菫「見つけた。貴方が私の王だ」咲「えっ」 (641)
※咲の十二国記パロです
といっても世界観を取り入れただけで話はオリジナルですので
閲覧は自己責任でお願いします。ほんのり菫咲風味
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咲のスレならいちゃもんつける奴が出て来ると思うが本気で期待してるから本気で完結させてくれ、頼むわ
咲には両親がいない。
物心ついた時より大きな商家の下働きとして働き、とりあえずの日々を細々と生きていた。
商家の主人からは小さな粗相をしては頭ごなしに叱られ、
姿が見えないからサボっていたのだろうと決め付けられ容赦なく叩かれたりもした。
きっと、反抗もせずじっと耐え続けていたのも主人からしたら気に入らなかったのだろう。
一日に数回は難癖を付けられ、いびられたがそれでも内容は貧相であれ一日二食の食事は約束されており
冬は辛かったけれどなんとか越せる寝床も用意されていた。
ここより叩き出されて、外の世界で生きていくほうが何倍も辛いだろう事を、
商家に出入りする旅商人の噂より咲は聞き知っていた。
この世界は天帝により12の国が定められ、それを治める王がいた。
咲がいるこの国も、その十二のうちの一つだったが……
数十年前に前王が倒れて以来、まだこの国に新王は立ってはいない。
国を治める王は、麒麟という神獣によって人の中より選ばれる。
選定された瞬間より、王は人では無くなり、神にも等しい存在になるのだという。
玉座に座り、その治世が正しく続く限り、王は不死となり国はいつまでも栄える。
だが反面、王が民を省みず悪政を敷くならば天が許さない。
そのため、この国の前王は数十年前に、100年弱の治世を経て天から見放された。
聞いた噂によると前王は悪婦に溺れ、政治を省みなくなったのだという。
長く王の傍らで支え続けた麒麟の声にも耳を傾けず、その神獣を失道させてしまってからはあっという間だったらしい。
王を神にした麒麟を失えば、王はもはや神ではない。
そうして、酷い病に冒された前王が死んでから数十年。
新しい麒麟による選定は始まっているらしいが、今だ新王が即位したという話は聞こえてこない。
その間に、この国には災いが満ち溢れるようになってしまった。
「隣町でまた妖魔が出たそうだよ…」
「南の方では、干ばつが酷いらしい…」
「それでごうつくな役人が税の上前を撥ねてしまうから…」
商家を訪ねてくる旅人からは気が滅入るような噂しか聞こえてこない。
この世界では王が玉座に在るだけで、国はある程度安定する。
今のように空位な状態が続くと、国中に天変地異が起こり、人を襲う妖魔の出現も増えるのだそうだ。
だから咲は思う。
例え今、主人より酷い扱いを受けていようとも、自分がこの商家より放り出されたら
一日も経たずに身包み剥がされるか、妖魔の餌食になり人生は終わることだろう。
だから、単なる憂さ晴らしに主人より殴られたのだとしても……それに逆らう道は咲にはなかった。
ある寒い日のことだった。
朝の仕事をある程度終えた咲は、桶を持ち裏の勝手口より井戸へと向かう。
桶に井戸から水を組み入れ、それが終わると赤くなってしまった指先に息を吹きかけ咲は一息ついた。
昨日尋ねてきた旅商人が言っていたが、今年は天災が続き農作物が大打撃を受けたらしい。
今はまだいいが、これから雪が降れば食料が品薄になり世間の生活は更に辛くなるだろうと。
本当に、聞こえてくる話はそんな気が滅入るものばかりで…
このまま新王が立たない時期が続けば国は更に疲弊しているのだろう。
明日は我が身に降りかかる火の粉かもしれない、人生に明確な目的があるわけでもないが
それでも明日一日を無事に生きていきたいと思いながら、咲は小さく息を吐いた。
そろそろ仕事に戻らなければ主人に怒鳴れるかもしれない。
殴られるだけならまだいいが食事抜きになったら本当に辛い。
早く戻らなければ。
そうして、冷えた指先に力を込め、水がたっぷり溜まった桶を持ち上げた瞬間……
咲は視界の先に佇む人影に気付いた。
咲「えっ」
ついつい短い声を上げてしまったのは、咲の他に人がいるとは思わなかった事と。
佇む人影に見覚えがなかったからだ。
確実に、家内の者では無い。
ならば、ここは商家の奥まった庭先でもあるし…
もしかしたら商家を尋ねていた旅商人が迷って入り込んでしまったのだろうか?
だけど突如現れた人影は、どうも長旅を主にする旅商人の格好でもないような気がした。
落ち着いた色彩の身なりだが纏っている生地は高価なものだと思う。
咲よりも少し上ぐらいの年頃の少女に見えた。
少女は言葉も無く、ただ、じっと咲を見つめていた。
咲「……?」
そんな不躾な視線を受けて、咲は首を捻った。
だが、いつまでもここで見つめ合っている訳にもいかないと目の前の少女に話しかけた。
咲「あの。店にいらしたお客様でしたら、申し訳ありませんが表に廻って頂きたいのですが……」
そう言いながら、家屋を回り込む道筋を一方的に教える。
旅商人には見えなかったが、そうでなければ彼女がここにいる説明が付かない。
強盗するような身なりにも、雰囲気にも見えないのだから。
すると意外にも咲の言葉に従うように少女はその場より歩き出す。
ほっ、と咲は安堵の息を付く。
どうやら、本当に迷い込んでしまったのかもしれない。
無愛想だが、世の中、色んな人がいる。
こんな気難しそうな商人がいても可笑しくはないのだ。
だが、咲が感じた安堵はすぐに消える。
自分が指し示した道筋を辿る事無く、真っ直ぐ向ってきたのは…咲の眼前だ。
咲と、たった一歩程の距離で立ち止まった少女に「あの、」と焦り気味に咲は声を掛ける。
だけど、その問いかけに答える事無く、代わるよう伸びてきたのは腕だ。
驚き、咲の体がビクリと震える。
それでも逃げに入らなかったのは、無愛想な少女だが咲を見下ろすその瞳には
咲の主人のような蔑みの色が見えなかったからだ。
伸びてくる腕の先、その指先が咲の目尻に触れる。
ヒヤリとした指先の冷たさと共に、痛覚へと響いた痛みに咲は顔を顰めた。
昨日廊下の掃除をしていたら主人がやってきて、有無も言わさず殴られたのだ。
後から、咲と同じような下働きから聞いたが旅商人との交渉が思っていた程上手くいかず、
手当たり次第、見かけた者に当り散らしていたのだそうだ。
まさしく、そんなとばっちりを受けた咲の目尻 は理不尽に受けた暴力から腫れて赤くなっていた。
今日は寒かったから痛さは引いていたが、触れられた事で痛みを思い出してしまった。
咄嗟に、触れたままの指先を退けてもらおうと、咲は眼前に立つ少女に訴えようとした。
が、見上げる先にある端正な顔立ち。その瞳が気難しげに細められた。
そして、形の良い唇が開く。
菫「遅くなって申し訳ない」
なにか真摯な想いが込められたその声を聞き咲は混乱を覚える。
だって、初めて出会った少女だ。
こんな身なりの良い知り合いなど咲にはいないし、見たことも無い。
そんな人間が、なぜ、突然咲に謝るのだろう?
咲「あの、すみませんが。人違いではありませんか?」
咄嗟にそう言い返していた。だって、その理由が一番しっくりくる気がする。
世の中には同じ顔の人間が数人いるというのだから、
きっとこの少女は咲と他の見知らぬ誰かと間違えているに違いない。
だが、そんな咲の希望的観測を否定するよう少女は首を左右に振る。
菫「私が、貴方を見間違うはずがない」
咲「で、でも、初めてお会いしましたよね?」
少女は素直に頷く。
ほらね!と、咲は言葉を返そうとした。だが、
菫「それでも、ずっと…私は貴方を探していたんだ」
咲「え?」
どういうことですか?と咲が声を返そうとした瞬間。
家屋の方より怒鳴り声がした。
主人「おい!」
その鋭い声に対して、咲は長年通して受けたきた恐怖が植え付けられている。
ひっ、と短い悲鳴を上げながら、咲は声がした方より数歩後ずさった。
自然、目尻に添えられていた指先も離れる。
咲の視界の片隅に、その指先を丸め握り締める少女が見えたが構っていられない。
まずい所を見られた、咲にはその気はなかったが怒鳴り込んでくるに違いない。
主人からすれば、咲はサボっていたように見えたはず。
主人「そんな所で何をやっている!?」
野太い怒鳴り声と、寒さで悴む指先で咲は持っていた桶を地面に落としてしまった。
バシャリと汲んだ水が辺りに染み渡り、その向こう側から荒々しい足音を響かせ主人がやってくる。
主人「本当に愚図な奴だ、水汲み一つできんとは!」
主人がそう言葉を吐き捨て、水溜りの上を水滴を飛ばしながら咲の前まで来ると、
太い腕を伸ばし有無を言わさず咲の髪を鷲掴みにした。
髪の毛一本一本を強く引っ張られる痛みに、咲は顔を歪ませるが…
きっと、今感じる痛み以上の折檻がこの先待っているに違いない。
恐怖でぶるりと震えた体が強い力で引き摺られる。
頭皮が感じる痛みに逆らえず足を縺れさせながらも数歩分、家屋へと近づいた瞬間。
主人と、咲との背後より硬い声が響いた。
菫「その手を離せ」
主人「あ?」
険呑な主人の声。
髪を掴まれているせいで咲は振り向けないが、
主人は訝しげな表情を浮かべ後ろを振り向いたようだった。
聞こえてきた声は確かに少女のもので、
怒りの余り咲にしか意識がいっていなかった主人はやっとその存在に気付いた。
主人「…どこの馬鹿か知らないが、こいつは我が家の下働きだ」
主人「水汲み一つできん、役立たずな愚図を主人である俺がどうこうしようとお前には関係ないだろうが!」
はやくここから出て行け!!
そう、少女に向かい口汚く吐き捨てた主人の声に咲が怯えた。
だが罵声を浴びせられた少女が、言葉を返すよう主人に向かう。
憤怒の塊であり、手の付けられない暴君である主人に対して少しの怯みもみせず、
一言一言はっきりとした口調で、だ。
菫「お前が、主人ではない」
少女の声に咲が目を見開くのと、「なにぃ?!」と怒り出そうとした主人の唸り声が響くのは同時だったと思う。
だが、主人の声が続く前に少女は再び言い放った。
菫「私の主人だ」
瞬間、地面を見るしかなかった咲は我が目を疑う。
堅いはずの地面がぐにゃりと水面のように波打つと、そこからにょきりと腕が生えた。
それも人の腕とは違う、まるで鳥の羽の如く羽毛を生やした腕だ。
その先に繋がる、女人の姿をした体躯が地面より完全に這い出てくると
咲の髪の毛を鷲掴みしていた主人の腕を、横から掴み取った。
主人「な!?」
驚く主人の声が、すぐに悲鳴へと変わる。
咲もミシリ、と人の骨が軋む音を確かに聞いた。
同時に、鷲掴みされていた髪の毛が開放される。
その反動でよろけながら後退し、眼前で改めて起こった光景に対して息を呑む。
地面より這い出てきたのは鳥人間とでもいうのだろうか。
人では、無い。
咲は商家を訪れる旅商人から、存在する姿形だけを噂として聞き知っていた。
あれは…
主人「…よ、妖魔だ……!」
主人の震える声が答えだった。
現れた女形の妖魔は主人の腕を掴んだまま、それを捻り上げる。
先程骨が軋む音がしたように、そのまま力が掛かっていけば確実に主人の骨は粉々になるだろう。
狂ったように悲鳴を上げまくる主人の姿を呆然と咲は見返している。
人を襲い、喰らうと言う妖魔が主人を殺めてしまったら…次は咲の番なのだろうか。
こんな貧相な体格の咲だから、妖魔は先に主人を襲ったのだろうか。
埒もあかない事をつらつらと考え込んでいたら、
そんな思考を遮るように一際、甲高い主人の悲鳴が響き渡った。
ビクリ、体が震える。
現実に気付いた咲は恐怖で哂いはじめた足をどうにか動かし、後ずさりしようとする。
途中、踵が地面に躓き視界が廻る。
あ、と思った瞬間に、咲は後ろへと倒れこもうとしていた。
すぐに感じるだろう、地面との衝撃の痛みを想像して咲は目を強く瞑る。
だが、痛みは訪れなかった。体も地面に倒れ込んでもいない。
背後へと倒れ込もうとした咲を柔く抱き止めたのは、
いつの間にか咲の後ろに回りこんでいた少女の腕だった。
触れ合った布越しの暖かさに咲は一瞬怯んだが、掴んだままの腕に、更に強く引き寄せられる。
そうして、頭上から響く声を聞いた。
菫「黙らせろ」
『御意』
少女の声に対して、脳裏に響く女性の声を咲は確かに聞いた。
直感的に、今の女性の声は目の前の女怪の声なのだと気付く。
事実、少女に言われた通り妖魔が捻り上げていた主人の腕を開放すると、
すぐにその顔面を異形の手の平で鷲掴みにした。
途端、今まで辺りに響き渡っていた主人の悲鳴はくぐもった呻きに変わる。
女怪に頭部を鷲掴みにされた主人は、そのまま宙吊りになり家屋の方へと連れて行かれる。
途中、主人の悲鳴に気付いたのだろう、
家屋の中から息を顰めてこちらを窺っていた他の下働き達が逃げ出す悲鳴が聞こえた。
去っていく妖魔と主人の後ろ姿を震えながら見つめていた咲だったが、更に怖い事実に気付く。
あの妖魔を従え、命令を下せる咲の背後に立つ少女は一体何者なのだ?
コクリ、唾を呑み込み咲は自身を抱きとめる少女を仰ぎ見ようとする。
だがその途中、視界の隅の地面がまた、ゆらりと波打った。
ズズズ、と地面より這い出てきたのは虎ほどの大きさの獣だが、
全身の毛並み真っ赤で……なにより、目が六つある。
どう見ても新しく現れた妖魔であり、尚且つ、その六ツ目が一斉に咲を凝視した。
咲「……っ!!」
正気の限界。
恐怖なのか、次々と起こる出来事に対して耐え切れなくなったのか、咲の意識はくらりと揺れた。
視界が廻り、灰色の空が見えたが…すぐにあの少女の覗き込むような顔が見えた。
その双眼は咲を見下ろしながら、どこか気遣うように揺れていた。
そんな眼差しを受けた事は、生きてきて一度も無い。
どうして…
薄れ行く意識の中にあって、咲の少女に対する恐怖も少しずつ薄れていった。
背後より抱きとめていた体が重みを増し、守ろうとした人が気を失ったのだと菫は気付く。
くたりと垂れた咲の頭を自らの胸元へと引き寄せる。
そして、短く舌打ちをした。
『御無礼を致しました、台輔』
菫「…いや、私も考えもなしにお前を呼んだからな。ただ、この方にはすまないことをした…」
現れた獣の姿をした使令は、菫にしてみれば見慣れた姿だったが。
妖魔に馴染みのない人間ならば、確かに酷い恐怖を覚えてしまっただろうに。
抱き止めた体躯とて触れ合う部位から小刻みに震えていたのを感じていた。
でも、気が早ってしまった……
自分の浅はかさに呆れるが、それほどまでに菫は浮かれていた。
ようやく見つけた、腕の中で確かに存在する王の姿に。
とりあえずここまで。
毎週金曜日に更新予定です。
乙 懐かしいな
十二国記の方は知らないけど面白い
なんとか完結してほしいな
読みやすいし読みごたえあるし菫咲だし
非の打ち所がないから来週まで待ってる
乙です
菫さんは麒麟か
今日が金曜だ
はよ
乙
残りの国の麒麟と王の組み合わせが気になるな
国がまだどこかわからんね。
期待
まあ16レスなら頑張った方
最近の咲-Saki-SSは2~3レスで逃亡もザラだし
次回作は頑張って完結させてくれ
まだ一週間もたってないんですが……
須賀=アニメ版の浅野君
原作はまだ続いてるんだっけ
とにかく期待
>>27
それ荒らし。咲さんメインだと荒らしまくってる奴だよ
最初の更新予定を破る奴は絶対に戻ってこない
断言できる
次の更新予定は07/04
咲ちゃんスレは潰そうとしてる暇があるなら、カレンダーの読み方でも学んだら?
蓬山において、女仙よりずっと聞かされて育ってきた。
麒麟である自分が、数多の人の中より唯一人の王を選ぶ事になると。
そしてその王気を感じる事ができるのはこの世で唯一人、麒麟だけなのだと。
そうしてもうどれ程の年月、菫は主を探し続けただろうか。
王になるため昇山する者もいたが、その人々の中に菫の意識を引く存在はいなかった。
だから、菫自身が探し始めた。
数年、緩やかに衰えていく国を見下ろしながら、この国を救うための王を探し続けた。
そうして今日、突如として、その気配を感じとったのだ。
ジワリと胸に熱が灯ったような気がした。
急かされるよう、空へと飛び出し向かった。
感じ取った存在に近づけば、近づく程に濃くなる王気の中心。
そこに佇む姿を見た瞬間、菫はこの人なのだとわかった。
随分と頼りない姿形だったが、それは上辺の形に過ぎない。
まぎれもない王気。
彼女こそが、菫が、この国が、ずっとずっと捜し求め続けていた王なのだ。
そしてその存在が今、とうとう菫の腕の中にある。
体勢を整え、抱き上げると随分と軽く思えたのが気のせいではないだろう。
先ほど触れた目尻や、頬に残る痣を見る限り、随分とここの家主より酷い扱いを受けてきたのだろう。
菫「……」
菫は顔を歪ませる。
元々麒麟は慈悲の生き物だが、王が関われば話は別だ。
殺生もよしとはしないが、王が望めば菫はそれを実行するだろう。
麒麟にとって王とは特別な存在なのだ。
だからこそ、先ほどここの家主に対する怒りを抑えきれなかった。
自分もまだまだだな、と息を付くと丁度、使令の女怪が戻ってきた。
『縛り上げ、一室に放り込んでおきました』
菫「ああ、それでいい…この分だと他に働く者達にも酷い扱いをしていたのだろうな。文官に相談し、役人を入れさせよう」
『御意。後ほど伝令に走ります』
菫「頼む」
『王の御容態は?』
菫「誓約はまだ交してはいない。…早く交わせれば、よかったのだが…」
そうすれば、彼女は人では無く神籍を持つ王になる。
不老長寿を含めた神通力がその身に宿れば、
こうして見下ろすだけで菫の目に付く数多の外傷も多少は癒えたかもしれないのに。
ふと、鼻腔に届いた鉄染みた匂いに気付き自然、顔が歪んだ。
女形の使令が、そんな菫の機微を察して腕を差し出してくる。
『台輔。血がお辛いようでしたら私がお運び致しますが?』
菫「………」
黙りこみ、菫は眼下の体躯を見下ろす。
視界に写る肌には腫れやかさぶたが目に付くだけだが。
確かに血の匂いがその体躯より香ってくる。
きっと纏う服の下に手当てもされず放って置かれた裂傷があるのだろう。
その事実に、ここの家主に対して更に強い不快感を覚えた。
尚且つこの身は神獣であり血の穢れを嫌う。
肉は決して口にしないし、血に長く当てられれば不調もきたす。
その事を使令も分かっているから、菫を気遣うのだ。けれど。
菫「……いや、いい」
頭を左右に振ってから、菫は咲を抱き上げる腕に力を込めた。
血の穢れに対する拒否感よりも、誓約も交わしていない存在をこの腕より手放す方が余程恐ろしいと感じた。
やっと、やっとで探し当てたこの少女を。
菫「戻るぞ」
短く告げると女形の使令は、それ以上は何も言わず菫に向かい頭を垂れた。
次いで六ツ目の使令が眼前に進み出てくると、地面すれすれまで半身を折り曲げる。
菫は慣れたよう、その赤い毛並みの上に腰掛ける。
いつの間にか横に立っていた女形が用意した厚手の布を受け取ると、それで腕の中の存在を厳重に包んだ。
準備が整い、腰を降ろす赤い毛並みを撫でると菫を乗せたままの獣が起き上がり地面を歩き出した。
それは、すぐに駆け足となり、地面を蹴っていた四足は徐々に空気を蹴って空を駆け始める。
速度が増し受ける風圧から守るよう、菫は更に強く咲を抱き込むと瞼を閉じた。
■ ■ ■
咲が瞼を開けた瞬間、見知らぬ天井が見えた。
だから記憶が混乱したのは確かで、尚且つ身を起こした場所が今だかつて経験した事もない、
柔らかい布団が敷き詰められた豪奢な寝台の上だったから腰が抜けそうになった。
慌てたようにその場所から駆け下りると、床に倒れこみながらも自分の姿に気付く。
纏っている清潔な白い寝間着は生地も良く、
こんな品、旅商人より諸侯への献上品だと見せられただけで触った事もない。
しかも、体中に受けていた打撲や裂傷の痕には包帯が巻かれ、塗布された消毒薬の臭いがした。
震える腕を上げ、頬に手の平を当てるとそこにも柔らかい布が貼り付けられていて、
全身を丁寧に手当てされている事がわかった。
だが、どうして自分がそんな扱いを受けるのか咲に心当たりが無い。
記憶も混濁している。
ここで目覚める前、自分には今まで生きてきた場所があったはずだ。
恐ろしい主人と、最低限の生活を送る中でいつの時も肌寒さに震えていた商家での生活。
そんな場所から、なぜ突如としてこんな豪奢な部屋の中に寝かされる事になったのか。
咲はぐるり、室内を見渡す。
置かれた調度品や室内の細工、その一つとっても…商家の主人の部屋のものより煌びやかで繊細に見えた。
暫し、天井に施された細工に見惚れてしまっていたが、
ハッと正気に戻ると咲はその場に立ち上がった。
咲「……」
幸いにもここには咲一人だけのようで、辺りに人の気配も感じない。
そんな中で自分の状況が掴めないのだから、自身が動き出すしかない。
纏っていた質の良過ぎる寝間着に気後れは覚えたが、
裸のままで歩き回る訳にもいかないし考えない事にする。
どれくらいここで横になっていたのか、歩き出した体は多少軋んだ。
その痛みに顔を歪めながらも、重厚な扉に手を当てて押すと思ったよりもすんなり開いた。
頭半分、通路に顔を出し辺りを見渡す。
ガランとした廊下は左右両側に延び、どちらを見ても無限に続いているような錯覚を覚える。
一体、どれ程大きな建物なのだろうか、ここは。
また、胸中に生まれてきた気後れに押し潰されそうになるが
咲は意を決して、誰もいない通路へと足を踏み出した。
どれ程歩いたのか…同じような景色が続く通路を暫く歩き続けた。
途中、余りの人気の無さに、見知らぬ扉の先を覗いてみたがどれも豪奢な間取りの部屋だけで。
鍵の掛かっている部屋もあったがやはり人気はなかった。
不安に押し潰されそうだったが、そのまま暫く進むとやっとで開けた場所へと辿り着く。
そうして、抜きぬける風を感じた。
建物を抜けた先には、東屋があり中庭のような空間が広がっている。
やっと外に出たのか、と咲は小さく息を吐いた。
そのまま外へと向かう。このまま歩いていけば、街道にでも出るだろうか?
そうすれば荷馬車に乗れるかもしれない。
咲自身が置かれている状況がわからないこの現状より、
どこかの町にでも辿り着けば自分がどうすればいいのか判断できる。
多分、自分は何かの手違いでこんな場所に運ばれてきたのだろう。
間違いだと分かればいらぬ面倒事に巻き込まれるのは必然で。
その時、咲には何の後ろ盾も、親すらいないのだから反論する術がない。
ならばこのまま逃げてしまった方がいい。…その後どうするかは、町に無事ついたら考えよう。
無一文だが、身に纏う衣服と交換すれば暫くの旅費にはなるはず。
そう道筋を考え、続く芝生の上をサクリサクリ歩き始めた。
が、そんな思惑は5分ほど歩いた所で閉ざされてしまう。
咲は呆然と、途切れた芝生の向こうに広がる雲の海を見つめていた。
吹き抜ける強い風に視界を細めると、雲の合い間を縫って、雲の下にある街の明かりが確かに見えた。
そんな、馬鹿な―――――戦慄く唇でどうにか呟く。
咲「こ、ここは、空の……上?」
菫「雲海の上にある居城だからな」
独り言だった。
誰かに向かっていった言葉でもなかったが、それに対する答えが背後より届く。
咲は驚いて振り返った。
そこには背の高い、見覚えのある姿が立っていた。
秀麗な顔を僅かに顰めながら、咲だけを凝視するその眼差しは…咲の記憶を呼び起こす。
ここで目覚める前、咲が最後に見た姿だ。
やはりこの少女が咲をここへ連れてきたのか。
だが、見つかるのが早いと思う。
部屋を抜け出した時に人の気配はしなかったし、何よりあそこからかなり咲は歩いたのだ。
事実、少しの息切れと動悸を咲は覚えていた。
だが、目の前の少女は少しの体調の乱れもみせず、
まるで咲の後ろに立っていたのが当たり前という風情で佇んでいる。
咲「どうして、ここが…」
菫「私にあなたを見失えという方が無理な話だ。どこにいても居所は分かる」
咲「?」
意味がわからない。もしかして見張られていたのだろうか。
怪訝な表情を浮かべた咲の胸中などお構いなしに淡々と問われる。
菫「…ここにいる理由も確かめず、逃げようとしたのか?」
核心の言葉。しかも的確であり、咲は責められている気がした。
咲「………だって、こんな所、怖いじゃないですか」
知る人など誰もいない。むしろ、人すらいない。
尚且つ、空へと隔離されたこの景色。
なにもかも現実離れしている。
そう咲が吐き出した言葉をどう思ったのか……少女はその双眼をスゥ、と細める。
菫「元々、いた場所よりも?」
咲「…っ!」
鋭く指摘され、咲は咄嗟に包帯が巻かれた腕を擦った。
…手当てされているが、擦れば仄かな痛みを感じる。
確かに、今まで咲がいた場所は決してよい所だったとは言えない。
それでも、咲にはあの場所でしか生きていく術が無なかった。
生傷は耐えなかったが、あそこにいる限り咲は自分がどこに立って、何をすればいいのかは理解していた。
間違っても今のように、現状を理解できず足元が覚束無い感覚を受けた事はないのだ。
だから、ジリ、とその場より一歩後退する。背後より、強く吹き抜けてくる風を感じた。
そんな様子の咲へと、少女の言葉は続く。
菫「私の話を聞く気もないか?」
咲は頷く。咲には理解できる世界だけでいいのだ。
今までそうやって、目立たず生きてきた。
咲「聞いて面倒事に巻き込まれるのは御免です。…お願いです、下に降ろして下さい」
菫「………」
そう言い捨てた咲の言葉を聞き、一瞬見返す先にある紫色の瞳が動揺したかのように、ゆらり揺れた。
気難しそうな少女の眉が顰められ、思案するよう押し黙る。
そのまま、どれだけの時間が経過したのか。
きっと1、2分の事だったと思うが咲には凄く長い時間に思えた。
菫「なら、一つだけ。私の頼みを聞いてくれたら帰してやる」
咲「…頼み?」
訝しげに咲が聞き返すと、少女は浅く頷いた。
菫「今から、一文の文句を言う。他愛も無い、まじないのようなものだ」
菫「それを私が言い終えたら『ゆるす』と言え」
咲「???」
菫「『ゆるす』だ。それだけでいい。簡単だろう?」
咲「言えば、帰してくれるんですね?」
菫「ああ、……信じるか信じないかは勝手だがな」
そう硬く言い放つ少女の姿を、改めて咲は見つめる。
考えてみれば不可思議な存在だ。
どこからともなく現われ、こんな奇怪な所に住んでいる。
しかも、どんな手品かは知らないが彼女は人に恐れられる妖魔をも従えている。
決して普通の人間とは言えず、咲は少女に対して恐れを抱いてもいいはずなのに……
なぜか、そんな気持ちは沸いてこなかった。
多分、彼女は気難しい雰囲気を纏ってはいるが、いつの時も咲の意志を尊重しようとする。
体格を考えても、妖魔を従えるその力を考えても、咲に対してそんな譲歩など無用のはずなのに、
どうしてか少女は咲の声を聞こうとしていた。
なぜ……そう思った瞬間。
あの時、妖魔に怯え、咲が気を失おうとした時。
閉じる寸前の、視界の向こうで咲を気遣うようにして揺れた彼女の瞳を忘れてはいない。
だって、咲は生まれてこの方、あんな風に誰かに気遣われた瞬間など唯の一度も無かった。
だから、気が付いたら言っていた。
咲「…あなたは、嘘を付く様には見えないから…信じます」
その言葉が届いたのだろう、少女は一瞬目を見開く。
と、すぐに薄っすら微笑んだ。
気難しそうな雰囲気は成りを顰め、どこか嬉しそうに笑う姿を見るのは初めてで、
咲は自分がそんなに可笑しな事を言っただろうか心配になってきた。
咲「何ですか?」
菫「…いや、たかが言葉一つで。私も随分単純だなと思って」
咲「???」
混乱する咲を前に、少女は浮かべていた笑みを消すと一気にこちらへと詰め寄ってくる。
後ろに逃げる間さえ与えず、ずいっと眼前に立ち塞がった姿を咲は見上げる。
咲「あの」
声を掛ける。が、それに反応するでも無く、少女はすぐに目の前で膝を折った。
咲はぎょっとする。
突如消えた姿を追いかけ、下を向くとまるでそこに蹲るようにする少女の姿があって、
そのまま放っておけば彼女の頭が、自分の足に当たってしまうと焦った咲は足を引き下げようとする。
が、その足首をガシリと掴まれた。
咲「え?」
そのまま、掴まれた足の先、そこに少女の額が当たった事を悟ると同時に
その声が嫌に鮮明に辺りへと響いた。
菫「ゴゼンヲハナレズ ショウメイニソムカズ チュウセイチカウト セイヤクモウシアゲル」
言葉の羅列。
これがまじないの文句なのか。だけど足に触れる感触の方に強く意識が引かれて、
彼女が何を言ったのか咲には良くわかっていない。
菫「言え」
怯んだ咲を制するよう、鋭い言葉が飛ぶ。
咲「ゆ、…」
菫「はやく!」
怒鳴られ、ビクリと肩が揺れた。
酷く心が急かされ、言われたままに咲は叫んだ。
咲「ゆるす!」
瞬間、目の前で火花が散る。
雷に打たれたような、電流が体を駆け巡る衝撃に対して何の心構えもしていなかった。
痛いのかすら分からず、ただただ体を貫いていった強い衝撃に耐え切れず、咲の意識は途切れた。
そうして、次に目覚めた時は、芝生の上に大の字で寝っ転がっていた。
雲一つない薄暗い空を見上げ、吹き抜ける風を肌が感じる。
パチリ、パチリと瞬きを繰り返して、何か、違和感を覚えた。
それが何なのかは分からなかったけれど、芝生の上に起き上がると
隣よりカサリと芝生を踏み締める音がする。
自然、意識が引かれ横を向く。
そこには、吹かれる風に長い鬣を揺らして、じっと咲を見つめている美しい獣の姿があった。
咲「……」
咲は呆然と、その姿を見返している。
どこかで、この姿を見かけたような気がする。
普通の獣ではない。纏う雰囲気が、もはや違う。
それを証明するよう、獣は咲に向かって応えた。
菫「まずは謝罪を」
その声を聞き、咲は瞳を限界まで見開く。
だって、つい先程まで会話を交わしていた声だ。
間違いない。どこか硬く神経質そうな声は、咲をここへと連れてきた少女の声そのもので。
ならば、目の前の……額に一角を持つこの獣はあの少女なのか。
戦慄く唇を幾度か開閉させて何か言おうとするが …その前に、咲の脳裏に閃いた光景がある。
あれは、いつぞや商家の使いで街に出た時だ。
使い先の小塾へ行き人を待つ間。広い部屋の壁に掛けられた美しいタペストリーを見上げていた。
物語を描いたそれを見上げていると、やってきた小塾の先生が教えてくれた。
タペストリーに描かれているのはいつかの時代に立ったこの国の王と、それを支える神獣の姿なのだと。
煌びやかに描かれた人物の横に、一角を持つ獣の姿が確かに描かれていた。
あの獣の名前、商家を訪れた旅商人よりも幾度か、その名前を聞いた。
確か、国の王を天意で持って選ぶという神獣の名前。
咲は戦慄くからようやっと音を搾り出す。
咲「麒麟…じゃあ、さっきのは…」
菫「御察しの通り。麒麟が天意を得た王と交わす誓約」
菫「もはや貴方は、この国の王だ」
淡々とした声で喋り続ける目の前の麒麟を眺めながら、咲は返す言葉も失った。
菫「誓約により御身はもはや人では無く、神と成った。主上、どうかこの国を救って頂きたい」
咲「私…が?」
菫「貴方しかいない。この才州国にも、私にも」
そう言って寄ってくる獣は、咲の傍でゆっくりと頭を垂れる。
鼻先が咲の頬を掠め、艶やかな鬣の合間を縫って、紫色の瞳が揺れていた。
あの少女と、全く同じ色の瞳が。
咲「………」
ただ、その揺れる瞳に吸い寄せられるよう、延ばした腕の先……
手の平で眼前を流れる鬣を撫でた。
神獣と呼ばれる獣は、咲が触れても嫌がりはしない。
むしろどこか満足気に伏せられる瞳を見届けてからも、
咲は暫しの間、その鬣を撫で続けていた。
そうして、ふと、自分が感じていた違和感の正体を知る。
倒れる前までは確かに感じていた全身を覆う、緩やかな痛みが引いてたのだ。
どこまでも歩いていけそうな体力の源も、体の奥底にふつふつと感じる。
だけど、だけど。
この触れる先の、美しい獣を残していけと?
咲の、先ほどまで心中にあった気持ち。
ここから逃げるため、立ち上がろうとする気力は……もはや咲の中には残っていなかった。
■ ■ ■
とりあえずここまで。
続きというか別キャラ視点での裏話はまた夜に投下します。
乙乙
才国だったか。乙
乙
待ってたよ
おつー
乙
おもしろい
乙
また今日読めるのか有り難い
平凡な両親に育てられ、頭は悪く無く体格も悪くはない。
何をやらせても普通以上には物事をこなし、
尚且つ、持ち前の柔軟な思考を発揮し人付き合いに苦労した事もなかった。
そんな智美が官職になるための試験である科挙を受けたのは、育ててくれた両親を安心させてやりたいだけで
今のこの国を憂う気持ちなど少しもなかったと思う。
とりあえず、合格すれば一生、安泰した暮らしを約束されたと思ったし。
ここ才州国の前王が崩御したのは、智美がまだ小さい頃の話だ。
なので智美は王が平常無事に国を治めていた期間を覚えてはいない。
両親より、王が道を踏み外すまでは本当に良い時代だったと話にだけは聞いたことはあるが、
あくまでも話の中での出来事だ。
現状、こうして智美が見てきた世の中は、天変地異と出現する妖魔により疲弊した大地と、
そこから出てくる僅かな富に群がる畜生共の姿だった。
畜生とは、僅かに実った作物の値を吊り上げる悪徳商人はもちろん、
それに乗じて税を不正に吊り上げる役人も同じ括りになる。
正直者は馬鹿を見る、なんて、正しくその言葉通りの世界だ。
真っ当に生きようとすれば毟りとられるだけの世で、
平穏無事に搾取される側にも廻らない道といえば、官史になるのが一番手っ取り早いと智美は結論づけていた。
幸い智美にはその能力があり尚且つ人当たりも悪くない。十分やっていけると思った。
だから僅かに貯めていた小金を握り閉め、試験を受け、試験官にそっと賄賂を配ると
数日後には見事合格者の中に智美は名を連ねていた。
両親に報告したら本当に喜んでくれた。
智美は今まで、真っ当に生きて苦労してきた彼らを見てきたので、
合格した方法はどうであれこれでよかったのだと思った。
官として王宮に勤める限り、世間一般以上の賃金は約束される。
苦労してきた両親にも、多少は楽を味合わせてやれるだろうと…
智美はこの国の王宮勤めでの生活を始める事となったのである。
宮勤めを始め、智美が未だ主が不在の王宮を客観的に見渡し感じた事は、
前王が残した膿は未だ深いという事だった。
悪婦に溺れ、政治を省みなくなった前王に対して真摯に苦言を呈した忠臣は排除され、
都合のいい甘言だけを呈し生き残った奸臣だけで動かしている仮王朝だ。
前王が崩御し、その罪を誑かした悪婦にだけ被せ処断した奸臣達はこの十数年、
主がいない王宮を隅々まで牛耳り、まるで自分達がこの国の王のように振舞っている。
事実、未だこの国の王は選定されてはいない。
不在の玉座を見上げながら、どこか虚しい想いを抱いたのはやはり智美は関係無いと言いながらも、
心のどこかでこの国の人間だと理解しているからだろう。
両親のように真っ当な人間が、真っ当に評価され、生き易い世の中になればいいと智美とて思う。
だが、この膿が蔓延る王宮を見る限り…その心は容易く挫かれてしまう。
排除されると分かっているのに、道を正そうとするものはいない。
そんな仮王朝を十数年も維持し続けてきてしまったのが、この才州国の現実だった。
それから暫くは上辺だけの笑顔を浮かべ、智美は王宮を渡り歩いてきた。
文官が集まって会合を開いたとて、それが国の民のためのものでは無い事は明白で。
むしろ、どうすれば多くの税を民に掛けられるか、民より金を集められるかという話を
豪勢な食事を用意させながら行う。
果たしてこの準備された食事だけでどれだけの民の飢えが凌げる事だろう。
智美の脳裏に両親の姿が掠めた。
周りより胸糞が悪くなるような話を聞きながら、智美は愛想笑いを浮かべ続けている。
だけど箸を手に持ち、それを口元まで運ぶ事は最後までできなかった。
自分のそんな心情に戸惑いを覚えたのも事実で…
智美はこんな世界を覚悟の上で役人を目指したはずだが
現実、その世界を味わってみれば胸の内に芽生えくる葛藤に苦しんだ。
一番怖かったのは、こんな世界に自分が染まり切る事だったのかもしれない。
感覚が麻痺して、いつか自分も、周りの役人達と同じように民より金を毟り取り、
豪奢な食事を食べながら、それに対して罪悪感を抱かなくなるのだろうか。
そうして吐きそうになる想いをどうにか堪え、飲み込み、智美は小さく息をついた。
ある日の事だった。
いつもの文官の集まりだったが、何か雰囲気が違った。
人数も多いし、秘密裏で何かを行うという雰囲気でもない。
ただ広い卓の上に置かれたのは集まった人数分に対する茶器と茶請けで、内容はやはり豪勢なものだった。
下界では高騰している砂糖をふんだんに使用した甘菓子を見て、智美は煮え切らない心情込みで胸焼けを起こす。
きっと良い茶葉を使った茶にも自分が口を付ける事はないだろう。
貼り付けた笑みを崩す事無く、心情では現状に辟易しながらただ時間が過ぎるのを智美は待つ。
そうして、全ての文官達が席に着くと最後にこの室内へと入ってきた姿があった。
智美は初めて見る姿で、随分と背の高い少女だった。
自分と同じくらいの年に見えるその少女は案内された席の側に立つと卓を一瞥し、
開口一番に「用意した膳を下げさせろ」と鋭く言い放った。
どよめく文官の一人が「折角貴方様のためにも用意しましたのに…」と言葉を詰まらせるが彼女は顔を顰めて言い返す。
菫「これだけの菓子を用意するのに、民がどれだけ苦労すると思う?唯でさえ南は干ばつで作物が全滅だと言うのに」
文官「ですがっ」
菫「くどい。その南の地域を救うために備蓄を調整する集まりだったはずだが…」
菫「諸官らは、高価な甘菓子を口にしながら飢えに苦しむ民を想えるのか?」
文官「……」
居心地が悪そうに押し黙る周りの文官を眺めながらも、少女が言い放った内容に智美は胸がすく思いがした。
そこまで突っ込まれてしまったら、もはや誰一人、卓の上に用意された菓子に手を伸ばす者はいまい。
そんな官の様子を見渡した少女は、もはや席に着くことなく言葉を続ける。
菫「数字だけを出して簡潔に調整してもらおう。冬も迎えるし、その事も考慮してな」
だが、その声に応える声はない。
周りの文官、誰も彼もがただ居心地悪そうに少女とは目線も合わせようとしないのだ。
智美はその空気を敏感に感じ取る。
きっと、この腐った王宮内で長年培われてきた空気だ。
正論を述べる存在を煙たがり排除しようとする。
ある者は正論を拒絶するために視線を上げず、ある者は面倒事に係り合いにならないために横を向く。
そうして、物事が進まなくなり有耶無耶の内に私腹を肥やす畜生がいて変わりに民が死んでいく。
咄嗟に、智美は席を立ち上がった。
思ったよりも大きな物音が室内に響き、一斉に視線が智美に集まる。
様々な温度の視線を受け、最後に気難しい表情を浮かべながら智美を見返す紫色の双眼を見る。
気持ちは周りの同僚達よりも、少女に向かって智美は言い放った。
智美「僭越ながら、皆様もお忙しい身でありますし若輩の私が確認をし数字を纏めましょう。一日、お時間を下さい」
菫「……」
智美「長官殿にも後ほど、必ずご意向を伺いに参ります」
智美はそう言って、この場で最年長である文官に意向を仰ぐ。
年長者の彼の面目を守るためだ。その智美の判断は正しかったようで、彼は咳払いすると仰々しく頷いた。
途端、周りの文官も同調するように声を上げ始める。
そんな空気に納得したのか、最年長の文官が場を纏めるように宣言した。
文官「では、智美に一任する。よろしいか?」
菫「…ああ、後日報告を待つ」
少女は智美を一瞥し頷くと、一度も席に腰を降ろす事無くその場で踵を返した。
一斉に頭を下げる周りに倣って、智美も頭を下げる。
一人分の足音が遠ざかって行き完全に室内より出て行ったとわかると、一気に場の空気が緩んだ。
そうして、先ほどの年長者である文官が忌々しげに吐き捨てる。
文官「…新たな王を見つける事もできぬ獣が。小賢しい…」
その言葉を聞き、智美は目を見開くと同時に心中で深く納得した。
智美(あれが、この国の麒麟か…)
ならばあの若さで、周りの文官達が頭を垂れるもの分かる。
彼女は天意を得て王を選定する神獣であり、この国の台輔だ。
緊張が切れ、ざわつく室内にあって智美はここで生きていくための一つの道筋をやっと見つけたような気がした。
腐りきった王宮の中にあって、そんな周囲と同化もせず気高く正論を突き通そうとする麒麟の姿に
この国の残された良心を見たような気がする。
期待してもいいのだろうか、あの慈悲の獣に。
この沈み行こうとする国の中にあって、周りと同じように沈むのでは無く救おうと抗う彼女のように。
智美も、その力になれるだろうか。
そう思い至った瞬間、もう随分と会っていない両親が心の中で笑ってくれたような気がした。
それから智美は精力的に行動を起こすようになった。
始めからこの膿が溜まる王宮の中に在って智美は表立って反抗したりはしない。
幸いにもこの身は今まで人付き合いが良く人当たりも良かったので、誰からも敵対心を向けられてはいなかった。
無害で便利な若輩者として通していたのがここでの利点になったのだ。
尚且つ仕事もできるから、周りのコネだけで入った役人などは智美を頼るようになる。
そんな中で智美は、台輔と官との間を器用にも取り持つようになっていった。
台輔が出る会議には極力出席するよう調整し、その意向を汲んだ書類を作成する。
その際に正論だけを述べる台輔の意見だけを上官に報告すれば
波風が立つのは当たり前で、進む事案も進まなくなってしまう。
だから少しの賄賂の意味を含めた数字を上乗せして書類を作成し、事案自体を通りやすくした。
苦いとは思うが今はまだこうする事でしか物事が上手く廻らないのだ。
この方法で、南の地域へと廻す備蓄品はなんとか確保した。
ぎりぎりではあるが民が冬も越せる数字だ。
一息付きながら、智美は思う。
見渡す限り、この王宮の中に在って台輔には味方が少な過ぎる。
というか真っ当な正論を通そうとする人材が少な過ぎるのだ。
賄賂や私腹を肥やす事を前提に政をするのが当たり前となっている。
これが、十数年膿を落とそうとしなかった、この国のツケだ。
そのツケを何の罪咎も無い民が一番に背負う現状がある。
せめて、せめてどこかに必ず存在するはずの、新たな王が立ってさえくれれば。
この流れを、変えられるかもしれないのに。
そう切に願いながらも、智美とてもはや台輔である少女の苦悩も理解していた。
周りがこれだけ新王を願うのだから、それを選定する役目を担う少女へと圧し掛かる重圧は相当なものだろう。
だが会議等でみる限りあの少女がその辛さを顔に出す事は無い。
だからその姿勢を助けたいと智美が思うようになったのはきっと必然だったのだと思う。
今日中に纏めた書類を手に、智美は台輔の執務室へと向かう。
時間が時間だから、本人が不在でも纏めた物を執務室に置ければいいのだ。
文官長への調整はすでに済み、智美が纏めた事案は今回も一応は通った。
水害で発生した難民に対する慰労金だったが、その3割は役人の袖の下に消えてしまっている。
それでも、何も出ないよりはマシだ。
すでに薄暗くなってしまった廊下を歩いていくと、途中、暗闇の中に蹲る姿に気付いた。
目を凝らして、それが台輔だと分かると智美は慌てて駆け寄っていった。
智美「大丈夫ですか?」
そう声を掛けて、彼女と同じよう傍らに膝を付き少女の様子を伺う。
俯く様からは表情は分からなかったが、食いしばるよう唇を噛み締める様には気付いた。
「台輔」と短く呼んだが、彼女は手を貸そうとした智美の腕を押しのけて立ち上がる。
菫「大丈夫だ」
そう短く吐き捨てるが、智美が見上げる先には顔色が青くなった少女の様子が見えた。
智美「……」
どう見ても、大丈夫には見えない。
その事を更に言い募ろうかと思ったが、瞬間、ぐにゃりと地面が波打つ。
そこからズズズ、と這い出すよう姿を現したのは赤い毛並を持つ妖魔で、台輔の使令だ。
智美をそこに置いて、歩き出した背に赤い毛並を持つ使令が従うよう続く。
もはや深夜に差し掛かろうとする時間帯。
そんな中彼女がどこへ行こうとしているのかが智美には分かった。
智美(…王を、探すのか…)
智美が王宮に上がって暫くこの少女を見掛けなかったのもそのせいだ。
聞いた話によると、執務をこなし空いた時間ができるとこうやって王を探しに国中を巡っているらしい。
天意なるものが麒麟ではない智美にしてみれば、どうのようなものか検討も付かないが、
ここまで王の選定とは麒麟にとって過酷なのだろうか。
ただ去っていこうとする背中には疲れの色が濃く残り、
彼女がどれ程の無理を溜め込んでいるのかはよくわかった。
台輔にしてみれば王の選定に加え、こんな敵だらけの王宮であっては心休まる暇もないだろう。
誰も信じる事ができなかったのも良く分かる。
智美は地に膝を付け、唯独り、去っていこうとする背中を見上げながら悔しく思う。
今やこの王宮を、この国を憂うのは慈悲の麒麟だけではない。
少なくとも、その言葉を聞き、その姿勢を見て、目覚めてしまった智美がここにいる。
とりあえず思いついたら即行動の智美は、持っていた書類を足元に置くと勢いを付けて駆け出した。
去っていこうとする背に追いつくと、呼び止める変わりにその腕をガシリと掴む。
瞬間、すぐ隣より獣の鋭い唸り声がした。
向けられる獣特有の敵意をビシバシ感じたが、智美とて怯んではいられない。
いつまでもこの麒麟一人に国の重圧を背負わせる気はないのだ。
智美「台輔、貴方はもう少し周りを見返すべきだ」
智美が言い放つと、腕を掴まれた先の少女が胡乱気にこちらを見下ろしてくる。
菫「なんだと?」
訝しげな声。突然の申し出だから、当たり前の反応か。
だが智美は怯まずに言葉を続ける。
智美「独りで全てを背負い込もうとする貴方の気持ちは分からないでもない。けど貴方と同じ立場に立とうとする者はいる」
少なくとも、ここに一人は。
智美が見上げる先の、紫色の瞳が驚いたように見開かれる。
智美「台輔がどこかにいる王を信じるように、どうか、この国の民も信じて頂きたい」
菫「お前…」
掴んだ腕を離し、その姿へと続けて訴える。
智美「王がいない今、あなたがこの国に残された良心なんだ。倒れてもらっちゃ困る」
眼前の少女だけが、この膿の吹き溜まりのような王宮の中にあって唯一、
民の側に立ち意見を言い続けてきた。それを、智美は見てきたのだ。
ついつい言葉に少しの素が出てしまったが、言いたい事は言った。
後は、台輔の出方を待つ。だけだが……
彼女は未だ唸り声を上げて智美を威嚇していた使令に手の平を翳し宥める。
そうしてから、改めて智美に向き直ると静かに尋ねた。
菫「何度か集まりで助けてもらった事があるな、見覚えがある。名は?」
智美「智美と申します」
菫「智美か。覚えた」
浅く頷いた台輔は、体を半分だけ反転させる。
智美が止めたのにも関わらずまた王を探しに行こうとするその姿に、思わず体が前のめりになる。
が、智美が何かを言う前に半向きしたままの姿勢で彼女はぽつりと呟く。
菫「一つだけ、訂正しておこう。私は王を探すのを苦だと思った事は無い」
智美「え?」
菫「むしろ、会えない事が辛い。そのために私は生きているようなものだからな」
智美「…台輔」
いつの時も前だけを気高く見据えていた少女の、どこか寂しげな姿に智美は返す言葉が思いつかない。
智美が呼ぶと彼女は応えるように薄っすら笑った。
菫「ただ執務は少しだけ苦痛に思っていた。いらん事案が多すぎて気が滅入っていたが、ここ暫く落ち着いていたな」
お前が助けてくれていたのだろう?と続けた少女の言葉に、智美は素直に驚いた。
台輔が自分の行動の真意に気付いていたのかと思うと同時に、その眼差しをじっと智美へと向けてくる。
菫「智美、ここで私はどうすればいいと思う?」
ここで。この、膿が蔓延る王宮の中にあって、唯一の国の良心のために何をすればいい。
智美は考えるよりも直感で、彼女の問いに答えを返していた。はっきりと。
智美「貴方の味方を増やすべきだ」
もはや沈むしかない仮王朝に同調する馬鹿はいらない。
いずれ必ずこの神獣が見つけ出してくれるだろう新たな王を迎えるためにも
真っ当な思考を持った、この国を生き返らせるための同志が必要だ。
そんな智美の言葉を聞き台輔も思う所があったのだろう。彼女は頷いた。
菫「わかった。力を貸してくれ、智美」
国を導く神獣から、直接の御達しだ。
その願いに臣下である智美が逆らう理由も無い。
両腕を上げて胸の前で拳を合わせる。
眼前に佇む神獣へと向かい、智美は「御意」と深く拝礼した。
そうして、王宮の中にあって地盤を固める作業が始まった。
智美は今まで過ごした中で、こちら側へと引き込む人材にはある程度目星を付けてはいる。
視野を広くして人と物事を見渡すのは嫌いじゃなかったし。
重要なのはこちら側に引き込んだ人物が、信頼に足るかどうかだ。
結局、権力や金に目が眩んで後に裏切るようならばこちらの足元が掬われる。
もっぱら現在の権力者より煙たがられている人物は有力だと思うが。
報告に向かった台輔の執務室において、智美は部屋主に幾人かの候補名を上げておいた。
後日、顔合わせしてみようという事を伝え、その了承を取る。
すると途中、台補が何かに気付き智美へと言った。
菫「台輔とかまどろっこしい。菫だ、内輪では菫でいい」
智美は反射的に大きく頷く。打てば響く。そんな感じで。
智美「了解した。菫ちん」
菫「…………菫ちん?」
智美「ワハハ。ちょっと砕けすぎたかな?」
目の前の神獣に尋ねたら、なんとも言えない渋い顔をされた。
菫「……まぁ、その……好きにすればいい」
どこか呆れの色を含んだ菫の言葉を聞き智美は笑った。
そのまま言い募りはしなかったが智美とて場の空気は読める。
あくまでもこの砕けた本性を曝け出すのは、堅すぎる台輔との内輪話の時だけだ。
智美が楽なのもあるが、この少女に対しても僅かながらの気休めになってくれればいいな、とは思う。
王のため、国のため、民のためにと心を傾ける菫は、いつの時も尖った雰囲気を崩さない。
智美はそんな彼女の硬い表情しか見たことがなかったから。
表立っては見せず、水面下で台輔に同調する仲間を智美は増やしていく。
こうやって動いてみて気付いたのだが、智美は物事の中間に立ち、人との間を取り成すのを苦には思わなかった。
むしろ様々な人間性があるのを発見できるのが面白いと思える。
その中でも権力に媚を売る畜生共に対してはかなり敏感に感じ取っていた。
上辺だけで浮かべる笑顔ならば智美に勝る者はいない。
気安い人柄で近づき、相対する人間の本性をゆっくり嗅ぎ取る。
そうして、一人、また一人と。
いずれ、必ず、この国のために立ち上がってくれる志を宿した人間だけを智美は探し続けた。
そうやって日を重ねる中で、ある日の事。
智美と、信頼できる同じ文官と朝の打ち合わせを行うため、台輔である菫の執務室へと向かう途中。
大きな音と共に向かうべき先の扉が突然、勢いよく開かれた。
びっくりして立ち止まった二人の前に、室内から飛び出してきたのはもちろん部屋主である菫で。
彼女は、珍しく焦ったように何もない上空を何度か見渡すと、すぐにその足元より使令の獣を呼び出した。
文官「台輔?」
智美の隣に立つ文官が訝し気に声を掛けるが、それに反応する事無く……
というか、智美達の存在に未だ気付いてないような気がする。
実際、菫は結局こちらを一度も見ずに、呼び出した使令の背に跨ってしまう。
と、その四肢が地を駆け出し始める。
智美「あ…」
今度は智美が呼びかけようとしたが時すでに遅し。
反対側に続く廊下へと勢い良く駆け出して行ってしまった後ろ姿を二人して、呆然と見送っている。
一瞬の出来事で智美と文官 、どちらともなく向き合った。
智美「どうしたんだろーな?」
文官「随分、急いでいるようでしたが…」
智美「まぁ…うーん。暫く待ってみるかな」
そう智美が言うと、文官も異論は無いようで頷いた。
どうせ宮内においては休日に当たる。
そのまま台輔の執務室にて、持ってきた書類を纏めながら二人してかの少女を待つ事にしたのだった。
それから午前中は何も音沙汰がなかった。
女御(召使い)が準備してくれた昼食を取りつつ、書類を纏める作業をずっと続けていた二人だったが
……さすがに夕方に差し掛かった頃。
今日はもう切り上げた方がいいですかね、と文官が智美に声を掛けたらタイミング良く部屋の外が慌しくなった。
遠くから女御の声が聞こえ、やっとでここの部屋主が帰ってきたのかと廊下の外へと様子を見に行く。
扉に手を掛け、それを内側へと引いた瞬間、目の前を大急ぎで通り過ぎようとした菫の姿があった。
智美「台輔?」
菫「!」
気付いたように立ち止まった菫が、智美を振り向く。
そこで智美も菫がその腕の中に、布で包まれた何かを仰々しくも抱き込んでいる事に気付いた。
まるで人程の大きさだな、と智美が思った瞬間、包む布の合い間を縫って栗色の髪の毛が見えた。
智美は驚いて、菫を見上げる。
菫「今は説明する暇がない。後で呼ぶ」
菫はそれだけを短く智美へと伝えると、再び腕の中の存在を抱え歩き出す。
通路の先にいた女御が彼女を迎え、共へと奥に消えていく姿を智美は呆然と見送っていた。
それから、智美は言われた通り辛抱強く執務室に残って彼女を待ち続けている。
一緒にいた文官には時間も時間だし先に帰ってもらった。
温くなった茶を啜り、集中できずに指でぴらぴら書類を弄びながら智美はひたすら待つ。
何故だか理由を聞くまでは帰る気にはなれなかった。
そうして、どれくらい時間が過ぎただろう。もはや室内にいても夜の静寂を色濃く感じる。
きっと深夜に差し掛かっても不思議では無い頃合だ。
それでも智美は呼ばれないし、菫も帰ってこない。
智美「………うぐぐ、よし!決めた!」
僅かに残っていた茶を一気に呷ると智美はその場に勢い良く立ち上がった。
そうして、迷うことなく廊下へと駆け出していった。
進む廊下の先に、僅かに光が洩れている一室を見つけた。
智美が訪れたこの区域が、台輔としての菫に与えられた居住区域であるのを知っている。
高い地位故に、与えられた場所は広かったが菫はあまり人をそこに入れようとしない。
本人曰く自分でできる事は自分でやるし、手を出されるとかえって煩く思ってしまうので
最低限の生活の手伝いをしてくれる女御だけを置いているのだという。
余計な事を言わぬ、もの静かな佇まいが印象的な初老の女性だったはず。
智美もその女御には何度か会った事はあるし、先程も菫と一緒にここへと消えていった姿を見かけた。
さすがに深夜に差し掛かる時間帯でもあるし、菫であればすでに彼女は下がらせているとは思うが。
ならば、目の前の光が洩れる部屋にいるのはここの区域の主である菫しかいない。
きちんといるんじゃないか、と憮然とした面持ちで智美は光の筋が続く先へと近づいていく。
微かに空いたままの扉、その隙間よりそうっと智美は室内を覗いた。
そうして、覗いたままの姿勢で暫くの間、智美はその場より身動きする事ができなかった。
室内は仄暗い。
灯された明かり一つだけで照らされる部屋は、広いはずの室内を思う以上に狭く見せている。
ただ、その光が灯る中心に見えたのは、この部屋に備え付けられた寝台で。
その広すぎる白いシーツに力無く横たわる姿を智美は初めて見た。
菫や智美と同じぐらいの年頃の少女に見えた。
じっと寝台の上に横たわるその少女だけを見つめる菫の視線は平常にも増して険しい。
まるで儚い風情の少女が消えていくのを許さぬよう、力無く投げ出されたその片腕を手に取り
細い指先を口元へと押し当てたまま、菫は微動だにしなかった。
智美はそんな雰囲気の菫を初めて見る。
神獣であるがため、どこか淡白な印象が強く残る菫ではあったが
こうして一つの存在に対して強い執着を見せる姿を意外に思う。
同時に、智美は閃いた。
神獣と定義される菫の、その強すぎる執着が滲む姿勢の意味するところ。
もはや、閃きは確信に近い。
無意識に手の平が触れる先の扉を押していた。
ギィと響く音に、見つめる先の菫の肩が小さく揺れる。
彼女は口元に当てていた指先を離し、ゆっくり智美へと振り返った。
菫特有の紫色の双眼と確かに視線が交わったのを悟ると智美は抱いた確信を、呟く。
智美「見つけたのか」
そう呟いた智美の言葉に主語はなかったが、言われた意味を菫ならば理解している。
事実、彼女は智美の前で一度、寝台の上の姿を一瞥するとゆっくりと頷いた。
智美「………」
静かな衝撃故に、智美は続く言葉を咄嗟に思いつかない。
ただ、代わるよう仄暗い室内へと一歩、二歩と進んでいく。
そうして寝台の側に座る菫の側へと辿り着き、彼女が数多に存在する人の中から選んだ姿を見下ろした。
菫「…不安か?」
菫の問い掛けは、きっと智美が見つめる先に横たわる少女の姿に対してだろう。
確かに、彼女は自分や菫よりも格段に華奢で儚げで頼りない体格に見える。
しかも仄かな明かりに照らされる頬は痩せこけ、手当てされた白い包帯が異様に際立っている。
果たして、この少女が今までどんな場所にいて、どんな扱いを受けてきたのか智美とて容易に想像が付いた。
きっと、幸せだとは言い難い境遇だったに違いない。
だから、頼りない姿だと言ってしまえばそこまでだけど。
それだけではない事を、智美は菫を通して知っている。
不安か?その問いに対して、智美は首を左右に振って否定する。
智美「菫ちんが選んだ王だ。きっと…この国を救ってくれる」
そうだろう?あえて軽く言い返すと、智美の答えをどこか構えながら待っていた菫は
肩透かしを食らったような表情を浮かべる。
が、すぐに智美の真意を理解したようで菫は苦笑を浮かべた。そして頷く。
菫「ああ」
否定しない菫の声。こういうのは王バカとでもいうのだろうか。
ただ、どこかホッとしたように目尻を緩めた菫の視線は、彼女の、唯一の主へと一心に向けられていた。
その後、智美は菫より今まで起こった詳細を聞いた。
突如とて感じとった王気を辿り、迎えに出向いた先での出来事諸々。
王たる儚い風情の少女はある商家の下働きだったらしいが。
そこでの扱いが、菫から見たらとてもじゃないが許容できるものではなかったらしい。
まぁ、痩せこけた肢体や負った外傷を見る限り、その怒りは智美とて理解できた。
口にするのも嫌そうに顔を歪める菫の言葉に相槌を打ちながら、
智美は彼女に言われた通り、後日その商家に対して監査を入れる事を了承した。
こんな世の中だから、きっとその商家は氷山の一角に過ぎないだろうが。
廻りへの牽制を含めた見せしめにはなるだろう。
だが、いつかはもっと根本よりこの国の腐った仕組みを覆さねばなるまい。
そのためにも、麒麟と誓約を果たした正規の王が必要なのだ。
智美「え、まだ誓約してないのか?」
菫「その前に気を失ってしまったんだ」
智美「菫ちん…まさかそのまま何の説明もなしに攫ってきた訳じゃないよな?仮にも仁の獣だろ?」
菫「??王気を纏っているし、間違い無く私の主だ。ここに連れてくるのは当たり前だろう?」
智美「……ワハハ。目を覚ました時に混乱しなきゃいいけどなー……」
どこか一般の感覚とずれているこの国の台輔に、智美は多少呆れておく。
が、そんな心配などせずとも数日間、名前も知らぬ菫の主が目を覚ます事は無かった。
誓約を交わさず神籍にも入ってないから余計、体調不良が続いているのかもしれないと
世話をしてくれた女御は言っていたが。
2日後ぐらいしてとうとう、熱を出し始めてしまった時の菫の狼狽振りといったらなかった。
息を乱し赤く染まった顔を見下ろして、青くなってしまった菫が
彼女を無理に抱き起こそうとしたのを智美と女御の二人で慌てて止める。
智美「おいおい、菫ちん、やめろー!」
菫「離せ!はやく、誓約を…私を置いていくのは許さない…!」
智美「お、重っ!?そんな深刻に考えなくても」
女御「台輔、今までの疲れが溜まってらっしゃるだけです、お、落ち着いて下さい!」
智美は酷く脱力した。と同時に仕方ないかな、と思う部分もある。
多分この神獣たる少女は自らの胸の内に渦巻く感情でいっぱいいっぱいなのだ。
智美とてどんなに菫がその身を粉にして自らの主を探してきたのかよく知っている。
その存在が確かに目の前にいるというのに、麒麟として心を通い合わせる事もできない現状に酷く戸惑っていた。
だからこんなにも菫は苛々し続けているのだ。
だが、しかし。彼女にはこの国の台輔としての役目がある。
真面目の代名詞みたいな奴だから、心ここに在らずの癖に菫がその役目を疎かにするような事はない。
ただ、役目が終わると今までのように外へ向おうとはせず、
変わりに自らの内殿に引き篭もるようになってしまったのだから周囲は不思議に思っただろう。
ちなみに、麒麟と誓約を交わしていないのならば未だ眠り続ける少女はまだ王ではない。
ならばこの存在を表立って知らせる事もないだろう。
新たな王の存在を知れば、保身のため取り込もうと躍起になってくる畜生共の姿は容易く想像できた。
菫「せめて誓約を果たし、現状を理解して頂くまでは公にしないほうがいいだろうな」
智美「だな。あいつら、新王が出てきたら必ず自分達の都合のいい事しか言わないぞ」
そうやって今までこの王宮にて権力を思いのままにしてきた畜生共だ。
見苦しいな、と心底嫌そうに呟く菫に対して、智美も違いない、と人が悪そうに笑った。
次の日の、官の集まりの時での事だった。
代わり映えの無い奏上を官が読み上げる中にあって、突如として勢い良く立ち上がった姿があった。
座っていたはずの椅子が倒れ、その音が広い室内によく響いたため集まった全ての官の視線がそこへと向かう。
智美も同じで、自らの視線を向けると……珍しい事に、台輔の長身が見えた。
周りがざわつき始める中にあって、彼女はその場に立ち竦んだまま微動だにしない。
ただ何も無い空間をじっと睨み上げている姿を不思議に思った。
まるで自分達には見えない何かが、彼女には見えているような視線。
…そういえば、そんな姿を、つい最近智美は見かけたような気がした。
あれは、確か…と思い出そうとしたが、
先に台輔である菫が、突如として動き出したから思考は中断した。
ざわつく周りを気にも止めず、その場で踵を返した彼女は早足で歩き出す。
側に付いていた官が慌てたように、その背に声を掛けたが振り返る事も無く
菫はあっという間に室内から出て行ってしまった。
後に残された官達が訝しげに言い合う中、結局この集まりが終わっても菫が戻ってくる事はなかった。
菫の様子が気にはなった智美は、仕事が片付いたら顔を出してみようかなと一人廊下を歩いていた。
丁度行きかう人も無く、人気の無い廊下へと足を踏み入れた瞬間。
ぐにゃり、硬い床が波打った。
驚き智美がそこで足を止めると、目の前の地面から姿を現したのは鳥の羽を生やした女怪の姿だった。
智美はすぐにそれが菫の使令だと思い至る。
現れた彼女は感情を含まない声で智美へと伝える。
『台輔がお呼びです。主上がお目覚めになられたと』
智美「!」
『どうぞ。東の、中庭へ』
智美「??なんで、そんな所に」
『丁度女御が席を外している時にお目覚めになられ、無理に動かれたようです。急ぎ、台輔が王気を辿りました』
それでか、と智美は先程の菫の様子に合点がいった。
先ほどの何もない空間を睨み上げていた菫の様子。
あれは、彼女にしか感じ取れない王気を辿る仕草だったのか。
と、同時に智美は麒麟の少女に向かって、ほら見たことか、と言ってやりたい。
付き合い始めてわかるのだが、菫は真面目すぎる上に不器用過ぎる。
しかも言葉が足りない癖に、行動力だけはあるので更に手に負えない。
まだ何の説明もしていない主に対して、あの不器用すぎる様で彼女の真意を上手く伝え切れるのだろうか。
智美はとても心配になってきた。
とりあえず知らせにきてくれた使令へ了承の意を伝えると、
智美は言われた通り中庭へと早足で向かった。
そうして、この日に見た光景を生涯忘れないと思う。
薄暗くなった中庭の中でも、その姿は浮かび上がるよう目に焼きついている。
視線の先に佇む少女に対しては、弱々しく目を閉じている儚い姿しか見たことがなかった。
それが、今、確かな意思を宿した双眸を持ってして智美を見返している。
確かに全身は今までの辛い生活のせいか痩せ細ってはいるが、見返してくる瞳に怯えや嘆きは無い。
それに少女の傍らには、珍しい一角を掲げた獣が寄り添うように付き従っている。
一つの国に、たった一頭だけ存在する麒麟の姿。
それが今、確かに隣の少女に向かって深々と頭を垂れた。
智美は目を見開く。
神獣である麒麟は、相手が神仙であろうと他者に頭をさげることは本能的に不可能な孤高の生き物。
だがしかし、その麒麟が唯一叩頭する存在がある。
自らが、天意を持って選定した主たる王がそれだ。
つまりこの瞬間、智美が見つめる先に佇む少女は麒麟との誓約を経た、
正真正銘の、この国の王だという事。
智美は咄嗟に込み上げてくるものを飲み込んで、その場に膝を付いた。
湧き上がる熱を堪え、眼前の対の存在を食い入るように見つめる。
ここにやってくるまで智美は自分自身をそんなに愛国心の強い人間だとは思っていなかった。
むしろ、生きるための選択の結果でしかなかったのに。
ただ訪れてまじまじと眺めてきた歪みが酷い王宮の光景は自分の心境に変化を与えた。
そして、今まで生きてきた自分の国を省みて……どうしようもなく虚しくなったのだ。
王がいなければ天変地異の果てに人の心も容易く歪んでしまう。それが当たり前になってしまう。
事実、智美は麒麟の少女に出会うまでは半信半疑、その世界を許容していた。
でも、違うと気付いたのだ。
智美の平凡な両親が真っ当に評価され、真っ当に生きていける世界を願う事はいけない事ではない。
この国の、本来の姿。
王が平常に存在する世界になれば、人は、きっと今よりも遥かに希望を胸に抱いて生きていけるはず。
智美は、先に王たる少女の傍らを佇む麒麟を見る。
実際、人としての付き合いはあったが神獣としての彼女を見るのはこれが初めてだった。
けれどその鬣の奥にある紫色の双眸は、確かにあの少女と同じもので。
その視線と絡んだ瞬間、麒麟が智美に向かい頷いてくれたような気がした。
その動作に智美の行動は後押しされる。
麒麟の横に佇む王へと智美は向き直る。
両膝を地に付け、両方の手の平を地に付ける。
静かな湖面のような瞳を見上げ、そして次の瞬間、その姿に向かい深々と叩頭した。
智美だけの願いではなく、この疲弊してしまった国の大地と、そこに生きる全ての民の願い。
大丈夫。菫が選んだ王だ。
その想いを込めて、智美は叩頭したまま一声を張り上げた。
智美「長らくお待ちしていました。主上」
きっと、この国は生まれ変わる。
■ ■ ■
今回はここまでです。
次はまた金曜日に投下予定です。
乙乙
乙
十二国記全く知らないけど黙々と集中して読んじゃう
ワハハのキャラ良いな
乙乙
なるだけ紆余曲折なく導いてってください
すばらです
面白いね。続き期待
朝、いつもの時間に起きるのは習慣で。
今日とて起床の時間になれば自然にぱちりと瞼は開く。
見上げる先に映る天蓋は変わらぬ光景だったけれど、
それを見上げている自分の心境は昨日までとは明らかに違った。
起き上がるよりも、何かを動作するよりも先に……意識が一つの気配を探す。
すぐにあの気配を確かに探し出し、安堵するかのよう口元は緩んだ。
やはり夢ではなかった。
そう確信を持ってから、上体を起き上がらせ寝台より両足を下ろす。
と同時に、床が不自然に波打った。
ズズズと床の平面より這い出すよう姿を現したのは 六ツ目の虎のような獣。
その赤い毛並を揺らした体躯が自分の足元へと辿り着くと、頭を深く垂らした。
『台輔、お呼びで』
問われ、浅く頷く。
菫「何も変わりはなかったか?」
『はい、恙無く。ただ、ずっと気を張られているようで…眠りは浅かったよう感じました』
話を聞きなるほどな、と相槌を打った。
菫「それで、もう起きているのか。…すぐに向かう。お前は引き続き傍に侍り守れ。決して目を離すなよ」
『御意』
会話を終えた瞬間、赤い毛並を揺らす獣の体躯が再びズズズ、と堅いはずの床底へと消えて行く。
獣の毛先一本、完全に消えてしまったのを確認してから徐に寝台より腰を上げた。
これからはいつもの朝を送る動作でいい。
まずはきちんと身嗜みを整えてから…御前に馳せ参じねばと考えていた。
■ ■ ■
咲が所在無さ気に広すぎる寝台の隅に腰を降ろしてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
商家で下働きをしていた頃の生活を体がよく覚えているから、日の出前に目は覚めてしまった。
本来ならば他の下働き達と一緒に薪割りや水汲み等、朝の仕事をしている時間帯のはずだったが
質の良い寝巻きを身に纏い、自分にしては広すぎる部屋に置かれた、
これまた立派な寝台に腰掛けている現実はなんとも居た堪れない心地にさせた。
何かしなければ、働かなければという概念はもはや染み付いてしまっていて。
だけどそんな事をする必要がないと知らされたのは……つい昨日の事だったはずだ。
朝になり、確かに夢から目覚めたはずだと思っていたが
こうして立派過ぎる部屋にいる現状では、咲は未だ夢を見ているような心地でしかなった。
下働きしていた頃は、仕事に追われ余計な事を考える暇もなかったのだが
こうして一人、立派すぎる部屋に置かれているといらぬ事を考えてしまいそうだった。
自分が王様とか、やっぱり夢なんじゃないかとか。勘違いだったんじゃないかとか。
咲は落ち込みそうな思考に気付き、ハッと顔 を上げると振り切るようにぶんぶん頭を左右に振る。
いけない、取り合えず体を動かそう。
そうだ。いつものように掃除でもしてれば気が紛れるかもしれない。
こんな立派な部屋なんだし、せめて自分が使わせてもらった礼も兼ねて拭き掃除や掃くぐらいはするべきだろう。
そう決めると床に降り立ち、部屋の隅に雑巾や箒がないかを探す。
だが、どこを見ても立派な調度品や細工が施された柱や壁が続いているだけで。
引き出しを開けても同じようなものだった。
金曜になってすぐに続き書いてくれてありがたい
楽しく読ませてもらってます
…なるほど、元々咲がいた粗末な共同部屋とは次元が違う。
掃除用具なんてものを置くはずがないじゃないかと今更ながら気付き顔を赤くした。
本当に、昨日までの自分の世界と余りに違いすぎて。
今一度ため息を落とすと部屋の外へ向かおうとした。
この部屋にないのならば、外の違う部屋にでもあるのかもしれない。
咲は細かな細工が施された扉の前に立つと取っ手に手を掛け、それを押して外へ出ようとする。
だが、自分が扉を押す途中……なぜか扉が自動的に外側へと開かれる。
取っ手を持ったままだった咲の体は心構えもしていなかったから、
自然、引かれた扉と一緒に一気に前へと引っ張られてしまった。
あれ、と思った瞬間。
頭上より静かな声が振ってくる。
菫「何をしている」
取っ手を持ったままに頭上を見上げると。
開いた扉の間より、自分をじっと見下ろしている背の高い少女の姿がある。
秀麗な容姿は出会った頃と変わらず……その紫色をした瞳を認識した瞬間。
咲は先日に触れた、神獣の姿を鮮明に思い出していた。
この片腕を伸ばし、解いた鬣の感触も良く覚えている。
だから彼女へと返す言葉も忘れ、まじまじとその姿を見上げてしまった。
だって、未だに信じられない。……こんな綺麗な人の、本来の姿があの神獣だという事実が。
菫「主上」
咲「………」
菫「聞いているのか?」
咲「……あ、私の事ですか?」
自分の事を言われていると気付かなかった。
だが、ここにいるのは咲と麒麟の少女だけで。
そういえば昨日もそう呼ばれた気がしたけれど実感が沸かない。
ただ、先ほどからどうにも反応が薄い咲を不思議に思ったのだろう。
見上げる先の紫の瞳が怪訝そうに揺れる。
菫「貴方以外に誰がいる。なにより、他者など私が認めん」
迷いない、強い口調の声。
自分が言われた訳でもないのだが、慌てたように咲は手を掛けていた取っ手を離すと、
「すみません」と声を上げ後ろへと下がった。
怪訝な顔つきはそのままだったが、咲が下がった事を確認してから
彼女は中途半端に開いたままの扉を完全に引き、そして咲を追うようにして室内へと足を踏み入れる。
無意識に緊張した咲の喉がコクリ、と鳴る。
はっきり言って、必要以上に緊張してしまうのは仕方ないと思う。
だって、どう考えても眼前の少女と、自分とでは今まで生きてきた世界が違い過ぎるのだ。
この立派過ぎる部屋に彼女は溶け込んで見えるけれど、
それを眺めている咲はやはり場違いな気がしてならない。
菫「………先ほどの」
突如声を掛けられ「え?」と肩が震える。
思わず言葉の途中で言い返してしまったからだろうか。眼前の少女の眉間に皺が寄った気がした。
機嫌を損ねてしまったのかもしれないと、咲は焦るが。
彼女はそんな自分を尻目に、言葉を続けた。
菫「先ほどの問いに、まだ答えてもらっていない」
咲「問い?」
菫「こんな早朝に扉を開け、どこに行こうとしていた?まさか心変わりをしたのではあるまいな」
菫「王になる事は了承したはず。まさか、また逃げようなどと…」
咲「!?ち、違います!違う、そうじゃなくて…」
菫「では、なぜ外へ…」
詰め寄ってきそうな気配を感じ取り、慌てて咲は言葉を返す。
咲「あの、情けない話ですが。こんな立派過ぎる部屋に一人でいると、色々と不安な事が浮かんできてしまって」
咲「だからいつものように掃除でもして気を紛らわせようとしたんです」
咲「でも、道具が見付からなかったから外へ探しに行こうかと……」
菫「…掃除?」
咲「はい」
素直に頷く咲を一瞥し、彼女は訝しげに歪めていた表情を一応は緩めた。
刻んでいた険は薄くなったが……変わって呆れた空気が彼女の気配に滲む。
菫「……王である貴方がする事ではない」
咲「でも、この部屋を使ったのは私ですからこれぐらいは…」
菫「必要無い。他にする事は山とある」
続こうとした咲の言葉は、途中で容赦なく断ち切られる。
その強い口調に、咲は自分が責められている気がして自然と怯えるよう口を噤んでしまった。
次いで、鋭く向けられる眼光から逃げるように俯く。
実際、怖いと思った。
脳裏に浮かんだのは……商家での生活で。
暴虐不尽な主人により一方的に責められ続けた日々を思い出し身も心も竦んだ。
余計な事は言わない、目立ってはいけない。
そうやってひっそりと生活するのが一番、安全なのだと今まで信じてきた。
眼前に立つ少女より向けられる鋭い眼光はかつての主人を思い出し、途端に何か言葉を返す気力も萎えた。
咲は下を向いたまま、じっと嵐を過ぎ去るのだけを待ち続けた。
互いに無言のまま、どれくらいの時間が過ぎたのか。
気付いたのは俯いたままでも鼓膜へと届いた…深いため息の音が聞こえたからだった。
ビクリ、と体が震える。だが咲は顔を上げる事はできなかった。
だって、顔を上げて眼前に立つ少女の、更に深い落胆が浮かぶ顔を見るのだけは嫌だった。
自分から顔を伏せて逃げた癖に、期待外れだったと見られるのが、思われるのが嫌なのだと感じている。
自分でも随分虫のいい話だと思った。
でも。顔を上げて…彼女より帰れ、と容赦なく言われれば。
まだ傷は浅い内に、夢のようなこの現実から目覚める事はできるのではないかと気付く。
だから俯いたまま唇を噛み締めると、意を決して咲は顔を上げようとした。
だが。顔を上げて、咲の視界に見えたのは…背を向けた少女の姿で。
想像していた通りの拒絶の言葉はなかったけれど。なにか見限られたような気がして心がチクリと痛む。
思わず「あの」とその背に咲は声を掛けた。
すると彼女は出て行こうとする足を止めた。が、背を向けたままに言う。
菫「…まずは食事の用意をさせる。それが終わったら、これからの事を詳しく話すから」
いいな、と言われ反射的に了承の返事をする。
そんな咲の声を聞き届けたのだろう後ろ姿は、他には何も言わずに歩き出す。
そのまま扉の向こうへと消えて行き、重厚な扉は閉められた。
残された咲は、再び朝の静寂の中に一人。
広すぎる部屋の中に在って、所在無く佇むしかなかった。
■ ■ ■
やる気に目覚めた智美は、徹夜で処理し続けた書類の山を抱えながら意気揚々とやってきたのだが。
扉の外より声を掛けて、まずは反応が無いのを不思議に思った。
2度、3度と声を掛けても返事がないのを訝しく思う。
結局、書類を抱えたままの腕が上げた悲鳴に負けて、痺れを切らせて勝手に扉を開けて中に入って行ったのだが。
まずはキョロリと室内を見渡した限り姿は見えない。
きっと奥の個人的な執務室にいるのだろう。
何があったかは知らないが、こうも反応がないのならば彼女の機嫌は期待しない方がいい。
どうしたというのか。折角彼女が長く探し続けていた王も無事に見付かったと言うのに。
取り合えず、智美は入ってからすぐにある机台に抱えていた書類の山をドサリと預ける。
そうして開放された腕の痺れを払う意味も込めてぐるぐる廻しながら、奥に続く部屋へと向かった。
案の定、覗いた室内の先、奥に置かれた書斎机の向こうに。
こちらに背を向けて椅子に座り込むこの部屋の主の姿を確認した。
智美「何回も呼んでるんだがなー…どうしたんだ?菫ちん」
背中が怖いぞ、と軽い調子で声を掛けると、眼前の菫が纏う剣呑さが増したような気がした。
おっと、これはいらぬ火に油を注いでしまったか、と智美は苦笑いを浮かべながら更に奥へと進む。
重厚な書斎机に手の平を置き、その向こうで相も変わらずやってきた智美へ背を向け、
無言を突き通し続けるこの国の台輔に負けじと名を呼んだ。
智美「おーい、菫ちん。こんな近くで呼んでも気付かない程、耳が遠くなったのかな?」
菫「………煩いぞ、智美」
根負けしたのか、小さくではあるが返ってきた菫の声に満足して智美はにんまり笑みを形作る。
智美「どうしたんだ?これからやる事はたくさんあるってのに……」
智美「そんなに燻ぶってちゃ、物事も上手く進まないぞ?折角見つけた主上にも愛想尽かされちゃうかもなー」
菫「……っ!!」
短くだが息を呑む気配。仕草。
その姿を見逃さなかった智美は脳裏にピンとくるものがあった。瞬時に状況をある程度理解する。
だから、ワハハと軽く見せていた調子を解くと精一杯の呆れを滲ませ言ってやる。
智美「………菫ちん、昨日の今日で、もうやらかしたのか?」
菫「………」
無言は肯定と受け取る。
智美「主上に、何か言っちゃったのか?」
菫より返ってくる言葉は無い。
ただ見つめる先の背中を眺めながら、図星だと気付いた智美は浅く息を吐いた。
智美「不器用な癖に、人に誤解される事だけは器用なんだから。まさかいつもの調子で冷たくあしらったのか?」
さすがに、それは私も許さないぞと。智美にしては珍しく語尾を荒げる。
いくらこの国の神獣であろうとも、その菫が選んだ少女が王であり
つまる所、この才州国に属する智美の王でもあるのだから。
その王を蔑ろにするのなら智美とて怒る権利はあるはずだ。
だから再度、菫へと詰め寄ろうとした瞬間。
今まで背を向けていた菫がくるり、とこちらに向き直る。
突然の事だったから、詰め寄ろうとして大きく開けた口はそのままに、言葉だけが行き場を失った。
智美「………」
ああ。つまる所、眼前の少女は天帝より一つの国へと授けられた尊い神獣の癖に。
こうして人間臭く悩み、智美の目の前で途方に暮れそうになっているのだ。
額に手を当て、智美は天を仰ぎたくなってしまった。取り合えず抱いた怒りは急激に萎んでいく。
大きく開けたままになっていた口をゆっくり閉じる。
できるだけ穏やかな口調を心掛けてから、智美は菫へと言った。
智美「何があったのか言ってくれ。私でやれる事はするから」
菫「………」
智美「菫ちん」
強い口調で名を呼ぶ。
菫はようやくその重い口を開けた。そして、ぽつりぽつり、言葉を返してくる。
菫「私はただ……主上に朝の挨拶と。そ…側に居たかっただけで」
智美「うんうん」
健気じゃないか、そう素直に智美も思うけれど。
むしろ、不遜な態度が有名な菫をここまで健気にさせる、王たる少女の末を頼もしく思った。
で?と先を促すと……更に、ぽつりぽつり、返ってくる言葉は続く。
菫「だけど、扉を開けて窺うよう外に出ようとした姿が見えたから。…どこか堅い様子も分かったし、だから」
菫「もしや突然心変わりしてまた去ろうとしてるんじゃないかと。そう思ってしまったらつい責める口調になってしまったんだ…」
聞きながら、その時の光景が鮮明に智美の脳裏に浮かぶ。簡単に想像できる。
ああ、やはり……なんとも不器用な少女だ。
智美「で、実際はどうだったんだ?…心変わりして去ろうとしてたのか?」
尋ねると、菫はゆっくり首を左右に振る。違う、という仕草に無意識に智美もほっと安堵の息を吐いた。
この傾きかけた国であって、やっとで見つけた王たる少女だ。
できるならば、無理矢理ではなくて、自発的に王として勤めを果たして頂きたい。その決意をして欲しい。
智美「じゃ、なんで?」
菫「なんでも部屋の掃除をしたかったと。そのまえに道具を探しに行こうとしていたらしい」
智美「………掃除?部屋の?」
菫はコクリと頷く。
菫「自分が使ったからと。でもそんなことは王のする事ではない、だから必要無いと言った」
智美「………」
智美は話を聞いていて、別段菫の行動を可笑しいとは思わなかった。むしろ、正しい事を言ったと思う。
そして、王たる少女の行動も……昨日まで市井の片隅で生きてきたのならば、仕方ないのかもしれないとも思えた。
菫から聞いた話や、彼女が負っていた傷から連想するに…きっと圧迫された生活を送ってきたのだろうし。
だがそれは菫よりも世間を知っていて、なおかつ柔軟な思考で物事を考えられる智美ならば思い至れる訳で。
つまり、智美が結論付けるに彼女らの行き違いの根本は価値観の差であり、どちらが悪いという話では無い。
ただ、 まだ初対面に近い状態で菫の不器用さだけが向こう側へと伝わってしまったのは頂けないと思った。
智美「それから、主上は何て言ったんだ?」
菫「………何も」
智美「何も?」
菫「俯いてしまって、そのまま暫く待っても顔を上げてすらくれなかった。…鈍い私でも、拒絶されている事は分かる」
菫「ならば、必要とされていないのにあのまま側に留まることはできんだろうが」
気のせいでなければ…語尾は震えていたかもしれない。
こんな菫は王を探して彷徨っていた頃に等しく感じた。
智美「…菫ちん」
気遣いを持って名を呼ぶと、彼女は軽く頭を振った。そして、言葉を続ける。
菫「そういう事だ。…私は、どうすればあの人の側に居てもいいのか…」
菫「麒麟の時の話ではあるが…触れてもらえるのかわからない」
そうしてまた、菫は紫色の瞳を不安気に揺らした。
項垂れる麒麟を前に、仕方なさそうに智美は微笑を浮かべる。
智美「じゃあ、菫ちんは私に何をして欲しいんだ?」
何も知らずにやってきた自分を下がらせるでもなく、こうして中に通したのは多分、頼みたい事があったからだろう。
事実、菫は浅く頷いてから言った。
菫「主上には一方の王としての教養を学んでもらわねばなるまい。今まで学を身に付ける機会も少なかったようだから」
菫「そのために信頼に足る師も用意する。…それらを傍で世話する役目を、お前に頼みたいんだ」
智美「私でいいのか?誤解を解くためにも菫ちんが側についた方がいいんじゃ…本当はそのつもりだったんだろ?」
菫「…………」
やはり、無言は肯定でしかなくて。暫くの後、菫は首を左右に振った。
そのまま俯き加減に、ぽつりと呟く。智美にと言うよりは……まるで自分に言い聞かせるように。
菫「私は……きっと嫌われてしまっただろうから」
だから。と、菫は首を巡らせ全く関係のない方向を徐に見上げる。
その視線を智美が追いかけても、開かれた窓より白い雲と、青い空しか見えない。
だが何かを感じ取るよう向ける菫の様子から、彼女が何を見ているのかは推測できた。
多分菫がじっと見つめる先には、彼女しか辿れない王の気配があって。
智美から見れば遠くに在る王へと一心に心を傾けている麒麟が目の前にいるだけだ。
本当に、不器用な事この上ない。
智美「まぁ、台輔が決めて、命じるのなら。……私は従います、臣下ですから」
菫「頼む」
間髪入れずに、返ってきた堅い声を聞いて。
これ以上、この場で何かを言い返すのは得策ではないと智美は判断する。
だから徐に目の前の書斎机に預けていた体を起こし一歩分だけ後退すると、姿勢を正した。
そして、胸の前で合掌をし「御意」と、遠くを見たままの台輔に向かい智美は一礼したのだった。
■ ■ ■
時間を見計らって、智美は目当ての部屋へと辿り着く。
扉の前に立つと丁度中より「今日はここまでですので、お疲れ様でございました」と柔い声が聞こえた。
だから、たっぷり一拍置いてから「失礼します」と声を掛けて扉を開く。
中には丸い机が置かれていて、対照的な位置に座る二人の人影があった。
一人は老齢で温厚な雰囲気の老人で…学の師だ。
市井より、菫が信頼に足る人物だと御呼びした先生で。
事実、智美も初対面で顔合わせした時はその柔らかな物腰、態度に好感を持った。
そしてそれは先生の目の前で「ありがとうございました」と丁寧に礼を述べる少女も同じだったのだと思う。
彼女が、咲が、この国の王だ。
最初こそかちこちに緊張した面持ちだったが。
こうして先生に教えを請う回数が増える度に、彼女らの師弟としての親しさが増しているような気がする。
師「丁度良くいらしゃいましたな。それでは主上、また明後日参上致しますので」
咲「はい。宜しくお願い致します」
咲はたまたま今まで学門より遠ざかる生活を送っていたから無知に近い状態だったが。
元々の素養は高いのだろう、こうして師に教わればそれこそ水を吸い込む綿のように知識を習得していった。
そうやって師より学問と道徳を学ぶ事も大事だけれど、
彼女が一番に目を輝かせたのは、奥まった場所にあった書庫で。
勉学や執務の合間を縫ってはよく一人で車庫に篭り書物を読み耽っている有様だった。
智美なんかは官吏の試験の時にはそれこそ山のように書物を読んだけれど。
それが過ぎ去ってしまえば、余り手にする事も無い。
仕事柄、資料を纏めるときなんかは書物を手に取るが…咲はどうやら読むこと自体がとても好きなようだった。
そんな事をつらつらと考えていたら、目の前を通り過ぎようとした先生に気付き智美は慌てて拝礼する。
そんな自分を見て目を細めて笑う老人は、軽く相槌を打ってから智美が開けたままだった扉より出て行く。
どうやら予定通り、今日の授業は終わったようだ。
振り向き、まだ室内に残っていた咲へと智美は明るい声を掛ける。
智美「今日はどうでしたか、主上?」
咲「頭がいっぱいです。…先生と話してると本当に、覚える事がたくさんあるんだなって」
咲「私は今まで、すごい狭い世界で生きてきたんだなって思ってしまいます」
智美「申し訳ありません。無理をさせているとは思いますがこれも御身と、この国のためなのだとお思い下さい」
智美「主上が御座におられるようになってから…朝廷は元より国府の中も俄かに慌しくなって参りました」
咲「はい」
智美「どうか、しっかりとしたご自身の知識を持ってから。朝廷、そしてこの国を、民を覧になって下さい」
智美「一方的な意見だけを聞き頷くのではなく、起きる物事の本質を見誤らぬよう。…ここでは誰が敵で、誰が味方なのかを」
咲「……端から見ればとても華美であるのに、怖い所なんですね。ここは」
智美「主上が立たれるまで仮王朝を正す事ができなかったのは、一重に私を含め、諸官らの不徳の致すところです」
智美が言い切ると、その先を遮るように咲は首を左右に振る。
咲「諸官全てに咎がある訳ではないでしょう。少なくともこうして度々私を助けてくれている智美さんは味方だと思っています」
迷いの見えない声。思わず面食らった智美は暫し無言になる。
臣下として、王からのその言葉に歓喜しなかったと言えば嘘になるが。
ただ、真っ直ぐな態度、そして言葉に一抹の不安も覚えた。
できれば、この清らかさを智美とて守りたいと思うが……
先程咲が言っていた通り、王がいるこの場所は華美に見えるが怖い所なのだ。
王が御座に立った事でもはや朝廷内でも表面には見えぬ駆け引きは始まっている。
智美「…言い切ってもよろしいので?先程言ったはずです、一方的な意見だけを聞くのでは物事の本質を見誤られる」
脅しのような文句になってしまったけれど。
それに対して、咲はしっかりとした口調で言葉を返してくる。
咲「王としてではなく、人として。目の前に立つ人間が真摯に心を持って受け答えしてくれているかどうかは分かるつもりです」
咲「私は商家の下働きも長かったですし…人の裏の顔というものを盗み見てきましたから」
智美「……ご苦労なさっておいでだったか」
咲「細々とでも生きていくためですね。顔色を窺っていれば、どうにか嵐を避ける事もできましたから。でも…」
咲「私が今この場に立っているという事は。かつての私のような人間を一人でも減らす事ができるということですよね?」
智美「………」
咲「そのためにこうして本を読み、師に師事を仰いでいるのだと。最近になって、ようやく分かってきました」
初めて彼女を見たときに感じた儚さを払拭するかのような態度だと思った。
まだ、途中ではあるけれど。期待してもいいのではないだろうか。この真摯な王に。
だってこの国は……彼女が、咲が立つまでにもう随分と苦しみ抜いた。
一握りが富を得る狂った構造をずっと続けてきたが、
それを許さなかった天が、彼女をこの国へと授けたという事なのだろう。
だから、根負けしたように智美は固く発していた空気を解くと苦笑を浮かべる。
智美「主上の言う通りだと思います。私は…、いえ私個人としても、貴方を助けたいとは思っているから」
それを聞いた咲は、顔を緩めると智美に向かって綻ぶように笑った。
淡い色彩ではあるけれど、それが窓より差し込む光に溶けていくようで。
ああ、いいな、と思うと同時に釣られるよう智美も笑みを深くする。
いつか、こんな暖かい気持ちに溢れた国になればいいと思う。
王だけでなく、官吏だけでなく、民の一人までもが全て……気持ちよく笑える国になればいい。
そのために、眼前に立つ王だけは守らねばなるまい。
ところで、ふと気付く。
智美「そういえば…」
咲「はい?」
この後の予定は執務になるはずだから。
部屋まで送り届けて尚且つ、仕事の手伝いをするのが智美の役目だが。
咲が纏めた荷物を智美が持った所で。ふと落とした言葉に反応するように咲が顔を向ける。
その朱色の瞳と視線が合ったのを確認すると智美は続けて言った。
智美「主上は今日、台輔にお会いになりましたか?」
何気なく尋ねた智美がそう言った瞬間、ビクリと咲の体が震えた。
そんな仕草を智美が見逃すはずも無い。
事実、先程までの咲の穏やかな雰囲気は立ち消えて、むしろ堅く身構える気配に智美は眉を潜めた。
そして、そんな自分が抱いた疑問を咲もすぐにわかったのだろう。
本当に、眼前の少女は頼りなさそうに見えて、実際は聡いのだ。人の機微にも良く気付いている。
そんな彼女がぎこちなくではあるが言葉を返してきた。
咲「え、と。朝に……様子を見に来てくれました」
智美「はあ。じゃあ、きちんと顔は出してるんですね…ならよかったです。何を話したのか、お伺いしても?」
咲「………」
なにせ、智美は実質、台輔の菫の命で咲に付いていると言っても過言では無い。
彼女らの遣り取りを知っておけば、なにかと動きやすくもなるのだ。
だから、と。智美は目の前の王より続く言葉を待っていたが。
……なにか、とても歯切れが悪い。
智美「主上?」
訝しい声で呼ぶと観念したように、咲は言葉を返してきた。
咲「あの、話という話は……何も」
智美「……何も?」
まさか、と思わず智美は言い返すが咲はそうなのだと頷く。
咲「私も口下手な方なので…本当は色々と話したいことは考えているんですが。目の前にしてしまうと、どうも…」
とても言いにくそうな咲の言葉。
いやいやいや、王だけのせいではあるまい。
王が言い出せぬのであれば、その半身である麒麟が気遣えばいいのだ。
けれど、それすらもなかった様子を智美は悟る。智美は再び天を仰ぎたくなった。
なんてことだ、やっぱり菫の不器用さだけが誤解されて伝わってしまっている。
初期の頃の対応の差なのだ。
無意識であれ身構えられてしまっている事に、きっと一番堪えているのはあの麒麟の少女だろうに。
呆れて、吐き出しそうな息をぐっと飲み込み……口元を緩めると、智美は問う。
智美「あの。主上は…台輔が苦手ですか?」
すると、びっくりしたように咲は目を見開いた。
例えるならば、そんな事を言われるのを予想してなかったみたいに。
だから、お、と智美は意外に思う。
事実、咲は首を左右に振って言葉を返してくる。
咲「苦手とかそんなんじゃないです。まだ浅い付き合いですが彼女の真面目な所とか、自分自身に厳しい所は尊敬しています」
咲「けど今の私では、彼女と釣り合わない気がして…毅然とした彼女を目の前にすると、どうしても気後れしてしまうんです」
智美「………」
咲「だから、頑張ります。智美さんが言ってくれたように。きちんと勉強して、色んな事を見て、聞いて……」
咲「彼女が、菫さんが認めてくれるような王を、目指しますから」
智美「主上」
ああ、やばい。
智美は素直な咲の言葉を聞きながら。
今はきっと自分の執務室にいて不貞腐れているだろう麒麟の少女を怒鳴りつけてやりたい気分に駆られた。
だって今、咲の素直な気持ちを聞かねばならなかったのは智美ではない。
なによりもその悩みを聞き、支えなければいけないのは…王の半身である麒麟でなければいけなかったはずだ。
なんでここにいないんだ菫ちん!と。素を曝け出して智美は心中にて菫を罵る。
彼女らの間に入る智美は、互いの躊躇が勘違いだと咲の言葉を聞いて気付けたが。
知らぬ菫なんかは、咲に嫌われていると思っている。
だから朝に咲の様子を見にいっても深く踏み込めないし、声を掛ける事もできない。
躊躇して勝手に落ち込んで、その空気を無意識であれ咲も感じ取り気後れしている。
なんて悪循環。
不器用な半身同士なのかと、智美なんかは思ってしまうが。
ため息は幸せが逃げていく…落としたいのを懸命に堪えて、まずは彼女らの誤解を解く事から始めねばと思った。
そうでなくとも頼りないと見られがちな咲を侮り、奸臣は媚を売り繋がりを持とうと躍起になっている。
王と麒麟がぎこちない関係などと知られたら奴らの付け入る隙を与えるかもしれない。
本当に、やるべき事はたくさんあった。
咲「智美さん?」
名を呼ばれ、ハッと現実に気付く。
顔を向けると、不思議そうに自分を見返している咲の姿があって。
反射的に明るい笑顔を浮かべると「何でもないです」と智美は言葉を返した。
まずは、今日の予定を終わらせよう……咲と今日の分の執務を終えたら、
酒を持って菫の所に突撃して、説教してやる。
そう心に誓いながら、智美は荷物を持つと「行きましょう、主上」と声を掛けたのだった。
■ ■ ■
今回はここまでです。
次はまた金曜日に投下予定です。
>>98
ありがとうございます。そう言って頂けるだけで書く意欲が湧いてきます。
乙
乙
続き楽しみにしてる
乙 すれ違い切ないね
乙です
すばら!これも主従の定めか
ここから色々と乗り越えていくと思うとワクワクするよ乙
乙
おつおつ
不器用vs人見知りだねえ…間に入れるワハハはほんと適任だわ
照だけは絶対に出さないでください。
マジお願いします
対立煽りっすか?ご苦労さん
NGぶっこんどきますねー
おつ
次回も楽しみです
智美「十分に、身辺にはお気を付け下さい」
そう智美に言われた言葉を咲とてよく覚えている。
智美「端からは華美に見える宮中は、今や恐ろしい所なのです」
そう言った彼女の言葉を最近、咲も痛感している。
ましてやこの身は学も無く、見た目も弱々しく他者の目に映るのだろう。
朝議にて玉座に座った時に、安堵と侮りを持って下段より数多の官吏の目に見上げられたのをよく覚えている。
今まで臆病に生きてきた自分だったから、様々な感情が含んだ視線に晒されて無様にも足元は震えていた。
それでもそんな自分を自覚して、せめて数多の目より震える足元を終始隠し通せたのは
あの時、広い朝議の間の中で自分は一人ではないのだと咲には分かっていたから。
形式的な儀礼や奏上など長い時間だったが。
その間ずっと自分の後ろに付き添っていたこの身の半身の存在に、挫けそうな気持ちは支えられていた。
ちらり、と横目に見上げた時も相も変わらず背筋を伸ばし凛と佇む姿に、咲の身も心も引き締まったのを良く覚えている。
見縊られてはならぬ、と気持ちを振り絞ってあの時、顔を上げた。
かつての自分は生まれてからずっと一人だと思っていたから、
臆病だったのだと思いたい。けれど今は違うのだ。
出会ってからずっと半身の気難しい顔しか見てないけれど、
それでもその表情が緩んだ時に、この身を気遣うようにして揺れた瞳を知っている。
その時に自分は初めて誰かに必要とされているのだろうか、と生まれて初めて思った。
それが時を経た今では一国に必要とされているのだと理解した時には驚いたけれど。
ならば、自分には分不相ながら王という役割に挑戦してみても良いのではないか。
そう思えるようになっていた。
まだ過去の臆病さを忘れた訳ではない。
けれど孤独だったあの頃とは違い、この身を助けてくれる人達がここにはいる。
少し前の自分では到底、考えられなかった状況だけれど。
今日は十二国のうちの一国、雁州国の王と麒麟が揃ってここ才州国の新王である咲に会いに訪れていた。
咲「遠路はるばるお越し頂きまして…」
霞「あらあら。固い挨拶はなしで良いのよ」
哩「私達は隣国同士やけんね」
深々と頭をさげる咲に雁州国の王、略して延王である霞と同国の麒麟である哩が気さくに微笑みかける。
雁州国は、霞が王となってから既に500年も続いている大国である。
そんな国の王を目の前にして、咲はあまりの恐れ多さに縮こまっている。
霞「ふふ。どうか楽にしてちょうだいな、采王」
咲「そ、そうは言いましても…」
霞「采の新王は謙虚なお人柄なのね」
おろおろとする咲に霞はひとしきり笑って、咲に告げる。
霞「でもようやく四州国のなかの一国が落ち着いてくれて良かったわ」
哩「何せ残りの巧州国と恭州国は、現王同士の仲が悪いせいか諍いが耐えんとね」
咲「そうなんですか?」
周りの国には疎い咲が、きょとんとして2人に尋ねる。
霞「塙王洋榎と供王セーラは何故か互いを好敵手扱いしていて、何かと争ってばかりなのよね」
咲「はぁ…大変ですね…」
他国でも色々とあるんだなあと、咲は呟いた。
霞「采王はまだ他の国のことについてはあまり知らないようね」
咲「は、はい。自分の国のことで手一杯で…勉強不足ですみません」
恐縮して頭をさげる咲に、霞はふふと笑みを浮かべる。
霞「まだ即位して日が浅いですものね」
十二国のうち四大国、四極国、四州国とに分けられる。
四大国に分類するのは慶東国、範西国、奏南国、柳北国の四国。
四極国に分類するのは戴極国、漣極国、舜極国、芳極国の四国。
そして四州国に分類する才州国、雁州国、巧州国、恭州国の四国。
この十二国それぞれに、神籍を持つ王とその麒麟が存在する。
霞「何か分からないことがあったら、遠慮なくいつでも聞いてちょうだいね」
哩「私達に答えれる範囲でなら、いくらでも教えてやるけん」
咲「はい。ご親切にありがとうございます」
咲は再び深く腰を折って、大国の王と麒麟に感謝の意を示した。
■ ■ ■
この1週間長く感じた…いつも金曜になってすぐ更新してくれて嬉しい
にしても霞さんと哩とは意外な組み合わせ
内殿の人気の無い廊下を歩きながら、咲は無意識に苦笑を浮かべた。
もはや夜半に差しかかろうという頃合。
今日一日も執務と勉学とを終えた咲の日課は、
こうして自由になった時間に内殿の奥にある書房に篭る事だった。
十分に、身辺にはお気を付け下さい。
智美の言葉が再び脳裏に過ぎる。
彼女は咲に出歩く際には自分を呼ぶか、信頼の置ける者を必ず付き添わせろと言っていたけれど。
ここ数日通っているが人と擦れ違う事もなかったし、
国作りに精を傾ける周囲にいらぬ手間を掛けさせたくもなかった。
だから、今日も今日とて一人きりで目的の書房の扉へと辿り着く。
音を立たせずに扉を少しだけ開けると、その隙間より体を中へと滑り込ませる。
そして、開いた扉を閉めるとすぐ横の棚の上に置かれていた燭台に火を灯した。
その灯りを中心に、照らされるたくさんの書架が並ぶの光景がある。
……本当に、この光景を見るだけで咲の胸の内は熱くなった。
下働きをしている時、商家の使いで小学を訪れた際に
子供達が色々な本を広げている様子を羨ましく思ったのを覚えている。
好奇心だ。あの中にはきっと色んな世界が書かれているのだろう、と。
書架の前を歩き、何冊かの本を手に取ると更に奥に置かれていた机へと向かう。
その上に火の灯った燭台を置き、持ってきた本を脇に置くと、その中の一冊を机の上で広げた。
商家で簡単な読み書きと計算は覚えていて、今では先生からの師事により難しい単語や言葉も理解している。
ある程度の本は咲一人で読めるようになっていた。
知識は必要だ。無知であるがために様々な官吏より物事を言われ、採決を求められようとも、
今の咲にはどれが良くてどれがいけない事なのか判断が付かない。不安に押し潰されそうになる。
今は智美が側にいて手伝ってくれてはいるが、
いつかは自分の裁量で物事を決められるようにならなければいけないだろう。
そうでないと、侮られる。ここは怖い所なのだと彼女は言っていた。
事実、何もできぬ王だと言われ、決め付けられたらきっと見た目も弱々しい咲の言葉など誰も聞いてくれなくなる。
それでは王でいる意味がないだろう。
かつての自分のような力無い存在を無くすと咲は心に決めたのだ。
それに自分は元より、自分を助けてくれる周囲の人々すら侮られるのは我慢ならない。
だから、誰に何を言われても正しい判断ができる自信が欲しい。
あの凛とした延王のように、力強く国を導く存在になりたい。
灯りに照らされた文字を一心に追う。すると周囲の些細な物音でさえ耳に届かなくなる。
本は色んな世界があるのだと咲に教えてくれていた。
■ ■ ■
内殿の奥にある書房へと続く薄暗い廊下に複数の足音が響く。
夜の静けさに反する荒い足音は、その主の心境を現しているかのようだった。
なぜなら事実、男は焦っていた。
宮中に官吏として上がったのはもう何年も前の事で。
その時にも、多額の金とコネと駆使して今の地位を手に入れた。
それから今までの月日の間に甘い汁を吸ってきたと思えばあの時使った大金など塵にも等しいだろう。
そして、それはこの先も変わらぬはずだったのだ。
この国には長く王が不在だった、だから王はいないものとしての宮中の仕来りが出来上がっていた。
自分もその慣例に従い、コネと賄賂とで今の地位にいるが……
つい先日、宮中にて青天の霹靂が起きたのだ。
とうとうあの無愛想で融通の効かない麒麟が、天意を得て選定した王に従い姿を現した。
後に周囲より聞いた話では自分だけでなく多くの官吏は何も聞いていなかったという。
呆然と下段より上段を見上げる先に坐する王たる少女を見上げながら、まず不安に駆られたのは
今までの宮中にあった自分達の自由が効く仕来りがそのまま通用するかという事だった。
自分だけは無く、自分に便宜を計ってくれた上官や同僚なども戦々恐々としている。
彼らと同様、今更処罰されるのも甘い利権を手放すのも考えられない事だった。
ならば、まだこの宮中の仕来りも何も知らぬ王を引き込んでしまえばいい。
上官よりそう言われた言葉に光明を見た気がした。
確かに思い返してみても、上段の玉座に坐する王である少女は聞いた歳の割には線が細く、頼りなく見えた。
強気に引き込めば案外すんなりとこちらの意に従ってくれるのではないかと考えたのだ。
ただ、そんな自分達の考えを読まれたかのように、件の王は滅多に内殿より姿を現さなくなった。
朝議には出てくるが、その際は半身たる麒麟の少女か
王の出現により自分らと袂を別った官吏らが必ず側に付いている。
それが原因で自分達からは悪目立ちするようになった官吏が一人いた。
あの裏切り者、新米でまだ若く人の良さそうな笑顔をいつも浮かべていた少女。
命じた事には素直に従い、他人との間に波風を立たせた事も無かった。
反抗心など微塵も見せなかったはずなのに。
こうなってしまって気付くと、奴はちゃっかり麒麟たる台輔の右腕として収まっていた。
しかもあの頃は、ただ使い勝手が良い便利な奴でしかないと見縊っていたが。
本性を現してからはほとほと手を焼いている。
浮かべる笑みは変わらないのに、返す意見が正論で辛辣なのだ。
慈悲と偽善とを煩く言ってきた台輔の言葉を更に現実味を乗せて奏上もしてくる。
まさか、あんなに頭が切れる奴だと思っていなかった。
それで、罪悪感を思い出し自分達を見限ろうとする官吏達も増えてきた。
このままでは近い将来に身の破滅は見えている。
もう形振り構っていられなかった。
こうなれば、王たる少女より自分達に対する安全の確約が欲しい。
情に訴えてもいい。それにまだ月日は浅いから、
言い包めればあの裏切り者よりも自分達の言葉を信じるかもしれないではないか。
いや、信じさせねばいけない。
そのために大金を使って、内殿の天官、数人抱き込んだのだ。
奴らから、最近の王は一日の執務を終えると奥にある書房に一人篭る事も確認済みだ。
ならばその時に直接訴えるしかない。
なにより、自分達を守るためだ。
人気の無い廊下を足音荒く走り抜ける。
薄暗い視界の向こうに、奥にある書房の扉が薄っすら見えた。
胸の内が、酷く急いた。
だがその瞬間、少し先の床が不自然に波打つ。
まるで水面に波紋が走るよう、コポリと水音が響く……と同時に獣の唸り声が聞こえた。
ビクリと体が震えて自分を含めた周囲の荒い足音がその場で止まった。
目を凝らし薄暗い廊下の先を見る。
すると波打った床より何か……大きな体躯が這い上がってくる様が見えた。
こんな内宮の奥で…有り得ない猛獣の姿。
しかも暗闇の中六つの紅い瞳が爛々と輝き、それだけでも眼前に現れた猛獣が只の獣ではない事を悟る。
妖魔だ、と苦々しく口元を歪める。
脳裏にあの無愛想な麒麟の少女の姿が浮かぶ。
きっと彼女の使令に違いないと気付いて腸が煮え繰り返った。
本当にあの麒麟は綺麗事ばかり抜かしていつもこちらの邪魔ばかりする。
この先に進みたいが……現れた妖魔はギラギラ敵対心を向けてそこから動かない。
自分を含め周囲の人間はもはや、突如として姿を見せた猛獣の姿に怯えてしまっていた。
睨み合ってから数秒、背後にいた一人が短い悲鳴を上げて逃げ出すと後は雪崩だった。
情けない、と思いながらも再び薄暗い廊下に響いた獣の唸り声を聞き、
結局自分は振り返って逃げ出した。
妖魔が追ってくる気配は無かった。
今日は失敗には違いない。……ただ簡単に諦める訳にはいかなかった。
今に、今に見てろと。男は唇を噛み締めながら薄暗い廊下を走り続けた。
去っていく人の気配が感じなくなるまで、妖魔はその場に留まっていた。
どれくらい時間が過ぎただろうか、六つの瞳を徐に瞬きさせると周囲に撒き散らしていた警戒を解いた。
もはやこの薄暗い廊下に人の気配は感じない。
ペロリ、大きな舌を出して鼻先を舐めるとゆっくりとした動作で振り返った。
そのままのそり、のそり、廊下の先まで四足で歩く。
すぐに奥に行き当たり……そこにあった扉の前に辿り着くと頭を上げて室内の気配を探った。
きちんと人の気配をある事を確認してから扉の前に重い腰を降ろす。
そのままに体躯も曲げると、扉の前を陣取るようにして丸くなる。
部屋の中より、まだ物事を終える気配を伺う事はできなかった。
そうして丸めた体躯に頭を乗せて六つの瞼を閉じてからどれくらい経ったか。
何かを感じて、閉じていた瞼がピクリと震えた。
頭を上げて瞼を開く。……すると、薄暗い廊下の向こうより誰かがここへと近付いてくる。
先ほどの粗野な雰囲気を纏った輩が戻ってきたのだろうかと警戒したが。
見えた姿と感じた気配に、抱いた警戒はすぐに霧散した。
言葉も無く六つ目で、主人である台輔の長身の姿を見上げる。
彼女は、書房の扉の前を守るよう身を丸めていた使令の姿を見て何があったのかをある程度悟ったようだ。
気難しげに眉間に刻まれていた皺が深くなる。そして、そのままに書房の扉へと視線を向けた。
そんな台輔の仕草を見届けてから、自然に、扉の前に陣取っていたこの体躯を少しだけ脇に移動させる。
当り前のように、台輔は開けた扉の前へと足を進める。そのまま僅かに扉を開けて彼女は中へと入っていった。
パタン、と扉が再び閉められてから。誰もいなくなった薄暗い廊下を六つ目で一瞥する。
そうしてまた扉の前へと移動すると、重い腰を床に降ろし体躯を丸めて瞼を閉じたのだった。
■ ■ ■
菫が書房の中に入ると、書架が立ち並ぶ暗い通路の奥より燭台の明りが漏れているのが見えた。
角を曲がると、奥に置かれている机に向かい座り込む王の背が見えた。
机の上には何冊もの本が積み重なっていて、脇に置かれた燭台の炎が微かな空気の流れの変化からか揺れている。
なぜかいつまで経っても動かないその背を不審に思い近付いて行く。
あと2、3歩程の所で……微動だにしない姿の理由が分かった。
机に向かう姿の頭が必要以上に真下に垂れている。
覗き込むよう身を屈めると、俯いたその顔は翳っていて瞼は閉じられていた。
机の上には読んでいた途中の本が開かれたままになっている。
本の文字を追い掛けている内に、生まれた眠気に抗えなかったという事なのだろう。
菫「…………」
そんな姿になぜか興味を抱き、言葉を掛けるでも無く観察するように見つめる。
彼女がここ数日、空いた時間に書房に通い詰めている事を聞いて気にはしていたけれど。
こうして直にその様子を目の辺りにして見れば、その姿勢を嬉しいと感じている。
だって、この人は努力をしてくれている。
智美に言われたが、この人にしてみれば全く違う世界に突然にも放り込まれたようなものなのだという。
与えられた権限と地位は確かに誰よりも高いが、それに伴う責任も果てしなく重いはずだからと。
ただ、玉座に坐したという幸運に浮かれるのでは無く。
そこにある責任を誰よりも重く受け止めて、悩み、こうして少しでも理解しようと僅かな時間を削って頑張っている姿に
半身である菫が心を動かさないはずがないではないか。
だから、疲れて眠ってしまった姿を見つめていて心中に生まれてくるのは申し訳ない、という気持ちと。
だがこの人が主でよかった、という強い想いだ。
麒麟として生を受け、生涯を共にする見た事もない王に対して一度も不安を抱かなかったとは言えば嘘になる。
けれどこの国のために、民のために……寝る間も惜しんでこうして頑張っている、
彼女の姿を確認できれば過去の不安は杞憂でしかなかったということだ。
だからいつだって、菫は主に対して助けてやりたいという 気持ちを持っている。
今だってもし咲がこうして書房に篭もる前に、菫に手伝って欲しいと一言くれれば、喜んで付き合っただろうに。
疲れ果て一人眠ってしまった姿も、自分が一緒だったなら僅かな時間も放置しておかなかったはず。
些細な事なのかもしれないけれど。……やっぱり、自分を頼りにして欲しいとは思う。
こんな菫の葛藤を智美なんかは、素直に気持ちを伝えればいいじゃないか、と軽く言ってくれるが。
それができれば、菫とてこんなに悩んでいない。もはや自分の性分なのだ。
じっと見上げてくる朱い色の瞳を見下ろせば、心中に滲む緊張から何も言えなくなってしまう。
しかも、これ以上嫌われたくないという怖気が更に菫から言葉を奪ってしまうから。
憮然とした表情しか反応を返せない自分は、多分、この主にいらぬ心配を掛けている。
違うと伝えたい、嫌ってはいない、苦手にも思ってない。
むしろ、誰よりも心を寄せているのだと伝えたい。
今だって、こんな感じで眠っている姿にならば側に寄っていけるし、冷静に考える事もできるけど。
あの朱色の瞳に、意志を持ってじっと見つめられると……どうにも緊張して駄目だ。
無意識に、菫は息を吐く。机の上に置かれた燭台の炎が揺れた。
蝋はもはや残り少なくなっていて、すぐにでも明かりとしての効力を失うだろう。
それを一瞥した菫は、徐に燭台に顔を近づけると灯る炎に息を吹きかけ消す。
仄かに明るかった室内は一瞬にして暗闇に包まれた。
それでもこの暗闇に視界が慣れてくれば、窓より差し込む月明かりのお陰である程度周囲の様子は分かる。
とりあえず疲れて眠ってしまった主をこのままにしてはおけないだろう。
座ったままの体勢でもあるし、朝を迎えたら体を痛めてしまうかもしれない。
菫は咲へと腕を伸ばし、その背を支え、膝裏に差し込むとそのまま苦も無く抱き上げた。
そのまま踵を返し数歩歩いた所で、無意識に、片眉が訝しげに上がる。
なぜなら抱き上げた体躯が想像するよりも軽く感じたからだ。
月明かりだけに照らされた主の顔を見下ろす。
ここへ連れてきた時に比べれば血色も良くなり、体格も彼本来のものに回復してきたと思う。
けれど、菫と比べて格段に劣る体躯である事には変わりない。
この華奢な体躯で、菫は元より自分を含めたこの国をこれから支えていくのか。
体躯を抱えなおしながらどこか身が引き締まる想いがした。
麒麟として選んでしまった責任から?いや、麒麟とか王とか関係なく。
この国のために懸命に努力しようとしてくれる彼女を、自分が支えてやりたいのだと本心より思ったからだ。
書房の扉の前に立つと、自然とその扉が開く。
どうやら扉の前でここを守っていた使令は出てこようとする自分らの気配を敏感に悟ってくれたらしい。
開いた扉の隙間を通り抜けると、また扉が静かに閉まる。
その裏にいた獣の姿が菫を見上げると、六つ目が穏やかに瞬きした。何もありませんでした、という意思表示と受け取る。
そう菫が理解して頷き返すと、六つ目の獣は頭をこちらに向けて垂らしたままにその体躯が床の下へ除々に沈んでいく。
その姿が完全に床にできた水面へと吸い込まれていってしまったのを確認してから。
菫は徐に踵を返し路寝へと向かったのだった。
■ ■ ■
智美「内宮の奥に関る者だけでも綺麗にしないとやばいな」
智美の声に、昨日あったことを伝え終えた菫は頷く。
菫「使令の話では5,6人いたそうだ。数が多い、おそらく天官だけではないな」
智美「ああ、外から手引きした奴がいる。…菫ちん、内宮を纏める内宰は人格者だと言ってなかったか?」
菫「私はそう思っている。…過去に仁重殿の人事についても、私の意向を酌んでくれたからな」
菫「明確な理由があって通す筋より大きく外れなければある程度は許容してくれる。それに賄賂や不正といったことも嫌ってたと思う」
ふむ、と智美は顎に手を当てて考え込む。
智美「……心変わりしたか。それとも、内宮の官吏全てを掌握してないのか…」
菫「後者ではないか?以前より、この宮中では人格者は煙たがられる」
菫「それでも内殿の内宰に収まり続けていたのは今までここに主上がいなかった事と、政局からは遠ざかっていたからだ」
智美「まぁ。話は分かるな……けど、新たな王が立った事で遠ざかっていた政局に野心が生まれたんじゃないか?」
智美「菫ちんが信じたいのは分かるけど、違うんだって言い切れないのは……わかるよな?」
菫「…………」
智美の言葉を聞いた菫は暫し押し黙る。
彼女の言いたい事が良くわかったから。王が選ばれたことで今の宮中は必要以上に慌しくなっている。
昨日までは当たり前だったことが、今日には様変わりしていることだって十分に考えられるのだ。
ただ、菫も理解している。
智美が心配する通り、王である少女にこの先、何かしらの危害が及ぶ事だけは絶対に排除しなければならなかった。
使令は付けてはいるが、万能では無い。
なにより居住するこの場所だけでも、安全を当たり前にして過ごして欲しいと思うのは間違っていないだろう。
智美「私は顔を合わせた事ないけど……内宰って名前はなんていうんだ?」
問われ、菫は思考を中断させると脳裏に一人の官吏の姿を思い浮かべる。
不正が蔓延る宮中の中にあって、随分と落ち着いて自らの考えを譲らぬ女性だったのが強く印象に残っている。
だから、その名前を菫はすぐに思い出した。
眼前の席に座り、じっと菫の返事を待っている智美へ「内宮を仕切る内宰は、塞という天官だ」と伝えた。
■ ■ ■
よっしゃこれはシロや
今回はここまでです。見て下さった方ありがとうございます。
夜にまた続きあげに来るかも。
乙
日が変わってすぐ更新してくれるのは有難いわ
乙 霞さんが延王か
乙
洋榎とセーラんとこの麒麟が気になる
乙乙
すばら乙
組み合わせに囚われてないのにキャラ崩壊してると思わせないところが特に凄いな
配置は原作と違うのかな?
乙!
塞ボンは最大級に信頼を置ける人物の一人だな
なんもかんも政治が悪いの人だったらやばかったww
―少しだけ、時間は遡る。
純はこれでも随分と我慢をしてきたと思う。
軍に入ったのは自分の荒い気性に合っていると思ったからで、数年過ぎた今ではその選択は間違ってなかったと信じている。
新米の一兵卒の頃は、そりゃ生意気だとか口が悪い奴とか(否定はしない)で随分、上から目を付けられたりもしたが。
それでも自分で言うのはなんだけど兵としての能力はそこそこあったよう思う。
訓練の中で練習試合などしても上位には食い込んだし、実戦においても冷静に状況判断ができていたから
気がつくと一兵卒から伍長になり、そのまま数年後には両長を越えて100兵を纏める卒長を務めるまでになっていた。
上からの小言を聞く機会が増えたのは頭痛のタネだったが…それでも発言や行動の自由は増していった。
すると、不思議と一兵卒の頃は気にもしなかった責任を感じるようになってくる。
誰よりも気性の荒い自分だったが、部下である兵に対して責任を覚えてしまうとかつてのような無謀は控えるようになっていった。
なにより軍の上部で権力をもち居座る頭の悪い奴らは嫌いだったが、同僚や部下である兵卒らは元の自分のよう気性は荒く、
口は悪いけれど根はいい奴らばかりだったと知っていたから。
その誰もがただ今の腐った国の姿に絶望して燻っているだけ。
幾ら能力が高くとも、権力や金がなければこれ以上の出世が望めないのが現状で。
それは純にも同じ事が言えた。運と能力だけで卒長にまで辿り着いたが庶民の出であり金も無く、
軍に対して権力を持つ顔見知りもいない自分にはこれ以上の出世は望めないだろう。
どう考えてみても、自分よりも遥かに愚鈍で頭の廻らなさそうな奴が高い身分と金とコネだけで出世していく様を
横目に見ていれば現状に絶望し、燻ってくるのも仕方ないと思う。
それでも純は卒長に収まってからは随分、我慢していたのだ。
無能な上からの命令を聞き、無謀な事をやらされもした。
昔の自分ならば、すぐに憤慨し反抗していたかもしれないけれど。
現状において、百人の部下を持つという責任がどうにか純に冷静さを与えていた。
それでも上からの無謀な用件が増えてくる度に、部下を守るために聞き入れてもらえないと分かっていながら
何度も進言したりもした。そんな事を繰り返す内にいつの頃からか上より自分が煙たがられているのには気付いていた。
だが、どうしても譲れない一線が確かにあったのだ。
そんな純の我慢の限界を越えさせてしまったのは、上より与えられた最大級に無謀な命令のせいだったと思う。
今になってみれば、あれは扱い辛くなってきた純を排除するために画策された命令だったのかもしれないが。
残念ながら自分は戦場などにおける状況判断は得意だったが、影で行われる謀計に対してはとんと無知だった。
文句があるなら正面から来い、喧嘩なら買う、という気性であったし。
そんな自分が上官より呼ばれ与えられた命は、
『城下にて謀反の疑いある者を捕縛し、抵抗するのならばその場で処罰しても良い』というものだった。
聞いただけならば軍属として素直に従えばいいだけの命令だったが。
その標的である名前を聞いた瞬間、上官に対してすぐに任務了承の返事を純は返せなかった。
上官より言われた名は……城下の庶民の間では人望が篤いと噂される町医者の名前だったから。
なにより、純自身も直に会った事があって手当てを受けた事もある。
姿を思い浮かべてみても、気さくで、医者としてというよりは人として一本の筋がきちんと通った人だったと思い出している。
それにあの医者は純の素人目から見ても、人を救う事に誇りを持っていた。
王の不在で苦しみに喘ぐこの国に対して、更に謀反でもって混乱に陥れる無法者とは到底思えなかったのだ。
だが眼前に立つ上司は、国府の秋官に言われ、その町医者に対して動かぬ証拠も揃っているのだという。
その厭らしい上官の笑みを見て、謀計に疎い純でも直感的に悟った。
民衆から思う以上の人望を集める医者の存在が、権力を握る奴らからみて目障りになったのだ。
しかもあの町医者は人格者で民衆だけでなく、権力者にとって元より目障りな知識人にも知り合いは多いと聞く。
だから奴らは将来を見据え、自分達の地盤を確固たるものにするために
反乱分子の核となりうる邪魔者の排除に乗り出したに違いない。
きっと人格者である町医者に証拠など元から無かったに違いない。奴らは勝手に証拠を作って罪を被せようとしている。
しかもその役を庶民の出で何かあった時の使い捨てが効く純に任せようとしている。
多分、町医者を処罰した後も、もし庶民より反発が出たとしても
命じた権力者では無く実行した純を処分する事で事無きを得ようとする魂胆まで見えた。
笑みを浮かべたままの上司を見返しながら、純はカッと頭に血が昇り目の前が怒りで真っ赤に染まった。
が、唇を噛み締め、拳を握り締める事で怒りの爆発をなんとか抑えた。
ここで喰って掛かっても、腐った軍とは言え純は軍属の身。上官の命に背けばそれだけで処罰の対象となる。
自分だけならまだしも今は百の兵を抱える責任のある身だ。おいそれとその場で上官に向かい反発する事はできなかった。
感情の含まない了承の意だけを告げて、上官の前を後にする。
期限だけを言われ、方法は問われなかった。……だが、どうすればいい。
ただ周囲より人望のある人格者を腐った権力者の命に従い断罪せよというのか。
誠子「お前も運がないな」
軍の宿舎に帰り、純の副官でもある両長の誠子に粗方の事情を説明するとそう言われた。
彼女は自分と同郷であり、腐れ縁の友人でなにかと気安い間柄だ。
裏表無く言い合える相手でもあったから…誠子に言われ、純は苛立たし気に舌打ちをする。
純は庶民の出でここまできたが、結局は上から理不尽な理由を押し付けられ足元を掬われようとしている。
上官の命に従い人格者である医者を処断すれば、きっと純がここで培ってきた人望は容易く地に落ちるだろう。
それに軍属としてでは無く純の個人的な感情でも、あの医者を亡き者にはしたくはない。
だが上官の命に逆らったら軍の中での純の立場は危うくなる。
今でさえ目を付けられているのに、危険分子として警戒されれば有事の際には真っ先に最前線に送られかねない。
純一人だけの事ならそれも自身の責任として納得しようが、
今の自分には誠子を含めた100人の部下がいる。彼女らをこんな馬鹿げた理由で危険に晒したくはなかった。
誠子「まぁ…飲むか」
そう言って酒瓶片手にやってきた誠子に純は大人しく付き合う。
呑まなければやってられない心境でもあったから。
ただそんな素直な自分の様子を見て、誠子は明日は雨が降るかもな、とからかう。
そんな彼女をギロリと睨んでから差し出された器をしぶしぶ受け取ったのだった。
それから、二人で夜通し飲んだ。
自室の窓を開けると城下の街が見渡せる。時間帯は夜だったから、城下の街に灯った明りが煌々と灯っていた。
それでもあの灯りの下で愉快に騒げるのはこの国の中になって一握りの人間だけだ。
もはや、この才州国の前王が崩御してから何十年にもなる。
煌々と灯りが灯っているのはこの広い国の中と言えど、きっとこの首都だけだろう。
王宮は王が不在でありながらその代わりの権力を握り、仮王朝に組する者だけでこの世の春を謳歌している。
純も誠子も前王が崩御したのは小さい頃だったから、平常無事に天命を受けた王がこの国を治める時代を経験したことは無い。
ただ、世の中はこんなにままならないものなのかと気落ちはしてきていた。
アルコールも入っているから余計そう思うのか。この国の未来に希望が持てなかった。
例え才能があったとしても、能力が高いとしても……先に立つのは金とコネの世界だ。
それは宮中でも街中でもここ軍の中でも変わらない。
純はたまたま運が良くてここまでこれたが、今日のように上官より命じられれば
筋が通っていなくても力の無い身では従うしか生き残る道は無い。それが無性に息苦しく思った。
だからこんな夜には思うのだ。
どこかに……この広い国土のどこかに、この国の生まれの王が存在するのだろう。
郷里の親や老人が過去を懐かしんでいたように。
天命を受けた正規の王が立てば、この国は変われるのだろうか。
人格者である医者が、その徳のままに尊敬され評価され謀殺される事も無い。
むしろ王不在の宮中にて、権力を欲しいままに法も人としての筋も捻じ曲げる畜生共を黙らせる事ができるだろうか。
軍属として出現する妖魔から人を守るために、または罪を犯した者に剣を握る事に躊躇いは無い。
だが何の咎も無い人間を理不尽な理由で屠るために剣を握る事は許容できなかった。
それは軍属以前の、純の中にある越えてはいけない一線だったのだと思う。
それをきっと、付き合いの長い誠子も良く分かっている。
暗い夜空が昇る朝日により白み始めた頃。空になった酒瓶を傾けながら、誠子は言った。
誠子「無理だな」
純「ああ」
詳細は全て省いた。ただ言われた言葉に対して純は当り前だという風に相槌を打つ。
夜通し呑んだはずだが、互いに少しも酔ってはいなかった。
純の返事を聞いて、誠子は一拍置いてから席を立ち上がる。そして、まだ座ったままの純に対して言った。
誠子「半刻経ったら、10名程連れてくる…性根が良さそうな奴を。そいつらに今回の事を話そう」
誠子「私たちは責任がある分、動けない。だが、そいつらが何かしら動いたら………仕方ない」
純「…そうだな」
誠子に言われ、純は頷く。
誠子「よし。片付けておけよ、机の上。後、換気もしっかりとな。お前が酒臭かったら真実味に大いに欠ける」
純「こんな事でごちゃごちゃ言うようなら、何かする前に俺が轢殺してやる」
誠子「わざわざ馬持ってくんのか、まぁ、言うだけはタダだ。……睨むな睨むな、行ってくる」
去っていく背に、純はうるせぇと声を投げた。微かに誠子が笑った気配だけが残っている。ただ道は決まったのだ。
軍属としての立場があって、だけれど、咎の無い人間を殺す事はできない。
純と誠子が出した、これが答えだった。
それから誠子が言った通り。半刻して10人程兵を連れて戻ってきた。
純は先刻、上官より命じられた内容をそのままに話した。
淡々と事務的に言うだけ。城下で名の通っている町医者に謀反の疑いが有り、と。
上官からのお達しで捕縛する旨、抵抗したらその場で処断する事も厭わない事。
そして、そこからは誠子が続けて決行日を告げた。
明日の日没、集合する場所と時間だけを純と同じく事務的に淡々と述べる。
それを聞きながら、やってきた兵たちの表情を見ると、一様に強張っていた。
こんな世の中だ。彼らとて町医者の評判は聞き知っている。
これが、なんの咎の無い人間一人を謀殺する任務なのだと理解したようだった。
その中で一番若くて素直そうな、軍に配属されてまだ慣れてない感じの若造が、
意見を言うために唇を開くのが見えた。が、その前に純の後ろに立つ誠子が制する。
以上だ、明日の集合場所に遅れるな、と。
そして解散とだけ言い放って……部屋からの退去を無言で命じた。
去っていく中で、若造の表情は全く納得していなかった。
そんな表情を浮かべている兵が4、5人はいた。これならばきっと大丈夫だろう。
全ての兵が去っていってから誠子は「これでいいか?」と尋ねてきた。
純は「…これしかねぇだろう」と呟いただけだった。
次の日の早朝。
昨日の夜と朝とでは気温の温度差があったようで、宿舎から出ると周囲は久しぶりの霧に覆われる光景があった。
全く大した機会だと思う。
早朝のため自然と出てくる欠伸を噛み殺しながら。人目に付きにくい宿舎の影に腰を降ろす。
欠伸をもう一つした所で、誠子がやってきた。
誠子「4人だな」
言われ、純は頷く。
身を隠す純の隣に誠子も腰を降ろして暫くの後。早朝の宿舎より、霧に紛れて出ていく4人の人影があった。
その中の一人は、昨日任務を告げてから一番我慢できないという顔付きをしていた若造だ。
その決意に染まった顔を見て、純はそれでいいと思った。自分が昔に忘れてしまった熱だと思う。
有り得ない事だとは分かっているが、もし王が玉座に座り庶民の意見が僅かでも届く国になっていれば
自分もあんな顔付きになれただろうか。
少しだけ羨ましいと思いながら、去っていく4人の背中を誠子と共に純は見送った。
珍しい事に、その日の霧は、昼過ぎまで晴れる事はなかった。
その日の日没に決行されるはずだった任務は空振りに終わった。
標的である町医者はもはや逃げてしまった後で、無人の家屋だけが残されていた。
怒り心頭の上官より言われ、追っ手も放ったが捕縛したという報は届いていない。
後日聞こえてきた噂によると、4人の若者に付き添われ隣国に逃げ切ったという。
その話が城下に流れた時は庶民の中では痛快劇として話題になったが、上官の怒りは留まる事を知らなかった。
きっと奴も裏では宮中の権力のある官史より言い付かっているのだろう。
誰かが責任を取る事になる。もちろん上官が取るはずはない。そのために純に命を下したのだろうから。
ただ、純にしてみれば……この時まで本当に我慢していたのだ。
色々と、……慣れない長をやったり、柄にもなく周囲に気を使ったりしていて。
本当に我慢の限界だったのだ。
だから眼前のいかにも高そうな机を容赦なく叩くと、自分から全ての責任と取ると啖呵を切ってやった。
出鼻を挫かれた上官は目を白黒させていたが、その動揺が濃い姿に更に言ってやる。
今回の件は全て自分だけの責任で、両長副官及び部下一兵卒に至るまで責任は無いと。
そう、宮中におわす官吏殿にいってやれ、と啖呵を切ってやったのだ。
気が付くと、純は牢に繋がれる身になっていた。
ただ数日後、隣の牢に誠子が入ってきた事は素直に呆れた。
純「てめぇな…」
俺の苦労を無にしやがって…と恨み言をいってやると、もはや一蓮托生だと言い返されてしまった。
本当に自分も馬鹿だと思うが誠子も大概だと思う。
ただ苛立つ思考の中で、こうした道連れは誠子だけに留める事ができたのはきっと幸いだったのだろうなと思った。
罪状はなんだったのか。任務失敗か、それとも上官に対する反抗か、
気付かぬ内に何かの罪を被せられたのかもしれない。
牢に入れられたままに数日が過ぎた。
そんな中、食事を持ってきた牢番が教えてくれた。
牢番「あんたらいい時期に牢に入ったな」
純「牢にぶち込まれる事がいいことかよ、あんた、頭大丈夫か?なんなら代わってくれよ」
牢番「いや、そういう事じゃなくてよ。今にあんたらには恩赦が出るかもしれねぇって事だよ」
純「……恩赦?」
何か目出度い事があって、罪が軽減される事だと思ったが。今のこの国で何か目出度い事など望めるのだろうか?
純が訝しげに牢番を見返すと、彼は言った。
牢番「とうとうこの国にも新王が立ったんだよ。それで近く恩赦が言い渡されるんじゃねぇかって話」
純「え……」
思わず返す純の言葉が掠れた。そのまま無言になってしまう。
その間にも食事を置く門番は何かを言っていたけれど耳に入っては来なかった。
ただ、静かな衝撃が心中にある。
聞き間違いではなかったのか?こんな薄暗く窓もない所に何日も置かれていたせいで幻聴でも聞いたのではないか。
だって…もはや何十年も不在だった玉座に、天命を受けた誰かが立ったのだと牢番は言う。
言葉を失った自分の代わりに隣の牢にいる誠子が声を上げる。
誠子「嘘じゃないのか?…ほら、宮中の馬鹿官吏が偽王でも持ち上げた、とか…」
純「それはねぇよ。だって、あの無愛想で有名な麒麟が選んだんだろ」
誠子「本当なのか…」
呟く誠子の声には驚きを突き抜けた感がある。純とて同じ気持ちだった。
純「…どんな」
無意識に訊いていた。
純「……主上は、この国の王はどんな人間なんだ?」
語尾に向かう程に純は顔を上げていた。だが、見上げる先の牢番はなぜか口を噤んだ。
先程まで は自慢げにぺらぺらと話していた癖に。
どうしたと言うのか。苛立ちを持って純が睨み上げると、牢番は焦ったように言った。
牢番「そ、そんなに睨むなよ!…噂通りこええなあ、あんた。俺も人伝に聞いただけだ」
牢番「俺もそこまでは知らねえんだ。……年頃の少女ではあるらしい」
そういい終えて去っていく牢番の背をどこか夢現の心地で見つめる。
……変わるのだろうか、この国は。
だが、しかし。現実で牢に繋がれている身で心配する事ではないな、と気付き。
純は誠子と共に苦く笑ったのだった。
それから暫くして本当に恩赦が実施され、牢より出られる事になった。
と言っても軍にはもはや居場所はないだろう。
上官に逆らったようなものだし、純や誠子としても今の軍にはなんの希望も持っていなかった。
ただ、働き口を探さなければいけないだろう事は思案したが。
まぁこのご時勢だ、腕には覚えがあったからどこかの用心棒にでも付ければ御の字だと思った。
しかしながら恩赦が言い渡されて、牢より出され……あれよあれよという間に周囲の景色がどんどん変わっていく。
小汚なかった体もいつの間にか洗われそこそこの服を着せられた純と誠子はなぜか……王宮内に佇んでいた。
純「どうなってんだ??」
どこかは知らない、知るはずもない。…こんな所、場違いにも程がある。
けれど背後に立った官吏が更に先に進めと促してくる。
場違いな場所で勝手が分からないのもあるから、促されるままに見えてきた一室の中に足を踏み入れた。
王宮の中にあって、今まで目にしてきた華美さが無くなる。
想像していたよりも質素な室内を不思議に思った。
その部屋の奥に置かれた机の向こうに、入ってきた自分達を気にするでもなく黙々と作業を続ける官吏の姿がある。
考えなくても、この部屋の主だろう事は分かる。
案内してくれた官吏が深々と頭を下げた事からも、そこそこの立場にいる人なのではないだろうか。
官吏を部屋より下がらせると残された自分達を一瞥し、筆を持ち作業していた手を置く。そして徐に立ち上がった。
何か、言えばいいのだろうか。
だがどう考えてみてもここはかつて所属していた軍とは余りに勝手が違う。
礼儀作法など無いに等しい身としては、眼前の官吏にどう対応すればいいのか迷った。
塞「突然こんな所に連れて来られて戸惑っているでしょう?」
そう言いながら、柔和な笑みを官吏は浮かべる。
聞こえた言葉にも敬語は無く、気安い態度に張っていた気が薄れていく。
そんな自分達へと楽にしていいから、と言い彼女は続けて話を聞いてくれないかと言ってきた。
穏やかな物腰。かつては軍属ではあったが、今まで牢に繋がれていた自分らに向ける態度でもないような気がした。
意味が分からず、取り合えず頷く。
それを見届けた彼女は、純達をここへと呼び寄せた理由を話し始めた。
塞「単刀直入に言えば、手を貸して欲しいの」
純「俺達が、……いえ、私達がです、か?」
塞「ええ。…それと無理に敬語は使わなくてもいいよ。私もその方が楽だから」
純「………」
純は混乱して、横に立つ誠子を伺うように見る。
彼女の心情も自分と同じようなものだろう、困惑が瞳に浮かんでいた。
けれどそんな顔を巡らせると誠子は尋ねる。
誠子「まず、なぜ…私達、なんですか?」
もっともな意見だと、官吏は頷き素直に答える。
塞「腕が立つ者が数人欲しかったの。…けれど信頼できる者でなければ駄目」
塞「腕が立っても金を積まれ裏切るのが目に見えている輩には到底任せられない。それは現役の軍人でも同じこと」
純「……」
彼女の言った事を信じるのならば。こうしてここに呼ばれた純と誠子は信頼できるという事なのだろうか。
だが目の前の人物に見覚えは無い。全くの赤の他人である自分らをどうして彼女は信頼に足ると判断したのだろう。
そんな訝しげな純の表情を読んだようで。官吏は理由を言い続ける。
塞「司刑の秋官に懇意にしてる者がいるの。今の件を相談したら丁度良い人材がいると貴方達の名前と立場とを教えてくれた」
塞「こんな世の中でよくそんな無謀をしたものだ、と。話を聞いて驚いたわ」
塞「例え不憫に思っても、上官に逆らい罪の無い者を逃がすのには覚悟が必要だったでしょう。軍属であれば尚更」
純「…………」
全く知らぬ他人より事の本質を指摘されて、驚いたのは純と誠子も同じだった。
言葉も無く目を見開いたままの自分らへと説明する声は続く。
塞「責任を取って必要のない罰を受けていた貴方達がこうして牢を無事に出られたのは、新王即位による恩赦でもあるけど…」
塞「それだけじゃない。秋官が数ある罪人の中で貴方達を気を掛けたのも、軍の一兵卒達より減刑を求める嘆願書が上がっていたからよ」
塞「不思議に思って、事の詳細を秋官が調べて行くと……まぁ、こうして貴方達の本当の理由が分かったというわけ」
だから、と彼女は言う。
塞「人望もある、しかも権威より優先するものがあると分かっている。だから貴方達は信頼できる、と私は判断した」
塞「こうして自分の目で見て人柄も分かったし。秋官には話を通して、正式に貴方達の身柄の責任は私が引き継ぐわ」
なに、どこかの街で日雇いの用心棒をするよりは余程快適で実入りもいいと思うよ、と。
とんとんと話を進めていく官吏を見返しながら……純はこれは夢ではないかと疑う。
だって昨日まで薄暗い牢の中にいたはずなのに。それが気が付いたら、王宮にて求職されている?
そこで、ふと気付いた。
純「俺たちに、手を貸してもらいたい事って…」
誠子「それに。あんた……いや、貴方は」
純も誠子も疑問は溢れる泉のようにあった。
けれど……まずは、眼前に佇む官吏の素性と目的だ。
指摘すると、ああ、と気付いたように官吏は体躯を震わせて笑った。
塞「ごめんごめん、気ばかり急いてしまっていて。…ここは王宮の奥にある内宮。私はそこを纏める内宰で塞っていうの」
塞「実は新王が立ってからというもの内宮は色々と荒れていてね…だから私はこの混乱をどうにか収めたい」
塞「それに、内宮として何より最優先させる事を貴方達に頼みたいから」
純「優先させる事…?」
訝しげに聞き返 すと……ええ、と塞は大仰に頷いた。
塞「貴方達にはここ内宮で大僕の立場となり……主上の身辺を警護してもらいたい、という事よ」
もはや、何に驚けばいいのか分からなかった。
確かつい先日に牢に繋がれている身で国を、王を心配する事もないなと苦笑を浮かべていたはずなのに。
現状、夢でなければむしろ、大きく係わろうとしていないか?
どちらとも無く隣に立つ誠子と顔を見合わせる。
なんとも言えない顔をしていた。多分、純も同じ顔をしているだろう。と
どこか他人事のように思ったのだった。
■ ■ ■
今回はここまでです。
次はまた金曜日に投下予定です。
乙です
一日二回でこの面白さはすばら
乙 また一週間が長いぜ…
乙
いつも面白いなぁ。来週も待ち遠しい
乙です
乙
来週までが長い
乙乙
やはり塞さんは安心
乙
元ネタ知らんけど名前的に恭州国に末原さんがいそう
>>154
>もはや、この才州国の前王が崩御してから何十年にもなる。
>純も誠子も前王が崩御したのは小さい頃だったから
純君と亦野さんは一体何歳なんだ
>>172
この世界観なら仙籍に入れば条件付きで不老不死だから、年齢的には何十~何百歳じゃない
乙です
原作買ってみようかな
明日から出張でごたごたするので1日早いですが投下します。
>>172
純、誠子は27歳、塞は29歳、智美は23歳の設定です。
咲以外のキャラは原作とは年齢が違います。
>>173
不老不死なのは王だけです。
世界観ややこしくてすみません。
2人、官吏が死んだと聞いた。
宮中では無い。たまたま当たった休みで城下に降りて飲み屋に行き諍いに巻き込まれ、
たまたま刃物を握った暴漢に刺され事切れたのだと言う。
その話を智美が聞いた時、まず“やられた”という思いが胸中を過ぎった。
なぜなら死んだ二人の官吏は内宮に係わる天官であり知っていた…というより探していた名前だったからだ。
理由は簡単で。先日に内宮の奥で未遂に終わった事件の詳細を菫から聞き、
それを元に情報を集めて外部に手を貸した不届き者の名をやっとで炙り出した、その矢先の出来事だったから。
偶然だと思うべきか、必然だったと思うべきか。
都合が悪くなったからこちらが大元に辿り着く前に消されたと見るのが妥当だろう。
手掛かりが潰された事を素直に残念に思うが、見方を変えれば相手側にとっては痛い所を突かれたという事だ。
できればその死体を検分して死亡当日にどんな交友関係でその場に行き、
どんな殺され方をしたのか詳しく知りたいが……無理だろうなとは思う。
宮中ならまだしも、城下ならば一介の官吏である智美の采配の及ぶ所では無い。
しかもここ宮中であっても、智美はまだ官吏としては新米も同然で確たる実績もないから。
ただ、台輔である菫の後ろ盾がある故に、周りよりは一目置かれてはいる。
もちろん智美とて自分のこんな状況にいつまでも甘えていようとは思わない。
だが自分の実力を周囲に認めてもらうのは追々でいいとは思っていた。
どうせ今まで宮中にて高位に配されている官吏の殆どは実力ではあるまい。
そんな腑抜けをちまちま排除するよりも、今は菫がやっとの思いで探し当てた王を守る事に専念したかった。
そう思って脳裏に浮かんだ姿。
なんというか、思慮深い。客観的に物事を見る思考にも優れている。
さすがあの菫が選んだだけの事はあるな、と思う。
王とは国の中で最高の権力を持つ者だ。
それを手にし溺れて短命に幕を閉じた王朝は歴史を見ても数多くある。
無学であるらしいから、それを知っているかどうかはわからないけれど。
あの人は王である自分の採決が導き出す結果の大きさをよく知っている。
すぐに結論を出すことを恐れ周囲の声も聞こうとする。まだこの環境に慣れないのもあるかもしれないが。
それでも、あの人の姿勢を智美は素直に好感を抱いている。
何より王とか臣下とか以前に、決めた目標に向かって頑張ろうとしている人を見れば
助けてやりたいと思うのは人として当然だろう。
少なくとも智美はここ宮中にあって忘れかけていた、そんな心境を取り戻そうとしている。
何も分からないと自分を恥じて悩むのは正常な人間の思考だ。
だからそれを補うために様々な事を聞き、見て、学びたいと願うのも健全な人間の思考なのだと思う。
それを実践しようとしている商家の下働き出の王を、学もないのにと見下し侮る輩はたくさんいる。
ひ弱そうな姿を見て脅して説き伏せれば意のままに操れると見縊る奴らもいるのだろう。
だがしかし、ようやくあの麒麟がこの国のために見つけてくれた、正常な思考を持った王だから。
みすみすそんな輩の好きにさせる気は毛頭無い。
少し前の、尊敬もできない上官のために嫌々仕事をやっていた頃に比べれば、
敵が増えたとはいえ今の現状に智美はある種の遣り甲斐を感じ始めていた。
ふと、背後より名を呼ばれる。
思考を中断させて振り向くと、仲間である官吏が近付いてきた。
この度の件を台輔に報告するかの判断を求められる。再び考え込んだのは数秒。
顔を上げると智美は首を左右に振って言った。
智美「まだいい、内容が内容だからな。台輔は慈悲の生き物でもあるし」
智美「責任は無いと知っていても人が死んだことに心を痛めるだろう」
智美「もう暫くこの案件が纏まってから、私から報告する」
目の前の官吏が頷くのを見届けてから、この案件の洗い直しも告げた。
なにせ目星を付けていた有力な証人が消されてしまったのだから。
仕方無いな、と互いに言い合いその官吏と別れると、
智美は予定通り、王である少女の執務の手伝いをするため宮中の廊下を歩き出した。
人気の無い通路の角を曲がった時だった。
突如、壁のように立ち塞がる存在に気付いて智美は慌てて歩みを止める。
寸前で気付いてなんとか衝突する事は回避できたようだった。
ほっと胸を撫で下ろすと同時に…立ち止まったまま、智美は訝しげに顔を上げる。
注意散漫だった自分も悪いが、こんな往来の真ん中で立ち止まっている方も悪いと思う。
多少の険を込めて眼前で佇む姿を智美は見上げた。
眼前の官吏は自分に向かって軽く一礼し「ちょっとよろしいですか?」と声を掛けてきた。
智美「………」
反応に迷ったのは、突如として声をかけられどう対処すればいいのか考えたからだ。
戸惑う自分とは対照的に冷静なその姿から考えて、多分彼女はここで智美を待ち伏せしていたのだろう。
しかしながら今まで見てきた官吏とは明らかに違う彼女の態度に智美に迷いが生じる。
眼前の官吏は格好から推測しても智美よりも身分は上だろう。
ならば新米にも等しい自分に対する態度でない。
菫以外の上官からは頭ごなしに命じられるか、敵意を込めて言われる事に慣れていたから。
そう思うと、自分の周囲も随分と騒がしいもんだよな、と今更ながら智美は気付いてしまった。
迷う心を取り合えず落ち着かせると、余裕を纏ってこちらからも一礼を返した。
智美「反応が遅れまして申し訳ありません…失礼ですが、貴方はここで私を待っていたのですか?」
多分、廻りくどく言わない方がいい。
眼前の官吏は今までの上官達のような愚鈍な相手には見えなかった。
すると智美の問い掛けに対して彼女は「いかにも」と頷く。そのままに、彼女は自らを名乗った。
塞「私は塞と言うの」
その名を聞いて、智美は目を見開いてしまった。
確かつい先日菫より教えてもらった、内宮を治める内宰の名前だとすぐに気付いた。
この女性がそうなのか、と…極力、顔に浮き出た動揺を掻き消しながら智美は眼前の姿を見た。
なるほど、菫が人格者であると言っていた意味が分かるような気がする。
初対面の格下である智美に対する丁寧な態度はもとより、その落ち着いた物腰は不思議な安心感を与えた。
智美も自分の名を名乗ると続けて言葉を返す。
智美「こんな場所でわざわざ……私に何か御用でも?」
塞「ええ。内密の相談と言うのも可笑しく聞こえるかもしれないけど」
塞「主上や台輔に直接口上しようとも考えたけど、どうしても型式通りになって周囲に目立ってしまうから」
塞「なら、一番近い貴方にまずは話を聞いてもらうのが最善かと思いこうして待っていたの」
智美「はあ……」
塞「ここには他には誰もいない。回りくどく言い合うのは互いの時間の無駄にもなるでしょう。……率直に打診したい」
塞「ここ最近、内殿の不穏な空気に主上や台輔に近い貴方もさぞ憂慮しているでしょう。その事について…」
智美「内宰殿。…お待ちを」
話を続けようとする塞を途中で止めたのは、智美なりに判断が付かなかったからだ。
確かに眼前に現れた官吏は実直そうで信頼に足るように見える。
だが宮中に上がってまだ短い間であれ、そんな官吏が変貌する様を多数見てきた智美だったから。
塞のこれからの核心の話をそのまま聞いても良いものかどうか迷った。
智美「まず、確認したい事が」
塞「分かることであれば」
智美「内宰殿が言う、内宮の不穏な空気とは私が胸中で思うそれと合致していると?」
塞「そのように、私は思ってる」
その言葉を聞き、一拍置いてから智美は言葉を返す。
智美「なら先日深夜にて主上の御前に無断で近付こうとした輩がいた事や、城下にて天官二人が亡くなった事に対して…」
智美「内宰殿はどのように考えていらっしゃる?私の見識不足でなければ、内宮で起こった出来事は貴方の管轄だ」
塞「…………」
智美は物怖じもせず意見を述べながら、じっと眼前に立つ官吏を観察している。
気のせいでなければ、鷹揚に構えていた塞の態度に揺れが見えたような気がした。
それがどんな感情での揺れなのかは残念ながら読み取れない。
ただ、彼女が熟考するかのように押し黙ったのは数秒。続けて浅く頷くと言った。
塞「噂通り、よく物事を聞き視野が広い御仁のようね。素直に、台輔は良い人材を得たと思う」
塞「貴方が抱く懸念についても分かった。確かに私はここ最近の内宮で起こる様々な事案に対処し切れていないのが現状」
智美「ならば、これ以上私が貴方の話を深く聞くことができないのは分かるでしょう」
智美「貴方が私の側からみて信頼に足るという確証が何も無い。…打診を受ける事はできない」
言い切る智美に、塞は先ほどよりも分かり易く、顔に落胆の色が滲んだ。
塞「……貴方と、私の根本の目的は同じだと確信している。内宮にあって、主上を御守りしたい」
大いに結構な意見だ。智美とて賛同する。……その真摯な言葉の裏に、何も思惑が無いと分かればの話だが。
智美「確かに同じです。だからと言って易々とその意見を受け入れられない」
智美「……宮中はそんな場所であるのだと、ここで生きてきた貴方なら一番良く知っているでしょう」
塞「どうすれば信頼に足ると?」
智美「主上や台輔に対して不穏な動きをするのが貴方ではないと証明できれば」
智美「そのために貴方の管轄で起こった祥事を明確にして頂きたい」
智美「例えば先日たまたま城下に降り、たまたま不慮の事故に巻き込まれ死んだ天官の事件の詳細、その交友関係なども詳しく」
もしかしたら、そこから途切れたはずの黒幕に辿り着けるかもしれない。余り期待はしていないが。
だが、塞はそんな智美の言葉を聞くと律儀にも頷いた。「できる限りの事はしよう」と言う。
智美とて信頼できる仲間は欲しいと思っている。が如何せん塞は立場が立場だ。
期待の大きい分、万が一裏切られたらこちらの痛手になる。慎重にならざるを得ない。
だからこれ以上は、深く話さない方がいいと智美はこの場に見切りを付けた。
話は終わったとばかりに智美は一礼すると、眼前の女性の横を通り過ぎて行こうとする。
が、数歩歩いた所で背後より、この身を呼び止める塞の声がした。
塞「貴方が言った件は元より内宮を治める私が責任を持って追求する。あと再度言うけど主上を御守したいという言葉に偽りは無い」
塞「台輔と貴方とが許してくれるなら…私が信頼を置いている者を、主上の身辺を守護するために置かせてもらいたい」
智美は進もうとしていた足を止めると、振り向く。
そして……振り向いた先に佇む塞を見返すと、ゆっくりと首を左右に振って言った。
智美「内宰殿。先程の話が全てです。貴方を信頼できない限り、貴方の手の内の者も近づける訳にはいかない」
智美「愚鈍では無い貴方には理解できるはずだ。…この国も、あの麒麟も、大勢の民も、長く苦しんだと思う」
智美「その苦しみより救ってくれるのが唯一天命を受けた王だというのならば…その存在を絶対に失う訳にはいかないのです」
塞「………」
智美「どうか、主上がこの国を立て直すためにも。まずは活動の主軸となるこの内宮を綺麗にする事から手伝って頂きたい」
それが、互いを信頼できる道にもなるだろう、と。続く言葉が無くとも塞に智美の気持ちは伝わったと思う。
返ってくる彼女の言葉も無いのがその証拠だ。…これで、この場所での会合は本当の意味で終わった。
智美は再び彼女に向かって一礼すると踵を返し、今度こそ振り向くこと無く歩き出した。
ただ、徐々に遠ざかっていく背後の気配を掴みながら収穫はあったと感じていた。
菫の人の見る目も、どうして、中々侮れない。
あの実直な姿勢でもし胸中に野心を隠し持っていたのならば、智美の人の見る目も総じて鍛え直さねばいけないだろう。
……ただ、叶うならば将来、本当に仲間になれればいいかもしれないと思った。
■ ■ ■
塞より一連の話を聞いた純は眉を潜めた。
納得できないとその顔にはありありと浮かんでいて、眺めていた塞は苦笑を浮かべる。
ちなみに同じく話を聞いていた誠子も、どちらかといえば純よりの雰囲気を纏っていたと思う。
なるほど、腕に覚えのあるこの二人は確かに官吏には向きにはしないだろう。素直に感情が表情に出てしまう。
純「塞殿の方が身分が上なのに、なぜ簡単に引き下がってきたんですか?」
塞「純、前に言った通り。ここでは敬語はいらないよ、堅苦しいのは肩が凝るしね」
純「………なんで、塞の方が偉いのに。若輩者の意見なんかを聞き入れてきたんだよ」
純「目的も同じなんだろうが?俺には理解できねぇし、むしろそんな生意気奴、轢き殺してやりてぇ」
許しが出た途端、素直に口悪く純が言葉を吐き捨てると、それを聞いていた塞は目を丸くする。
座ったままに書斎机の向こう側に立つ純を見上げながら、その隣にいる誠子に尋ねた。
塞「ねえ、誠子。これが軍の標準語なの?」
純を指しての塞の問い掛けだと理解した誠子はいいえ、と言う。
誠子「違いま……いや、純だけの特色だと。こいつ、小さい頃から何度言われても口の悪さだけはどうにもならなかったから」
誠子「軍でも随分と悪目立ちしてましたよ、ブチ切れると上官にもこの勢いだから、随分と煙たがられてたよな」
純「てめぇ、ばらすなよ!」
誠子「もうばらしてるだろうが。自分で言っていてこれだからな……仕方ない奴だ」
誠子が呆れて言うと、図星だったのだろう純は口元を歪ませて苛立たし気にそっぽを向いた。
そんな彼女らの気安い遣り取りを眺めながら、塞は見飽きない人達だなと素直に思う。
ここ宮中では余り見かけない、裏表の無い性格の彼女らといると確かに気が楽になると思った。
塞「まぁ、全ては今言った通り。相手側が信頼できないというのも、こんな場所だからね。理解はできる」
塞が再度そう言い放つと、眼前に立つ純と誠子は神妙な顔付きになる。
純「……なら、俺らは御役御免かよ?腕を買ってもらったようなもんだから、役に立てないのなら必要はないだろう?」
純の率直な言葉を聞いて、塞はすぐに首を左右に振って答える。
塞「貴方達を引き入れたのは内宰としての私の采配だよ。予定通り、大僕として働いてもらう」
塞「ただ、暫くはその本来の目的から外れるとは思うけど」
そこまで塞が言い切ると、じっと聞いていた誠子が口を挟んでくる。
誠子「純も言っていたが。あんたの方が階級が上なのに何故その若い官吏にそんな譲歩するんだ?素人考えで恐縮だが…」
誠子「塞の特権で台輔に直接直訴してもいいはず。主上を守りたいというあんたの言葉を、慈悲の麒麟なら無下にしないだろう?」
なかなか的確に聞き返してくる誠子に塞は素直に感心した。同時に、純と誠子との関係性も分かってきたような気がする。
軍において判断力と決断力に優れていたのは純で、その補佐の為物事を冷静に見て進言し時には抑え役になっていたのが誠子なのだろう。
面白いな、と思いながら塞は言葉を返す。
塞「私が、内宰の立場に立って表立って台輔に進言すれば2つの点で不利になるような気がしてね」
「「?」」
塞「まず内宰として直接台輔に進言すれば形式に沿わねばならず、万人の目に留まり周囲にいらぬ疑念を抱かせる事にもなるでしょう」
塞「前に言った通り……内宮は疑心暗鬼に満ちてる。落ち着くまでは、いらぬ波風を立たせたくはないの」
塞「もう一つは……その若い官吏を無視して事を進めようとすれば筋が通らないと、私は思ってる」
純「……筋が、通らない?」
意味がわからない、という感じの純の声を聞き、どう伝えようかと塞は少しだけ言葉を探した。
塞「軍で生きてきた貴方達には想像するのは難しいとは思うけど。ここ宮中では、違った意味で貴方達が見てきた軍内部以上に歪んでる」
塞「謀略や貶め合いが蔓延っていた中で私がこうして無事なのは、今まで内宮に主上がいなかった事と極力派閥が関わる政局から逃げていたから」
塞「せめていつか立つだろう王のために。この内宮を少しでも正す事で精一杯だった。まぁ現状を考えると、それすら達成しているか危ういけど」
純「………」
塞「歪む宮中にあって唯一、民の側に立ち正論を言い続けていたのが麒麟である台輔だけ」
塞「私が彼女を助けてやれたのは、内宮での多少の自由を通してやる事と、安全に過ごせるぐらいのことだから」
塞「故に、あの台輔を今までずっと支えてきたのは他の誰でも無い。あの頭の切れる若い官吏だという事」
誠子「………」
塞「それに直接話を交してみて、彼女が彼女なりに主上と台輔とを守ろうとしている事がよくわかった」
塞「なら今更、私が上の階級だからと言って無理に我を通そうとすれば…宮中を蝕んでいた今までの愚官と変わらないよ」
塞「事実、主上と台輔の最も近くで助けているのがあの官吏だとすれば、まずは彼女に筋を通してから事を進めるべきだと思う」
そこまで言い終えて、塞は眼前の二人を見比べる。
誠子はある程度理解してくれたのだろう、顔に浮かんでいた険が薄れている。
一方、対照的に純は未だ顔を歪ませたままだ。
誠子「なら、向こうの信頼に足る条件というのは?」
よく分かっている。うん、と頭を上下に揺らしながら塞は言葉を返す。
塞「あの若い官吏に言われた事は、私も憂慮していた事案だったから。内宮は私の管轄でもあるし」
塞「まずはここに溜まる不安を取り払う事からはじめようと思ってる。手を貸してほしいの」
誠子「はい」
塞「実は先日、天官二人が城下にて事件に巻き込まれて死んだの。不自然で謀殺だろうと思うが理由がはっきりしなくて……」
塞ぐ「その詳細を調べようと思ってる。そうだね……誠子は私と一緒に来てくれる?」
誠子「分かりました」
頷く誠子を見届けてから、塞は腰を降ろしていた椅子から立ち上がる。
そして書斎机を大きく廻り込み、誠子を見てから、その後ろにいる純へと視線を移す。
彼女は相変わらず顔を歪ませたままにどこか不満そうにしていた。
分かりやすいなあ、と思いながら塞は苦笑を浮かべる。
そのままに、俺は?と鋭い視線を向けて聞いてくる純に言った。
塞「貴方はもう少し、この宮中という場所を良く見て来なさい。但し内宮の奥は駄目。まだ私達は信頼されていないから…」
誠子「いいんですか?こいつ喧嘩っ早いし口汚いからいらぬ誤解をばら撒くかも…」
純「誠子、てめぇ……」
そのまま睨みあいを始めた二人を押し留めながら塞は言う。
塞「純なら大丈夫。確かにふとした瞬間に素が出るようだけどね。十分に自制はできているし、本人もそれをよく分かってる」
塞「要所、要所で我慢もしてきたから軍で卒長を務め上げるまでになったのだと思うし…」
ね?と、気安く塞が問えば純は面食らったように目を見開き、次いでどこか居心地が悪そうに視線を泳がせる。
塞の見方でしかないが。多分純は今まで自分の荒い性格をよく分かっていて、怖がられたり貶されたりする事には慣れ切っているが
こうして認めて褒められる事に慣れていない気がした。だから、こんな些細な意見で見せる反応がどこか可笑しい。
塞「まぁ、そういう事だね。じゃあ誠子は私と一緒に。…純は、私がこれ以上深く言わずとも分かっているでしょう」
そう塞が言ってやると意外にも、純は素直に「分かってます」と頷いた。
その経歴からは想像し難いが、存外素直なのかもしれない。
塞は良い発見をしたなと思いながら、誠子を連れ立って部屋を後にしたのだった。
■ ■ ■
国一つを想像してみても、随分と大きい。
元を正せば、商家の小さな世界しか知らなかった咲がなんの因果か一つの国を治める事になるのだから…
本当に人生とは何が起こるか分からないものだ。
今日の執務を終えて、付き合ってくれた智美にお疲れ様でしたと声を掛けられる。
咲は柔く笑むと、智美こそ付き合ってくれてありがとうと言葉を返した。
明るい笑顔を浮かべた智美はその表情をすぐに解くと、変わって申し訳なさそうに柳眉を下げて言う。
智美「この後、また書房に篭られるのでしょう?」
問われ、咲は素直に頷く。やはりそうですか、と智美はそのまま言葉を続ける。
智美「本当は私もお手伝いさせて頂こうとしたのですが。火急の用件ができまして、残念ながらお供する事ができません」
咲「智美さん。それは構いません、物が分からぬ私の相手をするよりも、貴方はこの国にできる事をまずは優先して下さい」
咲にしてみれば素直な気持ちだった。まだ短い付き合いではあるが、眼前に立つ歳若い官吏の聡明さを咲なりに理解しているつもりだ。
自分に時間を掛けるよりも、彼女はその優秀な頭をこの国のために生かしたほうがいい。
だけど、迷う事なく告げた咲の言葉を聞いた智美は相変わらず苦笑を浮かべたままだ。
智美「主上は物分りが良すぎる。国の大事もそうですが、そのために皆が貴方を第一に考えているのだとご理解下さい」
智美「時に、ふてぶてしく言い付けるのも必要な事ですよ」
咲「そういうものなんですか…」
咲も苦笑いを浮かべて言い返す。それを聞いた智美はどこか人悪そうに笑むと頷いた。
智美「ただ主上にもっと我侭を言って頂きたいという事です。謙遜は美徳ですが…その姿勢を素直に受け取ってしまう奴もいるので」
智美「それでいらぬ事を考えすぎて、結局足踏みして近付けないのは奴が悪いのだと…私なんかはわかってんだけどな…」
咲「??智美さん?」
智美「ああ、何でもないです。さて先程の話に戻りますが…この後お一人で書房へ篭るのならば、御身をお止めせざるをえません」
咲「駄目なんですか?」
吃驚して、咲は目を見開く。今まで咲一人で書房に篭る事を止められた事は無かったから。
智美「実は…未遂で終わりましたが先日、主上が一人で書房にいらっしゃった時に許可無く立ち入ろうとした輩がいたようです」
智美「それなりの人数もいたようなので、歓談しに近付こうとした訳ではないでしょう」
咲「……!」
全く気付かなかった。智美に言われて、改めて咲は自身の立場に気付く。
咲「……私が、邪魔だと?」
恐る恐る尋ねると、智美は数秒考える素振りをしてから言う。
智美「そう考えるよりは…主上に自分達の主張を聞き入れてもらいたのでは」
智美「まぁ、どんな主張を奏上したいのかは想像し易い。きっと聞くのも馬鹿らしい内容でしょうがね」
咲「それに……私ならきっと、意見が通り易いとも思われているんですね」
智美の言葉を聞いていて、咲もすぐにその点に気付いた。
智美「主上が立ってから時機が浅いのもあります。王朝の始まりは混乱が付き物ですし」
智美「先見の無い、馬鹿な奴らが凶行に走る事もあるでしょう。ですがそれを素直に受ける訳にはいきません」
お分かり頂けますか?と智美に問われ……咲はコクリと頷いた。
ただ、…彼女が、ここは怖い所なのだと言っていた言葉を鮮明に思い出している。
本の中に埋もれる事ができないのは残念だと思うが、彼女らが自分の身を第一に考えてくれているのはよくわかっていた。
智美「そんな訳で、御身だけ書房に篭るのは控えて頂けると…お供できればよかったのですが私等も今日は手が離せなくて…」
咲「いえ、智美さんの言っている事はよくわかりました」
大人しく自室に戻ります。そう咲が言葉を続けようとした直前、先手を打つよう智美が言葉を続けた。
智美「ああ、でも。…一人だけ、主上にお供できる人物がいます」
咲「?」
智美の言葉に咲はきょとんとした表情になる。
智美「台輔が、暇そうにしておられるはずですから」
そう智美が言った瞬間、咲は反射的にびくりと仰け反ってしまった。
そんなこの身の動揺を智美とて見ていたはずだがなぜか彼女はニコニコ笑ったままだ。
智美「主上もお分かりの通り。台輔は馬鹿が付くほど真面目な方なので」
智美「どうせ、今日一日の仕事は午前中で綺麗に終わらせてしまっているはずです」
智美「そのまま必要の無い明日の予習までやってそうですから、是非とも主上に付き合ってもらいましょう」
咲「い、いえ…智美さん、これは私の我侭みたいなものなので、そんな事に無理に…菫さんを巻き込むのは…」
ぶわりと嫌な汗が額に浮いてきたのが分かる。事実、咲は非常に焦っていた。
智美が言う通り、あの真面目で実直な菫の性格を咲とて知っている。
そんな彼女を、咲の我侭にも等しい行為に付き合わせるのは不味い気がした。いや、不味い。
きっとあの眉間に寄っている皺を更に深くして、無知な咲に対し呆れ果ててしまうかもしれない。
期待など元々はされていないとは思うが。それでもこれ以上底辺には向かいたくないと咲は思っていた。
だから、ブンブンと首を左右に振って咲は智美にやめましょう、と訴える。
だが智美はニコニコ笑ったまま名案だと言わんばかりに声を上げる。
智美「適材適所ってやつです。それに主上、先程私は申し上げたでしょう?」
咲「…先ほど?」
智美「主上はもっと我侭を言うべきだと。人の話に耳を傾ける貴方の姿勢は好きですが。それと気遣いから遠慮してしまう事は違います」
智美「貴方はこの国の王なのですから。何より麒麟である台輔は主上の半身だ。他の誰より貴方にとって気遣いなど無用であるはずです」
咲「…………」
言葉も無く黙り込んでしまったのは、智美の言葉が不意に心に響いたからだ。
智美「それに本当は台輔の口から言うべきなんですが。あの人本当に不器用過ぎて見てるこっちが苛々してくるから言っちゃうけどな…」
咲「…え?」
智美「圧倒的に言葉が足りないだけです、台輔は。だから主上が不安に思うのは仕方無い」
智美「けど台輔は他の誰よりも、貴方の事を大事に思っていますから」
咲「………」
智美「これだけは、私が保証します」
咲「………そうだったら。…そうだったら、いいですね」
智美の言葉を素直に嬉しいとは思えた。
だけど返す咲の言葉はどこと無く頼りない。智美が信頼に足る人物なのはもはや疑いようも無いけれど、
やはり菫自身から言われた言葉では無いから、素直に飲み込めなかった。
智美「と、そんな訳で。主上はここでもう暫くお待ち下さい。台輔を呼んできます」
智美「なに、彼女の事だから顔には出さずとも貴方の願いであると理解すれば、文字通り飛んで来るかもしれない」
麒麟ですしね、ワハハと笑って踵を返す智美の背に咲は震える声で言う。
咲「そ、そこまでは……」
智美「例えですよ、全否定はしませんが。では、明日またお会いしましょう」
開いた扉の向こうに立った智美が振り向き様に言う。
続けて言おうとした咲の意見は、その明るい笑顔に絆されたよう掻き消える。
結局、同じような笑みを顔に浮かべると…智美に向かって咲は頷いて見せた。
咲「また、明日。宜しくお願いします」
咲の言葉に、はいと明るい声を残して智美は部屋の扉を静かに閉めて去って行ったのだった。
そうして一人部屋に残された咲は何かを考えるしかない訳で。
席に腰を降ろし、気を紛らわすために書物などを開いてそれに視線を落としてみたりもしたが。
なんというか…意識がどうしても、智美が閉めていった扉に向かっていって仕方無い。ソワソワしている。
だって今度あの扉が開いて姿を現すのは、自分の半身だという事だろう。
智美より色んな話を聞いてしまった今だから、変に期待しているだろうか、自分は。
できれば智美が言っていた事が本当で、やってきた彼女と少しでも多く話ができればいいと思う。
気になる扉をちらちらと見るが、それが開く気配は一向に無い。
気が急いて、咲は席から立ち上がった。そのまま閉まったままの扉へと向かう。
躊躇いもなくそれを押すと、扉を開けて……咲は外に続く廊下を見渡した。
続く長い廊下には誰かの足音すら聞こえない。…つまりは、半身は未だにここへ向かってもいないのだろう。
そう確信した瞬間、溢れる泉のよう、心中に焦りが噴出した。
なぜそう思ったのか、ただ咲は今からでも遅くはないと思い込んでしまった。
去って行って結構経つのに。智美を呼び止めて、やはり菫を呼ばなくてもいいのだと伝えなければいけないと思った。
そして、今日は大人しく自室へ帰ろう…あそこでも、書物は開けるから。
咲は人気の無い廊下を駆け出す。
静かな空間に、自分が廊下を走る足音だけが響き始めた。
幾つ目かの角を曲がろうとした時だった。
いつまで経っても見えてこない智美の後ろ姿に焦りが募っていた咲だったから、
普通に考えれば、時間が経ちすぎている事に気付いていいはずなのに。
それすら頭から綺麗に抜け落ちていた咲は、ただ智美の後ろ姿を呼び止める事しか頭に無かった。
だから注意もせずに廊下の角を曲がろうとした瞬間。
向こうより、咲と同じようにやってきた人影に気付いていなかった。
しかも咲は急いでいた事もあり、躊躇いもなく反対側からやってきた人物へと勢いをつけてぶつかって行ってしまった。
驚いて小さな呻き一つ上げ、咲は背後へと転がる。
微かに赤くなった鼻の付近を覆い、廻った視界の焦点を合わせようとする。
ぶつかって倒れこんだ自分とは対照的に、眼前で揺らぎもせずに佇む人影を咲は見上げた。
咲「………」
純「………」
転んだ自分を見下ろしながら、大きく眼を見開いたままに女性が佇んでいる。
その長身な体躯に動き易そうな軽装を纏い、腰に官吏には不要な鞘を下げ重そうな剣が差さっている。
物騒なそれを見て……まず咲の脳裏に過ぎったのは先程、智美が言っていた言葉だ。
智美『先見の無い、馬鹿な奴らが凶行に走る事もあるでしょう』
ヒヤリと肝が冷えて、今更ながら単独で行動していた自分の浅はかさに咲は気付く。
あんなにも咲の身辺に気を配ってくれていた仲間の言葉を忘れ勝手に安全な場所から抜け出し、咲はこんな所で正気に返っている。
コクリと唾の飲み込んで…眼前にて剣を携え咲を見下ろしている女性の出方を注視する。
今に、その剣を抜いてこの身を脅すのだろうか。
戦々恐々とする咲に近付いてくると、眼前の見知らぬ女性は咲に向かって手を差し出した。
純「すまねぇ。立てるか?」
とりあえず相手に敵意がないことが分かって、咲はほっと息をついた。
咲「こちらこそ、勢いよくぶつかってしまってすみません」
咲「急いでいたから注意散漫でした。どこか怪我はしていませんか?」
そう咲が尋ねると、女性は一拍置いた後に手を振って否定する。
純「……いや、別にねぇ。俺はぶつかった時の衝撃も強くなかったし…こっちこそ注意力散漫ですまねえな」
ここ宮中では余り耳にする事のない、どこかぶっきらぼうな言葉を懐かしく思い咲は自然に頷く。
それに咲と同じように相手もこちらを気遣う気配を確かに感じたから、当初に持っていた警戒心はその時点で霧散してしまった。
咲「お互い様ですね」
純「お互い様、か」
互いに苦笑を浮かべ、そう結論付けて頃に。眼前の女性は名前を名乗った。
純「純だ。最近、宮中の警護に入ったばかりでまだここに慣れてねぇから…少し迷ってる」
咲「そうなんですか」
相槌を打ちながら、咲も名前だけを名乗った。
そのまま彼女が先程言っていた事実をもう一度確認する。
咲「純さんは、迷っているんですよね?」
純「ん、ああ。…広いな。このままいけば外にいけるか?」
尋ねられて咲は、首を左右に振って答える。
咲「いえ、反対方向だと。ここから先は内宮で、進めば路寝へと続いています」
純「! マジかよ。……内殿の奥か。バレる前に戻らねぇと」
頭をガシガシ掻いて、心底困り果てた表情を浮かべた純を見上げ咲は苦笑する。
なんというか、今まで宮中にあって見てきた本心をひた隠そうとする官吏の姿とは違い、
抱いた感情が素直に表情に出る人だなと思う。
だから、心底困った気配を感じ取った咲は純に向かい言った。
咲「外宮に近い内殿までなら案内できると思います」
純「……いいのか?」
咲「私もそこにいる官吏に用事があるので…途中まででよかったら」
「頼む」と実直に請われた咲は頷く。
「では、こちらに」と、純を先導するために再び続く廊下を歩き出した。
今回はここまでです。
次はまた金曜日に投下予定です。
乙 続き気になるなぁ
乙
ほんといつも面白い。
来週も楽しみにしてる。出張頑張って
おつおつ
純くん誤解されませんように
乙
先月このスレ見つけて直感的に面白そうな気がしたんで
予習に十二国記のアニメ全部見てたら読めたのが今日になっちまった
俺の直感に間違いはなかったわ
ワハハと塞さん、純と咲が出会い交流することで少しずつ人間関係が広がっていく
そこがとても上手く書けていて凄く続きが読みたくなる、毎週ありがとうイチオツ
乙
>>185
塞ぐさん…
咲「純さんは、元は軍にいたんですか?」
純「ああ、首都州師の常備軍に。俺がなんで辞める事になったのかは面白い話でもねぇし、今の軍に未練もねぇから省くが」
純「ただ俺は平民出身で、この肩書きがある限りいくら頑張っても無駄足でしかないと分かった」
咲「………軍も、内部の腐敗は濃いという事なんですね」
純「平たくいえばそうだな。…けど、これから変わっていくかもしれねぇとか少しは期待してる」
咲「?どうして」
純「そりゃ。この国にも麒麟が選定した王が立っただろうが」
咲「!!」
純「すでに底みたいな世界だからな。天意を受けた王が立って、この国が少しでも変わると期待してもバチは当らねぇ」
なぁ?と、賛同を求められても咲はすぐにそうだと頷く事はできなかった。
俯きながら搾り出すように声を吐き出した。
咲「……王に、余り期待しない方がいいかもしれません」
純「咲?」
咲「なぜならこの国で生きてきた癖に、この国の事を何も知らないから。…自分ひとりを囲む狭い世界で手一杯だったから」
咲「民の苦労も、純さんのように軍の現状を憂う余裕もなかった」
純「………」
咲の言葉を聞いて何を思ったのだろうか、純は押し黙った。
そのまま二人分の足音だけが広い廊下に響いて消えていく。
目的の場所まで辿りついた咲が 「ここです」と純を案内し終えると、彼女は「助かった」と素直に礼を述べる。
ぐるりと周囲を見渡して……ここなら分かる、と続けて言った純に咲は安堵して微笑を浮かべた。
咲「では、私は用事がありますのでここで」
そう咲が告げると純は分かったと頷く。
だが咲が再び歩き出そうとする前に、彼女は淡々とした口調で言った。
純「お前が言っていた通り。軍の腐敗は濃いが、多分それはここ宮中でも同じだなと思った」
純「あの人は、それを俺に知って欲しくて宮中を見ろと言ったんだと思うし」
咲「………純さん?」
訝しく聞き返す咲だったけれど、そんな自分を知ってか知らずか純はただ言葉を続ける。
純「それとな。さっき初めて会ったばかりの咲に俺の気持ちを愚痴れたのは…多分、無意識であれお前が俺に近いと感じたから」
咲「………」
純「このままである事に、納得はしてねぇだろ」
王となった以上、この国をどうにか良くしたいとは思う。そのために咲はできる限りの事を努力しようとしていた。
そうだ、と。純の言葉を聞いて咲は思い出している。
咲「私は今、様々な事を学ばなければいけません。ここに来て日が浅いのは私も同じで。だけど貴方より私の方が、余程物を知らない」
咲「だから…純さんがよければ後日、軍の事情をもっと詳しく教えて頂けませんか?」
純「夏官なのか、咲は?」
ここにいる以上、どこかの官吏だとは思っていたが。そう尋ねてくる純の問いに苦笑を浮かべて咲は「そんなものです」と頷く。
待ってた。ほんとに毎週楽しみ
そんな咲を眺めていた純が、熟考するよう黙ったのは数秒の事だろう。
見定めされているかなとは思うが。咲にしてみれば純から生の軍の様子を聞きたいと思ったのは本心だ。そこに裏心など無い。
じっと純に見られていた自分を彼女なりにどうにか判断したようだ。浅く息を吐くと、純は頷いた。
純「…じゃあ、咲も宮中の事を俺に教えろ。それでお互い様、だろ?」
純の言葉に咲は概視感を覚えて笑う。
咲「ふふ、お互い様ですね」
確かに、と。咲も了承の意を込め頷いてみせたのだった。
純「じゃあ。明後日、この時間にここで待ち合わせ。どうだ?」
咲「分かりました」
この時間帯ならば、執務も終わっているはずだ。
必ず来ます、そう咲が言葉を返すと純はどこか楽しそうにして頷く。
じゃあまたな。と軽く言い去っていくその背に咲も同じよう、再会の約束を投げ掛けたのだった。
■ ■ ■
その後、内殿の一室に智美の姿を見つけた咲が呼びかけると殊更驚かれた。
なぜこんな所に一人でいるのかと智美らしく無く責めるように問われ、当初の心境を思い出して咲は答える。
時間が経っても菫が来なかったので心配になって来てしまったと。
それを聞いた智美は納得し難い表情を浮かべていたが……結局は大仰に溜息を吐いてそうでしたか、と頷いた。
何も用事が無いと思っていた菫が自室より抜けていて、探すまでに時間が掛かってしまったのだと智美は言う。
それを聞いていた咲は、密かに胸の内でほっと安堵していた。
自分に呆れてあの半身がやってくるのが遅れた訳では無かったから。
今ならば、菫は向かっているはずだと。だから一緒に部屋まで行きましょう、と智美が言う。
手が離せない仕事があると言っていた彼女を再び拘束してしまうのは気が引けたので、
一人で戻ります、という咲の言葉に今度こそ、智美は妥協をしなかった。
これだけは譲れないという言葉に根負けした咲は智美に連れられて、元いた部屋に戻る。
室内の窓辺に見覚えのある長身が佇んでいた。
一歩部屋に足を踏み入れると、菫が今までにない眼光を滾らせ咲と智美とを睨み付けてくる。
隠しもしない、その剣呑な雰囲気。
咲「………」
乾いてしまった喉を無理に潤すために、咲はゴクリと唾を飲み込んだ。
背後に控えていた智美が気楽な声で、じゃあ私は仕事に戻りますから、と。
この室内に漂う冷たい空気を無視して、無常にもさっさと去って行ってしまった。
結局残された咲は不機嫌な菫を目の前にして、続く言葉を全て忘れてしまいそうになっていた。
何か言わなければ。そう悶々と悩んでいると、俯き加減になっていた咲の視界が突如翳る。
怪訝に思い少しだけ顔を上げたら、いつの間にか窓辺に立っていた菫が至近距離まで近付いてきていた。
じっと自分を見下ろすその瞳に、何か探られているような気がして少しの居心地の悪さを感じた。
だから、それを紛らわすためにも掛け無しの勇気を持って咲は「あの」と声を掛けた。
咲「菫さん、その……」
たどたどしい咲の言葉を補うよう、菫は双眸を細めるとすぐに言葉を返してくる。
菫「ああ。貴方は私に、何か言う事があるのではないか?」
一瞬、言葉に詰まった咲だったけれど。
彼女が今この部屋にいる理由を思い出し、慌てて声を上げる。
咲「……ええ。あの、都合がよければ、これから書房で私の勉強を手伝ってくれないかと……」
菫「…………」
咲の言葉をを聞いた菫は、すぐに「いいだろう」と頷く。
了承の仕草、当たり前だといわんばかりの半身の態度に、竦みそうになっていた咲の心は温かく緩んだ。
よかった、と。そう咲が安堵の息をは吐こうとした直前、頭上より相変わらず淡々とした菫の声が振ってきた。
菫「その他に…」
咲「……?」
続く言葉を不思議に思った咲に、更に言葉は振ってくる。
菫「その他にまだ……貴方は私に何か言う事があるのでは?」
咲「他に、ですか?」
意味深な菫の言葉。だがそれが咲の何を知りたくて、自分へと尋ねているのか検討が付かない。
そして菫に言われて心中に生まれた困惑は、すぐに咲の表情に直結したのだと思う。
続く言葉も無くそんな咲を見下ろしていた菫は暫くの後、徐に双眸を閉じると諦めたよう浅く首を左右に振った。
菫「いや、いい。………私には言いたくないのだろう……」
咲「…え?」
菫の最後の言葉は、咲に伝えるというよりは自身だけに言い聞かせるような小声であったから、上手く咲には聞き取れなかった。
咲は訝しく声を上げるが、眼前に立つ彼女はこの会話を終えるよう踵を返した瞬間だった。
菫「行くぞ」
その場に佇む咲に移動を促す言葉。
不機嫌な様子は変わらないが、それでも先程彼女が言ってくれた通り、咲に付き合ってくれるという事なのだろう。
よかった、そう思って慌ててその長身の後に咲は続こうとする。
部屋の出入り口まで辿り着いていた菫が、追いかけてくる咲を見返してきて言った。
菫「これだけは言っておく」
咲「?」
菫「貴方は自分の立場をもっとよく考えるべきだ。何かがあってからでは、全て遅い」
咲「………」
足を止め、辿り着いた先の長身の見上げながら咲は思う。
どこか苦しそうに顔を歪めているその姿を菫自身は気付いているのだろうか。
ああ、もしかして……自惚れかもしれないけれど。
自分が彼女にそんな感情を抱かせているのだとしたら、素直に申し訳なく思う。
だから考えるよりも先に本能で。咲は菫に向かって深く頷いていた。
それを見届けた菫の表情が、多少は緩んでくれた気がする。
と、同時に。背後よりこの場には不自然な、水面に水が跳ねる音がした。
不思議に思って咲は自然な動作で振り向こうとする。
だがその前に菫の先を促す声に急かされ、結局背後より聞こえた音に対する疑問は掻き消えてしまった。
菫は僅かに前を歩く咲の背を見て、ふと今までいた室内へと視線を巡らせる。
自分達が出た事で無人になったそこには、いつの間にか六ツ目の獣がこちらに頭を垂れて鎮座していた。
その自分の使令の姿を一瞥し、小声で菫は命じる。
菫「相手の正体が分からんのが気になるが。凶行の影が見えたのなら構わん、排除しろ」
『御意』
更に深く頭を垂れたままに、その獣の姿が硬い床にできた水面の底に沈んでいく。
それを見届ける前に。先を行く咲の後を追いかけるため、菫もその場より歩き出したのだった。
■ ■ ■
王として拙いながらも一日の執務を智美に手伝ってもらい、それらを終えてから自室に戻る日々。
殆どはそれから自室にて書房より運び入れた書物を広げ読み耽っていたが。
たまに、こっそり抜け出す時間ができた。
純に出会えた事は本当に幸運だったと思う。
宮中にいる官吏達とはまた違った視点での情報を、彼女は咲に与えてくれる。
だから、その日も執務を終え自室に戻ってから抜け出した時の話だ。
3度目ぐらいだったか、初め出会った頃に比べたらお互いに対して気安さを覚え始めた頃だった。
咲「常備軍?」
咲が疑問を口にすると、横に座る純は頷いて言葉を続ける。
純「ああ、首都や各州に駐屯する軍の事だな。例えばここ首都には禁軍左右中3軍と首都州師左右中3軍が常備している」
純「これらは王が直接指揮できる六師だ。軍の規模も一番大きい。また、各州にはそれぞれの余州師の軍がいる」
咲「それも王が動かすんですか?」
その問いに対して純は首を軽く左右に振る。
咲が持ってきた揚げ菓子の最後を頬張り、咀嚼し終えると続きをゆっくり話す。
純「いいや、各州師はその州を治める州候が指揮する。んで、実際にできるかどうかは知らねぇが…」
純「国内の全ての州に在る州師軍を集めれば、王師に対抗できる数にはなると言われているな」
純の話を興味深く聞いた咲は無意識に頷く。
つまり…天の采配というべきか、王が絶対的な軍事力を握る訳ではなく
もしものために、民の側にも王に抵抗する術を与えているという事。
確かに愚王の存在はいずれ天が許さぬだろうが…今までに読んだ歴史書にも書かれていたよう、
すぐに王が退位する事にはなるまい。その過程で数多の民の血が流されるのだとしたら、
もしものために王に対抗する術を民自身に与えたのも天という訳だ。
客観的に見て面白いと思う。そこで咲はふと、考える。
王ではなくて、一介の歴史学者にでもなれれば自分の性に随分と合っていただろうに。
周囲の声など気にせず 、一日中本に埋もれて過去を考察する。
考えるだけでも、心が躍るような気がした。
純「おい、咲」
呼ばれ、現実に呼び戻される。
声を辿って横を向くと、反応が薄い自分を訝し気に見下ろしている純の姿が見えた。
その顔を見上げ、咲は「すみません」と苦笑を浮かべる。
こうして付き合ってもらっている彼女に失礼な事をしたな、と返す言葉を脳内で探す。
確か、彼女より基本的な軍の話を聞いていた。
それを思い出したと同時に胸中に沸いてきた疑問を咲は伝える。
咲「えっと…じゃあ。純さんは元々、首都州師の軍にいたんですよね?」
純「ああ。上官職になろうと思わなければ学が無くとも腕さえあればやっていけたからな。一応これでも卒長まで勤めてたんだぜ?」
そこまで話を聞き、咲はきょとんとした表情になる。
だって、最近読んだ書籍の中に浅くではあるが軍組織の内容が説明されたものがあったから。
咲「卒長といえば軍の中でも多くの部下を従える立場だと読みましたが。どうして軍を辞めてしまったんですか?」
咲「素人考えで恐縮ですが…それなりの立場だったのなら色々と惜しい気がします」
すると、見つめる先の純の表情が徐々に渋い顔へと変わっていく。
暫く顔を歪めたまま無言を貫き通していた彼女は、ふと片腕を上げるとガシガシ頭を掻いてから観念したように答えた。
純「我慢できなくなったって事だな。まぁ、元々生きていく選択肢として軍属を選んだんだ」
純「事実、荒い仕事は性に合ってたけどよ。いかんせん木偶な上官との折り合いがつかなくて…」
咲「………?」
そこで彼女がどうして軍を辞めたのかを簡単に説明を受けた。
上司からの理不尽な命令や、卒長としての部下や仲間に対する葛藤。
それでも命令に従うか、それとも背くかを悩んだ挙句……結局は、仲間と軍を離れる事を選んだという彼女の話。
だが、その話を聞きながら咲は愕然としている。
咲「そんなの、純さんが悪い訳じゃないのに」
思わず心に溜まった気持ちを口より吐き出す。それでも咲の胸中に芽生えた怒りが薄くなった訳ではない。
筋が通ってないのは純のかつての上官の方だ。
証拠も何も無かったという、純が庇った相手の犯した罪も定かではない。
けれど軍属であれば筋の通ってない話でも上官より命じられれば従う他ないという事。
理不尽だ、ならば一体誰が、どこで間違いを正すのだろう?
何気なく話をしていた純にしてみれば、咲のそんな反応は予想外だったのかもしれない。
彼女は興味深そうに咲を見返している。そしてそれはすぐに苦笑へと変わっていた。
純「深く言い過ぎたな。咲が悩む事じゃねぇよ。もう終わった事だしな」
純「それに俺自身も我慢の限界だったから丁度よかったんだ。……でもよ」
途中で言葉を途切った純は徐に腕を伸ばすと、くしゃりと隣に座る咲の髪の毛を掻き混ぜる。
仕草は柔らかいもので、視界を揺らしながら咲は大人しく衝撃を享受していた。
純「いい奴だな、咲は」
咲「え?」
純「いや、まぁ…怒ってくれてありがとう。ってのも、可笑しいか…だけど意外だな」
純「こんな所にいる役人なんて、もっと自分勝手で矜持の高い奴らばかりだと思ってた」
咲「……それは、喜んでもいいんでしょうか」
純「俺にしてみれば安堵してるんだぜ?今まで見てきた官吏は相手をよく見もせず上から目線で物をいう奴が多かったし…あ、すまねぇ」
言葉の途中に入る謝罪の声。多分彼女なりに言い過ぎたと感じたのだろう。
咲へと伸ばしていた腕を戻しながらバツが悪そうに片眉を曲げている。
だけど純の言った事は事実だ。だから咲は首を左右に振る。
咲「いいえ、純さんは間違ってないと思います。実際苦しむ民よりも、私利私欲のため動いている官吏がいないとは言い切れない」
咲「ほんと……何もできなくて、ごめんなさい」
純「ん?咲が謝る事じゃねぇよ。それにそんな中でもお前みたいに真面目な官吏もいるんだからな。安心した」
純「新王も立ったしこの国も変わっていくだろうさ。…なぁ、主上ってどんな感じの人なんだよ?」
咲「え?」
突如、純に問われた内容に咲は口籠る。
改めて隣に座る純を見上げると、その瞳には明らかに期待の色が浮かんでいた。無意識に咲の額に汗が滲む。
純「咲ならここの官吏として朝廷に出てるだろうし見たことあるよな。やっぱ威厳とかすげぇんだろ?」
咲「い、威厳…?」
思わず返す咲の言葉が震える。
全く持って自分に備わってないだろう資質を問われ素直に落ち込みそうになったが、
向けられる期待の眼差しに何かしらの返答をしなければなるまい。
しかし、今この場で純に本当の事を話すのは躊躇われた。
新王に期待を寄せる彼女の気持ちを壊したくなかった。
咲「実は私もここには上がったばかりで。ま、まだ見習いの身なんです。だから朝廷に出廷できるのなんて先の話で……」
声が揺れているのは心の不安が滲み出ているからだ。だけどそれは違う意味で純を納得させたようだった。
咲の言葉を疑いもせずに純は「なんだ」と表情を緩める。
純「お前も新参者なのか、なら俺と一緒じゃねぇか」
咲「…はい」
純「なら色々知らねぇのも仕方ねぇよな。まぁ可笑しいと思ったんだよ、初めてぶつかった時もすぐに謝ってくるし」
純「ここの官吏みたいに垢抜けてねぇ奴だなぁって」
鋭い指摘に咲は笑みを浮かべながらも内心ヒヤリとしている。
纏うものが良くなっても自分の中身はまだそのままなのか、純の注意力が人一倍優れているのか。
どちらにせよ、この話をこれ以上続けていればいらぬ事を言ってしまいそうだったし
時間も時間だったのでその旨を咲は純に伝えた。
純は疑いもせずに気安く頷くと、じゃあまたなと笑った。
後日、また会う約束を交わして彼女とはそこで別れたのだった。
人気のない通路を歩きながら咲は先ほど純に教えてもらった話の内容を思い出している。
彼女がかつて在籍していたという軍の内情。
出世するのも金次第で、私利私欲のために理不尽な命令をも強要される。
王とか平民とか関係なく素直に怖いと感じた。
なぜなら状況は変われど咲自身にも理不尽な境遇には身に覚えがあるからだ。
今の純の話も、即位してから見てきた宮中も……そして、かつて自分が下働きとして働いていた商家も。
結局全て同じではないか。理不尽に、筋が通らないと分かっていながら物事が進んでいってしまう。
肌が粟立ったと同時に、再び自分の途方もない立場に気付き後れしそうになる。
正せるだろうか、今でさえ周りからは何もできないだろうと見縊られているのに。
自分に、今までこの国を蝕んできた歪みを正していく事が果たしてできるだろうか。
今回はここまでです。
次はまた金曜日に投下予定です。
乙です
乙 また一週間が長いな
乙乙
なんだっけ耳から入って思うように体動かせるようになる妖魔
あいつこっそり憑けられれば怪しいやつの性根探るのに便利そう
菫さんより先に純くんと仲良くなってしまった
もどかしい
乙
咲さんわりと内気っぽいし菫さんは固いから時間かかりそうだね
そりゃ咲はあんな育ちで菫は使命があったからな、当然といえば当然
>>219
賓満のことだろうけど菫さんが使役してるとは限らないからなんとも
咲は深く考え込んでいた。だから注意力は散漫になっていたのだろう。
それでも続く通路を黙々と歩いていて、先の角を曲がった瞬間。
突如として飛び出してくる人影が視界を掠めた。反射的に足を止めて咲はビクリと体躯を揺らす。
眼前に飛び出してきた姿を認識する前に、ぶつからないために背後に下がろうとする。
が、その前に眼前の姿は背後に下がろうとする咲の足元に飛び付き、平伏した。
そのまま腕が伸びてきて下がろうとする咲を逃がさぬように服の裾を掴まれた。
咲「!?」
平伏しているせいで顔は見えないが、官吏特有の格好をした中年ぐらいの男性に見えた。
咲には見覚えはなかったが、きっと朝廷に集まる多くの官吏の中の一人なのではと思う。
男「どうか、奏上する事をお許し下さい」
咲「あの…」
返す言葉が詰まる。
迷いも無く咲へと飛びついてきた姿から想像するよう、この官吏はやはりここを通る咲を待ち伏せしていたのだろうか。
とりあえず手を差し出しながら咲は上体を屈め、まずは顔を上げてくれと声を掛けようとした。
だがその前に、足元に平伏する姿の声は続く。
男「ご察しの通り。御前を無作法に穢す行為は許されない事です」
男「ですが、どうしても主上に奏上したい旨がありまして…恥を偲んでお待ち申し上げておりました」
咲「私に、わざわざですか?」
顔を伏せていてもその声や雰囲気で官吏の必死さが伝わってくるようで、思わず咲も続く彼の言葉に耳を傾ける。
男「私は夏官を務めておりますが、主上にお耳に入れたい事がございます」
男「保身のためかと思われるかもしれませんが、そうではなくて、これは…」
声に必死さが増す。彼の話を聞きながら、夏官の役割を咲は思い出している。
確か国府の中で軍や警備、土木事業を担う官吏だ。
その官吏の中の一人がわざわざこんな宮中の奥まった場所で待ち伏せしてまで咲に話したい事とは一体何なのだろうか。
途切れた官吏の言葉の先を咲は待つ。彼は意を決したように伏せていた頭を上げようとする。
酷くやつれた顔が見えた。が、そのままに官吏の顔が不自然に上下に揺れた。「がっ、」と掠れた声がする。
一瞬の事で、咲は何が起きたのか理解できなかった。
いつの間にか、眼前の官吏は咲の服の裾を掴んだまま床に倒れ込んでいた。
やつれた顔は再び伏せられ、倒れ込む背はピクリとも動かない。
咲が呆然とその姿を見つめていると、更に長い柄の棒が何本か伸びてきて倒れ込む姿を抑えつける。
官吏「ご無事ですか、主上」
気が付くと何人かの守衛にこの場は囲まれていて、その中央を割ってまた咲には見知らぬ官吏が出てきた。
気のせいでなければ、床に倒れ込む姿と似たような色の服装だったと思う。
ただ、状況が目の前でどんどん変わっていく咲は状況が正確に把握できていなかった。
突然意見を述べようと飛び出してきた官吏にも驚いていたが、その話を聞く前に突如として床に打ち倒されてしまったのだ。
言葉を失った咲を前に、目の前の恰幅の良い官吏は守衛達に迷いなく指示を送る。
その光景を呆然と眺めていた咲が「あ」と声を上げたのは守衛に打ち倒された官吏がそのままに引き摺られていこうとしたからだ。
彼は結局、何を咲に意見したかったのだろうか。
それが気になったから思わず体躯が前屈みになるが…その動作を制するように、目の前の官吏が咲に向かって言った。
官吏「御前をお騒がせしました、主上。お怪我はございませんか?」
咲「え?はい、私は何も。ただあの人は大丈夫なんでしょうか?気を失っているようですが」
その問いに、官吏は殊更丁寧に言葉を返してくる。
官吏「主上が気に留める価値もない輩です。…間にあってよろしかった」
咲「?間に合って、とは」
咲が再び言葉を返した先で、官吏は改めて咲に拝礼すると身分を名乗る。
官吏「王の身辺警護を纏めております射人でございます 。実は主上が即位してから宮中にはよからぬ噂が蔓延っていまして」
官吏「主上に無理に取り入ろうとする、などと。……先ほどの輩も、その一味でございましょう」
咲「………」
官吏「主上を守るべき同じ夏官よりそのような輩が出た事、恥じればこそ返す言葉もございません。ですが詮議の程は責任を持って執り行います」
恰幅の良い体躯が眼前で感極まったように震える。その迫力と切々とした声に咲は反射的に頷いた。
事実、咲には彼の意見に反論する要素が何も無かった。
守衛を引き連れた目の前の射人の役目として、それは慣例に従っているのだろうと思ったし。
すると、拝礼より顔を上げた射人は先ほどとは撃って変わって人の良さそうな笑みを浮かべる。額が滲む汗で光っていた。
官吏「お許し頂けて感謝の言葉もございません。…ただこうして直にお側に馳せる事ができたのは不幸中の幸いと申し上げましょう」
そこまで射人が言って、咲もふと疑問が沸いた。
確かにその立場は王の身辺警護が役目ではあるが…目の前の官吏の姿を咲は見た記憶が無い。
頭を傾げると、そんな自分の疑問を悟ったのだろう、射人は言葉を返してくる。
官吏「直にお目にかかるのは初めててございます。私は確かに王の警護を任されておりますが…」
官吏「主上は即語から今まで朝議以外は内宮に籠られておられました。射人と言えと、内宮の守備はまた勝手が違います」
官吏「大僕がその役目かと存じますが、その前に台輔がきっと主上の事を考え何かと気をお配りになっていらっしゃったのでしょう」
咲は目を見開く。射人の言葉を聞き、確かに自分は即位よりこの方内宮より外に出た記憶が無い事を思い出している。
そういえば数日前に智美とて言っていたではないか。自分では気づかなかったが、無謀にも踏み込もうとした輩がいたと。
王朝の初期は混乱が付き物で…先見の無い、馬鹿な奴らが凶行に走る事もあるでしょう、と。
今にして思えば周囲で支えていてくれた官吏達は、あの半身である麒麟も含め自分よりも遥かに高い危機感を抱いていたに違いない。
ならば今、飛び付き、進言しようとした官吏もその一人だった?
ヒヤリとしたものが背筋を走る。気をつけろと言われていたのに無謀だったのは自分の方だ。
ほっと息を吐いて、改めて眼前の射人を見返すと咲は礼を言った。
咲「そうだったんですか。あの、助けてくれてありがとうございました」
官吏「臣下として当然の事でございます。ささ、内殿までご案内致しましょう。どうぞこれよりは私の事もお見知りおき下さい」
再び上げた顔には、人の良さそうな笑顔が浮かんでいた。
釣られるように咲も微笑むと、もちろんです、と射人に言葉を返したのだった。
■ ■ ■
その日の夜に自室の片隅で燭台を灯し書物を読んでいると、控えめに扉が数回叩かれた。
次いで「よろしいか?」と半身の麒麟の声が聞こえてきたので咲は驚いて顔を上げる。
毎朝義務のよう咲の元へ顔を出してくる菫だが、こうして夜も遅くに突如としてやってくる事は今まで一度もなかった。
咲は驚きより立ち直ると「どうぞ」と入室を促した。
机の上に広げていた書物を綴じて、椅子より立ち上がるのと自室の扉が開くのとは同時だったと思う。
振り向くと、開いた扉の隙間より菫がその身を滑らせて入ってくる所だった。
そして、改めてこちらへと向き直った半身は待っていた自分と視線とが合うと軽く会釈をしてきた。
反応する代わりに咲はぎこちなく笑う。
情けない話だが未だに、半身であるはずの彼女との距離を掴めていない。
智美のような第三者がいてくれれば多分、普通に話せているとは思うのだけれど。
こうして一対一になると……緊張が表に出てきてしまい咲にしてみれば上手く話す事ができているか不安だった。
菫「………」
しかし、折角やってきてくれた彼女に対して自信がないからと無言を貫く訳にもいくまい。
意を決して咲は声を掛ける。
咲「こんな時間にどうしたんですか?」
すると扉の前に立つ菫は、すぐに何かを言おうとして唇を開いた。が、またそれを閉じてしまう。
咲「?」
どこか言いにくそうな雰囲気。
迷いの無い言動が常の菫にしては珍しいな、と思い咲は首を傾げる。
でも多分こんな時間にわざわざやってくるのだから、なにか大切な話なのではないだろうか。
長くなるといけないし、まずは席を勧めようと咲は続けて菫に声を掛けた。
咲「菫さん、まずは席に…」
菫「今日」
言葉の先を遮るよう聞こえてきた菫の固い声に、咲の言葉は不自然に途切れてしまった。
菫「執務を終えてからどこに行っていた?」
指摘され、咲はドキリとする。
咲「………」
そのまま思案したのは数秒。素直に事実を言えばよかったのだが、なぜか咲は言えなかった。
多分彼女にこうして真正面から問われ、今更ながらに自分の今までの行動が軽薄だったのではないかと気付いたからだ。
内緒で行動していた後ろめたさもあったし、その過程で会った純や射人にいらぬ迷惑を掛けたくもなかった。
彼女らはいい人だし、何より素直に答えてこれ以上目の前に立つ菫より呆れられるのを恐れた。
すぐに答えない咲をどう思ったのか、彼女は固い声のままに言葉を続ける。
菫「様子を見にいったら留守だった」
菫が訝し気に思っているのがその声からも伝わってくる。何か答えねば。
咲「書房に」
咄嗟に咲はそう言葉を返していた。すると今度は菫が押し黙る。
咲の言葉の先を、真摯に待つ彼女の気配に後押しされる。
咲「書房に書物を取りに行っていて……暫くしてすぐには戻ったんですが。いき違いになったのかもしれませんね」
菫「………」
咲「それからはここにいたんですが、すみません」
瞼を伏せて詫びる。
視界が下がったから菫の様子は伺えなかったが、暫く経った後に微かに溜息を落とす彼女の気配を感じた。
やはり呆れてしまったのだろうかと心が小さく痛んだ。
菫「智美からも言われていただろう。今はまだ宮中も不安定なんだ、軽はずみな行動は控えるように、と」
もう一度顔を伏せたままに咲は「すみません」と呟く。
そして、思わず喉元まで競り上がってきた言葉を、続けて吐き出しそうになった。
いつも必要以上に硬い空気を纏って硬い言葉を吐き出すしかない半身に、本当はずっと尋ねたかった。
本当に、自分でよかったのかと。本当は後悔しているんじゃないのかと。
こんな…何も知らぬ、できぬ王で。
だからこうして言葉を交わす程に、失望感を抱いているのではないのかと。
言葉も無く、溜息を落とすのはそのせいなんでしょう?そう聞きたい。
けれど俯いたままに咲は唇を浅く噛み締める。吐き出そうとした言葉を寸全で飲み込んだ。
だから、きっと目の前の菫から見れば咲は謝ってからずっと黙っていたようなものなので。
必然的に、この沈黙を先に破ったのは彼女の方だった。
相変わらず硬い声のまま「分かっているのなら、いい」とだけ短く言う。
咲は伏せていた顔を恐る恐る上げる。
目の前には、閉めた扉の前から少しも動いてない菫の姿がある。
相変わらず眉間には皺がより険しい表情を浮かべていた。ただ紫の瞳がじっと咲を見下ろしていて、
顔を上げた咲の視線とが自然に合うと、彼女はそれを待っていたかのように咲を呼んだ。
菫「主上」
未だに自分がそう呼ばれる立場に慣れない。
他人よりも、彼女からは特別にそう思う。だから呼びかけに対して反応は鈍かった。
それでもたっぷりの時間を掛けて「はい」と咲は返事をする。
菫「私に何か伝えねばならぬ事があるのではないか?」
その言葉に既視感を覚えた。……前にも言われたような気がする。
ただそれを思い出す前に、彼女の言葉の硬さが消えているのを不思議に思った。
どこか見透かされるようじっと見つめられているのに多少の居心地の悪さを感じる。
きっと今、嘘をついたばかりだからだ。
動揺を悟られないよう咲はゆるりと首を左右に振る。
だって今更言えるはずもない。彼女にこれ以上失望されたくはないから。
心の中でごめんなさいと言って。現実では「何も、ないです」と。
そう静かに言葉を返していた。
目の前の菫は「そうか」と言い、何かを考えるように顔を伏せてしまったのだった。
■ ■ ■
智美「で。それで大人しく引き返してきたのか」
菫「…………うるさい」
智美「いやいやいや、言わなきゃ駄目な事だろ。なんで菫ちんは変な所で押しが弱いんだ」
声を上げる智美から逃げるよう菫は顔を背けてしまう。
だって、そんな事を改めて他人より言われぬとも自分自身で痛いほど理解している。
けれど主人が言いたくないというのに、どうして、しもべである自分が無理強いできるか。
顔を顰めながら情けない言い訳を必死に考えている。
だが、本当は智美が声を上げている事は正しい言い分なのだと理解していた。
顔を背けてしまった自分を立ち上がって見降ろしている智美は、同じように顔を顰めた。
智美「信頼できる人間だけを近づけていたはずだ」
智美「だけど昨日、わざとらしく菫ちんを訪ねてきた奴が何を言ったのか忘れてないだろ」
そう指摘された事を菫とて忘れる訳が無い。
一日の仕事を終え、明日の支度すら終えてから執務室より退室しようとしていた頃。
その時は丁度良く、一日の報告をしに智美もいたから彼女も一緒に迎える事になった。
そんな時間の来訪者を互いに訝しく思ったのを覚えている。
やってきたのは一人の官吏だった。確か夏官の格好をして随分と恰幅の良い男だったと思う。
迎えた菫には見覚えが無かったが、側に控えていた智美の顔色が変わった事には気付いた。
だが、彼女は自分が口を挟むのは場違いだと理解しているから何も言わない。
そのまま深々と頭を垂れた官吏が言ったのは別に特別な事でもなんでもない。
ただの挨拶みたいなもので、菫の立場であればこういった歯の浮くような媚を込めた台詞を言われた事など幾度もある。
ただ台輔である自に顔を覚えてもらいたいだけできたのか…まったく逆効果である。
辟易したが、それでさっさと話が終わるのならば下手に場を荒立てる必要もないと菫は判断した。
早く終わらせるために適当に相槌を打っていたが、変わり映えもしない挨拶も終わりに近づいたと思われる頃。
突然に官吏はこんな事を言ったのだ。
官吏「主上にはお会いしましたが、本当に良き王を選んで下さった。私のような者にも気さくに言葉を交わして頂けました」
官吏「ですので、是非とも台輔には突然無礼とは思いましたがどうしても御礼を申し上げたくて」
目の前で垂れる頭を胡乱気に見下ろしていた菫の瞳が驚きから大きく見開かれた。
待て、今こいつは何と言った。
思わず側で控える智美に顔を向ける。
彼女は相変わらず強張った表情のままで、顔を向けた自分と視線とが合うと浅く首を左右に振った。
智美にとっても預り知らぬという仕草、ただ、彼女は声の音は出さず唇だけを動かして言う。
智美(すぐに確認する)
それに対して果たして自分はきちんと頷けただろうか。
だが気付いたら今一度正面に向き直っていて。目の前の恰幅の良い官吏も言い終えた頭を上げた瞬間だった。
腰を低くしたままに、額に汗を浮かべながら官吏は言う。
官吏「今日はまずはご挨拶までに。どうかこれからも主上共々、お見知りおき下さい」
そう言って、反応の薄い自分に対して深々とお辞儀をしてから官吏は退室していった。
その姿が消えていったのを確認してから無意識に菫は主の気配を辿っていた。
そして瞬時に、いつものよう自室のいる気配を確かに感じ取る。
少しだけ動揺が薄れた。………だが少し前までの事は分からない。
どうする、あの人に付けている使令を呼び戻すべきか。
いや、今不確定な話も聞いたばかりでもあるから、主人を守っているはずの使令を引き離すのは躊躇われた。
智美「菫ちん、さっき伝えた通り。まずは状況を確認してくる」
押し黙ってしまった自分の前を早足で横切りながら智美が言い放つ。
だから軽はずみな行動はするなよ、と釘を刺されて…ようやく自らが酷く思い詰めている事に気付いた。
智美が退室し、その扉が閉まる音が響いて思考は冷静さを取り戻す。
一人残された部屋の中で徐に利き手を上げて手の平で顔半分を覆い、重い息を吐いた。
そして今一度、主の気配を辿る。
菫「………」
大丈夫、確かに存在する事を確認してほっとした。
自分をここまで揺れ動かすのは真実、主であるあの人しかあるまい。
その事を菫とて、こうして直に思い知っている。
ただ何も知らぬ他者より無遠慮にあの人の事を言われただけでこの様だ。
とりあえずは辿れば感じ取れる気配に今は安堵している。
だけど、あの人には信頼のおける者しか側に近づけなかったはずだ。
だから智美も側で話を聞いていて顔を強張らせていた。
自分たちの知らぬ瞬間に、顔を合わせていたという事なのか?
だが冷静になってあの官吏の話を思い出してみても、多分以前からという訳ではない。
それに言っていた話が真実かどうかも分からないではないか。
ならば攪乱?だとしたら何のために…
悶々と色々な可能性を考えていたら結構な時間が経っていたらしい。
窓から差し込む光は随分と弱まっている。そんな中で部屋の片隅にある燭台に明かりが灯るのに気付いた。
思考の渦に嵌っていた意識を現実へと戻す。
灯された明かりを辿るように視線を向けると、いつの間にか智美が戻ってきていた。
照らされるその横顔は……残念ながら、先ほどこの部屋を出て行った時と同じく強張ったままだ。
智美「確認してきた」
そう開口一番に智美が言うには、あの官吏が言っていた通り。
以前からの事ではなく今日の出来事だという。
朝からは執務もあるし、菫の主が智美と一緒にいたのは智美本人からも確認済だ。
ならばその執務が終えた後という事なのだろう。
騒ぎがあったのは確かで、起こった時間も執務が終えてからと考えれば辻褄が合う。
どこで何があったのかまでは確認できなかった。なぜなら騒ぎを収めたのが夏官達で詳しく話すのを渋ったからだ。
それでも結果として、彼らが騒ぎを内密で収めて、巻き込まれた主を内殿まで無事に送り届けてくれたという話だから
感謝こそすれ、無理に聞き出す事もできなかったという。
ただ、そこまで聞けば不安を抱くのは仕方ない。内殿まで送り届けたという事を考えれば。
菫「………外宮に行ったのか」
呆然と呟いた菫に対して、智美は数秒考えてから言い返す。
智美「多分。…どうしてわざわざ内宮より外に行く必要があったのか」
それが分からない、と智美は呟く。
智美「まだ短い付き合いでしかないけど。主上は決して愚かな人じゃない」
智美「自分の欠点を知って、それを克服しようとする人が愚鈍であるはずが無い。それでも外に行く用があったというのならば」
不自然に智美の声が途切れる。
菫「……あったというのなら、なんだ。まさか、また逃げようとか」
問い掛ける菫の語尾は自然に荒くなる。
そんな菫の言葉に対して智美は首を左右に振って、それは無いと断言する。
だって、今でも書房から書物を持ち返り徹夜を続けている人が今更逃げ出す算段をしていたとは到底考えられない。
けれどそのまま思案気に智美は顎に手を当てて呟く。
智美「まぁ、……誰かに会いに行ったと考えるのが妥当かな」
菫「誰に」
即聞き返してくる菫に対して、落ち着けと智美はなだめる。
智美「私が知るはずないだろ。……それを確認するのは、菫ちんの役目だろう?」
菫「ぬ…」
突然、矛先が自らに向いた事に対して菫は怪訝な表情を浮かべた。
当たり前だろう、と言わんばかりに智美は頷いた。そして外の暗さを指差しながら彼女は言う。
智美「時間も時間だし。事前に謁見を申し入れてもないのに一官吏である私が出向くのはさすがにまずいからな」
智美「その点、菫ちんはきちんと立場もある。仁重殿のここから正寝までもいけるだろ?」
智美「守衛や官吏に見つかったって王の半身である麒麟なら納得するだろうし」
菫「…だ、だが」
明らかに狼狽している菫を見て、智美は呆れを滲ませた。
智美「おいおい、こんな時まで“自分は嫌われているから行けない、訊けるはずがない”とか情けない事言わないよな」
的確な指摘に思わず菫は渋面になる。図星という仕草。
ただ、それを見返す智美は「誤解、まだ解けてないのか」と呟くと片腕を上げて頭を掻いた。
そのまま押し黙る事数秒。再び唇を開いた彼女は、どこか言葉を探すように慎重にそれを菫へと吐き出す。
智美「……王と、麒麟の問題だ。一臣下の私如きに図れない部分もあるのかもしれない。けどな…」
智美「これから一生付き合っていくんだ。この国のためにも、こんな状態のままじゃいけないって事ぐらい分かっるてんだろ」
菫「……っ」
智美の言葉が痛い程正論であると分かっているから反論できない。
燭台の明かりにだけ照らされた彼女の顔に冷たいものが陰ったような気がした。
智美「台輔」
そう呼ばれる時、いつもは明るい彼女が柄にもなく真剣になる時なのだと菫は知っている。
だから、その先を聞きたくないと思ったのは菫の本能だ。
智美は菫にとって、とても恐ろしい事を言おうとしている。
智美「私は一臣下だ、この国の」
菫「………」
智美「だからこの国の行く末をまずは憂う。なぁ台輔。麒麟としてのあんたが駄目だと言うのなら……」
智美「あの人を諦めて、あんたは次の王を探すのか?」
冷たく突き放すよう言われた言葉に心が掻き乱される。
カッと胸の内が熱くなるのが分かった。
深く思考するよりも胸中に耐え難い拒絶感で溢れる。瞬時に朱に染まった顔面を菫は歪めた。
慈悲の獣のはずの彼女がそんな本性をかなぐり捨てて、菫は激高した。
菫「ふ、ざけるな!!」
眩暈がした。怒りに似た衝動に突き動かされ、続けて吐き出す言葉に迷いすらない。
菫「私の主はあの方だけだ!主上が…あの時私に許す、と言ったから!他になんて、考えない、絶対にっ!」
認めない、と。そう思った瞬間、ようやく菫自身も理解した。
例え後に冗談だと言われても、絶対に許容できない一線がそこにはあった。
智美は珍しくも激昂する菫をじっと見返している。
いや、こうして感情を酷く顕わにする菫の姿を見るのはこれで2回目だったか。
確か最初は彼女が無断で連れて来た王である少女が高熱で寝込んでいる時だった。
あの時も、暴れ出した彼女をなだめるのに苦労した。
いつの時も毅然として感情の起伏が薄いはずの彼女は、唯一王に関する事柄にだけは感情豊かに反応してくれる。
智美から見ればとても分かりやすい。
ただ智美にしてみれば菫の本心がやっとで聞けたから。冷たく纏っていた空気を緩めると苦笑を浮かべた。
智美「それを聞いて安心した。じゃあ大丈夫だよな?」
目の前の菫にしてみれば、溜まった怒りの矛先を智美に挫かれたようなものだったらしい。
怒鳴ろうとしていた口を開いたままに「は?」と間抜けな声を上げる。
智美「ワハハ。その調子で今日何があったのかを詳しく聞いてくるといいぞ」
智美「ついでに互いの遠慮からくる誤解が解ければ、菫ちんにしてみればほんと上出来上出来。がんばれー」
そこまで言われた菫は、ようやく智美の思惑を正確に理解した。
菫「……っ!!」
結局、菫は何も言い返せずに言葉を飲み込む。
智美は言いたい事は言い切ったと大きく息を吐いた。
智美「それじゃそろそろ自分の溜まってる仕事を捌きに戻るな」
そう言って、自分に乗せられて固まったままの菫を見上げるとワハハと笑って告げる。
智美「明日一番に結果聞きにくるからな。微力ながら菫ちんの分かり難い健気さが主上に伝わるよう天帝に祈っておくよ」
菫「…………!!」
駄目押しだ。菫がもはや決めた事を反故しないだろうという事は分かっていたが、強く背を押すぐらいの事はしてもいいだろう。
これから自分には徹夜の仕事が待っているが…それでも少しの希望を持って事に当たれそうだ。
やれやれ、と凝った肩を鳴らしながら智美は菫の部屋を後にする。
外に出て扉を閉めるまでに結局、彼女より返ってくる声は無かったが。
扉を閉める瞬間、観念したよう瞼を伏せる姿が見えて、智美はたまらず苦笑を浮かべたのだった。
つい昨夜の出来事を思い出しながら目元に出来た隈を強く擦る。
溜まった書類に埋もれながら、それでも頭の片隅には王と麒麟の事を気にしていたと思う。
どちらも性格は違えども、素直で真面目だ。
その事を天帝に感謝こそすれど、残念に思った事など一度もない。
だから智美の視点からすれば彼女らの仲違いなんて些細な擦れ違いにしか見えなかった。ただ深く話し合えばいいだけだ。
これで少しは歩み寄れるだろう、と智美なりに思っていたのだが。
額を手の平で覆いながら低く呻く。
どうやら擦れ違いは智美が思う以上に大きかったという事なのだろうか。自分の読みもまだまだと浅く息を吐いた。
ただ約束通り菫の所に結果を聞きにきて、残念ながら彼女が主人に対して深く原因を聞いてこれなかったという事は理解した。
ついでに仲直りというか、歩み寄りも不発に終わったと。
後者は平和な時ならば、微笑ましく智美なりに精いっぱいからかいを持って見守ってやりたいと思っていたが
今の足元の不安定な状況ではそうしてやることもできない。
塞達や、 昨日の騒ぎの件も不安要素として智美の頭の中には残っている。
まだ塞達の方は対等だと思っているが、昨日の騒ぎは何か嫌な予感がしていた。
詳しく内容も分からず結果として外に借りができたようなものだし。
本当に……今更言っても仕方ない事だが、王と麒麟の間がもっと親密であればこうも悩んでいないと思う。
取りあえず結果が芳しくなかった事をいつまでも責める訳にはいかないだろう。
それに真面目な菫の事だ、きっと智美が思う以上に後悔しているに違いない。
ならば自分が今日の執務の間にでも、主上にそれとなく聞いてみようかなと智美が思った矢先。
目の前で顔を背けていた菫より「待て」と短い言葉で呼び止められた。
先程までの不機嫌さが消え、明らかな声質の違いに気付き智美は訝しく思う。
見上げてくる視線には真剣さが感じられて智美はますます不思議に思った。
菫「私がやる」
智美は目をぱちくりと瞬きさせて「え?」と聞き返す。
菫「今日からお前に代わって、私が主上の側に付く。……すまなかったな、今まで無理を言って」
智美「え、いや……菫ちん?」
意味が分からず怪訝な表情を浮かべていると、彼女の声は続く。
菫「お前は今日から自分の仕事をしろ。主上の執務の際の補佐は私がやると言っている、終わってからの送り届けもな」
智美「え、いいのか?でも菫ちんの台輔としての仕事だって」
菫「仕事はお前よりは溜まって無い。それに今日の分とて昨日の内にある程度終わらせている」
腰を降ろしていた椅子より立ち上がると机をぐるりと回り込み、置かれた棚の上にある紙の束を手に取った。
菫「昨日、忘れていっただろう?」
紙の束を掲げながら智美に向き直り、菫は言う。それを注視した智美は「あ」と声を上げた。
すっかり忘れていたが、菫が持っているのは主上との執務の際に必要な資料や書類やらだ。
いつもは持ち帰って添削や明日の纏めなどやっていたのだが。昨日は自分の仕事に手いっぱいですっかり忘れてしまっていた。
それを持った菫は、これに一通り目は通しておいたから引き続き智美に代わって執務の補佐もできるだろう、と言葉を結ぶ。
明らかに昨日とは打って変わった菫の姿に智美は困惑を深めるしかない。
智美「………どうしたんだ?菫ちん。それに、昨日駄目だったのに、いいのか?」
王の補佐をするという事だろう?それは、昨日菫が会いに行って歩み寄りができなった主の事なのに。
だから少し前まで彼女は不機嫌そうに顔を歪めていたはずなのに。
見つめる先の菫は手に持っていた紙の束を再び棚の上に置くと、俯いたままの姿で答える。
菫「……昨日、主上と向き合っている時に。お前に言われた言葉を思い出していたんだ」
菫「これからずっと付き合っていくのだろう、と。それか諦めて次を探すのか、と」
昨夜は勢いもあってつい言ってしまったが、今になって考えてみれば麒麟に対して随分と失礼な事を言ってしまったなと思う。
謝った方がいいかな~と智美が反省していると、菫の硬い声が続いた。
菫「ごめんだ、と思った」
智美「…菫ちん?」
菫「私は確かに神獣だが、人並みの感情だって持っている。やはり、昨日お前に怒鳴り返した時と同じ気持ちが滲んだ」
菫「あの方を探し出すまでの辛さをもう一度味わえと言われたら、ごめんだとしか言えん。次の王など次の麒麟に任せる」
智美「…………」
菫「なら、私には一つしか選択肢が無い。あの方とこれから付き合っていく方を選ぶ」
菫「そう思ったらな、昨日あの時に。視線を合わせて向き合う事すらできない現状に酷く後悔したんだ」
菫「本当の事を言ってくれなかったとしても、あの方に言えないと思わせてしまった私が悪いのだと」
そう気付いたから。菫は俯いていた顔を上げる。
気のせいでなければ菫はどこか吹っ切れているように見えた。
事実、彼女の纏う空気に昨日まであった迷いが確かに薄れている。
智美「………」
どうやら昨日の彼女らの接触は失敗だけだったというわけでもないらしい。
あの菫の考えが、変化するぐらいに。
そして智美にしてみればそれは嬉しい誤算だと言える。
智美「本当に、任せてもいいんだな?」
菫「ああ、一度決めたからには迷わん。それに私は王気も辿れるからな、探って見守るならやはり私の方が適任だろう」
智美「…ああ、なるほど」
麒麟である彼女は、王である少女の居場所を辿る事ができる。
智美「なら私は仕事の合間に昨日の騒ぎをもう少し詳しく調べるよ。昨日恩着せがましく菫ちんに言いに来た奴、あいつの事も」
菫「頼む」
返ってきた菫の声に気持ちが後押しされる気がした。
頷くと智美はゆっくり踵を返す。
眠気はいつの間にか消えていて、代わりに思い出したかのように体は空腹を訴えていた。
そういえば昨日も色々あったからまともに食べていない。そして智美には今日とてやることはたくさんあるのだ。
ああ、朝はしっかり食べてから動き出さなくちゃな、と。
当たり前の事を考えながら、智美は菫の部屋を後にしたのだった。
■ ■ ■
今回はここまでです。
次はまた金曜日に投下予定です。
乙
もう少しでよからぬことになりそうだったな
乙です
早く誤解が解けるといいな
乙 智美ちゃん苦労人だなぁ
完結まで何年ぐらい掛かるんだろう
おつー
やっぱ一筋縄にはいかないねえ
乙
ほんと毎回おもしろい
乙
少なくとも原作の十二国記よりは早く完結するだろう
怨嗟の声が聞こえる。
使令の背より渇いた大地へと降り立つ。
枯れた木片を踏み締めた音が響くが、それはすぐにでも吹く風に晒され塵となりどこかへと消えていってしまった。
粒子になってしまったそれが目に見えるはずもない。
けれど、まるで追いかけるように降り立った場所から遠くを、遥か遠くを見つめた。
あそこはどこだったろうか。それでもこの国のどこかだ。
場所など、もう忘れてしまったが……元々は緑豊かな丘だったのだろう。
けれど本来あるべき緑の葉や芽は地に落ちて久しいと感じた。
枯れ切った木々だけが並ぶ、寒々とした光景をよく覚えている。
風が吹く度に、水気の失った木肌が力なく鳴いているような気がした。
大地だけで、こうも死にかけている。立場上その事実に心が痛まないはずもない。
無意識に遠くを見つめる視界を細めた。
そして、気付いた。枯れた大地の向こうで………何か、黒い筋が幾つも立っている。
遠すぎるから黒い筋の真下で何が起こっているかまでは分からないが。
あれが地面より上がる黒い煙だという事は分かった。と同時に鼻腔に何かの匂いが掠める。
嫌な臭いだと思った、その匂いが何なのか考えるよりもまずは心中に嫌悪感が滲んだ。
するといつの間にか背後に姿を現した女怪がこの身を労わるよう声を掛けてきた。
『台輔、あれは穢れです、近付いてはなりません』
お体に障ります、と。忠告を受けた事で閃くよう、あれが何かを理解した。
遠すぎて何も聞こえなかったが……つまり女怪が心配する通り、あの下では何かの争いが起こっていて
この身が最も忌み嫌う血が流されているのだと。そして全てに炎が放たれているのだろうと彼女は言っている。
菫「戦か?」
短く問えば、表情を動かさずに女怪は答える。
『そこまで大事ではないでしょう。民草の暴動と州師の鎮圧、互いの力の差は歴然です。すぐに騒ぎは収まりましょう』
女怪に悪気など微塵もない。彼女はいつの時もまずは、この身を第一に心配してくれる。
だけど彼女の言葉の内容は慈悲の獣と呼ばれる自分の立場であれば許容し難いものだった。
胸の内が窮屈に締め付けられる。
蓬山より降りてこの国を見て廻って、目に映る現実に打ちのめされるのはもう何度目なのか。
それでもこうして耳に届く怨嗟の声に背を向ける事はできない。
助けてくれ、と誰にでもなく求める声はこの死にかけた大地に無数に溢れていた。
その一つ一つに応えてやりたいが……この身は余りにも無力だ。
使令がいなければ何一つできず、目の前に映る悲惨な現実を憐れむしかない。
浅く息を吐いて、女怪と背に乗ってきた使令に命じた。
菫「……まだ息がある者だけでも、助けて安全な場所まで連れて行ってやれ」
『ですが、台輔。小さな規模の争いといえど一人一人運ぶのでしたら時間がかかります』
菫「私は大丈夫だ。ここならば血の穢れも遠いしな。それに一人でも多くこの国の民を救ってやりたい」
自分が言い切ると、躊躇った女怪も使令も最後には頷いて地面の下に消えていった。暫くは戻ってはこないだろう。
立ち昇る煙が見える。焦げ臭い匂いに混じってたくさんの怨嗟の声も聞こえる。
枯れた大地に、苦しむ民の声が満ちていて……自分に架せられた重圧に押し潰されそうになる。
救いたい、けれど今の自分には何一つ現実を変える力など無い。
立場はあれど、十何年も腐敗が進んだ宮中には自分の意見に耳を傾ける者もいない。
神獣として人の善意を信じたいと思っていた、それは神獣である麒麟の性だ。
けれど何度この凄惨さを宮中に訴えたか分からぬが全てが徒労に終わっている。
痩せた土は作物を枯らせ、妖魔が跋扈する死にかけた大地はそこに生きる民を長く苦しめ続けている。
ならば、せめてこんな時にこそ、人は人のために力を集うべきなのではないか。それが正道だ。
待ってた
けれど、そんな民の生活と掛け離れた場所にある宮中では、この訴えがどうしても届かない。
愕然とした、そうして何一つ変える事ができずに……目の前に広がる現実を自分は憐れむしかない。
このどうしようもない現実を、唯一変えてくれるかもしれぬ存在を望んだ。
それは自分だけはなく今この瞬間理不尽な現実に晒されているこの国の民すべての願いのはずだから。
自分が存在する以上……どこかに必ず存在するこの国の“王”を誰もが待ち望んでいる。
無力な自分ではあるけれど、それでも唯一、待ち望む“王”を探し出せるというのならば、
他の何においても第一に努力をする。
だからどうかこの切なる願いを聞き届けて欲しい。
この才州国を、この国の民を救って欲しい。
見つめる視界を更に細めると、立ち昇っていた黒い煙が消えようとしている。
それでも救いを求める怨嗟の声が途切れる事は無い。
それはきっと、この死にかけている国のために“王”が立ち上がるまで続く事だろう。
大地は広い、途方もない程だ。この先からたった一人の人間を見つけ出さなければいけない無謀。
けれど心は決めている。だって自分はまだ見たこともない夢現のような存在に、こうやって呆れるほど縋り続けている。
立ち消えてしまった煙の白い筋を見届けてから決意するよう瞼を閉じた。
必ず、必ず、見つけ出す。
それはもう執念といってもいい程の想いだった。
だからあの時突如として天啓の如く感じ取った気配に、素直に体は震えた。
その余韻を味わうことなく、むしろ振り切るように使令の背に跨って向かった先に見つけた姿に確信を抱く。
寒い日だった、もしかしたら朝には少しの雪が降っていたかもしれない。
見つめる先の井戸端に佇む姿は水汲みの合間に寒さで赤くなった指先を必死に擦り合わせていた。
少し離れた場所に降り立った自分にまだ気付いてもいない。
自分から言葉を発するでもなく、ただ食い入るように見つめていて気付く。
質素な服の袖から除く腕は異様に細い。一目見ただけで、今まで酷な生活を送ってきただろう事は明白だった。
だから心が痛い程に締め付けられ、同時に自分自身の今迄を恥じた。
この国の凄惨な現実と、そして今の今まで目の前に確かに存在する姿に対して何もしてやれなかった事に対する後悔。
一国に唯一の神獣と言われ持て囃されても、宰輔としての高い地位があったとしても、
こうして民一人を不幸から救う事さえできなかったのが自分だ。
無力だ、余りにも……そう思い至った頃に。
井戸端で水を汲んだ桶を持った少女がやっとで自分の存在に気付いたようだった。
ふと、伏せがちだった顔を上げて、朱い色の大きな瞳が自分の姿を射抜く。
想像していたよりも真っ直ぐに見上げてくる視線を受け、体に震えが走ったのを悟られはしなかっただろうか。
いいや、それよりも。あの時もう一度強く確信した。
やはり目の前にいる少女に違いないのだと。
この身が執念と言っていい程の想いで探し続けた主人であり……この国の王なのだと。
笑いたくなったし、泣きたくもなった。
けれどごちゃ混ぜの感情は、眼前の少女にしてみれば突如現れた自分の存在に戸惑う声に打ち消される。
ああ、そうだろうなと表情には出さすに肯定する。
自分を見つめる視線に微かな怯えが見えて少しだけ心が痛んだ。
初めて会ったのだから当り前の反応なのに、呆れる事に自分はその時には
もう、彼女にだけは拒絶されたくないと思い込んでいた。
今までたくさんのこの国の人達と接してきた。
麒麟として、人として対峙して…色々な事たくさん見て来たのだ。
この言葉を聞き賛同してくれる人達も確かにいた、だけどどうしてもこの言葉が届かない時も多々あったから。
それでどうしようもない現実に絶望して、どうしても顔を上げられない日々もあった。
神獣と言えど、たかが麒麟一人ではこの国を支えるには余りにも無力で。憐れむだけでは誰も救えない。
故に……勝手な話だけれど、本当に自分はまだ見た事もない主人に呆れる程に縋り続けてきたのだ。
どうしても、挫けそうになるこの心の指針が必要だった。
育ててくれた女怪や女仙がずっと言い聞かせてくれた話。
麒麟としての生涯を一緒に歩いてくれるはずの主人を、自分は夢のように求め続けていた。
咲「信じます」
きっと彼女にしてみれば何気ない一言だったと思う。
けれどそのたった一言が、どれ程自分の心に響いたのかは知らないだろう。
じわりと心に沁み込んでくる言葉に何かを言い返すよりも、考えるよりも先に、
自分の心がふっと軽くなったのを覚えている。
自然、顰め面は緩み両端の口角は柔く吊り上がった。
あの時自分はどれくらい振りに笑ったのだろう。
国を支えなければいけない重圧に心を押し殺してどれくらい経っていたのか。
たかが一言。だけど、その一言が確かにこの身の苦心を和らげた。
出会ったばかりと言っても過言ではない自分を、躊躇いもせずに信じると言ってくれた。
この国のために誓約を交わせばきっと生涯を共にすることを悟っているから、
一緒に歩いて行く事を知っているから、こうも容易く縋りたくなるのだ。
今まで一人で重圧に耐えてきたものを、彼女とならば分かち合ってもいいのかもしれないと……
その時、ようやく自分は気付くことができた。
菫「貴方しかいない。この才州国にも、私にも」
本心だ、紛れもない。そして思い至った事。
救って欲しかったのは確かにこの国だったけれど。
でも一番に救われたかったのは自分自身だった。
おそるおそる触れてくる手の温かさ擦り寄るよう、本性の獣の頭を近付ける。
甘えるような仕草、こんな自分を自分自身が初めて知った。
結果として主人になるこの少女を騙した形になってしまったけれど。
誓約を交わした後に、結局は自分を責めもせず許すよう鬣を撫でてくれたその細い腕の温かさを絶対に忘れない。
一人なのではないのだと教えてくれたのは間違いなくこの人だ。
きっとこの先。死にかけた国を支えていく重圧を、この人と二人で背負っていかなければならないのだろう。
それは麒麟として生まれた自分の宿命であり、自分に選ばれてしまった彼女の運命だ。
過酷な運命に巻き込んでしまったことは分かっている。
すまない、と思いながらも…縋る事を教えてくれた手を離すことはもはやできない。
その代わり絶対に、絶対に自分がこの人を支えてみせると心の中で誓う。
麒麟としての義務からではなく、こうして触れてくれる彼女の温かさに報いたいと思う自分の本心からの願いだった。
■ ■ ■
人差し指でその箇所をとん、と示すと机を挟んで座る姿が必要以上にビクリ震えたのを菫は見逃さなかった。
その硬く余所余所しい反応に気落ちしなかったと言えば嘘になるが。
今までの、自分の不器用で逃げ腰な対応の結果だ、これは。
それを取り除き、歩み寄りたいと願ったから、今までのように退くことなく菫はここにこうしている。
そっと顔を上げて傍らの姿を見つめる。
主人の横顔は卓上に置かれた書類に向き合ったまま。
緊張が滲み出ているのが近い距離からも気配で菫に伝わってきた。
比べても仕方ない事なのだが、今まで智美から彼女との執務の様子を掻い摘んで聞いてきた限り。
智美と自分とでは、明らかに態度が違う事に気付かされて言い様のない焦燥感に苛まれてしまった。
吐き出したい息をぐっと堪えて、指摘した箇所に菫は説明を加える。
菫「違う。今回の案件は、その州の……隣の陳述書だ。地図を」
自分の気落ちを悟られないよう淡々と告げると、はい、と強張った彼女の声が短く返ってくる。
菫に指摘されて慌てたよう席から立ち上がると、彼女は卓上に広がった書類の中より版図が描かれた地図を探し出そうとした。
慌てるな、と菫は声を掛けようとしたが。
その前に咲が卓上の書類を掻き混ぜたために、脇に置かれていた飲み物が入った杯がぐらりと揺れる。
あ、と焦った声が続く。菫もその光景を眺めていたから、思わず腕が伸びた。
ぐらぐら、と視界の先で不安定に触れる杯を支えようと伸ばした指は、けれど直前で何かに当たり遮られてしまう。
それが自分と同じように、揺れる杯を支えようと伸ばされた彼女の指先だと気付いたのは、
一瞬だけ、互いの指先が触れ合ったせいだ。
じわりと沁み込んでくる温かさは自分が思う以上の動揺を心の中に生んだ。
思わず弾いた衝撃は自分のものなのか、それとも彼女のものなのか判断が付かない。
でも後にして考えてみれば、お互いに焦ってしまって弾き合ったというのが正しい事実だろう。
菫にしてみれば嫌悪感からではなく、ただ吃驚したから思わず、だ。
だが弾かれた指を宙に浮かせたまま、ふと、立ち上がったままの咲を見上げると、
想像以上に顔を強張らせてこちらを見下ろす視線とぶつかった。
菫は思わず口を開く。そのまま、違うと言い募ろうとした。
咲が嫌だから手を払った訳ではなくて、ただ驚いて思わず自分も払ってしまっただけなのだと。
だから……そんな、そんな傷ついた顔をしないで、誤解しないでくれ、と。
そうきちんと言わなければいけないと思った。
でも言葉を発する前に、結局二人とも揺れる杯を支える事ができなかったのだから。
まるで菫の弁明を遮るようにガシャン、と床に落ちたそれが殊更大きな音を立てた。
咲「…っ」
伝える機会を確実に逃したと気付いたのは、強張った表情を浮かべていた彼女が割れた音に気付いて、
慌てて床にしゃがみ込んだ姿を見送ったから。
菫「………」
すみません、そう言い返してくる声に、先ほどまで弁明しようとしていた自分の言葉は容易く消されてしまった。
開いたままの唇を1、2度、意味も無く開閉させると…菫は観念したように唇を噛み締めた。
くそ、と心中で毒付いてから床にしゃがみ込む姿に言う。
彼女は床に割れた破片に今まさに手を伸ばそうとしていたから、ついつい声が鋭くなった。
「よせ」と短く制止の声を上げる、と。その肩が再び不自然に揺れたように見えた。
事実、動作を止められた彼女はしゃがみ込んだまま首を回してこちらを見上げてくる。
先ほどと同じ、そのどこか強張った表情を見返しながら……菫はまたやってしまったと心中で項垂れた。
弁明すればいいのか、怒ってるんじゃなくて、と。
でも一度唇を開けば言いたいことがいっぱい在り過ぎて上手く伝える自信がまるでない。
むしろ、何かを言えば同じことの繰り返しで…更にこの人の心が遠くなるのではないかという怖気が自分を閉口させた。
結局、事務的な事だけを簡潔に伝える事にする。
菫は自分も席より立ち上がると、しゃがみ込む咲の側に寄り腕を伸ばす。
割れた破片を拾う直前に止めたから、所在無さげに宙に浮いていた指先を掴むと
そのまましゃがみ込む姿を立ち上がらせた。
本当に、自分で思うのもなんだが、きちんとした目的があればこうも容易く触れる事ができるのに。
それは伝える言葉も同じだ、立ち上がらせて向き合う形になった咲は、自分を見上げたままに困惑している。
菫は淡々した口調のままに彼女に言った。
菫「御身がする事ではない。…人を呼ぶから」
いいな、と少しだけ口調を強く言い含めれば、咲は何かに気付いて目を見開き。
そして、続けて落ち込むよう顔を俯かせてしまった。
■ ■ ■
智美「で、どうなんだ?」
菫「…………」
智美「菫ちんの不器用さを思い出したらちゃんと会話できてんのか心配になっちゃってなー、何回様子見に行こうとしたか」
菫「お前は私の保護者か」
智美「いや、ほんと保護者的な気分だわ」
菫「そんな事より、そんな理由で仕事を疎かにしてはいないだろうな?」
宮中の立場上、部下にあたる官吏が国を動かす仕事を疎かにするなど菫の真面目な性格上、許すことはできない。
そしてそんな自分の剣呑な雰囲気を感じ取ってか、智美は苦笑いを浮かべると頷いた。
智美「菫ちんが主上に付いていてくれたし、溜まってた私自身の仕事は全部片付いた。あとは日課で処理できるぞ」
それを聞いて菫は顔には出さないが胸中で安堵した。
智美が仕事を今まで溜めていた原因は、元を正せば自分の我儘から出てきたようなものだという事は分かっていたから。
それを解消できた事に対して素直に気分が楽になった。だから重かった口も軽くなる。
菫「……拒絶は、されていないと思う」
「お!」と分かり易く目を見開いた智美は興味津々に言葉を返してくる。
智美「私から見れば主上は、元々菫ちんを嫌ってなんかないぞ」
菫「それは…あの人がお前に対しては心を許しているから、そう見えるんだ」
智美「じゃあ、菫ちんに対しては違うのか?心を許してないって?」
ずけずけと言ってくる智美の言葉に心が不規則に波打つ。
ああ、他人からでもそんな話を聞きたくなかったのかと、今さらながら自分の心境に菫は気付く。
菫「お前のように気安い態度で迎えてくれないとは感じる。話せば答えてくれるが、どこか余所余所しく思えるんだ」
智美「そんなことないと思うけどなー…」
菫「私だって、側で支えてやりたいと思っている」
菫「王に対する麒麟の本能かもしれんが。でもそれだけじゃなくて、私自身が助けたいと思っているから」
智美「………」
こんな時に真面目な顔をして茶化さないのだから、本当に智美はいい性格をしていると思う。
その時執務室の扉が控え目に叩かれた。
扉のすぐ向こうにいるのは女御のようで、彼女は来客を告げてくる。
菫に今日これからの来客の予定はなかったが、智美が「来たか」と言い席より立ち上がった。
視線を向けると、 彼女は今まで座っていた席を直してから座る菫の斜め後ろに移動する。
形式に沿った行動だと思ったから菫も気分を改めた。
女御に入室を許可すると、扉が開いて一人の官吏が一礼をして入ってきた。
微かに菫は目を見張る。……自分にしてみれば知らぬ顔ではなかった。
塞「このような内輪の場を設けて下さって、ありがとうございます。台輔」
菫「………いや」
声に躊躇いがあるのはどう反応していいか迷ったからだ。
やってきたのは、塞という名の官吏だ。内宰の立場にあって、形式上では何度も顔を合わせた事があるが。
それ以外でこうも近くで対峙するのは初めてだと思う。
菫からすれば、訪ねてきた姿に含むところはない。
が少し前に智美と相談した内容が頭を掠めたから面食らってしまった感はあった。
思わず自分の斜め後ろに控える智美に視線を向ける。
きっと彼女の事だ、菫が抱く動揺なんて手に取るように分かっているだろう。
案の定、睨んだ自分をなだめるように苦笑を浮かべた智美が言った。
智美「状況が変わったので……助けになる者には歩みよろうかと。台輔の人の見る目を信じます」
その言葉は以前、智美との会話の中で、菫が塞の印象を説明した時の事を言っているのだろう。
あの時自分は塞の事を人格者だと言ったが、今この場にやってきた塞を見返してもみてもあの時言った事は間違っていないと思う。
背筋をピンと伸ばし、向ける眼差しは揺れず明確な意思を感じる。
塞「私を覚えていて下っていたのですか?」
塞の声に顔を向けると菫は数秒、悩んでから結局は頷いた。
菫「立場も、だが……なにかと便宜を図ってくれた事には感謝している」
短い言葉だったが、それを聞いただけで塞も菫が何に対して礼を言っているのかを悟ったようだった。
その上で、彼女は首を左右に振って言う。
塞「些細な事です。結局私の立場でも、台輔のためにはあれぐらいの事しかできませんでしたから」
真摯な言葉だと思った。だから無意識にも菫は信じたいと思っている。
これは麒麟の性なのかもしれないが、それを抜きにしても菫の目からは塞は誠実な人間に見えた。
今回はここまでです。 次はまた金曜日に。
見て下さった方ありがとうございました。
>>248
今年中には終わらせる予定です。
乙乙
乙 菫さんが想像以上に不器用だった
おつ
菫さんをすごく応援したくなる
上達に同意
それと同時にすれ違いで咲さんが酷い目にあったりしないか心配でもある……
はらはらさせられるぜい乙
おつおつ
一区切りの会話を終えると、それを見計らったように智美が口を開く。
智美「内宰殿…こうしていらっしゃったという事は、今まで以上に台輔を助けて下さると。そう解釈してもよろしいので?」
思ったよりも真っ直ぐな智美の言い様に菫としては驚いたが、対する塞は迷う事なく頷いた。
塞「立場があった私を貴方が訝ったのも分かります。力が足りなかったのも事実。だからこそ、ここで正したいと思うのです」
塞「国を纏めるべき役目にある宮中を正常に戻したい。それが本来の私の役目。主上が坐した今ならば、それが可能だと」
塞「……台輔からすれば今更とお思いでしょうが、どうか。私の愛国心を今一度信じて頂けないでしょうか?」
一言一言に迷いは見えなかった。
菫が向ける視線を真正面から反らしもしない。
誠実な態度に、声が伴っていると菫は感じた。
これがもし塞の偽りの姿だとすれば、菫は人間不信に陥るかもしれないが。
でもきっとこの女性は信じていいと思う。
「言い分は、よく分かった」と塞に言葉を返す。
元々、菫自身ならば彼女に含むところはない。
だから後の判断は、菫の背後に控えている智美に委ねる事になる。
まぁここに塞を招き入れたのも智美だから、菫が答えを出す前にとっくにこの話の道筋は付けていたのだろう。
時に智美は本当に良く頭が回る。
ここまで深い話を交わして止めもしなかったのは智美なりに、塞をある程度信頼していたからだと思う。
情報を共有しても大丈夫な人間だと判断した。
事実、智美は塞の意見に対してすぐに言葉を返す。
智美「でしたら、以前に私が伝えた事案を覚えておいでか?」
塞「“信頼”が欲しいという話でしたか」
智美「ええ。今の内宰殿の話を聞いた限り、目指すところは同じだと思います。主上のために宮中の不安要素を取り除きたい」
智美「ならば、私の頼み事も叶えて頂けたのでしょう」
頼み事?菫がその疑問を口にする前に、塞は迷いなく言葉を返してくる。
塞「貴方が教えてくれた話。呆れた話ではあるけど、右往左往する官吏の中には無謀に走る輩もいるという事なのかと」
塞「普通の精神ならば、主上に対する狼藉を恐れ多いと恥じなければいけないのに」
智美は呆れたように口元を緩めると頷く。
智美「王に対する畏怖よりも、今まで吸ってきた蜜の欲が勝ったのでしょう」
塞「やはり今までの私が力不足でした。以前の私は周囲からの圧力がありましたから…」
塞「人事の調和を計るためにも、打診を受ける要望全てを無理だと跳ね除ける事はできませんでした」
菫「どこの管轄からの口出しが一番酷かったか?」
塞「夏官です。元々、内宮の警備のために夏官の兵士は迎え入れなければなりません」
塞「その際に私が一人一人、人物をきちんと見定める事ができればよかったのですが…向こうの言い成りになっていた時もありました」
塞「ですから先日貴方が私に頼んだ事……天官が二人、城下で事件に巻き込まれ死んだという話を私なりに調べてきたんです」
それを聞いた時点で菫はぎょっとする。
と同時に胸を締め付ける痛みを苛まれた。
なぜなら菫は人の生き死を無条件に憐れんでしまう。そういう生き物だ。
抱いた痛みを唇を噛み締めて堪えると、菫は目付きを鋭くし、背後に佇む智美を睨んだ。
だって今、塞が言った話は菫にしてみれば初めて耳にする。
しかし彼女は智美から聞いていたと言っていた。つまり智美は自分には伏せていたのだ。
菫の非難するような視線を受けると智美は「仕方ないだろー」と言って硬い表情を崩す。
智美「ただの事件かもしれないから、余計な心配をさせたくなかったんだよ。主上にも、菫ちんにも」
智美「見知らぬ他人でも自分に関係した何かで命を落としたと思えば心を痛めるだろう」
智美「台輔は神獣として特に顕著だ。それが限りなく黒だと分かっていても、死んだ人間に同情してしまう」
智美「今みたいに中途半端な情報の時に、そうなって欲しくなかったから言わなかったんだ」
菫「………っ」
心の締め付けは続いてるが、それと一緒に智美に抱いた怒りをどうにか飲み込んだ。
智美の言っている事が正しいと判断して、その意見を言い返せないからだ。
事実、自分がその話を聞いていれば…きっと死んだ人間に同情していただろう。
調べたいと智美に言われたら、死人に鞭打つなと言っていたかもしれない。
噛み締めた唇を解くと浅く息を吐き出す。菫は塞へ視線を戻す。
菫「…今は中途半端な情報ではないのだろう。主上に許可なく近付こうとした輩を手引きしたのが、死んだそいつだと言うのなら」
菫「こちらがそれを辿ろうとしたから消されたと智美は思っている。だから、塞殿に頼んだ」
塞「正しい見解だと思います。確かに死んだ天官は、夏官の兵士を迎い入れる際に強く打診を受けて招き入れた官吏達です」
塞「形式上は私の部下にはなりますが、私の息の掛かった者達ではなかった」
塞「だから、死んだ時もすぐに私の耳にまで入ってこなくて。話を聞いた時は驚きました」
智美「死因は調べる事ができましたか?」
そう智美が問うと「ええ」と塞は頷く。
塞「形式上とはいえ彼らは私の部下です。報告書に目を通す事は出来ますし、手の内の者を現地に遣わせて確認する事もできる」
塞「はっきり言えば、作成された報告書はでたらめも言い所。死因は些細な喧嘩に巻き込まれて刺されたという話ですが」
塞「酒場の名前も場所も架空で……実際の死因は刺死ではなくて、溺死だったようです」
さすがにその答えには智美も驚いたようだった。
塞「現地で聞き込みをして、川より死体を揚げた町人達にも確認したので間違いないでしょう。やはり、口封じされたと見ていいかと」
塞「官吏が二人も溺死したのであれば不自然だし事件性を調べられますが、喧嘩に巻き込まれた事にしてしまえば事故で片付けられる」
智美「……ほんと、汚ないことを」
保身のために仲間を殺す、そんな理不尽が通る世界なのだ……まだ、この国は。
ふと声を聞いた気がした。この国に降りてからずっと、事ある毎に菫を苛み続けている怨嗟の声だ。
と同時に、必然のように主である少女の姿が脳裏に浮かぶ。
智美は儚いと言っていた姿だが、菫からすれば、思い浮かべる姿は眩しくて目を細めたくなる。
暗い世界の中で、あの姿だけが菫にしてみれば希望に思えた。
こうして負の連鎖を繰り返そうとする世界を唯一、変える事ができるはずの人。
誰でもなく王としての資質を、麒麟の本能が感じ取っている菫だからそれがよく分かっている。
助けて欲しいと願うのも自然な流れで、それが国に対してなのか、民に対してなのか…
それとも自分自身に対してなのかはよく分からなかった。
ただ心の内側で落ち込みそうになる自分に触れてくれる手の平を想像した。
いつかの日に、鬣を柔く撫でてくれ温かさをまだ忘れてはいない。
顔を俯かせ、菫は自嘲気味に口角を吊り上げた。
こんな些細な瞬間にも自分はあの人に縋ろうとしている。
菫(……?)
と。思案に沈もうとする意識が引かれた。
俯き加減だった顔を上げて、菫は何もない宙を見上げる。
どこかで咲が移動し始めようとする気配を敏感に感じ取った。
今の今まで、その存在を思い浮かべていたからいつもより鮮明に感じ取っていると思う。
菫(…主上)
心の中で呼び、菫はふらりと席を立ちあがる。そして思案した。
今日の執務は自分が手伝い終わっているから、自室に送り届けて菫はこうやって智美らと自室で話し込んでいたのだ。
だから今日はあの人が外に出る用事はないはず。外出する旨も聞いていない。
しかし感じる王気はもはや移動を始めていた。
確かに自室から出て続く廊下を歩いている。
ゾワリと心が波立った。
智美「台輔?」
不自然に立ち上がったまま停止していた自分を不思議に思った智美が呼びかける。
宙を見上げていた顔を降ろし、智美と塞とを交互に見渡してから言った。
菫「…塞殿の話も理解した。先日、主上を助けたと言って私に不意打ちにも面通ししてきた奴も夏官だったな」
智美を見れば彼女は頷いた。菫は短く舌打ちする。
菫「思い通りに事が運ばなくて、裏からでは無く正面より取り入ろうとしているのかもしれん」
菫「私は今までの態度があるから期待していないだろうが…主上なら、本当に優しいから。その隙に付け入ろうと…」
智美「十分考えられるな。あわよくばこの先、主上の一番近くで守ることになる大僕、小臣の役目を掌握したいのかも」
智美「射人だったか奴は…そうなれば外宮でも、内宮でも主上に対する影響力が強まってしまう」
智美がそこまで言うと、側で話を聞いていた塞は「そうだったのですか」と言ってきた。
何か得心した表情を見返すと塞は答える。
塞「この頃、夏官より打診を受けていました。おっしゃった通り、主上が即位したので内宮の大撲と小臣の役目をくれと」
菫「!!塞殿」
塞「ご安心を、断っています。以前ならどうかは分かりませんが、今の状態なら私に大声を出して圧力は掛けられない」
塞「それに、それらの役目を任す人材は私の信の置ける者と決めています。もちろん台輔にもお目通りさせますし……」
塞「この国の王を守るのですから、不確定な輩は許せない」
意外にも強い塞の言い様に菫は少しだけ驚いた。
終始物腰の穏やかな官吏に見えたが、譲れない芯があるのだと気付く。
塞「それに、その役目を任そうと思う者は私なりにきちんと見つけていますので」
菫「え?」
塞「落ち着いたら、お目通りさせます。…一人、少々口が悪すぎるかもしれませんが、根は良い人ですので」
そう言って塞はにこりと穏やかに笑った。
智美「何となく話は通ったかな。取りあえずはこの案を落ち着かせないと塞殿の話も詳しく聞けない。まずは煩い外野をどうにかしないと」
塞「同感です。しかも台輔にまで近づこうとしているのでしたら、もう形振り構ってられない状態なのかもしれません」
智美「そうやって尻尾を出してくれればいいんですが」
しみじみと智美が呟くと「そうだな」と菫は相槌を打った。次いで塞に向き直る。
菫「ここまで折り入って話をしたのだから。もはや貴方に対して信頼した、と言っておく」
ちらりと背後を向けば智美が薄ら目を細めて笑っていた。反対しないという態度。
そうでなくても、今まで会話を交わして菫も肌で感じている。塞は誠実な人格者だ。
塞「勿体無いお言葉です。今まで力になれなかった分、お役に立てるよう勤めます」
菫は頷いた。そして徐に歩き出すと、そのまま部屋を横切ろうとする。
智美「台輔?」
智美の呼ぶ声に、辿り着いた部屋の扉を押しながら菫は振り返った。
菫「すまないが、確かめたい事ができた。智美、後は任せてもいいか?」
そう言いながら菫は一瞬だけ宙を見上げる仕草をした。
それだけで、不思議そうにこちらを眺めていた智美も気付いたようだった。
智美「分かった。今の話をもう一度、塞殿と確認してみます。報告は後日でよろしいですか?台輔」
本当に、こんな時の智美の物分りの良さは有難いと感じる。
菫「ああ、それでいい。途中だが失礼する。…塞殿もこれから、宜しく頼む」
すぐに「御意」と一礼を返す塞を見届けてから、菫は押した扉の向こうへ体を滑らせた。
背後でパタン、と扉を閉めて……再び何もない宙を見上げた。
けれど菫には辿る気配がはっきりと見えている。
どこに?
不安が胸中を掠める。
あの人は自分の立場が分かっているのかと、腹立だしくも思えた。
今まで心配してしまうような話をしていたから尚更だ。
一歩を踏み出す。辿ろうとする気配は移動していた。
それを追いかけるように……菫も人気の無い通路を歩き始めた。
■ ■ ■
今回はここまでです。次はまた金曜日に。
乙です
乙乙
乙
また1週間が長い
おつおつ
乙
純「意外だな」
その短い言葉が何に対して言ったのか咲は分からなかった。
だから何の事ですかと反応しようとしたが、その前に伸びてきた純の腕に自らの手を掴まれる。
そのまま軽く持ち上げられ、手のひらを無遠慮にまじまと眺められている。
咲「純さん?」
じっと手のひらを見下ろしていた純がもう一度「やっぱ、意外だ」と同じ言葉を繰り返す。
咲「何がですか?」
純「いや、苦労してきた手だなって思ったんだよ」
純「咲は官吏だろう?官吏なんて、苦労も知らず部屋の中で勉強ばっかやってきた奴らだと思ってたから……」
そう言いながら、何気に手の平上を純の指が擦った。
古傷だろうか。ピリ、とした懐かしい痛みを咲も思い出す。
咲「ああ、」
得心して頷いた。
純の指摘通りだ。咲の手は少し前まで商家の下働きとして酷使されていたものだ。
体に不釣り合いな重いものを持ったり、冷たい水で作業したり。
あの頃に手に無理をさせてできた古傷や凍傷の痕のせいで、本来の手の形よりも若干歪に見えた。
ふと咲は考え込む。
純に指摘されるまで気付かなかったけれど。
数刻前にこの手を彼女と同じように取ってくれた、この身の半身である彼女も気付いていたのだろうか。
彼女の真っ直ぐな姿勢、それと真面目な態度とが咲の脳裏に浮かぶ。
堅い声質はいつもと変わりなかったように思うけれど。
あの時は、自分も陶器を割ってしまって焦っていたので菫の反応を気に掛ける事はできなかった。
けれど今の純と同じく気付いていたのかもしれない。
彼女の白磁のような綺麗な手とは違う。
こんな歪な手を取って、何か思ったのかもしれない。
咲「………」
また、いらぬ事を考え込んでしまいそうだな、と咲は思った。
純「咲?」
上から降ってきた声で現実に帰る。
咲「すみません。ちょっと自分の行動を振り返っちゃってました」
純「自分の行動を振り返る?…咲、お前ほんとここの妖怪みたいな官吏共とは違ってんな」
純「あ~…大丈夫か?真面目過ぎると周りからいらん面倒事押し付けられてそうだ」
歯に着せぬ純の言い様に咲は苦笑いを浮かべる。
すぐに首を左右に振ると、咲は大丈夫ですと伝える。
咲「面倒事ぐらいは別に。これでも打たれ強さには自信があるんです」
咲「でも、反対に私を助けようとしてくれる人達には……どうしていいか分からなくなる時があります」
純「なんだ、それ?」
純の怪訝な声を聞いて、咲は苦笑を浮かべたままに答える。
咲「恥ずかしい話ですけど、私は今までそんな経験が本当に無くて。助けてくれるのなら報いたいとは思います」
咲「せめて力になりたいのですが…どうにも空回りしちゃって。…謝ってばかりです」
純「………」
先ほどまでの気安い純の雰囲気はいつの間にか消えている。
じっと咲の話を聞いていてくれた彼女は、まだ手に取ったままの咲の荒れた指先を見下ろしながら言った。
純「まぁ細かくは聞かねぇけど。やっぱり苦労してきたんだな、お前は」
純「俺もここに来るまでは色んな辛い事があったけど。きっとお前がここに来るまでも色んな事があったんだろうな」
純「この手を見るだけでも分かるしな。金とコネだけで入ってくる奴らとは違うんだって」
咲「いえ、私は…」
だが咲は続く言葉は言えない。
自分の立場を、何も知らぬ純に上手く伝える自信もなかった。
純「……ま、お前みたいな奴がいるだけでここもまだ捨てたもんじゃないなって思えるからな」
咲は目を見開く。
咲「純さん、それは違うと思います」
身に余る評価に、困惑で声が硬くなった。
咲「私は何もしていないんです」
むしろ何も出来なくて悩んでいる。助けてもらってばかりだ。
だが、咲の言葉を聞いた純は余裕を滲ませながら「馬鹿だな」と笑う。
純「これから何かをするために、ここにいて、お前は頑張ってんだろう?」
咲「………」
純「その姿勢が大事だと思うぜ。こんなご時世だからな」
純「ここで、一人でもそんな姿勢の奴がいる事が分かっただけでも、この国はやり直せるんじゃねぇかって」
純「きっとようやく起って下さった主上にも届く。変わっていけるって。そう思うぜ」
その言葉通りなのか、伝わってくる純の言葉に咲の心が震える。
彼女はきっと何気なく言っている。
だからこそ本心であると思うし、咲も気付かされる。
無意識に呟いていた。
咲「貴方も……私を、助けようとしてくれる?」
純は咲が王である事を知らない。
けれど純の言葉は、王の立場にいる自分に向かって言われているような気がした。
途端、咲の胸が窮屈に締め付けられる。
ここにやって来るまでは知らなかった、誰かに必要とされる空気。
純の姿が一瞬、自らの半身に見えた。
例え必要以上に堅い態度で接していても、
その実いつもこの身を支えようとしてくれているのを知っている。
咲「でも…すみません。私は」
何も、返せない。
果たしてその言葉が、隣に座る純に言ったのか、今まで自分を支えてくれた人たちに向かって言ったのか。
……それとも、この身をいつでも支えようとしてくれる半身に向かって言いたかったのか。
多分、全て同じ想いではあった。
ふと、そのまま続くはずだった咲の言葉は途中で途切れる。
なぜなら不意にまだ掴まれたままだった指に力が籠ったからだ。
不思議に思った咲が掴まれた先を自然に見上げれば、
純は少しだけ困ったような顔をしていた。
んー、と。言葉を探しているような彼女の気配は数秒。
純「咲はさ、真面目過ぎだな。そんな難しく考えなくてもいい、もちろん俺に謝る必要も無い」
純「俺は軍にいて酷い奴らを随分と見てきた。だから成り行きで辿り着いたここも、同じような奴らばかりなんだろうなって思ってた」
純「そのせいで、この国は駄目なんだってな。救いようがねぇって。でも違った」
咲「……」
純「ここに俺を呼び寄せた…上司になるのか。あの人は」
純「偉いんだけど、俺なんかより何倍も悩んでて、必死にここを変えようとしてる」
純「このままじゃ駄目なんだって…咲も同じで、悩んでんだろう?なら捨てたもんじゃねぇ」
純「この国のために悩んでいるお前らだからこそ、俺にできることがあるなら助けてやりたい」
咲「純さん…」
呼ぶと、彼女は照れ臭そうに笑う。
純「俺の勝手だよ、気にすんな。一度はさ、どうでもいいと思っていた時もあった」
純「軍からも切られて、腐れ縁と一緒に根無し草になっても別にいいか、とかな」
純「……でも、あの人や咲のお陰でもう一度、俺ができる事があるのなら、ま、やってみようかって」
けど俺のできる事といったら剣を振り回す事ぐらいだがな、と。
後腐れを匂わせない、気持ちの良い純の言い様だった。
咲はふっと肩の力が抜ける心地がした。
純が言っていた事。
自分ができる事があるのならやってみようと彼女は言っていた。
もしかして、自分もそれでいいのではないか。
ふと脳裏に菫の端正な顔が浮かぶ。
身が引き締まる心地は変わらない。
そうか、と咲は思う。
自分は何も知らぬ癖に。能力もない癖に。
あの高潔な人の姿勢に無理に合わせようとし過ぎていたのではないか。
緊張して、それで失敗して後悔して…
何もできない自分を恥じて、王としての重圧に潰されそうになっていた。
身動きがとれないと思い込み、勝手に苦しんで、盲目になっていた。
でも今、そんな自分に気付く事ができた。
違うのではないかと純が教えてくれた。
ならば何もできない自分を受け入れて、その姿勢のままに半身に向き合えばいいのではないか?
もしかしたら、彼女は今以上に呆れてしまうかもしれないけれど。
それでも咲は菫と正面から向き合いたい。
今までは自信が無いと伏せていた頭を上げて、彼女の瞳をしっかり見上げて。
この気持ちの変化を伝えてみたい。
咲は初めてそう思う事ができた。
何もできないかもしれないけれど。
それでも今自分にできる事を探してみたいと咲は思った。
ジンと胸の内が熱くなった。
何か霧掛かっていた目の前がやっとで開けたような心地。
純「咲?」
突然物思いに耽ってしまった咲を、純が不思議そうに見下ろしている。
彼女に視線を返しながら、咲は改めて純の事を不思議な人だな、と思った。
純はこの宮中においては稀有な気質の人間だ。
矜持が高い官吏達のように凝り固まったものを感じない。
気安く話し合える空気は、よく咲を助けてくれる智美に近い気がした。
彼女に励まされたな、と思う。
きっと自分よりも遥かに世間を知っていて、思考の溝に嵌っていた咲を掬い上げてくれたから。
咲「すみません、心配してくれて」
素直に伝えると、純は今まで掴んでいた咲の手のひらを開放する。
と、自由になったその腕を伸ばして不意打ちにコツン、と咲の頭部を軽く叩いた。
揺れる視界。全然痛くはなかったけれど意味が分からず、
小突かれた箇所を手の平で覆いながら咲は首をかしげた。
見返す先の純は目を細くすると「言っただろう」と突っ込んでくる。
咲「???」
彼女に教えてもらった事がたくさんありすぎて、今の指摘が何を指示しているのか咲には思いつけなかった。
すると苦笑しながらも彼女は素直に教えてくれる。
純「俺に謝るなって言っただろう?」
お前のそれは、むしろ癖のような気がする、と。
純から鋭い指摘を受けて、咲はまたもや純に気付かされてしまった。
確かに今まで自分は反射的に謝罪を口にしていた気がする。
純「心配はした、少しな。お前、会う度に落ち込んでいるように見えたから」
純「でも、話しができて少しでも気は晴れただろう?」
咲「………純さんは、すごいですね」
純「はん、伊達に性悪達に揉まれてきてねぇからな」
彼女は簡単な事のように言い切る。
すっきりした物言いは本当に気持ちがいい。
そうか…時には純のようにはっきりと意見を伝える事も必要なのだ。
下働きをしていた頃は横暴な主人より叱られないため下ばかり見て、誰とも向き合おうとせずに生きてきた。
変わらなければ。
相手の機嫌を窺うためにすぐに謝罪を口にするのではなくて。
素直な気持ちを声にして吐き出してもいいのだ。
咲は改めて純を見上げる。
たった数回彼女と会話を交わしただけでも沢山の事に気付かせてくれた。
咲「ありがとうございます。純さん」
自分でも驚くぐらい、はっきりとした口調で咲は言った。
相手の顔色を窺うでも無く、自然に心の内に沸いた気持ちを相手の目を見て伝える事ができたと思う。
言われた純は面食らった表情をした。
が、余韻をたっぷりと享受した後、彼女らしく軽い仕草で「ああ」と笑った。
そして咲は立ち上がる。
まだ隣で座っていた純へと、心に決めた事を伝えた。
彼女は感慨深く押し黙っていたけれど。
そうか、とやはり彼女らしく受けいれてくれた。
今回はここまでです。
諸事情により、これからは木曜の夜投下に変更致します。
乙
やっぱ純君は男前だな
咲ちゃんも少しずつ進んでて次が楽しみ
乙乙
乙
乙乙
>>299
かじゅといい純くんといい、イケメンより男前て言葉の方が似合うよな
純「残念だが、決めたんだろう?」
咲「はい。純さんのお陰です。自分にできる事を探して、少しでもやってみようと思います」
純「………」
咲「今まで下を向いてきた分、今度は上を向いて」
咲「必死になってやってみようと思います。だから……暫くはお会いできません」
純「なら俺がどうこう言えるはずもない。それにな、今生の別れって訳でもないよな」
純「出世しろよ、咲。ここで互いに生きていくのならいつかまた会える日がくるだろうから」
咲「…ええ、必ず。すぐには無理だと思いますが、それでも……」
咲「絶対に、またお会いしましょう」
咲が言い終えると、純も立ち上がる。
見下ろした視線が自然上を向く。
咲は見下ろしてくる彼女の視線を逸らさない。
純はどこか楽しそうに笑うと、徐に片腕を差し出してきた。
こんな事をされたのは初めてだったけれど、
彼女が何をしたいのかは分かった。
差し出された腕に向かい自然に咲も腕を差し出す。
純「頑張れよ」
言われ、手の平をぎゅっと握られる。
咲「純さんも」
声に迷いは無い。
握られた手の平を、咲もしっかりと握り返してから。
深く頷いて見せた。
■ ■ ■
神獣である麒麟の特権だ、唯一の王である存在の気配を辿れるのは。
駆け付けた先に立つ主の姿を見つけた瞬間、驚いて自然に足が止まった。
咲は一人ではなかった。
隣に立つ長身の女性の姿が見えた。
菫の記憶の中には無い。
自慢ではないけれど、菫は一度見た人間の顔を忘れる事は無い。
その記憶の中にあの女性がいないという事に不信感が募った。
なぜ咲と一緒にいるのか分からない。
菫は素直に混乱を覚えた。
だから変に途中で立ち止まってしまったのがいけなかったのだと思う。
本来なら主に所在が分からぬ怪しい人物が近づいているのだから、
僕としてすぐに助け出さなければいけなかった。
使令に命じなければいけなかったのに、あの方を守れ、と。
だけど菫が使令に命じようとした瞬間見えた光景に、そんな思考は綺麗に止まってしまった。
見つめる先の主は、隣に立つ女性を見上げながら笑っていたから。
それも会話を交わし、長身の姿をしっかりと見上げていて。
菫の気のせいでなければあの人は本当に楽しそうに笑っているように見えた。
だから気付かされる。
ここへと無理に連れてきて、咲が菫の前であんなに砕けて笑ってくれた瞬間があっただろうかと。
多分笑いかけてくれた事はある……けれど。
それはいつだって俯き加減で、どこかこちらを窺うような張り付いた笑顔だった。
今、菫が見つめる先のように。
心の底から楽しそうに笑う咲の姿など、菫は見たことがないのだと気付いてしまった。
途端言い知れぬ痛みを胸に感じる。
思わず両腕を胸の前で交差させて、そのまま体を抱きしめる。
沸々と湧き上る衝動を抑え込もうとする。
慈悲の獣には大凡似つかわしくない感情。
矜持の高い官吏達に罵られても抱いたことがない痛み。
無意識に薄ら開いたままだった唇を噛みしめていた。
目の前では相変わらず笑いながら一言、二言、言葉を交わしている姿がある。
それが一段落したのか、咲の隣に立つ女性が咲に向かって何気なく腕を差し出した。
王に向かって礼儀も何も感じられない。
不敬罪で処断されても文句は言えないだろう。
なのに差し出された側の主は、気を悪くした風もなくそれを快く受けて女性の手のひらをしっかりと握り返した。
そこに何か自分が羨むものが見えたような気がして、菫は眩暈を覚える。
彼女らが近い距離だと感じたのはきっと嘘じゃない。
あの人は、天が定めた半身であるこの身を見上げてもくれなかった癖に。
どこの馬の骨とも分からぬ女性をしっかりと見上げて、
心からの笑顔を浮かべているのだと菫は分かってしまった。
悲しいのか、悔しいのか。
もはや菫にも良くわからない。
湧き上がる衝動を抑え込むのに精一杯だった。
こんな激情が胸中に巣食っていたのだと今、気付く。
命じた訳でもないのに、背後に伸びる影より這い出てくる気配を感じた。
それは完全に姿を現すと、固まって動けない菫の傍らへと寄ってくる。
『台輔、お心を鎮めて下さい。そのままでは御身を損ないかねません』
どうか、と心配する女怪の声に一瞬、正気が戻る。
噛みしめていた唇を解くと、見つめる先の姿達が動くのに気付いた。
彼女らは手堅い握手を交わすと、また短い会話を交わす。
そして、何かを得たように頷き合うと、互いに背を向けて歩き始めた。
見知らぬ女性は外宮のどこかに戻っていくのだろう、更に奥へと消えていく背を見送る。
対して咲は踵を返し、内宮へと続く道を歩き始めた。
つまり立ち止まっていた自分がいる方向に、だ。
思わず片足が後ろに下がった。
菫はここであの人に鉢合わせするのは嫌だと思った。
だって無様にも盗み見していたようではないか。
そんなの菫の矜持が許さないし、この動揺が酷い顔を見られたくもなかった。
少しの時間でいい、あの人と向き合う気持ちを落ち着かせたい。
だから菫も同じように踵を返すと、先に内宮に向かい駆け出そうとした。
その際、寄り添う女怪へと小声で命じる。
菫「あの女を追え、素性を突き止めるんだ。主上への礼を欠いた態度、見過ごす事はできん」
『仰せのままに。ですが、台輔はどうなさいます?』
菫「………」
一拍、置いた間は不自然だったかもしれない。
だけど女怪は他にいらぬ事も言わず、菫から返ってくる言葉をじっと待っている。
観念して菫は早口に言葉を返した。
菫「……主上と話をする。言って訊かせねばならぬだろう、ご自分の立場を分かっていらっしゃるのかと」
それは菫というよりは、臣下として、僕として。
半身としての責務だ。
間違ってはいない。正当な役目だ。
女怪は頷いた、けれど控えめではあるが言ってくる。
『どうか余り強くお言いにならぬよう。主上も、台輔も辛いことになりましょう』
菫「お前……」
菫の言葉が濁る。
なにか、この内の衝動を見透かされたような心地がした。
バツが悪くなって顔を顰めるが、それでも心配してくれる女怪に向かって頷いて見せた。
菫「分かった……落ち着いて話すから」
頼む、と短く言うと、女怪は頭を深く垂れると地の底へ消えて行く。
それを見届けてから菫は早足で駆け出す。
巡る通路の光景の中、落ち着けと波打つ胸中を叱咤する。
女怪とも約束した。…冷静になって向き合おう。
内宮であの人を迎えるための心構えが必要だ。そして言わねばならぬ。
絶対に、分かってもらわねばならぬのだと思った。
■ ■ ■
今回はここまでです。
次はまた来週の木曜に投下予定です。
乙 純くん大丈夫かな
乙です
乙
おつおつ
菫さんが暴走しそう…
もっと歩み寄らなきゃ仲良くなれないよ菫さん…
おつ
菫さん頑張れ
すごく面白い
ふと見つけたが菫さん好き&十二国記好きの私にはたまらんなぁ
純と別れた咲は内殿を過ぎ内宮へと急ぐ。
そのまま王の居宮である路寝へと辿り着いた。
今日の咲の執務は終わっているから、みんなは咲がずっと正寝にいたと思っているだろう。
いなかった事が分かれば、また智美なんかは酷く心配してくれるに違いない。
それはとても心苦しいので早く居室へと戻らねばと思った。
ここには菫や智美が信頼する者達だけを置いているから人は少ない。
事実、路寝に入ってからここまで咲は誰一人会う事は無かった。
戻ろうとしている自分にしてみれば好都合ではあったが。
だけど進む先の壁際にある扉が一つ、まるで咲が通るのを待っていたかのように開く。
その前を通り過ぎようとしていた咲が思わず立ち止まったのは、開いた扉から不意に現れた姿に驚いたから。
路寝に彼女がいるのは可笑しい事ではない。
路寝には王の居宮である正寝とは別に、台輔である菫の居宮である仁重殿もあるのだから。
ただ咲にしてみれば内緒で戻ろうとしていた時だったから、
不意打ちに出会ってしまってあからさまに動揺してしまった。
咲「……っ」
自然に挨拶でもすればよかったのかもしれない。
けれど扉から出てきた菫が、なぜか射るように見つめてきたものだから開いた口は委縮して閉じてしまう。
変だ。何か菫はいつもとは違う感じがした。
姿勢を正して佇む姿、真面目な雰囲気は見慣れたものだ。
が、それに輪をかけて、今咲の目の前にいる彼女からはピリピリした緊張が伝わってくる。
思わず顔が下を向きそうになるのを必死に耐えた。
先ほど変わろうと決意した心を忘れてはいない。
このまま人気のない通路の途中で、無言で向き合っている訳にもいかないと思った。
菫だってたまたま用事があって仁重殿から出てきた所に、
咲と鉢合わせしてしまっただけなのかもしれない。
なら下手に真実を彼女に告げていらぬ心配をさせたくないと思った。
行動は決まった。咲から挨拶を交わして、今は彼女をこの空気から解放すればいい。
咲は半身の名前を呼ぼうと口を開いた。が、
菫「どこに行っていた」
咲が喋ろうとした気配は伝わっていたと思う。
けれどそれを断ち切るみたいに鋭く言われたから。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
咲「………」
薄ら唇を開いたまま、本来伝えようとしていた言葉は綺麗に脳裏から消えてしまう。
そんな動揺を見せた咲を眼前に立つ菫はどう思ったのか。
更に畳み掛けるように彼女は言ってくる。
菫「今までどこに行っていたのかと、聞いているのだが?」
ぞわり、と心臓が竦んだ気がした。無意識に口角が引き攣る。
この瞬間に的確に指摘してきた菫の、その意図をどう推し量ればいいのか。
まさか、咲が誰にも言わず内宮を抜け出していたことを彼女は知っている?
その可能性に行き当り、素直に肝が冷えた。ぶわりと額に冷たい汗が浮く。
咄嗟に言い繕わねばと思った。
なによりこれ以上、菫に嫌われるのを恐れた。
咲「私は…」
菫「主上。その前に一つ、聞き知って頂かねばならぬ事がある」
また被せるように言葉を遮られたから咲は口を噤むしかない。
淡々とした菫の声は続く。
菫「改めて伝えた事はなかったが。王と麒麟とは天が定めた特別な繋がりなんだ」
菫「麒麟はな、唯一主人である王の居場所を、その王気でもって辿ることができる」
咲「え?」
思わず間抜けな声が出た。対して菫はそんな咲の動揺など見越していたかのように冷静だ。
菫「覚えはないか?貴方がどこにいようとも私は会いに行っていた」
菫「その際、私は第三者に主上の居場所を尋ねたことは一度もない」
何故ならそんな事をせずとも麒麟である菫には主の居場所を自力で探し出す能力があるからだ、と。
今度こそ本当の意味で咲の心臓は竦んだ。
そういえば、そうだったかもしれない、と…間抜けな話だが、今頃咲も思い出している。
初めてここへと連れて来られた時に、自分は不思議に思ったではないか。
誰にも見つからず逃げ出したはずのこの身を、菫はすぐに追いかけてきた。
目の前の半身のいつも以上に堅い態度。
むしろその瞳には苛立ちと怒りとが混ざっているような気がした。
確定的だ、だから今この瞬間菫が絶妙なタイミングで咲の前に姿を現したのも麒麟としては当たり前なのだ。
彼女は事実、ここで咲を待っていた。
咲「…じゃあ……」
震える咲の声を受け菫は浅く頷いた。そうだ、と首を縦に振る。
菫「もう分かっている。貴方が軽薄にも供の者も連れずに、勝手に内宮より抜け出していた事はな」
咲「………」
咲は返す言葉が無い。菫の指摘は間違っていなかった。
主に滲む動揺は、菫の意見に対する肯定と考えてもいいだろう。
だから改めて、菫は咲に向かって言う。
菫「主上。私はもとより智美からも幾重に渡って言われていたはずだ」
菫「貴方はこの才州国の王だ。長く不在だった玉座をようやく埋めてくれた」
菫「その事がどんなに重要な事なのか、本当に分かっているのか?」
その両肩には、もはやこの国の民の命運が掛かっているのだ、と。
咲「わ、私は……」
叱責されて、その声に動揺が滲むのは彼女が責める菫に対して後ろめたさを感じているからだろう。
でも菫は畳み掛ける言葉を緩めない。
菫「宮中といえど、王朝の始まりは即位したばかりの王にしてみればまだ安全とは言えん」
菫「だからこそ私達も貴方を守るために慎重に事を運んできたつもりだ。ついこの前も襲われかけた事件があったはずだ」
菫「なのに何故こんな時に、不用心にも誰にも告げずに外宮へと出て行った?」
朱色の瞳には動揺が滲んでいる。それが菫を見上げながら苦しげに細められる。
と、咲は何かを耐えるように下を向いてしまった。
つまり今、咲は菫を見ていない。…そんな現状にじわりと胸中に抑え込んでいた衝動が蠢いた。
咲「……じっと、してはいられなかったんです」
細い声で、ぽつりと咲が呟く。
咲「みんな、私を助けてくれます。もちろん菫さんも」
咲「でも、私は?王だと言われても……私は他の誰よりも、世界の条理も人の情理も知らない」
咲「……どうしても、自信が持てなかったんです」
菫「……………」
咲「焦りは日々募っていきました。でも貴重な時間を削ってまで私を助けようとしてくれる貴方達に、これ以上無理を言えるはずがない」
咲「何よりの急務は、この国を立て直すことなのだと。それぐらいは私にも分っていましたから」
咲「だから……自分で動くしかない、と思ったんです」
苦悶に満ちた主の言葉。でも、だからこそ菫の内なる衝動も大きくなる。
一瞬、脳裏に心配して言ってくれた女怪の言葉が掠めたけれど。
抑え切れない。菫の返す言葉に怒気が混じった。
菫「それで貴方は秘密にしていたのか?周りにも、智美や……私にさえも」
咲「……すみませんでした」
菫は頭を振る。違う、謝って欲しいんじゃない。
菫「私が許せないと思うのは、その癖どこの誰かも知らぬ奴に対して貴方が……心を許していたから」
あの時。菫が遠くから見ていても、笑い合う彼女らの雰囲気が伝わってきて。
その距離の近さを痛感させられた。
思わず縋るように腕が伸びた。主の両腕へと掴み掛かる。
腕を掴まれた衝撃で吃驚したのだろう、俯いていた咲の顔が再び上がる。
朱色の瞳を再び見下ろしながら、菫は胸中に渦巻く衝動を吐き出す。
菫「そこまで悩んでいたというのなら、なぜ貴方は私ではなく、あんな知らぬ奴を」
咲「す、菫さん、何を」
動揺は消え、濃い困惑がその瞳に宿った。だが菫の言葉は止まらない。
菫「あいつは誰だ?」
咲「……っ!」
ようやく咲も菫が誰の事を尋ねているのか気付いたようだった。
菫「見慣れない顔だ、つい最近やってきたのだろう。そんな素性も分からぬ奴をなぜ貴方は警戒しない!?」
咲「違います、菫さん。あの人は、そんな人じゃないんです」
焦って言い返してくる咲の姿に菫は更に苛ついた。腕を掴む力が無意識に強くなる。
菫「なぜ断言できる?もしかしたら王である貴方の正体を知っていて、本心を隠し取り込もうと近付いてきたのかもしれない!」
咲「あり得ません!あの人は私が王だなんて知らない…私を新米の官吏だと思っていて、心配してくれて…」
それだけなんです、と咲は必死に言い募るがそれを素直に受け入れられるはずもない。
菫は王であるこの人を守らなければならない。
それはこの人が起つまで長く苦しんできた民のためであり、この国の麒麟としての菫の責務だ。
王が玉座にいるだけでも、妖魔の出現を抑え、死んだ大地は生き返る。
もはや王が不在だった混沌とした時代に舞い戻る訳にはいかない。
故に、今まで細心の注意を払ってきた。
前王から続く奸臣はまだこの宮中には多い。
思い通りにならないと分かれば王がいない時代に戻ってもいいのだと言い切る下種もいるはずだ。
だから菫も智美も、せめて内宮の路寝だけでも人事を綺麗にしようとした。
信に足る者だけを招き入れたのは、この人を危険から遠ざけるためだ。
なのに、その守ろうとしていた本人が安全な場所から一人抜け出していたとう事実に憤りを覚える。
…………いや、それは建前だ。
もちろんそれも大事だけれど。
菫の中に生まれてくる衝動は、その憤りだけで済まされるものではない。
分かっている、菫は麒麟としての建前より何より悔しくて悔しくて堪らないのだ。
こうして詰め寄って、主の口から直に聞いてしまった。
責め立てても、この人は見知らぬ女を悪くないのだと必死に庇っている。
そこにはあの時遠くから垣間見た、彼女らの信頼の成せるものなのだろう。
互いに笑い合っていた姿。
悔しいが菫が咲と出会ってから今まで、あの時のようにこの人が心から楽しそうに笑っている顔を一度も見た事がない。
あの女なら良くて、自分では駄目な理由はなんだ?
王と麒麟は一心同体だ、けれど……今の菫はそんな自信が無い。
麒麟なのに、この人の一番近くにいないのでないかと疑ってしまった。
その事実に気付いてから胸の内の痛みが酷くて、菫は衝動に突き動かされそうになる。
主の細い腕を掴む二の腕が小刻みに震える。
その動揺は、振動となって繋ぐ腕より咲にも伝わっている。
咲「!!……震えて……菫さん、大丈夫ですか!?」
心配そうに見上げてくる顔を、目を細めて菫は見下ろす。
眉間には皺が寄っていて、きっと今の自分は酷く苦い表情を浮かべているだろう。
その癖こうして自分に少しでも心を砕いてくれる咲の姿に歓喜を覚える。
様々に生まれてくる感情が胸中で渦巻いていて……慣れない菫はもはや対応しきれない。
菫は咲を掴んでいた腕を解き放つ。
それから瞼を閉じ、呻くように、本心を吐き出した。
菫「もう、いやだ」
咲「―――…」
ただこの痛みより解放される術を知りたい。
唯一この人だけだ。こんなにも自分の感情を良くも悪くも揺さ振ってくれるのは。
咲と出会う前の自分からは想像もできない程の激情を胸の内に抱えている。
それが時として、酷い痛みを伴って菫を苦しめてくれるから。
瞼を閉じた暗い世界はただ静かだった。
それからどれくらいの時間が過ぎたのか、多分数秒のものだろうけれど。
菫にしてみれば何時間にも何十時間にも感じた。
ふと、目の前の気配が動いた。
流れる空気の変化を肌が感じ取っている。
そして菫は、感情を欠いた、瞼の裏側の暗闇と同じぐらい静かな声を聞いた。
咲「 ごめんなさい 」
重い瞼を上げる。
菫の目の前は開かれていた。
今まで確かにいたはずなのに。
咲の姿は、そこから綺麗に消えてしまっていた。
■ ■ ■
今回はここまでです。
次はまた来週の木曜に投下予定です。
乙
ついに決裂してしまったか…
本当に今年中に終わるのか?
乙!
本当にいつもいいところで切りなさるな
別に今年中に終わらなくてもエタらなければおk
それより菫さんだって辛いのは分かるけどさ、そんな心配なら張りついてろ!って言いたいわ…
乙
むしろ終わらん方が長く楽しめるともいえる
しかしついに菫さん暴発か、咲さん大丈夫かね?
抱え込むタイプ同士はどっちかが殻を破らんと腹割って話せないよなぁ
うーん、人間って難しい
おつ
なんというか…もどかしいな
菫さんはなんというか押し付けすぎなんだよなぁ
麒麟だからっていうのはわかるけど、たぶん咲さんから見て話し易さではワハハにも劣ってそうなのが可哀想
不器用同士のすれ違いって本当につらいな
葉が水面に落ちて、そこに波紋が静かに走った。
幾重にも続くそれは次第に小さくなっていき…
時間が経つと、水面の上には落ちた葉だけが水流に浮いている。
微かにゆらゆら揺れるそれを、咲は何を思うでもなくぼうっと眺めていた。
取りあえず、人のいない所に行きたかった。
それで走り続けて辿り着いたのは宮中から続くどこかの中庭だ。
更に人が来ない場所を探して中庭の生い茂る木々を突き抜けていく。
すると、開けた場所に出た。
今まで駆けていた足が緩み、ついには立ち止まる。
そこは誰の気配もない静かな所だった。
多分、昔には使われていたのだろう小さく古びた東屋のような建物があり
その近くには水を湛えた池があった。
きっと使われなくなっても庭師が手入れだけはしていたのだと思う。
東屋も池の周囲も荒れているようには思わない。
走った事で乱れていた息を整えながら、東屋を過ぎ小さな池の縁へと辿り着く。
そこを囲むように置かれている手頃な岩の一つを見繕い、腰を降ろした。
芝生の上の爪先を暫く眺め、次に、背後に広がる池を眺めた。
近くに生える背の高い木から時に落ちてくる葉が池の水面を揺らす。
それを、どれくらい眺めていたのだろうか。
ただここから動く気にはなれなかった。
しかし思っていたよりも心は落ち着いている。
いや、色々な想いを突き抜けてしまっているといった方が正しいのかもしれない。
ただこれ以上、何かを考える気にもなれなかった。
だって、今更何をしても結果は変わらないだろう。
咲「………」
波紋が走る水面を眺めながらも……それだけは理解していた。
恐れていた瞬間だったが、迎えてみればあっけないものだ。
菫は咲に向かってしっかりと拒絶の言葉を吐き出した。
いやだ、と。
忘れたいが、あの言葉もそれを言った姿も咲の胸の内に焼き付いてしまっている。
顔を上げて向き合おうと…そう決心した矢先の事だったが。
もう全てがどうでもよくなってきた。
だって、自分は遅すぎたのだ。
悩むのも、気付くのも、決めるのも、全て。
それでどれ程あの半身を苦しめてきたか、思い知らされたような気がする。
あんな苦しげに言葉を吐き出す程に、自分は菫を追い詰めてしまっていた。
咲は小さく息を吐き出す。
これからどうするべきだろうか?
今更、今までのように上辺だけでも付き合う事はできない。
だって咲はそんなに強くはないのだ。
いやだと存在を拒絶されてまでここに居座る図太さも無い。
むしろ、解き放ってあげたい。
ふと数日前に書房にて眺めた書物の内容を思い出す。
国の成り立ち、構成、国が運営されていく過程が書かれていたその書物には、
王と麒麟の関係も記されていた。
麒麟が王を選び、治世が正しい限りはいつまでも栄える。
反面、悪政を敷けば半身である麒麟は失道し、王が改心せねば麒麟は死に王も死んでしまう。
そして、こうなのだという。
王は、王を神にした麒麟を失えば必ず死ぬ。だが、麒麟はそうではない。
麒麟は王が死んでも死にはしない。
王が悪政を敷いて改心せねば、失道で死んでしまうだろうが。
その前に、王が位を天に返上して死ぬか、または弑されれば麒麟は生き残る。
そして麒麟はまた次の王を探せる。
健全ではない考えが頭を過ぎる。
むしろそれが一番いいのではないかと思えてきた。
咲「私が…王をおりれば…」
ぽつりと呟いた瞬間。
『早まった考えはお止め下さい。台輔が悲しみます』
水面に走る波紋を眺めていた視界を見開く。
感情を含まない、淡々とした声だった。
が、咲にしてみれば聞き覚えのない声だ。
思わず水面より視線を上げ、そのままぐるりと周囲を見渡してみた。
咲「……?」
そこは、相変わらず咲しかいない。
こじんまりとした静かな空間に、他者の気配は感じられない。
けれど確かに声は聞こえた。
しかも、すぐ側から聞こえたような気がした。
でも視界の先には誰もいないのだ。
一体、どこから?
不安な心地になった頃に、もう一度近くから鮮明に声が聞こえた。
『どうか、主上』
思わず肩がビクリと揺れる。
再び周囲を見渡して誰もいない事を確認する。
こくりと唾を飲み込んでから、咲は唇を開いた。
咲「誰…ですか?」
反応を待つが、その問いに対しての応えは無い。咲は続けて言う。
咲「近くにいるのなら、姿を見せてくれませんか。どこかにいるんですよね?」
すると、相変わらず淡々とした声が返ってくる。
『御前に参じるのはお許しください。醜い姿故、以前に主上を酷く驚かせてしまった事がございます』
その声が、自分が爪先を地に付ける先より聞こえてくる事に咲は気付く。
そんなの人間には無理だ。だから閃くように思い出した。
過去に一度だけ見た出来事。
菫が何も知らぬ自分を迎えに来た時に、地面を水面のように変えて這い出てきた異形の姿達。
つまり、この声は……妖魔。
咲「!…もしかして、菫さんの」
無意識に呟けば「御意」と短い声が肯定する。
咲の半身は麒麟として、人が恐れる妖魔をも使役するはずだから。
その姿達を過去に垣間見たのを咲も覚えていた。
初めて菫と会った時に、確か虎のような大きな妖魔が地面から這い出てきて、自分は驚いてしまった。
そのまま意識を失ってしまったはず。
きっと、妖魔はその事を言っている。
だが今にしてみれば咲とて理解している。
一般に人を襲う妖魔とは違い、麒麟に使役される妖魔は、主人に忠実で人を襲わない。
ならば、こうして声が聞こえてくる妖魔はひょっとして。
咲「ずっと、私の側にいたんですか?」
『台輔に命じられて』
間髪入れずに返ってきた声に咲が閉口してしまう。
様々な思惑が脳裏を駆け巡った。
咲を心配してか、それとも見張るためなのか。
しかし今更、全て同じ事のようにも思えた。
『本来ならばご負担を感じぬよう、影ながら御身をお守りするよう命じられていました。…ですがあえて主命に背きました』
咲「え?」
淡々とした声は変わらないが、それが最後の一文だけ更に声が潜められた気がする。
よくよく脳裏でその言葉を復唱して考えてみれば…
もしや妖魔は主人である菫の命を背いて、守っていた自分に声を掛けてきたという事なのだろうか。
咲「…どうして?」
『私は主上について廻り全てを見ていましたから』
『台輔が誤解からああ言ってしまった事も、その誤解から生まれたものを、貴方が素直に受け取ってしまった事も』
咲は目を見開く。
爪先を見つめる視界が僅かに振れた。…体が小刻みに震えているからだ。
同じように震える唇をどうにか動かして返す言葉を吐き出す。
咲「誤解だと言ってくれるんですか、あれは……菫さんの本心ではないんですか?」
『違います。誤解なさいますな』
咲の問いかけに対して、妖魔は迷いもせずに否定してくれた。
現金にもからっぽだった胸中に少しの希望が灯る。
咲はいつの間にか張っていた肩の力をゆっくりと抜いた。
そして、爪先の向こうに広がる地面を一瞥し、咲はそこに向かって声をかけた。
咲「姿を見せてくれませんか?」
『…もはや主命には背いておりますが。また私のせいで主上がお倒れになられたら、今度こそ台輔に対して申し開きができません』
咲「そんなこと…あの時は私も、その、妖魔というのを話に聞くだけで初めて見てしまったから驚いてしまったんです」
咲「でも今は大丈夫です。こうして驚かせないようにあなたは気遣ってくれている」
咲「それに菫さんに仕えているのだから、あなた達が怖いはずなんてありませんよね」
咲から姿は見えないが、安心させるように小さく笑う。
咲「今度は絶対に驚いたりしません。姿を見せてくれませんか?」
もう一度、地面に向かって問いかける。
すると一拍の後、「御意」という声と共に地面が不自然に波打った。
堅いはずの地質も、生い茂る芝生も一緒になって地面の上に水面の如く波紋が走る。
と、その中心から獣が豊かな毛並みを揺らしてゆっくりと這い上がってきた。
咲は妖魔も見た事はなかったけれど、猛獣と呼ばれる獣ももちろん見た事が無い。
だが、これは虎と恐れられる猛獣に近い姿なのだと聞き知った話から想像できた。
ただその虎と違う所……目の前に姿を現した妖魔は、異様ともいえる六つの目を持っていた。
それが一斉に瞬きする様は何か壮観だ。
咲は妖魔に伝えた通り、以前のようには驚かない。
ただ、やはりあの時の妖魔だったかと納得した。
虎の姿をした妖魔は完全に這い上がってくると 、腰を堅い地面に落とし咲に向かって頭を深く下げる。
『再び、御前を失礼致します』
咲は妖魔に向かって首を左右に振る。
咲「私こそ、以前必要以上に驚いてしまってすみませんでした」
『人には馴染み難い姿です。そう言って下さるだけで、以前の無作法だった我が身が僅かでも救われます』
そう言った妖魔の大きな尻尾が、向こうの方で大きくうねった。それを眺める咲は薄く笑う。
咲「菫さんも礼儀正しいですが、あなたも同じなんですね」
『私は兎も角、台輔は清廉な方です。自分にも厳しく周りに対してもそうです』
『そうしてこなければいけないのだと…随分前から気付いて、あの方はそれを実践してこられましたから』
咲「…すごいですね、やっぱり私とは違う」
声の質を落として、呟くように咲が言う。
と、何かに気付いた妖魔が深く垂れていた頭を上げた。
『主上、誤解されませんよう』
咲「え?」
見上げる六つ目と視線とが合う。咲が頭を傾げると、妖魔は言った。
『主上と台輔では、今までの過程が違います』
『あの方は生まれた瞬間よりご自身が担う国の責任を自覚し、憂い続けてこなければいけなかった』
『台輔は人一倍責任感も強い方です。私が使令としてお仕えするようになってから、その姿勢は更に堅固なものになっていきました』
咲「………」
『あの方と一緒に、荒廃が進む国土を幾度となく見て廻りました。その都度、何もできないご自分の無力さを酷く嘆いておられた』
『そんな日々を過ごす中で、あの方の表情は更に硬く態度も堅固なものになっていきました。どうしてか分かりますか?』
妖魔に問われ、咲は素直に首を左右に振る。
『麒麟は善なる神獣です。台輔は麒麟の性として人を信じたかった、けれど、それがままならないのが今のこの国です』
『人に裏切られる度に、あの方は感情を表に出すのを厭うようになりました』
『でもそれは人のせいと言うよりは、そんな人らに対して無力であるご自分を許せないようでした』
淡々とした声で続く話は咲に衝撃を与える。
妖魔に対して挟む言葉も思い浮かばなかった。
ただ、自分を迎えにきてくれた菫の姿だけが鮮明に脳裏に浮かぶ。
あの姿の裏にどれ程の葛藤があったのかを、彼女の妖魔から咲は教えられている。
『そんな台輔が、徐々にですが変わって来られた。嘆く以外の感情をお見せになるようになりました』
『怒ったり、女怪はまだぎこちないと言いますが、笑いもします。……主上が来られてからだ』
咲「………」
『私は貴方の葛藤も見て来たつもりです。立場と環境が全く違うここでは戸惑う事も数多いのも分かります』
『でも、どうかご自身を必要以上に卑下して考えるのはおやめ下さい』
『何もできないと幾ら仰っても、御身がここにいらしてから、確実にこの国は蘇っています』
咲「………」
『荒れた大地は生き返り、蹂躙を繰り返してきた同胞達はいずこかに消えました』
『民達も貴方という希望を糧に少しずつ生きていく気力を取り戻しています』
『…そして、それは台輔が無力に嘆きながらも長く待ち望んでいた、この国本来の姿だ』
無言で話を聞いていた咲の視界がぼやけた。
見下ろす形にある六つ目が一斉に細められる。
妖魔であるはずだが、咲にしてみれば人よりも人らしく労わってくれているように感じた。
更に、目頭が熱くなる。
乙?
乙
長年奴隷してた割りには咲ちゃん結構余裕あるな
『貴方は、ここにいるだけでこの国だけではなく、この国の麒麟という良心も救っている』
『主上、どうかあの方だけは信じて下さい』
その言葉が心に沁みた。
目尻の堤防を越えて涙がそこから溢れ出した。
ぽろぽろと頬を伝うそれを拭う事も忘れて、ぼやけた視界の向こうにいる妖魔に咲は言葉を吐き出す。
咲「私は……」
いやだ、と言われてしまった。それは確かに咲を拒絶する言葉だったから。
一度は向き合おうとしたけれど、結局最後の最後にまた逃げだしてしまった自分が
今一度半身に正面から立ち向かっていけるだろうか。
どうして嘆かれます?、そう案じられ咲は浅く首を左右に振る。
咲「嘆いてるんじゃないんです…ただ私は今あなたから聞いた話を、きっと菫さん本人から聞かなければいけなかった」
咲「そして私自身の事も、彼女に知ってもらわなければいけなかったんです。彼女に嫌われるのを恐れないで」
『主上』
咲「あなたも、智美さんも純さんも…皆こうして教えてくれていたのに。…本当に、私は愚かです…」
そこで不自然に言葉が途切れる。感情の高ぶりに逆らい切れずに喉の奥が震える。
それでも唇を一文字に引き衝動を堪えると、掠れた声で言った。
咲「まだ、間に合うでしょうか?」
『間に合います』
妖魔の声は淡々としているけれど、まるで背中を押されるように迷いがない。
『むしろ、貴方だけがあの方を救えるのですから。どうか』
咲「……本当に、こんな遠回りばかりして、私は……」
『それが私達妖魔と人とが違う所です。感情に振り回されるのは効率的ではないですが……どこか、羨ましいとも感じます』
咲「後手後手で、しかも菫さんを失望させているのに?」
『予想できないのがいいのでは?私には分からない感覚です』
『台輔は獣ですが、同時に人でもあります。だから迷いますし、勘違いもしてしまいます』
咲「………私も、同じです」
菫は真っ直ぐな姿勢を崩さず弱みを見せない、完璧な人だと思っていた。
その姿に無理に合わせようとして、できなくて自信を無くして。本当に咲も迷ってばかりだった。
『羨ましい限りです』
淡々とした声に、僅かにだが初めて笑む気配がした。
思わず釣られるように咲も笑う。
そして色々と堪え切れなくなると、腕を上げて顔を覆った。
感情の昂ぶりのせいか止まらない涙を、指先で何度も何度も拭う。
その途中で、途切れ途切れではあるけれど妖魔に向かって咲は伝える。
咲「もう一度、菫さんに話をしに行こうと思います」
『それを聞いて安堵しました』
咲「これが収まったら、必ず。でももう少し…止まらないから…こんな顔じゃ、更に可笑しく思われてしまう」
『ならば私が台輔に取り次いで参りましょう』
『主上は私が戻るまでここにいて下さい。絶対にここより動いてはいけません』
咲「……この顔じゃ、動きたくても動けないですけどね」
咲が涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま苦笑いを浮かべると、妖魔も納得したようだった。
心を決めて「お願いします」と咲が伝えれば、妖魔は六つ目を細めて頭を深く垂れた。
そのままゆっくりと地面の下に消えて行く。
毛並みの先すら地の底へ吸い込まれていったのを見届けると。
咲は今までの全てを洗い流すかのように、思い切り泣いた。
■ ■ ■
入室を促す声が聞こえ、純は扉を開き中へと足を踏み入れた。
純からすればもはや見慣れた室内には、部屋主である塞と同僚である誠子、
それに見知らぬ官吏の女性が一人立っていた。
入ってきた純に気付いたのだろう、官吏は振り返り視線が合うとニコリと柔和そうに微笑む。
純は反応に逡巡した。
取りあえず、初見でもあるし部屋主である塞の顔に泥を塗る訳にはいかない。
姿勢を正すと会釈をする。すると向こうも微笑んだままに頭を垂れた。
塞「そこまででいいよ」
顔を上げると塞が苦笑いを浮かべながら純に向かって手招きする。
素直に彼女らの元に近付いて行った。
塞「彼女が残りの一人。貴方も手を貸したのだから気にはなっていたでしょう?」
純を指しながら塞が官吏に問う。
すると、官吏は緩慢な動作で頷いた。
憧「私は書類上で、だけど。でも嘆願書が上がってきた時点でかなりの異例だったから気にはしていたわ」
憧「冤罪なのは明白でしょ?まぁ、塞の目に叶うようならよかった」
ね、と気安く話を振られて純は思わず面喰らった。
彼女らの会話の内容が分からない。
思わず助けを求めるように、隣に並ぶ形になった誠子へと視線を向ける。
しかし彼女は絶対に純よりも現状を把握している癖に、肩を竦めるだけで何も言ってくれない。
純は思わず舌打ちしそうになった。
が、その前にすべてを察したように塞が口を挟んでくる。
塞「なら直に会った事はないんだね。彼女は憧。前に話の中で言ったでしょう」
塞「貴方たちを見つけて、私に引き合わせてくれたのが秋官だった憧なの」
純「あ、」
誠子はやっぱり分かっていたようで頷くだけだが。
純は驚いたせいか間抜けな声が出てしまう。
塞に指摘された事はもちろん覚えている。
権力を傘に牢にぶち込まれていた自分達を、塞が懇意にしている秋官が気にしていたのだと。
それが、この聡明そうな官吏なのだと言う。
お礼を言っときなさい、という塞の言葉に対して憧は必要ないと言う。
憧「さっきも言ったけど。元々あれは貴方たちの元部下達が嘆願書を出した事で明るみにでた事例だから」
憧「つまり私のお陰というより、かつての部下達に好かれていた貴方たちの人徳のお陰でしょ?」
憧「なら、私に礼を言う必要はないわ。貴方たちが今まで積み重ねてきた行いを誇るべきよ」
純「…………」
誠子「………あ~っと、でも助かったのは本当ですし。ありがとう、ございます」
自分達を誇るべきだ、と言われても、すぐにはいそうだったんですかと頷けるはずもない。
純は思わず閉口した。そんな自分の心境をくみ取った誠子がぎこちなくではあるが礼を述べた。
塞はそんな彼女らを眺めて笑っている。
塞「憧はね、いつでもこんな感じで物事の上辺を探る事をしないの」
塞「直球だから、秋官の中でも特に異質だよ。褒められても貶されてもまるで動じないし、何をしても無駄だと先に周囲が悟る」
塞「しかも事実尻尾を出すようなヘマも絶対にしないし」
憧「尻尾とは随分な言いようね」
そう言いながら憧は先ほどから笑みを少しも崩さない。
その秋官がわざわざこうして塞の執務室を訪れている事を不思議に思う。
憧を探るように一瞥してから、塞に向き直る。そして確信を持って尋ねた。
誠子「何か、あったんですか?」
塞「それは憧から聞いた方が理解しやすいでしょう」
塞が視線を促すと、純達も同じように彼女へ注視する。
憧は相変わらず腹の内が読めない微笑を湛えながら話し始めた。
憧「一週間程前に、ある官吏から内密に話したい事があると言われたのよ」
憧「秋官に打診するのだから、つまりは……密告ね」
誠子「密告、」
硬い言葉で誠子が呟けば、憧は頷く。
憧「言葉から変に勘繰ってしまうけど、今回に限っては悪い意味じゃないわ」
憧「その官吏の密告は、良心の呵責によるものだったから」
憧「最近は多いのよ。やっぱり主上が存在するのとしないのでは、国に対する姿勢の温度が違う」
憧「忘れかけていた本来の責任を思い出して心を入れ替えた、なんて話もよく聞くし。大層都合のいい話ではあるけどね」
憧の最後の言葉には多少の呆れが含まれている。
その気持ちは純もだが、誠子も塞も身に染みているだろう。
純は憧に釣られるよう苦笑を浮かべた。
憧「それで、ま、内密にね。話を聞いたのよ。小心な男で、絶えず周囲の目を気にしてた」
憧「だからこそ罪悪感も捨て切れなかったんだと思う」
憧「ずっと上官に言われるがままに不正に手を貸していたらしいけど、これ以上は我慢できなくなったそうよ」
誠子「今まで手を貸していたのに、心変わりすると決めた……?余程の切っ掛けがあったんじゃないですか?」
誠子が気付いたように突っ込むと、純もなるほどとその疑問に同調する。
確かに罪悪感をずっと抱いていたとしても、所詮小心者だ。
長いものに巻かれていた人間が、その庇護を投げ捨ててまで正道に帰ろうとするのはかなりの決意が必要だろう。
憧「その答えは先ほど一度答えているようなものよ」
憧「つまりは主上に害を及ぼすかどうかという選択に、抱えてきた罪悪感の針が振り切れてしまったらしいわ」
憧の答えを聞き、純は瞬時に血の気が引くような心地になった。
純「まさか、」
憧「あくまでも予定通り事が進まなかった場合だそうだけど」
憧「……内密に、冬官府より冬器を集める手伝いもさせられたそうよ」
純「………」
返す言葉が何も浮かばない。驚く程に衝撃を受けている。
なんて畏れ多い事を。
この感覚が多分、一番言葉として正しい。
憧「冬器を運ばされながら体の震えが止まらなかったそうよ」
憧「それがどう使われるかを想像して、やっとで自分が今までどんな非道に手を貸していたのか痛感したと」
憧「その上、王まで手にかける側に加担すれば今世は元より来世永劫、天から見放されてしまうと酷く怯えていたわ」
純「………下衆が」
唸るように吐き捨てていた。
塞達の前だとしても、体裁を繕う事すらできなかった。
本当に、救いようのない馬鹿というのは軍にもどこにもいるのだ。
なぜそこまで思い切れる?
この国が長く待ち望んでいた末に起った王だ。
まだ愚王かどうかも判断できないというのに……
こんな初期の段階で王を弑し奉る算段を企てる事ができるのか?
苦しむ周囲を省みず、そこまで自分達の利だけを追える畜生がここにはいるのか?
塞の声が遠くから聞こえる。
塞「…下衆ではあったけど、その人は最後の“王を害する”という一線だけは越えられなかったんでしょう」
憧「だね。で、まあ彼の良心の呵責が軽くなるように、知っている限りの首謀者達の名と立場は吐かせてやったわ」
憧「でも私とてそれをすぐに鵜呑みにする訳にもいかない」
憧「一週間、事実かどうか裏取りに費やして、官吏には何事もない振りをして過ごせと命じて持ち場に帰したんだけど…」
憧は、突然歯切れが悪くなる。
憧「数日前から、その彼と連絡不通になってね…」
誠子「…やっぱり裏切りきれなかった、とかですか?」
憧「それはないわ。あそこまで天と王に叛く事を畏れていたのなら、今更元鞘に収まろうとはしないでしょ」
憧「ただ、小心者だから耐えきれなくなって暴走はするかもしれない、とは思ったけど」
純「?」
誠子「暴走?」
純は怪訝な表情になり、誠子は鸚鵡返しに呟く。
すると一緒に聞いていた塞が補足するように言った。
塞「その官吏の所属先は夏官だよ。それともう一つ、実は数日前に内殿で一騒ぎあったの」
塞「許可なく主上に嘆願しようとして、錯乱した夏官が御前で取り押さえられたというものよ」
純「!!」
誠子「それって……」
まさか、その小心者の官吏の事なのか?
半分確信をもって尋ねれば憧は頷いた。
憧「私もまさかそこまで追い詰められているとは気付かなかったわ。直に主上に告発しようとするとは…」
誠子「…その官吏は、結局どうなったんですか?」
誠子が尋ねれば、今度は塞が答えた。
塞「最悪な展開だけど、同じ夏官達に取り押さえられて連れていかれたそうなの」
塞「後日、事件に気付いた憧が秋官の立場をもってその官吏の身柄を引き取ろうとしたけど…」
塞「どうにも向こうが無理に理由をつけて引き渡すのを渋っているらしいの」
誠子「……まぁ、そうでしょうね。裏切ろうとした奴を司法に引き渡すはずがない」
誠子「でも渋っているのなら、そいつはまだ生きている?」
塞「どうかな。…酷だけど、もはや口封じされてしまっているから理由をつけて引き渡すのを渋っている振りをしている」
塞「そう考える方が無難でしょう。だからこそ、向こうも追い詰められてはいるだろうけど……」
誠子「…………」
塞「だから憧は助言しに来たんだよ」
塞「追い詰められた馬鹿な奴らが、馬鹿な行動にでるかもしれないから」
塞「主上がおられる内宮も十二分に警戒しろと、ね」
純「馬鹿な行動…」
純は呆然と呟いた。
それは先ほど言った畏れ多い事をだろうか……本当に?
信じられない心地の中で、憧の声が聞こえる。
憧「ま、私なりに一週間の間で首謀者が事実、そんな大それた事を企んでいるのかどうかの裏は取ったわ」
憧「出る事に出れば、幾ら金を積んでも言い逃れできないぐらいには証拠も集めてね」
憧「だから、その首謀者達に捕えられた官吏の身柄を引渡せと言いながら揺さ振りは掛けさせてもらった。もはや全て筒抜けだとね」
塞「私も数刻前に台輔に謁見して帰ってきたら、憧が待っていて…今の話を聞いた所だったの」
塞「お陰で腑に落ちなかった幾つかの点が繋がったわ。誠子には少し前に……」
塞が言葉を続けようとした途中だった。
不意に、ゴポリと水が跳ねた音が聞こえた。
しかもその音はすぐ背後から聞こえたような気がする。
でも、そんなの可笑しな話だ。
ここは宮中の奥にある一室で、その室内に水溜りがある訳がない。
気も昂ぶっているし空耳だろうか、と思った瞬間。
今度は突如、何かに足首を掴まれた。
純は反射的に掴まれた片足を上げて、掴まれた感触を振り切ろうとする。
が、足はピクリとも動かず、更に掴まれた箇所がギリギリと締め付けられてしまった。
その痛みに顔を顰めながら原因を探ろうとする。
下だ。視線が床を泳ぐ。
それが自分の足元まで辿り着くと……有り得ない光景を目の当たりにして驚いた。
自分の足首は、水面のように揺れた床の中から突き出している手に掴まれていたのだから。
思わず、声を上げる。
純「っうあ!」
だが狼狽したのはそこまでだ。
純は腰に差していた剣の柄を握り瞬時に引き出すと、
素早い動作でそれを足首を掴む手首に突き刺そうとする。
ガツと鈍い音と腕に必要以上に響く手応え。
剣は目当てのものでなく、上司の部屋の床を突き刺していた。
寸前で手首は掴む足首から離れていくのも見えていた。
それは床に出来た水面へと一度、音を立てて戻っていく。
純は慌てて突き刺した剣を抜き取ると、その場所から2、3歩程後退する。
周囲からは、なんだ?とか、どうしたの、と訝しむ声が聞こえてきたが
純とて答えられる訳がない。
しかし、視線だけは鋭く波打つ床を睨みつける。
そこは再び大きく波打つと、中より何かが這い出てきた。
白い腕に羽毛を生やした、半分鳥のような女の姿。
人間ではないのは明らかで、それが何かを純は理解した。
種族は違うだろうが、以前、軍にて要請を受け討伐した事はあった。
純「……妖魔」
背に走る悪寒を受け、もう一度剣を構える。
近くにいた誠子も状況を理解したようだった。
同じく鞘から刀身を抜く音が響く。
なぜこんな所に妖魔が?
完全に這い出てきた妖魔が羽を揺らし、硬い床の上に立ち上がった。
今回はここまでです。
回線が切れまくって投下に時間かかりました…メゲルわ
乙 純くん大丈夫か?
乙
乙乙
菫ちんが暴走して塞さん達と連携できない状況にならなければいいけど
それよりも今年中に終わるってことは他の国までは広がらないっぽいなぁ……
乙 菫さん良い部下を持ったな
乙
菫さんは咲ちゃんが救うんだろうけど、咲ちゃんを誰が救うんだろう
乙
面白くて一気に読んでしまった
次回更新楽しみにしてます!
乙乙
敵の妖魔ならわざわざ全身晒す必要ないよな?菫さん配下だよな!?誤解といてくれるはずだよな!!?
>>371がアンチ咲だってことは分かった
触るな触るな
すばらな活劇描写
あっち書いてる暇があるならこっち書けよ…
何を書こうが作者の勝手
嫌なら見なきゃいい
>>376
お前アスペだろ?
書いてる内容が問題なんじゃなくて同時進行するくらいなら片方を終わらせてから次書けよってことだろ
自治気取るなら理解してからにしろよ
何か頭おかしいのがいるけど気にせず頑張って
>>377
同時進行で書こうが作者の自由って話じゃないの?
普通どこでも同時進行してれば叩かれるもんだけどなぁ
>>378は自分に言ってんの?あぁ勘違いして恥ずかしいからしょっぱい煽りで誤魔化そうとしてんのか?
ID:WW3tlhFLO
こいつ自分はまともだと思ってるんだろうけど大差ないよ。言い方がキツいし支離滅裂だから
来たのかと思ったら無駄話しかよ…
作者がどう書こうが作者の自由だろ
もちろん、不特定多数に公開している以上は、誰かがそれを批判するのも(度を過ぎなければ)自由だがな
>>377
すっげえブーメンランで最高に笑える
両方エタるのがオチ
咲スレなんて大体そうだろ
向こうだけ書けよ
菫咲とか捏造カプはいらねえんだよ
妖魔は十二国の王の権威が及ばない黄海か、王が不在の混沌とした国に出没する。
少し前までの、王が不在だったこの国で目にする事はあったが今は違うのだ。
しかも最も王の権威が及ぶ宮中に出没するとは考え難い。
困惑したのは確かだ、でも純はすぐにそれを取り払った。
いつの時も得物を手にして迷うのは危険だ。
今は隣の誠子と協力して背後の官吏達を守らねばなるまい。
柄を握り締め、刀身を支える。
と、緊張を滾らせた自分らの前に、意外な姿が躍り出てきた。
つい今し方、守らねばと心に決めた塞がなぜか背後から駆けつけてきて
剣を構える純と、対峙する妖魔の間とに立ち塞がる。
焦った純は思わず口調も素になる。
純「おい!ふざけんなっ!塞、そこをどけ!」
尖った刀身を苛つきながら降ろし、純は利き手を繰り出して眼前に立ち塞がる塞を横にどかそうとする。
だけど焦る純とは対照的に、なぜか塞の声は冷静そのものだ。
その肩を掴んでも彼女は岩のようにそこから動かない。
むしろ怒る純を宥めるように「待って」と言う。
純「なんでだ!?」
塞「敵ではないからだよ」
純「あれは妖魔だろうが!」
塞「妖魔だよ。でもここにいる時点で貴方が想像しているような、人を無意味に襲う妖魔じゃない」
純「…なに、言って」
再び純は困惑した。
すると背後より憧の淡々とした声が聞こえる。
憧「この宮中に妖魔は出ないわよ。出るとすれば……それは神獣に仕える妖魔だけ」
純は目を見開いた。
やっとで彼女らが何を言っているのかを理解する。
神獣と言えば、その存在は一つしかないだろう。
思わず塞の向こうに佇む妖魔を凝視する。
確かにあの妖魔は、初めこそ不意打ちに純の足を掴んできたが。
完全に姿を現してからは、こちらを襲う素振りを見せない。
むしろ佇むその表情はこちらを注意深く探っているように見えた。
■ ■ ■
事実、女怪は迷っていた。
菫に命じられて、彼女の望みの通り件の女性を追いかけてきたわけだが。
ここで追い付いたのはいい。対峙したのも予想の範囲内だ。
が、突如として自分とその女性との間に立ち塞がった官吏の姿を見て、どうすればいいのか迷いが生じた。
なぜならその官吏の顔を女怪は知っていた。
先刻前まで主と顔を合わせていた官吏の一人だ。
いつの時も大事な麒麟の側に影ながら寄り添っている自分が見間違うはずもない。
ならば菫とも近しい立場なはずだと思うが……その官吏がなぜ件の女性と一緒にいるのか分からない。
するとそんな迷いを悟られたのか、目の前の官吏が冷静な口調で問う。
塞「台輔の使令ですか?」
的確な指摘。事実だ、ここにいる限りそれを隠す理由も無い。
『はい』
淡々と言葉を返す。
すると目の前の官吏は、安堵したかのように表情を緩める。
その背後にいる件の女性は、自分と同じく状況がつかめないようで怪訝な表情を浮かべていた。
塞「先ほどまでお会いしておりました。…もしや、何か私に伝えに来られたのでしょうか?」
官吏に言われ、一拍置いてから首を左右に振る。
『いいえ。私が用があるのは、貴方の背後に立つ……彼女に、です』
指し示すと官吏の背後の女性が驚いて目を丸くする。
誤魔化すというよりは、本当に驚いている風に見えた。
それは眼前の官吏も同じだったようで、僅かに背後を一瞥すると再びこちらに向き直って尋ねる。
塞「この者は私の部下です、が……もしや知らぬ間に何か失礼な事を仕出かしたのでしょうか?」
『……部下』
思わず言い返す。
その声が官吏にも聞こえたのか、彼女はもう一度「そうです」と言い切る。
ならば、これは………と。
女怪は眼前の官吏の背後へと直接顔を向けると、そこに立つ女性に問いかけた。
『貴方は、なぜあの方と親しいのですか?』
純「………あの方?」
問い掛けた先の女性が訝しげに聞き返してくる。女怪は頷いた。
『貴方が先ほどまで会っていた方です。それを、台輔は気にしていらっしゃいます』
純「先ほどまで……って」
困惑する声。
どうやら突如現れた妖魔が問い掛ける内容と、すぐに結びつくものがないのだろう。
すると挟まれた形で聞いていた官吏が女性に向かって問い掛ける。
塞「純。先ほどまで誰かと会っていたの?」
純「あ、…いえ、まぁ。会っていたと言えば、あいつぐらいですけど」
純「でも麒麟の台輔の使いがわざわざ訪ねてきて確認するほどの事でもない、と」
塞「…………」
純「俺と同じで、最近やってきた奴で気が合ったんですよ」
純「新人の官吏だと言ってた、あいつ。まだ自分の仕事に対して自信がないみたいで…」
聞いていた官吏の顔付きが険しくなる。
同じように聞いていた女怪も一つの結論にようやく達した。
ある意味で、菫の心配は杞憂に過ぎない。
女性はあの方の本来の立場を知らないで付き合っていた。
塞「…まずいね」
ふと聞こえて来た声は険しい顔付きに変わっていた官吏のものだ。
彼女は何かに思い至ったようで、背後の女性に向き直ると言う。
塞「純は本当に、当たりを引く人というか…」
純「??意味がわかんねぇよ」
塞「詳細は聞かないよ、時間も無いし。ねえ、純」
塞「先ほどその方と会っていたと言ってたけど、別れた時の事は覚えている?」
純「あ、ああ。普通にさっきの事だからな。なんか暫くは仕事に打ち込みたいらしいから会えないって言われて」
純「じゃあ、俺も頑張れって言って。それで……そのまま別れ、ましたけど」
純「俺は真っ直ぐにここに来ましたし、あいつは自分の持ち場に帰っていった、と思います」
塞「お一人で?」
純「……別れた時は一人でしたけど。そういえば俺、あいつの同僚とかは見た事ないので」
女性からそこまで聞くと官吏は再びこちらを仰ぎ見る。迷わずに女怪に言った。
塞「単独で動いているのですか?」
官吏が何を尋ねたいのか、女怪は悟った。
彼女は、まだ気付かない長身の女性とは対照的に、先ほどの話の内容からあの方の正体に気付いている。
だから官吏の問い掛けに対して女怪は首を左右に振った。
眠いのでここまで。
続きはまた夜にあげます。
乙 来てくれてほっとした
おつ
続き楽しみにしてます
楽しみに待ってる人がここには居るから、周りは気にしないで頑張って
乙
良かった菫さんの使い魔で
誤解も解けそう
誤解が解けても菫さんの嫉妬が溶けるとは……
来週までが長い
来週じゃなく今夜だな
乙
いつも楽しませてもらっています
『台輔は預かり知らぬことでした。だから、とても心配していらっしゃいます』
塞「……なるほど。お一人で戻られたと純は言っていますが、それを見届けましたか?」
女怪は考えるまでもなく、首を左右に振る。
『私は台輔に命じられて彼女を追いかけてきましたから』
『…でも、あの方には台輔が向かわれたと思います』
塞「確認はしていませんよね?」
『ここにいる以上、できません』
官吏の指摘に対して、女怪は素直に頷いた。
純は塞が何を言いたのか、さっぱりだった。
むしろ突然現れた妖魔の言い分とて不明瞭で苛立つ。
それに、なぜあいつの……咲の話題がここで上がるのだろう?
あいつはただの新米の官吏なだけのはずだ。
そんな純の困惑を背に、塞はまた踵を返すと今度は少し離れた所に立ち、
こちらの話を興味深く聞いていた憧へと向き直る。
キタ!
塞「憧、先ほどの話。貴方が裏を取ったという首謀者達の人数はいかほどなの?」
突然話を振られた形になったが、物事に動じないと有名な秋官は余裕をもって答える。
憧「多いわよ。内宮に配備された夏官の三割と思っていい」
憧「ほんと塞の今までの苦労が手に取るように分かるわ、抑えようとしてもこれだから」
塞「……なら、20人弱程か」
確かに多いな、と塞は呟く。
そして彼女は次に踵を返して再び純に向き直る。
と、その隣に立つ誠子へと尋ねた。
塞「ここに来る前に、貴方に頼んでいた事は調べた?」
きっと誠子も純と同じ心地だろう。
突然塞に話を振られ、誠子は確かに困惑していた。
が、それも一瞬で、思い出した誠子はたどたどしい口調で答える。
誠子「あの事ですか?確認してきましたけど、確かに変でした」
誠子「今日、内宮の警備はいつも通りの配置のはずなんですが」
誠子「何ヶ所か見て廻ってきたけど、持ち場を勝手に離れている奴が多かった。軍じゃ絶対に考えられないですよ」
塞「………内宮でも絶対に考えられないよ。だからこそ、許せない」
今までで一番剣呑な塞の声。
吃驚して、思わず純は目を丸くしてしまった。
広くなった視界の向こうで、塞はまた女の妖魔に向き直る。
塞「使令殿。手を貸して頂きたい、事は一刻を争います」
『………それがあの方と、台輔のためになるのでしたら』
塞「必ずなりましょう。いえ、ならなければいけない」
塞「そのために私共は動いていますから。……純、誠子」
純「な、何だ」
突如呼ばれて純は慌てて返事をする。
塞は順番に視線を滑らせると、堅い口調で命じてくる。
塞「すぐに働いてもらうよ、けど相手は多い。ここにいる使令殿のお力も貸して頂くから、失礼のないようにね」
塞「私の権限で応援も掛け合ってみるけど、すぐには無理かもしれない。だから貴方たちが頼みだよ」
力強く言われた。まだ困惑から抜け出せない純の言葉が掠れる。
純「……一体、俺達に何をしろって?」
尋ねながらも自分たちにできることなど、この剣の腕ぐらいしかない事は分かっていた。
塞「本来、貴方たちに頼もうとしていた仕事をやってもらうだけだよ」
純「………」
塞「純」
改まって塞より名を呼ばれた。
まだ混乱している思考だったが、それでも彼女に意識を向ける。
彼女の鮮明な声が聞こえてくる。
塞「聞いたことはない?貴方たちは確かに直に拝見した事はないだろうけど」
塞「それでも、噂であれこの国の新たな王がどのような人か…少しは聞いた事があるんじゃない?」
純「………」
指摘された純は記憶を掘り起こしている。
そして、閃いた。
あれはいつだったか。……確かまだここに来る前に、そう。
理不尽に誠子と共に牢に繋がれたいた時に。
そこの牢番と交わした何気ない会話の中で聞いたような気がした。
ようやく立った王の話を。
あの時牢番はなんと言っていた?
確か―――年頃の少女であるらしい、と。
純「………!!」
純の脳裏に、茶色の髪の小柄な少女の姿が浮かびあがる。
符号が繋がっていく。
それに、咲は純に言っていた。自分もつい最近ここに来たのだと……
それはもしや、即位したから新たにここへとやってきたのだと、そう考えられないか?
まさか、と。
すぐには信じられず、純は塞を見返す。
塞「それを確かめるためにも純と誠子は行って」
塞「その方が真実そうだとしても、違うとしても…馬鹿な考えの奴らが内宮をうろついているのならば」
塞「私は内宰として、そいつらを処断しないといけない」
純「………っ」
返事をする前に、勝手に体が動いた。
純は握り締めていた剣を鞘に収め、踵を返そうとしている。
なぜなら軍にいた頃のピリピリとした空気を、肌が思い出しているからだ。
上官に命じられたのならば、純はそれを遂行せねばならない。
後ろに誠子が続く気配を捉え、前方には先導する妖魔が待ち構えている。
純は突き進みながら、短く答えた。
純「分かった」
思考が急激に冷えて、五感が研ぎ澄まされていく。
先程の話。
もはや相手も塞や憧に追い詰められて後がないのであれば捨て身だろう。
そしてその件にもしや……いや、もう確信に違いが。
純の知り合いである咲が関わっているというのなら。
塞「決して失う訳にはいかない」
塞「この疲弊した国がまたあの混沌とした時代に戻る事だけは…」
塞「なんとしても、阻止しなくては」
背中越しに聞こえた塞の声。
分かっている、そんなの………
純も絶対に御免だと思った。
■ ■ ■
一通り泣き切るとすっきりした。
頬に出来た跡を拭い、咲は軽くそこを手の平で叩く。
衝動も収まり、泣いて昂ぶっていた気持ちも落ち着いた。
これならきっと大丈夫だろう。
気遣ってくれた使令がここに戻ってきたら、立ち上がって菫の元に行く。
遅すぎるのは分かっている、今更だけど。
それでも腹を決めて話をしに行こうと思っていた。
それが、ここまで自分を…咲を支えてくれた半身に対するせめてもの礼儀だ。
罵られても、何を言われても受け止める覚悟はできている。
散々泣いて色々と吹っ切れた。
そんな時、ガサリと音がした。
不自然な葉同士が揺れる音だから、もしや使令が戻ってきたのだろうかと思った。
頬を覆っていた手のひらを離し、音がした方に顔を向ける。
そこに想像した使令の姿は無く、人が佇んでいた。
官吏「こんな所にいらっしゃいましたか。随分とお探ししました」
咲「………?」
ニコニコと人がよさそうに笑う、恰幅のいい官吏の姿だった。
咲があれ、と思ったのはその姿に見覚えがあったからだ。
咲「貴方は…」
確か、この前宮中で人に襲われそうになった自分を助けてくれた官吏ではなかったか?
声が届いたのだろう、反応を返すように官吏は目を細めると、恭しく一礼をした。
官吏「先日は、ご無事でようございました」
ニコニコ笑う顔が、本当に人の良さそうな雰囲気を醸し出している。
咲は「いえ、こちらこそ」と言葉を返したが……
何かが引っ掛かった。
まず不思議に思う。
なぜ彼は今、そこに立っているのだろうか?
咲ですらここが中庭のどこかも分からず辿り着いた場所なのに。
もしや、わざわざ自分を探していたのだろうか?
官吏「…お嘆きでいらっしゃたか。ご苦労されているのではありませんか?」
咲「あ、いえ…」
指摘されて、咲は慌ててもう一度目元の辺りを擦った。
大分涙の跡は引いたと思ったが、それでも見る人によっては気付いてしまうようだ。
僅かに頬を赤くして、何でもないと伝えようとした。
が、その前に官吏は続けて言ってきた。
官吏「しかし、これからはご安心下さい。私共めがお側でお力添えさせて頂きますので」
官吏「涙を流させるような事は金輪際ございません」
咲「え?」
思わず咲はぽかんとしてしまった。
何か、変な物言いではなかったか?
咲がそう思った瞬間。
突如、官吏の背後より複数人の足音が聞こえた。
それはすぐに木々を掻き分け、芝生を踏み締めながら姿を現す。
新たにやってきたのは10人程だろうか。
その誰もが体格が良く、着ている物も文官系の眼前の官吏とは違い厳つい印象を受けた。
尚且つ、彼らはなぜか全員、帯剣している。
官吏というよりは、宮中を守る守備兵なのではないかと思った。
やっぱり変だ。
そう咲が結論付けた瞬間、官吏の自信に満ちた声がした。
今回はここまでです。
見てくださってありがとうございます。レスももの凄く励みになります。
完結まであと2ヶ月弱ですが、よろしければ最後までお付き合い頂けると嬉しいです。
おつ
菫さん早く来てくれぇ!
あと2ヶ月で終わっちゃうのか…寂しいな
続きが気になるぅぅぅ!!
乙乙
待ち遠しくて何度も更新してしまったよ
俺は純さんに期待、菫さんは咲ちゃんに任せ過ぎ!
乙でーす
乙でした~
十二国記とか俺得過ぎて涙でそう。
続き待ってます
乙乙
純くんはよ
はよ!!
俺たちの戦いはこれからだEND確定じゃないか
やっぱりあっち書いてるからこっちは打ち切られるわけか
もうあっちだけに集中してくれよ、こっちが大作になるってワクワクしてた自分がバカみたいだわ
>>419
バカw
>>419のバカはほっといて期待してるから頑張って
667 名前:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage] :2014/09/28(日) 16:16:26.42 ID:4eeWZ/tXO
お前も荒らしてるうちの一人なんだがな
盲目の作者の淡咲スレは一度潰すし、
今度は十二国パロのスレにもいちゃもんつけ出すし
安価スレでは咲の名前ばかり出してやりたい放題で他のファンの反感かってるし
頼むから速報から出ていってくれ
668 名前:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage] :2014/09/28(日) 16:41:00.28 ID:qgRa2fepO
>>667
誰彼構わず突っかかってた奴だよね?お前さん
和咲が好きなのは分かったけど、SOAみたいなネタに突っ込んでる連中を全てアンチ認定で一色単にしてたけど自治気取るならそういうところ治してからにしなよ
和咲好きじゃなければ、他と咲が好きなら皆アンチで敵みたいな考えっておかしいでしょ?
669 名前:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage] :2014/09/28(日) 16:45:09.81 ID:4eeWZ/tXO
誰彼構わすつっかかってんのはお前だろ
なに人になすりつけてんだ池沼が
あと淡咲の作者と十二国パロの作者にちゃんと謝ってこいよ
このバカはマジで頭おかしいんだな…
俺得ssで嬉しい。
期待してる人はすくならずいる。
叩く人もいるけど是非完結させて欲しい。
同時進行だって、進行してればいいじゃない!
いやあっちだけでいいんだが
せめてこっちも和咲でやれば良かったのに
>>425
じゃああっちだけ追ってろよ
わざわざ書き込むことじゃない
だからこっちも咲和にしろって事だろ文盲
>>427
なんでお前の好みに合わせなきゃいけないんだよ、アホか
>>427
すっげえなお前
>>427
とりあえずお前はここの1が書く和咲ものが好きだって事はわかった。
もう和咲のとこにだけ張り付いて離れないでくれ。
和咲好きじゃなくただの荒らしだと思う
咲和じゃないスレで近ごろ見かける流れだね
咲和要求→叩かれる→頃合い見計らって咲和好きじゃなくて荒しだと断言
>>431
同意
本当に和咲好きなら向こうにもレスしてるはず
だけど向こうのスレでそんな形跡はないし
>>433
だから余計臭うけれどな、本当に好きな方は荒らさないという魂胆だろ
咲は陽子の前の王に似てる感じがして不安やったけど、咲自身の設定を考えたら勤勉家やしええよな。
他国の王や麒麟も今後書いてくれるなら歓喜やわ。
期待してます
むしろ他国を書くべし
洋榎のとこ見たい
もちろんこれがしっかり終わってから
そもそも一つ一つの国を最後までやるなら今年中には終わらないわけだが…
他国も見たいって人は途中で投げ出せって言ってるのか、それともおまけみたいに短編が欲しいって言ってるのか
官吏「私共は、お迎えに上がったのです」
言い切る声。それは反論を許さない圧力を感じさせた。
だからこそ先ほどの疑惑が蘇ってくる。
咲は従うべきではないと判断した。
何よりここを動くなと言われている。
使令が迎えに来るまで、他の誰とも咲は一緒に行きはしない。
そのための意思表示をする。
咲「結構です。私はここで供の者を待っているので、動くつもりはありません」
すると何故か官吏はうん、うんと頷く。
官吏「ええ、ええ。分かっております、あの恐ろしい台輔の妖魔の事でございましょう」
官吏「本当にいつの時も貴方の側に控えていて、邪魔で仕方無かった」
咲「…………」
官吏「こうして、僅かでも離れてくれる瞬間を待っていたんです」
官吏「折角顔を覚えて頂いたのに、貴方にはいつの時もあの小憎たらしい、融通の利かぬ台輔が」
官吏「またはその手の妖魔が付いていましたから。こうしてお一人になられる瞬間をずっと待っていたのです」
ニコニコ笑いながら言い続けているが、それは笑って言う内容ではない。
鈍い咲とて、これで気付けた。
徐に座っていた岩より腰を上げる。
自分でも不思議だが、驚く程鮮明にこの状況を把握し、官吏達と対峙する決意をしていた。
だって許せないだろう。
咲「随分な言い様ですが……私からすれば、彼女達にはたくさん助けてもらってます。感謝もしています」
咲「彼女達の事を貶す言葉、訂正して下さい」
はっきりと言い返す。
と、ようやく官吏の顔から笑顔が消えた。
変わりに随分と哀れんだ表情をされる。
官吏「騙されているのです、貴方様は」
官吏「だってあの者達のせいで、辛い思いをしていらしたのでしょう、ここで泣いていらっしゃったのでしょう?」
咲は変な所を見られたと恥じる。
だが気を取り直すと官吏に向かって、首を左右に振り否定した。
咲「違います。これは私の不甲斐無さが許せずに泣いていただけです」
官吏「そんな………王である貴方様が、そう畏まること事態がすでに可笑しいのです」
官吏「悩む必要はございません、何かに手を煩わす事も無い。貴方はこの国では誰よりも高い地位におられるのですから」
官吏「そのためのお手伝いをさせて頂きたいのです」
咲「必要ありません。私は、私を支えてくれる人達と一緒にこの国の事を考えていきたい」
咲「貴方の言っている方法では、まるで私は真綿に包まれて何も考える必要がない、虚像の王ではありませんか?」
官吏「…………」
咲の言い分は真っ当だ。
だからこそ、それを聞いた官吏の表情からは哀れむものすら立ち消える。
後に残ったのは無表情なそれ。
そして、その声も感情が抜け落ちたようだった。
官吏「やはりあの綺麗ごとばかりぬかす麒麟が選んだ王だ」
官吏「見た目もか弱いから、煽てていればこちらの意のままになると期待したが……もはや手遅れだったか」
先ほどとは正反対の態度。
おそらくこれが官吏の本性なのだろう。
咲「貴方達はなぜそこまで菫さんを、台輔の事を厭うのですか?彼女はいつだって誰よりもこの国の事を想って…」
官吏「それが綺麗事だというのです!」
官吏「正論を掲げて、その通り物事が進むのなら主上がおらずともこの国はここまで荒廃する事はなかったでしょう」
官吏「そして、それは私共にも同じ事が言える」
咲「……そんな。今からでも、心を入れ替えて」
官吏「できるはずがない。正規の王がいて、正道を進もうとする国でどう生きていくかも分からない。資格もないでしょう」
官吏「……様々に手を染めてきましたから。だから我々に逃げ道はないんですよ」
官吏「反抗的ではあったが今まで大人しかった内宰も扱い辛くなってきた。それにあの裏切り者のせいで司刑を担う秋官にも感付かれている」
官吏「こうなったら、もう最高権威である貴方を手中に収めるしか、私達には生き残る道がない」
咲「………」
咲は絶句する。
自分たちの保身だけに走る官吏の姿勢、それは身勝手と言い切っていい。
官吏「本当は、懐柔したかったのですが。……無理ならば」
そう言って官吏は背後の兵士から鞘に包まれた刀身を受け取る。
鈍い輝きが目に刺さった。
官吏が抜き取ると、背後の守備兵達も得物を手に取る。
普通の剣ではなくて、なにか細かな細工が施されたものだった。
官吏「王はもはや神と同等です。ただの武具では御身に傷一つ負わせられないでしょう」
官吏「でも、これはそんな不死者に対峙するための武具です」
咲「……冬器、ですか」
官吏「よく学んでいらっしゃる。それならば話が早い」
咲「私を脅すのですか?」
官吏「脅すだけにさせて頂きたいものです」
官吏「貴方が私共に組して頂けるなら………気に入らぬ台輔とて、いずれはこちらに従うしかないでしょうから」
麒麟は王にだけは逆らえないから、と官吏は笑う。
咲は眩暈を覚えた。
と、同時に今までの様々な出来事が鮮明に脳裏によみがえってくる。
こうして眼前の官吏と対峙した今、咲の胸中は悲しみに満ち溢れていた。
だって、話していて官吏の口からただの一度もこの国に対する憂いを聞くことはなかった。
ただその保身のためだけに彼らは動いている。
咲が脅しに屈して彼らに従ってもこの国は変わるのだろうか?
いいや、変わらないだろう。
むしろ天は咲を見放すと思う。
きっと、それでは咲が願った世界は永遠に訪れないだろう。
かつて陰の如く生きていた自分のような境遇の人を生み出さないためにも、
この国は彼らが捨てられない悪習を捨てて生まれ変わらなければならない。
そのために智美達や、半身である菫はこの身を支えてきてくれたのだから。
ならば彼女らのためにも咲が今、眼前の官吏達に言い返す言葉は決まっているだろう。
官吏「主上、どうかご一緒に」
冬器をちらつかせて、官吏が咲へと言い寄ってくる。
もはや脅しに違いない。
自然と咲の腹に力が籠った。
そして考えるよりも早く、反射的に唇が開く。
咲「お断りします」
多分咲はこんなにも明確に、相手に向かって意思表示をしようとしたことはないだろう。
それでも彼らに屈しないために、今言い切らねばならないのだと分かっていた。
身勝手な官吏達に組しろと脅されて。
それに対して「断る」と。
はっきりと力強い声で咲は言い返した。
官吏「………」
咲の言葉を聞いて、官吏は笑った。
もしかしたら彼は咲がそう答えるのを分かっていたのかもしれない。
そして咲が答えた事が次の場面へと移り変わる合図の一つでもあった。
官吏らが、目の前で冬器を構えるのを咲は見ていた。
■ ■ ■
塞との話し合いも随分前に終わり、今までその内容を自分の部屋で纏めていた。
それが出来上がったから携えて、のこのこやってきた訳だが。
あれから時間も経ってるし、報告するべき人物はきっといるだろう。
と、智美は内宮にある台輔の居室へと続く通路を歩いていた。
奥まったそこはまだ行き来する人の数は少ない。
正寝だけは、台輔である菫の権限で信頼の置ける者しか入れないようにしているからだ。
だから本心では守備の点でかなり不安は抱いていた。
信頼できる者だけになると、どうしても人手が足りないのだ。
まぁ、そんな心配は内宰の塞との調整が済めば今より安心できる環境にはなるだろう。
塞の言動と姿勢から分かるが、あの官吏は信用しても良いと思う。
そのための努力もしてくれている。
なにより信頼できる仲間ができるのは本当に有難いのだ。
一人で色々な事を考え続けるのには限度がある。
智美とてそのための努力を怠る気はないが、所詮、生身の体だ。
仙籍にいるとはいえ、疲れない訳もない。
それに今はまだいいがこの状態が長く続けば、いつかは判断に躓く時が来るかもしれない。
智美(それまでに、もう少し内宮自体を綺麗にできればいいんだが)
安堵してぐっすり眠れるぐらいになってくれれば尚良い。
うんうん、と一人頷きながら何度目かの通路の角を曲がる。
ふと視線の先に違和感を覚えた。
遠目だったが、それが何なのかすぐに分かった。
今までの思考が一気に吹っ飛んでしまう。
慌てて人気のない通路を横切り、違和感の正体元へと辿り着いた。
智美「ちょっ……!?菫ちん、どうしたんだ!!」
人気のない通路の途中で蹲っている菫の姿が見えた。
智美は手に持っていた荷物を足元に置くと、蹲る菫を助け起こそうとする。
そして気付く。菫を支えるために触れたその肩が小刻みに揺れている事に。
智美「…菫ちん」
一体何があった?
智美が問いかけた瞬間、支えようと伸ばした腕を反対に掴まれた。
そして今まで俯き加減だったその顔が僅かに上がった。
額や米神に脂汗が浮いていて、どこか朧気に智美を見上げる紫色の瞳は必要以上に潤んでいる。
菫「見つけ出せない……駄目だ、どこに……」
智美「え?」
聞こえてきた声は、断片的過ぎて智美はすぐに理解できなかった。
そんな智美の困惑などお構い無しに菫は言い募ってくる。
菫「さっきまで確かに目の前にいたのに。でも、消えた………」
菫「私は、探したいのに、胸が苦しくて……集中できない」
智美「……菫ちん?」
菫「――――王気を、辿れない」
風邪気味につき今回はここまです。
あと期待して頂いてる方には申し訳ないのですが、他国を書く予定はないです。
次はまた来週の木曜に投下予定です。それでは見て下さってありがとうございました。
おつ
うぐぉおおお気になるところで
風邪お大事に
おつ
お大事に
ぐおおおおお
そうか。残念だがそれはこの作品が仕上がるのを待つ楽しみを持てるからいいや。
乙
日曜日冷え込むかもしらんから気を付けて、悪化させないようにな
乙 咲さんやばい
菫さん復活はよ!
乙乙
最後の場面の時系列がいつかによるな
ちょっと前でありますように
待て。今何と言ったか。
ぶわりと額に冷や汗が噴き出る。
智美は顔を上げて周囲をぐるりと見渡す。
人気のない通路は先ほどと変わらない。
他者の気配も感じ取れなかった。
智美「………」
所詮人の感覚ではあるが足音一つ、物音一つ聞き取れないのなら近くに人はいないだろう。
果たして菫がこの状態になってからどれくらいの時間が経ったのか。
自分が菫と別れてから、今までの時間を考えるとかなり経っている。
動かなくては。
決意すると同時に、智美は今だ自分の腕をギリギリと掴んだままの菫に目を向けた。
智美「菫ちん、分かった。すぐに探す」
智美「必ず見つけるから、私の腕を離してくれ。手配してくる」
菫「………」
強めの言葉で言うと分かってくれたようで、
掴んでいた彼女の腕がゆっくりと離れていく。
そのまま再びそこに蹲るように顔を伏せてしまった菫に
「ごめん、もうちょっとここで待ってて」と言い置くと、
智美は屈み気味だった体躯を起こして踵を返す。
再び人気の無い通路を智美は急いで引き返した。
ここから一番近い詰所に駆け込み、そこにいた守備兵に事情を掻い摘んで話し指示する。
守備兵から官吏を含め、この正寝で働いている人々は信頼できる人間だ。
が、いかんせん数が少な過ぎる。
念のため自室に戻っていないかを調べさせたが、無人だったと言う。
探す範囲が広がった。
だが圧倒的に人手が足りない。
だからと言って外部に助けを求めるか?
いや、それこそ本末転倒だ。
以前の襲撃未遂事件の真相もはっきりと解明していないから、
むしろ更なる愚行を助長させてしまうのではと智美は危惧する。
それに、もしも今回も未遂で終わったしても
こちらの足元を見られてしまうかもしれない。
信頼の置けない奴に貸しを作るなどもっての他だ。
後に何を要求されるか分かったもんじゃない。
智美は指示を出し続けながら必死に考える。
せめて内宮から出ていないと思いたいが……
考えている間に、使いに出していた一人が戻ってきた。
智美「内宮の守備兵が、何人か消えている?」
所詮王と台輔の居住空間であるこの場所の話ではなかったが、同じ内宮での話だ。
守備面で落ち度があってはならないだろう。
なのに要所要所を守護するはずの兵士が数人、
持ち場を離れてしまって騒ぎになっているという。
智美「………?」
時機が悪い、というか。
こんな時に他の不安要素など抱えたくもなかったが。
内宮の大事であれば……と、ある人物が脳裏に浮かんだ。
内宰である塞ならば、その騒ぎの何かしらを知っているのではないか?
元々彼女は内宮の不安要素に頭を痛めていた。
手の内に余る事案があると言っていたから、協力し合えるかもしれない。
ついでに人手も貸してくれると大変有難い。
他を頼るよりかは、まだ信頼できる人柄でもある塞を頼りたかった。
先程戻ってきたばかりの使いの者を労ってから
すまないが、と今一度の使いを頼む。
快く引き受けてくれた姿に多少は励まされながら塞との取次ぎを頼んだ。
内宮で起こっている混乱の訳と、人手を貸して欲しいという旨だ。
それが済んでから、一度菫の元に戻る事にした。
本当は智美とて主である王の捜索に参加したかったが。
同様に麒麟の少女の事も心配だった。
なによりあの菫の状態を支え元に戻してやることこそ、
王を探し出す一番の近道にも思えたからだ。
その場の指揮を他の官吏に任せ、菫の元へと急いで戻る。
先に菫の世話をする女御を向かわせてはいたから、どうにか居室までは移動したらしい。
先ほどまで菫が蹲っていて、今は無人になった通路を突っ切り智美は彼女の居室へと辿り着く。
そのまま奥に進んでいくと……いた。
菫は用意された椅子に座ってはいたが、先ほどと状態は同じに見える。
蹲っていて両手で顔を覆い俯いてしまっていた。
その側には心配そうに女御が寄り添っている。
彼女は近付いてくる智美の気配に気付いたのだろう。
顔を上げてこちらを認識すると、少しだけ安堵したように表情を緩めた。
智美は視線で彼女に相槌を打つと、蹲るその姿の傍らに膝を落とした。
内なる衝動を抑え込むように顔を伏せるその姿、菫の肩は小刻みに震えていた。
智美「………」
智美は側に控える女御に、菫を落ち着かせるために温かい飲み物を持ってきてくれないかと頼んだ。
本当は彼女だって心配しているだろう。
でも聡い彼女は余計な事を言わずに頷く。
「用意してきます」と一言だけ告げて、女御は静かに部屋を後にする。
遠ざかって行く足音を背に、智美は穏やかな声を心掛けて菫に伝える。
こうも動揺が酷い菫に更なる負担を掛けたくはなかった。
けれど現状を変えるためにはどうしても彼女に伝えねばなるまい。
智美「主上を探すよう、皆に頼んできた」
菫「……っ」
顔を伏せたままの菫の体が大きく揺れた。
そんな彼女の様子を見つめながら智美は思う。
あの菫が、こんな気弱な姿を他者に晒してしまう程の決定的な行き違いが王と麒麟の間にあったのだと。
彼女にしてみれば、本来の麒麟としての能力を阻害してしまえるほどの事。
しかし第三者である智美にしてみれば、彼女らの行き違いは些細なものだった。
互いの事を尋ねても、互いを大事に想っているのは聞いていたし。
ただどっちも奥手で距離感を計りかねているのは少し気にしていた。
それでも歩み寄ろうとしている姿勢を知り、それをニヤニヤしながら見送っていたものだから。
きっと彼女らの誤解なんてすぐになくなるだろうと智美なりに楽観していたのだ。
自分は他に考えなければいけない心配事もあったし、溜まっていた仕事に忙殺されてもいた。
……なんて、この姿を前にしてみれば言い訳にしかならない。
少し自己嫌悪を覚えた。
が、頭を軽く左右に振ってそれを振り払う。
後悔するのは後だ 、彼女らを支えると心に決めたのだから。
今できる事をしなければいけない。
そして今、優先しなくてはいけないのは消えてしまった王を探し出して保護する事だ。
この国のためにも、それは急務だった。
故にこんな状態の菫には酷だとは思うけれど、智美は彼女に言わなければいけない。
立ち直ってもらわなければいけない。
仲間達は必死に王を探してくれている。
だけどそれよりも確実に辿り着く方法をこの麒麟の少女だけが知っている。
智美「必死に主上を探している。けど今の宮中は不安定だ、この前の事件の全容だって分かっていない」
智美「そんな中で探すのにも限度がある。私達はまだ人手が足りないんだ」
智美「なぁ、菫ちん。私が何を言いたいのかわかるよな?」
顔を覆う菫の手の中より、すぐに苦しげに声が聞こえてくる。
菫「……駄目だ、だってあの方の意志で……いなくなったんだ。私は……」
智美「それでも探さなきゃいけないんだ。…何があったのか聞かない。王と麒麟の問題だ」
智美「だけど何があったにせよ主上だけは守らなくちゃいけない。この国のためでもあるけど」
智美「なによりこうして苦しんでいる菫ちん自身のためにも、もう一度会って話さなきゃ駄目だ」
言い聞かせるように智美は言う。
けれど目の前の頭が左右に振れる。
できない、という仕草。
彼女は途切れ途切れに呟いた。
菫「………私はきっとまた間違ってしまう。いつも、こうだ」
菫「望んでいても、何もできない。麒麟だと持て囃されていても、私に誰かを救えた事があったか?」
菫「だからあの人も、あんな声を残して……私の前から消えていってしまった」
その詳細までは分かるまい、今の菫の状態ならば説明もできまい。
彼女は酷く混乱している。
けれど菫が言った情景が鮮明に智美の脳裏には浮かんだ。
やっぱり行き違いがあったのだろう、彼女の不器用さは折り紙付だ。
だから智美は素直に相槌を打つ。
智美「そうだな、菫ちん。私も今まで何回も言ってきたよな。どうしても菫ちんは相手に伝える言葉が足りないって」
智美「尚且つその無愛想も相成ったんじゃあ相手が誤解してしまっても仕方ない、委縮だってしてしまうかもしれない」
菫「………」
智美「でもさ。菫ちんがそうやって相手に言葉を伝えるのを諦めるようにしてしまったのは、きっと私達のせいなんだろう」
智美「私を含めたこの国も民も今まで随分病んでいたから。ずっと正しい事を言う菫ちんの言葉を聞こうともしなかった」
智美「だから……菫ちんは表情を失い、口数も少なくなっていった」
何をしても、言っても、無駄だと思わせてしまった。
智美は初めて菫を見た時の事を思い出す。
鋭い眼差しを周囲に向け、他者を寄せ付けないようにして佇む姿が鮮明に浮かぶ。
麒麟の癖にあんな冷たい姿勢へと追い詰めてしまったのは、紛れもないこの国だ。
智美「王と台輔の行き違いを生んでしまったのなら、それは菫ちん一人の責任じゃない」
智美「私を含め、この国全てに責任がある」
一人で抱え込まないでくれ、と智美は言う。
すると見つめる先の顔を覆う白い手が浮こうとする。
智美はそれを更に促すために彼女へと伝える。
智美「顔を上げてくれ、菫ちん」
智美「菫ちんが周囲に絶望して何もできないと嘆いても…それでも私達に、王という希望を与えてくれたじゃないか」
少なくともそのお陰で智美はこの国は未来を描けると知った。
生まれてこのかた、近場の役所の末端まで不正に塗れた国の姿しか知らなかった。
それが当たり前だと思っていた。
けれど違うと教えてくれたのは、紛れもない、それを正そうとしてきた菫の姿を見たからだ。
そんな彼女が、天意を得た王をこの国に与えてくれた。
見た目はか弱いが、菫と同じぐらい誠実で、努力を知る人だ。
そんな王を支えていくことができれば、智美の故郷にいる両親のように
真っ当に生きる人達が真っ当に評価される国へと変えていく事だってできるはず。
それは本当にすごい事なのだと智美は思う。
菫「…………」
目の前の俯いていた体躯が揺れた。
その顔を覆っていた手がゆっくりとした動作で降ろされる。
そして菫は伏せていた顔を上げた。
顔を向き合わせる形になったから見えた表情に、智美は思わず苦笑を浮かべてしまった。
泣きそうな一歩手前の弱々しい顔。
こんな姿も、他者を寄せ付けなかった菫の本来の姿なのだろう。
元来、麒麟とは優しい生き物だ。
この姿をどうか王であるあの人にも分かって欲しい。
孤高で、他人を寄せ付けない姿勢だけではないから。
所詮、彼女も神獣ではあるが、こんなにも人と変わりない。
きっと支え合わなければ生きていけない。
それはこの国も同じだったから……それができなかったから、今まで酷く歪んでいた。
智美「折角宿った希望を、希望だけで終わらせないでくれ。この国も、未来があるのだと信じさせて欲しいんだ」
智美「菫ちんにしてみれば、私らの言葉なんて今更虫が良過ぎるかもしれないけど」
見つめる先の、紫の瞳が細められる。
菫「………………いや」
掠れた声、続けて「そんなことは、ない」と。
首を左右に振ってくれた。
やはり麒麟だなと思う。
そんな姿に感謝を抱く一方で、このまま悠長に会話を続けていられない現実があるのも忘れていない。
彼女を気遣いながらも、今一度改めて頼んだ。
智美「なら、やってくれるか?」
菫「………」
いなくなってしまったという王の、その王気を麒麟だけが感じ取る事ができる。
確かに人手を上げて王を探してはいるが、もっと早く確実なのはやはり麒麟の導きだろう。
智美に言われ、意を決したように菫は赤くなった瞼を閉じた。
そのまま黙り込んで数秒、神妙な顔付きなっていたそれが、途中で不自然にぐにゃりと歪んだ。
智美「菫ちん」
思わず智美は彼女の名前を呼ぶ。
菫は片腕を上げると、自分の胸の上の辺りを搔き毟るように掴む。
智美「大丈夫か?」
心配して問い掛ければ菫は胸を抑えながらも浅く頷いた。
再び薄ら開いた瞼の向こうに、苦しみからか揺れる紫の瞳が見える。
菫「……怖いんだ、私は」
表情と同じぐらい苦しげな菫の声。
智美「?なにが」
問えば、菫はそのままに苦く笑う。自嘲気味と言っていい。
菫「お前は私をそんなにも買って言ってくれるが。そんなに褒められたものでもないんだ」
菫「見ろ……たかが一人に拒絶される瞬間が怖くて、この様だ」
智美「………」
菫「気高くも無い、むしろ浅ましい」
菫「……私はな。お前とあの方との遣り取り一つすら妬んでいた」
菫「だってお前は身構えたりされないだろう?あんなに気安く言い合えるのに…なぜそれが私にはできないのかと」
智美「菫ちん……」
菫「王と麒麟だ、誰よりも近いはずだ。誓約を交わした時に、私はそれが真実だと確信した」
菫「でも今は分からない…自信が無い。だってあの方は、お前やあの女のように…」
菫「私に、笑いかけてはくれなかったから」
羨ましかったのだ。無性に。
そう思った瞬間、胸の内が苦しくなったと言う。
今まで辛い事があっても氷のような心を確立させ、遣り過ごしてきたのに。
今回に限って、王であるあの人が絡む限り、それができないのだと菫は吐き捨てる。
智美にしてみればそんな彼女の姿は、麒麟と言う神獣ではなくむしろとても人間味に溢れている。
思わず感慨深く言ってしまった。
智美「菫ちんも、可愛い所があるんだな」
菫「……お前な」
気弱な声の中に、瞬時に剣呑なものが混じる。
智美は慌てて冗談、冗談!と誤魔化した。
少々落差が激しすぎやしないか?と智美はため息を吐く。
どうやらあくまでも菫を混乱させてしまうのは、良いも悪いも主である王なのだという言う話。
ならば智美は何をするべきなのか明白に分かった気がした。
気安い空気のまま、智美はあえて笑って彼女に言う。
智美「ならさ、今の菫ちんの本心を一度でも主上に言った事はあるのか?」
菫「……こんな情けない話、言えるはずが無い」
にべもない。ある意味今までの菫らしい態度ではあるが。
智美は首を左右に振って言い返す。
智美「情けなくない。それにさっき言ったよな」
智美「菫ちんはさ、相手に気持ちを伝える事に消極的になっていたんだろうって」
菫「…………」
神妙な顔付きになった菫は数秒の無言の後、短く「わからん」とだけ言う。
ならば智美は更に補足してやるまでだ。
智美「私は今までの菫ちんを見てきてそう思うよ。どうせ言っても無駄だろうって態度」
智美「でもさ、あの人は今まで菫ちんが見て、言葉が届かなかった人達とは違うから」
智美「麒麟に選ばれて、それに驕るでも無く、むしろ恥じないよう努力を続けていた」
智美「確かにまだ頼りないけど、いい人だ。まぁそんなの一番に見てきた菫ちんなら分かってるよな」
菫「私は……」
ぎこちない声。もしまだ否定する言葉を吐き出すようなら、と。
先手を打って智美は言った。
智美「諦めないでくれよ。今までは無駄だったかもしれないけど、これからは違う」
智美「言わないと伝わらない事はたくさんある。…今みたいに、たとえ行き違いがあったって」
智美「またその気持ちを伝えればいいんだからな」
菫「…………」
目の前で完全に菫は押し黙ってしまった。
だがその胸の上を抑え込むようにしていた腕が解かれ、降ろされる。
淡々とした仕草に智美は心配になって問い掛ける。
智美「……やっぱり言いたくないか?」
すると菫は確かに首を左右に振る。
菫「……お前の通りになったらいいな、とは思う。けれど私は、あの方に逃げられてしまったんだ」
智美「なら尚更追いかけて本心を伝えなきゃだめだろ?」
間髪入れずに智美が言い返す。
菫は僅かに目を見開いた。
そして今度は瞼を開けたまま、何もない宙を見上げた。
智美はその仕草に見覚えがあった。
王気を探す仕草だ。
今度は胸の痛みに苦しまずに集中できているようだ。
暫くの後、菫は徐に座っていた椅子より立ち上がった。
智美も彼女に倣って、床に付けていた膝を延ばして立ち上がる。
我慢できずに「どうだ?」と問い掛ければ。
菫は宙を見上げていた瞼を閉じて頷いた。
智美からは大丈夫、という仕草に見えた。
事実、彼女は言う。
菫「………行ってくる。伝えに」
そっか、と智美は破顔した。
つまり彼女は王の居場所を掴んだと言う事だろう。
と同時にどこからともなく声がする。
『その言葉を聞いて、安堵いたしました』
智美は慌てて周囲を見渡す。
先ほど退室した女御が帰ってきたのかと思ったが、彼女の声でもなかった。
しかし周囲には誰の姿も無い。
智美「……?」
頭を捻るがそれでも危機感を抱かなかったのは、
同じように声を耳にした菫が全く動じてなかったからだ。
彼女はむしろ聞こえてきた声の存在を把握しているようだった。
少し離れた床に視線を落としそこへと言い放つ。
菫「お前……戻ってきたのか」
『むしろ、お迎えに上がったと言った方が正しいかと思います』
その瞬間、菫が見下ろしている床の辺りが不自然に波打つ。
ぐにゃりと水面のように揺れると、そこから大きな獣の体躯が這い上がってきた。
さすがにその姿を見れば智美とて理解する。
聞こえてきた声は、妖魔だ。
しかも神獣である麒麟に仕える菫の使令に違いない。
完全に床の上へと這い上がってきた使令は頭を下げながら言う。
『台輔、まずはお詫びを』
『姿を見せず陰ながら主上をお守りするように命じられていたのに、その主命に背きました』
智美には意味が分からなかったが、聞いていた菫はハッとしたように蒼褪める。
菫「あの方の前に姿を現したのか?お前は以前…!」
『はい、伝えたのですが主上は構わないと仰って下さいました。以前の無礼もお許し下さいました』
『ですから、こうしてあの方の願いを台輔にお伝えしに戻ってきたのです』
菫「…願い?いや、あの方は今…中庭の方にいるのは分かっているが」
『ええ、ご安心下さい。今は長く使われていない奥の東屋にいらっしゃいます』
『あの場所なら庭師ぐらいしか知らないので安全です』
『無理にお連れしなかったのは、今まで涙を流しておられたので…』
菫「…っ」
菫が息を呑む気配が伝わってくる。
確かに動揺しても仕方がない。
不意打ちだったせいか智美とて胸が締め付けられる感覚を覚えた。
王である少女の姿が脳裏に浮かぶ。
あの朱色の瞳いっぱいに涙を溜めた姿を想像すると心がざわついた。
智美でもこうなのだから、案の定、菫の必要以上に堅い声が聞こえる。
菫「……私のせいか」
涙を流すほどに、あの方を傷つけてしまったのか。
だが対して使令は「誤解なされませんように」と言う。
『主上は今までのご自分を嘆き、ただ台輔の事を案じておられた。まだ間に合うのかと』
菫「……間に合う?」
『今まで言えなかった事を伝えて、聞けなかった事を聞きたいのだと』
『まだ間に合うのならば、台輔ともう一度話をしたいのだと主上は仰っておいででした』
菫「………」
菫は押し黙った。
が、今まで纏っていた緊張が薄れていくのはよく分かる。
思わず智美は笑いながら彼女に目を向けた。
智美「やっぱり主上と菫ちんとはどこか似てるな。同じ事考えてる」
智美「なぁ、行こう」
菫「……………ああ」
促す言葉に対して、素直に菫は頷く。
頷いて俯いてしまったからその表情までは見えなかったが、
髪からのぞく耳朶が赤くなっていた事には気付いていた。
さすがにそれには突っ込まないでいてやったけれど。
数秒の後、気持ちの整理がつき俯いていた顔を上げた菫は。
落ち着いた表情で「迎えに行こう」と告げた。
■ ■ ■
鞘の先を地面に押し当てて、誠子はそこに簡単な地図を書く。
大雑把な内宮を示したものだ。
出来上がりそうな頃に、誠子は傍らで憮然とした面持ちでそれを見守っていた純に言った。
誠子「本当に動くのか?台輔の使令をここで待ってた方が確実じゃないのか?」
誠子「あの妖魔も言ってたじゃないか。麒麟は王の居場所が分かるんだって」
純「…で、どのくらいで麒麟に確認して帰ってくんだよ、わからねーだろ。んな悠長な事してられっかよ」
純「第一、お前塞に言われて内宮の守備兵の配置確認したろ?」
純に言われて、地面に地図を引き終えた誠子は頷く。
誠子「まぁ、把握はしたな」
純「なら俺が言いたい事も分かるはずだ。…目星つけて、動いた方が速い」
吐き捨てるように言う純の姿に苛立ちが浮かぶ。
それを一瞥した誠子は諦めたように肩を竦めた。まぁいつもの事だ。
軍で卒長を務めるようになってからは分別を覚え、無謀は控えていたが。
元来純は喧嘩っ早いし、堪え性も無い。
だが勘はいいし判断力と行動力も優れている。
それで戦場において誠子は何度か命拾いもしていた。
こいつなら、本当に王の命すら救うかもしれない。
所詮、誠子とてここにやってきた時点で覚悟は決めている。
だから口では嫌々「仕方ない」と言いながらも、
喜々として手に持っていた鞘で再び地面を指し示した。
誠子「憧だっけ、あの官吏が言っていた人数とは多少の誤差はあるな」
誠子「ここと、ここと、こっちもだな。2~3人ずつ消えているのはなんでだと思う?」
純「……少人数で行動してんなら、何か探してるんだろ」
純は言い切り、誠子も頷いた。
索敵の際、敵に見つかる可能性も考えて3人が限度だ。
誠子「何を探しているのかは…明白だな。で、次に考えるのは奴らが動いている経路だ」
誠子「例え少人数で移動していても、最後に落ち合う場所が必要になるだろうし、それはどこなのか?」
誠子「なんて話だが、事は単純だ。こんなの全体の地図と兵士の配置さえ頭に入っていれば、おのずと予想は付く」
地面に架かれた地図の一か所に鞘の先を当てる。
誠子「まずは兵士が消えた場所は除外すべきだな。戻って来た報告もなかったようだし、何より周囲が異変に気付いて騒ぎ出した」
誠子「ここまで騒ぎが大きくなったんなら、奴らももはや目的を果たして奴らなりの保険を手にしなきゃ姿は現さんだろう」
純「…………」
誠子「王と台輔がいる正寝も除外だ。きっと他よりも王や台輔に対する警備の目は厳しいし、注目もされる」
誠子「そんなとこにわざわざ出向いて行く馬鹿はいない」
言いながら地図の要所、要所を鞘の先で潰していく。
すると、おのずと地図の空白の部分は限られてくる。
それを見ていた純は呟いた。
純「…守備兵も、意外と万遍無く配置してたんだな」
誠子「ほんと、長く干渉され続けた結果だな。“塞の苦労が手に取るように分かる”とあの官吏が言っていた通りだ」
誠子「まぁ軍も散々だったが、ここも似たようなもんだな」
誠子「主上がいなければ、きっと守備兵の失踪とて有耶無耶にされていたかもしれねぇ」
純「ヒデェ話」
誠子「違いない。しかし…塞の読みだが、奴らの目的」
誠子「肝心な主上が、本当に安全な場所を抜け出してわざわざ単独で行動していると…お前も思うのか?」
そっちの方が信憑性が薄いのでは?と、誠子は思う。
だって信じ難いだろう、一国の王が一人で歩くなどと。
軍にいた頃だって、将軍などは身辺を守護するために必要以上に兵を侍らせていた。
その光景が頭にあるから、誠子はどうにもしっくりこないのだ。
けれどそんな話をじっと聞いていた純は言う。
純「王って言っても、麒麟に選ばれるまでは普通の奴と何ら変わらねぇだろ」
純「ここでも軍でも、他人の苦労の上で踏ん反り返ってるようなツラの皮の厚い奴らとは…多分違う」
純「今の自分に対して失望もするし、これからの未来に不安だって持つ。それが一国を支える王となれば、尚更だ」
純「だってよ、悩んでて、できる事を探したいって言ってた。…ああ。だからあいつ、自信がないって言ってたのか…」
誠子「…?」
純の殊勝な言い様にも驚いているが何より、彼女の言葉の最後が気になった。
誠子に伝えるというよりは、まるで純自身に言い聞かせているように聞こえたからだ。
そういえば、誠子からすれば起こっている事件に対して断片的な情報しか入ってこない。
さっきの塞の執務室での出来事だって、なぜ妖魔は純を追って来たのだろう?
彼女らは何か言っていた。塞も純も、妖魔との話の筋は通っているようだった。
その妖魔は台輔の使いでもある。
誠子「……まぁ、いいさ。主上でも台輔でも恩を売れるのなら、私らの未来も安泰だからな」
軽い気持ちで言うと、純は顔を顰めた。
多分誠子の言い方が気にいらないという事だろうが、
結局彼女はその事に対してそれ以上突っ込んでこなかった。
ただ舌打ちだけすると、足元の地図を見ながら言う。
純「……万遍なく送り込んでいたとしたら、可笑しいな」
誠子が鞘の先で消して行った箇所を追っていくと、それが無い空白の部分がある。
不自然に見えた。誠子も同感だ。
誠子「きっと相手も死にもの狂いだろう。自分らの安泰を守るか、破滅するか」
誠子「主上の一挙一動、つぶさに誰かしらが監視していたのかもしれない」
誠子「なら守備兵が消えた箇所は、主上がそこにはいないのだと…奴らは分かっているからだ」
言い切ると、聞いていた純は地図を足の裏で消した。
そのまま誠子に走り出す合図を送る。
地図を描くために外していた剣の鞘を腰に差し直すと、誠子は頷いた。
地を蹴ると同時に、純が言う。
純「消えていない箇所の守備兵は、見張りだな。近くにそいつらが集まってると見るべきだ」
誠子は前を走り出した背を追い掛けながら、ふと思う。
短気ではあるが、やはり純は肝心な所では冷静に考えて行動する。
見えてはいないだろうが、誠子は頷いた。
誠子「ああ。それであの官吏が言っていた人数とだいたい合う。しかし、誰かはわからんぞ?」
守備兵の数も多い。その中から敵側である見張り2~3人にどうやって目星を付けるのかと問えば、
走る速度を上げながら純は当たり前の事のように言い放った。
純「ンなの、聞いて一瞬でも目を反らした奴に決まってんだろ!!」
誠子「…………」
王に剣を向ける奴らだから、叩けば後ろめたい反応があるはずだ、と。
迷いもなく純は言い返してくれた。
それを聞いた誠子は走りながらも唖然とする。
冷静だと思っていたんだが。まぁでも、言われてみればそれは正しいかもしれない。
ここに来る前までは考えた事もなかったが……先ほどの、塞の執務室での話。
もしも、だ。誠子自身が主上に剣を向ける立場になったら?と考えたら…
ゾワゾワと胸中が意味も無く騒いだ。
多分、戦場とはまた違った“怖い”という感覚。
だから自分ならできないだろうと思った。
する必要もないし、そんな気持ちになってまで無謀をしたくも無い。
なるほど、純の言った通りだ。
まだ愚王かも分からないと言うのに。
余程後ろめたい事をしてきた奴とか、追い詰められた奴じゃなきゃできないだろう。
思わず誠子は苦笑した。
誠子「それでいこう、ただし力み過ぎるなよ。すぐに切れるのも無しだ」
背中しか見えないのに、自分の小言に対する純の苛立ちが伝わってくる。
こういうのは長年の付き合いの賜物だろう。
ただ、返事が無い。
「純」ともう一度念を押すと彼女は観念したのか、
分かった!と乱暴な声を上げたのだった。
■ ■ ■
今回はここまでです。
次はまた来週の木曜に更新予定です。
乙
木曜まで楽しみに待ってる
主上は今どうなってるんだ…。
乙です
乙乙時系列逆で良かった
走れ純くん!急げ純くん!!間に合え純くん!!!
こっち優先っぽくて本当によかった……
というか、妖魔いないで主上は大丈夫なのか?
使令が先に扉を出て行く。
その後を追って、菫も部屋の外へと出た。
背後には付き従う智美の気配もある。
向かうべき所は決まっていた。そのための導も感じ取っている。
だが出てから数歩進んだ所で、目の前を歩く使令の足が突然止まった。
菫は何事かと思い先の通路を見る。
と同時に床の底から見知った姿が現れた。
人間の姿に酷似しているが、腕に羽毛を生やした半分は鳥のような女性。
自分に仕える妖魔だ。
そういえば彼女には数刻前に一人の女の素性を調べるよう命じていたはず。
少しだけ胸の痛みを思い出した。
それは自分がまだあの女の事を気にしている証拠だろう。
ならばこのまま歩きながらでも彼女の話を聞こうかと思ったが。
菫が迎える前に、彼女はなぜか性急な態度で近付いてくると口速く告げた。
『台輔、大事が起こったようです。今は急ぎ主上の安全を確保しなければなりません』
どうか、いらっしゃる場所をお教え下さい、と彼女は言った。
だが菫にしてみればまるで寝耳に水だ。
菫「何…だと?」
そうぎこちなく言い返してしまったのも、
菫なりに彼女の言った内容を正確に飲み込んでいなかったからだ。
そんな動揺は声と態度からも彼女に伝わったのだろう、すぐに簡潔に教えてくれる。
後を追った女は内宰である塞の手の者だった事。
内宰と知り合いの秋官から、夏官の一部に不穏な動きがあった事。
密告もあり、その裏付けを終えた今、夏官より内宮に配備されていた守備兵の一部が消えてしまった事。
同じように聞いていた智美が背後から声を上げる。
智美「!!……守備兵の異変は報告が来ていた、まさか、あれか」
続いて苦々しく呻く声がする。
そして意を決したように菫に向かって告げる。
智美「台輔、これは私達が思っているよりも悪い方向に事が動いている」
智美「主上を監視していた目はどこにでもあったんだ。それが今動き出したのは様々な要因が重なったから」
智美「わざわざ台輔である菫ちんに挨拶しにきていたから、本当なら長期的に私らを懐柔する事も考えていたかもしれない」
智美「でも予定外に起きた密告とそれに伴う塞殿側の重圧が悠長な選択を諦めさせた。奴ら、もう後がないと分かったんだ」
菫「……!!」
智美「そして何より……王と麒麟との仲違いにも気付いてしまった」
智美「だからまだ経験も浅い主上を抱き込む事に懸けたんだ。あいつら、何としてでもそうするつもりだ」
智美の語尾の強さにゾワリと悪寒が背を走るのを感じた。
『申し訳ありません。私が離れたばかりに』
話を聞いていたのだろう、傍らの獣の使令が自分に向かって頭を下げる。
が、それに対して菫は動揺に震えながらも頭を振った。
菫「お前だけのせいではない。私の浅はかさがお前にそうさせた」
言った言葉に痛感した。が、その動揺を飲み込むと菫は強い口調で使令達に命じる。
菫「お前たちはすぐに向かって、主上を守れ。中庭の奥だ、場所は分かっているな」
獣の毛並みを揺らした使令はすぐに了承する。
それに続くはずの女怪が、塞側の手練が途中で待機している事を告げるとそれに対して智美が対処すると言った。
智美「その者達には私の手の者を向かわせます、他にも応援も集めなくては。使令殿らは行ってください」
智美が言い終えると同時に、異形の姿達は地の底に消えていく。
菫の命じた通り、主を守りに行ったのだ。
見届けると、無意識に頭が上がった。
抱いた危機感より神経が研ぎ澄まされたのか、続いていく王気はすぐに掴んだ。
思わずそこに向かって菫は足を踏み出そうとする。
だが、一歩足を踏み出した所で後ろから伸びて来た腕に掴まれから歩みを止められてしまった。
智美「駄目だ、菫ちん」
どうして、そう思い後ろを向く。
視線が合った瞬間、智美は首を左右に振って言う。
智美「状況が変わった。今貴方が行ってもどうにもならないだろう」
智美「最悪血を見るかもしれないし……麒麟には辛い」
菫「……お前っ!!」
無意識に考えないようにしていた事を直に言われた。
怒りを抱いて相手を睨み付けると、智美は冷静な口調を崩さずにただ言葉を続ける。
智美「私になら幾ら怒ってもいい、でもこうなった原因も考えてくれ。要因はたくさんあるって言ったよな?」
智美「もちろん騒ぎを起こした奴らが一番許せない、自己中もいい所だ。そいつらは排除する、必ずだ」
智美「…けどな、主上と麒麟とがもっと分かりあっていたら、そいつらに付け入る隙を与える事も無かったかもしれない」
そう言い切った言葉にドクリと胸の内が波打つ。
まるで頭から冷水を浴びせられた気がした。
抱いたはずの怒りが急激に萎んでいく。
智美の言い分が正しいのだと分かっているからだ。
その動揺は顔に浮かんでいたのだと思う。
だから、智美は掴んでいた菫の腕を離した。
そのまま早足で立ち止まったまま動かない菫の前を横切ると、去る際にもう一度振り返って言う。
智美「さっき言った話の続きになるな、菫ちん。……素直になれよ。その言葉も気持ちも絶対に届くから」
菫「………」
智美「 大丈夫だ。必ず、無事にお連れする」
言い切ると、智美は再び背を向けて去っていく。
遠ざかっていく足音を聞きながら、菫はそこから動くこともできずに静かに瞼を閉じた。
集中すれば、今でもこうして感じ取れる王気に安堵を覚える。
確かに、そこにいる。
大丈夫。まだあの人は無事だから、こうして自分は感じ取る事ができている。
だから菫は一心に願う。
――――戻ってきてくれ
智美に言われた事を思い出している。
……そうだな、と今なら素直に頷ける。
脳裏にはぎこちなく笑う儚い姿が浮かんだ。
到底まだ王らしくない頼りない姿だが
菫にしてみれば自分の意義に対する許しをくれた、唯一無二の存在だから。
あの人の他に代わりなどいない。
だから必ず、自分の元へ戻ってきてほしい。
自分が本心を伝えるのが不慣れなのは分かっている。
上手くできないかもしれないが……それでも智美に指摘された事。
今度は諦めずにあの人に伝えたいと言葉と気持ちがあるのだ。
そのためにも絶対に、私の元に。
ただ、王である少女の帰還だけを一心に願った。
■ ■ ■
誠子は前方より聞こえる悲鳴の声を耳にしながら、たった十数分前の出来事を思い出している。
確か自分はこうなる事を心配して腐れ縁に忠告したはずだ。
力み過ぎるなよ。すぐに切れるのも無しだ、と。
全く、純の性格を考えれば的確な忠告だったと思う。
半分呆れた表情を浮かべ事の成り行きを見守っていた。
正直な話、もう奴を止める切欠を逃したと誠子は自覚している。
事の初めはまだ、純なりに抑えていたと思う。
だが勘だけは長けた女なのだ。
軍で変に揉まれたせいか相手に嘘をつかれたり、後ろめたい気持ちを持ってると嗅ぎつけるのだ。
だから何組目かの守備兵に声を掛け、2~3言交わした次の瞬間。
誠子が止める間も無く、純は目の前の屈強な兵士を問答無用で蹴り倒した。
誠子は唖然と見ていた。多分相手も一瞬の事で避ける暇も無かったと思う。
そのまま無駄の無い動きで倒れ込んだ兵士の胸の甲冑の上辺りに片足を載せると
純は体重を掛けて身動きを取れないようにした。
すぐ近くにもう二人の守備兵がいたのだが、急な展開に驚いてか彼らの反応は鈍かった。
純はその内の一人の胸元を瞬時に掴むと引き寄せて締め上げる。
くぐもった声が足元の悲鳴と一緒に周囲に響く。
誠子が手を出すでもなく、数秒の内に二人の兵士の身動きを封じてしまったものだから
残った一人が弾かれたように逃げ出そうとした。
すると、それまで蚊帳の外だった誠子にも鋭い声が飛んでくる。
純「オイ、逃がすなよ」
言われるまでも無い。
都合良く兵士達の背後は行き止まりだったから、逃げ出そうとした姿は自分の横を通らないといけない。
仕方ない、と誠子は緩慢な動作で脇を通り抜けようとした兵士に足払いをしてやる。
無様な悲鳴を上げて倒れ込んだ奴から見るに、体格は立派だが場数は踏んでいない兵士のようだ。
うつ伏せに倒れ込んだ兵士の首元を抑え込むと、
誠子「大人しくしてた方が良い、あいつは怖いぞ」
と親切心から忠告してやった。
案の定、目の前からは凄んだ声がする。
純「言い淀みやがったなテメェ。目も反らした。決定だ」
純「3秒だけ時間をやる、さっさと吐け。テメェらの仲間はどこだ?」
誠子「…………」
3秒か、奴が言い終わった瞬間、猶予は終わるな。
と哀れみを込めて誠子が眺めていると、殊更高い悲鳴が響き渡った。
ついでに鈍い音もしたから、多分あばら骨が数本圧迫され逝ったんじゃないかと想像する。
純は有言実行で、尚且つ今はとてもキレている。
手加減はしないだろう。
純が片腕で締め上げている兵士の呻き声はいつの間にか消え、泡を吹いていた。
これでもし人違いだったら笑えないが……責任は塞に取ってもらう予定だし深く考えない事にする。
それに、純は本当に勘はいいのだ。
瞬時に絞め上げたせいかもしれないが、彼らが逃げ出そうとした行動も怪しい。
誠子が抑え込む体躯がこうも震えているのは果たして純の暴挙を恐れてか。
それとも痛い所を突かれて動揺したせいか。
五分五分かな、と思った。
だから聞こえてくる悲鳴を背に、誠子は下に抑え込んだ兵士に向かってあえて軽い口調で言う。
誠子「なぁ、ああはなりたくないだろう?私はまだこうして優しいお伺いを立てているが……」
誠子「あっちの女は相手に情けを掛けないからな。きっと今締上げている二人が、吐く前に落ちれば次はあんたの番だ」
すると狙ったかのように純に床へと踏み付けられた兵士が苦痛の声を上げた。
追い込むのには丁度いい。事実、誠子の下の体躯は怯えるように震えが大きくなった。
誠子「もしあんたが関係ないというのなら、なんで言い訳もしないでそんなに震えてんだ?」
誠子「仮にも腰に得物差しといて、怖いとか情けない事言うなよ。まさか誰かに義理立てでもしてんのなら、もっとやめとけ」
誠子「どうせ、そいつは今日限りで終わる」
誠子「尚且つ私達は暴漢でも無いぞ。正規の、内宰の指示に従って動いてんだから」
兵士「……!!」
誠子「後に都合が悪くなるのはどっちかわかるだろ?」
誠子「あんたが僅かでもこの国に対して、主上に対してすまないという気持ちを抱いているのなら、すぐに全てを吐くべきだ」
誠子「よく良心に聞けよ。あんたに対する親切心で言ってるんだが、なぁ、どうだ?」
出来る限り情緒たっぷりに言い聞かせてやる。
すると、ぐしゃりと前方で床に何かが落ちた音がした。
確かめるまでもない。首を締め上げられ、泡を吹いていた男が床に沈んだ音だった。
白目まで剥いてる姿が見えたから、間に合ったら蘇生してやろうと思う。
全ては誠子が抑えつけている男次第だ。
純の踏み付けている男すら、多分こいつが吐かないと最悪死ぬかもしれない。
痺れを切らした純が踏み付けていた足を上げると、
倒れ込んだ男の顎を容赦なく蹴り上げるのが見えた。
……合掌しておこう。あれじゃ、暫くは何も言えまい。
だがそんな光景は誠子が抑え込む兵士を改心させる切欠にはなったようだ。
すぐに訪れる純という厄災に絶望してか、または良心が疼いたのか下から掠れ声が上がる。
兵士「俺だって嫌だったんだ!…だけど今更、逆らえるはずもない、だから……!」
誠子「………ほぉ」
意外と呆気なかった。
やはり軍で叩き上げた奴らとは違い、ここに送られてくる兵士なんぞは少し柔い気がする。
純に落とされた奴らは不可抗力だが、誠子が抑えつけた奴なんかは指一本失っていない。
こいつら体格は見劣りしないが、いかんせん根を上げるのが早すぎる。
王を守るべき輩がこうでは有事の際は不安を覚えるだろう。
なるほど。塞の不安はもっともだ。
これを機にこうした不安な輩は一掃してしまった方がいい。
感慨深く誠子が思っていると、カツンと足音が響いた。
意識がそちらに向かう。
床に倒れ込んでいる兵士らはピクリとも動かない。
それらを背に、怒気を纏った純が近づいてくる。
自然と、誠子は下に抑え込んでいた男を解放した。
だが自由になったはずの男は倒れ込んだまま何事かを一生懸命に呟いている。
自分は悪くない、だとか。仕方なかったんだ、とか。
そんな男のすぐ側に辿り着いた純は、徐に片足を上げた。
一瞬止めようかなと思ったのは、純が切れているのが分かっていたからだ。
冷静な思考ではない、だから折角の手掛かりまで潰されちゃ本末転倒だと誠子は危惧した。
しかし誠子が制止の腕を延ばす前に純は動いた。
ダン!
上がった足が勢いよく降ろされてしまう。
その衝撃で床が揺れたのを感じた。
この一撃を喰らったとしたら無事では済まないだろう。
事実、先ほどまで聞こえていた男の錯乱した声がピタリと消えてしまっていた。
やっちまったか……そう思いながら誠子は衝撃の発生源に目をやる。
すると意外にも男の五体満足な姿があった。
だがその目を極限まで開いた顔は恐怖に染まっている。
それもそのはず、男の顔面擦れ擦れに純の足首が覗いている。
少しでも狙いがずれれば男の頭部の骨は粉々になっていただろう。
男も想像しているのか、顔面に冷や汗が噴き出している。
そんな男に向かって冷たい声が降った。
純「いらん事をぺちゃくちゃと耳障りったらありゃしねぇ。誰がテメェの情けねぇ言い訳なんぞ聞きたいと言ったかよ、あ?」
純「ただ、尋ねた事だけを簡潔に吐け。もう一度だけ聞いてやる、テメェらの馬鹿な仲間はどこだ?」
また場違いなことを抜かしたらその顔面、轢き殺してやる。
と最大級のドスをきかせた声に男は震えあがった。
誠子にしてみれば、そんな純の暴挙に対して突っ込みどころが満載だ。
相変わらず卒長までいったくせにガラが悪いな、とか。
意外にも相手から情報を引き出すための理性は残っていたのな、とか。
轢き殺すとか言ってるけど、わざわざ馬でも引っ張ってくんの、とか。
背後の兵士二人、まだ生きてんのかよ、とか。
ただそんな脳内に駆け巡った突っ込みを吹き飛ばすかのように、純に脅された男は泣きながら叫んだ。
兵士「言うから!……奥だ、今は使われていない中庭の、奥!」
誠子は口笛を吹く。
対して純は屈むと、倒れ込む男の首元を掴んで有無を言わさず持ち上げた。
足元が震えているせいか、立たせた男はよろめいたがそれを睨みつけて純は檄を飛ばす。
純「手を離すが、倒れんなよ。喜べ、手前のなけなしの良心を救ってやる」
純「主上に対して申し訳ないと思う心が残ってンなら、お前が死に物狂いで走って、俺をそこまで案内しろ」
今すぐにだ、と押し殺した声を受け、震えていた男の足がピンと伸びた。
誠子「………」
ただブチ切れているだけかと思ったが、男一人の口を割らせた手並みは賞賛できる。
そんな純の行動を端から見守っていた誠子も徐に立ち上がった。
取りあえず自分の行動は背後の倒れた兵士達の蘇生からだろう。
宮中を騒がせた敵ではあるが、後ほど今回の騒動について証言もしてもらわねばなるまい。
ただ、純は先に行くだろうとは思った。
言葉が無くとも互いの役目は理解している。
眼前で脅された男はハイッ!と上擦った声を上げると、
純を案内するために一目散に駆け出したのだった。
■ ■ ■
すぐに茂みを利用して逃げ出したのは正解だったと思う。
だけど多勢に無勢だ。
案の定、逃げ込んだ茂みの向こうから木々を掻き分ける音と衝撃とが伝わってくる。
ここで息を潜めていてもいつかは見つかってしまうだろう。
咲は腰を低くしたままに地面を這って移動し始めた。
仙籍に入ってから自分がどう変わったのか余り自覚はなかったが。
こうして動き廻ってみて以前とは違い、疲れ易さからは遠ざかったような気がする。
息は切れているが、走れる余力はある。
これが不老不死の一環かもしれないが、背後から迫ってくる凶器に好き好んで挑もうとは思わなかった。
口にして脅されただけだが、彼らは冬器という特殊な武器を持っている。
学習した限りでは、不老不死である仙籍さえ滅する呪具だ。王も例外では無い。
それを持った彼らに捕まったらどうなるだろうか。
彼らの前から逃げる直前に、はっきり断ると叫んだ手前。
もはや向こうも穏便な対応はしてくれないだろう。
事実、背後から迫ってくる気配には殺気が滲んでいる。
脅されるか……最悪、屠られるか。
遅くなりました。今回はここまでです。
次は来週の木曜に更新予定です。
待ってました!乙
乙です
取るに足らない疑問なんだが、どうして王は照じゃないんだ?麒麟が菫なら主上は照だろ
照は主役の器じゃないからね、仕方ない
乙です
来週で一区切りつくかな
乙です!
おつ!
乙です
照だと何の葛藤もなく普通に王やってそう
じゃあ照でいいじゃん
照ファンのウザさは異常
咲姉は別の国の王なんじゃね?相方は以外にも和とか。
久は麒麟っぽいイメージだな。
王といえばシズは?咲よりは王っぽいよね
てかなんで咲なんだろうな
一番ありえんわ
原作の咲ぶさいくだし性格屑だし
平気で民を奴隷のように搾取しそう
照の出番がないから荒ぶってる照ファンに草
照やシズや慕という主人公がいるのに咲とかいうろくでもない奴を主人公にするとか…
咲豚は少しは自重しろよ
それぞれの好きなキャラいるだろうしさ
あんまり貶すの止めときなよ
イッチだって意図があって主人公に置いてるんだろうしさ
それぞれ好きなキャラいるだろうしさ
貶すのはやめよーぜ、見てて楽しくないし
イッチも意図があって主人公に置いてるんだろうしさ
連投すまぬ、文章変わってるけど
楽しみにしてるスレなのに
なぜいきなり荒れてるんだ
そんなん他キャラ下げる咲厨が煩いからでしょ?せっかくここで主人公にしてもらえてるのに態度でかすぎ
イッチ(笑)
Jカス視ね
咲を貶めてる人達が原因なのに咲厨が煩いからってそりゃ通らんよ
キチガイはスルーで
久が麒麟だったとしたらきっと、異端な麒麟として扱われそうな気がする
こういう流れ無視して淡々と投下してくれる1が好きだ
お肉食べたいとか無茶苦茶言いそうwww久
で豆腐を肉に見立てた料理が流行るんですね分かります。
でもそうなると照を日本から連れてきた方がいいよな、ストーリー的には。
咲とは違った、それはそれでいい王になるんだろな。
そうそう、やっぱり照だよ。
咲とは比べもんにならんよ。
>>522
そうそう、やっぱり照だよ
ということで照が主人公のssでも書いていて引っ込んどいて下さい^^
咲なんかと比べるのは他キャラに失礼だろ?
応援してます
>>525
お前どこの作者?
あえて酉つけてるけど宣伝かなんか?
一瞬想像してしまったが、眼前の茂みが途切れる現実に気付いて余計な事を考えるのをやめた。
意を決して途切れた茂みから飛び出すと、向こうに見えた石の土台の影に身を滑らせた。
背後から喧騒は聞こえていたが、どうやら一瞬姿を現した自分には気付かなかったようだ。
土台の影の周囲より死角になった場所で身を屈んで腰を落とすと一息付く。
どうやらここは今は使われていない東屋の石の土台部分で、
咲はその裏側にできていた窪みに上手い具合に収まっている。
聞こえてくる声に緊張しながらも頭を少しだけ出して辺りを見渡す。
先ほどまで咲がいた茂みの向こうに複数の人の気配を感じた。
反対側に逃げられないか探るが、この場所から建物へと続く道筋に新たに数人の人影が見えた。
多分自分がここに来てしまったのは相手側にしてみれば幸運だったのだと思う。
今は使われていない、人気の無い庭の奥地だ。
逃げようとすれば建物を目指すしかなく、そこまでの要所要所にうろつく人の影が見えている。
自分を探しているのは明白だ。
咲は自身の危機管理の無さを呪う。
菫の使令である妖魔の事を思い出す。
あの場所を動かないでと言われていたのに咲は破る形になってしまった。
不可抗力ではあるが、約束を破ってしまった事には変わりない。
ふと緊張からか額を伝う汗に気付いた。
片腕を上げてそれを拭った後に、腕を降ろした過程で咲は気付く。
地を這うように移動してきたせいか手の平は酷く汚れてしまっていた。
土気色の両手を見比べ、今こうして息を殺し、周囲に気付かれないよう身を潜めている自分に気付く。
こんな時に。……場違いではあるが、咲は懐かしいと思った。
ここに来る前までは、こんな風に商家の主人に怯え、息を潜めていた頃があった。
そのまま汚れた両手をゆっくり握り締める。
だが握り締めた拳を額に当てるように蹲った瞬間、
ふと何かを感じて咲は閉じていた瞼を開けた。
少し向こうからは相変わらず自分を探す喧騒が聞こえる。
だから、その声らに反応してしまったかと思ったが……違う。
蹲りそうになっていた上体を起こすと、
感じ取った何かを確かめるために顔を上げた。
咲「…………」
多分、呼ばれた。
誰に?……今まで必要とされた事もなかった自分を。
そう思った瞬間、また呼ばれたと思った。
怪訝に思う……が、すぐにその声が誰のものなのかを悟った。
不思議だが絶対にそうだと確信した。
無意識に咲は呼び返す。
咲「……菫さん?」
頼りない声になった、だけどきっと当たっている。
脳裏に咲が出会ってから今まで見てきた、あの毅然と佇む姿が浮かぶ。
だから、咲は気付くのだ。
家族のいない自分は、ずっと誰にも必要とされていなかったかもしれない。
自分の声など届かないのだと信じていた。
それを寂しいなと思った過去は確かにあった。
だけど、それは違うのだと……脳裏に浮かんだ姿が咲に教えてくれる。
だって彼女は咲を見つけてくれたではないか。
必要だと言ってくれた。
今もこうして、自分の事を呼んでくれている。
その事がどんなにか折れそうになる自分を支えてくれているか、きっと菫は知らないだろう。
そうだ、今の咲は自分自身しか無かった頃とは違う。
必要だといってくれる人がいる。
不思議な感覚だった。
自分を呼んでくれる声に応えるように、蹲りそうになっていた背が伸びる。
怯えて俯きそうになっていた頭が上を向く。
咲は行かなければいけない、自分を必要だと言ってくれた半身の元へ。
あの姿に伝えたい事がある、聞きたい事もたくさんあるのだ。
その事に、先ほどやっとで気付けたのに。
折っていた膝をグイと伸ばす。
こんな所で蹲ってはいられない。戻らなければ。
立ち上がった瞬間、周囲に広がる茂みが激しく揺れた。
葉が落ち、木々が折れる音と共に荒々しい足音が複数、雪崩れ込んでくる。
殺気立った男達が取り囲むように立ち塞がる。
その各々が握る刃の鈍い輝きが見えた。
ただ、咲は自分が思う以上にこうして対峙する暴漢達を目の前に取り乱さずにいる。
ぐるりと殺気立った顔らを見渡すとその中の一人が言った。
官吏「ここまでですな」
恰幅の良い官吏の姿だ。
自然、彼へと視線を向けた。
官吏「もはや後はございませんぞ」
確かに咲の背後には石の土台があって後ろには逃げられない。
また周囲には凶器を持った男達が立ち塞がっているから四方八方、逃げ場はない。
それを冷静に理解した頃に、また官吏の声がする。
官吏「主上の事を今まで誤解していたようです。……もっと、か弱い方かと思っておりました」
こうして取り囲まれても取り乱さない咲を見ての感想だろう。
だから咲も自然と頷く。
咲「私も、そうだと思っていました」
官吏「ならば私共が怖くはございませんか?御身を損なう武具で、こうして迫っているのですよ」
咲「そうですね。以前の私なら、きっと蹲って震えていたでしょう」
咲「嵐を理不尽だと決めつけて、それが通り過ぎるのをひたすらに待っていたと思います」
官吏「……諦めて自暴自棄にでも成られたか?それならば先ほどの私共めの案を呑んでは頂けないでしょうか?」
官吏「なに、決して御身を悪いようには致しません。むしろ外の嵐が怖いと言うのであれば…」
官吏「主上には安全な場所にいて頂いて、御身を煩わせる雑務などは私共が責任を持って変わりを果たしましょう」
咲「………」
官吏「主上」
催促する声は焦りに満ちている。だから咲は彼に尋ねた。
咲「それで、今までと何かが変わるのでしょうか?」
官吏「変わりません。変わらせないために、こうして主上にお願い上がっているのです」
官吏の言葉を受け、咲は深く理解した。
理解したから、その提案に対して咲は首を左右に振るのだ。
そしてはっきりと宣言する。
咲「貴方達が望むのは以前と同じ、王がいなくてもいい…貴方達にとって都合の良い国を続けていく事」
咲「なら例え貴方達に付いて行っても、私は前の無力な自分と変わらないでしょう」
官吏「………」
咲「それでは意味がありません。だから私は、ここで私を必要としてくれる人達の所に行きます」
咲「その人達が苦しみながらもずっと目指してきた国をつくる為に……」
咲「私はこれから、王としての役目を果たします」
言い切った。尚且つ言い終えた瞬間に咲自身も自覚した。
だからこうして凶器を向けられた中であっても怯まずに顔を上げている。
咲が迷いも無く言い返した事に少なからず彼らは驚いたようだ。
首謀者であろう官吏は真っ向から反論されたからか顔が蒼褪め、体躯は小刻みに震えている。
周囲に広がる兵士達は、咲に剣を向けながらもその切っ先は生まれた迷いからか揺れていた。
彼らは今までの咲の見た目や控え目な態度上、此度の王はか弱いと侮っていた。
だが咲は凶器を向けられても取り乱さず真っ向から反論した。
その姿勢に、彼らは動揺したのだ。
取り囲む周囲をゆっくりと見渡すと、咲は歩き始める。
できた人の壁の薄い箇所に目星を向けてそこへと突き進む。
向けられる切っ先、それを構える兵士に向かって咲は言う。
咲「通して下さい。私は行きます、私を呼んでくれる人の所へ」
切っ先は向けられたままだ。
それでも咲は前へと歩みを止めない。
だから必然的に、それは突き刺さる事になるだろうが……直前で兵士側の声が上がった。
怯えた声。突き刺さるはずの凶器が地面に落ちた。
当の兵士本人は咲を前に仰け反って倒れ込んでいる。
異様な光景だった。
武器も何も持たない儚い様相の少女を前に、屈強な兵士一人が怯えて地に倒れ伏している。
周囲を取り囲む兵士にもその異様な空気が広がっていく。
誰一人、凶器を握りながらもその場から動こうとしない。
咲からすれば自分の進むべき先を阻んでいた壁は崩れた。
なら、宣言通りそこを通って行くだけだ。
倒れ込んだ兵士の横を、咲は静かな足取りで通り過ぎて行く。
官吏「……ま、待てっ!!」
この場を包む異様な空気に逆らうように、裏返った声が響く。
咲が確かめるまでも無い、蒼褪めた官吏の声だ。
が、その声に反応する義理は無い。
咲は前へと突き進む足を決して止めない。
去ろうとする咲の背後から声が続く。
官吏「お前達!何をしているっ…丸腰相手に、早く捕えろ!はやく、はやくっ!!」
背後を振り向かない咲でも、その官吏の声に反応しようとする他の兵士の気配は感じ取れない。
動揺に震える官吏の声は要領を得なくなっていく。
官吏「どうして、なぜ従わない」
官吏「あの方をここで逃がせば、私たちは破滅だ」
官吏「こんな騒動も起こしてしまった、もはやいくら金を積んでも無理だ、揉み消せない」
官吏「ハハハ、破滅か……私が、私が」
動揺が困惑へと変わり、聞こえてきたその声の質が突然変わった。
官吏「………ならば、いっその事」
さすがの咲も異変に気付く。
前を進む足を止めると同時に、急激に背後に迫る気配を感じた。
ゾワリと背中に悪寒が走った。
地面を駆けてくる音、背を向ける咲に接近する気配は風圧を伴って襲い掛かる。
思わず振り向いた。
恰幅の良い体躯が剣を振り上げる光景を、咲はゆっくり見上げていた。
感情が突き抜けどこか壊れてしまった表情。その官吏の声がする。
官吏「主上…貴方のいない国に戻ればいいのです。そうすれば何もかも元通りだ」
振り下ろされる刃は一瞬で咲を襲った。
首の付け根から胸部にかけて走る一筋の線。
え、と思う間も無く、続けて目の前に赤い何かが散った。
咲「………ぅっ!!」
くぐもった声が勝手に口から出た。
そのまま唇を噛みしめて耐えると咲は腕を上げ、
体躯を庇うように抱きしめる。
遅れて痛みがやってきた。
地面へと仰向けに倒れようとしていた体躯をどうにか押し留める。
だけど腕で庇うようにした体躯の内側からジワジワとした熱と痛みとが咲を苛み始めた。
顔を顰めながら、半分狂ったように宣言する官吏を咲は見上げる。
彼は間合いの向こうで、切っ先が血で濡れた剣を掲げながら声高々に叫んでいる。
官吏「見たか!!怯える必要などない、私達には冬器がある!王とて、絶対ではない…!!」
その声と、傷を庇う咲の姿を見て、今まで怯んでいた周囲の兵士たちの空気が微妙に変化する。
官吏の狂気に引き摺られているのか、それとも王が絶対ではないというその言葉に賛同したのか。
先ほどまで王を前に怯んで下げていた兵士達の切っ先がまた上がり始めた。
官吏「貴方さえ、いなければ。王さえいなければ、以前のように」
もはやそれが使命のように官吏は謡う。
そして、血で赤く濡れた切っ先を再び咲に向けた。
苛む痛みと熱とで乱れそうになる呼吸を整え、咲は逃げ道を探す。
絶望的な状況ではあったが、それでも最後まで諦めたくは無いから。
ここで倒れる訳にはいかない。
折角自覚した事を、咲は何一つ、大切な人に伝えていないのだから。
官吏「残念です、主上。私達は分かり合えなかった」
声に導かれるように周囲の兵士も凶器を手に迫ってくる。
目の前の官吏が再び血に濡れた冬器を振り上げようとしていた。
咲は意を決して地面を蹴り、避けようとした。
その行動らが一斉に動き出す直前。
突然、咲の視界が不自然に翳った。
咲「……?」
気のせいでなければ、何か人の悲鳴のようなものも聞こえていたかもしれない。
ただ咲の視界一杯に大きなものが飛んできて……
今まさに、目の前で冬器を振り上げようとした官吏に直撃したのだ。
官吏が上げた短い悲鳴と一緒に、ドスン、と重い物が落ちた鈍い音が響く。
その衝撃で周囲の地面も微かに揺れた。
咲「………え?」
咲にしてみれば肩透かしを喰らったようなものだ。
迫ろうとしていた強行は狂気の官吏の姿共々、突然消えてしまった。
思わず咲は追うように地面を見下ろす。
そこには、恰幅の良い官吏を下敷きにしている体格の良い兵士の姿がある。
なぜ、兵士が突然空を飛んでくるのか?
咲の脳裏に当たり前の疑問が浮かんだ。
だがそんな疑問を浮かべる咲の視界がまた不自然に翳った。
地面を見下ろしていた顔が自然に上がる。
すると、今度こそ咲には見えた。
先ほどまで咲が隠れていた石の土台の上……そこから飛び降りてくる人影が。
丁度咲と迫ってくる兵士たちの間に飛び降りた軽快な姿は、その余韻を残す事なく俊敏に動き出す。
腰に差していた鞘から刀身を抜くと、地を蹴って一番近くにいる兵士の一人を躊躇いもなく切り捨てた。
倒れた兵士は悲鳴を上げる暇も無かった。
故に周囲にいる兵士達は凶器を手にしたまま気付いていない者も多く、反応が遅れていた。
指揮系統だった官吏が地面に沈んだことも助けになっていたのだろう。
突如現れた人影は二人、三人と兵士を切り捨てていくと、真っ直ぐに咲の元へと走ってくる。
その頃には周囲の兵士達も異変に気付いたようだ。
現れた人影に殺到するか、または咲へと兵士らは迫ろうとしている。
だがそれよりも何よりもまず、咲は真っ直ぐに自分の元へと走ってくる姿を見て驚いていた。
あの女性の姿を咲が見間違えるはずもない。
駆けてくる彼女との距離がどんどん縮まる。
思わず、咲は口を開けた。
咲「どうして、純さ……っ!!」
その言葉は途中で途切れた。
とうとう距離がなくなって咲の元に辿り着いた純は、一瞬屈むと有無も言わさずその肩に咲を担いだ。
咲にしてみれば体が折り曲げる形になるから負った傷に響いて、思わず痛みで顔を顰めた。
すると聞き知った声ではあったが、そのどの時よりも真剣な声が返ってくる。
純「少しの間、だ。ここを切り抜けるためにも両腕は使えねぇ」
そう言いながら彼女が利き腕に振る刀身が見えた。
咲「……純さん」
間違いない、だけど返事の代わりに彼女は言う。
純「喋るな、揺れるから」
強い口調で言われ、咲はぐっと息を呑み込んだ。
その動作が伝わったようで、純は咲を担いだまま、迫る兵士達を背にし再び走り出した。
■ ■ ■
今回はここまでです。
次はまた来週の木曜に更新予定です。
乙です
乙
純くんがカッコ良すぎて痺れた
乙
これで主上が咲じゃなければな
咲さん強くなったな
乙
咲特有の強さだよな
てっきり純ちゃんが兵士全部やっちゃうかと思ったんだけど、走って逃げちゃうのね
咲ちゃんも純くんもかっこいいわ
おつおつ
一瞬、剣の柄を持ち直して、それを強く握り締める。
純にしてみれば程よく手に馴染んた刀剣の重さだ。
誠子程マメではないが、手入れは人並みにしている。
思い返せばこいつとも随分長い付き合いになった。
こんなご時世だが、たまたま新調した時の刀匠が優れていたお陰で
散々血糊を浴び、骨を断ってきたが刀身は刃毀れ一つ起こした事がない。
だから軍に在籍していた頃であれ、出奔した後であれ有事の際に純は一番に握り締めてきた。
今回も同じ。大丈夫だ、いける。
地面を蹴って駆ける。
背後から罵声が聞こえた。
今し方2~3人を切り捨てたが、あれは不意打ちだったから苦もせずやれたのだ。
軍よりも柔い奴らだとは思うが、それでもあの体格と残っている人数を考えれば純一人で対峙するべきではない。
短気ではあるが、純はそれで無謀に走ったりはしない。
冷静に状況を把握する。
最優先は、今この包囲網より抜け出す事だ。
人がいる所へ辿り着けばいい。
建物の中へ逃げ込めれば、こいつらとは関係ない守備兵とも合流できるだろう。
時間も余り掛けたくはない。
そう思った瞬間。進む先に段差があったせいで純は地面を殊更強く蹴った。
反動で飛び上がり着地はしたが、そのせいで体が大きく揺れた。
すると噛み殺した声が至近距離からする。
純は人一人を担いで走っている。
しかも彼女は怪我も負っているから、きっと今の声は振動で響いた痛みを噛み殺した声だ。
無理をさせていると分かっている。
本来ならば怪我をしているのだしこんな窮屈な姿勢を強いるべきではない。
それでも、彼女を死なせたくないから純は無理に担いででもここを抜け出すために走っているのだ。
だが、それを阻むかのように背後から殺気が迫ってくる。
荒々しい複数の足音も、先程、距離は稼いだ。
本来の身軽さがあれば逃げ切れる。
だが今の純は人を担いで走っているから、追い付かれるかどうかは微妙だと思った。
すると新たな問題に気付く。
向かう前方から敏感に人の気配を感じ取った。
立ち塞がる茂みが突っ切り、開けた視界を純は見渡す。
神経は尖っていたから一瞬で障害物を把握した。
纏まってはいないが、建物へと続く距離がてら幾人かの兵士の姿がある。
向こうも突然飛び出してきた純達に驚いたようだが、すぐに剣を抜いて構えた。
なるほど……逃げられそうな所には残った兵士を配置していたという事か。
存外、考えている。
だが現状に対して純が気後れする必要は無い。
阻む相手がいるのならば切り捨てればいい、そのために片腕は刀身の柄を握っている。
判断を下すのと加速するのとは同時だった。
立ち止まりもしない純の姿に対して、剣を構え向かってくる兵士の姿。
距離が縮まり振り下ろされた太刀筋を、最小限の動作で避けてみせる。
体越しに伝わってしまう振動だけが気になった。
しかし、続く行動だけは粛々と行う。
空振った姿勢の兵士に、純は横薙ぎの一閃を喰らわせてやった。
赤い線が目の前で飛び散り、それが振り下ろした刀身へと続く。
目の前で呻き地面に倒れる姿を見届けはしない。
先を急ぐ事に集中する。
しかし、呻き声と人が倒れた振動が響いたせいか向かう先の兵士らも純達の存在に気付いた。
鞘から刀剣を引き抜く音が幾重にも聞こえる。
舌打ちした。背後に迫っている殺気も気になっているのだ。
前方の兵士をいちいち相手していれば、いずれ挟撃されてしまう。
ならば、最小限の相手だけを退けるべきだ。
純は地面へと赤い線を垂らす刀身を振り上げた。
多分、ここからは気遣ってやれない。
純「我慢しろよ」
地を蹴り上げながら言い放つ。
伺う訳じゃない、だから反応は期待していなかった。
が、担ぐ体躯を支えるために廻していた片腕を、震える指先でぎゅっと掴まれた。
その感覚が鮮明に伝わってくる。
正直、振り落とされないようにしてくれるのは有難い。
刀身を振る腕に余力を廻せる。
純の、兵士としての現実的な話はそこまでだ。
純「………」
でも、それ以外の琴線に何かが触れた。
何だろう。余計な事を考えている暇はないけれど、
いま形としては一人を守って走っている自分の姿に気付いたから。
そんな現状に、一瞬戸惑いを覚えた。
今まで純がこの刀身を振り上げてきたのは、必要にせまられていたからだ。
軍という性質上やむを得なかったのかもしれない。
軍属の兵士にとって上から命令は絶対だ。
命じられれば反乱分子の排除も、妖魔の討伐も粛々とこなしてきた。
まぁ最終的にはその筋が通らない、軍の濁った水が合わなくなってしまい反発したのだが。
それでも刀身を構えるための姿勢は変わらなかったと思う。
敵を排除するために戦う、それが不動の姿勢だったから。
でも今の自分は少しだけ違う。
戦うべき相手はいる、それは変わりない。
けれど……もう一つ目的が増えた。
今の純には、相手と対峙する以外に、こうやって何かを守るために刀身を構えている。
先ほど自分を頼って掴まれた感覚が新鮮だった。
だからなのか。命令を完遂するために黙々と刀身を振り上げてきた過去とは違って、
純ははじめて自分を頼ってくれる存在を自分の意志で守ろうとしている。
明確な目的だ。切り捨てるだけだった過去と比べ、余程意義のある行為に思えた。
なるほど、こんな立場も悪くないのかもしれない。
無意識に片方の口角が吊り上がった。
見る人が見れば、刀身を構えての表情は凶悪に見えただろう。
と、純は前方より新たに迫る気配を感じ取る。
ちらりと視線を一直線に走らせた。
建物までの道筋に目星は付けた。
今向かってくる兵士を含め、4人は退けねばならない。
怒号と共に迫ってくる兵士を迎え討つために、純は刀身を軽く振る。
何これ
咲-Saki-キャラ使う意味あんの?
てか不人気サイコパスリンシャンモブ不細工畜生出すなよ
ふと、純達をここに連れて来た塞の言葉が蘇ってくる。
彼女は自分と誠子にここでやってもらいたい事があるのだと言っていた。
それが何なのか……今、純は正確に理解した。
この瞬間が仕事始めだろうという事も。
殺気を乗せて繰り出された刃を弾くために、純は躊躇いもなく前へと踏み込んだ。
刃同士が交差して起こる鈍い音。
人を担いでいるから力が分散している事は分かっている。
相手の息の根は止めなくてもいい、最低限、動けなくすればそれでいいのだ。
駆け抜けながら1人、2人、3人と順調に対峙する相手を切り伏せ、進むべき前方より退けていく。
庇う事になるから大小の傷は負ったが、それでも走る分には支障はない。
建物はすぐそこだ。前方には兵士が1人立ち向かうように剣を構えている。
だがその後ろからもう一人の兵士が出てくる姿が見えた。
身軽であれば関係ないが、今は守らなければいけない存在がいる。
複数を同時に相手するのは厄介だが、それでも退く訳にはいかない。
後ろの兵士も剣を構え向かってこようとするのが見えた。
純は覚悟を決めて、踏み込む地面の堅さを確かめる。
初動が肝心だ。勢いをつけて、まずは前方にいる兵士を切り捨てる。
地を蹴って刀身を繰り出そうとした。
が、突如呻き声が響いた。
微かに目を見開く。なぜなら純はまだ刃を交えてさえいなかった。
けれど聞こえてきた声は確かに前からだ。
向かってくる兵士に変化は無かった。
だから流れとして近付いてきた兵士から振り下ろされる刀身を、自分のそれで受け止める。
衝撃で体が揺れた。
その鬩ぎ合う視界の向こうで、新たに現れたはずの兵士が不自然に地面へと倒れ込むのが見えた。
あれ?と思うのと同時に、純にしてれみば馴染み深い声がした。
地面に倒れ込んだ兵士の背に突き刺さった刃を、緩慢な動作で抜き取る姿。
誠子「あ~、やっちまった。まぁ、いいか」
純「いいに決まってんだろうが!」
こいつらみんな自業自得だと、鬩ぎ合う刀身を万全では無い力で支えながら純は怒鳴り声を上げる。
純「誠子ぉ!感慨深く呟いてんじゃねぇ!さっさとこいつもどうにかしろ!!」
その声にへいへい、と呟きながらも誠子は俊敏な動きで倒れた兵士を飛び越えてきて残りの兵士を切り倒した。
呻き声を上げて眼前より兵士の姿が消えると、純の力んでいた腕もやっとで解放された。
今更ながら、ぜいぜいと肩を大きく揺らして呼吸を整えようとする自分の現状にも気付く。
がむしゃらに行動している時は気にはならないが、純の姿はそれなりに満身創痍に見えるだろう。
兵士を切り捨ててやってきた誠子も珍しい姿の純を眺めながら言う。
誠子「なんだよ純、一人で戦争にでも行ってきたのか?水臭いな」
純「……テメェが遅ぇから、こんな様になったんだよ。ふざけんな」
純「何が悲しくてたった一人で十数人を相手する羽目になったと思ってんだ、あ?」
純は怒気を滾らせて吐き捨てる。
その尋常じゃない様子が誠子にも伝わったのか。
一転、彼女は口早に言い返してきた。
誠子「待て待て、元はと言えば純がブチ切れて相手を半殺しにしてしまったから私がその後始末をしてたんだろうが」
誠子「可哀想に、一人は肋骨逝ってしまってるし、一人は顎の骨が砕けてる。あれじゃあ一人で飯も食えないぞ」
純「チッ、なら息の根を止めておくべきだったか」
誠子「お前の場合、冗談に聞こえないぞ。……で、その子が塞が言ってた子か?」
誠子との気安い会話の過程で、当然の如く指摘をされて純は端と気付く。
慌てて身を屈ませると誠子に向かって「手伝え」と言った。
随分と無理をさせていたと思う。
純は担いでいた体躯を肩から降ろした。
と、彼女は一人で地面に立つ事ができなかったようで、ぐらりと揺れた。
必然的に反対側にいた誠子が抱き留めてくれたお陰で大事には至らなかったが。
誠子は少女を見下ろしながら「随分と、線が細い子だな」と言う。
初見ならばそう感じるだろう、純もそう思う。
でも、その言葉に賛同する以前に純からは血の気が引いて青白くなったその顔がありありと見えた。
朱色の瞳も閉じた瞼の奥に消えていて、額には脂汗が浮いている。
…どう見ても、苦しそうでしかない。
誠子「止血する暇もなかったのか?」
肩から胸の当りまで走る赤い筋を見て、誠子が聞いてくる。
純は顔を歪めながらも頷いた。
いかんせん多勢に無勢だ。
純「担いで逃げるのが精一杯だった」
そう苦々しく純が吐き捨てると、見計らったかのように背後が再び騒がしくなった。
複数の足音に、武具が無骨に鳴り響く音。
身軽になった体躯を延ばし、純は振り向き様に言う。
純「丁寧に扱えよ。テメェが言ってた安泰が欲しいってんなら……そいつ次第だからな」
純のその言葉を受けても誠子はまだ理解できていないという感じだったが、
それでも向かってくる殺気からは逃げるべきだと判断できたようだ。
誠子は片手に握っていた剣を器用に鞘へと仕舞う。
と、両腕で支えていた少女の体躯を抱き上げた。
そのまま走る体勢で純へと言う。
誠子「しんがりは任せた。取りあえず安全な所まで行って、この子の手当てをしないと」
その提案に異論は無い。
応、と返事をして純は手に握る刀身を振る。
先程まで乱れていた息は大分落ち着いてきた。
怒声が響く、振り向いた先に血走った目をした顔が幾つも見えた。
待てとか、貴様らどういうつもりだとか、その方を渡せ、とか。
純「こいつら何トチ狂った事言ってんだ」
あんなに殺気立っている奴らに、知り合いの少女を渡すほど人間捨てていないつもりだ。
ただ向かってくる奴らの中で、特に狂気染みた奴がいるのに気付く。
周りの兵士の姿とも違う、何かに押し潰されてよれよれになった官吏服の男の顔が憤怒で歪んでいた。
誠子「おお、怖い。ありゃもう半分イッちまってるな」
駆け出しながら誠子が言う。その後ろを追い掛けながら純も付け加えた。
純「奴らからすれば破滅だ。いい気味じゃねぇか、どうせ今まで散々美味しい思いしてきたんだろうし」
背後から執拗に追い掛けてくる奴らに向かって吐き捨てる。
せいぜい、苦しんで破滅しろ、と。
誠子「……?」
走りながら誠子は違和感を覚える。
建物の中に引き返し、突き進む先の通路に人影は見当たらない。
可笑しい、純の助太刀に向かう途中で見かけた守備兵や官吏に騒ぎ事を伝えてきたはずなのだが。
走りながら首を傾げると、丁度眼下から咳き込む声が聞こえた。
下を向くと誠子が成り行きとして抱えていた少女が薄ら瞼を開いている。
彼女は揺れる周囲を見渡すと、抱えている誠子に気付いたのか見上げてきた。
朱色の瞳と視線が合う。
大きな瞳は潤んでいる。傷のせいで熱が出てきたのかもしれない。
ただその姿を見て、誠子はやはり線の細い子だなという印象を再認識した。
なぜこんな騒動に巻き込まれているのか知らないが、不憫だなと思う。
少女は初対面の誠子を見やって微かに怯えた表情を浮かべた。
その反応にああ、そうだろうなと納得したから誠子は気安く声を掛ける。
誠子「心配しなくていい。私は純の仲間みたいなものだ。君、傷は大丈夫?」
純の名前を出すと、その表情に浮かんでいた怯えが消えた。
ほっと息を吐き、狭い中でもぎこちなく腕を上げると誠子が指摘した箇所を覆う。
頷いて「はい」と返ってきた声が意外にもしっかりしていて誠子は少しだけ驚いた。
もっとか弱く、震えているかと想像していたのだが。
返ってくるその声は明確で、彼女は傷の痛みも言わない。
少しだけ少女に対する見方が変わった。
咲「純さんは?……私のせいで、彼女に無理をさせてしまいました」
誠子は軽く目を見開く。
少女に言われて、先ほどの純の満身創痍の姿を思い出したからだ。
なるほど、彼女には肩から走る太刀筋以外、目立った他の外傷は見当たらない。
それはつまり、純なりに必死にこの少女を庇って来たのだろう事は誠子にも想像できた。
らしくないな、と思ったが誠子は心配そうな少女に正直に教えてやる。
誠子「奴なら後ろでピンピンしてるよ。今に怒鳴り声も聞こえてくると思う」
誠子「でな、一応、まだこうして逃げてんだ。君の傷の手当はもう少し我慢してくれ」
そう言うと、すぐに理解したようで少女は頷く。
そして見た目の儚さとは対照的に、はっきりとした口調で言った。
咲「私は大丈夫です。でも、心配してくれてありがとうございます」
誠子「………いや」
少女の言葉に対して、返す言葉が鈍った。
それだけを言って口籠る。
自分らしくもない、ただ少女の言葉を聞いて面食らった気はしたのだ。
なんでだろう?そう暫し考えて気付く。
多分、自分たちが起こした行動に対して、こんな素直に礼なんて言われたからだ。
馴染みのない空気を肌も感じ取っている。むず痒い気がした。
以前まで在籍していた軍なんかでは、命令なのだから完遂した事に対して礼なんぞ言われるはずもない。
だからか言われ慣れていないし、誠子とて言われたくて走っている訳でもなかったから。
不意打ちみたいなものだ。
でも……不思議と悪い気はしなかった。
こんな怪我人に見返りを求めている訳ではないが。
感謝してくれているのなら、こうして身を挺して守ってやってもいいと思える。
軍の義務的な流れではなく人間的な話になるだろう。
なるほど、と誠子は思う。
純が満身創痍になってまでこの少女を担いできた気持ちが少しだけ分かったような気がした。
だから、いつもの調子に戻って誠子は気安く言う。
誠子「気にしなくてもいいさ、これは仕事みたいなもんだから」
純は知らないが、誠子の立場としては間違っていない。
内宰の塞がここへと呼び寄せなければ、誠子はこうして感謝される事もなかっただろうし
きっとどこかで日雇いの用心棒でもやっていただろう。
そう考えれば、今は張り合いがある。
咲「仕事……ですか?」
不思議そうに呟かれた。
だがその事を詳しく説明する場面でも無い。
話せば長い、きっと。
誠子でさえ把握してない部分もあるから。
だから「まあ、心配するな」ともう一度言ってから会話を切ると誠子は顔を上げた。
今回はここまでです。
次はまた来週の木曜に投下予定です。
乙です
乙
まだ一波乱ありそうだな
乙乙
乙です
乙ー
毎週木曜が楽しみなりつつある
おつ!
誠子さんは塞さん達の会話で咲ちゃんの正体に気付いてるものと思ってた
気づいてたのは純くん
亦野さんは咲と出会ってなかったしな
■ ■ ■
突き進む先の通路は相変わらず人気が無い。
本格的に可笑しいと思い始めた頃に、チラリと薄暗い通路の先に何かが見えた。
目を細めて視界を鮮明にすると鈍く光る物が見えた。
慌てて誠子は駆け抜けていた足を地面へと縫い付ける。
急停止した事になるから前のめりになりそうな体躯を、踏ん張ってどうにか耐えた。
抱える少女も落とさない。よくやった、自分。
だがそれよりも、誠子は前方になにがあるのか把握した瞬間の焦りの方が酷い。
鈍い輝き………あれは鞘より抜き出された刀身のそれしかない。
しかも一つじゃない、いや、一人じゃないというべきなのか。
その頃には、もう鮮明に認識していた。
前方の通路を塞ぐように武具を纏った兵士達の姿がある。
誠子の脳裏に最悪の事態が浮かんだ。
……もしや、計り間違えていたのか?
奴らの仲間はもっと広範囲に散らばっていて、
誠子が助けを求めた兵士らも奴らの仲間だったのかもしれないという事実。
思わず立ち止まりながら言い訳染みた声を上げた。
誠子「くそ、あの秋官!検討違いもいい所じゃないか!」
裏切りの兵士の人数を言っていた官吏、憧の姿が脳裏に浮かぶ。
先ほど純からの話を照らし合わせた結果、中庭にいた奴らで数は大体合っていたと思っていた。
だからこれ以上裏切る馬鹿がいないと勝手に判断してしまっていた。
全くもって誠子の当て付けだ、分かっている。
時間がないからと確認を怠った自分の落ち度だ。
それでも何かを吐き出さなければ誠子は混乱してしまいそうだったから。
どうする、どうする?
前方に見える兵士の数から考えても純と二人でも対峙するのには無理がある。
尚且つ、背後からは追ってきている奴らもいるからいずれ挟撃される。
通路は一直線で逃げ道も見当たらない。
抱える少女を床に置いて、自分も武器を構えるべきかと誠子は迷った。
すると立ち止まった自分の背後に追いついてきた純がそのまま横を通り過ぎようとする。
過程で、彼女は言った。
純「ビビってんじゃねぇよ。仕方ねぇ、俺が道を作ってやる。お前はさっさと行け」
誠子はそのまま通り過ぎようとする純の背に思わず叫んだ。
誠子「やめろ、純!数が違い過ぎる、お前ひとりで相手できる状況じゃない!」
純「なら大人しくして殺されるのを待ってろってか?冗談じゃねぇ、絶対に御免だ」
純「だったらせめて、お前らを逃がす」
誠子「…なっ!?」
馬鹿か!馬鹿だったなお前は、そういえば!
迷いもせずに言い切った純の言葉に対して誠子は心の中で突っ込む。
現実では言葉を失ってしまった。
口籠った誠子の代わりに、抱える少女が腕の中から純を呼ぶ。
咲「純さん!待って」
その腕は走って行こうとする純に向かって伸びる。
だけど純は振り返らない。
肩慣らしのように刀身を大きく振って走り出す。
その背にもう一度、少女が呼び止めるために声を上げた。
咲「待って……あれは、違うんです!敵じゃないんです!」
……全く予想もしていなかった言葉。
言われた純よりも、ただ聞いていた誠子の方が先に反応した。
誠子「…………え?」
間抜けな声になってしまったと思う。
走り出そうとした純もぎこちなくその場で止まる。
そのまま顔だけを振り返ると、神妙な顔つきで誠子が抱える少女を見た。
だから誠子も釣られるように少女を眼下に見下ろす。
二人分の意味が分からない、という視線を受けながらも少女はしっかりと頷いた。
咲「あれは違います。だって彼女がいるから」
大丈夫なんです、と少女はしっかりと言い切ったのだった。
■ ■ ■
ゼィゼィと荒い息を上げながら、脂肪の溜まった体躯をどうにか走らせる。
手に持つ冬器が重い。忌々しい。
だがどうしても逃がす訳には行かないのだ。
こんな事ならば少しの迷いも無く切り殺せばよかった。
なぜ躊躇ったのか、冬器を掴む腕に完全に力が入らなかった。
見た目からも只のか弱い王なのだと思っていた。
それなのに、屈強な兵士を引き連れて脅したのにも関わらず、王は脅しに最後まで屈しなかった。
武器を何一つ持っていない、仲間もいない、何もできないはずなのに……何故。
そう思ったら、急激に目の前の少女の姿が怖くなった。
今まで荒れた国で生きてきたから、天意なんてものは信じていなかった。
そんなものがあったら、もっと早くにこの国は良くなっていただろう?
不正など裁かれて、自分のような官吏はいなくなっていたはずだから。
それができなった天であったから、自分も、周囲の官吏も更なる深みに嵌っていったのだ。
罪悪感などとうの昔に忘れてしまった。
民が苦しもうとも宮中にてそれが見えなければ心も傷つかない。
簡単な事だった。自分が幸せならばそれでいいのだ。
だって、今まで天は自分の存在を許してきたではないか。
……そう思っていたのに。
あの儚くも朱い色の瞳に真っ直ぐに見つめ返された瞬間。
忘れていた罪悪感を思い出しそうになった。だから自分は酷く恐れたのだ。
この世には無いのだと見縊っていたはずの天意を、何の力も無いはずの王の向こうに確かに感じた。
怖くなった、本当に。
天意はあるのだと、故にとうとうこの身が裁かれる時が来たのだと容赦ない宣告を受けた気がした。
冬器を持つ手が震える。
そんな馬鹿な、と思った。
脅しているはずの自分達がなぜか脅されているように震えているのだから。
周囲を見渡しても、誰彼の冬器の切っ先も王を向きながらも小刻みに震えていた。
自分が感じている恐れを皆が感じ取っている。
そんな馬鹿な、有り得ない。
だから半狂乱になって斬り掛かった。
今更、天意を背負った王などいらぬ。
元々王などいなくとも宮中は廻っていたのだ。
眼下の国土や民など知った事ではない。
どうにか自分らが満足して生きてこられたのだから、それでいいのだ。
それ以外の生き方などもはや知らぬ。
天意などに左右される訳にはいかないのだ……だから。
王がいなかった時代に戻ればいい。
王がいなくなれば、王を選ぶ麒麟もいらないだろう。
口煩いあの存在もいなくなればもっと自分達は満足して生きていけるだろう。
だから、絶対に逃がさない。
突如邪魔が入ったが、どうやら少数のようだった。
ならば数で押せばまだ間に合う。
血走った眼で薄暗い廊下の向こうを見つめる。
するとおぼろ気ではあるが人の後ろ姿が見えた。
思わず狂気の笑みが浮かぶ。締まりの無い口から笑い声が漏れる。
なぜか、見えた人影は通路の途中で止まっていた。
その姿が抱える王の姿も確認できたが故、更に走る足に力を込めた。
今更、天意など必要ない。
冬器の柄を持つ手にぐっと力を込める。
今度は躊躇わない。
周囲を鼓舞するために声を上げようとした。
冬器を持つ腕を振り上げる。
今に追いつく、そう思った瞬間。
突き進む先の床が不自然に揺れた。
堅いはずのそれが、まるで水面に走る波紋のように波打つ。
ぎくりとした。その光景には見覚えがあった。
普通では有り得ない光景。……それは妖魔が出現する前触れだ。
ヒクリと恐怖で片方の口角が震えた。
案の定、水面から勢いよく飛び出してきたのは大きな獣の姿だった。
唸り声を上げて襲い掛かってくる。
無我夢中で手にする冬器を構えようとしたが容易く弾かれた。
そのまま肩口を鋭い歯で噛みつかれる。
官吏「ぐわぁっ!」
痛みを覚え、無様に悲鳴を上げた。
目の前に赤いものが散る。
獣は自分を床に倒して無力化するとすぐに周囲の他の兵士へと飛び掛かっていく。
たくさんの怯えに満ちた悲鳴、背後の兵士からも声が上げる。
床に倒れ込んで動けなくなってしまっていたから、眼球だけを動かして周囲を探る。
半分女の姿をした妖魔が狼狽える兵士を容赦なく薙ぎ払っていくのが見えた。
そんな光景を目のあたりにしながら酷い無力感に襲われた。
官吏「く、くそっ」
それでもまだ自由の利く腕を伸ばして、弾かれた冬器を探そうとする。
官吏「諦めるか、こんな所で、武器を手にして…」
王が、あの儚い風情の少女が近くにきてくれさえすれば……だから。
探る手。その指先が何かに触れた。
反射的にそれを掴もうとして指を伸ばすが、触れたものの感触が消えて。
――――次の瞬間、指先が強い力で潰された。
官吏「ぎゃっ!」
思わず短い悲鳴を上げる。
痛みが麻痺してきた頃に、どうにか顔を動かして伸ばした指先を見つめると。
それは誰かの靴の先でギリギリと踏みつけられていた。
気付いた瞬間、遥か頭上より冷たい声が降ってくる。
智美「先日、折角台輔共々ご挨拶頂きましたのに……本当に残念です」
ワハハの冷たい声がどうしても想像できないww
智美「若輩者の私も、貴殿にお見知り頂き仲良くできると喜んでおりましたのに」
慇懃な言葉の内容と、声の冷たさが一致していない。
震えながら見上げると、見覚えのある若い官吏が目を細め、床の上に転がる自分に冷やかな眼差しを向けていた。
その姿を知っている。
いつ頃からか、台輔に付随するようになって自分らからは悪目立ちするようになった官吏だ。
先日も台輔の執務室を訪れた際に、彼女は台輔の背後で静かに侍っていた。
が、今彼女は冷たい笑みを浮かべ、その足は容赦無く自分の指先を踏みつけている。
視線が交差すると、踏みつける力が更に増した。
思わずまた痛みから呻き声を上げる。
智美「ああ、でも貴殿と物を知らぬ私では物事を処理する方法に絶対的な相違があるようです。勉強になりました」
智美「貴殿のような反面教師がいてくれたお陰で、私は身が引き締まる思いですよ」
智美「…………本当に、反吐が出る」
官吏の女の顔に浮かんでいた冷たい笑みが消え、無表情に怒気が滲むのを肌が感じ取っている。
思わず背に悪寒が走った。若い官吏の冷たい声が続く。
先ほどまでの慇懃な態度すら剥がれ、その言葉にも怒気を感じた。
智美「手前勝手な願望を満たすために、あんたらは王が不在で長く苦しんできたこの国を更に苦しめようとした」
智美「あの方がいなくなれば、また国土は荒れるだろう。きっと人心も荒れる」
智美「それは復興もままならない内に、国土に犇めく民に再びかつての混沌を味わえと言ってんのと同じだろう」
智美「それで、あんたらの良心は少しも痛まないのか?」
官吏「………」
指先を踏まれる痛みに呻きながらも、口角が自然と吊り上った。
馬鹿な質問だと思った。
あの朱色の瞳を持つ王と同じ事を言っている。
ならば自分が返す言葉も決まっていた。
官吏「良心が残っていたのなら、初めからこんな無謀を起こさない」
官吏「今更……今更、天意を持った王が存在する国で生きていけるか?」
智美「…………」
官吏「自分が今までどんな事をしてきたのか、誰を陥れてきたのか分かっているから……恐れたのだ」
王を。そして、ついには裁かれるのかと怖くなった。
だから信じていなかった天意が本当にあったのだと、絶対に自分は気付きたくなかったのだ。
震える声で途切れ途切れ言い返す。
智美「聞くだけ無駄だったな。所詮あんたらの我を押し通そうとしただけの話だ。同情もしない」
智美「ただ安心してくれ。あんたらのその願いはこれからの国には不要だ」
智美「こうして騒ぎを大きくしてくれたお陰で、あんたらの仲間も一掃できるだろうさ。言い逃れも無理だ、賄賂も効かない」
官吏「……私を、殺すのか?」
聞けば、若い官吏は鼻で嗤った。
智美「あんたの臭いものには蓋なやり方と一緒にしないでくれ」
智美「王を弑し奉ろうとした罪、宮中を騒がせた罪。あんたが思っていた通り罪人は裁かれるだろうさ」
智美「だがそれは私の役目じゃなく、秋官の役目だ」
そう言って若い官吏は踏み付けていた足を上げた。
指先の痛みと圧迫感が取れて、思わず息を吐く。
と、複数の足音が周囲に響き渡る。
見上げる官吏の背後を何人もの兵士が慌ただしく駆けて行く。
それらは周囲で妖魔に襲われ倒れた仲間を次々と捕縛していく。
その光景の向こうに、見覚えのある女の官吏の姿が現れた。
いつぞや、自分らに揺さぶりを掛けてきた秋官の姿だ。
彼女は裏切り者から情報を得たようで、遠回しにではあるが幾度も接触しようとしてきた。
だから元々目障りな内宰の反発と共に追い詰められていったのだ。
後がないのだと思い、こうして最後の賭けに出た。
そして今、周囲の光景を見て、聞こえてくる呻き声を聞いて……終わったのだと思った。
賭けに自分は負けた。
智美「本当は殺してやりたいが。まぁ、あんたの先は決まったようなもんだよな?」
智美「精々裁かれるまで短い残りの人生、暗い穴倉の中で今までやってきた愚行を恥じて過ごすがいいさ」
そう言い捨てて、見上げる若い官吏の姿が視界から消えた。
次に違う足音が近づいてくると、自分はすぐに屈強な兵士に無理に上半身を起こされ捕縛されたのだった。
食い込む縄の感触を受け、項垂れた。
本当に、終わったのだと思った。
■ ■ ■
今回はここまでです。
あと2週ほどで終わります。
乙です
もうそろそろ終わりかー
乙です
乙
終わってしまうのか、寂しいな
乙
あと2週か
乙乙
もうすぐ完結…嬉しいような寂しいような
乙
十二国記の原作ておもしろい?少し興味もったのだが
>>586
国によっては果てしなく暗かったりする
延国とかは比較的爽やかな話だけど
かしょのゆめ以外は比較的明るい気がする
となんのつばさだったか、あれは明るいし麒麟が王選定の話も書いてるからいいんじゃないかな。
本編は月の影、影の海だったか?に出てくる陽子中心の話だが、それ以外の国の話ならとなんのつばさが俺はお薦めだな。
月の影呼んでからとなんのつばさでもいいと思う。
乙
もう終わってしまうのかあ
寂しいですわ
ようつべでアニメ見れたと思うよ
智美「うわ」
純「うえ」
誠子「あれ」
顔を合わせると三者三様の言葉が重なった。
咲は床に腰を降ろしながら、その反応を興味深く見上げている。
通路の奥で待ち構えていた兵団は、結局は味方だった。
咲はその中に智美の姿を見つけたから、あの時あれは違うと叫んだのだ。
事実、刀身を握った何人もの兵士は自分を抱えた誠子や純を通り過ぎて、
真っ直ぐに背後に迫っているはずの賊を討伐しに駆けて行った。
智美もまずはそれに随行していったようだが、粗方役目は終えたのだろう。
駆け足で床に降ろされ誠子より簡単な手当てを受けていた自分の元へ駆けつけてきたのだが。
その過程で必然的に側にいた純と誠子と顔を合わせると、先ほどの三者三様の反応を示したのだ。
何か初対面という反応でもなかったような気がした。
すると案の定、まずは衝撃から立ち直った智美が言う。
智美「純ちんに誠子ちん?……え?何でここにいるんだ?」
純「いや、むしろ何でお前がここにいんだよ」
智美「え?なんでって、そりゃあ私はここで官吏やってるからな」
純「は?官吏?…おい誠子、官吏って頭いい奴がやるもんだろ?」
誠子「そりゃ科挙受からんと無理だろうな。へぇ、あの親の畑仕事手伝ってたお前が一丁前に科挙を受かったのか」
智美「ワハハ。まぁ、あの頃は色々と手も廻したからなー」
智美「それより純ちんも誠子ちんも軍にいったんじゃなかったのか?性に合いそうって言って、村総出で送り出した記憶が…」
誠子「ああ、そうそう懐かしいなー。お前密かにこれで純に絡まれなくて済む!って喜んでただろ?」
純「あ゛?」
智美「ちょ、誠子ちんそれ昔の話!もう時効だから、そんなに凄まないでくれよ純ちん」
気安い会話を続けようとする彼女らを見渡して、咲は不思議そうに問いかける。
咲「皆さん、お知り合いなんですか?」
すると一番冷静に物事を受け止めていたと思われる誠子が手当する手を休ませることなく頷く。
誠子「同郷だよ、畑ぐらいしかない地方にある農村の。昔よく一緒に遊んでやったよな」
智美「……ワハハ。私が一方的に絡まれていたって言った方が正しいと思うけど」
誠子「なんだよ、それは純の話だろ?私はいい姉貴分だったと思うぞ。畑仕事のイロハも色々教えてやったし」
純「……あ゛?」
智美「だから純ちんは一々凄まないでくれ!しかも満身創痍な格好だから余計怖いんだ!」
智美が叫ぶと咲も改めて気付いた。
純の姿を見上げ、絞り出すような声で言った。
咲「すみません、純さん達は私を庇ってくれたから」
純「気にすんなよ。…それに、俺はお前の立場上だけで必死こいて助けたわけじゃねえ」
咲「え…?」
純「お人好しでクソ真面目で、いつも国のことを真剣に考えてた。そんな咲だからこそ助けたんだ」
そう言って純はくしゃりと咲の髪を撫でた。
咲「純さん……ありがとうございます」
温かな手で頭を撫でてくる純と視線を交わし、咲は淡く微笑んだ。
二人の話を聞いていた智美が正気に戻って駆け寄ってくる。
咲の手当をする誠子の横に膝を突き、咲を伺うようにして言った。
智美「傷は痛みますか?」
咲は首を左右に振る。大丈夫ですと言って顔を上げた。
言わなければならない事は、きちん目を見て伝えなければいけないのだと気付いたから。
だから、視線が合うと智美も納得したようだ。
安堵して表情を緩めると、そのまま横の誠子を見て、背後に立つ純へと顔を巡らせていく。
智美「偶然なのかもしれないけど。それでも……主上を守ってくれてありがとう、二人とも」
智美「ほんと、こうして無事な姿を確認するまで私も気が気じゃなかった」
心底ホッとしたような声。
その智美の言葉を受けて、今まで一番物事を冷静に受け止めていた誠子が突然変な声を上げた。
誠子「うあっ……主上っ!?」
黙々と止血していた手を勢いよく離すと、そのまま俊敏に後退してしまう。
ちなみにそれを見つめる事になった咲も智美もぽかんとした表情を浮かべている。
唯一、状況を理解している純が、後退してしまった誠子を呆れた目で見やる。
純「やっぱりお前、まだ気付いてなかったのか。道理で気安い態度が抜けねぇなって思ってたんだよ」
誠子「い、いやだって!お前だって同じような態度だったろう!何度か会話には出てたけどまさか、本当だと思わないって!」
誠子「この子、いやこの方は何かの事件に巻き込まれて、それで命を狙われてしまった官吏なんだろうなって思っていて」
純「それだけで塞があんなに急かすか?しかも、台輔の使いが来た時点で気付くべきだ」
純「……まぁ、俺は確かに身に覚えあったし。それに今さら態度変えられる程、器用でもねぇよ」
どこかぶっきらぼうに吐き捨てる様が純らしいと思う。
だから、咲も頷いた。
純の意見には全面的に賛成だ。
王だからと言って、命掛けで助けてくれた彼女らに今更畏まって欲しくは無い。
咲「純さんの言う通りです。確かに私は王という立場ですが、その前に貴方がたが助けてくれた一人の人間です」
咲「恩人に改まって欲しいとは思いません。どうか、今までの態度のままでいて下さい」
誠子「う、いや……でも」
純「……往生気が悪ぃな。お前、物事に対して柔軟な癖に変な所で線を引くからな」
純「でもこれでお前が言っていた安泰が手に入ったじゃねぇか。よかったな」
誠子「……いや、これ想像してたのと違くね?まさか王様と直にお目に掛かるとは」
今だもごもごしている誠子を尻目に、純は改まって咲と智美の方を向いた。
純「と、以上が内々の話だ。正規に俺達がここにいる理由は塞から聞け」
すると智美が敏感に反応した。
智美「塞……内宰の?」
純「ああ、奴の指示で動いていたからな。これで少しは安心したろ?」
純が言うと、智美は苦笑を浮かべる。
智美「まぁ。でもそんな姿をしてまで主上を守ってくれたんだから疑う余地はないかと」
智美「塞殿には一応、後ほど連絡を入れておくよ」
そして再び智美は咲へと向き直る。
視線が交差する。咲は顔を伏せない。
真っ直ぐに智美を見返している。だから智美はニコリと笑んだ。
智美「少しの間に、随分と御変わりになられたようだ」
鋭い指摘に思わず咲も苦笑を浮かべる。
咲「沢山泣いて、後悔して、落ち込んだら吹っ切れたんです」
咲「…そうしたら、自分が何をしたいのか分かったような気がしました」
真っ直ぐ前を見て言う。本心を伝える。
咲「私は菫さんに会いたい。嫌だと言われたけれど……それでももう一度会って、話がしたいんです」
できるでしょうか?と問えば、当たり前のように智美は頷く。
智美「お喜びになります。実はここだけの話なんですが………」
思わせ振りに声を潜めて智美は語ろうとする。
思わず咲は聞き耳を立てた。
智美「あの鉄面皮が泣きそうなってましたから。貴方がいなくなってしまって、胸が痛いと言っていた」
咲「…………」
智美「想像できないでしょう?でも事実ですから。麒麟と言っても、気高いと言われていても、あの方にも感情はあります」
智美「貴方の事であれば尚更だ。でも人一倍不器用だから、それがどうしても上手く貴方に伝えられなくて悩んでいました」
咲は目を見開く。
智美が教えてくれる話は、余りにも自分が想像していたものと違っていたから。
だから、無意識に呟いた。
咲「彼女も……私と同じで、悩んでいた?」
問えば、智美はやはり肯定する。
こんな事を言うのもなんですが、と教えてくれる。
智美「主上と台輔は良く似ていらっしゃると思います」
咲「私と菫さんが……?」
智美「もちろん、姿形の事を言っているのではありません。相手を想う姿勢が、とても似ていると私は思います」
智美「深いですが、それを表に出すのは苦手な所とか」
咲は智美の言葉をゆっくり噛み締める。
途端恥ずかしくなってきてしまった。赤くなった顔を誤魔化すように俯くと言う。
咲「……私と同じなら。沢山、沢山話をしなければいけませんね」
智美「ええ、是非とも分からせてやって下さい。私達が今まで台輔にできなかった分、主上には頑張って頂かないと」
智美「あ、でも2、3日は残念ながら台輔にお会いする事はできません」
咲「え?」
予想外に言われて咲は目を見開く。そして顔を上げた。
見上げる先の智美は仕方ないのだと言う。
智美「麒麟は神獣ですので、台輔は流れる血にはどうしても弱いのです」
智美「主上の負った傷が不可抗力なのは分かっています」
智美「が、せめてその傷が完全に止血するまでは、お会いするのを控えて頂かなければいけません」
そう指摘されて、咲は改めて自分が負った傷の痛みを思い出す。
誠子に手当してもらって傷は押し当てられた布の奥に隠れてしまっているが、
多分感じる痛みからもまだ血は滲んでいるだろう。
なるほど、と咲は頷く。
咲「分かりました。なら私はその間に考えておかないと。…言いたい事も聞きたい事も、本当に沢山あるから」
智美「ええ、主上の状況は私から台輔に伝えておきます」
咲「お願いします、智美さん」
智美「…随分と、心配していました。本当はすぐにでも駆け付けようとしていたんですよ?さすがに私が止めたんですが」
智美「だから主上が無事である事を早く伝えないと、痺れを切らして飛び出してきてしまうかもしれない」
智美「ああ、でもまずは主上を安全な部屋までご案内致します。傷の手当ても医者を呼んできて改めて見て頂かないと」
智美「……どうか。貴方はもはや、貴方だけの存在ではないのだとご理解下さい」
軽い口調だった智美の声が、最後に向かうにつれ真剣味を帯びて言った。
今の咲にはこの年若い官吏が何を言いたいのよく理解していた。
だから、素直に頷く。
咲「智美さんにも、心配を掛けました。……肝に命じます」
すると、いつもの気安い雰囲気に戻った智美は。
満足そうな声で「はい」と頷いたのだった。
■ ■ ■
それからは、咲は特に何もしていない。
騒ぎの事後処理は智美らの官吏が行うそうだから、
咲は自室へと戻るとやってきた医者に傷を改めて見てもらった。
元々、神籍にあるから大事には至らないだろうと言われたが
それでも思ったより深い太刀筋だったようだ。
痛み止めと薬湯を飲んで今日は早めにお休み下さい、と医者に言われて素直に頷く。
実際、色々あって疲れてしまっていた。
体は素直に休息を求めていた。
痛み止めを飲み込み、湯気の立った薬湯をちびちび喉に流し込む。
その程よい暖かさが、じわりと疲れていた体中に沁み込むようだった。
せめてこれを飲んでから寝台に横になろうと長椅子に腰掛けて、
ゆっくりと薬湯を喉の奥に流し込む作業を繰り返す。
途中で意識がうとうとしてきた。
きっと薬湯の暖かさが思う以上に心地よかったのだ。
もしかしたら痛み止めに多少の睡眠を促進する薬も入っていたのかもしれない。
瞼が重くなってくる、が薬湯はまだ残っていた。
それを最後まで飲まなきゃと思いながら、なけなしの意識は夢現に変わっていった。
つまり、そのまま寝てしまった。綺麗に。
長椅子に背凭れに顔を預けてどのくらい経ったのか。
ふと息苦しさを感じる。
今まで薬湯の暖かさに包まれていた体躯がぶるりと不自然に震えた。
そして肩から走る傷口の痛みを思い出した。
そこから薬湯の暖かさではない、苛む程の熱に焼かれるようで額に汗が浮いてきた。
自然と顔が歪む。
ジンジンと夢現の中でも負った傷の痛みに咲は苛まれる。
そういえば見てくれた医者が言っていた。
数日は夜に傷が熱を持つかもしれないと。
痛み止めは飲んだはずだが、いつの間にか暗くなった周囲を計るに薬は切れてしまったのかもしれない。
痛い、熱い、と。
額に浮いた汗が頬を伝う感触に震えた瞬間だった。
突如ひやりと冷たい物が頬に触れて、流れ落ちていく汗を拭った。
それはすぐに離れていったが、今度はびっしり汗が浮いた額にそっと何かが触れる。
苛む熱と対照的に触れてくる冷たさは心地良かった。
思わず咲は安堵の息を吐く。
でも一体何だろう、と歪んでいた表情を解くと、閉じていた瞼をゆっくり開けた。
薄暗い室内は相変わらずだ。
だけどその暗さに慣れてくると、見つめる先の視界に誰かがいる事に気付く。
思ったよりも至近距離だった。
当たり前か。その距離にいるから伸ばした指先が咲の額に浮いた汗を拭ってくれているのだから。
ああ、でもこれはもしかしたら苛む熱が見せる夢なのかもしれない。
だって暗さに慣れてきた視界が捉えた人はここにいるはずがない。
それでも咲は半信半疑の心地で、その人の名前を呼んでみた。
咲「……菫さん」
すると暗闇の中でも反応を返すように、綺麗な紫の瞳が見開く様を咲は見ていた。
夢にしては鮮明だ、だからこそ夢なのだとも思えた。
躊躇ったのは一瞬だったが、それでも顔に触れる指先を離す事無く探るように問いかけてくる。
菫「……苦しいのか?」
心配気なのが声からも伝わってくる。
咲が最後に菫を見たのが拒絶された瞬間だったから。
夢のせいなのか、咲の願望のように本当に自分を心配して言ってくれる姿に心が揺れた。
嬉しかった。だから浮かんだ笑顔のまま「大丈夫です」と告げた。
菫「………」
そんな反応の咲を前に菫はなぜか息を呑み込む。
吃驚した態度、そして戸惑っている様子が咲にも伝わってきた。
彼女はそのまま触れていた指先を引っ込めると、表情を隠すように俯いてしまった。
そんな菫へと咲は不安げに問いかける。
咲「菫さん、私はまた貴方の気に障る事を言ってしまったんでしょうか?」
言葉にまるで力が籠らない。
すると不思議に傷の痛みが増していくような気がした。
気落ちは咲に苛む熱をも呼び戻している。
だが、目の前で菫は相変わらず俯いたままであったが首を左右に振った。
「違う」と堅い言葉が返ってきた。
菫「それは違う。……むしろ貴方が笑ってくれたから、私は……」
咲「菫さん……」
呼ぶと、俯いていた顔が少しだけ上がった。
暗闇の中でも至近距離であったから、咲もその表情が想像していたものと違う事に気付く。
想像していた嫌悪感は見えず、白いはずの菫の頬が少し赤く染まっている気さえした。
今回はここまでです。次で終わりの予定。
それではここまで読んで下さってありがとうございました。
乙 いいところで続きおって…
おつ
菫さんと咲さん仲直りできそうで良かった
来週で終わりか…木曜日が寂しくなる
乙です
おつー
ワハハからワハハが聞こえて安心感が
それを指摘する前に、菫は「聞いてくれるか?」と咲に問う。
反応が遅れたのは熱のせいなのか、らしくない菫の態度のせいなのか分からなかった。
それでも咲はゆっくりと頷く。
ほっとした表情を浮かべた菫の、ぎこちないその声が続いた。
菫「私はいつも言葉が足りない。それは本心を言ってしまって相手に裏切られるのが怖いからだ」
菫「願って言っても、届かないのを知っていたから。救いたいのに何もできない自分が情けなくて嫌だった…」
菫「…だから。智美が言っていた通り、私はどこかで諦めていたのだと思う」
咲「………」
菫「何も言わないのに、相手は自分を分かってくれているはずなんて」
菫「天意があるから、半身だから一番なはずだなんて……馬鹿な考えだ」
菫「だから貴方に嫌と言ってしまったのも、本当に嫌で言った訳ではないんだ。こんな事、言うのも情けないが…」
そう言って、菫は俯いていた顔を上げる。
彼女の紫の瞳がゆっくりと細められる。
どこか言いにくそうな表情、だけど菫は無理に吐き出すように言った。
菫「私に心から笑いかけてくれた事がないのに、貴方が他の奴らに笑いかけている瞬間を見るのが嫌だった」
菫「悔しかった、胸が痛くなった……だから嫌だと言ったんだ。貴方が、私を見てくれないから」
ぎこちない言葉だけど真っ直ぐに伝わってくるそれが鼓膜から体の中へ浸透してくると、
驚きで咲の目が見開かれた。
咲「私は菫さんに好かれていないのかと。何もできないから、ずっと呆れられているのではないかと思っていました」
菫「そんなことは有り得ない。王は私にとって貴方だけだ」
菫「天意を辿り、初めて見た時から……私はずっと、貴方を慕っていた」
迷いもない、真っ直ぐな菫の言葉。
それを聞いた咲はぎょっとした。慌てて言い返す。
咲「慕って…!?い、いえ。そういう意味でないのはわかってますけど…」
流そうとする咲の態度を感じ取ったのか、菫は畳みかけるように言う。
菫「私は確かに言葉が足りないが。語彙を言い違える程無知でもない」
菫「…間違っていない。執務などでは仕方ないが、こうした時には私の他を見て欲しくない」
菫「そう思うぐらいには、貴方の事が好きだ」
咲「…………」
絶句した。追い打ちだ。
咲は顔に集まってくる熱を隠すように、腕を上げ覆うと背後の背凭れへと倒れ込む。
そのまま、どうにかこの衝撃の余波を収めよう試みるのだが。
様子がおかしい自分を覗き込むようにして近づく気配がそれを許してはくれそうもなかった。
むしろ咲の真っ赤になった顔を見て菫は心配そうに気遣う。
菫「やはり苦しいのだろう?医者を呼ぶか?」
咲「…………………いえ」
多分これは医者の知識で抑え込むのは無理だ。
必要ない、という咲の言葉を受けて菫は不服そうに唸ったが、徐にその腕がまた伸びてくる。
顔を覆う咲の手のひらの合間を縫って、一層熱が溜まった額をひやりと覆った。
思わず顔を覆っていた腕を下しながら咲は満足の息を吐いた。
咲「…菫さんの体温は低いから、気持ちいいです」
菫「それは熱のせいだ。やはり医者を呼んできた方がいいと思う」
そう言いながらも額から頬へと移動した掌は離れない。
心地のよい冷たさを甘受しながら咲は首を軽く左右に振る。
咲「大丈夫です」
そう言って、そのままぽつりぽつりと話し始める。
咲「私を守ってくれていた菫さんの使令から、菫さんの事を色々聞きました」
咲「今まで貴方がどんな想いで生きてきたのか。だから、さっき言ってくれた告白も素直に受け取る事ができたんです」
菫「…………そうか」
ぎごちない菫の声。
咲は「はい」と相槌を打って更に言葉を続ける。
咲「でも私はもう一度貴方の口から聞きたい」
咲「さっきみたいな菫さんの本当の気持ちを、いっぱい私に言って欲しいんです」
咲「私も同じです。今までの惨めで恥ずかしいと思って言えなかった生き方だけど、貴方には聞いて欲しいから」
あ、もちろん嫌じゃなかったらですけど。
一方的なのはよくないかな、と思って咲が言葉を付け足すと間髪入れずに声が返ってくる。
しかも今までのどこか密やかな会話ではなく多少大きな声で。
菫「嫌じゃない!……嫌じゃ」
冷たさが気持ちよくて思わず閉じていた咲の瞼がぱちりと開く。
眼前にはこちらを窺うようにしていた菫の顔がよく見えたから。
相変わらず秀麗な造作ではあったが、気のせいでなければ彼女の瞳は潤んでいるように見えた。
咲「………」
だから咲は智美が教えてくれた言葉を思い出している。
あの鉄面皮が泣きそうになってたんですよ、とこっそり教えてくれた言葉。
あの時は半信半疑だったけれど、今なら信じられる。
それに菫は言ってくれた。
咲の願いに対して拒絶しなかった、嫌じゃないと言ってくれたから。
嬉しくなった。自然に安堵の息を吐き「よかった」と咲は笑った。
頬に触れていた掌が不自然に揺れた。
咲が不思議に思う間もなく、それは触れていたか箇所から離れていく。
そして代わるように近づいてくる気配を肌が感じ取り、視界が捉えていた。
背凭れに背中を預ける咲の肩口に不自然な重さが載った。
負担にならないよう柔く覆い被さってくる。
ああ、やっぱり。
傷のせいなのかもしれないが、咲の全身はいらぬ熱が籠り過ぎている。
だからこうして低い体温の菫に柔く抱き締められるのは酷く心地がよい。
熱の痛みが引いていくような気がする。
肩口に顔を埋めてしまったからその表情までは分からなかったけれど。
ぽつりと菫の声が聞こえてくる。
菫「貴方でよかった、……貴方でなければ嫌だ」
咲はうっすらと笑む。
こんなにも必要としてくれる人が在る幸せをどう伝えようか。
咲は菫の名を呼ぶ。
返ってくる反応は待たない。ただ、これだけは伝えようと思った。
咲「……貴方は自分自身を無力だと嘆く過去があるのだと聞きました。誰も助けられなかったと」
咲「でも、そんな事はありません。貴方は無力なんかでもありません。だって……」
咲「ただ淡々と日々を生きていくだけだった私を必要なのだと言って、こうして想ってまでくれた」
咲「無力なはずがない。貴方は間違いなく、この国で苦しんでいた一人である私を、あの瞬間に救ってくれたんです」
力が余り入らない片腕を上げて、抱き締めてくれる大きな背に廻して軽くそこを叩く。
合図のような仕草。菫からの反応はまだ無い。
構わずに咲は言う。
咲「ありがとう、菫さん」
本当に本心から思う。
返ってくる声はなかったが、咲の背に回っていた腕に力が籠る。
密度が増す。冷たくて傷の熱が籠った体躯には心地良い。
痛みすら薄れてきて、咲は忘れかけていた睡魔を思い出そうとしている。
薄暗い室内をぼんやり見つめる視界が霞む。
吐き出しそうな欠伸をかみ殺すが、体を覆う冷たさが心地良すぎるのだ。
本当はもっと言いたことがあったのに。
ふと、これは夢なのではないかと思った。
そういえば今の自分は熱で浮かされていて、今までの場面も朦朧とした咲の願望が見せたものなのではないか?
智美も言っていたではないか。
ここに半身がいるはずがない。
彼女は麒麟だ。神獣であるから血の穢れを厭う。
こうして負った傷の熱に苦しむ咲の元へ来るはずが無い。
そう確信した瞬間、とても残念な気分になった。
耐えようとしていた睡魔に意識が負けそうになる。
夢現の中、落ちてくる瞼の向こうにまだ菫がいる錯覚を覚えていた。
そうだ、と思う。
願望であれ気分はいい。
本当の菫に会う時の予行練習にもなった、伝えたいこともはっきりと分かった。
だから傷が塞がったら会いに行こう。
願望の世界で見た彼女のように、せめて必要とされるよう頑張ろうと思う。
そう考えると残念な気分が多少は薄れる。
もう瞼を押し上げておくことはできない。
咲はとうとう瞼を閉じた。
そして、辛うじて保っていた意識はすぐに暗闇の底へと落ちていったのだった。
窓から差し込む光が、閉じていた瞼を刺激する。
薄ら瞼を開くと室内が明るい事に気付く。
咲「………」
朝の明るさが部屋に満ちている。
ようやく目覚めた咲は、意識が覚醒するまで暫しの時間を要する。
横になっていない姿勢に呆れて息を吐き出す。
どうやら自分は体に悪い事に寝台にいかずにこんな所で眠ってしまったらしい。
これは体を痛めたかもしれないな、と息を付く。
ようやく意識が鮮明になってきた頃。
背凭れに預けたままになっていた体躯をようやく起こそうという気になった。
ピキピキするだろうか、不安を覚えながらも背凭れより背中を離そうとする。
体躯に力を込める。だが体が上手く動かない。
咲「…?」
そして、今更ながら気付いた。
現状を把握する。体が無理な恰好をして動かないというよりは……
何かが自分の上に寄り掛かっていて動かないのだと。
吃驚して眼下を見下ろす。
そして、ピキリと不自然に固まった。
衝撃は大きい。
自分の肩の上に頭を載せたまま、寄り掛かるようにして瞼を閉じている菫の顔がはっきりと見えたから。
咲はとっさに悲鳴を上げそうになる。
そして同時に昨夜の咲の願望の夢を思い出した。
いや、肩が感じる重みから……あれは夢ではない?
菫は本当に咲の元へやってきて、あんな赤裸々な事を言ってくれたのか。
自覚した瞬間、また咲は変な声を上げそうになった。
ぶわりと顔に集まってくる熱をどうにか霧散させようとする。
意味も無く首を左右に振る。
ああ、でも菫にも確認してみるべきではないか?
もしかしたら夢半分、現実半分かもしれないし。
余計な藪を突きたくはない。
だから震える腕を伸ばして、咲は自分の肩口に顔を埋める菫の掴み、軽く揺らす。
咲「す、菫さん」
すると呻き声が聞こえた。だが菫の瞼はまだ開かない。
だから、もう少し強く咲は彼女を揺らした。
咲「菫さん、あ、朝ですけれど。起きてくれませんか?」
なぜか菫は呻きもするし、顔を歪めもするのだが……瞼を開こうとしない。
そうして、やっとで咲は彼女の異変に気付いた。
元々肌の白い菫ではあったが、今は白を通り越して青い顔色と言っていい。
しかもその額には昨晩の咲のように脂汗が浮いているように見えた。
そして、何かを耐えるように眉間に皺を刻み、苦しげに歪む表情。
咲「……………っ!!」
咲は閃いた。
菫は麒麟だ。神獣だ。……流れる血を嫌う。
けれどこうして朝になるまで菫が顔を押し付けていたのは、咲が負った傷口の上ではなかったか?
つまり神獣である彼女は、血の穢れに苛まれて苦しんでいるのではないか?
咲「す、す、菫さん……っ!!」
助けを呼ばないと。
けれど寄り添うようにして伸し掛かる菫の体躯が壁になって咲は椅子から起き上がれない。
そうしている内にも菫は苦しげな表情を濃くしていくものだから。
咲にしては精一杯の気合いを入れて、叫んだ。
朝から、王の部屋よりこんな叫び声が聞こえるのは事件かと思われるかもしれないが。
実際、事件だ。しかも急務の。
咲「だ、誰か、来てください!!菫さんが大変なんです……!!」
その日、宮中は前日にも勝るとも劣らない騒ぎになった。
後に菫が智美と女御からきつく説教を喰らったのは余談である。
■ ■ ■
■ ■ ■
霞「最近の采王は、ちょっと大人っぽくなった気がするわね」
咲「え?」
目の前で静かに茶を啜る咲に延王はそう告げる。
言われた言葉に、咲はきょとんとして霞を見上げた。
哩「私もそう思うとね。何というか、王としての貫禄が出てきた感じもするばい」
霞の隣りに寄り添うように座っている哩も、主人の言葉に深く頷いた。
霞「ふふ。この数年の間に国も落ち着いてきたようだしね」
咲「…そうですね。本当に、色々とありましたが……」
あれからどのくらいの月日が経ったのだろうか。
国土に天変地異が起こる事は無くなり、人を襲う妖魔も姿を消した。
他国へ逃げていた自国民も徐々に戻ってきて町には賑わいが戻りつつある。
きっと、たった数年の事だが。
それでもこの国の先には希望が見えてきたと世間より言われ初めてきた頃。
咲にしてみれば駆け足のような日々だった。
まぁ、こんな日々はまだまだ続く予定なのだが。
菫「延州国の王と麒麟はもう帰られたのか」
咲「はい、先ほど。菫さんにもよろしく伝えてくれと言ってました」
菫「そうか。挨拶できなくて申し訳ない。…ちょっと仕事が立て込んでいてな」
咲「菫さんは仕事に決して手を抜けない性格ですからね」
くすりと咲が微笑むと、菫もつられるように淡く笑んだ。
菫「生真面目なのは主上も同じだろう」
咲「ふふ、そうですね。お互い様ですね」
菫「ああ。お互い様だな」
2人して顔を合わせ、笑みを交わし合う。
その時扉が数回叩かれた。
「どうぞ」と入室を促すと、智美と憧が部屋へと入ってくる。
智美「主上。治水工事の採決書類を受け取りに参りました」
咲「あ、はい。机の上に置いてあります」
憧「さすがは主上。明日までの書類をもう終わらせてるなんてね」
智美「何せうちの国は王と麒麟は揃って生真面目だからなぁ」
憧「2人とも手を抜けない性格ってやつね」
先ほど自分たちが話していた内容を他人の口から聞かされ、咲も菫も思わず頬を染める。
智美「ワハハ。いわゆる似た者夫婦ってやつだな」
咲「ふ……夫婦っ!?」
菫「と、智美!からかうんじゃない!主上が困っているだろう!」
智美の言葉に頬を更に赤く染める王と麒麟。
堪らず菫が吠えるが、智美は何処吹く風で飄々と机の上の書類を弄んでいる。
智美「あ、そうそう。先日塞殿が地上より面白い遊具を持ち帰ってきたんですよ」
咲「面白い…遊具?」
憧「ああ、あれのことね。私も誘われてやってみたけど中々楽しめたわ」
菫「一体何のことだ?」
咲も菫も何のことか分からず二人して顔を見合わせる。
智美「何でも、麻雀という遊戯らしいですよ」
咲「麻雀?」
菫「何だかよく分からんが…面白いのか?」
智美「ええ。塞殿なんてすっかりハマってしまって、連日純ちんや誠子ちんを相手に楽しんでますから」
憧「今度は主上と台輔も誘うって、塞が息巻いてたわよ」
咲「そうなんですか。それは楽しみです」
智美「ワハハ。何となく主上は物凄く素質がありそうな気がします」
咲「へっ??」
カン!!
乙
乙でした!
可能なら他の国の王も知りたいな
乙!
最後仲直りできて本当によかった。
すばらな咲菫でした
>>622 十二国の王と麒麟はこんな感じです。
才州国 王・咲 麒麟・菫
雁州国 王・霞 麒麟・哩
巧州国 王・洋榎 麒麟・胡桃
恭州国 王・セーラ 麒麟・仁美
戴極国 王・和 麒麟・初美
漣極国 王・灼 麒麟・やえ
舜極国 王・智葉 麒麟・成香
芳極国 王・慕 麒麟・閑無
慶東国 王・久 麒麟・尭深
範西国 王・爽 麒麟・ネリー
奏南国 王・由子 麒麟・まこ
柳北国 王・健夜 麒麟・はやり
この話の後は国同士の交流も盛んになったりして、
咲に一目惚れした和が猛アタックしてきてハラハラする菫やら
久と爽の隣国同士のタラシ王ぶりにも我関せずな尭深とネリーやら
番外編みたいなものも考えてますので、いつか書けたらと思います。
それでは、ここまで見て下さった方々に感謝を込めて。
長い間お付き合い頂きましてありがとうございました!
清澄の王率ww
乙でしたー
乙乙 楽しかったよ
乙です
おつ!
ほんとに長い間楽しませてもらった
番外編も楽しみに待ってます
乙!
十二国記読んだことないけど面白かったよー
今度、原作も読んでみようと思う
完結お疲れ様
かなり面白かったです
他の国も見てみたい組み合わせが多くて困る
乙 キャラが皆たってて面白かった
連休にじっくり読み直すかな
蒲原のファーストネームはさとみです
とりあえずとりいそぎ
だ、だよな・・・
俺が間違えてるのかと思った
とりあえず乙でした
面白かったよ乙乙
>>624の柳北国、アラフォーサウザンドくらいはいってね?ww
柳北国の圧倒的帝国感
完結乙でした
シノハユのメンバーもいるんだな
どの国も見てて楽しそうだ、というか失道するところが想像できない
わかっちゃいたが京太郎いねぇwww
脇でもいいから出てきたら面白そうだなぁと
乙でした
やえさんは王じゃなくて麒麟なのか
久はタラシすぎて麒麟を失道させそうな気も
長期間の連載お疲れ様。楽しませてもらいました
番外編も楽しみにしてます
本当にお疲れ様
すごく楽しみにしてました
別スレのフランスのやつ?も
楽しみにしてるからよろしくな!
素晴らしかった
続篇希望おつ
このSSまとめへのコメント
十二国記ssとは珍しい
面白いし
十二国記ssとは珍しい
面白いし
面白いけどやたら評価下げてる馬鹿はなんなんだ?これ面白くないとか…
更新楽しみにしていますm(_ _)m頑張って下さい
面白かったです。最後までがんばって更新してください。