モバP「赤色の恋心」 (26)

モバP「翠色の絨毯で」より、おまけみたいなものです。
お好きな方だけどうぞ。

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「なんだか……普通の日だよな」
 晴天の中、太陽が頭の上に昇り、燦々とした輝きが髪を熱する正午。

 空気もかつて冷ややかであった時の事など既に忘れて心地の良い気温にまでなりつつある春の初め、同様に温かみのある食事に手をつけながら俺は呟いた。
「そうでしょうか?」
 対面に座る少女は、にこりと笑みを零してからそう問い返す。


 ――俺の家。
 相も変わらず古臭いアパートの一室に俺達は居た。

 複数人で食べることを考慮していない小さなテーブルには、ごく普通の家庭での休日の昼食と呼ぶべきシンプルなおかずが数品置かれている。
 小皿で予め取り分けずに大皿でテーブルの真中に置かれているあたり、昔の俺の家庭事情を彷彿させた。

「ちょっと前まではほぼ毎日仕事漬けだっただろう。なのに今日は何もしないとなると……どうもなあ」
 箸先でパチンと一度鳴らすと、俺は背もたれに体重を預けて染みの付いた天井を仰ぐ。

 ちょっと前までというのは、ほぼ一週間前ぐらいだろうか。
 大手音楽レーベルによる新曲の連続発売企画を取り付けた俺は、発足後からずっとあちらこちらへと奔走し、同じく担当アイドルも休む間も練習する間もあまりなく、次々寄せられてくる新曲の対応に精を尽くしていたのだ。
 一気にレコーディングを済まして納品してそれを一ヶ月おきに発売するというのだから、つい最近まで激務と言われても納得はできよう。

 そして全てが完了し、販売スケジュールと販促の打ち合わせを終えたのがつい一週間前、という訳である。
 この後もテレビ収録やら何やらと言った仕事もあるのだが、これまでの拘束に比べれば容易いもの。
 その中で得られた今日という休日、俺達は家で昼食をとっているのであった。

「体を労り休めることも立派な仕事ですよ、Pさん」
 そんな俺を仕事人間と見たかあるいは生真面目だと捉えたかは別として、彼女は麦茶を一口飲んで息をつく。

 休日に女性と家で昼食などというと何やら疑われそうだが、生憎彼女とは仕事に関係する人である。

 彼女こそ、俺の担当アイドル。
 長い髪を後ろに結った、静かで、純粋な少女――水野翠なのであった。




「全く、慣らされるのも怖い話だ」
 俺が事務所に来てどれぐらい経ったのだろう。そして彼女と出会い、何をしてきたのだろう。
 その間、途方も無い程の思いを交わしてきたような気がする。
 それだけに、降って湧いたこの時間がどうにももどかしくなっているのだった。

「お仕事、ずっと増えてますからね」
 若草色の色に身を包んだ翠は、卵焼きを一つ口に入れては味を確かめていた。

 事実、彼女が行う仕事というものは過去に比べると大変多くなっている。
 とりあえず本業というべきアーティストとして歌を歌いつつ、本人の自然なキャラクターからバラエティにも手を伸ばし、更に最近ではアクターとしての面までも形成しつつあるのだった。

 さあ本人に演技など、という考えを少なからず持っていたのも本当だったのだが、存外彼女は自然に役を受け入れているようで、まだまだ彼女のこともわかっていないのだと思ったものだ。

「ありがたいことにな」
 そのおかげもあって、事務所はどんどん前に進んでいる。
 相変わらず外の景色は変わらないものの、そこに訪れる人間が徐々に増え始めているのが証拠である。
 翠自身も先輩としての自覚が一層出てきており、事務所内で後輩と話す姿や自主練に付き合う姿などはよく見かけている。

「……卵焼き、ちょっと甘すぎたでしょうか」
 そしてそれとは別に、今目の前にある料理に関しても翠は努力しているようで。

「この甘さ、俺は嫌いじゃないぞ」
「そうですか……ありがとうございます」
 持ち前の料理の腕を更に向上させるため、今日の昼食も翠が作っているのであった。




  *


「俺も手伝うよ」
「いえ、Pさんはそのまま休んで下さい」

 しゃー、という蛇口からの音は、翠の素手に降りかかってはスポンジに吸収されていく。
 それを皿に押し付けて汚れを落とすと、もう一度水洗いをして隣へ重ねる。

 昼食も程々に終えると、残り僅かになった料理を見つめて翠は嬉しそうに微笑み、そのまま台所の方に向かって後片付けを始めてしまった。
 当然ながら俺も手伝うと申し出たのだがそれだけは譲ってくれず、俺はこうしてお茶をすすっているという訳だ。

 これも昔からの慣習というべきものか、このやりとりだけは変わらずにいた。

 軽く腕をまくり、長い後ろ髪を揺らしながら楽しそうに洗い物に勤しむ翠を、卓上から眺めて茶をすする俺。なんとも奇妙な状況である。
 それがプロデューサーと担当アイドルだというのだから尚更だ。

 見つかりでもすれば一体何を言われるのやら、ともしかしたら来るであろう未来を思い浮かべていると、きゅ、という蛇口を捻る音がした。

 前々からずっと古いのは変わらないどころかどんどん古くなっているこの部屋では、全てにおいて音が増幅されている。蛇口など最たるものだ。

「終わりましたよ、Pさん」
 大皿を使うことで洗う食器の数を減らしたのが功を奏したのか、およそ十五分も経たずして洗い物を終えた翠はまくっていた袖を戻して再び対面に座った。

「ありがとう」
「ふふ、どういたしまして」
 アイドルだというのに家事一つ終えて満足気に座りこちらを見つめる翠の姿に、俺はどうしたものかと苦笑してしまう。
 別に家政婦が欲しくてスカウトした訳ではないのだ。

 ……無論、彼女自身もそういうつもりではないとは思うのだが。




「ところで今日は何がしたい?」
 いつもの状態。俺と翠がテーブルに座って対面して話をするこの状況。
 何ら変わりない日に、何ら変わりない言葉で問いかけた。

「Pさんはどうですか?」
 傷まみれの椅子であろうとも膝に手をおいて姿勢よく座っている翠は、くすり、と笑って問い返してくる。

 このパターンも過去何度やってきただろうか。
 大体、これで俺が返答しても帰ってくる答えはいつも同じである。
「俺が聞いてるんだぞー?」
「私も聞いてるんですよー?」
 問いかけた順が先か後かなどという問題は完全に無視をして俺の真似をした翠は、堪えきれなくなって再び笑みを漏らした。

 こういう感じで、例え俺がどこかに行くか訊こうものならすかさず返してくる。
 まるで全て俺に任せますと言わんばかりだ。


 しかし、決して彼女の態度は悪いものではない。
 他者に判断を委ねて意思を消し去ることは確かに良いとは言えないが、翠はそういう意味でこのような発言をしたのではなく、言ってしまえば単なる冗談なのだ。

 そう、冗談である。
「じゃあ……休むか」
「そうですね、休みましょう。ふふっ」
 行きたい所があるのなら、翠も我慢はせずに提案してくる。
 それもこれも、あの時からずっと一緒に居たおかげなのだろう。当時のままであったならこうはいくまい。


「とりあえずテレビでも付けるか」
 やることが無ければ殆どの人間がするであろう行動であるテレビの電源を付けるという行動をまるごと真似ると、ちょうどお昼のバラエティ番組の画面が映り込んだ。

 放送している内容もトークもそれなりにくだらないとは思うが、それでもたまにはこういう番組が見たくなるのは日本人の性というべきか。無論、嫌いな人もいるんだろうけども。

 色々雑談という時間つぶしはあろうとも、ひとまず俺も翠もそのテレビ画面を見ることで細やかな時間を過ごし始めたのであった。





  *


「――ああ、そういえば仕事持って帰ってきたんだった」
 ふと何気なく思い出した内容をつぶやくと、次に食べるお菓子を選んでいた翠は小さく驚いたようにこちらを向いた。

 明るい室内には未だテレビの声が隅々まで響き渡っている。
 昼食時に冷蔵庫から出しておいた冷茶をそのままに、二人でテレビ鑑賞を半分しつつ雑談に花を咲かせるというゆったりとした空間に水を差してしまったからだろうか。

「そうなんですか……大変ですね」
 ソファから立ち上がって机の上に置いた鞄を取って戻ると、テーブルにノートパソコンを設置して電源を入れる。
 型落ち品ではあるが買ったばかりで、黒いボディにはまだ光沢が綺麗に残っていた。

「休日なのに空気が読めないで悪いな。忙しい作業じゃないから翠は気にしないでゆっくりしててくれ」
 最新の性能ではないものの、余計なアプリケーション類は一切入れていないのでそれなりの速さは確保している。

 通常の画面にたどり着いたらデータ記録媒体をパソコンに差し込み、パスワードを入力してワープロソフトを起動する。
 翠はそうした俺の一挙一動をぼんやりと見ているようだった。


「……すみません、ちょっと出てきますね」
 そして俺が本格的にキーボードを叩き始めた時、翠は突如立ち上がって一つ礼をし、外出する意を俺に伝えてきたのである。
 このタイミングで何故、という気持ちが湧いたが、別段彼女に行動を制限するほど問題がある訳ではない、と独り疑問を沈ませた。

「ああ、いいぞ。気をつけてな」
 一時入力を止めて、いつもの表情の翠に手を振る。
 すると一言感謝を述べてから、そのまま出て行ってしまった。

 俺がしたように、翠にも突然何かを思い出したのかもしれない。
 全く、そういう所は昔から俺が変わらないだけでなく、翠も俺に似てきてしまったのだろうかと思うと、どうにも苦笑してしまうのであった。




 がたこん、という不思議な音を鳴らして閉まる扉を確認して、俺の視線は再度液晶画面に戻る。
 そこにはずらりと並んだ数字と、いくつかの人の名前が表示されていた。

 このファイルは、アイドルに関するそれぞれの要素の変化を時系列ごとに記載したものだ。
 例えばダンスの上手さ。その他にも歌唱力やトーク力、そして本人のタイプや特徴なども事細かに記載できる欄も用意されている。
 無論、これらの要素というものは本来数字化できるものではなく、基本は相対的に表される抽象的な値である。
 しかし、我が事務所では専属契約を結んでいるトレーナーの慶さん、そして縁あって知り合ったベテランの麗さんにそれぞれ評価してもらい、現実的な目線で数値化を行ってもらっているのだ。

 そうすることでそれぞれ本人の良い所悪い所というのがはっきりわかり、それが時には言葉以上の説得力を持つのである。

 それをまとめたのがこのファイルで、昨日仕事を持って帰ってきたのは昨日のレッスン観察分の記録を忘れていたためであった。

 そもそも元々このようなファイルや規律などは存在していなかったのだが、アイドルが複数所属するようになってから麗さんの提案により実装されたのである。

 彼女が言うには、どうやら俺では色眼鏡で見かねないから、だそうだ。

 反論できるかと問われると難しいのが痛いが、何もそこまで言うことも無いと思う。
 なのでいつかここに記録されているアイドルの中に彼女たちの名前をこっそりいれてやろうかと考えるのは、些か幼稚すぎるだろうか。

 ともかく、こうしたファイルが存在することになったのはどれもこれも後輩の存在が理由であった。

 我が事務所最初のアイドル、水野翠。
 彼女と、彼女と共に過ごした人たちの歩んだ軌跡がまた、後輩の歩む道標となっているのだ。




 ――始めて翠が後輩と出会ったのは、いつもどおりの事務所の中に春の心地良い空気が入り混じり始めた季節だった。

 一年目は右往左往、東奔西走といった言葉をひとしきり並べたくなるような時間を俺と翠、そしてちひろさんやトレーナーさんなどで過ごし、二年目も相変わらず終わらない練習と仕事を続け、今尚それは変わっていない。
 しかし翠においては二年目の頃、私生活に卒業と入学という大きな変化が訪れていた。

 彼女は一年目から東京で動くことが多くあり、その間元々通っていた高校にはあまり出席出来ずにいた。
 しかしながら忙しい合間を縫っては出席を行い、無事に卒業することが出来たのだ。
 一度別世界に行ってしまえば学業が疎かになるアイドルというのも少なくないが、際立って翠は学生という身分に関心を持っていた。
 それは芸能界に身を置いても尚学生としての思い出や大切な友人達を裏切りたくないという翠の思いもあったのかもしれない。

 結局翠は学業に秀てなかなかの成績を維持し、事務所に程々近い東京の大学に進学することができたのである。
 ちなみに現在翠はアイドルとして働く傍ら、大学生としてキャンパスライフを送っている。

 そんな夢に満ち溢れた大学生活の門戸を叩いた時期に後輩と顔を会わせたのであった。

 後輩たちは皆自らこの事務所に志望してきた子で非常に元気がよく、爽やかな季節と相まってとても快活な印象を受けた。
 その子達の挨拶を一様に聞いて翠は第一印象で驚いたという表情をしつつも、芸能界の事を何も知らないと聞くやいなや丁寧に――俺がちひろさんが翠にしたように――説明し、会話を始めたのである。
 唯一の同じ立場の先輩という事もあり最初は質問攻めにあっていたが、決して投げ出さず全て答えることで、彼女たちにとって良き先輩になることができたと俺は思っている。

 故に、それから現在までこうして平穏に過ごせているのだろう。

 翠ほどの活動初年度での大躍進は無かったものの、ここ最近でようやく各々の個性を活かせる位にまで成長し、今年あたりでブレイクを目指しているところである。

 そのため、こうしたレッスン記録をきっちりとっておかなければ正確なプロデュースができないとして、昨日の記憶を掘り起こしながらキーボードを叩いているという訳だ。




 話を戻すと、やはりというべきか、俺と翠の距離感という点では変わらざるを得なかったのが事実であった。
 当時こそ翠とは付きっきりであったが、今ではやや距離をおいてのプロデュースになっていたのである。

 翠の俺に対する思いというのはあの一年の中で重々理解しているし、また俺も彼女へほぼ同様の感情を抱いているのは否定しない。
 だから出来るなら彼女のためだけに時間を使ってやりたいと思いはあるものの、現実はなかなか上手くいかないものだ。
 レッスンも仕事も大体は新人に付くことが多く、予定が被って翠を見てやれない時は慶さんやちひろさんに任せている状態であった。

 俺はプロデューサーだから、個人としての意志よりもまず社会人としての責任がある。
 今の俺の立場というのがそのように決められたものなのだから仕方ない。

 こう言うのが精一杯であった。


 しかし、だからといって彼女と疎遠でも構わないという考えは毛頭ない。

 間違えたからこそ、翠にとっての正解を貫きたい。
 勝手に誤解して勝手に判断し、結果彼女を傷つけることだけはもう絶対にしたくないのだ。

 そうした気概もあり、最近は制約を受けないプライベートの方で接触することが多くなっている。
 制約というのはあくまで先輩後輩としての優先順位である。
 仕事にしろ練習にしろ、とりわけ一人で完結させられる翠であれば、後輩を優先してしまうのは客観的に見て当然のことだからだ。

 そういう訳で、今日も本来はオフだったものの、翠の希望で俺の家に遊びに来ているのであった。
 以前であれば俺はそんな提案など即座に拒否していたのだから、大分俺も緩くなったといえよう。




 ただ、そこでも勿論多少の変化はあった。

 かつての翠なら、例えば今日のような二人きりの場面にでもなれば手を握ったり肩を寄せあったりするなど、恋する女の子らしい一面が見られたものだが、今となってはそういう行為は口にも仕草にも出さないようになっている。

 その代わりに仕事の事や後輩の事、お互いの知らない事などを談笑したり、普段の生活のサポートをしたりと、あくまで人間的な距離で線を引いて接するようになっていた。

 最初はそのような素振りでもなかっただろうに、と思ったものだが、いつしかこのようになっていたのだから、俺も言うに言い出せず、ここまで来ていた。

 考えてみても、決して恥ずかしくなったという訳ではなさそうだ。
 そこで翠という人間から鑑みれば、それは恐らく社会人の自覚というものだろう。

 そのような行為がアイドルとしていかに危ないかという事を十分に理解したが故の判断なのかもしれない。

 当時の翠であれば、それを承知で強引に迫って来たことも無かった訳ではないが、今ではそれも全く見られない。
 俺としても何となく少し寂しいが、翠がそう判断したものを無下にはすまい。

 ……よくよく考えなくとも、アイドルを個人的に自宅に呼んでいる時点でプロデューサーどころか社会人としてモラルを守っていないのだが、その点は後々解決していきたい。

 尤も、解決する手段があるのかどうかという点からは目を逸らしているのだけれども。





 かたかた、と乾いた音が室内のテレビ音を装飾する。全く味気のない音は不規則に声を彩り、不確定な時を刻んだ。
 本来向けるべき昨日に意識を傾けつつも俺と翠の事についてああだこうだと考えながら作業していると、気がつけば記録作業が終わっていることに気づいた。

「……まあ、こんなもんか」
 そもそも昨日一日分だけの作業なので、決して数時間もかかるものではないのが幸いしたか、俺の目を疲労させること無く完成することが出来たのである。

 パソコンの右下に表示されている時計を確認すると、やり始めてから十五分程度かかったところだろうか、という頃合いであった。
 単純に作業量が少なかったのか、それとも俺の仕事能力が増しているのかは定かではないが、俺の予想を超えていたのは間違いない。
 せっかくの休日を夜遅くまで起きて仕事などやってられないと踏んでの行動はどうやら早計だったらしい。

 俺以外誰もいない部屋で相変わらず鳴り続けているテレビをようやく消すと、自然と体を伸ばてしまった。
 ひと仕事終えた人間の特権というべきだろうか、ん、ん、と声を小さく漏らしながら両手を上げて伸びる仕草はもはや習慣だろう。

 ふと横を見れば、大きな窓が見える。
 あの決戦前夜からも、翠が初めて俺の部屋に来た日からも、俺がここに入居した日からも変わらない鈍い窓。
 時を刻んでもそこにあり続ける小汚い窓から見える景色は今日も代わり映えはしない。

 まるで進むのを拒否しているかのようなその窓を眺めていると、突然世界が変わったように思えた。

 ――途端、水を打ったような静けさが周囲を包んだのである。

 最近購入した時計の針音が影から現れ、俺の僅かな動きに感応して出る椅子の軋みが主旋律を奏でるこの部屋の窓に、過去の俺の姿がそっと見えたような気がするのだ。




 最初の頃は、毎日家に帰って勉強ばかりしていた。

 何も知らない世界に飛び込む俺に、精一杯知ってもらおうと用意してくれたテキストを必死に頭に詰め込んでは翌日間違えてしまったり、言葉遣いも正しくなかった俺に、わざわざちひろさんがビジネス用語本を渡してくれたり。

 その当時はまだ学生気分が抜けてなかったのは否定しないが、翠が来てからは本格的に営業を始めて、大きな目で見れば成功していた事も、細かい部分では失敗し続けて、時折相手方に呆れられたり、邪険にされたりすることも少なくはなかった。

 そして初めてのライブやテレビなどの仕事が順調に行っていた矢先に、この部屋で翠は――。


「……ホント染まってきてるな、俺も」

 あの時の景色は今でも記憶にこびりついている。思い出そうとすれば交わした言葉すら言えそうな気だってする程だ。

 それだけ翠の本当の言葉が……本当の気持ちがひしひしと伝わってきて、それでいて初々しくて純粋な彼女の表情が、俺には愛おしく思えたものだ。


 もうあの瞬間からかなりの時間が流れていた。
 心身ともに成長し、翠はちょっとやそっとじゃ動じなくなって頼もしい反面、少し面白みがなくなったような気がする。

 全く、あの時の翠と言えば色々な意味でハラハラさせてくれたものだ、と窓に映る俺を見て思った。


 窓の俺よ、楽しくしているか?
 ああ、そうか、あの年の今頃といえば、まだ翠に出会っていなかったな。

 窓の俺よ、直感を信じて突き進め。
 そうすれば、本当に良いアイドルと出会えるはずだから。

 窓の俺よ、お前の目から見て俺は楽しく見えているか?
 窓の俺よ、窓の俺よ――。


 取り留めもない時間旅行は、ふとした衝撃音によって終了となる。




「あ……と、遅かったみたいですね」
 がたこん、という何度目かの音を立てて、部屋の外から翠が現れた。

 無論、チャイムも鳴らさずに入ってくる人間など俺以外には翠しかいないのでわかってはいたのだが、出て行く時にはなかった変化に、俺は無意識に翠の手を見てしまう。

「買い物か?」
 翠の左手には白いビニール袋が提げられていたのだ。
 ちらりと見える印刷には、俺がよく利用しているスーパーのロゴのようなものが描かれている。

 俺の問いに考えることなく、はい、と一つ頷くと、翠はこちらへと歩み寄ってきた。
 一体何を買ってきたのだろう、と考える俺の意識を読み取ったのだろうか、その歩みに迷いは見られない。

 そして隣にやってきて座っている俺を見下ろした翠は、困ったように笑う。
「ちょっと遅かったですが……お疲れ様です、Pさん」
 その言葉と共に、ノートパソコンのすぐ横に翠はコーヒーの缶を置いたのだった。

「……コーヒー?」
 独特な溝を形成したメーカー独自のスチール缶に、鮮やかな虹色の模様とコーヒーの名前が印刷されている。
 特に疑問を感じることなく置かれたものだから、俺は訳も分からずついその缶を手にとってしまった。

「仕事中に飲んでもらおうと思いまして……もう、終わってしまいましたが」
 くす、と小さく息を漏らし、おどけるように首を傾げた。

 確かに仕事中は合間などにはよくコーヒーを飲むが、別にそれが無いと仕事ができない訳ではない。
 ましてや、買ってこいと命令するなど絶対にない。

 しかし、言わずとも買ってきてしまったものは仕方がない。
 この家にコーヒーの買い置きなどないし、そこにあるなら飲みたいと思っているぐらいだ。

 ありがとうと一言礼を述べてから、ぱちゃ、と缶のプルタブを開けて口に運ぼうとした刹那、大事なことに気づいて缶を机に戻す。
 翠は俺のそんな意味不明な仕草を見て不思議そうな顔をした。

 ――悪い、忘れていた。お金を払うよ。

 そう言って立ち上がる俺を、翠は勢い強く静止した。



「あ、いや、気にしないでください! 普段のお礼ですから!」
 翠は中腰になっている俺の肩に手を触れて抑えようとする。決して強い力ではないが、その顔を見ると言葉は冗談ではなさそうだ。

「とはいってもな……アイドルに奢られちゃ立つ瀬がないぞ」
 目上目下で上下関係を作るのはどちらの立場としても苦手なのだが、どうも自分より年下の、それもアイドルから奢ってもらうというのは些か気まずい。

 かといって、翠の制止を振り切って手のひらに硬貨を無理やり押し込もうとすれば彼女をまたいらぬ気遣いをさせてしまいかねない。

 ここはありがたく頂戴すべきか、と椅子に座り直す俺の姿を見た翠は安堵した表情を見せ、言い淀むようにゆっくりと呟いた。

「ええと、その……気を遣ったとかしういう意味じゃなくて。……何だか、懐かしいなって思ったんです」

 静かな動きで翠は俺の隣の椅子に座り――顔を上げたその横顔に、昔の面影が映り込んだ。

 ノートパソコン内部の風音がテレビの代役を買って出ている。
 静寂とも喧騒とも言えない、そんなノイズが昼下がりへ向かう時を演出していた。




「覚えてますか、私が初めてPさんの家に行った日のことを」
 遥か遠くの世界に思いを馳せるような、僅かな笑み。
 もはやそれだけではっきりと世界が変わるのを感じた。

「……勿論。忘れる訳がない」
 先ほどまで熱い視線を送っていたノートパソコンは、放置によりふてくされて画面を黒くしてしまっている。
 故に、時間の経過を証明するものは己の心音のみになっていた。

「ふふ、私も若かったですね」
 口元に手を寄せて翠が笑う。
 くすくすと小さく零す度に、彼女の長い髪が清流を描いた。

「今でも若いだろうに」
 俺と共に歩んできた軌跡の元を辿れば、その姿はずっと幼い。

 当時から翠はしっかりとして芯があると思ってはいたが、それは高校生という基準があったからこそであって、今の彼女を見れば当時の姿を幼いと思うのも無理はないだろう。


「……本当に、若かったです」
 途端、彼女に笑みが消えた。

 少し遠くに向けていた視線を落としては、手元にあるビニール袋で手を遊ばせている。
 その色は、朗らかという訳でもなければ悲哀に満ちている訳でもない。

 あえて言うならば、複雑な感情を抱いている、そう思わせる表情であった。





 心音が更に時を刻む。
 刻めば刻むほど、過去の情景が網膜を支配していった。



 ……彼女は後悔しているのだろうか?

 あの日、この場所で起きた事を。
 あの日、この場所で言った言葉を。


「……そんなはずはない」
「え?」
 過去の記憶と今の景色を重ねあわせると、違いというものはいくらでも現れてくる。

 見た目の姿もあの時以上に大人びて、言動も更に落ち着きを見せている。
 加えて仕事相手もずっと規模が大きくなったと同時に俺達の拠点である事務所も人が増え、全員が集まった日には楽しそうな喧騒が聞こえるようにもなっていた。

 全部、全部変わっている。

 しかし、それらは全て過去があったからなのであって、今が独立して存在している訳ではない。
 もしも翠が俺と出会っていなければアイドルにならなかったし、この場所で思いを吐露していなければすれ違ったまま翠は完全に押し潰されていたのかもしれないのである。

 そういう未来にならなかったのは間違いなく過去があるおかげであり、今の俺達の関係が存在しているのは間違いなく彼女が打ち明けてくれたおかげなのだ。


 そんな過去を、後悔なんてしていいものか。


「……Pさん?」
 脈略のない呟きを聞いて、不思議そうに俺の顔を軽く覗きこむ翠が視界に入る。
 純粋で汚れなき視線が俺の瞳を捉えていた。





 もしかしたら、彼女は俺の考えている過去よりも更に昔の自分を悔いているのかもしれない。
 俺の不意な言葉に反応した翠の顔に、どこか昔の香りがしていたからだ。


 その過去を遡れば、ごく自然にとある感情へと行き着いた。
 記憶が突き当りまで進むと俺はおもむろに顔を上げ、表れた輪郭をなぞり始める。

「我儘は信頼だって、よく言えたもんだな、俺」
「いきなり何を――」
 いうのでしょうか、などと続けようとして、翠が言葉を飲み込む。

 その顔には、何やら驚きがある。
 俺の言葉に翠は思い当たる節があるらしく、ハッと気がついたように俺へと強く視線を向けた。


「我慢するなと言っておいて、結局我慢しなきゃいけない立場にさせてさ。我儘ってより無責任だ」
 そう言って俺は頭を掻く。

 過去と今。
 先に上げた通り、違いなどあげようと思えばいくらでも上げられる。
 だが、ことの大きさを順位付けられるのなら、一番大きな物は恐らく彼女の立ち位置だと俺は思う。

 後輩が出来たことで良き見本となり、成功へと導いていく。
 翠に芽生えた責任感というものは、かつての彼女が異常に背負っていたプレッシャーに近い存在となっていたのではないだろうか。

 プレッシャーと言っても、仕事に対する重圧という意味に限った話ではない。

 周りは先輩である自身を見てくれているのに、そんな自分が甘えを見せてしまっては駄目だ。
 きっちりと線を引いて仕事として接することで、社会人という立場を明確にしなければならない。

 そういった『他人の目』が彼女を抑圧させてしまっていたのかもしれない。




「思い出すとさ、昔みたいなことはしなくなったよな」
 右隣にいる翠に近い俺の右手を広げて見つめてみる。

 翠が辛い時や翠が難しい仕事を終えた時、そして翠が望む時、この右手は彼女に触れた。
 そうすることで、彼女が喜びを感じてくれたからだ。

 触れたい、近づきたい。
 一緒になりたい。
 そのような莫大な感情を、かつてこの手を通じて発散させていた。

「……私はアイドルで、あの子達の先輩ですから」
 翠は広げた俺の手を見る。

 一年目、翠は純粋な心の中に恋があることを知った。
 そしてそれを壊したくないが故に、彼女は無理をしてしまった。

 だがそれを乗り切れば、彼女に恋慕の幸福と喜びという感情が両手で持ちきれない程与えられたのだ。
 お互いの手が触れ髪が触れ、また思いが触れることで、翠は一体どれほどの感情を心の中で爆発させてきたのだろうか。

「まあ、確かにそうだが……」
 しかし、それからはどうだろうか。
 後輩が出てきたことで、否応なくそういった行動は慎まざるを得なくなった。

 当然だが俺がそう言った訳ではない。
 翠の考える先輩像が、自発的に制限をかけたのである。


 翠の中にひそかに残る後悔があるとするならば、それはイフの世界への羨望というものだろうか。


 好きになんてならなければ。
 ただの仕事仲間と切って捨てられていたならば。

 ――もしもそうなっていたならば、苦しむ事もなかったのに!



 無責任。そう、無責任だ。
 背負うべき物を背負わず、他者の運搬を待つだけの存在。
 そして一度背負った物を落としてしまうのも、ある種の無責任なのだろう。
 そういう意味では、俺は無責任である。

 翠は、恋慕が求める快感を肉体的接触からいつしか時間や状況などの精神的接触へと変化させていった。
 仕事である以上それは仕方のないことで、立場上大人なのだから制限されているという状況には少なからず納得しなくてはいけない。

 だが、何も全てを締め切らなくてもいいのではないだろうか。
 ゼロかイチ、そのどちらかで済まされるのはデジタル世界であって、この世界では必ずしも良しとはされない。
 感情の機微、自由の度合い、そういった物がこの世界ではコンマとして表現されているのだ。

 もしかしたら、翠は今――いや、かねてから、こういう二人の時間には昔に戻ったような事をしたいと思っていたのかもしれない。
 何気ない時間を手を繋いで共有したい。学園祭の時、髪を撫でられる事で最初に感じた喜びを、今なお感じたい。

 ――翠は、過去から今へと続く原始的欲求を社会的責任という壁で塞いでいるのだとしたら。

 だとすれば、彼女はその純粋な欲望を押さえつけたまま現在に至っていることになる。


 それはよくない事だ。
 思っていることや感じていることを言わなければ、やらなければ、人はいつか壊れる。

 そうさせないために、俺はかつて『我儘は信頼だ』と言った。
 しかしそれが実現できない今、新たにまた許可をしなければならない。


 だから、昔の俺をなぞっていた筆先を、ふとずらしてみる事にした。


「俺は、翠のことが好きだぞ」
「――っ!」
 不意をついて、俺は翠をまっすぐと見つめる。
 予想通り彼女は肩を小さく跳ねさせ目をぱちくりとさせて口を小さく開いていた。

 いくら大人になれども、そういう所は翠らしいというべきか。

「仕事で忙しいけど休みはこうやって一緒にいる訳だし、ここは事務所でもないしなあ」
 責任を曖昧にしてしまうことや、立場を崩してしまうことは当然よろしくない。

 ……それでも、背負ったり降ろしたり、上ったり降りたりすることぐらいは、許されてもいいだろう?

「だから……もっと近づいてもいいか?」
 体ごと翠に向けて、俺は手を伸ばす。



 ――所在のないその手に、そっと翠の美しい手が触れた。




 その昔、俺は近づくことは許されないのだと信じていた。

 上司と部下という仕事の関係であり、そしてアイドルという偶像に実像は不必要だと思っていたからだ。
 勿論今でも根底ではそうあるべきとは思っている。
 不必要に近づきすぎたり、人間関係の壁を瓦解させてしまえば仕事もまともに立ちゆかなくなる。

 周りとの関係に怠慢で怠惰な人間は絶対に大成しないのだ。


 しかし、その一方で関係には距離があるという事に俺は気づいた。
 ゼロとイチや、あるいは数ミリの誤差ではなく、お互いの歴然とした心理的距離。

 ずっと近づいていていいのではなく、ずっと離れていればいいのでもない。

 互いが互いの形を認識し、そしてそれが許される環境なら、少し位仕切りを外したところで差して問題ではないのである。


「……そう言われては、仕方がありませんよね」
 何年も外回りを続けている内に日焼けをして表皮が所々めくれているような汚れた手に、きゅ、という小さな力が加わった。

 白く綺麗な手。一切の穢れがない、純白の手だ。


 翠に再び以前の面影が映り込む。
 いつだったか、俺がプロデューサーという肩書を外しておどけているのを見た時のような、困った笑顔。


 繋がれた手を机に置くと、木のひんやりした感触が俺の腕に伝わった。


 だがこうして再び繋いでも、彼女の心は一見変わっていないように見える。

 何故なら、心から嬉しいと、彼女は言わず、そしてはっきりと顔には見せない。
 それがあの時から年月を経て身につけた常識。社会人という大人である証拠だった。


 それでも、彼女の心から小さく漏れた霧のような言葉だけは、何となく分かったような気がする。

 ――社会人としての最後の一線だけは、と先ほどまで張り詰めていた彼女の頬が、いつのまにか落ちていたからだ。


「翠の手、久しぶりだな」
「はい、……私もです」

 アイドルから少女に戻ったあの時のように、翠はにこりと微笑んだ。




  *


 寂れたドアを解錠して入ると、向かい側の窓から来る夕日が目を眩ませた。
 強さといえば、扉からだと自分の指定席であるデスクが見えなくなる程である。


 事務所。
 俺の部屋から事務所までは電車で数駅、車なら更に早く到着できる程に短いため、あの部屋で長くくつろいでいたとしても夜に到着ということにはなりはしない。

 本来であれば今日はオフなので事務所に来る必要など全くないのだが、今日の事でやる気が出てきたのか、翠の希望で臨時でレッスンを入れることになったのだ。
 なので、こうして事務所に送りに来たという訳である。

「まだ時間があるな……」
 左腕の袖をまくると、銀色の時計が顕になる。

 急遽という話ではあったが、また近いうちにライブも控えているためトレーナーも快諾してくれていた。
 尤も、雇用者と被雇用者という関係にしては近すぎるから出来たのだろうが。


 ――空が、一際赤くなっていく。
 特に見たいテレビがある訳でもなく、俺と翠、たった二人だけが事務所で同じ空気を吸っていた。

 今日は後輩達はそれぞれオフだったり仕事だったりで事務所を空けている。
 同様にちひろさんもその後輩の付添で出かけているということらしい。
 事務所は当然鍵がかかっているが、合鍵は俺も所持しているので問題はなかった。


「……夕日、綺麗ですね」
 取り留めもない時間。
 翠は俺の机の後方、壁一面を伝っている窓の桟に手を置いて空を見上げた。

 数多の階段を上るだけあって、高い目線から夕日を迎えることができるこの事務所はそれなりに景色が良い。
 彼女にとってはもう何回も何回も、数えきれない程見ているはずなのだが、この景色だけは飽きないでよく見ている。




「昔に戻ったみたいだ」
 この静寂は何となく昔を想起させる。
 現在が賑やかになってきているからこそ、それは鮮やかに思い出された。

 かつての事務所。人の行き来など滅多にない、寂れた事務所。
 そんな小さな世界で幾千も幾万も顔を合わせて思いを交わした日々が、とても昔のように思える。


「……今日はPさんも私も、昔に戻るばかりですね」
 夕日に背を向け、翠は苦笑する。まるで後光が指しているかのような暖かな笑顔だ。

「最近はずっと前ばかり見ていたんだからたまにはいいだろう。翠もそう思わないか?」
 経年による汚れが目立つものの、日々の掃除の甲斐あって床は比較的綺麗になっている。
 その床を小気味よく鳴らして、俺は翠の傍に近づいた。

 彼女はそんな俺の質問に唯一つ、意地悪ですね、と笑ってみせる。
 おどけるようにして揺れる翠の髪が、夕日をキラキラと輝かせていた。

 ゆっくりと近づいて横に並んだ俺達は、改めて二人で夕日を見る。
 オレンジよりも赤と表現すべきだと思う位に、その陽は圧倒的に空を覆い尽くしていた。

 そんな色に当たっていると、不意に言葉が思い浮かんできた。

「翠は……昔のほうが好きか?」
 くだらない質問だ。
 今を感じて精一杯生きている者に昔と優劣を比較させても意味はない。

 昔には昔、今には今の良さがあるのだ。
 彼女もそれは十分わかっているようで、俺の考えと同じことを静かに答えた。
「……昔のほうが良かったこともありますが、今だって、こうしてPさんと話せる事がずっと楽しくなりましたから」

 本当に大切なものは失くしてから気づくもの、とはよく言ったものだ。
 やはり翠自身の感覚として、あの時のようなハリネズミも羨む距離にただならぬ価値を感じていたのだろう。

 今日俺の部屋で手を繋いでからは、まるで過去に戻ったかのような子供らしい姿が見かけられたからだ。

 そういう意味では、今現在の自分や環境に不満を抱いていたとしてもおかしくはない。




 しかし、昔には戻れない。
 例え戻ったとしてもそれは昔の形をした未来であり、それとは似て非なるものなのである。

 ではどうすればいいのだろう。
 昔に微かな郷愁を感じ、深い所で羨望を抱くのは果たして間違いなのだろうか。


 いや、俺はそう思わない。
 昔と今には、それぞれ良さがあるのだと先ほど思った言葉を心で復唱する。

 つまり翠がそう感じているのなら、俺の方から彼女が思っている以上の今の良さを覚えてもらえればいいのだ。

 過去を忘れてはいけない。しかし、過去の全てを体に縛り付けてはいけない。
 引きずるのではなく、それを手にとって歩む事が未来への一歩になるのである。


「……翠」
 かつての翠は、俺の手を望んだ。一切の引っ掛かりのない髪をさらさらと撫でることで、彼女は何よりも幸せを感じてくれた。

「はい」
 だからといって、今も同じことをすれば良い訳ではない。

 全ては必ず変化する。必ず何かが変わっていく。
 それでも大事な物を変わらせないために、何にも纏われない、裸の思いだけは強く抱き続けるのだ。

 俺はすぐ隣にある窓のカーテンを閉める。
 明かりは夕日に頼っていたため、それが遮られた事務所は薄暗くなってしまうが、翠の視線はしっかりと俺を見据えていた。


 ――以心伝心とは最高の状態だが、まだまだそれには及びそうにない。
 しかし、互いが視線を重ねあわせているこの瞬間だけは繋がっているのだと確信した。


「……来てくれますか」
「もちろん」
 静寂の中、彼女はそっと腕を広げると、俺は歩み寄り……体を重ねた。


 いつかの昔では絶対に出来なかったことも、今なら許される。
 そして離れていたからこそ、微かな時間が最高のものになるのだ。


 暖かい、という胸元でささやかれた赤色の恋心は、ゆるやかに反響して俺に伝わったのであった。


おわり。

建前:冬コミで続編要望きたので
本音:何となく読み返したらまた書きたくなった

今更ですけど冬コミお疲れ様でした。色んな人が来てくれた楽しかったです(こなみ)

おつ

おつ
数少ない翠ssだから続編が読めて嬉しかった。

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