貴音「私は、アイドル」 (23)
それは、月が高く上った夜の事でした。
私は、ある決意を胸に秘め、庭で月光浴をしている父の後姿に、声をかけました。
このような狭い場所に居る私は、そう、まだ外の世界を知らぬまま。
もっと高みから、何も囲われていない場所から、全てを見渡したい。
そう伝えました。
父は、こちらを振り向くことも泣く、頷くだけでした。
別れの言葉を口にしようとして、しかし私はその言葉を飲み込みました。
そう、いずれはまた、帰ってくるのだから。
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俺は違う
父との挨拶を終えると、母が廊下の向こうから歩いてきました。
私と同じ、銀の髪が、夜風に靡き、煌めいています。
「…行ってしまうのですね」
父にしか話していない決意を、何故か母は察していました。
私は、小さく頷くと、そのまま母の腋を通りぬけようとしました。
が、突然母が、後ろから私を抱きしめてきました。
「…体に、気をつけるのですよ。私は、何時でもここで、貴女の帰りを待っています…」
言葉は多くないものの、母の言葉に、私は温かい物が頬を伝うのを感じました。
母は、そのまま庭の方へと向かって歩いていきました。
私も、振り返ることなく、また屋敷の奥へと進みます。
「貴音様!」
血相を変えたじいや…この屋敷で執事を勤める原という…が、私に駆け寄ってくる。
「東京へ向かわれるとお聞きしました…なぜ、もっと早くに教えてくださらなかったのですか…!」
叱りつける声は、普段の厳しさ、そして優しさが綯い交ぜになった、複雑な声音でした。
震える声を抑えるように、咳払いしたじいやは、私の手を取り、銀色の鍵を握らせました。
「…貴音様が、あちらに到着するまでに、全ての用意は整えます。ですが、それ以上のことは、出来ませんぞ」
それでいい、という風に、私は頷きました。
「…どうか、お体にはお気をつけください。貴音様、じいは貴女のような方にお仕え出来て幸せでございました」
皺の刻まれた顔をくしゃくしゃにして、じいは、いつもと変わらない折り目正しい礼を私に向けます。
ただ、その背中が震えていることを除けば。
静まり返った屋敷の中を、私はゆっくりと歩いていきます。
長年育った屋敷の風景も、今となっては、やはり離れがたい愛着というものがあります。
ようやく玄関までたどり着くと、深夜だというのに、寝ているはずの屋敷の使用人達が並んでいました。
じいやが、手を回したのでしょう。
これでは、出て行きにくいではありませんか。
「貴音様…どうか、ご無事で」
「私達は、いつでもお帰りをお待ちしております」
「何かございましたら、屋敷にご連絡を、私がいつでも、そちらへ駆けつけますゆえ」
皆の言葉に頷いて、私は玄関を出ます。
月の光に照らされた風景に、私は普段と違う何かを感じました。
屋敷を振り返ることなく、私は、東京へと、足を向けたのです。
じいやから渡された鍵の住所にたどり着くと、既に部屋の中には、私の私物がいくつか運び込まれていました。
必要最低限の、衣食住を満たすその部屋。
かといって、あばら家というわけではなく、必要以上に豪華なわけでもなく。
しかし、近代的な防犯設備を整えたこのマンションを選んだのは、じいやではなく、女中の橋本だったのかもしれません。
窓を開けば、高層建築と雑多な建物が犇く都内を一望できる小高い丘の上。
これなら、夜も月がよく見えそうだと感じました。
しかし、私はどうすれば良いのか。
高みを目指すとは、いかなる方法で成し遂げられることなのか。
何も見えないまま、突き進んでいいものか。
そう思いつつ、私は、初めて訪れた東京という都市を、歩いてみることにしました。
「ねーねー、そこの彼女、綺麗な髪だね、名前、なんていうの?」
軽薄な口調の、私より少し年上の男性が、道行く間に声をかけてくるのも気に留めず、私はただ、街を歩いてみました。
郷里では中々目にかかれない、この雑踏の中、私は目立つのか、皆が振り向いているようです。
とはいえ、私にはそのようなことは、関係ありません。
そんな風に、官庁街、繁華街、住宅街を回り、私は、少し草臥れたので、とある公園のベンチに腰掛けていました。
子供達が、無邪気に走り回り、砂場で真っ黒になりながら遊び、遊び興じる姿を、私は少し羨ましく思いました。
幼少の頃の私の遊びといえば、屋敷の女中達との記憶しかあまりありません。
そんな風に、過去へと思いをはせていたときでした。
「おお、そこの君」
少し深みのある、低い声が聞こえてきました。
首をめぐらせると、濃茶色のスーツを着た壮年の男性が私のほうを見ています。
「そう、君だよ、君」
私に、何か用向きがあるようです。
「ああ、すまない、自己紹介がまだだったね。私は、株式会社765プロダクションの社長を務めている、高木順一朗というものなのだが」
一体、何の会社なのかも分からない私の表情を察したのか、高木と名乗った男は、まだ離し続ける。
「実は、我が765プロは、今、トップアイドルを目指し、いや、いずれそうなってくれるであろう、トップアイドルの原石を探しているのだ」
トップアイドル…?
「そうだ。華々しいステージパフォーマンス。多くのファンを魅了する歌声、演技、美貌。何よりも、ファンを、見た者を幸せにするのがアイドルの仕事だと私は考えている…今、君の姿を見てピーンと来た!君にはその素質がある!是非、我が765プロダクションでトップアイドルへの第一歩を踏み出してみないか?!」
熱を持った高木殿の言葉に、私はしばし考えました。
アイドル、と言うのが具体的に何をするのかはよく、分かっていません。
ですが、アイドルというその存在は、多くの人を幸福にするという使命があるようです。
ならば、それを通して、私の目指す「高み」というものが分かるかもしれません。
私は、高木殿に、その申し出を受け入れる旨を伝えました。
「おお!そうかい!?やってくれるかね?今から時間は大丈夫かね?事務所で話したいことがあるのだが」
矢継ぎ早に色々と話す高木殿の後を付いて、私はその「765プロダクション」なる場所に連れて行かれました。
「諸君!ただいま!」
さして広くないその事務所のドアをくぐると、高木殿は非常に上機嫌そうな声で、室内の誰かへと声を掛けていました。
「お帰りなさい、社長…あら?後ろの子は」
緑色のベストを着た女性が、こちらのことを訝しげに見ています。
「ああ、そうだ、紹介が遅れたな。今、他の子達は?」
「響ちゃんと、律子さん、それに美希ちゃんが居ます」
「そうか、ちょうど良い、彼女達にも紹介しておこう」
「皆、集まってくれたまえ」
事務所の奥、大きなホワイトボードの前に高木殿と並んで立つ私。
そして、高木殿の声に、事務所内のあちこちから私と同世代の少女達が集まってきます。
「紹介しよう。今日からこの765プロの一員となった、えーと」
そう、まだ私は、高木殿に名乗っていませんでした。
「社長…名前も知らない子を連れてきたんですか」
「ああ、いや…その」
「もう、前からいっているじゃありませんか。ちゃんと本人に就労条件とか今の会社の状況とかを伝えたうえで了承を得てからつれて着てくださいって」
「す、すまん…つい」
学生服のお下げの少女が、高木殿に厳しい言葉を浴びせています。
「まあまあ、律子さん。そのくらいで…」
先ほどの事務員らしき女性が諌めると、その少女は矛を収めたようです。
「えーと、では、すまんが自己紹介から」
そこで初めて、私は四条貴音という名前を口にしました。
「ほぅ、良い名前だね」
高木殿は、何かに気付いたのかそうでないのか、興味深々といった様子で私のことを見つめています。
「さあ、皆も自己紹介して、まあ、私は先ほど名乗ったが、改めて。765プロ社長の高木だ、よろしく、四条君」
「私、ここで事務員などをしています、音無小鳥です」
「えーと…何ていったらいいのかしら、アイドル、兼、事務、兼、マネージャーの秋月律子です」
肩書きが多いのは、小さな事務所ゆえでしょうか。
「自分、我那覇響!よろしくね!」
小麦色の肌の、少し小柄な少女が元気な声で名乗り出ました。
我那覇…琉球の地でよく聞く名前と記憶しておりますが。
「あふぅ…あ、ミキの名前はね、星井美希っていうの、よろしくね、貴音」
金髪の少女が、少し寝ぼけ眼で手を振ります。
その様子が、かわいらしいもので、私も少し、頬を緩めてしまいます。
「まあ、今日のところは四条君にまず、諸々の手続きを済ませてもらってから、我那覇君と美希君のレッスンに同行してもらおう、まずは、雰囲気を感じて欲しい」
私は、分かりましたという風に頷きました。
「それじゃあ、四条さん、こっちへ来て貰っていいですか?書いてもらう書類がいくつかあるの」
そういった事務的な手続きと、未成年であるが故の、保護者への連絡…これは、どうやらじいやが連絡を取り次いだようです…も済ませ、私は、晴れて765プロダクションの一員となったのです。
「んー、じゃあ、四条さんはねー、まず自分達のダンスを見てもらったほうが良いんじゃないかな?」
「頑張ってねー、響ー」
「んがー!違う!美希も一緒に踊るの!」
「えー」
何とも眠そうな星井美希の手を引っ張り、我那覇響はラジカセのスイッチを入れました。
流れるような動き、星井美希は少し遅れているように見えましたが、その我那覇響の動きに、私は目を奪われました。
「っと!こんな感じ!」
「響の曲はテンポが速すぎて疲れるの…」
素晴らしい動きでした、我那覇響。そう言うと、響の表情は少し暗くなりました。
「でも、まだこれをみんなの前で踊ったことが無いんだ…で、でも!いつかは、大きなステージで、大勢のファンのみんなの前で、踊るんだ!」
そういうと、今度は私の手を取ります。何をするのですか、と聞くと、八重歯の見える笑顔で、彼女はこういいました。
「貴音も、踊るんだよ!アイドルでしょ!みんなの前で、いつかはこうして踊るんだよ!」
そうですね…アイドル、というのは、そういうものですね。
私の中では、まだアイドルという存在が何をすればいいのか良く分かっていません。
ですが、これで少しは分かったような、そんな気がしました。
続いて彼女は、こうも言いました。
「あと、その我那覇響、ってフルネームで呼ぶの、止めてよ」
何故でしょうか?
「んー、何か、さ、違う気がする」
何が違うのか、と問うと、口を尖らせて、響はまた声を上げます。
「もー、そんな細かいことはいいの!とにかく!自分も貴音って呼ぶから、貴音も自分のこと、響って呼んで!」
分かりました、と頷き、私もそのダンスレッスンの輪に加わりました。
こうして、激しく体を動かして踊るという行為自体が、もしかすると初めてだったのかもしれません。
その日は、心地よい疲労感に包まれ、私は家路へと突きました。
誰も居ない、屋敷に比べれば、比べるまでも無く狭い部屋。
しかし、窓を開けば、大きく開けた視界の中に、都内の夜景と、郷里では考えられないほど少ない数の星しか見えない空が見えました。
だけれども、月の光は、どこに居ても同じ。白銀の輝きは、変わらず私を、街を照らしています。
先の分からない不安は、取って代わってこれから始まる新たな生活への希望となり、私は床に就くことにしました。
それから数ヶ月。
小なりとはいえ、私を含めたアイドル候補は、アイドルとして、一応のデビューを果たしていました。
「おはようございます!貴音さん!」
元気良く挨拶をしてきたのは、高槻やよい。
この事務所でもかなり年少のほうに入る少女です。
やよいの元気な姿は、見ているだけで私も元気になるというものです。
「貴音、おはよう」
やよいと一緒に事務所に来たのは、水瀬伊織。
あの、水瀬財閥の令嬢と言う事で、私も大分昔に聞いたようなことがありました。
気の強さに掛けては、この事務所でも随一でしょう。
「ほら、あずさ、早く着なさいよ」
「はいは~い」
澄んだ雲雀の様な声の主は、事務所でも最年長のアイドル、三浦あずさのものです。
「あら、貴音ちゃん、おはよう、今日は早いのねぇ」
「アンタがいっつも遅いだけでしょ」
「あらあら…」
伊織とあずさの会話を聞きながら、続々と皆が集まる事務所に、社長に連れられて、カメラを担いだ男性が入ってきました。
そう、実は最近、765プロの日常風景を取材と言う事で、カメラマンの方がこられていたのです。
一体何なのでしょうか…
そして、その取材されたビデオを私達は皆で見ながら、最後の最後に、社長が驚くべきことを口にしたのです。
「うおっほん、実は――――」
その言葉に、私達を含めて、皆騒然となりました。
高校卒業後にプロデューサーとなった律子と、高木殿がプロデューサーを兼任していたのですが、それでも、この人数に対してはあまりに不足気味でした。
そこで、高木殿は思い切って、プロデューサーを採用したというわけです。
さて、その後の765プロダクションですが、プロデューサーも私達も、なれない仕事に右往左往としながらも、何とかアイドル活動の本格的な第一歩を踏み出していました。
それまでは、小さなイベントでの公演だったものが、大規模なステージライブへと変わっていく中で、私は、さまざまな体験を出来ました。
その中でも、こうして765プロが大きく、そして名を上げたのは「生っすかサンデー」が大きいのかもしれません。
私も、その1コーナーである「四条貴音のらぁめん探訪」なるコーナーを勤めさせていただいております。
今日も、その生中継の収録が終り、私はBBSのスタジオへ向かう時でした。
仕事をはじめてから持たされている、携帯電話が震え、着信があったことを伝えます。
番号を見れば、小鳥嬢からでした。
『貴音ちゃん?ごめんね、お仕事中に』
少々あわてた様子の彼女の声。何があったというのでしょうか。
『今ね、あなたのお父さんがいらしてたの』
その一言に、私は完全に意表を突かれました。
まさか、あの父が…
『もしもし?それでね、もう、帰られたんだけど…その、貴音ちゃん、もし連絡が取れるなら、と思って』
とはいえ、あの父が携帯電話など持ち歩く様は想像もできませんでした。
とりあえず、礼を述べて通話を終えると、少々考え込んでしまいました。
父なら、このあとどこへ行くのだろうか、と。
「お姫ちん?どうかしたの?」
真美の気遣わしげな声に、私は笑顔を作り、何でも無いと答えました。
しかし、まさか765プロに来た時には、このようなことをしている自分など、想像もできませんでした。
多くのファンに囲まれ、声援を浴びている。そして、そのファンの皆様方が笑顔になっている。
そんなことが、私にも出来たのだと。
その日の収録が終わると、私は、ある場所へと向かいました。
記憶を頼りに、その場所へと向かう。
幼少の頃に連れて来られたきりの場所は、周囲の近代的な建造物と異なり、あまり変わった様子は見受けられませんでした。
しかし、そのどれもが、あの頃より小さく見えるのは、きっと私が成長したという証なのかも知れません。
「貴音…」
驚いた様子の父が、目を見開いています。
無理もないでしょう。
お久しぶりです、といった声が震えそうになるのをこらえました。
「どうしてここが分かった?」
さあ、何故でしょうか。
私にも良く分かりませんでしたので、とっぷしぃくれっと、とだけ言っておきました。
まさか、着てくれるとは思わず、私は今にも泣きそうな顔になるのをこらえていました。
言うべき言葉を見つけられずに、しばらくの間、無言のまま向き合っていました。
来てくれた事に驚き、ポツリと呟くと、父は頷きました。
まだ、私は、帰るわけには行かない。
そう、まだ、道半ばなのです。
高みは目指せども目指せども、まだ先にあるようです。
そもそも、頂上があるかも分からない。
ですが、私は見てみたい。
それが果たせるまでは、帰るわけには行かない。
そう言うと、父は、また、黙って頷くだけでした。
ですが、それで良いのです。父は、そういう人ですから。
思わず、その姿に、駆け寄って抱きついてしまいました。
もう、十年以上も抱きしめたことのない父の体は、あの頃に比べれば細く、頼りなげなものになった気がします。
それでも、抱き返してくれたときの暖かさは、変わりませんでした。
私は、もうしばらくこちらで頑張りたいと思います。
父と別れた後、私はふと、空を見上げてみました。
やはり、月はあの頃と同じ様に、郷里と同じ様に、輝いていました。
ですが、それで良いのです。父は、そういう人ですから。
思わず、その姿に、駆け寄って抱きついてしまいました。
もう、十年以上も抱きしめたことのない父の体は、あの頃に比べれば細く、頼りなげなものになった気がします。
それでも、抱き返してくれたときの暖かさは、変わりませんでした。
私は、もうしばらくこちらで頑張りたいと思います。
父と別れた後、私はふと、空を見上げてみました。
やはり、月はあの頃と同じ様に、郷里と同じ様に、輝いていました。
「おはようございます、今日も朝から、冷え込んでおりますね。今日の最低気温は東京で-3℃と厳しい寒さを記録しております。皆様、どうか風邪など引かれませんように…それでは、全国のお天気に参りましょう」
今日は、週に一度の朝の情報番組の天気予報の司会です。
カメラの向こうでは、朝食を取りながら、この番組を見ていただいている方々が大勢居るのです。
そして、その中には、もしかすると父も…
「今日は、日中も気温があまりあがらず、ですが、雲ひとつない晴天が続くでしょう。夜には、空を見上げて、月など眺めては如何でしょうか?勿論、寒さ対策は、万全にして」
見上げれば、うっすらと空には月が見えています。そして、今日の夜も、また…
そして、私のアイドル生活もまだ続く。
高みを目指して、今日もまた。
完
おつたか
昨日の、貴音父「娘はアイドル」の貴音視点…になっていればいいなぁ。
貴音、お誕生日おめでとう。
おつー
あずささんの書いた人かな?
アレの別視点か
面白かった乙
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