モバマスの高峯のあが話し手、モバPが聞き手となって、冷戦時代に行われた宇宙開発のお話をするSSです
最初と最後だけ地の文あり
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1437391821
「今戻りました」
午後11時、事務所の室内に男性の声が響く
ただ、その挨拶に対し返事は求めていないらしく
男性は室内を見回すこともなく自分のデスクに向かう
深夜とも言えるこの時間、誰かが居残っているとは思っていないのだろう
だが
「あら、プロデューサー、こんな時間まで仕事かしら?」
理知的でクールな声が響き
「……っ!?」
慌ててその声のした方へ顔を向ける
そこには
「の、のあさん…… でしたか」
彼の担当アイドルの一人である、高峯のあが居た
窓際に佇み、月を背負うその姿に、男は美しさと少しの畏怖を覚えながらも
「どうしたんですか? こんな時間まで」
どうにか言葉を返す
男のその問いに、高峯のあは一瞬逡巡し
「そうね……」
「あれを観ていた…… そう答えるのが適当かしら?」
そう言って、月を指差した
「月…… ですか?」
高峯のあの含みの在る答えに、男は少し困ったように相槌を打つも
高峯のあは軽く笑みを浮かべ
「ふふ…… 外れ、ではないけれど当たりでもないわね」
そう返す
「……?」
「それは――」
「――静かの海」
「私が観ていたのは……」
「静かの…… 海?」
「ええ…… 餅をつく兎の顔に当たるクレーター」
「これで分かるかしら?」
「ああ…… 静かの海って、月の右上に有るクレーターの事なんですね」
そう言って、男は月を指差し
「でも、なんで月は月でも静かの海限定なんですか?」
「というか、何かあったんですか?」
「星の観測なら何度も付き合いましたけど、月の観測は初めてでしたよね?」
「……そうね」
「今日は…… 特別な日だから……」
「特別……?」
「ええ、今日は……」
「静かの海に…… 勇気ある鷲が舞い降りた日」
「……なのだから」
「静かの海に、鷲が……?」
「ふふ…… 分からないかしら?」
「えー……?」
「……」
高峯のあの謎掛けに、男は数秒程考え悩み
「ああっ……!」
「アポロ11号のこと…… ですよね?」
一つの答えに辿り着く
男の答えに満足したのだろう
高峯のあは、微笑み
「ええ……」
「46年前の今日7月20日、アポロ宇宙船が」
「……そして、人類が、始めて月に到達した、人類全てにとっての記念碑とも言える」
「そんな…… 日、なのだから」
月へと顔を向けた
「確かに、1969年の7月20日でしたよね。アポロ11号が月に着陸したのは」
「ええ、でも…… よく知っていたわね」
「まあ、有名ですしね」
「一般人でも当たり前に知っている出来事で
人類が遺してきた歴史の中でも、最大の業績ともいえる偉業」
「教科書にも載ってましたよ」
「人類史の中でも、最も偉大な業績の一つであると」
「……ええ」
「科学に於ける一つの到達点であり、次への可能性を示したグレイテスト・アティーブメント」
「きっと、アポロ11号とアームストロング、コリンズ、オルドリン」
「その宇宙船と3人の飛行士の名は…… 人類の歴史が終わるその日まで、語り継がれることになるでしょうね」
「……でも」
「……顧みられることもない」
「礎もまた……」
「……? のあさん」?
急に寂しげな表情を浮かべる高峯のあに、男は気遣わしげに目を向ける
だが、一方の高峯のあはというと
「貴方は知ってるかしら?」
「このアポロ11号の成功までに、何人の人間が死んできたのか」
いつもの通り泰然とした様子に戻り、突飛なことを口にする
それは同時に、夏の夜に語られる、少し長くて物悲しいお話の序開きでもあった
「……え?」
「う~ん……」
「そうですね~」
「それって、アポロ11号までに何件の死亡事故が起きたかってことですよね?」
「ええ、そう考えてもらって構わないわ」
「……じゃあ、やはり、それなりの犠牲も有ったと思います」
「宇宙開発となると、危険なイメージも有りますし
確か…… 1980年代に、飛行中のスペースシャトルが爆発した事故も有った筈ですから」
「その事故よりももっと古いアポロの時代となると……」
「一桁を超える犠牲者が出てしまった気がしますね」
「なるほど…… それが貴方の答え」
「まぁ、自信は全く無いですけど…… 違いますかね?」
「ええ、違うわ」
「ええぇ…… 即答かぁ……」
「じゃ、じゃあ、実際はどの程度だったんですか?」
「そうね…… 実のところ、犠牲者は貴方が考えるほど多くはなかったの。幸いなことにね」
「公式には……」
「3名」
「発射の予行演習を行っていたアポロ1号の船内で火災が発生し、中に居た3名の乗組員が犠牲となった」
「そもそもNASAは、そしてアメリカ政府は
有人での月着陸を目的としたアポロ計画の前段階として
有人宇宙飛行を目的としたマーキュリー計画
次のステップとして、宇宙滞在と船外活動を目的としたジェミニ計画」
「その3つの宇宙開発計画を実行に移してきたわけだけど」
「それらの宇宙開発計画を通しても、犠牲となったのは演習中に起きたアポロ1号の火災事故の3名のみ」
「彼らは地上での演習中の事故だったから、飛行中の死亡事故者に限ればゼロだったとも言えるわね」
「……3名"のみ"ですか」
「残念ではあるけれど…… 計画の規模と危険性を考えれば、"のみ"と言える数字なの」
「計画に携わる人間が多い程にヒューマンエラーのリスク要因は増え
組み込まれる部品が多く、組立が複雑になる程に機械的故障のリスクも増えていくのだから
「けれども…… 殉職した3名の生命は、決して無駄ではなかった」
「この事故を受け、アメリカ政府は調査委員会を設立、原因の究明し
事故の原因となったものの改善法を模索していった」
「例えば、技術的な部分では、船内の空気混合比の変更と不燃物質の使用」
「アポロ1号以前のロケットでは、減圧症の発症を抑えるため、空気から窒素を抜いた
高濃度酸素ガスでコックピット内を満たしていたわけだけど」
「船の内から出火した場合に備え、船内の空気は60%の酸素と40%の窒素の混合気に置き換えられ
また、船内で使われていたナイロンやマジックテープなどの可燃性の資材は耐熱性のものに変えられた」
「もともと、アポロ1号は皮膜が剥がれた電源ケーブルがショートして火花が散り
それが高濃度の酸素と可燃性の資材とに結び付いて大規模な火災となったわけだから」
「それ以外にも、宇宙服自体の改良や配線の問題点の修正など技術面での改修は多岐に渡るのだけど」
「でも、結局、彼らの死が変えたのは…… そういった上っ面の部分ではなく……」
「アポロ計画に携わる人々の意識と、NASA、そしてアメリカ政府の姿勢」
「それが最も大きくて、後に続く飛行士達への遺産となった部分なのでしょうね」
「意識と姿勢……」
「そう…… 当時、NASA並びにアメリカ政府は焦っていた」
「人々が考えている以上に」
「貴方もケネディ大統領が『1960年代の内に、アメリカ人を月に送り込む』
そう演説した事は知ってるでしょう?」
「はい。テレビとかだとそのシーンが流されたりしますし」
「ええ、だから、多くの人がアポロ計画には1969年以内という絶対的なタイムリミットが有って
その期日までに間に合わせようと急ピッチで計画を進めていた、という事は理解しているみたいだけど」
「実のところ、当時のアメリカ合衆国大統領リンドン・ジョンソンは
1967年までには、有人での月着陸を成功させたいと焦っていたの」
「当時のジョンソン政権下では、ベトナム戦争の泥沼化と国内の貧困問題・人種間の激しい抗争
それら3つの問題が顕在化し、1968年に実施される大統領選挙で再選できるか難しい状況に置かれていた」
「そこで、ジョンソン大統領等は国民の支持や求心力を得ようと人類初の偉業…… 月への着陸を」
「つまり――」
「分かりやすい功績を強く欲していた、というわけですか……」
「ええ、実際彼らの焦りはアポロ計画に変更を齎したわ」
「そもそも、本来のアポロ計画は、検証用の無人ロケットを4機打ち上げてから
5機目に初めて有人のロケットを打ち上げる予定だった」
「けれども、実際には、検証用無人ロケットは3機のみの打ち上げで終了させ
4機目に有人ロケットであるアポロAS-204の打ち上げを画策した」
「つまり、無人ロケットでのテストを1回分省略し、有人でのロケット打ち上げを前倒しにしたわけ」
「それはまた…… 大胆な……」
「残念ながら、その4機目のロケットは演習中に炎上事故を起こし、搭乗中だった3名の飛行士が亡くったのだけどね」
「……もしかして、それがアポロ1号?」
「その通り」
「彼らの死を悼み、NASAはこの機体のことをアポロ1号と呼称することとなったわけ」
「まぁ、計画前倒しのエピソードだけでも、どれだけアメリカ政府が焦り急いでいたのか分かるでしょう?」
「ただ、そんなアメリカ政府やNASAの姿勢は、メディアや世論の声に因って変わることとなる」
「戦争でもない分野で、国家が国民を殺すとはどういう事だ
莫大な予算を掛けてこの結果とは一体何なんだ
そもそも、生命を危険に曝してまで宇宙に、月に行く意義が在るのか」
「等々、様々な非難に曝されたアメリカ政府は、安全性を軽視してでも計画を早期達成する姿勢から
安全性を重視する姿勢へと変わっていき、同時にNASAの職員といった現場レベルの人員の意識も変わっていった」
「なんたって、不可能に近い要求を強いられていたとはいえ、彼らは自分達の仲間を自らの過失で
もしかしたら防げていたかもしれない過失で死なせてしまったのだから」
「その悔悟と自責は…… 私達部外者には推し量ることも出来ないでしょうね……」
「……」
「タフで有能であれ」
「……事故の3日後、NASAの主席飛行管制官であるジーン・クランツが発した言葉であり」
「その後のNASA全体の基本方針となった言葉よ」
「例え厳しい要求とスケジュールを突き付けられようとも、自分達の責任を自覚し絶対に妥協しない強さを持ち
全ての事を把握し尽くし、完璧な仕事を遂行し続ける優れた能力を有した人間でなければならない」
「彼らはその言葉を管制室への入場料とし、3人の飛行士が払った犠牲を胸に刻みアポロ計画を再始動させた」
「……アポロ1号の後、NASAはアポロ11号により月着陸を成功させ
また、アポロ1号以後は一人の死者も出さずアポロ計画を完了させたわけだけど」
「それはきっと…… 3名の飛行士達の尊い死がそうさせたのだと、私にはそう思えてならないわね……」
「……ああ、なるほど」
「さっきのあさんが言った『礎となった存在』ってこの事だったんですね」
「やっと胸の突っ掛かりがとれまし――」
「――いえ、そうじゃないのだけど」
「……」
(・3・)「あるぇ~?」
「……ふふっ」
「勿論、アポロ1号の乗組員、ガス・グリソム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィーは
宇宙開発に於ける英雄であり功労者であり、そして尊い礎であるのは間違いなのだけど」
「私が言ったのは…… アストロノート――宇宙飛行士――ではなく」
「テストパイロット…… 彼らの事よ」
「テスト…… パイロット、ですか?」
「ええ」
「1950年代以降、アメリカとソビエト連邦が宇宙開発に凌ぎを削っていたのは知ってるでしょう?」
「それはまぁ」
「でも実は、その少し前、40年代中盤からアメリカは超音速航空機の開発に着手していたの」
「当時は未だ誘導ミサイル技術が未発達な為、必然的に戦闘機同士の戦いはドッグファイトの形態が多く
そうなると当然より高速に飛行する戦闘機の方が有利に戦闘を進められると考えられたというわけ」
「NASAの前身であるアメリカ航空諮問委員会(NACA)やアメリカ陸軍・海軍が中心となってスタートしたこの計画は」
「1947年10月14日、アメリカのベル社が製作したベルX-1と、それに搭乗するテストパイロット
チャック・イェーガーの手によって大きな成果を得ることになる」
「つまり…… 人類初の超音速飛行の実現という偉業を」
「そして、この超音速航空機の開発は、後のアメリカ宇宙ロケット開発の大きな一助にもなってくるの」
「あの、すみません…… 超音速航空機と宇宙ロケットって大分畑が違う気がするんですけど……」
「そうね…… 確かに、今の感覚ではそう思えるかもね」
「貴方が思い描く超音速航空機といったら…… やはり、戦闘機かしら?」
「そうですねぇ」
「別にミリタリー好きというわけじゃないですけど、F-15とか、F-22とかは知ってますし
純粋に格好良いとも思いますね。なんと言うか…… 戦闘機には男のロマンが詰まってる気がして」
「あと、旅客機のコンコルドですかね。もう退役してしまいましたけど」
「でも、それがどうかしたんですか?」
「ええ、貴方の挙げた超音速航空機と、X-1とでは根本的な部分で違いが在るの」
「違い?」
「貴方が挙げた航空機は全て、ジェットエンジン式の超音速航空機
簡単に言えば、外部から空気を取り込み噴射させる事で推進力を得ている航空機」
「けれど、X-1はロケットエンジン式の超音速航空機
簡単に言えば、燃料を燃焼させ高圧のガスを噴射させる事で推進力を得ている航空機」
「つまり、搭載されるエンジンという基幹部位の時点で大きな差異があるわけ」
「いや、差異って言うか…… ロケットエンジンって……」
「そりゃあ確かに今の超音速航空機とは違いますね」
「まぁ、そもそもの設計思想や着想が余りにもアメリカンなものだからね」
「アメリカン?」
「そ、ライフルの弾丸は音速を超える速度で飛んでいるのは知ってる?」
「はい、そうらしいですね」
「じゃあ……」
「銃弾型の機体に揚力を産み出す翼と強力なロケットエンジン付けてぶっ飛ばしたら音速超えられるんじゃねえの?」
「ってコト」
「……」
「oh…… それはまたビックリするほどアメリカン」
「というか、それって単に航空機じゃなくロケットなんじゃ……?」
「そうね。はっきり言って水平方向にぶっ飛ぶロケットだと考えた方が良いと思うわ」
「ただ、脳筋丸出しの力業的発想だけど、時代的に仕方無い発想でも在るのよ」
「現代なら超音速環境を再現する風洞が開発されてるから、様々な形のミニチュア模型を作って実験し
最適な機体形状を導き出すことも可能だし、最近では高性能なコンピュータ上でシミュレートすることで
風洞すら使わずに機体の基本設計が可能となっているわけだけど」
「当時は超音速環境を再現する風洞も高性能なコンピュータも無い(注1)から、実際に試作機を作って飛ばすしか
その機体形状が超音速下での航空力学的に、正しいのか否かが分からなかったという事情が在ったから」
「だから、実際に超音速で飛ぶ事が可能な物体の形状を模すのは、現実的で確実性の高い判断だったのも事実ね」
「それに、この発想は、後の時代…… 宇宙開発の時代に大きな福音となった側面も在る」
「……まさか、宇宙ロケットの開発に?」
「ご明察」
「勿論、X-1が人類初の有人超音速飛行を成し遂げた時の記録はマッハ1.06と、音速を少し超える程度の速度であり
宇宙開発用のロケットの大気圏脱出速度や大気圏再突入速度とは比較にもならない程度の速度でしかなかった」
「だから、超音速実験機と宇宙ロケットとでは参考にならないようにも考えられるわね」
「けれども、1948年3月26日にはX-1はマッハ1.45と記録を伸ばし」
「1953年、X-1の改良型であるX-1Aがマッハ2の壁を大幅に打ち破りマッハ2.44という記録を樹立
その後も1956年にX-1の後継機X-2が非公式ながらマッハ3.19をマーク」
「更には、1961年X-1、X-2に続く超音速実験機X-15がマッハ4.43、マッハ5.27、マッハ6.04と
大台を次々に突破し、超音速の世界から極音速の世界へと記録を伸ばしていった」
(@'ω'@)「……ゴクオンソク?」
「ええ、音速には速度に因って幾つかのカテゴライズがされていて、大まかに言うと
マッハ1~5までを超音速、マッハ5以上からは極音速という分類に分けられているの」
「この極音速ともなると、宇宙ロケットの大気圏脱出時の速度や準軌道飛行をするロケット
つまり地球から発射され宇宙空間に達した後、地球周回軌道には乗らないまま地上に降下するロケットの
大気圏再突入時の速度と変わらないものとなってくるから」
「一連の超音速実験機が取得した超音速・極音速下での空力特性、熱力学的影響の研究データは
後に宇宙開発用のロケットを製作する際、機体の形状や構成材料の選定、排熱処理の方法等々
参考になる部分が多々在った、というわけ」
「特に、超音速実験機によって浮き彫りにされた空力加熱の脅威とその解決策が無ければ
アメリカの有人ロケット開発はもっと遅れていた可能性が高いわね」
(@'ω'@)「……クウリキカネツ?」
「物質が…… 分かりやすくする為ここでは航空機としておきましょう」
「航空機が大気圏内を超高速で飛行すると、その機体によって空気が圧縮され空気の運動エネルギーが
熱エネルギーに変換、つまり高温が発生し、その熱によって機体側まで加熱されてしまう現象」
「それが空力加熱」
(@'ω'@)「……?」
「空気を圧縮すると熱が発生するのは知っているかしら?」
「筒に空気と脱脂綿のような可燃物を入れてピストンで強く押し、中の可燃物を発火させる」
「そういった実験を、義務教育時代に貴方もやったんじゃなくて?」
「……おおっ」
「試験管だかシリンダーだかを使ってその実験やりましたね、それ」
「確か…… 断熱圧縮とかいう現象だったような」
「ええ、空力加熱も断熱圧縮の原理は同じ」
「気体に対し外的に力が加わる事で気体分子の速度が速まり…… つまり気体の運動エネルギーの和が増え
運動エネルギーの和が増えれば当然温度も上がる。熱は分子原子の運動エネルギーと位置エネルギーの総和だからね」
「それで、1950年代当時、この空力加熱については研究者達ですらそれほど深刻には考えていなかった」
「確かに音速に近付くと、抗力の急増や空力特性の大幅な変化などの問題が顕在し、ある種の壁となっていたけど
1947年に音速の壁を突破して以来、さしたる問題もなく速度記録を伸ばし続けていた
マッハ1を超えると段々と抗力は減少していくし、空力的にも大きな変化は生じなかったから」
「だから、研究者達もこのままマッハ3、マッハ4そしてそれ以降も…… と見通しを立てていたのだけど……」
「マッハ3に近付くにつれ、空力加熱の問題…… いわゆる熱の壁が立ちはだかることになってくる」
「勿論、研究者間でも空力加熱という現象の存在は認知していたし、マッハ3突破を目指したX-2では
機体の構造材には耐熱性の高い金属を用いて熱対策を施していたのだけど」
「想定していた以上に空力加熱による悪影響は大きいものだった」
「まぁ、結局のところ、NACA、NASA、空軍、超音速実験機作製を請け負った航空機メーカー
そしてテストパイロット、それらの努力によって熱の壁も突破し、最終的には極音速下で発生する
空力加熱に対しても対処するノウハウを獲得していくことになる」
「もし…… この超音速実験機での経験が無いままに、アメリカが有人ロケット製作に乗り出したとしたら
当然、空力加熱の実態も対処するノウハウも一から修得していかなければならないということであり」
「そうなった場合、果たしてアメリカは1960年代までに人類を月に送り込む事が出来ていたのか」
「それは誰にも分からないけど……」
「……少なくとも、現実で行われたスケジュールよりも、更に厳しいスケジュールを強いられることは間違いないでしょうね」
「……」
「なんか…… 最初はアメリカンで男のロマンを追い求めてるだけの計画に思ったりもしましたけど
凄く意義深くて…… 後への大きな遺産となった計画だったんですね」
「……ええ」
「超音速実験機の計画は……」
「いえ……」
「より速く、より高い空を目指した彼らの意思は……」
「遙かなる宇宙への回廊に挑む、確かな一歩」
「そして」
「後に挑む者達への、大いなる軌跡になったのだと……
「……私はそう評価しているわ」
「僭越ながら…… ね」
「だからこそ、今日くらいは、宇宙を…… 月を見上げてたいの」
「……?」
「唐突だけど、超音速実験機開発の隆盛期である1950年代、1960年台に於ける
テストパイロットの死亡率はどのくらいだったと推考する?」
「……」
「うーん…… ちょっと皆目検討もつきませんね」
「一体どれくらいだったんですか?」
「23%よ」
「……」
「ファッ!?」
「い、いや、いくらなんでもそれは多すぎじゃないですかね!?」
「いえ、当時は4人に1人近くがテストフライト中の事故によって帰らぬ人となっていた」
「4回テストフライトを行えば、その内1回は事故が起こり、週に1人、或いは2人が死んでいく」
「……それが当時のテストパイロットの現実であり、日常だった」
「いや、でも、流石に酷すぎじゃないですかね」
「なにか特別なワケでもあったんですか?」
「……そうね」
「これほどまで悲惨な数字を生じさせた直接的な原因は…… 射出座席、つまり脱出装置の不備でしょうね」
「射出座席自体は第二次大戦時から存在はしていたけど、50年代、60年代はまだ搭載された
航空機は極僅かで、まだ実用に耐えられる代物でもなかった」
「速度の遅いレシプロ機ならば、機体トラブルが起こったとしても、自力で席から飛び立ち落下傘降下も出来たけど
より高速で飛ぶジェット機の時代となり高いGが掛かるようなってからは、自力での脱出は事実上不可能となった」
「つまり、彼らテストパイロットは、機体に深刻なトラブルが起これば為す術無く死ぬ他ない状態だったということ」
「現在では緊急事態が起こったとしても、脱出装置さえ作動出来れば89%(注2)という高い確率で生存は可能となったけど
その射出座席のシステムをそのように確実性の高いシステムにまで引き上げたのは…… 彼らなのだから」
「彼らの命を賭したテストフライトによって実現したのだから…… 彼らの時代に有る筈がないの……」
「……」
「そういった技術的に未発達な部分があったとしても……」
「軍属でもない一般人の自分からしたら、やっぱり異常な数字に思っちゃいますね」
「いえ、その感想は極当然のものでしょうし、軍の関係者であってもこの数字は狂っていると感じるでしょうね」
「何故なら、人道的な観点からも問題はあるけど」
「なにより、パイロットという絶対数の少ない希少な人員を、使い捨ての実験器具の様に
扱うというのは、軍事的な観点からしても余りにも問題があるから」
「……そうは言っても、事実としてはそうだったんですよね?」
「そうね…… でも、当時はそういう時代だった…… と言う他ないわね」
「時代……」
「当時は…… 1950年代、60年代当時は、人類史全体から観ても異常な……」
「冷戦という事態の真っ只中だったから」
「ああ…… なるほど……」
「冷戦というあらゆるイリーガルが黙認された彼の時代に於いて
人道とか倫理といった言葉がどれほど空虚だったのか」
「ビキニ環礁やネヴァダ砂漠で一体何が行われていたのか…… それを考えれば……」
「確かに…… そうかも知れませんね」
「でも、皮肉というか…… 歪というか……」
「3名の宇宙飛行士の死に、大衆は大きな衝撃を受け、最終的に国家や組織は姿勢を刷新した」
「その一方で、多くのテストパイロットが次々に死んでいた
でも、その死に声を上げる者はなく、何かが変わることもない」
「……それを考えると」
「無情で不条理…… でも、テストパイロットの件は一般には知られていたわけではないし
国家や軍も、国を守る為それを行う必要があったから行ったまでで」
「結局は…… 仕方がなかった、他に遣りようがなかった、それが最善の手段だった」
「……それに尽きるんでしょうね」
「事実として、結果的には最悪のシナリオ『全面核戦争』にはならなかったわけではあるのだから」
「……それに、時代背景や技術的な要因があったとしても、やはり」
「テストパイロットという人間だったから」
「そう言うべき…… いえ、そう評するべきなのかも知れないわね」
「……?」
「テストパイロットという人種の仕事は、同じく空に生きる戦闘機パイロットや宇宙飛行士のそれとは違う」
「後者は外敵から国を守る、或いは宇宙に行きミッションを成功させることを目的としているけど」
「テストパイロットはそうじゃない」
「後に続く者達が、安全に空を…… そして宇宙を飛べるようデータを集めることが目的だから」
「どこまで行って、どういう事をすると危険なのか」
「それを試しながら未知の世界へと飛び込んでいく」
「毎回少しずつ、限界に近づくことで限界を見極める」
「見誤れば、死が待つ世界の中を」
「幸運にも生きて帰ってきたとしても、待っているのは英雄の帰還を祝うパレードでも紙吹雪でもなく」
「次のテストフライトの予定が書かれた薄っぺらな紙だというのに」
「それでも、何人ものテストパイロットが、そうやって自分の命を探り棒にして……」
「この空を、そして宇宙に至る道を切り開いてきた」
「……だからこそ、今という時代がここに在る」
「そう……」
「彼らは、自分の命を…… 後に続く者の為になげうつことも厭わなかった勇敢な英雄」
「凄惨な数字は、彼らが死を恐れず立ち向かう人間だったという証でもあるのだと……」
「私は…… そう思っているわ」
「……」
「……なんで、彼らはそんな辛い仕事をやり続けたんでしょうかね」
「賭けるチップと得られる物が、全然割に合ってないと思ってしまって……」
「空に生きるとしても、他に道はあったでしょうに」
「……さあね」
「国への忠義、軍人としての責務、パイロットとしての矜持、或いはそれ以外の何かか……」
「結局、パイロットでも軍人でもない私には答えは分かり得ないし
そもそも部外者が彼らの心情を勝手に推し測るのは、烏滸がましいのかも知れないわね」
「でも……」
「……結局のところ、彼らに凄惨な現実を強いたのは、国威発揚という名を冠した見栄と意地の張り合いだった」
「だからこそ……」
「自分の夢や、信じるものの為に、自分の意思で飛んでいた」
「そうであったらと、願わずにはいられないわね」
「名も誉も残されることなく死に、そして葬られた彼らだからこそ……」
「せめて…… ね」
「1967年1月27日、火災事故で亡くなった3名の宇宙飛行士は正しく英雄として葬られた」
「グリソムとチャフィーはアーリントン国立墓地に、ホワイトはニューヨーク州ウェストポイントの陸軍士官学校に
手厚く埋葬され、その名はケネディ宇宙センターに有るスペースミラー記念碑に刻まれ」
「彼らの命日ともなった1月27日(注3)は、毎年追悼式典が行われ、時の大統領やNASAの長官をはじめとする全職員
そして、宇宙や宇宙開発に夢を託した多くの人々が彼らに対し、国家の枠を超え、最大の敬意と哀悼を捧げている」
「国家や…… 宇宙開発の英雄として……」
「でも、やはり、私は…… 英雄は彼らだけでは無いと思うの」
「名も誉もなく、それでも、命を賭して宇宙への回廊を切り開こうとした者達もまた……」
「……アポロ11号は、無事月着陸に成功し、無事地球に帰還したことに注目が集まりがちだけれども
実のところ、月着陸に失敗も有り得た、正にギリギリの成功だった」
「そうなんですか?」
「ええ、着陸直前に、予定していた着陸地点には小さなクレーターが有り、周りには車サイズの岩が
転がっている事に気付き、急遽着陸地点を変更せざるを得ない事態に襲われるトラブルが起きる」
「しかしその時には既に着陸船の噴射に使える燃料は残り少なく、今居る岩石地帯を離脱して着陸が可能なのか
不確かな状況になっており、着陸を続行するのか、中止するのか、クルーは決断を迫られることになる」
「自身の命と、国の命運を左右する決断を、数十秒という僅かな時間の中で」
「……結局、アームストロングとオルドリンは続行を決断」
「手動操縦に切り替え、どうにかクレーターと岩石地帯を飛び超え着陸を成功させたけど
問題のクレーターとの距離は60mと離れておらず、燃料は燃料計が読み取れる限界を下回っていた」
「あと少しでもクレーターが大きかったら…… 少しでも着陸が遅くなっていたら……」
「歴史は大きく変わっていたでしょうね」
「この着陸の成功は…… クルーの勇気と操縦技術が可能にしたとされているけど」
「でも…… 私は、それだけではなく……」
「空を飛び、遥かな宇宙を目指し」
「後に続く者の為にその身を犠牲としてきた数多の名も無き英雄達の魂がそうさせたのだと……」
「もしかしたら、空を飛び、宇宙を夢見た彼らの魂は……」
「大いなる鷲と共に地球を飛び立ち、宇宙を飛び」
「そして、静かの海に舞い降りたのかも知れないと」
「そんな事を思ってしまって……」
「今日7月20日は、人類にとって、宇宙開発史にとって一つの到達点ともいえる日であり
テストパイロットという人間達が目指し、そして遺してきたものが結実した日でもあると思うの」
「残念ながら、テストパイロットという存在を知る者は少なく、顧みられることは殆ど無い」
「人類の歴史が終わるその日まで、語り継がれることになる英雄もいれば
語られることもない、何時かは忘れ去られてしまう英雄もまた…… 一方ではいる」
「だから…… せめて今日ぐらい、私だけでも……」
「彼らが遺したものを……」
「彼らの夢の一欠片を……」
「あの…… 静かの海に舞い降りた鷲を見上げて、礎となった名も無き英雄達に」
「思いを寄せたいと…… そう思ったというわけ」
その言葉を最後に、高峯のあは
「ふぅ……」
と、小さく息を吐き
「長い話になってしまったわね」
空気を変えるように、軽い調子で言葉を続けた
「……いえ、なんと言うんでしょうかね」
「有意義な話というか…… 聞けて良かったと思いました。凄く」
「それに…… 自分も、彼らに……」
「あの、少しいいですか?」
「あら? どうかしたかしら?」
「ふふふ、おあつらえ向きの物が有るのを思い出しまして」
「ちょっと待っててくださいね」
そう言って、男は少しの笑みを浮かべると、給湯室へと歩き出し姿を消した
だが、数分と経たず給湯室から姿を表す
右手にはグラスを2脚、左手には瓶を携えて
「ハリウッド研修の時に買っておいたんです。特別な日が来た時の為に」
「へぇ……」
差し出された瓶、そしてそのラベルに目を向け
「ふふっ」
高峯のあは笑みを零した
「スクリーミング・イーグル…… ね」
「確かに、あの鷲は、騒がしく地球を飛び立ち、そして月に舞い降りた」
「ええ…… おあつらえ向きだわ。これ以上ないくらい」
「でしょう?」
「ファーストは手が出なかったので、セカンドですけど」
「……でも、セカンド・フライトという銘もまた良いわね」
「にしても、本当に開けて良いの? これだって結構値が張る代物だけど」
「良いんですよ」
そう言うが早いか、男はキャップシールを剥がし、栓にコルクスクリューをねじ込み始め
「だって、今日だって、特別な日ですから……っと!」
ポンッと、軽い音を響かせながら、コルク栓を引き抜いた
「……貴方にもそう思ってもらえて」
「感謝…… それと…… これは、嬉しいというのかしら?」
「さあ、それはのあさんにしか分かりませんから」
「何れにしても、水臭い事は言いっこ無しで」
そう言って、男は瓶の口を高峯のあに差し出し
「……そうね、特別な日に湿っぽい話はご法度だもの」
高峯のあも、2脚のグラスを差し出した
トクトクと、1杯、また1杯とグラスに赤い液体が注がれる中
「献杯にしますか? それとも乾杯に?」
男が問い掛ける
「……」
その問に、高峯のあは数瞬思いを廻らせる
敬い悼む為に掲げるのか、祝い謝する為に掲げるのか
「……乾杯にしましょう」
「確かに彼らは自分自身の手で夢を叶える事は出来なかったかも知れないけど……」
「彼らが遺したものは、確りと受け継がれ、46年前の今日、その夢は少なからず結実した」
「そして…… 今も、その夢の続きを追い求めている者達がいる。彼らの様に、ひたむきに、宇宙を夢見て」
「だから、乾杯」
「彼らの時を越えた成功を祝い、得難く、かけがえの無いものを遺した彼らに、感謝と称賛を」
そう言って、高峯のあはワインの注がれたグラスを一脚男に差し出し
「……そうですね」
厳かに、男もグラスを受け取った
そして
「では……」
「……静かの海に舞い降りた大いなる鷲に」
「宇宙を夢見た…… 名も無き英雄達に」
「「乾杯!」」
以上です
基本的には史実に基づいて書いてますが、話を成立させるため誇張や牽強付会をしている部分もあります。ご了承ください
注釈
(1)ミサイルやロケットの開発が進んでいたドイツでは、既に超音速風洞が造られていたらしいです
(2)Survivability and injuries from use of rocket-assisted ejection seats: analysis of 232 cases.
(3)アポロ1号の後に、チャレンジャー爆発事故(1986年1月28日)、コロンビア爆発事故(2003年2月1日)が起きたため
現在では毎年1月の最後の木曜日を追悼式典の日としています
乙
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