白望「豊音とらんす」 (439)


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   *


 高校最後のインターハイが終わり、一ヶ月が過ぎた。

 うち、末原恭子は、元主将の愛宕洋榎、真瀬由子とともに、引退し立場上はOGということになったものの、頻繁に麻雀部に顔を出していた。

 漫ちゃん、絹ちゃんを中心とした新チームと、世界ジュニアの代表に選抜される可能性のある元主将の練習相手を務めるため……という口実を与えられ、半ば公然と、高校麻雀が終わった寂しさを紛らわせていた。

 進路安泰の元主将はともかく、うちと由子はそう毎日部活に顔出してるわけにもいかへんのやけどな。

 どうも、あかんわ。

 受験勉強に集中しようと思っても、気づいたらネットでプロの牌譜とか見てもうたり、もう出られへんのに、秋大のために他校の情報集めてもうたり。

 勉強に集中しようとすればするほど、麻雀のことばかり考えてまう。

 手が疼いてしゃーない。

 元主将と由子に誘われるがまま、つい部室に顔出してまう。

 去年引退した先輩たちも、インハイ終わったあともしょっちゅう顔だしてたけど、きっとこんな気持ちやったんやろなあ……。

 なんやねん引退したんやからもううちらの好きにさせえや、とか思てたけど。

 いざ自分が三年になってみると、うちも人のこと言われへん。


 あんまりOGが顔出しすぎても迷惑やってのはわかってるんやけどな……。

 みんなとまだ麻雀やりたいって気持ちが勝ってまう。

 元主将、由子、漫ちゃん、絹ちゃん……あと、こんなん思うの癪やけど、代行と別れるのも、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ寂しい。

 レギュラー競い合った他の三年もちらほら来とるみたいやし、きっとみんな同じ想いなんやね。

 高校麻雀、終わってもうたんが寂しくて、つい来てまうんやろな。

 わかるわ。

 ようわかる。

 でもな――


豊音「ツモ! 2700オール!」

洋榎「かぁ~! また裸単騎で和了りよった!」

由子「はえ~。やっぱり強いのよー」

赤阪「やるな~、姉帯ちゃん~」

 なんで――

白望「絶好調だね……」

豊音「「えへへー、ぼっちじゃないよー」

恭子「…………」

 なんで、他校の三年生まで来とるん……?

 なんで、宮守女子の小瀬川と姉帯がここに……?

恭子「なんでや……?」

 うち、なんも聞いてへんで……?

洋榎「なにが?」

恭子「え、あ、いや……」

洋榎「?」

由子「恭子、なんかぼーっとしてるのよー」

洋榎「ははー、あれやな? うち受験勉強ほったらかしてこんなとこで麻雀なんてやっててええんやろか~、とか、そんなこと考えとったんやろ?」

恭子「い、いや……」


白望「大丈夫だよ、恭子。まだ九月だから……まだ慌てるような時間じゃない……」

豊音「シロは慌てたほうがいいけどー、ちょっとくらいゆっくりしても平気だよー。末腹さんと麻雀打ちたいよー」

恭子「せ、せやな……」

 姉帯はインハイで同卓したよしみやから、馴れなれしいのもまだ分かる。

 せやけど小瀬川なんやねん。

 いまこいつ、めっちゃ普通にうちのこと下の名前で呼び捨てにしたけど……。

 ……話すの初めてやんな?

洋榎「豊音の言うとおりやで。せっかくなんやからゆっくりしまひょ」

由子「進路安泰の洋榎がそれ言うと腹立つのよー」

白望「まったく。これだから全国区のスター選手は……」

豊音「愛宕さん、プロに行ったらサイン頂戴ねー?」

絹江「それはええですけど姉帯さん、おねーちゃんのプロ入り最初のサインはうちが予約済みですからね? そこだけは譲れませんから~」

豊音「さすがに姉妹の間には割って入れないよー。じゃあ、私二番でー。デビュー戦、絶対見に行くよー」


洋榎「ふふ。ま、うちがプロ入りしたらあっちゅう間に天下とってもうて、インハイの時に書いたったサインにプレミアついてまうわ」

豊音「ああ~、そっか~! 貰っておいてよかった~!」

白望「すごい自信……」

漫「あれ? ていうか主将。プロ入り決めたんですか? たしか昨日、まだ進学とどっちにするか迷ってるって言うてはりましたよね?」

洋榎「ん? ああ、そやった。うちまだ迷とるんやった」

由子「ふふ。なによー、それー」

洋榎「なはは、いかんいかん、絹と豊音に乗せられてサクっとプロ入り決めるとこやったわー」

豊音「あははー、いいじゃん。もうプロ行っちゃおうよー」

洋榎「あほ! そんな簡単に決められるかい!」

絹江「おねーちゃんやったら決めてまいそうやけど」

漫「ほんまに」

白望「ほんとにね」

赤阪「ま~? 洋榎ちゃんやったら、そんな決め方でもアリや思うけど~?」

恭子「……」

 二人とも、めっちゃ馴染んでんな……。

 それに小瀬川……元主将のことも名前呼びて……。

 うちかて引退してから元の呼び方に戻すタイミング逃して、まだ元主将って呼んでんのに……!

恭子「~~ッッ」

 なんで……!?

 なんでみんなそんなにこの二人と親しげなん……!?


 あれか……?

 あれやろか。

 インハイのとき、うちの知らん間に仲良うなったんやろか。

 二回戦のあと、うち清澄の大将に凹まされて少し周り見えてへんときあったし……。

 そんときとかに、仲良うなって連絡先交換したとか……?

 小瀬川も姉帯も結構な打ち手やったし、卒業後も麻雀続ける気でいて、腕錆びつかせんようにインハイのときのツテ頼ってウチに出稽古に来とるとか……そんな感じなんやろか。

 ほいで、元主将か由子か代行か誰か知らんけど、二人の受け入れの窓口になった誰かが、うちに二人が来ること伝え忘れてたとか……。

 ……うん、多分そんなとこやろ。

 みんながあんまり普通にしてるから、なんでおるんか聞きそびれたけど、これですっきりしたわ。

 ほんま。

 一年の指導してたら元主将に呼ばれて一局打つことになって、場決めして席ついて、ふと対面見たら小瀬川、上家に姉帯おったときは「は?」ってなったけど……。

 うん……うん。

 なんも不思議なことあらへん。

 いまさら「なんでおるん?」とか聞きづらいし、もう普通に打っとこ。

 考えてみれば姉帯とは一ヶ月振りの再戦、小瀬川とはこれが初対戦なんや。

 引退したあとで他県の強豪と打つ機会なんてそうあらへん。

 ここは対局に集中せな損ってもんや。

 小瀬川、姉帯がなんでおるんかは、二人が帰ったらみんなに聞けばええ。

 いまは集中や。

 集中しゅうちゅ――

由子「ふーんふふーん」

 ――う?


恭子「……?」

 なんや……?

 うちの下家、元主将の後ろについて見学しとった由子がなんかやっとる……。

 あれは……。

 折り紙……?

洋榎「なんや由子、なに折ってんねん。対局中やねんから鼻歌やめーや」

由子「あー、ごめんよー。またリボンなくしたから折ってたのよー」

漫「またですか」

由子「うん。今度は緑にしようと思ってー……と、できたのよー」

恭子「……」

 折り紙リボン完成。

 由子、装着。

 ……うん、緑はないな。

由子「どうー?」

絹江「似合てますよー」

恭子「……」

 ……なんでやろ。

 なんでか知らんけど、妙にリボンに引っかかる……。

白望「うーん……」

洋榎「なんや白望、長考かい」

シロ「うん、ちょっとごめん。タンマ」

恭子「……!」

 まぁ、いまはええわ、リボンのことは……。

 来おった小瀬川……来はりましたよ!

 こっから手ぇ高なってくはず……!

 要警戒や、そうそう好きにはさせへんで!


白望「……」

恭子「……あ」

 あ。

白望「変だけど、これで……」

恭子「わかった……」

洋榎「なにが?」

恭子「ああ、いえ。なんでも……」

白望「……」

恭子「……」

 なんでリボンに引っかかったんかわかった……。

 小瀬川……それによう見たら姉帯も……。

 リボンが宮守のやつやない……!

 あれ、姫松の制服のリボンや……!

恭子「……っ!」

 なんやねん……どういうことや?

 よう見たら二人とも、ブラウスも宮守のブラウスちゃうやん……!

 姫松みたいな襟が丸まったやつ着とる……!

 たしか宮守のブラウスって、襟にブレザーと同色の縁取りがあったはず……!

 リボンももっと幅のあるタイプのリボンタイやったはずや……!

 これは……つまり……ど、どういうことや……!?


 なんでこいつら、姫松のリボンブラウスを……?

 この二人いったい何のつもりや……。

恭子「……」

 ブレザーは宮守のやつみたいやけど、ブレザーとスカートだけやっったら姫松の制服と大差ないから見分けつかへん……。

 リボンとブラウスを姫松のものに変えている二人は、まるで姫松の制服を着ているように見える……。

 二人が宮守の生徒と知らんもんには、二人は姫松の生徒にしか見えへんや、ろ……な――

恭子「――ハッ!」

白望「……」

豊音「……」

 まさか……!

 まさか二人は……二人は変装してる――!?

 姫松の生徒に成りすましてるんか!?


恭子「~~~~ッッ!!」

 な、なんでそんなことするんかは分からん……!

 分からんけどひとつだけはっきりしてることがある……!

 それは小瀬川……姉帯ッ!

 お前らが襟に巻いたリボンはッッ!!

洋榎「あー、由子。うちにもリボン折ってー」

由子「あらー? 洋榎もなくしたのー?」

洋榎「せやねん。昼にはずしたらどっかいってもうてん。なんか首元落ち着かんから頼むわ」

由子「了解よー。何色にするー?」

洋榎「金で」

由子「ええー、だめよー。金は大事にとっとくのよー」

洋榎「なんやねんケチくさい」

絹江「……おねーちゃんが金にするんやったら、うちは銀かなぁ……」

漫「姉妹で金と銀の紙リボンとか、やっすい漫才コンビみたいやね」

洋榎「お、それええなぁ。なぁ、由子ー?」

由子「うーん……それはちょっと面白そうなのよー。貴重な金と銀の使いどころかもしれないのよー」

漫「貴重って……枚数は全色同じなんちゃいますの?」

由子「そういう問題じゃないのよー。気分の問題よー。漫ちゃんも折り紙買ってみれば分かるのよー」

漫「そんなもんですか……」

由子「そんなもんよー」

白望「……」

豊音「……金は大事だよー」

恭子「~~~~ッッ!」

 お前らが着けとるリボン、元主将と由子のやな……!? 



 ふたりとも今日なんでリボン着けてへんのやろって思てたけど!

 ていうか、いつの間に盗んだんや……! うち今日はほとんど元主将と由子と一緒に行動しとったのに全然気づかへんかったわ!

 おっそろしい……! どんな手つこたんや……!

白望「……」

豊音「……」

恭子「……ッ!」

 し、しれっとした顔して……! 

 二人も気づけや! 目の前に姫松のリボン着けとる二人おるやん! 

 そもそもなんで二人は変装してんねん……!

 なにリボン盗んどいてしれっと同卓してんねん!

恭子「!」



恭子「――……そうか」

洋榎「なんや、恭子。さっきからひとりで……」

恭子「いえ……わかったんです。すべてが」

洋榎「……どないしたん? なんか変やで……?」

由子「なんか一人でぴりぴりしてると思ったら、急にすっきりした顔になったのよー」

恭子「……いえ、気にせんとってください」

 なぜ、二人は姫松の生徒に変装しているのか……。

 その理由がわかった……。

 うちはこの二人は、この場にいる姫松の関係者、その誰かに呼ばれてここ来とるんやと考えた。

 この二人は客人なんやと。

 うちがそれを知らんかっただけやと。

 しかしそれは間違いやった……。

 この二人、おそらく――

赤阪「ふたりは何色にする~」

白望「白で……」

豊音「赤がいいなー」

恭子「――――ッ!」

 誰にも呼ばれてへん……。

 紛れ込んどるんや……潜り込んどるんや! 姫松に!

 そのための変装……!

 他に変装する理由なんて思いつかんし……!

 間違いない……!

 この二人は客人やなく侵入者……!


   * 


   * 


 うち、愛宕洋榎ちゃんは、その日もいつもどおり部活に顔だしとった。

 もう引退した身なんやけど、あかんな、ついふらっと部室来てまう。

 授業終わりに、恭子と由子に親指と人差し指つまんで見せて、「ほなこれいっとこか~」「仕事終わりのサラリーマンかい」ってやり取りも、もう何回やったかわからんな。

 そういやお母ちゃんも、昔試合行くとき指先つまんで「ほなお母ちゃん今日これもんやから、仲良う留守番しとくんやで~」って言って出かけて行ったもんやった。

 あんときは絹がぐずってえらい難儀したもんやけど、その絹ももう高二、うちは三年で、部活も引退して早くも進路のこと考える時期や。

 ほんま、時が経つのは早いもんやで。

 ほんまに……。

 ……。

 あかん、なんか感傷的になってもうた。

洋榎「絹……」

絹恵「なにー?」

洋榎「大きなったな……ほんまに」

絹恵「なに……? 急にどうしたん? ていうかどこ見て言うとるん?」

 豊満な胸をかき抱くように隠す絹。



 いや、隠せてへんし胸見て言ったわけちゃうし、おねーちゃん相手にちょっと自意識過剰ちゃうか。

 まあ絹は美人さんやし~? スタイルもグンバツでいらっしゃるからして? たとえ姉が相手でも性的な視線を意識してまうのはしゃあないってことなんやろけど~?

洋榎「……」

絹恵「お姉ちゃん?」

 ほんま、どこで差がついたんや……。

 この胸部の成長の差は……。

 毎日同じもん食べとるはずやのに。

 帰ったら揉みしだいたろ、腹いせに。

 そんくらい許されるやろ。

 ほんま、時が経つのは早い。

 うちももう十八、もはや胸の成長にも希望を持てん歳や。

 ままならんもんやで……ほんまに、時の流れっちゅうのは。

由子「洋榎できたのよー。ご所望の金色リボンよー」

洋榎「おう、できたか。どれどれ……」

由子「銀もできたのよー」

絹恵「ほんまに作ったんですか」


由子「さー、ふたりとも装着するのよー、写めるのよー」

豊音「私も撮っていいかなー?」

洋榎「おう、ええで」

 由子パシャリ、豊音パシャリ。

 のよーとだよーの二人はご満悦やな。

豊音「いい絵だよー」

由子「姉妹コンビやねー、これは保存よー」

洋榎「うちの携帯にも送っといてや。恭子も撮ってええんやで」

恭子「……」

洋榎「恭子?」

恭子「え?」

洋榎「写真撮らんでええんか? 洋榎ちゃん金ピカピン絹ちゃんギンギラギンやで?」

恭子「ああ、はい。ほな撮っときましょか……」

洋榎「……?」

 恭子、心ここにあらずって感じやな。

 いや、この場合、心ここにあらずなんは遊んどるうちらのほうか。

 恭子の奴、えらい集中しとるもんな。

 無理ないわ、インハイでかわいい後輩凹ませてくれた宮守の先鋒と、自分のこといいように翻弄してくれた大将が相手やもんな。


 白望にタンマ入ったから警戒しとるんやろ。

 豊音もへらへらしとるようで手ぇ抜いてるわけでもないみたいやし、うちも本気だしとこか。

 まぁ――

白望「……」

豊音「いらないのしかこないよー」

洋榎「……」

 この二人がなんでおるんかは、疑問やけどな。

 まあ、どうせ代行が、いつもの謎ブッキング能力発揮して呼んだんやろ。

  
 気にせんと打っといたらええわ。 


   *


   *


 やっぱり部活楽しいのよー。

 今日は知らないお友達もいてなお楽しいのよー。

 受験勉強なんてうっちゃって麻雀に折り紙よー。

 宮守の子がなんでいるのかわかんないけどー、キーウィの子も来ればよかったのにー。


   *


   *


絹「ちょっとお手洗い行ってくる」

漫「あ、うちも」

洋榎「連れションかい」

絹「おねーちゃん、下品」

漫「あはは」

 部室の扉ガラリ、ピシャリ。

 廊下に出て二人きりになったところで、うち、愛宕絹恵は同級生の漫ちゃんに、ずっと気になっていたことを聞いてみた。

絹「なぁ、漫ちゃん」

漫「なに?」

絹「宮守の二人、なんでおるん?」

漫「え?」

絹「ん?」

漫「いや……うちもそれ、聞こうと思てたんやけど」

絹「漫ちゃんも知らんの?」

漫「うん。なにも聞いてへんよ……?」

絹「ふうん……」

漫「……」

絹「……」

漫「まあ――」

絹「ん?」

漫「あれでしょ? 代行が呼んだんでしょ。うちらの練習相手に」

絹「ああ、そうか……」

漫「うん……」


絹「……」

 漫ちゃんの言うことはなんもおかしないけど……。

 あの二人、打ち筋が特殊すぎて秋大の練習になるとは思えへんのやけどな……。

 代行って、いつも外部から練習相手呼ぶときは試合に合わせた面子呼ぶよな……?

絹「うーん……」

漫「絹ちゃん?」

絹「ま、ええか~」

漫「?」

 考えてもしゃーないし~、今さらなんでおるんとか聞きづらいし~。

 お姉ちゃんも楽しそうやし、ええよね~。


  *


  *


赤阪「ん~」

白望「……」

豊音「他校の監督さんに見てもらうの、緊張するねー」

白望「だね……」

赤阪「あ~、気にせんとのびのび打ってや~」

豊音「はーい」

 ん~。

 二人ともおもろい打ち方するわ~。

 うちの子らも難儀しとったもんな~。

白望「……」

赤阪「……」

 小瀬川ちゃんは六順でピンフドラ2の手ぇ張ったのに~、聴牌に取らんとタンマ入れて、なんやかんやでタンヤオ、ピンフ三色ドラ2、ダマでも跳満一向聴~。

 早い順目やしリーチかければええのにって思たけど~、迷うと手ぇ高なるのってほんまなんやね~、不思議な感じやわ~。

 それに比べて姉帯ちゃんはこの局調子悪そうやね~、迷ったときは小瀬川ちゃんの力のほうが強いんやろか~?

 単になんにも力使ってないって線もあるけど~、ていうかどうもその可能性が高いけど~、なんやろ~、洋榎ちゃんの実力見たいんかな~?

 洋榎ちゃん、ちょっとくらい変な力使われてもしっかり対応できる子やから遠慮せんでもええのに~。

白望「……」

赤阪「……」

 小瀬川ちゃん、聴牌~。


 洋榎ちゃんもなんか張ってそうな気配やな~……。

 ちょっと洋榎ちゃんの手牌見とこか~。

赤阪「……」

 お~お~、あらあら~。

 洋榎ちゃん、さすがやな~。

 小瀬川ちゃんの待ち牌、ちゃっかり手牌に入れとるわ~……。

 でも~、まだ枯れたわけちゃうし~――

白望「ツモ、3000、6000」

 ――やっぱり、和了るのは小瀬川ちゃんか~。

 裏乗らず~倍満ならず~。

洋榎「う~ん、あかんかー……」

豊音「やられたよー」

赤阪「やるね~」

白望「いえ……」

 二回戦はほんま、巡り合わせがよかったね~。

 さすが、熊倉さんの教え子なだけあるわ~。

絹恵「ただいま~」

漫「もどりました~」

赤阪「おかえり~」

 連れションコンビご帰還~。


漫「あ、一局おわっとる」

由子「いいとこ見逃したのよー」

洋榎「なんもいいとこちゃうし。洋榎ちゃんがばしっと和了るとこ見逃してへんから大丈夫や」

漫「あ、それはいつも見てるんで……別にもうええかなって」

洋榎「なんやと~? 漫~……お前ほんま、生意気な口聞いとったら、おっぱいおしぼりすんで……?」

漫「おしぼり!?」

絹恵「! あかん、おねーちゃん! いくら部活の後輩やからって、よその子にあれはあかん!」

漫「絹ちゃんやられたことあるん!?」

絹恵「しょっちゅうや!」

洋榎「ほんま、めろめろにすんで……?」

漫「めろめろ……!? 体罰の類やないんですか!?」

絹恵「おねーちゃんの乳捌きは天下一品や!」

洋榎「ほんま……洋榎ちゃん浪速のゴールドフィンガーやで……?」

白望「興味あるなぁ……洋榎、ちょっとやって見せてよ」

豊音「うわーうわー、私も見てみたいよー」


洋榎「おう、ええで。よっしゃほな漫、まず四つん這いんなりぃ――」

漫「いやです! もうその時点でなんかやらしいです!」

白望「……! そうか。それで垂れさがったおっぱいを……?」

洋榎「そういうこっちゃ。下から牛の搾乳のように――」

漫「あんたら普段姉妹で何やっとんねん……!」

絹恵「え? スキンシップの範疇やと思うけど、そんなにおかしいかな……」

漫「変態プレイの域やから!」

洋榎「おうおう漫、うちらの美しい姉妹愛を変態プレイとは随分やないかい。もうええ、わかった。ええからブラはずして四つん這いんなりぃ。そしたらわかるわ、なんもやらしいことないって」

漫「何をどう考えてもやらしいですって!」

豊音「私もしぼってみたいよー」

洋榎「ええで。うちが教えたる。ほら漫、お客さんもこう言っとることやしはよ脱ぎや」

漫「いやです! そんなもん完全に性的虐待やないですか!」

赤阪「え~、やらへんの~? うちも見てみたいのに~」

漫「教師が虐め容認すな!」

赤阪「んふふ~」

 別にええも~ん。

 うちが止めんでも、末原ちゃんがしっかりストップかけてくれるも~ん。


漫「末原先輩! 黙ってないでこの人らになんか言うたってくださいよ!」

恭子「……」

赤阪「……?」

 あれ~?

漫「? 先輩?」

恭子「え、ああ。別にええんちゃう? 乳搾りくらい」

漫「!?」

洋榎「堪忍しいや、漫ゥ~。恭子のOk出たってことは、これはもうやる流れやで」

由子「これはまたもシャッターチャンスなのよー」

豊音「携帯準備OKだよー」

白望「壮観だろうなぁ……漫の乳搾り」

漫「どないしたんですか先輩! 先輩やったら止めてくれると思たのに……!」

恭子「は? え、みんなでどっかの牧場でも遊びに行こうって話ちゃうの?」

漫「ちゃいますよ~! うちのお乳がですね!?」

恭子「はぁ? 漫ちゃんのお乳がどうかしたん?」

由子「聞いてなかったのー?」

洋榎「……恭子、今日はほんまにどうしたんや。ぼっけぇーっとして……」

恭子「い、いや……すんません。ちょっと対局に集中してて……」

赤阪「……」

 ほんまにそれだけやろか~……?


 いま、ちらっと宮守の二人のこと見たけど~、さっきから末原ちゃん、二人のことえらい気にしとんな~。

 最初は単に、二人のこと警戒してるんやと思てたけど、どうもそれだけやないみたいやね~……。

 まあ~、でも気持ちはわかるわ~。

 この二人~――

豊音「やらないのかなー、乳搾りー」

白望「みたいだね……」

豊音「シロー、あとでシロにおしぼりやっていいー?」

白望「うーん……痛くしないなら、いいよ……」

豊音「やったー」

白望「ほどほどにね……」

赤阪「……」

 なんでおるんやろね~。

 誰が呼んだんやろ~。

 不思議な感じやわ~。


   *


   *


 そう――

 この日、私、小瀬川白望と姉帯豊音は、姫松高校に潜入していた。

 誰の許可も得ず敷地内に侵入し、なんの挨拶もなく、インターハイで戦ってそれきりの姫松高校レギュラーと卓を囲んでいた。

 ブラウスは、ここに来る前に似たタイプのものを購入して着替えた。

 ブレザーはほとんど同じなので宮守のものをそのまま使い、リボンは潜入したあと校内で、愛宕おねーさんと真瀬さんのものを拝借して着けた。

 簡単な変装である。

 そのまま放課後になるまで校内を堂々と歩いてみたが、豊音の長身が人目を惹いたくらいで、誰にも見咎められることはなかった。

 放課後を待ち、部活に向かう三年生三人のあとを尾け、私たちは首尾よく部室に紛れ込んだ。

 一般の生徒と違い、麻雀部員の中には私たちを覚えている者も多数いたが、三年生三人と入室のタイミングを合わせ堂々と振舞ったことで、みんな首をかしげつつも私と豊音を受け入れてくれた。

 堂々としていればバレない、バレても、自分はここにいて当たり前だという態度でいれば、相手が不審を口に出すことはない。


 不審が表面化しない限り、姫松高校麻雀部の皆さんは私たちを、違和感を覚えつつも受け入れてくれるだろう、という計算があった。

 果たして、私たちの潜入は計算どおりに事が運んだ。

 ――監督あたりが練習相手として呼んだのだろう。

 とでも考えたのか、姫松の皆さんは私たちと同卓してくれさえした。

 赤阪監督代行に身咎められるのが唯一の懸念だったが、何も言われることはなかった。

 案外、この人はこの人で、三年生の誰かが私たちを呼んだとでも思っているのかもしれない。

 少し調子に乗り、姫松のみなさんを下の名前で呼び捨てにしてみたりしたが、愛宕おねーさんなどは「お、名前呼びでええんかい」といった感じでこちらを名前で呼び返してくれた。

 さりげなくこちらのフルネームを覚えていてくれるあたり、さすがである。

 ちょっと嬉しい。この辺がスターたる所以か。

 真瀬さんは、なんか知らんけど楽しいのよーって感じ。

 二年生の二人は現役部員の緊張感ゆえか妙に思っていたようだが、結局は私たちを受け入れた三年生の対応に従うことにしたようだ。

 ただ、一人……。

恭子「……」

豊音「……」

白望「……」


 末原さんだけが、私たちへの不審を隠そうとしなかった。

 さっきから、「なんでおるん、なんでおるんやこいつら!」といった熱烈な視線をこちらに向けてくる。

 愛宕おねーさんと真瀬さんはまったく気づいていないが、拝借したリボンにも気づいている可能性が高い。

 さっき折り紙リボンの話をしていたとき、末原さんの視線がこちらの首元と他の三年二人の間を忙しなく行き来していた。

 きっと、この人は気づいている。

 少し姫松のみなさんと話した限りでは、どうも末原さんはツッコミ役というか、みんなのボケを拾う役割のようだし。

 一歩引いた立場にいるというか、なんというか。

 そのおかげで、細かい異常によく気がついている、という感じ。

白望「……」

 これは時間の問題かもしれないな、バレるのも。


 末原さんも、いつまでも黙ってはいないだろうし。

 しかし、まぁ、それでもいいかな……。

 姫松に来た目的は、もうすぐ果たされる。

豊音「……んふふー」

白望「……」

 豊音、この局は調子が良さそう。

恭子「……」

 そして、末原さんも手が早そうな気配。

 もうすぐ、目的が果たせる。

 私たちが今日、姫松にやって来た目的は――

恭子「……あ、リーチで」

洋榎「おう、早いな」

白望「……!」

豊音「!」

恭子「あ」

 なぜ私たちがいるのかという疑問に気を取られ、末原さんは豊音の力のことを失念し、リーチを掛けてしまったようだ。

 自分の失態に気づき、目を剥く末原さん。


白望「――ふっ」

豊音「にやり」

恭子「――っ!」

 ――今日、私たちが姫松にやって来た理由。

 それは、

豊音「じゃあ、私もリーチ!」

恭子「あ、ああ……!」

 末原さんを、追いかけるためだ。

 豊音は末原さんをそがるため、私はそのサポートのために、姫松までやって来たのだった。

 なぜ末原さんをわなくためにわざわざ大阪まで来たのかといえば……。

 インハイが終わり、二学期に入って一週間が過ぎた頃、宮守ではこんなことがあった。

 少し、回想。


   * *


   * *


 二学期が始まって一週間が過ぎたある日の放課後。

 私と塞、胡桃の三人は部室に来ていた。

 遠慮する下級生もおらず、部室は引退後も変わらず、私たちの溜まり場になっていた。

 サンマをしながらエイスリンと豊音を待っていると、塞が手牌に視線を落としたまま言った。

塞『シロ、知ってる?』

白望『なにが……?』

塞『運動部の子たちが最近よく話してる噂』

白望『知らない……どんな話?』

塞『二学期が始まって何日かすぎた頃……ある運動部の一年生が、部活終わりに体育館横の水道で顔を洗っていると……』

 目を半眼に、声を潜める塞。

 話の合間に妙なタメを作るその語り口は、まるで――

白望『え、何、怖い話……?』

 そんな……唐突に怖い話とかされると困るんだけど。


胡桃『大丈夫、怖くないから。特に私たちは』

白望『私たちは?』

塞『もう、胡桃、ばらさないでよ』

胡桃『ごめん』

白望『どういうこと?』

塞『仕切り直し。ある運動部の一年生が……』

 再び声を潜める塞。

白望『あくまで怪談のていでいくんだね……』

塞『流し台で顔を洗っていたら、突然後ろから誰かに抱きしめられたの。最初はその子、同じ部活の子がふざけてじゃれついてきてるんだと思って笑ってたんだけど、何か様子がおかしいことに気づいたの……』

白望『どうおかしかったの……』

塞『その後ろから抱き付いてきた誰かはね、何も喋らないの。何も言わないまま、ただがっしりその子を抱きしめて、「ふーふー」って息を荒げてたんだって』

白望『変態さん……? 侵入者……?』

 え、そっち系の怖い話なの……?


塞『その子もそう思ったみたいね。でも、どうやらそういうわけでもない。自分の胸元に組まれた後ろの誰かの腕は女性のもので、うちの制服を着ていたの。背面に感じる相手の体の感触も、間違いなく女のものだった』

白望『へ、変態レズだったの……?』

塞『ちがうわよ。それでね、その子は怖くなって聞いたの「ねえ、誰? 誰なの?」すると後ろの誰かは――』

白望『……ごくり』

塞『「ふーっ! ふーっ!」とさらに息を荒げ、抱きつく腕の力を強め体を密着させてきたんだってぇ!!』

白望『ひぇ……』

 内容よりも塞の話し方が怖い……!

胡桃『バカみたい!』

塞『より強く密着されたことでその子は気づいた。後頭部に何か柔らかな感触がある。何か二つの柔らかくて丸いものの間に、自分の頭がむにゅっと納まっている。すぐにそれが胸だとわかった。自分の後頭部が収まっているのは胸の谷間だと。その子はパレー部員で、身長も170センチあったのね。それで、そんな自分の後頭部に直立した状態で胸が当たるということは、背後の女は恐ろしく背が高いんだって、連鎖的に気づいたの』

白望『……』

 ん……?


塞『170センチといえば、女子としては結構な長身よね。その自分より、少なくとも頭二つ分は大きい女の子なんて見たことがない、よく見ると腕もすごく長い。なんで何も言わないの? なんで離してくれないの? その子は恐怖で動けなくなり、声も出せなくなってしまったそうよ』

白望『…………』

 170センチ、プラス頭二つ分って、それ……。

塞『どのくらいそうしていたかわからない。五分――十分――? その子は目を瞑り、ひたすら謎の人物の荒い息遣いを聞きながら不可解な抱擁に耐えたんだって』

白望『………………』

塞『全身に嫌な汗を滲ませながらじっと耐えていると、不意に抱きしめる腕が緩んでその子は開放された。おそるおそる目を開け、振り返るとそこには……』

エイスリン『キャ~』

豊音『待て~』

白望『……』 

塞『そこには……』

胡桃『……』

 いよいよ話のオチという段になったとき、部室の扉が勢いよく開き、エイスリンと豊音が駆け込んできた。



 どうも二人は追いかけっこをしているらしい。
 
 ふざけて遊んでいるようだ。

豊音『おっかけるよ~』

エイスリン『きゃ~』

白望『……』

 卓の周りをぐるぐる駆け回る二人。

豊音『捕まえたよー』

エイスリン『ツカマッタヨー』

 追いかけっこは、豊音がエイスリンを後ろから抱きつくように捕まえて決着。

 走ってここまできたせいで、二人とも行き息が荒い。

 「ふーふー」と、満足げにエイスリンを抱きしめる豊音。

 きっと塞の話のバレー部員も、こんな感じで抱きしめられていたに違いない。

塞『ふ、振り返るとそこには――』

白望『豊音がいたんだね……?』

塞『……うん』



 なるほど、たしかに怖い話ではない。

 胡桃の言っていた「特に私たちは」とはこういう意味か。

白望『それで、その結果どういう噂が流れたの……』
 
胡桃『部活終わりに一人になると、運動部の一、二年生を狙うすごく大きい三年生が現れるって。追いかけられたり後ろから抱きしめられたりするって』

白望『ふうん……豊音』

豊音『なにー?』

白望『なんで運動部の子を追いかけるの?』

豊音『んんー? えへへ~』

エイスリン『?』

 エイスリンを抱きしめたまま、悪戯がばれた子供のように笑う豊音。

豊音『スパッツはいてたりー、髪の毛アップにしてる子見ると末原さんを思い出すよー。うずうずしてつい追っかけちゃうよー』

白望『なるほど……』

 インハイが終わってから、やけにべたべたと後ろからくっついてくると思ったら……。



 末原さんを追っかけた楽しい記憶を反芻していたのか。

 末原さん、いい逃げっぷり、そして捕まりっぷりだったもんね。

 あの、異常を察しつつも果敢に先制リーチをかける姿が、豊音の脳裏に強く焼きついているのだろう。

 背向の豊音的に、彼女は逸材だったということか。

豊音『んふふ~、んふふ~……! 楽しかったなぁ……楽しかったなぁ……インターハイ……また末原さんと打ちたいなー……!』  

 捕まえたエイスリンの頭に頬をこすりつけながら、ぶつぶつと呟く豊音。

白望『……?』

エイスリン『ト、トヨネ……?』

豊音『ふーっ……ふーっ……』
 
 息を荒げる豊音。
 エイスリンは困惑している。

 スキンシップにしてはやや過剰というか、密着する時間が長い。

 それになんだか、豊音の様子がおかしいような……。

塞『と、豊音……? そろそろエイスリン離してあげたら……?』

豊音『え? え? なんでー? せっかく捕まえたのにー……!』



 ふーっ! ふーっ! と、豊音の息がさらに荒くなる。

 エイスリンを抱きしめる腕に、傍目にも力がこもっていくのがわかる。

 目がぎらぎらしている。

白望『と、豊音……?』

 こ、興奮している……? 豊音……これは……!

エイスリン『イ、イタイ……! トヨネ、ハナシテ……!』

豊音『いやだよー……! 逃がさないよー……!』

エイスリン『ヒィ』

胡桃『豊音……!』

 見かねた胡桃が立ち上がり、豊音をエイスリンから引き剥がそうとするも、到底力が及ばない。

塞『豊音、どうしちゃったの……!?』

白望『豊音……!』

 明らかに何かがおかしい。

 私と塞も立ち上がり、胡桃に手を貸す。

 しかし、三人がかりでも豊音を引き離せない。


エイスリン『グ、グエ……!』

豊音『エイスリンさん……エイスリンさん……』

 エイスリンの首が絞まる。
 豊音ホールドに耐え切れなくなり膝をつき、ついには床に、うつ伏せにくず折れてしまう。

 それでも豊音は離れない。
 恍惚とした表情でエイスリンの頭髪に鼻先を埋め、ふごふご匂いをかいでいる。

 飼い主にじゃれつく大型犬のように見えなくもない。
 微笑ましい光景と言えなくもない。

 だが、豊音の目の輝きが尋常ではなかった。

 いまの豊音からは、普段とは違う何かを感じる。 

 これはまるで、対局中に力を使ったときのような……。

 しかし、力を使ったからといて、このような異常な興奮状態に陥った豊音は見たことがない。

 いったいどうしてしまったというのか。

エイスリン『トヨネ……! ヤメテ……!』

白望『……!』



 とにもかくにも、豊音をエイスリンから引き剥がさなければ。

 塞と胡桃とともに豊音をぐいぐい引っ張るが、うんともすんともいわない。

豊音『ふぅっ……ふぅっ……』

エイスリン『ウウ……トヨネ、ドイテ……』 

豊音『ふっ、ふっ……!』

エイスリン『!』

 豊音はエイスリンに体をこすり付けるように、体を上下させ始めた。

 腰がくいくい動いている。

塞『とっ、豊音! こら! やめなさい!』

 塞が顔を赤くして豊音を止める。

 たしかに、これはちょっとまずい……。

 どうまずいのかというと――

胡桃『豊音ストップ! 破廉恥だよ!』

 そう、なんかエロい。



 体の大きな豊音が小柄なエイスリンをうつ伏せに組み敷き、息を荒げながら体をこすり付けるその様は、なんだか官能的で、背徳的だった。

 ものすごくいけないことをしているように見える。

エイスリン『アワワ……!』

 背面の感触で自分が豊音に何をされているのかを理解したらしいエイスリンが、カタカタと震え出す。
 瞳にみるみる涙が溜まっていく。

エイスリン『トヨネ、ヤメテ……! ハズカシイヨ……!』

白望・塞・胡桃『――――』

 絶句する。

 エイスリンの「恥ずかしい」という言葉が、傍観していた私たちに現状を正しく理解させた。

 なんだかいやらしいことをしているように見えてはいたが、豊音はやはり……その、つまり……エイスリンにあれをあれして……?

 そんな風に見える、というだけだと思っていたのだけど……え? 嘘、まさか本当に?

 つい、二人の体の密着具合を確認する。

 うつ伏せに倒れたエイスリンに、同じくうつ伏せで覆いかぶさり、一切遠慮なく体をこすりつける豊音。

豊音『ふぅっ……ふっっうう……!』

エイスリン『イヤァ……』

 豊音ずりずり、エイスリンいやいや。


白望『……』

 ……OK。

 落ち着け、落ち着け私……。

 体全体が密着しているので、たしかに豊音はいやらしい意味で体をこすりつけているようにも見える。
 だが、二人は着衣のままだし、その、あれだ、あれ……大事な部分をそれほどがっつりこすりつけているわけではない。

 大丈夫……大丈夫……なぜ豊音が急にこんな奇行に走ったのかはわからないが……。

白望『うん、違う。そんなはずがない……』

 これは性的なあれこれではない。

 豊音がそんなことをするはずがない。

 エイスリンから引き剥がし落ち着かせれば、いつもの豊音に戻ってくれるはずだ。
 
 そうに決まっている。



 私は豊音の肩に手を掛けた。

白望『豊音、お願い落ち着いて……やめよ? ね、やめよ……?』

豊音『ふーっ……! ふーっ……!』

 妙な焦燥感に駆られ肩を揺するが、豊音はこちらを見向きもしない。

 豊音の上下運動は止まず、その興奮はより一層高まっていくようだった。

塞『豊音……! こら、やめなさいってば!』

豊音『ふーっ!』

 塞が豊音の襟首を掴引っ張る。
 通行人の足にしがみつき腰を振る飼い犬。そのリードを引っ張る飼い主のような、強引な動作。

 しかし、それでも豊音は止まらない。
 止まるどころか、塞の強引な制止に反発するように、豊音の息遣いと上下運動はさらに激しくなっていく。

豊音『ふっ! ふっ! ふっ! ふっ!』

エイスリン『ア! ア! ア! ア!』

 息遣いは浅く、腰使いとともに速くなる。
 
 エイスリンのあえ――うめき声もそれと同調していく。



 ま、まずい……! これでは、まるで豊音は……!

白望『豊音! お願いやめて! 今ならまだ間に合うから!』

胡桃『豊音ぇ! おすわり! おすわりだから! 伏せじゃないでしょ!』

塞『あ、あ、えっと、あ! ほら、豊音お菓子! こっちにお菓子あるよ! 早く来ないと私食べちゃうよ!?』

 動転した塞と胡桃が豊音を完全に犬扱いし始める。

 気持ちはわかる。
 それほど今の豊音には言葉が通じる気がしないし、速まる上下運動はまるで――

豊音『ふっ!ふっ!ふっ! ふうっ! ――あッ!』 

エイスリン『!!』

塞『あ』

胡桃『ああ……!』

白望『……ッ!』

 ――まるで。



 近づく絶頂に向かい、興奮を高め、性感を強めるような――そんな、うご……きに、

音『ん!んっ……! ッ! ッ! ~~~~ッッ!!!』

 み、見え……。

エイスリン『ア、ア……!』

豊音『~~……ッ! ハアッ! ハアッ! ああ~……』

エイスリン『ヒグッ。フエエ……』

 ……豊音は。

 きつく目を閉じ、顔を真っ赤にしてエイスリンに激しく体をこすりつけ、最後に何かに耐えるように体を強張らせ、数度、体を大きく痙攣させた。

 痙攣が治まると、それまでの獣じみた激しい動きが嘘のように体を弛緩させ、エイスリンに体重を預けた。

 そして、

豊音『ふぅ……』

 と。

 ものすごく爽やかな顔で息をひとつ吐いた。


白望『……』

塞『…………』

胡桃『………………』

豊音『ふふ……』

エイスリン『ヒック……グスッ……』

 「事」が終わり、豊音はエイスリンの首筋に唇を這わせ、まだ赤みの残る顔に艶のある笑みを浮かべていた。

 いまにも「ふふ……よかったわよ、エイスリン」とでも言い出しそうな、普段の豊音からは想像もできない大人びた表情だった。

 いったい、あの妖艶な雪国美人は誰なのか。

 私たちの可愛い豊音はどこに行ってしまったのか。

 言葉もない。

 塞と胡桃は青ざめた顔で二人を見詰めていた。

 エイスリンの漏らす嗚咽だけが、断続的に部室内に響く。

 輝きを失った瞳でされるがままのエイスリンと、明らかに正気を失った様子の豊音。

 今の二人を見ていればわかる。
 先ほどの塞の話は、やはり怖い話だったのだと。

 今の豊音に後ろから突然抱きつかれたら、私とて恐怖に震えるかもしれない。


 誰も言葉を発することができないまま、数十秒が過ぎた。
 
 沈黙と気まずい空気に耐え切れなくなり、私は口を開いた。

白望『知ってる……?』

塞『なにが……?』

白望『猫ってさ……犬もなのかな? わかんないけど、とにかく猫ってさ』

胡桃『……?』

白望『子猫同士でじゃれあってるうちに、発情して交尾の真似事をすることがあるらしい……そういうのが、将来の生殖の、ほんとの交尾の練習になってるんだってさ』

塞『へぇ……』

胡桃『ふぅん……』

白望『飼い猫だと、飼い主の腕とか足とか、お気に入りの毛布とかに体をこすりつけて、練習をするわけ……それでね』

塞『……ああ』

 私が何を言いたいのか察したらしい塞が、合点がいったように小さく声を漏らす。  

白望『い、今の豊音のも、そういうあれなんじゃないかなって……』

塞『……』

胡桃『……』

 ど、どうだろう……?

 無理あるかな、やっぱり……。



塞『あ』

白望『……』

塞『ああ~……』

胡桃『そっかぁ~……』

白望『……』

 どうやら二人は、無理矢理にでも納得することにしたようだ。

 そういうことにしておこう、ということだ。

 私の思惑を察してくれたらしい。

塞『練習! 練習ね~……そっかぁ……』

胡桃『そっかそっか、ああ、なんだぁ……。そうだよね! 豊音がエイちゃんをいきなりナニしちゃうわけないもんね!』  

白望『そ、そうだよ……だから、その、今のノーカン、だよね……』

塞『! うん、ノーカン!』

胡桃『ノーカンノーカン!』

白望・塞・胡桃『ふふふ』

 なんか、同意して貰えたら安心してきた……。

 もうちょい押しておこうかな。



白望『ノ~カン……』 

 手拍子を打ちつつ、塞と胡桃に同調を促す。

塞・胡桃『……! ノ~カン……!』

白望・塞・胡桃『ノ~カン』

 そう、今のは無し、ノーカウント。

 私たちは手拍子のテンポを上ながら、リズムよく声高に叫んだ。

白望・塞・胡桃『ノ~カン! ノ~カン! ノ~カン! ノ~カン!』

エイスリン『ノーカン……?』

塞『うん! そうだよ、エイスリン! ノーカン! ノーカウント!』

胡桃『よかったね、エイちゃん!』

白望『ほんと、よかった……』

 宮守女子麻雀部は今日も平和。

 部員同士の淫行なんてなかった。

 あったのは、見るに微笑ましいじゃれあいの延長上にある、交尾の練習……。

 何も疚しいことなどないのだ。

 さらに手拍子のテンポをあげていく。



 さらに手拍子のテンポをあげていく。

白望・塞・胡桃『ノーカン! ノーカン! ノーカン! ノーカン!』

エイスリン『……』

 手拍子ともにノーカンコール。

 班長は押し切れなかったが、私たちはいける……!

 このまま押し切ってやる……!
 
白望・塞・胡桃『ノーカン! ノーカン! ノーカン! ノーカン! ノーカ――』
       
エイスリン『ソンナワケナイデショ!!』

白望・塞・胡桃『!!!』

 え、エイスリンが怒った……!?

エイスリン『トヨネ、イマ、アキラカニガチダッタヨ! イッチャッテタヨ! ゼッチョウダヨ!』

 そんな身も蓋もない……!

塞『そんな、だってエイスリン……』

胡桃『豊音がそんなことするわけが……』

エイスリン『ソノメデ、ミテタデショ! ゲンジツトウヒ、ダメ!』

塞『だって……だってエイスリン……! インハイ終わって! あとは受験勉強がんばって卒業まで五人で楽しく過ごすだけだと思ってたのに! こんな……こんなブレイクスルー私いやだよ!』



 私も塞に同感だった。

 今までどおり、五人で仲良くのほほんと卒業まで過ごしていければと思っていたのに、部員同士の淫行で関係にひびが入るなんてごめんだった。 

 同性での恋愛関係への発展なんて、私たちの誰も望んでいない。

 ヘビーな展開が待っていそうで、想像するだけでものすごくだるい。

胡桃『豊音とエイちゃんはえっちなことなんてしてないもん! 今のは交尾の練習だもん! ノーカンだもん!』

エイスリン『コウビノレンシュウッテ、ソレ、エッチデショ!』

塞・胡桃『!!?』

白望『……!!』

 エイスリン……! それ言っちゃうかぁ……!

エイスリン『コウビノレンシュウ、オンナノコドウシデヤッタラ! シチャッタヨウナモンデショ!』

塞・胡桃『!!!!!』

白望『くっ……!』

 言わないでおいたのに……!

エイスリン『トヨネ、イマ、ナンカオカシイ! マージャン、スルトキミタイ! オーラ、デッパナシ! ボウソウジョウタイ!』

塞・胡桃『……!』

エイスリン『センセイ、ヨンデキテ! センセイナラ、トメラレルカモシレナイデショ! ゲンジツトウヒ、シテルバアイ、チガウ!』

塞・胡桃『は、はい……』



白望『……』

 押し切れなかった。
 やっぱり、ノーカンコールの必要に迫られた時点でもう駄目なんだなぁ……。

 私たちは、意外に冷静なエイスリンの指示に従うことにした。

胡桃『……じゃあ、私先生呼んでくる』

塞『あ、うん。お願い……』

 胡桃が部室を出ようと扉に向かって歩き出した、その時だった。

豊音『んん~?』

白望『!』

 それまで、そがニー……いや、そがずり? に夢中だった豊音が、ぎょろりと視線をこちらに向けた。
 エイスリンを組み敷く体勢を維持したまま、首だけが不気味に動く。
 
 顔を覆った髪の間から覗く双眸は血走り、未だ豊音が狂気の獣欲に支配されていることを私たちに知らせていた。

 恐怖に身がすくむ。 

 豊音はどうやら、胡桃を見ているようだった。



豊音『く、くく、く・る・みぃ~~~~?』

胡桃『?』

豊音『D、d、どどこ、いくのかなァ~~~?』

塞『豊音……?』

白望『豊音……まさか……』

 く、胡桃が自分に背中を向けたことに反応した……!?

豊音『おっ!O・O ! OKKAKERU、よっぉぉおおおおお!!』

胡桃『! ひ! うわぁ!』

 四つ足で床を這い、一息に胡桃の背に取り付く豊音。

塞『いやぁ! 胡桃ぃぃっ!』

白望『豊音! お願い! もうやめて!』

豊音『うがー』

胡桃『ひぃぃぃ』

 あっさりと組しかれてしまう胡桃。

 しかし、エイスリンよりもさらに小柄な胡桃だとベストな体勢に持っていくのが難しいらしく、豊音はもどかしそうに身をよじる。


 やがて豊音はベストな体勢を見つけた。体を丸め、胡桃に覆い被さる。

 ちっさいのがおっきいのに襲われるその様は、エイスリンのとき以上に背徳的で、危機感を感じる絵面だった。

 非常にまずい感じである。

胡桃『あ、ああ……』

豊音『ふふ~……』

 準備完了。
 胡桃もそれを察したらしく、青い顔でカタカタ震え出す。

塞『豊音! やめなさいったら!』

白望『……!』

 いけない……このままじゃエイスリンに続いて胡桃までも……!

 どうする、どうすれば豊音を止められる……! 今から熊倉先生を呼びに行っても間に合わない。そもそも、呼んで来たところで先生が対処法を知っているとは限らない。

 私たちでなんとかするしかない。

 考えろ……!

 何か、何かないのか……豊音を元に戻す方法、それが叶わなくとも、胡桃から引き剥がす方法は……!


白望『……』

 「マージャン、スルトキミタイ」「ボウソウジョウタイ」   
 
 どちらもエイスリンの言葉。

 確かに今の豊音からは、麻雀を打つときのような力の高まりを感じる。
 そしてそれが暴走した結果が、色情狂雪国美人豊音ちゃんなのだとしたら、打てる手は一つだけ。

白望『塞』

塞『な、なに?』

白望『私が豊音を引きつける。豊音が私に取り付いたら、豊音を塞いで』

 これしかあるまい。

 塞が豊音を塞ぐには、相手をしっかりと見据える必要がある。
 体を丸め、顔を伏せている今の状態では効果が薄いかもしれない。

 私なら、塞が塞ぐのに無理のない体勢で押し倒されることが可能なはずだ。

塞『塞ぐって、やっぱり、そいういうことなの……!?』

白望『多分。時間がない、すぐやるよ』

塞『う、うん』

シロ『いくよ』

 私は豊音に背を向け、扉に向かって歩き出した。

 豊音が反応を示す行動はもうわかっている。

 豊音に背を向け、豊音のもとから遠ざかる素振りを見せれば、反応する。



豊音『シロぉ~~』

 来た!

 振り返りたくなるのを堪え、ドアノブに手を掛ける。

豊音『あれーあれーあれあれあれあれどこ行くのー? ねぇ、どこ行くのー? ねぇねぇねぇねぇねぇ…………』

白望『……』

 無視して扉に手を掛ける。

豊音『ねぇねぇ…………ねぇっってばぁっ!!』

白望『!』

 直後、背中に衝撃。

白望『ぐ!』

豊音『つかまえたよー』

 豊音は私の頭を抱きかかえ、両足で胴体を挟み、無理矢理おぶさる形で取り付いてきた。

 背中の加重にふらつき、仰向けに倒れそうになる。
 反射的に背中の豊音を庇い、床に膝をつく。

 そのまま手も床につき、私は四つん這いの姿勢になった。


豊音『うひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ』

白望『……くっ!』

 殺せ! という気分。

 実際に自分がやられてみると、泣いていたエイスリンの気持ちがよくわかる。

 同性で友達の豊音が相手でも、こうしてむりやり押し倒されると悲しい気持ちになる。
 悔しいやら切ないやらで、涙が滲む。

白望『と、豊音、駄目でしょ、こんなことしちゃ……おりて。ね? 怒らないから、もうやめよ? ね?』

豊音『はあーっ! はあーっ! あむっ。れろれろれろれろ』

白望『うう……』

 聞く耳持たず。

 豊音が私の後ろ髪をかき上げ、首筋を食む。
 舌が首を這う。
 素肌に感じる口内の熱、粘膜、唾液の感触。

 くすぐったくはあったが、不思議と嫌ではなかった。

豊音『ふががー』

白望『ん、いや……!』


 豊音の髪が、私の顔の側面に垂れ下がる。
 整髪料、シャンプー、豊音が最近覚えた薄化粧の香り。

 それら人工香料の匂いに混じり、鼻腔をくすぐる豊音自身の体臭。
 エイスリンと一戦交えたあとの汗の匂い、女の匂い。

 これも不快には感じなかった。
 友達の発汗などの生理現象、興奮の高まりを、密着し体感することに奇妙な照れはあったが、それでもやはり、嫌ではない。

 豊音とくんずほぐれつするうちに、自覚していく。
 なぜ嫌ではないのか、その理由に、気づいてしまう。

白望『豊音……! っ! いや、だめ……! だめだってば……! ん!』

豊音『にに逃がさないよー』

 豊音が発する熱に、匂いに、制服越しに感じる肉感に……私は劣情を煽られている。

 強引な行為を嫌だと思う一方で、肉体的な接触が否応なしに、私の理性の奥底にある何かを刺激する。

 これが見知らぬ他人が相手であるなら、私は相手を傷つけてでも拘束を振りほどき、逃げ出していただろう。
 だが、豊音が相手ではそうする気にはなれない。
 

 
 友達とこんなことしちゃいけないと思いつつも、豊音ならまぁいいかと、すべてを諦め受け入れてしまいそうになる。

 もう諦めよう、受け入れよう。いいじゃない、気持ちいいんだもの。
 いや駄目でしょ、何考えてるの。豊音を止めなくちゃ、こんなことやめさせなくちゃ……。

 迷わず豊音を止めるべきなのに、自然に生じてしまう理性と本能の押し引きが、ものすごくダルい。
 
 冬場の朝、なかなか布団から出られないあの感覚に似ている。

 起きなければならない現実をかなぐり捨て、暖かい布団の感触に耽溺してしまいそうになるあの感覚と、親しく想っている人間に抱かれる感覚が似ていることを、この日私は初めて知った。

 ひとつ大人の階段を昇ったのかもしれない。

 たぶん、違うと思うけれど。



豊音『しろしろれろれろ』

白望『……っ! 豊音……!』

 もういいかな……我慢しなくても。

 こんなにも熱烈に求められてるんだもの。

 もう、豊音の好きにさせてあげてもいいかな……。

豊音『れろれろれろれろれろれるら』

白望『ふああ……』

 豊音の舌が、首筋から頬へ。柔らかで生々しい熱の塊が、頬を這い唇の端に触れる。

白望『……!』

豊音『れるらー』

 その瞬間、私はすべてがどうでもよくなった。

 意識が溶けていく。蕩けていく。

白望『あ、ああ……』

 なぜか胸中でお母さんに謝りつつ、豊音ホールドによる快楽に堕ちかけた、そのときだった。

胡桃『シロ……!』

エイスリン『シロ……』

白望『……!』

 胡桃の声、エイスリンの声。

 私は思い出した。


白望『豊音……! 豊音! まって!』

豊音『ふんふが』

 ここにはみんながいて、私たちのこの行為を見ていることを、思い出した。

 先ほどエイスリンが言っていたとおりだった。

 確かにこれはかなり……。

白望『恥ずかしい……! 豊音、やめよう……! お願いやめて……!』

豊音『ふんふがふー』

 慌てて豊音を振り払おうと暴れるも、やはり豊音が相手では力を加減してしまい、上手く抵抗できない。

豊音『うがー!』

白望『っ!』

 強い抵抗に怒りを示すように、ぐいと私を押さえつける豊音。

 床についていた手が滑り、肘をつく。豊音に対して尻を突き出すような姿勢になってしまい、顔が熱くなる。

 ちょうど私の臀部の辺りに豊音の腰が密着している。

 完全にバックポジションに移行してしまった。


 女同士なのだから、移行したところでそれがどうしたという話なのだが、より恥ずかしい格好になってしまったことは確かだった。

 豊音が腰をぐいぐいと私のお尻に押し付けてくる。

 いやほんと、押し付けたからなんだという話なのだが、こみ上げる羞恥心から私は声を荒げた。

白望『豊音! やだってば! お願いだからやめて! ――っていうか!』

 塞はなにしてるの!

 豊音が私に取り付いたら塞いでって言っておいたのに!

 塞――

塞『ひゃー』

白望『……』

 塞は……。

 真っ赤にした顔を両手で覆い、指の隙間から私たちの行為を見ていた。


白望『塞、そんなベタな……!』

塞『へ? ベタ?』

白望『いいから! 早く豊音を塞いで!』

塞『あ! そうだった! ごめんなんか見入っちゃって!』

白望『早く!』

塞『あいさー! 豊音!』

豊音『ふがー?』

 塞が豊音に駆け寄り、顔を掴んで無理矢理自分のほうに向けさせた。

 豊音を見据える塞。モノクルを掛けていないが、あれ無しでやれるものなのだろうか。

塞『塞ぐよー……』

豊音『うあうあー?』

 さっきから豊音の獣化の進行が止まらない。

 だんだんと言葉が覚束なくなってきているような……。

 もう、呂律も回っていない。

 塞の力で事が収まればいいが、果たしてどうなるものか。

 これで駄目なら、もう打つ手はない。


塞『……っ!』

豊音『ういうい』

白望・胡桃・エイ『…………』

 数分……いや、数十分? どれくらいの時間が経ったのかはわからない。

 長時間の力の行使で、塞の額には大粒の汗が滲んでいた。

 永遠とも思える時間の中、この場にいる全員が押し黙り、事の成り行きを見守った。

 やがて――

塞『豊音……お願い、戻ってきて……』

豊音『…………………さ……え……? あれ、私……』

白望『!』

胡桃『やった!』

エイスリン『トヨネ!』

 豊音が久方ぶりに、正気づいた様子で意味のある言葉を口にした。

 力の波動も、平常時のものに近くなってきている。


豊音『あ、あれー……? なんで私、シロの上に乗ってるの……? たしかエイスリンさんと追いかけっこしてて……あれー……?』

白望『戻った……』

 どっと力が抜ける。

 どうやらエイスリンを捕まえた時点で記憶は途切れているらしいが、豊音は正気を取り戻したようだった。

塞『はぁー……よかったぁ……』

胡桃『おつかれ、塞!』

エイスリン『ヤッタネ!』

豊音『???』

 豊音は目をぱちくりさせて、安堵の歓声を上げる私たちを不思議そうに見ていた。
 
白望『はぁ、よかった……豊音』

豊音『?』

白望『とりあえず、どいて』

豊音『あ、ごめん』

 私の上からどく豊音。

 一言であっさりと離してくれるということは、もう安心していいということなのだろうか。



豊音『? シロ、なんかお顔べっちゃべちゃだよー?』

白望『ああ、ちょっとね……猫に熱烈にグルーミングされて……』

 もう、そういうことにしておこう。

 さっきのあれは、愛撫ではなくグルーミングのようなものだったと思っておこう。

 豊音は私の顔を洗ってくれただけ。そが擦りに関しては、ちょっとマーキングしてみただけだ。

 それで、堕ちかけたことも忘れてしまうことにしよう。

豊音『!! 猫ー! 猫どこー? 私ももふりたいよー』 
  
エイスリン『トヨネ……』


胡桃『豊音、憶えてないの……?』

豊音『へ? 憶えてないって、何のことー……? そうだ、なんで私シロの上に乗っかってたのー? 私いつの間にか寝ちゃってた? 寝ぼけてたのかなー?』

白望『……』



 エイスリンの言っていた「暴走状態」という表現はあながち間違ってはいなかったのかもしれない。

 やはり豊音は、私たちを押し倒したことを憶えていないようだった。

 力が暴走した結果、豊音は一種のトランス状態に陥り我を忘れていた……。

 そういうことなのだろうか。

塞『ま、まぁ、説明は後にしよう。とりあえず私、熊倉先生呼んでくるね』

白望『うん、それがいいね……』

 また同じ状態に陥っても困るし、豊音に起こったことをありのままに説明するのも気が引ける。

 とりあえずは熊倉先生に事の顛末を報告し、豊音には適当にでっち上げた嘘を話して納得させておけばいい。

 私はちょっとグルーミングされて、とよくわからない言い訳を済ませてしまったが、エイスリンは割りとがっつりヤられてしまった観があるので、出来れば何もなかったことにしてしまいたい。

 豊音が何も憶えていないというなら、すべてをなかったことにする上では都合が良い。


 声を潜め、エイスリンに耳打ちする。

白望『エイスリン、さっきのことなんだけど……』

エイスリン『……ワカッテル。トヨネ、ナニモシテナイ』

シロ『ありがとう。ごめんね』

エイスリン『イイッテコトヨ』

 エイスリンもわかってくれた。

 あとは熊倉先生が予防と対処の方法を知っていれば、事はすべて丸く収まる。

塞『それじゃ、行って来る』
 
 塞が立ち上がる。

 胡桃が自分が行こうかと申し出たが、塞はそれを断り、扉に向かって歩き出した。

 そのときだった。

豊音『……』

白望『……?』

 豊音の目から、すっと輝きが失せる。

 その視線は、塞の背中を追っていた。



豊音『――』

白望『!』

 無言だった。

 私が止めるより先に、豊音の体は動いていた。 

 信じがたい速度で、一足に塞の背中に迫る豊音。

塞『!』

豊音『まてー』

 塞が気づいたときにはもう遅かった。

 豊音は塞の肩を掴み、自分の胸に抱き寄せた。

塞『! 豊音! まだ――』

豊音『どこいくのかなー……』

 にちゃりと笑う豊音。

胡桃『そんな! 塞いだんじゃなかったの!?』

エイスリン『モドッチャッタ!?』

シロ『せ、背中を見せたから……!?』



豊音『うがう!』

塞『ひ!』

 塞を押し倒す豊音。

 先ほどの私と同じように四つん這いの体勢で組み敷かれ、涙目になる塞。

豊音『がうー、あむっ』

塞『うわ! 駄目! お団子食べちゃ駄目ぇ! いやぁぁぁ!』

胡桃『塞ぇぇぇぇ!』

エイスリン『サエノ、オグシガ……!』

 豊音は塞のお団子にかぶりつき、ぐじぐじ口で弄んでいる。

 というか、豊音は塞を抱き寄せたときに胸をわし掴みにしていたのだが、そっちはスルーでお団子もぐもぐには悲鳴を上げるのか……。

 謎である。塞の乙女心がわからない。

胡桃『どうしよう! どうすれば……!』

エイスリン『ナンテコト……!』

 青くなる二人。

 私も似たような顔色をしていると思う。

 胡桃は難を逃れたのはいえ、このままでは四人中三人が豊音のお手つきになってしまう。


白望『こうなったら、もう熊倉先生を呼んでくるしかない……』

エイスリン『デモ、ソト、デヨウトスレバ、トヨネニネラワレル』

白望『豊音に背中を見せないように扉まで移動して、外に脱出する』

胡桃『それでも駄目だったら?』

白望『そのときは私が捕まってる間に、ふたりのうちどっちかが窓から逃げて。先生を呼んで来て』

胡桃『大丈夫かなぁ……』

エイスリン『シロ、オトリ……?』

白望『そういこと。よろしくね……』

 今、私たち三人は窓側にいて、塞と豊音は扉側にいる。

 まずは豊音に近い扉から脱出を試みて、それで駄目なら、そのまま私が囮になり胡桃とエイスリンが窓から脱出する。

 唯一豊音を止められる塞が押し倒されてしまった以上、もうなんとかして部室を脱出するしかない。


胡桃『わ、わかった……』

白望『よし、それじゃあ、状況開始……』

エイスリン『キヲツケテ……』

 豊音に背中を向けないよう、カニ歩きで壁伝いに扉に向かう。

豊音『あぐあぐ』

塞『あ、あう……ああ……』

 お団子を齧られた塞は、放心した様子で涙を流し、されるがままになっていた。

 豊音の顎が動くたび、なぜかビクンビクンと痙攣している。

 その、まるでお団子に神経が通っているかのような反応に戦慄する。

 髪の毛の固まりを齧られただけにしては反応が過剰で、なんか怖い。

 お団子のことが頭に引っかかり、いまいち塞のピンチに感情移入できないが、ともかく嫌がっているので一応急ぐ。

 私は豊音に気づかれないよう移動して、扉にたどり着いた。


 ドアノブに手を掛ける。

 静かに回す。

豊音『!』

白望『!!』

 塞に夢中だった豊音が、薄く扉を開けた瞬間にこちらを向いた。

豊音『……なんでー?』

白望『ごくり……』

豊音『なな、なんでみんな、わたしからにげようとするのかなー……かなかなー』

白望『……!』

 どうやら背中を向けなくとも、豊音から離れようとするだけでアウトらしい。

 先ほどよりは言葉がしっかりとしているが、獣から子供に格上げされたという感じだった。

 塞の力が中途半端に通じた結果なのだろうか。

 何にせよ、これなら時間稼ぎが出来るかもしれない。

 横目に胡桃とエイスリンを確認。

 二人はすでに窓を開け、逃げ出す準備を整えていた。

 私も覚悟を決める。


白望『豊音、別に私たちは、豊音から逃げようとしているわけじゃないよ……』

豊音『べべべべつにいいよーにげてもー。でもそのまえに、ぺろぺろすりすりしてわたしのにおいをつけておかないとー……』

白望『……!』

 まさか本当にグルーミングとマーキングだったとは……。

豊音『はなれてもわたしのなかまだって、しるしをつけるよー。そういえば……シロ、さっきとちゅうでやめちゃってたねぇ……』

白望『……私たち帰ったらお風呂入るし、匂いつけても無駄になるよ? 二度手間になるから明日にしない……?』

 これは最悪、熊倉先生でも止められなかった場合、豊音のグルーミングが日課になるのも覚悟しておかないといけないのかもしれない。

豊音『あ~そっか~。おふろか~……』

白望『そ、そうだよ……明日にしよう。ね?』

豊音『でもな~……』

白望『でも……なに……?』

 胡桃が窓から外に出た。
 外からこちらを覗き込み、目配せしている。


 どうやら、胡桃ひとりで先生を呼びに行くことにしたらしい。

 いま会話を途切れさせ、胡桃の不在に気づかれるとまずい。

 豊音に話の続きを促す。 

豊音『でもでもー、みみ、みんなとはぐはぐすると、なんだかおなかのしたのほうがぽかぽかしてきもちいいしー……』

白望『――! それって……』

 お腹の下のほうがぽかぽか……それがどういうものなのかは判っていないようだが、性的快感を得てはいたらしい。

 エイスリンは、「ガチダッタ」と言っていたが、まさか本当にガチだったとは。

 これは、まずいことになってきた。

 このままじゃ私たち、本当に全員、豊音に食べられちゃう。

 交尾の練習だマーキングだと、あれはエロいことではないという欺瞞も、通用しなくなってしまう。

 のんびり居心地の良い宮守女子麻雀部が、力と色に狂った豊音の巣になってしまう……!

豊音『ふむん?』

白望『……!』

 豊音が窓の方を向く。



豊音『あれー……?』

塞『あ、あ……』

 いけない、気づかれた。

豊音『あれーあれーあれー……』

 豊音は塞を離して立ち上がり、鼻をすんすんと鳴らしながら部室を徘徊し始めた。

 一通り室内を探し回り、卓に手をついて立ち尽している。

 その肩が、ふるふると震えていた。

 ……怒っているのだろうか。

豊音『う……』

白望『……?』

豊音『うわぁぁん! くるみどこー!?』

白望『……!』

 怒っていたわけではないらしい。

豊音『たいへんだよー! くるみにはまだにおいつけてないのにー! はぐれたらわかんなくなっちゃうよー! ほかのこににおいつけられちゃうよー!』

白望『他の子はマーキングとかしないと思うけどね……』

 完全に群れを成して生活するタイプの獣の考え方じゃない、それ……。


 本当、どうすればいいの、これ。

 熊倉先生早く来て……。

豊音『まずいよまずいよー、はやくさがしにいかないとー……たいへんなことになったよー……! くるみちっちゃいから、よそのこにいじめられちゃうよー……!』

白望『!?』

 この状態で、外に出る……!!?

白望『豊音、だ、大丈夫だから……胡桃ならすぐに戻ってくるから、ここにいよう?』

 それによその子って、いまの豊音のことだから、多分よその縄張りのボスにゃんこ的な何かを想定してるよね……?

 いないからね、そんなの! そりゃあ人間にだって多少は縄張り意識みたいなものはあるけど、動物みたいに縄張り侵入、即攻撃とかないから!

豊音『そんなゆうちょうなこといってられないよー。わたしちょっといってくるー』

白望『待って、豊音!』

 こんな状態で校内を徘徊させるわけにはいかない。

 私は豊音の背中にしがみついた。


豊音『しろー、すぐもどるからへいきだよー、くるみもきっとみつけてくるよー』

白望『そういう問題じゃなくて……! 塞、エイスリン、手伝って!』

エイスリン『ハ、ハイ!』

塞『う……あ……』

 塞は使い物にならない感じだったが、エイスリンは加勢してくれた。

 しかし、それでも豊音を止めることは出来ない。

 私とエイスリンを引きずったまま、扉までずんずん進んでいく豊音。

エイスリン『トヨネ、トマッテ!』

白望『豊音!』

豊音『もー、しかたないなーふたりともー』

白望・エイ『!!』

 豊音はぶんと体をひねり、私たちを振りほどいた。

 二人揃って床に尻餅をつく。

豊音『すぐもどるからー、さんにんでおるすばんしててねー?』

白望『豊音……!』


 もう、なす術がない。

 力ずくでも止めることは出来ないし、いまの豊音は獣のような論理で行動していて、話も通じない。

 どうしようもなかった。打つ手がない。

 しかし、それでも、なんとか事を麻雀部内で収めないと、豊音の残りの高校生活が色々とまずいことになってしまう。

 すでに運動部員の下級生の間では、悪評ともとれる噂が流れてしまっているのだ。

 これ以上、豊音に変態のそしりを受けさせるわけにはいかない。

白望『豊音!』

 もう、問題を解決する上で私に出来ることはない。
 
 しかし、豊音が校内で部員以外の生徒に何か変なことをした場合、フォローすることくらいはできる。

 そう腹を決め、豊音のあとを追って駆け出した、そのときだった。


『お困りのようね――』


 後ろから、聞き覚えのある声。


 ここにいるはずのない、一ヶ月前に別れたきりの、ある人物の声――


 振り返る。


 そこには――





霞『少し力が弱まったけど、塞ちゃんがやったのかしら……』

春『でも、まだ強い……』

巴『さすが、といったところですかね』


 純白の上衣、鮮やかな緋袴、足袋に草履。
 
 巫女装束に身を包んだ、永水女子の三人がそこにいた。


エイスリン『カスミ!』

白望『春に巴も……! なんで……』

霞『話はあとにしましょうか。まずは――』

 いつもの柔和な笑顔を浮かべたまま、霞は豊音に向かって一歩踏み出す。

豊音『あー! えいすいのみなさん!』

霞『豊音ちゃんをどうにかしないとね……』



白望『で、できるの……?』

巴『大丈夫ですよ。それほど難しいことじゃありません』

春『私たちにとっては、いつものこと』

 春と巴は、あの神主さんが持つ棒に紙がついたあれ――御幣、というのだったか――を持っていた。

白望『祓えるの……?』

霞『ええ、根本的な問題の解決には、まだ他にやらなきゃいけないことがあるけど。とりあえずはなんとかなると思うわ』

白望『お願い……豊音を助けて……』

霞『お任せあれ。お安い御用よ』

豊音『わーわー、いわとさんだー、うわー』

霞『久しぶりね、豊音ちゃん。また大きくなったかしら』

白望『……』

 霞もまた大きくなったんじゃないかな、胸が。


春『御神酒はどうするの? ぶっかける?』

霞『それじゃあ制服がお酒臭くなっちゃうし、可哀そうだわ。自分で飲んでもらうのも難しいでしょうし、例の手でいきましょう』

巴『あれやりますか……まぁ、たぶん記憶はなくなってるでしょうし、大丈夫ですよね』

霞『ええ。それじゃあ、いくわよ』

豊音『???』

 豊音を囲うようにして立つ三人。

 霞が手に持っていた荷物から酒瓶と杯を取り出し、杯に瓶を傾ける。

 杯に口をつけ、一息に呷る霞。

 飲み込んだ様子はない。口に含んだだけのようだ。

白望『……』

 例の手というものに、この時点で察しがついた。

 ……手というより口だね。

霞『……』

春『姉帯さん、しゃがんで』

巴『怖くないですよ。すぐ終わりますからね』

豊音『?』

 豊音に近づく霞。

 春と巴の二人が、まるで小児科のナースのように豊音に寄り添う。 



 豊音も不思議と素直に二人に従い、廊下の床に膝をついた。

 三人に囲まれただけで、輪の外側にいる私には豊音の力が弱まったように感じられる。

 三人が囲むあの輪の内側に、豊音の力が封じられているような印象だった。

 巴が豊音の背後に回り、顎を両手で掴んだ。春は御幣を豊音の頭上にかざし、ゆっくりと左右に振っている。

 巴が固定した豊音の顔に、酒を口に含んだままの霞が手を添え、顔を近づけていく。

 どうやら霞は、御神酒を豊音に飲ませるつもりのようだ。 

霞『はむ』

豊音『!』

 そう、口移しで。

 二人の唇が重なる。

白望『……』

エイスリン『OH……』

霞『ん、ん……』

豊音『んん……んー』



 霞の顎が、御神酒を送り込むために小さく動く。

 こぼさないためだというのはわかるが、霞はかなりしっかりと唇を重ねていて、その顎の動きは豊音の唇を食み、口腔内に舌を這わせる動きにも見えた。

 なんだかどきどきする光景だ。

 ディープキスってこういうふうにやるんだなぁ……。

霞『ぷは。はい終わり』

豊音『んんー』

 酒を移された豊音は、味が気に入らなかったのか顔を歪ませている。

 飲み込めないようだ。

霞『吐いちゃだめよ、ごっくんしてね』

豊音『んんー……』

 豊音、素直にごっくん。

霞『はい、よくできました』

豊音『なにこれー、へんなあじがするよー』

霞『飲んだわね。それじゃあ……』

 豊音が御神酒を飲み込んだのを確認して、霞は胸の谷間から一枚のお札を取り出した。


霞『これを使っておしまい』

白望『祝詞とかあげないの……?』

 てっきり、あの何を言っているのか全然分からない呪文みたいなやつを唱えると思ったんだけど。

霞『ええ、必要ないわ。最近は便利なものがあってね、一言で済むの』

白望『……?』

 一言……?

霞『……』

 人差し指と中指の間にお札を挟み、何かを念じるように目を閉じる霞。

 すう、と大きく息を吸い、吐くと同時にゆっくりと目を見開く。

霞『おーだー』

白望『!?』


 霞が一言唱えると、お札が青い燐光を纏い、鉄板のようにピンと伸びた。

白望『!!???』

霞『少し眠ってもらうけど、心配いらないからね。起きたら全部元通り』

豊音『はえー?』

 霞は豊音の眼前にお札をかざし、手を離した。

 手を離してもお札は床に落ちず、青い光を纏ったまま浮いている。

 豊音は呆けた顔でお札を見詰めていた。

豊音『ふにゃ……』

 豊音の瞼が落ちる。こくりこくりと船をこぎ、体から力が抜けていく。

 やがて完全に眠りに落ちた豊音は、床にうつ伏せに崩れ掛け、その体を巴が支えた。

 豊音が意識を失うのと同時に、お札の青い光も消える。

 春がそれをさっと回収して、霞も杯や酒瓶などの片付けを始めている。


 三人はやけに手馴れていて、その様子はお祓いをする巫女さんというより、患者を捌く女医さんとナースのように見えた。

春『おふたりとも……』

白望『あ、はい……』

春『姉帯さん、運ぶの手伝って』

白望『うん……』 

巴『そこの部屋でいいですか?』

白望『うん、そうしよう。そこ、私たちの部室だから……』

エイスリン『Amazing……』

白望『ほんとだねぇ……』

 あれほど猛威を振るった豊音を、こうもあっさりと止めてしまえるなんて……。

 神社生まれってすごい。

 私はそう思った。


   +++



今日はここまで
また明日にします
ちょろっと書いた麻雀描写に粗があったらすみません
ほかは好きにやります

乙ー

おつおつ

おつー


   +++


熊倉『悪かったね、わざわざ岩手まで』

霞『いえ。事が事ですから、仕方ありません』

 意識を失った豊音を部室のソファに寝かせたところで、熊倉先生を連れた胡桃が戻って来た。

 先生は永水の三人がいることに、さほど驚いてはいなかった。

 今日の三人の来訪を、先生は知っていたようだった。 

白望『三人を呼んだのは先生? まさか、豊音のため……?』

熊倉『うん、そうだよ。インターハイが終わってから、なんだか様子がおかしかったからね。ちょっと診てもらおうと思って、呼んでおいたんだよ』 

白望『そうだったんですか……』

熊倉『でも、ちょっと遅かったみたいだねぇ……』

塞『…………』

エイスリン『サエ、ゲンキダシテ……』

塞『……うん』

 ちらりと塞を見やり、熊倉先生はため息をついた。

 塞はまだ呆けている。お団子を解き、エイスリンにべとべとになった髪を拭いてもらっていた。

 正直、お団子をがじがじやられたくらいで何をそんなにショックを受けているのか全く理解できないのだが、塞がショックだというのならそっとしておこう。



熊倉『悪かったねぇ……運動部の子たちは、ちょっと抱きつかれたりするくらいで済んでたって話だったから……』

胡桃『ほんと、びっくり……まさか豊音があんなことするなんて』

熊倉『まぁ、あんたちが相手だったから……ってことなんだろうねぇ。その辺のことを考慮しておくべきだったよ』

霞『親しい人が相手だったから、行為が過激になってしまったということね』

白望『……』

 ちなみに霞と先生は、私とエイスリンが豊音にされたことはなんとなく察しているようだが、塞が具体的に何をされてあれほど落ち込んでいるのかは知らない。

 まさかお団子もぐもぐに乙女の純情的な何かを汚されてのレイプ目だとは思うまい。

白望『結局、豊音のこれはなんだったの……? 試合中みたいな力の高まりを感じはしたけど、やっぱり暴走とか、そういうことなの?』

霞『暴走……まぁ、そんなところね。力の制御に完全に失敗しているもの』

白望『力の制御……?』

霞『あなたたちは自覚があるのかないのか、対局中の力の制御に関しては、私たち専門家が舌を巻くほどに上手いわ。でも、麻雀以外、普段の日常の中での力の制御となると、少し心許ないの……』

 霞は、寝息を立てる豊音の傍らに膝をつき、そっと髪を撫でた。


霞『豊音ちゃんもあなたたちも、みんな自分の中にある力を、ただ当たり前に自分が持っている麻雀の才能として使っているけれど、その力にはどれも「由来」がある。それは謂れのある神様だったり、個人的な情念がもとになっていたりと人によって様々で、形もなく目にも見えない。でもたしかに、存在する力なのよ。存在を自覚して抑制することもできれば、意識的に開放することもできる。当然、それに失敗して、今日の豊音ちゃんのようになってしまうことだってあるの』

巴『阿知賀のドラローさんのように、はっきりとした力の顕現が麻雀の対局中に限定される人なら、安心して見ていられるんですけどね』

春『長野のステルスさんのように、麻雀以外で力を発揮しても安定している人もいる。けど、姉帯さんは行使する力が大きいし種類も多い。まるで修行していない姫様みたい。無邪気すぎて心配……』

霞『夏に会ったときは平気だと思ったんだけどねぇ……』

熊倉『ちょっと、インハイでてんしょん上がり過ぎちゃったのかねぇ……どうも、リミッターが外れちゃってる感じがするよ』

霞『問題は、それが外れっぱなし、ということなんですよね』

 豊音の状態は落ち着いて見えるが、先生と霞の口ぶりは、まだ事が終わっていないと暗に告げていた。

白望『そういえば、さっき根本的な問題の解決にはまだやらなきゃいけないことがあるって……』

霞『ええ。私たちがさっきやったのは、一時的な対処に過ぎないの。豊音ちゃんのこの状態を完全に元に戻すには、もう一手、打つ必要がある』


白望『……言って、対策を。私にできることはある?』

霞『……直接できることはないわ』

白望『そんな……』

霞『豊音ちゃんが元に戻るには、豊音ちゃん本人がリミッターを掛け直して、自分自身を安定させるしかない……』

エイスリン『トヨネ、ドウスレバイイノ?』

霞『想いを遂げて、すっきりするの』

白望『想いを遂げる……?』

霞『ええ。力が暴走した原因は、春ちゃんが言うように、豊音ちゃんが無邪気すぎるせいだと思うのよね。自分の力の強大さに溺れて、なんてこと、豊音ちゃんに限っては考えにくいもの。ちょっと力の行使が楽しすぎたんだと思うの。それも、単に力を行使することではなく、特定の状況下で力を使うことが楽しかった……その記憶が鮮明に残っているばかりに、普段は上手く抑制できている力を日常の中で開放してしまった。そのうちに自分でも制御しきれなくなって暴走、ということなんだと思うの……』

 ……特定の状況下での力の行使、その鮮明な記憶が暴走の原因……。

白望『想いを遂げる、というのは……つまり、豊音はその、「特定の状況下での力の行使」の、再現を望んでいるってこと……? それが叶えば、豊音は安定すると……?』


霞『そういうことよ。暴走した豊音ちゃんが執着していたのは、「自分から離れて行く者を追いかけること」「自分に近しい者が自分から離れていくのを防ぐこと」総合すると、「追っかけること」……そして豊音ちゃんがおかしくなったタイミングは、インターハイが終わったあと……となれば、豊音ちゃんが望んでいる「特定の状況」として思い当たるのは……』

塞『……インハイ二回戦、大将卓』

 どうやら話を聞いていたらしい塞が、ぼそりと呟く。

 元気に……は、まだなっていないようだけど。

白望『間違いないね……豊音、エイスリンを押し倒す直前に、あの人のことを話してたんだ』

胡桃『運動部の子を追っかけるのも、あの人に似てるからだって言ってたね』

熊倉『豊音の温存策が、ここに来て裏目に出たのかもしれないねぇ。結果的に負けてしまって、団体戦でのお披露目はほとんどできないままだったし』

塞『不完全燃焼だったってことかな』

白望『豊音の場合、遊び足りなかったって感じなんじゃないかな……』

霞『ふんふむ……どうやら原因ははっきりしたようね』

白望『でも、大丈夫なの? 暴走のきっかけになった状況を再現して、それが解決につながるってのは、どうも違和感があるんだけど……悪化したりしない?』


巴『末原さんとの対戦が暴走の契機になったというより、末原さんとの対戦が楽しかったという記憶、もう一度戦いたい、あるいは遊びたいという想いが膨らんだ結果が、今回の暴走なんだと思います』

春『満たされないものへの希求や、欠けて無くなってしまったものへの追憶が力を増幅させるというのは、よくある話……姉帯さんもこのケースに当てはまる』

霞『楽しかったからまた遊びたい、でも末原さんは遠くにいて、そう簡単には遊べない。それでもやっぱり、また遊びたい。そんな満たされない想いが、暴走の原因なんだと思うわ』

巴『最後のインハイを終えてしまって、この先対戦できる可能性がぐっと低くなったことも関係あるのかもしれません』

春『末原さんとの再戦が、実現の可能性が低いただの願望になってしまった……叶わない夢だから、余計にそれを望む気持ちが強くなった……』

白望『なるほど……』

胡桃『じゃあ、豊音がやらなきゃいけないことは……』

霞『簡単よ。豊音ちゃんがもう一度あの子と対戦して、同じようにあの力を使える状況を作り出す……それで豊音ちゃんが満足できれば、すべては解決するはず』

白望『まさか呼びつけるわけにもいかないし、大阪に行くしかないよね……』

 これはまた、ダルい話になってきた。


胡桃『いつ行くの? 今日月曜だし、週末まで豊音をこのままにしておくのもまずいよね……?』

熊倉『そうだね。明日にでも出かけるのがいい』

塞『でも、平日だし、先生は行けませんよね?』

熊倉『うん。だから誰か一人だけ、明日休んで、豊音と大阪まで行ってきてくれないかい?』

胡桃『一人だけ……』

熊倉『立場上、さすがに五人全員休ませるわけにもいかないからね。決めとくれ、旅費はあたしが出すから』

白望『どうする……?』

エイスリン『ワタシ、シラナイトコロ、ムズカシイ……』

白望『そりゃ、そうだよね……』

 たしかにエイスリンでは、土地勘のない場所での豊音の引率は厳しいだろう。

胡桃『私もちょっと……行きたいけど、もし豊音がまたおかしくなったら玩具にされちゃいそうだし……』

白望『三人がかりでも何もできなかったもんなぁ……』

 胡桃では、豊音との体格差を考えると、もしものときが怖い。

 となれば……。


塞『し、しかたないなー、そそ、それじゃあ、わ、私がいくしかないよねー』

 部長の出番、ということになるのだろうけれど、立候補した塞の声は震えていて、顔色も青白い。

 小刻みにカタカタ震えている。

 本当に嫌だったんだなぁ……お団子もぐもぐ。

 だというのに、なんて健気でいじらしい。

 これは……もう仕方ないかな。

白望『私が行くよ……』

塞『い、いいの?』

白望『いいよ。でも、霞たちもついて来てくれると助かる』

霞『いいわよ。じゃあ、私たちもお休み延長ね』

春『やった、大阪……』

巴『こら、不謹慎だよ。遊びに行くんじゃないんだから』

春『ごめんなさい……』

霞『ふふ。小蒔ちゃんたちにお土産買わないとね』

熊倉『それじゃあ頼むよ、シロ』

白望『はい……』

 こうして私たちは、どうにもオカルティックな理由で、大阪は姫松高校まで出かけることになった。


 豊音は何も知らないまま、ぽかんと口を開けて眠っている。

 埃が入るといけないので、近寄って口を閉じてやる。

豊音『あむ……はが』

白望『……』

 しかし、すぐにまた開いてしまう。

白望『……』

豊音『はぐ……むあ』

 閉じる開くを何度か繰り返し、私は諦めて豊音の横にしゃがみ込んだ。

 頬を指でつつくと、寝ぼけた豊音は顔を横に向けて、私の指を口に咥えた。

 すぐに抜く。豊音は指を抜いても、あむあむと口を動かしている。

 口内の感触に、押し倒された際の気の迷いがフラッシュバックして、明日の大阪行きに不安を覚える。

 また襲われたら……なんてことを、どうしても考えてしまう。


白望『はぁ……』

霞『ふふ。幸せそうな顔して寝るわね、豊音ちゃん』

白望『ほんとうに……こっちの気も知らないでさ……』

霞『大丈夫よ、私たちも同行するんだから』

白望『うん……』

春『難しく考えないで……』

巴『そうですよ。言ってみれば、姉帯さんは激しい運動を終えて心拍数が上がりっぱなしで、どきどきわくわくが止まらない状態……ちょっと興奮しているだけなんですから』

霞『そういうことね。だから、クールダウンのために軽く運動しに行きましょうって、それだけの話なのよ。心配はいらないわ』  
  
白望『うん……』


 クールダウンの運動……。

 確かにそう考えれば、豊音の抱えた問題が大したものではないように思えてくる。

 春の言うとおり、難しく考えるべきではないのかもしれない。

 豊音に暴走の一件を詳しく話すわけにもいかないし、自然に振舞うためにも、深刻に考えるのはよくないだろう。

白望『まぁ、とにかく、明日はよろしく……三人とも』

霞『はい、こちらこそ』

巴『よろしくどうぞ』

春『大阪……』

 その後、私たちは豊音が起きるまでに大阪行きの打ち合わせを済ませた。

 目覚めた豊音は永水の三人とも麻雀を打ちたがった。

 その打牌は、いつも以上に冴え渡っていた。


   *


   *


 そうして私たちは姫松高校にやって来た。

 潜入していた。

 最初は普通に、熊倉先生から赤阪監督に話を通して貰おうと思っていたのだが、霞の意見でその方法は却下された。

 事前に申し合わせての大阪行き、それも練習試合や出稽古といったぬるい名目では、豊音のモチベーションが下がってしまう恐れがあるというのだ。

 豊音が力の暴走を抑えるために、より強い満足感を得られる方法を模索するべきだと霞は言っていた。

 そして私たちは豊音を除く全員で、公式戦レベルとはいかないまでも、それに近い満足感を得られる状況とはとはどんなものかを話し合った。

 負けたら終わりの緊張感、チーム戦の高揚感。そして私たち宮守女子には、最初で最後のインハイであるという意識が生む集中力があった。

 豊音には祭りを楽しみ尽くそうという、ある種の貪欲さもあったように思う。

 それらの再現は、話し合うまでもく暗黙のうちに、難しいと断念した。


 引退した私たちでは、あの充足感の再現などできるはずもない。そのことをわざわざ口に出して確認し合うのもなんだか切なくて、話は自然とそれ以外の方向にシフトしていった。

 練習試合、出稽古という『名目』に問題があると言い出した霞から、名目そのものを豊音がわくわくできるものに変えるという意見が出た。

 そして霞の意見を受け、熊倉先生から、『野良試合』『道場破り』という名目はどうかという案が出た。

 妙に時代がかった、先生らしい発案である。ちょっとどうかと思ったが、如何にも豊音が目を輝かせそうな名目に思えた。

 豊音の遊び心を煽るにはこれ以上ない意見であると、全員が納得した。

 だが、すぐに一つの問題が浮上した。

 豊音にはよくても、同行者である私には、その妙に荒っぽくて能動的な大阪行きの名目が相応しくないという問題だ。

 霞たちから姫松への殴りこみを提案するのは不自然である。かといって私が提案するのも、私の性格的にありえないと皆は言うのだ。


 私自身は大した問題ではないと思ったのだが、豊音に不審を与えて楽しい気分に水を差すことは避けるべきだと、霞に釘を刺された。

 ではどうすると、全員で首を捻った。

 同行を他の三人のうちの誰かに代わってもらおうかとも考えたが、前提がアポ無しで他校に乗り込み、非公式な試合を仕掛けるという荒っぽい作戦である以上、真面目な塞や胡桃、エイスリンが先導しては不自然で、比較的自然なのは私しかいない。

 平日に学校をさぼって他校に乗り込もうと提案しても自然な人間、これも比較的ではあるが、私しかいない。

 つまり、大阪行き、姫松殴り込みは私の先導で行われるのだから、私が自然に思いつく案をそのまま実行することが、豊音に不審を与えないためにはベストであると、その時になってようやく気づいた。

 そして私に、名目のでっち上げと、それに付随する具体策の発案が一任されることになった。


 私は考えた。

 すぐにだるくなって、考えるのをやめた。

 具体策なんてものを考えている時点で、もう楽しくないなと思ったのだ。

 要は豊音を楽しませつつ、末原さんとの対戦を実現させればいいのだ。

 具体策なんていらない。遊び心重視でいくなら無策でいい。場当たり的でもいいと、私は判断した。

 そしてその晩、豊音に電話をかけ、学校をさぼって鹿児島に帰る霞たちにくっついて旅行に行こうと提案した。

 さぼって旅行、それも、他の面子には内緒で。そのいけないビッグイベントに、豊音は戸惑いながらもノリノリだった。

 霞たちは大阪に寄るから姫松に遊びに行こうと言うと、もうウハウハだった。

 大阪に着き、用事がある(と嘘をついた)霞たちと別れ、姫松にやって来た私たちは近所の洋品店でブラウスを買い、生徒を装って校内に侵入した。

 普通に訪ねるよりも楽しいと思っての行動だった。

 幸い、豊音はもうウッキウキのワックワクで、とりあえず遊び心を刺激することには成功していたようだった。

 そして愛宕のおねーさんと真瀬さんが外したリボンを盗み、部室に侵入し、現在に至る。


恭子「やってもうた……!」

白望「……」

豊音「ふふー」

 もうすぐ目的は果たされる。

 豊音の欲求不満を満たし、暴走を抑えるという目的が。

恭子「うう……」

洋榎「無用心やで、恭子ー」

白望「おり……」

 末原さん、当然、一発ならず。

 愛宕さんは無難にオリ、私も現物を処理して確実にオリ、ツモ順は豊音に回る。

 豊音が例の、怖い感じのオーラを放つ。暴走気味ということもあって、いつもより気持ち禍々しい。

 少し不安になる。首筋に、豊音に舐められた感触が蘇る。

 もし、いま豊音が暴走した場合、末原さんが集中的にヤられることになるのだろうか。

 どうなってしまうのか想像もつかないが、今日は校外に霞たちが待機している。何かあっても大丈夫。

 指先の震えを抑え、私は豊音のツモを見守った。

豊音「……」

 豊音が山から牌をツモる。異様な空気が卓を包む。

 申告を待つまでもない。私にとっては見慣れた光景だった。

 姫松のみなさんも、豊音が和了ると確信しているだろう。


豊音「ツモ! 2000 4000!」

 満貫。

豊音「リー棒うまいよー」

洋榎「ほんま、おっそろしいな、お前ら……」

恭子「……」

 悔しがるより呆れた様子の洋榎さんと、呆然とする末原さん。

 末原さんのこの表情は、インハイのときにも見た覚えがある。

 今にもカタカタ震え出しそうな顔だ。

豊音「ふふ」

白望「……」

 豊音はそんな末原さんの顔を見て、楽しそうに小さく笑った。

 ショックを受けている様子の末原さんを気遣っているのだろうか。思ったよりもリアクションが小さい。

 もっと、諸手を上げて大喜びすると思っていたんだけど……。


 果たして、これで私たちは目的を果たすことが出来たのだろうか。

 思えば、豊音を楽しませる、満足させるという目的は、目的と言えるほど確かなものではない。

 どのくらい遊ばせれば豊音を満足させられるのか、はっきりとした基準などないのだから。

白望「……」

 ここはひとつ、末原さんには徹底的にカタカタしてもらうしかない。

 ちょっとしか遊べないよりは、たくさん遊んだほうがいいだろうし。

 悪いね、末原さん。

 もう少し……。

末原「あ、ああ……」  

豊音「んふふー」

 もう少しだけ、付き合ってもらうよ……?

 本当に、その顔見てると申し訳なくなってくるけど。


  *



  *

 
 うう……。

 あかん……あかんでこれは……。

 宮守の二人への疑念のせいで、対局にまったく集中できてなかった……。

 早い順目とはいえ、ちょっと考えれば姉帯の手が早いことくらい察しついたのに。

 さくさく両面待ちの聴牌形作れたからついリーチ掛けてもうた……。

 インハイのときを思い出すわ……あんときも、こんなふうにぼけっとしてもうて、そんでも精一杯抵抗して、挙句の果てにはカタカタ震えてもうったけ……。

豊音「ふふ」

恭子「……」

 姉帯もあんときみたく、えらい楽しそうに笑とるし。

 あかん、本格的にあかんで、これは。ブルってもうとるもん、うち。

 なんや二回戦の記憶が、どうもトラウマになっとるみたいや……。

 どないしよ、怖なってきたもうた。

 姉帯と小瀬川の妙な力にせよ、この二人がうちらの学校に侵入してきとる理由にせよ、不可解なことだらけでなんか怖なってきた。



恭子「あ、ああ……」

 あかん、あかんあかんあかん……!

 せめて誰かに相談したい、宮守の二人が侵入者であることを話したい……!

洋榎「恭子」

恭子「主将ぉ……」

 金ぴかリボンの主将ぉ……。

 あんたのリボン、小瀬川か姉帯が着けてますよぉ。

洋榎「もう主将ちゃうわ。なに情けない声出しとんねん。南入や、恭子親やで?」

恭子「はい……」
 
豊音「はやく打とうよー」

恭子「わ、わかっとるわ」

 もう嫌や。なにが嫌やって、姉帯のこの無邪気な笑顔が嫌や。 

 ちょっと可愛らしいのが腹立つ。

 気ぃ抜いてると、リボンのことも侵入の疑いも、のほほんと全部スルーしたろかって思てまう。

 そうはいかんで……! 他のもんはともかく、うちは騙されへん……! 守りたい、その笑顔。とか思てへんし!



恭子「これで……」

 オタ風の西切りたいとこやけど、姉帯の翻牌やから我慢や。

 ここはひとりぼっちの六萬で……。筒子の混一、もしくは一通考えてもよさそうな配牌やし。

豊音「ポン」

恭子「は!?」

 い、一打目から……!? 姉帯やなかったら、内心小馬鹿にしとるとこやけど……!

洋榎「早いねん。もう仕掛けるか」

豊音「なんかそれ、可哀そうだったからー」

恭子「……!」

 ぼっちやから……? うちが浮いとる牌切ったのがわかったんか……?

 あかんわ、こっちが集中しようがしまいが、魔物は魔物っちゅうことか……。

 もう、どないせえっちゅうねん……。

 頭ん中ぐちゃぐちゃや……。

 なんやねん。

 なんやねん反則やろ、そんなもん……ていうかなんでおんねんお前ら。おかしいやろ、由子はともかく主将は気づけやリボン盗られてるって……。

 二人が侵入者やて指摘して、もし違ったらと思うと言い出せんし、これほんまどないしよ。


恭子「はは……」

 わらけてきた。

 インハイ二回戦大将卓以上の混乱や。 

 あんときはまだよかった。公式戦やし、大将にオーダーされた責任もあったから、怖なっても逃げる気なんて起きようもなかったし。

 でも今はあかん。引退してちょっと腑抜けとるとこに、いきなりこの二人の相手せぇ言われても、そんな急に気持ち作れへんて。

由子「あらー? なに笑てんのー? 恭子、ようやくノってきたのかしらー」

洋榎「なんや様子おかしかったけど、やっとか」

恭子「……ええ、まぁ。そんなとこです……」

 ……もう、それでええわ。

 公式戦やないから気持ち乗らへんなんて、何様やっちゅう話やもんな。

 インハイ時のチーム全体ならともかく、個人ではうちが格下なんやから、胸借りるつもりで思い切り打ったらええねや。

 なんのつもりで姫松に忍び込んで来てんのか知らんけど、こうなったら今度こそ、全部忘れて対局に集中や……!

 やったるで!

 せめて一太刀浴びせたるわ!!


  *



  *


 あははー。

 超うけるのよー。

 恭子が宮守の二人にぼっこぼこにやられてるのよー。

 きりっとした顔で挑みかかって返り討ちに遭ってるのよー。

 なんか恭子、ひとりで盛り上ってて面白いのよー。

 うけるー。

 のよー。


  *


  *


恭子「…………」

白望「ありがとうございました……」

豊音「ありがとうございましたー」

洋榎「お疲れさん」

 あかんかった……。

 全然あかんかった……。

 うちが本腰入れて打ち始めてから、打ちも打ったり四半荘。

 うちは一戦目でラス引いて、結局そのまま、最後まで一人沈み。

 うちと姉帯だけが四半荘すべて打ち、途中小瀬川と主将が抜けて由子と絹ちゃんが入った。

 もうぼちぼちお開きにしよかってときに、漫ちゃんがいらん気ぃ回して、最後は三年とお客さんでーとか言い出して、締めは一半荘目と同じ面子で打った。

 そんでぼっこぼこ。最初から最後までぼっこぼこ。ハコにならずに済んだのが奇跡といっていいほどの絶不調。


 全体的に姉帯が絶好調で、三連続トップ。まったく手がつけられん感じやった。

 最後の半荘で主将が意地見せて一勝したものの、姉帯も最後まで僅差で食らいついとった。

 小瀬川が妙に大人しかったのが気になるけど……。

 まぁ、こいつは調子よくても派手にいくタイプちゃうしな。

 うん、まあ、勝負に関してはもうええわ。

 負けは負け。思いっきりいけたからそれでよしとしとこ。

 残る問題は……。

豊音「帰る前にお手洗い行って来るよー」

白望「あ、私も……」

洋榎「おう。片しとくさかい、ゆっくり行ってきぃ」

絹恵「お二人とも今から岩手までお帰りですか? もう結構いい時間ですけど」

白望「ん、いや……こっちで一泊していくつもり」 
 
洋榎「ホテルでもとってんの?」

 
白望「いや……これから安いビジネスホテルでもとろうかと……今から帰るのはダルいけど、そんなにお金があるわけでもないし……」

洋榎「ほーん」

恭子「……せやったら、家来ぃや。泊まって行ったらええ」

豊音「! いいのー?」

白望「……」

恭子「うん、ええよ。今日うち、おとんとおかんおらんくて一人やねん。だから遠慮もいらんし」

 ……嘘は吐いてへん。みんながおらんところでなら、なんの気兼ねもなく二人の目的も訊けるしな。



白望「……それじゃあ、お言葉に甘えて、お世話になろうか」

豊音「うん! やったー! 末原さんちにお泊りだよー!」

洋榎「そんなら二人が恭子んち行く前にみんなで飯やな。お好みでもいこか」

豊音「うん!」

恭子「ほな、はよトイレ行ってき」

豊音「うーん!」

 そうして、姉帯と小瀬川をうちに泊めることになった。

 トイレから戻ってきた二人の襟元からは、リボンが消えていた。

 おそらく、トイレに行ったついでに二人の教室に戻してきたんやろ。

 ほんま、どいうつもりなんやろな、こいつら……。


  *


  *


 食事を終えて家に到着……したのはええんやけど。


豊音「お好み焼き美味しかったよー」

白望「げふぅ……」

春「堪能した……」

巴「つい食べすぎちゃいましたね」

霞「たまにはいいじゃない。本場のお好み焼きなんて滅多に食べられないんだから」

巴「それもそうですね」

恭子「……」

 なんか増えよった……。

 なんで永水の三人までおんねん……。

 宮守の二人を連れてお好み焼き屋に行ったら、なぜか永水の三人が巫女服でヘラ持ってお好み焼いてて、そのまま一緒に晩飯っちゅうことになった。

 姫松のみんなは宮守の二人のとき同様、奇遇やなぁと単純に再会を喜び、なんで三人が大阪におるんかはまったく疑問に思てへんようやった。

 これまでそんなことないと思てたけど、みんなってもしかしてアホなんやろか……。


 どうもうちのがっこに侵入していたらしい宮守の二人のこともあって、うちは食事の席でも悶々とさせられるはめになった。

 永水と宮守の連中が、同時に大阪にやって来たことが単なる偶然とは思えず、頭を駆け巡る疑問でお好みの味もようわらん始末やった。

 ようわからん……ほんまに、ようわからんことになってきた。

 永水の三人、袴でお腹締まっとるやろに、ものすごい量のお好み食うっとたし……。

 飯終わって家行こかって段になって、自分らも宿ないとか言い出して、なんかこいつらも泊めることになってもうたし……。

霞「悪いわねぇ、恭子ちゃん。大勢で押し掛けちゃって」 

恭子「いや……」
 
 小瀬川だけやのうて、石戸も下の名前で呼ぶし……。

 やめて欲しいねん、それ。よう知らん者に馴れなれしくされると、こっちも名前で呼んでええんやろかーとかいらんこと考えてもうて、なんかむず痒いねん。照れんねん。

恭子「……ええて、二人も五人も一緒や。姫松の連中もよう遊びに来るしな」

霞「そう?」

恭子「うん。せやから遠慮せんとくつろいでや……」

 それに、ここまで来れば、もう我慢もせんでもええしな。

 とっととなんでおるんか訊いて、すっきりしとこ。



白望「だる……うま……」

恭子「し、小瀬川……」

 リビングに入るなり、ふらふらとソファに座り込んだ小瀬川に、うちは訊いた。

白望「なに……?」

恭子「ひとつ訊いておきたいことがあんねん」

白望「ああ……うん」

 うちが質問することを待っていたかのような反応。

 小瀬川のほうも、うちが気づいとることに察しがついとったんかもしれん。

恭子「今日、無許可やったやろ。監督にも誰にも、話通してなかったんちゃうか」

白望「てへダル……」

恭子「それは肯定なんか、否定なんか……」

 てへペロみたいに言うてもわかりづらいわ。

白望「肯定……」

恭子「あんたらが着けとったリボン、主将と由子のやんな?」

白望「そう。ちょっと変装のために拝借した……」

恭子「はぁ……やっぱりか……」


白望「ばれたらそれまでだと思ってたんだけど。結局気づいたのは恭子だけだったみたいだね……黙っててくれてありがとう……」

恭子「いや、それはええねん。確信あったわけやなかったから、言い出しにくかっただけやし。それより、なんであんなことしたん? 出稽古やったら、普通に申し入れてやったらよかったんと違う?」

豊音「えへへーごめんねー。私とシロ、学校さぼって遊びに来て、なんとなく面白そうだから忍び込んでみたんだよー。悪気はなかったんだよー」

恭子「遊びにって……ほんまにそれだけ……?」

豊音「うん。リボンも教室に返してきたからー」

白望「……」

霞「……」

恭子「……?」

 なんや……? しろ、小瀬川と石戸のこの反応……。

 姉帯の弁明に口を出さんと、二人で目配せし合っとる。

 とよねちゃ――姉帯の話した侵入の理由は、事実ではない……? 

 考えすぎやろか。



 姉帯だけが本当の来意を知らず、遊びに来ただけやと思い込んどる……そんなふうに見えるけど。

白望「恭子」

恭子「……なんや」

白望「まぁ、あれだよ……侵入の目的に関しては、そんなところ。豊音の話した通り」

恭子「……」

 ほんまか……? なんか怪しいで……。

霞「その話はもういいじゃない。別に二人は悪いことをしたわけでもないのでしょう?」

恭子「そうやけど……」

 小瀬川も石戸も、露骨に話を逸らそうとして……いや、これは、私にも話を逸らせと、暗に伝えてきとる……?

 姫松侵入の本来の目的は、姉帯が話したものとは別にある。だが二人は姉帯に、真の目的を伝えていない。知られてはいけない理由がある。

 それで二人は話を逸らそうとして……?

 そういうことなら――

恭子「うん、まぁ、そうやな。もうええわ、その話は。リボン返したんなら、なんも言うことあらへんし」

 姫松に来た本当の目的は、後でこっそり小瀬川か石戸に訊くとして、今はこれでええわ。


白望「そう、そうなんだよ。そんなことは些細な問題なんだ……」

霞「そうよねぇ……他にもっと、考えなければいけない大きな問題があるわ……」

豊音「大きな問題ー?」

恭子「……? え、なんの話……?」

 え、何? そんな深刻そうな顔して、今度はいったいなんや……?

 姉帯もわかっとらんようやけど。

春「私たち、六人いる……」

恭子「? そうやな、六人や……」

 ?? 人数がなんか関係あるんか?

巴「図々しい話ですが、私たちはこれから、お風呂をお借りすることになると思います……」

恭子「ああ、うん。今から沸かしに行こうと思てたとこや……別に遠慮はいらんで? それと人数になんの関係が……?」

霞「六人がひとりずつ入っていたら、時間がかかりすぎてしまうわ。六人一度に入るわけにもいかないし、ここは何人ずつかに分けて入るのがいいと思うの」

恭子「ああ、なんや。そんなことか。確かにな、うん、そうしたほうがええやろな」

白望「六人だから、二人ずつ三度に分けて入るのがいい……問題というのは、その組み合わせのこと……」

恭子「……それってつまり……」


 みんな、うちと入るのが嫌ってことなんやろか……。

 そうやろな……なんか宮守と永水の連中、仲ええみたいやし、こん中でうちだけ浮いてもうとるもん。

 よう知らんもんと二人で風呂とか、気まずいんやろな。 

 うちの風呂、三人ずつ入れるほど広くないし、ここはひとつ空気読んどこ。

恭子「ああ、なんやったら、うちだけひとりで――」

豊音「はいはいはーい! 私末原さんと入るー!」
 
恭子「は?」

白望「ちょ……豊音、抜け駆けはずるい……」

恭子「ん?」

霞「そうよ、今から誰が末原さんと入るか協議するところだったんだから」

恭子「え」

巴「ここは公平に。話し合って決めましょう」

恭子「ええ……」

春「ここは譲れない……」

恭子「ええ~……」

 うち、なんか好かれるようなことしたかなぁ……。



豊音「わかったよー。でもどうやって決めるのー?」

霞「どうしましょう? 協議とはいったものの、話し合いだとたぶん、永遠に決まらないわ……」

白望「うーん……ここは麻雀で、と言いたいところだけど、五人だからね……」

春「くじでも作る……?」

霞「それしかないわね」

巴「なら、くじは末原さんに作ってもらいましょう。私たちの誰かが作ると、不正の恐れがありますし」

白望「それもそうだね。というわけで恭子、頼めるかな?」

恭子「別にええけど……」

 なんでそんなにうちと風呂入りたいねん、みんな……。

 作れ言うなら作るけど……。

 うちはティッシュ箱を手元に引き寄せ五枚抜き出し、こよりを作った。手近にあったマジックペンで一つだけ先端を黒く塗り、当たりくじにする。

 自分との入浴権を賭けたくじを、自分の手で作ることに何も感じないではなかったが、今は考えないことにする。


恭子「できた。先が黒いやつが当たりや」

 こよりを握りこみ、五人に差し出す。

霞「では私から……」

 石戸がくじに手を伸ばす。

 くじの一つを手に取り掛け、石戸は動きを止めた。

恭子「い、石戸……?」

霞「コォォォ……」

恭子「!?」

 目を閉じ、なにやら普通ではない呼吸法で、無駄に集中を高める石戸。

 その時やった……。

霞「破ぁぁっ!!」

恭子「!!!??」

 石戸が気合一閃。うちの手元のティッシュくじに、何か目に見えない、尋常ならざる力が集約される。

 何が起きているのかはわからへん。しかし、確かに力の高まりを感じる。

 そして、姉帯が追っかけリーチで和了るときのような、小瀬川がタンマをかけて和了る直前のような、得体の知れない凄みを感じた次の瞬間――

恭子「!」

 こよりの一枚が、ばちりと音を立て、青い燐光を纏い石戸の手に引き寄せられた。


 超常的な力で引き寄せたくじを掴む石戸。その表情には、勝利を確信したかのような、穏やかで余裕のある笑みが浮かんでいる。

恭子「……っ!」

 なんちゅうこっちゃ……まさかこいつ、神社生まれの超パワーで当たりくじを引き寄せて――!?

 これ、くじやる意味ないやん……! そんなんできるんなら、なんも公平な決め方ちゃうやん!

 この現象に驚いとるのうちだけみたいやし、みんな石戸がこういうことできるって知ってたんやな……!?

 なら、なんでこいつらくじで決めようとか言い出したんや!

 あほなんか! それともみんなこれと同じことできんのか! こいつらにとってのくじ引きって超パワーの比べっこか!

霞「ふふふ……」

 石戸がくじを引き抜く……!

 その結果は……!

霞「あら、はずれ」

恭子「外れるんかい!」

 外れるんかい!


恭子「ほんならなんやったん!? 今の!」

霞「うふふ。ちょっと気合を入れすぎたみたいね、残念だわ~」

恭子「……!」

 無駄にびびらせよってからに……!

豊音「びっくりした~、当たり引いちゃうかと思ったよ~」

春「次は私……」

恭子「もうサクサク行こうや……びりびりすんのとかやめてや……」

春「そういうわけには……」

恭子「!」

 滝見もびりびり……!

 そんで結果は……。

春「はずれ……」

恭子「……当たり引けるわけやないならやるなや……なんやねん、お前らのそれ……」

春「まだまだ未熟ということ……」

恭子「さよか……」


巴「次は私です」

 そして、次の狩宿もびりびりやって外れ、その次の小瀬川は、残る二つのくじをさんざん迷った挙句に引いて外れ。

 うちとの入浴権は、姉帯の手に渡った。

 永水の三人のびりびりは不可解やったが、小瀬川が迷って外したことで、なんとなく、姉帯以外の四人の意図が読めた気がした。

 わざわざくじをやる理由はわからんけど、こいつら、姉帯にうちとの入浴権を譲ったんとちゃうやろか……。

そうやとしたら、なんでそんなことするんやろ。

 大阪に来た本当の理由を姉帯だけがそれを知らんことと、何か関係があるんやろか。


  *


  *


 二十分後、風呂焚き完了。

 末原さんと豊音が一番風呂を使うことになり、二人は浴室へ。

白望「危なかったね……」

霞「ええ、本当に……あと少しで、本気で当たりくじを引きにいくところだったわ」

巴「霞さん、がちでしたね。途中まで」

春「ぎりぎりで空気を呼んだ感じ……」

白望「ものが末原さんとの入浴権となれば、我を忘れるのも仕方ない……」

霞「あの子、身持ちが堅そうなんだもの。ボディチェックのしがいがありそうで、ついね」

春「分かる……姉帯さん、楽しいだろうなぁ……」

巴「姉帯さんを楽しませるのがこの旅の目的なんだから、私たちは我慢だね」

霞「ふふ。そんなこと言って巴ちゃん、くじを提案した時点ではそのこと忘れてたんじゃない?」

巴「……否定はしません」


白望「悪いね、うちの豊音のために……」

霞「いいのよ、私たちも熊倉先生持ちで大阪旅行させてもらってるし」

春「昼間、たこ焼きも食べた……」

白望「春は満喫してるね……粉物ばっかりだけど」

春「あの素敵なB級感は本場でないと味わえない……食べられるうちに食べておかないと……」

白望「そう……」

 楽しんでいるのなら、それでいいけれど。

 さんざん食べて、なお黒糖を齧る姿を見ていると、少し心配にもなる。

白望「それで、成果はあったのかな? 豊音、昼間は随分楽しそうだったけど……」

 昼間の対局に豊音の暴走を抑える効果があったのか、永水の三人に訊きでもしない限り、私には確認のしようがない。

霞「それが微妙なところなのよね……」

白望「? 効果、なかった?」

霞「いいえ、そういうわけでもないのだけど。昨日と比べれば、随分よくなったと思うわ」

白望「まだ完全ではない……?」

春「まだ何か……くすぶっているような、いないような……」

白望「煮え切らない言い方だね……」


巴「実際、今の段階では判断しかねます……明日、帰る段になって、楽しいことが終わったときの状態を見てみないと……」

霞「今はまだ、豊音ちゃんにとっては楽しいことの最中だもの。楽しい時間が終わったとき、豊音ちゃんが自分を抑えられているかどうかを見てみないとね」

白望「なるほどね……」

 確かにそうだ。霞たちは昨日、豊音にとっては今回の大阪旅行が、インハイの後のクールダウンだと言っていた。

 ダウン運動の効果があったかどうかは、運動が終わったあとでないと確認のしようがないということだろう。

 上手くいっていれば豊音は落ち着いて、元に戻る。

 いっていなければテンション上がりっぱなしの状態が続いて、山女モードの豊音が再臨すると。

白望「どちらにせよ、今夜のうちにできることは、もうないってことだね……?」

霞「ええ、そうね。今日はもうゆっくりしましょう。お風呂いただいて、寝るだけね」

白望「うん……」

霞「ご苦労様、白望ちゃん」

白望「うん……」

 とりあえず、今日のところは上がりのお許しを貰えた……。


 平日に学校をさぼって旅行なんて柄にもない真似をしたせいで、ものすごく疲れた。全身がとてつもなくダルい。

 ソファの背もたれに体重を預けたまま、私は体から力を抜いた。足を伸ばし、首からも力を抜いて、顔を天井に向ける。

 疲れて何も考えたくないのに、つい、昨日から今日までのことを反芻してしまう。

 豊音の身に起こったこと、豊音にされたこと……。

 何が何でも離さないという、暴走中の豊音の、力強い抱擁と愛撫。

 あれが一種のグルーミング、マーキングのようなものだったと分かってみれば、昨日の私の気の迷いも、思い出すだに恥ずかしい。

 忘れてしまおうと瞼を閉じる。

 そのまま、意識が朦朧としていく。自覚できないレベルで、私の疲労は限界に達していたらしい。眠りに落ちていく。

白望「……」

 しかし、眠れない。


 なんとなく、まだ眠ってはいけないような気がして、意識を完全に手放せない。

 なぜだろう。

 考える。

 すぐに思い当たる。

 霞に、訊いておかなければならないことがある。

白望「霞」

霞「なに? 寝ててもいいわよ? お風呂の順番が来たら起こしてあげるから」

白望「うん、それはいいんだけどさ……豊音、まだ暴走が収まったかどうか、微妙なところだって言ってたよね……」

霞「ええ。もう大丈夫かもしれないし、そうじゃないかもしれない」

白望「大丈夫かな……『そうじゃないかもしれない』のに、二人きりにして……」

霞「……」

白望「昨日私たちがされたようなことを、お風呂場で……全裸で……なんてことになったら……」

春「それは……」

巴「たしかに……」

霞「まずいわね……ものすごくまずいわ……」


 事情を知らない者からすれば、同性から性的暴行を受けたとしか思えないだろう。

 知っていたとしても、いやらしいことをされたという感覚は拭えまい。

 もし、豊音がヤッちまったらの話だけど……。

 「もし」がまだ有り得る以上、これはちょっと、判断ミスだったかも……。

霞「よかれと思って豊音ちゃんに譲ったけど……よく考えたらものすごくリスキーね……」

春「末原さん、いただかれちゃう……?」

巴「怖いこと言わないで……」

白望「ちょっと、様子見てくる……」

 不安になり立ち上がる。霞も青い顔で、私に続く。

霞「私も行くわ……二人は念のために祓う準備をしておいて」

巴・春「はい」

 嫌な予感がする。

 私たちは急いで浴室に向かった。


  *


  *

  
恭子「あんた、めっちゃスタイルええな……」

豊音「そお? でも大きすぎるんだよー」

恭子「まぁ、確かにでかいけど、手足長おてかっこええよ?」

豊音「でもー、ミニスカートとか履けないよー」

恭子「ああ、たしかに。その身長でその足の長さやと、ためらうやろな」

 脚線美のアピール過剰、あんど無防備になってまうもんな。

豊音「そうなんだよー。なんか似合わない気もするしー」

恭子「そうか? 似合わへんてことはないと思うけど。履いてみたらええやん」

豊音「そんなことないんだよー。これがー」

 ロンスカとかパンツルックのが似合うのは確かなんやろけど……。

 ……あかん、うち、その辺のことはようわからんわ。

豊音「末原さんこそ、スカートの下のジャージやめればいいのにー」

恭子「うちはこれでええねん。落ち着くねん。ジャージとかスパッツ脱ぐと弱なんで? うち」

豊音「そうなんだー」

恭子「そうやねん。ほな入ろか」

豊音「うん!」

 脱衣所で服を脱ぎ終え、浴室へ。



 うちが扉を開け、後ろから姉帯が続く。

 こんだけでかいと、背中向けとっても、ものすごい存在感あるわ。

 すっぽんぽんやとなおさらや。背中にびんびん感じるわ。

豊音「んふふー」

恭子「なんやねん、もう。風呂くらいでえらい楽しそうやな?」

豊音「うん、たのしいよー」

恭子「……?」

 あれ……気のせいか……?

 姉帯の無邪気度が心なし上がったような……。

 風呂でテンション上がったから……? 口調が微妙に子供っぽくなっとるような。

豊音「はやくはいろうよー」

恭子「ああ……せやな」

 姉帯に急かされ、浴室に入る。

 姉帯が後ろ手に扉を閉めた。

豊音「うふふふ……これでにげられないよー」

 ……?


恭子「なに言うてんの? 今から風呂やのに逃げるかい」

豊音「なによりだよー」

 妙な物言いするな……?

 まあ、ええか。さっきは当たりくじ引いてやたらと喜んどったし、テンション上がっとるんやろ。

恭子「……とりあえず、体流そか」

豊音「……」

 しゃがみ込み、風呂の蓋に手を掛ける。

 すると、姉帯がうちの背後、真後ろに移動し、しゃがみ込んだ。

豊音「んふふー」

恭子「……!」

 急な接近に息を呑む。

 ほとんど、張り付くような距離。

 姉帯は、膝の間にうちの体を抱え込むようにして、ぺたりと床に座り込んだ。

恭子「な、なぁ、近いで、姉帯」

豊音「とよね」

恭子「?」

豊音「とよねってよんで……?」

恭子「……ごくり」

 どないしたんや……姉帯、なんか変やで……?


豊音「ねーねー、とーよーねー」

恭子「あ、ああ……豊音? えっと、近いて。離れてや……」

 とりあえず、逆らわんほうがええよな……?

豊音「んーん。これでいいんだよー、はなれないよー」

恭子「なんなん……なんのつもりや……?」

豊音「んふふっ」

恭子「ひゃあ!」

 突然、うちを抱きしめる姉帯……豊音。

 肩甲骨の辺りに柔らかな感触。豊音の胸が背中に当たる。

 胸の感触は、背中で弾むことなく、強く押し付けられたまま。 
 
 離す気はないと言わんばかりに、うちの胴に回った腕に力が篭っていく。


 肌と肌の接触に、突然の不可解な抱擁に、うちは体を強張らせた。



豊音「むふー」

恭子「なに!? なにすんの!?」

 次いで、頭皮に熱い豊音の吐息。

豊音「すんすん」

恭子「!?!???」

 に、匂いをかいで――!?

 なにしてんの、この子……!?

恭子「!」

 ま、まさか……豊音って、そっちの子ぉなん……?

 だからうちと風呂に入りたがって……!? ていうか、そしたら他の四人も!?
 
恭子「……!」

 なんちゅうこっちゃ……!  なんちゅうこっちゃ! ということは五人が大阪に来た目的って、まさか……!

恭子「あわわ……!」

 うち、うち……!

 手篭めにされてまうん!?



豊音「ふんふん……」

恭子「い、いや……! あねたっ、豊音……! やめてぇ……!」
 
 豊音は鼻先を後頭部から首筋へと移動させ、まるで何かを検分するように、うちの匂いを嗅いでいく。

 そして、

豊音「れろん」

恭子「ひうっ!」

 豊音は、うちのうなじの辺りを舐めた。

 生暖かい肉の塊が、ぬるりとうちの素肌を這う。

 鳥肌が立つ。反射的に拘束を解こうともがくも、豊音の力が強すぎて脱出は叶わず。

 自分の体が、異常な緊張状態にあるのがわかる。全身が恐怖でガチガチに固まっている。やがて、力が入りすぎて、自分の意思とは無関係にカタカタと震え出す。

 震えが大きくなるにつれ、膝から力が抜け、歯の根が合わなくなり、涙がちょちょぎれる。



恭子「う、うう……! とっ、豊音やめてぇ、うちこんなん嫌や……!」

 冗談であって欲しいという最後の望みを託し、豊音に離してくれるよう頼む。

豊音「れろれろなめなめ」

恭子「うう~……!」

 しかし、豊音は聞く耳持たず。うちの首筋や頭髪を丹念に舐めながら、ふんふん鼻を鳴らしている。

豊音「ふん……」

恭子「……?」

 ぴたりと豊音の動きが止まる。

 拘束が緩み、離して貰えるのかと思ったそのとき、豊音の手がうちの胸を鷲掴みにした。

恭子「ちょ……! あんた、ほんまにほんまなん!? やめて、痛い!」

豊音「やわこいよー」


 悲しいかな、うちの胸に揉みしだけるほどのボリュームはない。

 従って豊音のおいたは、うちの胸を摘んでこねくり回す行為に終始する。

 うちにとっては痛いだけ、怖いだけで、とても気持ちがいいとは言えない行為。

 しかし豊音は至極楽しそうで、その様子がより一層、うちの恐怖を煽る。

豊音「ふぅ。さて、おあそびはここまでだよー」

恭子「お遊びやて……!?」

 まだ先があるんか!? 

豊音「よっこらせ」

恭子「うわ!」

豊音「どっこいしょ」

恭子「ひぃぃ……!」

 豊音はうちの体を軽々と抱え上げ、そのままお風呂マットの上に横たえた。

 そして、仰向けのうちをごろりとうつ伏せにし――

豊音「さて、すりすりだよー」

恭子「!?」

 ――マットに手をつき、うちの上にのしかかってきた。



豊音「んふふー……これでもうあんしんだよー」

恭子「!!!!!!!!」

 うちの体に体重を預け、体を上下に動かし、擦りつけ始める豊音。

 まだ体を洗っていないため、これほど密着すると少し汗の匂いがする。整髪料などの香りも合わせて、うちの嗅覚がその匂いを、「豊音の匂い」として感知、認識する。

 認識した瞬間、うちは奇妙な感覚に襲われた。

 豊音の匂いに包まれた瞬間……一瞬、ほんの一瞬だけ、豊音への恐怖と、この行為への拒否感が消し飛んだ。

恭子「…………っ」

 すぐに我に返り、驚愕する。

恭子「……!!」

豊音「ふにゃふにゃー」

 うち、いま何考えた……!?

 今、別に好きにさせてもええかなとか思わへんかったか……!?

恭子「~~~~っっ!」

 やばい、やばいでこれは!


 なんやこいつ、まさか、麻雀のときみたいな妙な力でうちの意識を奪おうとしたんか……!?

 そんなことができるんかどうかは分からんけど……!  

 これは逃げなまずい、あかんやつや! 

豊音「ふんっふんっ」

恭子「ぐっ……! ぬっ……」

 せやけどどないしよ、うちの力じゃ豊音の体を振りほどくことはでけへんし、助けを呼ぶにしても、外の四人も豊音の仲間って可能性もある。

 でも、このまま何もせんかったらうちは豊音に手篭めにされるだけ……そんなら外の四人が豊音のこの行為に加担していない可能性に賭けて、助けを呼んだほうがええ。

 どの道この状況では、それしかうちに出来ることはない……!

 うちは大きく息を吸い込み、力の限り叫んだ。

恭子「白望ぃぃぃ!! 霞ぃぃぃ!!」

豊音「おお!?」



 うちの絶叫に驚く豊音。

 次の瞬間、浴室の扉が勢いよく開いた。

白望「豊音!」

霞「いけない、完全にぶり返してるわ……!」

恭子「……!」

 まるで待ち構えていたかのようなタイミングで、浴室に駆け込んでくる二人。

 豊音を呼ぶ白望の声は険しく、この行為をよしとしていないことが分かる。

 どうやら、助けを呼んだのは正解だったらしい。

白望「春と巴を……!」

霞「いいえ、少し荒っぽいけど、このまま祓うわ……! 恭子ちゃんピンチだもの! あなたは豊音ちゃんを抑えて!」

白望「合点……! 豊音……!」

豊音「しろー、じゃましないでー」

 上下にへこへこ動く豊音にしがみつき動きを止める白望。

霞「よし……」

恭子「……!?」

 祓うってなにするつもりや……!? 



霞「さあ、いくわよ……!」

恭子「!」

 霞が自分の胸の谷間に手を差し入れ、数枚の御札を取り出し、宙にばら撒く。

霞「おーだー!」

恭子「!!?」

 霞が叫ぶ。次の瞬間、御札が先ほどのくじ引きのときのような青い光を発し、空中で静止する。

 青い燐光を纏った無数の御札は、滞空したまま輪を成し、うちらを取り囲んだ。

恭子「……!!」

 何してんのこれ……うち、夢でも見とるんやろか……。

豊音「あうっ! うう……!」

 豊音が苦しそうに呻く。

 それを見た白望が声を荒げる。

白望「霞!?」

霞「大丈夫。略式のさらに略式だから荒いのよ。害はないわ」

白望「頼むよ、ほんと……」

霞「任せて」

 霞は胸元で印を組み、瞼を閉じた。

 うちの耳には届かへんけど、どうやら口元で何かを唱えているらしい。

 何かの呪文……祝詞のようなもんやろか……。


豊音「うっ……うううう!」

白望「……」

 霞のお祓いは効を奏しているようで、豊音はうちの体の上からどき、マットの上で苦しみ悶え始めた。

 その体を支え、豊音が蛇口や壁に頭を打たないよう気遣いながら、心配そうに見守る白望。

豊音「う、あ――!」

 やがて、豊音は体を大きく痙攣させ、目を大きく見開いた。

 うめき声が途絶える。強張っていた体から力が抜け、豊音は意識を失った。

 御札から光が消える。どうやら役目を終えたらしい無数の御札が、はらりと床に舞い落ちる。

豊音「――…………」

白望「豊音……!」
   
霞「終わったわ」

恭子「な、なんなん……?」

 呆気に取られる。

 オカルトやオカルトやとは思てたけど、まさかここまでとは……。

 神社生まれってすごい。

 うちはそう思った。



恭子「白望、これはいったい……」

白望「とりあえず豊音を運ぶよ……恭子はお風呂、入っちゃって」

恭子「いや、風呂どころやないで、正直……」

白望「事情は恭子が上がったら説明するから」

恭子「何を悠長なこと――」

白望「お願い。お互い、一度落ち着いたほうがいいと思うし。これ、私たちにとっても想定外の事態なんだよね……」

恭子「??」

霞「恭子ちゃん、今日はいろいろと不審に思っていることもあると思うのだけど……それについても一緒に説明するから。ね?」

恭子「……まぁ、そういうことやったら」

白望「ごめんね。霞――」

霞「ええ。ちょっと待ってて。二人を呼んで来るから」

恭子「……」

 そうして、豊音は四人によってリビングに運ばれていった。

 うちは説明のお預けを食らい、ひとり釈然としないまま風呂に入った。

 豊音に舐められた首筋が疼く。

 総毛立った体を、湯船で温め落ち着けた。


  *


  *


恭子「なるほど……事情はわかった」

白望「……ごめんね、豊音がとんでもないことを」

恭子「それはもうええねん……」

 髪を下ろし、パジャマ姿。タオルを首に掛けほっかほか。

 風呂上りの恭子に、私たちが大阪に来た理由を説明すると、彼女は案外、すんなりと話を受け入れてくれた。

 荒唐無稽と斬って捨てられることも覚悟していたが、恭子は思いのほか冷静だった。

 霞のお祓いを目の当たりにしたことが、話を通す上ではよかったのかもしれない。

 恭子は話しながらも、豊音を寝かせた客間のほうをちらちらと窺っていた。

 豊音のおいたがどの程度のものだったかは、詳しく聞いていない。だが、その様子を見るに、どうやら怖い思いはしたらい。


恭子「そんで、なんで豊音はあんなんなってもうたん? うちと麻雀打ったら元に戻るはずやったんやろ?」

巴「効果はあったんです。でも、完全ではなくて……私たちにもぶり返した原因はわからないんです……」

春「私たち、姉帯さんは末原さんと打ちたくて、でも打てなくて、それでも打ちたいという気持ちが膨らんでいって、それで暴走したんだと思ってた……昨日話し合った、その解釈自体が間違いだった……?」 

白望「末原さんと麻雀を打たせて、インハイ二回戦の状況を再現するという方法自体、見当外れだったってこと……? それでは豊音の想いが満たされない……? すっきりしない?」

 クールダウンの運動どころか、またがっつり心拍数を上げてしまったということなのだろうか。

霞「うーん……多分、方向性は間違っていないと思うのよね。恭子ちゃんと麻雀を打つことは、豊音ちゃんが暴走を抑える上で必要だった……そこまでは間違っていないと思う」

白望「方向性? どういうこと?」

恭子「つまり、うちともっと打ちたいってこと? それか、また公式戦で打ちたいとか?」



霞「いいえ。麻雀を打つことは、豊音ちゃんにとって手段に過ぎなかったんじゃないかって、そう思うのよ」

白望「手段って、なんのための手段……? 話が見えないよ、それだけじゃ……」

霞「想いを遂げるための手段、ということよ。ひとつ仮説があるのだけれど、その前に、恭子ちゃんに訊いておきたいことがあるわ」

恭子「なに?」

霞「さっき豊音ちゃんに襲われたとき、豊音ちゃんは言葉を話せる状態だったのよね? そのとき話していたこと、詳しく教えてくれないかしら」

恭子「ええけど……基本、わけわからん感じやったで? 無邪気にうちの体おもちゃにしとるだけやったけど……」

霞「それでもいいわ。なんでもいいから、とにかく豊音ちゃんが言っていたこと、全部教えて」

恭子「うーん……やわこいよーとか、すりすりするよーとか、そんなんばっかやったと思うけど……」

霞「それだけ? 他には?」

恭子「あとは、扉閉めて『これでにげられないよー』とか、うちに体擦りつける直前に『これでもうあんしんだよー』とか……なんか意味がありそうなのはそんくらいやな……」

霞「ふんふむ……」

白望「『これでもう安心……』体を擦りつける直前に……?」

 宮守でも豊音は、似たようなことを言っていた。


 体を擦りつける行為は、暴走した豊音にとって一種のマーキングのようなものらしい、ということはわかっている。

 昨日豊音は、臭いをつける前に部室から姿を消した胡桃をひどく心配していたが、恭子にもマーキングしておく必要を感じていた……?

霞「白望ちゃん」

白望「なに……」

霞「昨日、豊音ちゃんは体を擦りつける行為について、『離れても仲間だっていう印をつける』と言っていたのでしょう?」

白望「うん……」

霞「単純に、こうは考えられない? 豊音ちゃんは恭子ちゃんと、お友達になりたかったんじゃないかしら」

白望「つまり霞の言う、恭子と麻雀を打つことが手段に過ぎなかったっていうのは……」

霞「そういうこと。豊音ちゃんの願いはあくまで恭子ちゃんたちと友達になることで、麻雀や食事はそのための手段、踏むべき手順でしかなかった。きっと、豊音ちゃんが暴走を抑える上で重要だったのは、恭子ちゃんや姫松のみんなと友達になれた、という実感を得ることだったのよ」

白望「それじゃあ、さっき豊音が暴走したのは……」

霞「豊音ちゃんが、恭子ちゃんと友達になれたという実感を完全に得るその前に、恭子ちゃんと二人で密室にこもったことで、再び暴走してしまった。そういうことなんじゃないかしら」


白望「なるほど……たしかに、綺麗な背中だったもんなぁ……おっかけたくなっちゃったんだね」

恭子「やめぇや」

霞「昨日……」

白望「?」

霞「昨日、宮守で話し合ったとき、豊音ちゃんの暴走の原因を恭子ちゃん個人に求めることに、違和感があったというか……ちょっと寂しかったのよね」

白望「寂しかった?」

霞「豊音ちゃんの暴走の原因が、恭子ちゃんとの再戦願望にあるって推理したとき、じゃあ私は?って、少し思ったのよ。私とはもう打たなくていいのかしらって」

白望「ああ……」

霞「きっと、二回戦のあと一緒に海に遊びに行って、もう豊音ちゃんの中では、私たちは友達ってことになっているのでしょうね。だから私たちにはそれほど執着しなかった。昨日、岩手でで一局打って、それで満足してくれたんだと思うわ」

恭子「つまり、うちらとはただの対戦相手のままお別れしてもうて、豊音にとってはそれが心残りやったっていうこと?」

巴「今日の対局と食事で、その心残りが解消されつつあったから、暴走は収まりかけていたということでしょうか?」

霞「たぶん。恭子ちゃんとお風呂に入る前の段階で、もう一押し、というところまでは行っていたのでしょうね」


春「そのもう一押しの前に、二人で密室に入り、そして背中を見せたことが、ぶり返しの原因……?」

霞「おそらくは」

恭子「そんで、もう一押しってなんなん……? 麻雀打って、飯行って、もう十分友達っぽいで?」

霞「友達になれたという実感を、より完全にするために、まだ『何か』必要だった……ということかしら」 

白望「その『何か』の代わりに、暴走状態の豊音はマーキングをしたがる……?」

霞「『はなれてもあんしん』なように……ということね」

 恭子と浴室に行く前に、その何かが埋められていれば、豊音が再度暴走することはなかったのかもしれない。 

霞「マーキング、つまり臭いつけに代わる、仲間だという印……この場合、友達になれたという証、と言い換えてもいいかもしれないわね。とにかく、そういう何かを得ることが、豊音ちゃんが暴走を抑えるためには必要なんだと思うわ」

白望「……何かって、なんだろう?」

霞「それが問題なのよね……」

 全員、しばし黙考。

 麻雀、食事……さらに何か、もう一押し。

 「一緒に入浴」というイベントが、その「もう一押し」になっていなかったことが、私たちを悩ませた。

 一緒に何かをする、ということが、その「もう一押し」に必要な何かではないと、暴走が入浴中に起こったことでわかってしまったからだ。



春「あの……」

 やがて、春がおずおずと手を挙げた。

霞「何か思い当たることでもある?」

春「はい……あの、私たち永水の面々が姉帯さんとやっていて、姫松のみなさんがやっていないことが、ひとつあります」

白望「それは、何……?」

春「えっと、これ……」

 春はもぞもぞと、巫女服の袖口からスマートフォンを取り出した。

巴「ああ……そうか」

春「携帯番号と、メールアドレスの交換……海に遊びに行ったときに、全員で交換した……」

白望「そういえば豊音、最近永水の子たちとよくメールするって言ってたような……」

春「姉帯さん、メール送ると、結構マメに返信くれる……」

巴「私も何度か、メールでやり取りしました。姫様とはっちゃんにも、姉帯さんからのメール見せてもらったことがあります」

霞「なるほどね。私たち永水のメンバーは、一緒に海に遊びに行って連絡先を交換した……これはもう、誰がどう見ても友達同士よね。豊音ちゃんだって、そう思っているはずだわ」

恭子「携番とメルアドの交換て……それでほんまに、豊音のあのおかしな状態が治るん?」

霞「可能性は高いわ。実際、食事を終えてここに来た時点では、治りかけていたんだもの」


巴「麻雀と食事が、『友達だという実感を得るための行動』。そして相手の連絡先が、最後の一押し。『友達の証』というわけですね」

白望「携帯番号とメルアド……たしかに、手に入れば『離れても安心』な、友達の証だね……」

恭子「ほな、豊音が起きたらアドレス交換? それで終いなんやな? あの怖い感じ……」

白望「そうだといいんだけど……」

霞「……なんにせよ、試してみるしかないわ。豊音ちゃんは当分起きないでしょうから、もう明日にしましょう」

恭子「……わかった。ほんなら、あんたらも風呂入ってきぃや」

巴「白望さんと霞さん、お先にどうぞ」

霞「そうさせて貰うわ。さっき、ちょっと汗かいちゃったし」

白望「じゃあ、行こうか……」

 荷物から着替えを取り出し、浴室へ。

 霞と二人きりになれるのは、ちょうどよかった。

 今の、豊音の暴走に関する相談。

 その中で、私には一つ気になることがあった。

 
  *


 
  *


白望「霞……」

霞「なぁに……」

 湯船に浸かり、まったりお胸を水面に浮かべる霞に、私は気になっていたことを訊いた。

白望「さっき、霞は豊音の本懐が、姫松のみんなと友達になることだって言ってたよね? 恭子とはまだ完全に友達になったとは思えていなかったからマーキングして、霞たちとはもう友達だったからマーキングしようとはしなかった……そういう話だったよね」

霞「……ええ」

白望「それなら、なんで豊音は、私たち宮守の面子にマーキングしたのかな……? 私たち、豊音とはもうとっくに友達だよ? 何度も一緒に遊びに行ってるし、同じ部活だし、インハイでチームも組んだ……それなのに、今さら私たちにマーキングをした理由はなんなんだろう?」

霞「きっと、卒業が近づいているからよ」

白望「ああ……」

 霞は、あっさりと答えた。

 私も、あっさりと納得した。

白望「……念押しってこと?」

霞「そうね。比較的縁の薄い私たちや姫松の子たちとは、結びつきを強化したい。そして、すでに結びつきの強いあなたたちとは、さらに縁を強化したい。豊音ちゃんの根底にあるそういった願望が、今回の暴走に繋がった。それが真相なんだと思う。昨日は私たち、事態を少し複雑に考えすぎてしまっていたわ」

白望「なるほどね……」



霞「豊音ちゃん、きっと不安なのね。卒業したらあなたちとの縁が途切れてしまうんじゃないかって、そんなこと考えてるんじゃないかしら」

白望「そんな心配しなくていいのに……」

 とはいうものの、同年代の友達のいない山奥から出てきた豊音なら、考えそうなことではある。

白望「ん? ちょっと待って……ということは、豊音の私たちに対するおいたを止めるには、私たち宮守は宮守で、豊音を安心させてあげないといけないってこと……?」

霞「どうなのかしらね……でも、私の所見では、その必要はないと思うわ」

白望「どうして?」

霞「もっと視野を広く持つべきだったのよ。昨日の時点では、私たちは豊音ちゃんの暴走の原因を、恭子ちゃん一人に焦点を絞って考えてしまった。そして間違えた。豊音ちゃんの暴走は、その原因を特定個人に求めてはいけないものだったのよ」

白望「私たち宮守の面子だけでは……永水だけでも、姫松だけでも、豊音の想いを成就させてあげられない……?」

霞「そう。豊音ちゃんの暴走の原因は、一言で言い表すことのできないものだけど……あえて言うなら、卒業が近づいてナーバスになってしまったこと。豊音ちゃんは、麻雀がきっかけで知り合った子たちとの縁が薄くなることを、本能的に危惧しているのね」


白望「卒業が近づいて、離れ離れになるのが不安だと……? でも、麻雀がきっかけで知り合った子って……それだと範囲が広すぎるよ……姫松のみんなと友達になるだけでは足りないんじゃ……?」

霞「ええ。足りないかも」

白望「そんな……それじゃあ、どうするの?豊音のあの状態は、そう長くは放置できないよ……恭子のような被害者が増える一方だ……」

霞「当然、手は打つわ」

白望「手……?」

霞「お休みを延長しましょう。長野に行くの」

白望「長野……そうか、今日、豊音と恭子がやったことを、宮永さんにもやってもらうってこと」

霞「そういうこと。一緒に遊んで、連絡先を交換して縁を強化する。それに、平日だから望みは薄いけど、咲ちゃんや原村さん、竹井さんのツテを頼れば、清澄以外の高校とも交流が図れるかもしれない」

白望「白糸台に阿知賀……風越に龍門渕……もし上手くいけば、豊音はお腹いっぱいだね」

霞「それだけやれば、豊音ちゃんも満足すると思うの」

白望「そうだね……でも、清澄を訪ねるのはともかく、他の学校の人たちには……」

霞「時期的に、一同に会することはできないでしょうから、こちらから一校ずつ訪ねることになるでしょうね。熊倉先生にはそう連絡しておいて」

白望「了解……。次は長野か……ハードだなぁ……さすがにだるいや」


霞「頑張らないとね。豊音ちゃんを色魔にしておくわけにはいかないもの」

白望「うん……」

 こうして、私たちは大阪に続き、長野に向かうことになった。

 目的は宮永咲と豊音を友達にすること。

 そしてあわよくば、清澄以外の高校を訪ねるツテを手に入れること。

 ただひとつ、気がかりなのは……。

 何かと忙しいこの時期に、各校のみなさんに私たちの相手をする余裕があるのかどうかということ。

 ……いや、どうあっても、上手くことを運ばなければならない。

 霞の言うとおり、上手くいかなければ、豊音は無自覚に、残りの高校生活を同性愛者の色魔として過ごすはめになる。

 清澄をはじめとした各校のみなさんには申し訳ないが、今は相手の都合を考えている場合ではない。

白望「みなさんには、せいぜい……」

霞「?」

白望「豊音と仲良くしてもらうことにしよう……徹底的に」

霞「ふふ、そうね」


  *


  *


 翌日。

 長旅の負担を少しでも軽減するため、長野へは新幹線で向かうことになった。

 長野のあと、奈良や東京にも向かうことになるかもしれないのに、バス移動なんてしていたら私は死んでしまう。

 本音としては飛行機を使わせてもらいたいくらいなのだが、さすがにそこまでわがままは言えない。

 熊倉先生に、飛行機代まで催促するのは憚られた。

 新幹線だって十分贅沢ではあるけれど、私としては、これ以上譲れない妥協点である。

 先生は豊音の暴走に責任を感じているのか、バスはしんどいと遠回しに伝えると、あっさりと新幹線代を出してくれた。

 そして今、私たちは、その新幹線の車中にいた。


 向かい合わせにした二人掛けの座席に、私と豊音が隣り合って座り、豊音の対面には恭子、その隣に霞。巴と春は、通路を挟んだ隣の席に座っていた。

恭子「豊音」

豊音「んー?」

恭子「姫松のみんなの携帯番号とメルアド、あんたの携帯に送っとくわ」

豊音「おー、ありがとー」

 恭子には豊音との縁をより強固なものにするため、こちらから長野への同行を求めた。

 おっかなびっくりではあったが了承してくれて、今は豊音と二人、仲良く並んでお菓子など摘んでいる。

恭子「さっそく主将あたりにメールしてみたらどや?」

豊音「うん!」

 今朝、目覚めた豊音に、恭子はさっそく連絡先を教えた。

 霞によれば、その効果は覿面。連絡先の交換が豊音の暴走を抑える上での決め手になると、その時点で確定事項となった。


 まだ完全に沈静化したとはいえないものの、一緒に遊ぶ、連絡先を交換するという流れが有効であるとわかった以上、手を緩める道理はない。

 私たちはすぐに新幹線の切符を手配した。

 昼を過ぎる頃には、長野についている予定である。

霞「あら、めーる」

 今日は私服姿の霞の胸元が、ブルブルと震えた。

白望「久……?」

霞「ええ」

 大阪に行ったときとは違い、今回は先方に話を通していた。

 受け入れの窓口になってくれるのは、清澄の元プレイングマネージャー、竹井久。

 長野に行こう、じゃあ先方に連絡を取ろうという話になったとき、なぜか全員が同時に携帯を取り出し、なぜか全員が同時に、久に連絡を取ろうとした。

 霞も巴も、春も恭子も、豊音も私も、全員が久の連絡先を知っていた。そして、そのことをお互いに知らなかった。


 他の五人のことはともかく、豊音が久と連絡を取り合っていることには驚かされた。

 訊けば、インハイの会場で連絡先を交換して以来、今まで数回メールのやり取りをしたらしい。

 それほど親しいわけではないようだが、豊音が久との交流を宮守の面々に黙っていたことが、私にはなんとなくショックだった。

 これは長野に着いたら、久の奴を問い詰める必要がある。

白望「なんだって?」

霞「駅に迎えに来てくれるって」

白望「そう……」

恭子「久、学校はどうすんの?」

霞「さあ? あの子のことだから、こっちのほうが面白そうとでも思ってるんじゃないかしら?」

春「ありそう……」

巴「ふふ。確かに……」

白望「……」

 なんで、みんなそんなに久と親しげなんだろう……?

 そういえば私、いつから久のこと下の名前で呼び捨てにしてるっけ……?

 ……あれ。

 思い出せないや……。

 …………。

 これは、つまり……。

白望「やはり、長野は魔境ってこと……?」

霞「なんの話?」

白望「いや、なんでもない……着くまで寝るよ」

 私は瞼を閉じた。

豊音「えー、シロ寝ちゃうのー?」

 豊音が不満の声をあげる。

白望「……やっぱり起きてるよ」

 やっぱり起きた。

 長野に着くまで、まだ大分かかる。

 豊音の手には、カード麻雀が握られていた。

 
 ……新幹線の中だとやり難いんじゃないかな、それ。


  大阪編  槓 


長い
でもまだまだやります
次は長野
長くするためによくわからんことたくさん書きました

次は少し間が開きます

おつー
人見知りの咲ちゃんだから手強いかも

濃密で良い
乙乙

おつおつ
完全にマーキング()されてもサクッと水に流すエイちゃんマジ天使

咲は年上に弱そうだから二人っきりにしたらすぐ食べられちゃいそうだね(マジキチスマイル

むしろヒッサにすでに食べられてそうな


 
 その人影を見たのは、私が和ちゃんを初めて見かけた、川沿いの並木道だった。


 部活を終え、元部長に用があるという染谷先輩と別れ、いつも通り京ちゃん、和ちゃん、優希ちゃんと帰路に着き、あの道を通り過ぎたそのときだった。


 じゃれ合う京ちゃんと優希ちゃん。それを嗜める和ちゃん。

 なんとなく三人のやり取りに置いて行かれて、曖昧に笑うしかない私。

 いつも通りの帰り道。

 会話に置いていかれても、もう慣れたもので、特に気まずい思いはしない。

 先行する京ちゃんと優希ちゃんの会話に口を出しながら、少し遅れて私の横を歩いてくれる和ちゃんのおかげで、寂しい気持ちにもならない。

 気まずくないし、寂しくもない。

 けれど、少しだけ、間を持て余しはする。

 手持ち無沙汰になり、そのとき私の視線は、自然と川沿いの木々に流れていた。
 
 和ちゃんを見かけたあのとき、私が木陰に座っていた木はどれだっただろうか。

 そんなことを考えながら歩いていた。



 人の手で整備されているとはいえ、自然物である並木の様相は季節とともに移ろい、もうどれがどれだかよくわからない。

 なんとなく、あの木を確認せずにはいられない気分になって、私はひとり歩みを緩めた。

 記憶を辿る。あの木はもっと、橋の近くにあったような気がする。

 近くにベンチもあったはず。

 麻雀部に馴染むまでは、よくあそこでお昼寝したり本を読んだりしていた。

 橋はとうに、通り過ぎたあとだった。

 足を止め、橋を振り返った。

 そのときだった。

 私がその人影を見たのは。

???「……」

咲「……?」

 それが人影であると気づくまで、数秒を要した。

 日は傾いて辺りは薄暗く、その人影は木の傍で――あれがたぶん、私が本を読んでいた木だ――四つん這いになっていたからだ。

 男性か女性かもわからない人影が、薄暗がりで、ひとり四つん這いになってそこにいた。


 最初は誰かが、急に体調を悪くして苦しんでいるのだと思った。

 しかし、駆けつけようと一歩踏み出して、気づいた。

 すぐに、違うとわかった。

 あれは苦しんでいるのではない。

 何かがおかしい。

 四つん這いとはいっても、その人物の手足はまるで地を這う蜘蛛のように、大きく左右に広がっていた。

 獲物の前で体を伏せる獣のようにも見えた。

 変な人がいた。

 変な人がいる。

 それも、私たちから僅か、二十メートルほど後方に。

 不審が膨らみ、恐怖に変わる。

 和ちゃんの肩を叩こうと手を伸ばす。

 その瞬間、人影が動いた。

???「ふしゃー」

咲「ひ……!」

 思わず声を上げた。


 異様な光景だった。

 人影は、四つん這いのままシャカシャカと素早く動き、木の陰に消え、私からは見えなくなった。

 そのまま謎の人影は、木の陰から出てこない。

 目が木に釘付けになる。恐怖から、謎の人影の動向から目が離せなくなっていた。

 このまま人影に背を向けて歩くのは、なぜか抵抗があった。

和「咲さん……?」

咲「あ……」

 和ちゃんに声を掛けられて気づく。

 私は知らないうちに、足を止めてしまっていた。

 いつの間にか、三人との距離が少し開いていた。

和「どうかしましたか?」

咲「えっとね、いま、そこの――」

優希「咲ちゃんのおうちはそっちじゃないじょ?」

咲「わ、わかってるよ……! そうじゃなくて、いま、そこの木のところに変な人が……!」

京太郎「変な人? どんな?」

咲「えっと、四つん這いでね、こう……シャカシャカって感じで……」

京太郎「なんだそりゃ……」

和「誰もいませんよ……?」


咲「いるんだよ……! 今、あそこの木の陰に隠れてそのままなんだよ! 今もそこにいるの!」

 木を指差し、不審を訴える。

 とにかく、あの謎の人影に背中を向けて歩くのが嫌だった。恐ろしかった。

京太郎「あそこの木の陰にか?」

咲「そう! あそこ……!」

優希「じょじょ? 不審者か?」

咲「わからないけど……とにかく変な感じだったんだよ……!」

京太郎「まぁ、落ち着けよ。とりあえず指差すのはやめとけ。変な人だってんなら、放っておいたほうがいいよ」

和「そうですね。変に刺激しないで、知らない振りをして行ってしまいましょう」

咲「でも……」

 歩き始める京ちゃんと和ちゃん。

 私は後ろが気になって、どうしても足が動かせずにいた。


優希「咲ちゃん怖いのか?」

咲「うん……」

優希「なんだったら私が見てくるじょ?」

咲「いや……いいよ。ほんとに不審者だったら優希ちゃん危ないし」

優希「そうかー? じゃあ行くじぇ、とっとと帰ってお風呂とご飯だじぇ」

咲「うん……」

 そうして、私は優希ちゃんに手を引かれ、その場をあとにした。

 ぐいぐい腕を引く優希ちゃんの先導で、ようやく足が前に動くといった有様だった。

 どうしても、後ろにいるあの人影への恐怖が拭えない。

 『あれ』を放置して前に進むのは、怖い。

 きっと、怖いことになる……。

 そんな気がしてならなかった。


  *


  *


 豊音がいない。


白望「いた……?」

霞「いないわ……おかしいわね、あんな大きな子を見失うなんて……」

巴「しかも、こんなに開けた場所で……」

恭子「まさか、山のほうに……? ていうか、それしか考えられへんけど……」

春「そうだとしたら、私たちだけじゃ探しようがない……」


 豊音がいなくなってしまった。


白望「久、清澄のほうは……? 連絡はとれた?」

久「いえ、それが変なのよ。さっきから一年生の子たちの携帯に掛けてるんだけど、全然繋がらなくて……コール音すら鳴らないのよ」

恭子「こっちもや。さっきから豊音の携帯に掛けてんねんけど、繋がらへん」

白望「そっちもか……」


恭子「さっき、手分けして探してるとき、うちらの間では連絡取れとったよな?」

霞「ということは……豊音ちゃんとその周辺だけ、電波が繋がりにくくなっているのかしら」

巴「まるでジャミング……」

久「ちょっと待って、ということは、うちの一年生に電話が繋がらないのって……」

白望「豊音はやっぱり、清澄にいる……?」

霞「……急いだほうがよさそうね」


 長野に着いた私たちは、出迎えてくれた久と合流し、学校が終わる時間まで長野市内で時間を潰していた。

 その後、清澄高校のある××市に入った。

 電車とバスを乗り継いで、あとは徒歩で清澄まで、ということになり、山裾に田園が広がるのどかな田舎道を歩いていた。

 七人でぞろぞろと。

 そのうちに歩くのがだるくなり、豊音におんぶを頼もうとして、私は気づいた。

 豊音がいなくなっていることに。


 集団の後方を歩いていた豊音がいなくなっていることに、誰も気づいていなかった。

 周囲に遮るもののない田舎道で、忽然と姿を消した豊音を、全員で慌てて探した。

 数十分、手分けして周辺を探したが、見つからない。

 電話を掛けてみても繋がらず、私たちはようやく、事態の異常さに気づいた。


久「私たちがこの辺を探しているうちに、清澄まで行ってしまったのね……」

恭子「でも豊音、道知らんやろ……」

春「咲さんの力に惹かれているのかも……」

霞「おそらく、そんなところでしょうね」

白望「急ごう。このままじゃ咲ちゃんが……」

 美味しく頂かれてしまう……あの純朴を絵に描いたような咲ちゃんが……。

白望「久、案内を」

久「ええ、こっちよ――」

 久が私たちを先導し、小走りに駆け出す。

久「っと、ちょっと待って。携帯――」

 その直後、久の携帯が鳴り響いた。


久「! まこだわ……ちょうどいい」

春「まこって……」

巴「次峰の子だね」

恭子「向こうからは繋がるんか……?」

久「やけにノイズが多いけど……まこ! 今どこ――ってどうしたの? なんか息が荒いけど」

霞「! 久ちゃん、スピーカーフォンにして」

久「? ええ」

 何かを察したらしい霞が、久に要求。

 久が携帯を操作する。するとスピーカーから、ノイズ混じりで途切れとぎれの声が聞こえてきた。

まこ『ハアッ、ハァッ――――んたこそ、ど――におるんじゃ……! 探しとった……に』

久「早退したのよ。他県からお客さんが来るから、その人たちを向かえに行ってたの……それよりまこ、今どこにいるの?」

まこ『学校――ゃ。なあ、他県からの客って――もしかし――っ! 来た!』

???『ふしゅるるる』

白望「!」

霞「やっぱり……!」

 今のは……! 豊音……!?

久「!? まこ? どうかしたの? ねえ、さっきから変よ、何かあったの?」

まこ『……他県からの客って――みやも――のあねた――』

久「そうよ、会ったの!? 豊音、清澄にいるのね!?」

まこ『ああ……おるよ……今、目のま――におるよ……』

久「!」


  *


  *


 その日。

 うち、染谷まこは、部活を終え、一年生四人組と別れ、ひとり三年生の教室があるフロアに来ていた。

 前部長の竹井久に、借りた本を返す用があった。

 別に本を返すのは明日以降でもよかったんじゃけど。

 珍しく麻雀部に顔を見せず、メールを打っても返信がないことが気になって、本の返却がてら少し顔を見ておこうとやって来たのだった。

 部活終わりの時間帯。三年生の教室は当然閑散としており、久の顔は見当たらない。

 ここにいるという当てがあったわけでもないんじゃけど。

 フロアを一通り見て回っても、案の定、久の奴はおらんかった。


「竹井さんなら、早退したよ」

まこ「風邪でも引いたんじゃろか……」

「元気そうだったよ? なんか、用事があるんだってさ」

まこ「ほうか……」

 廊下で偶然会った顔見知りの三年生に事情を聞き、礼を言って教室をあとにする。

 肩透かし……というほどでもない。

 こういうとき久をつかまえる難しさは、これまでの付き合いでようわかっとる。

 体調を崩したわけでもないのに早退。それも、用事があって。

 これは、うちと連絡がつかんことと、その用事とやらを関連づけずにはおれんね。

 これまでの経験上、またぞろ何か企んで暗躍しとると考えたほうがよさそうじゃ。

 進路のことを考えにゃいかんときじゃろに、なにをやっとるんかは知らんけど。

まこ「……」

 一年はまだおるかのう……。

 一人で帰るのも侘しいし、追いつけるとええんじゃが。


 久のことは諦め、階段を降り昇降口へ。

 靴を履き替え、一年が帰り道に使ったであろう、川沿いの並木道に足を向ける。

 階段を降り、橋を渡り並木道へ。

まこ「――!」

 そのとき。

 そのとき、首筋の辺りに、冷水を浴びせられたような悪寒が走った。

まこ「!!?」

 『その手の感覚』にそれほど鋭いわけでもないうちにも、すぐにそれとわかるその感覚。

 インハイで、長野県予選で、嫌というほど味わったあの感覚。

 うちにとっては凶兆でしかない、魔物といわれる連中が力を発揮するときに発する、あの禍々しい気配。

まこ「咲……?」

 うちは自然とその名を呼んだ。

 身近でこの手の気配を発する人間に、他に覚えがない。

 姿は見えずとも、近くにあん子がおると思うて、うちは周囲を見回した。

 しかし返ってきたのは、耳に馴染みのない声。

「そめやさんだー」

まこ「!」

 声は頭上から聞こえた。


 見上げると、傍にある木、その枝の上に、犬猫のようにしゃがみ込んで座る、大きな人影があった。

まこ「な……!」

???「こんばんわー」

 木の枝から飛び降りる人影。

 人影は、なぜか四つん這いの姿勢で着地した。

 その声色と長い髪から、その人物が女だとわかる。

 長すぎる髪の毛が、顔を覆い隠していた。

???「こんばんわー、ばんばんわー」

まこ「ひ!?」

 女は四つん這いのまま地を駆け、こちらに近づいて来た。

 その速度が尋常ではない。長い手足が四足歩行の獣のように躍動し、女は一瞬でこちらとの間合いを詰めた。

 うちの名前を呼んでいるということは、知人かもしれない。そう記憶を辿ろうと巡らせかけた思考が、その異様な動きに遮断される。

 やたら背の高い女の知人は二人おるけど、こんな野人のような女は知らない。

 知っていてたまるかという話じゃ……!

まこ「な、なんじゃあ、わりゃあ!」

???「?? わりゃー?」


まこ「そっ、そんなかっこしとらんで! 立って歩きんさい! 犬やないんやから!」

 とりあえず、気になる最大の異常点はそこだった。

 この女はうちの名を呼び、挨拶もした。それならば、あとは二本の足で立って歩いてくれさえすれば、相対する不安が幾分か解消される気がした。

???「はーい」

まこ「!」

 いい返事をして、素直にすっくと立ち上がる謎の女。

 髪に隠れていた顔が露になる。

まこ「あんた……! 宮守の……!?」

豊音「とよねだよー」

 やたら背の高い女の知人のうちの一人、姉帯豊音……!

まこ「あ、姉帯さん、あんた、なんで長野に……?」

豊音「あそびにきたよーさぼってきたんだよー」

まこ「遊びにって……」

 まさか、久の用事と何か関係が……?


まこ「姉帯さん、あんた、まさかひさ――って!」

豊音「ふしゃあー」

まこ「うおお!?」

 話を遮り、うちに飛び掛ってくる姉帯。

 咄嗟に回避する。

まこ「なにすんの!?」

豊音「わたしとよねだよー」

まこ「!??」

 再び四つん這いになり、外的を威嚇する獣のように体を伏せ、姉帯は言った。

豊音「とよねってよんでよー。そのほうがあんしんだよー」

まこ「あ、安心……? 姉帯さん、あんた何言うちょるんじゃ……」

豊音「と・よ…………」

まこ「……?」

 こちらの話が通じている様子はない。

 姉帯は四つん這いの姿勢のまま、下半身を持ち上げ、上半身をさらに地に低く伏せた。

まこ「姉帯さん……?」

豊音「ぉぉぉぉぉっ……」

まこ「……ごくり」

 じりじりと後退し、姉帯から距離を取る。


 嫌な予感のする構えじゃあ……。

 それ、なんか嫌な予感のする構えじゃのぉ……。

 まるで力を溜めとるようじゃあ……。

 今にも飛び掛ってきそ――

豊音「っね! だよおおおおおおおっ!」

まこ「――う! っひゃあ!」

 ほらやっぱり!

 ていうかなんじゃあ! こん子、二、三メートルの距離をひとっ跳びで!?

まこ「っく!」

豊音「またよけたー、なんでー?」

 横に跳んでどうにか回避。制服が汚れるのも構わず、地面をごろごろと転げ回る。

 無防備になるのが恐ろしくて、すぐに体を起こす。

 急襲に失敗した姉帯も、やはり四つん這いのまま、ずざっと体を反転させてうちを視界に捉えた。

 再び向かい合う。

 膠着状態、ならまだいい。

 互いの力関係ははっきりしていた。

 この状況、姉帯が狩る側で、うちが狩られる側。

 姉帯がもう一度飛び掛ってくるつもりなら、それを避け切る自信はなかった。


豊音「つぎはつかまえるねー」

まこ「…捕まえて、うちをどうするつもりなんじゃ?」

豊音「? すりすりして、ついでにぺろぺろもするよー?」

 何を当たり前のことを、といった表情で、首を傾げる姉帯。

 すりすりぺろぺろって……それを飛び掛って、無理矢理に……ということは……。

まこ「……姉帯さん、あんた……」

 こん人ぉ、レズ……なんじゃろか。

 うち、今、もしかして襲われとるんじゃろか。

 ……いや。

豊音「わおーん」

まこ「……」

 いや、そういうのとも、何か違う。

 単にレズっちゅう可能性も捨てきれんが……。

 これは何か変じゃ。

 何かというより、何もかも変じゃ。


 威圧感のある外見の割りに、無邪気で可愛らしい人っちゅうのが、よう知らんなりの、うちのこん人への印象じゃった……。
 
 じゃが、今の姉帯は、そんな普通の感慨とはかけ離れたところにおる。

 これじゃあまるで、遊んで欲しくて仕方ない興奮しきったわん公。狩猟本能に支配されたにゃん公。

 無邪気を通り越して獣レベルの無垢さを感じるこの状態は、明らかに普通じゃあない……。

 イノセント……いやむしろネイチャー……ネイチャー豊音。

 そんな感じ。

まこ「……てっ」

 言うてる場合か……うち!

 今はこの場をどう切り抜けるかっちゅう話じゃあ……!

 こんな野外ですりすりぺろぺろは勘弁願いたい。

 かといって、姉帯の人間離れした動きから逃げ切る自信はない。

 なら、一応言葉は通じるようじゃし、ここはひとつ、姉帯の理性に訴えてみようかのう。



 せめて、獣じみて見える姉帯の中に、理性の光を見出して安心したい。

 恐怖から逃れるため、そして、次の襲撃を遅らせるため、うちは姉帯と対話を試みることにした。

まこ「姉帯さん……」

豊音「むー? とよねだよー?」

まこ「と、豊音さん……」

豊音「そう、とよねだよー」

まこ「あんたぁ、なんでうちにすりすりしたいんじゃ? 学校さぼって遊びに来たっちゅう話じゃけど、まさかこのために来たっちゅうわけでもないじゃろうに」

豊音「んー? いやー? このためにきたようなもんだよー?」

まこ「……すりすりぺろぺろのために、学校さぼってわざわざ……?」

豊音「うん! だいじなことだからねー、そめやさんだけじゃなくて、さきちゃんとかはらむらさんとか、かたおかさんとかたけいさんにもするよー? すりすりぺろぺろー」 

 ね、狙いは清澄全員……!?

 とんだ色魔じゃあ……!



まこ「大事って、どう大事なんじゃ……?」

 消えてくれ、姉帯豊音レズ疑惑。

 うちはそう願いながら、問いただす。

豊音「どうってー……? んー……わかんないよー、なんとなくだよー。こう、むずむずして、うーってなるから、すりすりしておかないっとってー……」

まこ「……」

 願いとは裏腹に、深まるレズ疑惑。

 それも、わざわざ学校をさぼって他県まで押しかけ、野外で襲撃をかけるやたら奔放な……。

 田舎の子は性に奔放っちゅう話はたまに聞くけど、それって同性愛者にも適用される理屈なんじゃろか……。

 まぁ、うちも田舎の子ではあるんじゃけど……。

 これは、駄目もとで逃げといたほうがええかもしれんね……。

 いやはやまいった、まさかこのうちの身に、こんな形で貞操の危機が訪れるなんて……。

 なんとか逃げて……いや、逃げ切れんでも、なんとか和たちに電話で危機を知らせるくらいのことはせにゃあ……。


豊音「しておかないとーしておかないとー、すりすりしてーぺろぺろしてー、ぽっかぽっかのあんしんほっかほかだよー、ええへへへへへへへ~! だいじ! だいじ!」 

まこ「……!」

 ほんの少しの間、こちらから言葉を掛けず放置しただけで、姉帯は理性の糸を手放しかけていた。

 これ以上、こん人の相手をするのは恐ろしい。

 逃げ出す機会を窺い、じりじりと後退する。

 姉帯も、体を地に伏せた姿勢のまま、うちがさがっただけ間合いを詰めてくる。

 その間、うちは鞄を開き、携帯を取り出した。

豊音「そそそそそ、そめやさぁぁぁん……だいじなことだからー、すぐおわるからー」

まこ「すまんのう……さすがに、こんなところで食われてはやれんのじゃあ……!」

 携帯を握り締め、うちは姉帯に背を向け駆け出した。

豊音「!! まって、うわあ!」

まこ「!」

 うちの急な逃走に慌てた姉帯が、草に蹴り足を滑らせた。

 べちゃりとうつ伏せに、盛大に転んでいる。

 これはチャンス……!



豊音「うわあああん、いたいよー!」

まこ「……!」

 体を起こし、いつかのように、わんわん泣き出す姉帯。

 つい駆け寄りそうになるその泣き顔を振り切って、うちは駆けた。

まこ「ハァッ! ハァッ! ハァッ!」

 遮蔽物のない田舎道は避け、学校に引き返す。

 姉帯とやり合っているうちに、いつの間にか日はほとんど沈んでいた。

 薄闇に包まれた校舎の外周を駆け抜け、体育館の裏手に逃げる。

 とりあえず距離は開けられたが、姉帯のあの脚力から逃げ切れるとは思えない。

 追いつかれる前に、一年生や久にこの異常事態を知らせるつもりだった。

まこ「ハアッ、ハァッ……んぐ、ハァーッ……」

 荒れた息もそのままに、握り締めた携帯を、震える指で操作する。


 まずは一年生に、とは思ったものの、うちの指先は恐怖からか、自然と久の番号を選んでいた。

 助けを求める意味でも、近くにいるであろう一年生に掛けるべきだと頭ではわかっている。

 しかし、とにかく久の声を聞いて安心したいという気持ちが勝ってしまう。

 携帯を耳に当て、もどかしい想いでコール音を聞く。

久『――まこ!』

まこ「ハァーッ……ハァーツ……! 久……!」

久『今どこ――ってどうしたの? なんか息が荒いけど』

まこ「ハアッ、ハァッ……! あんたこそ、どにおるんじゃ……! 探しとったんに!』

久『早退したのよ。他県からお客さんが来るから、その人たちを向かえに行ってたの……それよりまこ、今どこにいるの?』

 ……! 

 他県からの客……ほんなら、やっぱり姉帯の来訪は久の用事絡みっちゅうことか……!



まこ「学校じゃ。なあ、他県からの客ってもしかし――っ! 来た!」

豊音「ふしゅるるる……」

 速すぎる……!

 一度完全に振り切ったのに……!

???『!』

???『やっぱり……!』

 電話の向こうで、誰かが息を呑む声が聞こえた。

 しかし今は、そんなことを気に留めている余裕はない。

豊音「るるるる……」

まこ「……」

 姉帯が、どういう原理なのか瞳を赤く光らせ、四足でうちに迫っていた。

久『!? まこ? どうかしたの? ねえ、さっきから変よ、何かあったの?』

まこ「……他県からの客って宮守の姉帯じゃあ……?」

久『そうよ、会ったの!? 豊音、清澄にいるのね!?』

まこ「ああ……おるよ……今、目の前におるよ……」

久『!』


ま「久……なぁ、久よぉ……これはいったいなんなんじゃあ……これがあの姉帯か……これが……こんなものが……」

豊音「うひひひひひひひひひひひひひ」

 うちに追いついた姉帯は、先ほどよりも悪化していた。

 姉帯は、その背に何か、どす黒い霧のようなものを纏っていた。

 断じて影と見間違えたわけではない。

 オーラとでも言うべき、禍々しい黒い霧を背負って、姉帯はうちに迫る。

 赤く光る瞳の光点が、左右にゆらゆらと揺れ、暗闇に線を引く。

 咲や天江衣には、普段からこういうものが見えとるんじゃろか……。

 これはつまり、ここまでのレベルになれば、うちみたいなもんにも見えるっちゅう、そういうことなんじゃろか……。

 これはもはや、レズとかノンケとか、そんなん考慮しとる場合じゃあ……。


久『まこ! 逃げて! 今の豊音は――』

まこ「もう、無理じゃ……人の足では、これから逃げられん……久、久よぉ……これ、あんたの仕込みなんじゃろ……? こん子ぉあんたになんぞ吹き込まれて、うちをからかっとるんじゃろ……なぁ、そうなんじゃろ……?」

久『そうしようと思ってたけど! まだ仕込んでないわ!』

まこ「……!」

 仕込むつもりではいたんやね……。

 それで、うちらには姉帯が来ること、黙ってたと。

豊音「そっそそそそそそぉぉぉめやさぁぁあぁん」

まこ「ひ! 来んとって! こっち来んとってぇ!」

豊音「なああああんでにげるのー? ねぇぇぇぇ」

まこ「あんたが追っかけてきよるからじゃあ!」

久『まこ! まこぉ!』

まこ「ひ、久ぁ……! 一年に連絡を……! あん子ら、まだ学校の近くに――!」

久『……! わかったわ! 私もすぐ行くから……!』

豊音「こわくないよー……みんないっしょだよー」

 姉帯が迫る。もう、目の前にいる。

 その手が、うちの頬に伸びた。

豊音「えぇへへへへへ~」

まこ「ひ、あ」

 だらしなくて、いやらしい笑み。

 うちは――

 久……和、咲、優希――

豊音「がうー」

まこ「いやあああああああ!」


 ――じいちゃん!

 ついでに京太郎!

 うち、こんなところでヤられんのいやじゃあ!
 

  *



  *


まこ『いやああああああ!』

久「まこ! まこぉぉぉ!」

白望「なんてこと……!」

霞「遅かった……」

久「まこ! まこ! っ! …………切れた」

 通話が切れる。

 うなだれる久。

久「まこは……まこはどうなってしまうの……?」

 久には、まだ豊音の状態を詳しく話してはいなかった。

白望「……すりすりされて」

恭子「ぺろぺろされるな」

久「……! ど、どこを? どんなふうに?」

白望「顔とか髪とか」

恭子「うちはちょっとおっぱい揉まれたわ」

久「おっぱいを……!?」

 ちらりと恭子の胸元を見やる久。

 揉まれた、という表現に違和感を覚えたのだろう。

 どう見ても、恭子の胸に揉むほどのボリュームはない。

 何言ってるのこの子、と言わんばかりの久だった。


恭子「なんやねん! 言葉の綾やろが!」

久「いえ、ごめんなさい……でも、揉めない胸を無理矢理揉むのって素敵なことだと思うわ」

恭子「!?」

白望「久、フォローになってないよ……」

霞「でも、えろい意味ではないのよ? マーキングっていうかなんていうか……」

春「受け取る側の問題……」

久「?」

巴「何も知らない染谷さんからしたら、同性愛者の変態さんに襲われたとしか思えないかと」

久「なるほど」

白望「それに、暴走した豊音は目に見えておかしな感じになる……害はないけど、怖いことは怖い」

久「ふうん……じゃあ、そんなに急がなくても大丈夫な感じ?」

霞「いや、そこは急いだほうが……」

 苦笑する霞。

 久からは染谷さんと通話していたときの悲壮な様子が、もう毛ほどもも見て取れない。

 ぺろぺろすりすり程度、竹井久にとっては危機感を覚えるものではないのかもしれない。


白望「咲ちゃんや原村さんが豊音にビビっちゃうと、今後に差し障るし……一応急ごう」

久「一応、ね。OK、わかったわ。それじゃあ、まこには犠牲になってもらうとして、手っ取り早く咲たちと合流しましょう」

白望「いいの……? 染谷さん、かなりのビビりようだったけど」

久「まこなら平気よ。あとで事情を説明すれば納得してくれるわ。ここはひとつ、まこに時間を稼いでもらいましょう。あの子がヤられてる間に、私たちは咲たちを確保するの」

恭子「染谷さん見捨てるんか……」

巴「さっきの染谷さんの一年に連絡をって、自分に助けを寄越してくれって意味なんじゃ……」

霞「本当に大丈夫かしら……」

久「大丈夫よ。それに咲たちのほうが私たちの近くにいるわ。これは合理的な判断よ」

春「ごうりてきなはんだん……さすが久さん、かっこいい」

久「ふふん、でしょー?」

春「黒糖どうぞ」

久「ありがと」

 春……私や豊音のことは苗字で呼ぶのに……。


 いったいどんな手を使ったの、久……?

 どうして私は、あなたのこと下の名前で呼んでるの……?

 ほんと、いつから呼んでるのか全然思い出せないんだけど……。

 私、豊音よりも久が怖いよ……。

白望「まぁ、久がそう言うんなら……」

 どの道、土地勘のない私たちは久に従うしかない。

 それに、久の合理的な判断とやらも、あながち的外れでもない。

 染谷さんの救援には間に合わないだろうし、残りの一年生だけでも保護しておこうという判断は間違ってはいないだろう。

久「さあ、行きましょうか。一応急ぐわよ!」

白望「一応ね……」

 右手を天に突き上げ、気持ち早足で歩き出す久。

 春だけがそのあとに、心なし上気した頬で、意気揚々と続く。黒糖ぽりぽり。

 私を含む残りの面子は、染谷さんへの罪悪感から、いまいちノリきれない感じだった。


  *


  *


豊音「ふーっ……」

まこ「……あ、あ……」

豊音「こんなもんでいいかなー、そめやさんはー」

まこ「う、あ……」

豊音「ふふ。なんかぴくぴくしてるねー、そめやさん」

まこ「……あね、た……」

豊音「ふふふふふ。ちょっとここでまっててね。わたしさきちゃんつかまえてくるからー」

まこ「さ、き……」

豊音「さー、ちゃきちゃきいくよー」


  *


  *


咲「――――ッ!」

優希「咲ちゃん?」

咲「……来る」

和「?」

京太郎「来るって何が?」

咲「怖いのが……来る……!」

京太郎「はぁ?」

和「さっきの不審者さんのことですか……?」

咲「そうだよ……あれが来る……あと――」

優希「あと……?」

咲「――なんで……?」

 可愛いのも来るっぽいよ……。

咲「なにしに来るんだろう……?」

和・優希・京「??」 

 遊びに来たのかな……?


  *



  *


???「ハギヨシ!」

????「は、衣様」

?????「奇幻な気配に惹かれて遊びに来てみれば、なかなか面白いことになっているな!」

??????「私は恐ろしゅうございます。衣様」

???????「ふん、心にもないことを。この程度の状況、お前にとっては如何ほどのものでもあるまい」

????????「決してそのようなことは……しかし、染谷様にとっては、お気の毒なことです」

?????????「ふむ……」


まこ「…………」


???「まこがべっちゃべちゃのくったくただー!」

????「どろんどろんのぐでんぐでんで御座いますね……」


?????「まこをこんなふうにした不届き者はもう去ったあとのようだな」

??????「ええ、ですが髪の毛に付着した唾液の乾き具合からして、下手人はまだそう遠くへは行っていないかと」

???????「どれどれ……うわ! まこツバ臭い! ツバ臭いぞまこ~」


まこ「…………」


???「ツバ臭いし……それにこの残留した気配……臭気というべきか。とにかく覚えがあるぞ」

????「衣様のお知り合いですか?」

?????「いや、直接の面識はない。ただインターハイの会場ですれ違っただけだ。これはおそらく、清澄と二回戦で戦った……」

??????「では、顔見知りの犯行ということでしょうか」

???????「そうなる。咲は学校にいないようだし、そっちに向かった可能性が高い」

????????「追いますか?」

?????????「当然」


まこ「…………」


???「染谷様はいかがいたしましょう」

????「基本舐められただけだから、平気だよ。途中で誰かに知らせておこう」

???「では衣様、背中にどうぞ。急いだほうがよろしいかと」

????「うむ。私が案内するぞ!」

?????「私は衣様の馬に御座います」

??????「そう! これは騎馬だ! 断じておんぶではない!」

???????「では、参りましょうか」

????????「応~!」

?????????「ころたん」

??????????「イェイ~」


  *


  *


和「衣さんが来る?」

咲「うん……」


 いつも下校路に使う畦道で、私たちは足を止めていた。


京太郎「なんでわかるんだよ、そんなこと……」

咲「なんでかはわかんないけど……来るんだよ。なんていうかこう……イェイ~って感じなんだよ」

京太郎「イェイ~?」

優希「咲ちゃん新人類だじぇー」

和「新人類?」

優希「ぴきーんって。誰かが近づいてくるとわかるんだじぇ。弾が当たんないんだじぇ」

和「弾……? 何を言ってるのかわかりませんが、そんなオカルトありえません」

優希「言動が不可解で、周りを置いてけぼりにするところもそれっぽいじぇ」

咲「優希ちゃん……」

 私のこと、そんなふうに思ってたの……?

 ちょっとショックだよ……。


京太郎「革新的、新機軸ってのもありだな」

優希「そうなったら咲ちゃん強すぎるじぇ、もう誰も勝てないじょ」

咲「?」

和「なんの話です?」

京太郎「なんでもないよ」

優希「それで咲ちゃん、天江はともかく、さっきの不審者も来るのか?」

咲「そうだよ。さっきからどんどん近づいて来てる……ていうかもうほとんど――」

 すぐそばまで来ている。

 先ほどの並木道で感じたあの恐ろしい気配が、再びはっきりと感じられるようになっていた。

和「咲さん咲さん」

咲「――なぁに、和ちゃん」

 和ちゃんが私の肩を叩く。

 見ると、和ちゃんは顔を後ろに向けていた。

和「咲さんの言ってた不審者って、あれでしょうか……」

咲「あ――」

 和ちゃんの視線を辿ると、私たちの後方五十メートルほどのところに、あの四つん這いの不審者がいた。


 すでに日は沈み、光源に乏しい田舎道は暗闇に包まれている。

 点在する外灯が、四つ足で駆ける不審者の姿を浮き彫りにしていた。

 恐ろしいまでの走行速度。

 彼我の距離が、みるみるうちに縮められていく。

咲「き、来た……!」

 感覚で距離を測ってる場合じゃなかったよ……!

 もう視認できる距離まで……!


???「――き――ちゃ――!」


 不審者が何か叫んでいる。


咲「え……?」

 その声に、聞き覚えがあるような気がした。

和「何か叫んでますね……」

京太郎「なんだ、ありゃあ……本当に四つん這いじゃねぇか……」

優希「しかも、ものすごいスピードだじぇ……フリスビー追っかける犬みたいだじぇ」

和「こっちに近づいてきてますね、あれ……」

優希「に、逃げるか……?」

京太郎「いやぁ……無理だろ。速すぎるだろ、あれ……自転車でも厳しいんじゃねえか……?」

優希「……ならどうすんだじょ……ていうか、あれなんなんだ……?」

京太郎「知るかよ……」


和「父に……いや、警察に……?」

 和ちゃんが携帯を取り出した。

 私は慌てて、その手を掴んだ。

咲「待って! 和ちゃん!」

和「なぜですか? あの人、明らかに私たちに向かってきてますよ? 何か危害を加えられてからでは遅いんです」

咲「あの人、もしかしたら知り合いかも――!」

和「? 咲さん、あんな変わった知り合いがいるんですか……?」

咲「違うよ……! みんなも知ってる人かも――」


???「おいついたー」


咲「!」

 不審者が、私たちに追いつき足を止めた。

 間近で見て、ようやくわかる。

 この人は――

京太郎「あれ……? この人……」

和「……宮守の、えっと……」

優希「ノッポよりさらにノッポなおねーさん……?」

咲「姉帯さん……なんですか……?」

豊音「とよねだよー」


咲「あ、姉帯さん……なんでこんなところに……ていうかなんで四つ足で……」

豊音「なんかこっちのほうがはやいきがしてー」

咲「そ、そうですか……」

優希「やっぱり犬だじぇ……」

京太郎「おい、優希……」

 刺激するな、というように、優希ちゃんの脇を小突く京ちゃん。

 たしかに、いくら知り合いとはいえ、四つ足で猛ダッシュは怖いよ……。

 どんびきってやつだよ……。

咲「えっと……何か御用ですか……?」

 とりあえず訊いてみる。

豊音「うん! すりすりしにきたよー!」

 にっこり笑って、来意を告げる姉帯さん。

咲「……は?」

優希「…………ん?」

和「……」

 訳がわからず、呆ける私。

 首を傾げる優希ちゃん。

 和ちゃんは落ち着いた様子で、じっと姉帯さんを見詰めていた。


京太郎「あ、あの、姉帯さん……? すりすりって……」

 京ちゃんは不審を強めたようで、私たちを庇うように、一歩前に踏み出した。

豊音「あ!」

京太郎「へ?」

咲「?」

 京ちゃんを見て、目を剥く姉帯さん。

豊音「おとこのこだー!!」

京太郎「は? はぁ……そうですけど……?」

豊音「おとこ! おとこのこだー! おとこかー……! あちゃー……!」

 姉帯さんは、どうしたもんかと困った様子で、自分のおでこを叩いた。

京太郎「男だと、何かまずかったでしょうか……?」

豊音「うーん……いや、まずいってことは……いやまずいのかなー? うーん……いやいや、でもなー、でもおとこのこはなー……はぐはぐするとしろやさえにおこられちゃいそうだしなー……どうしよっかなー……」

京太郎「はぐはぐ……!?」

咲「姉帯さん……? さっきからなに言って……」


豊音「うーん……やっぱりなー、まずいよねー、おとこのこはー。くるみにもめっされちゃうしねー、えいすりんさんならともかくー」

優希「咲ちゃん……この人なんかやばやば……」

咲「う、うん……」

和「こっちの話を全然聞いてくれませんね……なにを言っているのかも意味不明ですし……」

豊音「うん……うん! そこのおとこのこ!」

京太郎「は、はい」

豊音「にほんにはねー、はぐのぶんかはないんだよー」

京太郎「はい……? そ、そうですね……」

豊音「おとことおんながだきあうとえっちいんだよー、それがうんのつきだったねー……ざんねんだよー……」

京太郎「運の尽き……? いったいなんのはな――!」

咲「!」

 京ちゃんが発言の意味を問いただそうとした、そのときだった。


豊音「すこしねててねー……」

京太郎「!!?」

 姉帯さんが動いた。

 一瞬で、目にも止まらぬ速さで、姉帯さんは京ちゃんとの間合いを詰めていた。

 そして、次の瞬間。

豊音「ふっ!」

京太郎「っぐ!?」

 姉帯さんの右腕が、京ちゃんの顎を横薙ぎにした。

 私の目では、その右腕の動きを完全に捉えることはできなかった。

 しかし、振りぬいた姉帯さんの右拳は握られておらず、掌底で京ちゃんの顎を打ち抜いたのだと、一瞬送れて理解した。

咲「京ちゃん!」

京太郎「あ――――」

優希「きょ――ッ」

 京ちゃんの膝から力が抜ける。

 そのまま地面に崩れ落ちる。

京太郎「…………」 

 ピクリとも動かない。

優希「京太郎ぉぉぉぉぉッ!」

和「なんてことを……!」



豊音「さー、これでしんぱいごとはなくなったよー。こころおきなくすりすりだよー」

咲「ひ……!」

 姉帯さんがこちらを向いた。

 瞳が赤く光っている。

咲「ああ……!」

 これ、お姉ちゃんや予選のときの衣ちゃんよりすごいよ……!

優希「おねーさん……! あんたいったいどういうつもりだじぇ!」

京太郎「…………」

 優希ちゃんは京ちゃんに駆け寄り、姉帯さんを睨みつけた。

豊音「へいきだよー、けがさせないようにしたからー。ねこぱんちてきなー?」

優希「今の閃光のような右フックが猫パンチなもんか! こんにゃろめー!」

 両腕をぐるぐると振り回しながら、姉帯さんに飛び掛る優希ちゃん。

 姉帯さんは腕を伸ばし、その頭を押さえつけた。優希ちゃんの駄々っ子パンチが、悉く空を切る。


優希「こんにゃろー!」

豊音「とどかないよー」

咲「優希ちゃん……!」

 これ知ってるよ……!

 大阪のコントでこういうの見たことあるよ……! 

和「なにやってるんですか……」

優希「こんにゃろー! にゃろー! にゃろー!」

豊音「あははー、がんばれがんばれー」

優希「はぁっ! にゃ、にゃろー……! はぁーっ! はぁーっ……!」

 疲れたようで、優希ちゃんは手を止めた。

優希「はーっ……はーっ……きょ、今日は……」

豊音「んー?」

優希「今日は、このくらいにしておいてやるじぇ……!」

咲「優希ちゃん……!」

 ごめんね、私ずっこけとかツッコミとかできないよ……!



和「咲さん、優希のあれはなんですか? 怒っているのかふざけているのかどっちなんでしょう?」

咲「さぁ、たぶん、どっちもなんじゃないかな……」

 和ちゃん真顔だよ……。

 優希ちゃん浮かばれないよ……。

豊音「おわりかなー? それじゃあつぎはわたしのばんだねー」

優希「……! まずいじぇ、いまの駄々っ子パンチでスタミナが……!」

咲「優希ちゃん逃げて!」

豊音「だいじょうぶー。おとこのこにはねこぱんち、おんなのこはすりすりぺろぺろだよー」

和「変態さんなんでしょうか……」

咲「かもしれないけど……なんか変だよ、姉帯さん……」

和「なんかってなんです? 私にはなにもかも変に見えますが」

咲「うん、それはそうなんだけど……」

 和ちゃんにこの手のことを説明してもSAOでばっさりだしなぁ……。

豊音「がうー」

優希「うわぁぁぁぁぁ! のどちゃん! 咲ちゃあああああッ!」

咲「優希ちゃん!」

 そうこうしてるうちに優希ちゃんがピンチだよ!

 姉帯さんに捕まっちゃった!


豊音「すんすん……れろん」

優希「ぎょわああああ!」

 暴れる優希ちゃんを無理矢理抱きしめ、匂いを嗅ぎ、首筋を舐める姉帯さん。

和「はい、アウト。アウトです。やっぱり警察です。通報しますね」

咲「待って、そんなことしたら姉帯さんの人生終わっちゃうよ!」

和「それは自業自得というものです。須賀くんはあっさりやられちゃいましたし、さっきのあの四つ足ダッシュと右フックを見たでしょう? 私と咲さんであの人を止めるのは不可能です。ここは助けを呼ぶしかありません」

咲「それはそうなんだけど……! でも、でも……!」

 この状態の姉帯さんを警察に引き渡したりしたら、きっと病院に連れてかれちゃうよ……!

 きっとていうか確実に連れてかれちゃうよ……!

 たぶんこれ、心の病気とかそういうのじゃないのに……!


和「ならどうするっていうんです。このまま優希が手篭めにされるのを黙って見ているんですか?」

咲「そうは言ってないけど……そうだ! 先輩たちに電話しよう! まだ学校にいるかもしれないし!」

豊音「そめやさんならさっきすりすりしてきたよー」

咲「!」

和「なんと……」

豊音「たけいさんともさっきあそんできたよー」

和「すでに二人とも……!?」

咲「そんな……」

 部長と染谷先輩が……!?

豊音「かたおかさんのつぎはふたりだからねー、そこうごかないでねー」

和「お断りします。優希を離してください。さもなくば本当に警察を呼びますよ」

咲「そうだよ、姉帯さん、優希ちゃんを離して……! こんなこともうやめようよ……!」

豊音「それはできないよー」

優希「二人とも私のことは構うな! 逃げるんだじぇ! 逃げて助けを呼んできてくれ!」

咲「そんな、優希ちゃん……!」

和「優希……わかりました。できるだけ急ぎますから、あなたもがんばってくださいね」

咲「和ちゃん……!」


優希「咲ちゃん気にするな、それでいいんだじぇ……! 早く、早くいけぇ!」

豊音「かたおかさんかっこいいよー、これはたんねんにぺろぺろしないとー。れろれろれろれろれろ」

優希「ぎゃわーーー!」

和「さ、咲さん行きましょうか」

咲「いいのかな……」

和「いまのところ本当にぺろぺろすりすりするだけみたいですし、急げば大丈夫ですよ。それともやっぱり警察を呼びますか?」

咲「う、わかったよ……でも誰を呼びにいくの……?」

和「適当なところまで逃げて、電話で父にでも助けを求めます」

咲「うん、それなら……警察に通報しないなら、なんでもいいよ」 

和「では、そういうことで。行きましょうか」


???「その必要はないぞ! ののか!」


和「え?」

咲「あ……」

 そうだ、忘れてた……。

 可愛いのも来てるんだった。



 姉帯さんと優希ちゃんの後ろに、衣ちゃんをおぶった龍門渕の執事さんが立っていた。

和「衣さん……と、執事の方」

ハギヨシ「ハギヨシで御座います」
  
衣「遊びに来たぞ~!」

咲「衣ちゃん……! なんで!」

衣「妙な気配を察して遊びに来たのだ。そしたら清澄でまこがベッチャベチャのクッタクタになっていてな! 下手人を追ってここまでやって来た!」

咲「そうなんだぁ、えらいねぇ」

和「すごいすごい」

衣「わーいわーい褒められたー! その通り、衣は衣だからな! とっても偉いのだ!」

ハギヨシ「衣様、挨拶はそれくらいで……どうやら片岡様がピンチです」

衣「おお! そうだった! 偉い衣は友達を虐める悪い奴をやっつけるんだった! おいそこのお前!」

 ハギヨシさんの背中に乗ったまま、びしっと姉帯さんを指差す衣ちゃん。

豊音「んー?」

衣「やはり、お前か……たしか、姉帯とかいったな」

豊音「…………あー! あまえころもさんだー!」

優希「天江……!」

衣「そう! 衣さんだ! 優希も見習うように!」



優希「何しにきたんだじょ……! お前なんか来たってこの人に食べられちゃうだけだじぇ……!」

衣「それは要らぬ心配だ!」

優希「なに言ってんだ、早く逃げるんだじぇ!」

衣「要らぬ心配だと言ったぞ優希。大丈夫、なぜならこのハギヨシがいるからだ!」

咲「ハギヨシさんが……? どうにかできるんですか?」

ハギヨシ「はい」

和「この方、細身の女性に見えますが、ものすごい身体能力ですよ?」

ハギヨシ「はい、些か手に余るとは思いますが……なんとかなるかと」

咲「なんとかって……」

ハギヨシ「なんとかは、なんとかで御座います。それでは衣様、危険ですのでお下がりください。宮永様と原村様のところへ……」

衣「うむ! 任せた!」

 ぴょいんとハギヨシさんの背中から降りて、私たちのほうへやってくる衣ちゃん。


 衣ちゃんが私たちの傍まで移動したのを確認して、ハギヨシさんは姉帯さんの前に歩み出た。

ハギヨシ「こんばんわ、お嬢さん。良い夜ですね」

豊音「ありゃりゃ……」

 姉帯さんは優希ちゃんを抱きかかえたまま、ハギヨシさんと向かい合う。

 その目が据わっていた。さきほど京ちゃんをKOしたときと同じ目だ。

豊音「またおとこだー……おとこはだめなのにー」
 
ハギヨシ「そこに寝ている彼……須賀くんはあなたが……?」

豊音「そうだよー。おとこのこはだめだからー、ねててもらったのー」

ハギヨシ「なるほど……確かに。染谷様にやったようなことを男性にやるのは、色々とまずいですものね」

豊音「そうなんだよー、だからあなたもねてもらうことになるけどー、ごめんなさいねー?」

ハギヨシ「……謝っていただく必要はありません」

豊音「……?」



ハギヨシ「これから眠るのは私ではなく、あなたのほうなのですから」

豊音「なんかかっこいいよー……でも、できるとおもうのー、そんなことー?」

ハギヨシ「出来る出来ないという問題ではないのです。異能に荒ぶるのは乙女のSAGA、であれば、それを見守り、時に諌めるのは男の務め……私はその務めを果たすのみです」

豊音「ふーん……たいへんだねー、おとこのひとはー、でもーまーむりだけどー……」

 優希ちゃんを離し、両手を地に着ける姉帯さん。

 再び四つ足の姿勢。

ハギヨシ「やってみなければわかりませんよ……」

 それを見たハギヨシさんも、両腕を胸の高さまで上げ、半身に構える。

 どうやら二人とも、臨戦態勢に移行したらしかった。

咲「なんだかすごいことになってきたよ……!」

和「いい大人が女子高生に手をあげるつもりでしょうか……」

衣「この状況ならそれも止む無し! 遠慮はいらんぞハギヨシ! 存分に暴れよ!」

ハギヨシ「御意に」

豊音「ふしゃああああああ!」

 衣ちゃんの激励を合図に、両者が同時に動く。

 外灯の薄明かりの下、二つの黒い影が交錯する。


  *


  *


 一応程度にしか急がなかった私たちは、その戦いの一部始終を見逃した。


衣「うわ~ん、ハギヨシ~!」

ハギヨシ「……こ、ろも、さ、ま……」

豊音「ふしゅるるるる……」


和「盛大に散りましたね、あの方……」

咲「一瞬だったね……」

優希「リーチ差を活かした見事な右のクロスだったじぇ……あれは立てないじょ……」


 私たちが咲ちゃんたちと合流すると、そこでは執事の格好をした男性が大の字に倒れていた。

 その傍らで、可愛らしい金髪の幼女が声を上げて泣いている。

 執事さんを見下ろし荒ぶる豊音。

 よく見るとその近くに、さらにもう一人、学ランを着た男子がうつ伏せに倒れていた。
 



白望「これ、どういう状況……? あの泣いてる子、誰……?」

久「あれは龍門渕の天江衣さん。倒れてるのは執事のハギヨシさんと、うちの男子部員の須賀くんね」

白望「まさか、二人は豊音が……?」

霞「たぶん、そうでしょうね。男性にマーキングするわけにもいかないから、手っ取り早く排除したんだと思うわ」

白望「あちゃあ……」

 手ぇ出しちゃったかぁ……。

 これは先生になんて報告したら……。

久「心配いらないわ。二人ともきっと許してくれるから。それにしても面白いことになってるわね~、これは一応じゃなくてガチで急いだほうがよかったかも」

白望「面白いって……お宅の男子部員、失神しちゃってるっぽいよ……」

久「平気よ、須賀くん頑丈だから」


衣「なぜだハギヨシ! なぜあれを使わなかった! 衣はあれが見たかったのに!」

ハギヨシ「……あ、あれ……? 恐れながら衣様……わ、私には、なんのことだか……くっ……わかりかねます……」

衣「あれと言ったらあれだ! 無数のナイフやフォークを指の間に挟んでびゃびゃっと投げるやつ!」

ハギヨシ「こ、衣様……? 私、そのような、剣呑な技の持ち合わせは……ございま、せん……」

衣「!? そんなぁ! 悪魔で執事だって言ったのに!」

ハギヨシ「……? えっと、はい、私、あくまで衣さまの執事、にございま――っぐ!」

衣「ハギヨシ!?」

ハギヨシ「ころ、も、さま……おに、げ――……」

衣「! ハギヨシ! ハギヨシーーーー!」

ハギヨシ「…………」

衣「うわああああああああ」


久「壮絶ね」

白望「……」

 ハギヨシさん、リタイア。



久「三人とも、大丈夫?」

咲「あ、部長……」

和「無事だったんですね。それに後ろのみなさんは……」

優希「インハイでやり合った面子だじぇ! なんで長野にいるんだ?」

霞「こんばんわ~」

恭子「おひさしぶり」

白望「どうも……この度はうちの豊音がとんだご迷惑を……」

 とりあえず、先に謝っておこう。

 片岡さんの頬と髪の毛がべっちゃべちゃになっていた。

 豊音はどうも、男性二人を失神させただけでなく、例のおいたもしっかりヤっちまったらしい。

優希「ほんとだじぇ! 飼い主のしつけがなってないからこういうことになるんだじぇ!」

咲「優希ちゃん駄目だよ、飼い主とか言っちゃ。姉帯さん犬じゃないんだから……」

白望「いえ、いいんです宮永さん。まことにおっしゃるとおりで……返す言葉もございません……」

 平身低頭。

 謝って謝って謝り倒すしかない。

 聞けば、原村さんのご両親は弁護士さんと検事さんなのだとか。

 もし法的措置をとられたらと思うと、怖くて頭を上げられない。

 ダルいとか言ってる場合じゃない。

 ここはシャキっとしておかないと。


久「まあまあ、優希。いいじゃない、ちょっと顔を舐められただけなんでしょ?」

優希「そうだけど……! 京太郎は見ての通りだし、染谷先輩もやられてしまったんだじょ!? これで黙ってられるかってんでい!」

久「あらら、やっぱりまこも? でもしょうがないのよ、ちょっと事情があるの。あとで説明するから、とりあえずは……」

白望「霞、またお願いできるかな……?」

霞「了解よ。お~だ~」

 御札ばりばり。

咲「うわぁ! なに!?」

優希「青く光ってるじぇ!」

久「おお~」

和「LED……? 最近の巫女さんは凝ったことをされるんですね」

 そして、

豊音「ふにゃ~……」

 お祓い完了。

白望「おっと……」

 地面に崩れ落ちそうになる豊音を、駆け寄って支える。

豊音「ふああ……しろ~……? ごろごろ~……」

白望「……」

 ごろごろいってる……。

 のん気なことで……。


霞「はい、おしまい」 

久「もう終わり? あの呪文みたいなやつ唱えないの?」

霞「みんなそれ言うのよね~。本格的なやつは長いから、これで勘弁してね」

恭子「そんで、どうすんの? これで三人気絶やで、どうやって運ぶん?」

久「とりあえず車一台は手配してあるんだけど……三人は想定外だったわ。どうしましょう」

衣「ぐすっ……久~、ハギヨシが~……」

 ハギヨシさんにすがり付いて泣いていた衣ちゃんが、久に駆け寄り抱きついた。

久「あら、衣ちゃん。大丈夫よ、ハギヨシさん気を失っているだけだから」

衣「うう……うちのハギヨシは本当は強いんだぞ……ほんとだぞ……」

久「はいはい、わかってるわ。今回はちょっと運が悪かったのよね」

 衣ちゃんの背中をぽんぽんと叩き、宥める久。

衣「そうなんだ、運が悪かったのだ。本来ならあのような山女にハギヨシが負けるものか……うう」

久「でもまぁ、何にせよハギヨシさん気を失っちゃってるし、お迎え呼ばないとねぇ」

衣「うん……そうだな、透華に連絡するよ……」



久「ついでにうちの須賀くんも運んでくれると助かるんだけど、お願いできる? 豊音ちゃんは私たちで何とかするから」

衣「……うん、構わんぞ」

久「ありがとね~」

白望「……」

 なんだろう……この、ただお願いしているだけなのに、悪いことしてるように見える感じ……。

恭子「ん? ちょいみんな、車来たで、道あけな」

 人も車もほとんど通らない田舎道に、車が一台。

 やけにスピードを出している。運転が荒い。

 倒れている者も含めて総勢十三名、私たちはわらわらと道に広がっていた。

 これでは通行の邪魔になってしまう。

 豊音を引きずって路肩に下がろうとすると、久がそれを制した。

久「大丈夫よ。あれ、私がさっき呼んでおいた車だから」


白望「いつ呼んだの……?」

久「さっき、遊んでたときに。あの子成績良くないから、昼間のうちには呼び出せなかったのよね」

白望「てことは、どこかの麻雀部の人?」

久「ええ、鶴賀の子よ。同年代の友達の中じゃ、唯一の免許持ちだから呼んでおいたの。そっちの麻雀関連の友達を紹介して欲しいってオーダーにも合致するし」

白望「ふうん……そりゃ、ありがたいけど……」

 単に豊音のために、麻雀部関連の友達を呼んでくれただけなんだろうけど……。

 さっき、三人は想定外って言ってたよね、久……。

 久は、人を運ぶための足が必要になる状況を想定していた……?

 ……いや、まさかね。

 やけに手回しのいい久ではあるけど、さすがにそこまでは……。

久「ふふん……」

白望「……」

 車のヘッドライトに照らされた久の顔には、悪い笑みが浮かんでいるように見えた。

久「あれ、ちゃんと停車できるか不安なくらいぶっ飛ばしてるわね。轢かれたりしないかしら、私たち」

白望「洒落になってないね……」

 小洒落た車が、ぎゃぎゃっと荒っぽいブレーキワークで停車。


智美「ワハハー、来たぞー、久ー」

 運転席から降りてきたのは、口元にお椀型の笑みを固定させた奇妙な女の子だった。

久「悪かったわね、急に呼び出して。一人?」

智美「一人だぞー。久に呼ばれたから行って来るって言ったら、ゆみちんとかみんなに勉強しろって怒られてなー。遊んでる場合かって」

久「なるほど、それで他のメンバーの制止を振り切って一人で逃げてきたのね」

智美「そういうことー。ワハハ、久にはなんでもお見通しだなー」

久「ふふ、あなたがわかりやすいのよ」

智美「ワハハー、まぁそれはいいやー。それでー? 誰を乗せてどこにいけばいいんだー?」

久「とりあえず宿かしら?」

白望「そうだね、豊音を寝かせないと……」

智美「宿はどこだー?」

白望「どこ……?」

 宿の手配は、久にこちらの予算を伝え、頼んでおいた。

久「××ホテルよ」

衣「あ、それうちのホテルだ」

白望「うちの……?」

久「龍門渕グループが経営してるホテルなのよ」


衣「この者たちはうちのホテルに泊まるのか……久も行くのか?」

久「ええ、そのつもりよ」

衣「咲やののかや優希も?」

咲「え、私たちは……」

久「ええ、行くわよ。みんなで遊ぶの」

衣「! ふ、ふうん……」

久「……」

 「みんなで遊ぶ」という言葉に反応した衣ちゃんを見て、にやりと笑う久。

 これは、久……。

和「部長、そんなこと急に言われても……」

優希「私たち、持ち合わせがないじぇ」

久「あら、そう? それは残念ね、せっかくみんな来てくれたから、みんなで遊ぼうと思ってたのに……」

衣「! なら、衣が招待するよ! みんなで遊ぼう!」

久「あら、いいのかしら」

白望「……」

 白々しい……。

 私には衣ちゃんが、久の垂らした釣り糸に食いついたようにしか見えなかった。


衣「構わん! なんだったらそちらの客人の分もこちらで持とう!」

咲「りゅーもんさんに許可をとらなくてもいいの? 衣ちゃん……」

衣「よい! 同じ麻雀部のよしみだ、今宵は龍門渕家が客人友人すべてもてなそう!」

智美「決まりだなー。それじゃ、私の車に乗る面子を決めてくれー」

衣「残りはこちらの車で送ろう」

久「それじゃ、宮守の二人と私、それから永水の三人のうちの誰か一人が智美の車ってことで」

霞「なら、万一に備えて私が乗るわ」

白望「お願いね……」


 こうして私たちは、ワハハさんと龍門渕家の車に分乗して、ホテルに向かうことになった。

 衣ちゃんたちに先行して到着したホテルは、どう見ても久に伝えた予算をオーバーしているとしか思えない、豪勢な佇まいだった。 

 久は悪い子だった。


  *


  *


 その後、ホテルには久の手配で、長野の麻雀部員が集まれるだけ集まった。

 龍門渕から、龍門渕透華、天江衣、国広一。

 風越から福路美穂子、池田華菜。

 鶴賀からはワハハさん……蒲原智美。

 清澄は全員が参加。保健室で寝かされていた染谷さんも、豊音にKOされた須賀くんも、龍門渕家の使用人によってホテルに運ばれていた。

 久を頼ったのは正解だった。

 平日のこの時間にこれだけの人数を集めてもらえれば、こちらとしては期待以上である。

 なんやかんやで、久の人望は篤いらしい。

 岩手、鹿児島、大阪から来た面子も合わせ、十八名。

 プラス…… 

緋菜「このおねーさんしろいし」

菜沙「まゆもげじげじだし」

城菜「だるだるしてるし」

白望「……」

 おまけで、池田さんちの三つ子ちゃんも来ていた。



 なんでも幼稚園が改装工事中でお休みだそうで、福路さんと池田さんは久からお呼びが掛かったとき、三人を連れて外食に出かけるところだったらしい。

 それを聞いた久が連れてきちゃいなよと呼び寄せ、龍門渕さんもちびっ子ドンと来いウェルカムですわと受け入れて、三つ子ちゃんも今夜の集まりに参加することになった。

 三つ子はロビーに集まった麻雀部員たちの周りを、興味津々といった様子で駆け回っていた。

 「おねーちゃんいじめたちびっこだし」「かぜひくよ?」「それねぐせ? あんてな?」「それねぐせ? つの?」「おっぱいすごいし」「もっとおっぱいすごいし」「ほんもののかんさいべんだし」「こくとうありがとうだし」「しいていうならめがねだし」「めがねだし」「なにがおかしいし」などとみんなに絡んでは、華菜お姉ちゃんを困らせていた。

 そして今、三つ子の興味は私に移っていた。

 三人は私の足元に集まり、しげしげとこちらを見上げている。


緋菜「なんでしろいし」

菜沙「くろうにん? じつはおばあちゃん?」

城菜「だっこしてー」

白望「……えっと」

 なんで白いのかなんて、私も知らないよ……。

 お母さんに聞いてよ……。

 あと、でこっぱちの子、スカートの裾引っ張らないで……だっこはだるいよ。

緋菜「ねー、なんでー?」

菜沙「なんでー?」

城菜「だっこしてー」

白望「あ、あの……」

 これ、どうしたら……。

 子供の相手の仕方なんてわかんないよ……。

華菜「こら、お前ら。まーたお姉さんに絡んでんのか」

緋菜「あ、おねーちゃん。からんでないし」

菜沙「ぎもんをぶつけてただけだし」

城菜「だっこしてー」

白望「池田さん……私どうしたら……」


華菜「ああ、すみません。すぐ連れて行きますんで。ほら、あっち行くよ!」

緋菜「おねーちゃんがいうならしかたないし」

菜沙「でさきではいうこときかないとだし」

城菜「だっこしてー」

白望「……」

 素直に言うことを聞く前髪ちゃんと半分前髪ちゃん。

 しかし、おでこちゃんのみ、華菜お姉ちゃんを完全にスルー。 

 どうあっても私に抱っこをさせたいらしい。

華菜「こら城菜。お姉さんのスカートつかんじゃ駄目だろ? ほら離して」

城菜「だっこー」

 執拗に抱っこをせがむおでこちゃんを、ひょいと抱え上げる華菜。

白望「あ」

華菜「あ!」

 スカートの裾を掴んだままの城菜を持ち上げたものだから、中身が一瞬露になってしまう。

城菜「なかもしろいし」


華菜「こら城菜! ごめんなさい、小瀬川さん!」

白望「いや……」

 慌てておでこちゃんを下ろす華菜。

 私は恥ずかしいやら気まずいやらで、華菜から目を背けた。

城菜「だっこだめだし?」

 なんで駄目なのか心底不思議そうな、私と似た名前のおでこちゃん。

 そんな顔をされると、こちらとしてもなんで拒否しているのかわからなくなってくる。

白望「……君、しろなっていうんだね」

城菜「そうだし、おねーさんなんてなまえ?」

白望「白望だよ」

城菜「しろなとなまえにてるし」

白望「そうだね……」

城菜「てことはしまいみたいなもんだし。だっこして」

華菜「無茶苦茶言うなぁ……」


白望「……だっこはやだけど、充電ならいいよ」

城菜「じゅうでん?」

華菜「?」

白望「そう、充電」

城菜「びりびりする?」

白望「しないよ、こっちおいで……」

 城菜の手を引き、ロビーのソファへ。

 だらっとソファに体を預け、膝の上にしろなを乗せる。

城菜「これ、じゅうでん?」

白望「そう、充電」

 しろなの胴に腕を回す。

 胡桃を思い出す体温の高さだった。

城菜「こころなしかみちたりていくし」 

白望「そりゃ、よかった……」

 どうやらお気に召したらしい。

 しろなは私のお腹に背をもたれ、ようやく大人しくなった。



華菜「なんかすみません……」

白望「いいよ、少しの間だし……ていうか、残りの二人が衣ちゃんいじめてるよ?」

華菜「え? あ! 緋菜、菜沙! 衣お姉ちゃんいじめちゃ駄目だ! リボンから手ぇ離すし!」


衣「やめろ~! 離せ、童ども!」

緋菜「みまちがいじゃないし、このりぼんうごいたし」

菜沙「ぴこぴこしたし」

華菜「こらお前ら……! そこはスルーしなきゃ駄目なとこだし!」


白望「……しろなはいいの? あっち行かなくて」

城菜「おねーさんのおひざもすてがたいし。じゅうでんじゅうでんだし」

白望「そう……」

 冷房の効いたロビーで、暖かい子供を抱えてだらけるのは心地が良い。

 特にやることがあるわけでもないし、しばらくはこのままでもいい。


 肝心の豊音は眠ったままで、起きる気配がない。

 これではわざわざ長野に来た目的が果たせない。

 皆さんに集まってもらった意味もない。

 それでも集まってしまったものは仕方がないので、とりあえずはみんなで夕食にしようという話になった。

 集まった面子が面子なので、その後は一局……という空気だった。

 だが、何分急な集まりで準備がなく、いま私たちは、食堂と部屋の手配を待っているところだった。

 気を失っていた豊音、須賀くん、ハギヨシさんは、部屋の用意ができるまで、それぞれ別の従業員用の仮眠室に運ばれ、今はそこで寝かされている。

 染谷さんは早々に立ち直り、今は他の面子と談笑していた。

 私は一旦みんなから離れ、ロビーの隅で熊倉先生と塞に経過の報告を済ませていた。

 通話を終えてみんなのところに戻る途中で三つ子ちゃんに捕まり、現在に至る、というわけだった。


城菜「ごはんなにかないけだかな」

白望「それだとお姉ちゃんがご飯みたいだね……」

城菜「それだとこまるし。こんやはよくてもあすいこうこまるし」

白望「……今夜はいいの?」

城菜「こんばんおねーちゃんたべちゃうと、あしたからごはんつくってくれるひといなくなるし」

白望「なるほどね……お」

 しろなが計算のできる子でよかった……なんて思っていると、龍門渕さんにホテルの従業員が歩み寄り、何事か告げていた。

白望「そろそろかもね……」

城菜「ごはん?」

白望「うん」

 これは食事の用意が出来たのかもしれない。



透華「みなさん、お食事とお部屋の用意ができましたので、先にお部屋のほうへご案内いたしますわ。三十分後に食堂のほうに集合ということでお願いしますわ」


 ロビーに他の客の姿はない。

 龍門渕さんは遠慮なく声を張り上げ、ロビーに散った全員に伝えた。

 集合が三十分後とやや余裕がないのは、小さなお子様に配慮した結果なのだろう。

 あまり遅くなっては、三つ子ちゃんはおねむの時間になってしまう。

白望「だってさ。お姉ちゃんとお部屋いっといで」

城菜「しろみおねーちゃんはおへやべつだし?」

白望「うん、ご飯は一緒だけどね」

 このホテルには当然、全員で寝泊りできるような客室はない。

 部屋はツインルームに分かれて泊まることになっていた。

 私は豊音と同室である。

 池田姉妹は、四人で一部屋使うと話していた。


城菜「ふうん……それじゃあまたあとでだし」

白望「うん……」

 膝から降り、ばいばいと手を振って駆け出すしろな。

 手を振り返す。

 すると、しろなは立ち止まり、こちらを振り返った。

白望「?」

城菜「またじゅうでんきれたらおねがいするし」

白望「ああ、うん。いいよ……」

 しろなを見送り、私も立ち上がる。

 他の客の目につくとまずいからと、従業員用のエレベーターで豊音を運んでもらい、部屋に落ち着く。

 須賀くんとハギヨシさんはそのまま従業員の仮眠室でお泊りらしい。

 集合時間の三十分後になっても、豊音は目覚めなかった。

 仕方なく、私ひとりで食堂へ向かう。


  * 



  * 


 結局、食事を終えても豊音は起きてこなかった。

 私たちは滞在を一日延ばすことにして、今夜のところは長野のみなさんに事情の説明をするに留まった。

 さすがは魔境長野の麻雀部員なだけあって、原村さん以外、みんなあっさりと事情を理解してくれた。

 長野勢のリアクションを総括すると、「そりゃ大変だなー、お大事に」の一言で済まされた感じだった。

 非常に軽い。深刻に受け止められるよりは気楽なので、こちらとしても助かるけれど。

 そんなこんなで食後。

 私たちは久を中心に、明日は何をして遊ぼうかと相談していた。

 適当に明日の予定を決め、用意された雀卓で麻雀を打ったり、お茶を飲んで談笑したりと、それぞれ思い思いに過ごしていた。



 九時を過ぎた頃、電池が切れかけた三つ子が船をこぎ始め、池田姉妹が部屋に引き上げていった。

 それをきっかけに、旅の疲れがある県外組から、一人また一人と部屋に戻り始めた。

 私も豊音が気になったので、久たち長野勢に礼を言って、部屋に引き上げた。

豊音「すー……すー……」

白望「……」

 豊音は相変わらず、安らかな寝息を立てて眠っていた。

 この分だと、今夜はもう起きないかもしれない。

 私はシャワーを浴びて、豊音の隣のベッドに寝転んだ。

白望「ふあ……」

 欠伸が漏れる。

 胡桃やエイスリンにメールをするため、まだ起きているつもりだったのだが、やっぱり眠い。

 もう限界だった。

 一昨日からこっち、明らかに無理をし過ぎている。

 瞼を開けていられなかった。

 最後の気力を振り絞って携帯をベッドサイドに投げ出し、私は眠りに落ちた。


白望「ZZZ……」


  *


  *


豊音「んん……起きたけどー……」


豊音「……ここどこかなー?」


白望「ZZZ……」


豊音「ホテルっぽいよー。シロ寝てるねー、今何時だろー」


豊音「もう零時過ぎてるねー……なんだろう……長野に着いてからの記憶がないやー……竹井さんたちと遊んでー……えっと、それからー……」


豊音「うーん……思い出せないや。ま、いいかー、喉渇いたから何か飲むよー」


豊音「……この冷蔵庫の中に入ってるジュース飲んでいいのかなー……でもなー……こういうのは高いって聞いたことあるよー、どうしよっかなー」


豊音「うん、決めたよー。お金がもったいないから外に買いに行くよー」


豊音「そうと決まれば着替えだよー、髪も整えてー、お財布と鍵もってー……と、よし、行くよー」


豊音「それじゃあシロ、ちょっと行ってくるよー」


白望「んあ……ZZZ」


  *


  *


緋菜「おきたし」

菜沙「かくせいだし」

城菜「んん……ぱっちりだし」


華菜「ぐごー、すぴー……」


緋菜「おねえちゃんぐっすりだし」

菜沙「だみんをむさぼってるし」

城菜「おろかなりおねえちゃん」


緋菜「きょうはおひるねしすぎたし」

菜沙「じつはまだげんきだったし」

城菜「ふああ……さくせんせいこうだし」


華菜「すぴー、ぷおー……」


緋菜「ほてるをたんけんするし」

菜沙「ねんがんのこうきゅうほてるだし」

城菜「んむ……このきをのがすてはないし」


華菜「ふごー、ふぴー」


緋菜「いまなんじだし」

菜沙「ぜろじだし」

城菜「つまりぜろあわーだし」


緋菜「……」

菜沙「……」

城菜「……」


緋菜「それはなんかちがうし?」

菜沙「べつによていはきめてなかったし?」

城菜「ごめん、てきとうにいったし」



緋菜「……」

菜沙「……」

城菜「……」


緋菜「まぁ、それはいいし」

菜沙「さしてじゅうようでもないし」

城菜「ふああ……」


緋菜「きがえてー」

菜沙「かぎもってー」

城菜「おねえちゃんいってきますだし。くああ……」


華菜「……ぐお……すぴー……」


  *


  *


咲「……」

和「すぅ……すぅ……」


 なんだか眠れないよ……。


咲「……」

 なんだかざわざわして、眠れない……。
 
 ベッドサイドの時計を見る。

 ちょうど、午前零時を回ったところだった。

 宮守の二人が永水の三人や末原さんを伴って長野に来た理由を聞いて、割り当てられた部屋に和ちゃんと引き上げて、一時間ほど経っていた。

 和ちゃんはシャワーを浴びてすぐに眠ってしまった。

 私は寝付けないまま、ベッドに横になっていた。

 なんとなく、嫌な予感がしていた。

 姉帯さんの抱えた問題に関して説明を受け、石戸さんたちがいればもう心配はないと言われても、何故か不安を拭いきれずにいた。 
 
 姉帯さん、今は眠っているそうだけど、それでも気配がざわついているような気がする。


 普通じゃないのは確かみたい。

 髪の毛の右の辺りがひりひりするよ……。



 姉帯さんを治すための対策を聞かされて、その実行を頼まれたことも、眠れない原因かもしれない。

 改めて、楽しく遊んでお友達になってと言われても、なんだか身構えてしまう。

 緊張してしまう。

 小瀬川さんは、平常時の姉帯さんと普通に楽しく遊んでくれればいいと言っていたけど……。

 普通に楽しくってどうやればいいんだろう。

 私、麻雀と本のことくらいしかわかんないよ……。

咲「はぁ……」

 ため息をつく。寝返りを打つ。

 考えすぎないようにしようと思っても、どんどん目が冴えていく。

 体を起こし、ベッドを降りる。

 このまま横になっていても、眠れそうにない。

 和ちゃんを起こしてしまっても悪いし、少し外で時間を潰すことにしよう。

 着替えて財布を持ち、そっと扉を開ける。

咲「ちょっと行ってくるね、和ちゃん」

和「すぅ……」


  *


  *


豊音「お~」


豊音「なんでここにいるのか全然わかんないけどー。すごいホテルだよ~」


豊音「こんなところにお泊りしてお金大丈夫なのかなー……やっぱり冷蔵庫の飲み物には手を出さなくて正解だったよー」


豊音「でも困ったよー……これはホテルの中に自販機とか置いてある気配皆無だよー……すごい高級感だよー。自販機なんて俗なものある気がしないよー」


豊音「これはどうしたもんかな~……おや?」


緋菜「どこにいく? だいよくじょう?」

菜沙「おふろはもうはいったし」

城菜「なんどもはいるのがつうってもんだし?」

緋菜「いまはつうでなくてもいいきぶん」

菜沙「それならさっきのあのへやいくし」

城菜「びりやーど?」

城菜「おねえちゃん、おまえらにはまだはやいっていってやらせてくれなかったし」

緋菜「ためしてみたいおとしごろだし」

菜沙「それじゃあきまりだし」

城菜「れっつごーだし」


豊音「おやおや……三つ子ちゃんだよー、ちょーかわいいよー」


豊音「でもこんな時間にあの子たちだけなのかなー……? これは心配だよー、お部屋抜け出して来ちゃったのかもー」


豊音「……」


豊音「ちょっとついていくよー、心配だからー」


咲「……」


  *


  *


咲「……」

 あれは姉帯さん……と、その前にいるのは池田さんちの三つ子ちゃん……。

 姉帯さん、三つ子ちゃんについていくみたい……。

 まさか、またおかしくなってるのかな……?

 今度の獲物は三つ子ちゃん……?

 いや、まさか、あんな小さな子を……。

 ……あ、そうか、べつにえっちな意味で襲うわけじゃないんだよね。

 でも、あの体格差で暴走した姉帯さんにすりすりされたら危ないよ。

咲「……」

 これは……。

 私もついて行ったほうがいいかも……。

 どうしよう、池田さんに知らせたほうがいいのかな?


  *


  *


緋菜「ついたし」

菜沙「ここはなにしつ?」

城菜「かんじとえいごでよめないし。きっとびりやーどしつだし」

緋菜「まーじゃんもあったよ?」

菜沙「じゃあびりやーどまーじゃんしつだし」

城菜「なんでもありしつ?」

緋菜「なんでもいいし」

菜沙「とりあえずいくし」

城菜「あたってくだけろだし」


豊音「娯楽室、レクリエーションルームだねー。三つ子ちゃん、お父さんとお母さんに内緒で夜遊びかなー。悪い子たちだねー」


緋菜「すたっふにみつかるとおいかえされるし」

菜沙「こっそりいくし」

城菜「おてのものだし」


豊音「ちょろちょろ入ってくよー。ちょー隠れてるけどバレバレだよー。スタッフさん苦笑してるよー。私も続くけどー」


緋菜「びりやーどだいすいてるし」

菜沙「かしきりだし」

城菜「ぞんぶんにあそぶし」


豊音「どうやって遊ぶんだろー? 台に届かないよねー?」


緋菜「どうやってあそぶし?」

菜沙「これはもうてんだし、だいにとどかないし」

城菜「なにかあしばになるものをさがすし……あ」


豊音「あ、見つかった。私の体格じゃ隠れきれないよー」


城菜「おおきいおねえさんだし」

菜沙「ねてたひとだし」

緋菜「しろいひとのおつれさんだし」


豊音「あれー? 私のこと知ってるのー?」


菜沙「かぜこしのいけだのいもうとなので」

豊音「ああ、あの猫っぽい人の……そういえば似てるよー。てことはみんな、竹井さんにお呼ばれしてきたのー?」

菜沙「ふとっぱらなしょっかくあんてなのおねえさんにしょうたいされたし」

城菜「しろいおねえさんにはおせわになったし」

豊音「触角アンテナ? 白いお姉さんってのはシロのことー?」

城菜「じゅうでんしてもらったし」

豊音「ああ、シロで間違いないね。へぇー、そうなんだー。いいなー。あれ、私は大きいからやってもらえないんだよねー」

城菜「おおきいのもいいことばかりじゃない?」

豊音「そうだねー、むしろ不便なことのほうが多いかもー」

菜沙「いまばかりはそうでもないし」

豊音「どういうことー?」

城菜「だっこしてー」

豊音「へー? だっこー?」

緋菜「もちあげてほしいし。たまつきしたい」


豊音「あー、そうか。別にいいけどー、お姉ちゃんのところ戻らなくてもいいのー? もうけっこう遅い時間だよー?」

緋菜「そうはいかないし」

菜沙「おひるねしすぎてねれないし」

城菜「ふあ……あそばないとねれないし」

豊音「えー? おでこの子眠そうだけどー?」

城菜「じゅうでんしてもらったからへいきだし」

豊音「ほんとかなー? 電池切れかけに見えるけどー」

城菜「そんなことないし。まだよゆうあるし」

豊音「うーん……どうしようー……夜更かしは駄目なんだけどなー」

緋菜「おねがーい」

菜沙「このきをのがすと、つぎにびりやーどができるのはじゅうねんごぐらいだし」

豊音「なんかリアルな予測だね」

城菜「だっこー」

豊音「しょうがないなー……ちょっとやったら戻るんだよー?」

緋・沙・城「! やた!」

豊音「それじゃあ、最初は誰にする?」

緋・沙・城「わたしだし!」

豊音「あははー、一人ずつだよー。順番にねー」


  *


  *


緋菜「これどうやったらおわるの?」

豊音「私も知らないよー」

菜沙「とりあえずあなにおとすし」

城菜「たまつきじこだし」


咲「……普通にお話してるね。ビリヤードやってる……」


 結局、池田さんには連絡しなかった。

 この時間に部屋を訪ねるのは気が引けた。

 池田さんが、三つ子ちゃんだけでの外出を許すをは思えない。

 きっと三つ子ちゃんは、池田さんが寝ているところを無許可で出てきちゃったんだと思う。

 起こしてしまうのが申し訳なくて、部屋の前までは行ったものの、結局呼び鈴は鳴らせなかった。

 仕方なく一人で追跡すると、四人は娯楽室で仲良くビリヤードをやり始めた。

 姉帯さんがキューを持った前髪の子……緋菜ちゃんを抱え上げ、台の周りをぐるぐる歩き回っている。

 すこんすこんと玉を突き、歓声を上げる三つ子ちゃん。

 姉帯さんも楽しそう。

 三人を一突きごとに交替で抱え上げ、一緒にきゃいきゃい笑っている。


 これは、本当にもう大丈夫みたい。

 姉帯さん、普通の姉帯さんに戻ってるよ。

 ……これはチャンスかも。

 三つ子ちゃんがいる今なら、難しいことを考えずに、姉帯さんと普通に遊べるかも。

咲「……」

 ……うん、決めた。

咲「よし……」

 私は四人に歩み寄り、姉帯さんに声を掛けた。

咲「こんばんわ、姉帯さん」

豊音「あ、咲ちゃ――宮永さん!」

咲「咲で結構ですよ」

豊音「うわわ、咲ちゃんもここに泊まってたんだ」

咲「はい、私もりゅうーもんさんにお呼ばれして……」

豊音「そうなんだー。ていうか、私なんでここにいるのか全然わかんないんだけど、どういう経緯でここに来ることになったのー?」

咲「それは……」

 本当に憶えてないんだ……。

 染谷先輩にぺろぺろすりすりしたことも、京ちゃんやハギヨシさんをやっつけちゃったことも。

 私たちにマーキングしようとしたことも、全部憶えてないんだね。


 姉帯さんには暴走中のことは話すなって言われてるし、ここは適当に嘘をついておかないと。

咲「えっと、姉帯さん、清澄に来る途中のバス停で寝ちゃったそうです。それで、うちの部長……元部長が龍門渕さんにお願いしてここまで運んでもらったんだって、私はそう聞いてますけど……」

豊音「そうなんだー、へーそっかー……」

咲「……」

 どこか釈然としない様子の姉帯さん。

 そりゃそうだよね、姉帯さんからしたら、部長たちと遊んでたときからぶっつり記憶が途切れてるわけだし。

豊音「……まーいっかー。いまはビリヤードだよー」

 気にしないことにしたのか、姉帯さんはころりと表情を変え、半分前髪の子、菜沙ちゃんを抱き上げた。

緋菜「つののおねえちゃん、いいところにきたし」

菜沙「これでふたりどうじぷれいがかのうになるし」

城菜「だっこしてー」

咲「あはは……」

 やっぱり私もやることになるんだね。

 私は城菜ちゃんを抱え上げた。

 意外と重い。

 姉帯さんが軽々と持ち上げてるから甘く見てたよ……。


城菜「おねえさん、はんたいがわいって」

咲「あ、うん」

 城菜ちゃんの指示で、姉帯さん菜沙ちゃんコンビの対面に移動。

菜沙「さあ!」

城菜「しょうぶだし」

豊音「がんばれー」

咲「?」

 二人は同時にキューを構えた。

 ビリヤードって二人交互にやるものじゃなかったけ……?

菜沙・城菜「せあ!」

 二人同時に、手近にあった球を打つ。

 かきゃっと小気味いい音を立て、球が台上を転がる。

 二人の打った球は、台の中央で衝突した。

菜沙・城菜「……!」

咲「?」

 固唾を呑み、その様子を見守る二人。

 二つの球は弾き合い、台上をゆるゆると転がる。

 やがて、そのうちのひとつ、菜沙ちゃんの球が、ポケットの一つに落ちた。


城菜「よし!」

菜沙「あ~……」

 自分の打った球が台上に残った城菜ちゃんはガッツポーズ、ポケットに球が落ちた菜沙ちゃんはしょんぼり。

咲「どういうルールなの、これ?」

豊音「ふふ。球をぶつけて、落ちたほうが負け?」

緋菜「そう。いけだるーるだし」

咲「はは……そうなんだ」

 私もよく知らないけど、ビリヤードって球をポケットに落とすのが目的のゲームだよね。

緋菜「菜沙、まけたからこうたいだし」

菜沙「しかたないし……」

 菜沙ちゃんと緋菜ちゃんが交代。

豊音「十ゲームまでだからねー? そしたらお部屋に戻るんだよー」

緋・沙・城「はーい」

咲「ふふ……」

 その後、姉帯さんの言いつけどおり十ゲーム遊んで、三つ子ちゃん独自ルールのビリヤードはお開きとなった。  


  *



  *


 ビリヤードを終えて引き上げる途中、姉帯さんが娯楽室の一角で足を止めた。

豊音「あ! ドリンクサーバーがある! しかもフリー!」

咲「何か飲んでいきますか?」

豊音「うん……でも、フリー……無料って意味だよね……日本語で書いてないと不安になるよね……フリーって」

咲「わかります」

豊音「でもちょうどいいよー、私、飲み物買いに出てきたんだー」

咲「部屋の冷蔵庫にありましたよ?」

豊音「ああいうのって高いって言うでしょー? それでー」

咲「ああ……でも、りゅーもんさんが好きに飲んでいいって言ってました。払いは持つからって」

豊音「そうなのー? でも、シロも寝てたしー、起きたら知らない高級ホテルでしょー? なんか不安でさー」

咲「それもそうですよね……」

豊音「うん、とにかく、ようやく水分補給だよー」

 こういうドリンクサーバを見るとメロンソーダ押しちゃうよー、と。

 姉帯さんはグラスを一つ手に取り、メロンソーダのボタンを押した。


豊音「びびるよー……びびるよーなんでこんな高そうなグラスおいてあるのー……」

咲「私も、セルフサービスでこんなに立派なグラスが置いてあるの初めて見ました……」

緋菜「みどりだし……」

菜沙「めろんそーだ。めろんはいってなくてもめろんそーだ……」

城菜「じーっ……」

 グラスにドリンクが注がれていく様を、三つ子ちゃんが物欲しげに見詰めている。

咲「飲みたいの?」

緋菜「のみたい!」

菜沙「うんどうごのすいぶんほきゅうがひつよう」

城菜「じーっ……」

豊音「いいけどー、寝る前だから三人でひとつねー? ストローがあるからそれで分けて飲んでねー」

 メロンソーダをもう一杯注ぐ姉帯さん。

 私もオレンジジュースを注ぎ、四人揃って休憩スペースのソファに移動。


 三人でひとつのジュースを与えられた三つ子ちゃんは、着席するなりグラスに三本のストローを挿し、おでこを着き合せてぢゅーぢゅー吸い始めた。

緋・沙・城「んっんっんっ……」

 グラスのメロンソーダが、みるみる減っていく。

 何も一息で飲まなくても……。

 そんな取り合いするみたいな……。

豊音「ふふ。ちょーかわいいねー」

咲「ですね」

 ミルクを飲む子猫のような三つ子ちゃんを見て、姉帯さんはへにゃりと笑った。

 先ほど四つ足で走っていたときとは、明らかに笑い方が違う。
 
 これはもう、怖いことには――

豊音「姉妹って良いよねー……なにがあってもいっしょだしー……」

咲「……!」

 姉帯さんが、「何があっても一緒」と言った瞬間、背筋がざわついた。

 こめかみがヒリつく。



 手元のグラスから、横の姉帯さんに視線を移す。

豊音「? 何ー?」

咲「……いえ」

 姉帯さんと目が合う。

 その瞳には、はっきりと正気の色が見て取れた。

 ……気のせい、なのかな。

 今、姉帯さんからさっきみたいな怖い気配がしたような……。

豊音「そういえば咲ちゃんもお姉さんいるもんね」

咲「え? はい、いますね」

豊音「いいなー、私もお姉ちゃん欲しかったよー、私よりおっきなお姉ちゃんがー」

咲「あはは……」

 姉帯さんよりおっきいと二メートル超えちゃうんじゃ……。

豊音「仲良いのー? お姉さん東京だよね?」

咲「あ、はい。少し前まで喧嘩してましたけど、今はよくメールしたり……」

 お姉ちゃんとは、話題を振られても言葉に詰まらない程度には復縁できていた。

 お姉ちゃんとマメに連絡を取りたいがために、インターハイのあと携帯も買った。

豊音「それはなによりだよー。仲良しが一番だよー」

咲「はい」

豊音「羨ましいよー、姉妹だと離れてもあんしんだもんねー……」

咲「……」

豊音「私も切ってもきれない縁がほしいよー……」

 やはり、姉帯さんの様子が少しおかしい。


 姉妹の話になってから、怖い気配を一瞬放ち、すぐにまた元に戻るのを繰り返している。

 石戸さんの言うとおり、まだ完全に元通りではないみたい。

 なんだか、不安定な気がするよ……。

豊音「もうすぐ卒業だと思うとさー、もやっとするんだよねー。学校終わったらみんなとも離ればなれだしー。私宮守のみんなとも付き合い短いしー、卒業したらそれっきりになりそうで怖いんだよねー……」

咲「……そんなことないですよ」

豊音「そうかなー」

咲「そうですよ、平気です」

豊音「うーん……」

 姉帯さんは首を捻りながら、グラスに口をつけた。

咲「……」

 何の根拠もなく、気休めでこんなことを言っているわけではなかった。


 石戸さんと小瀬川さんは、姉帯さんの暴走の原因は卒業を控えてナーバスになったことだと話していた。

 宮守に転入し、麻雀を起点に広がった世界が、卒業を期に再び閉じてしまう。

 姉帯さんはそんな不安を抱いてしまったばかりに、持ち前の怖い力を暴走させてしまっている。

 あの二人はそれが推測にすぎないと言っていたけれど……。

 こうして本人の口から、その推測の裏づけとなるような言葉が聞ければ、姉帯さんの抱く不安は杞憂でしかないと断言できる。

 当て推量でここまで正確に心中を慮ってくれる友達がいるのだから、姉帯さんが麻雀で手にした縁は、学校を卒業したくらいで途切れはしないと思う。

 問題は、それを言葉で言って聞かせても駄目だということ。

 姉帯さん自身に、離れても安心だと実感して貰わなくてはいけないということ。


 石戸さんたちが言うには、私と姉帯さんが仲良くなることは、暴走を抑える上で重要な手順になるらしい。

 インターハイで自分を打ち負かし強い印象を与え、なお且つただの対戦相手として別れてしまった私は、姉帯さんが長野で友達にしたい人物の最右翼なのだとか。

 二人は私に、ただ姉帯さんと遊んで仲良くなって、連絡先の交換でもしてくれればそれでいいと言っていたけれど、私個人と仲良くなれたという印象を姉帯さんに与えるとなると、その方法には悩んでしまう。

 明日は団体で遊ぶことになると思うし、そうなると、私個人を姉帯さんに印象付けるのは難しくなる。

 できれば今晩のうちに、なんとかしたい。

 二人でいるのが自然な今のうちに、姉帯さんに、私と仲良くなれたという実感を得てもらいたい。

 けど、もう時間が遅い。

 ジュースを飲み終えて、三つ子ちゃんたちを部屋に送ったら、そのまま今夜は解散ということになると思う。

 もう今夜は、このまま寝るだけ。


 どうしよう……。

 どうすれば……。

咲「寝るだけ……」

豊音「んー?」

 一つ、思いついたことがあった。

咲「姉帯さん」

豊音「なにー?」

 思いついた……正確に言うと思い出したのは、県予選の決勝のとき、和ちゃんと二人、仮眠室で昼寝をしたことだった。

 広い仮眠室で、和ちゃんと布団を並べて少し眠っただけで、試合中だというのになぜだか気持ちが落ち着いた。

 安らぎがあったし、隣りで眠る和ちゃんへの信頼も増したように感じられた。

 今夜のうちに残された時間の中で、姉帯さんと仲良くなる手段として、添い寝というのはどうだろう。

 悪くない考えに思えた。

 考えならがら、そのまま口走る。

咲「今夜、姉帯さんのところにお泊りしてもいいですか?」

豊音「へ?」


 姉帯さんがぽかんとした顔をする。

 少し唐突すぎたかもしれない。

 これは妙案だと思いついた勢いそのままに、考えなしで恥ずかしい申し出をしてしまった。

 顔が熱くなる。

豊音「私のところって、私のお部屋にってことー? シロがいるからベッドないよ? ツインルームだったしー」
 
咲「あ、えっと、はい。そうなんですけど……」

 そう。姉帯さんのところにお泊り、ということは、一緒のベッドで添い寝をするということになる。

 しかし、ツインだから無理だよと言いながらも、姉帯さんの表情は輝いていた。

 見るからにうきうきわくわくしている。

 勢いで提案してしまったけれど、姉帯さんは食いついてくれた。

 恥ずかしさに耐えて、そのまま話を続ける。

咲「せっかく姉帯さんが遊びに来てくれたのに、あんまりご一緒できなかったから……」

豊音「うんうん、そうだねー、私寝ちゃってたしねー」

 姉帯さん、そわそわ。



咲「だから、せめていっしょにお泊りくらいはしたいなって」

豊音「うん! よし、それじゃあおいでよー。シロは一度寝ると起きないから気にしなくていいよー」

咲「はい、お邪魔します」

 よし、決まった。

豊音「よーし! それじゃ、お部屋に戻るよー!」

 姉帯さんは勢いよく立ち上がり、グラスのメロンソーダを飲み干した。

豊音「けふう!」

城菜「んっぷは。つののおねえさん、おっきいおねえちゃんのところにおとまり?」

 姉帯さんと同じタイミングで飲み終えた城菜ちゃんが、ストローから口を離し私に訊く。

咲「うん、そうだよ」

城菜「わたしもいくし」

咲「お姉ちゃんのところに戻らないの?」

城菜「しろいおねえさんとやくそくしたし。じゅうでんきれたらまたおねがいするって」

咲「そうなんだ……?」

 充電ってなんだろう。

 さっきロビーでお膝抱っこしてもらってたけど。


緋菜「わたしたちはかえるし」

菜沙「あんまりおおぜいでおじゃましてもなんだし」

豊音「わかったよー。シロならベッドに潜り込んでも文句は言わないだろうしー」

城菜「ひとりでよそにおとまりだし」

緋菜「城菜いっぽりーど? おとなにおおて?」

菜沙「かわいいこにはたびをさせろだし」

緋菜「なるほど」

城菜「おゆるしもらえたし」

咲「あはは……」

 今のやり取り、外泊の許可を貰ってたんだね。

咲「池田さんにはメールしておけばいいよね。緋菜ちゃん菜沙ちゃんも、城菜ちゃんのことは池田さんに言っておいてね?」

緋・沙「はーい」

豊音「おーし、それじゃ戻ろうかー? 咲ちゃん城菜ちゃんとお泊りだよー!」

咲「あはは……」

 こうして私と城菜ちゃんは、姉帯さんと小瀬川さんの部屋にお泊りすることになった。

 これから寝るというのに、姉帯さんはやたらと元気だった。


  *


  *


白望「ZZZ……ん、ふあ……」

 起きた。

 窓を見る。

 ブラインドの隙間から日の光が差し込んでいる。

 朝だった。

 いや、昼かもしれない。

 時計を見る。

 朝の八時だった。

 隣のベッドの豊音を確認。


豊音「すー……すー……」

咲「すぅ……すぅ……」


白望「…………ちゃんといるね」

 豊音は昨夜と変わらず、隣のベッドで眠っていた。

 相変わらず、安らかな寝息を立てている。

 咲ちゃんなんて抱えちゃっ――

白望「て!?」

 ――咲ちゃん!?

 二度見――!



豊音「ここだよー……むにゃ……ここがだいじだよー……」

咲「すぅ……すぅ……」


白望「あ、ああ……!」

 なんてこと……!


豊音「かんどりょうこうー……むにゃ」

咲「すぅ……うや……」


白望「とうとうヤっちゃった……」

 隣のベッドで、豊音と咲ちゃんが朝チュンしていた。

 豊音は咲ちゃんを抱きかかえて眠っていた。

 寝ぼけているのだろうか……。

 豊音は咲ちゃんの右側頭部の癖っ毛を、丹念に優しく撫でていた。
 
白望「ああ、そんな……!」

 ぼふりと枕を叩く。

 自分が情けなかった。

 すぐ隣で寝ていたというのに、豊音の蛮行を止められなかったなんて……!

 久や白糸台のお姉さんになんて言ったら……!  



白望「くっ!」

 もっかい枕ぼふり。

 そこで気づく。

白望「……ん?」

 シーツの足もとのあたりが、こんもりと膨らんでいた。

 おそるおそるシーツをめくる。

白望「……城菜?」

城菜「ぷおー……すぴー……」

 城菜だった。

 城菜が私の足もとで、丸くなって眠っていた。

城菜「うにゃー……」

白望「これは……」

 どういうことなんだろう……。

 昨日、私が寝ている間に何があったっていうの……。


  *


  *


咲「ふあ」

 起きた。

 朝だ。

豊音「ばりさんだよー……」

咲「……ばりさん?」

 目覚めた私は、姉帯さんの腕の中にいた。

 そうだった。

 昨日は姉帯さんとお泊りして……。


白望「おはよう……」

咲「あ……おはようございます」

 隣のベッドに腰掛け、うつらうつらと船をこぐ城菜ちゃんを膝に抱いた小瀬川さんと目が合った。

白望「本当に……こんなことになってしまって……なんて言っていいか」

咲「……?」

白望「とにかく、ご両親とお姉さんにはちゃんと報告しよう……こうなったからにはもう仕方ないから、豊音には責任を取らせないと……」

咲「???」

白望「あ、でもね、警察だけは勘弁してもらいたいんだ……なんとか内々に事を収めてくれると、その、こちらとしても……」

咲「?? えっと……」

 いきなり何の話だろう。

 基本的に表情の読めない人だけど、心なしか血の気を失っているように見える。


 朝だからかな、と思いかけ、小瀬川さんがこの状況……私が姉帯さんに抱かれて眠っている姿を見て、あらぬ誤解をしているのだと気づいた。

咲「あ、いや……! ちがいますよ……!?」

白望「……いいんだ。豊音のために、咲ちゃんが我慢することなんてないんだ……」

咲「え、えっと……」

 これは小瀬川さん、完全に誤解してるよ……。

 ちゃんと説明しなきゃ……。

咲「違うんです。本当に、小瀬川さんの想像しているようなことは何も……私、自分からここに来たんです」

白望「……? 咲ちゃん、意外と大胆……?」

咲「いや、そうじゃなくて……!」

白望「?」

咲「私、昨日、小瀬川さんと石戸さんに姉帯さんと仲良くしてあげてって言われてもどうしていいか分からなくて……それで自分からお邪魔したんです」

 ……あれ?

 これ、説明したところで……。

白望「…………やっぱり大胆?」


咲「ちがくて……えっと、一緒にお泊りするくらいしか、姉帯さんと仲良くなる方法が思いつかなかったから……」

 駄目だ、説明すればするほど、これって……。

白望「積極的だね……」

咲「だから違うんです……! 私ほんとに……」

白望「ごめんごめん。でも、本当に? 本当になにもなかった?」

咲「……はい。昨日は二人でシーツに潜ってお喋りしてました。姉帯さん、夕方からずっと寝てたから、寝付けなかったみたいで。あ、連絡先の交換もしましたよ」

白望「ああ、そう……。はぁ~……」

城菜「うにゃ」

 ようやく誤解が解けたようで、小瀬川さんは大きくため息をつき、城菜ちゃんを抱いたままベッドに背中を投げ出した。

白望「……それでさ、もうひとつ」

咲「はい?」

白望「この子はなんで私のベッドで寝てるの?」

城菜「すぴー……」

咲「ああ、それは……」

 そして私は、昨夜のことを小瀬川さんに説明した。

 その後、事情を把握し安心した様子の小瀬川さんと二人、姉帯さんと城菜ちゃんが起きるのを待ってロビーに降りた。
 

  *



  *


 ――豊音ちゃん、なんだか急に安定したわね。


 全員が起きてロビーに集合し、豊音を見た霞が、私の脇を小突いてそう耳打ちした。

 どうやら咲の添い寝が功を奏したらしい。

 聞けば、池田家の三つ子と咲ちゃん、豊音の五人で、昨夜はお楽しみだったのだとか。

 引っ込み思案な咲は、三つ子をクッションにして豊音に接近。

 そしてこちらの要望を満たすべく、一人で頑張ってくれたのだそうだ。


 ――私も楽しかったから、いいんですよ。

 
 礼を言うと、咲はそう言って、はにかんだように笑っていた。

 こちらを気遣ってくれているというわけでもなさそうだった。

 咲は本当に、豊音と楽しくお泊りしただけらしい。

 豊音は完全に修学旅行気分になっていて、なんだか血色までよくなったように見えた。



 咲のおかげで豊音は安定した。

 長野に来た大きな目的は、これで果たしたことになる。

 豊音の目を盗み、久、霞と相談し、今日のうちに長野を発つことにした。

 次の目的地は奈良県阿知賀。 

 霞はこれが最後になるだろうと話していた。

 これだけやればもう安心、ということらしい。

 さすがにここまでやれば、トランス状態の豊音にはご退場願えるのではないか、と。

 私たちは、恭子に同行を頼んだように、長野勢からも同行者を募ることにした。

 まず一番に決まったのは咲。

 そしてもう一人……。

 
 ――あなたたちの言うことは胡乱で曖昧で非科学的で非現実的で、はっきり言うなら、そんなオカルトありえません、というところです。



 同行を頼むと、原村さんは手厳しくそう言った。

 ばっさりだった。


 ――正直、こんなことをしていないで姉帯さんをお医者さんに診せたほうがいいとは思うのですが……。


 冷ややかだった。

 常識で考えれば、正論である。

 これは断られるかな、と思っていると。


 ――でも、まぁ……お友達との別れが迫ってナーバスになるというのは、私にも覚えがあります。穏乃たちを紹介してそれが和らぐというなら、協力はしましょう。


 結局、阿知賀同行には承諾してくれた。

 どうも原村さんは、この手の話題には一旦自分の価値基準で噛み砕いてからでないと賛同できないたちらしい。

 これで阿知賀への同行者は二人。


 一緒に行きたがった片岡さんは、次の定期試験が危ないからと断念。

 あまり大所帯になっても先方が困るので、阿知賀行きの面子は大阪から来た六人に、咲と原村さんを加えた八人となった。

 
 そうして今後の段取りが決まり、あとは夕方の新幹線の時間まで遊びに遊んだ。

 ホテルに併設されたレジャー施設で遊び、お決まりの麻雀も当然やった。


 楽しい時間はあっという間に過ぎて、そして現在。


 長野を発つ時間がやってきた。

 龍門渕家の車で、ホテルから駅まで送ってもらえることになっていた。

 阿知賀に向かう咲と原村さん以外の面子とは、ホテルのロビーで別れの挨拶を済ませることになった。



白望「それじゃあ……久、龍門渕さん、本当にありがとう。何から何まで世話になってしまって……」

久「いいのよ。私とあなたたちの仲じゃない」

白望「……」

 だから、その仲ってどんな仲なの……。

 なんで私は久に対して、こんなに気安い気持ちでいるの……。

 結局わからないままだったよ……。

久「なに?」

白望「いや……」

 きっと、ナチュラルな人たらしなんだろうね、久って。

 もうそういうことで納得しておこう。

 久と仲良くなったときの記憶が欠落していることは、もう考えないでおこう。

 久のことを考えると想起される、飲み慣れないお酒の味と知らない天井のことは、もう考えないでおこう。


透華「今度は長期の休みにでもいらっしゃいまし」 

一「そうだね。今度はもっとゆっくりで」

霞「ごめんなさいね。私たちのためにみんなまでサボらせちゃって」

美穂子「いいんですよ、ちょっとどきどきして楽しかったので」

智美「ワハハ、ちょうどいい息抜きになったから気にしなくていいぞー」

華菜「うちの子たちまで遊んでもらって、こっちがお礼をいわなきゃだし。ほらお前ら、お姉さんたちにありがとうとさようなら言いな」

緋菜「ありがとうございました。おげんきで、だし」

菜沙「たっしゃでくらすし」

城菜「……しろみおねえさんかえっちゃうの?」

 城菜がスカートの裾を摘んでこちらを見上げていた。

白望「ああ、うん……ばいばいだね」

城菜「そっか……」

 なんかしょんぼりしてるね。

 私、この子に好かれるようなことなんかしたかなぁ……。



城菜「じゃあゆびきりだし」

白望「指きり?」

城菜「じゅうでんのやくそくだし。よやくしておくし」

白望「ああ、なるほどね……いいよ」

 城菜と目線を合わせ、小指を組む。

城菜「ゆーびきーりげーんまーん……」

白望「……」

城菜「……おねーさんも言わなきゃだめだし」

白望「……ごめん」

白望・城菜「ゆーびきーりげーんまーん」

 ちょい恥ずい。

白望・城菜「うそつーいたらはりせんぼんのーます、ゆびきった」!」

城菜「これであんしんだし」

白望「そうだね……」


衣「衣も約束しておかねばならんことがある……」

透華「あら? なんですの?」

一「衣も指切りしたいの?」

衣「ちがう! 豊音! お前とだ!」

豊音「へ? 私ー?」

 びしっと豊音を指差す衣ちゃん。

衣「再戦の約束だ!」

豊音「再戦? 麻雀の話かなー? それならいいけどー?」

衣「麻雀のこともあるが、そうではない、詳しくは話してはいけないというから黙っておくが……」

豊音「?」

衣「うちのハギヨシは、ほんとは強いんだからな! 今度は負けん!」

 よっぽど悔しかったんだね……。

豊音「ハギヨシさん? なんのことかわかんないけどー、いいよ、受けて立つよー。約束だねー」

衣「約束だ! 必ずまた来い! それと吉野の君によろしく!」

豊音「うん、絶対来るよー」


久「それじゃあ、豊音ちゃん。私とも約束ね」

 衣ちゃんに便乗して、豊音に小指を差し出す久。

豊音「あー、うん。でも何を約束するのー?」

久「再会の約束よ」

豊音「おお……!」

 感銘を受けた様子の豊音。

 久にとっては、ちょろいことこの上ない。

 しかし、この気遣いは私たちにもありがたい。

 二人も小指を組んだ。

 さすがに歌は歌わなかったが、くいくいと互いの指を絡め、二人は指を切った。

城菜「あんしん?」

豊音「安心だねー」

久「ふふ。またメールするわね。返信なかったら私泣くから」

豊音「絶対返すよー。また来るねー」

久「ええ」

白望「それじゃ、そろそろ行こうか」

豊音「うん! さようならー」

緋・沙・城・華「ばいばーい」


 最後に、須賀くんとハギヨシさんにもう一度こっそり謝って、私たちはホテルをあとにした。


 咲と原村さんの家に寄り、二人の旅支度を待って、その後は駅に向かった。

 新幹線の席に落ち着いたところで、咲に気になっていたことを訊く。

白望「それで、お姉さんは来れそう?」

咲「ああ……」

 咲にはお姉さん、宮永照を阿知賀に呼び寄せてほしいとお願いしておいた。

 随分安定したとはいえ、この状態の豊音を都会に放つのは恐ろしい。

 なので東京には行かないことにしたのだが、チャンピオンと豊音を引き会わせてはおきたい。

 無理は承知していたが、とりあえず頼むだけ頼んでおいた。


咲「ええと、それがよくわかんなくて……来てくれるのか来てくれないのか、なんだかはっきりしなくて」

白望「? まぁ……無理ならいいんだけどね……ちょっと無茶なお願いしてるわけだし」

咲「はい、最初はそれで怒られたんですけど。たぶん……来てくれる? のかな? 電話も途中で切れちゃって、本当によくわかんないんですけど」

白望「……? いや、来れないなら来れないでいいんだ。ありがとう、気にしないで」

咲「はい……」

 どうやらチャンピオンは望み薄なのかな?

 よくわかんないけど。

 とにかく、咲が申し訳なさそうにしているので、この話題はもう止めにしておこう。

 奈良までの数時間を、私は今度こそ寝て過ごすことにした。

 パーティメンバーも増えたことだし、豊音の相手は彼女たちに任せておけばいい。

 私は瞼を閉じた。

 眠りに落ちる直前、信州蕎麦を食べ逃したことを思い出す。

 そして私は、城菜を膝に乗せ、豊音と蕎麦を食べる夢を見た。

 悪くない夢だった。


 長野編 槓


   * * *


   * * *


照「咲……」



淡「スミレー」

菫「なんだ」

淡「テルーはなんでアンニュイ感じでサキのこと呼んでるのー? 屋上でひとりでー」

菫「ああ、あれは上京して来て以来の照の日課だ。一年の頃からずっとやっている。雨の日も風の日も、高いところに昇って西の空を見上げては、『咲……』と呟く。照はこれを、毎日欠かさずやっている」

淡「? なんでそんなことしてるのー?」

菫「意に反して仲違いしてしまった妹を想ってのこと……だと思う。たぶん」

淡「へー。でも、テルーとサキはもう仲直りしたよー? もうやる必要ないんじゃ?」

菫「ああ、今は恐らく、単に咲ちゃんが恋しくてやっているんだろうな」

淡「ふーん……そんなら電話でもすればいいのにー」

菫「私もそう言ったんだがな。なんか毎日やってたから、あれをやらないと落ち着かなくなってしまったらしい」

淡「ふーん。変なのー……あ!」


照「……!」



菫「なんだ?」

淡「テルーの髪のツノがピコピコ動いてる!」

菫「ああ、風に吹かれてゆれてるな」

淡「違うよ! あれはツノが勝手に動いてるんだよ!」

菫「またお前は馬鹿なことを……」

淡「わかったよ、スミレ! テルはきっと屋上に上って交信を試みてたんだよ! あのツノをアンテナみたいにして!」

菫「なに言ってるんだお前……」

淡「きっと今頃、長野ではサキのツノもピコピコしてるに違いないよ!」

菫「電話したほうが早いだろう、それ……」


照「はい。もしもし」


淡「ほら! もしもしって言った! 交信に成功したんだよ!」

菫「普通に電話を取っただけだろう……」




照「うん、お姉ちゃんだよ」


菫「しかし電話の相手は咲ちゃんみたいだな。タイミングのいいことだ」

淡「テルーよかったねー、ちょうどサキとお話したかったんだもんねー」


照「うん。うん……そう、宮守のあの人がそんなことに……それは大変」


淡「みやもり?」

菫「清澄が二回戦で戦った高校だな」


照「でもね、咲。お姉ちゃん、ちょっと関心しないな……いくら友達のためとはいえ、学校さぼって旅行だなんて」


淡「サキー旅行に行くんだねー、いいなー」

菫「ああ。しかし学校をさぼって……? 何の話をしてるんだ?」


照「うん……うん……え? 私も奈良に? ……私の力が必要……?」


淡「?」

菫「?」


照「…………わかった。それじゃ、また」


淡「電話終わったね……」

菫「ああ……」




照「菫、淡」


菫「なんだ。気づいてたのか」

淡「隠れてたのに! テルーの愛の力だね!」

照「ううん、淡がうるさかったから……」

菫「そんなところだと思った。それで? 咲ちゃんなんだって?」

照「奈良の阿知賀に行くから、私にも来て欲しいって」

菫「阿知賀に? なんでまた?」

照「実は……かくかくしかじかで……」

淡「あははー、テルー本当にかくかくしかじかって言っテルー! それじゃわかんないよー」

菫「……なんと。それはまた難儀なことになっているな」

淡「!?」

照「そうなの。とっても難儀。姉帯さん、とってもピンチ」

菫「ああ、ピンチだ。それで、お前はどうするんだ? 行くのか?」

淡「え? えええ……? ちょっと待って……スミレ、なんで今のでわかるのー……?」


菫「うるさいぞ淡。長い付き合いなんだから、これくらい普通だ」

淡「なにそれ、ずっこい! 私もテルーとかくかくしかじかで通じ合える仲になりたい!」

菫「一朝一夕では無理だ」

淡「ぐぬぬ……!」

照「淡、話の続き、いいかな?」

淡「勝手にすれば!」

照「? それで菫、私阿知賀に行く」

菫「そう言うだろうと思った」

照「咲が私を必要としている。他校の生徒とはいえ、同学年の麻雀部員が困っている。行かない理由がない」

菫「一人で行けるのか……?」

照「…………行ける」

菫「……」

照「……」

淡「?」

菫「……はぁ。わかった。私も行こう……」

照「ありがとう。助かる」

淡「……なんで今のやり取りでスミレも行くことになるの? なんでテルーもスミレが行くって言うってわかってたみたいにお礼言うの?」


菫「うるさいぞ淡。そういうことは思っても黙っていろ。無粋だぞ」

淡「んー! 教えてくれたっていいじゃん! そんな仲間外れにするみたいに!」

照「?? とにかく、すぐに奈良に向かう。今日は特に予定もないし」

菫「そうだな。それじゃあ寮に戻って準備するか。新幹線の切符は私が手配しておこう」

照「お願い」

淡「ちょっとちょっとー! 待ってよ二人ともー! 置いてけぼりにしないでー!」

照「なに? 私たち急ぐんだけど……」

菫「ああ、もう。わかってるよ、お前も行くっていうんだろう? さっさと準備して来い」

淡「! スミレ、私の言いたいこともわかるんだね!」

菫「お前の場合は誰でもわかる。ほら、さっさと行くぞ。だらだらしてると向こうに着くのが遅くなる」

淡「はーい!」


照「……咲、お姉ちゃん今いくよ……」


菫「またそうやって……すぐに空を見上げて感じ入る……」

淡「嬉しそうだねぇ、テルー」


 * * *

今日は以上です
次で終わり

乙です
すごく面白い


まこが不憫

乙です


部長はこれ名前呼び全員とやったのか…?

豊咲いいぞーこれ
あととーか太っ腹すぎやろ


>>310
いくら部長でも全員とやったわけじゃないだろ……(震え声

乙乙
咲ちゃんの貞操無事で良かった

>>310-311
「や」が平仮名なのに違和感…な俺も相当危ない気がする

久が同行して全国人心(身)掌握の旅に変わるかと思ったがそんなことなかった

シロは既にトヨネ以前にも明大クライスされていたのか……


豊音「ここが大事だよー」

咲「姉帯さん、私髪の毛短いから、そんなに念入りに梳かさなくても……」

玄「駄目だよ、咲ちゃん。お風呂上りはちゃんとしないと」

白望「……」

 
 処は奈良県吉野、桜で有名な某観光名所にある旅館、松実館。

 その団体客用の大部屋に、私たちはいた。

 湯上りだった。

 夜に到着し、すぐに夕食を頂いて温泉に浸かり、もう今夜は寝てしまおうと話していたところだった。

 豊音と咲、それにこの旅館の娘さんの松実玄さんは、三人で入浴後の髪のケアをしていた。

 布団の上に正座した咲。その後ろに豊音が足を崩して座り、髪を梳かしてあげている。

 豊音はやはり、咲の右側頭部のツノが気になるようだった。

 あそこが大事らしい。

 なるほど言われてみれば、私にもそう思えてくる。

 あれは大事だ。



 玄さんはそのさらに後ろに立って、豊音の髪を梳かしていた。

 玄さんは到着以後、あれこれと私たちの世話を焼いてくれていた。

 特に、私、豊音、咲、春あたりの世話を重点的に。

 あまりのかいがいしい世話焼きに困惑する私たちを見て、玄さんのお姉さん、松実宥さんは、「玄ちゃん、お母さんだから~」と言って笑っていた。

 そのお姉さんも、食事中玄さんに口元を拭いてもらったりしていたのだけれど。

 どうも玄さんは、自身の母性本能を刺激した相手の世話をせずにはいられない人らしい。

 玄さんの母性を刺激した面子の中に、私も含まれていたことはやや不本意だった。

 だが、食事の世話から入浴の補助まで、すべてそつなくこなしてくれる玄さんの介護は完璧で、ついつい身を委ね、甘えてしまうのだった。

 楽チンである。

 快適だった。

 急な来訪だというのに、嫌な顔ひとつせずこちらの面倒を見てくれるあたりは、さすがは旅館の娘さん。

 一個下でありながら成熟した職業意識を感じる。

 敬服する。感謝感謝である。


 お風呂で少し胸を揉まれたことと、どうせ女しかいないのだからと緩めた浴衣の胸元に熱烈な視線を向けてくることに、目を瞑ってもいいいかなと思えるほどの献身だった。

 松実姉妹も大部屋で一緒に寝ることになり、その際、即座に私と霞の間を陣取ったことにも……。

 ちょっとした移動の際、気づくと私、和、霞、春の近くを歩いていて、わざとらしく「あ、ごめんなさい」なんて言いながらぶつかってくることにも。

 そのとき視線が私たちの胸元に釘付けになっていることにも、すべて目を瞑ってあげたくなる奉仕だった。

 宥さんは「玄ちゃん、おもちに目がないから~……」と困り顔だった。

 お餅に目がない? 大変だね、お餅ってカロリー高いし、とか、そんなふうにすっとぼけてあげてもいいと思えるほど、私たちは玄さんにお世話になっていた。

 松実館に到着して二時間もした頃には、玄さんの母性本能とおもちレーダーに引っかかった面子は完全に骨抜きにされてしまっていた。

 その中に豊音が含まれていたことは、私たちにとっては幸いだった。


 玄さんサイドの積極的な干渉は、意外と対人関係に腰が引けているところがある豊音の、「私なんかがー……」という壁をあっさり破壊してくれていた。

 たとえ玄さんの本懐がセクハラにあったとしても、その点は大いにありがたい。

 初めて宮守に来たときといい、同年代の高校生雀士をスター扱いし憧れの存在として遠くに置いたりと、人間関係をやや遠めの距離からスタートさせがちな豊音には、長野で咲がやってくれた添い寝や、今夜の玄さんのような積極的な肉薄は有効なのかもしれない。

 霞に頼らずとも、豊音が落ち着いていくのが私にもわかる。

 この分だと、今回は豊音も暴走することなく簡単に阿知賀のみなさんと仲良くなって、晴れて無自覚レズ色魔を脱却できるかもしれない。
 
 明日は例によって、阿知賀のみなさんに学校をさぼって頂き、一緒に吉野の観光地をぶらぶらすることになっていた。

 阿知賀女子麻雀部への事情の説明は、熊倉先生が赤土先生に済ませておいてくれたらしい。

 長野勢同様、その手の話に理解のある阿知賀の面々は、あっさりと協力を承諾してくれたそうだ。



 大阪、長野と豊音を止め切れなかった私たちだが、今回こそは平和に事を運べそうだった。

 これであと、残る気がかりは――


咲「あ、メール。あれ? 淡ちゃんだ……」

豊音「お~、大星さん!」

玄「白糸台の大将さんだね。 なんだって?」

咲「ちょっと待ってください、えっと……」


白望「……」

 ――咲のお姉さん、照さんが来てくれるかどうか、だけ。

 できるなら来て欲しい。

 ここ三年間、インハイの代名詞とさえ言われた宮永照とお友達になれれば、豊音の満足度も格段に上がることだろう

 大星さんも来てくれるというのなら、それはありがたい。


咲「……あはは」

豊音「どうしたの?」

咲「お姉ちゃん、乗る新幹線を間違えて栃木まで行っちゃったそうです……」

玄「逆方向に行っちゃってるね~」

恭子「東京から奈良やと、京都まで新幹線であとは近鉄とかやろ? なんで東北新幹線乗ってんねん……」


霞「やっぱり姉妹なのねぇ……」

春「しかも、ミスのスケールがチャンピオン仕様……」

和「咲さんもこの先、このレベルの方向音痴に成長する……?」

白望「改善するんじゃなくて、成長すると悪化するんだね……」

咲「ごめんなさい……」

 奈良までの道中を思い出したのか、顔を赤らめ俯く咲。

 長野から奈良に向かう間、咲も何度か迷子になっていた。

 あまりに何度も消えるので、最終的には和や豊音が手を引いて、ここまで連れて来たのだった。

白望「でも、てことは、来てくれるつもりではいるんだ……?」

咲「はい。お姉ちゃん、わかったってしか言わなかったから、よくわかんなかったんですけど」

白望「そう……」

咲「それで、今から高速バスに乗るそうです」

豊音「ええ、今からー?」

咲「はい、朝の七時頃に京都に着く便だそうです……」

白望「こっちとしてはありがたいけど、やけに大急ぎだね」


咲「お姉ちゃん、自分で新幹線間違えておいて今夜中にこっちに向かうって駄々こねたらしくて……お金のこともあったから、バスしかないって」

白望「大変だなぁ、広世さんと大星さん……」

玄「それじゃあ、おもてなしの準備しないとねぇ。バス移動だと疲れてるだろうし」

咲「すみません……お願いします」

玄「お任せあれ」

 びっと敬礼して見せる玄さん。
 
 おもちはお持ちでないチャンピオンだが、どうやら到着前のこの時点ですでに、玄さんの琴線に触れているらしい。

 インハイでは手酷くやられていたものだけど、遺恨を残すどころか、お世話する気満々の玄さんだった。

 ともあれ、この集まりにチャンピオンだけでなく、広世さんと大星さんまで参加してくれることになったのは良いニュースだった。

 霞の言う通り、奈良を私たちの旅の終点にできそうだ。

 私たちのほうは明日の朝まですることもないので、その後は適当にお喋りして眠りに就いた。

 翌朝目覚めると、大部屋に並べられた布団の一つが空になっていた。

 
 豊音がいなくなっていた。


  *



  *


 早朝。

 私、高鴨穏乃は、山に行くことにした。


 昂ぶっていた。

 今、この吉野に和が来ている。

 インハイで知り合ったり知り合わなかったりした人たちも、大勢遊びに来ている。

 玄さんみたいな不思議パワーを暴走させてしまった岩手の姉帯さんを治すため、みんなで遊びに来たらしい。

 治療と聞いて、私たちにできることがあるのかと疑問に思ったけれど、要は楽しく遊んで姉帯さんと友達になればそれでいいらしい。

 そのあとアドレス交換をすれば、姉帯さんは治るのだとか。

 姉帯さんの現状を聞かされたときは、深刻な問題なのかと身構えたけれど……。

 なぁんだ簡単じゃん!

 つまり今日は、全国のみなさんと楽しく遊ぶだけじゃん!

 特に重点的に、姉帯さんと!

 それも、学校をさぼって……!

穏乃「くぅ~~~~……!」


 昂ぶる!

 昂ぶるよ!!

 楽しくなってきた……!

 昨日はみなさん移動の疲れがあるからって遊んでくれなかったけど!

 今日は思いっきり遊ぶんだもんね!

 テンション上がりすぎて四時に目が覚めちゃったもんね!

穏乃「みんなまだ寝てるだろうなぁ……! そりゃ寝てるよ、お疲れなんだもん! まだ四時だもん!」

 でも、でもなぁ……!

穏乃「抑えきれない……! この高まったテンション……!」

 家でじっとなんてしてられないよ……!

 やめろ出ちまう、こいつが出ちまう……って感じだよ……!

 私の内なる野生が背中をがりがり引っ掻いてるよ……!

 これはいけない……!

 野山を駆け回って少し発散させておかないと、こんなんじゃお客さんを振り回しちゃうよ!

 少しガス抜きしておかないと!

 これはもう……山に行くしかない!

穏乃「よ~し、そうと決まれば……!」

 私は携帯を手に取った。

 憧の番号をコール。


  *


  *


憧「うへへ~……」


 prrr……


憧「さすが全国……」


 prrr……


憧「雀牌に乗って空が飛べるなんて~……むにゃ」


 prrr……


憧「玄がドラゴンを召喚したわ~……宥姉黒焦げあったか~い……」


 prrr……


憧「……むぬ」


 prrr……


憧「ん~……何よ、電話……? まだ薄暗いじゃない……」


 prrr……


憧「せっかく良い夢見てたのに……ってやっぱりしずだし……はい、もしもし」

穏乃『あ、憧! 山行こうぜ! 山!』

憧「行かない」

穏乃『え~! なんd――』

 pi

憧「さ、もう一眠りしようっと」


憧「…………zzz」


憧「……雀卓マジ四角い宇宙だわ~……むにゃ」


  *


  *


穏乃「切れちゃった……んだよぉ、憧の奴、たまには付き合ってくれてもいいじゃんか……!」

 せめて少しくらいお喋りしてくれたってさぁ……! 

 ちょっと朝早くに電話したくらいでそんなにつれなくしなくても!

穏乃「ッ、もういいよぉ……!」

 携帯をベッドに投げ捨て、私は部屋を飛び出した。

 途中、寝巻きのまま飛び出したことに気づき、部屋に戻ってジャージに着替える。

 いつも山歩きのときに持っていくバッグを引っつかみ、今度こそ私は家を飛び出した。

 着替えに戻ったときに我に返り、少しテンションが落ちたので、一度叫んでおく。

穏乃「憧のばーか! ばーかばーか! あほー! アホ憧ー!」

 早朝の町に、私の叫びが木霊する。

 きっと憧にも届いたことだろう。
 
 届いたに違いないと決め付けて、私は駆けた。

 当てどもなくダッシュしているうちに体が温まり、さらにギアを上げる。

 まだトップギアには入れない。八分の力でダッシュ。



 そのまま速度を維持して、数分間、どこに向かうでもなく走り続けた。

 軽く二、三キロは走っただろうか。

 だが、この程度ではエネルギーの発散にはならない。

 この程度ではまだ、内なる昂りに体がついてきただけのこと。

 まだ息すら上がらない。少しの消耗も感じず、発散というには程遠い。

 せいぜい、

穏乃「温まってきたぁ!」

 といったところ……!

 暖機運転完了!

 まだまだこれから!

 私はこんなもんじゃないぞ、憧ぉ!

 私はまだまだ先に行けるぞ、憧ぉぉぉ!

穏乃「うおおおおおおおッッ!!」


 スピード上げるぞ!

 私の本気を見せてやる!

 速く! もっと速く!! いや疾く! 

 飛ぶが如く!

穏乃「ああ……やばい、これやばい! なんかハイになってきちゃった……!」

 風……! 私、風になっちゃう……! このままじゃ私風になっちゃうよ憧ぉ……!

 知らないぞぉ、憧……!

 風になっちゃっても知らないぞぉ! 

 あとで追いつこうたってそうはいかないんだからな!

 憧が冷たくするから私、吉野の山々を吹き抜ける一迅の風になっちゃうんだからな!

穏乃「ふーっ! いえー!」

 YEAH! AH! YEAH!!

 YEAHだってさ、私! 先月東京とか行っちゃってたからなぁ! ちょっとハイカラになっちゃってる!

 いけないシティガールになってきちゃってるよぉ!

 私には山があるのに、都会の誘惑が怖いよぉ!

 怖いって言えば憧、私、このままだと死ぬまで走り続けちゃいそうで怖いよぉ!



穏乃「あああああああ足が止まんないよぉ~~っと!」

 とうにトップギア、心身共に絶好調!

 これなら行ける……! 限界のその先へ、スピードの向こう側へ!

 今の私なら、見たことのない景色だって!

 きっと……! 

 見たことのない景色なんて、もうこの辺にないんだけど!

 でもこのまま行くと私、今日凄いことになりそう!

 よくわかんないけど、知らないところに行けちゃいそう!

 これはやっぱり、憧を連れて行ってあげないと!

 I can fly! You can fly! って教えてあげないと!

穏乃「そうと決まれば憧んちだ! 憧の家に行くぞ!」

 クロックアーップ!

 キャストオフはしないぞ! したら色々まずいことになるからしないぞ!

 おばあちゃんが言っていた! 

 憧んちへ行けって!

穏乃「うお~~っ! 憧~! 今いくぞ~!」

 脳内麻薬どばどば!

 ランナーズハイってこういうのを言うんだろうね!


  *



  *


憧「うへへ~……」


 あ~こ~!

 
憧「さすが全国……」


 あーこや~い!


憧「食べられるリー棒なんて画期的~……」


 あこーー! 起きろーい!


憧「こんなに美味しいのに食べると失点しちゃうなんて~……むにゃ」


 あら、穏乃ちゃん早いのね。

 あ、望さん! おはざーす!


憧「ぬ……おねーちゃん? ……しず?」


 今日は学校お休みしてみんなで松実館だって聞いたけど、こんなに早く集合するの?

 いえ、集合は九時なんですけど! 楽しみでいてもたってもいられなくて!

 あらあらそうなの~、まぁ、仕方ないわよね、和ちゃんとも久しぶりだし。

 そーなんすよ! 一ヶ月ぶりっすけど! まさかこんなに早く再会できるなんて思ってもみなくて!

 テンション高いわね~、穏乃ちゃん、それじゃあ遊ぶ元気なくなっちゃうよ?

 そんなことないっす、むしろこの程度準備運動ですから!


憧「なんでいるのよ、もう……」



 窓がらり。

望「あら憧、おはよう」

憧「おはよう、お姉ちゃん」

穏乃「あ、憧~! やっと起きた! 山行こうぜ! 山!」

憧「ここも山だから」

穏乃「そりゃそうだけd――」

 窓ぴしゃり。

憧「まだ四時半じゃない……もう一眠りしよっと」

  
憧「……zzz」


  *



  *


穏乃「なんだよ~憧の奴……! そんなにつれなくしなくても……なにがそんなに気に入らないんだよ……!」

望「う~ん、ちょっと訪ねてくる時間が早すぎたんじゃないかしら……?」

穏乃「でも、望さんは起きてるのに……?」

望「私はほら、朝のお勤めとかあるから」

穏乃「う~んそっか~……まったく、憧の奴! 憧も神社の子なら早起きしとけよな!」

望「あはは。そうね、ちょっとくらい手伝ってくれてもいいのにね」

穏乃「きっと、夜更ししてすまほとかいじってるんですよ、らいんとかいうやつで私の悪口話したりしてるんです……! あの様子だと多分そんな感じです……! 想像してたらなんか泣けてきました……! ぐすっ」

望「……それはないと思うけど。あの子が穏乃ちゃんの陰口なんて考えられない」

穏乃「そうでしょうか? ずずっ」

望「そうよ、だから泣かないで。ていうか、穏乃ちゃんはLINEやらないの?」

穏乃「やりません……触ってはみたけどまったく活用できませんでした……! 私にはまだ早かったんです……! 面白さがまったくわかりませんでした! クラスの子に誘われてやってみたんですけど、会って話そうよって言ったらみんなしーんとしちゃって……ようやくついったーに慣れたと思ったらこのざまです……! 笑ってやってください! 時代遅れな私を! ぐすっ」

望「笑わないわよ……ほら、鼻水垂れてる」

穏乃「すみません……ずびび」

望「はい、綺麗になった。このくらいのことで泣いちゃだめよ、阿知賀の大将さんなんだから」

穏乃「はい……」

望「ところで穏乃ちゃん、これから山に行くんでしょ?」

穏乃「はい! ひとっ走り行ってこようかと!」

望「それじゃあ、おにぎり握ってあげる。ちょっと待ってなさい」

穏乃「お~! 望さんのおにぎり! かたじけない!」

望「すぐ握ってくるからね」

穏乃「あ~ざ~す!」


  *


  *


穏乃「うひょーい!」

 望さんからおにぎりを貰った私は、再び走っていた。

 山に行くと言ってもこのあと約束があるので、それほど深くには入れない。

 どこかその辺の山林を、適当にぶらぶらして時間を潰すつもりだった。

 約束の時間になったらすぐに松実館に向かえるよう、松実館近辺の野山を駆け回るつもりだった。

 ていうか既に、松実館に到着していた。

穏乃「来ちゃった……」

 松実館松実館って考えてたら足が勝手にここに向いちゃった。

穏乃「どうしようかな……」

 遠巻きに旅館の周囲をうろうろ。

 勝手口からは仲居さんが出入りしており、何か忙しく立ち働いている。

 従業員のみなさんはもう業務に勤しんでおられるようだ。

 玄さんと宥さんは起きているだろうか。


 時計を見ると、あと数分で五時になるところだった。

 玄さんは起きているだろう。

 宥さんは微妙だ。九月に入って、冷え込んできて辛いって言ってたし。

 起きていても私の相手をしている暇はないだろうしな……。

 ここはやはり、当初の予定通り……。

穏乃「山! 山行こう! うん!」

 そうと決まればダッシュ――


玄「待って、穏乃ちゃん!」


穏乃「おお!? 玄さん! おはようございます!」

玄「おはよう。仲居さんに穏乃ちゃんが来てるって聞いて」

穏乃「気づかれてましたか」

玄「前にバイトしてたときに面が割れてるからね」

穏乃「そういえばそうでした!」

玄「それで随分早いけど、どうしたの? 約束は九時だよね?」

穏乃「あはは……そうなんですけど、ちょっと楽しみすぎて目が覚めちゃって」

玄「そうなんだ~。でも、みんなまだ寝てるよ? お姉ちゃんもまだぐずってるし」

穏乃「そうですよね。わかってはいたんですけど、なんか来ちゃいまして。どっかこの辺の山にでも入って時間潰そうと思ってたんですけど……」


玄「うふふ、そっか。それじゃあ、朝ご飯におにぎりでも握ってあげようか?」

穏乃「あ、それは結構です! なぜならほら! さっき憧んち行ったときに望さんにおにぎり頂きまして!」

玄「憧ちゃんちにも行ったんだね……」

穏乃「はい! 憧のやつ二度寝しちゃったんで、置いてきましたけどね!」

玄「ふ~ん……なんだ、穏乃ちゃんもうお弁当持ってるんだぁ……そっかぁ……」

穏乃「……!」

 いけない……! 

 玄さんがお世話できなくてしょんぼりしてる!

 何か隙を作って玄さんにお世話させてあげないと……!

 どうする……!? 転んで顔でも汚すか!?

 ヘッスラでもするか! ヘッドスライディング! 今朝の私のテンションならアスファルトの上でヘッスラなんて余裕!

 よし、そうときまれば――

玄「……おにぎりだけ?」

穏乃「? はい、おにぎりだけですけど……」



玄「おかずはないんだね……?」

穏乃「は、はい。おにぎりとお茶だけ頂きました……」

玄「それじゃあ、今からおかず作ってきてあげるね!」

穏乃「へ? でも、玄さんお仕事は……」

玄「平気だよ! 一人分のおかずなんてすぐに出来るから!」

穏乃「ええ、でも悪いですよ……」

 ヘッスラ……ヘッスラしますから……。

 お手間はとらせませんから……。

玄「いいよぉ遠慮しなくても! すぐできるから、中に入って待ってて!」

穏乃「は、はい……」

玄「おにぎりには玉子焼きとウインナーだよね!」

穏乃「そりゃマストですけども……」

 これはどうやら、玄さんのおかずを受け取らずには山に行けそうにない。

 お仕事の邪魔はしたくなかったけれど……。

 しかし……。

穏乃「望さんのおにぎりに玄さんの卵焼き……」

 ウインナーはさすがに市販品だろうけど、この夢のコラボレーションを逃すのは惜しい。

 ごくりと喉が鳴る。

 申し訳なく思いながらも、私は玄さんに手を引かれ松実館に足を踏み入れた。


  *


  *


 板場では迷惑になるからと、住居部分にあるキッチンで調理を始めた玄さんを置いて、私はひとり客間に向かった。

 玄さんに、宥さんを起こしてくるように頼まれていた。

穏乃「到着~……」

 みなさんがお休みの大部屋に到着。

穏乃「おじゃましま~す……」

 そろりと襖を開ける。

 そろそろと部屋に入る。


和「すぅ……すぅ……」

穏乃「うひひ……の~どか~私だよ~……」

白望「zzz……」

穏乃「この人は小瀬川さん」

霞「すやすや……」

穏乃「この人は石戸さん」

 小瀬川さんと石戸さんの間の布団は、キチンと畳まれて床に置いてある。

 小瀬川さん、石戸さんの浴衣の胸元が乱れていたので、あそこで玄さんが寝ていたのだとわかる。

 わかりやすい痕跡だった。

 二人の浴衣を直し、布団を掛けなおしておく。


恭子「う~ん……あかんで漫ちゃん……そこでそれ切ったらあかん……」

穏乃「この人は末原さん……寝言で後輩に指導してる……そして」

咲「すぅ……すぅ……んや」

豊音「ここがかんようー……むにゃ」

穏乃「この咲を抱き枕にしてるのが姉帯さんか……」

 聞いていた通り、でかい。

 布団から足がはみ出している。

 どうやら姉帯さんが咲の布団に潜り込んだらしい。

 咲のホーンをさすりさすり寝言を言っている。

 確かに、そこが肝要だと私も思う。

 幸せそうな寝顔だった。

宥「うーん……玄ちゃんあと五分だけ~……」

穏乃「おや、宥さん。そこでしたか」

 布団に顔まで潜り込み、ぷるぷると震える宥さんを発見。

 腕を突っ込み、宥さんを探り当て引きずり出す。

穏乃「そいっ!」

宥「ふあ~」

 宥さんずるっ。

 ずぼっ。


穏乃「ほら宥さん、起きてください」

宥「……あれぇ穏乃ちゃん。なんで~? おはよう~」

穏乃「おはようございます。玄さんに起こしてきてくれって頼まれたんですよ。ほら起きましょう」

宥「そうなんだ~……くああ」

 宥さん、欠伸をひとつ。

穏乃「起きました?」

宥「起きた~」

穏乃「それじゃ行きましょう。お客さん起こしちゃいますし」

宥「うん」

 枕元にあったマフラーを宥さんの首に掛けてあげる。

 寝ぼけまなこでマフラーをくるくると巻きつけ、頼りない足取りで歩き出す宥さん。

 宥さんがお客さんを踏まないよう、手を引いて客間を出ようとした、そのときだった。


豊音「んあ……あー……あれ? ここどこー?」

 姉帯さんが咲を離し、上体を起こした。

豊音「そうだー、まつみさんちの旅館にいるんだったー……」



穏乃「ありゃりゃ、起きちゃった」

宥「ごめんね~起こしちゃった?」

豊音「……宥さん、と、知ってる顔だよー……」

 咲の布団から抜け出て、私の顔をしげしげと見詰める姉帯さん。

穏乃「阿知賀女子麻雀部の高鴨穏乃です」

 小声で挨拶。

豊音「……おお! はじめまして、宮守の姉帯豊音です。岩手から来ました」

 姉帯さんは、畳の上で三つ指を着き、丁寧に頭を下げた。

穏乃「これはこれはご丁寧に」

 私も姉帯さんに倣ってぺこり。

 互いに頭を上げる。

 目が合うと、姉帯さんはにへっと笑った。

豊音「今日楽しみにしてたんだよー、いっぱい遊ぼうね」

穏乃「うす。任せてください、力いっぱい遊びましょう……!」

 握り拳を作ってみせると、姉帯さんもそれに応じて拳を握る。

 姉帯さん、かっくいい感じの外見だけど、どうやらノリの良い人らしい。

豊音「私も目ぇ覚めちゃったから起きるよー。ちょっと待っててね」

穏乃「はい」

 姉帯さんの身支度を待って、私たちは玄さんのところに向かった。


  *


  *


玄「穏乃ちゃん、姉帯さんもいるんだからあんまり無理しちゃ駄目だよ?」

穏乃「はい! 大丈夫です! ちゃんと手加減しますので!」

宥「いってらっしゃ~い」

豊音「いってきまーす」


 玄さんにおかずを作ってもらったあと、私と姉帯さんは外で時間を潰すことにした。

 姉帯さんも私に同行すると聞くと、玄さんは手早く姉帯さんの分のお弁当を作ってくれた。

 メニューは私と同じでおにぎりと玉子焼きとウインナー。

 素朴でありながら最強の組み合わせである。

 お茶だけは望さんが地元のお茶屋さんで買った本格的な緑茶だった。

 なんでも、濃い目に淹れて氷をたくさん入れ、冷茶にしてくれたそうだ。

 それを憧が子供の頃に使っていた肩紐つきの水筒に入れてもらい、肩に掛けて持っていた。

 姉帯さんも同様のスタイルだ。

 パンツルックにスニーカーの吉野観光仕様の服装に白い帽子、玄さんが私とおそろにしようと言って持ち出してきた肩紐つきの水筒を持っていた。

 紐の長さが子供用なので、ほとんど首から提げるような格好になっている。


 お姉さん方にお弁当と水筒を持たされ、二人で早朝ハイキングである。

 なんとなく望さんや玄さんに子供扱いされたような気になりながらも、私は童心に帰りテンションがさらに上がっていた。

 姉帯さんもうっきうきのようだった。

 もしかするとこれが姉帯さんの素なのかもしれないと気づいたのは、二人で山に入って二十分ほど歩いたあとだった。


豊音「すごいねー、この辺、全部桜の木だー」

穏乃「おお、わかりますか。そうですよ、この辺は下千本って言うんです。春になったら一面どわっと桜色ですよ」

 素人さんが一緒なので中千本のハイキングコースにでも行こうかと思ったけれど、このあと約束があるので近場で済ませることにした。

 二人であちこち見て回ってしまっては、このあとみんなで行くときつまらない。

 今日の私なら下千本から奥千本までダッシュで二往復くらい(一往復だいたい十キロ)は余裕な感じなんだけど、姉帯さんに付き合わせるのは気が引ける。

豊音「春にも来てみたいよー。葉桜も乙なもんだけどー」

穏乃「ぜひ来てくださいよ。そのときも案内させてもらいますから」

豊音「そうだねー、塞や胡桃やエイスリンさんとも来たいしー、これは卒業りょ行の筆頭候ほだよー」

 きょろきょろと、周囲の木々を見ながら歩く姉帯さん。

 思い切り道を外れ、山の斜面を登り始めても、姉帯さんは何も言わず普通に付いて来てくれた。


 山林を歩く足取りも軽やかで、自然の中を歩き慣れているように見えた。

 玄さんには無理するなといわれたが、これならそれほど手加減しなくてもハイキングを楽しめそうだ。

豊音「玄ちゃんに聞いたけどー、たか鴨さん、山歩きがとくいなんだってね。私もしゅっ身は山のほうだから、遠慮はいらないよー?」

穏乃「そうでしたか。道理で。斜面の歩き方とか堂に入ってると思いました」

豊音「ふふん、もうちょっとペースあげてもへい気だよー?」

 得意気に笑う姉帯さん。

穏乃「むむ……!」

 なんだか、ちょっぴり挑発的だ。

 背が高いから、見おろされているのもそう感じさせる原因だろう。

 なんとなく、この程度なの? とでも言われているような気がしてしまう。

 これは吉野っ子として、黙ってはいられない。

穏乃「……では、お言葉に甘えて。少しだけ……少しだけペースを上げましょう……」

豊音「……そうだねー……少し、ね。あさのうん動だよー」


穏乃「お弁当が崩れない程度に……ね?」

豊音「せっかくのお弁当だもんね……?」

穏乃「それじゃあ……」

 ぐっと重心を落とす。

豊音「……」

 姉帯さんも体から力を抜いた。

 自然な脱力。高度な瞬発の予兆を感じる。

 なるほど……これは確かに、のんびりしたハイキングで満足するタマじゃあない……!

穏乃「行きます!」

 蹴り足に力を込める。

 一歩、二歩。瞬時に三メートルから四メートル斜面を登る。

豊音「ふふ……!」

 姉帯さんは私より一呼吸スタートが遅れた。

 が、私が二歩で跳んだ距離を一息で詰め、あっという間に並走してくる。

穏乃「……!」

 驚いた。

 これは本物だ。

 瞬発力は私と同等。歩幅がある分、直線では私より速いかもしれない。

豊音「たかかもさん、はやいよー……!」

穏乃「そっちこそ! これは本気を出すしかないようですね……!」


 言葉を交わしながらも、互いに速度は緩めない。

 両足の回転を上げ、さらに速度を上げていく。

 それでも姉帯さんを引き離せない。

 少し本気を出して先行し、あとで姉帯さんを向かえに引き返すつもりでいたのだけど……!

 これはそんなお遊びが成立する相手じゃない!

穏乃「すごい……! すごいや、姉帯さん!」

 小学生の頃の憧以来だ……! 

 この吉野で私に追随してくる女子がいるなんて!

穏乃「ふふふ……っく、あはははは!」

豊音「どうしたのー? 急にわらいだしてー」

穏乃「いえ! ちょっと楽しくなってきちゃって!」

豊音「わたしもたのしいけどー」

穏乃「まだまだこれからですよ、姉帯さん! スピード上げます!」

豊音「おお~」

 本気の本気。

 今日の体調の良さと精神的充実があれば、普段なら限界と感じる現在の速度を、容易く越えていけそうだった。


穏乃「よぉっしゃあ! 行くぞおおおッ!」


  *



  *


豊音「ほあー……たかかもさん、いっちゃったー……すごいはやさだよー」


豊音「…………」


豊音「なんだろー……」


豊音「たかかもさん、せなかがすごくかっこいいよー」


豊音「ついてこいっていわれてるようなきがするよー」


豊音「すごいねー、ちっこくてかわいいのに、かっこいいなんてー……」


豊音「これはおっかけずにはいられないよー」


豊音「…………むろん、おっかけるけどー」

 
  *


 
  *


 三十分ほど走った。


 観光客が使うルートを完全に無視して、山中を移動して中千本のあたりまで来ていた。

 私にとってはこれくらいなんでもない。

 普段から普通にやっていることだ。ただの日課である。

 しかし、今日は明らかに異常な点が一つある。

 それは同行者がいるという点だ。

 普段の私の山歩きは、地元の野山を駆け回るくらいのことで大げさだが、謂わば単独行である。

 憧あたりがついてきてくれればといつも思うけれど、実際問題私の速度と持久力について来れる者などいはしない。

 いつも通りの山ダッシュに同行者がいるというのは、それだけで私にとっては、酷く違和感がある事態だった。

 しかもその同行者がまったく息を切らさず、笑顔を浮かべてついて来るとなれば、薄気味悪ささえ覚える。 



 全力の全力。本気の本気で駆けているのに、少し後方をついて来る姉帯さんとの距離が二メートル以上離れない。

 それも、私が先行できている理由は速度ではない。

 私のほうが速いから、私が前を走っているのではない。

 追う側と追われる側を分けている要因は、土地勘の有無だった。

 私は吉野に慣れているから先行できている。

 対する姉帯さんは、今日初めて走る野山に足を鈍らせているだけ。

 もしこれが姉帯さんのホームだったのなら、追う側にいたのは間違いなく私のほうだ。


豊音「あはは~」

 長身を器用に折り畳み、両腕を左右に広げ、まるで滑空するように追従して来る姉帯さん。

 ときおり四つ足をついて獣のように駆け、その速度はまったく緩む様子がない。

穏乃「まさか、これほどとは……!」

 予感はあったが想像を遙かに超えている……!

 こんなに速いなんて!

豊音「おっかけるよー」

穏乃「……ッ!」

 異常だ。

 これだけの速度で走りながら、姉帯さんの声はまったく乱れない。

 荒れた息が少しも混ざらない。

 私のほうは、体力的には問題なくともぺらぺら喋る余裕はない。

 余裕がるのだろう、あの人には。

 追いつかれる。

 追い越される。

 敗北の二二文字が脳裏をよぎる。


 何の勝負をしているのかは自分でもよくわかんないんだけど。

 それでも何故か、追いつかれることは敗北を意味するような、そんな気がしてならない。

穏乃「くそっ……!」

 小さく毒づく。

 すぐに、これでは負けを認めたようなものだと気づいて首を振る。

穏乃「まだだ!」

 気合を入れる。

 こうなっては仕方がない。

 少しフェアではなくなるが、小柄な体格を活かし、樹木の密集するエリアを選んで走る。

 越えるのにコツがいる難所に入り、土地勘の有無で差をつける。

 もうそれくらいしか、この人を振り切る術はない。

 走りやすい道だけ走っていては、姉帯さんは振り切れない。

 単純に脚力だけ競っていてもジリ貧だ。

 私は進路を変えた。

 同行者がいる以上、今日は行かないと決めていたお気に入りのコースへと。

豊音「まって~」

穏乃「……!」

 道を知らないのだから、姉帯さんは当然ついて来る。

 あくまで笑顔を崩さない。
 
 どこまでも楽しそうだった。


  *


  
  *


菫「はぁ……」

淡「やっと京都……夜行バスがこんなにしんどいなんて……」

菫「一応眠れはしたが、なんだか体が重いな……」

照「おつかれ、ふたりとも」

菫「お前な……誰のせいでこんなに疲れてると……」

照「……承知だったはず」

菫「何がだ……一応聞いてやる」

照「私と来るって言った時点で、こうなることはわかっていたはず」

菫「いや、そうだけども……まさか栃木まで行ってしまうなんて思わないだろう、さすがに」

淡「テルー、開きなおってるの……? 一言くらい謝ろうよ……テルーの大暴走がなかったら、新幹線使えたんだよ?」

菫「淡の言うとおりだな」

照「……少しは」

菫「?」



照る「次は栃木だって、新幹線の車内アナウンスを聞いたときの私の絶望も考慮して欲しい……」

菫「お前な……それを言うなら、消えたお前から『今栃木にいる、迎えに来て』って言われたこっちの気持ちも考慮しろ」

照「……」

淡「……テルー拗ねてるの? どう考えても一言謝る場面だよ、今」

照「……め……なさい」
  
菫「なんだって?」

照「ごめんなさい」

淡「はぁ、まったく……」

菫「今回は許してやるが、ここから奈良までは気をつけろよ?」

照「はい……」

淡「テルーは奈良まで私と手ぇつないで行くんだからね」

照「高三にもなってそれはちょっと……」

淡「だーめ! そうでもしないと今日中に奈良に着けなくなるかもしれないでしょ!」

照「う……菫……」

菫「淡の言うとおりにしろ。それが一番安全だ」

照「はい……」

淡「それじゃ、行くよ? 手ぇ離しちゃだめだからね?」

照「うん……」

菫「ここからは電車だ。切符を買いに行くぞ」

淡「はぁ……また座りっぱなしか……」

菫「あと少しの辛抱だ」

淡「はーい……」


照「咲、お姉ちゃんもうすぐ着くからね……」


淡「テルー、そういうのもういいから。ほら行くよ」

照「あ、淡、待って、引っ張らないで……」


  *



  *


玄「あ、小瀬川さん。おはようございます。どうしたんですか? そんなに慌てて」

白望「玄……! 豊音が……! 豊音が……」


 目覚めて豊音がいないことに気づいた私は、着替えもせずに部屋を飛び出した。


白望「豊音がいなくて……どこに行ったか知らない?」

玄「ああ、姉帯さんなら、穏乃ちゃんと朝ハイキングに行きましたよ」

 高鴨さんと……?

白望「何か変なことになってなかった? 例えば、麻雀打つときのチャンピオンとか、咲みたいな雰囲気になってなかった?」

玄「いえ……? 普通な感じでしたけど……」

白望「言葉が通じなかったり、べたべたくっついてきたりしなかった……?」

玄「いいえ。普通でした。お話もちゃんとできてましたよ。お弁当作って差し上げて、楽しそうにお出掛けして行きました」

 平然と答える玄さん。

 この様子だと、豊音は本当におかしくなっていなかったらしい。


白望「そう……はぁ……よかった」

玄「……大阪や長野ではそんなに酷かったんですか? 私、ちょっと大きなワンちゃんにじゃれつかれるくらいのことだと思ってたんですけど。それなら別にいいかなって」

白望「うん……まぁ、あれだよ、人と犬がじゃれ合うようなことを、人対人でやったら、色々とアウトな感じになるでしょ……?」

玄「うーん……」

 どうやら想像しているらしい玄さん。

玄「……ぎりアウトですかねぇ」

白望「ぎりなの……?」

玄「いやぁ、阿知賀のみんなが姉帯さんみたいになったら、私受け入れちゃいそうだなって」

白望「それが問題なんだよ……」

玄「そういうものですか?」

白望「そういうもんだよ……」

 呆れつつも共感する。

 実際、私は暴走した豊音を受け入れかけた。

 宮守の他のみんなだって、もしかすると内心ではそんな感じだったのかもしれない。

 エイスリンあたりは諦めて好きにさせている感じだったし。

 けれど、それを良しとしてしまっていいわけがないので、やはり問題だ。


玄「とにかく、姉帯さんは大丈夫そうでしたよ。穏乃ちゃんも一緒だし、そんなに心配しなくても」

白望「この場合、一緒だから心配なんだけどね」

玄「大丈夫! もし姉帯さんがおかしくなっても、穏乃ちゃんなら逃げ切れます。あの子にとって、この吉野は庭みたいなものですから」

白望「聞いてはいたけど、そんなにすごいの?」

玄「すごいなんてもんじゃないです! この辺じゃ役小角の生まれ変わりなんじゃないかって言われてるくらいですから! ジャージにスニーカーでどこまでも行っちゃうんですよ!」

白望「え、えんの……? 誰、それ……?」

 えんのおづの……? この辺のお寺の偉い人とかかな……?

 その人の生まれ変わりだって言われてるからって、どうすごいのかまったく伝わってこないけれど。


白望「まぁ、でもみんなが起きたら一応探しに出てみるよ……念のため」

玄「そうですか。じゃあ、小瀬川さん、先に朝ご飯召し上がります?」

白望「いや……ご飯はみんなが起きてからにするよ。それよりお風呂開いてる?」

玄「ああ、はい。開いてますよ」

白望「起き抜けに嫌な汗かいたから流してくるよ……」

玄「ほほう……よかったらお背中流しましょうか……?」

白望「……」

玄「……」

 玄さんのほわほわ優しい意え笑顔に、ほんの少し黒い影が差す。

白望「いや……」

玄「……」

 なんで無言になるの……。

 すごい見られてるよ……。

白望「いいよ……ひとりでゆっくりしたいから。玄、お仕事の途中だろうし」

玄「…………」

 だから何故に無言……。

白望「……」

玄「ああ……ええ。はい……うん、うん……」

 何かを抑え込むように、二度三度と頷く玄さん。

 頷くたび、視線が私の胸元に集中していた。

白望「……ごくり」

玄「……わかりました。それではごゆっくり……」

白望「う、うん……」

 そうして、私は玄さんを振り切り、ひとり大浴場に向かった。

 豊音と高鴨さんのことが心配ではあったが、とりあえずは一旦落ち着いておくことにした。


  *


  *


穏乃「ハァーッ! ハァーッ! ハァーッ!」


 山中を駆け回り、中千本のあたりを通過してから、さらに一時間。


穏乃「んっんっんっ……ぷはぁっ!」

 私は木の幹に背を預け、足を止めていた。

 望さんの淹れてくれたお茶を飲み、大急ぎで水分を補給していた。

 急ぐ必要があった。

 のんびりとはできない。

 姉帯さんとはほんの少しだけ距離を開けることに成功していたが、まだ完全には振り切れていなかった。

 松実館を出た頃にはまだ薄暗かった空も、すっかり明るくなっている。

 携帯も時計も持ってこなかったので正確な時間はわからないが、おそらく現在の時刻は八時戦後。

 体感で時間の経過を測っているので大雑把だが、大きく間違ってはいないだろう。

 体内時計には自信があった。

 約束の時間まであと一時間といったところ。

 しかし、簡単に松実館には戻れそうにない。


 事ここに至って、私はようやく気づいていた――


穏乃「……! 来た!」

豊音「ふしゃー」


 ――姉帯さんの様子がおかしいことに。


豊音「まってよー、たかかもさーん。すりすりさせておくれー」

穏乃「……っ!」

 無視して駆け出す。

 話に聞いていた通りだった。

 休みなしで一時間以上走り回って、そろそろ休もうと提案したとき、姉帯さんはこちらの言葉を無視していきなり襲い掛かってきた。

 足を止めた私に急に飛び掛り、「ぺろぺろしたいよー」だとか、「すりすりしないとー」などと意味不明なことを口走り、こちらを執拗に追い始めた。

 なんとか最初の襲撃はやり過ごし、振り切るために予定通り、難所の多いエリアに向かった。

 だが、期待したほど距離を開けることはできなかった。


 苔むして取っ掛かりの少ない岩壁を登り、数十メートルに渡って倒木に塞がれた道を往き、急勾配の斜面を駆け下り、時には人の目では判別しづらい獣道まで選んで、私は走りに走った。

 慣れている私なら、平地を行くのとほぼ同じ速度で抜けられる道。

 しかし、不慣れな姉帯さんなら足を取られるはずの難所。

 それらを障害物競走の要領で走り抜けてはみたのだが、姉帯さんは不気味な笑みを浮かべつつ、難なく私に追従して来た。

 先ほどまでの比較的走りやすい道よりは距離を開けられていたが、それでも振り切ることはできない。

 暴走した姉帯さんは身体能力も普通ではなくなると聞いていたけれど、これは想像以上だ。

 長野では身長百八十センチオーバーの男性二人を昏倒させたと聞いて、さすがに眉唾だと思っていた。

 だが、実際に目にする暴走した姉帯さんには、それを信じさせるだけの迫力があった。


 追い立てられて山を走るのがこれほど恐ろしいなんて、想像したこともなかった。

 動悸が激しい。息が乱れるのが、明らかにいつもより早い。

 恐怖と焦りで消耗が早まっている。

 それでも、足を止めるわけにはいかなかった。

 捕まればぺろぺろすりすりが待っている。

 想像するだけで足から力が抜け、この場にへたり込みそうになる。

 赤土先生から話を聞いた時点では、そんなの何を恐れる必要があるのか、犬に顔を舐められるようなもんじゃんと笑っていたけれど、実際に目にすると恐ろしい。

 瞳を赤く光らせ、長い四肢を尋常ならざる速度で駆動させ、地を蹴り私に追いすがる姉帯さん。

 あれは犬は犬でも猟犬だ。

 決して愛玩用の大型犬なんかじゃない……!

 絶対捕まるわけにはいかない!

豊音「たかかもさーん」

穏乃「うわわ……!」


 恐ろしい……!

 口調だけ元のままなのが余計に恐ろしい……!

 遠野の山には人の形をした神様がいて、行き会うと恐ろしい目に合うというけれど、きっとあれがそうだ……!

 姉帯さん、きっと山女なんだ!

 私を食べちゃうつもりなんだ!

穏乃「ひぃええ……!」

 私、なんて相手に駆けっこを挑んでしまったんだろう……!

 身の程知らずにもほどがある!

 私なんかが敵う相手じゃなかったんだ!

穏乃「うう……!」

 怖いよ、憧……! 玄さん……! 宥さん、灼さん……!

 助けて、赤土先生……!

豊音「まって~」

穏乃「嫌です!!」

 とにかく逃げないと……!

 人のいるところにいかないと……!


 プライドなんてかなぐり捨てて、私はハイキングコースに出ることにした。


  *


  *


憧「おはよう、玄~、宥姉」

灼「おはよう」

玄「あ、憧ちゃん、灼ちゃん。いらっしゃい」

宥「いらっしゃ~い」


 時刻は八時三十分。

 約束の九時が近づき、新子さんと鷺森さんが松実館にやって来た。

 九時頃吉野駅に到着予定のチャンピオンたちは、松実館が車を出して迎えに行くらしい。

 少し早めに集合して、白糸台の三人をみんなで迎えることになっていた。


和「穏乃が来ませんね……」

憧「四時くらいに山行こうとか言ってうちに来たけど、まだ戻ってないの?」

玄「うん……これくらいの時間には戻るって言ってたんだけど……」

宥「穏乃ちゃんが山に入ると長いのはいつものことだけど……」

灼「ちょっと変……お客さんが一緒なんだから、それほど山には長居できないはず……」

憧「しずが遊ぶ約束すっぽかしてまで山に篭るとも思えないしね……」


 阿知賀のみなさんも、さすがに不安を覚え始めたらしい。

 みなさんは高鴨さんが約束を守らなかったことに不審を感じているらしかった。

 二時間以上山に篭りっぱなしである点は、まったく心配していないらしい。


 どれだけ山歩きが得意な子なのだろうか……。
 
 ちなみに、「えんのおづの」というのが誰なのか霞に訊いてみたところ、修験道の開祖で、各地での山岳修行を経て吉野で蔵王権現を感得した、飛鳥時代、奈良時代の呪術者なのだそうだ。

 役行者の尊称で知られ、桜を蔵王権現の神木であるとし、吉野の千本桜の礎を作った人物なのだとか。

 「役小角の生まれ変わり」というのがどうすごいのか、霞に話を聞いてようやく理解した。

 要は高鴨さんは、この辺りでは神懸かったネイチャー女子として有名、ということらしい。


恭子「……なぁ、白望、霞」

白望「うん……」

霞「言いたいことはわかってるわ……」

咲「姉帯さん、やっぱり……?」

白望「だと思う……」

恭子「まずない? 山ん中であの状態の豊音と二人きりって……」

霞「まずいかも……というか、もうまずいことになってるっぽいのよね」

白望「どういうこと……」



霞「ここは由緒のある土地だから、空気が澄んでいて独特の雰囲気があるのだけれど、その空気が少し……ほんの少しだけ濁って感じられるのよね」

春「岩手、大阪、長野のときと同じ……」

巴「おそらく、もう始まってしまっています。すぐに探しにでたほうがいいかと」

白望「うん……わかった」

 
 そして私は、阿知賀のみんなに現状を説明した。


憧「つまり、しずは今、山の中で……!? 野外で!? すりぺろぺろされて……!? 何プレイよ、それ! 何プレイだっていうのよ!!」

和「何言ってるんですか、憧……」

灼「何プレイでもないと思……」

玄「強いていうならワンちゃんプレイかな~? それともにゃんこプレイ? ぺろぺろすりすりする訳だし~」

憧「!!!! わ、ワンちゃんプレイ……!? にゃんこですって……!?」 

玄「強いて言うならね」

宥「玄ちゃん、ちょっと黙ってようか」

灼「憧の不安を煽るようなこと言ってどうするの……」

玄「ごめんなさい……」



憧「ワンワン……にゃんにゃん……」

白望「えっと、続き、いいかな?」

灼「ああ、こっちのことは気にしないで、どんどん進めてください」

白望「ああ、うん……えっと、高鴨さんがヤられちゃってるかどうかはまだわからない……けど、豊音がまたおかしくなっているのは確かみたい」

憧「そんな……ヤラっ、ヤられ……そんな、そんな!」

灼「憧、落ち着いて。穏乃がそう簡単に捕まるとは思えない……」

憧「そうだけど、そうだけど……!」

白望「玄、二人はどこに行くって言ってた?」

玄「下千本の辺り……要は、この辺にいるって。あんまり遠くには行かないって言ってたけど」

宥「この時間まで戻らないとなると、奥のほうまで行っちゃってるのかも……」


灼「探しに行ったほうが……?」

白望「うん。そうしたほうがいいと思う。豊音、長野では染谷さんにすりぺろしたあと、咲たちにターゲットを変えて移動していた……もし既に高鴨さんがヤられてしまっている場合、次の標的である阿知賀のみんなのところに向かうはず……つまり、ここに戻ってくるはずなんだ。豊音がおかしくなっていて、まだ戻らないということは、高鴨さんは豊音に追われている最中か、もしくは――」

憧「今まさにぺろすりされてる真っ最中ってこと?」

白望「……かもしれない」

憧「い、行きましょう! すぐに、探しに!」

 立ち上がりかける新子さん。

 その肩を鷺森さんが掴んだ。

灼「待って、いいから落ち着いて。穏乃の山の中での移動経路に一番詳しいのは憧なんだから、一人で飛び出しちゃだめ」 

憧「でも……」

灼「憧ひとりじゃ山の中を移動する穏乃を探すのは無理でしょ? みんなに穏乃が居る可能性の高い場所を教えて。それから手分けして探すの」

憧「うん、わかった……」

 しゅんとして、座り込む新子さん。



憧「えっと……しず、下千本の辺りに行くって言ってたのよね?」

玄「うん」

憧「それなら、しずのことだから途中でテンション上がっちゃって、中千本、上千本、奥千本のほうまで行っちゃうと思う。今朝は和やみんなが来てるせいか、テンションMAXだったし」

白望「昨日観光マップを見たけど、本当に? 結構な距離があるけど」

憧「しずにとってはなんでもない距離よ。その日の調子次第じゃ、吉野駅から奥千本まで何往復かしちゃうんだから」

和「相変わらず……どころかパワーアップしてますね……」

白望「それも、観光客用のルートを使わずに……? 山の中を……?」

憧「そう」

恭子「ほんまかいな……人間離れしとんな……」

憧「ええ、ある意味人間じゃないわ」

恭子「?」

憧「あれは桜の妖精か何かよ」

恭子「……はい?」

白望「えっと……」

 この子、真顔で何言ってるの……。


灼「気にしないで続けてください」

白望「あ、ああ……うん」

恭子「まぁ、あれや……豊音はそんなものすごい子について行けんの?」

咲「長野での様子を見る限り、少なくとも足の速さは普通じゃありませんでした……」

霞「リミッターが外れちゃうのよね。身体的な潜在能力が開放されちゃうのよ。おそらく持久力に関しても、疲労を自覚できないでしょうから、ついて行けてしまうと思うわ」

白望「やっぱり、高鴨さんは追われている可能性が高いね……。でも、それなら高鴨さん、人気のあるところに出ようとするんじゃないかな? 人気のない山中で、もし捕まったらと考えるはず……」

憧「……しずがここを出たのが六時前……それで、霞さんが異常に気づいたのが八時少し前……姉帯さんがおかしくなったのが八時前だと仮定して、それ以前は山の中を移動していたとする……そこから人気のある場所へ、となると……」

 目を閉じ、ぶつぶつと呟きながら、考えをまとめていく新子さん。

憧「たぶん……」

 やがて、新子さんはテーブルに置いてあった観光マップを手に取り、ある地点を指でぐるりとなぞった。


憧「中千本から上千本周辺……この辺が一番可能性が高い。ただ、山の中を移動するしずを捕まえるのは至難の業よ、どこか山林の切れ目の山道で網を張るのが一番確実だと思う」

白望「……よし、わかった。それじゃあ、行こうか。一応、下千本と奥千本のほうにも人をやろう。新子さんの言った地点には霞と私が行く」

霞「了解よ」

憧「私も行く!」

白望「わかった。それじゃあ、残る二地点には、春と巴が分かれて向かって……残りの面子は二人について適当にばらけて……」

春・巴「はい」

 いい返事をする春と巴。

 ここ数日で、永水のみんなとの連携にもすっかり馴染んだ。


 その後、チャンピオンたちの出迎えには旅館の車を出し、上千本、奥千本方面に向かう面子は松実家の私用車で送ってもらうことになった。

 高鴨さんの無事を祈りつつ、私たちは行動を開始した。


  *


  *


菫「……なぁ、淡」

淡「…………何?」


菫「その子は誰だ……?」

桜子「?」

淡「知らない小学生……」


菫「……なんでお前は知らない小学生と手をつないでいるんだ?」

淡「……知らない」

桜子「??」

菫「さっきまでお前、照と手をつないでいたはずだろう……?」


淡「うん……えっと、私にも何が起こったのかよくわかんない」

菫「……」

淡「そんな目で見ないでよ……本当に何が起きてこうなったのか、ぜんぜん見当もつかないんだから……」



菫「いや……あのな、淡。お前が手をつないでいるからって、油断していた私も悪いといえば悪い。その点は謝る。だから話してくれないか? どうして照が消えて、代わりにお前はその小学生と手をつないでいるんだ……?」

淡「いや、そんなふうに謝られても、説明のしようがないんだよ……ほんと」

桜子「???」

菫「……起こったことをありのまま話してくれればそれでいい。照が消えたことを、お前の過失として責めるつもりなんてないんだ」

淡「……それじゃ、起こったことをありのまま話すよ? テルーの手をつないで、吉野駅に降り立ちました。改札を抜けて外に出て数分経ったらテルが見知らぬ小学生に変身していましたー」

菫「……それで全部か?」

淡「全部だよ、いつテルーがこの子とすり変わったのかーとか、テルーがどこに行ったのかーとか……全部わかんない。もう私としては、テルが変わり身の術を使ってどっかに行っちゃったとしか……」

菫「うん、うん……わかった。さすがにこんな消え方は初めてだが、大丈夫、照が迷子になって、見つからなかったことなんてないんだ。とりあえず落ち着こう。といっても、もう慌てる元気も残っていないが」


淡「……だね。ねぇ、君」

桜子「なに? おおほしさん?」

淡「あれ? 私のこと知ってるの?」

桜子「そっちの人はひろせさん、シャープシューター」

菫「もしかして、阿知賀女子の関係者か……?」

桜子「うん。二人ともテレビで見たー。ゆう姉としずちゃんにやられてた人たち」

菫「準決勝のことを言ってるのか……痛いところを……」

淡「まぁいいじゃん。こっちのこと知ってるなら話が早いよ。君、名前は?」

桜子「さくらこ」

淡「さくらこ、なんでさくらこは、私と手をつないでいるの? さっきまで私と手をつないでいた人はどこに行ったの?」

桜子「さー? 私にもなにがなにやら……気づいたらおおほしさんと手ぇつないでた。…………てか、あれ、なんで私、おおほしさんと手ぇつないでるんだろう……ねぇ、なんで?」

淡「ええ……なにそれ怖い……」

菫「えっと、私たちのことを知っているなら宮永照のことも知っているだろう? 君のところの玄さんをいじめた奴だ。どこに行ったか知らないか?」

桜子「さー? 見てないけど」


淡「そんな……まさかテルー、ほんとに消えちゃったの?」

菫「消えた……消えたか……ふふふ……くくっ、あはははは!」

淡「!? スミレーどうしたのよもう……急に笑い出して……」

菫「はは……もうこうなったら、松実館に集まってる面子を頼ろう……ふふ、こんなの、私たちだけで探せるはずもない。ほら、咲ちゃんなら案外、あのアンテナだかツノだかでピピピと探し当ててくれるかもしれないぞ?」

淡「スミレー……疲労でおかしくなっちゃったんだねー……でもまぁそれしかないか……」

菫「ああ、もうそれしかない。ここで大人しく松実館の迎えを待つぞ」

淡「そうだねー……もう疲れたもん……」

菫「一応、電話だけはしておくか、照に」

淡「そうだね。あまりの奇妙な出来事に動転して忘れてたよ、携帯携帯……テルーの番号はっと……」


 prrr


淡「…………スミレ、携帯鳴ってるよ?」

菫「…………ああ。でも、私の携帯はマナーモードにして胸ポケットの中だ」

淡「じゃあ、スミレの鞄の中から聞こえてくる音は……?」

菫「ちょっと待て……ああ、うん。やっぱり照の携帯だな」

淡「なんでスミレの鞄の中にあるの!」

菫「知るか! いつの間にか入ってたんだ!」

淡「あー……もう! 知らない! テルーなんて勝手にどっか行っちゃえばいいんだよ!」

菫「もうやだあのチャンピオン……」


桜子「なんか知らんけど大変そう。ゆう姉としずちゃーにやられたひとたち」


  *


  *


穏乃「やばい……!」


 やばいやばい……!


豊音「ふふ……」

穏乃「!」


 やばい!


豊音「もうちょっとだよー」

穏乃「……ッ!」


 追いつかれる!

 距離が縮まってる!

 もう差が二メートルもない!


穏乃「うう……っ!」

 夢中で走っているうちに、気づけば中千本と上千本の境目辺りに来ていた。

 ハイキングコースまであと少し。

 しかし、そのあと少しが恐ろしく遠い。

 ハイキングコースに近づき、桜の木が林立する比較的整備されたエリアに出ていた。

 先ほどまでの難所で差をつける作戦が使えないエリア。

 障害物競走なら少しは差を開けられる。

 しかし、やはり単純な脚力の競い合いではまったく敵わない。

 姉帯さんは私のすぐ後ろを走っていた。


 速度では敵わなくとも、持久力では自分のほうが上かもしれない。

 そんな希望に縋って人気のある道へ進路を取ったのだが、完全に見込みが外れた。

 姉帯さんは疲れて速度を落とすどころか、加速している。

 私のほうは恐怖と焦燥で崩れたコンディションを立て直せていない。

 互いの距離はもう二メートルもない。

 少しずつ、少しずつ差が縮まっている。

 あと数十センチ。

 あと数十センチ差が縮まれば、姉帯さんのリーチなら私の襟首に手が届く……!

穏乃「やばい……ッ!」

 本当にやばい……!

 このままでは捕まってしまう!

 ぺろぺろすりすりされちゃうよ、憧ぉ!!

豊音「よっと」

穏乃「うわぁ!」

 姉帯さんの手が伸びる。

 指先がポニーの尻尾に触れる。

 前のめりになり、間一髪でそれを回避。


豊音「あーん」

穏乃「~~~~ッッ!」

 あ、危ねぇッ!

 どっと汗が吹き出る。

 上体の角度を元に戻す。

 最速で走れるフォームを維持する。

 本能的な機転だった。

 しかし、その機転が仇になった。

穏乃「っぷ!? 痛っ!」

 上体を戻した瞬間、背の低い桜の若木の細い枝が、顔面に当たってしまった。

 後ろに気を取られ、前方への注意がおろそかになっていた。

 顔面に鞭で打たれたような衝撃が走る。

 痛みに怯み、その一瞬、私の足は止まってしまった。

 一瞬。

 その一瞬が致命的だった。

 ジャージの襟首に衝撃。

豊音「つかまえたー」

穏乃「あ――」

豊音「やっとだよー」

穏乃「ああ……!」


 痛恨。

 痛恨のミス。

 ジャージの襟首を掴み、姉帯さんは私をひょいと持ち上げた。

 足が地面から離れ、体が姉帯さんの手にぶら下がる。

豊音「たかかもさんはやいんだもん。てまどっちゃったよー」

穏乃「ひ……!」

 姉帯さんの周囲に黒い霧のようなものが滞留している。

 瞳は赤く光っていた。

 禍々しいオーラを放ちながらも、その表情はあくまで無邪気で、それがより一層こちらの恐怖を煽る。

 体が振るえ始める。

 もう駄目だ。

 あれだけ走ったのに寒気を感じる。

 体が動かない。

 とてもではないが、もう抵抗できる状態ではない。

豊音「れろん」

穏乃「うひゃう!」

 姉帯さんが私の頬を下から舐め上げた。


豊音「あせのあじー」

穏乃「うわわわわわわわ……!」

 もう駄目だ……!

 食べられる……!

 姉帯さんに美味しく頂かれちゃう!

 憧ぉ……憧憧憧憧憧憧憧憧憧憧憧憧憧憧憧憧憧憧憧!

 憧ぉ!!

 玄さん宥さん灼さん赤度先生望さん!!

 和ぁ!!

 誰か助けて!!!

豊音「れろれろれろれろれろれろ」

穏乃「ぎゃああああ! やめてー! 姉帯さんやめてー!!」

 嫌だ!

 やっぱりこんなの嫌だ!

穏乃「離して! 離せこのぉ!」

豊音「うわわ、あばれないでーすぐすむからー」

 手足を振り回す。

 暴れてみると、ほんの少しだけ体に熱が戻る。

 姉帯さんは襟首を掴んだ腕を前に伸ばし、暴れる私の手足が体に当たらないように遠ざけた。

穏乃「!」

 その瞬間、私の脳裏に天啓走る。

 姉帯さんが自分から私を遠ざけたこの瞬間は好機だった。

 まだ行ける。

 憧のおかげでまだ行ける!!


 私は叫んだ。


穏乃「キャストオフ!!」


豊音「!?」



 私はジャージのジッパーに手を掛け、一気に引き下ろした。


 そのままジャージを脱ぎ捨て、姉帯さんの拘束から逃れる。


 姉帯さんの手には私のジャージだけが残った。


豊音「ばかなー!」


穏乃「サンキュー憧!」


 ジャージを脱ぎ捨てても、憧にプレゼントしてもらったスポブラとショーツを身に着けている私は、全裸にはならなかった。

 裸ジャージは体に悪い。体に悪い以前に恥じらいがないとお説教をくらって、半ば無理矢理身に着けさせられていたスポーツタイプの下着だった。

 憧曰く、私たちは神からこの衣装を賜ったのだそうだ。

 長年のグレーゾーンがついにはっきりしたとか何とか、憧はよくわからないことを言っていたけれど、何にせよ、おかげでキャストオフという最終手段に打って出ることが出来た。

 

 
豊音「くそー、またつかまえないとー」


穏乃「……そう簡単にはいきませんよ、姉帯さん」


豊音「えー? でもー、わたしのほうがちょっとだけはやいしー、すぐつかまえるよー」


穏乃「そうですね、姉帯さんのほうが、ほんの少しだけ速い。それは確かです……でも、もう捕まりません」


豊音「なんだとー」


穏乃「見えたんです。私の活路が……!」


豊音「かつろー? まー、なんでもいいよー、ささっとつかまえてぺろすりだよー、たかかもさんにわたしのにおいをつけないとー」


穏乃「ごめんなさい、姉帯さん……私、マーキングはされるよりしたいタイプなんです!」


豊音「そうはいかないよー!」


 飛び掛って来る姉帯さん。

 私も大地を蹴る。



 姉帯さんに背は向けない。

 真横に跳んで姉帯さんの襲撃をぎりぎりでかわす。

 捕まりかけ、そして実際に捕まって、私は気づいていた。

 私がこの人から逃げ切るための活路を見出していた。

 姉帯さんの身長は、恐らく二メートル前後。

 対する私の身長は百三十九センチ。

 身長差は六十センチ前後ある。

 リーチ差もおそらく同じくらいか、それ以上。

 姉帯さんは高身長に加えて頭が小さく、胴が短くて手足が長い長身長躯。

 私は恐怖から、姉帯さんから遠ざかることばかり考えてここまで来たが、歩幅のことを考慮すればそれは愚かな選択だった。

 最初からわかっていたことではあった。

 脚力がほぼ同等なら、直線的に距離を開けようとしても上手くいかないことには気づいていた。

 だからこその障害物競走。

 しかしそれでも振り切ることは出来なかった。

 それでもう打つ手はなくなったと絶望していた。

 しかし違った。

 活路はあった。

 死中に活が見えていた。


豊音「はっ!」

 横に逃れた私に向けて、右手を薙ぎ払う姉帯さん。

 一瞬殴られるのかと錯覚するほどのハンドスピードと切れ味。

 しかしこれは私を捕獲するための動き。

 恐れる必要はない。

 私は姉帯さんの右手を皮一枚で回避した。

穏乃「……ッッ!」

 速い。恐ろしく速い。

 以前、背の高い木に登って吉野の山林を眺めてぼうっとしていたとき、目の前を隼が飛び去ったことがあったが、あれより速い。

 人間がこれほど速く動けるのかと戦慄する。

 しかし、避けられないことはない。

 反応できないこともない。

 姉帯さんは腕が長い。足が長い。

 関節がほんの僅かでも稼動すると、その長い手足に、常人よりも大きな予備動作が表れる。

 姉帯さんは持って生まれたその体格ゆえ、運動する際いちいち大きなモーションを示さざるを得ない。

 長い手足は動きがでかい。次に何をするのか予測を立て易い。

 小柄で小回りの利く私なら、それを避けることは可能だ。

 私が見出した活路。

 それは姉帯さんの懐だった。

 
豊音「ふっ!」

穏乃「!」

 右手をかわされた姉帯さんが左手をフォロー。

 それも回避。避けざま姉帯さんの懐に飛び込む。

豊音「!?」

穏乃「あっはは!」

 姉帯さんのお腹にタッチして、股の下を潜り抜ける。

 驚愕に目を剥く姉帯さん。

 思わず笑いが漏れた。 

豊音「このっ!」

穏乃「こっちですよ!」 

 即座に振り返り、ほとんどバックハンドブローのように右腕を振り回す姉帯さん。

 それをしゃがみ込んで回避。そのまま地を蹴り、横に逃れる。

 しかし距離は開けない。あくまで小回りを活かせる間合いをキープ。

豊音「まてー!」

 姉帯さんの左腕が伸てくる。

 拳は握られていない。

 やはりこれは、こちらを捕獲するための動作。



穏乃「……」

 右腕の動きを落ちついて見極める。

 すると見えてくる。

 左だけでなく、姉帯さんはボクシングのワンツーの要領で、右も動かし始めていた。

 軸足の加重も浅い。おそらく、ワンツーのあとに足払いでも掛けるつもりなのだろう。

 全体的に、連撃のために体から力を抜いている。

 見える。

 動きが読める……!

豊音「たあっ!」

穏乃「ふふ……」

 ワンツーを回避。

豊音「とおっ!」

穏乃「あははっ!」

 足払いも回避。

 初めての回避動作のはずなのに既視感すら覚える。

 まるで予定調和の殺陣のよう。

 顔がにやける、笑いが漏れる。

 熱が戻ってハイになる。

 山の景色がチカチカ輝いている!


穏乃「見える……!」


 見えるよ……!


穏乃「ピカピカ見える!」



豊音「まって!」

穏乃「そうはいかん!」

 姉帯さん、ダッシュ。

 再び伸びる右手。難なく避ける。

 左右のフック。余裕で見える。

穏乃「あっははは!」

豊音「……っ!」

 朝の予感は本物だった!

 今日の私はやっぱりすごい!

 視界が明るい! 体が軽い!

穏乃「ピンピン動く……!」
 
 もっともっと! 速く速く!

 インパルス走る……永久記憶不滅!

穏乃「飛ばすよ姉帯さん!」

 ついてこれるもんならついて来い!

豊音「~~~~っ! まってー!!」

 こちらを抱きしめるように、両腕を開いて飛び掛ってくる姉帯さん。

 後ろに跳んで避ける。鼻先を姉帯さんの指が掠める。

豊音「うう~!」

穏乃「ほらほらこっちです!」



 姉帯さんが追いすがる。

 焦れているようで、姉帯さんはこちらの動きに対応し始めていた。

 脇を締め腕の動きを最小に、上体を屈めず、膝を折ることで重心を落として無駄なく私を追い始めた。

 おそらく本能的なものなのだろう。

 しかしそれでも、まだ私のほうが速い。

 駆けっこでは敵わなくとも、この近い間合いでの掴み合いでは私のほうが速い!

豊音「まってってばー!」

穏乃「待ちません!」

 黒い霧を纏った姉帯さんの手足が空を切り裂く。 

 手を尽くして私を捕まえようとする姉帯さんの動きを、私は全てすんでのところでかわして見せた。

 スピードは上がってきている。

 しかし、それはこちらも同じこと。

 姉帯さんの窮屈そうな動きに比して、小回りの利く私はどこまでも伸びやかに動ける。

 風になれそうな気分だった。

 知らない景色が見えそうだった。

 鳥になって飛んで行けそうなほどハイだ。

 今なら月にタッチして来るくらい訳ないぜ!



豊音「~~ッ! このぉッ!!」

 我慢我慢で小さな動きに徹していた姉帯さんがついに切れた。

 思い切り地を蹴り、一息にこちらに飛び掛ってくる。

 おおきく腕を振りかぶって。

 間合いは約一メートル。すさまじい突進速度。

 ほとんど至近といっていい距離からの猛襲。

 しかし怖くない。

 何も恐れることはない。

 私は突進して来る姉帯さんの脇を、なんでもないようにすり抜けた。

穏乃「……ひひっ!」

豊音「――――!」

 笑いが漏れた。

 必殺、否、必獲のつもりだったのだろう。

 姉帯さんが驚愕に目を見開く。

 見えている。

 私には見えているんだよ、姉帯さん。

 どんなに速く動いても、今の私は捕らえられない……!

穏乃「それで終わりですか?」

豊音「……くっ!」


 姉帯さんが腕を振り回す。

 両手両の足を遮二無二振り回してくる。

 速度はさらに上がっていた。

 暴風が吹き荒れるような姉帯さんの連撃。

 攻撃と攻撃の継ぎ目がほとんどない。

 まるで暗夜の嵐。

 それでも、あくまで間合いは外さない。

 私は姉帯さんの手が届く距離にあえて身を置いた。

 思わず驕ってしまう。

 遙か高みから姉帯さんを見下ろしている気分だった。

 この近距離でも、姉帯さんの攻撃全てに反応できる自信があった。

穏乃「うひひっ!」

 昂ぶるばかりで恐れがない……!

 もう何も怖くない!

豊音「うう~~~~ッ!」

穏乃「あははっ!」

 反応、反射、音速、光速!

 見てくれアコチャー!

穏乃「私こんなに、ピンピン動く!」

豊音「~~~~ッッ!!」


 姉帯さんの数十発に及ぶ連撃を全てかわし切る。

 姉帯さんの動きが止まる。

 その隙に、私は思いきって姉帯さんに背を向けた。

 無防備に走り出す。

豊音「!」

穏乃「こっちこっち!」

 姉帯さんが食いつく。

 私は、ある桜の老木のところまで走った。

 年老いて立ち枯れ寸前の老木、しかしその幹は大人が二人で手を繋いで取り囲めるほど太い。

 この辺では私の一番のお気に入りの木だ。

 私は後ろから姉帯さんがついて来ているのを確認して、その幹の周囲にぐるりと回りこんだ。

 素直について来る姉帯さん。

 しかし短い円周を周回する速度は、小回りの利く私のほうが圧倒的に上だ。

 幹の周りをぐるっと回って、すぐに姉帯さんの背中に追いついた。

豊音「!!」

 周回遅れにされたことに気づき、姉帯さんは身を固めた。

 私はその肩に飛びつき、跳び箱の要領で姉帯さんの頭上を飛び越える。


豊音「!!?」

穏乃「あははは!」

 着地。

 振り返らずにダッシュ。

 数メートル走って止まり、姉帯さんを振り返る。


豊音「はえー……」


 姉帯さんは追って来なかった。

 呆けているようだ。

 さすがに今のは驚いたらしい。

 口をぽかんと開け、じっとこちらを見詰めている。

穏乃「どうしました? 姉帯さん」

豊音「いやー、びっくり。てんぐさまかとおもったよー」 

穏乃「ふふ。見ての通り、私そう簡単には捕まりませんので、遠慮はいらないですよ」

豊音「……!」

穏乃「そう簡単にマーキングなんてさせません……! 私にも恥じらいくらいあるんです!」

豊音「……! するもんねー、たかかもさんにわたしのにおいをつけるよー」

 呆けていた姉帯さんの顔がぱっと輝く。

 同時に、その可愛らしい表情とは裏腹な猛烈な動きで私を追い始める。

 常人なら対応できないその動きに、しかし私は反応できる。

 追撃をかわしながら、姉帯さんを誘導するように、少しずつ山林を抜けるルートへと向かう。
 
穏乃「ほらほらこっち、こっちですよ! 姉帯さん!」

豊音「あはは~、まてー」


 あと少し……!

 逃げ切ったなら私の勝ちだ!
 
 その場合、下着姿で思いっきり観光客の前に出ることになるけども!


  *



  *


 その日――


やえ「さすが吉野……桜が開花していなくともこの見事な眺望……王者たる私の朝の散歩に相応しい景色だ……!」


 私、小走やえは吉野に来ていた。


 昨夜、阿知賀の鷺森に、「全国の麻雀部員が学校をサボって遊びに来るんですけど、やえさんもどうですか」と誘われてやって来たのだった。

 なんでも岩手は宮守女子の姉帯豊音が、よくわからんが何かおかしなことになって、療養のためにちょっと吉野の空気を吸いに来るのだとか。

 病気なのかと訊いてみたが、どうやらそういうわけでもないらしい。

 鷺森の説明を私なりに噛み砕くと、要は姉帯の気晴らしに付き合って欲しいということのようだ。

 王者たる私は、その誘いを一も二もなく了承した。

 困っている人がいて、私で力になれることがあるなら、なんでもしてあげるつもりだった――

やえ「――いや、今のは違うな……」

 ……こうだ。

 ――弱者が救いを求めているのなら、私は迷わずこの手を差し伸べよう。

 それが王者の務めというもの――

やえ「うん。これだな」


 それに、知らない学校の子と遊ぶのも楽しみ――

やえ「違う違う……」

 ――全国の兵どもと戯れるのも、また一興。

やえ「これだな」

 うん。

 よし、今日も私、奈良の王者!

 いい感じ! これなら全国のみんなとも楽しく遊べそう!

やえ「じゃない、こうだ」

 ――ふふ、楽しみだな。全国の猛者どもが、いったいどんなふうにこの私を楽しませてくれるのか……。

やえ「よし!」

 今日の私、絶好調!

 これなら全国のみんなと会っても気後れせずに済みそう!

 昨日は緊張のあまり眠れなくて三時間も早く来ちゃったけど!

 楽しみ半分緊張半分でどきどきしていっぱい散歩しちゃった!


やえ「あ、いっけない! もう約束の時間じゃない!」
 
 もう九時じゃない!

 たしか鷺森さんが、この時間には白糸台のチャンピオンたちが――


照「……」

やえ「……」


 ――来る……って……。


やえ「チャンピオン!」

照「? はい、チャンピオンこと宮永照ですが」

やえ「なんでこんなところに!」

照「おや、あなたは確か……奈良の何気にすごく強い人」

やえ「晩成高校の小走です……! もうこちらに着いてたんですね」

照「うん……でも、ちょっと迷って、一緒に来た二人とはぐれちゃって」

やえ「そうなんですか……はっ!」

 いけない、私、なんで同級生のチャンピオンにこんな言葉遣いを……!?



 違う、こうじゃないでしょ!

 びびってるの!? やえ!

 日本王者がなんぼのもんじゃい! 奈良王者の意地見せたるわい!

照「?」

やえ「そ、そうなのか……」

照「……? そうなのです」

やえ「しかし……迷ったって言ったって、何故こんなところまで……? ここ中千本だぞ?」

照「……口調が……?」

やえ「……おほん」

照「?」

やえ「とにかく、私も松実館に行くから、一緒に行くぞ。もう約束の時間ちょっと過ぎちゃってるし」

照「ああ、小走さんも今日の集まりに呼ばれて……?」

やえ「そういうことだ。ほら行こう」

照「助かる。ありがとう……」

やえ「気にするな、これくらい何でもない」

照「男前……」

やえ「ふふん」


 話を聞くと、チャンピオンはどうやら何か観光バス的なものに間違えて乗ってしまい、この辺りまで来てしまったらしい。

 私たちはそのまま、二人で松実館に向かうことになった。 

 チャンピオンは旅行バッグの他に、お菓子を満載した袋を持っていた。

 
 
  *



 
  *


 高鴨さんと豊音を探しに出た私たちは、中千本と上千本の間辺りの山道を歩いていた。


白望「この辺……?」

憧「うん。しずの山中での行動パターンは、動物みたいに限定されてる。人間としては自由に動き回るほうだけど、その動線には限りがある。本当に危ないところには近づかないしね。二人が山に入ってからの時間の経過と状況を考えれば、この辺りが一番可能性が高いわ」

白望「そう……詳しいんだね」

憧「第一人者だからね」

白望「……」

 何の第一人者なのかは訊かないでおこう……。

霞「憧ちゃんの予想は当たっているかも……」

 霞が周囲を見回しながら呟く。

白望「何か感じるの……?」

霞「ええ。でも、さっきまでとは、少し気配が違っているのよね……」

白望「……? どう違うの?」

霞「なんていうか、、禍々しさが減じている……? たしかに豊音ちゃんの気配なんだけど、何か、この吉野の空気に豊音ちゃんの黒い気配が溶けていくような……」

白望「どういうこと……?」

霞「わからない……ただ、悪い兆候ではないわ。岩手からこっち、これまでこういうことはなかったもの……豊音ちゃんが暴走したときは全部私が止めてきたけれど……」

白望「豊音が自分で元に戻ろうとしている……?」



憧「あわわ、まさか、しずをぺろすりし終わってすっきり賢者タイムとか……!?」

霞「いや、それはどうかしら……何にせよ、迎えには行かないとね」

憧「急ぎましょう! このままじゃしずの貞操が……!」

白望「……了解」

霞「ふふ」

白望「? なに笑ってるの?」

霞「いいえ、こんな山の中での捜索なのに、白望ちゃんだるいって言わないんだなって」

白望「ああ……まぁ、そんな場合じゃないしね」

霞「豊音ちゃんのためなら頑張っちゃうのねぇ」

白望「……そういうわけでもないよ」

霞「?」

白望「豊音が変だと、私もダルいんだ……山歩きより、豊音がおかしくなっちゃってることのほうがダルい……だから、これは私が自分のためにやっていることだよ。豊音のためじゃない……」

霞「ふふ、そういうことにしておきましょうか」

憧「愛ね!」

白望「……」

 笑われてしまった。

 私たちは新子さんの指示に従い、吉野の山道を急いだ。


  *


  *


穏乃「~~~~ッ!」

豊音「あ~、おしい~」


 姉帯さんの刺突のような捕獲動作を、仰け反ってかわす。

 皮一枚。おでこに掠った。久しぶりに触られた。

 相変わらず、この追いかけっこで優勢なのは私のほうだ。

 当たる気はしない。

 全部かわし切る自信は未だ萎えない。

 しかし、それは感覚的なものだ。

 肉体のほうは限界が近い。

 姉帯さんの攻撃を仰け反ってかわせば、そのまま仰向けに倒れこみそうになる。

 重心を落とせば、そのまま地面に膝をつきそうになる。

 姉帯さんの動きは見える。しかし、回避動作には無理が出始めていた。

 ハイキングコースからは僅かにはずれ、ここから一番近い山林の出口まではあと百メートルほど。

 夢中で移動していたために現在地がはっきりとしないが、おそらく中千本と上千本の中間あたりの山道に出る。

 走ればあっという間の距離だが、姉帯さんの攻撃をかわしつつ、誘導しながらの移動だと果てしなく遠く感じる。
 

 
豊音「たあ!」

穏乃「ッ!」

 姉帯さんが跳ぶ。

 私も横に跳んで回避。

 着地。

穏乃「!」

 着地の衝撃に耐え切れず、膝がガクンと落ちた。

豊音「はんたーちゃんす!」

穏乃「ッこの!」

 好機と見て追撃してくる姉帯さん。

 私は体に喝を入れ、力を込めて地面を蹴った。

 これ以上足に負担は掛けられない。

 ごろごろと地面を転がって距離を稼ぐ。

 姉帯さんとの間合いを十分に取ったところで、地面に腕をついて体を立て直した。

穏乃「ふぅっ!」

豊音「ああ~……もうちょっとだったのにー」

穏乃「すみません、そう簡単に捕まるわけにはいかないんです」

豊音「んん……なんでー? ちょっとすりすりぺろぺろするだけなのにー」

穏乃「それはちょっと、やっぱり抵抗あるかなって……」

豊音「……たかかもさん、わたしとおともだちになるのがいやなのかなー? だからすりすりさせてくれないのー?」

穏乃「まさか、嫌なわけないじゃないですか」

豊音「じゃあ、なんで?」



穏乃「いえ、なんていうか、えっと……全力で追いかけて、全力で逃げるのも友達同士のやることだよなって、そう思いまして」

豊音「……? にげちゃうのに、ともだちなのー?」

穏乃「ええ、追いかけっこも友達同士でやることでしょう? だから私を捕まえてぺろすりしなくても、もう友達ですよ」

豊音「そうかなー……私はすりすりして自分のにおいをつけたほうが安しんだけどなー……」

穏乃「だそうですね。そう聞いてます」

 姉帯さんがこうなった原因は、卒業が近づいて、友達とお別れするのが寂しくなったからだと聞いている。

 正確には、別れたその後のことに不安を抱いたために、姉帯さんは匂い付けにやっきになる難儀な暴走をしてしまったのだとか。

 私にも覚えがある。

 赤土先生が実業団チームに入って子供麻雀クラブの先生を辞めたとき、憧と中学が別になったとき、和が転校して長野に行ってしまったとき。

 三人と一旦お別れしたあのとき、私も言い知れぬ不安を覚えた。

 道が別れたきり、もう二度と会えないのではないかと、もやもやしたものだ。


 しかしそんな不安は杞憂だった。

 玄さんは待っていてくれたし、憧と赤土先生は戻ってきてくれた。

 遠くに行ってしまった和は、戻ってきてくれた人たちと新しい友達と一緒に、こちらから全力で追いかけた。

 そう、追いかけたのだ。

 そして追いついた。

 再び道は交わった。

 やはり追いかけっこは、友達同士のやることだ。

 友情の証である。

 わざわざマーキングなんてしなくてもいいのだ。

 だけど、この人にはそれがわからない。

豊音「やっとてれびでみてたみんなとおともだちになれたのにー、そつぎょうしたらぜんぶぱーだよー……はなればなれだよー……だからにおいをつけるんだよー……はなれてもあんしんなようにー……」

穏乃「……」

 姉帯さんはきっと、自覚がないのだろう。

 その「テレビで見ていた人たち」、遠くにいる人たちに、追いかけて追いついた自覚がないのだ。

 きっと自分から能動的に追いかけたというより、連れて行ってもらった、という感覚なのだろう。


 小瀬川さんや熊倉さんは、きっと優しい人なんだろうね。

 他の宮守の三人だって、きっと。

 姉帯さんは宮守のみなさんに、あのインハイ会場へ連れて行ってもらったという意識が強いのではないだろうか。

 だから姉帯さんは、自分の足で追いかけたという自覚を持てていないのだろう。

穏乃「なら、教えてあげますよ……」

豊音「??」

 追いかけっことは、追われる側が追う側の存在を認識して始めて成立する。

 私たちも、和に自分が追われていると認識させるまで、全力で追いかけた。

 そして追いついた。

 和はそれを喜んでくれた。

 また楽しく遊ぶことができたのだ。

 和の新しい友達と一緒に。  

 だから姉帯さんにも教えてあげよう。

 全力で追いかけさえすれば、離れても何も怖いことなどないのだと。



穏乃「教えてあげます、姉帯さん……全力で追いかけて、それでも捕まえられない相手がいるということを……そして捕まえられなくても、全力で追いかけさえすれば、あなたは一人にはならないんだってことを……!」

豊音「…………どういうことー……?」

穏乃「すぐにわかります。わからせてあげます」

 仲良くなって、連絡先を交換する……なるほど、それも確かに、姉帯さんの不安を解消する上では有効な手だ。

 しかし私はそれよりも、今の姉帯さんを治すために有効な手を思いついた。

 もしかすると、この姉帯さんの暴走を根本的に解決し得る方法を。

 今、言ったとおりだ。

 全力で追いかけて、それでも追いつけなくて、しかし全力で追いかけさえすれば、追われる側は追う側の存在を認識する。

 この追いかけっこを逃げ切ることで、追いかけさえずれば道は別れずに済むと、姉帯さんに教えてあげるのだ。

 私は姉帯さんに捕まらない。

 マーキングは出来ない。

 それでも私が姉帯さんの友達であると示して見せれば、姉帯さんは追いかけることの大切さと楽しさに気づいてくれるかもしれない。


 不安を解消してあげることが、できるのではないだろうか。

 これは私にしかできないことだ。

 宮守にも、姫松にも、清澄にも、暴走した姉帯さんから逃げ切れる人なんていなかったはずだ。

穏乃「よし……!」

 つまり、やることは変らない。

 残り少ない体力で、姉帯さんから逃げ切るのみ。

 近くで憧の声が聞こえる。

 憧の匂いがする。

 おそらく心配してきてくれたのだろう。

 多分、小瀬川さんも来ている。

 私にも姉帯さんにも、こういうときに向こうから来てくれる友達がいる。

 ゴールまで、およそ九十メートル。

 山林の終わりで、姉帯さんは知るだろう。

 本物の追いかけっこというものが、どういうものかってことを……!


穏乃「行きますよ、姉帯さん。二人して思い出の追いかけっこにしましょう!」

豊音「…………! ちょうしにのらないでー、ぜったいつかまえるんだからー!」



 疲労で痙攣する足に鞭を打つ。

 私はバックステップを踏んだ。

 同時に、姉帯さんも追いすがる。

 間合いが詰まる。私は後ろ足でブレーキを踏み、急停止を掛けた。

 不意の停止に姉帯さんは反応できず、私の傍を通過する。

 すぐに姉帯さんもブレーキ、私のほうへ引き返す。

 その突進を潜り抜け、傾斜のきつい斜面を転げまわって距離を取る。

 今の一合で十メートルほど移動した。


 残りは八十メートル。


 走って逃げ出したい衝動を抑えて、一旦立ち上がる。

 すぐに地を蹴り、再び地面を転げまわる。

 斜面を転げ落ちる。

 姉帯さんも追従。

 斜面を転がる私を上から押さえつけけようと飛び掛って来る。

 しかし跳躍が高すぎる。この高度なら、こちらは姉帯さんの落着までに体勢を立て直せる。

 私は比較的疲労の少ない腕をブレーキに、体の回転を止める。斜面の上でしゃがみ込む姿勢になる。

 そのまま、犬が駆け出すように跳ぶ。

 跳躍。そして着地。斜面を滑る。


 残り六十メートル。




 姉帯さんは私が一瞬前までいた地点に着地、即座に斜面を蹴り、私を追う。

 傾斜のきつい斜面が終わる。

 桜の植樹のために成らされた平地に至る。

 追いつかれる。

 そう判断して、私は足を止めた。

 姉帯さんが私に腕を伸ばす。

 おそらくブラの肩紐を狙ったのだろう。

 体を逸らしてそれを回避。

 横になびいたポニーの先に、姉帯さんの指先が触れる。

 空振って、姉帯さんの体が前に流れる。

 その脇を通り抜け、姉帯さんの背後に回る。

 姉帯さんはすかさずバックハンドブロー。

 足腰に重心を落とす余裕がなく、それを上体を屈めて回避。

 先ほどと同じように股下を潜ろうとして、動きを読まれていることに気づく。

 咄嗟に動きを止め、再び脇を抜けて姉帯さんの前に出る。

 全力で駆けた。

 足はやはり、もう限界を越えている。

 転びかけて、なお距離を取るべく飛び込み前転。


 残り四十メートル。




 姉帯さんから視線をはずすのは得策ではない。

 残心を取る。見ると、彼我の距離は十メートル以上離れていた。

 しかし油断はできない。

 姉帯さんなら、二歩で詰められる距離だ。

 深呼吸をひとつ。

 私が深呼吸を終えるのとほぼ同時に、姉帯さんが迫る。

 二歩どころではなかった。一息に、弾丸のように、私に飛び掛る姉帯さん。

 直線的すぎるその動きを難なく回避。

 私の目の前を、矢のような速さで姉帯さんが通過していく。

 前に出られた。

 私のほうは山林を抜けるため、進路を変えられない。

 回りこんで山を抜ける体力はもう残っていない。

 それに、あそこには憧が来ている。おそらく、小瀬川さんや石戸さんも。

 この先だけがゴールなのだ。私の、私たちのゴールなのだ。

 道を変えるわけにはいかない。

 やむを得ない。再び足を止める。


穏乃「!?」

 そこで姉帯さんが信じがたい動きを見せた。

 私の脇を通過し、そのまま姉帯さんは木の幹に着地した。

 そして幹を蹴り、再度私に跳び掛かる。

 想定外の襲撃。まるでピンボール。

 さすがに、このような立体的な動きには面喰らう。

 驚きを拭えぬまま、ほとんどただの反射で回避。

 姉帯さんは、またも幹に足を着き、蹴り、跳ね返って来る。

穏乃「~~~~ッッ!」

 咄嗟にヘッスラ。

 頭上を姉帯さんが通り過ぎる。

 眼前で姉帯さんが、また別の木の幹に着地していた。
 
 すぐに、私に向けて跳ね返ってくる。

穏乃「ははっ……! すっげ……!」

 横に転がる。

 私がいた地点に姉帯さんが着地。ていうか着弾。



穏乃「ひゅ~う、あぶねぇ~!」

 さらに転がる。

 立ち上がり、木と木の間隔が狭いルートを選んで走る。

 あのピンボール戦法は回避し切れない。

 木の間隔が狭ければ使えまいと踏んでのルート選択だった。

 走りながら振り返る。

 姉帯さんは着弾地点にしゃがみ込んだままだった。

 その肩が震えていた。

 泣いているように見えた。

 暴走した姉帯さんは、どこか幼くなっているように感じられる。

 捕獲が上手くいかなくて、子供が泣いているのだと思った。

 しかし、



豊音「…………あははっ」


穏乃「……ははっ!」


 違った。 

 泣いているのではなかった。

 姉帯さんは笑っていた。


豊音「なんかちょーたのしいよー」


穏乃「でしょ!」


 駆けながら叫ぶ。

 いいぞ。そうだ。

 もっと来い。もっと追いかけて来い。


 残りは二十メートル。


 私たちの追いかけっこも、これでいよいよオーラスだ。


  *



  *


 しゅうちゅうりょくががいかいをしゃだんするー。


『それで……』


 ぼうちょうするそくどはせいしにちかいー。


『いつ転校して来るの?』


 反しゃするずのう、瞬発するにく体……


『うちらの仲間候補として、熊倉先生が連れて来たんだと思ってたけど』


 しだいに引き離されていく……


『違う?』


 ゆう劣はめいはく……

 私のほうがちょっとだけ速いけど……

 捕まえられない……

 届きそうでとどかない……

 徐々に置いていかれるかん覚……
 


 

『エイスリンさん……?』

『なんか描き始めた……!?』

『何その絵!?』


 でも、焦りがない。

 全力で追っかけて、それでも追いつけなくて、なのに、怖くない。

 前を行くあの子はわたしをみてる。

 おいかける私をちゃんと見てくれてる。


 わかったよー、私、全部わかったよー。


 追っかければいいんだー。

 離れちゃっても、追っかければ見ててもらえるんだねー。


豊音「ふふっ……!」


 全力で追従している。

 全力で反応している。

 不安を感じる暇がないよ。

 不安を抱く必要なんて……


『豊音』


豊音「うん……!」


『楽しい?』


豊音「うん!! ちょーたのしいよー!」


 ここは良い。

 ここは良いよー。

 追っかけるの、ちょー楽しいよー。


豊音「追っかけるよー」


 山林の終わりが見える。

 高鴨さんの背中越しに、外から差し込む光が見えた。

 
 
  *



 
  *


やえ「チャンピオン? そっちは違うぞ、松実館はこっちだ」

照「いや……こっちだよ」

やえ「はい? いや……何言ってるの? 松実館は下千本のほう……」

照「ううん、そうじゃない。こっちなんだ。私が行かなきゃいけないのは。そのために奈良まで来たんだから……」

やえ「チャンピオン……? 何言って……って、あ! 待って!」

照「ごめんね、小走さん。私こっちに行かないと」

やえ「なんだか知らないけど、私もついてきますよ! あなたひとりじゃまた迷っちゃうでしょ!」

照「……かたじけない」


  *



  *


 あと十メートル。


穏乃「ハッ! ハッ! ハッ!」


 あと五メートル。


穏乃「ハッ! ハッ――! いよっーーーーッ」


 ゼロ。

   
穏乃「ッッしゃあああああッ! 勝ったー!!」


 すぽん、と山林を抜ける。

 土砂崩れ防止用のブロックに覆われた七、八メートルほどの斜面を一気に下る。

 久しぶりにアスファルトの路面に降りる。

 
憧「しず! やっぱりここだった!」


穏乃「あー! そっちこそ! やっぱり来てたんだな、憧ー!」

 案の定来てくれていた憧に飛びつく。

憧「うわ! アンタなんで下着姿なのよ! ていうか泥だらけ! すり傷だらけじゃない!」

穏乃「ジャージはキャストオフしたんだよ! あれ二十キロくらい重りが入ってたから! 憧のおかげでキャストオフ出来たんだよー! 憧憧憧ぉぉ!」

憧「うわわ、わかったから離れなさいよ! ほっぺにおでこぐりぐりしないで! 服が汚れるじゃない!」

穏乃「なんだよー……つれないなー……」

 体を離す。



憧「ふ、ふう……もう、しずったら……」

穏乃「?」

白望「高鴨さん……」

霞「大丈夫……ではなさそうね、あまり」

穏乃「小瀬川さん、石戸さん」

白望「豊音は……? 一緒じゃないの?」

穏乃「姉帯さんは……」

 言いながら、今降りてきた山林を指差す。


豊音「……」


 私が飛び出してきた山林の出口に、姉帯さんは立っていた。


白望「……豊音」

豊音「シロー……」

白望「迎えに来たよ……松実館に帰ろう」
  
豊音「うん。帰る。いっぱい走ったからお風呂入りたいよー」




霞「……驚いた。もう何も感じないわ……」

 石戸さんが小さく独りごちる。

穏乃「……たぶん、もう平気ですよ」

霞「まさか、あなたが何かしたの……?」

穏乃「いいえ。ちょっと二人で追いかけっこをしただけです」

霞「……? ていうか、ちょっと待って、あなた、あの状態の豊音ちゃんから逃げ切って……?」

穏乃「話は松実館に戻ってからにしましょう。もうへとへとなんで……」

霞「ええ……ええ、そうね。そうしましょう」


白望「……降りといで、早く戻ろう。きっともうチャンピオンたちも着いてる頃だから」

豊音「うん……うん…………」

白望「豊音……?」


穏乃「……?」

 姉帯さんの様子がおかしい。

 もう恐ろしい気配は感じない。

 だが、小瀬川さんの呼び掛けに対する返事が、どこか虚ろだ。

 聞こえてくる小瀬川さんの声に、ただ返事を返しているだけという感じ。


霞「豊音ちゃん……?」

憧「ていうか、あれ……」

穏乃「足がふらついて……」

 まさか、姉帯さん……!


豊音「うん……うん、今帰るよー……さえー……くるみー…………エイス、り――――」

白望「豊音!?」


穏乃「いけない!」

 姉帯さん、気を失いかけている!

 落ちる……! 

 アスファルトの路面まで、十メートル近くある……!

 意識がない状態であの高さから落ちたら!


豊音「――――…………」

 姉帯さんは完全に意識を失い、ふらりと倒れた。

 倒れた先に地面はない。

 姉帯さんの長躯が、ふらりと落下する。

白望「! 豊音!」

 真下にいた小瀬川さんが腕を広げる。

穏乃「! ばっ!」

 受け止めるつもり!? 無茶だ!


穏乃「姉帯さん!!」

 何ができるというわけでもないのに、駆け寄らずにはいられなかった。


  *



  *


 『こっちに行かないと』

 チャンピオンの意味不明な言葉に従い、私たち王者コンビは山道を歩いていた。

 この辺りにはあまり詳しくない。

 吉野に関してはニワカなのだ。

 地元の松実や高鴨たちほど、この辺りのことは知らない。

 おそらく中千本と上千本の中間くらい……だとは思う。

 ずんずんと先を行くチャンピオンを追う。

 チャンピオンは何かの確信に突き動かされるように、一切の迷いなく、お菓子をぽりぽり食べながら、どこかに向かって歩いていく。

 不可解ではあったが、私もお菓子を貰いつつ後をついて歩いた。

 きび団子を貰った桃太郎のお供のようだな……などとローカル王者の悲哀を噛み締めていると、前方に人影が見えてきた。


やえ「あ、あれ、阿知賀の一年生コンビ……高鴨さん、なんで下着姿なんだろう……」

照「それにあれは宮守の白い人……と、永水の羨ましいおっぱいさん……」

やえ「たしかに羨ましいけど、その憶え方はどうなの……」

照「ちょっと分けて欲しいおっぱいさん……あと、なんか白い恋人が食べたくなってきた」

やえ「名前で憶えようよ……あと、北海道の子は来てないよ」

照「それは残念……そして、あの上にいるのが姉帯さんか……」

やえ「へ? 上……って本当だ。なんであんなところに……」

 チャンピオンに言われて初めて気づいた。

 土砂崩れ防止用のブロックに覆われた斜面の上に、人がひとり立っている。

 遠目にも身長が高いのがわかる。

 テレビで一度見た姿だった。

やえ「危ないなぁ……あんなとこ、どうやって登ったんだろう」

照「……聞いていたより落ち着いてる……私が着く前に事は終わっていたみたい……でも」

やえ「?」

照「危ない」

やえ「? あっ! 姉帯さん! おっ、落ち――」


 高さが十メートル近くあるブロックの上から、姉帯さんがふらりと落ちる。

 その時だった。

 
照「…………」

 荷物を地面に落とすチャンピオン。

 次いで、

やえ「……!?」


照「…………ふぅ」


 チャンピオンは右手を天に掲げた。


照「――――ッッ!!」


 息を切り、体に力を込めるチャンピオン。 


 すると、まるでチャンピオンの動作に呼応するかのように――


やえ「!!!???」


 ――突風が巻き起こる。


  *



  *


豊音「…………」

白望「! 豊音!」


 豊音が落ちた。

 意識を失っている。

 頭から路面に向けて落下してくる。

 私は腕を広げた。

 当然、豊音の体を受け止めるなんて、私にできるはずもない。

 それでもいい。

 私がクッションになる。

 豊音が怪我をしなければそれでいい。


白望「……!」


 豊音が迫る。

 あと二メートルもない。

 覚悟を決めた、その時だった。


白望「!!?」


 突風。

 まるで、下から上に巻き上がるような。

 あまりの強風にふらつく。

 目を開けていられない。

 それでも豊音から目を離すわけにもいかず、私は腕で目を庇いつつ豊音を見上げた。

 すると。



豊音「……」

白望「――――!」


 豊音の体が、落着まで一メートルほどのところでふわりと浮いた。

 風に落下の勢いを殺されて、豊音の体がゆっくりと落ちてくる。

 受け止める。


白望「何……これ……っと」

豊音「…………」


 落下の勢いが減じても、意識を失った豊音の体は重い。

 地面に膝をつく。


穏乃「なに……今の……」

憧「おかしな吹き方したわね、今の風。下から上に吹き上がるみたいな……」

穏乃「……竜巻?」

憧「まさか、こんな山の中で?」

穏乃「いや、でも……ていうか、なんか覚えのある感覚だったような……?」

霞「……なんにせよ、助かったわ……」



白望「豊音……」

豊音「すー……すー……」

 泥だらけで赤らんだ顔のまま、豊音は寝息を立てていた。

 泥を払う。

豊音「んん……」

 むずがる豊音。

 怪我らしい怪我もない。

 どうやら無事らしい。

 妙にすっきりした顔をしている。

穏乃「ずっと山の中を走りっぱなしでしたから。疲れきってるだけかと」

 背後から高鴨さんが歩み寄り、豊音の顔を覗き込む。

白望「うん、大丈夫みたい……ていうか、そっちのほうが酷いね……」

 高鴨さんのほうが、豊音よりも遙かに酷い有り様だった。

 何故か下着姿だし、全身泥で汚れている。そのうえ擦り傷だらけだった。


穏乃「いいえ、このくらいいつものことですから!」

白望「ごめんね……豊音が迷惑かけて。変なことされなかった?」

憧「! そうよ、平気だったの!?」

穏乃「なんだよ、憧……大丈夫でしたよ、逃げ切りましたから」

白望「に、逃げ……? あの状態の豊音から……?」

穏乃「はい! だいぶぎりぎりでしたけど!」

霞「あらあら……」

白望「……そりゃ、また」

 大したものだ……。

 役行者の生まれ変わりってのも、案外伊達じゃないのかもしれない。

憧「それにしてもなんだったのかしら、今の変な風……」

白望「おかげで豊音は助かったけどね……」

霞「なんか、覚えがある感じだったのよねぇ……」

穏乃「石戸さんもですか? 実は私も……あれって、たしかチャンピオンの――」


照「はい、チャンピオンこと宮永照です」

やえ「……」



穏乃「!?」

憧「チャンピオン……! と、やえさん」

白望「来てたのか……まさか、今の風は……?」

霞「あの子がやったのかしら……」

照「なんのこと?」

やえ「……」

白望「?」

 首を傾げるチャンピオン。

 その横で、奈良個人一位のあの……えっと、王者の人が震えていた。

やえ「風……風を……! 人間じゃない……人間じゃない……」

照「失敬な。姉帯さんが危ないなって思ったら、なんか出ただけなのに……」

やえ「それで普通風は出ない!」

照「そんなこと言ったって出たんだもん……しょうがないじゃん……」 

やえ「しょうがないって……!」

白望「……つまり、チャンピオンが助けてくれたってことでいいのかな……?」

照「そうみたい。よくわかんないけど」

白望「……そう、とにかくありがとう」

照「その子が姉帯さんだよね?」

白望「え? うん……」

照「ふーん……」

 豊音に歩み寄り、しゃがみ込んで顔を覗き込むチャンピオン。

 すると、豊音の瞼が震えた。

豊音「ううん……あれー、シロー……」



シロ「起きた?」

豊音「あれー……私たしか……」

照「おはよう」

豊音「……! チャンピオン! 宮永照さん!」

照「やっと名前で呼んでもらえた」

豊音「ほわー……! 来てたんだー!」

照「うん、さっき着いた」

豊音「うわわ、すごいよー、本物だー……! ほんとに来てくれたんだー……!」

 疲れで動かない体を無理にでも動かそうとする豊音。

 やはり、ものすごく感激している。


照「うん。来た。あなたと――」

白望「……?」

 チャンピオンは手元の袋に手を入れ、がさがさと何かを漁りだした。

 やがて、ポッキーを一箱取り出し、豊音に差し出す。

照「――友達になりに来た。これあげる」

豊音「ほわー……!」


 ポッキーを受け取り、運動で赤らんだ顔をさらに赤くする豊音。

 妹の咲はもじもじ頑張ってくれたけど、チャンピオンは直球だった。

 これが王道……。

 さすがである。


穏乃「すっげぇ! チャンピオンかっけぇ!」

憧「直であれはなかなか言えないわ……」

霞「うふふ、豊音ちゃん、嬉しそうねぇ」

白望「……ふぅ」


 とにかく、これで一件落着。

 私たちは玄さんに連絡し、迎えを呼んでもらって松実館に戻った。


  *


  *


 その後。

 霞によると、豊音の黒い気配は完全になりを潜めたらしい。

 高鴨さんとの追いかけっこが豊音に何らかの良い影響を与えた、ということだけはわかっていたが、詳細に関しては不明である。

 当の高鴨さんは、楽しく追いかけっこをしてすっきりしたのだろうと、よくわからないことを言っていた。

 高鴨さんは山の中で、豊音の暴走を抑える何らかの決め手を見出し、それを実行したらしい。

 だが、感覚派の高鴨さんの説明は要領を得ず、結局その決め手がなんなのかはわからずじまいだった。

 高鴨さんは豊音に、追いかければ大丈夫だと教えてあげたのだそうだ。

 何を追いかければ、どう大丈夫なのか、その説明だけではよくわからない。

 しかし、高鴨さんのその説明に、阿知賀の面々と原村さんは揃って頷いていた。


 よくわからないが、高鴨さんは岩手、大阪、長野の面々では出来ない方法で、豊音の暴走を抑えてくれたらしい。

 巴も春も、夏に会ったときの豊音に戻っていると驚いていた。

 これで、もう本当に大丈夫。

 霞からもそうお墨付きをもらえた。

 つまり、私たちの旅は予定通り、この奈良で終わり、ということになる。

 めでたく、豊音は自覚なきレズ色魔から脱却できたというわけだ。

 
白望「はぁ……」

豊音「すー……すー……」


 チャンピオンと少し会話をしたあと、豊音は再び意識を失った。

 リミッターが外れた状態で、高鴨さんと本気の追いかけっこをしたのが堪えたらしい。

 今はチャンピオンに貰ったポッキーを枕元に置き、すやすや安らかに眠っている。

 私もその隣で横になっていた。

 豊音が元に戻った安心から、これまで緊張で抑えていた疲労が一気に噴出していた。

 岩手から大阪、長野……そこからまた関西に戻って奈良……。

 すべて一泊。

 霞たちは平気そうな顔をしているが、私にとっては強行軍である。

 もう限界だった。



 先生や塞たちに事が終わった報告をして、松実館でもう一泊する許しを貰い、布団に倒れこんだ。

 
白望「はぁ~……」

豊音「すー……すー……」


 ため息をつき、隣で眠る豊音の顔を撫でる。

 熟睡している豊音は、私の悪戯に一切反応しない。

 よく寝ている。安心安心。

 手を離し、天井を見る。

 瞼が落ちる。

 ものすごく眠い。

 意識が朦朧とする。


白望「さえ、くるみ、えいすりん……」
 
 終わったよ。

 今帰る…………。


白望「zzz……」


  *



  *

 
 こうして、私たちの四日間の旅は終わった。


 翌日、吉野駅。


玄「また来てくださいね」

白望「うん……今度は春に来るよ、みんなで」

穏乃「姉帯さん! また一緒に山ダッシュしましょうね!」

豊音「うん、鍛えとくよー」

穏乃「和と咲もまたな! みなさんもお達者で!」

咲「うん、ばいばい穏乃ちゃん」

和「また」

桜子「ばいばい、おおほしさん、しゃーぷしゅーたー」

淡・菫「ばいばい」

憧・宥「さようなら~」

灼「さようなら、気をつけて」

やえ「また会おう」

豊音「さようなら~」


 吉野タウンに、さよならバイバイ。

 そして京都。




恭子「うちらはここでお別れやな」

霞「私たちは関空から飛行機で帰るわ」

白望「うん……四人とも、本当にありがとう。またね」

恭子「ええよ、旅費もそっちの先生持ちやったし、なんやかんや楽しかったし」

白望「そう……」

 そう、この旅で、一番血を流したのが熊倉先生なのだ。

 いくら責任を感じていたからといって、大盤振る舞いにもほどがある。

 貯め込んでいるから気にするなとは言っていたけれど……。

霞「また遊びましょうね」

白望「うん……」

巴「お大事に」

豊音「?」

春「姉帯さん、これあげる」

豊音「おお、黒糖袋ごとー。いいのー?」

春「いい。またメールします」

豊音「うん、私もするよー。神代さんと薄墨さんによろしくー」

霞「伝えておくわ」

恭子「ほな、さいなら」

白望「うん、さよなら」

豊音「ばいばい~」

 
 
 次はのぞみに乗って、長野。


 長野では、白糸台の三人も降りることになった。

 せっかく来たので、照さんはお父さんに顔を見せていくらしい。

 大星さんと広世さんはその付き添いだそうだ。



咲「それじゃあ、これで失礼しますね」

和「よくわからない旅行でしたが、楽しめました」

白望「ありがとうね。付き合ってくれて」

和「おかげで穏乃たちにも会えましたし、気にしないでください」

咲「姉帯さん、また一緒にお泊りしましょうね」

豊音「うん、それとー……」

咲「? なんです……」

 咲に近寄り、ツノを撫でる豊音。

豊音「最後に一撫でー。ここが大事だよー」

咲「あはは……」

照「さすが、よくわかってる」

淡「やっぱりアンテナなんだね……!? テルーとサキのそれ!」

菫「またお前は……」

白望「二人もありがとう。わざわざ来てくれて」

菫「気にしなくていい。照のおもりは疲れたがな」

淡「ほんとだよ……長野から東京までのことが思いやられるよ……」

和「咲さんは帰るまで、また私と手を繋いで行くんですからね?」

咲「ええ、恥ずかしいからいいよ……」

照「じゃあ、お姉ちゃんと手ぇつなごう」

淡「それだと二人してどっか行っちゃうでしょ! テルーは私と!」

照「ええ……」

和「咲さんは私です。ほら行きますよ」

咲「うん……それじゃあ、お二人とも、また」

白望「うん……」

姉帯「またね~」




 そして、私と豊音の二人きりになった。

 これまでの姦しさが嘘のようだ。

 随分静かになった。


豊音「シロー……」

白望「ん、なに……?」


 黙って窓から景色を眺めていた豊音が、こちらを見ないまま、不意に私を呼んだ。


豊音「ありがとねー……みんなにも感謝だよー」

白望「……うん」


 豊音もなんとなく、自分の異常に気づいていたのかもしれない。

 この旅が自分のためのものであると、察していたのかもしれない。


豊音「私、もう平気だからー」

白望「うん……」

豊音「よくわかったんだよー。卒業してみんなとお別れしてもへっちゃらだって」

白望「そう……」

豊音「追っかければいいんだよー。私、得意なのに忘れてたー」

白望「……」

豊音「シロもー、塞も、胡桃も、エイスリンさんだってー、遠くに行っちゃったら私、追っかけるよー。それでよかったんだよー」

白望「……そうだね」


 豊音はこちらを見て、ふにゃっと笑った。

 インハイ二回戦のインターバルで見た笑顔だ。

 豊音はもう大丈夫。

 そして豊音の言葉で、高鴨さんの言っていたこと……。

 『追っかければ大丈夫だって教えてあげた』という言葉の意味が、ようやくわかった気がした。

 高鴨さんたちは原村さんを追いかけた。

 豊音も……いや、私たちも、離ればなれになっても、そうすればいい。

 そういうことだったのだろう。


白望「でも、それならなおのこと、心配ないね」

豊音「?」

白望「私たちだって、離ればなれになったら、きっと豊音のこと追いかけるもの。お互い追っかけるんだから、もう安心だね……」

豊音「……うん! えへへ~、そうだね~、安心安心」

白望「うん」


 豊音は笑った。

 私も笑った。

 もうすぐ岩手に着く。

 たかだか四日ぶりだというのに、随分久しぶりに感じられる。

 早く宮守のみんなの顔を見たいと、そう思った。



 豊音とらんす 三槓子 


以上で終了です
絹ちゃんの名前誤字すみませんでした
あと、SAO→SOAだけ訂正しておきます
ありがとうございました

乙です

めっちゃ乙
今回最初のこれでもかってくらいの玄やシズのキャストオフ、二人の王者とかちょこちょこ笑い入れつつもだんだん平仮名が多くなる豊音に恐怖したりと、いろいろと楽しませて貰いました






菫さんの名字は『弘世』

すみません…
やっちまった…名前誤字だけは気をつけてたのに…


ピンポンは名作だったね

おつおつ
最近の咲SSの中ではベストでした

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