屋上に昇って. (396)

屋上に昇って
屋上に昇って - SSまとめ速報
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 フェンスのそばには嵯峨野連理が、 
 屋上の入り口には嘉山孝之が、
 その中間、少し斜めに、俺が立っていた。

 三角形を作る頂点のように、俺たちはそれぞればらばらに立っている。

 嘉山孝之は、俺と嵯峨野の顔を交互に見てから、怪訝そうな顔をして、

「朝から何を話していたんだ?」

 そう、訊ねてきた。

「たいしたことじゃないよ」と嵯峨野は言った。
 
 言いながら、彼は、手のひらに持っていた腕時計をポケットの中に忍ばせる。

 どうしてそんなことをするのか、俺にはよくわからなかった。 
 でも、無駄だったらしい。

「連理兄、今、ポケットの中に、何を入れた?」

 けっして、近い距離ではないけれど、嘉山はすぐに、それに気付いた。



「時計だよ」と嵯峨野は言う。

「時間を見ていた」

 嘉山は黙る。

 俺は、嵯峨野連理が、嘉山に腕時計について話していないらしいことに気付き、不思議に思う。
 どうして嵯峨野は、それを隠したのか。

 そして、気付く。
 
 嵯峨野連理は、妹の死の原因が嘉山孝之にあると思っている。
 嘉山はそれに気付いていない、あるいは、そのことを忘れている。
 それを隠し続けるために、嵯峨野は時計を隠したのだ。

 その奇妙さに、俺はめまいがしそうになった。



 嵯峨野は、嘉山が原因だと思っている。そのことを、嘉山に隠そうとしている。
 嘉山は、嵯峨野が原因だと思っている。そのことを、嵯峨野に隠そうとしている。

 互いが互いを庇うために、真実を隠そうとしている。

 そうだよな、と俺は思う。

 本当のことなんて、知ってどうする?
 知ってしまったらろくでもないことばかりなのかもしれない。

 知ってしまったことは、なかったことにはできない。

 ページをめくらなければ、続きを知らなくて済む。

 耐えがたい真実と選びやすい虚偽ならば、後者を受け取るべきだ。
 真実は所詮、ひとつの側面でしかない。

 俺は黙ったまま、フェンスの方へと向かう。
 ふたりの話はもう、俺にはどうでもよかった。


 部誌を燃やしたのは、俺だ。嵯峨野から、話も聞かされた。
 彼が原稿を読んだどころに、居合わせもした。嘉山に告発を受けもした。

 でも、彼らのこのやりとりは、既にそういう問題ではなくなってしまっている。

 俺が口出しをすることでもない。
 彼らがどんな関係になろうと、俺にはどうでもいい。

 本当のことも、本当の気持ちも、全部覆い隠して。
 それらしいだけの嘘で塗りたくって。

 そうだな、と俺は思う。

 それは、そうだ。

 俺だって、よだかのことを、父のしていたことを、母に伝えられはしない。

 本当のことなんかより大切なものがあるから、じゃない。

 伝えたとき、なくなってしまうものが怖いだけだ。
 人のことなんて言えない。


 きっと、誰だってそうだ。
 嘘をついて、やりすごして、ごまかして、
 日々が壊れるのを、必死になって避けようとしている。

 カントは、道徳律は定言命法で語られるべきだと言った。
「もし……ならば……してはならない」ではなく、ただ「……してはならない」と。

「嘘をついてはならない」、と彼は言う。

 どんな状況でも絶対に、嘘をついてはならない、と。
 
 でも、人は嘘をつく。
 暴漢に追われている友人をかくまうとき、暴漢に友人の行方を聞かれたなら、人は暴漢に虚偽を教える。

「あっちにいきましたよ」、と。
「ここにはいませんよ」、と。

 本当のことに、どれだけの価値があるだろう。

 そこに、何のうしろめたささえ覚えずに、人は嘘をつく。
 真実の重みなんてそんなものなのだろう、きっと。

 ……きっと、そうだ。



 でも、それじゃあ、

 嵯峨野葉羽の死は、どこかに置き去りだ。
 その子の死は、嵯峨野にも嘉山にも、ただ厄介なだけの代物だ。

 ただ取り扱いが難しいだけの。
 運び込むのが難しい荷物のような。

 ただそれだけの代物に、今この場では、嵯峨野葉羽は成り下がっている。

 俺が口を出すことではない。
 
 何が本当のことかも、俺にはわかるはずはない。

 でも、俺はそれを、嫌だと思った。
 誰かの死と、今生きている人間の痛みとを秤にかけて、
 生きている人間の痛みを優先するのは、嫌だと思った。

 効率的だ。
 死んだ人間は何も感じないから。
 犠牲にするなら、死んだ人間の方がいい。

 死んだ人間に何かを押し付けて、生き残った誰かが幸福になるなら、そのほうがいい。
 スマートだ。

 だったらどうして、こんな気持ちになるんだろう。



「なあ、連理兄」

 だから俺は、嘉山が何かの覚悟をきめたように、そう声をあげたとき、少しだけほっとした。

「……なんだ?」

「その時計、見せてくれよ」

 嘉山はまっすぐに、嵯峨野の方を見据えている。
 
 嵯峨野はしばらくのあいだ黙っていた。
 逃げ道をさがすみたいに、しばらく視線をそらして、やがて、あきらめたようにため息をついた。

 ポケットから、女物の腕時計が取り出される。

 嘉山が、嵯峨野先輩へと、近付いていく。
 
 差し出された時計を、嘉山は受け取って、ゆっくりと眺めた。

「どうして、これがあるんだ?」

「……どうしてだろうな」



 本当のことは、もう、誰にも分からないだろう。

 嵯峨野葉羽が何を思い、川に近付いたのか。

 嘉山の言うように、嵯峨野からのプレゼントを探していたのか。

 もはや時計さえ、何の証拠にもならない。

 似た時計、おなじ形の時計を、嵯峨野がそれと思い込んでいるだけかもしれない。
 自分が贈った時計が原因と知った嵯峨野が、そうではないと思い込むために、時計を手に入れる。
 絶対にありえないって話じゃない。

 それとも嵯峨野の言うように、嘉山を追って川に近付いたのか。
 けれど、もう、当人でさえ、本当にどうして川に近付いたのかなんて、わかりはしないだろう。

 それでも嘉山は、時計を見て混乱していた。 
 それが、その時計だと、彼は気付いたように見えた。

 だとすると、嵯峨野の言葉の方が、少なくとも真実らしくはあるのだろう。

「いつから、持ってたんだ?」

 嘉山はそう訊ねた。「あの日から」、と嵯峨野は答えた。



「知らなかったな」

 それから、ふたりとも黙り込んでしまった。
 俺はぼんやり空を見た。

 この人たちが何を考えているのか、俺にはわからない。
 
 いい天気だった。
 
「時計を探してたんじゃなかったんだとしたら、葉羽はどうして川に近付いたんだろう」

 嵯峨野は黙っていた。
 嘉山を追いかけたんだ、と、嵯峨野は言っていた。
 嘉山はそう思っていない。

「……時計は、あるのに、でも、じゃあ」

 嵯峨野葉羽は、どうして死んだのか?
 
 そんなこと、俺が考えたって仕方ない。

 記憶は感情と事実の化合物だ。
 


 嘉山の表情に、混乱が兆した。

 目に見えて何かが変わったというわけじゃない。
 それでも、一瞬で、雰囲気ががらりと揺れ動いたのがわかる。

 俺は全身が緊張するのを感じた。

「葉羽は時計を、でも時計は、いや、あのとき、葉羽はたしかに時計を」
 
 最後までつながらない言葉が、嘉山の口からあふれ出してくる。
 無表情のまま、彼は言葉を吐き出し続ける。

「時計? 時計だ。時計だと言っていた。そのはずだ」

 でも時計はここにある。でも葉羽は、葉羽はあのとき、
 俺はたしかに、いや、けれど、

 何かが噴き出そうとするのを抑えるみたいに、嘉山は額を抑えた。

「孝之、落ち着け」

 嵯峨野連理が嘉山の肩を抑えた。嘉山はそれを振り払った。



 めまいに襲われたように、嘉山のからだは揺らめきはじめる。
 俺は声も出せずにその姿を見つめていた。

「あの日、葉羽は……」

「孝之?」

 声をかけ、近付こうとした嵯峨野の肩を、嘉山はつかんだ。

「どうしてそれが、そこにある? ずっと持ってた? そんなはずない!
 葉羽は時計を落としたんだ! あの日それを探してた!」

「違う、孝之」

 慎重そうな声で、落ち着かせようとするみたいに、嵯峨野はこわばった声をあげる。

「時計はずっと、葉羽の部屋にあった」

 嘉山はいっそう混乱したように、嵯峨野の肩を揺さぶった。

「じゃあ、あの日葉羽はなんで川に近付いた? あいつが意味もなくそんなことをするわけがない」

「それは、俺にもわからない」

「わからないわけあるかよ!」


 嵯峨野は、何かをあきらめるような顔をした。

「どうしてかは知らない」

 それから静かに、言葉を続ける。

「あの日、川に近付いたのはおまえだ、孝之。葉羽はそれを止めにいった」

「え……?」

 嘉山の表情から感情が欠落する。
 何かを探ろうとするみたいに、視線が宙を泳ぐ。

「そんなわけ、葉羽は、時計を……」

 そうだ、葉羽は、時計を探してたんだ。

 嘉山は、そう言った。

 嘉山が、腕に力を込めたのがわかった。
 嵯峨野の体が、フェンスに押し付けられる。
 古びた金網が軋む声をあげた。

「時計を探してたんだ、それは間違いない……間違いない!」
 


 暴れるように、嵯峨野の体を、嘉山は押し続ける。興奮した様子で、頭をぐらぐらとさせながら。

 嵯峨野は静かに、

「……誰の時計だ?」

 そう、問いかけた。

「誰の、って……」

 ぎりぎりと、金網が軋む。
 俺は間に入り、二人を止めようとした。

 嘉山の腕をつかみ、嵯峨野の肩から引きはがそうとする。
 力は思いのほか強い。体が、引きずられる。

「葉羽は、誰の時計を……」

 そのとき、フェンスが嫌な音を立てた。

 ふっと、嘉山の力が抜けたのがわかる。
 
 同時に、嵯峨野の体が後ろへと倒れこんでいく。



 俺は思わず声をあげて、嵯峨野の体を持ち上げようとした。

 引きずられるように、体が持っていかれる。

 全力で嵯峨野の体を屋上に引き戻すと、俺の体は反動でふわりと浮いた。
 
 駆け抜けるように空気を落ちていく錯覚。
 体が宙に浮かぶ。長い浮遊感。
 
 鈍い衝撃に体が揺れる。

 嘘だろ、と思った。

「浅月!」

 と、嵯峨野が俺を呼ぶ声が聞こえた。
 逆さになった俺の視界の端で、嘉山は茫然と立ち尽くしている。

「そうだ、あのとき探してたのは……」

 そんな声が聞こえた気がした。
 
 強い衝撃が後頭部に走る。
 意識があっというまに暗くなった。



◆[Remit as yet no Grace]


 何もかもが遠く聞こえる。
 耳を何かが塞いでいるみたいに、音が聞こえない。

 誰かの声が、何かの皮膜越しに、ゆっくりと歪んで聞こえる。

 うまく呼吸ができない。
 息が、苦しい。

 誰かが俺の名前を呼んでいる。

 何かがうごめくような音。
 耳に何かが入り込んでくる。

 うまく、音がつかめない。
 目を開いても、光さえあやふやで、判然としない。

 からだが静かに浮かび上がっていく。
 押し出されるみたいに、からだが、光の方へと、
 吸い込まれるように、浮かび上がっていく。


 ――急に視界が開けた。

 白っぽい光に目が灼ける。
 物と物との境界線があいまいになった視界が、徐々に輪郭を取り戻す。

 体が揺れるのを感じる。

 水の中にいた。

 誰かのはしゃぐ声が聞こえる。
 
「タクミくん、なにしてるんですか?」

 聞き覚えのある幼い声が聞こえる。

 水着姿のるーがいた。
 あの頃の姿で。

 プールサイドに、彼女は座っている。
 きょとんとした顔で、こちらを見ている。

 俺は思わず自分の手を見た。
 水面にうつる自分の顔を見る。

「……え?」

 あの頃の、姿をしていた。



「どうしたんですか、タクミくん?」

 子供の姿で首をかしげて、彼女は俺を見ている。
 くりくりとしたいたいけな瞳が、俺の顔をすぐそばから見つめている。

 俺は、思わず、視線をそらしてしまった。

「いや……」

 何を言えばいいのかわからなくて、俺は首を横に振った。

 るーは不思議そうな顔のまま、俺をしばらく見つめていた。
 
 覚えのある場所。
 そうだ、一度だけ訪れた。
 
 あの夏休みに、みんなで遊びに来た市民プールだ。

 遊馬兄、美咲姉、ちい姉、すず姉、静奈姉、るー。

 みんながいた場所だ。



 俺は、水の中から体を出した。
 水着一枚の自分のからだは小さな子供そのもので、妙な心細さを覚える。

「休憩ですか?」

「……ああ、うん」

 口から出る声も、今よりずっと細い。
 変わってしまったことを、実感してしまう。

 俺はきっと、夢を見ている。
 そうとしか考えられない。

 るーと並んで、プールの水に足だけを浸した。
 彼女の肌の上を撫でるように流れる水滴に見とれた。

 水面は、揺らいでいる。
 きらきらと、乱反射する。


 どこか遠い、誰かのはしゃぎ声。
 楽しそうな笑い声。
 
 ウォータースライダーから、水に飛び込む音。

 
 こんな景色だったっけ。 
 こんな景色だったのかもしれない。


「……きらきらしてる」

 思わず、そうこぼした。
 きらきらしていた。

 余計なものがなかった世界。
 考えることが少なかった世界。
 新鮮で、物珍しいものばかりだった世界。

 今はもうどこにもない。

「きらきらしてますね」

 と、るーは楽しげに笑う。




「きらきらしてた」

 俺の言葉に、るーは首を傾げた。

「きらきらしてた。……きらきらしてたんだよな」

 プールの水面も、夏の太陽も、ショッピングモールの帰りに見た車のテールランプの群れも、
 花火の光も、誰かの笑う顔も、みんな、みんな、きらきらしていて。
 
 俺の視界はくすんでしまって、
 奇妙な膜が視界に張って、
 よくわからなくなってしまった。

「何を、考えてますか?」

 るーは、そう訊ねてきた。

 気持ちのいい水の冷たさに足を浸しながら、俺は少しだけためらって、答えた。
 これは夢なんだ。

「よだかのこと」

 るーは、きょとんとした。



「俺が生まれなければさ」

 と、そんな仮定を、ときどき持ち出したくなる。

「俺が生まれなければ、父さんはひょっとしたら、母さんの方を捨てたんじゃないのかな」

 るーは何も言わない。

「俺が生まれなければ、よだかは当たり前に父さんの娘として生きて、そしたら、よだかの母親だって死ななくて。
 母さんだって、いくらか痛手は負うかもしれないけど、次の相手を探せたかもしれない」

 ――わたし、生まれなければよかったね。

 よだかがそう言ったとき、俺は本当は、反対のことを考えていた。

 俺が生まれなければ……誰も、不幸にはならなかったかもしれない。
 そう、思っていた。
 意味のない仮定だ。現実的じゃない。空想だ。

 でも、靴の底に張り付いたガムみたいに頭から剥がれない。

「知らなければよかったって、思いますか?」

 何も知らないはずのるーは、けれど、俺にそう問いかける。
 これは夢だから……不思議なことは何もない。

 俺は、首を横に振った。
 知ってしまった俺には、知らないままで生きていってしまうことのほうが、おそろしいことに思える。


「……でも、ずっと剥がれないんだ」

 知ってしまったことを、後悔するわけじゃない。
 それなのに、知ってしまってから、俺の視界にはいつも、とれない曇りのように何かが張り付いたままだ。

 なくなってくれない。

「でも、よだかさんは、もう前を向いてますよ」

「でも、よだかの母親は死んだ」

「……」

「……たとえば俺が生まれなければ、父さんだって結婚を急ぐことはなくて。
 そしたら、よだかの母親は、父さんに妊娠を伝えられたかもしれない。
 そうしたら父さんだって、よだかの母親の方を選んだかもしれない」

「……そうかもしれないですね」

 でも、とるーは続ける。

「そのほうがよかったって、思うんですか?」

 わからない、と俺は頭を振る。

 目の前の水面は、ただ揺らめいている。


「きらきらしてた。きらきらしてたんだよ、知る前までは」

「……」

「何もかもがもっと、祝福されていたような気がするんだ」

「……」

「でも今は――」

「――本当に?」

 さえぎるように、強い調子の声が響く。

 るーは、まっすぐにこちらを見ている。
 その視線の強さに、俺は思わず目をそらす。

「本当に、そうでしょうか?」

「……なにが」

「子供の頃は本当に、ただ祝福だけの、きらきらだけの世界でしたか?
 明るく眩しく楽しいだけの、そんな世界でしたか?」

 俺は、沈黙する。
 


「ねえ、タクミくん、あの夏休みに、タクミくんがこの街に来たのは、どうしてですか?」

「……え?」

「その理由が、わたし、知りたいです」

「理由……」

 母親が、
 静奈姉の母を、頼りにしていた。仲が良い親戚同士で、いろんなことを相談していた。
 そのときも、何か、相談したいことがあると言って、母さんは、
 相談したいこと。

「――どろぼう」

 とるーは言った。
 その一言で、一挙に記憶が押し寄せてくる。
 
 その濁流に呑まれそうになる。
 意識が、急に、ここじゃないどこかにさらわれそうになる。
 
 それを俺は、ぎりぎりのところで押しとどめた。
 漠然としたイメージが、ただ、印象だけになって、俺のもとに残される。



「本当に、きらきらだけでしたか?」

「……」

「曇りもくすみもない、景色でしたか?」

 ……そうだ、俺は、

 夏休みの前に、仲の良かった友達と、一緒に遊んだ。
 そのときに、友達がゲームをなくしたんだ。

 俺が盗んだって、そう言われて。
 でも、俺は盗ってない。

 友達は口をきいてくれなくなって。 
 でも、俺は盗ってなかったから。

 そうしたら、やがてその友達は、なくしたゲームを見つけて。

 でも、仲直りはしなくて。
 お互い、どう声をかけていいのか、わからなくて。

 そんな俺たちのやりとりを、ほかの友達も知っていたんだ。

 だから、謝らなかった彼は、みんなに口をきいてもらえなくなって。
 学校に来なくなった。



 そうしたら、その子の親が学校に来たんだ。
 
 担任の先生に、子供が無視されてる、いじめられてるって、言った。

 俺が悪い噂を広めて、そいつをいじめてるって。
 ゲームも、盗んだんだって。きっと、そいつは、親に本当のことを話せなかったのかもしれない。

 母親も、学校に呼ばれて、お互いの親と、それぞれが、先生と一緒に話し合いをすることになって。
 
 そいつは泣きながら、みんなに無視されるって、言った。
 先生も、そいつが避けられていることには気づいていたらしくて、だから。

 俺は、何もしてなかったけど。
 俺がいじめの主犯ってことになって。

 そいつを嫌って、いやがらせをしたんだって、言われて。

 でも先生は、気付いてたんだ。俺が嘘をついてないって。
 それでも、先生は、謝らせた。
 
 無視してごめんなさいって、言えって。
 
 そうするのが、たぶん、いちばん簡単だったからだ。
 いちばん、簡単に、話が収まるからだ。それが、大人だからだ。

 本当のことよりも。
 選びやすい嘘を選んだ。



 俺はそれからも、そいつとは話さなかった。
 誰かが俺を嫌うようになったわけじゃない。

 それでも俺は、なんとなく、学校に行くのが怖くなって。

 そうだ、あの夏休みの前。

 俺は学校に行きたくなくて、行かなくて。

 学校も、先生も、みんなも、大人も、怖くて。

 だから母さんは困ってしまって。

 相談を受けた静奈姉のお母さんが言ったんだ。

 息抜きがてら、遊びにおいでって。
 ちょうど、夏休みだからって。

 きらきらしていた。
 きらきらしていた?

 本当に?

 記憶はつくりものだ。

 あのときの自分が、どんな気持ちだったかさえ、もう、俺は遠くから眺めることしかできない。


 そうだ。
 俺はあのとき、
 どこにも行きたくなかったし、誰にも会いたくなかったんだ。
 本当は。

「きらきら、してました?」

 俺は、答えられない。
 答えが見つからない。

 きらきらしていた、ような気がした。
 でも、それが本当なのかどうか、自信が持てない。

「嘘、なのかな。きらきらなんて、してなかったのかな」

 思わず、子供のように、そう呟いてしまった。

「子供の頃はすべてがきらきらしていたなんて、おとぎ話なのかな。
 時間に削られて、記憶が嘘をついてるだけなのかな」

「……どうでしょうね?」

 るーは、大人みたいな子供みたいな顔で笑う。


「でも、タクミくん、わたしには、きらきらしてましたよ」

「……」

 それは、現実のるーの声ではなくて、
 ただの都合のいいだけの言葉なのかもしれない。

「だけど、きらきらだけじゃ、なかったです。どろどろだったり、そういうのも、やっぱりありました。
 子供の頃も、今も、ずっとそうですよ」

 子供の姿、子供の声のまま、るーは言う。

「生きることは、きらきらとどろどろの混じり合った、混沌ですよ」

 混沌。
 混沌。

 ……そうかもしれない、と俺は思った。

 不正が、汚濁が、悲鳴が、呪詛が、
 道義が、清廉が、歓喜が、祝福が、
 悲しみが、喜びが、

 偏在しては溶け合って、混じり合っては浮かび上がって、
 どちらか片方ではいられない、混沌なのかもしれない。


「きらきらだけでは、ないかもしれない。消せない曇りも、あるかもしれない。
 でもそれは、きらきらしたものが、ないってことを意味するわけじゃないと思う」

 だから、だからね。

「好きなものと、嫌いなもの。楽しいことと、悲しいこと。幸せと、不幸せ。
 うれしいことと、いやなこと。その両方が、ただあって、起きて。
 きっと、プラスマイナスの帳尻は合わなくて、どちらかに偏ったりもするけど、それでも」

 それでもたしかに、うれしいことがあるから、って。

「だからどうとか、そういうわけじゃないんですよ、きっと」

 るーは言う。

「そういうふうに、できてるんです、きっと。あとは、解釈と認識の問題だけ」

 ねえ、タクミくん、と、彼女は俺の名前を呼ぶ。

「あなたが今いる場所は、ただ、不幸と悲嘆だけの世界ですか?」

「……」

「あなたが探していたきらきらは、どこにもありませんでしたか?」

 俺は、
 目を閉じて、少しだけ、いつものように考えて、
 笑った。


 
「タクミくんが、生まれてきたこと、わたしは、うれしいって思います」

「……」

「タクミくんにとっては、ただ苦しいだけだったとしても、よだかさんのことや、小学生のときのことや……、
 猫のことも。わたしは、ぜんぶ、ぜんぶ、悲しいのが半分で、でも、半分はうれしいんです」

「……」

「そういうことの積み重なりで、悲しいことの積み重なりで、タクミくんが今のタクミくんになってくれたのなら、
 わたしは、よかったって、安心しちゃいます」

「……」

「そうでなかったら、きっと、わたしはタクミくんのこと、こんなに好きにならなかったと思う」

「……」

「だから、ね、タクミくん。もう少し、もう少しだけ、自分のこと、好きになってあげてください」

「……」

「あなたがそうあることで、救われる人がいるから」

 それは、
 本当に夢だったのか。

 だとしたらこれは、願望なのか、それともそういうふうに考えていた自分が、俺の内側に隠れていたのか。
 よくわからない。



 どうして、こんな夢を、今、見たのかさえよくわからない。

 頭がずきずきと痛みはじめる。
 
 誰かが、泣いているような気がする。

 誰かが、溺れているような、気がする。

 泳げなくてもいいって、いつかの俺は、るーに言った。
 だから今でもカナヅチだって、るーは言った。

 責任をとれって。

 プールの水面はゆらゆらと揺れている。

 そうだな。責任をとってやらなきゃいけない。

 るーに、泳ぎ方を教えてやらないと。
 彼女がいつかどこかで、溺れてしまわないように。

 だから、さっさと、
 ――目をさまさなきゃ。


つづく




「やっぱりさ、いぬのおまわりさん、良い曲だとおもうんだよね」

 テスト明け、夏休み直前の放課後、文芸部室で持ち込んだギターを爪弾きながら、高森はそう言った。
 たっくんはどう思う? なんて、彼女は言う。

「あんまりそういうふうに考えたことはなかったかな」

 正直に答えると、そっかあ、と高森はどうでもよさそうな声をあげた。

「ちなみに、どんなところが?」

「いぬのおまわりさんはさ、最後までまいごのこねこを家まで連れていけないんだよ」

「……」

「からすにきいてもすずめにきいても、こねこの家はわからないんだよ」

「……うん。それが?」

「帰る家なんて、ひょっとしたらはじめからないのかもしれないよね」

「どうかな。それで?」


「うん、つまりさ。いぬのおまわりさんはさ、まいごのこねこと一緒に、困ってるんだよ」

「……うん?」

「一緒に困って、わんわん鳴いてあげるんだよ」

「……」

 言いたいことがさっぱり分からなくて、俺は考えこんでしまった。

「よく、考えるんだよね、最近。誰かを慰めたり、癒したり、励ましたり、元気づけたりするのもすごいけどさ。
 でも、そういうのが効かないときってあるじゃない? がんばれとか、大丈夫とか、そういう言葉が、なんか白々しく思えたりさ」

「……うん」

「そういうときに、一緒に困ってくれる人がいてくれたらいいと思うんだ」

「……」



「たとえば、『死にたい』って言ったときに、『そんなこと言わないで』とか『何かあったの?』とか『そんなことを言えるうちは大丈夫』とか、
 そんな言葉をいくつも並べられるよりさ……『死にたいの? そっか、それは困ったね』って、ただそんなふうに聞いてもらえた方がさ、 
 ずっとずっと、気持ちが楽になると思うんだ。人によるのかもしれないけど、わたしはそう思うんだ」

「……偏ってるなあ」

「かも。でも、一緒に困ってほしいんだよ、きっと」

「……」

「だから、良い曲だよ。いぬのおまわりさん。何も解決しないけど、何も解決しないところが、とってもいいよね」

 まいごのこねこは、自分の名前も知らない。

「いぬのおまわりさんが、いてくれたら、よかったかなあ。何にも、解決なんて、しなくていいからさ」





「名前を呼ぶこと、だと思う」

 部長は、いつか、そう言った。
 去年の秋だったと思う。部室には俺とゴローと、高森と佐伯と、部長がいた。
 部長はまだ、部長になったばかりだった。

「たぶん、名前を呼ぶこと」

「……名前、ですか?」

「うん。比喩だけど、名前」

「……どういうこと、ですか?」

「えっと、つまりね、たとえば今ここでわたしたちが、何か大きな災害に巻き込まれて、全員、死んでしまったとするじゃない?」

 そのたとえに、俺達は沈黙した。

「何百という人が死ぬとして、わたしたちは、その数字の中の、何百分の一になるとするじゃない?」

 その死を、誰かがあとになって思い浮かべるときに、
 たとえばの、話だけど。

「『かわいそう』とか、『未来ある若者が』とか『これから人生楽しいことがあるはずだったのに』とかさ、 
 そんなふうに言われるとしたら、わたし、気持ち悪いなって思うの」

 とても個人的な感覚なんだけどね。彼女はそう付け加える。

「気持ち悪い……うん。気持ち悪いって、思う」



 たとえばの話、なんだけど……。

「何十年か後の人たちが、今のこの時代を振り返ったときに、今生きているわたしたちのことを、表面だけなぞって分かった気になるとしたら、
 それはすごく……気持ち悪くない?」

 その年のヒットソングを聴いて、流行りの本を、映画を見て、話題になった商品とか、ニュースになった事件とか、そういうものに影響を受けたと思われて。 
 そういうものと勝手に関連付けられて、わたしたちの精神を勝手に判断されるとしたら、すごく、嫌な気持ちにならない?

「だからわたしは、名前を呼んでほしいなって、思うんだ」

 わたしの好きな音楽。わたしの好きな映画。わたしの好きな本。わたしの好きなもの。わたしの嫌いなもの。
 わたしに影響を与えたこと。わたしに影響を与えなかったこと。

「遠くで大勢の人が死んだとき、生きている自分の立場からだと、曖昧に想像することしかできないよね。
 だから、ただみんな、かわいそうって、死にたくなかっただろうなって、勝手なことを言っちゃうけど」

 でも、違うと思うんだ。

「大きな地震があった日に、嬉しいことがあった人、幸せなことがあった人、悲しいことがあった人、苦しい思いをしていた人。
 いろんな人がいたんだと思う。でも、もっと言えばさ、それだけじゃないと思うんだよ」

 たいした理由もなく、人を傷つけていた人。溜め込んだ苛立ちを、誰かに当たり散らしていた人。
 暗い澱みのなかで、死んでしまいたいと思っていた人。大きな地震が起こればいいと、心のどこかで願っていた人。
 人を殺したいと思っていた人。死にたいと思っていた人。少女を買おうと思っていた人。誰かをいじめていた人。
 死んでしまえ、と誰かを呪っていた人。
 
「だってそうでしょう? 天災はどこで起こるかわからないなら、それは『ここ』でもおかしくなくて。
 だったら、『ここにいる人』は、『死んだかもしれない人』でしょう? 『死んだ人』は、『ここにいてもおかしくない人』でしょう?」



 それが、遠いから、という理由で、顔を削いで、名前を奪ってしまうなら、死んだ人は、ただの数字になってしまうよね。

「現に死んでしまったから、という理由だけで、すべての死を平坦に扱って、弔い祈る対象にするなら、
 わたしたちがどんな生き方をしたところで、死んだあとはただの数字でしかなくなってしまうことになる」

 でも、そんなの、わたしは嫌だから。

「わたしは死んだあと、わたしのことをよくしらない人に、『かわいそう』とか勝手に言われたくない。
 わたしが将来をどう思っていたかとか、家族とどんなふうだったかとか、そんなの、勝手に想像されたくない。
 弔いも悼みも、『わたし』固有のものについてであってほしい。大勢のなかのひとりとか、大きな悲劇のひとつのファクターとしてじゃなくて」

 だから、されたくないことは、しない。部長はそう言った。

「わたしは、死んでしまった、よく知りもしない人に対して、他人事のような感傷を押し付けたくない。
 押し付けられたくないから、押し付けない。漠然としたイメージで、憐れまれたくない。大きな物語の部品みたいに、消費されたくない」

 顔を削がれ、名前を奪われ、数字として消費される死。

「だから、もしその人のために何かができるとしたら、それは、その人について知ったあとだと思う。
 その人がどんな人で、何を考えて、何が好きで、何を思って、生きていたのか、それを知ること……」

「それが、名前を呼ぶこと、ですか?」

「うん。死んでしまったら、どう扱われようと、同じことかもしれない。どうなっても分からないのかもしれない。
 でも、いま生きているわたしは、名前を奪われたくない。死んだあと、名前を呼んでほしい。
 だから、名前を呼ぶこと、だと思う」

 たぶん、それだけが、死んでしまった猫のために、わたしたちができること。
 それはたぶん、わたしたちのためだけれど。
 




 バイト中に常連の客に話しかけられたことがあった。
 早口すぎて何を言っているかわからなかったけど、どうやら趣味の釣りについて話をしていたらしい(どうしてそんな話をしていたんだろう)。

「釣り、好きなんですか」

 話しかけられたのを無視するのもなんとなく落ち着かないから返事をすると、ああ、と彼は頷いた。

「最近はあんまりいかないけどなあ」

「川ですか、海ですか」

「行くとしたら川だなあ。海には行く気になれん」

「どうして?」

「何千と流れたからな」とその男は目を細めた。

「釣れる魚が何を食ったかと思うと、とてもそういう気分にはなれない」




「例の地震のとき、ここらへんはどうだったの」

 そんな質問をぶつけたのは、ただの気紛れだった。訊ねた相手は佐伯だった。特別気にしたふうもなく、彼女は答えてくれた。

「わたしの家は、停電だけだったかな。ちょっと離れたところだと、ガスも止まったって言ってた」

「ふうん」

「うち、オール電化にしたばっかりだったから、大変だったよ。石油ストーブと土鍋でご飯炊いた。貴重な経験だったかな」

「……」

「夜はロウソクつけて早めに寝てたっけ。テレビつかないから状況わかんなくてさ、最初の夜にラジオ聴いて、びっくりしたなあ」

「……」

「ガソリンスタンドに車がすごい並んでたし、営業前のスーパーにもすごく人が並んでた。
 コンビニもひとり何点までって決まってて、店内も電気がついてなくて、自動ドアも動かなくて。
 ……そうだ。レトルトのカレーばっかり食べてたかなあ、たしか。町中で荷物抱えて歩いてたら、知らない人が車で家まで送ってくれて……」


 マンホールから水が溢れてて、古い道路が陥没してて、近所の家のガレージが斜めに傾いて、隣の家のお墓が折れてて……。
 段々、余震の震度が感覚だけで分かるようになって、ちょっと強い余震が来ると、こんどこそ家が崩れるんじゃないかって思った。

「家の近くのガソリンスタンドに発電機があってね、そこにみんな携帯を充電しに行ってたんだよ。
 子供の頃一緒に遊んでた近所の友達とかと、ひさしぶりに顔を合わせたりしてさ。
 ちょっとだけ……うん。ちょっとだけ、うれしかったな」

 近所の家の人の親戚が、海沿いに住んでて、家が流されたって言ってた。

「それもなんか、一階部分だけが流されて、柱が残って二階部分は残ってたみたいでね。
『すごいよな。昇ってみたいよな』って笑ってた。みんな生きてるから笑えるんだけどな、って言ってたけど」

 ようやく電気が通ったとき、テレビをつけて、またびっくりした。

「ラジオで聴いたのと、映像見るのじゃ、全然違ってさ。……うん、びっくりしたな。
 ここらへんは、うん。たぶん、ぜんぜん平気だったんだと思う。ガードレールがねじれたり、マンホールが突き出たりはしたけど。
 電気がつかなくて、いつになったら普段通りの生活になるんだって、不安になったりしたけど」

 でも、誰も死ななかったもん。わたしの身の回りでは、誰も。
 彼女はそう言った。




 バンドを組むという話になって、とりあえずバンドメンバーの顔合わせということで、
 終業式を目前に控えた平日の放課後、俺とゴローと高森と嘉山は親睦を深めるために近場のファミレスに集まっていた。
 
 俺は少しだけ気にしていたことを、嘉山に訊ねた。

「なあ、嘉山、俺、名乗り出るべきかな、やっぱ」

 嘉山は、何の話か分からない、というふうに怪訝げな顔をした。

「何を?」

「焼却炉の話。おまえが犯人ってことになってるだろ」

 ああ、と彼は納得したように頷いた。

「いいよ今更。もう誰も気にしてないだろ」

「でも、一部の奴ら、まだ態度キツいんだろ」

「まあな」

「……え、なに? 燃やしたの、たっくんだったの?」

 高森が意外そうな顔で話を聞いていた。俺は頷いた。ゴローはちょっと真面目な顔で、黙って俺達のやりとりを聞いていた。



「だいたい、犯人だって名乗り出たのは俺だ。いまさら真犯人ですって奴が出てきたら、なんで俺が名乗り出たって話になる」

「……まあ、うん」

「そうなったら、いろんなことの説明、聞きたがるだろ、みんな。俺のことも、おまえのことも」

「……うん」

「あんまり、人に話したいことじゃない」

「でも、なんていうか……」

「あのさ、浅月」

 と、嘉山は俺の名前を呼ぶ。

「おまえが燃やさなくたって、どうせ俺が燃やしてたんだよ、あれ。あんまり気にするなよ」

 その妙にやさしい態度があんまりにも意外で、俺はかえって落ち着かなくなってしまった。


 例の屋上での騒動以降、俺は嘉山に、嵯峨野葉羽のことについて何も訊いていない。
 結局、俺には関わりのないことだし、聞いたところでどうできるというわけでもない。

 それでもあれ以降、嘉山孝之も嵯峨野連理も、何かの毒が抜けたみたいに、ちょっと気の抜けた感じの顔をしている。
 どこか切羽詰まったような、それまでの雰囲気は、どこかに消えてしまった。

 嵯峨野葉羽は、結局どうして死んだのか。
 そんなことを問う資格が、俺にあるわけはない。

 勝手な想像も、する気にはなれない。

 ただなんとなく思うのは、嘉山が何かを思い出したのだろう、ということ。
 嘘によって保たれていた嵯峨野と嘉山の関係性が一度崩れ、それが修復しはじめているということ。

 それくらいだ。

もうちょっとだけつづきます




 目をさましたとき、傍にるーはいなかった。帰ってしまったのだ。そういう記憶はあった。
 
 窓の外は暗くなっていた。開けたままのカーテン。窓の外に街灯と月のあかりが見えた。

 部屋の外から物音が聞こえた。静奈姉が帰ってきているのだろう。

 熱はすっかり抜けているようだった。どうして急に体調を崩したのか、本当によく分からない。
 頭はまだぼんやりしている。さっきまで見ていた夢の記憶が、朧気ながらも残っている。

 物思いに耽る。

 小鳥遊こさちの言葉が、頭の中に残っている。

 なぜかはわからないけど、俺にはそれがとても大事なことだと思えた。
 ただの夢だと、どうしてか思えなかった。

 ただの夢のはず。
 でも、小鳥遊こさちという少女のことを考えるとき、俺は彼女を普通の人間のように扱ってはいないような気がする。



 鷹島スクイが、まだ俺のからだを使って影のように歩き回っていたとき、彼女は平然とスクイのことを呼んだ。
 前からずっと知っていたみたいに。

 でも、スクイと会ったことのある人間なんて、いるわけがない。
 そもそもスクイの記憶にさえ、小鳥遊こさちは存在しない。

 スクイは、握りしめた拳の中の暗闇に宿った影のようなものだ。
 その手をほどいてしまえば、掻き消えてしまうような、そういう存在だった。

 箱の中の猫のような不確定。観測されるまで、存在と不在の区別さえつかない概念。
 だから彼は、俺がひとりでいるときにしか、姿を現せなかった。
 俺が誰かといるときは、存在できなかった。俺の体はひとつしかないから、スクイと俺が同時に存在することはできない。

 スクイの出現の条件は二種類あった。
「俺がからだを手放す」か、「周りに誰もいない」か。

 今となっては、鷹島スクイの記憶は、既に俺のなかに馴染んでいる。

 スクイはずっと前から俺の中にいた。
 彼は、俺が目の前の出来事から逃げ出したとき、この体の操縦桿を握って、俺のように振る舞っていた。
 
 俺が眠っているときに、『煙草を買い』、『テストを受け』、『部誌を燃やし』、『嵯峨野連理と話をした』りもしていた。
 まるで、俺が抑圧されていた何か、俺が押し込めていた何かを、一手に引き受けていたみたいに。

 そして俺がスクイと顔を合わせていると思っていたとき、俺たちは差し向かいに立っていたわけではない。

 あれは、頭の中で起こっていた出来事だ。



 でも、一度だけ例外がある。

 スクイと俺が同時に存在し、しかも第三者がそれを認識していた場面。

 嘉山孝之が、俺を鷹島スクイと呼んだとき。
 
 あのとき、俺は体の操縦桿を手放して、鷹島スクイが成り代わった。

 スクイが、嘉山との対面を、俺の代わりに果たした。

 そのとき俺は、屋上の更に上、給水塔のスペースで目をさました。

 体がひとつしかないなら、俺とスクイは同時に存在できない。
 嘉山はたしかに、スクイと話をしていた。だったら、『からだ』を使っていたのはスクイだ。

 スクイが俺の前に存在できるのは、『頭のなか』か、『第三者が不在の場所』だけ。
 
 俺があの日目を覚ました時、傍にいたのはこさちだった。

『からだ』を使っていたのがスクイなら、俺が第三者と話せるわけがない。

 だったら、こさちは何なのか?

 小鳥遊こさちは存在する人間なのか?
 こんな考えは、奇妙な夢に惑わされているだけの妄想か?





「……柚原さん、ですか?」

 翌日、俺はファミレスにるーを呼び出して、彼女に話を聞いてみた。

 朧気な記憶のなかでも、かすかに覚えていた、名前のこと。
 こさちの言葉の意味はわからなかったけど、もし夢の中で出てきた名前の人物が存在するなら、彼女のことが少しわかるかもしれない。

 そう思って、柚原志乃の名前を出した。

「……柚原さんのこと、知ってるんですか? タクミくん」

 るーはメロンソーダの入ったグラスを指先でこつこつ弾きながら、当たり前みたいにそう言った。

「……いるの、柚原志乃」

「いるっていうか、クラスメイトですよ、わたしの」

「……いるんだ」

 とりあえず、その事実を確認してしまうと、余計に混乱が深まった。
 
「……」

 ……とりあえず、確認したところで何も解決しないことは分かった。
 こみ上げてくる頭痛に額を抑えていると、るーは不満気にストローをくわえた。



「……どした?」

「いえ、べつになんでもないですよ?」

 とてもなんでもないようには見えない顔でるーは笑った。

 ……いや、まあ、言いたいことは分かるんだけども。
 
 べつに俺だって、夢のことが気になったからっていう理由でるーを呼んだわけじゃない。
 気になったのは本当だけど、それは目的の半分よりずっと少なくて。

 ただ、なんとなく、会いたかったからなんだけど。

「……昨日は、ありがとな」

「え?」

「看病しにきてくれて」

「あ……いえ、べつに、それはぜんぜん」

 何を話したらいいかわからなくて、つい用件ばかりを口に出してしまっただけで。
 だからって、まさか会いたかったから呼びましたなんて、照れくさくて言えないし。



 せいぜいの口実が、「訊きたいことがある」と、「昨日のお礼」くらいのもので。
 そういう自分の狡猾さが、妙に嫌になったりする。

「な、るー、あのさ」

 と、声を掛けた途端、るーの携帯が鳴り出した。

「……あ、えっと。なんですか?」

 着信音に一瞬気を取られてから、話の続きを促したるーに、俺は少しだけ笑ってしまった。

「いいよ、とりあえず出て」

「……あ、うん」

 るーは立ち上がって、店の入り口の方へと立っていった。

 意識せず、長いため息が出た。

 そりゃ、俺だってわかってる。
 昨日の告白のことを忘れたわけじゃない。

 今日だって、突然の呼び出しに、るーは素直に応じてくれた。
 それに対して俺だって、いろいろやれることがあるはずなのだ。


 私服姿を褒めるとか。
 なんかもっとこう、うまいことを言えたらよかったんだけど。

 俺の口はいつも重たくて、言いたいことを言いそびれてしまう。

 変に思われるんじゃないかとか、見当違いのことを言ってしまったらとか。
 そんなことばかり心配してしまう。

 もっと素直に口に出せたらよかった。

 考えながら、俺はるーの背中に視線をやる。

 私服姿もそうだけど。
 るーのことをかわいいと感じてるのは、まったく嘘ではないわけで。
 ……だからって、そんなの口に出せないわけなんだけど。

 その結果、開口一番に他の女子の話題が出たとなれば、そりゃるーだっていい気分はしないだろう。
 ……のか?

 こうやって、「こうすべき」とか、そういうふうにあれこれ考えてしまうあたりが俺の問題なんだろう。
 もっと肩の力を抜かないと、るーだって疲れてしまうかもしれない。

 とはいえ。

 そもそも、付き合って、と言って、頷いてくれはしたものの。
 そんなささやかなことで嫉妬をしてもらえるほど、俺はるーに好かれてるんだろうか。

 ……我ながら、面倒な奴だ。



 
 電話を終えて戻ってきたるーは、ちょっと気まずそうな顔で口を開いた。

「あの、電話、ちい姉からでした」

「ちい姉? なんて?」

「海の話。タクミくんが空いてるなら、今日行かないかって」

「……今日? 俺、支度してないけど」

「泳ぎにいくわけじゃないです。ただ観光に行くだけみたいで……」

「それにしても、ずいぶん急だね」

「……それは、思い立ったが吉日らしく」

「……えっと」

 ずいぶん、俺の思っているちい姉とは違うイメージの言葉だ。

「タクミくん、このあと予定とか、ありますか?」

「いや、特に……」

 ない。バイトも、夏休みに入って数日は、休みを入れてもらっていた。
 バンドの練習は今のところ各自個人でひたすら基礎練習。部誌に関しても、まだ何も考えていない。

 しいていうなら、るーにどこかに行かないかと声をかけるつもりだったけど。
 まあ、ちょうどいいと言えばちょうどよかった。

「じゃあ、今日でも平気ですか?」

「……うん」

 るーは携帯を操作して、ちい姉に連絡をしたみたいだった。俺はなんとなく、妙な気分になった。





 それを予感していたわけじゃないけど、俺は不思議と驚かなかった。

 迎えにいく、と連絡があってすぐに、ファミレスの駐車場についたという連絡がるーの携帯に入る。

 会計を済ませて店を出ると、店先にはふたりが立っていた。

「おー」と、その人は声をあげた。

「なんだ、それ」

 と、彼は言う。

「タクミ、おまえ、背、伸びすぎだろ」

 そう言った彼の方も、あの頃よりずっと大きくなっていて、着ている服だって、大人びていた。
 それでも、俺の顔を見てうれしそうに笑いながら、ちょっと驚いてみせたその表情は、見覚えがあった。

「……えっと」

「うん?」

 ちい姉とるーは、妙な含み笑いをしながら、俺たちの顔を交互に眺めた。

「……遊馬兄?」

 名前を呼ぶと、彼は楽しそうに笑った。

「よかった。忘れられてたらどうしようかと思ってたんだよ」
 
 それから彼は笑顔のままで、

「ひさしぶりだな」

 と言った。

つづく




 それからちい姉は、「わたし、寝る」と言って動かなくなった。
 照れていたのかもしれないし、眠かったのかもしれない。両方かもしれない。

 ふたたび静かになった車内には、もう話したいこともそんなに残っていない。

 遊馬兄がコンビニに寄って、コーヒーを買うと言った。
 俺もついでに降りて、今日のお礼、と言って、コーヒー代を出した。

 夏だというのに、ふたりともホットコーヒーだ。

「相変わらずツボを抑えてるやつだな」

 遊馬兄は感心したように言いながら、そのまま店の軒先でコーヒーに口をつけた。
 
「遊馬兄は、煙草とか吸わないの?」

「なんで?」

「なんとなく」

「吸わない。一回試したことあるけど、合わなかったな。似合わないって言われたし」

「誰に?」

「いろんなひと?」

 なぜか疑問形だった。




「タクミは似合いそうだよなあ」

「それ、褒め言葉?」

「どっちも」

 なんとなく、だけど。
 聞いてみたくなった。

「遊馬兄はさ……」
 
「うん?」

 辺りはもう暗くなりはじめていて、道路を行き交う車もヘッドライトの明かりをともしていた。
 交差する光がまぶしい。

 訊きたいことはあるのに、うまく言葉にならない。
 どう、説明すればいいのか、わからない。

「遊馬兄は……なんていうか、自分のなかに、もうひとり自分がいるような感覚に、なったこと、ある?」

「……なに、それ?」

 怪訝そうに、遊馬兄は首をかしげた。
 


「えっと、なんていうか、架空の人格っていうか、想像上の友達っていうか……」

「想像上の友達……」

 少し考えるような素振りで、またコーヒーを一口飲んでから、遊馬兄は何かに気付いたような顔をした。

「ああ、あるある」

「え、あるの?」

「うん。ある。俺目覚まし時計と話してたもん」

「……目覚まし時計?」

「うん。話してた。それが?」

 いや、それが、って。
 それがまるで当たり前のことみたいに言うから、なんとなく、言葉を続けられなくなった。


「俺が弱音吐いたり折れそうになったりすると、そういう自分を諌めてくれるやつがいたんだよ」

「……はあ」

「今にして思えば、自分の気持ちの擬人化だったのかな、あれは。いつのまにか、会えなくなったけど」

「……目覚まし時計?」

「うん。タクミもある?」

「俺は……目覚まし時計ではないけど」

「そっか。ああいうの、なんていうんだっけ」

「なんて、って?」

「たしか、イマジナリーフレンドとか言うんだよな」

「……イマジナリーフレンド」

 イマジナリーフレンド。
 
「子供の頃だと、けっこうそういうの、覚えてなくてもやってる人が多いんだって、昔何かで読んだな。
 ……まあ、俺は高一くらいだったけど」

 精神的に幼かったからなあ、と遊馬兄は恥ずかしそうに苦笑する。
 俺なんて高二だ。幼いなんてレベルじゃない。それに、たぶん、遊馬兄のものほどかわいい存在でもない。

「……でも、そっか、遊馬兄もあったんだ」

「うん。それが?」

 まるでなんでもないことみたいな顔で遊馬兄が首をかしげるから、俺はそれ以上何も言わなかった。
 なんとなく、肩の荷が下りた気がした。







 車に戻ると、るーもちい姉も目をさましていた。

 ふたりとも眠そうな顔をしていて、その表情が当たり前みたいに似ていて、俺と遊馬兄は顔を見合わせて笑った。

 ふたたび車を走らせたとき、ふと思い出して、俺は口を開いた。

「そういえばさ」

「なに?」と遊馬兄。るーも、なんだろう、という顔でこっちを見た。俺は前の座席に座るふたりに向けて言った。

「俺とるー、付き合うことになったから」

「お」

「え」

「あ」

 と、遊馬兄、ちい姉、るーの順で、ひとりずつ一文字の発話。

 続く沈黙。
 
 を、破ったのはるーだった。

「な、なんでいま言うんですか!」

「……いや、いま言わなかったら、タイミングなくなりそうだし」

 こういうのは、最初に言わないと徐々に言いづらくなるもので。



「そうなんだ……」とちい姉がため息のような声を漏らす。
 
 それから当たり前みたいに、「おめでとう、るー」と一言。

「あ、ありがとう……?」

 るーは複雑そうな顔でお礼を言っていた。

「え、いつから?」

 遊馬兄の質問に、俺は素直に答える。

「昨日」

「昨日! どっちから?」

「俺」

「さすがタクミだ。俺はおまえを信じてた」

 ……今日再会したばかりの人に言われるのも妙な気分だ。



「あの、タクミくん」

「ん?」

「なにもそんな、いろいろ話さなくても……」

「嫌だった?」

「では、ないですけど」

「じゃ、問題ないな」

「ないですか?」

「遊馬兄は嫌?」

「まったく嫌じゃない。ちひろは?」

「べつに、嫌じゃないけど」

「俺も嫌じゃない。ほら、嫌がる人がいない奇跡の空間だぞ。日常生活じゃなかなかお目にかかれない」

「……タクミくん、調子に乗ってます」

「調子に乗れる機会もめったにないからな。乗れるときに乗っとくのが賢い生き方というものだ」

「お兄さん、タクミくんに何か吹き込みました? お兄さんみたいになってます」

「え、そこで俺を疑うの? まあ、俺くらいの人間になると呼吸するだけで周囲に影響を与えちまうからな、困ったもんだ」

「……遊馬、調子に乗らない」

「うい」

 操縦上手いなあ、ちい姉。


 遊馬兄は運転しながら、「時間の流れって早いなあ」って大人みたいにぼやいた。

 ちい姉が、かすかに頷く。

「るーもタクミも、あんなちっこかったのにな。気付けばもう高校生か」

 ぼんやりと、思い返すように、懐かしむように、感慨深げに遊馬兄がため息をつく。
 
 それを言ったら、ふたりが二十歳を過ぎてることだって、俺にはずいぶん衝撃的なんだけど。

 などと思っていると、不意に、

「そうですか?」とるーが不満気に声をあげた。

「あっというまですか?」

「るーは、違うの?」と、ちい姉。

 はい、とるーは頷く。

「わたしには、とっても、長かったですよ。今年の春まで、昨日まで、ずっと一日千秋の思いでしたよ」

「……だってさ、タクミ。待たせすぎだって怒ってるぞ」

 るーに目を向けると、彼女は遊馬兄の言葉に「そうだそうだ」というふうにこくこく頷いていた。

「……えっと」

「はい」

「……お待たせしました?」

「はい」

 ちょっと怒ったような顔で、るーは真剣に頷いた。



「……でも、待ってたって、何を?」

「タクミくんの心の準備ができるまで、ですよ」

「準備」

「それまではわたしだって、気を利かせて待ってたんです」

「……はあ」

 まあ、たしかに、それどころじゃなかったのは、本当だけど。
 今が全部片付いたかっていうと、そうでもなくて。

 返答に困る。

「だからこれからは、たくさんわがまま言いますからね」

「……覚悟しとく」

 助手席から、くすくすというひそかな笑い声。

「ちい姉、何笑ってるんですか」

 照れたみたいに、るーが声をあげた。

「なんでもない」とちい姉は楽しそうに笑った。

「ホントに覚悟してたほういいかもよ、タクミ。るーのわがままは、きっとすごいから」

「ちい姉!」

「自分で言ったんでしょ?」

「そうだけど……」

 戸惑ったようなるーの態度が妙に新鮮で、俺もなんとなく楽しくなって笑ってしまった。


「善処します」

「なんだか頼りない返事ですね」と、るーは不満気にじとっとした目を向けてくる。

「無責任なことは言えないから。できることなら、できるかぎりはする」

「そういうタクミくんもいいですけど、たまには、大言壮語を吐いてくれてもいいんですよ?」

「たとえば?」

「それ、わたしに聞きます?」

 大言壮語って、急に言われてもな。
 とりあえず……。
 
 うん、と俺は頷いた。

「とりあえず、カナヅチにした責任は、取らないとな」

 るーが、きょとんとした。

「……どういう意味ですか?」

「大丈夫。人間の体は水に浮くようにできてるから」

「……あの、タクミくん?」

「夏中には、二十五メートルな」

「あ、あのー……」



「いいんじゃない? るー」

 と、ちい姉が言った。

「教えてもらいなよ。せっかく夏だし」

「……あ、あのねちい姉。人間って、呼吸しないと死んじゃうんだよ?」

「息継ぎすれば?」

「できる人は簡単そうにいうけどね、ちい姉、世の中には素質ってものがあって……」

「どんな人でも、全力で努力すれば、『まあ』できるようになるよ。たぶん」

「その『全力で努力する』ができなくて大変な人だっているんだよ。もし溺れちゃったらどうするの?」

 ちい姉は少し考えるような間を置いて、

「人工呼吸でもしてもらえば?」

 と言った。

「……ひ、他人事だと思って!」

「嫌なら、まあ、無理にとは言わないけど」

 うう、とるーは口をもごもごさせた。


 会話の流れが止まったのを見計らったみたいに、遊馬兄が楽しげに笑う。

「まあ、夏休みも始まったばっかりだろ? いろいろやってみるといいよ。なんなら、一緒にどっか行くか?」

「たとえば?」

「渓流とか?」
 
 本気か。

「舟下り、行ってみたいよね」とちい姉。

「な」と遊馬兄。

 老夫婦か。

「舟下りなんて……落ちたら、溺れちゃうじゃないですか」

「じゃ、るーがタクミに泳ぎを教わってからだな」

 遊馬兄がまた笑う。
 るーは居心地悪そうにもぞもぞしながら、俺の方を睨んだ。

「……え、なに?」

「……なんでもないですよ、もう」

 好きにしてください、と言いたげに、るーはそっぽを向いた。



「うん。るーも、いろいろ出掛けてみたらいい」

 ちい姉が、そんなことを言ったのが意外だった。

「……なんでですか」

「どうせいつも、家でぐだーってしてるだけでしょ?」

「ちい姉!」

 ……なんか意外すぎる言葉が出てきた。

「……家だと、そんな感じなの? るー」

「あ、いや……」

「うん」

 否定のまもなく、ちい姉が言った。

「漫画読んだり、映画みたり、ぼーっとしたり。あんまり出掛けないよね?」

「ちい姉!」



「……えっと、言ったらまずかった?」

「あのねちい姉、わたしにもイメージってものがあるの。あるんだよ?」

「いいでしょべつに。付き合ってたらいつかバレるもん」

「そういう問題ではなくて……」

「タクミだって気にしないでしょ?」

 急にちい姉から話を振られて、少し面食らう。

「え? うん。ちょっとほっとした」

「ほっとしたって……」

 困ったように眉根を寄せて、るーは肩を落とした。

「うん。ほっとした」

 こらえきれない、っていうふうに、遊馬兄が笑った。

「おまえら、お似合いだよ」

 俺とるーは、目を合わせて、互いに困った顔をする。
 




 それから送られていって、少し寂しい気分に巻かれながら、彼らと別れた。

 部屋に戻ると、静奈姉が夕食の準備をしていた。

 ひとりで。

 それは、そうなのだ。
 
 俺と静奈姉は、この部屋にふたりで暮らしていて、俺がいなかったら、静奈姉はひとりで。
 それは当たり前のことだ。

 だけど、なんとなく、いつもなら気にならないその事実が、すごく、俺の気分を暗い方へと引っ張っていきそうになる。

「……ただいま」

 声を掛けると、静奈姉はいつもみたいな笑い方で、「おかえり」と言った。

「けっこう遅かったね?」

「うん。……ねえ、静奈姉」

 言おうかどうか、少し迷った。言うのも、言わないのも、どちらにしてもつらいような気がする。



「なに?」

「遊馬兄と、会ってきたよ」

 静奈姉は、一瞬表情をこわばらせた。

「……そっか、元気だった?」

 酒が入ったときみたいな、開き直ったテンションじゃない。
 何かをごまかそうとするみたいな、つくり笑い。

「うん。元気だった。静奈姉は、遊馬兄と会ってないの?」

「そうだね。もうだいぶ、顔合わせてないかな」

「……」

 それからどう言葉を続けていいか、分からなかった。

「……会いたくは、ないの?」

 静奈姉は、困ったみたいに笑う。

「どんな顔して会えばいいのか、わからなくて」

 ああ、俺は嫌なやつだ。
 なんとなく、そう思った。


 静奈姉と遊馬兄が、昔みたいに、当たり前に会えるようになればいいのに、と俺はそう思った。

 なぜ?

 俺が、遊馬兄と会うときに、静奈姉に負い目を感じたくないからだ。
 俺のためだ。

 嫌になる。

 いつまでもつきまとっていられない、と、いつか、静奈姉は言った。
 その言葉が正しいのか、間違っているのか、俺にはよくわからない。

 俺だっていつかは、その言葉に納得した。

「……今でも、割り切れない?」

 踏み込むように、言葉を口にする。静奈姉は、戸惑ったみたいな顔をした。

「今でも、好き?」

「それは、好きだけど。でも、もう今は、そういうんじゃなくて……」

 言葉を選ぶような間を置いて、彼女はごまかすみたいに笑った。

「いろんなことが変わったのが、少し寂しいだけ、かな」



「……変わった」

「うん。子供の頃のままでは、いられないから」

「……」
 
 俺はきっと、静奈姉に何も言うことができない。

「ね、タクミくんも、わたしのこと、未練がましいって思う?」

「うん」

「……即答?」

「でも、俺も未練がましい方だから」

「……ま、そうだよね」

「血筋かな」

「どうかな。うちの母親なんかは、未練がましいっていうか、執念深いって感じだけど」

「……そうなの?」

「けっこう情熱的だったみたい」

「……」

 話題が逸れた。



「でも、でもね、もうけっこう、割り切ってるつもりなんだけど。もう、そういうのなしで、会えると思うんだけど」

「うん」

「だけど、もう、いまさらかなあって、思うんだ。遊馬くんたちは、きっとわたしが近付けないくらいの場所にいったんだと思う。
 そこに割って入ってまで、会ったりしないでも、いいかなあ、って」

「……そう、なのかな」

「……」

「きっと、遊馬兄も、ちい姉も、気にしないと思うよ」

「……そう、かな」

「……遊馬兄、連絡しても返事くれなくなったって、言ってた」

「……」

「寂しいんじゃないのかな、って思った。でも、遊馬兄の性格上、静奈姉から連絡がこなくて寂しいなんて、言えないだろうから」

「……うん。想像できるなあ、それ」

 目に浮かぶなあ、って、静奈姉は言った。

「俺が言うことじゃ、ないかもしれないけど」

「……そんなことないよ」と静奈姉は笑った。

「きっと、タクミくん以外、誰も言ってくれなかっただろうから。……ありがとう」

「……うん」

 それからふたりで、ほとんど会話もしないで、夕食をとった。
 
 風呂に入って、自分の部屋に戻ったあと、俺は今日のことを思い返して、るーのことを考えて、遊馬兄とちい姉のことを考えて、静奈姉のことを考えて、
 それから、小鳥遊こさちのことを考えた。


つづく




「……なんだ、その目は?」

 いつものように、目を細めて、彼は俺をまっすぐに見据える。
 落ち着け、と俺は自分に向けて呟く。

 落ち着け。

「……べつに、普通にしてるつもりだよ」

「そうか」
 
 気にした風でもなく、彼はため息をついて目をそらす。

「それで? もう一度聞くけど、去年はどうして帰ってこなかった?」

「……」

「連絡さえよこさなかったのは、どうしてだ?」

「……」

「誰が仕送りしてやってると思ってるんだ。学費だって誰が出してる?」

「それについては、感謝してるよ」

「とてもそうは思えない」

 そうかもしれない。



 俺は、深呼吸をした。

「よだかに会ったよ」

「……」
 
「誰のことか、分かるよな」

「……」

「ねえ、父さん。本当に、心当たりはなかったの?」

 父は何も答えなかった。
 憎らしいほどの、血の繋がりを感じる。

 ごまかし、嘘、つよがり、割り切り、開き直り、抑圧。
 
「あったとしても、父さんの気持ち、分からないでもないんだよ」

「……」

「俺だって同じ立場だったら、同じことを言ったかもしれない」

 よだかは自分の子供かもしれません、なんて、そんなことを認めてどうなる?

 母は? 俺は? 家族は?
 今まで保たれていたいろいろなものが、全部壊れてしまうかもしれない。

 耐えがたい真実と選びやすい虚偽ならば、後者を受け取るべきだ。
 真実は所詮、ひとつの側面でしかない。

 そうすることで、彼は何かを守ろうとしたのかもしれないし……。
 あるいはただ、自己保身のためだったのかもしれない。

 どちらにしても結果は同じことだ。



「でも、ときどきよだかのことを考えるんだ。物心ついたときには、そばに父親がいなくて、母親しかいなくて。
 母親も死んでしまって、そして、自分の父親に会えるかもしれないって話を聞いた」

 どんな気持ちで、家の玄関に立ったんだろう。
 それまでいないと思っていた父親に、会えるかもしれないと思ったとき。
 
 彼女はきっと、余計な期待なんてしていなかったのだと思う。
 ただ、知りたかったのだと思う。

 その結果、自分が受け入れられないことだって、きっと、考えていただろう。
 そうじゃなかったら、彼女はとっくに父親と暮らせていたはずだから。

 それでも想像する。

「……どんな気持ちだったんだろう?」

 父は、無表情に沈黙した後、

「――他にどうしようがあった?」

 そう言った。
 苦しげでもなく、悔むでもなく、ただ、開き直るように。
 その態度は正しい。



 いつでも過ちを犯さずにいられる人間なんてどこにもいない。
 失敗を軽蔑できる人間は無知だ。

 ある実験がある。

 実験の参加者はまず、「自分が性的興奮状態にあるとき、どのように思考するか」を普段通りの状態で想定して、次のような質問に答える。
  
「女性の靴に性欲をかきたてられると思いますか」「五〇歳の女性に性的に惹かれる自分を想像できますか」
「女性がセックスに応じてくれる可能性を高めるためなら、愛してると言いますか」
「新しいセックスの相手がどんなセックス歴をもっているかわからなければ、かならずコンドームを使いますか」
「コンドームを取りにいっているあいだに相手の気持ちが変わるかもしれないと思っても、コンドームを使いますか」

 そして数日後、同じ実験対象者が、状況を変えて同じアンケートの質問に答える。
 性的興奮状態――射精に至らない程度の、高度な性的興奮。つまり、自慰をしながら、アンケートに答える、というものだ。

 多数の実験結果から分かったのは妥当な結論だった。

 多くの男は、性的興奮状態にあるとき、理性ある状態の自分が想像するよりも、安易で粗野で直情的になる。
 多くの人間の多くの答えは――同一人物による回答であるにもかかわらず――大きく変化した。
 
 理性も理念も所詮は机上の空論だ。

 どんな聖人も怒りに呑まれれば人を殴り、どんな好青年も性的な刺激を受ければ性欲にとらわれる。
 誰もが、自分の理性を過大評価する。
 
 だから、責めても仕方ないというわけではない。それでもやっぱり、人を馬鹿にするな、と言いたい気持ちはある。
 


 もっとも賢い人間は、もっとも賢い生き方は、まずは生存を、生活を守ろうとする。

 深くものごとを考えず、気分が落ち込まないように多くを気にせず、あまり遠くのことに思いを馳せず、
 手の届く範囲で生活を完結させ、それ以上のことを想像しない。

 だから幸福でいられる。

 世界がぜんたい幸福でなくとも、彼らは幸福でいられる。
 仕方ないから、そういうものだから――どうしようもないから。

 どうしようもないことを気にして幸せを取り逃すのは、バカのすることだ。

 賢い奴は、そんなことを気にしない。
 生きる意味も、いつか死んでしまうことも、不平等も、理不尽も、
 それはただ、そういうものだと納得してしまえば、それで済んでしまう問題だ。

 問題は日々をやり過ごすことであり、ともすれば憂鬱を運びこみかねない退屈や寂寞をしのぐことだ。
 
 被災地のために募金をして、何かをした気になってしまえば、
 職場で嫌いな人間に舌打ちをして、そいつが辞めたらせいせいしたと笑う。
 後になってそいつが自殺していても、それはそいつのせいではない。

 何かの災害よりも年間の自殺者数の方が多いと聞いても「勝手に死んだ」と一顧だにせず、
「人に優しくありたい」とのたまった口で酒を飲んでハンドルを握る。

 幸福な生き方だ。
 幸福な生き方をする人間と幸福な生き方をする人間が連れ添って、子を成し、社会を形成している。
 
 それが大多数でありうる。

 世界はとても幸せだ。

「生きてるだけで丸儲け」「人生楽しんだもん勝ち」「死ぬこと以外はかすり傷」
 
 一生そう唱えて、死ぬまで生きていけば、そいつはもう、本当に勝っている。



 自分の過去の行為が、現在にどんなふうに作用しているかなんて、誰にも分からない。
 
 それなのに、すべてを自分のせいだと感じても、仕方ない。
 それはただそういう巡り合わせだったのだと、運が悪かったのだと、納得してしまっても、強引すぎるとまでは言えないだろう。

 賢い生き方。
 幸福な考え方。

 その、賢しらな割り切りを、服従のような諦念を、俺は咀嚼できない。
 了承できない。

「……そっか」

 と、俺は頷いた。
 
「どうしようもないと開き直るのが大人なら、俺は子供のままでいい」
「それがまともに生きるということなら、俺は生きられなくてもかまわない」

 そんな言葉を、この人に言ったところで、仕方ない。

「どうして猫を捨てたの?」「他にどうしようがあった?」
「どうしてよだかを拒んだの?」「他にどうしようがあった?」

 ――本当にどうしようもなかったの?

 何かを否定できても、対案をあげられるわけでもない。
 具体的な方策なんてわからない。

 でも、納得がいかない。そんな気持ちだけがわだかまる。



 猫なんて、死んだって、捨てたって、べつにかまわない。

 俺の人生に、何の関わりもない。

 よだかのことなんて知らんぷりしたって、別に俺は幸福でいられる。
 
 そんなの気にしたってどうする?

 俺のせいじゃないんだ。
 俺のせいじゃない悲しみなんて、そこらじゅうに転がってる。

 そんなものをひとつひとつ拾い上げて、いちいち嘆いて誰かを責めて、それで誰が幸せになる?

 だって猫は死んでる。そいつだけじゃない。そこらじゅうで。
 猫だけじゃない。豚を食って牛を食って、喰うために育てて、飼い殺して。
 愛玩動物も家畜も所詮は人間に都合よく消費される命でしかない。

 いちいち気にしてどうなる?
 猫を捨てる奴を批判する奴は、肉を食わないのか?
 肉を食わない奴は、虫を殺さないのか?
 虫を殺さない奴は、肉を喰う奴を責めないか?
 動物を捨てる人間なんて死んだ方がマシだと罵倒しないか?
 いったい何様のつもりで、生き物を区別してるんだ?

 世界の裏側で子供が飢えて死んだところで、そいつが俺に何の関係がある?
 だったら、目の前で子供が飢えて死んだところで、俺に何の影響がある?

 前者を気にかけないのなら、後者も気にかけずに済むはずだ。
『見て見ぬふりをした自分』が居心地悪いから、憐れんだつもりになっただけじゃないのか?

 関係ない。
 その割り切りが、幸福の条件だ。

 俺だって、きっと、そうしてる。

 きっと、納得がいかないのだって、ただの代償行為だ。






「どうしたんですか?」

「……え?」

 訊ねられて、言葉に詰まる。
 目の前に、るーが居た。かすかに濡れた髪、パジャマ姿。

 ずいぶん時間が経ったのに、まだ頭がぼんやりする。

 自分が嫌になる。
 
 こんなことばかり考えてる自分。

 きっと、この子もすぐに、こんな俺に気付いて、こんな俺のことが嫌になる。

 俺はもっと、幸せそうな顔をしなくちゃいけない。
 割りきらなきゃいけない。

「……タクミくん?」

「うん。大丈夫」

 こんなところに、こなければよかった。そう思った。
 思った通りの結果になった。誰のことも責められない。

 何を期待してたんだろう?
 父の口から、よだかに対する謝罪でも期待していたんだろうか?
 そんなものがあったところで、どうせ俺には信じられない。わかってるはずなのに。

 自分が何を求めてるのかすら、よくわからない。
 いっそ何も、考えたくない。



 ベッドに寝転んだ俺のそばに、るーは身を寄せてきた。

「大丈夫だよ」と俺は笑った。

 嘘だ。

 大丈夫なときなんてなかった。

 好きな人と一緒にいたって、誰かと一緒に笑ったって、捨てた猫のことを思い出す。 
 それをどうでもいいと割り切れないなら、俺はありとあらゆる猫を割り切れない。

 それをどうできる? どうしようもない。

 こんなの、面倒だ。
 解決策さえない。
 
 食べきれない。

「……タクミくん、疲れてます」

「かも」

「寝ちゃいましょう」

「……うん」

 そうして俺は眠った。
 べつに遠い世界のことなんて考えなかった。
 その事実に罪悪感を覚えた。
 
 こいつはもう、神経症的だ。



つづく


◇[If you were coming in the Fall]


「猫だ」

「猫ですね」

 猫だ。じっと、足元から、こちらを見上げてくる。

「タクミくんのこと、見てますよ」

「みたいだね」

 足元でもういちど、そいつは「みゃあ」と鳴いてから、俺の膝の上に飛び乗ってきた。

「あ、ずるい」

「いや、ずるいっていうか……」

「人懐っこいですね。首輪してるし、飼猫かなあ」

 猫は、俺の目を鋭くみつめてから、すぐに視線をそらして、膝の上で丸くなった。



 唐突に、落ち着かない気分になる。
 奇妙な戸惑い。

 黒猫だからだろうか?
 そうかもしれない。
 
 猫は、何かをうかがうみたいに、俺とるーの顔を交互に見てから、もう一度「みゃあ」と鳴く。
 それから膝の上を飛び降りると、そっぽを向いて歩き始めた。

「タクミくん」

「……なに?」

「あの猫……」

 見ると、猫は公園の敷地の外から、何かを待つみたいにこちらを見つめていた。

「待ってるみたいです」とるーは言った。



 俺にも、そういうふうに見えた。
 でも、どこかで冷静な自分が、そんな自分を諌めているのも分かる。
 
 猫だ。
 黒猫なんて、どこにでもいる。

 猫が、待っている? そんなわけない。バカバカしい。
 勝手な思い込みを動物に投影して、そこに意味を見出そうとするなんて、身勝手だ。

 そう思うのに、猫は一歩も動こうとせず、身じろぎもせずに、こっちを見ている。

「……どうしますか?」

「……どうするって?」

「えと、どっちにしても、そろそろ戻らないと」

「……」

 そうだな。
 ここにきてから、結構な時間が経った。そろそろ戻らないと。

 でも、猫が待っている。



「……ねえ、るー」

「はい?」

「追いかけてみてもいいかな」

「猫ですか?」

「うん」

「おもしろそうですし、かまいませんよ」

「ごめんな」

「お母さんに、連絡しておいたほう、いいかもしれません」

「うん」

 言われた通り、俺はポケットから携帯を取り出して、簡単に「遅れる」とだけメッセージを送った。

 待ってるわけじゃないかもしれない。意味なんてないかもしれない。
 でも、たしかめてみたって、べつに損するわけじゃない。

 何もないかもしれない。でも、何もないとたしかめることができるなら、それでいい。


 猫は俺たちが追いかけはじめるのを見ると、すぐに歩き出した。まるで導くみたいな足取りで、ゆっくりと。
 道路も横切らずに横断歩道を使った。赤信号すら律儀に守っていた。

 るーも俺も、その不思議さに何も言わなかった。

 猫はただ、夏の日差しのなかを、静かに歩いていく。
 俺たちは坂道を昇っていく。

「なんだか、不思議ですね」

「なにが?」

「わたし、知らない街にいるのに、歩いたことのない道なのに、なんだか、なつかしい感じがします」

「なつかしい……?」

 蝉の声、夏の日差し、涼やかな風、通りかかった家の縁側から聞こえた風鈴の音、透き通るような景色。

 何かもが、白い光に縁取られて見える。
 
 先を歩く黒猫が、静かに振り返り、俺達の姿を見つけると、また歩き始める。

「るー、暑くない?」

「暑いです」

「だよな。……やっぱり、帰ろうか?」

「え? どうしてですか?」

「いや、体調でも崩したら」

「わたしが気になるから、追いかけてるんです」

 本当に不思議そうな顔で、るーはそう言って、前方の猫に目を向ける。
 


「……不思議になるんだよな」

「何がですか?」

「なんで、るーは、俺と一緒にいてくれるんだろうって」

「……と、いうと?」

「なんで、面倒にならないんだろうって」

「……はあ」

 るーは、少し考えるような素振りを見せてから、眉を寄せて、

「いえ、面倒ですよ」

 と言った。

「あ、そうなの?」

「はい。逆に聞きますけどタクミくんは、わたしのこと面倒にならないですか?」

「……どうだろう、今のところは、べつに」

「じゃあ、これからきっとそうなります」

 るーは俺の目も見ずに、当たり前のことのようにそう言った。


 日差しに歪む視界のなか、夏の気配にまぎれて、俺達は猫の影をどこまでも追う。

「……だいきらいって、言ったことがあるんです」

 何かをうかがうように、るーは口を開いた。

「……なに?」

「物心ついた頃には、ちい姉と一緒に暮らしてなかったから。
 ときどき、顔を合わせると、お父さんはいつも、ちい姉の相手ばかりしていて……」

「……」

「わたし、お父さんを、知らない女の子にとられた気がして。
 その子がお姉ちゃんなんだって言われても、そういうふうに思えなくて、だから……」

 だいきらいって、お姉ちゃんじゃないって。
 そう言ったんです。

「……でも、ちい姉は悪くなくて、ちい姉だって、ずっと傷ついてて、だからわたし、ひどいことを言ったんだ、って」

 坂の上で、猫は待っていた。追いついてしまった。俺たちは、その場に立ち止まる。

 るーは悪くないよ、と、そう言ってしまうのは簡単だ。
 でも、そんな言葉は、きっと彼女には何の意味ももたない。
 
「そっか」

 返せたのは他人事のような頷きだけで、俺は自分が嫌になる。



 るーの手を握った。

 彼女は、こちらを見上げてくる。

「うっとうしい?」

「……ううん」

「そっか」

 猫は、また歩き始めた。

「……ちい姉と一緒に暮らすようになったのは、いつだったっけ?」

 なんとなく、俺はそう訊ねた。

「あの年です」

 るーは間も置かずに答えてくれた。

「わたしたちが会った、あの年の春ですよ」

「……」



「だから、わたしにとって、あの夏は特別なんです。
 あんなふうに過ごせなければ、今みたいには、なれなかったかもしれないから」

 ……あの夏。
 俺はどんな気持ちで、この街に帰ってきたんだっけ。

 ――なんだか、どうすればいいのか、分からなくて。

 そうだ。
 俺はあの夏に、るーから聞いていた。

 ちい姉との、距離をはかりそこねていること。

 俺は、どう答えたっけ?
 たしか、うまく答えられなかったんだ。

 俺も、どうすればいいか分からないことを、抱えていたから。

 ――うん。難しいよね。

 そう言ったんだ。

 ただの相槌だった。
 そんなただの相槌を繰り返して、俺達はあの夏、あの夏休みの間、立ち向かう準備をしていた。

 俺たちはそれぞれに、どうしたらいいか分からないものを抱えていて。
 あの短い期間のなかで、それでも、立ち向かう覚悟を決めようとしていた。

 きっとるーは、あの日々の中で、ちゃんと立ち向かって、向かい合おうとしていた。
 それを見て、俺だって逃げてばかりもいられないんだって、そう思ったんだ。
 学校のこと、猫のこと。

 別れ際、俺はるーに言った。

 俺もがんばるから、るーもがんばれ、って。るーががんばってると思って、俺もがんばるから、って。
 いつかまた、この街に来るから、って。

 そのときるーは、嬉しそうに笑ったんだ。


 その約束を、どうして俺は、今まで忘れていたんだろう。

 父のことが、よだかのことがあったから?
 時間の流れが記憶を薄めて、実感を遠ざけたから?

「タクミくんがいたから、わたしは今日まで、がんばってきたんですよ」

「……」

「連絡かえってこなくなったときは、さすがに泣きそうになりましたけど」

「……あ、うん」

 猫は歩く。
 俺たちは影を追う。

「……ごめん、るー」

「……なんですか、突然」

「俺、るーとの約束、守れてなかったかもしれない」

「……そうですか?」
 
 るーが、手のひらに力をこめたのが、伝わってくる。
 彼女はやさしく笑った。



「そんなことないですよ、きっと。タクミくんは、がんばってきたんだと思う。
 わたしには、ちい姉や、すず姉がいたから。だから、不安にならなかっただけです」

「……」

「タクミくんは、帰ってしまえばひとりで立ち向かわなきゃいけなかったから。不安になって、少し迷ったって、仕方ないです」

 ……きっと、自信がなかったんだろうな。
 誰も覚えてないかもしれない、と俺は思っていた。

 みんなにとって俺なんて、ただ偶然通りすがっただけの、なんでもない存在なんだって、勝手に思っていた。
 
 不安だった。みんなに会えなくて、話せなくて、顔も見れなくて。
 るーとメールしているときも、漠然と、不安だった。

 でも……。

 それはただの、思い込みにすぎなかったのかもしれない。

 でも、蓋を開けてみれば、みんな、俺のことを覚えていた。
 俺との約束を、るーは大切にしていてくれた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 そして、猫は立ち止まった。



 俺たちが足を止めると、猫は静かに、目の前の家の敷地に入っていった。

 べつに、変わったところのない家だ。
 しいていうなら、周囲に並ぶ家よりも、いくらか古そうな感じがするくらい。

「やっぱり、ただの飼猫だったんですかね?」

「……」

 るーの呟きに反応せずに、俺はその家を眺める。

「まさか知らない人の家に勝手に入るわけにも……」

 俺は知っている。
 この家を見たことがある。

「……タクミくん?」

 門柱に填められた表札。

"小鳥遊"、とあった。

「……うちに何か御用ですか?」

 掛けられた声に驚いて振り返ると、立っていたのはひとりの女の人だった。

 彼女は俺の顔を見て、何かに気付いたような顔をした。

「あれ、あなた、もしかして――」

 女の人が何かを言いかけたとき、彼女の足元で、「みゃあ」とまた鳴き声がした。
 いつのまに、そこにいたんだろう。
 
 猫は静かに、俺の足元へと近付いてきて、頭をすり寄せてきた。





「どうぞ」

 なんだか分からないうちに俺とるーは彼女の家に招かれて、縁側で麦茶を出されていた。

 風鈴の音。
 猫が俺の膝の上であくびをした。

「やっぱり、きみなのね」

 女の人は、俺の顔を見てそう言った。

「……えっと」

「この子、人見知りするから、初対面の人の膝の上に乗ったりはしないんです」

「……いや、でも」

 何かを言い返そうとしたけれど、何も言い返せなかった。
 何の話なのか、よくわからない。

「あのときの子でしょう?」

「……あのとき、って」

「……小さかったから、覚えていないのも無理はないのかも」

 そう言って、彼女は少し寂しそうに笑う。


「その子に見覚えは?」

 俺の膝の上の猫を示して、女の人は静かにそう訊ねてきた。

「……」

 ある、と言えばあるし、ない、と言えばない。

「……何年か前の雨の夜に、坂の下の公園の遊具の下に、雨に濡れている男の子を見かけたことがあったんです」

「……」

「赤いブランケットに包まれた、子猫を抱いていました。話を聞いてみたら、うちで飼えないから、捨てたんだって」

 ……"捨てた"。
 そうだ。
 
 父の車に乗って、遠くの公園まで。ダンボール、赤いブランケット。

「猫を、小さな滑り台の下に隠して、自分は、茂みの傍に傘を置いて、濡れた土の上に座り込んで……。
 ずぶ濡れになりながら、猫の傍から離れようとしない、男の子を見つけたんです」

 猫を捨てた日の帰り道、俺は車の外をじっと睨んでいた。父が何も言ってこないのが好都合だった。
 
 俺は、道順を覚えようとしていた。
 家についたあと、出かけてくる、と言って、自転車を走らせた。
 決して短い距離じゃなかったはずだ。

 降りだした雨の中を、俺は走っていた。

 そんな記憶が、いま、思い出される。



「……」

 みゃあ、と猫が鳴いた。首を傾げてから、俺の手の甲をぺろりと舐めた。

「とにかく、雨に濡れていたから。男の子も子猫も、弱っていたから、うちに連れてきたの。
 それから、猫はうちで引き取ることにして……」

「……この猫が、そのときの?」

 るーが、そう訊ねる。女の人が頷くのと同時に、黒猫はまた、みゃあと鳴く。

「じゃあ、その男の子って……」

「どうなの?」

 女の人は、ちょっと笑いながら、俺にそう訊ねた。

「……人違いじゃないかな」

「……そうなの?」

「そんな気もするけど……よく覚えてない」

「そうかなあ。まあ、どうなのかな。わからないよね」

 女の人は、どちらでもいい、というふうに笑った。

「覚えていないんだったら、確認しようがないもの」

「……」


 みゃあ、とまた、猫が鳴く。

「……なついてますね」

 るーが不思議そうな顔をする。

「タクミくん、動物に好かれやすい方ですか?」

「いや……」

「だったら、本当に昔……」

「猫がそんなこと、覚えてるものかな」

「……うーん、それを言われると」

「俺だって、思い出せない。そうだったら劇的だとは思うけど、そんな理由で思い込む気にはなれないよ」

「……そう、ですか?」

 るーはなんだか納得がいかないような顔をした。
 記憶はつくりものだ。何が本当で何が嘘なのか、俺には判断できない。

「でも、きっときみだと思う。そっくりだもの」

「……」

 たしかに、それでも、
 そんな記憶が、あるような気がした。

 雨に打たれて、子猫を抱いていた夜。
 自分には何もできないと、泣いていた夜。


 でも、もし、猫の引き取り手が見つかったなら、俺はもう少しマシな記憶として、猫のことを覚えていそうなものだ。
 ……あるいは。

 自分の手で助けられなかったということだけを、覚えていただけなのか。

「……」

 よくわからない。

 それでも猫は、なにか言いたげに、俺を見ている、ような気がする。
 それさえも、動物に対する身勝手な投影なのかもしれない。

 俺は前足の下を持って、猫を抱き上げる。

 と、急に暴れ始めて、俺の手の甲を猫が引っ掻いた。

「あれ、大丈夫?」

「やっぱ、なついてないみたいですね」

「……恥ずかしかったのかな。女の子だし」

「いや、猫が恥ずかしいとか……」

 ぐるる、と抗議するみたいに、黒猫は距離をとって俺に向けて唸った。

「……この子、なんて名前なんですか?」

 ただのなんでもない質問のように、るーは訊ねる。
 女の人も、当たり前みたいに答える。

「うん。……ほら、黒猫は不吉だって言うじゃない? だからね、中和というか、打ち消し線というか……」

 とにかく、そういう押し付けがいやだったから。 

「だから、この子の名前は――」





 また来てね、と女の人は言った。猫は別れ際、門柱の脇に座って、「みゃあ」とまた鳴いた。

 登ってきた坂を、今度は降りていく。

 手を繋いで歩きながら、るーはなんだかご機嫌だった。

「どうしたの?」

「いえ。やっぱりタクミくんは、昔からタクミくんだなあ、って」

「……どこをとって、そう思ったの」

「猫。守ってあげたんですよね?」

「……仮にそうだとしても、捨てたのだって俺だよ」

 るーはきょとんとした顔をした。

「マッチポンプで良い奴ぶる気にはなれない」

「……わたしは、すごいと思います。だって、子供の頃のことじゃないですか」

「……」

「仕方ないことがたくさんあって、それでもタクミくんは、諦めなかったんだって思います。諦めたくなかったんだって」

 どうなんだろう。
 よくわからない。


 俺の表情を見て、るーは不満気に口をとがらせる。

「あのね、タクミくん」

 と彼女は繋いでいない方の手の人差し指を立てた。

「あなたはもう少し、自分のことを認めてあげてください」

「……」

「もう少しだけ、自分のことを、好きになってあげてください。
 あなたがいたことで、救われた存在がいるんだから」

 どこかで、前にも、そんな言葉を聞いた。
 
 ……夢の中だ、きっと。

 ――もう少し、もう少しだけ、自分のこと、好きになってあげてください。
 ――あなたがそうあることで、救われる人がいるから。

 夢。

 ――だから、先輩が苦しいときは、思い出してくださいね。
 ――先輩がいたから生きてきた存在がいたってこと、ちゃんと、思い出してくださいね。



 ……困ったな。

 俺が生まれなければ、よだかは幸せになれたかもしれない。
 俺がいなければ、もっと、世界は上手くまわっていたかもしれない。

 どこかで、ずっとそう考えていたのに、打ち消し線を引かれてしまった。
 中和されてしまった。

「……タクミくん?」

「……ごめん」

「……いいです。内緒にしておきますから」

「うん。るー、あのさ……」

「はい」

「……ありがとう」

「どういたしまして」
 
 るーは、にっこり笑った。





 少し落ち着きを取り戻してから、俺たちふたりが家に戻ると、母は「遅い!」と声をあげた。

「ごめん」

 と俺は素直に謝った。

「よろしい」

 と母は頷いた。

「それじゃ、お昼も兼ねてお出かけしましょう」

 そう言って母が俺たちを連れて向かった先は、どこにでもあるような商業複合施設だった。

 全国津々浦々、どこでも似たようなテナントが入っている似たような建物。

 昼食をとってから、なぜかふたりは俺の服を見繕おうと言い出した。

「あんたは服装に気を遣わなさすぎ」

 と母が言い、

「わたしもそう思っていました」

 とるーがちょっと真面目な顔で言った。

 それから男物の服を置いているところをあちこち連れ回されて、あげくの果てに服を買わされた。
 
 安いのでいいのに、とつぶやくと、

「ダメです」

 とふたりに揃って怒られた。
 金を少しでも貯めたかったけど、友達と遊ぶ金も確保したかったから、衣食を削るようにしてたんだけど。

 まあ、彼女さんに言われたら仕方ない。






 自分の買い物はほとんどしてないくせに、なんだかふたりは充実した顔をしていた。
  
 けっこう広い建物を、一箇所一箇所見て回ったものだから、家につく頃には夕方になっていた。

 るーは、車の中で眠ってしまった。

「緊張してたのかな」と母は言う。そうかもしれない、と俺も思った。

「ね、拓海。良い子ね」

「……うん?」

「……るーちゃん」

「うん」

「大事にしなさい」

「……うん」

「卒業したら、どうするつもり?」

「……」

 考えていない、わけではない。
 何かするには、俺は無力で、コンビニバイトの金なんか、何の足しにもならない。

 そう分かっている。頼るしかないと、分かってる。 
 でも、腹の内側のごたごたを、全部飲み込んだまま、頭を下げられるほど、器用じゃない。
 
「……」

 それでも、そうするしかないなら、俺はそうするかもしれない。
 大事なことがあるから。



「……まだ、考え中」

 とにかく、俺はそう答えた。

「そっか」と母は少し寂しそうに笑った。

「ね、拓海」
 
 いろんなことを、飲み込んで、言葉を素直に聞く気になる。

「また、帰ってきてくれる?」

「……うん」

「そっか。たまには、連絡してね」

「うん」

「……ごめんね」

「……なにが?」

「……ううん」

 少しだけ、ため息をつく。



 何もかもを綺麗に覆せる魔法なんて、この世のどこにもない。

 未整理のもの、散乱したもの、消化できないものをそのままにして、それでも歩くのをやめられない。

 許せないことも、受け入れられないことも、それぞれに抱え込んだままに。

 俺にも、るーにも、母にも、誰にでも、きっと、父にも。

 何もかもが綺麗に片付くなんて期待は、最初から持ち合わせていない。

「……明日、帰るよ」

「……うん」

 俺は、窓の外を眺める。
 懐かしい景色。
 何度も見た景色。

 不思議な気分だった。




 
 その夜、少しだけ、父と話をした。







 翌日、母に車で駅まで送られて、土産を選んでいる間、携帯に電話が入った。

 見れば、高森から。

「もしもし?」

「たっくん、今なにしてる?」

「帰省ー」

「へー、キセイかー。……え、帰省?」

 だいぶ戸惑った声で、高森はうめいた。どうやら意表をつかれたらしい。

「どうしたの?」

「ううん、暇だったらみんなで遊びたいなーって、ちーちゃんと話してたんだけど」

「あー。今から帰るけど、たぶん着くのは三時頃かなあ」

「そっかあ。じゃあ、たっくんは不参加ね」

「不参加って、何する気なんだ」
 
「え? ……部室で人生ゲームしようって」

 ……なんでわざわざ部室なんだ。

「そっか。まあ、たっくんは不参加ね。しかたない。んじゃ、他のひとに電話かけるから、またねー」

 通話が切れる。



「……蒔絵先輩ですか?」

 隣でおみやげを選んでいたるーが、首を傾げた。

「なんで分かったの?」

「声が……」

「……ま、そりゃそうか」

 と、そんな会話をしてすぐに、今度はるーの携帯が震えた。

「……もしもし?」

 なんとなく想像はつくけど……なんだか、説明がめんどくさくなりそうな気がする。

「えっと、今、わたし県外に……」「あ、旅行ってわけでは」「その、えっとですね……」

 めんどくさいので、るーの手から携帯を奪った。

「もしもし」

「はい? どちらさ……え、たっくん?」

「はい。たっくんです」


「え、一緒にいるの? キセイチュウじゃないの?」

 寄生虫みたいなイントネーションだった。

「帰省中です」と俺は言った。

「え、るーちゃんと一緒に?」

「まあ、そうなるな」

「……そこのところ、詳しく」

「帰ったらな」

 俺は勝手に通話を終わらせた。

「……あはは」

 少し気恥ずかしそうに、るーは笑った。

「あいつ、妙なところでタイミングいいよなあ」

「ですね」


 お土産を買ったあとの待ち時間。母は用事があると言って、すぐに帰ってしまった。

「気をつけてね」と言われたけど、何を気をつければいいのやら。

 最後にるーと手を振り合って、彼女は行ってしまった。

「……そうだ。わたし、タクミくんに内緒にしてたことがあるんです」

「え? なにそれ」

「いま、近付いてます」

 なんだそれ。

 と思うと同時に、後ろから何かが俺の視界を覆い隠した。

 慌てて払いのけ、振り返る。

 よだかが、そこに立っていた。

「や」

 と彼女は言った。


「……え、なんでよだかが」

「夏休みに、遊びにいくって言ったでしょ?」

「いや、そうではなくて」

「るーちゃんが連絡くれたから、一緒に行こうと思って」

「なにもそんな急に」

「急にじゃないよ。ね?」

「ねー?」

 ふたりでそろって頷き合っている。
 いつのまにこんな具合になっていたのか。

「わたし、るーちゃんちに遊びにいくんだもん。たくみにはあんまり関係ないよ」

「……そ、そうかなあ」

 戸惑う俺を、るーがからかうみたいに笑う。

「旅は道連れ、ですよ」

「そうそう」と、よだかは楽しげに頷いた。

 俺はちょっとだけあっけにとられてから、笑った。




 車窓の外、流れていく景色を眺めながら、俺はいくつかのことを考えた。

 るーのこと、よだかのこと、あの黒猫のこと。
 もう、そんなに思いつめた気分にはならなかった。

 何かが変わったわけじゃない。

 今もどこかで何かが起きている。その事実は変わらない。

 それを忘れたわけでも、忘れたいわけでもない。

 けれど今は、そう思っていても、嘆き散らす気にはなれない。
 
 打ち消し線、中和、と、あの女性はそう言っていた。

 呪詛と祝福。
 悲嘆と歓喜。

 それぞれが交じり合う混沌。それは決して正負の足し算ではない。
 帳尻は合わない。

 それでも、どちらか一方にしか目がいかないのでは、それこそ片手落ちというものなのだろう。

 隣で、るーが眠っている。

 その寝顔をぼんやりと、ただぼんやりと眺めながら、少し考えて、
 この気持ちを幸せと呼んでみてもいいのかもしれない、と、そう、勝手に思った。


つづく

次で終わりたい


◇[(feet of) A narrow Fellow]


「で、どういうことなの?」

 と、高森が目を爛々と輝かせて訊ねてきた。時刻は午後三時四十分。

 「駅前のマックで待ってるから!」と一方的にメッセージをよこした彼女は、本当にそこで待っていた。

 高森の隣には佐伯とゴロー、くわえて部長の姿もあった。

「……なんで勢揃いなの、みんな」

「人生ゲーム、してたから!」

 高森はものすごく楽しそうにそう言った。

「ちなみに一位はわたしです」と、誰も聞いてないのに佐伯は呟く。

「そうですか」


「一位だから、なんかちょうだい」

「……」

 佐伯が差し出してきた手のひらの上に、俺は飴玉をひとつのせた。

「わーい」と佐伯はたいして嬉しそうでもない反応を見せる。

「いいなあ、人生ゲーム」と、よだかがぽつりと呟いた。

「お、参戦希望かい?」と高森は挑発的に笑う。

「混ぜてくれるの?」

「いいのか、俺達は強いぜ?」

 キザっぽく呟いたゴローに、

「よくいうよね、借金王」と佐伯が水を差した。

 よだかも楽しそうに笑う。



「……それで、たっくん、どうして」

「よだかはるーについてきたんだよ」

「よだっちの話じゃなくて」

 誰だよよだっち。
 ウルトラマンの掛け声みたいになってる。

「たっくん里帰りしてたんでしょ?」

「そうだよ」

「実家にいたんでしょ」

「うん」

「なんでるーちゃんも一緒に?」

「……なんで、っていっても」

 なんでなんだろうなあ。


「まあ、一緒にきてくれって頼んで、ついてきてもらった」

「なんでまた」

「まあ、いろいろ」

「ふーん?」

 普段ならもう少し食いついてきたかもしれないけど、今日の高森は機嫌がよくて、「ま、いいや」と話題を変えてくれた。

「それでさ、今日なんだけど――」

 と高森が何かを言いかけた瞬間、ああ、今言っとかないとあとで文句を言われるな、と思って、

「あ、俺とるー、付き合うことになったから」

「――えっ」

 言った。

「おお」と佐伯。

「ふむ」と部長。

「ほう」とゴロー。

「えええ?」と、高森だけがひときわ大きな反応を見せた。


「そうなの?」とよだかがるーに訊ねる。

「はい」とるーは頷く。

「おめでとう」と佐伯は拍手する。

「めでたい」とゴローが続いて、部長は何も言わずに拍手に混ざった。

 高森は呆気にとられた顔のまま、反射みたいに手をぱちぱち叩いていた。

「……はあ。ありがとうございます」

 ちょっと照れくさそうに、るーは静かにお礼を言った。

「あ、そう。それで今日花火しない?」

 拍手が終わると高森はそんなことを言い出して、あっさりと話題を終わらせてしまった。

「おい貴様ら、もっと反応しろ」

 さすがにちょっと物申すと、高森は呆れたみたいにため息をついた。

「たっくん、めんどくさーい」

「そこがいいところなんですよ?」とるーが真顔で言ったものだから、みんな反応に困っていた。

 それで実際、一度解散してからどこかに集まって花火をしようということになった。
 距離と広さの問題で、場所は佐伯の家に決まった。


「どうせ今日、誰もいないし」と佐伯。

「ちいちゃんのお兄さん、いないの?」

「いません」

「ざんねん」

「なぜ」

「見てみたい」

「だめです」

「どうしてなの?」

「どうしても」

 佐伯はやけに頑なだった。

 コンビニで手持ち花火を買って、ついでにスナック菓子とジュースを買い込んで、佐伯の家にみんなで集まった。
 高森はボードゲームを持ってきていた。


 まだすこし明るさの残る宵の口に、俺達は夕闇にまぎれて光を撒き散らした。

 中身のある会話なんてほとんどなにもせずに、煙と火の粉のなかで踊るみたいにはしゃいだ。
 どこかの部族の祝祭みたいに。

 線香花火をやって少ししんみりしたあと、家の中に入ってボードゲームがはじまった。
 今度はパーティみたいだった、

 ゲームが終わった頃には夜八時半を過ぎていて、女たちはそのまま泊まりにしようと言い始めた。
 さすがに混ざるのは気まずかったので、俺とゴローは先に帰ることにした。

 帰り道の途中、ゴローがぼんやり夜空を見上げながら、

「あけぬれば くるるものとは しりながら なおうらめしき あさぼらけかな」

 小さな声で、そううたったのが印象的だった。



 
 翌週のある日、俺は静奈姉と一緒に、彼女の実家へと向かっていた。

 里帰りの際、お土産くらい買っていきなさい、と母に金を渡されて、一応用意していたもの。
 それを渡しに行きたいと言ったら、その日なら都合がいいから静奈と一緒にきなさい、と命令口調で言われた。

 で、実際に行ってみたら、ちょっと予想していなかった景色が広がっていた。

「よう。遅かったな」

 と、遊馬兄は庭先でガーデンテーブルを組み立てながら堂々と言った。

「……なんで遊馬くんが」

 ちょっと顔をこわばらせた静奈姉に、遊馬兄は平然と「ひさしぶり」と笑う。

「聞いてない?」

 遊馬兄は、ちょっと困った顔をする。

「……なにを?」

 静奈姉は戸惑った顔をする。
 ひさびさにふたりが揃ったところを見たのに、なんとも言えないぐだぐだっぷりだ。

「バーベキューするって」

「……聞いてない」

「……ユリコさん、自分で伝えるって言ってたのにな」



 そんな話をしたところで、家の中から話し声が聞こえてきた。

「あ、しいちゃん」

 ちい姉。と、ユリコさん――静奈姉の母親が、そろって庭へと姿を現した。

「遅かったわね」とユリコさんは悪役っぽい口調で言った。

「お母さん、どういうこと?」

「どういうことって。バーベキューしたいと思って」

「なんで急に」

「思い立ったが吉日、でしょ?」

「……いつもそれなんだから」

「って言っても、前々からみんなで計画してたけど?」

「わたし、聞いてない」

「内緒にしてたもの」

 相変わらず理屈が通用しない人だ、とぼんやり思う。


 話を遮るみたいに、ちい姉が口を挟んだ。

「……あの、忘れ物しちゃったみたいだから、ちょっと取ってきますね」

「あ、了解」

「すぐ戻ります」

「あれ? すずちゃんは?」

「それが……寝ちゃってます。すみません」

「……あいかわらず面白い子だなあ」

 ユリコさんは感心したみたいにうんうん頷いた。
 それからちい姉は、俺と静奈姉に簡単に声を掛けて、本当に一度帰ってしまった。


 取り残される、俺と静奈姉、と、遊馬兄とユリコさん。

 ……妙な事態に巻き込まれてしまった。

 奇妙な沈黙。

「……えっと、あの、これ。おみやげです」

 黙っていても仕方ないので、俺は紙袋をさっさとユリコさんに差し出した。

「あらごめんね、気を遣わなくてよかったのに」

「あはは」

 ごまかし笑いしか出ない。

 しばし、また沈黙。

「……どうしたの、あんたら」

 呆れたみたいに、ユリコさんが静奈姉と遊馬兄の顔を交互に見た。


「静奈、あんたまさか……まだ引きずってるとか?」

「……」

 ……親とはいえ、えげつない質問だ。
 俺、この場に居ないほうがよかったのではないか。

 遊馬兄と目が合う。

 お互いに、どうしたらいいか分からない顔になる。

「……引きずってないもん」

 と静奈姉が子供みたいに言った。

「いや、べつに引きずっててもいいのよ。本気で好きなら寝取りなさい」

 ……略奪愛を推奨する親、初めて見た。

「でも、その覚悟がないならとっとと割りきりなさい」

 静奈姉が、痛いところをつかれた、というふうに俯く。

 そんで、

「――そんなんだからその年でまだ処女なのよ」

 と、ユリコさんは言った。

「包丁の使い方が下手だからリンゴの皮むきくらいで怪我するのよ」みたいな軽い口調で。

 突然の話題転換にユリコさん以外の三人は硬直した。


 というか本当に。
 さっさと逃げてりゃよかった、と思った。

 どう考えても巻き込まれていた。

「あ……え?」

 羞恥と驚きからか、静奈姉は言葉をなくして口をぱくぱくさせた。
 俺はとりあえず現実逃避のつもりで、聞こえないふりをしながら空なんかを見ていた。

 つばめが飛んでいる。

 いや、ていうかでも。
 いくら親とはいえ、ちょっとひどいのでは、ユリコさん。

 なんてことを考えている間も、誰も一言も言葉を発さず、ただ時間だけが流れていく。


「あ、えっと」

 沈黙を破ったのは遊馬兄だった。
 俺は彼が、どうにかしてこの空気を変えてくれるように祈った。

 静奈姉は、もうどうしたらいいかわからない、というふうに顔をまっかにして、俯いている。
 遊馬兄は困ったみたいに後ろ髪をかいて、視線をあちこちさまよわせたあと、

「……処女、なの?」

 と言った。

「うわ」と思わず声を出してしまった。

 静奈姉は体をびくっとこわばらせて、しばらく身じろぎもせずに俯いたままだった。
 か思うと、急に走り出して家の中へと逃げ込んでいく。

 取り残された俺たちは途方に暮れる。

「……待ってくれ、違う。いま頭が真っ白になって……」

 遊馬兄はあれこれ言い訳を始めたが、かえって白々しい空気が流れ始めた。
 


「いくらなんでも今のは……」

「さいてー」

 俺の言葉を引き継ぐみたいに、聞き覚えのある声が縁側の方から聞こえた。
 
 だれだ、と思って声の方を見ると、なんだか綺麗な女の子が座って麦茶を飲んでいた。
 いつからいたんだろう。ぜんぜん気付かなかった。

「……俺のせいか? 俺のせいなのか?」

 遊馬兄は本格的に頭を抱え始めた。

「いいから、謝ってきなよ」

「今行っても逆効果な気が」

「時間置いたら気まずさが増すだけなんだから、ぐだぐだ言ってないでさっさと動く」

「……はい」

 女の子の声に従って、遊馬兄はふらふらと家の中へと向かっていった。
 その姿を見送ってから、彼女はちいさく溜め息をついた。



「……ユリコさん、さすがにさっきのは、ちょっとひどいんじゃない?」

 諌めるみたいに、彼女はユリコさんに話しかける。

「あれくらいしないと、あの子開き直れないから」

「それにしても、もうちょっとやりかたが」

「……うーん、今後の反省点にしとく」

「……手遅れだと思う。たしかにああでもしないとあのふたり、ずっとあのままだったかもしれないけど」

「でしょう? 言いたくなる気持ちもわかるでしょう?」

「どうかな」

 呆れた感じに溜め息をついてから、女の子は麦茶に口をつけた。

「……あの、どちらさまですか?」

 ユリコさんに訊ねると、女の子はちょっとむっとした顔をする。

「わからない?」とユリコさんがからかうみたいに笑う。

「……え?」

 女の子は、黙ったままこっちを見ている。

「……美咲姉?」

「うん。そう。気付くの遅いよ、タクミくん」

 彼女はようやく、満足気に笑った。


 ……あたっていた。美咲姉、遊馬兄の妹、あの夏、一緒に過ごした人。
 覚えてる。顔立ちだって声だって、覚えがある。
 でも……。

「……美咲姉、そんなにちっちゃかったっけ?」

「……」

 言ってから、しまった、と思った。

「……」

「……」

「あ、いや…・・」

「伸びたよ」

「え?」

「ちゃんと伸びたの。タクミくんが、育ちすぎてるの!」

 拗ねたみたいな顔でそっぽを向いて、美咲姉は麦茶をちびちび飲み始める。
「どうせ155ないもん」とかぶつぶつ言いながら。

「……タクミくんさあ」、とユリコさんが言う。

「なんでか、遊馬と似てるよね」

「……なんででしょうね」

 困ったものだ。




 しばらくしてから静奈姉はふてくされた顔のまま庭に戻ってきた。
 どういう会話があったのかはわからないが、彼女はやけになったように缶チューハイをあけはじめる。

「どうせわたしは……」とか拗ねた声でうなりながら、ひとりで飲み始めてしまった。

 やれやれ、と思いながら美咲姉に目を向けると、彼女は彼女で「まだ伸びるはず……」とかぶつぶつ言っていた。

 庭の一角が負のオーラで満ち満ちている。

 買い出しに行っていた静奈姉のお父さんが帰ってくるのとほとんど同時に、
 ちい姉がるーとよだかのふたりを連れて戻ってきた。

「あ、タクミくん」「たくみだ、たくみ」

 俺は珍獣か。
 ふたりはそろってくすくす笑っていた。

 どういう流れで、このメンバーになったんだろう。
 まず、ユリコさんが遊馬兄を誘って、遊馬兄がちい姉を誘って、
 どうせなら人数は多い方がいい、とかユリコさんに言われて、るーとすずを誘って、
 そしたら、今はるーの家に泊まりに来ているよだかもついてくることになって……。

 なんだか、想像するのが簡単すぎて他に思いつかない。


 とにかくメンバーが揃ったところで、バーベキューがはじまった。
 わいわい騒ぐみんなの姿をぼんやり眺めながら、ここに今いる自分がとても不思議だと感じた。

「にぎやかですねえ」と、俺の隣に座ったるーがアップルジュースを飲みながら言う。

「うん」と頷くと、彼女はくすくすと笑う。

「どしたの?」

「なんか、なつかしいなって」

「……うん」

「なつかしいの?」と、逆隣に腰掛けたよだかが首をかしげる。

「うん」

「なんかずるいなあ」とよだかが言ったので、

「そのうち今だってそうなるよ」

 と、俺はそう言っておいた。


 そこそこの時間が流れたあと、

「もういいもん!」と急に静奈姉が立ち上がった。
 その声にびっくりして、みんな彼女に注目した。

「遊馬くんのことなんて知らないもん! 勝手に幸せになっちゃえばいいんだ!」

「……あ、うん。そうする」

 遊馬兄があっさり頷くと、静奈姉はしばらく黙り込んだあとめそめそ泣き始めた。 
 おいおいどうするんだこれ、と思いながら放っておいたら、いつのまにか眠り始めてしまう。

 本人の親たちは平然としていたけど、残された子供たちはなんとも言えない空気にさらされた。

 立ち上る沈黙を破ったのは美咲姉だった。

「お姉ちゃんは、変わらないね」

 誰に話しかけるでもなく、そんなふうに、静奈姉の寝顔を眺めた。
 


「同情はまったくしないけど、ちょっとうらやましくはあるかなあ」

 何の話だろう、と、思わず首を傾げた。

「なんのこと?」とすず姉が訊ねた。

「……ほしいものはほしいって駄々をこねることができる、素直さ?」

 褒めてるのか貶してるのかわからない美咲姉の言葉が、なんとなく胸に刺さった。
 駄々をこねるのも血筋なのか?

 バーべキューもそこそこに終わらせて、片付けが済んだあと、当然のように今度も花火が始まった。
 途中で眠ってしまっていた静奈姉も目をさまして参加する。

 そんなタイミングでふと思い出したように、遊馬兄が、

「そういや、タクミとるーは休みに入ってからデートとかしたの?」

 なんて聞いてくる。

 俺とるーは顔を見合わせて首を横に振った。
 旅行(みたいなもの)はしたけど。

 すると、話を横で聞いていた静奈姉が、

「……デート?」と耳慣れない言葉を聞き返すみたいな変な顔で言った。


「あ、ふたり付き合ってるんだって。聞いてない?」

 遊馬兄が止める間もなくあっさり言うと、静奈姉は茫然とした顔になる。

「聞いてない」

「あ、いや、言う機会が……」

「そっかあ。そうだよねえ、ふたりも高校生だもんね……」

 静奈姉は線香花火を見つめながらちょっと瞳を潤ませて黙り込んだ。
 こんなにめんどくさい人だったっけか。

 と、美咲姉が静奈姉のそばにやってきて、とんとんと背中を叩く。

「お姉ちゃん、大丈夫だよ」

「美咲ちゃん……」

「お姉ちゃんはそういうめんどくさいとこ直せば彼氏なんてすぐできるから」

「……いまめんどくさいって言ったあ!」

 子供かよ。

「……だってめんどくさいもん」

 美咲姉はあくまで辛辣だった。


 そんな流れもあったけど、いつのまにか、遊馬兄と静奈姉は、
 すず姉や美咲姉、ちい姉も交えて、普通に話をするようになっていた。
 
 そうなってしまうと、場はなかなかに混乱して、俺やるーが話題に入り込む隙間もない。

 よだかはよだかで、ユリコさんと何かを話しているみたいだった。

「ね、タクミくん」

「ん?」

「アイスたべたいな。ちょっと買いにいきませんか?」

「ああ、うん」

 俺はちらりとあたりを見た。俺たちの様子を見ていたのはユリコさんだけだった。

 彼女は俺と目が合うと、何も言っていないのに、小さく頷いた。
 それから俺たちは、夏の夜道を手をつないで歩いてコンビニまで向かった。

 火照った体に夜風が気持ちよかった。

 おそろいのアイスを買って(ついでにみんなの分も箱で買って)コンビニを出てから、また同じ道を戻る。
 たいした会話もなかったけど、どうしてか退屈だとは感じなかった。



 戻ってみると、庭は既に静かになってしまっていた。
 
 遊馬兄たちは花火の後片付けをしていて、美咲姉とすず姉はふたりそろって縁側に寝転んでうたた寝していた。

 よだかはどうしているのだろう、と思って姿を探すと、彼女はまだユリコさんとふたりで何か話をしていた。

「いつでもきなさい」とユリコさんが言ったのが聞こえた。

「なんにもできないかもしれないけど、いつでもきなさい」

 そう言って彼女はぽんとよだかの肩を叩いた。
 
 俺はなんとなく空を見上げた。

 星が綺麗な夜だった。

 後片付けを済ませてから、起きている人間だけでアイスを食べた。
 みんなほとんど喋らなかったけど、どこか心地よい雰囲気が流れて、ここからどこまでも広がっていきそうな気がした。

「さて、そろそろ帰ろうか」

 遊馬兄はユリコさんたちにお礼を言ってから、眠ったままの美咲姉を背負った。
 その姿は、いつか見たものと何も変わらない気がした。

 ちい姉はすず姉を揺すり起こして、るーとよだかを連れて、遊馬兄と同じタイミングで出て行った。

 残された俺は、ぼんやりと静奈姉の方を見た。
 
 彼女は静かに溜め息をついてから、困ったみたいに笑った。

「……なにしてたんだろ、わたし」

 俺はどう答えるのが正解かわからなかったから、

「寄り道しがちな血筋なんじゃない?」

 と適当に言っておいた。




 バーベキューの翌日には部活があった。
 
 部室に最初にいたのは部長だけで、他のメンバーがそろうまでかなりの時間がかかった。

「みんな、休み明けに部誌出すって覚えてるのかなあ」

 部長はなんとも不満げだった。

「覚えてますよ、たぶん」

「そっかなあ」

「部長は、書いてるんですか?」

「うん。なかなか好調だよ」

 ちょっと前まで、なんだか落ち込んでいるように見えたのに、今の部長は楽しそうに見えた。

「いろいろ考えることもあるけど、わたしはやっぱり、自分が今書いているものが好きだからね」

 彼女はそういって笑う。

「たとえ誰かが望んでるものと違っても、わたしはわたしが書いてるものが好きだから」

 それから彼女は俺の目を見て、

「タクミくんは?」と訊いてきた。

 俺は少し考えてから、答えた。

「書きますよ」

「どんなの?」

「猫の話かな」

「いつもどおりだね」

 いつもどおりだ。





 で、その部活が終わってから、ゴローの号令で俺と高森は集合させられた。

 なんでも練習曲用にバンドスコアを選びに行こう、という話。
 嘉山には連絡を入れていたらしくて、彼は集合場所にやってきたけど、同時に及川ひよりがついてきていた。

「なんか部外者いるけど」

 とゴローが言うと、「気にしないで」と及川ひよりはきれいに笑った。 

 ツッコミを入れるのも面倒なので、無視することにして、俺たちは楽器屋に向かった。

 バンドスコアを眺めながらああでもない、こうでもないと話しているうちにベースの練習がしたくなったけど、
 その日は夕方からバイトが入っていた。

 とにかく日々は忙しない。





 課題をして、バンドの練習があって、みんなと遊んだりして、バイトをして、
 なんだか急に慌ただしくなった生活の合間に、俺は部誌の原稿を書いていた。

 書きたかったのは猫のこと。

 猫と自分のこと。

 たった少しの気持ちにかたちを与えるために、俺はいくつもの言葉を並べ立てる。
 
 その結果誰にも伝わらなかったとしても。
 それを覚悟のうえで。

 佐伯が、いつだったろう、言っていたことがある。

「そういうの、呪われてるっていうらしいよ」

「呪われてる?」

「うん」

 彼女は少し寂しそうに笑った。

「何かを好きって気持ちは、呪いみたいなものなんだって」

 そうなのかもしれない、と俺は思った。
 そしてきっと、呪いと祝福の関係は、毒と薬の関係に似ている。

 それは祝福と呼びうるのかもしれない。
 そう考えることにした。





 部活のメンバーで新しくできた水族館に行こう、と言い出したのは佐伯だった。

 みんな意外な顔をしていたけど、そういえば俺は、佐伯がそんなことを言っていたのを思い出した。
 みんなでどこかに行きたいね、って。

 そして俺達は、夏休みも中盤に差し掛かった頃、電車とバスを使って本当にみんなで水族館に行った。
 
 途中のコンビニで飲み物を買った時、ゴローが財布に入っていた五百円玉を全部、海外のどこかで起きた地震の義援金に募金するのを見た。
 
 それを見ても、誰も何も言わなかった。せっかくだから俺も財布に入っていた五百円玉を箱の中に入れてみた。
 特に何の感慨も湧かなかった。

 水族館にはなぜかリスがいて、スマートフォンでそのリスを接写することに成功したるーは、
 それからしばらくの間、ラインのアイコンをリスの写真にしていた。

 帰り道の途中で嵯峨野連理を見つけた。彼は付近の海浜公園で、何かの本を読んでいるようだった。
 俺は声を掛けずに通りすぎた。彼はこちらに気付かなかった。

 別の日、俺とるーはふたりで市民プールに行って、子供たちに混じって水泳の練習をした。

 彼女は十メートルくらいは泳げるようになった。





 ある日、部活の前にふと思い立って、東校舎の屋上へと向かった。
 
 そっけないリノリウムの階段を昇った先の鉄扉は、やはり閉ざされたままだ。
 それはそうだ、と思って階段を降りていると、踊り場の窓から、校舎裏にひとりの女子生徒の姿を見つけた。

 その姿が何かとダブって見えて、俺は慌ててそこに向かった。

 階段を駆け下りて、一階の渡り廊下から土足で校舎裏に回る。

 彼女はまだそこに居た。

 なんだか夢でも見ているような気持ちで、俺はその後ろ姿を見つめた。
 いくらか迷ってから、試しに彼女を呼んでみる。

「……こさち?」

 まさか近くに人がいると思わなかったのだろう。
 彼女は驚いたようにこちらを振り向いた。

 そして、俺の姿を見て、息を飲む。

「……浅月、先輩?」

「……」

 顔は、こさちに似ている。
 でも、仕草も表情も、彼女とは違う。



「きみ、もしかして、柚原志乃さん?」

 彼女は怪訝そうに眉を寄せた。

「……どうして、わたしの名前を知ってるんですか?」

「……それについては、お互い様だと思うんだけど」

 なんとなく、視線をそらせずに、しばし向かい合う。

「わたしは、先輩のこと知ってます。文芸部の部誌、読んでましたから」

「……ああ、そうなんだ」

「鷹島スクイのものも。……あれ書いたの、先輩ですよね?」

「……どうしてそう思うの?」

「だって、似てるから。あれ、対置するつもりで別名義にしてたんじゃないんですか?」

「……そういうつもりはないけど」

 そうですか、と柚原志乃は視線を逸らした。


「ここで、何をしてたの?」

 そう訊ねると、彼女は困ったような顔をして、手のひらをさしだしてきた。

「これ。……拾ったんです」

 彼女の右手にのせられていたのは、ちいさな鍵だった。

 俺は思わず笑った。

「……どうして笑うんですか?」

「いや。おもしろいなと思って。きみが拾ったのか」

「この鍵が何の鍵なのか、知ってるんですか?」

「うん。それ、旅する鍵らしいよ」

「……旅?」

「必要としてる人のところに辿り着くんだってさ」

 彼女は、わけがわからない、という顔をした。

「いい景色が見れると思うよ」

 それ以外に、こさちではない彼女にかけるべき言葉が思いつかなかったので、俺は立ち去ろうとした。
 ところを、彼女に呼び止められた。


「……先輩」

 振り返ると、柚原志乃は、たしかに俺をじっと見据えていた。

「なに?」

「わたし、先輩の文章、好きですよ」

「……それはどうも」

「でも、なんだか、文章より、幸せそうですね」

「……まあ、最近は」

「変わったんですか?」

「だろうね」

「……自分を好きに、なっちゃいました?」

 何かにすがるみたいに、彼女はそう言った。

「……そういうわけでも、ないけど」


「じゃあ、なんなんですか?」

 真剣な顔で、彼女はそう訊ねてきた。
 どう答えるべきか、少し考える。

「……俺なんて、いない方がよかったんだって思ってた」

「はい。そういうところ、好きでした」

「うん。そういう奴に好かれるんだ、俺」

「先輩じゃなくて、先輩の文章です」

「……まあ、そりゃそうだ」

「……それで?」

 どんなふうに言葉にすればいいのか、どう言えばうまく伝わるのか。
 そんなことを四六時中考えてるのに、やっぱりうまくは伝えられない。

 巧くないままに、伝えるしかない。


「……俺のおかげで、がんばってこれたんだ、って、そう言われたんだ」

 柚原志乃は、何も言わずに続きを待つ。だから俺も、言葉を続ける。

「だったら、俺なんていないほうがよかったなんて、もう言えないだろ。
 そんなことを言ったら、そいつのがんばりまで、なかったほうがよかったって言ってることになるから」

「……」

「だから俺は、俺を肯定するしかないんだよ、もう」

「……そうですか」

 興味を失ったみたいに、柚原は視線をそらした。

「幸運でしたね」と彼女は言った。

「本当に」と俺は頷く。

「わたし、モーパッサンが好きです。いちばん好きなのは、田園秘話っていう短編。読んだことありますか?」

「ないかな」

「読んでみてください」

「分かった。そのかわりと言ってはなんだけど、きみもその鍵、大事にしてやってくれ」

「……はあ」

「文化祭で、また部誌を出すと思う。読んでくれる?」

「……読みはします。気に入るかどうかは、別の話ですけど」

 正直な子だ。

「うん。そこは、きみの勝手だ」

 それじゃあ、と告げて、今度こそ俺は柚原志乃のもとを離れた。
 今度は彼女も呼び止めなかった。




 嘉山を経由して嵯峨野連理から連絡があったのは、夏休みも半ばを過ぎた頃だった。
 
「おすすめの映画のDVDがあるらしい」と嘉山は言った。
 俺は彼から嵯峨野の連絡先を聞いて、街中のマックで待ち合わせをして、物品の受け渡しを行った。

「わざわざありがとうございます」と言ったら、彼は照れくさそうに笑った。

「映画の趣味が合う奴、意外となかなかいないんだ」

「俺もです」

「それに、きみには助けられたから」

「……何の話ですか?」

「まあ、俺が思ってるだけなんだけどね。きみのせい、ってところもあるけど、きみのおかげってところもある」

 なんだか微妙な評価だった。

「とにかく、まあ、観てみてよ。もしお勧めがあるんだったら、俺にも教えてくれない?」

 そういうわけで俺たちはそれから、男ふたりでレンタルショップに行って、既に観た映画の感想を言い合ったりした。
 そんな日が来るなんて思ってもなかった。





「たっくん! 緊急事態です!」

 と、ある日高森からラインが来て、招集をかけられた。

 学校の近くのファミレスに行くと、ゴローと高森、それから嘉山が深刻そうな顔で待っていた。

「……どうしたの、みんな」

「遅いよたっくん! 聞いて、ゴロちゃんが――」

「待て、俺が話す」

 興奮した様子の高森を遮って、ゴローが真剣な顔で口を開いた。

「実は、文化祭の、有志のステージ発表なんだけど」

「……うん。なに?」

「七月の半ばまでに、申請を出しておかなきゃならなかったらしくてな」

「……はあ」

「……」

「……なに?」

「出し忘れた」

「……ええ」

 さすがに変な声が出た。


 嘉山がわざとらしく溜め息をつく。

「……おまえら、準備悪すぎだろ」

「ゴロちゃんがやってると思ったんだもん!」

「俺もてっきりゴローが……」

「俺はタクミがそこらへんやってくれてるもんだと……」

「なんでだよ」

「いや、タクミだし」

「意味わからん」

 と、しばらくぎゃーぎゃー騒ぎながら、誰が悪い、あれがどうだとぐだぐだの責任の押し付け合いがあったあと、
 
「……で、どうするんだ」

 と嘉山が言った。

「どうするって、どうにかできるの?」

 訊ねると、ゴローが静かに首を振った。

「ヒデに聞いてみたけど、さすがにアウトだって」

「うわ」

「もう枠埋まっちゃったらしいんだよな」

 八方ふさがりか。



 少しの沈黙のあと、俺はなぜだか笑ってしまった。

「……いや、バカだろ。なんだそれ」

「ね、ね! バカだよね、ゴロちゃん」

「人任せにしてたおまえらも同罪だろ」

「だったら嘉山が確認してくれてもよかっただろ!」

「なんで途中参加の俺がそんなこと気にするんだよ!」

 またぎゃーぎゃーとなすりつけ合いが始まった。

「分かった! 分かった!」

 と、収集がつかなくなりそうなタイミングで、ゴローが声を張り上げた。



「来年だ! 来年の文化祭にしよう。そうだよ、それがいい」

 その言葉に、みんなが顔を見合わせた。

「どっちにしても一月や二月じゃろくな演奏できそうになかったんだ。たっぷり一年練習して、来年にしよう」

 肩透かしをくらって腹を立ててはいたものの、その言葉に異論を挟む奴はいなかった。

「……来年」

「来年!」

 ゴローは力いっぱい断言した。
 そういうわけで、俺達のバンド演奏は来年に持ち越しになった。

 そんな顛末を部活の日にみんなに話したら、案の定大笑いされた。
 ひとり部長だけが、「来年、わたしいないんだよね」と、どこか寂しそうに呟いていた。

 みんながそれを聞いて黙ってしまうと、彼女はちょっと嬉しそうに笑って、

「でも、見に来るよ。楽しみにしてる」

 そう言った。俺たちは頷いた。

 ゴローが佐伯に告白したのは、そんな話があってからすぐのことで、彼はあっさり振られてしまったらしい。

「しばらく旅に出るからさがさないでくれ」と言い残してからさらに一週間後、彼は北海道のおみやげを持って俺の家へとやってきた。

「だだっ広い平野を見てきた」

 きらきらと目を輝かせてそう語る彼は、いつもどおり元気そうに見えた。




「リベンジマッチ」を部長が提案したのは、八月のある日のことだった。

「負けっぱなしじゃいられないでしょう?」と、彼女は不敵に笑って、俺達に計画を話した。
 
 例の焼却炉騒動のせいで――つまり俺のせいで――後味の悪い結末になった前回の勝負。

 それをやり直す意味で、第一文芸部に喧嘩を売ろう、と彼女は言った。

「たぶん、勝てませんよ?」と佐伯は言った。

「勝てなくていいんだよ」と部長は言った。

「勝てなくても戦うんだって態度で示さないとね」

「誰に?」

「……及川くんとか、読む人とか」

 なんだか、そういえば部長はいつも、及川さんのことを気にしてばかりだという気がする。
 そういう相手なのかもしれない。

 とにかく、俺達としては異議がなかったから、その話を全会一致で可決とした。

「みんながやる気を出してくれてうれしいなあ」とヒデがやたらとハイテンションだった。





 近くの商店街で夏祭りがあるから、と言って、俺とるーはふたりで遊びにいく約束をした。

 浴衣姿の女の子たちが町中に姿を見せ始める夕方頃に、俺とるーは待ち合わせをしていた。

 彼女は少し照れくさそうにしながら、見慣れない浴衣姿で俺の前に現れた。

「……」

「……おう」

「……なんか言ってください」

「……似合う似合う」

「な、なんかてきとう……」

「いや、なんかびっくりして」

「なにがですか」

「……や、かわいいから」

「……」

 るーは俺の肩をばしばし叩いた。

「なんだよ」

「タクミくんのくせに、タクミくんのくせに」

「なんだそれ」


 喧騒と人混みにまぎれて、俺達は手を繋いで歩いた。
 お互いの声すら聴き取りづらい流れの中で、俺達は話す内容すらろくに思いつけずに、ただ出店を見て回る。

「なんか……」

「……なに?」

「不思議な気分なんです」

「どういう意味?」

「さいきん、ずっと、ふわふわして、夢のなかにいるみたいなんです」

「……夢?」

「夢じゃ、ないんですよね?」

 るーの方を見ると、彼女は視線を地面に落としながら、不安そうな顔をしていた。

 俺は彼女のほっぺたをつねった。

「……なに」

 と彼女は戸惑った声をあげながら俺と視線を合わせる。


「痛い?」

「はい」

「ならよし」

 彼女はむっとした顔でこちらを睨みながら、自分の頬をさすった。
 と、繋いでいない方の手で、今度は俺の頬をつねる。

「……なに」

「痛いですか?」

「痛い」

「おかえしです」

「そんなのよかったのに」

「男の人はホワイトデーのお返しが三倍返しらしいので、わたしも今のうちに三倍返ししておきます」

 と言って彼女は本当に三回つねった。


「あ、バレンタインくれるの?」

「ほしいですか?」

「ほしいよ?」

「なら、がんばります。それまで一緒にいてくれますよね?」

「そうだなあ。チョコがもらえるなら、一緒にいるしかないな」

「わたしとはチョコ目当てだったんですか」

「チョコも目当て、って感じだな」

「ものは言いようですね」

「でもその前に、るーの誕生日か」

「……え?」

「秋生まれなんだろ」

「……あ、はい」

 したいことも、行きたい場所も、いつのまにかたくさん増えてしまった。
 それも、きっと、ひとつずつ消化していって、そのたびに新しい何かが増えていくんだろう。 
 そんな予感があった。





 どんなふうに過ごしていても時間は流れる。
 楽しくても苦しくても、何もかもが過ぎていく。

 なにかのきっかけで大きく変化してしまうこともあるし、
 ちょっとした変化だったはずなのに、積み重なって大きく変わってしまっていたことに気付くこともある。

 ごく当たり前のことだ。
 
 仲の良かった人といつのまにか話しづらくなったり、
 以前は想像もしていなかったような相手と、気付いたら深く結びついていたり。

 それでも時間は、すべて地続きになっている。

 懐かしくなったり、寂しくなったり、変わってしまったことに不意に気付き、悲しくなったり。

 大事だったもの、楽しかった繋がりが、いつのまにか失われていることに気付いて、耐えられなくなることもある。

 過去を現在から切り離すことは困難だし、未来は現在の地続きにある。

 変化は不可避だ。

 だから俺達は、失いたくないものを、しっかりと手のひらで握りしめていく。
 後悔のないように。

 それは俺が、いつか教わったことだ。





 夏祭りからの帰り道、るーを家へと送りながら、俺はこれまでのことを思い出していた。
 
「そういえば、ヒデから出された課題、終わってないや」

 ふと、そんなことを思い出した。
 読書感想文。本さえも、近頃じゃ読んでいなかった。

「わたしは、終わりましたよ」

 るーは得意気に笑った。

「何の感想文?」

「笑いませんか?」

「笑われるような本?」

「ううん。……銀河鉄道の夜、です」

「そっか」

 なんとなく、空を見て、不安になる。
 あの話の結末。ジョバンニが旅の終わりに辿り着いたとき、カムパネルラは彼の傍にはいなかった。

 握ったままの手に、少し力をこめる。



「ねえ、るー」

「なに?」

「頬をつねってもらえる?」

 彼女は変な顔をして、それでも俺の頬をつねってくれた。

「痛いですか?」

「うん」

「……それで、タクミくんは、何を読むんですか?」

 うーん、と少し考える。

 思いついたのは、ふたつ。

「よだかの星」「田園秘話」

「……たしか、あれ、本なら何でもいいって言ってたっけ?」

「はい」

「……ふむ」

 じゃあ、ディキンソン対訳詩集、ってのもなしではないんだな、と、ぼんやり思った。


 そんなことを考えているうちに、るーの家に着いてしまった。

 彼女はそこで立ち止まって、こっちを振り返る。

 なんとなく、言葉をなくす。

 何かを言うべきなのだろうけど、何も言うことができずに、お互いに向かい合う。

 しばらくの沈黙のあと、じれたみたいに、「えい」と声をあげて、るーがこっちに飛び込んできた。

 飛び込んできた軽い衝撃を、戸惑いながら受け入れて、離れようとしない彼女の背中に腕をまわした。

「……なに?」

「なにがですか?」

 いたずらっぽく、彼女は言って、楽しげに笑う。
 
 また、言葉をなくす。

「……なにやってるんだろう」

「なにやってるんでしょうね?」

 くすくす笑う。
 かなわない。
 本当に、この子には。



 至近距離からこちらを見上げる、るーの顔。
 
 それをまだ、不思議だと感じてしまう。
 奇跡みたいに思えてしまう。

 春には想像さえしていなかった。

 一緒に歩いて、手を繋いで、どこかに出掛けて、そんなふうに過ごせるなんて。

 だからだろうか。
 とてもうれしいのだ。

 本当は、ときどき、泣き出したくなるくらいに。

 沸き立つみたいな衝動に押されて、静かに俺は、彼女に近付いていく。

 視界が染められるまえに、目を閉じた。

 たった数秒の出来事を、はてしなく長く感じる錯覚。

 顔を離してふたたび視線をかわしたとき、るーはなにかをごまかすみたいに俯いた。
 暗がりのなかで、彼女の頬が赤く染まっているのがわかる。

 俺の心臓も、遅れて激しく動き始めた。



「……あの、タクミくん」

「……なに」

「その、なんか……慣れてません?」

「……それ、今言うこと?」

「いや、でもなんか、いま、すごく自然だったというか」

「……そんなこと、ないと思うけど」

「本当に?」

「……初めてだよ、こんなことしたの」

 ふてくされたみたいな気持ちでそう答えると、るーはきょとんとした。
 それから、何かに気付いたみたいに笑う。

「そう、ですよね」

「……どうしたの?」

「ううん。わたし、すごいこと知ってますよ」

「……なにそれ」

 照れ隠しみたいに、るーは笑った。

「……ぜったい、内緒です」

 そう言って彼女は、本当にうれしそうに笑った。




 新学期になって、俺とるーは一緒に登下校をするようになった。
 別にどっちが言い出したわけでもなければ、約束をしたわけでもない。

 ただなんとなく、そういうふうになった。

 夏が過ぎたあとも、俺たちはかわらず文芸部員で、学生で、付き合っていた。
 まるでこれまでもずっとそうだったみたいに、当たり前みたいな感じがした。

 そうじゃない日ももちろんあった。一緒に帰れない日も、他の用事がある日もあった。
 特に理由はないけど、一緒に帰らない日もあった。
 
 そんな俺たちの振る舞いを、みんながからかったり祝福したりしながら、生活の一部みたいに受け入れてくれた。



 先の見通しがつかないことも、まだまだある。
 それだってどうにか考えて、行動して、やっていくつもりに、いつのまにかなっていた。

 笑ったり怒ったり、落ち込んだり相談したり、先のことを計画したりしながら、
 とにかく、俺とるーは、一緒に学校へ向かって、一緒に帰った。

 手をつないで、鞄におそろいの奇妙なくまのキーホルダーをつけて。
 急に不安になったときには、繋がれた手のひらに、そっと力をこめてみる。
 彼女はいつでも、返事をするみたいに握り返してくれる。
 
 だから俺も、彼女が力をこめたときには、いつも握り返す。

 それだけのこと。



 それがどんなにうれしいか、彼女はわかっているんだろうか。
 たぶん、わかっていないんだろう。

 そんなことを思いながら横顔を見ていたら、彼女は不思議そうに首をかしげる。

「なんでもない」と言いながら、俺は笑う。

「そうですか?」と気にしたふうでもなく、彼女も笑う。

 ある日、帰り道の途中で通り雨に降られて、俺たちは近くのバス停に逃げ込んで雨宿りをした。

「空が明るいから、きっとすぐに晴れるな」

「ですね」

 俺たちは、濡れてしまった髪や制服をタオルで拭いながら、雨があがるのを待った。
 本当に、あっというまに、空は晴れた。


 打ち付けるような雨粒の音が消えると、世界は嘘みたいな静けさに包まれていた。
 濡れたアスファルト、街路樹の葉に留まる滴、影を払うような夏の終わりの太陽。

「きらきらしてる」

 ひとりごとみたいに、るーは言う。

「……うん。きらきらしてる」

 ばかみたいにオウム返ししたら、るーは俺の顔をじっと見つめてきた。

 目を合わせて、数秒、黙りあったあと、
 俺たちは顔を見合わせて、笑う。

 そうして、鮮やかできらきらした雨上がりの街を、俺たちはまた、手を繋いで歩き始めた。

おしまい

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2017年01月10日 (火) 02:53:44   ID: ReI_8TmM

前の屋上さんメインのといい感じに合ってて
最高でした

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