女「悪夢、あるいはのんびりとした羊の夢」(14)

このところ、毎晩のように私は殺される。

夢の中で。

私はその夢の中で、見えない『何か』によって首をへし折られ、そして毎回自分の部屋から『どこか』へと運ばれる。

どこへ運ばれるかはわからない。その前に必ず目が覚めるから。

目が覚めた私は汗にまみれてじっとりとしたパジャマの感触を気持ち悪く思いながら体を布団から起こす。不思議と恐怖はなく、ただおぞましいほどの不快感だけがずっと残る、そんな毎朝が続いている。

何が原因かと問われれば、私は「わからない」と答える。

実際、何が原因なのかは私にはとんと見当がつかない。

「ただ、原因は私にあるんじゃなくて別の場所にあると思う」と私は付け加える。

すると、尋ねた人は揃って問い返す。「どうして、そう思うの?」と。

だから、私はそれが当たり前でごく自然な事の様に答える。

「だって、私には原因となる理由がまったく思い浮かばないから」

「じゃあ、それはあなたではなく、他の人に原因があるのね?」

それもまた私にはわからない。

「もしかしたら、それは幽霊の仕業かもしれないわね。悪霊ってやつ」

そう意見を述べたのは、私の友達である『女友』だ。彼女は何故だか得意気にそう述べた。さっきまで顔に浮かべていた心配の色も、いつの間にかどこかへ旅に出てしまったようだった。

「最近、何か悪霊と関わった事はある?」

最近、男とセックスした事はある? と聞くのとまったく同じ口調だった。私は両方の意味で首を振る。彼女と違って私はまだ処女だった。出来る事なら早く卒業してしまいたいとも思うのだけど、それに見あうだけの機会と人がまだ現れてないとも思う。それは初めから割れているティーカップを大事に戸棚の奥にしまって取っておいてる様なものよと彼女は言うが、私にはその感覚も未だよくわからない。

「じゃあ、悪霊じゃなくてもいいや。それっぽい何か。幽霊や呪いとか、そういったものに関わる全ての事に心当たりは?」

それについては一切ない、と私は答える。ただ、幽霊や呪いや心霊以外での心当たりなら一切ないという訳でもなかった。もしもきっかけがあるとしたら、恐らく『あれ』がきっかけになったのではないだろうかと私は考えているものがある。

「少し長くなるけど、聞いてもらってもいい?」

私が確認を取ると、彼女は巣穴から顔だけ覗かせたアナグマの様にゆっくりと頷いた。「もちろん」

「遠慮なくどうぞ。好きな時に始めて、好きな時に終わって」

その口調にはどこか好奇心の代わりとして幽霊を玩んでいる様な感じがあった。その言葉を聞いた時、理由は特にないけど、彼女には世界の終わり以外に怖いものがなさそうに私には思え、羨ましがる代わりに私は小さく息を吐き出した。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


私が生まれたのは長崎県で、高校三年間を過ごしたのは徳島県だった。父親の転勤により引っ越す事になったのだけど、そこは上にドがつくほどの田舎で、近くのコンビニに行くにも車が必須の場所だった。空気は美味しく景観は綺麗だったけど、それだけの場所だった。交通の不便さがもたらしたのか、あるいはここだけ時間の流れでも止まっているのか、流行やお洒落というものにはまるで縁のない場所だった。そして、私はそれ以外のものについて、ろくに関心がなかった。

私の高校生活の思い出は山の霧の中にぼんやりと溶けて吸い込まれ、青春の一頁は川の流れの様にゆるやかに流された。映画やカラオケに行くにも一時間以上かかる為、それらのものとは必然的に疎遠となった。文化祭にしろ体育祭にしろ生徒数が少なかったから逆に空しさと空虚さだけが際立った。卒業した後に残ったのは、通学途中の暇を紛らす為だけに買った七百冊以上の文庫小説で、それらは私の中で血にも肉にもならず、ただ空っぽの卒業アルバムと擦りきれた通学用のスニーカーだけがゴミとして残った。丁度二年前の事だ。

私は田舎で緩やかに生きるより、都会の荒波の中で忙しなく生きる事を強く望んだ。蛙と鈴虫の合唱の中で何か意義のある重大な事を語らうより、まったく意味も役にも立たない事をビル群と雑踏の中で笑いながら話し合いたかった。だから、大学に行くなら岡山か京都か東京と決め、そして三年間の努力の末にそうなった。周りからは揃って反対されたが、私は周囲のそれらを振りきって東京の大学へと進学した。

住むところは父親が決めて、父親が全ての決定をした。そこは大学生が住むにはやや豪華と思えるマンションで、部屋は広く、外観は小綺麗で、そしてセキュリティが備わっていて、なおかつ駅に近かった。父親は私が東京の大学に進学するのに一番反対した人だったが、私の事を一番心配した人でもあった。

「家賃と光熱費は全部出してやる。代わりに、生活費はアルバイトをして自分で稼げ」

無理を押しきって我を通した私に対する、それが父親の筋だった。私はそれを受け入れ、そしてそこで一年と半年ほど過ごした。つまり、約束を破ったのだ。私には欲しいものがピザの上にのっているチーズの様にたっぷりとあったし、その部屋は私が一人で住むには広すぎた。私はこっそりとそこのマンションを解約して、家賃の安いアパートに引っ越しをした。浮いた分を服や飲み会の費用に充てるつもりだった。それが五ヶ月ぐらい前の事だ。

引っ越した先のアパートの部屋で、私は奇妙で奇怪な箱を見つけた。それが全てのきっかけだったのではないかと私は考えている。

とりあえず、ここまで

期待

その箱は、電子レンジぐらいの大きさだった。形も長方形をしていて似ている。ただし違うのは開き戸も取っ手もないという事だった。蓋もなければ、蝶番もない。ただの箱だった。そして、それは押し入れの奥にひっそりと置いてあった。

不思議な事に、私はその箱を見た記憶がない。引っ越しをしてきた時に押し入れもしっかりと確認したはずなのに、その箱に見覚えはまったくなかった。あるいは私が忘れてるだけで、本当は初めからあったかもしれないけど、少なくとも私にはそうは思えなかった。

その箱の存在に気が付いたのはつい一ヶ月ほど前の事だ。春物の洋服を引っ張り出そうとしてそれに気が付いた。引っ越してから百日以上過ごして、私はその箱が押し入れにあった事を初めて知った。

隅にぴったりとくっつくように置かれていたので、最初はこのアパートの備品か何かだと思った。でも、軽く触ってみるとそうでない事がわかった。その箱は固定されてなくて持ち上げる事もずらす事も出来た。配線やコードが繋がっている訳でもなかった。

不思議に思った私は、その奇妙な箱を部屋の中央にまで持っていってじっくり観察してみた。色は小学生の男児用ランドセルにかなり似ていて、黒色で漆を塗ったような光沢があった。箱の上部分にはアルファベットとも平仮名の走り書きともつかぬ文字らしきものが二行ほど白いペンキで書かれていて、こちらは判読不明だった。持っていたスマートフォンで何ヵ国語か検索した結果、一番それに近いのはラテン語という事だけがわかった。しかし、ラテン語ではない。

そして、それ以外に箱には何も特徴らしいものがなかった。重さはどうなんだろうと体重計に乗せてみると目盛りはおおよそ十七キロあたりを指した。

こんこん、と軽くノックする様に叩いてみると、意外と軽い音がした。中は空洞になっているみたいだった。持ち上げて揺さぶってみると、微かに布がこすれる様な音がして重心がほんの少しだけ左右にずれる。中に何かが入ってて、それは大きめの物だと予想が付いた。音からして、多分、布にくるまれてるか、あるいは緩衝材も一緒に入っているんだろう。壊れ物なのかな、と私は推理した。

当たり前の事かもしれないけど、私はその中身が気になった。そして、開ける方法はないかと、継ぎ目やネジ穴を探した。ほどなくしてそれは見つかった。よく見なければわからないような細くて薄い継ぎ目が箱の側面、上から五センチぐらいの所に真横についていた。それはぐるりと回って箱全体を一周している。開けるとしたら、恐らくここからこじ開ける様にして開けるのだろう。

開ける箇所も開ける方法も大体判明したところで、私はホームセンターで昔買った簡易工具箱を取り出し、そこで不意に手を止めた。

果たして本当にこの箱を開けていいのだろうか?

開けて中身を見てみたいという気持ちはあるし、その手段も私にはあった。多分、細いマイナスドライバーか何かを継ぎ目に差し込めばテコの原理でこじ開けられるはずだ。だけど、私はここでまたふと自問した。

本当にこの箱を開けてもいいの?

台所に行って私は冷蔵庫からポカリスエットの二リットルボトルを取り出し、それをコップへ少量注いでから冷蔵庫に戻した。コップを片手に部屋へと戻ってきて、しばらく箱を眺めてから一口だけ含み喉を通過させる。

目の前の箱は「開けて欲しい」と私に言っている様な気がした。だけど何故だかパンドラを思い出した私は、その態勢のままじっと箱を見つめ続けた。箱を開けるまでパンドラは幸せだった。そして、その幸せがずっと続くと信じていたはずだった。

パンドラは箱を開けて不幸になった。でも、今の私はどちらかと言えば初めから不幸だったと思う。なら、開ければ逆に幸せになるのだろうか?

それは楽観に基づいた予想的観測でしかない様に私には思えた。

例えば元旦に素晴らしい初日の出を見たとしよう。それは言葉に出来ないほど綺麗で、生涯において最高の景色かもしれない。その時、私はきっとこう思うだろう。今年は良い年になるに違いない、と。だけど、最悪の一年になる可能性は十分に有り得た。

私の過ごした二十年間は常々こんな感じだった。カレンダーはいつも綺麗で美しかったけど、中をめくってみるとそこにはろくな思い出がなかった。特に高校時代は際立っていて、悪い思い出もなければ良い思い出もなかった。つまり、何も存在していなかったのと変わらない。私の高校三年間は中身がなくて、それは過ごしても過ごさなくても同じものだと言えた。私はその三年間を無駄に過ごした訳じゃなく、その三年間を『生きてすら』いなかった。

そんな事を考えていたら、「あるいは」と、不意に箱が喋った気がした。「もしかしたら本当は、君には思い出があったかもしれない」

箱は小さく震えると、伸びをするかのように少しだけ膨らんだ。そして、私にこう言うのだった。

「君が僕の存在にまったく気付かなかった様に、君の高校三年間には美しい情熱や素敵な恋愛があったかもしれない。今、僕の中に何が入っているのかを君が知らない様に、君はその思い出を忘れているだけなのかもしれない。それは君自身にはわからない。わかるとしたら、それは僕だけだと思う」

不意に、私の『生きていない三年間』は箱の外にあって、箱の中には私の『生きている三年間』が詰まっているんじゃないかという、そんな気になった。

そしてそれは麻薬の様に甘くて危険な考えの様に私には思えた。つまり、この箱は麻薬によく似ていた。箱の形をしているだけなのかもしれない。

「開けて欲しいな」

箱がまたそう言った。私は、今度は浦島太郎を思い出してそっと首を振った。箱はまた少し震えた後、やがてもこもこの羊となって物悲しそうな目を私に向けた。

「君は僕を開けなくちゃいけないんだよ」

羊に変わった箱はそう私に告げた。

「どうして?」と私は尋ねる。「やっぱりあなたは私の知らない、私の素敵な思い出なの?」

羊はメェと小さく鳴いてのんびりとあくびをした。それからまた悲しそうな瞳を私に向ける。

「君が君でいる為に必要な事だからさ」羊はそう言った。「君は僕の事を思い出の一部かもしれないと考えているけど、それは半分合っていて半分間違いなんだ。僕は君の思い出の全部であり、君は僕の思い出の一部でもあるんだ。僕と君は同じ時間を共有してないけど、僕と君は同じ存在なんだよ」

羊は私の目を見ながら、いかにも眠たそうにそう語るのだ。

「だから、私が開けるの?」

重ねて私は質問した。「それはあなたの為に? それとも私の為に?」

羊はまたメェと鳴いて少しだけ震えた。

「僕の為にする事は君の為にする事だし、君の為にする事は僕の為にする事だよ。だから、結局は同じ事なんだ」

「だけど、あなたは私の為にこれまで何もして来なかった。これはフェアじゃないと私は思う」

羊は小さく頷いた。

「確かに。でも、僕は自分で自分を開けられないから、君に頼むんだ。君が開けない限り、僕は永遠にこのままだ。だから僕は君の力を必要としているし、そして君も僕の力を必要としている。何故なら、僕は君の未来そのものだから」

私は冷たく反論した。

「未来は私のもので、あなたのものではないわ」

「そうだね。確かに僕のものじゃない。未来は君のものだ」

羊は下を向くと器用にカーペットをめくって、むき出しになった部屋の畳を一口かじった。それを口の中でゆっくりと咀嚼し終えてから、ついでのように私に答えた。

「でも、僕と君は同じ存在なのだから、結局は僕のものなんだよ」

私はその言葉に納得しなかった。「過去はともかく、未来は私だけのもののはずよ。私は私の未来の為に生きていて、あなたの為には生きていない」

「そうかもしれないし、あるいは違うかもしれない」

羊は眠たそうにそう答えた。そしてまた、悲しそうな瞳を見せた。

「でも、僕たちは協力しあえばお互い幸せに生きていけるし、そうしなければいけない理由も実はある。それを君は知らないだけなんだよ」

私はテーブルの上に置いてあったコップを手に取ると、残っていたポカリスエットを全部飲み干してから、台所に向かった。コップを洗いながら、羊に向かって首だけを向ける。

「それなら、私はその理由を知らないままでいいし、あなたに対してはごめんなさいとしか言えないわ。やっぱり私はあなたに協力出来ない。私の人生は私だけのものにしたいから」

そう言うと、羊はいかにも残念そうな目を私に見せた。そして、またメェと鳴いて小さく震えた。気が付くと羊は箱に戻っていて、そして私はそこで目を覚ました。

いつの間にか眠っていたみたいだった。コップは床ではなくテーブルの上に置いてあったし、そこにはきちんとポカリスエットが残っていた。私は台所ではなく部屋にいて、その中央に鎮座している箱をもう一度眺めた。

箱は確かにそこにあった。何も変わらないまま。つついてみても、羊になる事もなく、もちろん蛙にもならない。

私は少し迷った末に、その箱を結局捨てる事にした。燃えないゴミの日にそれを出した。そして、それから一週間ぐらい経過した頃から、私は悪夢を見る様になった。

きっかけはやはりあの箱だった様に私には思えるのだった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


箱にまつわる話を私が終えると、『女友』は五年前からずっと同じ事を聞いていたような顔を見せて、持っていた煙草に火をつけた。軽く吸い込み、口から細長い息を吐き出す。

「で、結局、その箱は何だったの?」

「わからない」

私はそう答えるしかなかった。わかっているものをわからないと答える事は出来るけど、その逆は私には難しい。

大学のキャンパス内をぼんやりと眺めながら、『女友』はさも今思い付いたかのように口を開いた。

「ひょっとして、その箱はお守りみたいなものだったのかもね」

私は小さく頷いた。「ひょっとしたら、そうだったのかもしれないね」

「でも、あなたはそれを捨ててしまった。だから、お守りの効果が消えて、悪霊が部屋に寄ってくる様になり、あなたに悪夢を見せる結果となった。……一応これで筋は合うわね」

筋だけなら、と私は思ったがそれは口には出さなかった。あの箱自体が悪霊めいた、私に害なす物だったという可能性を私は捨てきれないでいた。

「それで、その箱の行方は?」

彼女が尋ねてきたので、私はまた首を振った。「わからない。多分、もうゴミ処理場まで持っていかれて処分されたと思うけど、実際どうなったのかまで私は知らない」

「あなたって、知らない事やわからない事だらけなのね」

彼女が冗談っぽい口調で呟いた。「その内、自分が誰かもわからなくなりそう」

「あるいはそうかもしれないね」夢に出てきた羊の様に私は答えた。彼女は向こうを向いて煙草の煙を吐き出していた。それはあの時の羊の様に実体のない白色の塊だった。空気の中に溶け込む様にしてそれは消えていった。

とりあえず、ここまで

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