一章
仕事を辞めた俺は超自然現象対策室に再就職した。 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1412704595/)
二章
仕事を辞めた俺は超自然現象対策室に再就職した 二章 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1413129484/)
三章
仕事を辞めた俺は超自然現象対策室に再就職した 三章 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1413548314/)
四章
仕事を辞めた俺は超自然現象対策室に再就職した 四章 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1414866677/)
五章
仕事を辞めた俺は超自然現象対策室に再就職した 五章 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1418472195/)
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最終章の前編となります
※警告
そびえ立つう○○
厨二ポエム的 黒歴史ハイボルテージ でお送りします。
視点変更あり
ちなみに今回は雪子と桜子は一切登場しませんごめんなさい
それとクソ長いです
それでは
――俺は何故生まれてきたのだろう。
ふと、そんなことを思う瞬間がある。
大抵の人間は思春期で卒業してしまうようなテーマだ。
明確な答えはない。あくまでそれは自分で決めるしかないのだ。
その理由を自分なりに決めるのが生まれてきた意味とする人もいる。
答えは分からない。
俺もこうして生きてきた…… いや、まだ人生を振り返るような年齢ではない。
だがそのテーマは俺の脳裏にずっと貼り付いている。
これまでも、そしてこれからも。
もういっそのこと出家でもした方がいいのかもしれない…… そんな具合だった。
例えば「あの時こうしていれば」とか、「あの時ああ言っておけば」とか…… そんなことはいくら考えたところで意味はないのだが、これまでの選択が正しかったのか…… とか。
――あの時仕事を辞めていなければ。
このような雑念ばっかりが今になって次々と浮かんでくるのだ。
何故か…… 分からない。
――死期を前にした人間は想い出を巡り全てを清算するという。
もしかすると俺もそうなのかもしれない。
理屈とかではなく、あくまでも予感や直感の範疇に過ぎないが。
青臭いテーマはぶっ飛んで、俺は何もかも超越しそうなほどだ。
ああ、どうにかしてるさ。
人生が嫌になっているのかもしれないし、もしくはまだ思春期を煩わせているのかもしれない。
そうやって自分自身にスポットを当てる。
俺は俺自身と過去を巡る。
――俺は心のどこか深いところで、隅の隅、底の底で…… 自分を否定し続けていた。
自分という存在を受け入れていなかった。
俺は非力だ。
俺は無力だ。
誰も守れないし、この両手には何もない。
栄光も、名誉も、勇気も、輝きも。
俺は俺を受け入れたくなかった。
否定していた…… ずっと。
躓いて、嘲笑され、地面を這いつくばって、そして最後には感情をすり減らして失った。
――そんな俺だったが、希望を得た。
自分を許せるような、受け入れられるような、そんな希望を得た。
それが運命だとか宿命だとか使命とか、そういうものかは分からない。
だけど俺はそれに賭けた。
俺は希望を得た。
希望を もらった のだった。
――ある物語を思い出す。
自分という存在、自分という世界の全てを知り悟ってしまった鳥がいた。
その鳥は世界の仕組みやしがらみ全部、理を超越して夜空へ高く舞い上がった。
やがてその鳥は誰も知らない輝く星になった。
――今なら彼の心情がどこか分かる気がする。
彼のような存在になりたいと、そんな風にさえ思う。
俺は夜空を突っ切って昇ってゆく。
もう誰にも止められはしない。
冷たく刺すような気流も、羽をつけた怪物も、突風も、嘲笑うような声も、何もかも。
俺は高く飛んでゆく。
そうして燃える空を突破して、無限の空間へ到達する。
そこで俺はこの身を、この命を燃やし、爆発させて輝く。
今ならできる。
ちっぽけな希望を持って、俺は俺を受け入れ、そして何もかもを背負って輝き、希望をくれた、愛する者達を照らす。
そうなりたいと思う。
俺は星になりたい。
何のしがらみも寄せ付けないただ一つの輝きをもって、孤独に輝き続けていたい。
今になって思う。
人間は人間という世界のしがらみに縛られ続けている。
世間体、規則、圧力、法律。
そして醜く汚い争い。
私利私欲の為に動く者達。無関心を貫く者達。
そんな俺たち人間こそが、「超自然現象」なのではないか。
もう何もいらない。纏わり付く世間や世界の影など拭い去ってしまおう。
一つの覚悟だけを持っていく。
俺も人間という生物の一つなのだから、その覚悟は他の奴らにとっては自己中心的だとかエゴだとかに見えるだろう。
ああ、そうさ。
だけど俺も世界を知ってしまった。自分の世界を知ってしまった。
だから俺は裸になって、いらないもの全てを取り払って、覚悟の中で死んでいく。
冷たく重い鉄格子など俺の前では意味を成さない。
何故なら俺も「超自然現象」なのだから――
頬を撫でるのは冬の風。
ツンと、ゴウゴウと俺に向かって吹き荒む。
そこに荒れ模様の波が潮風を起こして流れていく。
――11月。 気付けば季節は冬へと移ろう。
荒れ模様の海原を行くのは一隻の連絡船。
それは俺達をとある小さな島へと運んで行く。
「――龍一様、港が見えてきたわよ」
船のデッキで一人海原を眺めていたヤエが、波間を裂いて進む船のエンジン音にかき消されぬように声を張り上げる。
「――ああ」
振り向いて俺を見つめるヤエの声に頷き、遠い一点に視線を集中させた。
瞳は彼方の波止場を捉えた。段々とその光景が大きくなっていく。
「遂に来たな」
「――ええ」
俺とヤエは襟を正す。
俺は皮のジャケットを、ヤエはファーが付いたフィールドジャケットを着込んではいるものの、刺すような冷たい風が隙間から入り込み体温はじわじわと下がる。
近くなる波止場を見つめたまま、俺は一人これまでの経緯を思い返した。
そして雪でも降ってきそうな曇天の空を見上げると、雲の影に俺の記憶が投影されるようだった――
10月は中盤のことだった。
俺のもとへ誰かからの手紙が送られて来た。
手紙が入っていた縦長の茶封筒を裏へ返すと、右端に小さく「株式会社インフォメーションエージェンシー」の文字と住所・郵便番号が記載されていた。
それがどうやら送り主であるようだったが初めて聞く名前で、そんな団体から手紙が送られてくるようなことはした記憶がない。身に覚えが一つもなかった。
もしや間違いなのでは…… と訝しんだが、封筒表面にはしっかりと「神山龍一様」とあったのだ。
一体いつ、どこで自分との関係が生まれたのか過去の記憶を辿ってみたものの、該当するようなものは一つも思い浮かばなかった。
同姓同名の人違いとも考えたが、それならば住所まで家と同じになるはずがない。
あれこれと憶測を巡らしながら俺は遂に手紙の内容に目を通した。
――その手紙は俺を容易に絶望の淵へ落とす不幸の知らせだったのだ。
どうして、どうやって…… 疑問はいくつも生まれ、波のように何度も何度も押し寄せる。
そんな中で、視線は白地に黒インクで連ねられた文字の数々に釘付けになり、数回ほどは文頭から文末までループしていたことだろう。
改めてもう一度、文頭から呟いて確認したのだった――
「神山龍一君へ
夕月、彼女の最後が迫っている。
彼女は最後に君に会いたいと言っている。
私も君と個人的に話したいことがある。
もしその気があるなら ―― へ来てほしい。
なお、もし君が他人、本部へこの話を持ちかけるようなら、私たちはそれ相応の措置をとるつもりだ。
君も対策室の一員なのだろう? 私たちは常に君たちを監視している。
下手な真似はしない方が身のためだ。
君にその気がないなら、この手紙は誰にも見せず、誰にも話さずにバラバラに裂いて処分してくれ。
それでは、前向きな反応を期待している
第三機関 染谷喜一郎」
手紙にはそんな風に記されていたのだ。
そして俺は艶やかに輝く金色の髪と淡く透き通った灰色の瞳を持つ女の顔を思い出した。
名を夕月という女。
彼女の美しいその名は、同時に凶悪な現象のものでもあった。
彼女、夕月は…… 現象を従え、また新たなそれを創り出している「教団」の毒牙にかけられて恐ろしい現象である「夕月」をその身に宿されたのだという。
対策室に保護されたが、やがてその対処に難航し……
対策室本部は彼女を現象ごとこの世から消すという決断を下したのだ。
彼女と体に宿った現象を切り離すことは叶わなかったらしい。
それに異を唱えたのが手紙の送り主である「染谷喜一郎」であるようだ。
彼は何の罪もない夕月を始末するという決定に抗議し、そして彼女を連れ出してどこかへ潜伏した。
やがて彼は対策室の本部や支部から同志を募って「第三機関」を設立する。
同機関は夕月を匿うことと対策室の動向を監視する為に設立されたとのこと。
夕月のものと似たようなケースが発生した際、対策室が同じ態度に出た場合はそれを裁く(妨害する)可能性があるという声明も出しているようで、つまるところ対策室が横暴を働かない為の第三者機関的役割を掲げて行動しているようだ。
彼らが普段どこに身を潜め、何をしているかは定かではない。
これらの情報は全て対策室本部のヘッド、対策室の全てを仕切るボス…… 山地泰介から聞かされたものである。
そして彼、山地は夕月のようなケースも含め現象に対する強行的姿勢を変えるつもりはないようだ。
この問題の全ては教団が黒幕である。
山地の同僚「榊右近」が対策室を去り設立したのが「教団」であるらしい。
榊が創ったそれは悪魔を崇拝する宗教団体であり、裏で信者を集め着々と勢力を伸ばしているようだ。
また、榊は現象を新たに創り出したり、それを従えて己の私利私欲の為に活動している。
教団さえいなければ……
俺は知ってしまった。
そして出会ってしまった。
約束してしまった…… 夕月と。
正直なところ、ちっぽけな約束なのかもしれない。
俺の中の悪魔は囁いている…… 一度会っただけの女のしょうもない願いを聞き入れる必要があるのか、と。
また一方で天使が囁く…… たった一度会ったきりの他人ではある。だからといってお前は求められた願いを破り捨て、なかったことにするのか、と。
(そうだ…… 迷惑なんだよ…… いきなり現れて救いを求めやがって)
俺は救世主でも神様でもないんだぞ。
(だが…… それでいいのか?)
――俺は、本当にそれでいいのか?
俺は…… 人は、何かにつけて理由が必要だ。
動く為、働く為、生きる為……
理由があって、それを人は運命だの天命とご立派な名前を付けて旗を掲げる。
それじゃ、理由がないと動いてはいけないのか?
どうして俺がこんな目に…… もう何もかも捨てて逃げてしまいたい。
――それでいいのか?
俺自身はどうなんだ? どうしたいんだ。
胸元で輝くネックレスがある。
夕月から預けられた、彼女が生きている証。
このネックレスは未だ強く輝き続けている。
(この輝きが失われないうちに)
俺は…… 俺は。
俺には力がない。
しかし非力を理由に逃げていいのか?
ああ。確かに心の片隅では感じていたさ。なんてはた迷惑なことをしてくれたのかと。
俺も聖人君主じゃない…… それは認める。
その上で、だ。
こんな汚い感情を少しでも抱いてしまった自分が憎い。
理由なんてものは後付けでいい……
いや、理由なんてなくてもいい。
俺は見つけた。
汚い感情の反対側の、ほんのこれっぽっちのスペースに。
(俺は…… 自分の世界を守りたい)
雪子の世界を、桜子の世界を、夕月の世界を。皆の世界を。
――夕月を助けたい。
たった一度会ったきり、数時間共に過ごしただけなのに?
――そうだ。
ただの他人の為に己の身を投げうってでも?
――そうだ。
それの何が悪い?
動機が曖昧だから? 動く理由にならないから?
そんなの知るか……
ほんのちっぽけな感情が叫んだんだ。
助けたい、と。
――それでいいじゃないか。
人の為に動くのにいちいち理由が必要か?
直感が叫んだんだ。それが理由だ。
これは俺に課せられた試練だ。
きっと俺は試されている。
きっとこの流れが、今まで歩んできた人生が、出会った人々が、過ごした時間が……
それら全てが「超自然現象」だったんだ。
俺は生まれてからずっと超自然現象の中にいたんだ。
いや、生まれたことそれ自体が超自然だ。
これは集大成だ。
超自然はやがて必然になる。
全てが必然だったんだ。
こうなることは決まっていた。
だったら俺はどうする?
必然から逃げるのか?
仕事から逃げたあの時のようになるのか?
これは俺が「もう一人の俺を受け入れる為」の試練だ。
汚く、酷く、脆く、醜悪なもう一人の自分を受け入れ、それを超える為の試練だ。
きっと今まで俺は現実から、もう一人の自分から逃げていた。見えないふりをしていた……
一つの命を犠牲にして世界を救う。
そんな大それたものじゃない。
大切な人の、守りたいと思える人の世界を守れないで、身近な人に寄り添ってあげられないで何が人間だ。何が大人だ。
(君は個を取るか、それとも全体を救うか――)
いつかボスに投げかけられたあの言葉、究極の選択。
俺は個を取る。今ならはっきりとそう言える。
大半の人間は間違っていると鼻で笑うだろう。ああ、恐らくこれは間違った考えだろう。
だが俺は個を取る。
身近な、大切な人を第一に救えないで、それで他の世界が救えるとでも思っているのか。
お前らは聖人にでもなったつもりなのか。
目の前の人間が困っていても他人事のように匿名の世界に縛り付けられているお前たちが、そんなお前たちが世界を救えるのか。
――もうあの時に戻りはしない。
雪子や桜子、他の者には口外できない。
孤独な戦いになるだろう。
だが、俺一人では困難であるのも確かであった。だから――
「――それが龍一様の答えなのね」
そう言ってヤエは優しく笑った。
ああ。これが俺の答えだ。
俺は試練を乗り越える。
醜い自分を受け入れて、乗り越える。
俺の愛する世界を守る。
これは俺のエゴ、自分勝手なわがまま。
俺は直感に従う。
そして俺自身が、誰かを救う為の「超自然」になる。
その為に、非力な俺にお前の力を貸して欲しい――
「――こちらの世界に来たら、あなたはもう戻ることはできないのよ」
それでもいい。誰かを救えるなら、守れるなら、俺という存在を受け入れられるなら。
だから、一緒に来て欲しい。
「――分かりました。主様の願いに応じ、このヤエはどこまでも付いて行きましょう。
そしてようこそ…… 私達の世界へ――」
俺とヤエも、巡り会ったことは必然だったのかもしれない。
差し出された彼女の真白い手。
俺はそれをそっと握る。
その時何故だか涙が流れた。
もうあの日々が戻らないことを感じてしまったのかもしれない。
俺はヤエの胸の中で全てを洗い流し、そして誓いを交わした。
(これはお前の世界を守る為でもある。信じて欲しい)
一蓮托生の契りを交わし、俺は燃えたぎる直感に身を投げた――
「――龍一様、着いたわよ」
――やがて追憶は終焉を迎える。
中国と四国地方の間に存在するいくつかの島々。
その中にある、とある小さな島に俺とヤエは今降り立った。
染谷からの手紙に記載されていたのがここであったのだ。
支部にも定休があり、その定休日である今日を使って早朝からこうして出てきた。
他人には口外できなかった為、雪子や桜子には大学時代の友人と遊びに行くと言っている。
(この島に…… 夕月が)
今一度覚悟を決める為に胸元からネックレスを出して強く握る。
午前は9時前。
寂れた船着場、港には俺とヤエ以外には誰も存在しなかった。
埋め立てられたコンクリートの地面を進んでいくと、やがて開けた場所に到達する。
彼方では漁船とみられる船が何隻か並んで停泊していて、その先には出荷場とみられる大きな施設が建っている。漁港にもなっているらしい。
それにも関わらずこの場には、港には見る限り誰もいなかった。
普通なら漁師や漁港で働く人々、物流を取り仕切る者達で賑わっているはずなのに、誰もいなかった。
「――神山さんですか?」
そうやって誰もいない船着場を見渡していた時。
「――あんたは」
「機関の者です」
いつの間にか数歩ほど先に一人の女がいた。
上下スーツスタイルでピシッと決めて黒いコートを羽織る眼鏡を掛けた女。
そんな風貌と冷たく光る黒縁の眼鏡が相まってなんともクールな印象を醸し出している。
「手紙にはあなた一人で来い、そう書いてあったはずですが――」
そう。あの手紙には「俺一人で来るように」という条件が記載されていた。
だからそう言ってくることは予想の範疇。
女は冷酷な視線を俺と、それから俺の背後のヤエへと順に注ぐ。
「――すまねぇ。だが俺達は対策室の差し金でも何でもない。
純粋にあんたらの要望に応じて来た。
そしてこいつは 現象 だ」
現象。その二文字に女の目は見開かれ、一瞬ではあるが驚愕の表情を浮かべる。
「私たちをどうかするつもりで来たのなら――」
「――いや、違う!
あんたらは夕月のような境遇の者を保護することもしてるんだろ?
こいつも実は似たような状態なんだ…… 俺もあんたらに話したいことがあってな。
その為にコイツがいれば何か心強い部分もあるかと思って連れて来た」
決して危害を加えるつもりはない。
その意志を言葉と視線に込める。
「信じてくれ…… 強引な交渉とか、対策室に頼まれたとか、そんなんじゃない。
聞きたいことが、話したいことがあって俺達もここへ来たんだ」
ジッと身構えたままこちらを凝視する女。
「何かおかしな行動を取ったら、その時は分かっていますね?」
「――ああ」
女はギラリと睨みを利かせる。
「分かりました…… それでは染谷様のもとへ案内します。付いてきて下さい」
何秒間かの沈黙の後にため息を一つ付いて、やがて女はそう言って身を翻し歩き出す。
視線の前方、船着場を真っ直ぐ抜けたその先の道路には一台のライトバンが停まっていた。
俺とヤエは一度顔を合わせ無言で頷き合い、そして女の後を付いてその方向へと足を踏み出す――
女が運転する黒塗りのライトバンは俺とヤエを乗せて島の外縁に沿った道路をひた走る。
彼方に見えるのは小高い山々。そして生い茂る山林。
裾野は切り拓かれ牧草地のようになっている。
ポツポツと人家も存在しており一見するとのどかな田舎の島という様相であるが、この曇天のせいなのか、はたまた別の事象によるものか…… どこか寂れて見えるし人の気は依然として感じなかった。
「――まもなく到着します」
冷然とした女の声が車内に響く。
車はやがて林に覆われた横道へ入った。
ずっと続く一本道。
舗装が荒く揺れる車。
「ここは――?」
「詳しくは言えません」
そして進んだ先、道を覆っていた林が一気に消えて横長の門が突如姿を現す。
コンクリート製と思われる重々しい横開きの門は車一台が通り抜けられそうなスペースを保ったまま開きっ放しになっていた。
反射的に浮かんだ俺の疑問を女は切り捨てる。
恐らく第三機関のアジトというかねぐらというか、そういうものの一つということは察しがつくが部外者にあれこれ教えるつもりはないようだ。
車は開いたスペースを抜けて敷地の中をそのまま真っ直ぐ進んで行く。
「着きました。それでは付いてきて下さい」
あくまでも事務的に感情もなく告げる女。そう言って停車し、エンジンを切って車を降りる。
彼女に続いて車を降りた俺達の前に姿を現したのは――
見たところ校舎のような二階建ての建物。
もしかすると廃校跡地を利用しているのだろう。
吹き抜けの渡り廊下と教室棟。彼方には体育館のようなものも見えるし、校庭だったらしい更地もある…… 間違いない、学校だ。
女は後ろを振り返ることもなくカツカツとヒール靴の音を鳴らして進む。
俺とヤエは無言で彼女の背を追って行った。
元は学校だったらしい廃墟を進む…… 進む。
渡り廊下を真っ直ぐ突っ切り、通り過ぎ、奥へ奥へと向かって行く。
校舎内に入る素振りは一つもない。
年季が入ったコンクリートには所々に亀裂が浮かび、蔦が絡まり、かつては子供たちの声で溢れていただろうこの建物にはもうその面影は一つもない。
中庭のようなスペースへ入り、やがてそこも抜けると視線の先には体育館だったらしい建物が。
そして女はその入り口前でようやく歩みを止める。
「――中へどうぞ。染谷様がお待ちです」
先に入れ。
そのように促す女。
「ああ――」
一つ深呼吸して、そうして言われるがまま、促されるままに足を踏み入れた――
体育館であったはずの建物は、内装は全て剥がされて打ちっ放しのコンクリートが冷たく露出していた。
そんな建物の中、殺風景にポツリと置かれた幾つかのソファーや簡易テーブル、業務用の大型ヒーター。
そして――
「――龍一」
館内の中央ほどの位置に独り悲しく置かれた医療用ベッド、酸素ボンベ、点滴台、人工呼吸器等医療器具。
どこから取り寄せたのだろうという疑問が沸くが、女の姿を一目見た瞬間それはどうでも良くなった。
「夕月…… 来たぞ」
ベッドに一人仰向けになっている女、夕月。
――どうして。
病衣を纏って、露出した肌には包帯がびっしりと巻かれている。
その継ぎ目、隙間からは刺青のようなアザがチラリと顔を覗かせていた。
「ありがとう――」
言葉を失った。
息も絶え絶えで、人工呼吸器から伸びるマスクに口元を覆われてなんとか呼吸を保っているような状態だった。
くぐもった声で彼女はそう言うのである。
苦しく歪む顔をなんとか笑顔に変えて、そう言ったのである。
どこかで聞いた言葉がある。
人間は呼吸が苦しくなると、次に肩で息をするようになり、最後は顎で息をする。
そうして逝くのだと。
彼女は肩を揺らし必死に呼吸していた。
「――来てくれて感謝する。神山くん」
ベッドの横、複数あるパイプ椅子の一つに腰を掛ける男、染谷。
「どうして――」
こんなになるまで……
「――一人で来いと書いたはずだが?」
何故病院に連れて行かない!
「どうして…… 病院に連れて行かないと!!」
「――質問に答えろ」
「今はそんなこと――!!」
どうしてコイツはこんなに冷静でいられる?
「夕月はもう無理だ」
「何のために彼女を連れ出したんだよ……」
「一般の病院に連れて行き、それでどうする? 彼女のアザを見ただろう?」
顔色一つ変えずきっぱりと言い放つ染谷。
「これから説明する。そこに掛けてくれ…… 後ろの君も」
そして着席を促した。
「――わかった」
一つ息を吐いて冷静を取り戻す。
そうして傍らのパイプ椅子に俺達は腰を下ろした。
「――まずは神山くん、君はどこまで彼女の事を知っている?」
ヒーターの音が虚しく響く館内。
「本部の山地さんから全てを聞いた」
「そうか、彼から聞いたのか…… それじゃ話は早い」
ただ淡々と交わされる会話。
「彼女の中の怪物はもうその姿を現そうとしている。完全に」
夕月。それは彼女の中に潜む怪物の名でもある。
「我々も彼女をなんとか救おうと色々講じてきたが、どれも徒労に終わった」
染谷の目は諦観の色を含んでいるようにも見えた。
そっとベッドに伏す夕月を一瞥する。
「それで、もう救う方法はないのか!? このままいくと夕月は――」
「――怪物の姿になり、人類に災厄をもたらす…… あのアザは怪物がどれほど彼女を侵食しているか、その証拠だ。呪いの刻印だ。もう全身に及んでいる…… 時間はない」
「そんな……」
だとすれば、もう夕月は。
「そんな馬鹿な…… それで、アンタはどうして俺をここへ呼んだんだ」
「――本題へ移ろう」
そう言って染谷は居住まいを正す。
「――と、その前に。後ろの彼女は何者だ?」
鋭い視線を俺の背後、ヤエへ注ぐ染谷。
「彼女は――」
「――人間じゃないな?」
「どうしてそれを……」
俺が説明するより早く食い気味で言い放つ。
「直感でそう思った。それだけだ…… それで?」
「現象だ」
「そうか。それでどうするつもりだ?」
「対策室の差し金とかそんなんじゃない」
「そうだろうな」
「こいつも夕月と似た境遇と考えてもらっていい」
「――ヤエよ。よろしくね」
ここに来て初めてヤエは言葉を放つ。
「ほう…… それで対策室に追われているとか? 俺たちに匿ってもらいたいのか?」
「違う。そうだな、まずは俺たちを呼び出した理由だ。それを聞いたらこちらも胸の内を正直に話す」
「交渉か?」
「交渉…… いや、そんな大それたものじゃないさ。相談だ」
「――そうか。まあいい、分かった。君を呼んだ理由だったな」
まず一つ目は――
人差し指を掲げて染谷は語っていく。
「――純粋に彼女の最後の望みを叶えてやった」
彼女は最後を悟り、君に会いたいと言った。
だから私たちの力を使って君の居場所を割り出し、そして手紙を送った。
どうやって割り出したか…… それは私たちの業務内容に関わるので教えることはできない。たとえ君が対策室の一部でなくとも、だ。企業秘密というやつだ。
まあ要するに君がどんな人間か大抵のことは知ることが出来る。そうできるのが私たちだ。山地さんからも少しは聞いただろう。
そう補足を付け加えてから。
「次に、二つ目の理由だ――」
染谷は前のめりになって、そして俺を強く見つめる。
ノンフレームの眼鏡がギラリと光った気がした。
「――私たちのもとへ来ないか?」
「あんた…… 何を言って――」
冗談でも何でもなく、至って真剣な眼差しで俺を見つめる男。
「そんなこと言ってる場合かよ…… 夕月はどうするんだ?」
「だからだよ神山くん。君は彼女を見てどう思う?」
「どうって、そんな――」
「対策室は彼女を切り捨てた。奴らの横暴は絶対君主そのものだ」
「そんなことより今は彼女を救い出す方法だろうが!」
「私たちは奴らの横暴を許さない。奴らは今でさえ陰に身を潜めているが、好機が訪れればその力で一気に実権を掌握するだろう――」
「――何を言ってるんだあんたは!」
まるで支離滅裂で、こいつも何かに憑かれているのではないかという具合だった。
「君は以前、彼女を庇うような素振りを見せたな?」
「あれは……」
マシンガンのようにまくし立ててくる染谷。
夕月と出会い、そして別れたあの夏の日が蘇る。
「対策室の一部である君が、現象とみなされた彼女を庇った」
「対策室の一部というか…… 俺は支部の家事手伝い諸々をしているだけの使用人だ」
「君は本部に目をつけられているだろうな。次に粗相した場合は最悪消されるかもしれない。奴らは平気で実行するだろう」
「何を言っているんだあんたは」
自暴自棄になっているようにも見える。
どこか虚ろな表情だった。
俺の言葉は届かない。
「もう彼女のような犠牲を出したくない」
「おい…… お前は夕月を諦めたのか!」
もう夕月を見捨てたというような、まるでそんな言い方だった。
「王は掟に縛られる。縛られる内に、やがて掟そのものになってしまうのだ」
「何を言って――」
「王は掟そのものでなければならない。対策室がそうだ…… そして我々もまた」
「どうかしてる!!」
「私情など、個人の主張など受け入れてはならない。たとえ血が繋がった家族でも…… それが掟なのだから」
男の眼差しは虚空に置かれているようだった。
「だからだ神山くん。君のような存在を、何色にも染まらない存在を私たちは欲している」
「――それで俺を呼んだのか…… そんな事の為に」
「ああそうだ。これで以上だ」
「夕月はどうする?」
「もう打つ手はない。怪物に成り果てる前に消すしかない」
消す―― 残酷な言葉は残響を生んでのしかかる。
「あんたらが…… そうしない為に夕月を連れ出したんじゃないのかよ」
「そうだ。だが私たちも結果、対策室の奴らと変わらなかったわけだ」
「あんた、俺があんたたちの中に加わって何ができるっていうんだよ」
「腐りきった体系を新しい風で変えてくれ」
「俺にそんな力はない」
「――そうか」
ああ…… 恐らくこの男は憔悴しきっている。
何の力もない俺を仲間に加えようとしている時点で末期ということだろう。
――打つ手はない。
自分に力があると、そう信じていたのだろう。信じたかったのだろう。
そして脆いプライドが折れた時、全ては灰燼と化す。
(灰燼―― そうだ)
この男は、仕事に追われていた頃の自分そのものだった――
「希望は、ある――」
あの時の俺は、傍から見ればこんな姿だったのか。
場違いにも親近感に似た感情が染み渡る。
「――希望、だと?」
うな垂れる染谷は力なく言葉を漏らす。
「ああ。それじゃ俺達の相談を聞いてもらおう――」
もう話を聞けるような状態には見えないが、染谷は何も言わず顔をゆっくりとこちらへ向ける。
どうやら話を聞くほどの余力ならまだ持ち合わせているようであった。
「夕月の中の怪物…… そいつはいわゆる寄生虫みたいな存在とも言えるんじゃないか?」
「寄生虫、そうだな。宿主の中に潜み侵食する…… そういう意味ではそうとも言えるだろう」
ほぼ機械的に答える染谷。
「寄生虫なら取り出し切り離すことも出来るだろうが…… どうやらそれは怪物には通用しなかった」
「そういうことだ」
「――なら、宿主を移すことは?」
移す―― 茫然とした染谷の瞳はその言葉で見開かれた。
「君は自分が何を言っているか分かっているのか?」
「――ああ。以前ある現象の解決に立ち会ったことがある。
呪いとして人から人へ感染する現象だ。
もし人に移ることがあるなら、この怪物もそうできるんじゃないか、そう思った」
そう。これが俺の行き着いた答えだ。
解決策はないように思えた問題だが、そんな中これに辿り着いた。
「神山くん、君は夕月の身代わりになるつもりか」
「――ああ」
そうだ。もうそれしかない。
狂ってるとか偽善者だとかなんとか思われようがこれが全てだ。
「君が身代わりになれたとしてどうなる?」
「今度は俺が対策室に追われる身になるだろうな」
「それだけじゃない。根本から解決しないとどうにもならない。次の人に移して今までの侵食具合、呪いがリセットされたとしよう…… 仮にだが、仮にそうなったとしても最後にはまた彼女のようになり、次の者に移す羽目になり…… その繰り返しだ。根本から解決しない限り宿主を消すという選択からは逃れられない!」
「それまでの時間稼ぎにはならないか?」
「これは希望的観測の話だ。リセットされる保障なんてない。君が食われて怪物が姿を現す可能性の方が絶対的だ」
「――移す方法はあるのか? YESかNOか。それだけだ」
そうできる手段があるのか、ないのか。
それだけだ。
もう覚悟はできてる。
誰に何と言われようが、俺はこの覚悟の中で死ぬ。
「移す…… 試してみる手段はあるが成功の保障はない。物に移して封じ込めようと散々試したが失敗した方法だ…… だが新たな宿主となる人間が相手となると話は別だ。人間で試したことはない」
だが、死ぬとしてもただでは死なない――
「ならそれをやってくれ」
「失敗して怪物が顕現した場合、どうするつもりだ?」
「――ヤエ」
「はい、龍一様」
俺の呼びかけにヤエが応じる。
その姿はいつもの巫女服に耳と尾を生やしたものだった。
そして―― 片手には一振りの仕込み刀。
「神山くん、君は――」
「実は失敗してどうにもならない時の為にヤエを連れて来た。
もし俺が怪物に喰われ暴走し、あんたたちにも手がつけられなくなったら……
ヤエがいる。酷くなる前に、完全に化物になる前に彼女が一突きで俺と俺の中の怪物を殺す。
ヤエも現象の一人だ。あんたたちの力になるだろう」
「君はそれでいいのか?」
「――ああ」
そうだ…… これでいい。
これしかないなら、それは俺の役目だ。
そう信じる、信じ込ませる。
「もし異常が見られた場合…… 悪化する前に、君の中に現象がいるうちに君もろとも消す。
失敗して夕月から移せなくても、その時は夕月を消す。いいな?」
「ああ――」
「私の一族に代々伝わる術式を使う。結界を張って術を行使し、怪物が君に移るよう誘い込む。最善は尽くすが失敗の可能性が高い。いいな?」
「もうこれしか方法もない…… だろ?」
「一時的な回避策だが、本当にいいのか?」
「ああ――」
死ぬ。
その可能性が高い。
だが何も出来ずに夕月が死ぬのを見ているだけなら、こうした方がマシだ。
(ああ…… でも雪子や桜子に言葉を遺しておけば良かった)
今になってそれだけが心残りだ。
俺は失敗するなんてこれっぽっちも思っちゃいない。
でもそんな後悔がチクリチクリと心を蝕むのだ。
「それでは準備を始める。儀式の前にやり残したことをしておくといい――」
やがて染谷はそう言って立ち上がり、体育館を後にした……
「――龍一様」
俺とヤエ、そしてベッドに伏す夕月の三人になった館内。
夕月は依然として肩で呼吸をしているものの、綺麗な瞳は閉じられていた。
染谷が出て行ったのを見届けてから、ふいにヤエはそう言って俺の胸の中に飛び込んで来る。
「すまねぇな…… 辛い役目を押し付けちまって」
「本当にあなたは優しいお方――」
ふわりと、鼻腔をくすぐる仄かな蜜の香り。
刹那に感じるそれは、まるで最後の手向けだった。
「――俺って大馬鹿者だな」
自己防衛なのか…… 自嘲的な笑みが自然とこぼれてくる。
「あいつらに伝えてくれ――」
「――嫌よ」
俯いた顔を起こし、俺を見つめる妖艶な女の悲しい瞳。
「お前たちに雇ってもらえて、一緒に過ごせて幸せだったと。愛していると」
「嫌――!!」
失敗はしない。そう思っているのに、何故か走馬灯のように鮮やかな瞬間たちが次々と思い出される。思い出してしまう。
想い出は巡る。
全ては清算される。
今思うと短い時間だった。
だけど幸せだった。
仕事を辞めて良かった。
色んな人間と、人間ではない奴らの温もりを知れて良かった。
俺は幸せだ。
こうなってからやっと自分を受け入れることができたなんて…… それだけは不幸なのかもしれないが。
――銀髪と、宝石のような淡い朱色の瞳を持った女。
いつもしっかりしているのに意外なところで抜けていて、だけど憎めない愛しい女。
お前のことも助けてやりたかった。
本当にごめんな。
――切り揃えられた漆黒の綺麗な髪、鮮やかに輝く朱色の瞳を持った少女。
表面はどこか棘があるけど、実は誰よりも優しい心を持っている少女。
棘の裏に愛情があることは誰もが知ってる。
そんな不器用さが愛らしい少女。
もっとお前と馬鹿やりたかったよ。ごめん。
――そして。
「お前も、ごめんな」
「――馬鹿。嫌よ」
まさかこうなるなんてな。
全ての想いを込めて、女の儚い体を強く抱き締める。
現象と呼ばれる女、その一人のヤエ。
しかし彼女にはこんなにも温もりがある。真白な肌には確かに血脈が通っている。
こいつは化物なんかじゃない。俺たちと同じだ。
いつもどこか掴めない、妖艶な女。
気付いたら俺の近くにいた女。
こんな時にもそばにいてくれる愛しい女。
「――大丈夫だ。なんとかなる」
「だったら遺言みたいな言葉、残さないで」
「そうだったな。ありがとう――」
名残惜しい。
そっと、ヤエを自分の体から剥がす。
去っていく彼女の香り。
「約束は果たす。奇跡は起こす。なあ、夕月――」
ベッドに眠る女のもとへ歩み寄る。
そして静かに見下ろす……
「奇跡が起きるなら―― お前はそう言った。奇跡は起きる…… こうやってまた会えたことだしな」
――奇跡が起きるなら、このネックレスを持って。
「持ってきたぞ。夕月――」
首に掛けるそれを彼女に見せるように掲げ、そして外す。
「奇跡は起きた。大丈夫だ」
――まるで自分に言い聞かせているように。
そして彼女の空っぽの手を取って一緒にネックレスを握る。
冷たかった。
真白で流麗な手は雪のように冷たかった。
「――龍一」
その時、くぐもった弱々しい声を捕える。
消え入る呟きと共に、重々しく両の瞳をゆっくりと開ける夕月。
「夕月――」
蜻蛉のように脆い手を力強く握る。
「――ありがとう」
それを言うので精一杯のようであった。
掠れた声でも綺麗な旋律だった。
「これ、持って来たぞ」
「ありがとう―― 嬉しい」
くしゃっと笑う。澄んだグレーの瞳。金糸のように流れる金髪。
振り絞った笑顔。次の瞬間には苦悶の表情へ変わる。
「大丈夫だ。お前を助ける。奇跡は起きる」
「ありがと――」
語尾は砂塵のようにさっと消え入り、そして彼女はまた目を閉じる。
呼吸器は正常に作動している。アラートはない。苦しそうだが呼吸は続いている。まだ大丈夫だ。
「大丈夫だ…… 大丈夫だ」
今はそれが魔法の言葉のように感じられた。
「いつかシンデレラの話をしたな…… 今度は眠れる森の美女ってとこだな」
「――き」
「どうした」
目を閉じたままなんとか言葉を紡ごうとする夕月。
「無理するな」
「――キス」
「キス?」
「して起こして、ね…… その時は――」
「――ああ。キスでも、ガラスの靴でもなんでも履かせてやる」
目を閉じたまま、微かに一つ笑みを浮かべて。
体を屈ませ彼女の掌中にペンダントをそっとしまい、そしてただ呆然と見下ろす。
「――これより儀式に取り掛かる。準備はいいか?」
やがてそう言って戻って来た染谷。
彼の後ろに続くのは俺たちを案内した黒縁眼鏡の女。
「効率面を考慮して彼女にも協力してもらう…… 陣を描き結界を張るからその間に上だけ裸になれ――」
指示に従い上半身の衣服を全て取り払う。
その間染谷たちは周囲の設置物を大雑把に移動させ、チョークで地面に幾何学模様のような陣を大掛かりに描いていく。
さながら魔法陣のようであった。
流れるような作業。
出来上がった部分から女が各所にお札のような紙切れを貼っていく。
「――これは」
「現象を君の体へ誘導する為に必要なものだ。服を脱がせたのも儀式的な意味合いで、だ」
浮かび上がる幾何学模様。
俺と夕月を中心に描かれる魔法陣。
「ようは条件をクリアしていれば他は雑でも問題ない。こんなところだ」
そうしてわずか数分で準備を終えた染谷と女。
立ち止まり、そう言ってため息を吐く。
「――心の準備はいいか?」
低い声が館内に響く。
覚悟はできてる。
失敗は即ち死。成功しても死ぬか生きるかの選択を迫られ続けるだろう。
でも成功しなくちゃ意味がない。
成功すれば夕月は救える。
後のことは成功してからだ。
大丈夫だ。きっと奇跡は起こる。起こしてみせる。
俺が超自然現象とやらになってみせるさ――
「――ヤエ」
「はい――」
「すまないが、頼むぞ」
「分かってるわ…… だけど私は嫌よ」
「そうだな。どうにかしてみせるさ」
「それでこそ龍一様よ」
「――それじゃー、頼む」
刹那の沈黙、その後に――
「――それでは儀式を始める」
染谷の掛け声。
彼の手元、握られた札から光が発せられる。
「夕月、待ってろよ――」
やがて全身の力が自然と抜けて跪く。
閃光を放つ陣と、それに包まれる俺と夕月。
気付けば夕月の掌も何やら輝きを放っている……
どうやらあのペンダントが源らしい。
(ああ…… なんだか眠い――?)
眠い……
分からない。だがそんな感覚に苛まれて俺の瞼はゆっくりと閉じられていく。
成り行きに身を任せる。
そうしてやって来る闇。漆黒の世界。
しばらくの間闇の中にペンダントの残光が微かに揺らめいていた――
――私はずっと一人で生きてきた。
正確に言えば一人と言うと語弊がある。
内面的な意味での 一人 だ。
私は一人で彷徨ってきた。
どこで生まれたかは分からない。
完全に物心がついた時私は既にあの男のもとにいた。
それ以前の記憶はほとんどない。
わずかに覚えていることと言えば――
廃墟、瓦礫の山になった街や、燻る黒煙。
コンクリートに穿たれた無数の弾痕、乾いた血痕、朽ち果てた人形のような人間たち。遠方から雷鳴のように押し寄せる砲撃音。周囲の廃墟から発せられる銃撃の乾いた咆哮。人々の悲鳴。
逃げる人々の群れに流され、気づいたら親も兄妹も親戚も誰もいなかった。
後にあの男から聞いた話では、幼い私は東欧だか南欧辺りの泥沼の紛争地から難民キャンプへ流れて来たということだった。
――そして私はあの男に育てられた。
彼は孤児の私を養女として引き取った。私にとっての救世主、父親となった。あの時 が来るまでは少なくともそういう存在と信じていた。
榊右近。
私は彼を「お父さん」と呼んだ。
彼に引き取られた私は、それからは日本で育った。
衣食住、何一つ不自由なく過ごすことが出来た。
だから私は幸せだった―― 命の危険がないという意味では。
私は学校に通わせてもらえなかった。
学校という存在があること、義務教育という制度があり学校へ通わないといけないということを知ったのもずっと後になってからだ。
世話係みたいな女性が複数いて、実質的に私はその人たちに育てられたのだ。
教育もその人たちから受けた。
彼が家にいた記憶はほとんどない。何の仕事をしているか誰も教えてくれなかった。外出もあまり許されなかった。敷地から外に出たこともほとんどなかった。
だから心はスカスカでいつも何かに飢えていた。
衣食住には困らなかったが、心は不自由だった。
――そして私に あの惨劇 が訪れた。
あの日の私は浮かれていた。
彼が私を外に連れ出してくれたのだ。
「遊びに行こう」
久しぶりに家に戻って来た彼はそう言って私を連れ出した。
そんなことはおよそ初めてで、どこへ連れて行ってくれるのだろうと我を忘れてはしゃいでいた。
――連れて行かれた先は教会だった。
教会…… 一体何をするのだろう。
遊園地、ショッピング…… 楽しげな場面を想像していた私は何だか肩透かしを食らったのだった。
そして私は教会に入り、礼拝堂ではなく地下の仄暗い寂しい部屋に連れて行かれた。
――それからの記憶はない。
辛うじて覚えているのは…… とにかく 痛かった ということ。
手足を鉄製の枷で拘束され、机の上に仰向けにされ…… そして気が狂うような激痛が訪れ、やがて気を失った。
どれほどの時間が過ぎたか分からない。
目を覚ますとまた激痛がやって来て昏倒し、次目を覚ましても同じことの繰り返し。
死と生の狭間で曖昧な世界。
絶えず血の臭いと味がして、思考も停止し、そうして真っ暗な世界がやって来る。
「何で?」
私がこんなことに。
それしかなかった。
――死んだと思ったけど、私は奇跡的に目を覚ました。
ふと目が覚めると私は家でも教会でもない場所にいた。父もいなかった。
超自然現象対策室。
そんな名前の機関に引き取られたようだった。
それからはそこに保護され日々を過ごし、父がどんな人間か、私が何をされていたか告げられた。
私は自分が嫌いになった。
父は私を実験の為の 実験体 として育てていたようだった。
信じたくなかった。
でも、どう考えても最終的にはその答えにしか行き着かなかった。
父が憎い。
いや、彼は対外的に父だっただけで、私は彼を父と思いたくない。
彼のもとで育てられた事実も抹消したい。
こんなことになるくらいなら争いの中で死んだ方がましだった。
私なんか生まれてこなければ良かったんだ。
夕月という名前も嫌いだ。
私は現象と呼ばれる怪物と同じ名前を付けられたのだ。
そう…… 私をその怪物にさせる為に最初からそう名付けられたのだ。
あの男に引き取られるそれ以前からきっと、その計画は既に始まっていたんだ―― 私を 夕月 そのものにするための。
――やがて逃亡生活が始まった。
その機関に保護されて、そして何回か実験を受けた。
私と夕月を切り離す為のものであるらしかったけど、どれも成功するに至らなかった。
そんな日々の中で私は彼、染谷喜一郎に連れられて機関を出た。逃亡生活の始まりだった。
後に聞いたところ私は 処分 されることに決定したのでそれに反対した彼が私を連れ出したらしい。
やがて怪物は私を内側から食い尽くし、乗っ取り、他の人々に災厄をもたらす…… だから宿主の私ごと処分するということらしかった。
私と彼は各地を転々とする。
しばらくすると彼のもとに仲間が集った。
さらにその仲間たちも加わり各地を転々とした。
忙しく、怯えた日々だった。
時に私を激痛が襲った。
体を内側からジワリジワリと燻される、焼かれるような痛み。
知らない内に刺青の様な模様も体の各所に浮かび刻まれていた。
ああ…… 私は怪物なんだ。
痛みが訪れる度にそんな風に思った。
一人だった。自由はなかった。死んでしまいたかった…… だけど何故か怖かった。死にたくなかった。
自由になりたい。
鳥のように大きな羽を生やして、この世のしがらみなんて拭い去ってどこまでも高く飛んで、やがて宇宙まで到達して、燃え尽きて、星になりたかった。
――そして私は家出した。
自由になりたかった。
だから周りの人間の目を盗んで飛び出した。
以前から憧れていた東京へ一人目指した。
言葉にできないような高揚感を感じ、様々な所を巡った。
どうせ死ぬなら―― やりたかったことをやった。
道行く家族連れ、恋人たち、友人グループ…… どれも幸せそうで、それを見ていると私も笑顔になった。
お金はそんなに持っていなかったからできることは限られていたけど…… でも幸せだった。
今まで経験したことのない高揚感。
それだけで十分だった。
――そんな中私は彼と出会った。
もうやりたいことも尽きて、だから一層のことどこかで死のうと思っていたところだった。
酔っ払いに絡まれた私を彼は助けてくれた。
神山龍一。
それが彼の名前だった。
何故だかは分からない。
だけど彼を一目見た時…… 私は今まで感じたことのない感情を覚えた。
私を導いてくれるような、包み込んでくれるような気がした。
友人も恋人もいたことがない。
だから人の温もりに飢えていたのかもしれない…… 龍一はそんな私のわがままを聞いてくれて、色んな場所へ連れ出してくれた。
楽しかった。嬉しかった。死にたくないと思った。
彼のような人がいてくれるなら、私は死にたくないと思った。
もっと一緒にいたかった。願わくはずっと一緒にいたかった。
悲しい想い出ばかり。そんな私がようやく…… 初めて経験した、心から愛しいと思える想い出。束の間の自由。
――でも、運命はやっぱり残酷だった。
シンデレラのようにはなれなかった。
物語はやがて終焉を迎える。
龍一から引き剥がされ、連れ戻された。
そして遂に終わりはやって来る。
私を蝕む怪物はもうその姿を完全に現そうとしていた。
全身に刻まれる呪いの模様。
やがて立つこともままならない状態になった。
それからは猛スピードで容態は悪化。呼吸でさえも不自由になる。
ずっと首に掛けていたネックレス。
生みの親がくれたものなのかは分からないけれど、ずっと私に付き添ってくれた唯一の宝物。
どうせ死んでしまうなら―― 龍一に託した形見。
あれが私の生きた証。
わずかな時間を共に過ごしてくれた愛しい彼への贈り物。
奇跡が起きるなら――
もし神様が私を救ってくれるなら。
人並みの生活でいい。
貧乏でいい。
ただ、 人 としての生活が欲しい。
――私に人としての「名前」を下さい。
「――よう、人間」
ここは――?
怪物を俺に取り込む為の儀式が始まって、それから……
「――失敗したのか?」
俺の体に誘い込めなかったのか?
儀式は終わったのか? 夕月は?
「それなら一体――」
「――さっきから何を言ってるんだ? 人間」
真っ白な世界。
見渡す限り、ずっと白。
そんな何もない無のような空間に俺はいる。
そして――
「――あんたは誰だ?」
「そっちこそ誰だ?」
夢なのか…… それともこれが、彼らが言うところの儀式なのか。
――目の前には真っ黒な 影 がいた。
そう言うほかないだろう。
真っ白な世界の中で目を覚ますと、起き上がった俺の目の前にそれはいたのだ。
人型にくりぬかれたような黒い影。
黒い人型の影。
そいつが目の前にいる。
顔にあたる部分も真っ黒でどこから発声しているのか分からないが、影は俺にそう話しかけてきた。
「――俺の世界にそっちから入ってきて、誰だ? はないだろうよ、人間」
「おまえの、世界?」
影は腕を組んだような素振りを見せた。
「そうだ、俺の世界だ」
「あんたは――」
こいつの世界。
俺とこいつの二人だけ。
ということはこいつがもしかして……
「――お前が、夕月か?」
「そうだ――」
こいつが。
夕月と呼ばれる現象の本体?
それならば、一応のところ接触には成功したと言えるのだろうか。
感情は至って平静で、それどころかまるで自分を第三者視点で見ているような気さえもする。
そこまで冷静だった。何故だか驚きはない。
「そうか、それじゃ――」
夕月を救えるか否かはこれからのこいつとの交渉次第。
「――突然だが、俺の体に移って欲しい」
「そちらから姿を現してきて何かと思えば…… そんなことか」
影は至って機械的に、平然と言ってのけた。
「どうだ? 俺は彼女より体力もあるだろうし、新たな宿主として寄生し甲斐があるんじゃないか?」
真っ黒な影なので感情を読み取れないが、俺がそう提案すると怪物はニヤリと笑った気がした。
「――面白いことを言う人間だ」
いけるか?
「だが、それは無理な相談だ」
「――何故だ!?」
きっぱりと提案を切り捨てる怪物。
「もう少しで長い暗闇からようやく出られるという状態で、何故また暗闇に潜る必要があるのだ」
「それは――」
怪物の癖に至極当然な意見だった。
「帰れ、人間」
「待てっ! 俺の方がその…… 宿主として適正があるかもしれないぞ!」
怪物は「ハハッ!」 と威勢よく笑い声を上げる。
「――自分から喰われに来るとは面白い人間だ」
「どうだ? 俺の方が絶対に美味いぞ?」
どうにかして…… 夕月を救わなければ。
「そうだな。話だけ聞いてやろう」
「本当か?」
「俺の質問に答えろ、人間。それによっては考えてやらなくもないぞ」
「よし…… いいぞ、何でも来い」
大丈夫だ。まだ交渉のテーブル上にいる。
あれだけ冷静だったのに気付くと心臓は早鐘を打つ。
これからの反応次第で全ては決まる。
ゴマをするんだ。すり潰すほどに。
以前のくそったれな仕事で散々やってきたことだろ?
まさかこんな時にあのくそみたいなスキルが役に立つとはな。
「――そうだな、それじゃその前に改めて自己紹介といこう」
余興を楽しむが如く大仰な語調で囃し立てる怪物。
「俺の名前は夕月だ――」
怪物、夕月がそう言った瞬間だった。
「――な」
言葉を失う。
何があっても平静を装うつもりだったが、その決意は刹那の内に崩れ去った。
「俺はもう一つの世界であり」
――人型の影が。
「もう一人のお前だ――」
人型の影が俺の姿に…… 俺自身の姿に変貌を遂げた。
まるでそのまま写し取ったコピーのように。
影が一瞬で俺の姿に変わったのだ。
「お前…… 何者だ」
怪物は俺の顔でニヤリとほくそ笑む。
「知りたいか?」
「――ああ」
「まあいいか…… 人間と話すのは久しぶりだしな」
数秒の沈黙の後、「もう一人の俺」はそう言って語り出す。
お前たち人間が生きる世界を「表」とするならば、俺が生きる世界は「裏」だ。
俺はもう一つの世界。
そしてお前たちにとっての幸福や希望であり絶望…… 怒り、憎しみでもある。
――希望、絶望?
そうだ。
俺はもう一つの世界であるが、それを創ったのは他ならぬお前たち人間だ。
――そんな馬鹿な。
それがなんと、本当の話だ。どうだ、面白いだろう?
――どういうことだ?
人間という生き物は実におかしな存在だ。
――何が言いたい?
人間は一人一人俺のようなもう一つの世界を持っている。
表ではどこまでも高潔であろうとするが、裏には底なしの卑劣さを抱えている。
俺はそんなおかしな存在が願っている世界そのものだ。
――世界そのもの?
そうだ。
俺はお前たち人間によって創られ、そして産み落とされた。大層なことに名前まで付けられてな。
俺を生かす原動力はお前たちの卑しい希望。憎しみにも似た下劣な願望だ。
世界中全ての、人間と呼ばれる種族全員が持っているそれらが俺を動かしている。
――つまり…… お前という存在は俺たちの裏の感情そのものということか?
理解が早いな、そういうことだ。そうとも言える。
俺が生まれた時、ある一人の醜い人間がいた。
――醜い人間?
ああ。
そいつは願った―― 全ての人間の汚らわしい感情を込めて。
そして俺を創造した。
やがて俺はお前たち人間が抱える裏の感情を背負わされ、そうして裏の世界そのものになったわけだ。
そして――
――そして?
俺はお前たち人間の醜悪な願望を叶えてやったわけだ……
お前たちは次々と俺に要求してきたな。
富や名声、権威、歪みきった情愛…… どいつもこいつも必死にな。面白いだろ?
俺はお前たちの願いを聞き入れてやった。
それなのに。
――どうした?
ハハッ…… 駄目だ。おかしくて堪えきれない!
――何だ…… 何がおかしいんだ?
やがてお前たちは俺というもう一つの世界を「悪」と名付けて封印しやがった!
馬鹿げてる……! 笑っちゃうぜ。
お前たちの願いを叶えてやったのに!
見てみろ! あの娘を――!
「あの娘――」
突然狂ったように笑い出し、そして声を張り上げた怪物…… もう一人の俺。
そう言って一点を指差す。
その方向を辿っていくと……
「――夕月!?」
もう一人の俺、もう一つの世界…… 彼が指差す方向を辿った先には夕月が。
「夕月っ!!」
「まあ、そう焦るな」
「離せっ――!!」
遥か前方、漆黒の十字架に磔にされた夕月がいた。
彼女のもとへ駆け寄ろうと走り出すが、怪物は俺の腕を掴んで離さない。
「面白いだろう? 俺という世界一つに鍵を掛けたところで何も変わらん。
また俺という世界を人間は創る。そしてまた封じる。その繰り返しだ。
あの娘もやがて俺のような裏世界そのものに成り果てるだろう」
もう一人の俺。
俺の顔で酷く狡猾じみた笑みを浮かべてやがる。
「彼女を離せ!」
「離すも何も彼女は俺自身だ。今更何を言う。
人間は俺を求める。次々と俺を創る。そうしてあいつに俺を閉じ込めた。新たな俺を生み出す為にな!
あいつは俺だ。俺になるんだ。
おかしいだろう?
あいつもまた俺のように裏を背負わされた! 俺という世界を背負わされた憐れな存在だ!」
ハハハハハハハハ!
狂気じみたサイコな嘲笑。
「そうだ…… だから俺に乗り移れ」
まだだ、まだチャンスはある。
「――どういうことだ、あれを見ただろう? あの娘を」
「ああ…… 俺の返答次第では考えてくれるんだろう?」
「そうだったな。ハハハッ! いいだろう」
それじゃー質問だ!
声高々にそう言い放つ。
「――お前は、どうしたい?」
試すような視線。ギラリとした眼光。
「俺は――」
俺の視線は彼方で磔にされる夕月のもとへと注がれる。
目を閉じたままの女。
目を凝らせば一糸纏わぬ彼女の体には茨のような蔦が絡み付いている。
彼女は俺たち人間の裏世界を、罪を背負わされた。
それは彼女の本意ではない。
醜い人間の汚い願望によって一方的にそうされてしまったのだ。
「お前はもう一人の俺と言ったが――」
「ああ、そうだ」
「お前は、俺自身ということだな」
「そうだな。お前自身でもある」
人間が持つ裏の感情、裏の世界。もう一人の自分。
こいつはそういった概念であり、つまり俺自身でもある。
(そうか、こいつは)
もう一人の俺を受け入れる為の試練だ。こいつは人間という存在、その一部である俺に課された試練そのものだ。
「――俺は、お前を受け入れる」
だったら俺は、この汚く醜い自分を受け入れて、そして乗り越えなければならない。
俺はもうあの時の俺じゃない。
希望をもらった。
それはこんな卑しい希望じゃなかった。
希望という言葉そのものだった。
「――俺は人間だ」
そうだ。
だから感情の中には常にこいつがいる。
しかし誰もがこいつがいないように振舞っている。見えないふりをしている。
受け入れなければならない。
前へ進むために。
希望をくれた人に希望を返すために。
「そうか、俺たち人間が超自然現象そのものだったんだな――」
「面白い人間だ」
「俺たちが現象を創り出していたのか」
いつか雪子が持論として語ってくれたこと。
あの言葉はもしかしたら真実だったのかもしれない。
超自然現象を封じているはずの俺たち自身が、知らずにそいつを創り出していたんだ。
それならなくなるわけがない。俺たち人間が人間である以上は。
だったらどうするべきだ?
俺は、俺たちは――
「俺は、お前を受け入れる」
「俺を受け入れる?」
「――ああ」
「あの娘のようになるかもしれないのに?」
「そうだ」
「あの娘を助けたいのか?」
「そうだ。そして汚い俺を受け入れて乗り越えるためだ」
「一度では済まないぞ? 何度でも俺は生み出される」
「その都度俺は受け入れる。そして純粋な希望と喜びと愛で塗り替えて乗り越えるさ」
「ハハッ、つくづく面白い人間だよ、お前は。
だが俺を受け入れることは俺という世界全てを受け入れるということだ」
「そうだな」
「簡単ではないぞ? それは即ち汚い人間全てのどす黒く淀んだ感情を受け入れるということだ。
それは死ぬことすら許されない絶望かもしれないのだぞ? 気が狂うほどの痛みだ。それを受け入れ希望へ変えると言うのか?」
「そうだ…… それが人間だ」
「――ッハハハハ! こいつは愉快だ!」
腹を抱えて笑う怪物。もう一人の俺。
「お前は面白い。つまりお前は全ての世界、全ての俺を受け入れてみせるということか?」
そうだ。
俺は夕月も含めた大切な人間たち、つまり「個」を取る。
それは他の大多数の人間を切り捨てることじゃない。
個を取れば、やがてその個は全となる。
こいつを受け入れるということは、そういうことだ。
「お前のような人間は初めてだ」
もう一人の俺はそう言って笑った。
先程のような酷い笑みではない。
綺麗な微笑みだった。
「いいだろう。あの娘では中途半端な世界のまま終わるかもしれないからな」
「そうだ、俺に来い。俺に来ればお前の望むままだ」
「俺の望み、だと?」
「ああ。お前が望む世界、そこへ還してやる」
「――ほう。言うじゃないか、気に入った」
「お前は俺を強くする…… 裏を返せば表だ。お前をそこへ還してやる。元いた場所へな」
「ハハッ、それは面白い! よし、それじゃお前に移るとしよう!」
「――契約成立、だな」
交渉成功。
俺ともう一人の俺は互いに手を取り合う。
「終わった――」
するともう一人の俺の体は陽炎のように揺らめき、そしてすっと消えていく。
何事もなかったかのように消えて、そして次にツンとした微かな痛みがやって来た。
針でちょこんとつついたような、そんな痛み。
それの出所は鎖骨のちょっと下の胸辺りからで、ふとそこへ視線を落とす。
「――紋章?」
薄く、淡く刻まれた紋章のような、記号のようなものがそこにはあった。
(これが夕月…… いや、もう一人の俺という怪物)
あいつを受け入れた証が確かに刻まれた。
それを確認し、改めてそこへ覚悟も刻み付ける。
――真っ白な世界に過去の俺が、もう一人の俺が辿った瞬間の数々が投影される。
ああ、あれは中学の部活、最後の大会に出た時だ。
野球部で控え選手だった俺、最後となった試合。
2アウトランナー2・3塁、逆転のチャンスで代打として打席に出された俺。
そうそう…… そこで凡打で終了だ。結果は負け。チャンスをものに出来なかったんだっけ。
チームメイトは俺のせいじゃないと言ってくれたが、悔しくてその後長いこと引きずったな。
おっと、次は…… あいつか。苦い恋愛の記憶だ。
これは高校の時だ。同じクラスの奴と付き合うことになったが……
「私たちいつの間にかすれ違ってたんだね」
そうそう、そう言ってあいつは去っていった。
別に喧嘩をしたわけでもない。
あの時は引き止めることもできなかった。
それからは自問自答、自暴自棄、自分を責め続けた日々だったな。
そして次は大学か。
部活…… これも最後の試合。また上手くいかずに負けた。
そして就活でも落とされ続け何社にも渡って放浪した日々。
それでようやく内定を取って。
極めつけはこれ。
減らない仕事。増える残業。
金は貯まっても心は減り続ける日々。
上司の機嫌取りに必死で、顧客にもへりくだる。自分の心を殺していたあの時。
そうだ…… これが俺だ。俺だった。
――でも、それでいい。
あの時の俺がいて、そして今の俺がある。
(みんな笑ってやがる)
雪子の笑顔、桜子の笑顔、ヤエの笑顔、夕月の―― 人間と、現象と呼ばれる者たちの。
皆の笑顔が投影された。
そうだ、これでいい。あの時の酷い俺も俺だ。
俺は俺を受け入れる。全ての俺を受け入れる。
そして愛する人たちと生きる。共に前へ進んでいく。
駆け巡った瞬間はそこで幕を閉じた。
やがて――
「――夕月、終わったぞ」
十字架はなくなっていた。
彼女に絡み付く汚らわしい茨の数々も、もう今は消え去っている。
うつ伏せに倒れ伏す夕月。
生まれたままの姿。
彼女は今生まれた。
ここに再生された。
彼女は自由を手に入れた。
体が軽い。
空気がおいしい。
あれ? 何故だろう。
私の体をジリジリと焼くような痛みが消え去っている。
どうして?
「――終わったぞ、夕月。奇跡は起きたな」
優しい声がする。
重々しかった瞼がまるで嘘だったかのようにふっと開かれる。
「おはよう、お姫様。なんてな――」
「――龍一?」
なんて幸福な目覚めだろう。
目を開けて最初に視界に入ってきたのが彼だなんて。
それはとても優しい微笑みで。
それが目に入った瞬間、先程の痛みとは違うジーンとしたものが現れて胸に染み渡っていく。
嬉しい痛みだった。
――ああ…… 私は幸せだ。
私は生を受けた。
今生まれた。
そんな風に感じる。
「龍一!!」
口を覆うマスクを無理やり取り外す。
もう何もいらない。
何もかもいらない。
この感情だけでいい。
私の人としての生活は今ようやく始まった。
これからが始まりなんだ。
なんて幸せなんだろう。
無機質なコンクリートも、曇天模様の空も、肌寒い陽気も。
何もかも新鮮で、生きている実感が私に舞い降りる。
「――ありがとう龍一、ありがとう…… ごめんなさい」
「何で謝るんだ? おかしな奴だな」
体を起こし、傍らで体を屈ませる彼の胸に飛び込む。
なんて温かいんだろう…… これが人の温もり。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう」
「いいんだ、もう何もかも。そうだ――」
私からそっと体を離した龍一はそう言ってしゃがみ込む。
「――落ちてたぞ、これ。大事なものなんだろ?」
それは苦しむ私の掌に彼がお守りとして置いてくれた――
「奇跡が起きたから、これをお前に返しに来たぞ」
私の首に掛けられるネックレス。
戻ってきてくれた。
持ってきてくれた、奇跡を起こしてくれた。
「ごめんね―― 私のせいで龍一が!」
「――俺は大丈夫だ。全部丸く収まった。だから何も言うな」
今度は彼の方から。
ギュッと、力強く抱き締められる。
温かい、優しい、愛しい。
私は今生まれた。生を受けた。
愛しい人が私を救ってくれた。
掛けるべき言葉がある。
しかしそれは声となって出てきてくれない。
だから私は精一杯彼を抱き締めて、その力に想いを込めた。
どれくらい時間が経ったか。
しばらくの間俺は夕月と抱擁を交わしていた。
言葉はいらない。
沈黙の中で俺は全ての想いを彼女に伝えた。
きっと彼女も応えてくれるだろう。
痛々しく巻かれた包帯を優しく解いていく。
そこにはもう禍々しい模様は一切ない。
全てが終わった、その証だった。
あいつは俺の中に還った。
もう一人の俺はあるべき場所へ還った。
彼女の中ではなく、俺の中だ。
「――龍一様っ!!」
そうしてゆっくりと抱擁を解いた時、今度はヤエが飛び込んで来る。
「ありがとうヤエ。迷惑かけたな」
「よかった……! 本当に――」
全てが終わったんだ。
やっと始まる。
俺たちの、愛する者たちの日常が。
「あんたにも迷惑かけたな」
「そんなことはない…… むしろ我々が感謝しなければならない」
呆然と立ち尽くす染谷、そして黒縁眼鏡の女。
「しかし、いいのか? 今度は君が――」
「――ああ」
一応のところは収まった。終わった。
しかしこれは単なるその場しのぎ、時間稼ぎ。根本的な解決はしていない。
俺の中にいるあいつとどう向き合い、そして対処していくか。
下手すれば俺も夕月のように喰われる。そして人間に災いを及ぼす存在に変わり果てる。
「君は、もしかして死のうと考えているのではないだろうな?」
「そうだな。俺が死ねば綺麗に収まるだろう」
「龍一様!!」
「龍一! そんなの駄目!」
俺が消えれば即ちあいつも消える。
そうすればこの一件も解決するというわけだ。
「――だが、俺は生きる」
「そうか…… 簡単ではないぞ?」
「そうだな。やがて対策室にもいられなくなるだろう。そして俺は追われる身になるわけだ」
そうだ。俺の中にはあいつがいる。
今度は俺が追われる立場になった。
もういつもの日常を送ることはできないだろう。
俺が死ねば全てが終わるが、それじゃ夕月を救った意味がない。
「君はこれからどうするのだ?」
「そうだな……」
「君には恩がある。我々が匿ってもいい。それに今度は君の中に移った現象をどうにかして封印しなければならない。その対策も講じねばならないだろうな」
「すまねぇ…… よく考えさせてくれ」
「分かった…… 我々で良ければいつでも協力しよう」
時間稼ぎには成功したが、悠長に構えていられる時間はあまり残されていないだろう。
あいつがどんな風にして俺を侵食していくのかは分からない。
もしかしたら共存していくこともできるかもしれない。
しかし対処法をいち早く探し当てなければ。
(隠し通すのも無理だよな)
このまま何食わぬ顔で雪子たちの所へ戻り、いつもの日常を送っていられるならばそれに越したことはない。
だが俺の中には怪物が眠っている。あいつが俺を喰わないでいてくれるならそれが一番だが、そう上手くもいかないだろう。
周りに露見するのも時間の問題だ。
露見すれば一変、雪子たちに迷惑をかけて、そして俺は対策室に追われ、消される。
そうなる前になんとかして対処法を、解決策を見つけなければ。
「――とりあえず…… 今何時だ?」
ここに来たのは何時だったか。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
「正午を少し過ぎている」
俺の疑問に腕時計を確認しながら染谷は応えた。
「まだ大丈夫か…… 少し考えを整理したい。あと休みたい」
「そうだな、適当にくつろいでくれてかまわない。こんな場所でよければな」
「ありがとう。タバコ吸ってもいいか?」
「――好きにしてくれ」
朝早くから出てきたので眠い。
一服したら一休みするとしよう。これからのことも考えなければ。
「さてと――」
タバコを取り出し、オイルライターで火を点ける。
口に煙を取り込んで、ふうっと豪快に吐き出した。
生還した、そんな気分だった。
「龍一様」
それだけ言って口を噤むヤエ。
困惑気味な表情で俺をじっと窺っている。
「俺もお前と同じような存在になっちまったな。ハハ……」
「それじゃ龍一様、私と結婚しましょう」
「――おかしいだろ」
俺を気遣ってくれているのかもしれない。
そんな冗談で場を和ませてくれる。
「龍一」
今度は夕月が。
「ごめんね…… 私のせいで――」
「だから謝るな夕月。お前は何も悪くないんだ。悪いのは教団とかいう奴らで」
「でも、今度は龍一があの怪物に」
「大丈夫だ。俺はあいつと友達になったからな」
「――友達?」
もう一つの世界。もう一人の俺。
あんたが何を思ってるか知らないが、お前も本当は「表」に還りたいんだろう?
あんな汚れた世界は誰だって嫌だもんな。
たとえこれからの俺に穢れた人間の欲望、あいつが言うところの醜悪な人間たちの願望が訪れて体を蝕もうと、俺は純粋な喜びでかき消してやる。
きっとあいつもそんな願望に縛られていて、それで解放されたかったのかもしれない。
「ひょっとすると、あいつも被害者なのかもな」
「被害者?」
「そうだ。超自然現象のな」
そう、あいつもまた超自然現象の被害者なのかもしれない。
そしてその現象を創り出しているのは他ならぬ俺たち人間ということ。
あいつは「裏」を背負わされた。
その裏世界を今度は俺が背負うということ。
大丈夫だ。
お前も救ってやる。
何故だか分からないが、そんな風に考えるとあいつに対して親近感のような感情も覚えるのであった。
もしかしたらあいつとうまく付き合っていけるかもしれない。
「それじゃ夕月、お前はこれから――」
「――染谷様! 大変ですっ!」
ようやく平和な時間が訪れようとしていた時だった。
俺たちがいる体育館跡へ一人の男がたいへん慌てた様子で飛び込んで来る。
「――どうした!」
染谷の部下の一人ということだろう。
膝に手をついて荒い呼吸を必死に整えながら。そして――
「――対策室の強襲部隊が島に乗り込んできましたっ!!」
「――何だとっ!?」
館内に木霊する染谷の叫び声。
普段は冷静沈着といった様子の彼にはありえないほどの取り乱し様だった。
(そんな! 対策室だと!?)
男は確かに言った。
対策室が来た、と。
「どうしてだ…… そんな」
馬鹿な。
束の間の平和は一気に地獄へと急変する。
俺のせいなのか? 誰かに見られていた?
そんな――!
「――何があった! 他の者は!?」
「はい、今その報告を受けたところで、全員緊急配置についているところです!」
「くそっ! 我々としたことが…… 考えられない!」
今まで姿をくらまし、本部でさえ特定できなかったと思われる第三機関の行方、居場所。
しかしそれが今になって突然……
一体何が起こったのか。
「敵の規模は!?」
「はい、それが――」
「どうした!」
「――一個小隊以上と思われます!」
「なんだと……」
一個小隊以上。
それがどれくらいの規模かは分からないが、染谷の困窮具合からみれば中々の規模で押し寄せてきたということが窺えた。
「退避行動だ…… パターンCを発令する!」
「――はっ!」
「直ちにその旨を報告しろ! 総員退避だ!」
考え込む様子もなく即座に染谷はそう叫ぶ。
その指令を受けて男は踵を返し走り去って行った。
「――すまない神山くん!」
そしてこちらに走り寄ってくる染谷。
「一体何があったんだ!」
「それは私にも分からないが、何らかの方法で奴らは我々の居場所を突き止めたようだ!
規模を考えれば時間がない。恐らく奴らは百人近くで瞬く間にここへ到達するだろう! 退避行動に移る!
私についてきてくれ! そこの君も、夕月もだ!」
百人近く……?
このねぐらに第三機関の者が一体どれくらい存在しているか分からないが、ここへ来る時に人の気配を感じることはなかった。出払っていたのかは知らないが何人もの人がいるわけではないことは確かだ。
ということは迎え撃つような余裕はないということ。
総員退避。
「――夕月、行こう! ヤエも!」
まだ病み上がりの状態というような夕月の手を引いて、そしてヤエも一緒に染谷の背中を追う。
「これからどうするんだ!」
「まずはこの島から出る――」
「――その必要はないっすよ」
体育館跡の裏口とみられる扉へ向かっていた俺たち。
その時、俺でもヤエでも夕月でも…… 染谷のでも黒縁眼鏡の女でもない第三者の声が館内に響いた。
「まさかこんなことになるなんて、神山さん、残念っす」
「――あんたは」
上下スーツの上に漆黒のコートを羽織り、頭髪は鮮やかな茶色。貼り付いた笑顔。怪しい細目。
入り口に堂々と立ち頭を抱えるようなわざとらしい仕草をする男。
「間山――!?」
「お久しぶりです神山さん。こんな再会で残念っすけど」
そいつはいつか会った対策室本部、捜査班の一人間山聡太その人だった。
やれやれ…… というようなジェスチャーをしながらそんな風に言ってみせる間山。
(もしかして…… こいつら全部――)
知っている?
間山の態度、言動。
それは俺がここで行った全て、そして行動を起こしたその時からのこと全ても知っているような素振りだった。
(君は本部に目をつけられているだろうな)
染谷の言葉が脳裏をよぎる。
まさか……
全部知っていたのか!? どうやって――
「――それと染谷さん、もう逃げられないっすよ」
「神山くん、行くぞ!」
「逃げられないって言ったじゃないっすか。この島は既に包囲されてるみたいっすよ」
「そんな馬鹿な……! 貴様らどうやって!」
「それは簡単なことっす――」
そして間山はそこまで言ってから後ろへ振り向き、手を招くような動きを見せる。
「――染谷さん、あなたたちと同じ方法を取っただけのことっす」
「貴様……!」
「染谷様すみません。ですが私たちはどの道終わりだったのです――」
そこで館内に姿を現したのは一人の男。
さっき伝令に来た男でもない、新たな人間が登場する。
「貴様、どういうことだ!」
「どうもこうもこの人が全部話してくれましたよ、染谷さん」
パンパン、と男の肩を叩く間山。
「あなたたちが俺たちの人員を買収して第三機関とやらを創ったように、俺たちもそうしただけっす」
「染谷様、もう全て終わりにしましょう」
「ふざけるな! 対策室に寝返った畜生め!」
「畜生はあなたの方ですよ、染谷さん。まあ、因果応報ってやつっすかね」
つまりあの男が染谷を裏切って対策室に全てをリークしたということ……
それによってそこから俺への計画や行動も漏れたということか?
なんということだ……
「それじゃ後は檻の中でゆっくり聞くとしますかね」
事態を収拾する間もなく、間山はそう言って懐から札のような紙切れを取り出し、虚空へと掲げた。
「――神山くん、すまない」
「あんた…… 染谷」
間山が持つ札は閃光を放ち、そこから現れたのは狛犬のような猛々しい二匹の式神。
更にもう片方の手を掲げると、そこから現れたのは一本の神々しい両刃の槍。
それは以前夕月と会い、そしてはぐれたあの時の彼の姿そのものだった。
「神山くん――」
やがて染谷は俺を庇うように前へ出てきて、そして覚悟がこもったような低い声で言い切る。
「この場は私が食い止める。君にはどうか生き残ってもらいたい。
君は我々や奴らにはないような力がある」
「そんな…… 俺はただの人間だ」
「違う。君は恐らく真理を悟ったのだろう。現象についてのな。
我々と奴らはそれに辿り着けなかった。一方的に封じ込めていた。それは奴らも我々も変わらない、暴虐の王そのものに過ぎなかったということだ。
だが君は違う。
君なら全ての現象、そして我々人間をより良い未来へと導けるだろう。君のような人間ならできる。
礼を言う、それに気付かせてくれた君に」
「あんた何を言って――」
「――飛鳥!」
「はい、染谷様!」
飛鳥…… 俺の言葉を遮り染谷は叫ぶ。
彼の叫びに応えたのは俺たちをここへ案内した黒縁眼鏡の女だった。
「飛鳥、神山くんたちを頼む」
「染谷様――」
「大丈夫だ、飛鳥。また落ち合おう」
「その言葉、信じて良いのですね?」
「――ああ」
「御武運を祈ります――」
そして染谷も懐から札を取り出す。
こちらも眩い光と共に二体の式神が現れる。仁王像のような筋骨隆々の巨体が彼を守るように前に立った。片手にはその体ほどある大柄な金棒を持ち、館内を揺らすようなドス低い唸りを上げている。
更に染谷の片手も光を放ちレイピアのような細身の剣が姿を現した。
「いいっすねぇ…… 燃えてきたっすよ!」
それを見て好戦的な態度の間山。
そして――
「――いたぞ! こっちだ!」
「あちゃー、せっかく燃えてきたのに」
大勢の武装した者たち…… 対策室の強襲班、その隊員が館内に押し寄せる。
「それじゃー染谷さんは俺がやるんで。皆さんは他の人をお願いしますよ」
「――飛鳥! 急げ!」
「はっ――!」
ジリジリと間合いを詰める染谷と間山。
(クソッ! 一体どうなってやがる!)
混乱でどうにかなりそうな頭。
様々な情報がめまぐるしく錯綜し、やがて思考は止まる。
「――神山さん、こちらへ!」
「クソ…… 夕月、ヤエ!」
黒縁眼鏡、飛鳥の後について俺たちは裏口へ向かう。
「染谷さん……! ありがとう――!」
どのような気持ちが込められているのか…… 夕月の必死な叫びは染谷の後姿へ吸い込まれていく。
「年貢の納め時というやつか――」
ありがとう神山くん。夕月を頼む……
去り際にそんな呟きが聞こえた気がした。
「そんな馬鹿な――」
いや、十分想定できる事態ではあった。
しかしいざ自分がそれに直面すると信じたくない、夢と思いたい光景だった。
裏口を出て通路をひた走り、やがて開けた場所へ到達すると。
「――手を上げて後ろで組め! 従わない場合は即効射殺する!」
そこで待っていたのは大勢の対策室強襲班、その隊員たち。
「そんな――」
「そうだ、そして跪け!」
ここでおしまいなのか……!?
前方に立ち塞がる分厚い壁。
成す術もなく俺たちは立ち尽くし、要求通りにするほかなかった。
飛鳥と呼ばれる女は苦虫を噛み潰したような顔で唇をギリギリと噛み締める。
夕月は悲痛な面持ちで顔を伏せていた。
そしてヤエも――
「――ヤエ、お前」
「龍一様、これでやっとあの時の借りが返せるわね」
「馬鹿野郎……! やめろ!」
朗らかな微笑だった。
「やっと龍一様の役に立てるわ」
「止めろ、ヤエ! 駄目だ!」
「ありがとう龍一様、愛してるわ」
跪く俺たちへゆっくりと銃を構えたまま歩み寄ってくる複数の隊員。
「――そういえば私、化狸だったのよね」
「駄目だ止めろ!」
「龍一様には見せたくなかったけど――」
「貴様! 動くな!」
ヤエは上げていた両腕を下ろし、そしてゆっくりと立ち上がる。
「――龍一様、また会いましょう。私はこんなところでは終わらない。私は龍一様と結ばれる運命なんだから、ね」
「駄目だ!」
こんな時なのに、ヤエはそう言っておどけてみせた。
「貴様! 撃て――」
「――ハバキリ」
突如発せられる、淀んだ空と下界をつんざくような閃光。
思わず目を閉じる。
そして次にやって来たのは男たちの断末魔の叫び。
「ヤエ、お前は――」
「さあ、行ってちょうだい龍一様! ここは私に任せて!」
強烈な光が止んで目を開ける。
すると俺の目の前に立っていたのは…… 裾が膝丈まで短くなった状態の巫女服を着て、手の甲から肘辺りまでを覆うような長手甲、加えて膝から下を覆うレガース状の防具を身に付け、それから神々しい輝きを放つ一本の剣を持っている、いつもとは違う姿のヤエだった。
いつの間に…… 接近していた隊員は瞬時のうちに倒れ伏している。
「龍一様早く!」
「――ヤエ! すまねぇ、絶対生きて帰れよ! 約束だ!」
「当たり前じゃない! さあ――!」
俺には見せたくなかった…… そう言ったヤエの顔や真白な肌には黒い模様が浮かび上がっている。
そして妖気のようなオーラも纏っていた…… それはさながら神話に登場する戦神のように神々しい姿だった。
「撃て! 撃て!」
「――殺しはしないわ。ただしばらく眠っていてちょうだい!」
俺たちに立ち塞がる壁は刹那のうちにヤエによって薙ぎ払われていく……
「飛鳥、さん……! 夕月、行こう!」
「龍一……!」
「――こちらです!」
ヤエの勇気を無駄にはしまいと俺たちは走り出す。
「愛しているわ、龍一様――」
開かれた突破口。
そこを潜り抜け俺たちは走る。
まるですぐ傍で囁いたかのようなヤエの優しい声。
いつまでも脳内で響くその旋律を噛み締めながらひたむきに走った。
林に覆われひっそりとした脇道を抜け、さらに苔が付いた石段を下ったその先。そこには小さな船着場があった。
「さあ、乗ってください!」
桟橋にくくり付けられ停泊する一艇のボート。
飛鳥はそこに飛び移ってから俺たちにも乗船を促す。
「――操縦できるのか!?」
「じゃなかったらここに来ません!」
まず俺が飛び移って、次に夕月の手を引いて乗せてやる。
俺の疑問を即座にかき消して飛鳥はボートの運転席に着いた。俺はその隣に、夕月は後部座席に着く。
緊急事態に備え常に持ち合わせていたのかどうかは分からないが、鍵を懐から取り出して差し込み、そうしてエンジンをかけた。
起動するボート、その息吹、轟音。
そうしてギアを入れて、ハンドルを握る飛鳥。
「――それでは行きましょう!」
「どこか行く当てはあるのか?」
「本土は既に彼らが待ち構えている可能性が高いです。退避、合流場所に指定されている島へ向かいます!」
発進するボート。
荒波の海を裂いて進む。
揺れる、揺れる。
その間俺たちは何も言わなかった。
いや、少なくとも俺はかける言葉も思い浮かばなかった。何も言えなかった。
飛沫を上げる波、ボートのエンジン音。
それらが上げる轟音が思考をもかき乱し、脳内は混乱の体を成す。
(染谷、ヤエ、それに雪子、桜子…… みんな――)
ただ頭に残っているのは、どうして? という想いそれのみ。
どうしてこんなことに――
誰のせいだ? 俺のせいか?
自問自答、自暴自棄。
誰のせいでもない。そう思いたい。
元を辿れば全て教団という存在が起因となっている。
しかしここに来たのは俺の意志でもあって、この混乱を引き起こしたのも俺が原因となっている部分があるのではないか?
だったら俺のせいなのか?
染谷も、ヤエも、他のみんながこうなったのも。
「クソ…… クソ、クソが……!」
駄目だ。
マイナスな方向に行ってしまう。まともな心理状態ではない。
いや、まともになれるはずがない。
冷静でいられるはずがない……
そんな、俺のせいで――
「――もうまもなくで到着します!」
自暴自棄に陥ってドツボに嵌っていた。
飛鳥の声で我に返ると、ボートは彼方の船着場を目指して進んでいる。
そこは見る限りではほとんどが山林に覆われた小さな島。
山の斜面を削ったような所にポツリポツリと人家などの建造物が窮屈そうに建ち並んでいるのが分かる。
「神山さん、大丈夫ですか?」
「あ、ああ。大丈夫だ」
「龍一……」
ふと後ろを振り返ると夕月の顔。
不安そうな面持ちで俺を見つめる透き通ったグレー。
追っ手は見られない。
このまま逃げ切れるのか? 逃げ切れたとして、それからは――
――ボートはやがて終着の場所へと辿り着く。
「――そんな、誰もいない」
誰もいない島。
人家はあるのに、人気はまるで感じられなかった。
放棄され朽ち果てた廃屋が目立つ。
そんな様相の島で、その中でも大きな廃墟へと足を踏み入れた俺たち。
一人呆気に取られたように呟く飛鳥。
「ここは――?」
「人が住んでいた頃は学校であったようです」
一棟の建造物。
そこへ進入すると幾つかの教室が姿を現す。一人歩く飛鳥の後を追ってその中の一つへ入った。
埃っぽい室内。
「命令は行き渡ったはず」
「どうかしたのか?」
「退避できた者はここで落ち合うはずでした…… 今回のようなパターンでは」
「ということは――」
俺たち以外、あの場所にいた機関の者は全員捕まったかそれとも……
「夕月すまん、これを」
絶望に打ちひしがれるが、ふと病衣のままで寒さに震える夕月が目に入る。
「そんな、ごめんね龍一」
「いいんだ、気付かなくてすまん」
自分のジャケットを脱ぎ、そんな彼女へ羽織らせる。
「足は大丈夫か?」
「そういえば裸足のままだったね…… でも大丈夫」
起こった事が事なだけに着の身着のままで出てきてしまった。
痛々しそうな夕月の素足。
「靴も――」
「駄目、龍一が傷ついちゃうよ」
精一杯の笑顔で気丈に振舞う夕月。
「――すまねぇ」
どこへ向けているか分からない謝罪だった。
「これから、どうするんだ……?」
吐く息は白い。
寂しい教室跡。
沈黙が訪れるとつい心が沈みきってしまうから、取り留めのないことでも口にすることに努める。
「はい、他の者に応援を要請する…… と思いましたが」
「あそこ以外にも人はいるのか?」
「本当ならこれも守秘義務の範疇なのであれですが…… 実は全国の数箇所に私たちの隠れ家があります。
今回の強襲の報告は各所に回っているはずなので、応援が来るはずですが……
あの男が全て漏らしていた場合――」
「そこも対策室に押さえられている可能性が高い?」
「そういうことです。向こうから何らかの連絡が入らないのも頷けます」
「そんな…… それじゃどうすれば――」
遂に重い沈黙がやって来た。
――ヴヴヴ。
その時、ポケットに入れていた携帯が震える。
(そういえば――)
今日はからっきし携帯を見ていなかった。
その存在を今思い出し、ポケットをまさぐって取り出す。
「そんな……」
携帯のディスプレイには「不在着信」の文字が。
詳細を確認すると、なんと十数件ほども寄せられていた。
送り主は――
「雪子、桜子も……」
雪子と桜子からの電話。
思わず涙が溢れそうになった。
数件が雪子で、あとの何件もの着信は全て桜子のものだった。
(あいつら、何してるかな)
もしかしたらここでの情報が既に彼女たちのもとへと知れ渡ってしまったのかもしれない。
それとも現象が発生して臨時に依頼が入ったのか。
どちらにせよ彼女たちに迷惑をかけてしまった。
(ごめん…… 本当に)
もうあの日々は戻らない。
これはなかったことにはできない。
それを今になってようやく痛感して、涙が流れそうになる。
20を過ぎた男が泣くなんて情けないと必死に嗚咽を飲み込んだ。
メールも入っていたので、悲しみを誤魔化すように確認した。
「――そんな」
そして、更なる絶望が俺を地獄の底へ突き落とす。
――たすけて
送り主は桜子だった。
「そんな――!!」
「神山さん、どうしました?」
「龍一?」
「駄目だ……!! 早く戻らないと!!」
何で? どうして!
桜子からの「助けて」のメール。
一体何があった!?
こんなところにいる場合じゃない!
早く咲夜家へ戻らないと!
「クソ! 駄目だ早く戻らないと――」
「――その必要はないよ、神山君」
その時だった。
もう何度目か分からない。
先刻のようなシチュエーションで、俺たちがいる教室に静かに現れた女――
「――礼奈、さん?」
「残念だ、神山君」
麗しく長い黒髪を後ろで一つに結わえる凛々しい女、大和撫子。
武人のような佇まい。
上下はスーツ、そしてグレーのトレンチコート…… 片手に持つは鞘に収まる日本刀。
――天城礼奈。間山と同様、対策室本部の捜査班その一人。
「どうして――」
「もうどこへも逃げられないよ。大丈夫、ただちに君をどうこうするような真似はしない。大人しく降伏して欲しい」
「――貴様!」
硬直する体。
そんな俺をよそに飛鳥は叫びを上げて腰の辺りから何かを抜き取る。
それは拳銃だった。
「抵抗はしない方がいい――」
そして瞬きの間に、目にも留まらぬ速さで。
煌く刃は一瞬。
少し軌跡を捉えたような気がしたその一瞬に全ては終わっていた。
「なんだと――」
ドサリ。
倒れ伏す飛鳥。出血はみられないが身動き一つしない。気絶したようだ。
床に落ちた拳銃の虚しい音が響き渡る。
それはまるで奇跡。
そして成す術もない絶望に同じ。
「さあ神山君、来てくれ。夕月君もだ――」
「や、めろ…… やめてくれ!」
駄目だ、雪子が、桜子が!
こんなことをしている暇は!
「――両手を出して」
どんどん近づいて来る礼奈。
それはまるで殺しても殺しても蘇り襲ってくる恐るべき怪物のような雰囲気だった。
「やめろ……」
せめて夕月を……!
動かない、動いてくれ!
蛇に睨まれた蛙とはこのことか。
窮鼠が猫を噛むような力も残っていない。
足はすくみ、震えて動かない。情けない、本当に情けない無力な男。
それが俺だった。
(何が救ってみせる、だ)
結果誰も救えなかった。
結果俺は無力そのものだった。
「――よし、それでいいんだ、神山君」
「龍一!」
「おっと、暴れてはいけないよ」
「離して! 龍一が! 龍一を離して!」
――俺の両手には手錠が掛けられていた。
スローモーションのように流れる時間。
「俺は――」
暴れる夕月を組み伏し、そして俺と同様に手錠を掛ける礼奈。
「――ごめん」
夕月。
そして雪子、桜子、ヤエ、染谷、飛鳥、みんな――
真っ白。
まるで裏の世界のように真っ白な脳内。
もう何も考えられない。
流れる風景。
気付けば外に連れられていて、周囲を取り囲む隊員が礼奈に敬礼している。
俺の足は機械のようで、意志とは関係なく、乖離して動く。
目の前には囚人を護送するような車両。
ああ…… 俺も罪人か。
――俺のせいで。
頬を何かが伝い落ちたような感覚がした。
何だこれ…… 冷たい。
曇天の空だが雨は降っていない。
そして次にやって来た光景は、その車両の中、仮の牢獄。
仄暗い後部座席に放り込まれた。
夕月も、飛鳥も。
遠くなる耳は夕月のむせび泣く声を微かに捕える。
――俺は無力だ。
この手には何もない。
もう抱き締められない。
繋げられない。
守れない。
戦えない。
何も、何も――
「――出してくれ」
助手席の方から礼奈の声がした。
――バタリ。
車両後部リアハッチが勢いよく閉められる。
終わった。
暗い室内は俺を闇の中へと誘っていく。
ハッチが閉められて、やがて俺は心も閉ざした。
暗闇。
鬱屈、じめじめとした牢獄。
一体本部のどこにこんなスペースがあったのか。
何も覚えていない。
思考が止まり、心も閉ざし、気が付くと俺は牢獄の中にいた。
あれから何がどうなったのか、俺はまったく覚えていない。
確か本部に連れられて、それから幾つかの場面を経てこの暗闇へ放り込まれた。
どれ位の時間が経ったのかも分からない。
長い、長い時間。
簡易ベッドのようなものに腰を掛け、顔を伏せ、冷たい地面をただただ見つめていた。
終わった。
その文字だけが強く刻み付けられている。
そう、終わった。
何故だ。
俺は誰かを助けたかった。
皆にとって、大切な人にとって良き選択をしたと、そう思っていた。
それなのに俺は皆を不幸の底へ突き落としていたのだ。
大馬鹿者。
俺は、俺は……!!
「夕月――!!」
くぐもった叫びは響くこともなく暗闇へ呑まれていく。
「――すまない…… ごめん、ごめんなさい」
「そうだな、君は過ちを犯してしまった」
「誰だっ――!!」
誰もいないはずの牢獄。
鉄格子の外から男の低い声が響いてくる。
「――私だ」
「ボス――」
山地泰介。対策室、対策室本部を取り仕切るヘッド。
彼が鉄格子の外からこちらを覗いている。
「俺は…… 夕月を助けたかった!」
「そうだな…… 私も君の立場ならそうしたかもしれん」
「なら、なんであんたたちはっ――!!」
「――王は孤独だ」
「どういうことですか……!」
「王は政治に、法律に、掟に縛られる。やがてそれそのものになる」
「あなたも本意ではなかったと…… そう言いたいのですか!」
「そう言いたいところだが、もうそのようなことを言える立場じゃない」
「なんで…… どうしてこんなことに」
「大多数を救うのが我々の掟だ」
「あなたは、何も感じなかったのか!」
「それを私が今明かしたところで全て嘘になってしまう」
冷たく重い鉄格子を握る。
俺の手は震えていた。
無様だった。
「他のみんなは――」
「止むを得ず失われた命もある。我々も命がかかっていたのでな」
「そんな…… 染谷、さんは」
「彼は辛うじて生き長らえた。拘束の後病院へ移送され、回復次第聞き込みに入る予定だ」
「ヤエは」
「ヤエ? それは誰だ?」
「いや、なんでもない……」
「まあ良い。後で君にも話してもらおう」
「そうだ―― 夕月は!?」
むせび泣いていた彼女が蘇る。
「――彼女は我々が保護した。もう彼女の中には現象は存在しないということらしいからな」
あいつは俺の中にいる。
そういう意味を込めたような確認の視線を俺に一つくれてからボスは続ける。
「彼女はどうやら心神喪失という状態だ。まずは回復に努め、経過を観察しながら今後のことは考えていく」
「もう…… 彼女には手出ししないで下さい」
「そうだな、彼女の危機は去った。しかし次は君がその立場となってしまった――」
「俺を殺すんですか?」
「それは最後の手段だ」
「そうですか……」
「さて、そんなところで悪いがこうしなくてはならないんだ。申し訳ないが今夜はそこで過ごしてもらう。我々も対応に追われているのでな…… 私はこれで失礼する。食事は時間が来たらここに持って来させるから安心してくれ」
「――それも、王の掟ってやつですか?」
「そうだ。掟に縛られ掟そのものに成り果てた憐れな亡霊だ。それが私たちだ、私だ――」
男の顔は酷く虚しいものだった。
カツカツカツ、と足音を立て牢獄を後にするボス、山地。
その音が虚しく響き渡り、再び重い沈黙がやって来たのだった。
何もかもが長く感じる。
一人の時間は長い。
この場所のせいで余計にそれが感じられる。
光は入らない。
じめじめとした牢獄。
心まで鬱々として、考えることは己への叱責の言葉だけだった。
どれくらい時間が経っただろう。
一通りの叱責が終わると、最後にはその疑問。
そしてまた叱責の繰り返し。
狂ってしまいそうだった。いっそのこと狂ってしまった方が楽かもしれない。
「雪子、桜子――」
雪子と桜子からの電話。
桜子の「助けて」のメール。
気が動転していて先程は聞きそびれてしまった。きっとここにも何かしら連絡は入っているはず。
何が起こったのかいち早く知りたい。
助けて、ということは桜子もしくは雪子、最悪両方の身に何かが起こったということだ。
携帯など私物は没収されてしまい電話もかけられない。
早く彼女たちの顔が見たい。
ヤエの安否も気になる。
どうかみんな無事でいて欲しい――
「――神山君、食事を持ってきたよ」
不安で頭を抱えていた時、何分ぶりか何時間ぶりか、鉄格子の外から凛とした涼やかな声が響いてきた。
「礼奈さん……」
「慌ただしくて粗末な食事しか調達できなかったけど、良かったら食べてくれ」
鉄格子に仕切られた一箇所の枠組み。そこの施錠を解き、開いたスペースから食事を差し出してくる礼奈。それを受け取る。
粗末なパン、給食で付いてくるようなマーガリンとジャム。少量のスープにサラダ、揚げ物。それらがトレーに載せられて差し出される。まるで刑務所に入ったような気分だ。
しかし量はともかく十分一般的なメニューであった。
「粗末だなんて、十分です。ありがとうございます」
「召し上がってくれ」
そういえばあれから何も口に入れていなかった。
食事を目の前にすると急に腹の虫が鳴く。
さっそくパンに手を付けようとしたが――
「礼奈さん」
「どうした? 神山君」
「雪子と桜子は――」
凛々しく整った顔立ちが一瞬歪んだように見えた。
「――神山君」
何か言い淀む礼奈。
数秒の沈黙。
やがて。
「食事をとりながらで構わない。どうか冷静に聞いてくれ」
「冷静に……?」
どういうことだ。
やはり彼女たちの身に何かあったんじゃ……
これでは食事も喉を通らない。
「本当は君に伝えてはいけないと口止めされていたのだが……
私は大馬鹿者だね。君に話そうと思う」
「一体どうしたんですか……?」
鉄格子の外で顔を俯かせる礼奈。
やがて意を決したように面を上げ俺を強く見つめる。
「――これは今まで前例のない、未曾有の危機かもしれない」
「未曾有の、危機……」
「そう、未曾有の危機だ」
「何があったんですか! 雪子は、桜子は――!」
「――今回の第三機関への強制捜査、その混乱に乗じて教団が動いた」
「教団が!?」
「そう、数時間前…… 君がここに収容されて間もなくのことだ。教団からの犯行声明が届いた」
「そんな馬鹿な……!!」
「どうやら私たちの動向をどうしてか掴んでいた様子だ。
奴らが言うには、今までの現象はエサだった―― そう言っていた」
「どういうことですか!? その内容は――」
「――私たちは見事に釣られたわけだ。
奴らは私たちを嘲笑うかのように現象を世に放っていた。私たちはまんまとそれに引っかかった。
以前、呪いの歌の現象があったね?」
呪いの歌…… あれはようやくのところで解決できた。忘れるはずがない。
「それが決定打となったようだ」
「それはどういう」
「全ては教団が雪子の居場所を探し当てる為に撒いたエサだったんだ」
「雪子、を?」
何だ? 一体何が起きて―― まさか。
いや、俺の勘違いであってくれ。頼むお願いだ!
「犯行声明は映像で送られてきた。そこには教団創設者の榊右近が直々に映っていた。そして――」
頼む止めてくれ。
その先の言葉は聞きたくない!
「――彼は言った。雪子の中にはこの世全てを統べる神、それを封印した御神体が眠っていると。
そして今までの現象は全て彼女を探し出す為のエサだったと。
ようやく私の人生を賭けた願望が達成されると……!」
「雪子は、雪子は今どこに――!」
「――君の支部は何者かによって襲撃され、そして雪子は拉致された」
「そんな、そんなことって――!!」
「信じられないかもしれない。だけどこれはつい数時間前に起きた真実だ。その映像には雪子も映っていたんだ……!」
――嘘だろ?
体の力は抜ける。
手に握ったパンがするりと離れて床に落ちた。
礼奈はこれ以上ないほど悔しそうに、鉄格子を折ってしまうのではないかという力でギリギリと握る。
噛み締める唇からは血が出そうなほどだった。
対する俺は……
(何度地獄へ落とせば気が済むんだよ)
もうこれ以上はないと思っていたのに。
そこから更に深淵へ、底のない絶望へ落とされていく。
「すまない神山君…… 今私たちが全力で居場所を突き止めている。判明次第私もこの力全てをかけて奴らを潰しに行く……!!」
「俺を、俺をここから出して下さいっ!!」
「――すまない」
「礼奈さんっ!」
所詮俺一人では何もできないだろう。
しかしこんな所に閉じこもっている場合じゃない!
何か、どんな些細なものでもできることがあるはずだ!
「桜子は…… 桜子は!!」
「落ち着いてくれ神山君、桜子は無事だ…… ただ抵抗したのだろう、負傷している」
「そんな!」
「大丈夫だ。無事に病院に搬送され容態も安定している…… 奴らの目的は雪子一人だったようだ」
「クソ…… 雪子!」
不甲斐ない、情けない、何も出来ない自分。
衝動で拳を床に叩きつけても、虚しい痛みがジンジンと響くだけだった。
俺が以前見た夢、見させられた夢。
雪子が化物に変わった瞬間。
あれは紛れもなく本当のことだったんだ。
なんてことだ…… 夕月の問題をどうにかして、そして雪子のそれもいずれは…… そう思っていたのに。
最悪な事態へ突入してしまった。
成す術がない。
「――本当にすまない神山君。しかし君を今ここから出すわけにはいかないんだ」
「何故ですか礼奈さんっ!!」
「私という存在もまた、鎖に繋がれた憐れな犬に過ぎないんだ……」
「礼奈さん、お願いです……」
「人間は人間の掟に縛られる。それは私も同じだったようだ」
「掟、掟って…… あなたまで」
「神などいないのかもな、神山君」
「それを創っているのは俺たちです…… 生かすも殺すも、全て俺たちの手で」
「――気が気でないのは承知だ。だけど今は私たちに任せてくれ」
そう言って礼奈は鉄格子を握る手を離す。
「待ってください礼奈さん――!!」
遠くなる礼奈の背。
俺一人を置いて流れる世界。
どうしてだ、どうして俺は!
せめてあの家にいたかった! 彼女たちを、俺の命と引き換えに助けられるならそうしたかった!
しかしそうなると夕月は…… クソ!!
個を取るか、全を取るか。
そんなの、どちらも救えないなんておかしいじゃないか……
何が神だ、何が現象だ……
命の天秤? ふざけるな。
俺が、この俺がそんなものぶち壊してやる……
何度も何度も拳を壁に打ち付ける。
拳が壊れたかもしれない。
しかし痛みは感じられなかった。
もう何もかも麻痺している。
感情も、感覚も、そう…… 何もかもだ。
そうして狂ったように泣いた。
泣き喚いた。
いや、もう俺は既に狂ってしまったのかもしれない。
「――あああああああ!! 壊れろ! 崩れろ! 何もかもぶっ壊れて消えちまえ!」
「ッハハハハ!! 本当に面白い人間だなお前は!!」
狂った世界の中で、とうとう幻覚まで見えるようになった。
――俺の背後に立っていたのは、もう一人の俺だった。
「お前の破壊願望、凄く淀んでるぜ? 俺にとってはありがたいことこの上ない!」
「うるせえ…… 喰いたいならさっさと俺を喰え!」
「あの時の威勢はどうした?」
「もう駄目だ…… もう何もかもおしまいだ」
「その絶望もこれ以上ないほど美味しいぜ?」
「ああ、好きにしろ。俺を喰うなりなんなり好きにしろ。早くこの世界に出たいだろ?」
「そうだな、それじゃこういうのはどうだ?」
幻覚は人差し指を立て陽気な口調で囃し立てる。
「お前は俺を元いた場所へ還すと言ったな?」
「――ああ」
「俺の世界を背負う、そして表に還すと」
「そうだ、そうだよ!」
「それならお前は憎しみと絶望をもっと俺によこせ」
「何をする気だ」
「俺はお前を喰う」
「もう好きにしろ」
「だが一時的にだ」
「どういうことだ……?」
「今のお前を食えば正直もう表へ出れそうなもんだが、それじゃおもしろくねぇ。
この様子だとこれからも期待できそうだからな。だから穢れた願望はもらえる内にもらっといて、たらふく頂いたらお前を乗っ取り顕現することに決めた。
そうなれば面白いだろうな……! 今まで散々俺に背負わせた裏が今度はお前ら人間へ、しかも人類が絶滅するほどの裏だ! それをくれるほどの力が今のお前にはある!」
「つまり、あんたは何がしたい?」
「一時的に力を貸してやる、そういうことだ。憎しみはお前を強くする。そしてお前の憎しみは俺を成長させる。どうだ、いい話だろ? だからもっと暴れろ、憎め、絶望しろ」
――悪魔の幻覚、その囁きは俺を支配する。
「――わかった、その案に乗ろう」
「さすが表の俺だぜ!」
「だが、お前が還るべき場所は絶望じゃない」
「ほうほう、どういうことだ?」
「俺は憎しみを希望に変えて、そして希望の世界へお前を還す」
「――ハーハッ!! お前正気か!?」
「ああ、正気だ。だからさっさと俺を喰え」
差し出される手。
俺はそれを掴む。
俺と再び同化する怪物。
ジワリジワリと体を燃やす激痛。
ああ、これでいい。この方が生きている実感がある。
胸だけに浮かんでいた紋章、その呪いの模様は瞬く間に全身へ広がった。
――これでいい。
俺は俺を受け入れた。
だから前へ進む。
人間という掟、人間というしがらみなど今の俺には一切ない。
全ての理を拭い去り、俺は誰の声も届かない場所でこの身を燃やし、希望となって輝いて。
――そして、誰も知らない星になる。
俺を閉じ込める鉄格子はいつの間にか薙ぎ払われていた。
それは絶望と希望が入り混じる復讐の炎。
最終章・前編 終
解決話が好きな方には大変申し訳ないですが最終章、今までの締めくくりということでこうなりました。
厨二駄文失礼しました
乙
続き期待してる
今更ですが
聖人君主じゃなくて聖人君子でした
誤字申し訳ありません
来てたか!
乙
更に今更ですが良かったら他の作品もよろしくお願いします
宣伝でいやらしくて申し訳ないですがご容赦下さい
[オリジナル] The Five Elements ~New Contract Peach Warrior~
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1423871786
加えて小説家になろうでも当作品の投稿始めました
多少の修正を加えて現在2章まで投稿してます
そしてなろうの方では番外編も加筆してます
http://mypage.syosetu.com/533121/
いやらしい宣伝申し訳ございませんがもし良かったらそちらの方もよろしくお願いします!
>>60
ありがとう。
乙!この話めっちゃ好きだから今回も楽しませてもらいました!続き楽しみに待ってます~
後編待ってるよ♪
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