男「もし彼女と出会わなかったら」(33)

隣の部屋からガラガラと網戸を引く音が聞こえた。
僕はすぐさま冷蔵庫から発泡酒を取り出し、ベランダに出た。
彼女が折りたたみの椅子を出し、先にビールを開けていた。

男「こんばんは」

彼女「こんばんは」

男「最近暑いですね」

彼女「ねー。 お日様張り切りすぎ」

男「蚊取り線香焚いてます?」

彼女「切らしちゃった。 焚いてー」

男「はい」

彼女「でもさ、暑いのっていいよね」

男「えー?」

彼女「花火大会が、暑くなかったらどう? 夏祭りが暑くなかったらどう?」

男「快適でいいじゃないですか」

彼女「そんなの風情が無い!」

男「そうですかね? 冬に花火をやってもそれはそれでいい気がしますけど」

彼女「あ、それもいいかも」

彼女「でも、それとこれとは話が別だよ」

男「そうですかね?」

彼女「あ、花火!」

男「ほんとだ」

彼女「今日やってたんだ……」

彼女はベランダの柵から身を乗り出すようにして花火を見た。

男「でもショボいですね」

彼女「うーん……今日お酒飲むんじゃなかったなぁ」

男「?」

彼女「車出せない」

男「飲んでなくてもどうせ間に合いませんよ」

彼女「近づくことに意味があるの!」

男「……」

男「なら、少しだけ近づいてみます?」

彼女「え?」

男「散歩がてら」

彼女「……いいね! すごくいい!」

男「じゃあ表で待ってます」

彼女「はーい!」

財布と携帯をポケットに入れ、ほんの少し髪を整えて外に出ると既に彼女は待っていた。

彼女「遅い!」

男「早いですね」

彼女「早く! 花火終わっちゃう!」

男「どうせあと一時間ぽっちじゃろくに近づけませんよ」

彼女「でも急ぐほど近づける」

男「じゃ、走りますか」

彼女「それは嫌」

男「そうですか」

彼女は急かしたくせに歩調はゆっくりで、しかも花火を見てすらいなかった。

男「遅いですよ」

彼女「焦る必要は無いよ」

男「さっきと言ってることが違う!」

彼女「さっきとしたいことが違うからだよ」

男「じゃあ何がしたいんですか」

彼女「散歩」

男「……」

彼女「本命は来週の花火だから」

そう。
来週は県内で一番大きな花火大会があるのだ。
彼女は見に行くに決まってる。
僕は思い切って聞いた。

男「……誰と見に行くんです?」

彼女「一人で」

良かった。
でもまだだ。
喜びと不安を、等しく大きく抱きながら僕はもう一つ思い切った。

男「……僕も着いてっていいですか?」

彼女「え、着いてきてくれるの?」

男「……もし良ければ」

彼女「やった! 嬉しい!!」

男「楽しみにしてます」

彼女「私も」

男「でもいいんですか?」

彼女「いいんですよ」

男「ではお伴させていただきます」

彼女「頼みます」

男「さっきから花火鳴ってないですね」

彼女「言われてみれば。 終わっちゃったのかな」

男「そうみたいですね」

彼女「あ!」

男「なんですか?」

彼女「百円拾った!」

男「良かったですね」

彼女「落とし主には悪いけど、横領しちゃおう」

男「捕まっても僕のことは話さないでくださいね」

彼女「いや」

男「そんな」

彼女は自販機に拾った百円を入れてジュースを買い、勢い良く飲むと缶を僕に渡した。

彼女「山分けだ」

男「えっ」

彼女「共犯だからね。 山分け」

男「……じゃあ、どうせ共犯なら取り分貰います」

彼女「ほらね」

男「?」

彼女「遠くの花火大会に近づくことには意味があった」

男「意味ってこのジュースですか?」

彼女「そう。 とにかく動けば、良いことがあるんだよ」

男「結果論ですよ」

彼女「まぁ悪いことがあることもあるけど。 『やらずに後悔よりやって後悔』って言葉はとかく否定されがちだけどさ」

男「はい」

彼女「でも、やらなきゃ良いことが起きる可能性が無いじゃん」

男「それは詭弁ですよ。 駄目だったときのデメリットを無視してます」

彼女「駄目だったときのデメリットなんてね、自分の気持ち一つなんだよ」

男「?」

彼女「やって駄目だったら、『あちゃー駄目だったか! まぁこれも経験だよね!』でいいんだよ」

男「うーん……」

彼女「でもやらずに駄目だったら、その経験すら得られない」

男「……まぁケースバイケースじゃないですか」

彼女「それにね、やらなかったときの後悔の方が、長く残るんだ」

男「そうですかねぇ」

彼女「経験上ね」

男「そう言われたら何も言えないです」

彼女「だから私は自分の気持ちに正直に動くことにしてるの」

男「……」

よく聞くありきたりな言葉だったが、なるほど彼女はそんな感じだ。
改めて考えると、なかなか難しいことだなと思った。

彼女「だから、良い機会だから言っちゃおうと思う」

男「何を?」

彼女「私と付き合って」

男「!」

彼女「駄目?」

男「……先に言われちゃいましたね」

彼女「それがやらなかった後悔だよ、君!」

男「なるほど……」

どっちかがベランダに出れば片方もベランダに出る。
そして今日あったことを話し合う。
僕と彼女はそんな関係だった。
僕はもちろん、彼女の方もかなり高確率で好意を持ってくれているだろうと思っていたのに、僕は言い出せなかった。
これが僕と彼女の差だと思い知った。

男「じゃあ、これからは恋人ということで」

彼女「うん!」

男「まさか今日こんな良いことがあるとは……」

彼女「これも、私のモットーに則ったご利益!」

男「結果論ですよ」

彼女「あやかったくせに」

男「そうですね」

男「バイトのシフトを聞いておきたいんですけど」

彼女「恋人同士なんだから、敬語はやめて!」

男「どうしてです?」

彼女「私がそうしたいから!」

男「わかった。 君の休みの日を知りたい」

彼女「普通に土日だよ」

男「まぁそうだろうと思ってた」

男「恋人同士ということで不躾に聞いてみていい?」

彼女「何かによる」

男「どうしてフリーターやってるの?」

彼女「おお、聞きにくいだろうに、よく聞いてくれた!」

男「君はいいとこの大学出てるのに」

彼女「……フリーターには、二種類ある」

男「二種類?」

彼女「確固たる目標を持ってるフリーターと、社会に出たくないだけのフリーター」

男「うん」

彼女「私は後者」

男「後者かい!!」

彼女「これも自分の気持ちに正直になった結果!」

男「やっぱり見直した方がいいんじゃ」

彼女「そういう気になったら見直す」

男「なるほど一貫している」

彼女「じゃ、来週楽しみにしてる!」

男「うん。 おやすみ」

彼女「おやすみなさい!」

僕達がこの日カップルになったことで、後に世界は救われる。
結末は驚くほど陳腐だけど、それでも僕達でなければ地球は滅んでいたのだ。

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彼女「だいぶ出遅れちゃった」

男「そうだね。 もう車停められないかも」

彼女「とにかく急ごう。 早く乗って!」

男「はいはい」



彼女「うわー車多いなぁ」

男「あ、あそこの札持ってるおじさん」

彼女「駐車場貸してくれるみたいね」

男「2000円でね」

彼女「高い」

男「ま、仕方ない」

男「あ、花火始まっちゃった」

彼女「大変! 急げー!」

男「ここからでも見えるし、そんなに急がなくても」

彼女「いいから走って!」

男「暑いよ」

彼女「遅いよ!」

会場である川の土手に着き、僕はビニールシートを広げようとした。

彼女「ちょっと! 何やってるの!」

男「え、ビニールシートを広げようと」

彼女「まだまだ近づくよ!」

男「これ以上は先客でめちゃくちゃ混んでるよ。 ここでいいじゃん」

彼女「駄目!」

男「座れないよ?」

彼女「関係無いね!」

男「でもさ、落ち着いて楽な格好で見たくない?」

男「近づきたいならもっと早く来て場所取りすべきで、後発の僕らは贅沢言っちゃいけないよ」

彼女「覚悟が足りないね」

男「覚悟て」

彼女「花火はね、近づくほど良いんだ。 花火を見に来たなら、座れなくても人混みに押されてでもベストポジションを抑えなきゃ駄目なの!」

男「えー」

彼女「楽して花火を見ようなんておこがましい! わかったら行くよ!」

男「はいはい」

人混みをかき分けて、他人の汗ばんだ身体が自分に触れることに顔をしかめながら、必死に彼女を追いかけた。

男「ちょ、早いよ」

彼女「もー!」

彼女は僕の手を掴んで、引っ張った。
初めて彼女と手を繋いだことを喜ぶ余裕も、リードされていることを自嘲するも余裕も無く、彼女に引かれるがままに進んだ。

彼女「ここが無料で観られる中では一番近い場所!」

男「多分今日本で一番暑い場所じゃないか」

彼女「その分すごいよ!」

人混みをかき分けることに夢中になるあまり、花火を観るためにここに来たということを失念しかけていた。
さっきから上がっている花火を、改めてちゃんと観た。

男「おぉ……」

彼女「すごいでしょ!」

男「確かに……これは……」

ほぼ視界全てを埋め尽くす色とりどりの花火に僕は圧倒された。
大きい花火が上がると、目をすぼめなければならない程の明るさだ。

男「あのオレンジのデカい花火、好きだな」

彼女「色気は無いけど圧巻だよね」

男「うん」

男「首痛い」

彼女「……」

痛くないはずはないのに、彼女はそんなことは気にならないほど魅入っており、感動はしてもそこまでではない僕は首をニュートラルな角度に戻して一息ついた。
辺りを見回すと、皆が皆上を見ているのがなんとなく可笑しかった。
しかし、その中で上を見ていない人がいることに気がついた。
いや、花火も観ているが大部分は周りを見ている。
初老の男で、少し腹が出ていた。
カップルや家族がほとんどの中で初老の男が一人でいることと、上を見ていないことが少し異質で、気になった。

男はとても嬉しそうに、少なくとも僕にはそう見える表情で、周りを見ていた。
そして時折花火を観るときは、満足げだ。
男と目があった。
男は顎をくいっと上に突き出し、僕に花火を観るよう促した。
少し首の痛みが治まった僕は再び花火を観た。
やっぱり綺麗だ。
それから首を下ろすことはなかった。

男「……」

彼女「……」

男「……すごかった」

彼女「うん。 毎年観てるけど、何度観ても圧倒される」

男「君のおかげで良い物が観られた」

彼女「感謝して」

男「ありがとう」

彼女「そこまで言われるようなことはしてない」

男「どうしろと」

彼女「ひっそりと、胸の中で小さく感謝して」

僕はひっそりと、胸の中で小さく感謝した。

彼女「私についてくれば間違いないんだよ!」

男「それはどうかな。 今回はたまたまかも」

彼女「たまたまじゃないことをこれから証明する」

男「期待してる」

彼女「それにしても暑い! 人が多い!」

男「君が飛び込んだんだよ」

彼女「花火が終わったらただただしんどいだけ」

男「わがままだなぁ」

彼女「スターかキラー欲しい」

男「マリオカート?」

彼女「こいつら全員弾き飛ばして進めたら爽快だろうなぁ」

男「口が悪いよ」

彼女「暑いんだもん」

男「そういえばさ」

彼女「うん?」

男「さっき僕らの側に、花火観てないおっさんがいたんだよ」

彼女「こんなど真ん中まで来て?」

男「花火も観てたけど、大部分は周りの人を見てた」

彼女「ふーん……」

男「なんとなく気になって見てたんだけど、あのおっさんは何だったんだろう」

彼女「あれじゃない?」

男「なに?」

彼女「花火師」

男「花火師?」

彼女「自分が作ったものに感動してる皆の姿を見るのがその人の生き甲斐なんだよ。 きっと」

男「花火師って打ち上げには携わらないの?」

彼女「知らないよそんなの」

男「でも、言われてみればそんな気がしなくもない」

彼女「多分その人は私達以上に感動してたんじゃないかなぁ」

男「……」

もし、彼が花火師だとして、今日の観客を見に来ていたとして、彼が長い期間作ってきた花火に皆が歓声を上げる瞬間は、どんなに感動することだろう。
花火師のことなんか何も知らないから単なる想像でしかないが、羨ましいと思った。

男「……こういう仕事、したいな」

彼女「花火師?」

男「いや花火師になるには僕には花火に対する情熱が足りない」

彼女「じゃあどんな仕事?」

男「んー……人を感動させる仕事」

彼女「ぼんやりしてるなぁ」

男「そんで、僕は感動してる様を見たい」

彼女「じゃあ私は感動してる様を見て感動してる君を見たい」

男「なんだそれ」

花火デートを終え、僕たちはアパートに戻り、それぞれの部屋に帰った。
そして、またベランダに出て二人でお酒を飲んだ。
部屋に呼びたかったが、それはまだ早い気がした。
それはきっと彼女も同じで、災害時には簡単に破れるらしい隔て板一枚分の微妙な距離が、嬉しかった。

その後僕たちはデートを重ねた。
いい歳して二人でクワガタを獲りに行った話や、海で泳いだ帰りの車でキスをした話があるが、地球を救うことと直接関係がないので割愛することにする。

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