男「安眠スイッチ」(116)

安眠スイッチ。

それは小さな都市伝説から始まった。

『とある医者が開発したもの』で、そのスイッチを押せば『安らかに眠るように死ねる』そうだ。

お金を積めば手術をしてもらえる。

首の後ろに神経とつないだ小さな装置を埋め込み、それに対応するスイッチを受け取る。

名刺入れほどのサイズで、ロックがかかっており、パスワードを入力して起動する。

一瞬で極楽へ行ける魔法のスイッチ。

痛みはない。

そんな夢のような都市伝説。

誰も本気にしてはいなかったが、もしそんなものがあるなら、と空想する者は多かった。

その噂の出どころは様々だった。

刑事の知り合いから聞いた。

医者の知り合いから聞いた。

ネットで見た。

最近ニュースになった不審死の若者の手にスイッチが握られていたらしい。

などなど。

安眠スイッチの存在が広く知られるようになったのは、あるネット中継が始まりだった。

この一件で、安眠スイッチは都市伝説ではなく実在する、という認識が広まった。

『安眠スイッチによる自殺を生中継します』

そんな不気味な催しが、とある深夜にネット上で行われたのだ。

少年がPCに設置されたカメラの前に座っている。

取り立てて特徴のない、ごく普通の少年だった。

みな興味本位で集った。

否定的なコメントも数多く寄せられた。

「どうせインチキに決まってる」

「最後は『やっぱり死ぬのやめます、みんなありがとう』でエンドだろ?」

「本当に安眠できるのか? 血がぶしゃーなスプラッタとかにならないか?」

「期待」

「支援」

「早く死ね」

みんな好き勝手な言葉を投げかける中、その少年は無表情で丁寧に返事を返していた。

「手術はどこで?」

『それは……ちょっと詳しくは言えません』

「いくらかかったの」

『だいたい百万円です』

「そんな金があんなら死ぬ必要ねーじゃん」

『大金がかかってでも、やり直したいんですよ、人生を』

「死んだら生まれ変わる保証なんてねーぞ」

「自殺したら地獄行きだろ、どうせ」

『でも、楽にこの人生を終わらせられたら、と思いまして』

壮絶ないじめ体験の告白と、細部をぼかした「都市伝説の裏側」談が、見る者を夢中にさせた。

やがて少年が指定した時間が来て、少年はスイッチに指をかけた。

『百万円で、安眠が得られること、証明できたらいいですね』

少年は一切の不安を持っていなかった。

多くの人間が見守る中、少年はスイッチを押した。

『おやすみなさい』

そう言って、少年は画面の向こう側でうつぶせになった。

本当に、居眠りを始めたようにしか、見えなかった。

少年は最期の瞬間まで笑っていた。

その笑顔が、見る者すべての脳裏に焼き付いていた。

次の日の朝まで、その中継は続いていた。

じっと動かない少年。

窓の外が明るくなり、小鳥のさえずりが聞こえてくる時間になった。

「どうせ寝ただけだろ、俺も限界、寝る」

「突然起きだして俺たちを驚かせるオチに1000円かける」

「時間の無駄だったな」

「そのうち中継が切れて、ハイおしまい、だろ」

そう言って視聴者はどんどん減ったが、それでも最後まで見続けた者たちがいた。

そして、扉から彼の母親らしき女性が入ってきたことで、状況が動く。

『またこんなところで寝ちゃって……だらしないんだからもう』

『ほら、起きなさい、もう起きないと遅刻するわよ』

『ちょっと、もう、起きなさいって』

母親がいくらゆすっても、彼は起きなかった。

その時、彼の顔がよく映った。

本当に、寝ているような安らかな顔。

しかし、その顔色は死者の物だった。

息子の息がないことを知った母親はパニックになり、部屋中を動き回った。

それは決して、演技ではなかった。

この時間まで付き合っていた視聴者は、その場面を目撃して眠気も吹っ飛んだだろう。

リアルタイムで見られたことに、興奮していただろう。

PCのカメラが繋がっていることに気づいた母親は、電源を落とすことを忘れなかった。

その瞬間、この不気味な自殺中継が幕を閉じた。

しかし、「安眠スイッチ」の物語は、ここから始まってしまったのだ。

「安眠スイッチは存在する」

このネット中継を見たものは、そのことを疑わなかった。

期待

また明日です ノシ

いいね

期待支援!

導入ウマイな~

ネット上に、安眠スイッチ手術を施してくれる医者の情報が数多く寄せられた。

合言葉や料金、書かされる承諾書、必要な書類、疾患によっては断られる、など。

どれも眉唾物の情報だったが、人々はそれを喜んだ。

また誰かが中継をしないか。

ニュースにスイッチが登場しないか。

不気味で奇妙な出来事を渇望していた。

やがて独り身の人間の不審死が相次ぎ、そのうちの多数が「謎のスイッチ」を握りしめているというニュースが流れた。

「安眠スイッチ」の存在を知る者たちは、「ついに来たか」と興奮した。

「安眠スイッチ」の存在を知らない者たちは、「なにが起こっているのか」と不安になった。

単なる都市伝説だったものが、メディアに流れ出はじめた。

「安眠スイッチ」の存在が徐々に世間一般に知られるようになった。

TVでは連日キャスターと何らかの専門家が意見を交わしていた。

「安楽死は多くの人が望むものではありますが、広く合法と考えるのは難しいですね」

「例えばどのような時には合法となるのでしょうか」

「身体的苦痛が続き、死期が近く、本人の希望によるものである場合、ですね」

「しかし『安眠スイッチ』の場合、身体的苦痛から逃れるものではない、と」

「ええ、そうです。また、死期に関係なく手術が行われている可能性も高い」

「やはりこの手術が存在するとすれば、違法ということになりますか」

「……はっきりとしたことは言えませんが、おそらく」

様々なTVで、ネット上で、家庭で、この話題は世間を席巻した。

「安楽死ではなく尊厳死。人は自分で死に方を選べる権利を持つべきだ」

「本当に百万円だとすると、むしろ安すぎるという気もする」

「手術の詳しい話を医者から聞いてみないとわからないな」

「電車に飛び込んだりビルから飛び降りたりするよりも健全だと思う」

「『安眠スイッチ』を批判する前に飛び込み自殺を規制しろ」

肯定派と否定派に分かれ、議論することが日常になっていた。

いつも結論など出なかった。

詳しいことが何一つわからない、曖昧な状況では無理もないことだ。

そんな議論が繰り返される中、ある医者が記者会見を行った。

安眠スイッチの手術について話すことがある、とのことだった。

もちろんすべてのTV局が報道特集を組むこととなった。

まず最初に、ネット中継を行った「安眠少年」の手術は自分が行ったことを告げた。

「そのことについて、違法とは考えなかったのですか」

そう聞いた記者がいたが、医者はそれを一蹴した。

「私の行為は法に触れてはいません」

「私が正規の医者であること、本人の精神的苦痛、本人の意思、それらも当然考慮しますが」

「私は安楽死の手術を行ったわけではありません」

「自殺幇助でもない」

「ただ神経をひとまとめにし、それをつなぐスイッチを作っただけです」

「そのスイッチを後生大事にする人もいるでしょうね」

「あの映像で、彼はとても若い、未成年という印象を受けましたが」

「彼は18でした。一年遅れて高校に通っていた3年生です」

「ということは、未成年だったんですね」

「ええ、この場合、親の同意書が必要でしたが、それもきちんと用意されていました」

「つまり違法ではないと」

「ええ、もちろんです。違法行為であれば、このような場所に出て来れません」

親の同意書があるといっても、あのネット中継の母親の取り乱し方は尋常ではなかった。

ではその同意書は少年が偽造したものだったのだろうか。

その後、様々な質問が飛んだ。

みな知りたいことがたくさんあった。

ネット上の憶測や不確かな情報では満足できていなかった。

レポーターも、視聴者も、誰も彼も興味津々だった。

初めは緊張気味だったその医者も、徐々に饒舌になり、持論を展開していった。

ネットではその中継の実況が盛んになり、ますます議論が熱くなっていった。

「今までどのくらいの手術を行ってきたのですか」

「第一例の彼だけは、私が手術を施したことを言ってもよいと約束してくれました。それ以外の術例についてはお答えできません」

「手術代が百万円というのは本当ですか」

「本当です」

「手術にかかる時間は」

「1時間前後です」

「人の命についてどう思いますか」

「質問の意味が分かりません」

「自殺幇助である考えはないのですか」

「ええ、自殺幇助ではありません。詭弁ですが」

「……」

みな、この医者をどう扱えばいいか、悩んでいた。

人殺しだと叫んでも、根拠に乏しいと思えた。

「安眠スイッチ万歳!」と叫んでも、世間から冷たい目で見られそうだった。

しかし、自分も手術をしてもらおうか、と考えた人間はあまりにも多かった。



次の日、手術の希望者が殺到し、二年先まで予約でいっぱいになったそうだ。

では、また明日です ノシ

乙乙!
この導入部分だけで映画作れそうですな。

後に「安眠少年」の手術のための親の同意書は、親の書いたものではなかったらしいことが分かった。

やはり本人による偽造だったのだろう。

しかしこのことは、「偽造でも未成年が安眠スイッチを持てる」ことを証明してしまった。

言い換えれば「金さえあれば誰でも持てる」ということだ。

安眠スイッチの存在が公になり、人々の生活が徐々に変わり始めた。

金融会社と銀行の審査が、前よりも厳しくなった。

借りた金で安眠されては困るからだろう。

それから、政府が安眠スイッチに高い税金をかける法案を異例のスピードで通した。

建前は自殺率を下げる名目だった。

しかし背景には、どうせ死ぬなら国の為に少しでも貢献せよとのメッセージが見え隠れしていた。

安眠スイッチ手術を始める医者が増えた。

宣伝などしなくても、勝手に客は増える。

中には腕が心配な医院もあったようだが、どの医院も予約で溢れかえった。

「高校生になったら、安眠スイッチ買ってもらうんだ♪」

そんな会話が聞かれることもあった。

「10年病気をしなければ、安眠スイッチをプレゼントさせてもらうプランもご用意しています」

そんな保険プランを始める保険会社も増えた。

「そんな軟弱なもん持てっかい!!」

極道の世界では軟弱者扱いされた。

しかし、いつ死ぬかわからない世界、いつ苦しんで死ぬかわからない世界だ。

こっそり小さな医院で格安でスイッチを手に入れる者もいたらしい。

死刑制度に組み込もうとする動きもあったようだ。

海外にその技術が高く評価されつつも、その技術の及ぼす社会的混乱を危惧する声が上がっていた。

闇に葬られた「黒い取引」もあったようだ。

不治の病に侵された大物俳優がお忍びで手術を受けたとも言われた。

いわゆる保険のようなものだ。

誰しも苦しんで死にたくはない。

もしそうなったとき、痛みを、苦痛を、和らげてくれるという安心が欲しいのだ。

手術をしてすぐに死ぬものは、ごくわずかだったそうだ。

「これで、いつでも安心して死ねる」

そう思えば、割と前向きに生きられるものだ。

「生まれてくるのは不自由、死ぬのは自由」

そんなキャッチコピーも生まれた。

批判を浴びてすぐに廃れたが、それを納得して受け入れた層も多かったと聞く。

「生きるのに苦労しているんだから、死ぬときくらい楽に逝きたい」

中高年や、老人にも、このスイッチは普及していった。

もはや「○○にもスイッチが普及している事態に」と言えないほど、多くの層がスイッチを購入していた。

「手術をしてしまったんですが、戻したいんです」

そう訴えた少女がいた。

勢いに任せて手術をしたはいいが、死ぬのが怖くなったそうだ。

そういう人は、少なくなかった。

散々迷った挙句に手術をしたとしても、いざ死ぬとなると怖くなってしまう。

人間とはそういうものだ。

それは若いころの無茶な生活や、軽率に入れてしまったタトゥーにも似ている。

もう、戻すことはできない。

また明日です
明日はたぶんもっと短いです、すみません ノシ


別に戻さなくてもスイッチさえ押さなきゃ良くないか?
と思ったけどそんな簡単な話ではないよな
誤作動とかも怖いし

淡々とリアルでよいね

ある日、都内のビルから飛び降りて死んだ中年の男がいた。

明らかに飛び降り自殺であり、その死体は無残に砕け、血に塗れていた。



「安眠スイッチが買えなかったんだな、可哀想に」

「スーツも薄汚れている、借金苦かな」

「しかし何もこんな大通りで死なないでも……」



警察が来るまでの短い時間、野次馬が遠巻きにその死体を眺めて好き勝手に話していた。

その時、ある者が言った。



「あの腕……スイッチ持ってないか?」

離れてしまったその腕は、携帯電話のようなものを持っていた。

それは、うわさに聞く「安眠スイッチ」ではないか。

野次馬が色めきだった。

しかしいくら興味があるといっても、死体に駆け寄って近くで見ようとする者はいなかった。

ただその代わりに、携帯やカメラを向ける者は驚くほど多かった。

次の日のニュースで、驚くべきその内容が明かされた。

その男は「格安」で、正規の医者ではない者から「違法手術」で「安眠スイッチ」を買っていた。

仕事のミス、ギャンブル、借金、会社の金の使い込み、その結果死を選ぼうとした男。

男は確実に死ねるよう、ビルの屋上でスイッチを押したのだ。

そして。

男は地面に激突するその前に、大量に出血していたそうだ。

ビルの屋上に血だまりがあった。

内臓からも出血をしていた。

つまり、男のこの死は、「安眠」などではなかったということだ。

「安い手術で得たスイッチでは、苦しんで死ぬ可能性がある」

その事実に、多くの人が震えた。

すでに持ってしまった「安眠スイッチ」

それを押せば、もしかしたら大量出血をし、苦しみの果てに絶命することになるかもしれない。

これをもし誰かに奪われたら。

どんな拷問よりも精神的につらい気分を味わうだろう。

スイッチをずっと大事に抱え、怯えながら暮らす生活を送る羽目になる。

高い金を出して手術をした人も、安心してはいられなかった。

「本当に安眠できるのだろうか」

それを思うと、安心してスイッチを押すことなどできなくなった。

「安眠スイッチ」による自殺者が、急激に減った。

手術自体、前は予約でいっぱいだったのに、今では気軽に申し込める状態だそうだ。

妙な割引をする医院も増えた。

それが逆に、不安感を募らせることになった。

そして……

そして……
明日からが本編です
でもあと半分くらいです ノシ


本番ってなんだよ怖いよ

本番じゃなくて本編だった
ここからタイトルの男が出るのかな

おつはむ
なんだろう、そこらじゅうでスイッチ盗まれる事件が起こるとかだったら怖すぎ

ええな

面白い

おお怖い

乙です

支援

僕の目の前に、「安眠スイッチ」がある。

正真正銘、僕が自分で買ったスイッチだ。

ただ、その値段は安かった。

「こんなことなら、ちゃんと正規の料金を払っておけばよかった……」

だからと言って、100%安眠できる保証など、どこにもないのだが。

「あんなに希望に満ち溢れていたのに、今は死ぬのが怖くてたまらない……」

笑い話さ。

こんな風に悩んでいる人間が、たくさんいるんだろうな。

僕は芽の出ない脚本家だ。

毎日ファミレスでPCを打っては、積み上がるつまらない文章に嫌気が差す。

大小さまざまな賞に応募するも、最終選考まで残ったことはない。

バイトで貯めた金を切り崩し、それでもコツコツと脚本を書く。

たまに劇団やセミプロの映画監督に使われることもあるが、ほとんど金にはならない。

親に頼み込んで金を借りた。

できるだけ安く手術をしてくれるところを探し出して、「安眠スイッチ」を買った。

安心を買うつもりで手を出したのに、押す勇気もなくなった。

結局「不安」を買っただけだった。

「高い授業料だったな、はっはっは」

なんて、笑っていられればいいけれど。

だけどそんなことができる奴なら、「安眠スイッチ」なんて買わないだろう。

このことを脚本に生かそうと考えたこともある。

けれど結局、どうしたってつまらないストーリーにしかならなかった。

「安眠スイッチ」を題材にして、すでに成功している小説と、映画と、アニメがある。

二番煎じになるだけだ。

僕程度の力量では、それらを超えることなんて到底できない。

今日もPCをカバンに入れて、僕はファミレスへ自転車をこぐ。

安眠スイッチもカバンに入れてある。

怖くてとても手放せない。

「……眩しいなあ」

信号待ちに空を見上げてみると、雲一つないきれいな青色だった。

「気分がブルーだ」なんていう言葉には、青空の下で働きたくない黒人奴隷のつぶやきから始まったという説があるそうだ。

「雨が降れば休めるのに」なんてお気楽にも聞こえるが、彼らには重要なことだったのだろう。

確かに青空は、僕にとっても見上げているとブルーになるものだ。

信号が青に変わる。

交差点を、人の間を縫いながら自転車で渡る。

一瞬、意識が遠くへ行く。

ぼうっとする。

僕は風のにおいをかいでいたのだろうか。

遠く昔の黒人奴隷に思いをはせていたのだろうか。

それが悪かった。

右から来るもう一台の自転車に気づくのが、一瞬遅れたんだ。

ガチャン!

自転車から投げ出される。

地面に転がりそうになり、とっさに手を着く。

手のひらにざりっとしたアスファルトの感覚、そして痛み。

少し遅れて腰に痛み。足首に痛み。

数秒、動けなかった。

「いでで、くっそ、ついてない……」

はっとして、見渡す。

僕のそばに、僕と同じように倒れている女の人がいた。

しまった、彼女とぶつかってしまったんだ。

ケガはないだろうか。

「あ、あの、すみません、大丈夫ですか!?」

「……ええ……すみません……」

彼女も体を起こす。

小さな擦り傷が肘にあったが、それ以外に大きなケガはないようだった。

少しホッとする。

赤色の派手な自転車が転がっているが、そちらも壊れてはいない。

「すみません、不注意で」

「い、いえ、こちらこそ、すみません」

身体は少し痛いが、大したことはない。

PCを入れたカバンも落ちてはいるが、あれくらいの衝撃なら中身は大丈夫だろう。

安心したのも束の間。

「……え?」

僕は目の前の光景に目を見張った。

「安眠スイッチ」が地面に転がっている。

なぜか……二つ……

「……え? え?」

なんということでしょう……
では、また明日です ノシ

こんな映画みたいな

そうきたか

これは同居するしかないな

おおう

なるほど……乙!

世にも奇妙な物語

昨日ちょっと遅くなり投下できませんでした
ごめんなさい

そのスイッチを見て、彼女の方も顔色を失っていた。

「うそ……うそ……」

そう言ってスイッチに飛びつく。

しかし、どちらを手に取っていいかわからないようだ。

僕もそうだ。

なんということだろう。

僕たちは二つのスイッチを前に、茫然と座り込んでいた。

信号が変わる。

僕たちはとにかく、荷物を拾い上げ、自転車を押し、近かった方の歩道に戻った。

そこでため息をつき、再び手の中のスイッチを見つめる。

「どうしよう……」

どれだけ見比べても、普段持っているのがどちらなのか見当がつかなかった。

「どうしましょう……」

彼女の方も泣きそうな顔をしている。

「こ、この片方は確実に僕のだと思うんだ」

「ええ、もう片方が私のだと思います」

「いつも持っているのと、同じ形?」

「ええ、でも、どちらも同じ……ですね……」

「……そうだね……」

まったく同じ型だ。

型番などがどこかに書いてあるだろうが、そんなもの、どうせ覚えちゃいない。

本当に絶望しそうだった。

他人に自分のスイッチを持たれているなんて、どれだけの恐怖だろうか。

そして、それはこの子も同じはずだ。

「あ! だ、大丈夫ですよ!」

突然彼女が明るい顔で言った。

「暗証番号! それを入れればどちらが自分のか、わかるはずです!」

そうか。

パニックになってそれをすっかり失念していた。

「ははは、そっか、そういえばそうだったね」

「はい! 一つ、貸してください!」

そう言って、彼女は一つのスイッチを手に取り、操作し始めた。

僕も残された方を開いてみる。

久しぶりに中を見るけれど、暗証番号は忘れていなかった。

「あ! 開きましたよ! ほら!」

彼女はそう言って、画面を僕に見せてくる。


【本当に、安眠を望みますか?】

【はい/いいえ】


その文字の怖さは慣れないけれど、この時は僕を安心させる効果があった。

僕の方も、暗証番号をするっと受け入れ、同じ画面が現れた。

「僕の方も大丈夫だった、ほら」

笑顔でそれを彼女に見せる。

心底ホッとしたような、眩しい表情。

こんな表情を見せる人が、「安眠スイッチ」を持つのか、と思うと少し憂鬱になった。

しかし、僕はなぜか、少し引っ掛かりを感じた。

本当にこのスイッチは僕の物だろうか?

ランダムに混ぜたスイッチから僕の物を一回で選ぶ確率は50%だ。

つまり、50%の確率でこのスイッチは彼女の物だ。

本当に、これは、僕のスイッチか?

信じていいのか?

そんな声が、聞こえた気がした。

「あの、一応聞くけど、ちゃんと自分の暗証番号で開いたんだよね?」

「ええ、そうです、安心しました」

「あの、もし、仮にだけど、僕たちの暗証番号が偶然同じだったら……」

「え、そんなことあるわけないですよー」

彼女は笑った。

一瞬だけ。

一瞬だけ笑って、真顔になった。

「……そんなわけ……ない……はずですよね?」

「4桁の数字だから、10000分の1の確率で、同じ暗証番号を選ぶことがありうるよね」

「それだって……偶然ぶつかって、偶然二人ともスイッチを持ってて、それが落ちて、そのうえ暗証番号もだなんて……」

笑おうとするけど、口元が引きつっている。

僕も同じだろう。

「さ、先に言っておくよ、僕の番号は、誕生日なんだ」

「10月26日生まれでさ、そのまま、1026」

「い、一緒なんてこと、ないよね? そのスイッチが1026で開くなんて……」

慣れない早口でまくし立てる。

周りから見たら、変なカップルだと思われるだろう。

「安眠スイッチ」の暗証番号を街中で大声で叫ぶ男は異常だろう。

だが彼女がホッとして笑って「違いますよー」とか言ってくれるなら、どうでもよかった。

彼女は目を見開き、口をぽかんと開けていた。

その目は僕を捉えて離れなかった。

僕も彼女の顔から目が離せなかった。

早く、早く安心させてくれる言葉を発してくれ。

しかし、彼女は泣きそうな顔で予想もつかないことを言いだした。

「俳優の、首藤タカユキって知ってますか?」

「は?」

「えっと、首藤タカユキ、最近ドラマにも少し出てるんですけど……」

「い、いや、知らないけど」

「その人と誕生日一緒なんですね」

「へ?」

「私、その人の大ファンで、劇団のときから追っかけてて……」

「?」

「大好きで、大ファンで、へへ、あはは、どうしよ……」

へたり、と膝をつく。

肩で大きく息をしている。

「だから私、その人の誕生日、暗証番号にしちゃったんです……」

馬鹿みたいな偶然が、目の前で起こっている。

いや、目の前どころか、自分自身に起こっている現実だった。

現実を直視できない僕は、目を瞑った。

目の前が真っ暗になった。

ああ。

神様。

楽に死のうだなんて、やはり虫のいい話だったんだ。

自分の死を自分で好きにしようだなんて、虫のいい話だったんだ。

長い沈黙があった。

周りの音が聞こえない、と思った。

たぶん無意識に耳がシャットアウトしていたのだろう。

音がないことに気づくと、その瞬間、周りの喧騒が耳に入ってきた。

目の前にへたり込んでいる彼女も、茫然自失といった感じだ。

とにかく、なにかしらの声をかけてあげるべきだろう。

僕の方がきっと少し大人なんだろうから。

勇気を出して、声を震わせずに。

僕は沈黙を破った。

という感じで
明日完結かな、と思います ノシ


期待して待ってる


楽しみに待ってる

映像が目に浮かぶ
ラストが楽しみです

安眠スイッチか、どうなんだろうな
税金かけるくらいなら国が安楽死施設作って金取ればいいのに

でも、あったらいいな安楽死スイッチ

大量に普及してたら、こういうことも起きる……か
待ってる乙

うわああ

「あのさ、僕、今からファミレスで仕事をしようと思ってたんだけど、君はこれから……」

「あ、えっと、私は今から予備校です」

「予備校なんだ」

「は、はい、もう、行く気なんてなくなっちゃいましたけど」

「僕も、もう仕事モードにはなれそうもない」

「ですよね……」

そして驚いたことに、彼女はふふっと笑った。

おかしなことでも起きたかのように。

笑いを堪えきれない、といったように。

「あ、不謹慎でしたね、すみません」

彼女は口元に手を当てて謝る。

「いや、よく笑えるな、と思って、ちょっと感心した」

それは本心だった。

「や、私も、ちょっと絶望しかけてたんですけど、なんか笑えてきちゃって」

「タフだな」

「だってどうせ死ぬことも考えて、最悪だと思って、鬱々と日々を過ごしていたのに、もっと下があったんですもん」

「まあ、確かに」

「『最悪』なんて言葉、軽々しく使っちゃだめですね」

そしてまた、彼女はあはは、と笑った。

そこに死を望む絶望の色は見当たらなかった。

近くの小さな喫茶店に入り、向いあって座る。

アンティークの大きな時計がお洒落な、常連の多そうな店だ。

ギシギシと不吉に鳴る椅子に座る彼女を、あらためて見つめる。

予備校と言っていたから18,19くらいだろうか。

そんな歳で安眠スイッチを買って、どんな心境でいるのだろう。

大学に受かってやりたいことでもあるのか。

それとも何年も浪人していて憂鬱になっているのか。

なんにせよ僕よりもずっと若い。

未来をつぶす決断をするには早すぎる。

「あの」

不意に彼女が声を発した。

「注文、決まりました?」

「は?」

「あ、だから、注文。喫茶店に二人で入って水だけでっていうのはさすがに……」

注文。注文か。確かにそうだ。

「ホット」

「わかりました。あの、すみませーん」

そう言って彼女は店員を呼んだ。

先ほどのへたりこんでいた姿はもうない。

空元気にも見えない。

不思議だ。

コーヒーを飲みながらお互いに話をした。

脚本を仕事にしたいけれど、なかなか芽が出ないこと。

自分のスイッチは安物で、あの事件以来怖くて押す勇気がないこと。

彼女の方は、予備校に通いながら役者の道を進みたいと考えていること。

同じく安物のスイッチで、あの事件以来怖くて押す勇気がないこと。

コーヒーを何杯もお代わりしながら、お互いのことを話した。

自分の環境や心境を包み隠さずに話すのは久しぶりだ。

それは彼女の方も同じようで、表情が生き生きとしている。

そうして、今後、どうしなければいけないかを考えた。

絶対に押さないようにして、お互い一つずつ保管する案。

銀行に保管して二度と取り出さない案。

海に捨てる案。

山に埋める案。

二つとも破壊する案。

とりあえずこの場で一つ押してみる案。

むしろここで二つとも同時に押してしまう案。

もう後半はふざけていた。

話しているうちに、なんだか、どうでもよくなった。

彼女の明るさがそうさせたのか。

なぜこんなに明るく話をすることができるのか。

二人の、命に関わる話を。

喫茶店のマスターもちらちらとこちらを気にしている。

楽しげに安眠スイッチの話をする二人組は、やはり奇異に映るだろう。

他の数少ない客も、訝しげな目を向けてくる。

でも、もうそんなことはどうでもよかった。

目の前の絶望を笑ってやろう、と、なぜか開き直ることができた。

これは罰だとか不幸だとか、そんな感情は思いつかなかった。

絶望の表情から数分で、最高の笑顔に切り替えられるこの素晴らしい娘に出会えたのだから。

そして、彼女は、笑顔でとんでもないことを言った。

「とりあえず、保留にしちゃいましょう」

「は?」

「とりあえず、スイッチをどうするか、一旦保留に」

保留。保留か。

目の前の問題から目を背けると。

馬鹿馬鹿しくて素敵だ。

「は?」なんて言ったが、僕もその案にすでに乗り気になってしまっていた。

口元がにやけていくのが自分でもわかる。

「いいね、保留にしよう」

「ええ」

「それよりも考えたいことがたくさんできたよ。脚本も書けそうだ」

「私も、なんだか吹っ切れましたから、演技の勉強、頑張れそうです」

彼女の笑顔は、本物だった。

絶望しすぎて笑う、とかではなく、「吹っ切れた」そんな感じだ。

はは、僕も久しぶりに笑って、顔の筋肉が痛い。

人と話すのも久しぶりだからかな。

だけどそれが、とても楽しかったんだ。

「今日、これからまだ時間ありますか?」

「うん、有り余ってるくらいだ」

「あなたの脚本、読んでみたいんです」

「……恥ずかしいな」

「だめですか?」

「いや、いいよ。その代わり……」

「その代わり?」

「君が演じているところも見てみたい」

「……恥ずかしいですね」

「はは」

「うふふ」

結局、僕らのスイッチの扱いは、彼女の「保留」の一言で決まった。

あれから一年、まだスイッチの扱いは保留のままだ。

部屋の小さな金庫の中に仕舞ってある。

時々思い出したように取り出すけれど、どちらがどちらのものなのか、結局わからないままだ。

だけどそれでいい。

そんなことは、些細なことだ。

僕はまだ脚本をこつこつと書いている。

大きな仕事はないが、劇団などに使ってもらえる頻度は上がった。

彼女もこつこつと役者を目指し続けている。

僕の脚本で主演したこともある。

客入りはまだまだだけど、いずれ大きな舞台で、看板女優と呼ばれる存在になりたいと言っている。

小さな部屋で、二人、小さな夢を追いかけている。

たぶん、これは、幸せだと思う。



★おしまい★

ほんとどうでもいいことですが、最後の方に出てきた役者の名前は
「安眠スイッチ」でググってみたときに「安眠枕」だかのページがヒットして
肩とか首に効能が~と書いてあったのでそこから適当につけました

あと別に自殺賛成派という訳でもありません
でも楽に簡単に死ねる方法があるならちょっと欲しいかもなあとは思います

    ∧__∧
    ( ・ω・)   ありがとうございました
    ハ∨/^ヽ   またどこかで
   ノ::[三ノ :.、   http://hamham278.blog76.fc2.com/

   i)、_;|*く;  ノ
     |!: ::.".T~
     ハ、___|
"""~""""""~"""~"""~"


乙でした
憂鬱な結末でなくて良かったです

二人は幸せなキスをして終了

おつ
導入のドキドキ感に比べて本編があっさり終わってちょっと残念

幸せに終わってよかった、途中までドキドキしたよー
このまま一生スイッチ押さずに終わるといいね

というか、また貴方かw
乙乙

これは良い 乙!



欲を言えば>>108だけど良かった

話を深くして小説にして欲しいレベル

淡々としてたけど話としては引き込まれるいいssだった
スイッチの製造番号とかは医者に問い合わせればなんとかなったんじゃないかって突っ込むのは野暮かな
とりあえず乙

格安手術だからサービスがない(または潰れた)と思ってる
程よい長さと状況が浮かぶ感じが良い

乙!乙!

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