五章が出来ましたので投下させて頂きます。
一章
仕事を辞めた俺は超自然現象対策室に再就職した。 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1412704595/)
二章
仕事を辞めた俺は超自然現象対策室に再就職した 二章 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1413129484/)
三章
仕事を辞めた俺は超自然現象対策室に再就職した 三章 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1413548314/)
四章
仕事を辞めた俺は超自然現象対策室に再就職した 四章 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1414866677/)
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1418472195
始める前に
*ご都合展開 ゴリ押しで大変な事になりました 矛盾とかおかしいとこ等が多々あるかと思いますがお許し下さい
そして視点がちょくちょく変わります
時系列も順番通りになってない部分あり
それじゃ行きます
「ーーそれじゃお姉に龍一、行ってきます!」
「おう。 行ってら」
「行ってらっしゃい桜子」
私達支部の休みは瞬く間に終わり、それからは学校の休みも同様に終わってしまった。
まだまだ残暑が続いているものの、昼間のそれとは一変して夜は涼しくなり始めた。
季節は次第に次へと移り変わる。
9月は初旬。
秋の気配が徐々に顔を覗かせ始めた。
そんなこの頃。
休みはあっという間に終わってしまったけれど、お姉と龍一と海へ行ったり、家の庭で花火をしたり、友達と遊んだり…
十分に満喫出来た。だから特に終わってしまった事に心残りはない。
特にお姉と龍一と海へ行けたことは、一生の想い出と言ってもいいくらい濃いものとなった。
(また三人で行きたいな)
夏休みが終わり、また学校が始まった。
休みの余韻が未だ抜けない。
二人に挨拶してから、重い足をペダルに乗せて、私は学校へ向かう。
最近、龍一の様子が変だ。
退屈な授業中。
ふと、龍一の顔が浮かぶ。
ーー休み中、私達の支部に本部から連絡が入った。
「ーー龍一が現象に巻き込まれた」
と。
それを聞いた時は我を忘れるくらいに動揺したけど、無事だと聞いて安心した…
話によれば、第三機関 に関する事らしい。
その組織は話に聞いただけで、私は遭遇した事もないし、実質は分からない。
龍一はその機関の揉め事か何かに巻き込まれたようで、本部は彼らを逃がしてしまったとの事だった。
とにかく、龍一に何もなくて本当に良かった。
だけど…
(喜びも悲しみもみんなで共有しようって言ったの、あんたじゃん… バカ龍一)
支部の休みが終わって、龍一はいつも通り私達の家へ仕事に来た。
特に依頼もなく、私達は平和に過ごしている。
私はというと、学祭が来月の初めに迫っていて… 休みが終わって間もないけど、学校中は既に学祭モードへ切り替わっている。
それが終われば次に中間試験があって、そうして学生の一大イベントの一つである修学旅行がやって来る… そんなこんなで私達の学年はせわしなく浮かれ気分。
一方お姉は、依頼もないので自分の仕事に没頭している。
日夜パソコンに向かって、原稿を仕上げる為に必死に打ち込んでいる様子。
そして、龍一…
いつも通りに仕事をしている。
けれど…
どこか様子が変なのだ。
その事件があって、そして顔を見せた龍一。
何かを考えているのか、悩んでいるのか…
心ここに在らず。
と言った様子で、見かけた時はいつも難しい顔をしている。
「ーー何かあったの?」
とは聞いてみたけど、本人はやけに作られたような笑顔、空元気ぶりでそれを否定するのだ。
明らかに何かあった。
そう分かるくらいに、最近の龍一はおかしい。
お姉も勘付いていたみたいで、どうしたのかと話し合ったけど、「今はそっとしておこう」 という結論に行き着き、私達は特に干渉しないようにしている…
いつも私をからかってきて、いたずらな笑顔を見せつけて来るのに、それも最近は無くなっている…
普段ならウザいと思っていたけど、それがないとどこか物寂しい。
(ーーホントにどうしちゃったの…龍一)
いつも通りの、彼の笑顔がみたい。
冗談言って笑わせてよ。 いつもみたいに…
昼休みが終わり、午後の授業が始まった時だった。
ーー混乱は伝染し、更なる混乱を呼ぶ。
突としてその一報が学校中へ刹那の内に広まると、教師や私達生徒はざわめき立つ。
昼休みを経て、空いたお腹が満たされて眠気さえ覚えていた時。
ーー集団ヒステリー。
いわゆる集団パニックが起こったとの事だった…
初めは、授業中に学年主任が私達の教室に入って来た。
そして彼は、私達の授業にあたっていた先生に何やら耳打ちをして出て行く。
お調子者なクラスメートの一人が、何があったのかを先生に問い詰めた。
すると先生は、それが起こったと私達に告げたのだった…
ざわめき立つクラスメートを先生はなだめる…
先生の話によれば、選択授業で音楽を受けていた生徒の一人が、突如パニック障害からの過呼吸のような状態に陥ったらしい。
音楽を受け持つ教師がその生徒を介抱したのも束の間、それは他の生徒達に瞬く間に伝染し、教室中が異常事態になったとの事。
ーーもはやまともに授業が出来る状態ではない。
ヤバくない?
怖いよ。
大丈夫なんですか?
ちょっと… これヤバいって!
ーー混乱は伝染する。
何が起こったのかと、遂に立ち上がって現場に赴こうとするクラスメートさえ出始める。
(一体何なのよ…)
私達のクラスの様に他の教室も同様、混乱からの喧騒が起こっているようだ…
それは波のように押し寄せ反響し、学校中に響き渡る。
「ーーお前ら落ち着け!」
軽いパニックに陥る生徒を落ち着かせようと、先生は声を張り上げて。
そして。
「ーーちょっと職員室に行ってくるから、お前らはどうか落ち着いて、席について…
今回は自習とする…」
自習宣言をして、教室を出ていった。
明日は臨時休校。
そんな事件があって、突如学年集会が開かれる。
そこで学年主任から、その事を告げられた…
あの後は、もうどのように形容していいか分からないけど、とにかく学校中がパニック状態で。
まるで暴動が起こったかのようだった…
色々と対応に追われる教師達。
遂に救急車まで学校に乗り込んで来て、パニック症状に陥った生徒達は病院へ搬送されて行った。
加えて… なんと警察や、どこから聞きつけたのかマスコミの人間らしき者まで来る始末。
田舎の高校に、学校史に刻まれるような事件が起こった。
そんな状態だった。
ーー放課後。
「ーー怖くない? 桜子」
「ーーうん… 何があったんだろうね…?」
騒動が騒動なだけに、明日は休校となっても決して喜ぶ事など出来ない。
むしろ恐怖や不安しかない。
友人のアミとリョウコも、大層不安そうな面持ちをしている。
「ーー桜子、気をつけてね?」
「うん… リョウコとアミもね?」
「うん。 それじゃ明後日に… またね」
何を気をつければいいか分からないけれど、お互いを気遣う様に、励まし合うようにして私達は別れ、それぞれ帰路に就いたのだったーー
「ーーこんにちは」
「こんにちは」
重い足取りで自転車を漕ぎ、家へ帰って来た時。
何故か庭に、周辺の駐在所のものと思われるミニパトが一台止まっていて、玄関から警官が出てくる。
私と挨拶を交わすと、彼はそそくさとミニパトに乗って出て行ってしまった。
そして。
「ーー桜子お帰りなさい… 大変だったね…
依頼が入ったの」
心配そうな面持ちで玄関から顔を出すお姉。
警察、依頼…
(そういうことか…)
私は急いでガレージに自転車を停め、家へ入った。
依然として、俺は暗闇の中に閉じ込められている。
答えの出ない永遠の問いの様に、底無しの沼の様に深いと思われるそれ。
光は見えない。
真っ暗な中には行く手を阻む見えない壁があって。
更に…そこに絡まった蔦の様に手を伸ばす新たなる暗闇に…
俺は縛られ続けているーー
休みが明けてからは特にこれといった依頼もなく、俺達は平和に過ごしていた。
「ーー警察から依頼が入りました」
しかし、そんな束の間の平和は突然入って来た一報により崩される事となる。
雪子と桜子が住む洋館、超自然現象対策室。その支部。
仕事部屋となっている部屋。
日課の仕事をこなしている最中に雪子から召集を受けた俺は、仕事部屋へ駆けつけた。
そこには学校から帰って来たばかりと思われる制服姿の桜子もいて、雪子からそんな事を告げられる。
来客用のソファーに腰掛ける雪子と桜子。
俺はそんな二人が座るソファーの側に寄って、立ったまま内容を聞く。
「ーーどんな依頼だ?」
ーー夕月の一件、それから雪子の秘密を垣間見てしまった俺は、二人を救う方法を探していた。
夕月は「教団」によってその身に凶悪な現象を宿されたらしく、有効な対処法を見つけ出すには至らず、結果対策室は彼女ごと現象を消そうとしている。
それに異を唱えた、染谷喜一郎を始めとする第三機関が彼女を匿いどこかに潜伏している模様だ。
そして雪子。
ある現象に夢を見させられた俺は、そこで雪子の秘密を知ってしまった。
それは、凶悪な現象を封じ込めた御神体を彼女の体内に閉じ込めたというもの。
形は違えどあの夢が本当ならば、夕月と雪子は似た様な立場だ。
一つ違いがあるならば、対策室にそれが知られているか否か。
もし夕月の様にそれが対策室に知られてしまえば、雪子も恐らくそこから裁断が下されるだろう。
どうやら雪子自身もその秘密は知らない様で、俺は夕月と雪子の体内に閉じ込められた現象をどのようにして取り除くか、その方法を探していた。
現象がいつその目を覚ますかは分からない。
だから大事に至る前に、できるだけ早く対処しなければならないのだ…
しかし一般人で無知な俺には、いくら考えたところでその答えに行き着く事ができず、加えて誰にも話す事もできないで、こうして思い悩む日々だったーー
そして、そんな時に飛び込んできたこの依頼。
問題は山積されていき、俺の心は苛立つばかりだ。
雪子と桜子にもどうやら勘付かれている。
それ程に、今の俺は自身でも感情がうまく制御できていない。
ーー二人に心配させてはいけない。
まずは目の前の事を片付けなければ…
脳内に蔓延る混乱をなんとか押し留めて、俺は雪子からの報告に耳を澄ます…
「ーーはい… 今回の現象は、いつにも増して厄介なものかもしれません」
厄介な現象…
張り詰めた緊張が仕事部屋を支配していく。
「ーーまず、先程入って来た本部からの報告書を」
雪子はそう言ってソファーから立ち上がり、PCやファックスが置かれるデスクから数枚の紙を持って来る。
そうしてその紙を、相対する二つのソファー、その間に置かれたデスクに置いて。
「ーーそれは…?」
「先程本部からこの報告が送られて来ました。 内容は…
ーー教団 からの犯行声明が本部に届いた。
というものです」
教団…
現象を従え、新たなる現象を創り出そうと企む集団。
そして雪子と桜子ら一族を襲撃し家族を殺害した奴ら…
「ーーまさかこんなに早く動きを見せるとはね…」
そう言う桜子の顔にも、不安そうな影が差している。
「最近奴らが妙な動きを見せている」
いつか礼奈が雪子に言っていたあの言葉が蘇った。
「お姉、それはどんな…?」
「うん。 その犯行声明は…
ーー新たな現象をばら撒いた。
という挑発じみた内容みたいなの」
現象をばら撒いただと…
「更に、律儀にも教団はその詳細も寄越して来たみたいで…
その一つが、
ーー憑依・伝染型の現象をばら撒いた。
という事みたい」
「憑依、伝染、それは一体…
実際に被害は出ているのか?」
「はい。報告によるとそれは…
呪いの歌。カースソング。
と呼ばれる現象のようです。
そしてーー」
呪いの歌。 都市伝説でもよく出てくる話だ。
雪子はその現象の詳細を述べていく…
「ーー事の発端は東京、渋谷で起きたとの事です。
警察から本部に送られた状況報告によれば…
深夜の交差点で、突如一人の男性が何かに取り憑かれたかの様に歌い出したそうです。
それを耳にした他の数人がパニックを起こし…
小規模ではありますが、いわゆる集団パニックになったと。
一時は騒然としたようですが、しかしわずか数分で何事もなかったかのように沈静化したとここには記載されています」
集団パニック、集団ヒステリー。
人間とは良くも悪くも他者と、場の空気と同調する生き物だ。
何らかの原因が基となり、一人が起こしたパニック障害が心理的要因などによって他者に伝染するという、稀に発生している事態ではあるが。
「ーーそれ、この間ニュースでやってたよね… まさか」
「うん。どうやら現象だったみたいだね…」
大都市で発生した深夜の騒動。
深夜であまり人がいなかった事が唯一の救いではあるが。
オカルト的な、心霊的な事件だと一部では取り沙汰されている。
俺もそれはたまたまテレビで見てまさか… とは思っていたが。
「それが教団がばら撒いた現象という事か?」
「はい。それが起こってから、本部に犯行声明が寄せられたみたいです」
挑発しているとしか思えない、許す事はできない教団の愚行。
そして。
「ーーそれから渋谷の一件以降、似た様な事態が名古屋、大阪の大都市で起こっているみたいです」
「日本中を混乱させようとしているとしか思えないな」
「はい… 着々と伝染され広まっているようですね」
まるで流行病のようなスピードで蔓延する現象。
「お姉、具体的にそれはどんな現象なの?」
「憑依、それから伝染。
さっき言った通り、いずれも始まりは誰かが呪いの歌と呼ばれる歌を取り憑かれたかの様に突如歌い出す… 発生する条件やタイミングは分からない…
そして、それを聞いた者はパニックを起こし、しかしどのケースでも短い間に沈静化しているとの事だわ」
「似た様な事態が起こっているという事は…
その歌を聞いた人達に伝染し各地に広まって、またそこでそういった事態が発生している…
という事か?」
まるで愉快犯の様な。
「はい。歌自体が呪いの歌、現象となり、教団の手でなんらかの方法を用いて最初の一人へ乗り移って、それからは人から人へ… 各地に広まっている。
その見解で間違いはないと思います」
「そうか。それにしても何の為に… 憑依だか伝染した人は大丈夫なのか?」
「はい。個人差はありますが、憑依・伝染されて歌を口ずさんだ人、それを聞いてパニックに陥った人いずれにしても命に別状はないとの事です」
命に別状がないならまだましだが、しかしこのままではいずれ国中が混乱の渦中に飲み込まれるだろう。
「ーーそして、加えて先程警察の方から直々に報告がありました」
「それって、お姉ーー」
俺が日課をこなしている時に何やら来客があった様だが… 警察だったのか。
「ーーうん。桜子に何もなくて良かった…」
「もしかしてーー」
桜子…? どういう事だ?
「桜子がどうかしたのか?」
「ーー私の学校でね、今日ーー」
俺の母校でもある、桜子が通う高校。とあるクラスで授業中に集団パニックが起こった。
その事が桜子から告げられた。
「ーーそうか… 大丈夫か? 桜子」
「違うクラスで起こった事だから私は大丈夫だけど…
お姉、これってーー」
「ーーうん。
警察の方から依頼を受けたの。
学校で現象らしき不可解な事態が起こった。
だから捜査を頼みたいって。
その方から聞いた話によれば、授業中に一人の生徒が突如歌を口ずさみ始めたみたいなの。
そしてパニック状態に陥って、それが他の生徒に伝染したと…」
歌を口ずさんだ… という事は。
稲光の様に、警鐘のような何かが突如押し寄せる。
「パニック障害に陥った生徒の数名は病院に運ばれたようだけど…
全員大事には至らなかったみたい」
「ーーとなると、その騒動も」
「類似点が多い… いや、件の現象そのものですね」
呪いの歌。カースソング。
恐怖、混乱は他者に伝染する。
それは想像を超えたスピードで。
気付けば刃を光らせて、背後からジーッ、と好機を伺っている。
タイミングが悪ければ、それは俺達にも降りかかっていた。
いや、伝染するという事は。
「少なくともそこにいた奴らに伝染してしまった… という訳だな?
距離的に、俺達にもそれが訪れる可能性が高い… 時間の問題だな」
「はい。なんとしてでもこれ以上現象を拡散させる訳にはいきません」
「でも、どうすればいいの…」
伝染された者はどのような条件で現象を発生・発症させる(呪いの歌を歌い出す)か分からない。
歌自体が現象となり、人から人へ伝わり続ける。
実体がない、見えない脅威。
「命に危険が及ばないならまだマシだが、だけど放っておける問題じゃないな」
混乱は更なる混乱を呼ぶ。もし国中に行き渡れば、群衆に恐怖が浸透し最悪暴動に発展する恐れもあるだろう。
人間の精神は意外と脆い。
一度人の頭に「歌」という形で入り込み、呪いの歌として認識・記憶され広まってしまった。だから…
「ーー歌を消す。 なんてできないよな」
「そうですね… 不特定多数の人に記憶されてしまいましたから」
「伝染された人の記憶を消す…なんてできないし、そんな事をいちいちしていても根本からどうにかしないと意味はないわね。
いたちごっこね」
現象自体の情報が少なく、瞬く間に広がり続ける。
まるで新種のウイルス。
以前の… 呪いのDVDの一件の様に、実体があるならばそいつを封印するなりどうにかすればいい。しかしこれは不可視… 実体がないのだ。
一体どうすれば。
夕月や雪子の問題のように、これもまた解決が困難な難題なのか…
「ーー憑依… 人に伝染する…」
緊迫とした沈黙が置かれる部屋。
やがて雪子は1人ブツブツと呟き始め、手を顎に当て何やら思案を巡らせているようだ。
桜子は腕を組み、虚空を見つめ続ける…
「ーー憑依…
もしかしたら、本体 がいるのかもしれません」
しーん… とした間が一つ空いて、それから雪子はそんな事を口にした。
「ーー本体?」
歌の、本体?
「はい。伝染するスピードが速すぎます…
始まりは東京、渋谷でーー」
「ーーそれから飛んで名古屋、大阪… その間の、他の都市や街からの報告はあるの?」
「今のところは、桜子の学校で起こったもの以外はその三つの街、都市の付近だけでしか確認されていないみたい」
「単に伝染された人がその場所に移動しただけじゃないか?」
「そうですね… しかし、ここに来て私達の周辺で急に発生しました。
飛んで、飛んで、ここに来ました。
発生現場で伝染された人が移動したと言われればそれまでですが、しかしーー」
「ーーどうした…?」
一度雪子は俯き、そして再び顔を上げて。
「憑依… という事は、最初誰かに呪いの歌を歌うように仕向けた何かがあるはずです」
「妖術… とかそういう力で人を操ったとか…か? あるいは脅迫して… もしくは教団の誰かがその歌を歌って最初の1人に聞かせたとかは?」
「いや… 始まり、渋谷での一件は急に取り憑かれたかのように歌い出した…
その際現場には歌を歌い出した人、それを聞いてパニックになった人以外に近辺には誰もいなかった事が警察や本部の検証等で明らかになっている… と、報告にありますからーー」
「ーー仮に人を操る力や術があったとして…
あったとしても、離れた所からピンポイントでそうできるとは思えないわ」
「そうか… なら一体」
ゴクリ。
雪子が一つ生唾を飲み込んだ音が静かに響き渡る。
「ーー憑依… つまり幽霊の様な本体、根源となる現象を人に憑依させ、その現象に人を操らせた…
その可能性があるかもしれません」
どれ位時間が経ったかは分からない。
俺達は仕事部屋でひたすら推理を、推察を続けていた…
「ーーという事は… 幽霊の様な現象を最初の1人に憑かせて、現象はそいつに歌を歌わせた…
そして他者に伝染し今に至るーー
そういう事か?」
「はい。その可能性もあると思います」
「だが、そうだったとして伝染するスピードとの関係性は…」
「ーーもしそうだったとしたら…
より速く効率的に伝染させる為に、教団は現象を複数… ないし単体で従えて、各地に移動させてるのかもしれないわね」
人伝いで伝染させる他に効率よく、より速く国中に呪いを浸透させる為に、現象を各地に移動させて…
そいつらを人に憑かせて、呪いの歌を歌わせる…
「なるほど… その説なら確かに伝染する速さにも納得がいく。
それが正解だったなら、その現象共をまずはどうにかしないといけないな」
しかし。
「複数いると思われる現象を一気に封印… とはいかないよな」
「いえ… その現象は少なくとも何体もいるわけではないと思います」
「ーーどういう事だ?」
「複数の現象を各地に移動させていたなら、もっと短時間で広範囲の地域に被害が及んでいるはずですが…
現在発生が確認されているのは、件の三ヶ所付近… それから私達の周辺のみです」
「ということは… まあ、そんな大勢の現象を使役させているってわけじゃないのか」
問題は呪いとなり多数に記憶・伝染されてしまった歌自体をどうにかしなきゃいけないってことだが…
まずはこれ以上効率的に拡散されるのを防ぐ為に、「歌い手」となる幽霊… 現象を封印する事が優先事項であろう。
ーーしかし、あくまでもこれは俺達が行き着いた仮説の一つに過ぎない。
「ーー今はその説に賭けるとして、まずは呪いの歌を歌わせた厄介な歌手を見つけ出し封印する事だな」
「はい。明日桜子の学校に行って実地検証して欲しいとの事ですから、まずはそちらが優先ですね」
「ーー明日休校になったのはこの為でもあったのね」
仮説が真実となるかは分からないが、とりあえず明日は学校に赴いて事件現場を検証するとの事だ。
「ーーん… もうこんな時間か。日課終わってねぇや… すまん」
「依頼が入りましたから… しょうがありません。 今日のところはこれまでで全然大丈夫ですので」
「ーーあー… なんかお腹減った! 疲れた! 眠い!」
「せめて一つに絞れ」
桜子の嘆きによって部屋を支配していた緊張が解かれる。
ーー気付けば外は薄暗くなっていた。
(もう9月か… 早いな)
季節は着々と次へ移ろう。
日照時間も少しづつ短くなり、如実にそれが感じられた。
そんな感覚に浸っていると感傷的になりそうだが、しかし俺の背に重くのしかかる問題がひしひしとその存在を主張して来て。
他の事を考えさせてはくれなかった。
「ーー飯、作るな」
「ーー私は… 今日辿り着いた仮説も含め本部に状況を報告しますね」
時刻はもう夜に入ろうとしている。
いつもならとうに夕飯の準備を進めている時間だ。
雪子はそう言ってファックスの受話器を取り、番号を入力していく…
やがて。
「ーー龍一、私も手伝う」
「珍しいな… 桜子」
いつもなら「早くご飯作ってよー」 とか愚痴垂れる桜子が今日はやけに素直というか協力的… というか、どんな風の吹き回しだ?
明日雪でも降るんじゃないか。
いや…
(最近、心配かけちまってるからな…)
夕月と雪子の問題で行き詰まっている俺が、その張本人である雪子と、それから桜子… 大切な、大切な二人に心配をかけている。
これじゃ元も子もない。
「ーーありがとな」
「子供扱いしないでよね…」
自分でも不思議に思うくらい、意思とは無関係に自然に手が出て…
俺の手は桜子の頭頂に添えられていて、それはゆっくりと上下する様に動いていた。
形容し難い、暖かな奔流。
やや上気する桜子の面。
「ーーさあ、それじゃ手伝ってくれ! 足引っ張るなよ?」
「ーーは…? 私、料理できるんだけど」
「はいはい、ありがとよ。 厨房行くぞ?」
「あ… ちょ、ちょっと待ってよ!」
パッ、と撫でる手を離して、それから俺は部屋を出る。
(今、この時間を大切にしよう)
解決しなければならず、しかし答えの出ない深刻な問題がある。
だが二人に迷惑をかける訳にはいかない。
問題はあるが、しっかりとケジメを付けて生活を送らなければならないだろう。
悩む時は悩み、その時以外はいつも通りに。
(区切りをつけろ)
そうやって何度も何度も、まるで雛鳥が刷り込みをする様に。
己に言い聞かせる事で、俺はなんとか平静を取り戻していった。
「ーーなんだよこれ…」
それから翌日の午前中の事だった。
懐かしき、青春時代を共にした想い出深い校舎。
記憶の片隅で色あせたセピア色の想い出達が… 過去に置いてきた青写真が鮮やかに蘇る。
あの時の光景が、当時の級友達の面影が蜃気楼の様に現れてタイムスリップした気分にもなる。
しかし、それはある光景によってシャボン玉の様に弾けて消えた。
「ーーこれって、俺達みたいな 見える者 にしか確認できていない…
って事でいいんだよな?」
「はい… どうやらその様です」
ーー現場検証を依頼され今日、こうして俺は母校… 桜子が通う高校に三人で来た。
学校の駐車場には警察のものと思わしき車両や、教職員の車が数台駐車されているだけで、ドラマ等でよく目にする鑑識の人達やキープアウトの黄色いテープ等は存在していなかった。
そんなところに雪子の車に乗り合わせて来校し、校舎の中にお邪魔する。
まさかこんな形で母校に来る時が来ようとは。
外見こそ昔と変わらない校舎。
本日は臨時休校となったようで、休みの学校。生徒は桜子以外に誰一人としていない。
足音は俺達以外に誰もいない物寂しい校舎に虚しく反響する。
そうして昨日の警官だろうか… ともかく、制服に身を包んだ警官の男に出迎えられ、俺達はこうして 「事件現場」 に案内された。
音楽室。
校舎の三階。昔と変わらない場所に、片隅にひっそり佇む教室…
「ーーそれでは、申し訳ございませんが後の方はお任せします…
署に連絡を入れてきますので、一旦失礼します」
事件現場となる音楽室… 入室する直前にそう言って、案内してくれた警官はどこかへ立ち去って行った。
そして。
一般人から見れば一見何の変哲もない、何の痕跡もないただの教室。
しかし。
「ーーやっぱりさっきの人には見えてなかったみたいだ。
つまりこれは」
「そのようね。これはーー」
「ーー本体となる現象が存在している可能性が高いです」
開け放たれたままの音楽室…
そこで待ち受けていたもの。
それは。
「ーーこれは… ひでぇな」
入室一番俺達の目に映り込んだ光景は…
血… という訳ではないだろう。
まるで生物の実験に用いる染色液で色を付けられた細胞のような形で。
「ーーこれは… 手形か?」
「足形もありますね」
音楽室。
天井以外周囲の壁一面、グランドピアノにベタベタといたずらに貼り付いた青紫色の手形と、同じく床にも駆け回った跡のように存在する無数の足形…
「ーーこれは一体」
まるでホラー映画、アトラクションの世界。
禍々しい傷跡。狂気の色に染められた一室。
惨状から当時の状況がひしひしと伝わってくるような感覚…
悲鳴が、金切声が、ぶち壊された秩序と平穏が。
手形と足形から一つ一つ産み出され声を上げる狂乱。
「どうやら暴れるだけ暴れてどこかへ消えたみたいね。
お姉ーー」
「ーーうん… 桜子お願い」
音楽室をぐるりと一周眺めて、やがて雪子は手提げから何かの紙切れを数枚取り出し、それを桜子に手渡す。
「ーーそれは何だ?」
「これは、浄化する為のお札です」
「浄化?」
「ーーそう。
こういった悪霊みたいな現象がやりたい放題やると、それに釣られて色々と良くないものを呼び寄せてしまう可能性が高いの。だからーー」
桜子はそう言って部屋の中央部分に歩み寄ってから屈み込み、床に一枚札を貼る。
「ーーこうして…っと。
交通事故多発地帯… みたいなものよ。
良くない空気は良くないものを呼び寄せる。 良くある話でしょ?」
さもいつもの事という様な口調で、桜子は続けて部屋の四隅、入り口にも同じ札を貼り付けた。
「ーーよし。お姉、仕上げお願い」
「ありがとう」
札を全て貼り終えたところを見届けて、雪子は聖典を取り出しその巻頭部分を開く。
ーー魂の解放を求めるならば答えよーー
ーー万物の聖典が、原理が、汝を導くーー
いつもの口上を雪子が述べていくと…
「ーー跡が… 消えていく」
桜子が貼った札が光を放ち、瞬く。
すると忌まわしい手形や足形達が、まるで擦られて落ちる様にじわりじわりと滲んで消えて行き、やがてそれらは砂埃の様な飛沫となって聖典の中へ吸い込まれていった。
「ーー浄化。 つまり良くない気を洗い落とす…
室内クリーニングみたいなものです」
パタリ… と聖典を閉じ、雪子はわずかに微笑みながら軽い口調で言い放った。
「ーーさてと、それでこれからどうするんだ…?」
部屋中に散りばめられた落書きの様な手形や足形は、雪子と桜子によってすっかり無くなった。
一掃し綺麗に、いつもの状態に完璧に戻った音楽室であるが、しかし肝心な現象についての情報は未だ掴めていない。
「ーー恐らく、各地に散らされた数体の現象の内の一体が、たまたま私達の周辺に辿り着いた…
そして効率よく呪いを伝染させる為に、人が多く集まる場所としてこの学校を選んだーー
とも考えられますが」
「そうだな… 何でよりにもよってこんな中途半端な田舎町に来たのか知らないが、そいつをいち早くどうにかしないといけない。
しかしそいつの居場所が分からないとどうにもできないな」
とりあえずは応急処置として 浄化 を行った訳だが、問題はこの後だ。
早急に現象を探し出し封印しないと、更に呪いの歌を伝染させられる羽目になる。
生徒達に伝染され、いわば彼らも「保菌者」とされてしまった今、厄介な問題が増える前にまずは感染源である親玉を封印して… 歌自体については二の次だ。
何故こんな場所に来たのかは知らないが… 広めるならもっと都会の街に行けば良いものを。
まあそんなことを超自然現象とやらに言っても意味はないか… なんせ相手は常識が通用しない、何を考えているか分からない相手なのだから。
「ーー学校、と来て次に人が集まる場所と言えばーー
どこがある? 周辺で」
「大人数が集まる場所… ですか」
「他の学校、病院… それから街の方で言うなら会社、駅、お店… 対象が多過ぎるわ。
現象がどのように移動してるかにもよるけど、範囲が広すぎる」
「そうですね… ここら辺に限定するならまずは学校や病院、市役所などの行政施設や公共の施設、郵便局、量販店などでしょうか」
「そうだな… 非常に面倒だが目星をつけて、しらみつぶしで街を周るしかないみたいだな」
中途半端な田舎町。地方都市と言った様相の地元。
もちろん田舎町と言うからには自然が占める割合が圧倒的だが、昨今は一丁前に… いや、正に「中途半端」なりに開発もされていて、一体の現象を見つけるには、そいつの居場所として想定できる場所が多過ぎるというか…
いや、一体を見つけるには範囲が広すぎるのだ。
犯行現場となったこの教室からは特に居場所を掴める物は発見できず、まっさらな、ゼロからの状態で探す事となる。
「しかし昨日ここで騒ぎを起こして、どうやって移動してるか知らないが…
そんな遠くには行けないはずだ」
「そうですね。とりあえずは私達にできる範囲で調査しながら、周辺の支部にも協力を仰いでみましょう」
「そうね。それじゃここはもう用済みね… 行こ?」
やる事を終えてもうこの場所には用はない。
そうして音楽室を立ち去ろうとした。
その時であった。
「ーーいや… おい! 二人とも待ってくれ」
踵を返して退室しようとする2人を呼び止める。
「ーーどうしました? 龍一さん」
「ーーどうしたの?」
音楽室。
正方形の、四角い形状の一室だが。
「ーーここも 浄化 した方がいいんじゃないか?」
「ーー準備室… そうね」
その四方の部屋の片隅にあるドア。
それは、「音楽準備室」 に繋がるものだった。
「特に嫌な気は感じないけど… とりあえずやっておいた方がいいわね」
「そうですね… 見落としていました」
音楽室と隣接する形に造られた音楽準備室。
授業や部活で使う楽器や機材が置かれているのだろう。手形や足形に気を取られ俺達は見落としていたが、こちらの部屋も調べる必要は大いにあるだろう。
そうして準備室の開き戸、ドアノブを回し、ゆっくりとこちらに引いていく…
施錠はされていなかった。
「ーー何もないか…」
狭い準備室。
窓には暗幕が引かれ薄暗くなっていたので、反射的に照明のスイッチを押した。
蛍光灯に照らし出される室内。
所狭しと並べられた機材、楽器の数々と、棚に無造作に並べられた楽譜と思われる雑誌など。
手入れが放置気味な室内はどこか埃っぽく、色褪せて見える。
「ーー先程の様な痕跡は… 特に見当たりませんね」
一応狭い部屋を周って様子を確認し、再び入り口前に戻って来る。
準備室の方は隣の音楽室で目にした惨事が嘘であるかの様に、何一つとして痕跡の様なものは存在していなかった。
「ーーとりあえず… 良くないものを呼び寄せないように」
予防措置として桜子は雪子から再び札を受け取り、入り口のドアに貼ってから、今度は窓際へ向かう。
窮屈な準備室、そこにある一窓ほどの窓。
札を貼ろうと桜子はそこへ近付く。
「ーー埃っぽいわね… 掃除の当番は何やってるのかしら」
1人愚痴を垂れながら、暗幕を引こうと手にかけた。
今、暗幕を握って…
「ーーよいしょ… きゃっーー!」
「ーー何だ…! 大丈夫かーー」
暗幕を開け放った瞬間、小さな悲鳴を上げる桜子。
「ーーどうしたの桜子…!」
「ーーお姉…これ…」
桜子は指を差しながら、こちらに見える様に立ち位置を横にずらす。
すると。
「ーーこれは…」
露わになった窓は、何故か片側だけ開かれていて。
閉まっている方の窓には…
「ーーさっきの…手形…だよな」
べったりと… 線状に、引きずったように付いた一本の手形のラインが。
開けられた窓、付いた手形。何者かが存在する様な、気持ち悪く生暖かい温もり…
「ーーまだここにいるのか…?」
ーー犯人は現場に戻って来る。
どこかで聞いた言葉。
成果の確認や、証拠が残っていないか、目撃者の有無、捜査の進捗具合など…
それらが心理的要因となり、働きかけ、再び現場に向かわせる事があるという。
(相手は人ではないが)
一旦弛緩した空気は、再びキツく結ばれて張り詰める。
そして。
「ーーヒラリヒラリとーー」
ガチャリ… と開けられる準備室の扉。
「ーーヒラリ… ヒラリ…と」
事実を確認する間もなく、次に訪れた危機は俺達を硬直させる。
ーー低い、ドス低い声で何かのメロディーを口ずさみながら部屋に入って来た者は…
(ーーさっきのお巡りさん…か?)
顔面は蒼白… 一点を、どこか虚空を見つめたままのおぼろげな視線。
生気の欠片もない、憔悴しきった風貌。
しかし、その者は確かに…
ーー俺達を案内した警官だった。
体は岩の様に重い。
「ーーヒラリ…ヒラリと…」
(いずれも始めは呪いの歌を歌い出す)
硬直する体であるが、頭の方は何故か… いつもより動いているのが分かった。
瞬時の内に雪子が言っていた言葉が雷鳴の様に脳内に響く。
「ーー耳を塞げっーー!!」
気付けば叫んでいた。
自分でも何故か分からない。
ただ目まぐるしく、やけに回転する頭が最終的に導き出したのがその言葉だった。
ーーおよそ無音の世界が訪れる。
叫んで両耳を塞いでから咄嗟に後ろを振り向くと、二人も俺の言葉に倣って両手で耳をキツく塞いでいる。
しかしこの手だけでは全ての音は遮断できないだろう。
目の前の警官。
恐らく現象に取り憑かれた…
未だ口をもごもごとさせ、何かを口ずさんでいる事が分かる。
今のところは囁く様な声量のおかげか、塞いだ耳に歌は届いて来ない。
警官はやがてふらふらと体を左右に揺らしてから静止する…
(ーーど、う、す、る… どうする…?)
警官の挙動に警戒しつつ振り向いて、同じく耳を塞ぐ二人に分かるよう口パクで、大げさに表情を変える事でなんとか意思疎通を図る。
ブンブン… と、雪子と桜子は首を横に大きく振った。
(クソ… 手が塞がったらどうにもならねえ!)
今のところは俺達に被害はない。
最初現れた時にメロディーを少し聞いてしまったが…
(パニック障害を起こす)
鼓動はバクバクと激しく脈打つが、これは至って正常な反応だ。
パニック… と呼べる状態ではない。
後ろの二人も同様だ。 パニックを起こしてないという事は、少なくともまだ現象にやられていない、伝染はされていないという解釈もできる。
(だが… このままじゃ埒が明かねぇ)
報告によれば短時間で収まるらしいが… それまで耳を塞いで待つしかないのか。
どうかこのまま収まってくれ…
ーー現象に取り憑かれた警官は、何やら口を動かした。
(まだ歌ってるのか?)
ーーそして、顔を俯かせる。
(何だ…? 何をしてる…?)
ーーやがて警官はそのまま片手を腰の付近に持っていき…
(ーー馬鹿野郎! 辞めろ辞めろ辞めろ…!!)
ーーその手の先には、ホルスターに納められた拳銃が。
(辞めろ… そいつを抜くな!)
心の内で叫ぶが、それは伝わらずに虚しく消える。
(止めないと…! だが!)
もし警官がまだ呪いの歌を口にしていたら。
ーー拳銃は抜かれ、警官は片手でゆっくりとそれを持ち上げる。
(ーークソ! このままじゃ…!)
伝染されても今のところは命に別状はない。との報告…
このままでは、伝染どころか…
「ーー止めろぉぉぉぉぉぉぉ!!」
死ぬ。
拳銃が完全にこちらへ向けられる前に。
叫んだ。そして。
「ーーその手を下ろせぇぇぇぇ!」
致し方ない。死ぬよりかは伝染された方がまだマシだ。
そう言い聞かせ、俺は警官に向かって飛び込んだ。
全体重を。勢いを付けて。
わずか数メートルの距離だが、出来るだけ加速させ…
(お巡りさん… すまねえ!)
彼に罪はない。しかしこうなってはそんな悠長な事を言っている暇はない。
体重を、想いを、激情を乗せて。
俺は警官の腰元目掛け突っ込んだ。
「ーーグハッ…!」
衝撃を感じるが、アドレナリンが体を支配し痛みは感じない。
声を上げたのは警官の方だった様だ。
飛び込んだ瞬間、スローモーションの様に流れる光景。
ーー渾身のタックルを俺は警官に仕掛けた。
腰元に両腕を回し、ガッシリとホールドしてそのまま倒れた。
ガシャン… と響く衝突音を耳が捕らえる。
どうやら拳銃を手から落としたらしい。
(ーー危なかった…)
倒れたまま安堵のため息を漏らす…
身動き一つせず目を閉じる警官はどうやら気絶した様だ。
憑依が解けた様にも思えるが…
だとすれば。
「ーー現象はどこにーー」
体を起こそうと両腕に力を込めた。
その時。
「ーー龍一! 伏せて!」
「ーーはっ…?」
刹那、桜子の叫びが背後から押し寄せる。
振り向くと…
「ーー危ねっ!」
煌めく一閃。
俺の頭上を何かが、とてつもない速度で通過する…
そして。
ーードスリ。
重低音が轟いて、その方向に目を向けると。
「ーー槍…」
深く突き刺さった槍… 恐らく桜子が対現象用に具現化した武器。
更に。
「ーーンググググググ…」
その槍は「何者か」の腕を貫き、そのまま壁に磔にさせた。
「ーーこいつはっ!」
「ーー本体となる現象… です」
槍によって磔にされたモノ。
(こいつが親玉か)
呪いの歌を伝染させる為に人に憑依して周っている… その正体。
憑依先の警官に俺がタックルした事で、その衝撃により宿主から弾き出されたのか…?
体は至って俺達と同じ人間の姿。
だが、特徴的なのは。
(ーー顔に… 札?)
低く呻いている現象。
体は人間のものだが、顔に大きなお札の様な紙切れが貼られていて、それはまるで怪物映画のキョンシーさながらである。
その札には読むことはできない、何か記号の様なものが書かれている。
「ーー封印します」
現象に釘付けになっていると、雪子の冷たい声が静かに木霊した。
(これでとりあえず一つの項目はクリアか)
雪子は聖典を開く。
「ーーグググググ… ヤ、メ、ロ」
現象は何か呟き…
「ーーグググ… ヤメ… 」
やめろ…?
「ーー今更命乞いなんて、許される訳ないでしょ」
「ーー魂の解放を求めるならば答えよーー」
口上を述べる雪子。
「ーーヤメロ…」
現象の顔に貼られた札がハラリと落ちた。
(ーー人間…!?)
そいつの顔は真っ白で、生きているようにはとてもじゃないが見えない。
しかしそいつの目は… 潤んでいて。
ーー俺は見てしまった。
そして記憶は巻き戻されて、脳裏で鮮やかに再生される。
ーー懇願するような目と、その輝き。
「ーー万物の聖典がーー」
「ヤメロ… や、や… やめてくれぇぇぇぇぇぇ!!」
ーー蘇る、あの日の記憶。
(長くはもたないんだ)
なんで今…
夕月が。
「ーー原理が…」
「ーー違う、俺は何も知らない信じてくれ…!やめろ…!」
ーーそいつの顔と、夕月の顔が重なった。
「ーー汝を…」
何かがおかしい。
直感が知らせる異変。
「ーー雪子! 待てっーー!」
「ーー龍一…さん」
「ーー待て… 何か様子がおかしい」
「龍一、あんた何考えてるの…!」
封印されようとしていた現象。
封印しようとした雪子を俺は止める。
何故か夕月の顔が浮かんで… 情が湧いたのかもしれないが…
しかし。
「ーーこいつの様子がおかしい… 顔に貼られていた札は何だ?」
「あんた… あいつがしたことは許されるものじゃないのよ…!」
それにしても「何か」がおかしいのだ。
あの札が剥がれた瞬間、まるで正気に戻ったような。
確かにこいつがしたことは許されるものじゃない。だが…
「ーー俺は何も知らないんだ… 何で俺はここにいるんだ…!」
抗議の声を上げる現象の男。
(教団…)
現象を「従える」
「ーーお姉、早く封印して」
「うん…」
「ーー待ってくれ!」
「龍一!」
仮に、仮にだ。
あの札によってこいつが制御されていて…
何の抵抗も出来ずに、教団に従えられて、操られていたとしたら。
「ーー龍一、どういうつもりなの」
「ーー教団… 教団は、現象を従える。 そういう事もしてるんだろ…?
なら、こいつの顔に貼られていた札…
もしかしたら、こいつも教団の奴らに操られていたのかもしれない」
「ーーでも…! だからって!」
「こいつに話を聞いてみてもいいのかもしれない」
「ーー龍一さん…」
「こいつの話によっては、教団の行方、広まってしまった呪いの歌を消す方法… それが分かるかもしれない。
どうだ…? いい案だと思うが」
「ーー確かに…」
「ーーちょっと…! お姉! こいつが暴走でもしたらどうするの…!」
現象 である男に視線は注がれる。
「ーー違う… 違うんだ… 一体ここはどこだ…!」
何度も、必死に首を横に振る男。
「とてもじゃないが暴走なんてできる力は残ってないな…
封印は、話を聞いてからでも出来る」
男の目には光るものが浮かんでいる。桜子の攻撃も受けて抵抗する力なんてないだろう。
「ーー分かりました。一旦家に戻って、この人から話を聞きましょう…」
「ーーお姉まで…!」
「すまん桜子… 槍を抜いてやれ…」
「何なのよ…
ーー話を聞いたら封印すること… 絶対だからね…」
両手で槍を握り、それを引き抜く桜子。
やがてその槍は光の飛沫となり消える…
そうして。
「ーーあれ… ここは…」
警官の男が目を覚まして。
雪子が主体となり、警官に今までの状況を説明する。
音楽室の処理・調査は完了したこと、引き続き捜査を続けること。
その報告も入れてから、現象の男を引き連れて洋館へ戻った…
「ーーここは一体… 何で俺はここに…」
「ーー私達はこういう者です」
「超自然現象… 対策室…」
洋館。 超自然現象対策室の支部、その仕事部屋にて。
「まず、あなたの事を教えてください」
「俺の事… どっから話せば」
仕事部屋、来客用のソファーに座る現象である男と、デスクを隔て反対側に座る雪子、桜子。
初めに、雪子は対策室の名刺を男に見せる。
ーーあれから俺達は、この男を連れてここに戻って来た。
現象に痛覚があるかは分からないが、男は桜子から攻撃を受けた腕を庇うように抑えて座っている。
出血は見られない…
そんな男を、雪子が尋問… もとい、問い詰める。
俺はその様子を立ったまま見守っていた。
「ーーそれでは、あなたの名前を教えてください」
「俺は… 拓也 だ」
「拓也さん、ですね。
それでは拓也さん、あなたは何故あの場所にいたのかを教えてください」
「俺は、だから… 分からないんだ」
「ーーしらばくれているなら、あんたを今すぐ消してあげてもいいのよ?」
「止めてくれ! だから本当に知らないんだ…!」
「桜子… いいの。
それでは拓也さん。あなたは…
ーー御自身が 現象 になってしまった事をご存知ですか?」
「現象… って何だ?」
どうやらこれは長丁場になりそうだ。
桜子は頭を抱えている。
(コーヒーでも淹れてきてやるか)
「ーー現象ってのはね… あんたみたいな… そう、幽霊 になって悪さしてる奴の事よ!」
「幽霊… 俺が? 俺が幽霊…」
コーヒーでも淹れて来よう。
そうして一旦部屋を出ようとした時。
「ーー幽霊… そうだ…!
俺は… 死んだんだ。
死んでるんだった…」
何かを閃いた様に、そう告げる男。
フェードアウトする様に段々語尾を弱々しくして、悲痛な面持ちを浮かべている。
「ーーその時の状況… 今までの状況で覚えている事があれば話して頂けませんか?」
一つ、男は天を仰いで。
「ーーどこから話せば… そうだな。長くなるが大丈夫か…?」
コーヒーを淹れて来よう。
本格的に決心して、俺は無言で部屋を出たーー
ズズズ…
コーヒーを啜って飲んでいたところで。
ーー拓也は順を追って語り出す。
「ーー俺は… 死ぬ前はバンドを組んでて…
まあ、いわゆる夢を追いかけるフリーターってやつだった。
昼間はバイト、空いた時間を音楽活動に当てていた。
一応インディーズではそれなりに売れてて、有名だった。メジャーデビューの話も囁かれてた所だったんだけどな」
夢半ばにして死んでしまった… という事か。
いたたまれなくなる話だ…
「ーーそれで… 次のライブで発表する新曲を製作してる最中の事だ。
俺はボーカルだったんだが…
ギターやってた栄吾郎って奴と喧嘩しちまってな。
よくある、音楽性の違い… ってやつだ。
俺はもっとロックな路線で行きたかったが、あいつはキャッチーなメロディーにするべきだってな」
「ーーそれで… それからあなたに一体何が」
心なしかその先を催促している様に、少し焦り気味に見える雪子。
「ーーああ…! すまねえ。死んでから一人きりの時間が長かったもんでつい…
それから喧嘩して、バンドの中にも嫌な空気が蔓延しちまって。
俺はむしゃくしゃしてて…
ある日、本当に突然だが… 俺はそんな気分で周りが見えずに、気づいたら横断歩道を信号無視して渡ってて」
「それであなたは…」
「ーーああ。その時は気づかなかったが…
どうやら俺は車に轢かれて死んだーー」
そこで一旦区切りを入れる拓也。
「ーーそれから、何か覚えている事はありますか?」
「ドライバーの人には悪い事しちまった…
ああ… それで、気付いたら俺は一人になってた。
最初は自分が死んだなんて知らないから、色々な事をしてみたが…
誰も俺の存在に気づきもしねぇ。
自分の葬式をやってる場面に遭遇して、そこで初めて俺は死んだ、幽霊って本当にいるのかー… なんて、気づいたわけよ」
力無さげに、拓也は笑って見せた。
「まさか自分の死に顔を拝めるとはな」
「ーーそれで… あんたはそれからどうしたのよ」
「ああ。それからはずっと一人で彷徨ってた…
幽霊になって何もできない、消えたくても…
痛みも何も、感じないんだ。
なあ… さっき命乞いしておいて何だが、俺を消してくれないか?」
叶えたかった夢は絶たれ、ずっと一人で誰にも気付かれる事なく、消えたくてもそう出来ずに彷徨い続けた男… 拓也。
だとしたら何故こいつは呪いの歌を…
「ーーまあ落ち着け… それから覚えている事はあるのか?」
「えーと…」
そこで何秒間か拓也は押し黙る。
壁に掛けられた時計、その秒針の音が虚しく響き、桜子はわずかに膝を揺すらせ、雪子はジッと拓也を見つめる…
やがて。
「ーーそうだ。いつだったか…
ある日、俺は途方に暮れてベンチに座ってたんだ。
そしたら… あの男が現れたんだ」
「あの男…? 名前は?」
「名は名乗らなかった。
俺も気にしなかったから、特に聞いたりはしなかったんだ。
それで、そいつはあんた達みたいに俺の姿がどうやら見えるようだった… 久しぶりに一人じゃなくなって、俺は浮かれてた」
あいつ… もしかすると。
「それで… そいつは何て?」
「あの男は俺を見つけるなり、こう言った。
ーーあなたの望み、叶えてあげましょうかーー?
ってな」
解決の糸口が見つからない深淵のような暗闇に、遂に光が一つ差した気がした。
「ーーそれで拓也… あんたはその男に何て…!」
「お、おう…
とりあえず俺は新曲を製作している途中で、発表する前に死んじまったから…
だから、新曲を発表したい。
ってそいつに言ったんだ」
「ーーそしたら、その方は何とおっしゃっていたのですか?」
「その男は…
ーーその望みを叶えましょう。
と言っていた…」
「それからはどうなったんだ?」
幽霊、現象となった拓也の前に現れた謎の男。
そいつがこの一連の事件の鍵を握っている可能性が高い。
「そしたら、望みを叶える気があるなら着いて来い。と一言言われたんだ」
「ーーそれであんたはその男に付いて行ったわけ?」
「ああ… 信用はしてなかったが、久しぶりに一人じゃなくなって浮かれてたんだ」
「どこへ連れて行かれたんですか?」
「すまん… 場所は分からねぇんだ。
車に乗せられて、東京から離れたひたすら遠い場所に連れて行かれた… ってのは分かった。
それで着いた所は周りが山だらけの田舎。そこにある異様にデカい施設だった」
田舎にある異様にデカい施設…
謎の男が教団の者だったなら、行方を掴む為の一つのヒントとなるだろう。
「それで… その施設での事は何か覚えているのか?
周りの状態とか、そういうのでもいい」
「んー… そうだな…
施設の中は、幽霊の俺が言うのも何だが… とにかく薄暗くて、薄気味悪かった。
変な器具? だか装置みたいなのも見えたし、教会にあるような祭壇みたいなものもあった」
「それであんたはそこでどうなったんだ?」
「そしたら… ああ… 何だっけな」
顎に手を当て、顔を俯かせる拓也。
「思い出してくれ…!
あんたはそこで何をされた?」
この答えに全てがかかっている。
心臓は早鐘を打ち、拓也の一挙一動全てを捉えようと集中する。
「ーーそうだ…!」
「思い出したか…!」
「断片的だが…
男に聞かれたんだ」
「何を聞かれたんだ…!」
「本当に望みを叶えたいか? ってな」
「それであんたは何て答えた!?」
「叶えられるなら叶えたいってな。
そしたら、男は新曲を歌ってみろって言い出して…
そう。 それで訳が分からなくなったが、とりあえず1フレーズだけ歌った。 男はノートに何かを書いていた…」
「それからは… どうなった?」
「歌い終えて、男は部屋を一旦出た後に、再び戻って来たんだ。
そして…」
拓也はそこで一拍置いて、それから再び何か言おうとした様だが、言葉に出さず押し黙った。
「そして… 何だ? 思い出せないのか?」
「そう… 男は何か持って来たんだ」
「何を持って来たんだ?」
「思い出せない…」
「頼む… あんたにかかってるんだ!」
もう少しだ… もう少しで答えに届きそうな… そんな気がする。
あと一押しだ。
「ーー何かデカい紙みたいなものを…
そうだーー」
紙…
「男は言っていた…
これであなたの望みは叶う。
ってな」
「どういう事だ…!?」
「そう、その紙みたいなものを…
凄くうろ覚えだが、俺の顔に貼った気がする…」
ーーという事は!!
最初姿を現した拓也。
その顔に貼られていた札の様な紙…
「ーーその紙は、これの事ですか…?」
そこで雪子は現場となったあの場所から証拠物として押収して来た、拓也の顔に貼られていた札を持って来て掲げて見せた。
「ーーそう…! そんなやつだった気がする」
ーー今、全てが繋がった。
雪子、桜子に視線を移すと、二人も何かを悟った様にコクリと一つ頷いた。
この事件は教団によるものという事は、彼らの犯行声明で分かりきっている事だが…
加えて人間に憑依し最初に呪いを拡散させた本体、その現象がいるという仮説も、拓也の出現により事実となった。
「ーーそれから拓也さん。あなたは何か覚えている事は…」
「顔に変な紙を貼られて…
それからは全く思い出せない。
気づいたら腕に槍が刺さっていて、あんた達が目の前にいたんだ」
「あんたと似た様な境遇にいる奴は他にいたか…?」
「それは分からない… 少なくとも、あの時は俺以外に俺みたいな事をされた奴は… いなかったと思う。
というか、あの時はその男と俺しかあの場にはいなかった」
という事は、拓也の証言が全て本当ならば。
「ーー分かった。ありがとな…
雪子、やはり拓也は教団の奴にその札を貼られて操られていた…
と考えられるな」
「そうですね… それで正解だと思います」
札を貼られてからの記憶がない… そして札が落ちて、正気に戻ったかの様なあの反応。
つまり拓也は甘い言葉に誘われ、そして札を貼られて…
結果良い様に教団に操られたのだ。実験の、事件の為の餌となってしまった。
そして拓也の証言から察するに、恐らく呪いの歌は…
「ーー待ってくれ…! 操られたって何だ?」
拓也は不安に駆られた様な表情で、俺達にそう投げかける。
「ーーつまり… あんたは悪い奴らに良い様に使われたって事よ。
残念で、残酷な事を言うようだけれど…
ーーあんたは悪い奴らに利用されて、気付いたらそいつらの余興、犯罪の片棒を担がされてたってわけ」
救いを求める様な拓也を、桜子は両断した。
「ーーは、犯罪って… どういう事だ…!」
「ーー恐らく、拓也さん。
あなたの新曲… その歌を、呪いの歌としてあなたは広めてしまったんです」
「俺の曲が呪いの歌? どういう事だ…!」
「その男、悪い奴らにあんたは操られ、そいつらの計画の為に使われちまったんだ。
あんたの歌は呪いの歌とされてしまい、操られたあんた自身がその呪いの歌を広めちまったんだ」
そう。
呪いの歌とは、拓也の証言から察して… 彼が死ぬ前に製作していた新曲の事だ。
拓也は教団… 男の誘いに乗ってその歌を歌ってしまい、奴らはそれを何らかの方法で呪いの歌に変えて、更に拓也を使役して拡散させたのだ。
そう考えられるだろう。
「ーーそんな… 俺達の音楽が呪いの歌だなんて」
「あんたは操られていて分からなかったでしょうけど…
あんたが最初に人に憑依… 乗り移ってその歌を歌わせたの。
それからその歌は呪いの歌となり、人伝いで今も確実に広まっている。
最早止められないわ。
呪い自体は、今のところは人の命を脅かす様な力は持っていないのが唯一の救いだけど」
「そんな馬鹿な」
「信じられないでしょうけど… 事実よ」
「ーーそれで俺は… どうなるんだ!?」
教団による呪縛から解放された今、拓也から呪いを拡散するような事はもうないだろう。
しかし。
「ーー拓也さん… 本当に理不尽な事ですが…
あなたは操られ、呪いを広めた張本人となってしまいました」
「残酷な事だが… つまり犯罪者になってしまったんだ。
男が全て悪いのは当たり前だが、あんたもその一部を担がされ、操られるという形で実行させられたんだ」
「あんたに罪を背負わせたくはないけど… あんたにその気がなくても、あんたは実際に罪を犯してしまったのは事実なの」
「ーー嘘だろ…」
これはまるで…
(夕月…)
まさに、夕月のケースと同様だ。
本人には何も罪はないのに、ある日、不幸にもそれを強引に背負わされる…
(教団の奴ら…)
絶対に、絶対に許す事はできない教団の悪行。
「ーーそれが本当なら… 俺は消される… のか?」
現象は危険な存在…
拓也は罪を犯してしまった。
彼のその問いの答えを、俺は、二人は答えられずにいた…
ーー気付けば時刻は、正午をとうに跨いでいる。
拓也の問いに答えられずにいる俺達。
やがて。
「ーーそうか… まあ、消えたらどうなるか知らないが、その話が本当なら…
信じたくはないが、俺は責任をとってそうされなくちゃいけないって事だろうな」
諦観した様な語調、表情で、沈黙を肯定と受け取ったらしく… 拓也はそう呟いた。
「だが… 俺の、俺達の曲が呪いの歌にされたなんて、それだけが心残りだ」
そう。
問題はそれだ。
「ーーそうだな… あんたの歌は呪いとして今も広まっているんだ。
仮にあんたをこの場で… 嫌な言い方だが、 消した としても、歌自体が呪いとなって、いわば伝染病の様に人伝いに拡散している。
だから、歌自体をどうにかしないといけないんだ」
問題は根底の部分に引き戻される。
「ーーそうね… だけど 歌を消す なんて事は出来ない」
「うん… 歌をはじめから存在しなかった事にするのは、もうその様な風には出来ません… 加えて、伝染された人の記憶を消す事なんて私達には出来ませんし、出来たとしても、相当数いると思われるその方達をいちいち探している余裕もありませんし」
歌自体をどうにかする。
しかし、人々の頭に入ってしまったそれを消す事は出来ない。
拓也を封印したとしても、伝染された誰かが呪いの歌を口にしてしまえば、そこからまた呪いは拡散されていき、更なる混乱が生まれてしまうのだ。
ーーならば、一体どうすれば。
時間は容赦なく経過していく…
全ての解決の為の答えは霧に覆われたまま、それは晴れる事はない。
このままでは教団の思う壺だ。
(あいつらの好きな様にはさせない)
させてたまるか。
考えろ… 考えろ… 考えろ!
「ーーこれじゃ… まるで新手のウイルスね」
桜子が嘆く。
(ウイルス… 感染症… 伝染病…)
人はそれらにどう対抗して来た?
隔離… いや、この場合それはもう無理だ。
ならば。
「ーーワクチン… ってのはどうだ?」
「どういうこと?」
「いや… 人間は伝染病に対してワクチンを接種するという形で予防し、対抗して来ただろ?
それか… 発症しても、薬があればそれを飲んだりしてどうにか治して来た訳だ」
「となると… 一体どういう事でしょうか?」
「答えになってないが… つまり、ワクチンや薬の様な… そういう役割を考えるしかないと思ってな」
広まってしまった以上、これ以上拡散しない様に、また、根絶する為の措置が必要だ。
感染症… 病気の場合は、その役割はワクチン等の医薬品が担っている。
このケース、呪いの歌はそれら感染症や伝染病と言った流行病に位置付けする事も出来る。
そう考えて、不意に口にしたところ。
「ーーなるほど… ワクチン、ですか」
妙に納得した様に雪子は頷いて。
「ワクチン… 種類は幾つかあるようですが…
毒性を弱めた、ないし無くした病原体を予め培養しておき、それを接種する事で体内に病の抗体を作らせ感染、発症を防ぐーー
というのが一般的に知られている事です…」
ワクチンについての一般的な知識、定義を語る雪子。
そして。
「この場合、呪いを感染症と置き換える事もできるかと思います。
つまり、ワクチンの様な役割…
もしかすると… そうだーー」
「何か思い付いたのか?」
「ーー呪いの歌を聞かせる。
というのはどうでしょうーー?」
シーン…
と静まり返る仕事部屋。
「ーーいや、お姉… それが今の状態な訳でしょ?
伝染された人が歌を歌って、そして何でもない人がそれを聞いてしまってパニックを起こして、伝染して… それでそこで伝染された人が違う場所でまた同じ事を繰り返す…
そんな事したら余計に広めるだけじゃん」
正論を述べる桜子。
いや、この場合その意味は… つまり。
「ーー毒性を弱めた、無くした… って事は!」
俺の発言に、雪子は微笑みながら首肯した。
「ーーはい。
私達がワクチンを作って、出来るだけ多くの人に配るんです。
つまり…
ーー呪いの歌を、私達が作り変えてしまえばいいのではないでしょうか?」
「お姉…! それって一体…」
「ーーなるほどな!
拓也、製作中って言ってたが、その新曲はどこまで出来てたんだ?」
置き去りにされて困惑気な拓也に話を振る。
「ほぼ完成してたな。
各楽器のスコアも同様だ。
ラストのサビで曲が終わるって進行だったから、後はそこだけだ… まあ、これは繰り返しのサビだから、前のサビの部分とメロディーの進行は変わらない」
「つまりそうなると…」
「残すは、ラストのサビの歌詞だ」
「あれ…? 俺は知らないが、普通は作詞してからメロディーを当てるんじゃないのか?」
「色んなパターンがあるんだ。
今回はメロディーに歌詞を乗せる様にしたんだ。
だから、後は最後のサビの歌詞さえ出来れば曲は完成だったのさ」
先程の重い雰囲気からコロッと変わり、自慢気に答える拓也。
ーーそうなれば…
やるしかない。 一つ決心して。
「ーーよし… 俺達でその歌詞を作って、完成させて発表するぞ!」
一度世に広まり、記憶されてしまったものは消すことが出来ない。
「ーーえ…? ちょっと、どういう事なの龍一…!」
理解不能といった様相の桜子。
無理もない… 突然こんな事を言われたらそうなるのは当たり前だろう。
何故こう思うに至ったか。
「呪いの歌として認識され拡散した歌…
だが、そいつは未完成のまま広まったって事になる… だろ?」
「うん。確かにそうだけど」
拓也は新曲が出来る前に事故で亡くなり、そして幽霊… 現象となった。
それから彼は教団の罠に掛かり、その曲を呪いの歌にされてしまい、更に操られて… 結果拡散させてしまった。
しかし、拡散されたのは未完成の曲。
「ーーなら、俺達の手で曲を完成させて、それをワクチンにするんだ。
そういう事だろ? 雪子」
「はい。未完成の呪いの歌…
それを完成させて、
ーー幸せの歌
にするんです」
そういう事だ。
「幸せの歌として曲を完成させ、それを発表し拡散させる…
そうすれば、呪いの歌 は 幸せの歌 として認識される。
記憶されちまったものはどうしようも出来ない。だが、そいつを修正し、定義し直す事は出来る」
呪いの歌を幸せの歌として修正し発表すれば。
そうすれば、歌にかかった呪いを消すことが出来るのではないか。
「つまり…
ーーこれは呪いの歌ではありません。幸せの歌なんです。聞いて下さいーー
って感じで発表すれば、そもそもその歌は呪いの歌なんかじゃありませんでした… 呪いなんて最初から存在しませんでした… ってなって、歌にかかった呪いを無かったものにできるんじゃないかってこと?」
「ああ。 曲自体を消す事は出来なくても、上書きする事は出来る… そう思わないか? 呪いという概念をぶち壊して、幸せと上書き出来れば…」
「確かに良い方法かもしれないけどさ…」
もし呪いの歌が幸せの歌として認識され、そのように定義されて拡散されれば。
そうすれば歌にかかった呪いが消え、既に伝染されてしまった人の呪いも同様に消えるのではないか。
「ーーだけどこれは一か八かの手段だ…
もし曲を発表した時にパニックが起こり、それも呪いの歌と認識された場合…
俺達が新たに呪いを散布させちまう事になる」
「だよね… でも、今のとこそれしか対処法はないし」
記憶されてしまった歌自体を消す事は出来ない。それなら歌にかかった呪いを取り除く他ない。
呪いを取り除くなら、最初から呪いなんて無かったと認識させる事で消すしかないのだ。
呪いではなく幸せと上書きさせる。
呪いという概念を取り払う。
その方法しかない。
「ーーそうですね。それしかないでしょう…
最後の歌詞を私達で考えて、曲を完成させ、発表する…
一か八かですが、呪いを消すにはそれしかありません。
やりましょう…!」
「ーーだな」
「そう… だね」
一握りの可能性に全てを託すしかない。
しかし、そうなると次の壁が姿を現す。
「ーー問題は、どうやって完成させるか、どうやって発表するか… だな」
「そうですね…」
「そうなるよね…」
歌詞を考えると言ってもメロディーが分からないし、適当に考えていいものではないだろう。そして俺達は、俺は音楽に関しても知識は持っていない。素人がどうこうできるものではない…
加えて発表すると言ってもどういった形でそうするのか。
「ーーなるほど… なんとなく掴めてきたぞ」
俺達がやがて黙ってしまうと、拓也が突如そう切り出した。
「俺達の歌に呪いがかけられたかなんだかで、呪いの歌になっちまった。
だが、それを幸せの歌として完成させて、聞いた奴にもそういう歌だと思い込ませられれば、呪いは消えるんじゃないか…
要するにそういう事なんだろ?」
「ああ。何か案があるのか…?」
「そうだな… 俺にそんな気は無かったのに、クソったれな奴に騙されて、結果的に罪を犯しちまった… 迷惑をかけちまった。
これでその罪が無かったものに出来るとは思っちゃいないが、
ーーせめてもの償いとして… それを手伝わせてくれないだろうか?」
ーーその顔は、真剣そのものだった。
熱い激流がほとばしる様な、そんな強さを秘めた瞳。
「俺を消すならその後にしてくれ」と、続けて拓也は言い切った。
「ーー本当か…!
いや、こちらこそ本当に申し訳ないが協力を頼みたいところだ…
あんたがいないと、恐らくこの計画は実現不可能だ」
「そうですね… 何だか追い討ちをかけるというか、本当に申し訳ないのですが… お願いいたします」
「あんたがいないと確かに… もう本当にどうしようもないわね…
だから、私からもお願い」
呪いを消すには、曲を完成させるには拓也の協力なくして実現は不可能だろう。
「ーーいや、頭は下げないでくれ…
これはあんた達が死んだ俺に与えてくれた最後のチャンスでもあるんだ。
そして… 俺自身のケジメでもあるしな」
ふっと、優しく拓也は笑う。
こいつは現象を広めてしまった。
だが…
(こんなの… あんまりだ)
全ては教団が悪いのだ。
だが、こんな散々な目にあった奴でさえも、操られて自分の意思でやった訳じゃないとしても。
それでも裁かれなければならないのか…
優しい笑みの裏には、嘆き悲しみの様な感情が滲んでいる様にも見えた。
「ーーお待たせ致しました。アイスカフェモカでございます」
「ありがとうございます」
あれから何日か経って。
私は単身で東京へ来た。
9月某日、都内某所のお洒落な喫茶店。時刻は午後の4時を回ったところ。
とある人物との接触に成功し、再び会って話をする機会が出来たので、私はここにいる。
その人物は「少し遅れるから先に入っていて欲しい」との事だったから、先に私は面会場所であるこのお店に入った。
ーー私達が一連の現象、その呪いを消す為に拓也さんの協力のもと作戦を練り実行してから数日経っている。
相手はまだ来るような気配もないので、私は今までの経緯を思い返し、整理する事に努めたーー
まず、私達は人々に記憶され拡散されてしまった呪いの歌それ自体を消すことはできないから、歌にかかった呪いを消す… という方向に行き着いた。
拡散されているのは、拓也さん達が製作していた新曲で、未完成の歌。
だから、未完成なその歌を「幸せの歌」として私達が完成させ、世に発表し広める事で、聞いた人に呪いの歌ではなく幸せの歌だったと思い込ませられれば、呪いは消える…
そうすれば、既に伝染されてしまった人の呪いも消えるのではないか。
という考えに終着して、この賭けに出た。
(ーーそして、それから)
それで次は、どの様に曲を完成させ、発表するか… という事になったのだけれど。
ーー私達は一日かけて、ようやく結論にありつけた。
その結論というのは…
・楽譜がないと歌詞も当てづらい、形として完成できないのでまずは楽譜を手に入れる事。
・楽譜を手に入れられたなら、それを借りて持ち帰り、拓也さんを私達の中の誰かに憑依させて、体を貸して、歌詞を考え残りを書き上げて貰い完成させる。
・そして完成した暁には、どうにかして拓也さんのいたバンド、そのメンバー達を再結集させて、曲を完全に仕上げて発表に向け練習する(これは拓也さんが ケジメ を付ける為の行為として、本人たっての希望だった)
というもの。
拓也さんは新曲を発表する前に亡くなってしまい、喧嘩別れという形で終わってしまった…
「またあのメンバーで新曲を発表し、それを消される前の最後のケジメとして… 和解してからさよならしたい」
とは彼の最後の希望。
拓也さんの希望と、私達の作戦方針は合致し、そうして最終的に導き出された答えは。
ーー来月頭にある、桜子の高校の文化祭。その二日目。
有志による出し物発表のステージ。一般団体の参加枠ーー
そこに拓也さんのいたバンド… そのメンバーと、拓也さんを憑依させた桜子にどうにかして参加してもらって、新曲を発表する。
できるだけ多くの人に聞いてもらうには、これしかない。
そしてメジャーデビューも囁かれたほど有名だった拓也さんのバンド。そのメンバーが再結集し演奏するとなれば、呼び掛けすれば中々の集客も見込めると思う…
そういう思惑のもとで拓也さんと私達の希望、指針は合致した。
どう転ぶかは分からない、未知の領域。博打になるステージ。
(だけど、何としてでも実現させなければならない)
ーー奇跡は、それを願い行動した者にしか訪れない。
私達はやるしかない。
その作戦が決まり、私達はこうして動き出した。
桜子の方は、解決の為なら… と渋々了解してくれて、期限が迫っていた有志団体の募集に応募してくれた。
桜子の高校の学祭は、学校出身者、保護者だけでなく地域住民との交流も兼ねて、地元の団体やサークルを招いての出し物や出店があるようで… その枠が奇跡的にまだ余裕があったらしく、募集期間が長引いていたらしい。
それを使わない手はないと応募してもらったのだけれど… 随分難航した後許可されたみたい。
条件として勿論、学校側から報酬のようなものは出ないのと、そして…
(顔合わせ… 打ち合わせまでになんとか間に合わせないと)
実行委員や出し物を発表する団体による当日の打ち合わせ… リハーサルが、学祭一日目(一日目は前夜祭で一般開放はしないらしい)が終わった後にある。
桜子の頑張りによって、奇跡的に… ギリギリのところで参加の許可が下りたまでは良いものの、打ち合わせまでになんとしてでもメンバーを再結集させ、曲も完成させなければならない。
残された時間は限りなく短い。
本部にこの作戦を打ち明けたところ、ボスも「それしかない、全力でバックアップする」と申し出て下さって、場合によっては対策室の横の繋がり、パイプを駆使するという事も約束して下さった。
後ろ盾も得られた。
到底不可能だと思われるかもしれないけど、やるしかない。
桜子も頑張ってくれた。
今度は私達の番だ。
「ーーいらっしゃいませ」
人がまばらで静かなカフェ。
玄関扉に掛かったドアベルが鳴って、一人の男性が入って来た。
(ーー私の番だ)
頭の整理も終わって、居住まいを正す。
「ーーこんにちは」
「こんにちは… 遅れてすみません」
遅れてやって来た、とある一人の男性。
ーー私の戦いが始まった。
「ーーそうか… 分かった。お疲れ様。
ああ、ありがとう。 俺も頑張るな」
雪子からの電話… 報告を受けた後、俺は携帯を仕舞って一つ気を引き締める。
ーー拓也の協力のもと、俺達はまず新曲の楽譜を手に入れる為に動いた。
最終的には桜子の高校の学祭で発表する為に… こいつを手に入れないと話にならない。
9月は前半。 しかし時間の余裕はない。
打ち合わせまでにはメンバーを集めなければならないのだ。
こうしている間にも呪いはジワジワと拡散している…
人々の間にもその噂は進行形で広く知れ渡ってしまっているようだ。
しかし俺達支部の報告と、捜査班や各地域支部のそれを照合した結果、どうやら教団が呪いを広める為に送り込んだ現象は拓也のみなのではないか… という結論に至った。
パニックは散発的に起きている様だが、俺達が音楽室で経験した様な痕跡はどこからも報告されていないみたいだ。
つまり… 全ての命運は俺達にかかっている。
後戻りは出来ない。
拓也のアドバイスを受け、俺はとあるSNSでバンドメンバーの一人、そのアカウントを発見し、楽譜を手に入れる為… 再結集をお願いする為行動を開始した。
ーー千葉県某所、とある駅の広場。時刻は夜の9時前。
帰宅ラッシュのピークは既に過ぎて、行き交う人々も次第に少なくなって来た。
遠方遥々と、何時間かかけて辿り着いた訳だが。
(ーーあの人か?)
ホームを抜けると、男の歌声とアコースティックギターの旋律が広場に響いている。
どこか寂しげながらも、胸に染み入る様な優しい声音…
広場で演奏しているのはその男のみだった。
(ーー違いない。あの人がーー)
拓也のいたバンド。 拓也と喧嘩別れという形で終わってしまった、ギター担当の栄吾郎だ。
どうやら拓也のいたバンドは彼が亡き今は解散してしまい、メンバーはそれぞれ違うグループ又はソロで活動しているらしかった。
そんな中SNSで栄吾郎のアカウントを発見し、ソロで、ストリートでも活動している事が判明したので、俺はこうして遥々ここへやって来たのだ。
演奏している彼、栄吾郎の元へ近付き、ただただ歌い終えるのを待っていた…
やがて。
「ーーありがとうございます… 今日はここまでで… 本当にありがとうございました」
閑散とした広場にぽつぽつと拍手の音が沸き起こった。
途中何人か立ち止まって俺のように聞き入っていたものの、栄吾郎の締めの挨拶を合図にそろそろと消えて行く。
もうまもなくで9時を迎える。
撤収の準備をし始める彼。
(ーーよし、行くか)
後戻りは出来ない。
ーー俺は勝負を仕掛けた。
「ーー何かと思えば… 超自然現象対策室…? 何かの勧誘とかなら結構なんで」
「騙すような形になってしまい、本当にすみません…」
静かな喫茶店内。
待ち合わせで後からやって来た男の人と合流し、私は交渉に移った。
ーー拓也さんのいたバンド、そのメンバーの一人である、ベース担当の尚也さん。
「ーーあいつは無類の女好きだから、お嬢さんみたいな美人の頼みならすぐ食い付いて来るはずだーー」
とは、拓也さんの談であるけれど…
ここまではなんという巡り合わせか… 不思議なくらいスムーズに事が運んだ。
ーー入待ち、出待ち。
と呼ばれる行為を、私は数日前とあるライブ会場で行った。
発端はSNSで彼を見つける事が出来たこと。
そこで接触に成功し、どうやら彼… 尚也さんは都内のライブハウスでライブを行うとの事で、そこに招待された。
拓也さんのその言葉は半信半疑で聞いていたのだけれど、まさか本当にこんなに早く反応が返って来るとは思わなかった。
そして、そのライブ当日に入待ちと出待ちを行った。
入待ちとは、文字通りライブ出演者が会場に来た時を狙って接触を図る行為で、出待ちも同様、ライブ終了後撤収する際などにそれをする事である。
ただこれは会場やバンドによって、モラルやマナーの関係上禁止されている事がある… いわばグレーゾーン的な行為で、あまり推奨できる事ではないけれど、尚也さんに接触する為に、今回の作戦を実行するにあたり他に手はなかった。
そうしてそれらの行為により接触は成功し、再び会う約束を取り付けた私は今ここにいるという訳でーー
尚也さんと相見える。
初めに改めて自己紹介をし、私の身分を明かしたところ。
ーーなんとかして、なんとしてでも成功させねばならない。
全身全霊で… 胸の内を曝け出して。
「ーーそれで… 何かの勧誘なら結構なんで。俺は帰るけど」
「待って下さい… 勧誘というか… 尚也さん、あなたにお願いしたい事があるんです」
「ーーお願い?」
「はい。その前に… 先日はお疲れ様でした。
とても良かったです」
「ああ… はい。 ありがとう…」
立ち上がって店を出ようとしていた尚也さんを何とか引き戻せた。
よし… ここからが正念場。
「ーー私はあの様な… エモーショナルと言うんですか…
そういう曲が大好きなんです」
「ありがとう。 えーと… 雪子ちゃんだっけ? 俺達のライブはあれが初めて?」
「はい…! すっかり惹かれてしまいました…! これからも応援させて下さい!」
「おお! 雪子ちゃんみたいな素敵な人に応援して貰えるなんて凄く嬉しいよ」
警戒心を解く為に、まずは他愛ない話でそれを解すことに努める。
願いは後回し… まずはこちらの流れに引き込ませる事が優先。
騙しているようで心が痛いけれど… 作戦の為に。
会話の主導権を握らなければ。
「ーーいつかツアーをやりたいねー。今それを計画してるんだ」
「そうなんですか…! 全部は回れないと思いますが…
その時は見に行きます!」
「本当に…!? いやー、嬉しいな」
段々と彼の表情は綻んできた。
そろそろ揺さぶりを掛けてみてもいいかもしれない。
「ーーところで尚也さん… 私、あなたが以前所属していたバンドのファンなんです」
「ほんとに…? 嬉しいなー、その頃から応援してくれているなんて」
彼は以前のバンドにいた事をタブー視している訳でもないようだ。
良かった…
「ーーほんとに… ライブには参加した事はないのですが…
CDもなんとか集めて、いつか参加してやろう! なんて思ってて」
「ほうほう… それは嬉しい限りだ」
「ですが…
ーーボーカルの拓也さんがーー」
いつまでも世間話をしている訳にはいかない。
心苦しいけど、一手を入れるには今が好機。
「ーーそうだね… あいつとなら俺はてっぺんに行けると思ってたんだけどな」
「なんだか掘り返すような話を… すみません」
「いいんだ。 俺はもう受け入れた。
愛してくれるファンがここにいるって事が… 俺達、あいつにとって何よりの幸せだから」
懐かしむような表情の彼。
しかしどこかその視線は寂しげだった。
「それで話を戻す様ですが…
あなたに… 尚也さんにしか出来ないお願いがあるんです…!」
「ーーお願い…」
ここしかない。
今までは奇跡的に… 本当に奇跡的に事が進んだ。
なら、これからもどうか…
お願い、神様。
「はい… 尚也さん。
ーーもう一度、拓也さんがいたバンドを、一度限りでいいので…
再結集して、未発表のままだった新曲を発表してくれませんでしょうかーー」
何とか言えた…
誠心誠意、私はそう言って頭を下げた。
「ーー新曲… なぜその存在を雪子ちゃんが…」
知っているのか。 と、困惑気味な尚也さん。
「ーー詳しく話したいのですが…
少々長くなりますが、お話だけでもどうかお願いします」
もう一度頭を下げる。
「ーー分かった。 話だけなら。
それじゃ… 喫煙席に移動してもいいかな?」
良し… あと一押し。
何としてでも。
ーーそうして私達は席を移動する…
カチッ… シュボー…
っとオイルライターを点火して、尚也さんはタバコに火を付ける。
ジジジ… と燻るタバコと、ゆらゆらとうごめく紫煙。
「ーーまずは、先程渡した私の名刺ですがーー」
「うん… 超自然現象対策室… だっけ?」
そこで、ふぅーっと煙を吐き出す彼。
「はい。私達は皆が言うところの 幽霊 等が起こした事件を取り扱っている団体です。
信じられないでしょうが…」
「そうだね… 聞いたことない。 それで?」
「怪しまれるのも当たり前だと思いますが… それで…
ーー単刀直入に言います。
拓也さんが亡くなられて未発表となってしまった新曲が 呪いの歌 として人々に猛威を奮っていますーー
もしかしたら、尚也さんの耳にも入っているのではないでしょうか…?」
呪いの歌は現在も蔓延り続けている。
それは報道、ワイドショー等でも「突如発生するパニック障害」として昨今取り上げられている。
そこまで… 一種の社会現象になりつつあって、現在人々の間では様々な憶測、噂が行き交い混乱や恐怖が生まれる程までに達した。
散発的な発生ではあるが… しかし、それは想定外のスピードで拡散している事が分かる。
「ーー呪いの歌… か。最近良く噂に聞くけど。
それはもしかして」
「はい… パニック障害 と言えばもうお分かりでしょう…
私達の調査により、あなた達が製作していた未発表の新曲。
それが現在のパニック騒動を引き起こしている事が分かりました」
「いやいや… 待ってよ。
ただの都市伝説みたいな話なんじゃないの?
っていうか、俺達の曲とパニック騒動に何の関係が… そもそも、未発表なのにどうして世間に出回ってるんだ? 信じられないな」
もっともな話。 こんな事突然言われたら私だって信じられない…
でも。
「ーー本当に信じられないでしょうが… ありのままを話します。
ーー拓也さんの 霊 が現れたんです」
罵詈雑言は覚悟している。
ここからは一気に捲し立てるしかない。
「ーー雪子ちゃん… 一体君は何を言ってーー」
「拓也さんは交通事故により亡くなられて、それから 霊 という形でこの世に再び出現しました…
やがて彼はとある人間に目を付けられ、利用されてしまったんです。
ーーお前の望みを叶えてやる。
という誘惑の言葉をかけられて」
「待ってくれ。俺をおちょくっているのか?」
「いえ…
そして拓也さんは新曲を発表したかったという望みがあり、その誘いに乗ってしまいました。
その結果彼はその者に洗脳、操られ、新曲はパニックを起こす為の呪いの歌に変えられて広めてしまい…
そして今に至る、という訳です。
私達の調査と、洗脳が解けた拓也さんから聞いた話により、この事が判明しました」
まずは今までの経緯から一気に畳み掛けて。
「訳が分からない。 馬鹿にしてるなら俺はもう帰らせて貰うけど」
「違うんです…!
これは真実です…! あなた達の曲が呪いにされてパニック騒動を起こしているんです!」
「信じられる訳ないだろ…
拓也の霊だって? なら、本当にあいつがいる事を証明できるのか?」
こんな事言われれば、そう返すだろう…
ーーそれは予測していた。
だから。
(拓也さん… お願いします)
(おうよ… 了解だ)
「だいたい幽霊なんて… 馬鹿にしてるとしか思えない。
あいつを侮辱してる事にもなる」
「ーー尚也さん」
「何だよ…」
「ーーもし、この場に拓也さんがいると言ったら…
あなたはこの話を信じてくれますかーー?」
鼓動は高鳴り、指は震える。
これからは一言でも選択肢を違えてしまうと、全てが水の泡になる。
「馬鹿を言え… 信じられる訳がないだろ」
「ーー久しぶりだな、ナオ。
と、拓也さんは言っています」
「それは…」
作戦を成功させる為に私は拓也さんと共に東京へ来た。この場でも同様で、彼に同伴してもらった。
(ナオ、がこいつの愛称だ)
(ありがとうございます)
尚也さんには見えていない、拓也さんの姿。
私の横に立ってもらい、妖術も用いて意思疎通を図る。
「騙されないぞ… なら、拓也が本当にいるんだったら…
そうだ…!
俺の好きなバンドは…!?」
「ハリケーンズ、フロム・サンデー、アップダウンヒルズーー」
「う… それじゃ日本のバンドは?」
「雷鳴、ムーンシャドウズ、ザ・ワイルドキャッツーー」
「マジかよ… 好きな飲み物!」
「ハイウェイビア…
ーーよくあんな湿布みたいな臭いのするやつ飲めるな。
と彼は言っています」
「そんな… なら…!
ーー俺達のバンド名の由来。
これは俺達しか知らない秘密だ!」
「ーーheaven's steps
ボーカルのtakuyaのT
ギターのeigorouのEとGとO
ベースのnaoyaのN
ドラムのkuutaのKとU …
それらを並べると 天国 つまりheaven …
天国まで達するような音楽を。
それが由来なのですねーー」
ボーカルの拓也
ギターの栄吾郎
ベースの尚也
ドラムの空太
ーーヘブンズ・ステップス。
それが彼らのバンド名だった。
「ーーそんな… 信じられない」
「ーー迷惑をかけてすまない。
もう一度、一度だけでいい… 新曲を発表しケジメをつけて、そして和解してから終わりたい。頼むーー
と、拓也さんは言っています」
信じられない。しかしそれなら一体… と、尚也さんの心の声が聞こえる様だった。
目を見開き、思わず立ち上がる彼ーー
私と拓也さんは、そんな彼を努めて冷静に見守る。
「新曲を発表するって言ったって…
お前がいなきゃどうにもなんねえだろ…!
死にやがって…! 馬鹿野郎」
尚也さんの声は掠れ、震える。
虚しい響きは、周囲の雑音に掻き消された。
(本当にすまねえ…)
(拓也さん…)
ふと拓也さんを見ると、彼の表情も険しく、懺悔の様な色を帯びていた。
「ーー尚也さん。
信じて貰えずとも構いません…
しかし、もう一度お願いします。
あなた達の未完成の曲が、呪いの歌にされて拡散してしまい、現在も人々をパニックの渦中に飲み込んでいます」
「一体俺達にどうしろって言うんだ…」
「ですから、未完成の曲を呪いではなく、幸せな曲という概念のもと完成させるんです。
そして元のメンバーに再結集して頂き、多くの人の前で発表するのです…
そうすればあなた達の曲は呪いの歌ではないと認識され、問題は解決するはずです…!
どうか一度、一度だけでいいので… よろしくお願いします!」
言うべき事は全て言った。
人事は尽くし、後は天命を待つしかない…
もう一度、深く頭を下げるーー
嫌に長い沈黙。
視線は床に注がれたままで…
そして。
「ーーつまり、問題が解決するか否かは俺達に全てかかっている… って事でいいのか…?」
「はい。あなた達にしか出来ない事なんです…」
神様、お願い。
頭を下げたまま答える…
「ーー分かった」
どれだけ…
どれだけその言葉を待っただろうか。
「ーー本当ですかっーー!」
「まだ信じ切れた訳じゃないけど。
不明な点が多すぎる。
俺だって実は… あいつらともう一度音楽がやりたいんだ。
だけど…! 拓也、あいつがいないとヘブンズ・ステップスじゃない」
「ーー拓也さんはここにいます…
見えなくても、あなたの心に… 皆の心の中に」
「俺はどうすればいいんだ…
曲を発表するにしても、まだスコアは持ってる。残すは最後の歌詞だけだから何とかなるかもしれないけど…
だけどあいつがいない今、誰がボーカルをやるんだ」
今のところ、全ては上手くいっている。
チャンスの風は吹いている。
「ーーそれなんですが… 私達には ある作戦 があります」
「作戦?」
「はい。もし前向きに考えて頂けるなら…
ーー私達に任せて下さい」
なら、その風に乗り…
奇跡を起こし続けるしかない。
(奇跡は、それを願い行動した者にしか訪れないーー)
「ーーどう出るか、だな…
俺の方は上手くいったかどうか…
すまねえ」
「いえ、みんなベストは尽くしました。 後は祈るしかありません」
ーー雪子の瞳には未来を見据えている様な強い輝きがある。
俺達が元メンバー二人に再結集を嘆願してから2日経った。
西日が差し、日が傾き始める…
咲夜家。
日課である仕事が終わり、俺は夕餉の支度の前に雪子と仕事部屋で一つ休憩を決め込んでいるところだった。
俺はギター担当だった栄吾郎と接触し、出来ることは全てやった… つもりだ。
対策室のこと、拓也のこと、呪い・パニック騒動のこと、新曲がそれを引き起こしていること、再結集して欲しいこと、呪いを消すにはそれしかないこと。
それらを順を追ってなるべく簡潔に伝えた。
しかし彼の場合は、拓也と喧嘩別れしただけもあって突っぱねられてしまった。
なんとかそれでも、俺は何度も頭を下げて頼み込んだ。
彼らしかいない… と。
雪子の方は手応えがあった様で幸いだが…
しかし2日経ち、彼らが動きを見せる気配はない。
楽譜も手に入れられてはいない。
刻々と時間は経過していく。
こうしている間にも呪いは人々に伝染しているのだ。
9月は中盤に入った。
大勢の人に聞いて貰えなければ意味がない。そう思う。
だからそういう意味で、学祭は絶好の機会だ。
これを逃す手はないが… しかし。
「他の手を考えるしかないのか…」
無意識のうちにため息が溢れる。
「ーーいや、あいつらは来るーー」
そうして仕事部屋に現れたのは拓也。
「突然の事で、しかも話が信じられない様な内容だからな。
俺が言われても断るだろうな…」
いきなり現れた奴に超自然現象だの幽霊だの呪いだの… 信じて貰える可能性は極めて低いだろう。
「ーーそうだな… だけどあいつらも新曲を早く発表したがってた。
それにあいつらは良い意味で馬鹿な奴らだ。
これは世間の目も引くだろうし、人気を上げる、注目されるチャンスとも捉えられる…
きっと奴らは来る」
強い眼差しの拓也。
ーー絆。
キツく、固く結ばれた糸。
遠く離れても、それは再び皆を引き寄せる。
絆… か。
彼らの絆を信じるしかない。
そこでふと、何故か随分昔に国語か何かで習ったある作品の内容が脳裏をよぎった。
過酷な試練を己に課し、そして誓いを交わした青年。
青年は誓いを、約束を果たす為に広野を駆け抜けた。
道の途中何度か見失いかけながらも、試練を乗り越えた彼は誓いを果たし、信じる力を、絆の強さを世に証明したのだった。
ーーヘブンズ・ステップス。
信じよう…
拓也を、そして彼らを。
ーーやがて。
「ーー桜子、帰って来たかな…」
玄関の方で何やら動きがあった。
ふいに雪子は、何かを察知した様でデスクチェアから腰を上げる。
「ーーあいつらだ」
悟った様に、したり顔の拓也が言い放つ。
まさかーー
「ーーただいまー…」
「ーー桜子か… おかえり」
「桜子、おかえりなさい」
「ただいまお姉… 龍一、何よその期待外れみたいな表情は」
学校から帰って来た桜子。
(やはり駄目なのか…?)
ふっと拓也を見る。
(ほらなーー)
そんな風に口を動かした気がした。
(どういうことだ?)
「ーーお姉… お客さんが来たみたい」
「分かりました」
胸を撫で下ろした様な雪子。
そして。
「ーー皆さん… 本当にありがとうございます」
そろそろと仕事部屋に入って来た男達。
「ーー久しぶりだな」
届かないはずだが、生き生きと声を張り上げる拓也。
現象のはずなのに、まるで生きている様な… 生気に満ち溢れている様に見えた。
ーーヘブンズ・ステップス。
彼らの絆は本物だった。
今、再び天使達は集うーー
「ーーハッキリ言って信じ切れたわけじゃないけど…
とりあえず、話を聞きに来ました」
「はい… わざわざ遠いところお越し頂き本当にありがとうございます」
彼らは再びここに集った。
ヘブンズ・ステップス。
栄吾郎。
尚也。
空太。
そして拓也。
互いに自己紹介を交わし、彼らはソファーに腰掛ける。
(まさか本当に来てくれるとは)
大変喜ばしい事なのに、驚嘆がそれに勝る。
まずは第一関門突破… と言ったところか。
偉大な一歩だ。
雪子は改めて状況説明に取り掛かる。
超自然現象と対策室の存在、拓也の存在、パニック騒動、それを引き起こした彼らの曲、その曲に掛けられた呪い、俺達が考え着いた呪いを解く方法…
それらを簡潔に、端的に、正面から告白した雪子。
「ーーそうか… 確かに呪いの歌がどうのこうのって噂は耳にしてたけど…
まさかそれが俺達の曲なんて。未だに信じられないけど」
そうこぼすのは尚也。
「ーーナオが珍しくマジな雰囲気で押しかけて来たからこうして来たけど…
正直言って信じらんないっすよ。なあ…? 栄吾郎」
「ーーおう…」
それぞれ個々の活動で忙しい中、こうしてメンバーを集め率いて来てくれたのは尚也の働きかけのおかげだった様だ。
空太と栄吾郎はいかにも迷惑被った… という様な態度である。
しかしこうして来たという事は、それぞれ何か思うところはあるらしい。
「ーーそれで… 改めて、俺達はどうすればいいんだ…?」
「拓也の霊とか聞いたけど、本当にいるんすか? ここにあいつが」
そうだ。ここからが第二の勝負。
第二関門… と言ったところだ。
「ーーはい。こちらにいらっしゃいます」
雪子は彼らが座るソファー、その傍らに立つ拓也の方向に手をかざした。
三人の視線はその方向に集中する。
「ーーって言われても…
俺達には何も見えないですけど」
ボソっと、栄吾郎は呟く。
(当たり前だよな…)
「それで… 改めて皆様にお願いしたい事があります」
その反応も予想の範疇… といった様子の雪子は、冷静に話を進行していく。
「先程の内容と被りますが… 皆様には呪いを解く為に、未完成の新曲を 幸せの歌 として完成させ、発表して頂きたいのです」
「どうやって発表するんすか?」
「来月の頭に、桜子… 彼女の高校で学祭があるので… そこが絶好の機会だと思います」
「来月頭か… ほぼ完成してるから今から急いで取り掛かれば何とか間に合いはするだろうけど…
ボーカルの拓也がいない状態でどうやって」
「ーーはい… それなんですが…
こうします。桜子ーー」
そこで雪子は入り口のドアにもたれかかる桜子に何やら目配せする。
やがてゆったりと桜子は俺達の方へ歩いて来て…
そして。
「ーー今から、彼女の体に拓也さんを憑依させます」
引き締めた表情で雪子は言い切った。
「ーー憑依…? つまりそれは 憑かせる… ってこと?」
「はい…」
驚愕と怪訝な色が混じった様な表情で三人はそれを見つめる。
桜子は手を胸の前で組んで、そして神に祈りを捧げるように目を閉じた。
(すげぇ…)
桜子の前に拓也が立つと、彼の体がすぅーっ、と吸い込まれるように重なり、彼女と同化した後消える。
これも妖術が成せる技なのだろうか。
組んだ手は解かれ、やがて両の目は開かれて。
しん、と静まり返る部屋…
「ーーお前ら… 久しぶりだな。
迷惑かけてすまなかった。栄吾郎も… すまない」
その姿、形、声は桜子のものだった。
しかし… 目つきが、口調が、醸し出す雰囲気が桜子のものではない。
拓也が桜子に憑依した。
見える者である俺達にはそれが確認できるがしかし… 三人の目にはどう映っているだろうか。
頭を下げる桜子… もとい、拓也が憑依した状態の桜子。
「ーーこれ… ほんとに拓也が…?」
尚也は疑問を浮かべた顔でこちらを見回し、様子を窺っている。
雪子は何も言わず、無言のまま首肯した。
「ーーお前… ほんとに拓也か?
ただの茶番じゃないだろうな…」
栄吾郎は目つきを細め憑依された桜子の顔を見据える。
無理もないか。
俺も見えない立場だったら怪しむし、そうなるのは当然と言える。
だが。
「ーー俺は拓也だ。 今はお嬢ちゃんの体を借してもらってる。
俺の迷惑に巻き込んで悪い…
だが… 最後に、もう一度だけステージに立たせてくれ!
騒動を解決するには、お前達の力が必要なんだ!」
後は彼らの絆に再び賭けるしかない。
「ーー俺がヘマしちまったせいで…
これからって時に終わらせちまった。
せめて… 最後の一回として新曲を発表してから俺は終わりたいんだ。
お願いだ… ラスト一回、ヘブンズ・ステップスとして作りかけだった新曲を発表してからキリ良く終わりたい。
それがお前達に今の俺ができるせめてもの償いだ」
桜子の体で必死に、必死に頭を下げる拓也。
三人は最初こそ半ば信じられない様な雰囲気を侍らせていたが、必死さから何かを感じ取ったのか、段々と固い表情は緩んでいく。
「ーー本当に… 拓也、お前」
「栄吾郎。俺はお前の意見を受け入れようともせずに突っぱねた…
死んでから後悔するなんてな。後の祭りも甚だしいな…
どうか、今更だが許してくれないか」
「ーー馬鹿野郎…
お前が死んだら仲直りもできねぇじゃねえか」
「すまねぇな… だが、何か知らんがこうして亡霊になって現れたって事で…
多分、やり残した事があるから… なんだろうな」
きっと嘘だと、ただの茶番だと、俺達が騙していると思いたいのだろう。
しかし三人の中に在りし日の彼の面影が浮かび上がり、きっとこの場に蘇っているのではないかと、だから否定したくともできないのではと… そう感じるのだ。
もし、故人に一度だけ会う事ができたならーー
何を伝えるだろう。
一度きりの、最後の一分に。
人は何を返せるだろうか。
「ーー俺も… ごめんな…」
栄吾郎は込み上げる何かを必死に抑えながら、掠れた声を上げて顔を俯かせる。
「ーーありがとな」
わだかまりが消えていく様に、この部屋の空気も澄み渡っていった。
「ーー拓也… 俺も、俺達もごめんっ!」
「お前の意志を受け継ぐべきが… 解散させちまった」
栄吾郎が皮切りとなって、尚也と空太も心情を吐露していく。
「ーーいいんだ… 俺のせいだしな…」
遅すぎた和解。
しかしこうして彼らは絆を取り戻し、より強固なものへと変えた。
いつしかバラバラになり離れてしまった心を、再び繋ぎ合わせたのだ。
これで拓也が生きていれば…
だが、なってしまった事は取り返しがつかない。
残酷な様であるが、乗り越えるしかないのだ。
だから、前を向く為に。
「ーー最後に、俺のわがままを聞いてくれないか?
ラストだ…!
ヘブンズ・ステップスの解散ステージ。新曲を発表して、最高のステージにして… それでケジメを付けたい。
別れの為のケジメをな…」
「ーー俺も… 俺達も、出来るならお前ともう一度音楽がしたい…!」
ケジメ… それはきっと拓也のものだけではなく、拓也の死を乗り越え前へ進む三人のものでもあるだろう。
ーー人は脆い。
運命を前に、真理を前に成す術なく立ち尽くし、そして潰される。
しかし。
「ーー最後のステージは、このお嬢ちゃんの学祭だ。
そこで俺は今こうしてる様に、お嬢ちゃんの体を借りて、お嬢ちゃんとして出る。つまりボーカルは俺が憑いた状態のこのお嬢ちゃんだ。
それで新曲を発表し多くのファンや客に聞いて貰えば、俺達の曲にかかった呪いは解かれ、パニック騒動は収まる…
そういう事だよな? 雪子ちゃん」
「ーーはい。その通りです」
「そういう事だ。
だから、ラストに力を貸してくれ…
歌詞を書き上げ、幸せの歌としてスコアを完成させる。
それで来月頭までに完璧に仕上げようぜ。
どうか頼む、お前ら」
何度運命に潰されようと…
人はまたやり直せる。
一度目のチャンスを、二度目のチャンスでさえも見逃す事がある。
だけど…
二度目のチャンスも逃したなら、別の道で三度目を狙えばいい。
人は何度でも立ち上がれるはずだーー
「ーーお前はケジメって言っていたけど…
俺達にとってもケジメになる。
だから、俺達からもお願いする。
最後に、最高のステージにして解散しよう。
それが俺達に出来る、お前への恩返しだーー」
「ーーそうだな…! 呪いだかなんだか知らないけど、最高のステージにしてやろうぜ! 拓也!」
「やってやろうぜ」
拓也の切なる願いに三人は応えた。
ただその願いは拓也だけのものではなく、栄吾郎、尚也、空太の願いでもあったのだ。
「ーー契約完了… ですね」
「そうだな」
彼らが互いに手を取り合う様を側から眺めながら、俺と雪子は頷き合った。
そうして…
「ーーそれじゃ… お嬢ちゃんの体にも限界があるみたいだからな… 俺は一旦ここら辺で。
後は彼女達の指示を聞いてくれ」
桜子に憑いた拓也はそう言ってから、やがてその体を桜子から離脱させた。
フッと、桜子の背中から現れ解離し、再び現界する拓也。
目をつぶったままでふらふらと倒れそうになる桜子を俺は受け止める。
「ーーはあ、疲れた… ありがと龍一」
「お疲れさん。ありがとな」
桜子が覚醒したのを見届けて。
「ーー皆さん、本当にありがとうございます…
これからの手順を説明致しますので、お掛けになって下さいーー」
俺達の作戦は順調にいっている。
ヘブンズ・ステップス… 彼らが再び集った今、残すは当日のステージだけだ。
どう出るかは分からない博打の様なステージ。
しかし、それに賭けるしか手はない。
拓也が信じた様に。
三人が信じる様に。
俺達も最後に奇跡を信じるしかない。
(大丈夫だ… きっと上手くいく)
想いの力は、きっと奇跡を運んでくれる。
雪子がこれからの行程を説明するのを横目に、俺は忘れていた手伝いとしての勤め… お茶出しに取り掛かった。
慌ただしく往来する生徒達。
いつもなら部活に励む生徒以外はさっさと帰ってしまう、放課後の時間帯となった校舎。
時は流れ、それは私達も巻き込んでいく。
(ホントにあっという間…)
気付けば月末で、そして。
(明日から学園祭…か)
ーー私の高校の文化祭は2日間に渡って開催される。
今日、金曜は一日を使って準備にあたる日で授業はなかった。
前々から放課後などを使って少しずつ準備は進めていたので、私達のクラスは他と比べればドタバタせず至って順調だ。
午前中はテント等の設営、会場準備、駐車スペースの作成や各委員会ごとの仕事をこなし、午後から今に至るまではクラスごとの出し物の最終準備… といった行程。
ちなみに、私達のクラスはよくある喫茶店… といったありきたりな出し物である。
それらは一般開放日となる二日目にお披露目という形で、明日は生徒や教師のみによる「前夜祭」である。
前夜祭は生徒による演劇やダンス、合唱や吹奏楽、バンドの発表など文化部の晴れ舞台でもあり、また、個人やクラス、教師による出し物もあり内輪で盛り上がる一日だ。
クラス間の出し物は部門ごとに分けられ点数が付けられる。そして最終的に順位付けもされ、それによって報酬があるので生徒達は報酬目当てで一致団結、意欲的になり燃えている。
一日目が終われば翌日は二日目、最終日。勝負の一般開放日。
クラス展示もそうだけど、私はそれより大事な事が控えている(クラスの皆には申し訳ないけれど)
ーー依然として、呪いによるパニックは散発的に発生している。
私達の周辺では幸いにもあの日以降はまだ発生していないけれど、もう発生しないとは言い切れないし、伝染されてしまった人がいつ発症するか分からない。
隣県や違う都市等で局地的にそれが発生しているという報告が別の支部から入った事をお姉から聞いた。
そういう意味で予断を許さない状況にある。
また、噂によると学祭の開催は騒動の影響により一時は危ぶまれたようだけど、なんとか無事平年通り開催となった。
(だから… 発症していない内に)
二日目の一般団体による発表のステージ。
そこで新曲を発表し、呪いを解かなければ…
成功するかは分からないけれど、成功させなければならない。
私がステージに立つと知った友人、クラスメートから半ば囃し立てられたり(内心はちゃんと応援してくれてる事は分かるけど)して、私的にはあまり心が進まないけれど、呪いを消す為には仕方ない。
拓也、彼を信じて… 私は彼にこの体を託す。
彼は教団に操られ呪いを拡散させてしまった。罪を犯してしまった。
操られていたとはいえ… 裁かれなければならない…
残酷な様であるけれど…
私だって内心は辛い。
しかし彼はその運命を受け入れた。
運命を受け入れること… これは誰にでもできる事ではないと思う。
目を背けたくなるような過酷なそれを前にして、彼は恨むのではなく受け入れ、そして赦した。
なら、私達だって。
赦す事が出来るのではないか。
だけど… 私達は現象を取り締まる立場であり、厳粛でなければならない。
(もう分からないよ)
前までの私は、一方的に現象を敵対視していた。
しかし龍一の行動、ヤエさんの存在などから、その気持ちは揺らいでいる。
きっと、分かり合える場合もある。
私達は、互いに歩み寄る事が出来る…
きっと、きっと…
がんじがらめで、ジレンマの様な状態だけど、まずは目の前の問題を片付ける事が大事であり、それに専念する事で混乱を収める。
「ーー桜子…? ボーッとしてどうしたの? 恋煩い?」
「ーーな…! ち、違うから… ごめんね」
準備中、気づけば物思いに耽って作業を疎かにしていた…
見かねた友人に声を掛けられる。
(しっかりしなきゃ…!)
まずは目の前の問題に集中すること。
ーークラス展示の準備も気づけば最終段階。
雑念を捨て、私はそれに集中した。
「ーー桜子ちゃん、お疲れ様」
「はい… お疲れ様です。明日のリハーサルも頑張りましょう。よろしくお願いします」
「おう! 俺達は片付けするから、また後ほどお世話になります」
「はい。お待ちしてます。お先に失礼しますーー」
私達が住んでいる街… 唯一栄えている駅周辺、とあるライブスタジオ。
学祭の準備を終えた私は龍一の送迎で即刻移動し、ヘブンズ・ステップスのメンバーと共に当日に向けての最終調整を行った。
ーー未完成だった新曲はなんとか完成した。
彼らが私達の元へ来て協力を誓ってくれたあの日から、作戦は次のステージへ移行する。
私は今日に至るまでハードスケジュールな日々を過ごした。
まず拓也の協力によって歌詞が全て書き上げられて、スコアは完成となる。
次に、私は彼と共に東京へ赴いた。
東京のスタジオでメンバーと合流し、完成した曲を実際に演奏してみて、打ち合わせを重ね、完璧に仕上げる為にスケジュールをなんとか確保して練習を積んだ。
メンバーを練習の為だけにわざわざこちらへ来させる訳には行かない。
彼らにも一人一人個々の生活がある。
私達はお願いする立場だから、できるだけ彼らに不都合がないようにしなければならない。
だから私が向こうへ赴いた。
放課後に東京… というのはさすがに無理であったので、スケジュールをなんとか調整して貰って、土日を使い数回ほど向こうで練習したのである。
私はその都度自分の体に拓也を憑依させ、それに臨んでいたーー
ーー時間の余裕はなかったけれど、そうこうしてなんとか曲は仕上がった。
それで明日の前夜祭の後に学祭二日目のステージ、その打ち合わせがあるので、今日からメンバーの方々にはこちらへ来てもらい家に泊まって頂く事になっている(費用は対策室持ちという条件であるから、出来るだけ出費を抑える為に)
そういう行程であったから、今日はこのスタジオで練習をしていた訳だ。
「ーー桜子、お疲れさん… 拓也もな」
ライブスタジオを出ると、龍一は既に到着していた。車の傍らに立って、私を出迎えてくれる。
「ーーありがと… 他の人は片付けがあるから、終わったら家に来るってさ」
「分かった。 迎える準備はできてるぜ… 飯の準備も出来てるし、帰るか」
龍一の車に乗り込み、私は拓也と共にこの場を後にするーー
「ーーお嬢ちゃん、ありがとな… 明日も、当日も頼むぜ」
「私の体なんだから、変なこと言ったりしないでね…」
帰って来て自室で部屋着に着替えてから、私はお姉と龍一がいる仕事部屋へ向かう。
仕事部屋にはお姉と龍一、それに一緒に帰宅して来た拓也もいて、そんな風に声を掛けられた。
「ーー二人ともお疲れ様です… 明日と、それから本番もよろしくお願いします」
私がソファーに身を投げると、お姉から労いの言葉と共に華やかな香りのお茶が差し出された。
「ありがとお姉… これ、凄くいい匂い…」
「カモミールティー淹れてみたの… 疲れに効くかと思って。こんな事ぐらいしか役に立てないから…」
「充分だよ… 私は私の役目があって、それをしているだけだから… お姉も頑張ってくれたし… 私も頑張らないと。ありがとう… 頂きます」
そう。これまではお姉と龍一が頑張ってくれた。
だから今度は私の番だ。
それに、私だけじゃない。
「ーー拓也… さんも、今更だけど… ありがとう」
「それはこっちのセリフだ。
俺のわがままに付き合ってくれて感謝してる。ありがとう」
役目を果たせば、彼は封印されてしまう。
しかし彼の瞳には力強い意志が燃えている様にも見える。
「ーーホントよ… 毎回あなたに体を貸すのしんどいんだから」
正面から向き合うと、罪悪感みたいな感情に苛まれそうで…
私は苦し紛れな言葉をこぼして視線を逸らす。
「ーーすまねぇな」
そう言って自嘲気味に笑う拓也。
(どうしてそんな風に笑えるのよ)
全ては教団が悪い…
だけど、私達は彼を裁かなければならない。
彼の微笑みを前にして余計に心はチクリと痛んだ。
「ーーそう言えば… あんた達ってスゲェよな。一体何者なんだ?」
私の複雑な気持ちを感じ取ったのか、拓也は脈絡なくそんな言葉を口にして話題を切り替える。
「ーー言ったじゃない… 超自然現象対策室よ」
「生きてる時はそんな機関がある事なんて全然知らなかったぞ?」
「秘密機関… という訳ではありませんが、スポットを浴びるような仕事でもありませんので、世間にはあまり知られていないのは確かです」
「それにしても… だ。何から何までーー」
確かに… 当の私でさえも対策室本部… と言うよりかはボスの力には驚きを隠せない。
「ーーそうだな。あれには俺もビビッた。バックアップしてくれるとは聞いたがーー」
同じく、龍一もそんな風に呟いて賛同する。
作戦が決まり、成功の為に本部も協力してくれた。
だけど、その内容が驚くべきものだった…
「ーー本部、それからボスの横の繋がりにはいつも驚かされます…」
遂にはお姉もそう言ってため息を漏らす。
そう…
多くの人に歌を聞かせる。
その方が効果が見込めるという方針のもと、この様な計画になったわけだけど…
だから本部はまず、ライブを行うという事を大々的に広報してくれた。
どのような方法を用いたのかは分からないけれど、ネット上で、音楽雑誌で、新聞のエンタメ欄で、テレビの音楽番組などで… それは「ヘブンズ・ステップスが一日限りの再結成!」という見出しで瞬く間に広まった。
インディーズバンドとしては異例中の異例な事態である。
加えてメンバーの移動やスタジオのレンタル、機材運搬等(運搬用のレンタカーなど)にかかる諸費用は全て本部負担という… 当たり前かもしれないが、それら太っ腹な行動を垣間見て改めて本部の力を思い知らされた。
「ーーまあ… なんにせよ、あんた達のお膳立てのおかげだ。
全てのカードは揃った。後は当日…
決めてみせるぜーー」
自信満々な様子で、拓也は親指を立ててみせる。
「そうだな。頼むぜ…
今のとこパニックは起きていないってことは、きっと当日も上手くいくさ」
彼の宣言に応えるのは龍一。
そうだ。
私達と拓也が協力し、書き上げて完成した新曲。
その 幸せの歌 を演奏してみて、現時点では私やヘブンズ・ステップスのメンバーにパニック障害は起きていない。
だからきっと上手くいく。信じるしかない。
「ーーお嬢ちゃん、あいつらがここに来たら、言いたい事があるんだ」
想いの力は強い。
「分かった。体を貸せってことでしょ? いいわよ」
「ああ。ありがとう」
想いは言葉となり、音となって現界する。
彼の音には力強い意志と、そして儚さがあった。
拓也は最後の言葉を伝えようとしている…
最後の一刻は確実に迫る。
「皆さんが帰って来たみたいですね」
庭の方から車のヘッドライトが窓越しに差し込んで来る。機材運搬の為に彼らがレンタルしたライトバンだ。
役目を全うしよう…
彼の切なる願いを、惜別の想いを伝える為に。
私からの言葉ではない。
彼が私に憑依して、その魂を一時的にこの世に現界させて… そうして 桜子 からではなく 拓也 からの言葉として伝え、音にしなければ意味がない。
私はこのちっぽけな体を、最後の一瞬まで彼の為に尽くす。
彼を信じてーー
現象とは一体何なのか。
俺はふと、明確な答えが出ない様なテーマを己の内に投げかける。
ーー学祭二日目。俺達の決戦当日。
生徒、保護者、一般客で賑わう校舎。
ごった返す群衆。いつもならありえないであろう、非現実的な光景。
宴の一日…
(俺がいた時はこんな盛り上がらなかったよな…)
人の波に押されながら、ようやく校舎の外に出る。
懐かしくもどこか新鮮な、色々な想いが交じった感情で心はざわめく。
しかし素直にそれに流されるほど余裕があるわけではない。
決戦の時を前にして… 緊張や不安、恐怖が体を支配する。
自分がステージに立つわけじゃないのに、この緊張はまるで当事者が感じるそれだ。
「ーーなんだかこんな気持ち、久しぶりです…! 懐かしい様な… 学生時代に戻った気分です」
「そうだな… そこのベンチで少し休むか?」
俺達は昇降口から一旦外に出て、正門前のロータリーにあるベンチに腰掛ける。
肩がわずかに触れそうで触れない… そんな距離で隣に座る雪子は、勝負前であるにも関わらずそんな事は露知らず… といった佇まいである。
「ーー龍一さん…? どうしました?」
「いや… 何でもない」
しかし、きっと雪子も不安に違いない。
俺と似た心境にあるのだろう。笑顔の中にもどこか緊張の影がある。
恐れを伝染させまいと、気丈に振る舞ってくれているのかもしれない。
(ありがとな)
ーー決戦は午後。
生徒から配られた学祭のプログラム表を眺める。
数ページに渡り丁寧に作成された表をめくっていくと。
「桜子達は… トリか」
「そうですね… 私、もう緊張してます」
やはり雪子も俺と同じような心境であったらしい。
一般開放日となった今日。
周辺住民との交流も一つの目的となっているこの学祭… 開始から数時間経った午前中、田舎の学校にも関わらず校舎の内外は既に人で賑わっている。
それらは恐らく他校生、OBやOG、保護者、地元民であろう。
人の群れを呆然と眺めながら、再びプログラムに視線を落とす。
ーーインディーズシーンを席巻したヘブンズ・ステップスが一日限り、まさかの再結成!
謎の女子高生をボーカルに迎え、未発表の新曲を披露! ここでしか見ることが出来ない一度きりの幻のステージをとくとご覧あれ!
秀逸な謳い文句で書き連ねられた文章。
地元団体、サークルによる出し物のステージ。
それを紹介する行程表には、一番最後の部分にそう書かれた項目が…
「ーー桜子… 凄く緊張してました」
「そうだな… まあ、あいつならやってくれるさ」
桜子、拓也… そして彼らなら。
そう。 そのステージのトリとなったのは桜子達だった。
昨日のリハーサルは上手くいったと聞いたので、きっと今日も大丈夫だろう。
(そうだ… 大丈夫だ)
こうして当日を迎えそれぞれの役目を終えたような立場である俺と雪子は、本番まで時間があるにも関わらず… いても立ってもいられずにここへ来てしまった。
世間では呪いが広まっている訳だが… 俺達は気を紛らわす様に学祭を周っている。
俺達はやる事はやった。だから後は彼らに任せるしかない…
そう思いたい。
それで一旦休憩を入れに校舎内から抜け出して来たという訳だ。
桜子のクラスにもお邪魔したところ、あいつは午後のステージを控えてはいるが、自分のクラスの出し物もあるのでそちらの役目も全うしていた。
確か喫茶店… だったか。桜子は裏方の調理に回っている様で、見かけた時は終始大変忙しそうにしていた。
「ーー上手くいって欲しいですね…」
「成功して欲しい… いや、成功させるしかない」
拓也は桜子の側に付かせていて、メンバーはもう少ししてからライブスタジオで最終調整といった具合だ。
俺達はただの現実逃避で学祭を周りに来たという訳でもなく、桜子を車に乗せてそのスタジオへ送り、調整に合流させる仕事があるのでここへ来た。
調整を終えたら、桜子はメンバーと共に現場入り… という成り行きである。
「ーーやる事はやったはずだ… 後は祈ろう」
拓也と出会い、解決策を模索して、メンバーを再結集させて… それぞれの役目を果たし。
本部からのサポートも受け、皆の力でここまで来た。
どれか一つでも欠けていたら、きっと今日をこうして迎えられなかった。
最善は尽くしたはずだ。後は結果を待つしかない。
「ーーなあ… 現象って、一体なんなんだろうな」
「龍一、さん?」
心の整理が済んで、やけにこびり付いた疑問をふと漏らしてしまった。雪子は突拍子もない事を呟いた俺を不思議そうに見ている。
「ーーああ… 突然変な事言ってすまん」
「いえ… どうしました?」
ーー俺が現象と出会い、それをきっかけに雪子と桜子にも出会って、彼女達の下で働き出してからそれなりの歳月を経た。
仕事を辞め自暴自棄となっていた俺は、それら出会いにより人生がガラリと変わった。
色々な事があった。
そういう出来事を経てから、人生観というものを見つめ直すきっかけを与えられている。
「ーー俺は今まで… 神様だとか幽霊だとか、そういう現象と呼ばれる存在を否定して来た。所詮インチキだろうって」
だが… 否定して来た俺自身が現象という存在と出会ってしまい、そいつらにも人の様に意思があるのを知った。
その上で。
「全部幻とか脳が見せる錯覚とか、それで片付けばまだマシなんだがな…
人間も現象も、もしかしたら変わらないのかもなーー」
人には命があり、魂があり、意思を持つという。
しかし現象と呼ばれるものにも、俺達の様にそれがあるなら。
現象とはどんな存在なのか。
そして一体命とは、魂とは何だろうと… 思春期のガキみたいな事を考えてしまった。
「ーー答えがあるかは分かりません」
校舎を行き交う人混みを見つめたまま、雪子は静かに呟く。
「私達には心があって、理性があって、想いがあります。
現象もそれと似ています…
だから私は、現象はもう一人の私達なのではないかと… そう思っています」
「もう一人の、俺達?」
「はい…
教団が現象を創り出している様に、私達の想いが巡って創り出した新たな存在…
それが現象なのではないかと、私は考えています」
「ーー俺達が現象を創り出している… という事か?」
「あくまでも私的な意見ですので、それが正解かどうかは分かりません。現象には妖怪や幽霊や都市伝説と呼ばれるものなど、色々なパターンがありますし。
けれど… 想う力 は強大でーー」
「ーーそれが意図的に、あるいは知らない間に巡り合って形となったものが現象… という訳か?」
「もしかしたら… ですが。
想う力というものは、良くも悪くも働きます。
現象はその力の負の部分が何らかの形で巡り合い、一つの意識体となったものなのではないかと…」
「想いの力… か」
つまり現象は… もう一人の俺であり、もう一つの人類…
頭が痛くなってきたが、ようは俺達の負の部分が強く働いた結果、現象を創り出している可能性がある。
つまり現象とは俺達の 想いの形 なのではないか。
雪子は現象に対してその様に定義付けているみたいだった。
ーー想いの力。
現象という存在がもし想いによるものだったなら。
拓也は、もしかするとーー
「ーーだから… 私達が強く願えば、きっと今日は上手くいきます」
俺の顔を覗き込む様にして、雪子は朗らかに笑った。
「そうだな… ありがとな」
時に空振って、盛大にこけて、嘲笑される時もあるだろう。
だが… 信じて進んだ者にしか成功は訪れない。
信じる者は救われる… とはよく言ったもんだが、正確に言えば「信じて進んだ者」だろう。
失敗すれば新たに呪いを拡散させるだけ…
だけど信じろ。 俺達は進んでいるーー
「ーーそれから… 龍一さん」
「ん…? どうした…?」
「あなた一人ではありません。
私や桜子、みんながいます。
全てを曝け出せ、という訳ではありませんが…
みんながついています。龍一さんの不安も解消すると強く想えば…
やがて想いは力となり、行動を起こさせてくれるのだと思います。
だから、その為に必要だったら… 私や桜子にも 想わせて 下さい」
聖母の様に包み込む雪子の微笑み。
それはきっと、俺が抱えている問題について気遣ってくれているのだろう。
「いつも迷惑かけてごめんな… 本当にありがとう」
献身的な彼女の優しさが体に染み渡り、やがて全身は満たされる。
ただただ、そんな優しさを向けてくれる事が嬉しく、同時に愛おしくなった。
(ーー絶対、お前を救ってみせる)
雪子が「あれ」を知ってしまえば、そんな愛しい彼女を泣かせてしまうだろう。
だからこそ… 俺が見てしまった真実と、それを解決しようともがく姿を彼女にも曝け出す事が出来ず、ひたすら罪悪感に見舞われるのであった。
「ーー龍一! お姉! ここにいたんだ… 電話出てよ、もう… !」
俺と雪子の間に沈黙が降りようとしていた時、後方から桜子の声が押し寄せた。
「ーーあ…! ごめんね桜子!」
俺と雪子はそれぞれ携帯を確認する。ディスプレイには不在着信の表示が出ていた。
「ーーすまん… 話し込んでて気づかなかった…
ーーてか、桜子… お前その格好ーー」
着信の件で視線は一瞬電話に移されるが、桜子がおかしな格好をしている事に気付き思わず二度見してしまった…
「何よ…! 私は断ったのに、アミとリョウコが、クラスのみんながーー!」
そこに立つのは、いわゆるメイド姿の桜子だった。
コスプレ衣装だろう… フリル付きのヒラヒラなミニスカタイプのエプロンドレス。それからニーハイソックス。
確か先程彼女のクラスにお邪魔した時、ウェイトレス役の生徒の一人がこんな格好をしていたが…
「ステージの準備があるって言ったら、これ着て出てよって言われたの…
変… かな?」
どうやら友達にせがまれたらしい。もじもじと体をくねらせ恥じらう桜子。
「ーーかわいいよ、桜子! 似合ってますよね、龍一さん?」
「あ、ありがとうお姉…」
「そうだな… 変だけど、似合ってる」
「それ、どういう意味よ…?」
「まあ気にするな。似合ってるぞ?
学祭はそーゆーもんだ」
「意味分かんない…」
「ねえ桜子…! 写真撮ろうよ!」
「ええー… 恥ずかしいよ」
「おっ! いいな! 記念に撮ろうぜ!
ーーすみませーん! 写真お願いしてもらってもいいですかー!?」
「ちょっと…! 龍一絶対面白がってるでしょ!」
青春は戻らない。
しかし形として残す事は出来る。
俺は見回りで巡回していると思われる、腕章を付けた教師らしき人に携帯を渡して撮影を頼んだ。
ーー俺達の 想い を。
桜子の青春を形に。
結束した想いは強い力となり、形になって俺達を導くだろう。
勝負を前にした束の間の気休めに、俺の心はわずかばかり救われる。
そうして…
「ーーもうこんな時間か…
桜子、それじゃ行こう」
「うん…」
駐車場となった校庭に停めた俺の車。
「ーーそういえば… 拓也は?」
「ーーおう。ここにいるぜ。
青春ってのは… やっぱり最高だな」
乗車しようとした際に、同時に拓也が姿を現わした。
緊張して不安そうな桜子とは対照的に、桜子の体を借りて歌い上げる拓也本人は、生前に場数をこなしてきた経験からか至って余裕そうだ。
むしろ早くステージに立ちたくてうずうずしている様にも見える。
「よし… それじゃ頼んだぜ。行こうーー」
決戦前。
俺達の想いは一つにまとまり、強固なものとなる。
想いは強い力へ変わり…
ーーそうして俺は… 桜子、拓也をメンバーが待つスタジオへ送り届けた。
「ーーこいつは… すげーな」
「はい… 本部の皆さんのおかげですね…」
桜子と拓也を地元のライブスタジオへ送り届けてから、正午を跨いだ午後。
俺と雪子は再び学校に戻り、適当に校舎を周って昼食を摂った後、発表のステージとなる体育館へ移動した。
移動したその場所で俺達が遭遇したのは、驚くべき光景だった。
ーー人、人、人。
学祭だからと言われれば確かにそれまでだが…
その中でも目立ったのはーー
heaven's steps
と、漆黒の生地に白文字でそう印刷されたシンプルなTシャツ。
それを着た人の群れが続々と、まだ午後の部が始まってさえいない体育館に押し寄せている。
何度目か… 改めて本部の力を思い知らされたと共に、ヘブンズ・ステップスというバンドが持つ力や、いかに彼らがファンから愛されていたかも窺い知れる。
観覧者用に設置された無数のパイプ椅子、ステージに近い部分から既に続々と埋まっていた。
ーー謎の女子高生をボーカルに迎え一度きりの再結成!
といった趣旨の謳い文句は上々な効果を発揮した様だ。
本部の強大なバックアップを受け、このステージの存在は瞬く間に世間に広まったのである。
人は謎が生まれると、それを追求・解明せずにはいられない生き物だ。
そういった意味でも本部によるこの広報活動は、バンドのファンだった人々やそうでない者達でさえも惹きつけ呼び込む事に成功したのだと思われる。
「ーー俺達は… 後ろでいいか?」
「はい。そうですね… あそこら辺にしますか?」
ステージ周辺はごった返すだろうし、かと言って立ち見するのも躊躇われたから、俺と雪子は後方の端の空席に着く事にした。
上手くいく… と自身に言い聞かせるが、これからの事を考えるとどうしても憂いの様な感情が生まれる。
午後の公演が始まるまで、俺達はそんな不安を紛らわすようにあれこれ取り留めのない雑談を繰り返していた…
「ーー大変お待たせしました。 それではもうしばらくで、プログラム通り午後の部を開始させて頂きます」
そうしていると、午後の部の開始を告げるアナウンスが場内に木霊した。
ーー決戦の時は刻々と近づく。
早くその時が来て欲しいが、しかし半分はやっぱり来ないでくれ… そういう矛盾した気持ちを抱えて…
「ーーすみません… 本部に報告を入れてきます」
アナウンスを皮切りにして雪子が席を立った。
(桜子、拓也、そしてメンバーのみんな…)
お前らの想いを届けてくれ。
観客席の俺達に、この国の人々に、世界中に…
天国にーー
教団に、呪いになんて負けるか。
俺達の想いの力を思い知れーー
「ーーうわー… 凄い人ーー」
かつて私の学校の学祭で、こんなに人が集まった事があっただろうか。
少なくとも、去年はこんなに集まらなかった…
バンドメンバーのみんなと拓也を憑かせた私は、ライブスタジオで最後の調整を済ませ、機材を積んだ彼らの車に乗り再び学校へ戻って来た。
午後の公演はちょうどトリ前の休憩時間に差し掛かっている。
この時間の内に、ライブスタジオのスタッフとバンドメンバーが機材を配置し、チューニングを済ませ、本番へ向かうのだ。
私はその様子を横目にしつつ、会場のそれも覗き見た。
(このバンドって、凄かったんだな)
学校に着いて、バンドメンバーを出迎えたのは入り待ちをするファンの群れ。
黄色い声援が彼らを包み、実行委員や警備役らしき生徒が雪崩れ込むファンを必死に抑えていた。
それでもそこをすり抜けたファンの数人が私達を取り囲み、興奮した声を上げる。
「謎の女子高生」だなんて本部や実行委員が勝手に広めたものだから、私にもファンが押し寄せて来て戸惑った…
「ーー桜子ちゃん… それじゃお願いします」
ステージ裏から会場をこっそり覗き、予想を遥かに超えた熱気に愕然としていると、楽器の調整をしていたギター担当の栄吾郎さんがステージ表から歩いてきて、声をかけられた。
それは始まりの合図。
(そうだ… 今の私は 桜子 じゃない)
「ーーお嬢ちゃん。 よろしくな」
振り返ると拓也の姿。
後戻りは出来ない。
これから私は 桜子 ではなく、拓也となる…
私の体を使って拓也は歌い上げる。
他人には私の姿しか見えないだろうけど、彼の魂は、想いは… 私の体に乗り移り、一時的にこの世に現れるんだ…
そして彼は想いを届ける。
呪いを広めてしまった彼が、その呪いを彼自身の手で消す為に。
ーー拓也の最後の願い。
それはいつしか離れ離れになってしまった仲間の心を繋ぎ止め、彼らが共有していたであろう志の下に再び集結させた。
やがてメンバーは思い出すのかもしれない。
在りし日の拓也の姿を。
共有した志の素晴らしさを。
そうして… 拓也は、彼らは上るーー
ーー天国への階段を。
(もう… なんだか呪いだとかそんなものはーー)
どうでも良くなってきた。
いや、そうなっちゃダメなんだけど…
だけど今は、ただただ拓也の為になりたいと、素直にそう感じる。
そして私も、彼らの音楽を純粋に味わいたいと思う…
ーー想いは強い。
きっと私達の、彼らの想いは皆へ届く。
祝福の光は漆黒をかき消してくれる。
「ーーはい… それじゃ、拓也さんを憑かせます」
「ありがとう… 拓也、調整が終わる。お前も準備頼むぞ!」
「ーーああ! 最高のステージにしようぜ…!」
満員と呼べる程の体育館。決戦のステージ。
舞台表からは鳴り止まない声援が…
脈打つ鼓動、迸るアドレナリンは、私の心のリミッターを容易く振り切る。
ーー栄吾郎さんの呼びかけに拓也は応えた。
栄吾郎さんは他のメンバー同様拓也の姿が見えるわけじゃないのに、声も聞こえるわけじゃないのに… 彼らの視線は合っているように、意思疎通が図れているように思えた。
もしかしたら彼らは今、拓也の姿を見ているのかもしれないーー
声援は、叫びは、想いは。
この体育館を蹂躙する。
「ーーあ…! 桜子だっ!」
隣の雪子が反射的に声を上げた。
ーー遂に来たか。
俺達の戦い。
その幕が今、開けられる。
生徒達は桜子の名前を叫び、バンドのファンはそれぞれメンバーの名を叫ぶ。
それは交差し、反響して、この体育館を震わせた。
桜子… いや、拓也が憑いた状態の桜子はそんな観衆に手を振って応え、メンバーもそれに続いた。
そうしてステージを照らす照明が落とされ、演出の為に引かれた暗幕により体育館は薄暗い闇に包まれた…
10月の初めとはいえ、未だに続くわずかな残暑。
それと熱気が相まって、観衆のボルテージは最高潮に達していた。
「ーー桜子…! ビデオ撮っちゃお!」
「ーーゆ、雪子…!?」
熱気に当てられたのか、雪子は携帯のビデオを起動して、ぴょんぴょんと跳ねながら手を伸ばし晴れ舞台を映像に収めようとしている。
まるで本来の目的を忘れた様に、今の彼女は無邪気な子供さながらだ。
(まあ… いいか)
いや、良くはないのだが…
しかし観衆は、皆の顔には負の面影など微塵も存在しない。
ーーこれならいける…
俺も羽目を外して弾けてやるか?
その方が呪いに効くかもしれないしな…
ーーやがて声援が止み、完全なる静寂が訪れた。
今か今かと、観衆は爆発の時を待っている。
ふと周りを眺めていると、館内の隅やステージ前には…
(ーーカメラマン…?)
そういう事か…
ーー面白くなってきた。
テレビの撮影に使うような大柄なビデオカメラを背負ったカメラマンが、いつしか数人配置に就いている。
多くの者に見て、聞いて貰えればその分効果はデカいだろう。
これも本部のバックアップか、それとも単に嗅ぎつけてきた者か。
どちらにせよ、これは良い兆候。
失敗した時には大変な事になるだろうが、何故か失敗するなんて危惧はここにきて不思議と存在していない。
舞台は整った。完璧に。
俺も熱気に当てられたのか、鼓動は強く跳ね、本来の目的を考えると場違いかもしれないが、面白いと感じてしまう。
ーーさあ、俺達の、お前達の想いを届けてくれ。
かき鳴らされるギター。
それを整え厚みを与えるベース。
リズムをリードしていくドラム。
一体となったメロディー。
やがてステージに当てられるスポットライト。
どこまでも響き渡る音と、それに負けじと生まれる歓声。
「ーー長らくお待たせしました…!
ヘブンズ・ステップスです!」
ーー観衆の目にはどう映っているだろうか。
スポットライトに照らされたステージ。
その上に立つメンバーと、拓也が憑依した状態の桜子。
姿や声は桜子そのものだ。
しかし今あの場所に立っているのは 桜子 ではなく 拓也。
彼の魂はここに現界したのだ。
「ーーのっけから新曲行きます!
聞いて下さい!
新曲、heaven's stepsーー」
観衆の目には桜子が歌う姿が映るのだろう。
しかし見えねども、拓也の魂は桜子の体に宿り、彼女の体を代わりにして自身の想いを歌い上げるのだ。
ちらりと雪子を見ると、偶然目が合った。
彼女は何も言わず微笑みながら首肯する。
雪子も、恐らくそれを感じ取っているだろうーー
やがて拓也が憑依した状態の桜子は俯かせた顔を上げ、マイクスタンドの前に立った。
ーー今、メロディーに声がのせられる。
やや速めなミドルテンポで始まった新曲、heaven's steps
一定のテンポを保ったままメロディーは展開して行き、そこに伸びやかで心地よい歌声が合わさって調和が生まれる。
儚さの中に凛とした強さも持っている様なメロディー、それに乗って響く歌声。
(ーーよし…! 出だしは好調だ)
このまま何もパニックが起きずに終わってくれ…!
大丈夫だ… 大丈夫だ…
ビデオを撮りながら見届ける雪子も先程のはしゃぎ様とは一変して、表情は真剣そのもの。
やがてメロディーはサビに向け疾走し始める。
ミドルから、アップテンポに変わっていく。
腕を振り熱狂し、音楽にのる観衆。
(大丈夫だーー)
上手くいく。
駆け出したメロディーは、やがてサビへ向かって。そして…
「ーー舞い上がれ ヒラリヒラリとーー」
ーー来た!!
サビに入り、感情が、想いが爆発する。
それは大気を震わせ体育館を揺らし、どこまでも響いて観衆の心も動かす…
ーーはずだった。
「ーークソ…! どうなってる…!」
ーー初めに、演奏していた楽器が急に止まる。
「ーーやっぱりダメなのか…!」
ーー次に、照明が全て途絶えて薄暗い闇がやって来た。
「ーーこれは一体…!」
ーーそして最後に。
「ーーこれってまさか…」
「ーー何か怖いよ…」
「ーー呪いの歌…!」
「ーー嘘でしょ…!? 待って! 何か変だよ!」
「ーーキャアアアアアアア!!」
突如訪れた異常、非常事態に、観衆はザワつき、どこからか悲鳴が上がる。
ーー突如発生する集団パニック。それを引き起こす呪いの歌…
「ーーそんな… 嘘だろ」
前日までは大丈夫だったのに。
俺達の努力は、想いは…
ーー呪いに負けたのか。
ーーパニックはいとも容易く伝染する。
ひとたび誰かが混乱し悲鳴を上げれば、後はもう連鎖式だ。
「誰か助けて!」「ヤバいよ!」「誰か救急を呼べ!」「助けて苦しい!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。
最悪の事態を起こしてしまった…
「ーーそんな馬鹿な」
どうして…
どうすれば。
俺達のせいで… 何かしないと…
救急か…? 対策室を…! いや、それは俺達か… なら本部に… いや、警察か…?
地獄の戦場。群衆は狂乱し、逃げ惑う者達は体育館の出口へ向かおうとする。
土石流の様に流れる群衆に揉みくちゃにされていき…
ーー俺の思考は遂にストップした。
頭の中は真白で、やがて耳鳴りと共に周囲の雑音が遠くなって。
「ーーもう…」
おしまいだ。
呟いた言葉はこもって、エコーみたいにいつまでも響く。
何も聞こえなくなった世界で、ふと隣を一瞥した時。
ーー大丈夫です。
無音の中で、俺の手に温もりが訪れた。
俺の手を握る白く透き通った綺麗な手を辿ると、その先には。
何かを呟いた様に口を動かした雪子が、優しく微笑んでいた…
少し風が吹いた様な気がして、そしてまた耳鳴り…
消えていった音が徐々に取り戻されていって。
雪子は微笑みながら、ステージの方にゆっくりと顔を向けていく。
それに釣られて、俺もステージへ視線を向けた。
ーー拓也だ…!
消えていた照明が突然復旧し、ステージ上を照らす。
それと同時に俺の聴覚は完全に蘇って、群衆のどこかでそんな叫びが上がったのを捕らえた。
混乱や悲鳴はその時にはピタリと止んでいて、群衆の動きも同様に止まっているみたいだった。
場内にいる全ての者の視線は、恐らくステージ上に釘付けになっている。
そう…
ーー復旧したスポットライトに照らされたステージ上には、拓也が…
拓也そのものが立っていたーー
「あれ拓也じゃね!?」「嘘…! 亡くなったはずなのに」「拓也… 本当に拓也なのか!」「拓也…! 拓也がいる!」
夢か幻か。
拓也が憑依した状態の桜子がそこにいるはずなのに。
俺の目には… いや、この場にいる全員が今見ているのは。
拓也… 彼がステージに立っている姿。
「ーー俺のせいで… みんな、ごめんな」
マイクにのった拓也の声は、静寂に包まれた場内に静かに響く。
「拓也…!」「本当に拓也なの!」「会いたかったぞ! 拓也!」
彼の声にファンが次々と応える。
さっきまでこの場所を騒然とさせていたパニックの数々は、まるで嘘だったかのように静まり返り… 完全に沈静化していた…
出口方向に流れていた群衆は、拓也に引き寄せられる様にしてステージ方向へぞろぞろ戻って行く。
「ーー急にこの世からいなくなっちまって、色々な人を悲しませ… 迷惑かけた」
一人語っていく拓也。
「ーーだから… これは俺が出来るせめてものお詫びと、愛してくれたみんなへの最後の、俺からの感謝の贈り物だ…
だから、どうか聞いてくれ。
これは呪いの歌じゃない… みんなへの感謝と、祝福のーー
ーー幸せの歌だ!」
ーーやがて場内に歓声が轟いた。
「ーーもっかい行くぜ! 天国からの贈り物だ! 聞いてくれ!
heaven's stepsーー」
桜の季節に 僕らは出会い
さだめを知って 微笑みかけて
暑い季節に つぼみを咲かせ
秋には実り 胸にしまって
凍てつく季節は 長く長く
凍える夜は 暖め合おう
そしてまた桜が咲けば
想いは巡り 巡るから
舞い上がれ ヒラリヒラリと
散る花びらは いとしめやかに
永訣の朝に 飛び立ち
君のもとへと 舞い降りてゆく
想いの力は千里を超えて。
それはやがて天国への階段を上り、この世界に祝福の鐘を鳴らす。
新曲の演奏が終わり、鳴り止まない拍手喝采。
パニックなど、混乱など、呪いなど…
そんなものは、もうこの場所には存在しなかった。
拓也の名を叫ぶ声が次々と上がり、彼は満悦した様な表情でそれに手を振って応える。
「ーーやった、やった… んだよな!?」
「ーーはい! やりました! やった…!」
終わる事なく渦巻く喝采の中で、俺と雪子は思わず手を取り合って、年甲斐もなくはしゃぎ喜んでいた。
すると。
ーーまた新たな歓声が生まれ、空気を振動させる。
空太がドラムを叩いてリズムを作り、そしてシンバルを鳴らした時。
かき鳴らされる栄吾郎のギター。
二つの音が合わさって、次に尚也のベースの重低音が響いた。
そして。
「ーー時間がないから次で最後だ!
本当に、本当にありがとう!
最後はあの曲だーー!」
今度こそ… 感情が、想いが、全てのものが爆発して。
最後の一曲… 恐らく彼らの代表曲でステージは締めくくられていったーー
「ーー今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ、最後を綺麗に締めくくる為の舞台を用意して下さって、ありがとうございます…
疑ってすみませんでした」
「いえいえーー」
ーーかくして、ヘブンズ・ステップスのラストライブは幕を閉じた。
大盛況、惜しみない拍手に迎えられながら舞台を降りた彼ら。
奇跡は現実のものとなり、祭りの後。
余韻冷めやらぬ中、夢か現か、更なる不思議な出来事が起きた。
全ての曲を演奏し終え、メンバーがそれぞれ観客に向け礼をしていた時、スポットライトが再び消えた。
すぐにそれは復旧したのだが、復旧して照らし出されたステージには桜子が立っていて、拓也本人の姿はなくなっていた。
「ーー妖術により憑依させている時には意識等は共有されていて、いわば三人称視点で自分が自分を見ている様な状態にある。
あの時私は拓也を憑依させ、憑依された私が拓也の意思で動き、歌を歌っていた事は紛れも無い事実よ」
とは桜子の談であるが、それなら俺達があの時ステージ上で見た拓也は一体…
普通の人間には拓也の姿は確認出来ないし、声も聞こえない。
だから桜子に彼を憑依させて、桜子の体を借りた彼が歌い上げる事で、己が拡散させてしまった呪いを彼自身の手により消す… というのが今回の作戦だった。
拓也は桜子に完全に憑依していたのだから、見える俺達でさえもそうなってしまえば桜子の姿しか確認出来ない(拓也に憑依された桜子… 外見や声は桜子のまま。拓也の意識が入り込んで、彼の意思が主導になり動くという状態)
だから拓也そのものの姿が見えたのはおかしいはず。
だが、パニックの後ライトが点いて現れたのは拓也本人だった…
(あれは一体…)
あの時確かに俺達は… 観客でさえ拓也の姿を見ていた。
それが演奏が終わった時には消えて、桜子の姿に戻っていたのだ。
ーーそして俺達は一旦咲夜家に戻って来た。
ライブが終わり学校から撤収、レンタルしていた機材をスタジオへ返却したメンバーと咲夜家で合流して、俺達は別れの挨拶を交わしていたのだが…
ーー肝心の拓也の姿がない。
メンバーの話によれば、彼らもあのステージで拓也の姿を見たらしい。
皆口を揃えて「拓也が現れた」「拓也が歌っていた」と言っている。俺達同様、ライトが復旧し再びステージが照らされた時から見ていたようだ。
憑依されていた桜子は、気付いたら意識が完全に戻り憑依が解けていて、その時から彼はいなくなっていたとの事。
「ーーなんだか、あいつらしいな」
栄吾郎が呟く。
他のメンバーもそれに頷いた。皆一様にどこかやり切った表情で、達成感に満ち溢れている。
「あいつと出会って、バンドを結成して…
いつも、今回だってあいつに振り回されてーー」
「ーーでも… それがスゲー楽しくてーー」
きっと今、彼らの瞼の裏には在りし日の拓也との瞬間が浮かんでいるのだろう。
「ーーあいつとまた、音楽してぇな」
ポツリとメンバーの輪からそんな呟きが漏れたのを最後に沈黙が訪れる。
そうして。
「ーーそれじゃ… 私そろそろ戻らないと」
学祭から抜け出して来た形の桜子。まだ学祭自体は終わっていないのでそろそろ戻らないといけないのだろう。
「ーー皆さんにはなんとお礼を申し上げればよいか…
本当に、本当にありがとうございました」
締めの言葉を雪子は述べる。
(拓也… あいつ)
「こちらこそ… あ、そういえばーー
ーー呪い、でしたっけ? その件については…」
「そちらについては、恐らく解決の方向に向かっているかと思います…
皆さんがいなければどうなっていたか… 無理な願いを聞いて下さって、深く感謝しております」
綺麗に頭を下げる雪子。
本題である、歌にかかった呪いの問題が解決したかはまだ分からない。
一瞬ではあるがパニックを起こしてしまったので油断は出来ないが…
しかし最終的には大団円の内に収まったとも言えるのではないか。
まだ反応が形として出ていないので分からないが、ともかく呪いによるパニックの出現報告が今後一切なくなれば俺達の勝ちだ。
新曲披露後の観客の反応を見れば一目瞭然だろう。
きっと大丈夫だ…
「ーーそれじゃ俺達はこれで… 泊めて頂いたり、何から何まで本当にお世話になりました」
「こちらこそ… 今回は本当にありがとうございました。
後日にささやかではありますが私達からのお礼をお送りしたいので、追って連絡致します」
「いえ、お礼だなんてそんなーー」
(拓也… あんたはこれでいいのか?)
あいつら、行っちまうぞ?
もしかして、消えちまったのか?
恐らく… 拓也が姿を見せれば俺達は彼を封印しなければならない。
痛みが伴う決断。
(現象は危険な存在)
一段落して気を休めると、またあの問題が顔を覗かせ始める。
あんまりだ… このまま拓也が現れない方が…
その方がいいのかもしれない。
重い決断を前にして逃避行動に出てしまう心。
「ーーそれでは、またいつか…
お邪魔しました」
「本当に、本当にありがとうございました。後日連絡させて頂きますーー」
気付くと彼らは仕事部屋を出て、雪子と桜子は感謝の言葉をもって玄関まで見送って行く。
我に返ってその背を追いかけた。
「ーー本当に、素晴らしい音楽をありがとうございました!」
そう言えば、俺からはまともな礼をしていなかった。
気付いて、慌てて感謝の言葉を告げると、彼らは振り向いてそれぞれ応えてくれる。
そして玄関の扉は開け放たれたーー
日差しが差し込み、彼らの背に影が落ちる。
眩しさに目が慣れて、庭の風景が明瞭になった時…
「ーー拓也」
メンバーの歩みが止まった。
彼らの数歩先には拓也が立っている。
どうやら彼らには、拓也の姿が見えているようだったーー
「ーーよう。 最高なステージだったぜ。ありがとな」
庭に立っていたのは拓也だった。
「ーー拓也… お前…」
彼の存在は薄くどこか儚げに見える。
しかし、今この世に存在しているかの様にも見えた。
「お前達のおかげで、俺は最後の望みを果たせた。
形として残せた。これで満足して逝ける…」
その顔は朗らかで澄みわたっている。
「俺達の方こそ… ありがとう」
何か言うべき言葉は沢山あるのかもしれない。
しかし、千の言葉よりーー
「ありがとう」
「やっぱお前は最高だぜ」
「また一緒にやりてえな… 本当に最高だった。お前のおかげだ」
ありがとう の一言に全ての想いが込められる。
それが彼らの絆なのかもしれない。
俺は思い知らされた。
いかに日々を無感動で過ごしてきたのかを。
俺は思い出した。
信じる事の大切さを。気持ちが持つ温もりを。
想いの力は強い。
内に込められた想いは力となり、人を動かす。
上っ面で並べられた幾つもの言葉よりも、想いが込められたその一言は遥かに重かった。
無駄な言葉はいらない。
気持ちが人を動かすのだ。
ありがとうにありがとうと返す事がどれほど大変か。
それを可能にするのは想いの力であったのだ。
「ーーこれで解散… だな」
笑顔のまま、拓也はさっぱりと言い切った。
別れはいつかやってくる。
俺達は俺達の道を行く。それは彼も同様であり…
(雪子…)
ふと雪子を見た時、俺に背を向ける彼女の両手には、メンバーから見えないようにして聖典が握られている。
最後の一瞬…
「ーーまー、あれだ! 俺は多分…
そう、天国の階段をお先に上ってるぜ」
「拓也…」
「楽しかったぜ! どうなるか知らんけど、お前達を上からずっと見てるかんな!」
「ーーああ」
「こっちに来たらまたバンドやるか!」
「ーーなんだよそれ… ああ… そうだな!」
「おう、そうだ! 俺は消えない。
俺は曲の中に、音楽の中に生きる。
だから消えない。お前達の中にいるって事よ」
「ーーああ!」
惜別の時を見届ける。
「何で泣いてんだよ… お前らはよ」
「泣いてねぇよ」
出会いがあって、時にすれ違って。しかし再び絆を取り戻して。
そして別れがやってくる。
誰もが分かっていて、だけど分からない様にしているもの。
ーー拓也がこちらを一瞥した。
それに合わせて雪子が聖典を掲げる。
「じゃあな、お前ら。頑張れよ」
別れはやって来る。
確実にやって来る…
しかし、別れがあるからこそ俺達は今を色濃く生きる事が出来る。
それは誰にでも平等に与えられた唯一の特権。
ーー雪子は聖典を開いた。
その時。
「ーーどうやらお迎えが来たみたいだな」
「ーー拓也…!」
ーー拓也の体が独りでに淡くなり消えていく…
「ーー雪子」
雪子に呼びかけると、彼女は振り向いて首を横に振った。
雪子は詠唱していない… ということは。
これは一体…
「ーーナオ、女遊びは程々にな」
「うるせー… 待てよ、逝くなよ…」
「ーー栄吾郎、あの時は悪かったな。お前のギターは最高だぜ」
「それは俺だって悪かった… それより… 待ってくれ…!」
「ーー空太、お前は早く彼女の一人でも作れよ」
「余計なお世話だ… 拓也が戻って来てくれたら考えてやる… だから逝くな…!」
拓也の体は光る粒子となって足元から消えて行く。
まるで後光が差しているかの様な、神聖な光景。
不思議で儚げな淡い光を放ち拓也は消えていく。
粒子は空中に漂って、やがて大空へ舞い上がる。
ーーheaven's steps
天国への階段を上って行く。
「ーーじゃあな」
下半身は完全に消えて、そうして上半身も淡くなり消えていく。
満面の笑みで… 全てを知り悟った様な、曇り一つない笑顔で。
「ーー拓也…」
彼は完全に消えていった。
後に残った静かな余韻と、彼の温かな想い。
彼の最後を看取って、俺達はしばらくその場に立ち尽くしていた。
天国って世界があるかは分からない。
俺達が死に対する恐怖を和らげる為に作った幻想かもしれない。
だけど拓也は大空へ舞い上がって行った。
彼は消えたが、彼の想いはここにある。
皆の心の中にある。
彼はこれからも生き続ける… 心の中に、音楽という世界、音楽という天国の中で。
呆然と立ち尽くし空を見上げる俺の内には、彼の最後の言葉がいつまでも響いていたーー
「ーーおはようございます」
「おはよう雪子」
10月も中盤、ある日の朝。
いつも通り朝食を作って、仕事部屋にいる雪子を呼びに来た。
桜子はどうやら中間試験期間に入り、試験一日目らしい。試験範囲の最終確認をしたいとかで、いつもより早く家を出て行った。
まあ… どうやら彼女は成績優秀な方であるみたいなので、こちらが余計な心配をする事ではないだろう。最後まで気を抜かず確認を怠らない様にしているみたいだ。いわゆる模範生徒ってとこだな… ああ見えて。
「ーー朝食が出来たぞ」
「ありがとうございます。今行きますね」
今となっては飯くらい自分で作れよ… なんて思うかもしれないが、これも俺の仕事の一つだ。
桜子はともかく、雪子は「さすがに悪いので自分で作ります…」とは言ってくれたけど、まあ… ついでってやつだ。
彼女達に急遽依頼が入ってもすぐに対応できるように、その為の手伝いだ。
飯を作るのもそれの一つ。
さすがにもう慣れた。そんなこんなでいつも通りにこうした訳だが。
「ーー雪子、珍しいな」
どうやら朝一で業務の確認をしていたらしい。
いつもなら静かに作業している彼女であるが、俺が部屋に入って来て見たのは、デスクチェアに座りBGMを流しながらPCを確認する彼女の姿だった。
「ーーはい。近くのレンタルショップにはどこにも置いてなかったので、通販で買ってしまいました」
「ああー… 何日か前に来た宅配はそれだったのか」
「ーーはい」
少し恥ずかしげに頷く雪子。
「いい曲だな… もしかしてーー」
流れているBGMは、しっとりとしたバラード調のものだった。朝のひとときにはピッタリとも言えるナンバーである。
そして、どこかで聞いた様な歌声ーー
「ーーはい。これです」
そう言う雪子は、流しているCDのジャケットを誇らしげに掲げて見せた。
ーーheaven's steps
ジャケットにはそう表記されている。
「なるほどな… 俺も気になって探してたんだが… 確かにレンタルショップに置いてなかったわ…」
「ーー私はもうプレーヤーに入れてあるので、良かったら聞いてみますか?」
「本当か…! それじゃお言葉に甘えてーー」
ーー呪いの歌、その現象の一件は無事に解決した。
学祭のステージ、一時はパニックが発生したものの、それを乗り越え大盛況のうちに幕を閉じた。
そして拓也は使命を果たした様に、独りでに消えていったのだ。
バンドメンバーもそれを見届けて、名残惜しさは拭えなかったみたいだが、最終的には晴れ晴れとした様子で帰って行った。
一連の出来事を経て、時は流れる。
その後どの支部からも… 本部からも呪いによるパニックが発生したという報告はなく、あの日を境にピタリと止んだ。
俺達の、彼らの、拓也の想いは呪いを打ち消したのだ。
呪いの歌 はこうして 幸せの歌 と認識され、人々に広まった。俺達の作戦は成功したのである。
そして。
「ーーそれと龍一さん、これを見て下さい…!」
少し興奮した様子で、雪子はデスクから一冊の雑誌を手に取り、あるページを開いて渡して来た。
それを受け取り、冒頭からぶつぶつと流し読みしていく。どうやら音楽雑誌であるらしかった。
「ーーこれは… ほうほう。
スゲーじゃねぇか…!」
ヘブンズ・ステップス、再結成と共にメジャーデビュー決定!
伝説となった学祭ライブ、そして再結成までの道のりを徹底インタビュー!
ーーそのページは、学祭でのライブの写真と共にそんな見出しで派手に飾られていた。
数ページに渡り書き連ねられた記事を読み進めていく。
「ーー電撃的だな。まあなんにせよ、なんか嬉しいな…」
「はい…!」
ヘブンズ・ステップス。
あのステージを経て、彼らは再結成した。
ボーカルを栄吾郎がギターと兼任で務めるようだ。
どうやらあのステージが様々な人の目に留まり、結果大手レコード会社との契約が決まったらしい。
まさかの… 本当に奇跡的であるが、しかし身内ごとの様に大変喜ばしい。
この雑誌から見ても分かるように、学祭でのステージは様々な反響を呼んだ。
例えば… どうやって嗅ぎつけたか分からないが、桜子の下に多方面から連絡が寄せられた。情報漏洩だか特定班がいるのか知らないが恐ろしい…
それは学校新聞の記者から始まり、ヘブンズ・ステップスのファン、地元新聞社、音楽雑誌の記者など様々で、桜子が一体何者であるか、バンドメンバーとはどのような関係か… そういう質問が彼女のSNSアカウント等を通じて押し寄せて来て、本部の助力により火消しは済んで現在は沈静化したものの、彼女はしばらく参っていた様子であった(恐くなってアカウントを削除したようだ)
そうして世間では桜子の正体は謎に包まれ(バンドメンバーの友人、親戚、友人繋がりという説に収まった様だ)、その謎は新たな謎を生み…
ファンやメディアの間で、「死んだはずの拓也が現れた」という都市伝説じみたものが囁かれる様になった。
その都市伝説は波紋を呼び、大々的に取り上げられる事となる。
ワイドショーのエンタメコーナーでも、やれ「拓也が天国から舞い降りた」だの、「天国からの贈り物」だの様々な尾ヒレが付いて報道され、その都市伝説の検証までされた。
結果、伝説を作り世間に注目されたヘブンズ・ステップスはメジャーデビューに至ったという訳だ。
「本当に良かったですーー」
きっと伝説はあの場にいた者の間で、ファンの間でこれからも語り継がれることだろう。
(良かったな、拓也)
あんたはそいつらの中でこれからも生き続ける事ができる。
「ーーああ、良かった… とりあえず飯にするか」
「ーーはい!」
朝食を済ませ、片付けしてからいつも通り仕事に取り掛かっていた時であった。
庭に郵便配達員が乗り込んで来て、ポストに郵便物を投函したのを窓越しに確認する。
すかさず一階に下り、玄関を出てポストを開けた。
ーー誰からだろう。
茶封筒には「咲夜 雪子様」とボールペンで書かれていた。雪子宛の手紙らしい。
彼女に渡す為、俺は仕事部屋に向かった。
超自然現象対策室並びに雪子様、桜子様、龍一様へ。
先日は大変お世話になりました。皆様が素晴らしい舞台を用意して下さり、そのおかげで私達ヘブンズ・ステップスは再結成する次第となりました。
何から何まで助けて頂いて、なんとお礼を申せばよいか、深く、深く感謝しております。
何も返せず本当に申し訳ありません。
拓也はいないですが、彼が天国から応援してくれていると信じてこれからはより一層精進し、また、厚かましいようで大変恐縮ですが、それが皆様への恩返し、その唯一の手段と思っています。
もし何かの機会があり、皆様が私どものライブに来て下さる際には、チケットをこちらで確保しお渡ししますので、是非その時は連絡を下さいーー
封筒を雪子へ渡し退室しようとした俺であったが、彼女に呼び止められた。
雪子が封筒を開けて白い紙を取り出す。
茶封筒の中には、そう書き連ねられた手紙が入っていたのだ。
雪子が一連の文章を読み上げてくれる。送り主は ヘブンズ・ステップス一同 とあった。
「ーーお手紙までくださって、本当に嬉しいです」
全て読み終えた後、雪子はそう言って手紙を大事そうに胸に抱えた。
「そうだな…
ーー天国から見ている。なんてあいつは言ってたが…」
消える前の拓也が思い出される。
「ーーなあ雪子」
「ーーはい?」
それから以前に雪子が語っていた話も浮かんで来た。
「前に、現象は俺達の想いが集まって出来たものなんじゃないかって雪子は言ってくれたけど、もしかしたらーー」
現象の一部は俺達の想いが創り出した存在であるなら。
霊として現れた拓也の存在も…
「ーー俺達が見ていた拓也は、あいつがこの世に残してった想いか、もしくはバンドメンバーのそれが形となって現れた存在なのかもな」
つまり、もしかすると俺達が見た拓也の姿は霊という存在ではなく、彼がこの世に残していった未練、想いが作り出した幻影なのではないか。
もしくは、バンドメンバーの「もう一度皆で集まって音楽がしたい」「拓也に会いたい」などの強い想いが働いて作り出した存在か…
そういう想いが合わさって、拓也の幻がこの世に現れたのかもしれない。
「ーーそうですね… もしそうであるなら、きっと拓也さんの想いが私達やメンバーの皆さんを導いてくれたのではないでしょうか?」
「そうだといいなーー」
想いが形となって拓也の幻が現界し、それを見つけた教団が悪用したのか… 答えは闇の中。
しかし拓也の想い、メンバーの想いが繋がって、願いは現実となり果たされたのだ。
(想いの力…)
人を呪わば穴二つ。想いの力は良くも悪くも作用するって事だな…
「想いは巡る… か。
ーーそういえば、あの新曲は発売されんのかな…?」
「発売に向けレコーディングする計画がある… と手紙に書いてあります」
「おお。ちゃっかりPRして来るとは… ハハ… 出来たら寄越せとでも返信してやるか?」
「それ、いいですね…!」
いたずらを思い付いたガキみたいに、俺と雪子は笑い合う。
ーー確かに「天国からの贈り物」だったのかもしれない。
皆が想い、願った結果天国の拓也から送られて来た奇跡、チャンスという名の贈り物。
それは離れてしまった心を呼び戻し、再び繋ぎ合わせた。
「ライブが決まったら、行ってみるか? 三人で」
「はい、行きたいですね! 行きましょう!」
ーー想いは巡る。
単なる希望的観測かもしれないが… この世界が良き想いで満たされたならきっと、それは幸せや喜びという形となって俺達に返ってくるのかもしれない。
(湧き出る感情にもう少し素直になって生きてもいいのかもな)
泣きたい時は泣いて、怒る時は怒って、笑いたい時は笑う。
そんな当たり前がいつしか当たり前でなくなっていき、どこか抑え込んでしまう俺達。
あまつさえ見て見ぬふり、無関心、無感動… 長方形のディスプレイに縛り付けられている。
だからもうちょっと素直に感情を表して、お互いをさらけ出して、最終的に分かり合えれば。
そうすれば理想的な想いが生まれ、それは巡り巡ってこの世界を満たすのだろう。
些細なきっかけでも人は変われる。
そのきっかけが、拓也からの贈り物だったのだーー
「龍一手紙来てるわよ」.
咲夜家での仕事を終えて帰宅した。
拓也の一件以降依頼は来ていないので、いつもと同じ時間に終業し帰って来たが、二階の私室に行く前に母から呼び止められる。
(手紙…? 誰からだーー)
知人であればメールで事足りるはず。わざわざ手紙を寄越すとなると… もしかしてヘブンズ・ステップスのメンバーからか? いや、実家の住所なんて教えてないしな…
憶測を巡らしながら私室に入る。
「ーー龍一様お疲れサマンサ!」
「それもう古いぞ… てか毎回思うけどお前現代に馴染み過ぎじゃないか…?」
毎度ながらどこから侵入したのかヤエがいる。
もうさすがにつっこむ気も失せた… この光景に慣れてきた自分が情けない。
「今回は何だかだいぶ難航していたみたいだけど、解決して良かったわね」
「まあな… 難航というか賭けみたいなもんだったけど、奇跡的に事が運んだって感じだな」
一時はどうなるかとヒヤヒヤしたが、今回も無事に問題を解決出来た。
「ーーそれは手紙?」
「ーーああ… そうだった」
ヤエの相手をしていて手紙を開封するのを忘れていた。
「神山龍一様」と手書きで書いてあるが、バンドメンバーからとも考えられないし… 一体誰だ…
(そういえばーー)
ヤエに伝える事があったんだったな。
緊急なら電話で寄越すのだろうし、開封を急ぐこともないか。
「ーーヤエ、そういえば…
日曜に打ち上げやるんだが、お前も来るか?」
「打ち上げ…?」
そう。手強かった今回の問題であるがなんとか解決する事が出来た。
それで解決祝いということで、「お疲れ様でした」の打ち上げをする事にしたのだ。
桜子の方は学祭の打ち上げがあったようだが、それとこれとは別… ってことで。
俺達も俺達で何かしたかったし。
まあ、打ち上げを計画するくらいに今回は肉体的にも精神的にもとりわけキツかったってわけだ。
だからたまにはヤエも誘ってあげようかなと思い至った訳である。
「私も参加していいの?」
「ああ… 旅行の埋め合わせってわけにもいかないだろうけどな。
人数は多い方が楽しいだろ?」
想いや感情が創り出した存在… 現象がそうであると特定できるわけではないが、だとするとヤエはどのような存在であるのか。
「ーー本当に…!?
やった! 龍一様愛してるぅぅぅぅぅーー」
「ーーやめろ! 離れろ…!」
だが、こいつがどんな存在であろうと。
(じゃあな。お前らーー)
ここに存在している者同士、今を生きよう。
拓也の最後の瞬間が脳裏をよぎって、そんな感情が生まれる。
与えられた時間を精一杯。人間いつ死ぬかなんて分からない。
何十年後か、何年後か… それとも明日かもしれない。
だから俺達は「想い」を大切に、そしてそれにできるだけ素直でいるべきだ。
一難は去ったが、しかし解決しなければならない問題はまだある。
ーー夕月のこと、雪子のこと。
目をつぶっていたくなるが、見過ごせるような問題ではない。
大切な人の為、約束した人の為。
ーーそして俺は思いつく。
今回の問題のように、現象が人から人へ乗り移ることがあるなら…
(夕月や雪子の体内に閉じ込められたであろう現象もーー)
ーー 移すことが出来る のではないか。
楽しむ時は楽しみ、そして切り替えよう。
大丈夫だ… 奇跡は起こせる。
今回だって出来たじゃないか。
だけど俺一人の力はたかが知れているし、一人ではそれは起こせないだろう。
みんなの力で…
皆の力を合わせるしかない。
正直に全てを打ち明けるしかないのだろうか…
ーーやがて嬉々として化狸の尻尾をはち切れんばかりに振っていたヤエがどこかへ帰って行った後、俺は誰かからの手紙を開封した。
五章・終
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