千早「ロス:タイム:ライフ」 (54)
いつまでも試合が終わらず、このままプレーしたいと思うときがある
——元フランス代表 ジネディーヌ・ジダン
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1367415211
春香「ねえねえ、千早ちゃんっ」
千早「どうしたの?」
春香「これっ! 見て見てっ」
お昼過ぎ、私の所属する芸能事務所、765プロ。
隣に座っていた友人の春香が、スマホの画面を私の鼻に押し付けてきた。
千早「春香、近すぎるわ」
春香「あ、ごめんごめん」
ニュースサイトが表示されていて、『如月千早・眠り姫、4週連続TOP5入り』という見出し。
千早「これ……音楽ランキングのこと?」
春香「そうそう、すごいよっ!」
千早「そんなに、いろんな人が聞いてくれているのね……」
春香「ねー。……千早ちゃんの新曲、早く聞きたいなぁ」
千早「まだ、レコーディングしていないから……。終わったら、データを持って行くわ」
春香「やった! ありがとう!」
春香はスマホをもってウットリ。
千早「……ところで、春香」
春香「んー?」
千早「コラムの続き、書かなくてもいいの? 今日が締め切りなんでしょう?」
春香「あっ」
春香のコラムはファッション誌に載っていて、反響がすごいらしい。
私も読んだことがある。面白くて、いかにも春香らしい素敵な文章だ。
春香「忘れてたのに、千早ちゃんのいじわるぅ」
千早「私は別にいいけれど、早ければ今日中に自分の身に返ってくるわよ」
春香「むー……テーマが思いつかないんだよ」
カップを持って、コーヒーを一口すする。
音無さんがキーボードを叩く音に合わせて、指をなんとなく動かした。
春香がペンを持って、考えるポーズ。
春香「ねぇ千早ちゃん、響ちゃんのおうちでやる鍋パーティーのこと、だけど」
千早「ええ」
今度の日曜日、事務所のみんなで集まって我那覇さんの家で鍋をする。
春先に鍋って少し変だけれど、要するにみんなで集まってワイワイやりたいということらしい。
春香との話が続く。この心地いい時間がたまらなく好きだ。
ただ、タイムリミットというのは、人生に常につきまとう。
P『もしもし、千早か。悪いんだけど、ちょっとアクシデントで迎えにいけない』
千早「アクシデント、ですか?」
P『だから悪いんだが、自分でテレビ局に来てくれないか? 緊急のタクシー代は俺の机の引き出しにあるから』
プロデューサーからの電話。
音楽番組の収録のため、プロデューサーが車で迎えに来てくれることになっていた。
ただ、何かあったらしい。詳しくは分からないけれど。
分かりました、と電話を切る。
春香と音無さんに軽く挨拶をしつつ、タクシー代2万円の封筒を見つけて事務所を出た。
小鳥「気をつけてね」
春香「いってらっしゃい! あ……キャラメルあげる! 元気でるよっ」
春香からキャラメルをひとつ、手渡された。
千早「ありがとう……行ってきます」
ロスタイム好きだったわ
本も持ってる
人生の無駄を精算する、生涯最後の一時
——それが、ロス:タイム:ライフ
こないだのやよいの人か?
千早「…………」
なんとなく、身体が急いだ。
私は階段を猛スピードで駆け降りる。
千早「っ」
ドアを思い切り開けて、大通りに面した歩道に出る。
タクシーを探そうと、車道の方に走った瞬間、足がもつれた。
千早「きゃあっ!」バタッ
プーッ
千早「あ——っ!」
——車道に転がった私に、自動車が突っ込んできて……。
……ああ、目の前の風景が、ゆっくり動いているように見える。
これが最期、なのかもしれない。
目を瞑る。
新曲を歌いたかった。
また、事務所のみんなと笑い合いたかった。
そして…………プロデューサーに。
ありがとうと、伝えたかった。
…………あれ?
車が来ない。目を開けると、目の前の自動車はとてもゆっくりと動いていた。
千早「えっ……?」
次の瞬間、黄色のユニフォームを着た男の人たちが、たるき亭の入口から続々と出てきた。
ピーッ!
実況『さて、今回も試合開始のホイッスルが鳴り響きました! それにしても、所属事務所の前で事故死、ですか』
解説『うーむ、しばらくは週刊誌に呪いの事務所とか書かれるでしょうね』
千早「……え?」
サッカーの審判のような人たちが、私にフラッグを振ってくる。
一番後ろの、黒いユニフォームの男の人が電光掲示板を持っていて、そこには——。
千早「……ろく……てん……に……さん……?」
実況『如月千早のロスタイムは6時間23分! この時間、どう精算するのでしょうか?』
主審「……」ピッ!
実況『如月に主審が手を差し出します』
解説『これ、彼女相当動揺しているようですけども。やはり理解に時間がかかるんでしょうかね』
千早「……あ、あの……これ、なんですか?」
実況『立ち上がった選手、さあ本格的に試合が始まります!』
副審1「……」フッフッ
千早「走る……?」
解説『ジェスチャーでどこまで理解できるかですよね、ロスタイムは今も減り続けていますから』
副審2「……」パッ
千早「6時間22分……減ってる?」
主審「……」トントン
千早「腕時計……時間…………時間がない?」
主審「!」コクリ
千早「時間がないから、走れってことですか?」
副審1「!」コクコク
千早「そんなにプロデューサーのアクシデントというのが、深刻な」
副審2「……!」ブンブン
千早「へっ……?」
実況『おおっと、これは勘違いしている!』
解説『無理ありません』
実況『主審、真っ赤な自動車を指さします』
千早「車」
主審「……」シュッ
千早「……これにひかれた?」
主審「……」パッ
第4審判「…………」[6:22]
千早「6時間22分……というか、どうしてサッカーのような…………サッカー?」
主審「……」トントン
千早「時間……サッカー…………ロスタイム!」
実況『ちなみに、この6時間23分……グラビアの練習と称して、鏡に水着姿の自分を映して眺めていた時間、だそうです』
解説『うーん、末代までの恥ですね』
実況『何の因果か彼女が末代となってしまったわけですが』
副審1「……」フッフッ
千早「じ、時間がないから……走れ、ってことですよね」
副審2「……」コクリ
千早「…………プロデューサー」ダッ
実況『今、如月千早が走り出しました! 華麗に身体を翻す!』
解説『彼女らしい、思い切りの良いプレーを期待したいです』
実況『早い、早いぞ如月千早! どこに向かっているんでしょうか……?』
解説『最寄りの駅のタクシー乗り場ですかね。確実に乗ることができますから、良い判断ですね』
千早「……はぁ…………はぁ……!」タッタッタッ
主審「……! …………!」フラフラ
副審1「!」パッ
副審2「……!」パッ
実況『おおっと主審が倒れそうになっている! 副審が両サイドを支えます! あっ、給水していますね』
解説『あれ猫除けの水ですよね……? 腐ってるんじゃないかなぁ』
実況『それでも走りを止めない如月!』
駅前のタクシー乗り場で、適当なタクシーに乗り込んだ。
千早「あっ、あの……! 道波テレビまで、お願いします!」
バンッ ブロロロ…
実況『軽い身のこなしでタクシーに乗り込みました!』
解説『あー、審判団がタクシーを追ってますね。スタミナ切れるぞ……?』
千早「……プロデューサー!」
P「お、千早! こっちだこっち!」
実況『道波テレビに到着しました。これから如月には音楽番組の収録が待っています』
千早「お待たせしました……」
P「どうしたんだ、汗だくじゃないか」
千早「ご、ごめんなさい、少し、急いだので」
P「そっか……俺の方は、なんとか解決したよ。ありがとな。それじゃあ、準備してくれ」
千早「はいっ……」
主審「……」
第4審判「…………」[5:46]
解説『この中で如月が着替えているわけですから、審判団も入ることは出来ないですよね』
副審2「……!」スック スタスタ
主審「!」ピーッ!
副審2「……」
実況『いま副審が立ち上がって中に……注意を受けました!』
解説『あーあ、首根っこ掴まれてますね』
副審1「……!」スック
主審「!」ピーッ! パッ
副審1「!?」
第4審判「……」ピロン
実況『おおっと、立ち上がったもうひとりの副審にイエローカードが出ました!』
解説『第4審判がスマホを操作してるのにも、イエローカード出すべきですよ』
千早「お待たせしました」
P「おう、それじゃあ……この番組は、スタジオゲストライブだけだから楽な気分で行け」
千早「はいっ」チラッ
第4審判「…………」[5:29]
千早「如月千早です、よろしくお願いします」
♪〜
実況『これは……眠り姫、ですか』
解説『ロスタイムだからと言って、声量などに手を抜いてないですね』
実況『彼女にとって歌は疎かにできない大切なもの、
幼い頃、低身長に悩んでいたリオネル・メッシが欠かさなかった練習と同等の意味を持ちます』
解説『なるほど』
スタッフ「お疲れ様でした!」
千早「ありがとうございましたっ」
P「お疲れ様」
千早「ありがとうございます、プロデューサー」チラッ
第4審判「……」[4:30]
P「それじゃあ、着替えてもいいぞ。今日はもう仕事はないから、明日の雑誌取材に向けて備えてくれ」
千早「あ、あの……プロデューサー」
P「ん?」
千早「新曲のこと、なんですけれど」
P「あ、ああ……どうした?」
千早「今日、レコーディングしたいんです」
P「きょ、今日? どうして、お前が土曜日がいいって言ったのに」
千早「そ、その……私」
P「……?」
千早「私、死んだんです」
主審「!」ピーッ! ピーッ!
千早「え……?」
主審「……」バッ
千早「っ!」
実況『イエローカードが出てしまいました! 如月千早にイエローカードです!』
解説『死んだということを伝えるのはいけません』
実況『イエローカードが2枚累積すれば、次の人生を送ることができません』
P「死んだ……? ど、どういうことだ!?」
千早「あっ……えー……その、私の歌が、死んでしまう……んです」
千早「今日、レコーディングした方が……私の歌を、伝えられると思って」
P「そうなのか……? ……よく分からないけど、ちょっと連絡してみるよ」
実況『うまく切り抜けました』
解説『ピンチを凌ぐプレー、日本代表にも見習って欲しいと思いますよ』
ロスタイムは……4時間27分。衣装を着替えて、移動したとしても3時間は確保できる。
それだけあれば、充分だ。
こんなに素敵な曲を、歌えないなんて絶対に嫌。
P「……そ、そうですか! ありがとうございますっ」ピッ
千早「……」
P「今日、亜美がちょうどカップリング曲のレコーディングをしてるみたいでさ」
千早「亜美が?」
P「終わった後なら、レコーディング出来るって」
千早「ほ、本当ですか!」
P「ああ……だから、今から向かおう。その前に着替えなきゃだけどな」
千早「は、はいっ! ありがとうございます!」タッ
P「お、おい、走ると危ないぞ!」
実況『如月、駆け足で楽屋に戻ります』
千早「…………」スルッ
ブーッ ブーッ
千早「……メール?」ピッ
〈はいさい! 千早、最近会えてないけど元気か?〉
我那覇さんからのメールを、着替えながら目で追っていく。
〈鍋パーティー、すっごく楽しみなんだ! 当日はワイワイやろうね!〉
……行けなくて、ごめんなさい。
〈今日の夕方、電話してもいいかな?〉
そのときに、私のロスタイムは残っているだろうか。
みんなに何も言えないまま、死んでしまうかもしれない。
何か、形に残せたら。
千早「……!」
バッグの中を探す。……あった、いつか何気なしに買ったレターセット。
私はバッグに詰め直すと、コートを羽織って楽屋を出た。
実況『如月のプロデューサーが運転する車は、レコーディングスタジオという新たなフィールドへ向かう最中です』
解説『いやぁ……審判団もよく乗れたなぁ。満杯ですよねぇ』
歌詞の印刷された紙に目を通していると、プロデューサーがハンドルを握りながら話しかけてきた。
P「千早、その曲だけど」
千早「はい?」
P「実は、春香たちが作詞したんだよ」
千早「……この曲を、ですか」
P「千早がパーフェクト・ソングスコンテストで、優勝を逃してさ。お前、しばらく落ち込んでたろ?」
千早「……はい」
私の時だけ、音響にアクシデントがあった。マイクが壊れ、音楽が止まった。
周りの人は皆、そのせいだと言う。
でも、会場の都合に振り回されるようではいけないのだ。私は、アカペラでも歌わなければならなかった。
P「それで、千早を勇気づけようって」
千早「……この曲を?」
P「ああ。俺と千早が海外で眠り姫をレコーディングしてる間にな」
歌詞を見る。
まるで、私のことを指しているような歌詞じゃないか。
ああ、だからこの曲……特別に素敵だ、って思えるのか。
歌おう。仲間と今。
……祈りを、響かすように。
千早「…………プロデューサー」
P「ん?」
千早「……私、この歌……ずっとずっと、大切にします」
P「…………それ、みんなに言ってやれ。すっごく喜ぶぞ」
車は、レコーディングスタジオの駐車場へと進んだ。
第4審判「……」[3:57]
亜美「〜♪」
律子「千早、プロデューサー」
P「よう、律子」
千早「律子……ありがとう、私のわがままを聞いてくれて」
律子「いいのよ。歌いたいときに歌うからこそ、音楽なんだから」
レコーディングブースは、マジックミラー越しに見ることが出来る。
中にいる亜美が、私を見ることはできない。
P「いま、どれぐらいだ?」
律子「そう、ですね。今3テイク目なんで、あと2テイク撮らせてください」
千早「あの、プロデューサー」
P「なんだ?」
千早「私、少し外に出ていても、いいですか」
P「ああ、いいぞ。ちゃんと戻ってこいよ」
千早「ありがとうございます」
実況『ブースを抜け出しました如月』
解説『あれ、廊下を進んでますね』
実況『そして別の部屋に入りました。……ミーティングルームです。
その手には先ほどの手提げ鞄、何をしようと言うのでしょうか』
鍵をかけて、電気をつける。
長机とパイプイス、適当なイスを選んだ。
亜美が歌い終わるまでに、みんなへの手紙を書くことに決めた。
千早「……」
解説『便箋じゃあないですか?』
実況『なるほど、手紙ですか』
千早「……」カチッ
——765プロの皆様へ。
ちゃんと挨拶できなくて、ごめんなさい。
みんなに伝えたいことがあって、手紙を書きました。
千早「……」サラサラ
春香は、いつも私に優しくしてくれたわね。本当に嬉しかった。ありがとう。
あなたと過ごす時間が楽しくて楽しくてしょうがなかった。
また、クッキーを食べたいわ。あなたの隣で、一緒に。
千早「……」
我那覇さん、鍋パーティーに行けなくてごめんなさい。
あなたの明るさと言葉には、何度も助けられた。ありがとう。
これからも、その元気さで事務所を支えて欲しい。
千早「……」
萩原さん、「Little Match Girl」のダンス、私に教えてくれたの、覚えている?
一番強い心の持ち主で、私の憧れだった。
あなたのいれてくれたお茶の味、忘れないわ。ありがとう。
千早「……ふぅ」
ねえ、真。あなたと私って、正反対だと思わない?
真みたいな強さも、可愛さも私は持っていなかったからね。
でも、お互いを知っているから……良いところが分かるから、真を大親友って言える。ありがとう。
四条さん、私が歌のことで悩んでいるときに、真っ先に助言をくれましたよね。
私、「心で歌え」って言葉、忘れたことなんてありません。
あのとき奢ってくれたラーメンも、美味しかったです。ありがとうございました。
主審「……」
真美。私、あのゲームの一面クリアできるようになったのよ?
真美はいたずらっ子だけれど、事務所を盛り上げてくれて楽しかった。
また、対戦したかった。ありがとう。
副審2「……」
亜美。竜宮の活動があって、真美と会えなくなって寂しかったと思う。
でもあなたはそんなことは一言も言わずに、笑顔で事務所を支えてくれた。
元気をもらえたわ。ありがとう。
水瀬さん。あなたは自分を強く持っていて、すごく格好良かった。
私、言わなかったけれど……尊敬していたのよ。
困ったときにくれたアドバイス、嬉しかった。ありがとう。
高槻さん、あなたの太陽みたいな明るさと笑顔、みんな大好きよ。
家族の面倒も見ながら、本当にすごいわ。
765プロのみんなを、これからもあたたかい気持ちにさせてね。ありがとう。
千早「……っ」
あずささん。あなたがいないと、事務所は成り立ちません。
私の話を親身になって聞いてくれて、ありがとうございました。
これからも、みんなのサポートをよろしくお願いします。
音無さん。あずささんと三人で銭湯に行ったときのこと、覚えていますか?
音無さんが何気なくお風呂で口ずさんだ「空」、綺麗でした。
事務所にあなたがいて、頼もしかったです。ありがとうございました。
千早「……——」
律子。もうすっかり、頼れるプロデューサーね。
竜宮小町がトップに立つのを見られなくて、残念で仕方がない。
これからも、みんなを導いて。今までありがとう。
美希、昼寝のときの抱きつき癖、そろそろ治したほうがいいわよ?
あなたは、未来のトップアイドルなのだから。輝く星々の中、一際目立つ一等星。
持ち前の明るさで、みんなを支えて。本当に、ありがとう。
千早「……おかしいわね…………これじゃあ、まるで遺書よ……」
社長。私、数年間で素敵な夢をいっぱい見させてもらいました。
全員が頂点に行けるように、手をひいてください。
ティンと来る、素敵な楽曲と衣装で。ありがとうございました。
千早「…………かけない」
プロデューサーへの思いを、書けない。……ここに、書きたくない。
書けば、それで手紙が終わってしまう。
涙が、勝手にこぼれだした。
千早「…………まだ、みんなとトップに、行けてない……っ!」
死にたくない。
ロスタイムなんて、こんな時間じゃ全然足りないわよ。
ステージで歌いたい曲だって、いっぱいある。
……歌いたい、曲————。
ふと、バッグの中の歌詞カードが目に入る。
千早「…………そうだ」
思いついたまま、文章を書いた。
封筒を取り出して、裏側に小さく名前を書く。
手紙をその中に入れて、バッグにしまった。
亜美「千早お姉ちゃん! 久しぶりっ!」
千早「亜美、久しぶりね」
第4審判「……」[3:11]
P「千早、準備は出来たか?」
千早「はい」
律子「それじゃあ亜美、事務所に戻るわよ」
亜美「おいっすりっちゃん! バイバイ兄ちゃん、千早お姉ちゃん! またねっ」
千早「バイバイ、亜美」
またねとは、言えなかった。
そんな言葉、無責任だから。
レコーディングブース。ヘッドホンをつける前に、みんなの顔を思い浮かべた。
みんなが私のために作ってくれた曲なら、私はみんなに向けて歌いたい。
千早「よろしくお願いします」
ヘッドホンをつけて、流れる音楽に合わせて歌い始めた。
——最期の歌は、事務所のみんなに捧げる。
ねぇ 今 見つめているよ 離れていても
もう涙を拭って笑って
ひとりじゃない どんな時だって
夢見ることは生きること 悲しみを越える力
歩こう 果てない道 歌おう 空を越えて
思いが届くように
約束しよう 前を向くこと
Thank you for smile
駐車場、車に乗り込む前にプロデューサーに声をかけた。
千早「プロデューサー」
P「ん、どうした?」
千早「その…………今日の音源、今度もらえますか」
P「ああ、いいぞ」
プロデューサーが鍵のボタンを押すと、車のライトが点滅した。
違う、こんなことを言いたいんじゃない。
千早「……あのっ!」
P「え?」
私はバッグから封筒を取り出して、プロデューサーに渡した。
千早「それ……明日、読んでみてください」
P「明日でいいのか?」
千早「はい。できれば、事務所のみんなで」
P「みんなで、って……明日は千早にも仕事があるぞ?」
千早「そ、そうですね」
プロデューサーが車に乗り込んだので、私も助手席へと座った。
千早「プロデューサー……いつもありがとうございます」
P「あはは、どうしたんだよ急に」
千早「ただ、なんとなく言いたくなりました」
P「……そっか」
主審「……」ピッ!
千早「…………」チラ
第4審判「……」[0:24]
やっぱり、歌へのこだわりは捨てられなくて、時間を使ってしまった。
P「……これから雪歩と真美を迎えに行くけど、ついていくか?」
千早「えっと……」
主審「……」フルフル
千早「……すみません、遠慮しておきます。……ここで、降ろしてくれますか」
P「ここで?」
千早「事務所を経由すると、プロデューサー、走る距離が遠くなりますから」
P「……サンキュな、千早」
P「それじゃあ、また明日」
千早「はい。……また明日」
バンッ ブロロロ…
千早「…………さようなら」
実況『如月、担当プロデューサーの車をずっと見送っています』
主審「……」ピッ!
千早「……ゆっくり、歩いてもいいですか?」
副審2「……」コクリ
無意識にポケットに手を入れると、朝に春香からもらったキャラメルがあることに気づいた。
千早「…………」
口に含む。懐かしい甘さと香りが広がって、心地良い。
千早「……春香」
歩きながら、携帯を操作していると、さっきの我那覇さんのメールが出てきた。
千早「……」ピッ
電話帳から彼女の番号を探し、通話ボタンを押して、携帯を耳に当てる。
響『もしもし、千早?』
千早「もしもし。突然電話してごめんなさい」
彼女の声が、聞こえてくる。
響『ううん、自分も丁度今かけようと思ってたんだよ』
千早「ふふっ、嬉しいわ」
響『そうだ、今度の土曜だけど、闇鍋パーティーになったんだ』
千早「闇鍋?」
響『そーそー! それで、みんなで一個ずつ具材を持ってくるんだけど』
千早「それで、電話するって言っていたのね」
響『その通り! 千早、何を持っていく?』
千早「それ、言ったら面白くないんじゃない?」
響『ハハハ……ま、まあそうだけど、カブらないようにさ』
千早「そうね……まだ決めていないけど、なるべく早く伝えるわ」
響『おっ、了解だぞ!』
千早「…………ねぇ、我那覇さん」
響『うん?』
千早「私、いま……幸せよ」
大切な友達と、死ぬ前に話せているから。
響『なんだよいきなり』
我那覇さんは笑いながら言う。
千早「そうね……いきなり、変だった」
響『あっ、そうだ千早。今日の夜、一緒にごはんでもどうかな』
千早「今日の夜は……ごめんなさい」
響『そうか……残念だな。じゃあ、今度どこかで一緒に食べない?』
千早「…………ええ、楽しみにしてる」
響『うん! ……それじゃ、そろそろ自分次のお仕事だから、切るぞ』
千早「ええ、それじゃあね」
無機質な音が聞こえ始めたので、電話をゆっくりとポケットの中に仕舞った。
実況『試合終了の時刻が、近づいて参りました』
気づけば、もう事務所の前に着いていた。
さっきよりも前に動いている、私を轢く自動車。
千早「……もう、着いたんですか」
副審1「……」ビシッ
審判の人がフラッグで車の前を指した。
千早「…………ひかれた時と、同じ風にするんですか?」
副審2「……」コクリ
車の少し前で、うつ伏せになる。
……もう、本当に終わりなのね。
千早「…………あの」
主審「?」
千早「……私にロスタイムをくれて……ありがとうございました」
主審「……」ニコリ
第4審判「……」[0:01]
上手く使えたかどうかは、分からない。
それでも私は、最期のあがきに……満足できている。
生まれ変われるならば、また歌いたい。
765プロのみんなのような、素敵な仲間と共に。
——ありがとう、さようなら。
[0:00]
ピーッ ピーッ ピーッ……
—— 半年後 ——
美希「三階席の人も、ちゃーんと、見えてるよーっ!」
ワアアアアアアア!
春香「……皆さん、今日は私達のライブに来てくれて、本当にありがとうございます!」
パチパチパチパチ…
春香「集まってくれたのに、ごめんなさい。今から歌う曲は、ある一人だけに、心をこめたいと思います」
ザワザワ…
響「このステージに、もう立つことの出来ない仲間がいるんだ」
貴音「その仲間は、わたくし達に手紙を残してくださいました」
雪歩「私達のことを、一番見てくれていて」
真「一番ボク達のことを助けてくれた、アイドル仲間で」
あずさ「私達の、大切な大切な……お友達です」
亜美「イタズラには、耳を真っ赤にして怒って」
真美「真美にいっつもゲームで負ける、不器用なお姉ちゃん」
伊織「あの歌声はもう聞くことは出来ないけれど」
やよい「私達の心の中で、ずっとずーっと、響き続けてます!」
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