春香「頭の中はまだまだ空っぽ」 (9)

「………なによ」

印刷機、数々の紙束、ポットにテーブル、テーブルを囲むソファ…
白いワンピースを着た少女がそれらの中心に立つ

腕にウサギのぬいぐるみを抱えたその少女は、窓から差し込む光に軽く目を細めながら、少女の前に立つ人物を見る

……その人物は春香

春香と伊織は、事務所の中で2人向き合っていた






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期待

「なにって…誰かが事務所に来たような気がしたから、見にきたの」

目を細めている伊織とは反対に、春香は目を開いたまま話す
窓に背を向けているために、春香は顔が外から差し込む光に照らされることはなかった


「ふーん……あんた以外見当たらないわね」


ぎゅっとぬいぐるみを抱えたまま、伊織は話す
外出先から戻って来た時は、荷物を降ろして洗面所に向かい、手を洗ったりうがいをしたり、取り敢えず清潔面に関して意識するだろう
敷居の広い豪華な家に住むお嬢様なら、尚更その習慣はついているはず

伊織は背の高い大人に怒られている子供のように、その場に立ち尽くしている
目を細めているせいか、少し怒っているようにも見える


春香は、少しだけ首を傾げながらも返事した

「私はさっき仕事から帰って来たの…そうしたら小鳥さんが、急用ができたから少しだけ事務所の番をしてもらえないかしら…って」

「じゃあ、あんた以外は誰もいないのね」

伊織は特に興味なさそうな顔で、目線を下に向け左右にゆらゆらと動かす

それを見ていた春香は、また少し首を傾げると、何かを思いついた顔をして、何やら色々な物が置いてある台まで歩きだした

「とりあえず座ったら」

春香の言葉にようやく伊織は荷物をソファに降ろし、その横に座る

春香は食器棚からコップを取り出すと、台に置いてあるポットまで持っていき、お茶をつぐ

そして、それを伊織の座るソファまで持っていくと、そっとテーブルに置いた

「……」

少し機嫌の悪そうな顔をしていた伊織は、差し出されたお茶を見ると、一瞬驚いた表情をした
でも、すぐにムスっとした顔に戻り、また目線を床に降ろし、ゆらゆらとあちこちを見回している


(…何かあったのかな)


ふとそう思った春香は、伊織の向かい合う形で反対側のソファに座ると、事務所の壁を眺めるように見ながら話しだした

「伊織…今日はもう仕事終わった?」

「終わったわよ」

「ふーん…」

「………朝に気分が悪かったりした?」

「…別に、普通だったわよ」

「ふーん…」

改まって質問してくる春香に気がついたのか、伊織はちらっと春香を見ると、

「…なによ」

と、不機嫌そうな顔をする

「いいからいいから」

春香の軽く笑った顔に、伊織は言葉を詰まらせ、黙り込む

「今日の仕事は何だったのかな」

「…ダンスの撮影よ」

「へー…」

何を聞いてもひとこと返ってくるだけで、すぐに沈黙に変わる
伊織は淡々と返事をするだけで、それ以上は何も話そうとしない

このままじゃ埒が明かないね、と思った春香は、もう少し詳しく聞くことにした

「それって、竜宮小町?」

その時、竜宮小町という言葉に、床をゆらゆらと見回していた伊織の目がピタッと止まった

「…そうよ、だいたい亜美もあずさもミスし過ぎなのよ、あれじゃ全然締まらないじゃない」


ああ…それが原因なんだね、と春香は頷く

小鳥さんが帰って来たかと思ったら、伊織…すっごく機嫌悪そうな顔して立ってたんだもん、少し心配しちゃった

と、伊織がムスっとしている理由が見えた春香は、安心してふふっと笑った


「なにがおかしいのよ…」


伊織は、くすくすと笑っている春香に気づき、春香を睨みつける

「なんでもない」

と、春香は伊織の顔を見ると真面目な顔になって続けた

「それで…撮影で何があったのかな」

「……」

伊織は何か奇妙なものを見るような目で春香を見ていたが、まぁいいわ、というように一息吐き、話し始めた

「竜宮小町のダンスの撮影があったのよ、何に使うかは良く聞かされてないんだけど、結構大事なものだって律子が言ってたわ」

「ふーん…」

春香は適度に相槌をうち、伊織もそれに合わせるように話す
さっきまで無口でいたものの、今は話す気満々のようだ

「それで私と亜美とあずさ三人で一通り一曲踊れって担当の人に言われたんだけど……」

「ふーん…あ、曲名は?」

「…smoky thrillよ」

「そうなんだぁ」

一文話すたびに春香が相槌を打ち、それを待つかのように伊織も黙っては、また話す
何か一連の動作のようなものが二人の間で繋がっている

伊織は春香が喋り終えるのを見て、また話し始める

「ダメだったわね」

「…へー」

相槌を打ちながら突如話を切った伊織に少し戸惑いつつも、春香は聞いた

「ダメだった…ってどういうことかな」

「ミスしてばっかりでグダグダになったのよ」

「最初のミスは亜美だったわね、もともと撮影場の雰囲気がいつもと違って張り詰めていたのもあるわ、皆緊張していたのよ…だからといってミスしていいわけじゃないけど」

「うんうん…」

それでどうなったの…というように相槌を打ちながら頷く春香を見て、伊織は続ける

「今思えば全員動きが固かったわ…ミスがあってからは、もう撮影のやり直しの繰り返しよ、何とか撮影も終わったけど、律子も担当の人達も浮かない顔してるわ、私だけ個別で律子にこっぴどく叱らるわ…」

「……それで、怒った顔してここに戻って来たんだ」

うんうんと納得したように頷く春香を見て、伊織はまたムスっとする
やけにひとことのように反応されたのが気に障ったのか、

「悪かったわね!」

と、小さく言い捨てた

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