植木鉢と小瓶 (28)
一からやり直しでござる
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~ 異界 ~
背の高い木々は大きくその枝葉を広げ、はるか頭上に新緑の天蓋を作っている。
狐娘「む?」
木漏れ日の下、小川に沿ってのんびりと歩いていた狐娘はふと足を止めた。
なにやら見慣れぬ物が岸に打ち上げられている。
男「……」
狐娘「ほう? この場所に死体が流れ着くとは、珍しい事じゃな」
泥土にまみれた男の死体を物珍しそうに眺める狐娘だったが、不意に男の死体が大きく揺れ動いた。
男「げほっ!」
狐娘「なっ!?」
男「げほっ! げほっ!」
狐娘「ほ、ほう? まだ生きておるとは……どうしたものか」
しばし考えるように狐娘は小首をかしげ、やがて何か思い立ったのか、両の手のひらを胸前でぱちりと打ち鳴らした。
狐娘「妖狐の神域を死によって汚すわけにはいかぬな、者共出会え! 出会えい!」
狐娘の声が森に響き渡る。
しばしの静寂。
やがて引いた波が再度押し寄せてくる。
いくつもの気配を引き連れて、
狐娘「久方ぶりに暇が潰せそうじゃな、くくっ」
狐娘はまだ幼く愛嬌を感じさせるその顔をにたりと歪め、悪辣な笑みを浮かべるのだった。
~ ??? ~
「捕まるわけには行かぬ!」
不幸な町人の運んでいた荷を切り離し、馬を奪ったのはいつだったか。
軽快に響いていた蹄の音もとうとう潰える。
終わり無き長駆に限界を迎え、だらりと舌を垂らしていた馬は横倒しになると、むごたらしく小刻みに痙攣を始める。
「捕まるわけには行かぬ!」
馬を乗り捨て、歯を食いしばり、己を鼓舞するように肺から声を搾り出す。
震える声は自分でも情けなくなるほどに頼りない。
すぐ後ろから声が聞こえた。
――引き返せ――引き返せ。
耳を塞ぎ前へ前へと歩を進める。
だが、行けども行けども茫漠とした闇が広がっているだけだ。
息苦しい。
頭が痛い。
自分は知っていたはずだった。この後に起こる事態を、
今はもう思い出せない。確かめなくてはいけない。
しかし、ああ……辿り着けない。
世界が白んでいく。
形作る何もかもが、夢の終わりと一緒に崩れては消えていった。
~ どこかの屋敷 ~
ぺちーん、ぺちーん、ぺちーん、ぺちーん
少女「まだるっこしいのう、はよ起きんか」
男「……あぁ?」
少女「お? やっと気がつい……つかれましたか?」
男「……女の子?」
いつの間にやら布団の上に寝かしつけられていた男は痛みの残る緩慢な動きで声のする方向へと顔を向ける。
ちょうど真横、枕元にちょこんと少女が座っていた。
少女は男と目が合うと頬を緩め、あどけない顔に優しげな笑みをたたえて返してきた。
男「あ、どうも」
男も反射的にぎこちない笑みを顔に貼り付ける。
そのまましばし、ぼんやりと時間が過ぎる
奇妙な対面の間、男の印象に残ったのは少女の着物の鮮やかすぎる彩色だった。
白地の小袖に描かれた桜吹雪の文様。
高価ゆえに禁色とされた紅をこれみよがしに使っているのだろう、桜の花弁内側の濃淡まで如実に再現されている。
上から羽織る単衣の生地に金糸が綿密に織り込まれた上等な金襴が使われている事からも、少女がただの女官でないのは明らかだった。
男「…………」
男は考える。
男「………………」
男は精一杯に考える。
しかしどうしたことか、目の前の少女にとんと覚えが無い。
というか、ここがどこなのか皆目検討もつかない有様だった。
――はて、どうしたものか。
数秒の逡巡、結論はすぐに出た。
――悪いことをしたわけでもない、聞いた方が早いか。
一度決めたら実行は早い。
男はじくじくと痛む身体を布団から起こすと、軽く身なりを整えて少女へと向き直った。
男「やや、そちらの御方、少し訊ねたい事があるのだが」
少女「あらまあ? そのような他人行儀、お使いにならずとも良いでしょうに……『ア、ナ、タ』?」
そう言うと、少女は顔を赤らめてもじもじと恥ずかしげに身をよじってみせた。
男「……はい?」
、
男の思考が完全に停止する。
でも少女の方は止まってくれない。
うきうきと楽しげに、
少女「なにを鳩が豆鉄砲食らった顔をしてるのですか? 昨晩、あれほどに愛してくれたではありませんか?」
と、のたまいながら少女は自分の人差し指を立てて男の唇の前に持ってきた。
そして恥じらい含んだ喜色満面の顔で一言。
少女「いけない御方」
男「…………」
ちゅんちゅんと、どこかで小鳥たちの戯れる鳴き声が男には聞こえた気がした。
期待
ワロタ
男「……まじか」
つぅ、と冷や汗が男の頬を伝った。
愕然とした顔でうつむく男。
かたや少女はおもむろに両手で自分の口元を覆うと、男の様子に面白そうに口の端を吊り上げた。
少女「ぷっ、くくくっ! たまらんなぁ……」
人の寝ぼけた所に冷や水を容赦なくぶっかける快感を全身で享受しながら少女はくつくつと笑う。
男「うん? 何か言ったか?」
少女「いいえ、何も」
男が首を上げると、少女は邪悪な笑みを瞬時に引っ込めてすでに清楚可憐な表情へと転じている。
そして眉尻を下げて優艶に口元を緩めると、懐かしむように自分の腹を着物の上から擦って見せた。
少女「ですが、まるで夢のような心地でした。とても情熱的なんですね、まだ熱に浮かされたよう……」
男「い、いや、ちょっと待ってくれ!」
慌てふためいて男が言うと、少女は世界が終わったかのような悲壮な顔になった。
少女「え? もしや昨晩の事を忘れたと?」
男「そうじゃない! いや、そうなんだか、そういう意味じゃないんだ!」
少女「では、どういう意味かと?」
男「それは……」
思い出せなかった。記憶が欠落している。
ただ、それは一時、一晩という規模の物ではなかった。
男「俺は……誰だ?」
男は真顔で訊ねた。
少女「はい?」
想定外の返事に、少女は目を丸くした。
~ 十分後 ~
少女「なるほど、そもそも自分自身の記憶すら無いと」
男「ああ、どうやらそうらしい。何も思い出せないんだ」
少女「そうですか、そうですか」
しばし話して男の状況を少女は理解した。
実を言うと、運び込まれた時点での男の怪我は相当にひどかった。
全身強打を始めとして、刀傷、矢傷、結果が昏睡三日間。
そういう事情を知っている少女から言えば、なるほど記憶の一つや二つ吹っ飛んでいてもおかしくないと納得できる。
ただ当然ながら、男はそんな自身の見舞った不幸を知らない。知っていても吹っ飛んでいるだろう。
男「本当に、すまない」
少女「はあ、なるほどなるほど」
男は自分のこめかみに手を当てて、必死に記憶の残滓を探り取ろう思考を巡らせている。
そんな男を横目に収めながら、少女もまた同様に考えこんだ。
ぶっちゃけ適当にからかってから男を放り出す算段であった少女だが、良い意味で計画を変更しなければならないらしい。
少女「くくく、これまた面白くなってきたわい」
思わず転がり込んできた玩具を前に少女は舌なめずりをした。
布団をたたみ、座布団を敷いて互いに面と向かう。
男「というわけで、俺について何か知っていないか?」
少女「知っているも何も、こういう仲ですし」
少女はそっと右の小指を男の小指に絡ませてきた。
男「あ、ああ、そう、か」
少女「ですが、なんということでしょう。
わたくしの事もすっかり忘れておられるなんて」
少女は袖を上げ、およよと泣き真似をする。
狼狽する男だったが、しかし何かを出来るわけでもない。
男「ごめん」
少女「いいのです、貴方が悪いわけではないのですから。
それでは、貴方が誰なのかご説明させて頂きますね?」
男「ああ頼む」
男が頷く。
こほん、と少女は一つ息を吐き、静かに語り始めた。
少女「あれは今から十年前の事でした。
都に、全裸の与助が現れた所から話は始まります」
男「全裸の与助?」
少女「はい、与助は義賊を自称する変態でした。
常に全裸。それどころか他の市民に全裸で過ごす事を強制する奴でした」
男「最悪だ」
少女「しかし都の者たちも黙っていません。ある心優しき悪代官が与助追放作戦の名乗りを上げます」
男「悪代官!? 心優しいのに!?」
少女「与助と悪代官の戦いは一年ほど続きました。
与助は普段と変わらず全裸、悪代官は与助追放の必要経費とかこつけて民草から略奪を繰り返しました」
男「ただの悪代官だった!?」
少女「そして悪代官のふところが適度に潤った頃、与助は急に服を着るようになりました。お腹を冷やすことで持病の痔が悪化したのです。
与助は隠退を決意し最後に言いました『ワシの後を継ぐ者はかならず出る』と」
男「継ぐな、終われ」
少女「そして現在、与助の意思を継ぐ者がついに現れたのです」
男「はあ、そうっすか、しかしその話が俺と何の関係が……」
少女「あなたです」
男「……は?」
少女「あなたが二代目の全裸さんです」
男「…………」
少女「…………」
男「マジっすか?」
少女「マジです」
男「マジかあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
男は頭を抱えて深~い深~いため息を吐いた。
そんな男の様子を眺めなつつ少女は内心でほくそ笑んだ。
少女(くくく、あることないこと吹き込んでやるわい)
あることないこと配分比率は0:10だが少女は気にしない。
アホな話を真に受けて悲嘆に暮れる男の姿が楽しめれば少女にとって十分だった。
だが、少女はまだ気がついていなかった。
男「そ、それでキミは俺と何の関係が?」
少女「え? わ、わたしとの関係、ですか?」
所詮は後先考えない即席話。
豆腐をつつくが如く、柔らかいうえにすぐボロが出る。
少女「えっと、えっと~、あっ! そうです! 昨晩忍び込んできたアナタに全裸を強制されて……」
男「強制されたにしては随分と好意的な気がするのだが」
少女「そ、それは、その~」
少女(……ぐぎぎ! 記憶喪失のクセに余計な事へ頭を回すなボケが! 仕方ない、ここは話を合わせて……)
少女「はい、わたしもアナタの理想(全裸)にすっかり骨抜きにされてしまいました。もう全裸でしか生きていけませぬ」
男「そ、そうなんすか? で、でも俺、記憶が無くて……全裸とか嫌だし」
少女「何をおっしゃいますか!」
男「っ!?」
少女「常在全裸を掲げたアナタの理想は記憶が無くなった程度で色褪せてしまう程度の価値だったのですか?
先代と交わした血の盟約を忘れたのですか?
アナタには全裸しかありません! 全裸しか無いんです!」
男「で、でも……」
少女「いくじなし!」
男「っ!」
少女「もう知らない! 勝手に着衣していればいいんだわ!」
少女は弾かれたように立ち上がると踵を返し、部屋を仕切る障子へと駆け出した。
その背中に男は何を感じ取ったか。
記憶を失い、身体は節々が痛みを発している。
何も出来ずに手をこまねいても誰も責めはしないだろう。
だが、男は行動を起こした。
男「まて!」
少女「何よ!」
障子に手を掛けた少女が振り返る。
しかし、その怒気を孕んだ罵声を男は避けずに正面から受け止めた。
男「俺も男だ、わかっているさ!」
覚悟を決めた顔で、男が悠然と立ち上がる。
帯を緩めた着流しの寝間着は動かずそのままに、結果として立ち上がった分だけ肌が徐々に露出していく。
それは古い身体を脱ぎ捨てて脱皮する蝶とも、新たな門出を祝う除幕式とも似た光景だった。
男「これで、いいんだろう?」
生まれた姿のまま一糸纏わぬ……、いや、股間に着物が引っ掛かっていてかろうじて肝心の部位は見えていない。
男は己の肉体を誇示するように両手を広げ、泰然と二つの脚で立っていた。
全裸男の誕生だった。
少女「お、おおぅ」
とっさに自分の眼前で両手の指を交差させるが、指の隙間からばっちりと覗いている少女だった。
男「確かに、全裸も悪くは無い」
少女渾身の芝居に乗せられて新たな門出を迎えるハメになった男はうんうんと一人頷く。
ただし少女の耳にその言葉は届かない。
熟れたザクロのように顔を真っ赤にして、男の一挙手一投足に子ネズミのようにビクビクと身体を震わせていた。
自分で仕掛けたことだが、異性の赤裸々な姿を前にすっかりと萎縮していたのである。
男「どうした? なんだか顔が赤いぞ?」
少女「ひ、ひやぁ!? べ、べふにだいじょうぶでふお!」
――これが男の身体。
一見すると中肉中背のその容姿。
無駄な贅肉の無い身体は、しかしたくましくも引き締まっている。
上手く脂肪、筋肉の均整の取れた身体というべきか。
言うなればクマのように膨張した筋肉の鎧を装備した感じではなく、大空を翔る鳥類のように翼を羽ばたかせる必要最低限度の稼動筋を備えている感じか。
少女「ほへ~」
男「おい」
少女「は、はひぃ!?」
少女「い、いかんいかん! ワシとしたことが、呑まれてはいかん」
男「おいおい顔が赤いぞ? 風邪か?」
少女「い、いえ。風邪ではないから大丈夫じゃ……です。少し重ね着が過ぎたようで」
ぱたぱたと袖と裾をわざとらしく叩きながら顔をそらし、少女はそれと分からぬように大きく息を吸って呼吸を整えた。
少女(と、とにかく当初の予定通りに裸踊りでもさせて放り出してやろう、くくく)
そう胸奥に暗い笑みを秘めながら少女が横顔で男に視線を向けたときだった。
男「そうか、大丈夫ならそれでいい。それに服のせいで熱いのならこれまた丁度いい」
少女「熱いのが丁度いい?」
何を言うのかと怪訝に眉をひそめる少女に、男はずいと右手を差し伸べると、
男「さあ、キミも全裸になるんだ」
さわやかな笑顔でそう言いやがった。
少女「…………」
時が止まった。
人は理解の範疇を超えた事象に直面したときこうなる。
数拍の間を置いて、我を取り戻した少女はやっとこさ喉奥から声を搾り出した。
少女「な、何を言ってらっしゃるのですか? お頭は大丈夫ですか?」
引きつった笑みで、今なお手を差し伸べたままの姿の男にそれだけ答えた。
だが、男は心外そうに首をかしげてみせる。
男「あれ? キミは全裸という理想に骨抜きにされたのではないのか?」
少女「あ、いや、それは、その……」
それは見事な墓穴だった。
男「安心しろ! 昨晩の事は覚えていないが、今から同じように俺が全裸へと導いてやる!」
ずい、と男が一歩前へ。
さっ、と少女が一歩下がる。
――ずいずいずいずい。
――さっさっさっさっ。
障子を開けて逃げずに、部屋の隅へと退避していったのが運の尽き。
少女はたちどころに部屋の角のすぐ手前まで追い詰められてしまった。
男「さあ!」
少女「あの、その……」
男「さあさあ!」
少女「ぐ、ぎぎぎ……」
どうしてこうなったのか、追い詰められた少女の胸中を焦りが襲う。
舌先三寸、口八丁、上手く言の葉を弄して丸め込めるはずだった。
実際、男は少女の言われるままに変態と化している。
問題があるとすれば騙した相手を上手く『流れ』に乗せられなかったことだ。
何が悪かったのか。
深く考えずとも少女自身が一番理解している。
少女(ちらちらと肌を惜しげもなく見せるでないバカが!)
自分でそう誘導しておきながらアレだが、男の裸は年頃の少女には刺激が強すぎた。
手が届きそうな至近に異性の裸があるだけで、声がどもり、二の句を継げなくなってしまう。
まるで切れ味の鈍ったナマクラを手に戦場に出たような気分だった。
少女(じゃが、このままではワシも全裸にさせられてしまう! こうなったら多少強引にでも話を捻じ曲げ――あっ!?)
じりじりと後退していた少女のかかとが何かを踏んだ。
それが自分の裾を踏んだのだと気づくよりも早く、少女の身体がぐらりと後ろへ傾いた。
少女「きゃっ!」
男「あぶない!」
一瞬のことだった。
男が手を伸ばす。少女も手を伸ばす。二人は硬い握手を交わす。
壁に後頭部を打ち付ける直前で少女の身体が止まる。そしてゆっくりと少女は腰を下ろす。
そんでもって動いたせいで男の股間から衣類がぱさりと落ちた。
少女「い、いやあぁぁぁぁぁーッ!!」
少女の張り裂けんばかりの絶叫が部屋にこだました。
男は手を伸ばした格好のせいで前かがみ。
結果、腰を下ろした少女の鼻先にブツという地獄絵図。
男「ど、どうした?」
少女「どうしたもこうしたもあるかーッ! このボケナスがーッ!!」
男「ぐぼべッ!?」
立ち上がり際、固く握り締められた少女の拳が男の顔面を貫いた。
その腕の軌跡は横から見れば、互いの身長差ゆえに、遠方へ投石を行うが如くという頭上へ腕を振りかぶる見事な半円を描いていたのだった。
男「な、なにを……」
少女「うるさい! 黙れ!」
もはや騙す気も弄ぶ気も無いと見える。
男がひるんだ隙に部屋の中央へと移動した少女は憤怒の表情で男に牙を見せて吠え立てた。
少女「下等な人間ゆえに玩具として遊び倒してやろうと思っておったが、もうやめじゃ!!」
歌舞伎の連獅子のように少女が大きく一度、髪を振り回す。
今まで着物ばかりが目立って特に注意が行かなかったが、少女の髪は墨染めの黒という様だった。
それが一瞬で、赤みの混じった黄色へと変じていた。
それは俗に落栗色とも、『狐色』とも呼ばれる色だった。
そして髪の上からぴょこんと飛び出た二つの鋭利な三角形。
先端を黒く焦がしたそれはまさに、
男「キツネの耳!?」
狐少女「ご明察、じゃ!」
にたりと口元を吊り上げ、少女が腕を左右水平に伸ばせばその繊細な指先に青白い焔がロウソクに火を灯したように現れた。
焔は左右の手の先で交じり合い、拳ほどの大きさの二つの球となる。
皓々たる月明かりに照らされるように、着物を焔の蒼色に染め上げながら、少女は片目を閉じて男に問うた。
狐少女「偉い立場の人間は遊びでキツネ狩りをするというが、ならばその逆もまた然り、とは思わぬか?」
その言葉の意味を説明するよりも先に、少女が水平のまま両腕を後ろへ大きく薙いだ。
両腕を弦として弓なりに力を蓄えるような姿に、男は嫌な予感を覚える。
だが身構えるより先に少女の雄たけびが響き渡った。
狐少女「つ、ま、り! 死ぬ気で逃げ回れということじゃーッ!!」
喜色満面、ドス黒い笑みを顔に貼り付けた少女は両手の焔の塊を男へと目掛けて投げ付けたのだった。
おお、再開とはこれは嬉しい
男「ちょっ! 熱っ!」
男は焔から身を守るように顔の前で両腕を交差させた。
焔は男の腕に命中した瞬間、舐める様に皮膚を伝って広がる。
即座に腕を振るって焔を払い落とすことに成功するが、その際に焔は壁や床に飛び散ってしまった。
だが焔は触れた物に燃え移ることも、焦がすこともなく、すぐに消えていった。
どんな力が働いているのか、男も同様で燃えてはいない。
だが火傷こそしていないものの、ちりちりと焔に炙られた痛みは確かな現実としてまだ腕に残っていた。
男「いてて……、って、ちょっ!?」
狐少女「おかわりはいかが、かのう?」
部屋の中央に佇む少女の周りに、さきほどと同じく蒼い焔の塊がいくつも現れる。
その数、おゆそ八つ。
男「い、いやね、俺は別に何か悪いことをしようと思っているわけではなくてだね、つまり互いに全裸への理解を」
狐少女「死ねい!」
弁解の余地も無く狐少女の第二射が放たれる。
男はあわてて背後の障子を開け放ち、転げるように部屋から飛び出したのだった。
~ 廊下 ~
男「ま、まさか、あの少女が妖狐の類だったとは!」
全裸で廊下を走りながら男は苦虫を噛み潰した顔で小さく呻いた。
男「おかしいと思っていたんだよ、全裸とか……ちくしょうめ」
狐に幻を見せられ、間抜けなオチの付く話なんてのは何百とある。
まさか自分がそうなるとは思ってもいなかった。
しかし悩んでいても仕方が無い。
男は走りながらつぶさに辺りを観察し、自分の置かれた現状を確認する。
どうやらさっきまでの部屋は離れ座敷になっていたようで、廊下の先は本館らしき建物へと続いていた。
廊下の左右の壁には採光用の窓が並んでいたが、走るうちにすぐに壁は途切れ、地面は飛び石、道として残るは柱と屋根のみとなる。
視界を遮る物が無くなれば当然、周囲の景観もあらわになった。
男「檜皮葺の屋根に寝殿造の屋敷とは、ここは本当にどこの貴族様の屋敷なんだか」
素人目ながら随所に技巧が凝らされ造詣の深い者が携わったのだと分かる美しく整えられた庭。
さっきまで自分がいた離れとは別の離れからも廊下がいくつも本館へと向けて伸びており、寝殿と対屋を繋ぐ構造は都で流行の高等建築に似ていた。
男「まあ、全部が幻とかいう可能性もあるわけだが、っとおぅ!」
右耳のすぐ隣を、蒼い焔が背後から駆け抜けて行った。
脚を止めずに振り返ると、着物の裾を両手で捲し上げて追いかけてくる狐少女の姿があった。
狐少女「待てぃ! 待たんか!!」
男「誰が待つかよ!?」
男は飛び石を無視して剥き出しの地面へと脚を伸ばす。庭を突っ切って敷地外へと逃げる算段だ。
だがそのまま強く踏み込もうとした瞬間、男のふくらはぎから腰に掛けて激痛が走った。
男「っく、随分となまってやがるな」
上手く身体が動かない。
ほんの少し走っただけなのに息も切れ始めた。
はたして、この体力で後ろの狐少女を振り切れるだろうか?
男「仕方ない、か」
三歩と進まず、元の道へと戻る。
逃げ切れる体力は無いと見ての判断だった、
代わりに目指すは威容にして異様なる本館への扉。
男「ああもデカければ隠れる場所の一つや二つくらいあるってもんだ、……あるよな?」
吉と出るか凶と出るか。
飛び交う焔を交わしながら、男は体当たり気味に本館へと続く重厚な木扉を押し開いた。
~ 本館の廊下 ~
狐娘「それでねそのお爺さん、大陸の方から何かおいしいお土産を孫に送るからって言ってね」
狐娘2「でも船旅で腐っちゃうでしょ?」
狐娘「そうなの、だから腐らない物だってウンときついお酒を送ってきたらしいの。まだ孫は三歳なのに」
狐娘2「親御さんへのお土産じゃないの、それ?」
狐娘「そうなのよ、うふふ、それがおかしくてね……」
―-ざわざわざわざわ・・・
狐娘2「待って、なんだか騒がしくない?」
狐娘「別にいいじゃない? きっとまたあの娘がバカやってるのよ。
それでね、孫へのお土産で晩のつまみを頂いていた親父さんだけどね?
あまりにキツいお酒だったもんで、ベロンベロンに酔っ払った挙句、素っ裸で町に出て大声で走り回ってね」
狐娘2「おお!? それでそれで!」
狐娘「お役人にしょっぴかれた後に色々と伝説が出来たらしいわよ?
いわく、公園の便所親父とか。
いわく、まがり角の叫び親父とか」
狐娘2「ちぇっ、もっとぐちゃぐちゃな話が聞きたかったのに。
ちなみに便所親父は分かるけど、まがり角って?」
狐娘「ほら、あんな曲がり角を全裸親父が雄たけびを上げて飛び出して来るって怪談がね……」
――どどどどどどっ!
男「うおおおぉぉぉーッ!!」
狐娘「ギヤァァァァーッ!?」
狐娘2「うぉぉおぉぉーッ!?」
男の選択は、凶と出た。
男「な、なんだよここは!」
驚くべきは今更ながら屋敷の巨大さ。
外観から想像はついていたが、行けども行けども延々と続く廊下に否が応にも実感がわいて来る。
そのうえ、
狐娘「いたわ!」
狐娘3「捕らえなさい!」
狐娘たち「うおおぉぉーッ! 婦女子の敵!!」
男「なんで、女しかいないのここ!?」
すぐ後ろからは斜め十字にタスキをかけた狐娘たちが、手に手に薙刀や弓矢といった獲物を持って男を追いかけてきていた。
そこに男性の姿は見えない。全員、女。しかも妖狐だ。
狐娘「全裸で忍び込むなんて! なんて不埒な人間!」
男「俺も好きで全裸になったわけじゃないの!」
狐娘3「敵は一人だが連携を怠るな!」
狐娘4「うん、後方支援は任せて!」
狐娘2「股間のブラブラが見えない! 男の人、こっち向いて!」
男「ちょっと! 獰猛な肉食の娘さんが一人混じっていますよ!?」
狐娘たち「まてまてーッ!」
男「くっ! ダメだ、廊下を走っていても追いつかれる。
部屋に飛び込むしか……なむさん!」
男は意を決し、適当に目星をつけた部屋の障子を突き飛ばすように横に流し――
~ 更衣室 ~
狐娘たち「……ほへ?」
無数の視線が男へと殺到する。
狐娘たちはまだ着替えていた途中で、緩んだ着物の隙間から血色豊かな柔肌が垣間見えていた。
中にはじゃれあっている者もおり、ふくよかな胸の膨らみを互いにつかみ合っていたりと、日常の一場面のまま固まっていた。
狐娘たち「…………」
男「……し、しつれいします」
すぐ後ろには狐娘たちによる討伐隊が迫ってきている。
四の五の考えている暇は無い。事態打開には部屋を突っ切るしかないのだ。
狐娘・イ「……き」
狐娘・ロ「きゃ~~ッ!!」
狐娘・ハ「ヘンタイ~ッ!」
男「あだ、あだだだだ!」
だが男に起きている不幸なんぞ狐娘たちが知っているわけがない。
蹴り、殴り、手に取った物をがむしゃらに投げつけ、男の股間をチラ見したりガン見したりする。
無慈悲な暴力に晒され、涙目になりながらも男はなんとか更衣室を突破した。
~ 丁字の曲がり角 ~
狐娘1「どっちへ行った!?」
狐娘2「私たちは右に、他のみんなは左に!」
狐娘たち「おう!」
ドドドドドドッ・・・
男「……行ったか」
天井にへばり付いて息を殺していた男は辺りに人影が見えないのを確認すると、音も無く廊下へと降り立った。
男「失敗した。……が、これは好機かもしれないな」
騒ぎは館の中に集中している。
今なら外に目を向ける者も少ないだろう。
それにドサクサに紛れて狐少女を撒けたようだ。
男「どちらにせよ体力も限界だ、早く行動を起こさなければ」
更衣室を抜ける際に拝借してきた背格好のあう襦袢を素早く着込み、おぼつかない足取りで走り始める。
頭の中で描いた館の見取り図を元に廊下を移動し、庭へと面する縁側から外へと飛び出した。
男「よっと、さて東西南北どちらに行くべきか」
狐少女「それならそのまままっすぐに南門へと行くが良かろう。あそこが一番現界へと近い」
男「おお、ありが…………」
男は背後からの声に礼を言い掛け、固まる。
その声はよく澄んだ声で、やけに聞き覚えのある声だった。
男は背後を振り返ることも無く、脱兎の如く駆け出した。
狐少女「あ、こら、待たんか!」
男「ひーッ!」
案の定、背後からつぶてのように投げられ始めた蒼い焔を交わしながら、男は南門とやらへと進んでいった。
狐少女「おのれ! いい加減に諦めて丸焼けになれ!」
男「ちょっ、熱い! 熱いって!」
狐少女「がはは! そうそう、そうやって子ネズミのように逃げまわるが良い!
……ぜぇ、ぜぇ、ただもう少し速度を落とせ! 疲れる!」
男「だれが脚を止めるかよ! くっ、つぅ……!」
雪駄を履いて追ってくる狐少女は着ている服のせいか遅い。
だが男のほうも体調不良から狐少女との差はつかず離れず、延々と追い回されるハメになっていた。
男「足の裏も全身も痛いし、思わず駆け出したが南門とやらは本当に存在するのか?
というか、こっちが南であってるよな? ……おっ!?」
口に出して言っていればなんとやら。
遠目からも分かるやけに大きな木組みの大門が前方に見えてきた。
男「左右には長大な塀、直接に門から抜けるしかないが果たしてどうすれば・・・おっ?」
走りながらよくよく見てみれば、門扉が微妙に開いている。
重厚な樫の門の向こうには、みずみずしい木々の青さが揺れているのが見て取れた。
男「渡りに船、地獄に助けとはこのことか!」
狐少女「ああっ!? 逃げるつもりか貴様!」
男「んなもん、逃げるに決まってるだろうが!
こちとら初っ端から逃げる気満々だよ!」
狐少女「今にも死にそうだったお主を介抱せよと命じたのはワシじゃぞ!
焼かれて恩を返そうとは思わぬのか! この恩知らず!」
男「そんなご無体な!?」
狐少女「ぜいぜい……、いまなら右か左か、半身を焼くだけで済ませてやろう! はやく脚を止めよ!」
男「半分だから何だよ!! 『うわぁー、おっ得ぅ!』なんて抜かすと思ったかクソ狐!」
狐少女「ク、クソ狐じゃとぉ!!」
男の言葉に、全力疾走で息が上がり赤らんだ顔を怒りでさらに紅潮させる狐少女。
歯を見せて短く唸ると、両手で捲し上げていた自分の裾の右側を掴み、そのまま左右に引き裂いた。
着物の切れ目から、すらりと伸びた脚が露出する。
狐少女「ワシを本気で怒らせたな! 人間ごときが妖狐の脚を舐めるでないぞ!」
狐少女は身をかがめ、そのまま一息に加速した。
驚いたのは男だ。
男「うおっ!? マジかよ!」
狐少女との距離が瞬く間に縮んでいく。
だが男には隠した脚などない。
10間、8間、6間――。
門が迫る。
その倍の勢いで、男の後方から狐少女が迫る。
そして、
狐少女「つ、か、ま、え、たぁーッ!!」
男「ぐわぁー!?」
狐少女が男の背目掛けて飛び掛ったのは、ちょうど門を越える瞬間だった。
それは野鼠に飛び掛る狐、そのものの動きだった。
両腕を広げた狐少女の身体が見事な放物線を描き、男の背に体当たりが決まる。
同時、男の首に狐少女の両手が巻きついたかと思えば、男の胴を背後から狐少女の両脚がカニのように挟み込んだ。
男「お、おおぉぉーっ!?」
突進からの拘束を食らい、男の上体が急激に前傾する。
ただでさえ足腰が萎えている上、そんな病身に鞭打って疾走中であった男に踏みとどまる力は無かった。
――がつっ。
トドメとばかりに男のつま先が門の敷居につまづいた。
男「あっ!」
狐少女「あ?」
思わず漏れた男の声に、いまだ事態を把握せず男の背で得意げな顔を浮かべていた狐少女が間抜けな声を上げる。
一瞬の浮遊感。
男の目前まで迫っていた木々の新緑が、茶色い大地へと変わっていく。
当然、男にへばりついた狐少女も同じ運命を辿った。
男「お、おおぉぉぉぉーッ!?」
狐少女「お、おおぉぉぉーッ!?」
二人(一人と一狐)は仲良く叫び声を重ねながら、これまた仲良く一つの塊となって地面をマリ玉のように転がっていった。
~ 南門・館の外側 ~
時間は少しさかのぼる。
館に向けて、一台の馬車が近づきつつあった。
白狐「なんだか、さわがしいですねぇ?」
やけに間延びした声を出したのは、御者台に座る独りの妖狐・白狐。
銀白色の長い髪の下で、目尻を下げた優しげな瞳を困っているんだかよく分からない風に細めている。
着ている純白の和服の胸元には、ふくよかな双丘からなる谷間が覗いているが太っているというわけではない。
単純に胸がデカかった。
白狐「ふうぅむ? 迎えもいませんし、このまま門を開いて入っちゃってもいいのですけど……」
麻紐で織られた腰掛を尻に敷いた白狐は思考しながら手綱を引き、黒い毛色の外国種と見られる立派な体躯の馬を操る。
そのままどしりと立ちはだかる門の脇に馬車を止めると、白狐はちらと背後を振り返った。
そこには簾で四方を覆われた車箱があった。
牛で引く御所車によく似ているが、屋根や造りの所々に日ノ本の文化とは似ても似つかない技法や装飾が施されている。
しかしそれでいて見苦しくはない。違和感はあるが。
白狐「うーん、あまりお待たせするのもアレだけど、でもでもこのまま入っちゃうと、迎えに来なかったってことで、お留守番している方たちの立場が無くなっちゃいますし、……うん、館の周りをそれとなくもう一周してきましょう!」
ぽんぽんと手を打ち合わせ、うんうんと頷き、馬に指示を飛ばそうと手綱に再び力を入れようとする白狐だったが、
?「構わぬ、入れ」
白狐「はにゃーッ!?」
鋭い声に背中を刺され、白狐は冷や水をぶっ掛けられたように背筋をぴんと伸ばした。
白狐「お、起きてらしたのですかぁ御前?」
御前「そもそも寝ておらぬ、まだ仕事の半分ほどしか片付いておらぬしな」
白狐が慌てて振り返ると、ちょうど向かって箱の右の簾が半ばから持ち上がるのが見えた。
女性の物らしき左腕と赤い着物の袖がちらりと覗き、気だるげに答えるように軽く上下に揺れる。顔は見えない。
白狐「『まだ』半分ほどって……二ヶ月分は溜まっていたのではー?」
御前「文書に目を通して判を押し、適当な部署に流すだけの、普段なら片手間で済む仕事だ。いくら積まれた所でさほど時間はかからぬよ」
白狐「はあ、そういうものなのですかぁ」
感心半分、狐につままれたという気持ち半分、白狐がそんな面持ちでいると、
御前「それよりも早くしてくれ、落ち着いた場所で仕事をしたい」
白狐「あ、はいー、わかりましたぁ」
そうまで言われれば白狐に断る理由もない。
お留守番の連中は後で小言の一つくらい食べさせられる羽目になるだろうが、迎えを集めるために主人を待たせるというのも本末転倒な話である。
とはいえ、目の前の門は閉じたまま、普段から閂も掛かっている。外から易々とは開けられない。
しかし門を前に白狐は悩むそぶりも見せず御者台に腰を落ち着けたまま自分の後ろ髪を指ですくように右手で撫で下ろした。
それが終わって目の前まで手を持って来れば、人指し指と中指の間に一本の長い髪の毛が銀糸のように巻きついていた。
白狐「おちびちゃんたち、お願いしますね」
言うが早いか白狐がそのまま空に自分の髪の毛を放ってみせると、途端に変化が現れた。
髪の毛が丸まり、鞠くらいの大きさに膨らみあがったかと思えば、
ちび白「ぷぃー!」
一本の髪の毛は、白狐を幼くしたような外見の、二頭身ほどの奇妙な生き物へと一瞬で変わっていた。
ちび白「ぷぃぷぃぷいー!」
ぽんぽんと分裂を繰り返し、その数は一瞬で十を超えた。
そのまま二頭身の生き物たちは舞い踊る落ち葉のように、重力を感じさせぬ動きで風に乗って塀の向こうへと消えて行った。
――そして数十秒後、
その重々しい見た目とは裏腹に、門は軋む音も出さない滑らかな動きで内側へと開き始めた。
門の向こうでは二頭身の生き物たちがせこせこと門を開けるべく働いているのが見える。
白狐「よしよし、ではいきますか~」
白狐が手綱を両側から引くと、黒毛の馬は慣れた脚運びで後退を始めた。
荷車と違い、個人用の屋形車なので馬への負担も少ない。
方向転換するのに十分な距離をかせぎ、開かれた門へと向けて馬を前進させる。
遮蔽物が無くなったせいか、いくぶんか館の喧騒も近づいてきたように感じた。
白狐「本当に騒がしいですね~? ゴキブリでも出たんですかね~?」
御前「たわけ、虫ごときが結界を破れるものか」
後ろから呆れたような声が聞こえた。
白狐の独り言は周囲の状況報告も兼ねている。
特に返事を期待していた訳ではなかったので、御前が反応してくれただけでも白狐は嬉しくなった。
やんわりと頬が緩む。それだけならいいが白狐はついつい気も緩ませてしまった。
いつものようにゆったりとした口調で、
白狐「ですよね~、でもそれなら……」
原因は何でしょうか、といいかけて「あっ」と白狐は言葉を途切れさせた。
外部からの仕業でないなら必然、この騒動は館の内部で起きたということになる。
そしてここ数年間、館で騒動を起こす者となると白狐の頭に浮かぶのは一人、もとい一狐だけであった。
御前の抱える『火種』こと――
御前「桜姫め、また何かやらかしたか……」
白狐「あ、あわわわわ!? まだ桜姫様が問題を起こしたと決まったわけではありませんよ!?」
心底疲れを滲ませる御前の声の色に思わず白狐は振り返ると、わたわたと手を振りながら簾の向こうにいる御前へ必死に弁明する。
白狐「桜姫様はとても良い子です! まさかほんの数日、御前が館を離れただけで問題を起こすなんて事はありませんよ!」
御前「そう……だな、確かにそうだ。私が信頼してやらねばな」
白狐「そのとおりです! 心配なんてせずとも桜姫様は」
ぐっと拳を握って白狐が力強く締めくくろうとしたときだった。
かたまり「「おおぉぉぉーッ!?」」
大絶叫をほとばしらせながら、白狐たちの馬の真ん前を何かが勢いよく横切っていった。
それは門を飛び出すと盛大に土煙を上げながら地面を転がって進んでいき、
かたまり「「ごふっ!?」」
おあつらえ向きな巨木の幹にぶつかって、ばらけた。
白狐「……」
拳を握り締めた格好で、ギギギと油が切れたゼンマイ仕掛けのようなぎこちない動きで前へと向き直る白狐。
ゆっくりと地面に残った跡を視線で追い、かたまりだった物たちへとたどり着く。
人間らしい男と、よく見知った妖狐の少女が、仲良く折り重なって伸びていた。
男「う、うぅ……」
桜姫「ぐぐうぅぅ……」
白狐「…………」
後ろの御前の沈黙が、チクチクというかザクザクと白狐の精神を削ってくる。
白狐はおもむろに空を見上げてみた。
吸い込まれそうな青い空、流れる白い雲。
今日もいい日になりそうですね~、なんて思いながら白狐は自分へと忍び寄りつつある台風から目を背けるのだった。
~ 館・座敷牢 ~
行燈の中で青白い炎が揺れている。
部屋は薄暗い。炎が身じろぎをするたびに部屋の陰影が舐めるような青い光に一瞬だけ照らされていくが、すぐに元の薄暗闇へと戻ってしまう。
男「はぁ、妖怪狐たちの館に逆戻りか……」
背中から壁にもたれかかると畳の上で足を伸ばした。
あの後、妖狐たちにあっさりと捕まった男は土蔵の中にあるこの座敷牢へと放り込まれたのだった。
辺りには肌寒い空気が漂い、あまり使われていないのかやけに埃っぽかった。
男「脱出は……難しそうだな」
外界へと繋がる扉は、太い角材によって組まれた格子の向こう側にある。
壁もそれなりに厚みがあるようで壊すのは骨が折れそうだった。
男は肩から力を抜くと、そのまま畳の上で横になった。
それを見計らったかのように男の腹がぐきゅると鳴った。
男「腹減ったなあ、いつから食ってないんだろうか」
腕を枕に瞼を閉じ、自分の過去に思いを馳せる。
しかし記憶は欠落したままだ。その断片へと辿り着くきっかけすら掴めなかった。
男「……お?」
そのとき、がちゃりがちゃりと錠を外す音が外から聞こえてきたかと思うと扉が開き、まばゆい外の光を背に何者かが座敷牢へと入ってきた。
狐娘「食事を持ってまいりました」
ぶっとい角材の格子の隙間から茶碗の乗った盆がそっと差し込まれる。
湯気立つ白米、味噌汁、焼き魚。
食欲をそそる香ばしい匂いに男は無意識に唾を嚥下した。
男「おっ? そういや腹が減ってたんだよ! ありが……」
――ガチャン。
腕を伸ばして盆を受け取ろうとする男の目の前で、盆が畳の上へと落とされた。
味噌汁がこぼれて白米にかかり、焼き魚が畳の上に転がった。
男「……え?」
わけが分からず、狐娘の顔を見上げる。
表情を消した狐娘は、ぽつりと小さくつぶやいた。
狐娘「はだか」
男「……もしかして、館での一件を怒ってらっしゃいますか?」
狐娘「はい」
男「……」
狐娘「それでは失礼します」
狐娘はそれだけ言うと用は済んだとばかりに元のように扉を閉め、外からがちゃりがちゃりと錠を掛け直す音を響かせて去っていった。
男「ひでえことしやがるなあ、自業自得だけど、……うめえうめえ」
ぶつくさ言いながら、ねこまんまと化したご飯と焼き魚をかっ食らう。空っ腹には最高の味わいだった。
男「ふぃー、食った食った。このまま寝る、のはさすがにマズいか」
一息ついて落ち着くと立ち上がり軽く身体を動かしてみる。
伸びをして、屈伸をして、肩の関節を回す。
体調は可も無く不可も無く、走り回ったおかげで鈍った身体もちょっとは引き締まったようだ。
痛みを発する部位に気をつけて、力の入れ方を工夫すれば、多少激しい運動もできる。
男「いける、な」
顔を上げる。
ちょうど二階建て家屋の屋根くらいの位置に、壁と同化するように固く締め切られた木戸が見えた。
妖狐たちに連行されて来る途中、蔵の外で見つけて頭の片隅に留めておいたやつだ。
男「上手く脱出できたらお慰み、厳重に窓にまで格子が嵌めてあったら諦めろっと」
一人ごちりながら足首をぐりぐりと柔らかくほぐす。
常人なら戸には指先を届かせることすら叶わないだろう。そうでなければ座敷牢として機能しない。
しかし、男には確信があった。記憶は無いが、身体が経験として覚えている。
息を大きく吸い込んで衝動のまま飛び上がり、僅かな出っ張りを巧みに使って壁を垂直に走るかのように駆け上がっていく。
一息で木戸まで登りきると枠に手を掛けて溜めていた息を吐き出した。
男「ふう、なんとかいけたか。このまま戸を蹴破って、隠れながら館を脱出。それで問題なし、万事解決だが」
心残りというか、後腐れというか、後ろ髪を引かれるような思いが男の胸につっかえていた。
原因は少し前、門を越えた所で妖狐たちに捕まった時のことだ。
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