な気遣いやめてよー」
と言って、静奈姉がすず姉の頭をわしゃわしゃ撫でた。すず姉は「あはは」とまた笑う。
「何年経ったと思ってるの?」
「えっと……何年ですかね? 五年?」
「そう。そんくらい?」
「たぶん。どうかな」
「……なんていうか、すごいよね」
「なにが?」
「なんで別れないんだろう」
「……すごいですよねえ、あのふたり」
「なーんか、付き合い始めの頃、すぐに別れちゃうことを期待してた自分の性格の悪さだけが、こう……」
「わかります、わかります」
「悲しくなるくらい、あのふたり、まっとうなんだよねえ」
静奈姉は一杯目のチューハイですでにぽやぽやした顔をしていた。
「だからわたし、だめだったんだろうなあ」
そう呟いた静奈姉は、小さな子供みたいに見えた。
こうして話をしていると不思議なのだが。
……遊馬兄って、なんでモテたんだ?
「ま、そうでしょうね」とすず姉はあっさり頷いた。
静奈姉がむっとした顔をする。
「ちょっと否定してくれたっていいじゃないの!」
また頭をわしわし撫で始める。すず姉は「あはは」とまた笑う。
「妙な気遣いやめてと言いながら、がっつり引きずってるじゃないですか、先輩」
「引きずってないもん」
「本当ですか?」
「引きずってないもん!」
……子供か。
「高校のときのことだよ? 何年前? この歳になって引きずってたらただのイタい人だよ。引きずってませんもん」
「……そーですか?」
「……引きずってません」
「……わたし、イタい人だなあ」
小さなつぶやきは、たぶん静奈姉の耳にも届いた。
……やばい。なんかこの会話、聞いてるのすごいしんどい。
「すずちゃんと遊馬くんの関係もわたし、よく知らなかったんだよね」
「……わたしと先輩ですか?」
「うん。なんであんなに仲良くなったの?」
「……仲良くなったっていうか。中学のとき、わたし、放課後とか屋上でひとりでいたんですよ」
「……うん」
「そしたら、先輩がよく遊びに来て、いろいろ話したりして」
「……うん」
「……まあ、それだけですかね」
「屋上に昇るのは血筋なの?」
「ど、どうでしょうね……? でも、何回か屋上で人に会ったけど、話しかけてきたのは先輩だけでした」
「……たぶん、ちひろちゃんもそうだったんだろうなあ」
「……ねえ、あのさ」
俺はようやく、口を挟んだ。ふたりは、どこかとろんとした目つきでこっちを見た。
「ペース早くない? 酒」
「チューハイなんて、ジュースだよ!」
と、静奈姉はからっぽの缶をテーブルに叩きつけた。
「でもさ、遊馬くんもひどいよ。『ドラクエファイブでビアンカを選ばない奴は人間じゃない』って豪語してたのに」
「あはは」
「そりゃ、ちひろちゃん、美人だけど。美人だし、お金持ちだけど……」
「リメイク版だと『子供の頃に会ったことがある』って設定らしいですよ」
「なにが?」
「ドラクエファイブのフローラ」
「それずるいよね。ビアンカのアドバンテージがりがり削ってるよね」
「あはは」
すず姉はさっきから何言われても笑ってるな。
「そもそもビアンカだって、フローラが登場する前にさっさと告白しちゃえばよかったんですよ」
と、すず姉は三本目の缶を開けた。
カルピスサワー美味しい。
「それは、それは……でも、ビアンカにだっていろいろ……」
「なんですか?」
「ビアンカだって……パパスさんのこととか気にして、そんなこと言ってる場合じゃないよなって……」
感情移入しすぎだろ。
「……で、タイミングを逃したと」
「……」
「美咲ちゃんも、いましたもんね」
「……あの兄妹には、割って入れないから」
「……ちい姉も、そう言ってたな」
「ちひろちゃんも?」
「先輩は絶対自分より美咲ちゃんのことが大事なんだって、言ってました」
「……シスコンだもんなあ」
「シスコンですもんねえ……」
散々だな、遊馬兄。
「静奈先輩、ちい姉と最後に会ったの、いつですか?」
「……高三のときかなあ」
「まだ喧嘩してるんですか?」
「喧嘩なんてしてないよ。わたしが一方的にちひろちゃんを妬んで恨んでるだけだよ」
……潔いんだか潔くないんだかよくわからない言い草だ。
「もう、呼んじゃいます?」
「ちひろちゃん? ここに?」
「はい」
「え……」
「気まずいです?」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
俺はちょっとためらったけど、結局口を挟むことにした。
「……ちい姉、明日デートなんでしょ?」
「うぐ」と静奈姉が変な声をあげた。
「すず姉、傷口に塩を塗りこむ気?」
「……わたしがするより先に、タクミが塗りこんでると思うなあ」と苦笑される。
カルピスサワー美味しい。
「……呼ぼう! 呼んで! ちひろちゃん!」
「いいんですか?」
「いいんだよ! 引きずってないもん! ひきずってないから、平気だもん!」
「そんじゃ、ついでに着替え持ってきてもらお」
「あー、生まれ変わったら猫になりたいなあ」
静奈姉はテーブルの上に腕を組んで頭をのせた。
「ちひろちゃん、ひさしぶりだなあ。やだなあ」
「人んちの姉を、やだなあって先輩」
「フローラがうらやましい」
「大丈夫ですよ。周回プレイしてくれる人だっていますって」
「二周目があるといいよね」
「ないんですけどね」
あはは、と二人は笑ってから、長い溜め息をついた。
バカなのか、このひとたち。
つづく
乙です
おつです
おぉぉ… 3人集まるのか
乙
◇
そしてちい姉は本当にやってきた。
前みたいにちょっと居心地悪そうに、「どうも」なんて頭を下げて。
「遅いよちい姉!」
と真っ赤になったすず姉が言う。
静奈姉は血筋なのか顔には出ないが、やっぱりちょっとほわほわし始めていた。
「いや、急に来てって言われても……」
「ひさしぶりー」
と静奈姉が手をあげる。
「お邪魔します」とちい姉は居心地悪そうなまま部屋に入ってきた。
そこにもうひとり、後ろから「おじゃまします」と声。
「あれ、るーも来たの?」
るーがいた。
「わたしだけ仲間はずれはいやです」
「るーちゃんおっきくなったねー!」
と静奈姉が立ち上がってるーに抱きついた。もうテンションが平常通りじゃない。
「るー、テスト勉強しなくていいの?」
「お酒飲んでる人に言われたくないです」
るーはすねたみたいにそっぽを向いた。
「るーも飲む? カルピスサワー美味しいよ」
「タクミくん、酔ってます?」
「酔ってないよ。少し気持よくなってるだけだよ」
「それならよかったです」
「こっちおいで」
壁際に座ったまま、俺は隣の床をぽんぽん叩いた。
「……はあ」
るーは静かに、足の裏で滑るみたいに俺の隣にやってくると、ちょっと居心地悪そうな顔で座ってくれた。
「よしよし」と俺はるーの頭を撫でた。
「……あの、タクミくん?」
「良い子だるー、おすわり」
「……犬ですか、わたしは」
わしわしと頭を撫でると、彼女は拗ねたみたいな顔のまま目をそらしてされるがままになった。
「よしよし、お飲み」
俺はグラスを手にとって、新しい缶をあけてカルピスサワーを彼女に手渡した。
「……お酒、あんまり飲んだことないです」
「そう? やめとく?」
「いいです。飲みますよ、もう」
そういえばさ、とすず姉が口を開く。
「タクミとるーは付き合ってないんだっけ?」
「ないですよー」とるーがいつもみたいに否定する。
「そうだよねえ、子供の頃仲よかったっていっても、所詮それだけだよね」
静奈姉はテーブルに顔を突っ伏して拗ねたみたいに呟いた。
「しいちゃん、だいぶ飲んだ?」
しいちゃん、とちい姉は静奈姉をそう呼んだ。
「うん。チューハイなんてジュースだからね。ちひろちゃん久しぶり」
「それだけってわけじゃ」
と、るーは何かを言いかける。
みんなが黙って続きを待つ。
「……なんでもないです」
「タクミくんはどうなの?」と静奈姉。
「るーちゃんのこと、どう思ってるの?」
みんながまた押し黙る。
俺はぼんやりした頭で考える。
どう思ってる?
「……るーは、かわいいよね」
「はい?」
と、隣に座ったるーがちょっと怒ったみたいな顔で俺を見た。
へらへら笑って、彼女の頭をまた撫でた。
「よしよし」
「……」
困った感じのるーの表情がやけに近くて、それが妙に心地よかった。
「……タクミ、酔ってるね」
すず姉。
「酔うとこうなるんだね。……たち悪いね」
ちい姉。
「遊馬くんもこうだったよね」
静奈姉。
「……あ、うん」
何かの心当たりがあるみたいなちい姉の声。
「あのときはたしかちひろちゃんに……」
「あの。しいちゃん?」
「……やってらんないですよ」
「しいちゃん、あの。最近どう? 学校とか……」
「普通かな。ちひろちゃんはどう? 遊馬くんと」
「……あ、えっと」
「……」
「普通、かな……」
「酔うとたち悪いのは静奈先輩も同じですね」
「なんだとう!」
「血筋ですかね」、と、るーがぽつりと呟いた。
「それでさ、ちい姉」
と、俺が声を掛けると、ちい姉はちょっと戸惑ったみたいな顔をした。
そういえばこんなふうに直接ちい姉に話しかけたことなんて、今まであったっけか。
「なに?」
「どうして遊馬兄と付き合うことになったの?」
「え……」
「いいぞいいぞ、もっときけ」と静奈姉。
「そうだそうだ」とすず姉。
るーが呆れたような溜め息をついたのが分かった。。
「俺知らなかったよ。ちい姉と遊馬兄がそんなことになってるなんて。いつから? なんで? どこが好きなの?」
「いや、あのね、タクミ」
「意外って言ったら失礼かもしれないけど、遊馬兄とちい姉けっこうテンション違うように見えたけど、なんでまた?」
「そこらへんはほら、個人的なことだし」
「俺たちだって個人的な付き合いじゃん。話してくれてもいいじゃん。ちい姉は俺のこと嫌いになったの?」
「……あはは、たちわるーい」
そう言ったのはるーだった。
「なに」と視線を向けると、「なんでもないですよ?」とにっこり笑う。
なんかむかついたのでまた頭をわしゃわしゃ撫でてやると、「やめてくださいよ、もう!」なんて困った声をあげる。
「まいったか」
「まいりません」
もう一度わしゃわしゃ撫でる。
「まいりました、まいりました」
「ふははは」
「……もう。どうしちゃったんですか、タクミくん」
「それはあれだよ」とすず姉。
「普段抑圧的に生きてる奴ほど、気が緩むと暴走するっていう」
「ああ……」
「でも遊馬くんも飲むと性格変わったよね」
「最近はそうでもないよ」
「昔はあれで、抑圧的だったんじゃないですか?」
すず姉の言葉に、静奈姉が「えー、そう?」と首をかしげ、ちい姉が「なるほどね」と小さく納得した。
静奈姉はなんとなくつらそうな顔をした。
「そんなのどうでもいいよ。俺はちい姉に質問してるんだよ」
「だから、個人的なことだし」
「そうじゃなくてちい姉は俺のこと嫌いになったの? それとも俺のこと嫌いだったの?
そうなんだ、そうなのかもしれないよね、なんで俺勝手に好かれてるって思ってたんだろう。ごめん気にしないで。なんでもない」
「めんどくさい人ですね……」
るーがまた隣でため息をつく。
「そうだよ、俺はめんどくさいんだ。幻滅した?」
「したって言ったら安心しちゃうでしょ?」
「俺のことをなかなかわかってきたじゃないか」
俺はグラスのカルピスサワーを飲み干した。
「おかわり」
「やめときなよタクミくん、明日に響くよ?」
静奈姉の諫言に耳を貸すつもりはない。
俺はなんだか急に気分がいいのだ。
ふう、と俺も溜め息をつく。
「それでちい姉は遊馬兄のどこが好きなの?」
「……しいちゃん、すず」
「そこでわたしの助けを求められてもね」とすず姉は苦笑した。
うう、と、ちい姉はちいさくうめいた。
「分かったよ。じゃあ遊馬兄呼んで。遊馬兄」
「だ、だめだよ!」と静奈姉が言った。
「なんで。俺遊馬兄に会いたいよ。遊馬兄。遊馬兄とまだ会ってないんだ。美咲姉とも。ふたりとも元気?」
「えっと、元気だよ」
ちい姉は気圧されたみたいに頷いた。
「元気ならいいなあ。元気ならよかったよ。うん。それだけが気がかりだったんだ」
「……って、なんで泣いてるんですか、タクミくん」
るーが戸惑ったみたいに声をあげた。俺は自分の瞼をこすった。
「元気ならよかった。本当によかった。それだけが本当に気がかりだったんだよ」
ぽろぽろと涙がこぼれるのを自分では止められなかった。みんなが俺の様子を見て戸惑った顔をしているのが分かる。
泣きやまなきゃいけない、といつもの俺はそう思う。そんなことしたって困らせるだけだから。
でもぜんぜん収まってくれなかった。どうしてだろう。わけがわからない昂ぶり。
「アルコールって、すごいね」
静奈姉がそう言った。
「テスト勉強とベースの特訓の疲れもありそうです」
「ベース? タクミくんバンドでもやるの?」と静奈姉。
「特訓したんですよ、今日」とすず姉。
とまらない涙に俯いて、壁にもたれた。なんだか身体がひどく重かった。
「よしよし」と何かが頭に触れる。
「いいこいいこ」とるーの声がして、頭の腕をやさしい感触が撫でていく。
俺はその感触に頭を揺らされて心地よさの中で瞼を閉じる。
ゆらゆらとからだがゆれる。
ゆらゆらと揺れて、瞼が重くなっていく。
俺の身体は傾いでいく。
なんで俺は……。
とても眠くなって、うまくものが考えられない。
大丈夫ですよ、と誰かが言った。
だったらいいいか、と、俺は安心して意識を手放した。
つづく
乙です
おつー乙
困惑しててもるーは天使だなぁ乙
◇
瞼が重くて開かなかった。意識は混濁と明鏡止水に綺麗に分かれていた。
表の方は濁ってわけがわからなかったけど、奥の方の意識はすっと静まり返っていた。水とは反対だ。
だから俺は、その声がはっきり聞こえた。
「るーちゃんはさ、タクミくんのことどう思ってるの?」
静奈姉の声だ。
「どうって……」
答えた声は、すぐそばから聞こえた。それも、なんとなく、上の方から。
意識が沈んでいるからかもしれない。
「好きですよ」
とるーは言った。
あー、夢か。
なるほどな。
「ほお」
すず姉。
「へえ」
ちい姉。
「おー」
静奈姉。
開き直ったみたいに、るーは続ける。
「好きですよ……好きですけど」
「けど……?」
静奈姉が促す。るーは黙ったまま続けない。
「タクミくんはわたしのこと、なんとも思ってないみたいだから」
「……え、そう?」
とすず姉。
「そうなんです。きっと」
「……そうなのかな」とすず姉は首をかしげた(と思う。視界がまっくらだからわからないけど)。
どうだろう? と俺は自問した。
「訊いてもいい?」と静奈姉の声。
「なんですか?」
「タクミくんの、どこが好きなの?」
「……どこって」
「顔?」
「いや、顔って」
「まあ、我が親戚ながら顔はまあまあのものだと思うし」
失礼な夢だ(逆だろうか? 夢ならむしろ自己愛的か?)。
「それは、まあ、顔も……」
どういう答えだ。
「でも、服装適当なんだよね、いつも……」
「手抜きが多いですよね。改善を要します」
……なんて夢だ。
「で、顔以外は?」
「……よくわかんないです」
「わかんないって?」
「わかんないんです」
と、るーは言う。
そうだな、と俺は思う。
そりゃそうだ。
好きになれる部分なんて、ないんだから。
「ちい姉は」、とるーは言う。
「ちい姉は、お兄さんのどこを好きになったんですか」
今度は、静奈姉もすず姉も、茶化さなかった。
それが真剣な声だったからだろうか。
あるいは、それぞれにまた、その理由に思いを巡らせていたのだろうか。
「……今日は、そんなことばっかり訊かれるなあ」
「どうなんですか」と、るーは問いを重ねる。
「……えっと、さ」
ちい姉は、少し、迷うみたいに言葉をつまらせたみたいだ。
かすかな吐息が聞こえる。
「ちょっと、長い話になると思うんだ」
「……うん」
誰もが話すのをやめて言葉を待った。
俺の世界には音だけだ。
「遊馬は、きっと、寂しがり屋だったんだよ」
みんなが黙って、続きを待った。
「いつも、置いていかれるのを怖がってた。ひとりになるのを嫌がってた。いろんなことが変わってくのが、怖かったんだと思う」
静奈姉は。
どんな思いでこんな話を聞いているんだろう。
よくわからない。
ちい姉の語る遊馬兄は、俺の思っていた彼の姿と一致しない。
でも、
たしかにどこか、寂しそうだったような気もする。
「ちょっと、話してくれたことがあるんだよ。子供の頃から、美咲ちゃんの面倒見てたんだって」
「……うん」
静奈姉が頷いた。
「学校からすぐ帰って、おじさんとおばさんの代わりに家事をやって、美咲ちゃんの面倒ばかり見てた」
そこでちい姉は、少しだけ言葉を止めた。何かを迷うみたいに。
「子供の頃って、放課後毎日友達と遊んだりしたでしょ? 誰かの家にいったり、学校に残ったりして。
遊馬には、そういうのがなかったから……友達がいなかったわけじゃないけど、“仲の良い友達”はいなかったんだって」
爪弾きにされるわけじゃない。腫れ物みたいに扱われるわけじゃない。
距離を置かれるわけでも、避けられるわけでもない。
それでも、居場所のないような、疎外感。
誰かと誰かが、仲良くなって、ともだちになって、近付いていって、
それを眺めている誰かの、置いてけぼりの気持ち。
「小学生の男の子がさ、みんなが放課後に缶蹴りとかして、誰かの家に集まってゲームとかして、
そういうときに、家に帰って洗濯物を取り込んで、夕飯の買い物をして、準備をして、妹の勉強を見て……」
それって、どんな気持ちなんだろう、って、ときどき思うんだ。
「でも、遊馬は美咲ちゃんのことが大好きだから、きっとあの子の前では楽しそうに話をするんだよ。
学校でこんなことがあったとか、クラスの誰々がどうこうだとか、そういう話を。きっと、そういう癖がついてたんだよね」
両親は仕事で帰ってこなくて、甘えたり弱音を吐いたりしたいときがあったって、誰にも甘えられない。
それでも平気でいないと、妹が不安になるから。
「先輩の、両親って」
「遊馬は、そんなことないってずっと否定してたけど。忙しいだけって、ずっと言ってたけど。
たぶん、それは半分なんだと思う。いくら仕事が忙しいからって、子供をずっとほったらかしなんて、ありえないもん」
「……おじさんとおばさん、美咲ちゃんが高校に上がる年に、離婚しちゃったんだよね」
「うん。たぶん遊馬は繋ぎとめようとしたんだよ。それだってきっと、自分のためだけじゃないと思う」
「……美咲ちゃんのため?」
「美咲ちゃんの誕生日は、毎年必ず家族が全員揃うんだって、遊馬は言ってた。忙しくても、子供のことをちゃんと考えてくれてるって。
でも、遊馬の誕生日は揃わないんだ。それって、きっと、遊馬が頼んだんだよね」
せめて、と。
「本当のことは、わからないけど。でもきっと、遊馬は寂しがり屋で、甘え下手で、つよがりだったんだと思う。
……たぶん、だからだと思うんだ」
「だから、って?」
すず姉の問いかけに、ちい姉は言葉を探るような沈黙を置いたあと、返事をする。
「寂しそうだったから、好きになったんだと思う」
そんな、堂々とした言葉に、みんな口ごもる。
「……なんか照れるね」と、静奈姉が笑う。
「でも」、とすず姉が言う。
「それって、同情ってこと?」
「違うよ」と、ちい姉が言う。
「たぶんわたしは、自分と同じような寂しさを抱えてる人のことを、好きになったんだよ」
同じような寂しさ。
同じくらいの寂しさ。
よく似た寂しさ。
「……遊馬は、最初、わたしのことが苦手だったんだって」
ちい姉はそう続けた。
「どうして?」と静奈姉が問う。
「強そうだったから、って言ってた」
「“強そう”?」
「ひとりでも、平気そうだったから。責められてるみたいな気分になったんだって」
ひとりぼっちが寂しくて、悲しくて、もがいている自分。
ひとりぼっちでも強くて、平気そうな誰か。
「今にして思えば、遊馬は、ひとりでいる人にばっかり声を掛けてた。
男友達だってちょっと浮いてるような人が多かったし、あの頃の文芸部の部長さんとかも、あんまり人と交流しない感じだったし」
「……わたしも、そうだったのかな」
すず姉が、そう言う。「たぶん、わたしも」、とちい姉が言う。
「誰かの輪の中にいると、自分が余計ものみたいに思えるから、ひとりでいる人にばかり声を掛けてたんだ、って」
声を掛けたのは、きっと、ちい姉が言うとおり寂しかったからで。
そういう自分の弱さを、たぶんどこかで遊馬兄は責めていた。
だから、ちい姉が苦手だった。
「しいちゃんには感謝してるって、遊馬、言ってた」
「……遊馬くんが?」
「うん。しいちゃんがいなかったら、自分はとっくにダメになってたかもって」
「……」
「いつも助けられてたんだって、言ってた。
それと同じくらいの焦りがあったんだと思う。周りは楽しそうに笑って遊んでて、自分は自分のことに必死で、誰ともつながってなくて。
だから、追いつかなきゃって、思ってたんだと思う。自分だって誰かと繋がって、誰かにとっての何かにならなきゃって」
それは、どこかで聞いたような話。
「そういうものを必死に築き上げて、ようやく親友って呼べる誰かができて、そんなときに……」
「そんなときに?」と静奈姉。
「……言ってもいい?」
「……どうぞ」と静奈姉は少し緊張したような声。
「そんなときに、ずっと一緒にいてくれると思っていた幼馴染が、離れていく素振りを見せたんだそうな」
「……」
うわ、と俺は思う。夢とはいえ、容赦無い。
「だから遊馬は、誰かともっと繋がりたくなったんだと思う。変わっていくのは仕方ないことだから、って。
それが寂しいから、それでも誰かに傍にいてほしいって。……しいちゃんにはこの話、いつか、しようと思ってたんだ」
静奈姉は、ちょっと他人事みたいに、
「……わたし、完全に墓穴掘ってたんだね」
と言った。
「でも、でもね、わたしにとって遊馬くんは、普通の男の子だったんだよ。
家族思いで、大人みたいに家のことに責任感を持ってて、面倒見がよくて、勉強ができて、
周囲から一目置かれてて、気取ってなくて、ちょっとばかみたいにはしゃいだりして、
そんな、かっこいい、あこがれの人だったんだよ」
――でも、それってやっぱり、わたしが遊馬くんのこと、ちっともわかってなかったってことなのかなあ。
静奈姉がそう言ったあと、少しの沈黙が、何かを埋め合わせるみたいに流れた。
「ごめんね」とちい姉が言う。
きっとその言葉を静奈姉に向けることを、ちい姉はずっと避けてきたんだと思う。
なんだか、傲慢に聞こえそうだから。
「ううん」、と静奈姉は言う。声は少し震えていた。
「ありがとう」と彼女は言う。
泣いているみたいな声で。
きっと、泣いているのだと思う。
わからないけど、たぶん。
同じくらいの寂しさを抱えた人を、
似たような痛みを知っている人を、
人は好きになる。
「……寂しさ」、と、すぐ近くでるーが呟いたのが分かった。
小さい声だったから、俺以外の誰も気付かなかったかもしれない。
静かに、俺の手の甲に、何かが触れる。
きっと、指先だったのだと思う。
「……寂しそうだから、好きになる」
小さな声で、るーは言う。
「……ひょっとしたら、これも血筋なのかな」
自問のような声には、敬語はついていなかった。
血筋、とるーは言う。
半分だけの繋がりを、それでも彼女は血と呼んだ。
その言葉の自然さに、俺はなんだか泣き出したくなった。
あまりにあたりまえみたいに言うから。
彼女はきっと、本当にそれをあたりまえに思っているから。
そのことが嬉しい。
どうしてなのかも、わからないけど。
彼女が、そのようにあることを、俺は途方もなく嬉しいと思う。
そういう子でよかった、と思う。
「ほっとけないって、そう思います。でも……同情なんかじゃ、ないみたいですよ」
また、そう小さく呟いて、
るーは、
俺の手を覆うように握った。
包み込むように、寄る辺を求めるように。
これは夢だ、と、俺は思う。
夢だから。
俺は彼女の手を、握り返してしまった。
寄る辺を求めるように、包み込むように。
「――え?」
と、るーの手がこわばる。
「あ、れ……タクミくん?」
るーの緊張した声に、俺の意識は急に浮かび上がる。
現実感。
「どしたの、るー?」と、すず姉の声。
「タクミくん、あの、ひょっとして……起きてませんか?」
気だるい瞼を、俺は開いてみる。
真上から、るーがこちらを覗き込んでいる。
俺の頭は、どうやらるーの膝の上にあるみたいだ。
俺は手を伸ばして、るーの頬に触れた。
さかさに見える彼女の表情は、あっというまに赤く染まった。
「あ……う」
と、変な声をあげる。
俺はからだを起こそうとして、
鋭い頭痛に力を奪われた。
「……あ、はは」
思わずごまかし笑いが出る。
「……あたま、ズキズキする……」
「……の、飲み過ぎですよ!」と、るーは慌てた声でそう言った。
つづく
874-9 。。 → 。
878-3 腕 → 上
878-11 いいいか → いいか
乙
いい話だけどやっぱり墓穴掘ってるよなー
乙です
◇
それからも、女たちの話は途切れなかった。
あちらにいったりこちらにいったりさまざまな変化をたどりながら、そのうち何の前触れもなくみんな話さなくなった。
最初に眠ってしまったのはすず姉で、次に静奈姉が意識を失った。
ちい姉とるーはふたりで片付けを始めた。
「いいよ、あとで俺やっとくから」
と声を掛けると、
「おじゃましてるのはこっちだから」
とちい姉はそっけない顔で言った。
声をかけたくせに、俺は立ち上がる気にはなれなかった。からだがひどく重くて、頭がひどく痛かった。
「タクミくん、大丈夫?」
そう訊いてきたのもちい姉だった。
「うん……。大丈夫だと思う」
「普段、お酒飲むの?」
「あんまり。たまに、こういうときだけ」
「そっか。休んでた方がいいよ。明日も学校でしょ?」
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
今日のことを思い返す。
嘉山と話をした。るーの家で、すず姉とベースの練習をした。よだかと電話した。彼女は帰ってしまった。
そして今、ここでこうしている。
たった一日でさまざまなことが起きるものだ。
あの頃も、こんなふうだったかもしれない。
「ちい姉」
と、俺は声を出して彼女を呼んだ。
ちい姉は不思議そうな顔でこちらを振り向いて、「なに?」というふうに首をかしげた。
「ちい姉はさ」
何かを訊こうとしたのに、何が訊きたいのか、わからなくなってしまった。
「ちい姉は……」
そうだ。
よだかに似てたって、るーが言ってたんだ。
「ちい姉は……自分が不幸だって思ったこと、ある?」
「……」
俺の唐突な質問に、ちい姉は黙りこんだ。
彼女のとなりで洗い物をしていたるーもまた、こっちを見て怪訝そうな顔をする。
考えこむように、ちい姉は黙った。
「……ごめん」
と俺は謝った。
怒ったふうでもなく、ちい姉は呆れた感じに溜め息をついた。
「どうしてそんなことを訊くの?」
「……わからない」
「……そっか」
ああ、今日は楽しかったな、と、そう思った。
そう思ったら、急に寂しくなった。
またこれなんだ。
寂しさが強烈な痛みを伴うのは、祭りの後、パーティーの後、馬鹿騒ぎの後、耳鳴りのしそうな沈黙と静寂が訪れたときだ。
だから、楽しいことは苦手なんだ。
「幸せって、なんだろう」
問いのかたちを、そう変えてみた。
「解釈だよ」
と、ちい姉は言った。
思わず、俺は聞き返した。
「え……?」
「幸福と不幸は、解釈だよ」
「……えっと、どういう意味?」
「出来事それ自体に、『幸福値』みたいなのが設定されてるわけじゃない。
だから、ほら、人生はプラスマイナスゼロだって、言うでしょ。あんなの、うそだよ」
「……」
よだかが、いつか、そんなことを言っていた。
「ある出来事はある人にとって不幸で、ある出来事はある人にとって幸福で、でもそれが本当かどうかなんて、わからない」
俺は黙って続きを待ったけど、ちい姉は言葉を探すように黙りこんだあと、詳しい説明もせずに、別の言葉を続けた。
「……あるよ」と、静かに彼女は言う。
「……なにが?」
「不幸だって、思ったこと」
るーが、何かをうかがうように、俯いた。
「でもさ、それが本当に、ただの不幸かなんて、わからないんだよ」
「どういう、意味?」
「……帳消しになることが、あるんだよ。不幸も、幸福も」
「……」
「どうしてこんな目に合うんだろうって、つらくなったこともある。
拗ねたことも、嫌になったこともある。寂しくて、悲しくて、やめにしたいって思ったことも、ホントはあるよ」
「……」
「なかったことにしたいことも、やり直したいことも、たくさんあった。
言わなくていい言葉とか、したくなかった失敗も、たくさん」
でも、さ。
言葉を探すみたいに、とぎれとぎれに、ちい姉は言う。
「一度、何かに出会ってしまったら、それを嬉しく思ってしまったら、もう、不幸せは、不幸せのままじゃないんだよ」
「……」
「出来事と出来事は、つながってるんだ。
だから、わたしの失敗も、わたしの不器用さも、わたしの臆病さも、ぜんぶ、経路になっちゃったんだよ」
「……経路?」
「わたしが、もしも、もう少し強かったら、もう少し器用だったら、もう少し周囲に溶け込めてたら……。
そう思うときもあるけど、もしそうだったらわたし、きっと……遊馬に会えてなかったんだよ」
「……」
「遊馬に会えたから、わたしにとって、わたしの失敗も、不器用さも、臆病さも、嫌いな思い出も、意味が反転したんだ」
経路。反転。
「ひとつでも欠けたら遊馬に会えてなかったなら、わたしはこんなふうでよかったって思えた」
「……」
「禍福は糾える縄の如し、人生万事塞翁が馬、終わり良ければすべてよし」
「……」
「もちろんだからって、つらいことのあとに必ず良いことがあるとか、そんなふうに思うわけじゃない。
でも、何かが起こって、全部のことの意味が変わってしまうことが、ときどき、あるんだよ。
その幸運に恵まれて、それを嬉しく思えたら、それを幸福と呼ぶんだと、わたしは思う」
「……」
「大嫌いな自分が、思い出したくない過去が、『だからこそ』に繋がったら、もうそれは受け入れがたいものじゃなくなるんだ」
「……」
「だからきっと、わたしは不幸じゃなかったんだよ」
◇
ちょっと散歩してくる、とそう言って部屋を出た。
何かを考えようとした。
何かを考えようとしたのにうまくいかない。
――世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。
「……」
――"かわいそうな子"の役は、いやだよ。
何かが分かりそうだと思った。
何かが繋がりそうになっている。ずっととぎれとぎれで、うまくつかめなかったもの。
何を考えていたんだっけ?
よく思い出せない。
何が引っかかっていたのか。何が気になっていたのか。
携帯を取り出して、ラインの画面を呼び出した。
少しだけ迷って、意外とまだ早い時間だということに気付いて、コールした。
よだかはすぐに出た。
「もしもし?」
「もしもし。よだか、もう着いた?」
「うん。けっこう前に」
「そっか。ならよかった」
「何かあったの?」
「……何かなくちゃ、連絡しちゃダメなのか?」
「ううん。うれしいよ」
ちょっと、不自然なのかもな。
あらかじめ態度を言明しようとするところとか。
るーたち姉妹と比べると。
「なあ、よだか、俺は、何か間違ったのかな」
「どしたの、たくみ?」
「変なことを言ってもいい?」
「たくみはいつも変なことしか言わないよ」
「俺は、おまえのために何かしたかったんだよ」
よだかは返事をしなかった。
そう思っていた。そういうつもりだった。
腹を立てていた。
そんな馬鹿な話があるかと、そんな身勝手が許されるか、と。
そうやってきっと、俺はいつのまにか、彼女を閉じ込めていた。
「かわいそうな子」として。
それもまた、軽蔑されてもしかたないくらいの、身勝手だったのかもしれない。
「もっとできなきゃだめだ、とか、どうしてこんなにできないんだって思うのはさ、たくみ。
それは、もっとできるはずだっていう自信とか、傲慢さとセットなんだと思うよ」
「……」
「たくみ、たくみが思うほどではないかもしれない。それでもたくみは、わたしにとってひとつの救いだったよ」
「……」
「話してくれるだけで、よかったんだ」
夏の夜の空気は少し湿っていた。雨が降りそうな気がした。
「たくみは、誰かのために何かをするってことを、少し難しく考えすぎだよ」
「……」
「言ったって、たぶんわかんないだろうけど。でも、そういうの、わかってる人もいるはずだよ」
「……」
「たくみは、いろんなものに苛立ってて、腹を立てて、斜に構えてる。
わたしは思うんだけど、それはたぶん、たくみのやさしさの裏返しなんだよね」
「……やさしさ?」
「誰かの不幸せ、誰かの無神経さ、誰かの迂闊さ、どこにでもある不条理。
そういうものに苛立つのは、きっと、たくみがやさしいからだよ」
「……」
「世界はもっと公平で、うつくしくて、やさしくあるべきだって、そう思うから、
たくみはそういうものに苛立つんだと思う」
やわらかい夜風が火照った頬を撫でていく。
「ふつうはさ、納得しちゃうんだよ。そういうもんだって。
仕方ないじゃない。仕方ないことは、、どうしようもない。
とにかくそういうものなんだ、そういうふうにできてるんだって、受け入れちゃうんだよ」
「……」
「でもね、それはそれでいいんだよ、たくみ」
「どういう意味?」
「誰かと繋がっているってわかれば、それだけで、少しだけ、がんばれるんだ」
だからさ、とよだかは、
「だからさ、たくみはそれでいいんだよ」
本当にそれでいいんだろうか、と少しだけ思って。
でも俺もきっと、よだかがいることに、救われていたのだろうから。
「……うん」
頷いた。
遊馬兄が、静奈姉が、ちい姉が、すず姉が、美咲姉が、るーが、
一緒にいてくれただけで楽しかったあの夏。
世界はきっと、その頃からずっと変わらない仕組みでできている。
「どうかな」とよだかは言った。
「なにが?」
「お姉ちゃんっぽいこと言えた? わたし」
「どうかな」と俺は笑った。
本当の姉弟なら、そんなこと気にしないし、口に出さない。
るーやちい姉とは、やっぱり俺たちは違う。
それでも、それもひとつの形だといえる。
俺たちなりの形。
「助かったよ」と俺は言った。
「うん。甘えていいよ。わたしも甘えるから」
「ありがとう」
「こちらこそありがとう」
◇
酔っぱらった頭のなかで、いろんなことがぐるぐると巡っていた。
いい加減認めるべきかもしれない。
夜風に吹かれながら見慣れてしまった道を歩いている途中で、彼は待ち構えるみたいに立っていた。
「やあ」
ずいぶん久しぶりだという気がする。
立っていたのは鷹島スクイだった。
「ずいぶん酔ったみたいだな」
「どうも、そうみたいだ」
俺はもう、彼がそこにいることを不思議とは思わなくなっていた。
どこにでもあらわれる。
俺がいるところなら、いつでも、どこでも。
「なあ、スクイ。おまえは結局、誰なんだ?」
そう、訊ねてみた。答えらしい答えを期待したわけじゃない。
「鷹島スクイ」と、彼は案の定、答えになっていない答えを返してきた。
でも、それが正解なのかもしれない。
「おまえは、それでいいのかもしれないな」
スクイは不意に、そんなことを言う。
俺は頷いた。
「たぶん、そうなんだと思う」
なんとなく、今の俺には分かる。
スクイはきっと、俺自身が受け入れることのできなかった、俺の一部分だ。
苛立ち、怒り、憤り。
力を持たない正しさを、公正であることの報われなさを、
許すことのできなかった俺の姿だ。
俺はそれを、認めたくなかった。引きはがした。
それがたぶん、鷹島スクイの正体だ。
「藤宮ちはるといると、楽しいかい?」
いつかした、そんな問いかけを、スクイは俺に向ける。
「楽しいよ」と俺は頷く。
「るーだけじゃない。高森も、佐伯も、ゴローも、部長も、すず姉もちい姉も静奈姉も。
俺は、みんなのことが好きなんだよ」
「知ってるよ。楽しいかい?」
「楽しいよ」
たとえ、その裏側で、誰かが苦しんでいても、悲しんでいても。
その人のために何もしてやれなくても。
俺はやっぱり、楽しんでしまう。
何もできないこと、何もしていないこと。
危害を加えているわけじゃない。
それでもいつも、影のように張り付いたままのうしろめたさ。
何もしないことの、有責性。
「最初からわかってたことだよな」
そう、スクイは言う。
「腹を空かせた熊を殺して、魚の卵を食べて、家畜を飼い殺して、生きてるんだ」
「……」
「誰かの悲しみを食べながら、俺たちは生きてる」
その神経質さ、潔癖さを、本当にやさしさと呼んでいいのか、俺には分からない。
「生きることは、食べることだ」
不運を、非業を、不満を、不幸せを、食べることだ。
「おまえは食べたくなかったんだろ」
スクイの問いかけに、どうだろう、と首をかしげる。
たぶん。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
そう言った。
「本当にそうだと思ったんだ。誰かがその裏で悲しんでいるなら、
楽しいと思うことにはいつもうしろめたさが付きまとう」
だから、誰かが不幸でいるうちは、幸福なんて感じられない。
幸福なんてものは、ありえない、とスクイはいつか言っていた。
「でもさ、そうやって俺がつまらない顔をすることで、誰かが嫌な気分になるなら、
結局俺は、誰かの幸せの邪魔をしてるだけだ」
「たしかに」とスクイは言う。
「要するに俺は、目標の達成を急ぎすぎたんだな」
「急ぎすぎた」
「誰もが急にやさしくなって、みんなが急に幸せになるような、そんな展開。
そういうのを探してたんだよ」
「へえ」
「でも、そんなの無理だ。だから、不平を漏らすくらいのことしかできなかった」
「おまえらしいといえば、おまえらしい」
そうかもしれない。
「でも、よだかは、もう大丈夫だ」
「……」
「ちい姉だってるーだってすず姉だって静奈姉だって、遊馬兄だってきっと、いろんなものを消化して生きてるんだよな」
「……」
「かわいそうな子の役は嫌だってよだかに言われたとき、俺はぎくりとしたんだ」
「……」
「よだかは救われなきゃいけないって思ってた。何か、きれいな形で。
でも、あいつはもう、食べたんだ。何の救いもなくたってさ」
「……」
「そういうことなんだよな、たぶん。誰かの手で救われるわけじゃない。
みんな、理不尽を、不条理を、食べて、強くなっていくんだ」
そういうものなんだって、受け入れて。
「つまりさ、余計なお世話なんだよ。俺があれこれ頭を悩ませることなんて」
「……」
「俺にできることなんて、知れてるんだ。
困ってる人の手伝いをして、そばにいたい相手のそばにいて、
その人たちの幸せを願うしかない。だったらもう、考えることなんて無駄だ」
「そうみたいだな」とスクイは言った。
「じゃあ、仲直りだ」
そういって、スクイは俺に手を差し出した。
俺はその手を握った。
誰かが悲しんでいる。誰かが苦しんでいる。誰かが泣いている。
だから俺は、自分だけ幸せになるなんて許されないと思った。
その気持ちは、今でもなくなったわけじゃない。
「捨てられた猫、死んでしまった猫は、どうする?」
俺は、やっぱり答えに窮したけど、
「それでも俺は、幸せなんだ」
そう答えた。
スクイは最後にポケットから煙草の箱とライターを取り出して、俺に差し出した。
「捨てといてくれ。もういらないから」
俺が頷くと、スクイの姿は消えた。
そうして彼は、二度と俺の前に姿を現さなかった。
俺はその場で蹲って呼吸を整えた。
何かが溢れ出しそうだった。
それがなんなのかもわからないまま、意識がたくさんの言葉の渦に呑まれる。
俺の身体に何かが入り込んでいきたような気分にさえなる。
俺はそれを、どうにか身体の中で受け止めようとする。
しばらくしてから、俺はどうにか立ち上がった。
シャッター音が聞こえた。
小鳥遊こさちが立っていた。
「和解ですか?」
「……」
「あら、しんどそうですね」
「……きみも、どこにでも現れるね」
「こさちは神出鬼没ですから。神でも鬼でもありませんが」
「じゃあ、なに」
「そんなに警戒しないでください。こさちはせんぱいとお話をしにきたんです」
「話……?」
「そろそろこさちもお役御免、といった具合のようなので」
「どういう意味……」
「ところでせんぱい、猫のことを覚えていますか?」
「……なに、それ」
「せんぱいが捨てた子猫のことですよ」とこさちは笑った。
どうしてそれを知っているのか、と、そう問うことも無駄だという気がした。
たしかに俺は子猫を捨てた。それは間違いない。
「こさち、せんぱいのことがだいすきですよ。今度は、嘘じゃないです」
「……」
「だから、もうこさちのことは忘れてください。お別れです」
――シャッター音。
つづく
乙です
乙
◇
橋の上に立っていた。
何を考えているのか、よくわからなくなってしまった。
今日、いったい誰と何を話したのか。
どれだけの相手が、俺に向けて言葉を放ったのか。
そのどれもを、もう俺は覚えていない。
何かがわかりそうだった。
あと少しだという気がした。
橋の下から水の音が聞こえる。
明日はバイトだな、と思った。
テストの勉強もしなきゃいけない。
本気でバンドをやるなら練習する時間はいくらあっても足りない。
夏休み明けには新しい部誌を出すと言っていたし、何を書くかも決めておかないと。
それで……それで。
俺が考えなきゃいけないのはそのくらいか?
違うという気がした。
本当に考えなきゃいけないことから、俺は逃げている。
目の前のあれこれに気を巡らせることで、本当にかんがえなければいけないことから逃げている。
そんな気がした。
少し前までなら、「考えなきゃいけないこと」ははっきりしていた。
よだかのこと。
スクイのこと。
でもそれすらも、ひょっとしたら、ただ逃げていただけだったのかもしれない。
俺が本当に考えなきゃいけないのは……。
こさちのことでも、よだかのことでも、スクイのことでも、
嘉山のことでも、嵯峨野先輩のことでもなくて。
あるいは遊馬兄や静奈姉のことでもなくて。
きっと、自分のことだ。
卒業してからのこと。父親のこと。将来のこと。
「ずいぶん遠くまできたんですね」
振り返ると、今まさに思い浮かべていた顔が立っていた
橋の上で、向かい合う。
こんなことが前にもあったような気がする。
あのときは彼女の顔がよく見えなかったけど、今は見える。
欄干のそばから延びた街灯に照らされて彼女の姿がくっきりとわかる。
「よくここにいるってわかったね」
思わずそうつぶやくと、るーは笑った。
「たまたまです」
たぶん、そうなんだろう。
「何か考え事ですか?」
俺は頷いた。
「ずっと何かを考えてたんだけど」
「はあ」
「何を考えてたんだか、よくわからなくなったんだよ」
「それは……たいへんですね」
るーは困ったみたいに笑う。
「うん。大変なんだ」
頭の中がぐるぐるして、何を考えていたんだかもよく思い出せなくて。
そうやって眠って、気付いたときには忘れている。
そんなことの繰り返した。
「まだ何か、考えたいことがあったんですか?」
「そんな気がするね」
「じゃあ、思い出せるまで一緒にお話しましょうか」
るーはそういって、欄干にもたれて体を預けた。
川辺の夜風は少し冷たい。
火照った体には、けれど、心地よい。
「寒くない?」
「涼しいですよ」
「眠くない?」
「平気ですよ」
「退屈だろ」
「ぜんぜん?」
きょとんとした顔で、るーは俺の顔を見返す。
その距離が意外なほど近かった。
俺も、橋の欄干に体をもたれた。
彼女のすぐそばに。
肩が触れるか、触れないかの距離で。
「パーソナルスペース」
とるーは言う。
「密接距離ですね」
「不快?」
「いいえ?」
「ならいいや」
勘違いか、からかってるのか、それとも。
思わせぶりな態度が多いのは、お互いさまか。
「るー、今何考えてる?」
「テスト勉強してないなあって」
「俺も」
「タクミくんは、何考えてたんですか?」
「るーのこと」
「うそつき」
「うん。ばれた?」
「ほんとに考えてたら、そんなこと言えないです」
「だよな」
「テストのこと考えてるとか、そういうこと言いますよ」
「かもな」
……。
「……今の、笑うところ?」
「それでもいいですよ?」
本当にそれでもいいよってふうに、彼女は笑う。
それじゃなくてもいいよっていうみたいに。
頭がしびれるみたいな感じがする。
うまくものが考えられない。
「それで、何を考えてたのか、思い出せました?」
「なんだったかな」
「やっぱり、思い出せないです?」
「……思い出せないなら、きっと、たいしたことじゃないんだよな」
「ホントに?」
俺は答えなかった。
「あのさあ、るー」
「なに?」
と、本当に突然、るーは敬語をとった。
ちょっと戸惑ったけど、彼女が当たり前みたいな顔をしていたから、何も言わなかった。
「子供の頃に魔法少女にあこがれたこととかってある?」
「好きでしたよ?」
「俺も」
「え、魔法少女ですか?」
「ううん。戦隊ヒーロー」
「ですよね。ちょっとほっとしました」
「誰かを助けたり守ったり、そういうのがかっこいいなって思ったんだ。
悪役を倒して、いろんなものに立ち向かってさ」
「そんなふうになりたかったんですか?」
「わからない。単に戦ったり武器を振り回したりするアクションが好きだったのかもな」
「まあ、女の子向けアニメの見どころも、変身シーンですもんね」
「誰かを助けられるような人間になりたいっていうのはさ」
「……はい?」
「素直な気持ちだと思う?」
「どういう意味ですか?」
「誰かを助けることで、尊敬されたい、見返りがほしい、認められたい。
そういう気持ちが、どっかにあるような気がするんだよな。人にもよるだろうけど、俺の場合は」
「……」
「ヒーローになるためには、困ってる人が必要なんだよ。
だから、ヒーローになりたいって言うやつは、困っている誰かの存在を望んでるんだ」
「……はあ」
「それって、なんていうか……やな感じだよな」
「そのことを、考えてたんですか?」
「うん。……ううん、どうかな」
「誰かが困っているときに手助けができることは、悪いことじゃないと思いますよ」
「そうなのかな」
「だって、現に、困っている人はいるわけじゃないですか。望むと望まざるとにかかわらず」
「困っている人を助けたいって思うのは、自然なことだと思いますよ」
「おこがましくない?」
「そうかも。でも、じゃあ、放っておくのがいいんですかね? さしでがましいとか、おこがましいとかいって」
「……」
「正解なんて誰にもわかりませんよ。自分の心のメカニズムだって、ぜんぜん理解不能です」
「代償行為なのかも」
「何が?」
「誰かを助けたいとか、悲しそうな誰かを見るのがつらいのは」
「代償行為?」
「猫を捨てたことがあるんだ」
「……猫、ですか?」
「代償行為だ」
誰かのことを考えることで、何もできなかった過去の失敗を帳消しにしたいがための。
顧みられない誰かのこと考えることで、顧みなかった誰かに言い訳するための。
「それって、きっと、何も考えないよりもずっと疚しいことなんだよな」
「そうかもしれないですね」
街灯の明かりに隠れて、夏の夜の星が水面に浮かんでいる。
なんだか急に、耐えきれないくらいに悲しくなった。
「るーといると、俺は弱音ばっかだな」
「ですね」とるーはなんでもなさそうに笑った。
「わたしに嫌われたくて、そんな話をしたんですか?」
「かも」
「そのほうが楽だから?」
「だろうな」
「誰だって、自分のことがいちばんわからないものだって、誰かが言ってましたよ」
「そうなのかも」
「自分の気持ちの由来なんて考えたら、誰だってどこかに疚しさを抱えているのかもしれないです」
「……」
「わたしだって、きれいな気持ちだけで、ちい姉やすず姉と一緒にいられるわけじゃないです」
「……」
「そう言ったら、嫌いになりますか?」
「……いや」
「そうですよね。他人って意外と、他人の汚さには寛容なんです。自分ほど厳しくは、してくれないんです」
そうなのかな。
どうなのかな。
「自分がいちばん、自分に厳しいから。潔癖すぎると誰にも甘えられないです」
「……」
「タクミくん、手、貸してください」
「どうして?」
「えと、じゃあ、手相を見るので」
「……はあ」
俺は手を差し出した。
るーはさっと俺の手のひらをつかんだ。
「どんなもんですか」
「よい手相です」
「……適当に言ってない?」
「そんなことないですよ。お、これは二重感情線ですね」
「なにそれ」
「知りません」
「やっぱり適当だろ」
「違いますよ。感情線が二本です」
そう言って彼女は、人差し指で俺の手のひらをそっと撫でた。
すこしくすぐったい。
「意味は忘れましたけど」
「意味ないな」
「ですね」
「るーの手相は?」
「金星帯がありますよ。ほら」
そう言って、彼女は俺に手のひらを差し出した。
「ここです」とさしていたところを、俺も指先でなぞってみる。
手相の意味なんてわからなかったけど、るーの手の小ささに、戸惑いを覚えた。
細い指、透き通る爪、折れそうな手首。
触れるのが心地よかった。
どうしてなんだろう。
さっきまで考えていたことが、もうわからなくなってしまう。
「金星帯ってなに?」
「えっと……自分で言うの、いやです」
「はあ」
「……聞きたいです?」
「話してくれるなら」
「……やっぱ嫌です。自分で調べてください」
ふうん、と言いながら、例の金星帯とかいうのを撫でてみる。
「あの、そろそろ……くすぐったいです」
「……」
「……タクミくん?」
「……もうちょっと」
「……あう」
「……」
「タクミくん、たまにそういうことしますよね」
「るーもね」
「……おたがいさま、ですか?」
「うん」
「……あんまりされると、困ります」
「るーを困らせるの、楽しいよ」
「……」
「いつも、余裕そうだから」
「……へんたい」
……なんでだ。
俺がつかんでいる手と反対側の手で、彼女は俺のもう片方の手をつかんだ。
俺がしているのと同じように、彼女は俺の手のひらをくすぐりはじめる。
「……」
「……」
目が合う。
「……な、なんですか?」
「なにが?」
「今、何考えてます?」
「……楽しいこと」
「……えっと、奇遇ですね?」
と言うが早いが、るーは俺の手のひらをくすぐり始めた。
急な刺激にびっくりして、俺は身をよじりながら、もう片方の手でるーの手のひらをくすぐる。
「あはは」とるーは笑った。
たぶん、本当はそんなにくすぐったくないはずなんだけど、くすぐられるって思うと不思議にくすぐったくなる。
るーはわーわー騒ぎながら、「ええい!」って声をあげて、俺の脇腹に手を伸ばしてきた。
思わず体をくの字に曲げると、いつのまにか向き合っていたるーの肩に頭がぶつかる。
「やめろって」って、笑いながら言う。
「ふふふ」ってわざとらしく笑いながら、るーは手を動かすのをやめない。
「くすぐったいよ、るー」
「まいったか」
「まいったまいった」
るーは笑って、俺から離れた。
照れくさそうに笑う。
「……何してんだ、俺たち」
「ね、何してるんでしょうね?」
楽しそうに笑う。
夜風が吹き抜ける。
くすぐったい沈黙。
静かに目が合った。
黙ったまま、俺たちは体を向かい合わせる。
静かな七月の夜。
「ねえタクミくん、今、何考えてます?」
「何考えてると思う?」
「わからないから、聞いたんですよ」
「俺も、わかんないや」
「……」
「自分のことは、自分がいちばんわかんないんだろ?」
「……うん」
「るーは、何考えてる?」
「……テスト勉強のこと」
「そっか」
「ね、タクミくん」
「なに」
「足、疲れちゃいました」
「ん。うん」
それがどうした、という意味で頷くと、彼女はゆっくりと体を倒してこちらにもたれかかってきた。
「……欄干があるだろ」
「ありますね、欄干」
それがどうした、という声で、彼女は言った。
「るー、あのさ」
「……なんですか?」
「テストの勉強、しなきゃ」
「……」
「明日も、学校だし」
「……」
「帰らなきゃ、だよ、な?」
「……」
「……るー」
「……やだ」
と、るーは俺の胸に額を押し付けた。
「……酔ってる?」
「そういうことにしても、いいです」
「どうしたの」
「もうちょっと、お話ししよう?」
「……」
「だめ、ですか?」
「……いいけど、さ。どうしたの、るー」
なんでもない、とるーは首を横に振った。
俯いた顔は、こっちからじゃよく見えない。
近すぎて、よく見えない。
「……どうして、なのかな」
るーは、何かをさぐるみたいに、そうつぶやいた。
「何が?」
るーは、俺の顔を見上げて、
「べつに、とびぬけてかっこいいってわけじゃないですよね?」
「……」
なんて言った。
いや、知ってたけど。
知ってたけど、こう。
好きな子に言われると、複雑だ。
「なのに、なあ」
ふう、とるーはため息をつく。
「おい、真顔で言われると俺も傷つくぞ」
「かっこ悪いとはいってないです」
「そういう問題じゃなくてね」
「何が問題なんですか?」
「……いや、俺はるーのこと、とびぬけてかわいいと思ってるから」
「は」
「ちょっと悔しいだけ」
「……あ、あのう、何をおっしゃってるんです?」
「……」
「もっかい、言って?」
「やだ」
「もう一回。……ダメ?」
「ダメ」
「けち」
ふと、思い出したことがあった。
一緒に雨に濡れた猫のこと。
いつのことだったっけ?
どんな猫だったっけ?
あの猫は、どこにいったんだ?
どうして、あの猫と一緒にいたんだろう。
思い出せないことばかりだ。
「そろそろ戻ろう、るー」
「……うん」
頷いても、るーは戻る気配を見せなかった。
「……もうちょっとだけ」
そう言って、彼女はもたれかかってきた。
俺は、半分あきらめたみたいな気持ちで、彼女の肩に腕をまわしてみた。
るーはくすくす笑った。
「なに?」
「なんでもない」
満足そうなため息を漏らして、るーは頬を肩に寄せてくる。
「何をやってるんだろうな」
「何をやってるんだろうね」
結局、動き出すまで、けっこうな時間がかかってしまった。
つづく
このスレで終わらない気がします
乙です
乙
乙
乙です
毎回色々と心を動かされるけど、るーの厳しさの基準の所でグッと来た
乙です
◇
その日、部屋に帰ったら部屋には誰の姿もなくて、
静奈姉の部屋を確認したらベッドにひとり、床に敷かれた布団にふたり、女の人のからだがあって、
「あれ?」と思って俺の部屋を覗いたら俺のベッドの脇に布団が敷かれていたりした。
「誰だ」と俺が言ったら、
「まあすず姉と静奈さんでしょう」と妙に冷静な声でるーは言った。
「ひとつのベッドで寝ろと言わないだけ良識が働いてるほうですね」とも。
いやいやそうもいかんだろう、というわけで俺がリビングのソファで寝ることにしたら、
「じゃあお風呂お借りしますね」とるーが脱衣所に入っていってしまった。
俺はるーの荷物の置かれた自分の部屋に入るのもなんとなく気が進まなくて、
仕方なくリビングのソファでぼんやりしていたわけだけど、
そうしていると壁に面した脱衣所のドアの向こうの物音が聞く気がなくても妙に耳に入ってきたりした。
「いや、マジか」
と俺は思わずつぶやいた。
というか俺の周囲の女性陣は俺自身の思春期男子性を軽んじすぎている気がする。
高森には「性欲なさそう」とか言われるし、
静奈姉だって、そりゃあ信頼されてるんだろうしそういう対象として見られるとも思ってないんだろうけど、
いくらなんでも無防備すぎるって状況が結構多い。
そりゃ、自制心くらいあるし、分別くらいはつく。
見境ないわけでもない。
「……」
ない、が……。
「……今からでも、ゴローんち行こうかなあ」
考え事をしている間に、時間はどんどん過ぎていって、
「どうしたんです?」とるーがまだ乾ききっていない髪をタオルで撫でつけながらリビングに入ってくるときまで、
俺は結論どころか設問さえもろくに出せていなかった。
ぐるぐるまわる頭を強引に落ち着かせてるーの姿を見ると、
「げ」
となった。
「げ、ってなんですか、げ、って」
「……なんでパジャマなんだよ……」
「な、なんでって。寝るときいつもこれですよ、わたし」
「いや、うん。べつに変じゃない……違う、俺の問題だこれは……」
「……えと、どうかしたんですか?」
「ほっといてくれ、いろんなものと戦ってるんだ」
「……そうなんですか」
「うん」
「えっと、がんばってください?」
「うん」
「……となり、いいですか?」
「……え」
「となり」
と、るーはソファをさした。
まあ、二人掛けなんだけど。
二人掛けなんだけどさ。
「な、なんで」
「見たいテレビ、あるんです。タクミくんの部屋、テレビないじゃないですか」
「……そう、だねえ、そういえば」
そういえば、ない。
「失礼します」
俺の答えを待たずにるーは隣に腰を下ろした。
というか、
もう、
いいかげん無理だ。
俺だっていろいろがんばってるのだ。
誰も気付いていないだろうし、誰も褒めてはくれないだろうけど。
袖から覗く腕の細さが、細い首筋が、
見慣れない足の甲と小さな指が、きれいに並んだ爪が、
濡れた髪とシャンプーの匂いが、わずかに紅潮した頬と潤んだ瞳が、
頭をしびれさせる。
が、
ここは親戚の家で。
ひとつ屋根の下には彼女の姉二名。
というわけで。
「……どうぞ」
俺は顔をそらしてやりすごす以外に手段を持たない。
「……ときどき真面目であることをやめたくなるな」
「そういう日もありますね、喫煙者さん」
「あれはやめたよ」
「それはよかったです」
何の説明も求めないるーの性格に、俺はいつも助けられてる。
助けられてるけど。
いろんな考え事があるからとか、そういうのとはあんまり関係なく、
とりあえず彼女を『そういう目』で見たくなくて、
だからなんとなく、今はそばにはいたくなかった。
「俺も風呂入ってくる。るーも、テレビ見たら、あと寝な」
「あ、はい」
なんだかそれは裏切りのような気がする。
それともそれは、子供っぽい願望の投影?
どちらなのかはよくわからないけど。
いずれにしても。
今はどうにもなれない。
酔っぱらった眠い頭で、勢いに任せたままで何かを決めたくない。
それも勝手なのかもしれない。
そんなことをぐだぐだ考えながらシャワーだけを浴びて、
どうしようか迷いながらしばらく髪を乾かして歯磨きをして、顔を洗って静奈姉の化粧水やら乳液やらを勝手に使って、
時間を無駄につぶしてテレビの音が消えてから、俺はリビングへと戻った。
するとテレビも電気も消えていた。
勝った、と俺は思う。何にかはわからない。
そうしてジャージとTシャツ姿になった俺は暗いままの部屋を歩いてソファへと向かった。
一応るーがいないことを確認してから、寝そべる。
少しだけ猫とベースとよだかとスクイのことを考える。ついでにテストとバイトのこと。
今日何度も考えたようなこと。
瞼を閉じて「今日は疲れたなあ」なんて思う。酔いなんて、本当はとっくにさめているとわかっていた。
だからたとえば扉の音がして、光が俺の部屋から延びてきて、
「タクミくん」なんてるーに声をかけられたときも、決して寝ぼけてなんていなかった。
「なに」と出した眠たげな声も、半分くらいはつくりもので、るーだってそれに気付いたと思う。
「一緒に、寝ませんか?」
そんな言葉にだって、反対できる理性くらいあったけど、従いたくなかった。
「……うん」
べつにそれは下心じゃない。
どうせ誰も信じてくれないだろうけど。
◇
なんでなのかは、やっぱりよくわからない。
俺は床の布団に寝そべっていて、るーは俺のいつも使ってるベッドに横になっていた。
床のほうが固いから、なんて当然のように思ったけど、
今になって自分の匂いがしみついていないか気になったりもした。
そういえばよだかが、匂い、するって言ってた気がするし。
なんてことを、まさか訊ねるわけにもいかずに、俺は黙ってた。
ただ俺は、普段、自分の使っているベッドに、パジャマ姿で横になっている好きな子の息遣いを聞きながら、
息遣いを聞いてる自分が気持ち悪くって、なんとか意識しないように気を付けていた。
「前も……」
と、不意にるーは言う。
「前も、お泊りしたこと、ありましたよね」
「バーベキューのとき?」
「うん。それに、台風のときも」
「……あったなあ」
子供だからといって、るーと一緒くたに扱われて一緒に寝させられたっけ。
俺だって小学高学年だったわけで、いろいろ気まずかったことを覚えている。
美咲姉なんて、考えてみれば二つか三つくらいしか違わなかったわけで(当時はすごく大人に見えたけど)。
「ね、タクミくん」
「なに」
「お姉さんが、おとぎ話をひとつ、してあげましょう」
「……誰がお姉さんか」
「『かすかなかすかな日照り雨が降りましたので、草はきらきら光り、向うの山は暗くなりました。』」
「……それ、知ってるよ、俺」
「ですよね」とるーは笑った。
「なにせ、タクミくんに教えてもらった話ですからね」
当時の俺もよく知っていたものだ。
といっても、あの当時は、作家の名前なんて知らなかったけど。
どんなときに話したんだっけ。
たしか、あのとき、るーが、泣いていたんだっけ?
悲しそうで、だから……。
「どうして、そんな話をするの?」
「好きですよ、めくらぶどうさん」
「……」
「……」
「……今なんて?」
「おやすみなさい、って言いました」
「……」
「タクミくん、お返事は?」
園児か俺は、と、場違いなツッコミを入れたい自分が半分、
それどころじゃない聞き返せ、とうるさい自分が半分。
操縦者は間をとって、
「おやすみ」
と言った。
「よろしい」
るーはこっちに背中を向けた。それ以降は何も喋らなかった。
つづく
乙です
おつです
◇[Alabaster Chambers]
あくる日、目をさましたとき、俺のとなりにはるーが眠っていた。
からだをこちらに寄せて、ひとつの布団の中に。
俺はいくらかの混乱を覚えてから、しばらくまどろみに浸った。
不思議と、スクイのことを思い出した。
――藤宮ちはるといると、楽しいかい?
楽しいよ、と今の俺は答える。
それが少し悲しい。以前と変わらない。
その悲しみを、それでも俺は、いくらか受け入れることができる。
今となっては。
体を起こして、どうしてこいつは俺のとなりで眠っているんだろうと考えた。
俺のことを、どうして嫌がらないんだろう、と、いまさらすぎる疑問を覚えた。
少し、ぐるぐると考えてから、どうでもいいやと思った。
俺はしばらく、るーの寝顔を眺めることにした。
目が覚めたら嫌がるかもしれない。でも、いやがらないかもしれない。
それを確かめてみたい気がした。
長い睫毛にみとれる。
今日は、どうするんだろう、とぼんやり思う。
制服を持ってきているようには見えなかったから、一度家に帰るのかもしれない。
リビングに誰かが起きだしている気配がして、どうしようか迷ったけど、
なんとなく、俺はるーが目をさましたあと、一番最初に見る人間になりたい気がして、結局動かなかった。
窓の外から小鳥の鳴き声がきこえる。
しばらくしてから、るーは目をさまして、平然と目をこすりながら、
「おはようございます」
と言った。
「何してたんですか?」
寝ぼけた、甘ったるい声。
「寝顔見てた」
「へんたい」
「なんで」
「知ってたけど」
もはや事実として定着したらしい。
「あんまり見ないでください。寝顔なんてだいたいの人がぶさいくなんです」
「いや、気にしてなかった」
「否定はしないんですね」
「否定しても信じないだろ」
「まあ……はい」と、るーは中途半端な反応をよこした。
「今朝は一回家に帰るの?」
「はい。ちい姉かすず姉が、送っていってくれると思うんで」
「ふうん」
「タクミくんも一緒に行きますか?」
「どうしようかな……」
しばらくのあいだ、そんなぐだぐだした会話を続けていた。
俺もるーも、一枚の布団にくるまって眠っていたことについては何も言わなかった。
けだるさを打ち切って起きだすと、リビングではちい姉と静奈姉が朝食の準備をしていた。
ハムエッグとソーセージ、サラダとコンソメスープ。
「おはよう」とふたりは言って、俺のうしろから出てきたるーの姿を見てちょっと目を丸くした。
「一緒の部屋で寝たの? どこにもいないと思ったら」
静奈姉がちょっと怪訝げな顔をした。
「まあ、そうなるね」
「あのね、タクミくん、そういうことをするなとは言わないけど」
「そういうことってなに」
「状況を選んであげないと、るーちゃんがかわいそうでしょ」
「そこかよ」
「大事なことだよ?」
「何もしてないよ。な?」
振り返ってるーを見ると、彼女はぼんやりした目であたりを見回してから、
「……あ、はい」
と、半秒遅れで頷いた。
「すず姉は?」
話を取り合っても仕方ないと思って話題を変えると、ちい姉が当たり前みたいな顔で答えてくれた。
「家に帰った。今日、朝早いんだって」
「朝早いのに昨日の騒ぎだったのか」
「若者の特権だよね」と静奈姉。
「ちい姉、わたしのこと送ってくれる?」
「うん」
「じゃ、お願い」
「ついでだし、タクミくんも乗ってく?」
「あ、うん」
「とりあえず、ごはん食べちゃいないよ」と静奈姉。
「ちひろちゃんの家に寄ってくなら、早めに出ないとでしょ?」
「……だね」
俺はなんだか、ひさしぶりに、不安になるくらい、楽な気分だった。
なんだかいつも、誰にも守られていないような気分だったのに。
文句も言わず助けてくれる人が、いまの俺にはたくさんいるような気がした。
◇
それからちい姉の車で送られて、るーの家まで向かった。
車の中ではちい姉とるーがふたりでごく当たり前の家族の会話をしていた。
ちい姉は、るーと俺が同じ部屋で眠っていたことについても、ほかのことについても、何も触れなかった。
聞いてほしかったわけでもないけど、少し不思議な気がする。
るーとちい姉が家で身支度をするのを待つ間、俺はひとり車に残されて休んでいた。
そのあいだはほとんど何も考えずに、ただ庭に生い茂る木々を眺めていた。
鳥の姿が見える。
少しして、制服姿のるーと、新しい服に着替えたちい姉が玄関から出てきた。
そういえば、ちい姉は今日、デートだって言ってたっけ。
遊馬兄のことを少し考えて、でもすぐにやめてしまった。
校門前についたのはまだ早い時間だった。
車を降りるとき、ちい姉は当然みたいな顔で、
「またね」
と言った。俺はそれがとても不思議だと受け取った。
「いってきます」とるーが言ったので、俺も思わず「いってきます」と言う。
「いってらっしゃい」と、ちい姉は見たことないくらいやさしい顔で笑った。
「さて」と、去っていく車を見送ってから、るーは俺の方を見る。
「今日という日は戦いですよ」
「……何の話?」
「日々は闘争です」
意味がわかんないや、と思った。
◇
鷹島スクイのしたこと、見たこと、聞いたことを、不思議と俺はいくつか思い出すことができるようになっていた。
焼却炉、まだ第一と第二が入れ替わる前の、『あっち』の文芸部の部室でのこと。
嵯峨野連理と、嘉山孝之のこと。
教室でぼんやりしているとゴローがやってきて、
「昨日の特訓のおかげでなんだかいけそうな気がしてきた」
と呟いた。まあ、俺もいくらかやる気にはなっていた。形になればいいな、と思う。
それからゴローは見覚えのない本を取り出して俺に見せてきた。
「いちばんわかりやすいDTMの教科書」と本の表紙に書いてあった。
「それ、どうしたの?」
「佐伯の兄貴が持ってたんだって。借りてみた」
「DTM?」
「作曲しようと思って」
「本気だったの?」
「いける」
ゴローは根拠のない自信に満ちていた。
ひとり本を読み始めたゴローと、会話もなく朝の時間を共有していると、
「浅月、お客さん」
とクラスメイトに声をかけられた。
教室の入り口からの声に呼ばれて立ち上がると、立っていたのは嵯峨野連理だった。
「やあ」と嵯峨野先輩は言う。
「おはようございます」
「久しぶりな感じがするね」
「たしかに」
なにせあちらが神出鬼没だ。
「少しいいかな」
いいですよ、と俺は頷いた。
◇
屋上へと、向かった。
東校舎の屋上だ。
一年と少しの間、何度昇ったかもわからない階段。
用事があるわけでもないのに、何度も昇った階段。
どうしてなんだろう。
俯瞰、鳥瞰。
高い場所。
べつに、何を期待したわけでもないのに、毎日のように通っていた。
嵯峨野先輩の背中を追いながら、俺は少しだけ考える。
よだかは今、どうしてるんだろう、なんてことを。
学校に行ってるんだろうか。
ひとりでいるんだろうか、誰かといるんだろうか。
笑っているだろうか。
つじつま合わせみたいに、帳尻合わせみたいに、そう考える。
そしていつものように、俺は、屋上に昇って、
いつものように、ため息をついた。
◇
屋上についてすぐ、嵯峨野先輩はフェンスに近付いた。
制服姿の彼の後ろ姿は、見下ろす街をその向こうにとらえている。
フェンス越しの街並みは、ここからだと模型のように小さい。それくらいに遠い。
「孝之と、何か話した?」
「……孝之?」
「嘉山孝之」
……話した、と俺は思う。
でもあれは、俺じゃなくてスクイだ。
そのスクイと嘉山の会話を、俺は覚えている。
「ああ、はい。……気になるなら、先輩に訊けって」
「急に敬語なんだね」
嵯峨野先輩は、振り返ってそう笑った。
スクイは、敬語を使わなかったのかもしれない。
はたから見たら、たしかに不思議なんだろう。
「昨日、孝之に問い詰められたよ」
「……」
「あいつ、やっぱり、俺を庇ってるつもりだったんだな」
そう言って彼は、ポケットから小さな腕時計を取り出した。
形見だ、と彼が言っていた。そんな記憶がある。
鷹島スクイはその話を、『あっち』の文芸部室で会ったとき、嵯峨野連理から聞かされていた。
嵯峨野葉羽の、形見。
それを探して死んだ、と、誰かが言っていた。
でも、それを、嵯峨野連理は持っていた。
「きみも、俺のせいで葉羽が死んだと思う?」
「知らない」と俺は言った。
「俺はその場にいなかったから」
「違う」と嵯峨野は言う。
「あの日、川のそばに近付いたのは、孝之だ。葉風はそれを止めにいった。
俺はそれを知っていた。孝之だって、自分で分かってるはずだと思った」
「……」
「でも、違う。あいつは本気で、葉羽が時計をなくしたんだと思ってる」
「……」
記憶は作り物だ。揺らぎやすくて、すぐに変化する。
過去の記憶はいつだって、現在に都合のいいように書き換えられている。
誰だってそうだ。出来事の記憶の比重は人によって異なる。その細部だって、遠ざかればまったく違う形になる。
俺が第一――当時の第二文芸部の部室に、『鷹島スクイ』の原稿を置きに行ったとき、部室には嵯峨野連理しかいなかった。
嵯峨野は例の部誌を見て、呆然としていた。
俺は仕方なく声を掛けた。嵯峨野は、処分してくれ、と言った。
お願いだから、こいつをどこかに捨ててくれ、と。そのときに俺は、彼からいくらか話を聞かされた。
及川ひよりの書いた原稿は、嵯峨野葉羽の死の遠因が、腕時計にあるとしていた。
でも、嵯峨野連理は、そうではないことを知っていた。その腕時計は、その日、嵯峨野葉羽の部屋にあったからだ。
同じ出来事について語っているはずなのに、それぞれに言い分が食い違う。
そんな話を読んだことがある。
そうだ……"藪の中"だ。
そこにいたわけでもなければ、彼らを知っているわけでもない俺に、どうして本当のことが分かるだろう。
本当のことなんて、分からない。探していたのは腕時計ではなかったのかもしれない。
嵯峨野連理が、別の腕時計を“それ”だと思い込んでいるのかもしれない。
本当のことなんて、俺には分からない。
嵯峨野連理はただ、どうすればいいか分からないというように、女物の腕時計を眺めていた。
その苦しげな表情に、どうしてか俺は悲しくなる。
何を悲しく思っているのかも分からないくらい、悲しくなる。
そこで、扉が開く音がして、
振り返ると、嘉山孝之が立っていた。
つづく
次スレのことはあとで考えます
乙
続くのね?続くのね!?
乙
ここでひくかー
乙です
いい所でー乙乙
乙です 順調なようでそうじゃなさそう
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