男「おかえり、お嬢ちゃん」女「うん、ただいま」(91)



名前も知らない鳥がさえずった。
春が来たのだと直感した。うららかな春だ。

数十キロメートル頭上では、例年と代わり映えしない青空がどこまでも続いている。
数百メートル先の森は青々と茂っているが、ところどころ禿げていた。
おそらく、空気はまだ少し冷たいんだろう。そう推測した。

数十メートル先の、軽自動車一台分ほどの道幅の道の脇には、淡い桃色が並んで咲いている。
散った花びらの量は灰色の道を覆うほどだ。それでも、未だに花びらはあちこちで舞っている。
そして眼下の田んぼには、乾いた土が散らばっている。周囲に稲は無い。

今日も彼は、その寂しい田んぼの隅っこに突っ立っていた。
いや、突き刺さってたという方が正しいかもしれない。
何をするわけでもなく、生まれたときからここに突き刺さっている。
それが仕事なのだから、仕方ない。



そうは考えても、もう何十年になるのだろうか。
目の前の道を人が通り過ぎる度に、羨ましく思う。
自らの足で好きな場所へ行けるだなんて、夢のようだ。
とても羨ましい。

そんな彼の毎日の唯一の楽しみは、目の前の道を通る人を眺めることだった。
赤や黒の鞄を背負った少年少女は、いつの間にか大きくなっていて、驚いたりもする。
彼らの母も、いつの間にか老けていて、それを見たときは何とも言えない気持ちになることもある。
毎日そこを歩いていた老人が、突然ある日を境に来なくなってしまうなんてこともあった。

そういうときは、月日が流れるのは早いものだと改めて感じる。
光陰矢の如しという言葉が、頭を過ぎった。誰から聞いたんだったか。



この辺りの風景も、少し変わってしまった。
昔は、道は土がむき出しになっていたのに、今は濃い灰色の塊に覆われている。
緑も少し減ったような気がする。そして、子どもの数も。
彼は昔の風景が好きだった。
昔と変わらないのは自分自身と、眼下の田んぼだけだ。

寂しい。これから先のことを考えると、もっと寂しくなった。
いったい、いつまで続くんだろうか。
答えは出ない。彼はここに立っていることしかできない。


眼下に広がる田んぼは、未だに殺風景だ。
水が張っているだけマシなのかもしれないが。

あたたかい風が水面を撫でる。
そこに映る潰れた赤い光が揺れた。夕陽だ。

彼はその日もいつもと同じ場所に、いつもと同じように立っていた。



漫然と無人の道を眺めていると、どこか遠くで
無機質な鐘の音のような音が、空気を揺すった。
夕方、この電気的な音が聞こえると、鞄を背負った少年少女の姿が現れ始める。
彼は外のルールも、なんとなくだが分かっていた。

少年少女らは学校に行き、様々なことを学ぶ。
そこで友人を作り、ともにはしゃぎまわる。
自由に、縦横無尽に走り回るのだ。笑いながら。
ああ、楽しいんだろうなあ。田んぼの外の世界に想いを馳せずにはいられなかった。


考えているうちに、赤い鞄を背負った少女たちと
黒い鞄を背負った少年たちが、ちらほら道を通り過ぎていく。
みんな声を上げて笑い、並んで歩いている。
その姿を見ていると、変な気分になる。
もう慣れたものだが、まだ何万回もこれを見せつけられるのかと思うと、正直うんざりだった。

しばらくすると、その流れも途切れた。
日は身体を半分ほど地平線に隠している。
辺りはまだ明るいが、夜に切り替わる準備を着々と進めていた。

夜が訪れると、ここの人の通りはゼロになると考えてもいい。
太陽が地平線の向こうに消えたときが、ひとりの暗い時間が始まる合図だ。
ああ、夜が来る。忌々しい夜だ。

気分が濁った水に沈んでいこうとしたそのとき、短い悲鳴のような声が聞こえた。



はっとして目の前の道を見ると、赤い鞄を背負った少女が倒れていた。
髪の長い、幼い女の子だ。水色のワンピースのような服を着ている。
顔は今にも泣き出しそうなほど、くしゃくしゃだった。

おそらく、何かに躓いて転んだのだろう。
辺りに躓くような障害物は何もなかったが、たぶん、そうだろう。

それを見た彼は思わず、「大丈夫か?」と声を掛けてしまった。
言ってから、後悔した。


「……だれ?」少女はゆっくりと起き上がりながら、涙声で言った。

どうする。答えるか?
いや、また捨てられそうになるかもしれない。
答えないほうが賢明なのかもしれないな。
この娘にトラウマを植え付けるのにも、少し抵抗があるし。

彼は黙秘を貫き通すことにした。
今、この辺りには彼以外には誰もいないので、おそらく誤魔化せるだろう。



しかし、少女は案山子に歩み寄り、話し始めた。
「もしかして、かかしさん?」
目には涙が浮かんでいる。膝からは血が出ている。どうやら擦りむいたらしい。

彼は驚いて、呆れた。
確かにこの辺りは案山子以外には田んぼばかりで、ものというものは何もないが、
いくら子どもだからと言って、案山子に話しかけるようなメルヘンチックなやつがいてたまるか。
そう思いつつも、少し嬉しかった。
だからかなんなのか知らないが、思わず喋り始めてしまった。

「そうだよ。案山子さんだよ」

「え?」少女は目を丸くした。
そして数秒の沈黙のあと、涙を流し始めた。


泣かれてしまった。何してんだよ、お前。
彼――案山子は激しく自責し、後悔した。

はあ、やってしまった。またこれだ。
だから人には話しかけないようにしてたのに。
明日になれば大人がやってきて、俺をどこかに持っていくんだろうな。
前は何とか逃れられたけど、今度こそ廃棄処分か。
少女がここから走り去って、誰かを呼びにいったときが最後だ。

しかし、少女は逃げ出すことも、悲鳴を上げることもなく、
ただ泣きながらそこに留まっていた。それはそれで困るものだ。
参ったね、こりゃ。


「なあ、泣かないでくれよ」案山子はふたたび喋り始めた。
「別に俺はお嬢ちゃんに悪いことをしようってわけじゃないんだ」

「うん」少女は鼻を啜った。

「逃げないのか?」

「うん」少女は大きく頷いた。

「どうして?」

「あしが痛い」少女は擦りむいた膝を指差すと、また涙をぼろぼろ零し始めた。

「怪我してなかったら、逃げたのか?」

「うん」

正直で、変なやつだ。案山子は内心で笑った。


しばらく待っていると少女は泣き止んだ。
それでもそこから動かなかった。脚が痛いのだろうか。
お互い無言だった。それは三分近く続いた。
なんとなく気まずい空気が漂い始めたので、
案山子は少し話し相手になってやることにした。

「なあ、お嬢ちゃん。歳はいくつなんだい」

「六歳」

「もう暗くなるぞ。早く帰らないと父ちゃんと母ちゃんが心配してるんじゃないのか?」

「でも、あし痛い」少女は膝を抱えてその場に座り込んだ。

「家まで遠いのかい?」

「うん。たぶん、一億センチメートルくらい」

「なんだそりゃ」センチメートルって何だ?


少女の表情は少し明るくなった。「かかしさんはお家に帰らなくていいの?」

「いいんだ。ここが俺の家だからな」

「ここが? でもここ、田んぼだよ?」

「そうだ。田んぼが俺の家なんだ」

「これじゃテレビも見れないし、おままごともできないよ?」

「そうだな」

「かわいそう」少女の表情は少し曇った。


「なら、俺もお嬢ちゃんの家に連れてってくれよ」

「お母さんに犬や猫を拾って帰ってくるなって言われてるけど、大丈夫かな?」

「冗談だよ」やっぱり変な娘だ。
案山子は内心で吹き出したが、二割くらいは本気だった。「俺は自分では歩けないからな」

「わたしが引きずっていこうか?」

「家まで遠いんだろ? 一億なんとかって、さっき言ってたじゃないか。それに脚も痛いんだろ?」

「そういえばそうだった」少女は照れ隠しのような笑みを浮かべた。

「おいおい」案山子も内心で笑った。


ああ、人と話すってのはなんて楽しいんだろう。案山子はすっかり楽しんでいた。
なにしろ、人と会話するのは何十年ぶりなのだ。
あのときのは会話とは言わないのかもしれないが。

人以外にも話し相手になってくれるのがたまにいるが、
鳥や虫、猪なんかとはほとんどコミュニケーションが取れない。
それらを追い払うためにここに立っているのだから、
吐かれる言葉は暴言のようなものばかりなのだ。
今までは人間にも暴言を吐かれた事があったが、
ここまで普通に接してくれる者はこの娘が初めてだった。

だから、嬉しくて仕方なかった。たとえ六歳の少女でも、だ。


「なあ、お嬢ちゃん」
話したいことは山のようにあったが、とりあえず、これだけは言っておかなければならない。
この娘の未来のために。そして案山子自身の未来のために。
「俺が喋る案山子だってことは、誰にも言わないでくれよ」

「どうして?」

「捨てられるかもしれないからな」

「どうして?」

「お嬢ちゃんの周りの人はみんな、喋る案山子は気持ち悪いって言うと思うんだ」

「そんなことないよ。みんないい人だよ?」

「ああ。きっとそうなんだろうけど、俺にはみんな冷たいんだ。
喋ると分かったら、俺はたぶん二度とお嬢ちゃんと会えなくなっちまう」

「んー、そっかあ……」少女の顔はふたたび曇った。


「だから、俺が喋るってのは俺とお嬢ちゃんだけの秘密だ」

「わかった、約束する」少女は言い、小指を立てて手をこちらに伸ばした。
表情はもとの明るいものに戻っている。切り替えの早さに思わず感心した。

「なんだい、そりゃ」

「ゆびきり。約束をするときは、みんなこうするよ。知らないの?」
少女は案山子の腕に相当する棒の先端に
ぶら下がっている手袋の小指部分を、自身の小指で掴んだ。
その小さな手は、とても温かかった。

「知らないな」

「変わってるねえ」

「案山子だからな」


「ゆーびきーりげんまん」少女は手を振りながら、笑顔で奇妙な歌を歌い始めた。

ほんとうに変わった娘だな。案山子は内心で微笑んだ。
変わった娘だからこそ、こうやっていてくれているのかもしれないが。
この娘も大きくなったら、俺のことを忘れちゃうんだろうな。
少し寂しくなったが、別に今更どうってことないよなと自分に言い聞かせた。
そう、今に始まったことではない。ひとりに戻るだけだ。ただ、それだけのこと。

「ゆびきった!」どうやら儀式は終わったらしい。少女は勢いよく手を振り切った。
おかげで汚い手袋が少し伸びてしまった。まあいいか。


少女は続ける。「約束、やぶっちゃだめだよ」

「約束って、俺は何をすりゃいいんだよ」

「ふたりだけの秘密なんだから、かかしさんも誰にも言っちゃだめだよ」

「はいはい」案山子は笑ってから、尋ねた。
「なあ、どうでもいいかもしれないけど、家に帰らなくていいのか?」


太陽は地平線の向こうにほとんど姿を隠している。
辺りは真っ赤に染まっていた。仕舞いにはカラスの鳴き声が響き始めた。

「でも、あし痛いし……」

「それだと、いつまで経っても帰れないじゃないか。
もう夜になっちまう。みんな心配してるぞ」

「うー……」少女はその場で、膝を抱えて座り込んだ。

「送ってやりたいのは山々なんだが、生憎俺はここから動けないんだ。悪いな」

「んんん……。どうしよう。さらわれちゃうよ」

「誰に?」

「わかんない。お母さんと先生が言ってた。夜遅くに外にいるとさらわれるって」

「なら、なおさら早く帰らないとな」

「うー……」


唸る少女から目を離し、道のほうを見てみると、遠くに人影が見えた。
あまり見ない顔だ。人の顔を憶えることには自信がある。

「おい。誰か来た。攫われちまうぞ」

少女は身体を大きく震わせ、人影の方を見た。
そして口を開いた。

「お母さん!」それから、駆け出した。

「脚痛いんじゃなかったのかよ」思わず内心で苦笑した。
しかし、そんな案山子の呟きは聞こえていなかったらしい。
少女はそのまま母親のもとに走っていった。


「どこで何してたの? 心配したんだから」

「忘れものを取りに戻ったら、ここで転んじゃって……。ごめんなさい」
冷たい風に乗って、親子の会話が聞こえてくる。

「そう。ま、大丈夫そうで良かったわ」

「うん、かかしさんとお話してたから」

「おいおい」案山子は声を出さずにはいられなかった。


「案山子?」

「あ、いや、なんでもない」

「ふうん。じゃあ、早く帰ろうか」

「うん!」少女は大きく首を縦に振った後こちらを向いて、小指を立てながら手を振った。「またねー」

「おいおい」案山子は声を出さずにはいられなかったが、
少女の笑顔を見ていると、そんなことはどうでもよくなった。
なんだか変な気分だ。ひとりだったときとは、また違う寂しさに襲われる。

辺りは夜に染まろうとしていた。
ひとりの時間が迫っている。
案山子は踵を返した少女と、その手を握る母親の背中を静かに見送った。

眠い!





「そうかあ。あれももう三年前かあ」案山子はしみじみ思った。
「あの頃は可愛かったのになあ」

「なにそれ。どういう意味?」少女は訝しげな目線を案山子に送る。

「深い意味はない」

「ほんとうに?」

「ほんとうだ。昔ほどじゃないが、今も可愛いぞ」

「か、かか可愛いだって。は、恥ずかしい」

「なに照れてんだよ」
辺りは少し暗くなってきていて、少女の顔は薄っすらとしか
目視できなかったが、たぶん頬を赤らめているんだろう。


五月も終わりに差し掛かっていた。
薄桃色などこれっぽっちも残ってはいない。
桃色だった道は、灰色に戻っていた。
ところどころ禿げていた森も、今では緑一色だ。

眼下の殺風景だった田んぼには、苗が等間隔で並んでいる。
風が吹く度にそれらが小さく震えるのを見ているのも、なかなか楽しいもんだ。
この時期になるといつも思う。
しかし今は、この娘と話している以上に楽しいことはない。

「もうすぐ梅雨だね、かかしさん」
少女は地面に置いたランドセルの上に腰掛けた。

「ああ、最悪だ。今年もびしょ濡れだろうな」

「でも、畑にとっては恵みの雨なんでしょ? 学校で習ったよ」

「俺にとっては鬼のように見えるぜ。恵みも一定量を超えれば迷惑でしかない」

「んん、難しいね」

「ああ、難しいな」


「おじちゃんに頼んで、梅雨の間だけ家の中に入れてもらえば?」

「俺が家に入れてくれなんて言ったら、きっと焼却炉行きだ」

「じゃあ、わたしの家に避難するとか」

「お嬢ちゃんが俺を引っこ抜いて勝手に持っていったら、おじちゃんに怒られるぞ」

「む……。それは困る」少女は腕を組んで悩み始めた。
眉間に皺を寄せ、九歳の少女らしからぬ表情を浮かべている。

案山子は少し申しわけない気持ちになった。
「心配してくれるのはありがたいけど、大丈夫だよ。
雨なんて慣れたもんさ。俺が何十年案山子やってると思ってるんだ」


「うーん、二〇年くらい?」

「んー、もう七〇年くらいになるのかなあ」

「七〇!」少女は驚嘆の声を上げた。「お爺ちゃんじゃん!」

「まだまだ元気だぜ。お嬢ちゃんが死ぬまで俺が見守っていてやろう」

「えー」

「嫌なのかよ」


六歳の変な娘は、三年経っても変な娘だった。
なにしろ、三年もここに通い続けているのだから、変ではないわけがない。
背は伸びて、言葉遣いも歳相応のものだが、それでも根っこは変わらないようで、
髪や笑い方は全く変わっていないように思える。
三年間、ほとんど毎日見続けてきたからそう感じるのかもしれない。

当たり前だが、服装も初めて会ったときとは全く違っていた。
黄色いシャツの上に紺のパーカーを羽織り、
膝までほどの丈のぶかぶかとしたズボンを穿いている。
足元はには小奇麗な靴が見えた。
それが歳相応の服装なのかは案山子にはよく分からなかった。どうでもよかった。
大事なのは着ている服ではなく、その服を来ているのが誰かということだ。


「じゃあ、今日はそろそろ帰るね」少女は言う。

案山子ははっとして辺りを見渡した。
すでに日が沈んでいて、田んぼは薄暗かった。
いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。

「おう。気をつけて帰れよ」案山子は言った。

この言葉を言う度に、身体に穴が開いたような感覚に襲われる。
昔は感じたことのない、不思議な感覚だった。
そんな幻の空洞を、少女の言葉が埋めてくれる。
ほんとうに不思議な感覚だった。

「またねー」少女は手を振りながら、ゆっくりと遠ざかっていった。
案山子は奇妙な感覚に苛まれながら、今日も少女の背中を見送った。


時間は昼頃なのだろうが、空は灰一色で、
垂れ込めた雲は今にも雨を落としてくれそうだった。
人の気配は皆無だ。漂うのは湿った空気だけで、いよいよだと感じさせられた。

しばらくすると、眼下の濁った水溜りに、いくつもの波紋が広がりはじめた。
広がった波紋は重なり、また降ってきた粒にかき消される。

雨だ。忌々しい、恵みの雨。梅雨が来たのだ。


小降りだった雨は徐々に勢いを増し、
数十分後には豪雨と呼べるようなものに姿を変えた。
波紋を眺めている場合ではなくなってしまった。
大きな雨粒は溜まった水をべちゃべちゃと跳ねさせ、
濁った水の一部として吸収されていく。

もちろんそれは案山子にも襲い掛かる。
あっという間に纏っていたぼろぼろの布は水を吸い、腕部分に重くのしかかった。

ああ、最悪だ。案山子はため息を吐きたい気分だった。
大粒の雨は痛い。頭は笠を被っているからまだ大丈夫だが、腕が痛い。

そして何より、心細い。
慣れたものだと思ったものだが、ここ一・二年は、
この時期になると異常に寂しくなる。


早く去ってほしい。雨雲なんてお呼びじゃないんだ。
土地が潤っても、俺には何の利益もない。
できた作物を食べられるわけではないし、
ここに立っているのを特別感謝されるわけでもない。
ここに立っているのが、当然なんだ。案山子なんだから。

ああ、お嬢ちゃん。早く来てくれ。
俺を救ってくれ。
案山子は目の前の道を眺めながら、電気的な鐘の音を待った。


数時間が経ち、雨脚は少し弱まってきた。
それでも大雨には違いないが、先程と比べると幾分マシだ。

そして、ようやく案山子の待ちわびた時間が訪れた。
桃色の傘を差した少女が、案山子の前で立ち止まり、口を開いた。

「びしょびしょだね」少女は歳相応の可愛らしい笑みを浮かべた。

「濡れた俺も中々かっこいいだろ?」案山子も笑った。おそらく、表情には出ていないだろう。

「いや、ぶさいく」

「言うねえ」子どもというのは、なかなか残酷なところがある。嫌いじゃない。


「雨、やだよねえ。かかしさん」少女は遠くの森を見ながら呟いた。

「そうだな。最悪だ」案山子は少女を見ながら言った。

「学校が遠いから、傘差してても服がびちょびちょになっちゃうよ」

「ああ、家まで遠いんだったな。一億なんとかだったっけ」

「え? 何それ」少女は勢いよく振り返った。

「え? ほら。昔、言ってたじゃないか。家までは一億……なんだっけ。セン……センチ?」


「センチメートル?」

「そう! それだ!」

「家まで一億センチメートルって、わたしが言ったの?」

「もしかして、覚えてないのか?」

少女は顔を伏せながら頷いた。「何それ。は、恥ずかしい……」

「やっぱりお嬢ちゃんは変なやつだな」

「きょ、今日はそろそろ帰るね」

「おう。雨がマシなうちに帰っといたほうがいいかもな。気をつけてな」

「うん」少女は踵を返し、ゆっくりと歩き始めた。
ばしゃばしゃと汚い水が跳ねる。
しかし、数メートル進んだ後、立ち止まった。


「どうした?」

「あ、あのさ。わたしの家はここから二、三キロメートルくらい先だからね」

「おう」言い訳をしたつもりらしいが、案山子には
一キロメートルというのがどれほどの遠さなのかが理解できなかった。

「じゃあね!」少女は早足で立ち去った。

嵐の前の静けさのような穏やかな時間は過ぎ去り、案山子はひとりに戻った。
また、身体の中心に空洞ができたような、孤独感に襲われる。

雨のせいだ。
ああ、早く止んでくれないかなあ。
そしたらもっと長い時間話せるのに。

その雨は三日間降り続いた。後の二日、少女はここに現れなかった。





嵐は過ぎ去った。

蝉が鳴いている。どこかで、風鈴が鳴った。
夏が来たのだと直感した。

熱を持った光が、あらゆるものに平等に降り注ぐ。遠くがゆらゆらと揺れている。
緑には生命力がみなぎっているように見えた。
遥か遠く陽炎の中に、虫取り網を持って走り回っている子どもたちも窺えた。
子どもたちはいつも元気だ。有り余る力を虫の捕獲に費やす。
今年も多くの蝉の愚痴を聞くことになるんだろう。

周囲の田んぼに張っている水に光が反射し、きらきらと輝いている。眩しい。
小さかった苗は、案山子の身長の三分の一に達するほどに成長していた。

ぬるい風が辺りを撫でた。さらさらと、稲同士が擦れる音が響く。
ああ、この空気だ。
今、ここに漂っている空気が、案山子は一年の中でいちばん好きだった。


「はあー。疲れた」
タンクトップと膝までのズボンを着た少女が、向こうから歩いてきた。
頭には麦藁帽子、足元はサンダルだ。
露出した肌は、健康的な色をしている。

「お疲れさん」案山子は言った。「服がびちょびちょだけど、汗か?」

「こんなに汗かいたら脱水症状で死んじゃうよ。
水だよ、水。友達と川で遊んできたの」

「そんな格好だと悪い虫が寄ってくるぞ?」

「大丈夫だよ。虫除けスプレーしたし」

「そうか」


「あ、そうだ。かかしさんもいっしょに行く? 川」

「いや、俺はいいよ。流されそうだ」

「確かに」少女は吹き出した。「運動音痴っぽい」

月日は流れる。たとえ、ひとりが願ったとしても、時間が止まることはない。
少女と出会ってから、六年が経った。ほんとうに、早いものだ。

少女は赤い鞄を背負わなくなり、代わりに
重たそうな鞄を肩に提げて学校へ向かうようになった。
服も学校で決められたおとなしいものを着て、
何人かの友人と学校生活を謳歌しているようだ。

そして、この時期になると学校は長い休みに入るらしい。
それは少女にとっても案山子にとっても、とても喜ばしいことだった。


「ねえ。前から思ってたんだけどさ」少女は言った。

「なんだ?」

「かかしさんに、名前ってないの?」

「名前は無いな。いや、“かかしさん”って名前があるかな」

「それじゃ不便じゃない?」

「別に。俺のことを呼ぶのはお嬢ちゃんしかいないんだし、
もう六年も“かかしさん”って呼ばれりゃ、それに慣れちまったよ」

「でも案山子のことを“かかしさん”って呼ぶのっておかしくない?
あれだよ? 人間のことを人間さんって言うのと同じだよ?」

「俺から見ればお嬢ちゃんは“人間さん”だけど」

「む……」少女は黙り込んだ。


道の向こうに、ふたつの人影が見えた。
「ほら、誰か来たぞ。さっさと遊んで来い。
案山子なんかと話してるメルヘンチックな女だって言われるのは嫌だろう?」

「むむ……」少女は人影の方をちらりと見てから、それとは逆の方向に歩き始めた。
「名前、また考えてくるね」

「いや、別にいらないって」



夏の日の入りは遅い。それでも辺りは薄暗くなり始めていた。
蒸し暑い風に乗って、遠くから太鼓の音が聞こえてくる。
適当に周囲を見渡してみると、灯りが集中している場所が一箇所あった。
どうやら、今日はその辺りで祭りがあるらしい。

お嬢ちゃんも行ってるんだろうか。
毎年行ってるらしいから、行ってるんだろうな。
いいなあ。見てみたいなあ。
また、お土産話を聞かせてもらおう。

案山子の考えることは、あの少女のことばかりだった。
ああ、あのお嬢ちゃんと祭りに行けたら、どれだけ楽しいだろうか。


「おーい」声が聞こえた。
あまりに都合のよいタイミングで聞きたい声が聞こえたので、
幻聴かと疑ったが、どうやらそうではないらしい。
案山子が声のほうを見ると、見覚えのある顔が、見覚えのない服を着てそこにいた。

「こんなところで何してるんだ、お嬢ちゃん」
案山子は呆れながらも、嬉々とした声を上げた。

「いやあ、かかしさんが寂しくないかなって思って」
少女は右手に持ったふわふわとした綿のようなものを頬張りながら、笑顔で言った。
左手には金魚の入った袋をぶら提げていて、頭には気味の悪いお面を着けている。
どうやら祭りを大いに楽しんできたらしい。

「気が利くね。お嬢ちゃんはいいお嫁さんになれるな」

「いやあ、照れるなあ」少女は歯を見せて笑った。


「それにしても、今日は変わった服を着てるな。なんだそりゃ」

「浴衣だよ。似合うでしょ?」
少女はその場で二回転した。長い髪がふわりと浮く。

「似合う似合う」

「へへへ」

「でも、そのお面はどうかと思うぞ」

「そうかな。結構好きだけどなあ」

「お嬢ちゃんは変わり者だからな」

「失礼なかかしだね。ばらばらにしてやろうか」

「怖い怖い」案山子は声を上げて笑った。


「むー。そんなに変かなあ、このお面」少女はお面をまじまじと眺めながら呟いた。

「どうだろ……うわっ」案山子が言い終わる前に、少女は案山子の顔にそのお面を被せた。

「むうーん。かかしさんには似合ってると思うけどなあ」

「おお、そうか。どんな感じだ?」

「なんか、月が降ってきそうな感じ」

「意味分かんねえよ」


気付けば辺りはすっかり暗くなっていた。時間が経つのは早いものだ。
祭りはまだ続いているらしく、太鼓の音がこの辺りまで響いている。

「なあ、お嬢ちゃん。もっと祭り楽しんできた方が良かったんじゃないか?」

「ううん、いいの。たまにはこういうのも悪くないよ」

「ほんとうに変わってるな。
友達と祭りに行くより、案山子と祭りを眺めてるのがいいのかい?」

「友達と祭りを眺めてるのがいいの。分かる?」

「そうかい」

ふたりは黙り込んで、遠くを眺めていた。
太鼓の音に交じり、虫と蛙の鳴き声が聞こえ始めた。

「ああ、確かに悪くないな」案山子はぽつりと言った。

「でしょ」


「なあ、お嬢ちゃん。もし良かったら、祭りの話を聞かせてくれよ」

案山子が言うと、少女はため息を吐いた後、「うー……」と俯いた。

案山子にとってそれは予想外の返答だった。
だから、ほぼ反射的に「どうした?」と聞いた。

「いや、ちょっとね」

「祭りで何かあったのか?」

「うん、まあ……」

「友達と喧嘩したとか?」

「うん、正解。さすがかかしさん」少女は弱々しく微笑んだ。

「まあ、六年も見てきたからな。大体分かる」

「なんかお父さんみたい」

「そんなこと言ったら、お嬢ちゃんのお父ちゃん泣いちゃうぞ」

少女は無邪気な笑みを浮かべた。それから、その場に腰を下ろした。


「ほら。座ってないで、さっさと仲直りしてこい」案山子は優しく言った。
「友達は大事にしなきゃ駄目だ」

「うん……。でも、なんて言えばいいの?」

「喧嘩の原因は知らんが、とりあえず謝って、
仲直りしたいって言えばいいんじゃないのか?
昔はみんなそうやってた。今はあんまり知らないけどな」

「は、恥ずかしい」少女は顔を伏せた。


「ちょっとくらい仕方ないだろ。
それが終わったら、また友達といっしょに屋台を回れるんだぞ?
そんなに楽しいことを止めるなんて、勿体ない」

「うん……、そうだよね」少女はのろりと立ち上がった。

「ほら、行ってこい。仲直りできたら、俺に祭りの話を聞かせてくれよ」

「うん!」少女は元気な返事をし、明るい場所に向かって暗闇を駆け出した。
「待っててねー!」

「おう、待ってるぞ」案山子は生き生きとした少女を優しく見送った。
結局、案山子の名前は思いつかなかったようだ。どうでもいいか。


祭りは終わり、嵐が迫っていた。
風が強く、辺りは暗い。
風が空を裂く音が、不気味な雰囲気を引き立たせている。
垂れ込めた雲から、雨がちらほら降り始めた。
少女が言っていた“台風”というやつだろう。

案山子は変わらず田んぼの隅に佇んでいた。
周囲には誰もいない。あるのは風に煽られる稲だけだ。

いつもなら身体に空洞が開いたような気分だったんだろうが、この年は少し違っていた。
案山子の中は少女のことでいっぱいだった。
祭りの日に聞いた話を、内側で何度も反芻していた。


やがて嵐は訪れた。

地をなぎ払う風が森を大きく揺すり、木から嫌な音を鳴らす。
地を撃つ雨は何かがはじけるような轟音をたてながら、視界を奪う。
地への落雷は無視できないほどの音を響かせ、町の人々を怯えさせた。

しかし、案山子はそんな風雨に曝されても
苦しくはなかった。寂しくもなかった。
明日のことを考えると、そんなことはどうでもよかった。

これくらい、どうってことはない。俺はひとりじゃないからな。





「ねえ、かかしさん。昨日、面白い本を読んだよ」

「ふうん。どんな本なんだ?」

「喋る案山子がばらばらにされる話」

「やめろ」

少し涼しくなってきた。
蝉の声は聞こえなくなり、頭上には赤とんぼが舞っている。
田んぼに生い茂った稲も収穫されて、赤々とした日の光に曝されている。
秋が来たのだと直感した。

遠くで生い茂っていた緑も、今は赤く染まっている。
空は幻想的だと思えるほどに綺麗な夕焼けをしていた。
そして田んぼは、また殺風景なものに戻っていた。

案山子はこの光景も好きだった。
赤と黄金に染まる町も、綺麗なものだ。


「今年も無事で良かったねえ」

「そうだな」

少女と出会ってからは九年が経った。
九年前の面影はほとんど残っていないように見えるが、
ときどきよく分からない発言をする辺りは変わっていない。
やはり変わった娘だ。
未だにここを訪れるだなんて、ほんとうに変わっている。

「で、何なんだ。その箱みたいなのは」
案山子は少女が手に握っている薄っぺらい箱のようなものを、まじまじと見つめていた。

「ふっふーん。聞いて驚け。これは携帯電話だよ」少女は自慢げに言った。

「何だそりゃ」

「これを持ってる人同士なら、いつでもどこでも、どれだけ離れてても会話ができるんだよ」

「ほう。それはすごいな」


「写真も取れるんだよ」
少女は携帯電話を案山子に向け、シャッターを切った。小気味良い音が鳴る。
「ほら、かかしさん」そして画面を案山子に向けた。

「おいおい。不細工な顔してるなあ、こいつ」

「そうかな。わたしは結構好きだけどなあ」

「お嬢ちゃんは変わり者だから当てにならんな」

「かもね」少女は微笑んだ。


ふたりは殺風景な田んぼに視線を滑らせた。
乾いた稲が、未だに夕日に曝されている。
どこもかしこも赤と黄色に染まった風景は、まさに秋を感じさせてくれた。
年が重なる度に、綺麗になっていっているように感じられる。
どうしてだろう? 案山子は不思議に思った。

弱い風が吹き、少女の髪をかきあげた。なびく髪に夕陽が光る。
案山子は思わずそれに目を奪われた。とても絵になっていると思う。
ぼーっとしていると少女がこちらを見て微笑んだので、急いで別の話を始めた。
「それにしても便利なもんがあるんだな、
携帯電話だなんて。どうして今まで持ってなかったんだ?」

「高校生になるまで駄目だって、お母さんに言われててね。
それで、昨日はわたしの一六歳の誕生日だったから」

「ほう。おめでとう」案山子は手袋をぱたぱたと動かした。

「ありがと」


「そうか、お嬢ちゃんももう一六歳かあ」
案山子は出会った頃の少女の姿を思い出していた。

水色のワンピースを着ていた小さなあの娘は、
今はカッターシャツの上にカーディガンを羽織り、
膝までほどの丈のスカートを穿いている。
案山子の目を通しても、見惚れてしまうほど綺麗になった。
ほんとうに同じ娘なのかと、不思議になるものだ。


「あの頃は可愛かったのになあ」案山子はしみじみ言った。

「今は違うって?」少女は笑顔を浮かべながら案山子を見た。
どこか恐ろしい雰囲気が漂っている。

「いや。可愛いけど、今は美人っていうほうがしっくりくるな」

「び、びび美人だって。は、恥ずかしい」

「やっぱりお嬢ちゃんは昔と何も変わってないな」案山子は呆れて笑った。
その日も暗くなるまでふたりはくだらないことを話し合ってから別れた。



翌日も似たような時間に少女は案山子の前に現れた。
そして現れるや否や、口を開いた。
「今日はかかしさんに相談があります」

「なんだ、改まって」

「ずばり言うと、好きな異性との距離を縮める方法を教えてほしいのです」

一六歳の少女らしい悩みだな、と案山子は微笑ましく思った。
同時に、少し寂しいような気もする。
「そういうことは俺よりも、お嬢ちゃんの友達に訊いたほうがいいんじゃないか?」

「と、友達に知られるのは……は、恥ずかしいし、
かかしさんなら何かいいアドバイスをくれるような気がして……」少女は顔を伏せた。

「何でそう思ったんだよ」案山子は内心で苦笑した。


「ほら。昔、わたしの背中を押してくれたじゃん。友達は大事にしろって」

「ああ」思い出した。三年前の夏祭りか。「そんなこともあったな」

「ほら、かかしさんの言うことは参考になるんだよ」

「そうか」

「で、どうすればいいと思う?」
少女は目を輝かせた。そこまで期待されるのも困るものだ。


「んー。その好きな人ってのとは、普通に話したりするのか?」
案山子はとりあえず、当たり障りのないような質問をした。

「いや、あんまり……」

「じゃあ、ふたりはほとんど話したことないのか?」

「ぐむむ……。さ、三回だけあるよ」

「なら、また話しかければいいじゃないか」

「そんな、は、恥ずかしい」少女はふたたび顔を伏せた。耳まで真っ赤だ。

「一言でいいんだ。言ってみると、意外な反応が返ってくることもあるもんだ」
案山子は初めて少女と出会ったときのことを思い出していた。
「話してみると、意外と気が合うかもしれないし、変なやつだって思うかもしれないけど、
話さないことには何も始まらないだろう。黙ってるだけじゃ駄目だ。何も伝わらない」

「おお。それっぽい」


「で、その好きな人ってのは、かっこいいのか?」

「うん。うん? どうかな……」

「なんだその曖昧な返事は」

「かっこいいというか、優しい? いや、うーん……?」

「……お嬢ちゃんはその子の何に惹かれたんだ?」

「うーん……何だろう。わかんないよ」

「そうか」案山子は内心で微笑んだ。
「とりあえず、話しかけてみればいいさ。なんなら友達の力も借りてさ。
お嬢ちゃんは美人だし、きっと何かしらの反応が返ってくるさ。そこからどうにでもなる」

「で、でも、もし駄目だったら?」

「駄目ならそのときだ。また俺のとこに来るか、友達に相談するんだな。
きっと友達も力になってくれるさ」

「ううううう……」少女は唸った。やはり変わった娘だ。

「俺に相談したのが間違いだったな」案山子は笑った。


「うう。頑張るよ。頑張ってみるよ」少女は疲れた表情を浮かべている。

「おう。応援してるぞ。成功したらお土産話を聞かせてくれよ」

「ま、まかせなさい」

「あと、その箱で、いろんなものを撮ってきてくれないか?」

「撮る? 写真? 別にいいけど、いろんなものって何?」

「何でもいいんだ。俺が見たことないようなものとか人とか、とにかく何でもいいんだ」

「ん、分かった」少女は踵を返し、ゆっくりと歩き始めた。
長い髪が揺れる。「じゃあ、明日から頑張るね」

「おう。頑張れよ」


「またねー!」少女は笑顔で手を振った。

「相変わらずだなあ」

案山子はいつものように、遠ざかる少女の背中を見送った。
地平線に溶けていくような真っ赤な夕陽が、妙に眩しく感じられる。
久しぶりに、身体に空洞ができたような虚無感に襲われた。

あの娘も、大人になっていってるんだなあ。
なんてったって、もう一六歳なんだもんな。
あの頃とは、ほんのちょっとだけ違うんだ。
ほんのちょっとだけ、あの娘は大きくなったんだ。

もうちょっとだけ続く

雰囲気がいいな





「寒くない?」

「おかげさまで」

「それは良かった」

「それで、どうなんだ。彼氏とは上手くいってるかい?」

「おかげさまで」

「そりゃ良かった」

「へへへ」


頭上に広がる夕闇と足元を白く染め上げる雪が、好対照をなしている。
遠くの森も禿げ上がり、木の肌の色をしていた。
他はどこを見ても真っ白だった。

大気には身体を刺すような冷気が漂っている。
冬の風は鋭さを持って、町に襲い掛かる。

少女の鼻は赤く、吐息が白い。可愛らしいくしゃみの後、鼻を啜ってから笑った。
案山子は少女から貰った赤いマフラーを巻いているので、寒さはさほど気にならなかった。
他に着ているのは、笠とぼろ雑巾のような布切れと汚い手袋だけだが。


「マフラーってあったかいんだな」

「わたしのマフラーだからあったかいんだよ。感謝してね」

「ありがとな。でも、いいのかい? これ貰っちゃって」

「うん。もう一個あるから」

「ほう。貰ったのかい?」

「へへへ」少女は頭を掻いた。


少女と案山子が出会ってから、十一年が経った。
あの小さかった娘は、もう大人になろうとしていた。
今は茶色のコートを纏い、もさもさとした手袋をはめている。

陽気な雰囲気は(昔よりは)薄れ、なんとなく(あくまで、なんとなく)
落ち着いた雰囲気が似合うようになった。
髪は昔よりも少し短くなっている。人は変わるものだと、案山子はしんみり思った。

それでも未だにここへ通い続けているというのは、
このお嬢ちゃんが変人だからに違いないだろうが、とも思った。


「あのね、かかしさん。最近、昔の約束を思い出したんだけど」
少女は沈んでく日を眺めながら言った。

「ん?」昔の約束?
必死に思い出そうとしたが、それらしいことは浮かばなかった。
「何か言ったっけ?」

「ほら、あれだよ。かかしさんの名前を考えてくるってやつ」

「ああ」案山子は笑った。「何年前の話だよ」

「むー、五年前くらいかな?」

「すっげえ今更だな」


「わたしは約束と信号だけは守る人間だからね」少女は誇らしげに言った。

「はいはい。で、考えてきてくれたのか?」

「いや、考えてないよ」

「なんだそりゃ」呆れた。

「名前欲しいの? ん?」少女は笑った。

「別に」

「欲しそうだねえ。むー……。じゃあ、“ユーゴ”ってのはどうかな」

「ユーゴ」案山子は復唱した。「悪くないんじゃないか?」

「でもこれ、昔読んだ本に出てくる、ばらばらにされた案山子の名前なんだよね」

「却下」


「むむ……。じゃあ、“ハンク”。いや、“くびえこ”とか?
むー、なんか違うな。……あ!」少女は大きな声を上げた。

「なんだ」

「“カブ”ってのはどうかな?」

「カブ? 案山子なのに蕪なのかよ」案山子は笑った。

「うわ。今のすんごいつまんないね」

「やめろ。悲しいだろうが」

「いや、わたしはしょうもない洒落みたいなのは大好きだよ」

「なんかなぐさめられてるみたいで余計に悲しくなるからやめてくれ」

「ふふ」少女は小さく吹き出した。
ふたりはいつものように話し合い、暗くなってから別れた。



視界の端で、ぼんやりとした白いものがちらついた。
黒々と染まった空から、ゆっくりと雪が降ってきている。
そこに月の姿は見当たらなかった。

案山子はいつものように、雪の降る闇の中に佇んでいる。
雨の日や嵐の日も寂しく思うものだが、
案山子はこの季節のこの時間をいちばん寂しく感じていた。
寒くて、暗くて、ただ単純に恐ろしかった。

強風は唸り、禿げ上がった森を揺さぶった。乾いた音が辺りに響く。
雪はだんだんと勢いを増し、案山子の顔に叩きつける。
笠とマフラーのおかげでまだマシだったが、それでも痛いものは痛い。


無心で耐え忍び、暗闇とにらめっこをしていると、視界の端で光が灯った。
小さな光はゆっくりとこちらに近付き、大きくなっていく。
そして大きくなった光は動きを止め、案山子の顔を照らし出す。
あまりの眩しさに、案山子は思わず目を逸らしそうになった。

しかし、必死に対抗するように光の向こうを覗いてみると、見覚えのある顔が映った。

「こんな時間になにしてるんだ。お嬢ちゃん」案山子は思わず声を上げた。


「かかしさんが寂しくないかなって思って」
少女は笑いながら、右手で懐中電灯を振った。左手には傘を持っている。
羽織ったコートには雪がへばりついていて、鼻と頬が赤い。

「いつか聞いたような台詞だな。今度は親と喧嘩でもしたのか?」

「ううん。違うよ。かかしさんに言うことがあってね」

「わざわざこんな日のこんな時間に来なくてもいいだろうに」


「今じゃないと駄目な気がしてね。
かかしさんも言ってたじゃん、“思ったことは思ったときに言え”って」

「俺、いつそんなこと言ったっけ?」

「去年」少女は脹れた。

「そうだったか」失念していた。

「だから今、言いに来た。ほんとうは
ずっと言おうと思ってたんだけど、なかなか言えなくて」

「そうか」案山子の内側はざわついた。良い意味ではなく、悪い意味で。
「で、なんなんだ」


「わたしね、来年の四月から東京のほうの大学に行くの」

「ほう」ダイガク? トーキョー?「俺にもわかるように説明してくれ」

「つまり……、遠くに行くの。うんと遠くで、勉強するの。
だから、かかしさんとも会えなくなるの」

「そう、か」案山子は笑うことしかできなかった。「向こうでも上手いことやれよ」

「あれ、なんか思ってたより素っ気ないお言葉だね」少女は拍子抜けした。


「お嬢ちゃんにはわからんだろうな。
俺にとってのたったひとりの友達がいなくなっちまうんだぜ。
気の利いたことなんて言ってられるか」

「ごめんね。もっと早く言おうと思ってたんだけど、
かかしさんと話してると楽しくて、つい忘れちゃうんだよね」

「そんな事言っても俺のご機嫌は取れないぞ?」案山子は必死で笑った。

「ほんとにごめんね」少女は曇った表情を浮かべた。

「いや、いいんだ。むしろ俺なんかに構ってちゃ駄目だ。
お嬢ちゃんはやりたいようにやればいい。
勉強でも結婚でも仕事でも、なんでもいいんだ。別に俺に謝る必要は無い」


「かっこいいね」少女は弱々しく笑った。

「だろ?」

「うん。でも、ときどき帰ってくるね」

「そうか。じゃあ、帰ってきたら真っ先に俺のところに来てくれよ」

「なにそれ。プロポーズ?」

「なんだい、そりゃ」

少女はくすくすと笑った。「わかった。約束する。真っ先にここに来るね」


「約束っていうと、あれか。ゆびきりか」
案山子はいろんなことを思い出した。

転んだ少女に声をかけたときは死を覚悟したが、
今となっては、それはとても良かったのだと思う。
おかげで祭りの話を聞くこともできたし、いろんなものを写真として見ることができた。

そして何より、ひとりではなくなった。
しかし、またひとりに逆戻りだ。
いや、ほんとうにそうか?


少女は懐中電灯を地面に置き、自身の小指で案山子の手袋の小指部分を掴んだ。
その小さな手は、とても温かかった。
「ゆーびきーりげんまん」そして、懐かしい奇妙な歌を歌い始めた。

ひとりに戻ることはない。
もう、ひとりには戻らない。
お嬢ちゃんに会えてよかったよ。

「ゆびきった!」少女が勢いよく手を振り切ると、案山子の手袋はどこかに飛んでいった。





季節は巡り、また春がやってきた。
今年も桃色に染まった道の上を、大きな赤と黒の鞄を
背負った小さな少年少女が、ぎこちない足取りで進んでいく。

案山子は寂しい田んぼの定位置に佇みながら、それを眺めていた。
相変わらず、過ぎるのはあの少女のことばかりだった。
赤い鞄を背負った女の子を見るたびに、何年も前のことを思い出してしまう。


あの少女と出会ってから、何年が経ったのだろうか。
忘れてしまった。どうでもいい。
ただ待っていればいいのだ。あの娘がここに来るのを。
あの娘は、約束と信号だけは守るのだから、ここに来ないはずがない。



その日も案山子は目の前の道を眺めていた。
道は登校する子どもたちでいっぱいだった。
みんなが皆、同じ方向を目指して歩いている。

案山子は子どもたちが向かう方向を見た。
遠くには大きな時計の付いた、黄色っぽい建物が見える。
今日も、夕方の鐘の音が鳴るまでは暇だな。

朝の鐘の音が鳴る時刻になると、子どもたちの流れはぴたりと途切れた。
遠くから、子どもたちの高い声と、小さな鳥のさえずりが聞こえてくる。


平和だ。こんなのも悪くないかな。
案山子は思いながら、ふたたび校舎のほうを見た。
そこで、道のど真ん中を歩く人影を見つけた。

人影はゆっくりとこちらに近付いてくる。

柔らかな風が吹き、長い髪がかきあげられた。
その人の口元には小さな笑みが浮かんでいる。
長いスカートがぱたぱたと音を鳴らす。
しばらくすると人影は速度を上げて、こちらに向かってくる。

そして案山子の前で立ち止まった。
待ち望んでいた瞬間が訪れた。
案山子はできることなら涙を流してやりたいところだった。


「もう春なのに、すごい厚着だね。かかしさん」

「ああ。お嬢ちゃんのマフラーを着けてたら、
子どもたちが服をいっぱい着せてくれたんだ」

「似合ってるよ」

「おう、当たり前だ。そんなことより、
遅かったじゃないか、お嬢ちゃん。待ち侘びたぜ」

「うん。ごめんね」

「しばらく見ない内に、うんと綺麗になったな」

「綺麗だって。はあー、恥ずかしい」

ふたりは向かい合ったまま黙り込んだ。
それはしばらく続いた。
やがて案山子は嬉しくなって言った。


「おかえり、お嬢ちゃん」

「うん」少女は歯を見せて笑った。「ただいま」

おしまい

いいもの書くね

乙。雰囲気がすごくよかった。

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