櫻子「めぐみの雨と、恋で咲く花」 (94)

私たち四人の距離が離れだしたのは、夏休みが終わったくらいからだった。



「もう受験だし、みんなで遊ぶのも控えないとね」


この時の撫子の言葉には、確かに同意していた。夏は受験の天王山、しかしその夏休みになってもまだ割り切れず、受験勉強という名目で集まってはいつものように遊んでいた私たち。

あまり良いことをしていないとはわかっていながらも、特に私や美穂は、残り少なくなる高校生活を前にもっとたくさんの思い出を作りたくて仕方なかった。

口火を切ったのは撫子だが、藍も撫子と同じ気持ちだったことだろう。それでも私たちの無理に付き合ってくれていた彼女たちには、感謝しなければいけない。


美穂はどちらかといえば私サイドの子だと思っていたが、撫子の言葉があってから一番ストイックになったのは彼女だった。

もともと本気を出せばすごい子だというのは知っていたが、撫子や藍をも驚かせる集中力、そしてそれに見合った結果をたたき出す彼女を見て、「三人が私に付き合ってくれていたのかもしれない」と静かに思うようになった。



撫子も藍も美穂も四年生の大学を目指していた。私は県内の製菓学校に行こうと思っていたから、勉強なんて勉強は三人に比べたらやっているうちに入らず、むしろバイトが多くなった。ケーキ屋でのバイトをするほうが勉強をするよりも進路に近い行動だったからだ。

今となっては、その時の行動に後悔している。テスト勉強という名目でもよかったから、みんなと一緒に勉強する時間を作っておけばよかった。問題集と戦っているみんなを、傍で見ているだけでもよかった。


時が過ぎるにつれ、試験までの時が近づくにつれ、私たち……いや、私と三人の距離は離れていったような気がする。気がするというのは、もちろん普段の授業中は一緒だし、休み時間も、お昼を食べる時も一緒だったからだ。

それでも自分だけが離れていく気がしたのは、みんなと同じことをしていなかったからだろう。違う道を歩むことになるという意識の芽は、ここでひっそりと顔を覗かせていたのかもしれない。


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「模試の結果が、右肩あがりなんだ」―――夜十時、珍しく嬉しそうな声が電話口から届いたこともあった。

撫子と付き合うようになって決めた、二人を密かに繋ぐ夜十時の電話は、受験期真っ盛りの冬になると当然数を減らしたが、それだけに一回一回の電話が愛おしく感じるようになった。

「おめでとう」「すごいじゃん」「撫子なら絶対受かるよ」電話越しではそんなありきたりのことしか言えなかった自分だが、まるで自分の成績が飛び上がったかのような嬉しさを感じていた。ここでもまだ、顔を覗かせた芽は育つことなくおとなしくしていた。



年が明け、センター試験が終わったころに、芽は急速に成長した。受験生が学校に来ることがほとんど無くなったのだ。

私は孤独を痛感した。学校に来れば当たり前のように皆と会えると思っていた、その常識が壊された。

学校には私以外にももちろん生徒はいたが、二次試験等を控えた学生は既に自宅での勉強体制になっていた。私立大学に関しては受験日がバラバラだし、もうその段階の高校生活は私の知っている高校生活ではなかった。卒業という駅に向かう列車に乗って、おとなしく座っているだけだった。

冬という季節もあったからか、感じる寂しさはしんしんと降り積もる雪のように、静かに確かにつのっていった。受験日が刻一刻と迫る緊迫した思いをしていたであろう皆には申し訳ないが、私はさっさとその日が過ぎてくれるのを待っていた。

私たちはそれぞれ、無事に志望の進路先に合格した。もちろんそれも自分のことのように喜んだが、「みんな絶対受かる」と思っていた私にとって、そこに驚きという感情はなかった。ただただ、嬉しかった。みんなの夢がかなったことと、これでまた私たちが一緒になれると思って。


春休みは毎日のように遊んだ。受かったら皆で行こうと決めていた温泉旅行にも行ったし、毎日毎日が楽しくて、あっという間に過ぎて行った。バイトを極限に減らしてまで、みんなと一緒にいたかった。そのくらい待ち焦がれていた時間だったのだ。


卒業式は思い切り泣いた。皆に比べて受験という受験に携わっていなかったくせに、私が一番泣いていた気がする。

嬉しさ、悲しさが合わさった感情がとどまることなく溢れた。よみがえる思い出も全て涙になって溢れ、私は最高の高校生活だったと改めて噛みしめていた。久しぶりにそろったクラス全員の顔、荘厳に飾られた体育館、早咲きの桜の香りは、今でも昨日のことのように思い出せる。



そこを区切りに、私たちは新たな始まりに向かって歩き出した。入学先の下見に行く人が現れ、入学式の時に着るスーツをみんなで見に行ったりもした。

地元に残る私は、寛容な気持ちでみんなを見ていた。すっかり送り出す側の気持ちになっていた。ちょっとだけ、子どもを送り出すお母さんってこんな感じなのかなと思った。



お花見をしようという計画があったのだが、その計画の前日に私は撫子に呼び出され、二人きりで一足早い花見をした。

久しぶりのデートだと思っていたが、そうではなかった。でも撫子としては、れっきとしたデートとして私を誘い出したのだろうから、そういう意味ではそうであった。


私たちの、最後のデートだったのだ。

「電車で……何時間くらいかな。結構かかるよ」

「もう部屋は決まったの?」

「うん、そんなに大した部屋じゃないけどね。一人暮らしって初めてだから、ちょっと不安かな」

「そんな! 撫子は普段から家のこともちゃんとやってるじゃん!」

「家事とかはそうだけど……やかましい妹たちと、ずっと一緒だったからさ。静かなんだろうなあ、一人って」


新しい世界へ踏み出したことを語る撫子は笑顔だった。相当なプレッシャーに打ち勝って、ほっとしている人の顔だ。

そんな撫子の顔を近くで見ていると、今までとは違う名前のわからない気持ちがじわじわと溜まっていった。この顔がずっと見たかったのに、どこか納得のいかない気持ち。プラスでもマイナスでもない、けれど気になってしまう何か。


桜を見ながら、私がバイト先から持ってきたお菓子を食べた。明日のために場所を見学しようと、二人で桜並木を散歩した。賑わう花見客を横目に見ながら、よさそうな場所を探した。

人気が少なくなったあたりの桜に目をつけ、撫子はそれをしばらく眺めていた。


涼しくも眩しい太陽、風に舞い散る桜、ふわふわなびく撫子の髪。


目に映るすべてが、スローモーションに見えた。


別れの時が来たと、無意識に察知した。

「ありがとね、めぐみ」

「え……なにが?」

「めぐみのおかげで今まで楽しかったし……つらい時も頑張れた。もしめぐみがいなかったらどんな高校生活だったか……想像もつかないよ」

「それはこっちも同じだって。私がどれだけ撫子に助けられてきたか……」


「秘密、ついに守れたね。私たちが付き合ってること、たぶん誰にもばれてないよ」

「何年かたって、大人になったらさ……みんなに打ち明けてみてもいいかもね。実は付き合ってました! って」

「どうなるかなあ……美穂あたり、そんなの知ってたわよ? って言ってきそうな気もするね」

「そうだね」


最初に告白したのは私の方だったが、撫子はすぐに私を受け入れてくれた。

女の子同士で付き合うことに、躊躇は全く無かったようだった。

「めぐみのこと、あんまり知らなかったけど……だからこそ、付き合ってみようって思った。今思えば、この子のことをもっと知りたいってその時に思ってたわけだから……第一印象の段階で、私はもうめぐみが好きだったんだよね」


撫子らしい、と思った。こんな考えができるところに、私は惹かれたのだ。


撫子は私たちの秘密を守るのが上手かった。演技とかは苦手なんだよって言うくせに、付き合っているそぶりを見せない技術には驚くものがあった。

私を守るために、秘密で覆いこんでくれていたのだ。

それでも私の気持ちを汲んで、定時の電話をしたり、ペアのアクセサリを見に行くのにも付き合ってくれたり……


最高の彼女ができたと、私は毎日嬉しかった。こんなにすごい人が私の彼女なんだ。夢みたい。でも夢じゃない。そんな日々を噛みしめていた。


秘密としてお互いを守りながら、一歩ずつ一歩ずつ、共に歩んできた日々。


何物にも代えられない、私たちの宝物。

「めぐみ」


無意識に今までを振り返っていたところに呼ばれて、はっとなった。

撫子は、優しくて真剣な目で私を見据えていた。


「……なに?」


何が来るかわからなかった。でも、何かが起こってしまう気は最高に感じていた。


風の音も、遠い喧騒も、激しい私の胸の鼓動さえ聞こえなくなったと思った時に、撫子は私にキスをした。


それはありえないことだった。キスをしたことは何回かあったけど、それは完全に二人きりの空間でだけ。

誰かに見られる可能性のある屋外では、絶対にそんなことはしないと二人の間で決めていたのだ。それはたとえ、私が欲していたとしても。


自分で作った規則を、初めて自分から破った撫子。

頭の中は、いけないという気持ちでいっぱいだった。どんなに私がさみしい時でも、二人で決めた約束は守ってきたからだ。

どうしてタブーを犯すの? なんでこんなことするの? そんな余計な考えばっかりが頭を巡って、私の肩を優しく包む撫子の手も、想い焦がれた唇の感触も、ふわふわとして何も感じられなかった。

涙だけが、なぜか流れていた。

「…………」


長くもなく、短くもない時間が流れて、愛しい唇は離れた。

目を開けると、私の視界は歪んでいる。大粒の涙は零れ落ちたルートを辿って、私の頬をさらさらとくすぐっていく。

その歪んだ景色の中で、撫子も泣いていた気がした。


私が涙を拭うのと同時に、撫子はくるりと背を向けた。


「明日も、ここで」


それだけ言って、撫子は私から離れるように歩いて行った。


桃色の視界の中で小さくなっていく背を、私は追いかけることができなかった。


そのまま動けずに、何も言えずに、桜の中で立ち尽くすことしかできなかった。


夢が、終わりを告げた。

   ~


「…………」


頭の熱さで、目が覚めた。

日はとうに高く上がっており、窓から差し込む太陽の光が私の顔元まで届いていた。梅雨入り前の、もう暑さが顔をのぞかせている季節。

ねぼけ眼で携帯を取る。時刻は午前十時半。着信なし、メールなし、LINE通知なし。


今日はバイトのシフトは入っていない。学校もない。だれかとの予定も何もない。

予定がなくても、いきなり電話して遊べていたような親密な友達は、もういない。

特別遊ばなくても、電話をするだけでその日一日幸せな気分になれるような、そんなあたたかい彼女も、もういない。


撫子は、もういない。

(今頃、何やってるのかな……)


撫子は私と違って、休みの日でもちゃんと早起きをしていそうだ。

何かしらのバイトを、始めているかもしれない。

やりたい勉強ができるようになったから、それに打ち込んでいるかもしれない。

新しい友達を、もうたくさん作ったかもしれない。


「撫子……」


遠い存在になってしまった最愛の彼女のことを考えると、ひくつくこともなく、乾いた頬を涙が伝った。

私の時間は、夢の中のキスから……あの満開の桜の日から止まってしまった気がする。

前に歩けている気がしない。新しいことをする気力がない。

ただただ、あの素晴らしかった日々の思い出に、浸ることしかできていない。

   ~


桜の木は、青々と茂っていた。

今日は風がまるで吹かない日だった。空にはほんの少しの雲と、もう夏本番と大差ないほどの元気な太陽が鎮座している。歩くたび、しっとり汗ばむ肌に服が張り付く。


「…………」


桜の木陰に入って、遠くを見つめる。


なぜここに来たのか。なぜ今日も、この桜の木の下に来ているのか。


それは、あの日の答えを探すためだった。



撫子は、大学の所在地と下宿先の住所は教えてくれていた。だからどこで何をしているのか、わからないわけではなかった。

しかし、今までのような電話やメールのやりとりはできなくなってしまった。そこがわからなかった。

付き合っている彼女同士じゃなくても、友達同士に戻ればいい。お互いの距離が離れたとしても、距離が離れただけの友達同士に戻ればいいのに。

なぜ、関係を切ったのか。

なぜあの日、二人の秘密を壊すようなキスを、ここでしたのか。

(……わかってる)


答えを探りに来たものの、その答えはとうにわかっているのだった。


終わりにしたかったのだろう。新しい世界へ踏み出すために、今までの思い出と決別したくて。


あのキスで、私たちは終わり。そういうことだ。


楽しかった、撫子と付き合う日々。けれどそれは所詮、ちょっと進んだ高校生同士の秘密の関係。私たちが一緒にいられたのは、同じ高校の同じクラスの友達同士だったからだ。

当たり前のように一緒にいられた環境。だからこそ女同士の私たちでも、秘密を貫いたまま付き合うことができた。

その環境がなくなってしまえば、私たちはもう今までのような密接な付き合いはできない。

だからそんな二度と叶う事のない夢のような過去に別れを告げて、新しい世界で現実的な未来がお互い歩めるようにと、いさぎよくキスで幕を閉じてくれたのだ。


自分のために、私のために。



(最初からそうだったんだ)


(撫子は、付き合ってくれると言ったあの日から……卒業と共に終わる関係だと決めていたんだ)


(だからこそ、私のために一生懸命な彼女でいてくれた……)

付き合い出したあの日から、キスで別れた最後まで、撫子は私のために動いてくれていた。

一緒に歩んだ、最高の日々。そんな日々にキスでピリオドを打って、新しい系譜が描けるようにしてくれたのだろう。


でも、


(私は……本気だったんだよ……)


(こんな最高の彼女と、これからもずっと一緒にいられるって思ってたから、だから毎日楽しかったのに……)


(そんな日々を捨てて新しい夢を探すなんて、私にはできないよ……)


(撫子より良い人なんか、いるわけないよぉ……!)


綺麗に夢を終わらせてくれた撫子。でも私は最初から本気だったから、突然終わりを告げられても諦めることはできなかった。

遠くに行ってしまった今も、撫子のことしか考えられない。撫子に今すぐにでも会いたい。

当たり前のようにあったものがなくなって、失って初めてその大切さ、どれだけ私が好きであったかを思い知らされた。


終わりたくない。終わらせたくない。


けれど、終わってしまった。


それが認められなくて、こうしてこの桜の木に縛られたように、毎日来てしまっている。

メールを送れば、返ってこないわけではないのだ。時間はかかるが、短い文だが、ちゃんと返してくれる。

けれど、付き合っていたころとはまるで違う、飾り気のないシンプルなメールを見ることが悲しくて、

メールを続けようとする意思がないことを感じてしまえる文章、それを撫子に送らせてしまっていることが嫌で、

せっかく終わらせてくれた撫子の気持ちを受け止めてあげられない自分が、やつあたりをしているようで、

自分からも、連絡することは絶っていたのだ。


最後に撫子から返ってきたメール、どんなものだったか思い出せないけど、思い出せないくらい形式的で感情のない文章だったと、それだけはわかる。

それでももう一度見てみよう、高校生活のときとどれだけ違う文章になったか見てみようと、スマートフォンを取り出す。

ここには二人で何度も交わしたメールも残ってて、みんなで撮った写真も入ってて、確かに付き合っていた頃の輝かしい過去が残っている。

メールのアイコンをタッチして、受信BOXを開こうとして、そこで液晶に雨のしずくがぽつりと落ちた。

雨だと思ったのに、気づいてみれば自分の涙であった。また、自分でも気づかないうちに泣いてしまっている。

このまま撫子からの感情のないメールを見てしまったら、いよいよ涙は止まらなくなってしまうだろう。諦めて携帯をロックし、ポケットにしまい、泣いていることをごまかすように空を見上げた。


本当に雨が降ってくれればいい。

恵みの雨が降りそそいで、この桜の木がもっともっと大きく育って、春が来たら今までより立派で鮮やかな桜を咲かせてくれればいい。

全てを締めくくったキスシーンを綺麗に飾って、現実とは思えないくらい美しく飾って、思い出として昇華してしまえるくらいに。


撫子のことを、忘れないといけない。

撫子のことを、諦めないといけない。


別れてから何度も向きあってきたこの事実に、受け入れられませんとでも言うようにして、心の底のもう一人の私が勝手に涙を押し出してくる。


その大粒の涙を手で拭って、桜の木にたらした。

私の悲しみを取り込んで、来年の春、真っ白な桜を咲かせてよ。


透明なしずくが指をつたって、根元の地面に着地したのと同時に、後ろから肩を叩かれた。



驚いて振り返ると、そこには、



撫子が、いた。

「あ、やっぱりめぐみねーちゃんだ!」

「…………」



……撫子じゃなかった。


トートバッグを肩からさげて、片手を腰にあてて立つポーズ、そして何よりその顔が、撫子にそっくりだったが、


そこにいたのは、撫子の妹の櫻子であった。


「あれ……めぐみねーちゃん……?」

「っ…………」


突然のことだったので、自分が泣き顔であることも忘れていた。一瞬で思いだし、顔を隠すように後ろを向く。

変なところを見られてしまった。

「な、泣いてるの……!? 何かあったの?」

「ん、いや……違くて……!」


私の手を握って、詰め寄ってくる櫻子。


その目をはっきりと見てしまった。


私が一番見たかった、あの人の目。毎日のように夢で思い描く、あの人の目。

キスで別れたあの時、私に向けた真剣なまなざし。


櫻子の目は、撫子とまったく一緒であった。



「う……んん、ぅぅう………」

「えっ、えっ?」

「撫子……なでしこぉ……っ!!」


撫子じゃないことはわかっていても、ずっと見たかったものと同じものが目の前に現れてしまい、私は感情を抑えることができなかった。

撫子よりも背の低い彼女を抱きしめ、けれど首元からは撫子と同じ香りがして、ずっと閉じ込めていた寂しい気持ちが一気に溢れ、大声を上げて泣いてしまった。


会いたかった。ずっと会いたかった。そんな想いをなすりつけるように、子どものように泣きながら櫻子の胸に涙をしみこませた。


何もわからないであろうに、その小さな撫子は黙って背中をさすり、私を受け止めてくれた。

そんな慰め方も、姉とまったく同じであった。

   ~


「本当はこういうときは喫茶店とかの方がいいのかもしれないけど……私まだ中二だし、お金もあんまり持ってなくて。だからごめんなさいなんだけど」

「う、ううん……いいの」


私がようやく落ち着きを取り戻すと、ゆっくり話がしたいからついてきてと誘われた。

どこに向かうのかわからなかったが、まさかここにもう一度入れる時が来るとは思っていなかった。


「ただいまーっ」

「あ、櫻子おかえり……って、うわっ! めぐみお姉ちゃん……?」

「花子ちゃん……こんにちは」

「こんにちは……な、なんで櫻子と一緒なの?」

「まあまあ、大人の事情があるの。めぐみねーちゃん、私の部屋いこ?」


―――大室家。


最後にここに来たのは、春休みの序盤。温泉旅行の詳しい内容を決めるために、撫子の部屋にみんなで集まったのだ。計画を立てるのが目的だったが、その実は遊ぶ方に夢中になってしまい、ちゃんとやれば数時間もかからないはずの予定決めは結局丸一日かけてようやく、といった具合だった。

みんなと遊ぶときでなくとも、撫子と付き合う中でよく来たものだ。ここは、私たちが二人きりになれる限られた貴重な空間だった。

付き合いだした当初は「うちは妹とかその友達がたくさんいるから、私がめぐみの家に行くよ」とあまり誘ってもらえなかったのだが、時間が経つにつれてだんだん寛容になり、次第に「私の家に来てほしい」とも言うようになっていった。


二人きりで過ごす時間は、外のそれとはまるで違う。撫子はここでしか見せない顔をたくさん持っていたし、それは私だけに許されているのだと思うと、心が満ち足りて仕方なかった。

普段関係を隠すように振る舞っているだけに、愛を確かめ合うときはより一層の反動があった。時間の比率で言えば「隠している私たち」の方が八割以上あったのに、それでもこの二割無い時間の方が「本当の私たち」なことに変わりはなかった。


言葉に表せずに溜まり続けた想いが、この許された空間では自然と滲み出てくる。互いが互いを求め合って、繋いだ手は次第に手ではない部位へ滑っていき、目を閉じれば、撫子は何も言わずにキスをくれた。

二人で、そういうことをしたことも、あったのだ。私の初めては、撫子だ。

大室家の玄関前に立つと無性に心がざわめくのは、その頃の名残だろう。もっとも今は、心をざわめかせるあの人がいないのだけれど。

「ちょーっとだけ片づけるから、ベッドで座って待ってて?」


櫻子の部屋はちょーっとではなく、そこそこちらかっていた。読んだら読みっぱなし、脱いだら脱ぎっぱなしという痕跡が見受けられる。

ちらかった雑誌等を手際よくぱぱっと整頓し、大量の洗濯物を抱えて、器用に足でドアを開けて櫻子は出て行った。以前少しだけ櫻子の部屋を覗かせてもらったことがあったが、今ほどのちらかり具合ではなかったことを思い出す。

撫子がいなくなって、注意する人がいなくなったのかなと、少しだけ思ってしまった。



「はいはい、おまたせー」

「うん……」


戻ってきた櫻子が、私の隣にぽすんと座る。ベッドのスプリングが揺れて、私の身体も少し上下する。


「…………」

「…………」


「で、何の用だっけ?」

「えっ」

「えっ?」


「いや、櫻子ちゃんが話したいって言ってくれたから、私ついてきたんだけど……」

「あっ、ああ~~そっかそっか! 忘れてた……えへへ」

「…………」


櫻子の相変わらずっぷりに、さっきまで泣いていた自分も思わず頬が緩む。私を元気づけようとしてくれたのかなと思ったが、おそらくこれが彼女の素なのだろう。

「……ねーちゃんと、何かあったの?」

「…………」

「あ、いや、言いづらいならいいんだけど……あんなに泣いてるとこ初めて見たからさ。なんか……どうしたのかなって」


何から言おうか迷った。そもそも櫻子は、私と撫子の関係をそこまで詳しく知らないはずだった。櫻子はぺらぺら喋ってしまうから、関係を知られるのが怖いという撫子の言葉を思い出す。


たとえ妹が相手でも、守り通してきた秘密。

けれど、撫子の姿を重ねてあんなに泣きついてしまった私が、いまさら何を隠そうというのだ。

それに、守らなければいけない二人の秘密は、もう終わってしまった。

それでも諦められないから、私はあの桜に通っていた。撫子の面影を探して、思い出だけが残る場所を巡ってしまっていた。別れる前よりも今の方が、撫子のことで頭がいっぱいだ。


繋ぎとめたい。撫子と私の間に残された、消えゆく糸を。

二度と来ることのできなかったこの家に再び入れたこと。なにより櫻子が私を心配してくれていること。間違いなく、利用しなければいけない機会だった。


私には、もう失うものは、何もない。

「櫻子ちゃんは知らなかったと思うけど……付き合ってたの。私たち」

「付き合ってた……?」


「私が撫子に告白して……それからずっとね。私、撫子が大好きなの」

「……!」


「……驚いたでしょ? 櫻子ちゃんに秘密で、何回も撫子の部屋に来たことあるし……夜はいつも電話してたし。あれ全部、私なの」

「へ、へぇ……」


「ああ、そっか……お姉ちゃんが誰かと付き合ってることより、女の人が女同士で付き合ったりすることの方がびっくりか、櫻子ちゃんには」

「いや、そんなことない!!」

「……?」


突然声のボリュームを上げた櫻子。もじもじとしながら、視線を下げて呟いた。

「……って、私も……」

「な、なに?」


「私もっ、付き合ってる人、いるから……」


恥ずかしそうに頬を赤らめる顔は、これまた姉によく似ていた。

私自身、櫻子のことをそこまで詳しく知っているわけではないが、それでも付き合っている相手が隣の家の向日葵だということは聞かなくてもわかった。

喧嘩ばかりと聞いていたが、喧嘩するほど仲がいいとはこの二人のためにある言葉かもしれないと、少しだけ思う。


「わ、私だけかと思ってたの! そういうことしてる人って……だから、そういう意味のびっくりだよ」

「そうだったんだ……私もびっくりかな。櫻子ちゃん、そういうの疎いと思ってたから」

「まあ、付き合ってるって言っても、今までと何が変わったのかがあんまよくわかんないんだけどね……」

「……あ、ああごめん。それで?」

「それで……」


「ずっと付き合ってたけど、撫子の受験が近づいてきて、だんだん距離も離れだして……卒業してすぐくらいに、別れたの」

「えっ!?」


「撫子は遠くに行っちゃうし、私はこっちに残るし……もう今まで通り会えないから、ってことだと思う」

「……思うって?」

「撫子は何も言ってくれなかったの。ただ、最後にキスだけしてくれて……」


「終わりにしましょう、ってことだと思ったんだ」



私の想像だが、撫子は私と付き合う前にも誰かと付き合ったことがあったのだと思う。確認をしたことはないけれど、初めて告白した時からそれは少しだけ感じていた。

女同士で付き合うことへの抵抗の無さ、隠れるように付き合うことへの慣れた手管。中学時代か、それよりも前か……とにかく、初めてとは思えなかった。

そんなことは私にとってどうでもよかった。誰と何人と付き合っていようが、撫子を嫌いになる原因にはまったくなり得ない。むしろそうやって培われた部分も含めての大人っぽい撫子が、私は好きだったのかもしれない。

けれどもし撫子にとって私が初めての彼女でなかった場合、撫子にとっての彼女というものは、きっと私が考えてるもの以上に……軽い。



撫子はあの通りの容姿と性格だ。女の子からもよく好かれることだろう。だから大学に進んだ先で、また他の女の子と付き合うことだって容易なはずだ。

それなら、もう会うことが難しい距離の私との関係をひきずったまま新天地に赴くのは、彼女にとって煩わしいものになる。


大学は四年間。高校生活よりも長いのだ。高校生よりも限りなく自由に近づき、学生という職業についたほとんど大人と考えていい。

そんな辛かろうも楽しい日々を会えない彼女に縛られるよりは、すっぱりと関係を切って新しく迎えたかったのだろう。


もし撫子が中学生の時に誰かと付き合っていたとしたら……今の私と同じようにして関係を切ってから、高校に入ってきたのかもしれない。

卒業と共に終わると最初から決めて付き合っていたような気がする、その一番の理由はここだった。

「本当はね……私の気持ちを受け止めてくれるだけでもありがたかった。だって、こんな恋は普通叶わないもの」


「高校生活を通して、撫子は私に夢を見させてくれた。本当に最高の毎日だった。最高の彼女に出会えたこと、最高の人の彼女になれたこと、今でも忘れられない」


「……でもね……撫子は、夢を見させるのがうますぎたんだよ」


喋りながら思い出を振り返っていると、私はまた小さく泣き出してしまった。歪んだ視界での中で再び、櫻子の姿が撫子に重なる。


「卒業と一緒に終わるって決めてたなら、最初から言ってくれればよかったのに……最初は私も、それでもよかったと思ったよ。でも……」


「本気で一生の彼女に出会えた……撫子は私に、そんな夢を見させてくれちゃったの。もう一生、他の誰でも埋められないような、綺麗な思い出」


「突然のキスで、別れられて……撫子にとっては最初から決まってたことかもしれないけど、私にとっては本当に突然だったよ。だから……今だにどこか、信じられてないんだ」


「思い出はいつまでも残ってて、毎日撫子の夢を見て、起きているときも、いないはずの撫子を探して……」


「大好きで、諦められなくて、毎日、毎日……」



階下の花子に聞かれてしまうと思い、必死に泣き声を我慢したが、我慢しなくていいよと私を抱き寄せて背中をさする櫻子の優しさがどんどん我慢を溶かしていって、溢れてしまう。

この部屋は撫子と同じ匂いがして、共に過ごした日々はいつもより鮮明に思い出された。

「さっきの桜の下が……別れたところなの。だから……櫻子ちゃんが来てびっくりしちゃって……櫻子ちゃんが撫子に見えて、止まらなくなっちゃって……」

「…………」


櫻子の服が、自分の涙でまたすっかり濡れてしまっている。その冷たさに、少しだけ冷静を取り戻した。


「ごめんね……櫻子ちゃんこんなこと言われても、困るよね……」


「……困らないよ」

「えっ……」


顔をあげて、初めて気づく。

櫻子も、泣いていた。



「櫻子、ちゃん……?」

「私、知らなかった……二人のこと。ねーちゃんは私に、学校のこととか全然教えてくれないもん……自分は私のこと、すごい知りたがるくせに」


櫻子の泣いている姿を見て、そういえば自分は撫子が泣いているところを見たことがないと気づいた。でも撫子が泣いたら、きっと櫻子と同じようになるのだろう。

「ずるいんだよ……撫子ねーちゃんは。家でもそうだと思ったけど、外でもそうなんだ……ずるい、本当にずるい」


「自分がいつもきゃーきゃー言われて、勉強もなんでも上手にできるからって……周りの人のこと、知らないうちに振り回してる。いつも私たちより何段も上から見下ろしてきて」


ベッドの上の毛布を握り締め、けれど涙はぽろぽろとこぼすように放っておく櫻子が、普段元気で明るい子であるだけに、私をどきどきさせた。

ぎゅっ、ぎゅっと毛布を掴む手に力をこめるようにして、櫻子は静かにため続けていた撫子への想いを、私のことに重ねて怒るように訴えた。


「めぐみねーちゃんは、何も悪くないじゃんか……! 悪いことなんかひとつもしてないよ! 全部撫子ねーちゃんが勝手なだけじゃん!」


「自分のことをこんなになるまでに好きでいてくれる人……その人を簡単にふってさ、自分だけ新しい世界へひょいひょい行っちゃって……む、むせきにんだよ!」


気づけば自分よりも、櫻子の方がヒートアップしていた。まさか櫻子がここまで思ってくれているとは。その驚きで自分の涙がひっこんだ。


「櫻子ちゃん……」


呼吸絶えだえにしゃくりあげる櫻子を、今度は自分が落ち着かせるように抱く。悲しんでくれているのはわかるが、それよりも怒っている気持ちのほうが大きい気がした。

くるくると面白いウェーブのかかった櫻子の髪を、怒りを鎮めるようにしてしばらく撫でていると、今度は対照的に悲しみに満ちた声で私に話してきた。


「めぐみねーちゃんはどうしたいの……? このままでいいの?」

「!」


「会えない撫子ねーちゃんのことで泣いたりして、気持ちも伝えないままでいいの!?」

「…………」


「好きなんでしょ!! ねーちゃんのことが!!」


―――好き。

撫子のことが好き。


それを伝える?


何かが引っかかった。


「好き……だけど」

「だ、だけど……?」


まったくもって櫻子の言うとおりだった。こんなになるまで撫子のことが好きなら、一応つながる電話でもメールでも使ってその想いを伝えればいいのだし、一口に会えないといったって住所はわかっているのだから、電車を乗り継いで辿り着くことは不可能ではないのだ。それはわかっていた。


なぜ自分はそれをしなかったのか?


それは、撫子を思ってのことだった。

「新しい世界に向かうために、撫子は関係を切った……」


「つまり撫子にとって私は、そこまでの彼女だったってことなんだよ……」


「今更私が好きだなんて食い下がったって、撫子は迷惑がるだけなんじゃないかって……」


なんとなく理解はしていたけれど、口にするのも嫌な事実だった。


今の私は、相手に振られても未練を断ち切れずに泣いているみじめな女だ。

撫子のことは好きだけど、それを言ってしまったら、撫子は私を見損なうかもしれない。

せっかく綺麗に別れたのにそれを無下にする、わがままな子だと思われるかもしれない。


撫子にだけは、嫌われたくない。

「……何言ってんの」

「痛っ……?」


櫻子は私の腕を痛いほど強く掴んで体勢を持ち上げ、私に顔をつき合わせた。

さっきまで撫子に向けていたと思われていた怒りの目は、確実に私に向けられていた。



「ねーちゃんがめぐみねーちゃんのこと、迷惑だなんて思う……? めぐみねーちゃんは今まで何を見てたの?」

「え……」


「ずっと付き合ってたんでしょ!? ずっと隣にいたんでしょ!? それはねーちゃんだって、めぐみねーちゃんのことが好きだったからなんじゃないの!?」

「…………」


「めぐみねーちゃんが嫌われるかもしれないって思ってるなら、それは二人の付き合いがそこまでのレベルだったっていうことになっちゃうよ……!」

「!」


「最高の高校生活だったんだよね……? だったら、撫子ねーちゃんがめぐみねーちゃんに思ってる気持ちだって、きっと……さぁ……」


手の力が弱まるのと同時に、櫻子はまた小さくひくついた。

撫子は自分のことをどう思っているのか。確かにずっと一緒だったのに、れっきとしたお付き合いをしていたのに、私は今の撫子の気持ちがわからない。


私たちの関係は、そこまでのものだったのか?


「……こればっかりは、めぐみねーちゃんにしかわからないことだよ。私は付き合ってることすら知らなかったんだから……」

「うん……」


「でもね」


櫻子が、うつむいていた私の顔を上げさせる。

泣いて赤くなっているその目は、私のことを心配してくれるように優しかった。


「ねーちゃんは電話してるとき、メールを見てる時、すごい嬉しそうにしてたのを、私はちゃんと覚えてるよ……!!」

「……!」


「ねーちゃんだってきっと、めぐみねーちゃんのことが大好きだって……私にはわかる……!」

   ~


櫻子は、電話番号を交換したいと言ってきた。

帰り道、さっそくLINEの通知が入っていることに気付く。


〈私にできることなら、なんでも言ってね!〉


櫻子は私の見方になってくれた。

今日櫻子に出会えたことは本当にラッキーだった。撫子との消えゆく関係を守ることのできる大きな手がかりだ。


でも、櫻子と話してみて、自分がどうすればいいのかは余計にわからなくなってしまった。


撫子はきっと、私が新しい世界で新しい人と頑張っていると思っていることだろう。

そうあってほしいという思いもこめての、最後のキスだったのだろうから。

それが未練をひきずって、妹にまで泣きついている自分を知ったら、撫子はどう思うのだろうか。

「…………」


あんなに撫子に会いたかったのに、撫子に会うのが怖くなってしまった。気持ちを伝えるのが、怖い。


それでも今日のお礼をと、櫻子へのメッセージを返す。



〈櫻子ちゃん、今日はありがとう。撫子とのことに巻き込んじゃって、ごめんね〉

〈全然いいよ! むしろうちのねーちゃんがひどいことしてたみたいで、こっちこそごめん!〉


向こうも携帯を開いているのだろうか、打てばすぐに返事が返ってきた。


〈めぐみねーちゃんのこと、私応援するよ! 連絡取りたいなら、私からもねーちゃんに言えるようにできるから!〉


「…………」


〈だから、ちゃんと言いたいことが決まったら、私にも教えてね!〉

「!」



櫻子は、凄くあたたかい子だ。

今まで櫻子のことをここまで意識したことはなかった。楽しくて元気な子だとは思っていたが、話を聞くだけで共感して泣いてくれるほど真摯に私を受け止めてくれる心、親身になって私のサポートをしてくれる情。それが今の私にはとても嬉しいものだった。


ぴょこぴょこ揺れる櫻子のかわいいスタンプを見ていると、ずっと寂しいと思っていた私の心もすうっと消えていく気がする。

〈私も思ってるよ。めぐみねーちゃんみたいな人が撫子ねーちゃんの傍についててほしいって!〉

〈だから絶対、ねーちゃんに振り向いてもらおうよ!〉


「…………」


〈本当にありがとう。また今度、櫻子ちゃんに会いに行ってもいいかな〉

〈いいよいいよ! いつでも来て♪〉


夕暮れの道では、早い暑さに勘違いして出てきてしまったヒグラシが泣いていた。


携帯を閉じながら、私は櫻子の言葉をかみしめる。

私のことを見てくれる人に久しぶりに会えた気がして、感じていた孤独が解けていくような気がして、またじわじわと心が温かくなってゆく。


向日葵はこんなに良い子と付き合っているのかと思うと、少しだけうらやましくなった。


でも今日こうして櫻子に会えたのは、あの別れたところの桜の木が、私の涙を受けて願いを叶えてくれたのかもしれない。なんとなくだけど、そんな気がした。

   ~


「いらっしゃいま……あっ!」

「えへへ、こんにちはー!」


それから数日数週間、櫻子はひっきりなしに私のことを構ってくれた。


相変わらずLINE通知はぽこぽこ届いて、中学生は授業中なんじゃないの? と思う時間でも届いたりする。

それどころか、あの出会った時の桜に行ってみれば、私よりも先に櫻子が来ていることもあった。

涼しいからここで休んでたんだ、なんていうけど、私の気持ちをわかろうとして動いてくれていることは嫌でも伝わってきた。

今ではバイト先にもお客として遊びに来るし、私は今の学校の新しい友人よりも、櫻子と一緒にいる時間のほうが長いかもしれない。

「ご注文は? いつものでいい?」

「うん! あ、そういや私昨日、ツミツミでめぐみねーちゃんのスコア抜いちゃったよ、ほら~♪」

「えっ! いつの間に……なかなかやるね、櫻子ちゃん」

「えへへへ……」


店の端っこの席で、るんるんと携帯をいじっている櫻子。ここの所、私のシフトに合わせて毎回来ている気がする。

そしてバイトが終わるころに、一緒に帰ってくれるのだ。


それは確かに嬉しいことだし、櫻子と一緒にいるのは楽しいのだが……向日葵のことがおろそかになっているのではないかと心配になる。

そう言ってみても、「めぐみねーちゃんが相手なら向日葵は何も言わないよ」としか返ってこない。


櫻子は私に何かを期待してくれているのだろうか。

私は相変わらず、撫子に伝える気持ちを用意できていない。


それどころか、櫻子と出会ってからのこの数週間で、私の心境は大きく変わりつつあるのだった。

(櫻子ちゃんがいてくれるおかげで、私は寂しくなくなった……)


(今はちゃんと自分に向き合って、新しい世界へ向かって歩いて行けてる。新しい学校の友達も増えてきて、あの桜の木にもあまり行かなくなった)


(撫子が望んだ私に、なれてると思う……)


撫子は自分の新しい一歩のためにキスで別れようとしたが、それは同時に私を新しい世界へ送り出すことでもあったはずだ。

私は遠くに行ってしまうから、私のことを早く忘れて、次の世界で頑張ってください……あの時の優しくて真剣な目には、そんなメッセージがあった気がする。


今の私は、曲がりなりにも「次の世界」とやらに向けて足を踏み出せていると思う。

その実は、櫻子という小さいけど大きな存在……姉によく似た、楽しかったあの頃を思い出させてくれるような女の子に出会えたからだ。

その温かい光を受けて私は孤独を振り払い、撫子のことに少しずつ見限りをつけて、新しい世界での生活に力を注げるようになっている。

別れた時から止まってしまっていた時計が、確実に針を動かしだしている。

撫子の望む自分になれたことはいいが、櫻子という力を使ってしまったことには罪悪感のようなものがあった。

撫子はきっと、私が自分の力だけで足を踏み出したと思っている。孤独に絶望しているところに、撫子の存在を重ねた櫻子に元気づけてもらうような、未練にまみれた情けない方法をとっているとは夢にも思わないだろう。撫子は櫻子に関係を知られることを恐れていたのだから。


自分が強くならなくちゃいけない。

撫子の望む自分になるには、自分の力だけで歩いて行かなくちゃいけない。

最初の一歩を動かす力をくれた櫻子には本当に感謝しているが、私たちがこのまま一緒に居続けることは良いことではない。自分にとっても、櫻子にとっても。


……自分の力で動かす最初の歩みは、櫻子と別れるところから始まるのだ。

帰り道、やっぱり私があがるまで待っててくれていた櫻子と一緒に、暑い夕暮れの道を歩く。


「それでさー向日葵ったら……」

「…………」


「あれ、めぐみねーちゃん?」

「えっ……ああ、ごめん」


「…………なにか考え事? 撫子ねーちゃんのことで思うことがあるなら、私にも言って?」

「!」


胸の内を見透かされている気がした。

言わなければいけないことがある……それをわかっていて、でも勇気を出そう出そうとしていた私に気づいた櫻子が、自分から聞き出そうとしてくれているのではないかと。


最後の最後まで、気を遣われてしまった。

でも今言わなかったら、この不思議な関係はいつまでも続くだろう。続いてしまうだろう。

撫子に知られる前に、櫻子と私の間に生まれつつあるこの糸を……なんとしても切らねばならなかった。

「櫻子ちゃん……いつもありがとう」

「えっ?」

「私のために……こんなにいつも一緒にいてくれて。もう私、寂しくなくなったよ」


歩きながら話すのでもいいと思ったが、櫻子の方が先に歩みを止めた。

こんなことを言うのは申し訳なくて、櫻子の目が見れない。それでも櫻子が真剣な目を私に向けてくれているのはよくわかる。


「最近ね、思ってたの……私、寂しかっただけなんじゃないかって」

「…………」

「撫子に突然別れられちゃって、それがショックでいつまでも引きずってたのはその通り……だけど、櫻子ちゃんが傍についててくれるようになったら、だんだん撫子と別れたことにも向き合えるようになれてきたの」

「!」

「受験が始まった、高三の夏ぐらいから感じてた寂しさ。みんなと違う道を進むことになる寂しさ。受け入れたくないけど、絶対にやってきてしまう別れ。それを一人で受け止めきれなくて、私はいつまでも引きずって悲しんでた……」


「でもね、櫻子ちゃんと一緒にいたら、その寂しさがだんだん無くなってきたの」

「なっ……」


「新しい世界に歩いて行けてないの、私だけだったと思う。でも最近は、みんなと同じように割り切って、新しい自分に向かえてる気がする」


「撫子は最初から、そうあってほしくて私を振ったんだと思うの。あれは別れのキスだったんじゃない、私を送り出してくれるキス……」


「撫子の存在は大きすぎたから、ぽっかり穴があいた気持ちがしてたけど……そこに櫻子ちゃんの優しさが入ってきてくれて、私は最近、元気になれてる」


「撫子が望んだ私に、なれてる気がするんだよ」


夕暮れの道では今日も、ヒグラシが鳴いていた。

遠くの空の赤すぎる夕日を見ていると、みんなで一緒に遊んでいた高校時代の放課後を思い出す。

「いい思い出だった」と、今ではそんな考えができるようになったのだ。

「撫子に伝える気持ち……櫻子ちゃんは、私がそれをちゃんと形づくることを望んでたんだよね……?」

「…………」

「でもね……今は、撫子に伝える気持ちは何もないの。確かに今でも大好きだけど、私がそれを伝えることは、撫子にとって良いことじゃない。撫子だって、新しい世界で頑張ってるんだもん」


「今まで一人ぼっちで寂しかったから、いなくなった撫子のことしか考えられなかったけど……櫻子ちゃんのおかげで、もう私は今の気持ちに向き合えてる……」


「だから私は、もう……!」

「それってどういうこと」


もう大丈夫だよ、その言葉とともに意を決して櫻子の目を見据えようとした時、刺すような言葉と共に飛び込んできた眼を見て、私は驚いてしまった。


櫻子が、怒っている。

「もう撫子お姉ちゃんのこと、好きじゃないの……」

「え……いや……」

「そんなの絶対ダメだよ!!!」


周りは住宅街だ。こんな道端で大声を上げたら、誰かが不審に思うかもしれない。しかし櫻子の声はそんな概念などまったく持ち合わせないほどのボリュームだった。


「あんなに泣いてたくせに!! 今でも大好きなくせに!! 気持ちを伝えるのが怖いからって、逃げてるだけなんじゃないの!?」

「そ、そんな……」

「寂しくなくなったから、もういいなんて……そんなの勘違いしてるだけ!! 私がずっと一緒にいたのは、そんなことのためなんかじゃない!!」


私の腕をつかんで、ものすごい剣幕で言いかかってくる櫻子。

こんなに言われるとは思っていなかった。櫻子は私の、絶対的な味方だと思い込んでいた。

気持ちに区切りをつけた自分を、偉いと思っていた。自分に向き合うことができて、一番いい方向に進むためのレールに乗れた、櫻子はそれを応援してくれると思っていた。


唐突に、裏切られてしまったような気持ち。


「逃げてる」「勘違い」と言われて、急激に嫌な気持ちが湧いてきてしまった。

そしてそれは、抑えなきゃいけないという自制心すらもはねのけて、反論となって出てきた。


「さっ、櫻子ちゃんはわからないかもしれないけど……私は撫子にとって一番いい道に向かえてると思ってる! 逃げてるわけじゃない!」

「気持ちを伝えないのが一番いい道なの!? そんなわけないじゃん!」


「私は嫌だけど……撫子にとってはそれが一番いいことなんだよ!! 撫子のためになることが、私にとっても一番嬉しいことなの!!」

「じゃあなんでいつも泣いてんだよ!! ねーちゃんが好きだからなんでしょ!?」

「っ……!」


「自分の気持ちから逃げないで! ねーちゃんのためなんかじゃない、自分のために動いてよ!」

「だから……もうこの気持ちはいいんだってばぁ……!!」

櫻子と喧嘩なんて……絶対にしたくなかった。

せっかくできた一番の味方を失うこと。けじめをつけた自分の気持ちを、一番の味方に否定されたこと。撫子との全てを終わらせること。その全てが一気に押し寄せてきて、流したくない涙が溢れてきた。

それでも目を拭うことは許されなかった。櫻子に強く腕をつかまれて、自由がきかない。


「っ……!!」

「あっ、櫻子ちゃ……!」


泣きながら目線だけで理解を訴えていると、櫻子は急に腕を振り払って、全速力で走って行ってしまった。

独りぼっちになり、振り落とされたバッグをとって、私も自分の家の方角へ向かう。櫻子につかまれていた部分にバッグのかけひもがあたって、痛かった。


誰かと喧嘩をしたのは、久しぶりだ。

大きな罪悪感、櫻子を失った喪失感、まだ切れている息。すべての気持ちを振り払って、これでいいんだと自分に言い聞かせた。


撫子にとって一番いいことが、私にとっても一番いいこと。

その思いに、間違いなどあるはずはなかった。


―――さようなら、撫子。


夕日はもう、ほとんど沈みかけていた。

   ~


帰ってすぐに、風呂に入った。汗ばむ体を流し、泣き顔も直さなければいけなかった。

ぬるま湯のシャワーを頭に流しながら、櫻子の顔を思い出す。


気持ちを伝えるのが怖いから逃げてるだけ? 寂しさが埋まったのは勘違い?

そうではない、私が一番大好きな撫子にとっての最善を選んだのだ。

温度調節のバーを一気に冷水へ傾け、さわさわと打ち付ける冷たい感覚に耐えながら、何も間違っていないと自分に言い聞かせた。これで全てが、丸く収まるのだと。



しかしそんな中で、しばらく見ていなかったリアルが、私のもとにやってきていた。


風呂を上がって部屋に戻る。机の上に置いてある携帯電話を見て、櫻子からの何かが来ているかもしれないと思い手に取った。

しかし私の目に飛び込んできたのは、いつものような櫻子からのLINE通知ではなかった。

「撫子……!!」


撫子からの着信通知が、5~6件ほど連なっていた。


どういうことなのかを一瞬で察知した。

言ってしまったんだ。櫻子が、撫子に。


全ての考えを振り払うように逃避じみた行動をしていた私には、そこまでの考えが回っていなかった。

途端に怖くなってしまう。


これでは意味がない。

撫子のためを思って気持ちを伝えなかったのに、それが伝わってしまっては何の意味もない。

撫子に知られる前に櫻子との関係を切ろうとしたのに、これでは本末転倒だ。

全てバレてしまったんだ。私がずっと引きずっていたことも、櫻子とつながって、そこに撫子の名残を感じて寂しさを埋めていたことも。


何を言えばいいのか、どう説明すればいいのか、混乱してまったく思い浮かばない。

撫子に嫌われてしまう。それだけがぐるぐると思考を駆け巡っていた。


そしてそこに、撫子からの幾度目かの着信が来てしまった。



「……はい」

『もしもし、めぐみ!? 今どこ!?』


「今…………自分の部屋」

『本当に? よかった…………』


久しぶりに聞く撫子の声からは、焦っているという気持ちが存分に伝わってきた。

櫻子から事情を聴いて、それで私が着信を数度無視してしまったから、自殺でも考えているのかと思われたのだろうか。

「…………」

『…………』


「……櫻子ちゃんに、聞いたんでしょ」

『……うん』


「ごめんね、お風呂入ってたから……電話気づかなくて」

『ううん、大丈夫』


何を話せばいいのか、まったく出てこなかった。

夜十時の電話のときには、事前に何を話すかを存分に考えてからかけていたことを思い出す。撫子との電話で、沈黙が生まれることなんてなかった。

「……どうしたの?」

『めぐみ……』


何を言われてもいいと思っていた。

もう撫子との全ては終わってしまったのだ。嫌われたくはないけど、どうあっても私たちは元に戻れない。

それならもう、隠すことも何もない気がしてきた。


しかし、撫子が放った次の言葉は、そんな自暴自棄で投げやりになっていた私の心を、大きく揺り動かした。


『今、私のほかに付き合ってる人とか、いるの?』

「えっ…………」


その言葉を聞いて、強烈な違和感をおぼえた。

「私のほかに」という部分に、思考が一気に集中した。

「どういうこと……? なんでそんなこと言うの?」

『いるかいないか、教えてほしい。私以外に、好きな人ができた?』

「なにそれ……もう私と撫子は、何にも関係ないじゃん……!!」


せっかく直した泣き顔から、また涙があふれてきてしまった。

撫子の言っている意味がわからない。撫子以外に好きな人なんて、いるわけない。

そんなことくらい、撫子が一番わかっていると思ったのに。


『櫻子が、そう言ってたから……めぐみは他に好きな人を作っちゃったかもしれないって』


「そんなこと……だったら何だっていうの!!?」

『えっ……』


電話の向こうの撫子に向けて、昂ぶった気持ちが抑えられなかった。

携帯を両手で持って、目をぎゅっと硬くつぶって……生まれて初めて、撫子に強い言葉を投げつけてしまう。

「自分から振っておいて、それでも自分以外に好きな人ができるのが許せないの!? 私が撫子以外の人を好きになっちゃ、いけないみたいな言い方!」

『めぐみ、待ってよ……』


「自分が言ったんじゃん……自分が突然全部なかったことにして、私を切り捨てて……!!」

『ちょっと……!』


「新しいとこで、私は今頑張ってるよぉ!!」

『めぐみ!!!』

「!」


撫子の強い声が頭の中に響いて、息を飲んだ。

そして、悲しそうな声が、ゆっくりと伝わってきた。


『私……そんなこと一言も言ってないよ……!』

「え……」

『みんなでお花見した前の日、二人で桜を見に行ったよね……? 櫻子に聞いたけど、あれから何度もあそこに行ったんだよね……?』

「う……」


『あの日私は、何も言ってないよ……! 私、めぐみのこと、振ってないよ……!!』

「う、うそ……うそだよ!」

『嘘じゃない!!』


「じゃあ……じゃあなんで私のこと避けてたの!! なんでメール全然返してくれないの! なんで、なんで……!」

『めぐみ、落ち着いて……!』


「もう私、撫子のこと何にもわからないよぉ!!」


電話はそこで唐突に切れた。


切れたのではなく、携帯を握りしめた私が電話を切ってしまっていたことに気づく。

最悪のタイミングで切ってしまった。生まれもって付いて回る自分のドジな部分に、ほとほと呆れ果てる。でも今はこれ以上、撫子の言葉を聞きたくなかった。

あの桜の下で別れた時のこと、私はきっと、撫子以上に覚えてる。

撫子は確かに、何も言っていなかった。何も言わずに、キスをしただけだ。


あれから何度もあそこに通って、私は景色の中に撫子の姿を思い出して、あの日の答えを探していた。

自分で作り上げた想像上の撫子は、いつもいつも別れの目を私に向けていた。「別れよう」とまで言ってきたこともあった。けどそれはすべて、自分で過剰に思い込んだ故に生まれた、私が作り上げた幻影だ。


私は振られたと思い込んでいただけなのか。そこを言われて、無性に自分がばからしくなってしまった。

でもあんなキスをしておいて、そこから避けるように連絡を粗末にして、それで振ってないというのは、どう考えてもおかしい。


撫子はきっと、新しい世界で上手くいっていないんだ。

それで私のことを、キープしようとしてるだけなんだ。

それか、自殺だと思い込んでいた私を引き留めようとして、まだ繋がっているようないちゃもんをつけているだけだ。

誰も何も信じられなくなって、頭がいっぱいで考えることすらもできなくなって、目の奥がぐらついてよろける。


わからない。なにもわからない。

私は撫子の一番近くにいたのに、撫子の気持ちがわからない。


再度撫子からの着信を訴えている携帯電話をマナーモードにして放り捨て、私はベッドに倒れこんだ。


もう何も考えたくない。何も思いたくない。何も聞きたくない。


撫子に、私のことなんか忘れてほしかった。



子どものように、大声をあげて泣いた。


さようなら、大好きだった人……

――――――
――――
――



[離れてく 気持ちを止めてほしい

もう少し そばにいて見つめていてほしい

一度でいい 全てを伝えたい

もう今は 寄り添って歩く事は出来ない……]



夢の中で、いつだかに聞いた歌の歌詞が浮かんできた。


[一度でいい、全てを伝えたい]


……どうせ終わるなら、最後に気持ちを伝えればよかった。

最後の最後まで、大好きでしたと。

「………っ…」


はっと目を覚ます。いつの間にか、泣き疲れて眠ってしまっていたようだ。

時計を見ると、日付が変わろうとしている頃だった。

身体がとても熱い。ずっとエアコンの切れていた部屋に寝ていたからか、胸の鼓動の痛さを閉じ込めて必死に我慢していたからか、もう一度風呂に入りたいくらいの汗をかいてしまっている。


机の上の携帯電話はもう静かにしていた。撫子からの電話は止んだようだ。


何件くらいかかっているかは想像できなかったが、少しだけ興味が湧いた。

ここでかかってきている着信件数が、私と撫子の全てを数値化したものかもしれない。


もはや何をする気力もなく、何を見ても感情を左右されることは無いという無心に近い気持ちで、携帯電話のロックを解除した。

「…………」


ずらずらと並ぶ何十件もの着信履歴。その一番上にだけ、音声メッセージが入っていた。


伝言か何かだろうか。撫子は私に何かを伝えたいのだろう。

今更撫子が私に何を話すのか、想像もできなかった。桜の下での誤解を説明する、言い訳を続けようとしているのかもしれない。


いいよ、最後の言葉くらい聞いてあげる。少しだけ微笑みながら私は、再生のボタンをタップした。



『……めぐみ? 私だよ。あのさ……』



『今から、そっちいくね』


……え?


至って真面目な撫子の声が、ふわふわしていた私の意識を揺り動かした。


撫子が、来る?

こっちに?

『あの桜の木の下に……今から行くよ』


『これを聞いたら、どうか来てほしい』


『めぐみのこと、ずっとずっと待ってるから』


「………っ…」


メッセージはそれだけだった。

信じられない内容をもう一度確かめるように再生する。


撫子は確かに、今からこっちに来ると言っている。


ありえない。


メッセージの届いた時間を確認した。夜十一時すぎを示している。

そんな時間から、こっちに来れるのか?


このメッセージを吹き込んでいるとき、既に電車にでも乗っていたというのだろうか。

雑音も何もない、静かな中で録ったであろう嘘みたいなクリアボイスからは、とても慌ただしい状況での録音が想像できない。この静かな自室でさえ、撫子のメッセージボイス以外のノイズはしなかった。

撫子のいる場所から私のもとまで、どう考えても終電に間に合わないのではないか?


けれど、撫子はいつだって本気だ。

メッセージの声も、付き合っていたあの頃のように至って真剣なものだった。


本当に、撫子は来るかもしれない。


この真夜中に、あの桜の木の下に、本気でやってくるかもしれない。


いつも私たちの一枚上手を行く撫子のことだ。ひょっとしたらもう、着いて待っているのではないか?



信じられない事態をうけて、自分はまだ夢の中の世界にいるのではないかと思ってしまった。

現実ではないことが起こっていて、そんな一場面の中に自分が放り出されたような気分だ。

私の気持ちは妙にざわめいている。さっきまであんなに撫子に会うのが怖かったのに、今はそんな恐怖よりももっと違う感情が生まれては巡り回っていた。


撫子が来る。

撫子がすぐそこまで来ている。


携帯電話だけをポケットに入れて、私は真夜中の家を抜け出した。

外ではしとしとと雨が降っていたが、自分が雨粒を透かす幽霊にでもなったかのように、傘も持たずに飛び出していった。


会える。撫子に、会える。

夢でもいい、幻でもいい。

伝えたいことが、いっぱいあるの。

ずっと閉じ込めていた気持ち、知られちゃいけないと思ってた気持ち。今なら全部、伝えられる気がするよ。

   ~


桜の木の下には、まだ誰もいなかった。

小走りでここまで来たが、何故か息は切れていなかった。


来ないわけない。撫子は必ず来る。

撫子が来ると言ったら、私はそれを信じ続ける。このまま朝になったって、待ち続ける。


生い茂った桜の葉っぱは雨を弾いて、木の下は濡れていなかった。

月明かりも隠れている真夜中だが、この場所は多少明るい。少し離れたところにある街路灯と、闇に慣れた私の目もあってのことだ。


走ったこととは違う意味で、心臓が跳ねるほどドキドキしていた。ずっと会いたかった人が来てしまうこと、閉じ込めた想いを言う時が来てしまったことに。

今までずっと、いないはずの撫子を探していた。人だかりを見れば、そこにいるはずのない撫子の姿を探してしまっていた。街に出れば、撫子と同じような服装をしている人を無意識に目で追いかけてしまっていた。

何度も夢見た、撫子の姿。

目を閉じればいつでも思い描ける。あの日あの時、一面の桃色の中にいた撫子。

私のために、来てくれる。


心を落ち着けようと、深呼吸をした。

湿った空気が、火照った身体を気持ちよく冷やす。ざわめく気持ちを、おとなしく落ち着かせる。


そうして冷静になれた私の薄暗い視界の中に、人影が現れた。

「……撫子?」

「…………」


人影は傘をさしていた。

ぱつぱつと雨をはじく音が、私のもとまで聞こえる。


右手で持った傘を前に傾け、片目だけでこちらを見ている。

その傘の柄模様には、確かに見覚えがあった。

左手を腰に当てて、すらりと佇むその姿。


「……久しぶり、だね」

「……うん」


撫子は3~4メートルほどの距離を保って、そこからこちらへは近づいてこなかった。

私も桜の木に背中を預け、うつむきがちに撫子を見る。声が出ないかもと心配したが、震えることもなく自然に話すことができた。


薄闇の中、傘から外れた撫子の片目は、しっかりとこちらを見据えている。

その真剣な眼差しは、あの別れた日と同じものだった。

「来てくれたんだ。本当に」

「……うん」


「すごくびっくりした……よくあの時間から、ここまで来れたね。やっぱり撫子って、すごいね」

「待った?」

「ううん、全然」


目の奥が、つんと涙腺を刺激する。

撫子と別れてからというものの、私は本当によく泣く人になってしまった。

出し切って、枯れ果てたと思った涙は、やっぱり何度も何度でも出てくるものだ。


悲しい涙ではない。今のこれは、嬉しい涙だ。

別れたあの日からずっと、私はこの人を待っていたのだから。

「わ、わたし……」

「…………」


「私……見ての通りなんだ。本当は全然、元気でなんかやってなかったよ……」

「…………」


「こんなに泣き虫になっちゃって……撫子のこと考えるだけで、いつだってこんなことになっちゃうの……」

「…………」


「撫子に言いたいことが多すぎてね? それでも撫子はいないから、代わりに涙になって溢れてくるの……この桜の木に、いったいどれだけ涙を落としたか……数えきれない」

「…………」


申し訳ないとでも言うように、撫子は傘を低く傾けた。

目の前の撫子がちょっとでも動くだけで、私は嬉しさがとまらなかった。


ああ、やっぱり、ここにいてくれている。

「私……好きな人なんか、作ってないよ」

「!」


「撫子以外に好きな人なんか、絶対に作らないよ……」


一語一句を強めて、語りかけるように、撫子に伝える。

乱れる呼吸にさえぎられないように、泣いてる自分に負けないように、ひとつずつ、ゆっくり。


「一生撫子が戻ってこなくたって、私は撫子以外を選ぶことなんて、絶対にしないよぉ……!」


「撫子のこと……ずっとずっと、大好きなんだもん!!」


背中の桜をはねのけて、一歩前へ踏み出した。

撫子は再び傘をあげる。しっかりと両目が合った。

「終わりだなんて思ってない!! 終わらせようなんて思ってない!! 未練なんて言わないでよ……まだ終わってなんかないんだから!!」


「いつだって私は待ってる!! 撫子のためならいつまでだって待てる!!」


「どんなに遠くに行ったって、他の誰かにとられたって、私のこと忘れたとしたって、諦めないよ!!」


「絶対に撫子のこと、諦めない……!!」

「…………」



「世界中の誰よりも、撫子を、愛してるんだからぁ!!!」


傘が大きく上がった。

撫子の胸に飛び込んだ。後ろに崩れそうになってもなお強く自分をおしつけ、絶対に離すまいと抱きしめた。


持っていた傘は静かに落ちた。落ちたというより、撫子は私を受け止めるために傘を捨てた。

強く強く、自分を抱きしめ返してくれた。私の首元に顔をうずめ、よくよく聞けば泣き声を漏らしていた。

雨がしとしとと二人を濡らす。夏の夜だが、雨のせいで少し寒くなっていた体に、温かい撫子のぬくもりを求める。

嗚咽にまみれた撫子の顔をあげて、唇を重ねた。

気づけば自分よりも激しく泣いていて、肩で乱れた呼吸をしている小さな口から、絶え絶えと息が漏れてくる。

その愛しい唇に強く強く自分を押し付け、刻み込むようなキスをした。


撫子が泣くところを初めて見た。

私よりはるかに泣き慣れていない、そんな子供のような一面が愛しくて、思わず頬が緩む。いつか見た櫻子の泣き顔に、とてもよく似ていた。


撫子、もっとキス上手だったじゃん。

今度は私が教えてあげようか。


撫子の頬に濡れた手を添えた、その時だった。

「めぐみねーちゃん」

「…………!」


撫子が、撫子ではない声で、私を呼んだ。


いっぱいいっぱいになっていた心ではない、感覚的に覚えている体の方は先ほどから違和感を訴えていた。離れて過ごした時間で変わってしまったのだと結論付けて無視していたその訴えを確かめ直すように、目の前の撫子を確認する。


「……私、ねーちゃんじゃ、ないよ」

「う、うそ……」


私の中にいたのは、櫻子だった。


でも、いつもの櫻子ではない。

小さな肩を震わせて、それでも楽しそうに種明かしをする無邪気な子供のような笑顔を無理やり作る、その顔は櫻子のものだった。


しかし、


「櫻子ちゃん……髪……!!」


「髪……切っちゃった」


櫻子の髪型は、撫子とまったく同じものになっていた。


「な、なんで!? なんで櫻子ちゃんが……!」

「ねーちゃん、に、頼まれて……でも、どうすればいいか、わからなかったから……向日葵に、切ってもらったの」


闇夜に浮かぶシルエット。傘から覗く部分のそれは、完全に撫子と同じものであった。

しかしこうして抱きしめてみれば、成長期でぐんぐん伸びているとはいえ、まだ姉には少し届かない身長がよく感じられる。

私は撫子より幾分か小さいが、櫻子は今の私とおなじくらいの身長だ。

「どういうこと……なんで……!?」


「……一生のお願いだって」

「え……」


「一生のお願いだから、めぐみねーちゃんを捕まえておいてほしいって……撫子ねーちゃんに言われたの。私たちがここで初めて会った、その日から」

「!!」


「私、あの時めぐみねーちゃんの話を聞いて、すっごいねーちゃんにむかついて……何か言ってやらなきゃ気がすまなかったの。それで電話したら、撫子ねーちゃんはなぜか嬉しそうにしてた。めぐみねーちゃんのこと、向こうも気になってたんだって」


「少し前から、めぐみねーちゃんからの連絡が完全に途絶えちゃったから……どうしてるかを確かめてほしいって、そうお願いされたの。新しい人を作ったのでなければ、なるべく早く富山に戻るから、それまで私に、めぐみねーちゃんを支えててほしいって」


話すうちに、たどたどしい呼吸はだんだん落ち着いてきた。秘密を打ち明ける櫻子はいつもより大人っぽくて、それこそ闇の中では撫子と区別がつかないほどに似ていた。


「だから私、毎日電話もしたし……LINEも迷惑なくらいやってたかも。向日葵も私に協力してくれてね、めぐみねーちゃんが寂しくならないように、どうすればいいかを考えてくれたり」


「絶対めぐみねーちゃんを泣かせないって決めた……でもそれが逆に、めぐみねーちゃんの気持ちを撫子ねーちゃんから離れさせちゃったんだよね……?」

「ぁ……」

「今日の夕方に言われた時……私のせいだ、どうしようって、すごい怖くなっちゃった。急いでねーちゃんに電話したら、今すぐ行くから待っててって……今頃ねーちゃん、こっちに向かってると思う……」

「え……!?」


「でもねーちゃんがめぐみねーちゃんに電話してみたら、色々言われちゃって、取り返しの付かないことになっちゃったみたいで……めぐみのそばについててあげて! って言われた。それ聞いて私、絶対めぐみねーちゃんを捕まえなきゃって思ったの」


「向日葵に髪切ってもらって、ねーちゃんが昔使ってた香水とか振ってみて、高校の頃のねーちゃんの服も借りて……この傘も、ねーちゃんがうちに置いてったやつ。声もあんまり出さないようにして……私ねーちゃんの声真似上手いでしょ?」


「だって絶対、めぐみねーちゃんは撫子ねーちゃんが好きって、私にはわかってたもん……! それを閉じ込めて終わりにされたら、私はねーちゃんのお願いを果たせなくなっちゃう……」


「だから、想いを全部さらけ出してもらうために、ねーちゃんにここに呼び出してもらう留守電入れてもらって、こんなことしたの……」


宵闇の中、雨に濡れてしっとりと張り付いた髪になっても、まだ櫻子は撫子と見間違うほどの外見であった。


髪を切る前の櫻子との思い出を振り返る。あんなに一生懸命に自分をかまってくれていたのは、撫子にお願いされていたからだったのか。

一生のお願いを深く受け止めて髪を切ってしまうまでに、私のことを考えてくれていたのか。

「ねーちゃんだって、めぐみねーちゃんのこと、大好きだよ……!」

「!」

「でもねーちゃんは、めぐみねーちゃんを縛りたくなかったんだよ!! 遠くに離れて行っちゃう自分に構わずに、自由でいてもらいたかったの!」


「めぐみねーちゃんを他の子に任せてもよかった! 新しい人と幸せになってくれるならそれでもよかった! だけどそれでも自分を想い続けてくれるなら、どうか四年だけ待っててほしいって……だから別れるなんて一言も言わずに、最後のキスに全部こめたんだよ……!!」


「別れととられても、永遠の約束ととられてもいい……でも撫子ねーちゃんのことが好きなのにそれを無理やり諦めようとするなんて、それは間違ってるじゃんか……!」


櫻子は私を抱きしめ、初めてこの木の下であった日の時と同じように私の背中をさすった。
五歳も年下のくせに、母親のような愛情を持ち合わせている櫻子に、私はまた甘えるように抱きつく。

「撫子は……私のこと好きなの……?」

「うん、好きだよ……」


「私が好きだってこと、ちゃんとわかってくれてるの……??」

「大丈夫……ちゃんと伝わってるよ……!」



小さな撫子の笑顔が、しずくののしたたる私の頬に涙を追加させた。


撫子は、私のことが好きなんだ。

私は撫子を、好きでいていいんだ。


何度も何度も繰り替えす様に、まだここにいない撫子のことを尋ねた。

明日くらいには到着するであろう撫子に、同じことを伝えられるように。


そして最後にもう一度だけ、キスをした。

撫子にではない、ずっと私と撫子を繋いでくれていた、櫻子に。


こんなに撫子に似ているのに、櫻子のキスは姉よりも幾分か下手であった。

――――――
――――
――



私はその日、大室家に泊まらせてもらった。

撫子に一秒でも早く会いたいならここにいるのが一番だと、櫻子が誘ってくれた。


幸いにも明日は土曜日だった。待ってるよ、と撫子に久しぶりのメールを送ってみれば、昼頃にはつくというだけのメールが返ってきた。

メールでは想いを伝えない、すべては自分の言葉で言いたいのだろう。いつもと変わらない短文から、それだけを読み取った。


どうやら撫子は昨日の夜に下宿先を飛び出して、終電も何も調べないままに電車に乗った結果、途中の駅で始発を待つはめになったらしい。

何事にも計画的の彼女なだけに、意外な行動に思えた。が、誠意ってやつじゃない? という櫻子の言葉には納得がいった。


朝は、私がいるという驚きと櫻子の髪がばっさり切られていることに驚愕した花子の叫び声で目を覚ました。

昨日は結局どうなったのかと気になる向日葵もやってきて、大室家はまたすぐに賑やかになった。

今まで櫻子を借りていた事、知らずの内に彼女を髪を切るほどに追いつめてしまっていたこと、全部向日葵に謝った。想い昂ぶってキスをしてしまったことだけは、ちょっと言えなかった。

「やっぱり、めぐみお姉ちゃんが撫子おねえちゃんの彼女だったんだ……」

「花子ちゃんには、何回かここで会ったよね」

「ただのお友達じゃなさそうだとは思ってたけど……びっくりだし」


「まー花子は女の子同士でお付き合いする人がいるっていうことも知らないよね、お子ちゃまだから」

「……悪いけど、櫻子とひま姉が付き合いだす前からそれくらいは知ってるから」

「えっ!? なんで私と向日葵のこと知ってんの!?」

「いや、気づかない方がおかしいし……」


みんなと過ごすうち、やかましい妹たちと一緒だったから一人暮らしはきっとものすごい静かなのだろうと言っていた撫子の言葉を思い出した。確かにこの家でずっと暮らしていれば、退屈には絶対困らないほどに、いい意味でやかましいであろう。

そんな楽しい中で待ちながら、私の胸は刻一刻と高鳴りを増していった。

もうすぐ、本当の撫子がやってくる。

昨日櫻子に言ったことを、もう一度撫子に伝えなければならない。


そうしてついに、大室家のチャイムがなった。



「ねーちゃんおかえりーー!!」

「おかえりー!」

「お帰りなさい、撫子さん」



「……おかえり、撫子」

「め、めぐみ……!!」


ドアを開けてひょっこり入ってきた撫子の見た目は、少しだけ大人っぽくなったような気がした。

今の櫻子は高校時代の再現だが、今の撫子はこんな感じになっているのかと、ちょっとだけおかしくなってしまった。

何でめぐみがここにいるの? という驚きのすぐ後に、櫻子の髪を見た撫子は絶叫した。髪を切ったのは櫻子の独断で、撫子はそこまでのことを頼んでいなかったからだ。


「一生のお願いを果たすためだもん、当然でしょ」と恥ずかしそうに笑う櫻子を抱きしめる撫子は、今にも泣きそうであった。二人の撫子が抱き合っているような様を見て、これまたおかしな光景だと向日葵も花子も微笑んでいた。


荷物もほとんど持っていなかった撫子はさっとシャワーを浴びると、私を誘って外に行こうと言った。月曜には戻らなければいけないため、ゆっくりはしていられないという。


家を出る前に、見送ってくれた櫻子はとびきりの笑顔でVサインをくれた。

「大丈夫、心配ないよ」……櫻子のくれた大きな安心感は、ようやく二人きりになれた撫子との時間、私を緊張させずに守ってくれていた。


撫子が誘ったのはやっぱり、別れたところと同じ桜の木の下だった。

「ごめんね、めぐみ……」

「……うん?」


「私、めぐみの気持ち、ちゃんと考えてあげられてなかった……受験の時ぐらいからあんまり会えなくなって、これで住む距離まで離れちゃったら、私よりも近い人を新しく探した方がいいのかもしれないって、勝手に思い込んじゃってたんだ……」

「…………」


手をつないだまま桜の木に背を預けるようにして、私たちは並んだ。昨晩の雨が晴れて、今日はからっと晴れていた。


「めぐみからのメールも電話も、本当はすごい嬉しかったよ。でもあんまり、ちゃんと返さない方がいいのかと思って……」


「最後のキスは、どう取られてもいいと思ったんだ。別れでも、約束でも……」


「私はまだまだ好きだったけど、それで縛るのはめぐみのためにならないと思って。それでも想いつづけてくれるなら、どうかルールを破った最後のキスを忘れないで、待っていてほしいって……」


「だから連絡が来なくなったときは、だれか新しい人ができちゃったんだなって思った……最初からそのつもりでよかったはずなのに、私は櫻子にお願いしてまで、めぐみのことを気にかけてもらっちゃってた……」


「あの子がバカで助かったんだ。どうしていいかわからなかったところに櫻子が電話をくれたから、私の頼りの綱は櫻子しかいなかった。あの子が余計な気を回して電話をくれなかったら、私はきっと……めぐみを諦めようとして、自分を閉じ込めるところだった……」


撫子はつないだ手を離さなかった。恋人つなぎにしてみてもまったく拒否することなく、むしろ私よりも強い力で握り返してきてくれた。炎天下で汗ばんでしまうことが恥ずかしかったが、きっと恥ずかしがりやの撫子の方がそこは気にしていることだろうと思った。

「……ひとりぼっちで、寂しかった」

「え……」


「櫻子や花子たちと離れて……私はずっと静かな世界にいた。都会は人がいっぱいいるくせに、みんながみんな、繋がりがなくて……寂しかった」


「けど、寂しい気持ちの正体……その一番大きな部分を担ってたのは、めぐみだったんだ……!」


「めぐみのこと、諦めなきゃいけないと思ってたのに……一人でがんばろうとする私を支えてたのは、心の中で応援してくれるめぐみだった。私には、めぐみしかいないんだなって、気づいたときにはもう、めぐみからの連絡が来なくなっちゃってた……」


言葉に心をこめるたび、手を握る力が強くなる。

今日は暑くても風の心地よい日だった。さわさわと揺れる木々の音、それが静かになるタイミングを縫うようにして、撫子は気持ちを綴る。

「私、めぐみが好きだよ……」

「…………!」


「めぐみのこと大事なのに、めぐみは私のこと頼ってくれたのに、その気持ちに気づけないで、逃げようとしてた……」

「…………」


「彼女、失格だね……」

「……そんなこと、ないよ……」


「ごめんね……めぐみ……」

「…………」


「ごめん……ごめん、なさい……!!」

「撫子……」


声が変わったことに気づいて遠くに向けていた目を戻せば、撫子は泣いていた。

昨日闇の中で見た、櫻子とまったく同じ泣き顔をしていた。

「……撫子が泣いてるとこ、初めて見た」

「……そ、そうだっけ」


「だって、撫子はいつも完璧だったもん……泣いてる私を、いつも助けてくれて」

「そっか……でも私、最近めぐみのことばっかり考えてたから、よく泣いちゃうようになったんだけどね……」

「それは、私だって同じだよぉ……!」


撫子は私の胸にぽすんと飛び込んで、大きく泣いた。


こんなに近くにいることが嬉しくて、私のことを想っていてくれていたことが嬉しくて、私は今日も涙がとまらなかった。


撫子はいつも、泣いている自分を慰めて元気付けてくれる側だった。

私が撫子のために何かをしようとして、そうしてドジを踏んで失敗して泣いている自分を、撫子がまた助けてくれて、私はどんどん撫子のことが好きになっていって……


あんなに大きすぎた存在が、今は私の中で小さくなっている。


繋ぎとめ、手繰り寄せ、ここまで来てくれた。最初から私たちは、片時も離れる想いなどしていなかった。

「大好きだよ、撫子……」

「ううっ…ふぅぅう………!」


「私はずっと、撫子を待ってたよ……!」

「めぐみ……めぐみぃ……」


「ずーっとずっと、大好きだから……」


目の前の景色が、別れた日のキスシーンと繋がった。

あの日、一面の桃色の中離れていった背……それが振り返って、私のもとまで来てくれた。

何度も何度も通ったこの桜。

来年の春には、私と撫子の想いを取り込んで、恋色の花を咲かせてね。

撫子の涙を指につたわせ、ぽつりとひとつ、染み込ませる。


そして泣きじゃくる撫子の顔をあげさせ、思い切り抱きしめながらキスをした。

呼吸の安定しない撫子が可愛くて、そんなところがとても現実味を感じられて、夢が本当に叶ったことを、強く強く実感した。


タブーを犯すキスではない。もう私たちに秘密にすることは何もない。


私と撫子の歩む新しい世界は、ここからようやく始まるのだった。

――――――
――――
――



「……それで、撫子さんはどうすることにしたんですの?」

「普通に帰ったよ。やっぱり今も、忙しいんだって」


真夏の日の買い物帰り。あんなところに撫子さんがいる! と思って近づいてみたら、まさかの櫻子だった。頼まれたとはいえ自分で切った髪だが、やはりまだ見間違えてしまうほどに二人は似ている。


「ねーちゃんのほうが、なんかさびしそうにしてた感じ。逆にめぐみねーちゃんは、今までよりももっとパワフルになったと思うよ」

「あら、どうしてですの?」

「製菓学校の二年間が終わったら、撫子ねーちゃんと一緒にルームシェアするんだってさ。向こうでお仕事探すんだって」

「へえ……それで前向きになったんですのね」

「ねーちゃんのほうが待ち続ける側になっちゃったけど……まあもう、心配はいらないと思う」

買ってきた食材があるから日陰に入りたいというと、櫻子は大きな桜の木の下に案内してくれた。

ここは、撫子さんたちの想い出の場所なのだという。


「いいですわね、同棲……お二人はきっと、ずっと前からそんな夢を持っていたのでしょうね」

「たぶんね」


櫻子は今回の一件で、やけに大人びた気がする。

この子はいつになったら撫子さんに似るのだろうと思っていたが、あっという間に、やりすぎなくらい撫子さんになってしまった。

特に、その目つきが変わった。

「あなたは色恋沙汰には無関心だと思ってましたわ」

「無関心だったら、向日葵と付き合ってないじゃんか」

「ああ、そういえば私たち付き合ってるんでしたわね」

「ちょっ……向日葵が言い出したんでしょ」

「だって別に、付き合ったからといって何が変わるわけでもなかったんですもの」

「まあね……ふぁーぁ……」


大きく伸びをした櫻子は私から買い物袋を奪うと、それじゃ行くかと、空いたほうの手を繋いできた。


なんだかどこか、頼れるようになった気がする。

そんな一面こそが、姉に似た一番の側面なのだと、自然に思えた。

「付き合うって、なんなんだろうなぁ」

「さあ……なんなんでしょうね」


「……とりあえずおなか減ったから、帰ったら何か作ってよね」

「はいはい」


木陰を出ると、またうだるような暑さが身を包んだ。

じっとりと汗ばむ手が恥ずかしいが、櫻子の方から握ってきたことだし、離さないでおく。

自分がかぶっていた麦藁帽子を櫻子の頭に乗せてあげると、やっぱり身長が大きくなってきたことがよくわかった。


突き抜けるような真夏の青い空は、なんとなくだけど、「未来」を感じさせた。


「今日も暑いですわね」

「そう? 私は首もとから風が入ってきて、涼しいと思うけどね」



~fin~

ありがとうございました。

ゆるゆり三期決定おめでとうございます!大室家の今後にも期待してます。

最後に、途中に使った歌を→ https://youtu.be/Lwo42RFXEJc

乙乙 すごくよかった

おっつりん
なでめぐは最高だし

すごすぎる
間違いなく大室家SSの歴史に残る

いつも乙!

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