某年某月某日、午後21時。
「プロデューサーさん、今日中に仕留めちゃいたい書類があるんですけど、これから大丈夫ですか?」
それは、愛すべき隣人である事務員の、そんな一言から始まった。
「他ならぬちひろさんの頼みとあっては断れません。幸い、この後仕事のある子はいませんし」
俺は、一瞬緩みかけた表情を慌てて正してそう返した。
「ふふ、そう言って下さると思ってました♪」
一方ちひろさんは、喜色を隠そうともせずに鼻唄交じりで残業を片付けにかかる。
まぁ、話の流れ上ちひろさんが喜んでも不自然ではないか。
何でも卒なくこなしてくれる反面、妙なところでガードが甘いというか、迂闊なところのある同僚の行動にやや肝を冷やしつつ周りを見渡すと、
「……」
じっとちひろさんに視線を注ぐアイドルを見つけてしまった。
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「あれ、まだいたのか、凛?」
直観的にまずい気がして、ちひろさんから注意を逸らすべく声をかけてみたが、
「何その言い方? 私が事務所にいるとまずいんだ?」
虎の尾を踏んでしまったらしい。
ちひろさんに向けていた胡乱な目が、そのままこっちへ向いてきた。怖い怖い。
「そうじゃない。もう九時だぞ。お前まだ高校生なんだから、」
「明日、土曜だけど?」
いかん、何か言う度に墓穴を掘ってる気がする。
が、ここで折れてしまうと色々面倒になりそうなので、凛を納得させるだけの屁理屈を捻り出すべく脳細胞をフル回転させる。
「今日が金曜日でも、15歳の女の子が遅くまで家を空けて良い理由にはならないだろ」
「プロデューサーにそんな事言われる筋合いは無いと思うけど」
まぁ、それで出てくるのが屁理屈にしかならないどころか、一回り以上年下の女の子に一蹴されてしまうあたり、俺の脳みその残念さが窺えるというものだが。
「俺には親御さんからお前を預かってる責任があるんだから、こういう事言う義務があるの」
「じゃ、言う義務を果たしたし、もう良いよね? 私、もう少し読みたい本があるからここにいるよ」
なんてことだろう。屁理屈を生み出すスピードも質も、凛は俺のそれを遥かに凌駕しているではないか。
……言ってて阿呆らしくなってくるな。
とにかく、そんな俺の呆れをよそに、口をへの字に曲げた凛は、誰かが置いていった今日発売のファッション誌を広げ、どっしりとソファーに腰を落ち着けてしまう。どうやら梃子でも動かない覚悟を持ってしまったらしい。
ここまで来ると呆れるより感心してしまうが……さて困った。
まぁ凛が何となく察している通り、さっきのちひろさんの言葉はいわゆる暗号というやつで、飲みのお誘いだったわけだが……
下手に凛が事務所にいる状態で飲み屋までちひろさんと行動を共にすると、何だか非常にまずい気がする。主に凛のアイドルとしての威厳的な何かが。
「やれやれ、女の子の我儘は可愛いものだけど、あんまり度が過ぎると愛想を尽かされるものよ?」
そんな風に俺が手をこまねいていると、すっと凛の手からファッション誌を奪った英雄が(どこからともなく)現れた。
「川島さん……?」
「そう、私よ」
「あれ、川島さんまで残ってたんですか?」
英雄の名は川島瑞樹。まぁ色々と逸話のある人だが、凛が珍しく敬語を使う相手というだけでも只者ではないことが伝わるだろうと思う。
「残っていたのよ、残念ながら」
「いや、別に残念ではありませんけど」
「私は残念なの。今日は定時で帰るつもりだったのに、ボイストレーナーの静ちゃんが妙に張り切っちゃって、結局この時間よ」
分からないわ、と呟く川島さんに、思わず心の中で十字架を切る。それは大変な災難でした。
「お、お疲れ様です」
そう思ったのは、俺だけではなかったらしい。
何というか、川島さんの纏う悲壮なオーラに、お怒りモードだった凛も思わず恐縮してしまって殊勝な事を口にしている。
「大丈夫、この程度で疲れたりなんてしないわ。ただ、この時間から帰るとなると、お肌の手入れにとっての黄金時間を逃してしまうの」
「……ご愁傷様です」
「そうね、その表現ならしっくりくるわ」
はぁ、と大きく一つ溜息を吐いた川島さんは、
「ま、そういうわけだから凛ちゃんはP君に送ってもらうなりして帰ること。若いからといって調子に乗って夜更かししてると、曲がり角はすぐにやって来るものよ」
「ぅ……」
忠告なんだか警告なんだか分からない言葉を凛に投げかける。
曲がり角、という言葉に何を想像してしまったのか、凛は顔をしかめてうめき声のようなものを上げる。
「はい決まり。それじゃ、悪いけどP君、車よろしく」
「……なるほど、妙に説得してくれるなと思ったら、タクシー代を浮かすためでしたか」
さすが大人。抜け目が無い。
「いえ、私は乗らないわよ?」
「は?」
が、しかし川島さんの返答は俺の予想とは反したものだった。そして俺の顔がよっぽど間抜けだったのか、
「私は高校生ではないもの。急いで帰る理由がないわ」
川島さんは口元を緩めながらそう続けた。
「アンチエイジング的には早く帰らないとまずいのでは?」
「P君」
「は、はい」
が、その後の俺の言葉に、川島さんの口元から笑みが消え……あれ、目もわりと真剣にお怒りでいらっしゃる。
「女性に歳の事を持ち出すのは大変失礼なので、気を付けた方が良いわ」
「はぁ……あ、いや、すみません。話の流れがあれだったもので、つい」
だってさっきゴールデンタイムが云々の話をしたのは川島さんじゃないですか、という子供じみた言い訳を心の中でしつつ、俺が全力で頭を下げると、川島さんはにまりと笑っていた。もしかしなくても、からかわれていた?
「そういうわけでP君は凛ちゃんと、何故かソファーの陰に隠れている楓を送ること」
そして新たに投じられる新情報に、
「あ、瑞樹さん、バラすなんてひどい……!」
俺と、隠れていたらしい楓が戦慄した。
「……何で隠れてたの?」
「事件の匂いを感じたので」
ひょっこりとソファーの陰から顔を出したアイドルに念のため聞いてみると、彼女はどこか得意げにそう言った。さすがの感性である。
「なんだそれ……ともかく、二人とも送るから車に……」
「あの、プロデューサー?」
「なんだ?」
思わず溜息を吐き立ち上がった俺に、
「私、高校生に見えます?」
「…………はい?」
楓はそんな事を聞いてきた。一瞬、本気で自分の耳を疑ったが、楓のやや膨れた頬を見てようやく合点がいった。要するに、成人している自分も帰らされることが不本意だったらしい。
「あ、そういう意味でか。そうじゃなくて、楓は明日朝早いから」
「あぁ、そうでした。あーりぃえないくらい朝が早いんでした。ふふっ」
だから強制送還の理由を告げたところ、楓は眉を上げてから、不意に得意げな顔になる。
「……え、そのドヤ顔は何事?」
「あり得ないと、早いのアーリーとをかけてるんじゃないの?」
俺がその反応に戸惑ってると、楓の傍にいた凛が正解を披露する。それも、やれやれとドヤが3:7くらいで配合された顔で。
なるほど。と、一瞬ちょっと納得してしまった自分を殴りたい。
「……キー借りてくるから二人は車庫で待っててくれ」
というのも、この光景、最近どこかの収録現場で見た気がするからだ。あれは、とても嫌な事件だった。
ちょっぴり苦い思い出を振り切るように社長室に向かう俺の背中に、
「あれ、正解特典は?」
「あの、私の座布団ポイントも……」
即席芸人系アイドル二人の声が刺さる。
「そんなものは、ない!」
勘弁していただきたい。
・ ・ ・
「ただいま」
そんなわけで、凛と楓の二人を家に送り届けた俺が事務所に戻ってくると、
「あら、お帰りなさい」
ソファーで足を組みながら雑誌に目を通している川島さんが迎えてくれた。
……まだ残っているのは、例のゴールデンタイム的には大丈夫なんだろうか?
「ちょっと見ないうちにやつれたわね、P君」
「あの二人を同時に乗せるのは、ちょっと体力がいるので」
しかもその雑誌……さっき凛が読んでいたもので、まぁ所謂ティーン向けのファッション誌なわけだけども。
「あ、これ? まぁ、若い子の感性を知るのも重要だと思って」
俺の視線に気付いたのか、川島さんは読んでいた雑誌を俺に向けて見せながら笑う。
「川島さん、何度も言いますけど、気にし過ぎですよ、年齢のこと。川島さんが思うほど、ファンは気にしていませんよ」
川島さんをアイドルにしたのは俺なのだから、俺がこんな風に言うのはずるいのかもしれない。ただ、そうやって逃げるのはもっとダメな気がしたので、時折こういう事を言っているが、
「知ってる。何度もあなたから聞いたもの。でも、気になってしまうものは仕方ないじゃない。それが、人間ってものでしょう?」
「それはそうかもしれませんが……」
川島さんの返答は、大体こんな感じになる。まぁ、アイドルとして輝きたいという意志を持ってくれているということで歓迎すべき事なのかもしれないが、それで無理をされるのも、何だか違う気がするし……
「コンプレックスってのは、うまく付き合えば自分のポテンシャルを引き出すための起爆材にもなり得るものよ。少なくとも、私はそれを信じ、これまでもネガティブな自分を何とかポジティブへと作り変えることで人生に挑んできたもの」
そんな俺の考えが透けて見えていたのかどうか。今日の川島さんは、いつもより少し踏み込んで答えてくれた。
「あれ、何だか本当にいい話にまとまっちゃいましたよ」
「P君は、いちいち話の腰を折らないと気が済まない病気か何かに掛かってるのかしら」
「失礼しました」
我ながら難儀な性格をしている、という自覚はある。
川島さんがそういう部分を見せてくれたのが嬉しいのに、それを正直に表に出すことが出来ない。
難儀……というか、単純に子供なんだよな、俺。
「ん、私の顔に何かついてる?」
「いえ、今日も綺麗だなと」
そんな事をぼんやりを考えている間、無意識に川島さんの顔をじっと見ていたらしい。川島さんの問いに、頬を書きながら誤魔化して返す。
「あら、身内にお世辞は良くないわよ。まぁ、多少なら悪い気もしないけど」
そんな俺の態度に、川島さんは何か感じたのか、
「それで、私に早く帰ってほしいP君は、残ってちひろさんと何をするつもりなのかしら?」
少し意地悪な顔になってそう言った。なるほど、そう取られたか。
「……残業ですよ?」
「あらそう? まぁ、そういう事にしておいてあげる」
確かに、あまり長居されると俺達の残業もそれだけ延びることになるので、早く帰っていただけると助かるといえば助かるのだが……
「あの、瑞樹さん?」
と、そこまで黙って仕事をしていたちひろさんが声を上げる。何だろう、嫌な予感しかしない。
「あぁ、みなまで言わないで。ちひろさんはこういう時自爆するから」
と、思ったのは俺だけじゃなかったらしい。やや呆れた口調で川島さんがちひろさんに釘を刺す。俺としては、なんとも複雑な心境だ。
「ぅ……」
「その反応でもうね」
なんとも言えない顔で呻き声を上げたちひろさんの姿に、はぁ、と盛大な溜息を吐いた川島さんは、
「ま、あんまり意地悪するのも可愛そうだから、私もそろそろ帰るけど」
ちひろさんと俺とを交互に見てから、また一つ溜息を吐いてから立ち上がる。
「二人共、程ほどにね」
「や、そこまで疚しい事はしてないですよ?」
何だか盛大に誤解されているような気がしたため、一応抗弁してみるが、
「そう願っているわ」
川島さんは呆れ顔のまま、手をヒラヒラと振りながら事務所を後にしてしまった。
さて、これで事務所に残されたのは俺とちひろさんだけになったから、さっさと仕事を片付けて飲みに行きたいところだが……
「……どうします? 今日は止めときます?」
さすがに、自重したほうが良いような気もする。
疚しい事はしていないとは言え、これだけ疑われた後に、ちひろさんと二人でいるところを誰かに見られるのも面白くない。
「いえ、こうなったら断固決行です。飲まなきゃやってられません!」
「まぁ、俺も決行するのは吝かではありませんけど……」
が、ちひろさんの意志は相当に固いらしい。ともすれば仕事中よりも真剣な顔をしている気がする。
「大丈夫です。堂々としてりゃ良いんです。悪い事してるわけじゃないんですから」
「そりゃそうですけど、とりあえず暗号は変えましょう」
「こういう事するから、怪しまれるんじゃないかと思うんですけど」
俺の提案に、ちひろさんが顔を顰める。まぁ、男の方がこういうの好きだよな、というのは理解しているが……
「そうは言っても、事務所に誰かいる状態で、おおっぴらに飲みの相談なんてできないじゃないですか」
まぁ、決して無駄な事ではないので、ここはこちらのノリに付き合ってもらわねば。
「そうですよね、未成年組に聞かれるのも問題ですし、成人組に聞かれるのは、もってのほかですから」
「まぁ、普通に混ざりたがりますよね。楓とか礼子さんとか、酒飲みはそれなりにいますし」
いつかのお花見を思い出してつい溜息がでる。
「もう少し余裕が出れば良いんですけど、今酔ったアイドルを外に出すわけにはいきませんから」
「ですね……で、今日はどこ行くんです?」
「あんまりこの近くはまずいですから……少し遠出して町の方に出ましょう」
少し考えてから出したちひろさんの答えに、
「堂々としてれば良いのでは?」
「そこはそれですよ」
思わず突っ込みを入れると、ちひろさんは少し拗ねたように俺の事を睨む。よし、何となく満足。
・ ・ ・
というわけで、やって来たのは快速で二駅先にまで足を伸ばして、馴染みの店。
まぁ、何のかんのと仕事の愚痴やらプライベートの愚痴やらを吐き出しながら飲むこと一時間半ほど。
「だからぁ、P君は甘いんです!」
「もう、それは何度も聞いてますよ」
向かいに座った頼れる事務員はすっかりできあがってしまっていた。
「アイドルからも舐められてるじゃないですかぁ。もっとバシッと~言うとこではちゃんと言わないとですよぅ!」
言っている事こそちひろさんらしいのだが、間延びした口調といい、机に肘をついてこちらを見上げている体勢といい、まるで威厳がなくなっている。
「ま、あれも信頼の延長ですよ」
「信頼と馴れ合いは別物ですよぅ。アイドルとの信頼関係は勿論重要ですけど~、線引きもちゃんとしておかないと」
なにやら据わった目で力説しているちひろさんだが、
「それは分かってます。自分なりにやってますよ。今日だけで五回目ですけど、これ言うの」
「それはあれですかぁ、私が同じ話しかしてないと言いたい訳ですかぁ?」
「いえ、言いたいんじゃなくて言ってるんですけど」
まぁ、もう何度もしている話なので、俺の反応が薄いのも仕方がなかろうというものだと思う。
「むぅ、すっかり可愛げがなくなっちゃって、お姉さん悲しいです」
ジョッキに半分ほど残っていたビールをあおったちひろさんがそう言うが、
「誰がお姉さんですか。飲みに行く度に誰が家まで送ってると思ってんですか」
毎度毎度飲みに行く度に苦労させられている身としては、もはや年上という感覚がなくなっている。
飲みに行った時に限っては、むしろ妹にすら思えてくるくらいだ。
「んふー」
と、不意にちひろさんの表情が崩れて、なんとも気の抜けた声が出る。
なんというか、普段のちひろさんを知っている人間には信じがたいことなのだが、これが酔ったちひろさんのご機嫌ボイスなのである。
「何ですか、その笑い」
「何でもないですよーだ」
またしても、んふーと笑いながらそう言うちひろさんを見て、思わず溜息を吐く。
もう完全に酔っ払いである。感情の起伏が山の天気以上に気紛れになっている。そろそろ今日はお開きにした方が良いかもしれない。
さて、この酔っ払いからどうやって酒を取り上げるかを思案していると、
「これは……想像よりも二回りほどひどいわね」
突然、聞き覚えのある声が俺の背中を叩いた。
「は?」
「あ~、瑞樹さん!」
慌てて振り向くよりも前に、その人物に気付いたちひろさんが声をあげる。
「川島さん、なぜここが……って、まさか尾行を?」
「私もそこまで暇ではないわ。ま、色々あってね。それより、同席しても良いかしら?」
振り向くと、確かにそれは川島瑞樹その人だった。
川島さんの服装が事務所を出たときとは違っているから、尾行されたわけではないのは確かなんだろう。一体どういう経緯を経てこの場にいるのかは謎だが……
というか、この状態のちひろさんをあまりアイドルに晒すのは良くない気がする。
「……どうなんです、ちひろさん?」
「え~、良いじゃないですか。大勢で飲んだ方が楽しいですよぅ」
そう思ってちひろさんに振ったのは、まぁ俺の完全なる判断ミスであり人選ミスだろう。
酔っ払いに正常な判断を期待するほうが間違いだった。
「良いみたいね」
ちひろさんの許可を得て、川島さんが席につく。ちひろさんに判断を任せる形になってしまった以上、文句も言えない。
仕方ないので、ちひろさんと川島さん、双方ともひどいことにならないように俺が監視するしかないか。
幸か不幸か、ちひろさんはもう完全に出来上がっているので、それを理由にお開きになるのも時間の問題だろう。
「あ、お姉さん、梅酒、ロックでお願い」
「あれ、案外可愛いものオーダーするんですね」
「素面の状態で酔っ払いを目にすると、自制心が働いちゃうものよ」
俺の言葉に、川島さんは小さな溜息とともにそう返した。
さすが大人。きっちり節度を弁えてくれるあたり、どこぞの事務員とはえらい違いだ。
「えー、私酔ってませんよぅ?」
ちひろさんの恐ろしいところは、どんなに酔っていようとも、自分を評した言葉だけはしっかりと理解し、記憶しているところである。
酔っているからと、多少失礼な事を言った事があったのだが、あの後二週間ほど睨まれたのは忘れられない。
「酔っ払いは皆そう言うわ。ほら、口元汚れてるわよ。いい女が台無し」
まぁ、当然そんな事を知らない川島さんは、ちひろさんの惨状に顔を顰めつつ、鞄から取り出したハンカチでちひろさんの口元を拭いにかかる。
一方のちひろさんはというと、川島さんの行動を察知してか、目を瞑って口を川島さんに向けて突き出し、
「んふー、ありがとうございますぅ」
拭い終わった後は満面の笑顔を川島さんに向けていた。あかん。
「P君?」
「はい?」
「この可愛い生き物は何?」
「やっぱりそういう反応になりますよね」
川島さんが物凄くキラキラした顔でちひろさんの事を見ている。そりゃそうだ。これはもはや別物だから。
「時に鬼とまで呼ばれるあのちひろさんと同一人物とは到底思えないんだけど」
「鬼は言い過ぎですよ。基本、アイドルには優しいじゃないですか」
「そうだけど、規律にはうるさいから」
川島さんのあまりにストレートな言葉に慌ててフォローしようとするも、
「はぁ、ここの出し巻きは美味しいですよねぇ、こう、ちゃんと層ができてて」
当の本人は少し前に運ばれてきた出し巻きをご堪能中だった。
「出し巻きを一枚一枚剥がしながら幸せそうに食べてるあの生き物と同一人物には、ちょっと見えないわね」
「まぁ、酒が入ると人が変わりますからね、この人」
普段は花より実を取る人なのだが、お酒が入ると無駄を愛する別人になってしまっている気がする。というか、有り体に言えば幼児退行している。言動からオーダーするメニューから何まで。
「でも、お花見とか二周年パーティとか、そんな事はなかったと思うけど?」
「ま、本人もこうなるのを自覚してるみたいで、公式の場ではセーブしてるんですよ」
そんな風に出し巻きを食べる人を肴に酒を呑んでいると、
「瑞樹さん!」
「は、はい!?」
出し巻きを食べ終えたちひろさんが突然立ち上がった。はて、これまでの会話がひどいとはいえ、逆鱗に触れるようなものだったとも思えないが……
「これ、今は私のですからぁ、取っちゃダメですよ~」
と、思ったら川島さんの方ではなく俺の方にやってきて、俺の左腕にしがみついてきた。おぅ、酒臭い。
「あーもー、すっかり酔っ払っちゃって。また明日に後悔することになるのに」
なんというか、絵面だけ見れば心躍る場面かもしれないが、いかんせん相手は酔っ払いで、ちひろさんである。騙されてはいけない。
「んふー、酔ってませんよーだ」
「あー、分かりました。分かったから離れてください。俺も飲めませんから」
「仕方ありませんねぇ、離れてあげます。でも、もう瑞樹さんばっかり構っちゃダメですよ?」
「分かりました」
意外に力の強いちひろさんを引き剥がす事に何とか成功する。が、ちひろさんは椅子を移動させて俺の隣に陣取ることにしたらしい。
椅子に座ってから、自分の酒がどこにあったかを暫く探して、ようやくさっき飲み干したことに気付いてオーダーし直すちひろさんである。
非情に可愛らしい姿なのだが、慣れてしまった俺としては、そう感じるよりも先に溜息が出てしまう。
「……P君は慣れてるのね」
「そりゃまぁ、週一くらいで飲んで介抱してますから」
その溜息で何かを察してくれたらしい川島さんが生暖かい目で俺とちひろさんを見ながら言う。
「P君~?」
そんな俺達のやり取りも不服だったのか、ちひろさんが俺の腕を掴んで揺する。すっかりご機嫌ナナメである。
そもそも大勢で飲んだ方が楽しいと言い出したのはちひろさんなのだが……まぁ、酔っ払いに論理を期待するほうが間違いなので仕方あるまい。
「あ~はいはい、何か食べたいものあります?」
このまま構わないでいると、お怒りモードにクラスチェンジしてしまうのでお伺いを立てる。
「ん~……でざーと」
「あれ、今日はもうお開きですか?」
「甘いものが食べたいだけです」
「じゃ、苺のシャーベット頼みますよ?」
「それは最後のでざーとです」
「じゃ、何が良いんです?」
「ん~、甘いの」
「条件広いなぁ。杏仁豆腐とかで良いですか?」
「んふ~」
俺の提案に、ちひろさんは掴んでいた俺の腕に、顔をこすり付けるようにしながら笑う。
素人はこれで正解だと思って杏仁豆腐をオーダーするのだが、そうすれば最後、杏仁豆腐が来てから、『これはほしくないです』という、ちひろさんの無慈悲な言葉を浴びせられることになるだろう。
「お気に召しませんか。じゃぁチョコババロアとか?」
「んー」
次なる提案に、ちひろさんは俺の腕を解放し、小さく何度か頷く。これが正解の仕草である。
「了解しました。川島さんも何か頼みます?」
と、ちひろさんに掛かりきりだったので、川島さんの方へ振り返ると、
「……」
「あの、川島さん?」
物凄い引いてらっしゃった。
「つかぬ事をお伺いするけど、二人は付き合ったりしてるわけ?」
まぁ、そう思われても仕方ない事はしてるよなぁ、とは思う。
「まさか」
が、これは明確に否定しなければいけない。
「P君、ばばろあ~」
「はいはい、ただいま。あ、すいませーん!」
とりあえず、左隣のお姫様のご機嫌を損なわないようオーダーを通してから、
「単なる飲み友ですよ」
「ですよ~」
改めて川島さんにそう告げると、ちひろさんも同意する。まぁ、今のちひろさんが意味を理解しているのかはやや怪しいが。
「いや、とてもそうは見えないけど」
「付き合ってたらぁ、もっと良いとこで飲みます」
と思ったが、ちゃんと理解していたらしい。疑わしげに俺達を見る川島さんに、ちひろさんはあっけらかんとそう言った。
「だ、そうです」
「また何とも説得力のある言葉ね」
川島さんが溜息を吐くと、手に持っていた梅酒の氷が乾いた音を立てた。
「というか、そもそもどういう経緯で二人は飲み友になったの?」
「いや、そんな大袈裟な。数少ない対等な仕事の同僚ですし、飲みに行くくらいは自然じゃないですか」
「……そう言われればそうかもしれないけど」
どこか納得のいかないらしい川島さんの、その釈然としない思いは何となく分かる。逆の立場なら、俺もそう思うだろうから。
「まぁ、この有り様を見ると、勘繰られるだろうなとは思いますけど、俺達にとっては何てこと無い飲みの場なんですよ、これ」
「P君~?」
だから、割と真面目に俺とちひろさんの妙な関係を説明しようとした俺を邪魔したのは、やはりというかちひろさんである。
「はいはい、構ってあげますから、ちょっと川島さんとお話させて下さいよ」
「んふ~、許してあげましょう」
しかたない。またしても左腕にしがみ付いてきたちひろさんの髪を梳いてあげることにして、
「特にちひろさんにとっては、こういう『アイドルの目の届かない』場所っていうのが重要なんです」
「そうね、こんな姿を見られたら大変よね」
そう言った俺を、川島さんの胡乱な目が突き刺す。あぁもう、ちひろさんのおかげで話が捻れそうだ。
「うちのアイドルにとって、ちひろさんは事務員というより、良き相談相手でもあり、時に厳しい、まぁ事務所のお姉さんというか、お母さんというか、そういう存在なんですよね」
「確かに。私達年上組でも、ちひろさんは頼りにしてしまうもの」
めげずに話を続けると、今度は川島さんも煽り抜きで同意してくれた。やっと話が進められそうだ……
「キャラクターを作ってるってわけじゃないんですけど、かなり気を張ってるんだと思います。だから、こういうところで色んなものを肩から下ろして誰かに甘えたいってのは、すごくよく分かるんです。ま、俺もちひろさんに甘えさせてもらってる一人ですから、あんまり偉そうなこと言えないですけど」
「も~、本人の前でくすぐったい話しないでくださいよぅ」
「良いじゃないですか。普段事務所で散々からかわれてるお返しです」
腕の中でもぞもぞと動くちひろさんの頭を軽くはたくと、んふーとちひろさんが笑う。
……ちひろさんが楽しそうで何よりです。
「それじゃ、この飲みってちひろさんのためにやってるわけ?」
「ま、少なからずそういう面はありますけど」
「え~、P君だって楽しいでしょ?」
川島さんの言葉に頷くと、ちひろさんの抗議の声があがる。まぁ、この飲みの場を、ちひろさんのためだけにやっているような言い方はアンフェアか。
「楽しいですよ。だから週一ペースでこういう場を開いてるんですし」
「ちひろさんに甘えられるのが?」
と、俺の言葉に川島さんがやや意地悪げな口調で口を挟む。川島さんは一体俺を何キャラにしたいんだろうか。
「や、素のちひろさんが見られるのが。それに、今日はちひろさんがこんなですけど、普段は俺も結構ストレス吐いてますから」
「そう……やっぱり、P君もストレスが溜まってるのね」
「そりゃ、どんな人間でもそうですよ。川島さんもそうでしょう?」
「私? 私はそんなでもないわよ。事務所でも言ったでしょう? ネガをポジに変えて生きてきたって」
「その行為が、既にもうストレスじゃないですか」
「……そうね。そうかもしれないわ」
あれ、おかしいな。ちひろさんの話をしていたはずが、どんどん離れてきている気がする。
しかし俺の言葉に、物憂げに梅酒のグラスを傾ける川島さんを見ていると、何とかその表情を晴らしたいと思ってしまう。
「前々から言おう言おうとは思ってたんですけど、川島さんはほんと、そのままで良いんですよ。無理にキャラ作りしなくたって、普段の落ち着いた大人の女性の雰囲気で十分魅力的ですから」
「えぇ? こんなところで急に何を言うの?」
「こんな場ですから言っちゃいます。川島さんの中のアイドル像を否定するつもりはありませんし、ファンにも結構受けてるってのも事実ですけど」
それで出てきたのがこの話題である。俺も相当酒が回っているのかもしれない。本来、素面でいつかしようと思っていた話をこんな大衆酒場で、それもちひろさんにしがみ付かれながらする事になるとは夢にも思わなかった。
が、一度前に出てしまった以上、もう後退はできない。そう腹を括って、俺は真面目な顔を作って川島さんに相対する。
「ただ、そうじゃない川島さんにもファンがいるってことだけでも覚えておいてください」
「もう、相変わらずね。スカウトされた時のこと、思い出すわ」
「ほんと、P君はアイドルを口説くのがお上手ですよねぇ」
俺としては、かなり真面目に言ったつもりなのだが、二人の反応は、何というか微妙だった。
「口説いてはいませんよ。思ったまま、本当の事を言ってるだけです」
「それがもうね」
はぁ、と露骨に溜息を吐いた川島さんが、残っていた梅酒を飲み干す。
「何人かのアイドルが本気になっちゃってるって、気付いてないわけじゃないでしょ?」
そしてグラスをテーブルに音を立てて置きながら、じっと俺の目を見据える。
「まぁ、多少は」
その目を、真正面から受け止めるのはなかなか気力が要った。が、そこで目を逸らしてしまっては俺は本格的にダメな人間になってしまうので、不退転の覚悟を持ってそれを受け止める。
「……ねぇ、私もこんな場だから聞きたい事があるのだけど、一つだけ良い?」
川島さんと俺のにらめっこはしばらく続いたが、先に折れたのは川島さんだった。
「何ですか、改まって? あとちひろさん、痛いので力緩めてください」
「んふ~、いやです」
プロデューサーとして、当然その質問にもちゃんと応えるつもりだったが、
「……やっぱりやめておくわ。酔っているとはいえ、ちひろさんの前でする話ではなかったから」
左腕を容赦なく締め付けてくる引っ付き虫のおかげで、それはお流れになってしまった。ぐぬぬ。
「瑞樹さん、これ、私の~」
「取らないわよ。こんな唐変木」
頬を膨らませながら宣言するちひろさんに、川島さんはやや憮然とした調子で対する。というか、
「それは地味にひどくないですかね?」
完全にとばっちりである。俺は何も悪くないはずなんだが……
「馬鹿に馬鹿といって何が悪いのかしら? もう、私も飲むわ。お兄さん、バーボン、ロックで!」
「ちょ、川島さん、明日仕事ありましたよね!?」
いかん、川島さんの中で何かが壊れてしまった。それも、大人としてかなり大事なものが。
「なに、スピリタスでも頼めば良かった?」
「さすがに大衆居酒屋には置いてないと思います。というか勘弁して下さい。酔っ払いは一人で十分ですから」
これは完全に酒飲みの目である。礼子さんがたまにこんな目をしているから分かる。
さすがに酔っ払い二人を抱えて帰るのは想像もしたくないので全力で止めるが、通ってしまったオーダーは今更どうしようもなく、結局川島さんは居酒屋のバイトであろう、爽やか青年が運んできたウィスキーに口をつける。
「私、酔ってませんよ~?」
そして安定の酔っ払いちひろさんである。酔っぱらいが酔ってないと言いたがるのは何故なんだろう?
「自分の事言われてるって自覚あるじゃないですか。酔ってるんですよ、もう」
「え~、酔ってませんよ~? 酔ってませんよねぇ?」
などと益体もない事を(投げ遣りに)考えていると、ちひろさんがとうとう見えない世界の住人と交信を開始してしまった。
俺と川島さんのちょうど間くらいに居るらしい誰かに向けて同意を求めているのは、本当にそこに誰かが居るのがちひろさんには見えているのか、或いは俺か川島さんがそこに居ると勘違いしているのか、或いは何も考えていないのか、本当の正解は分からないものの、一つだけ分かる事がある。
「あ、これは寝ますね」
「は?」
俺の突然の宣言に、憮然とした様子でウィスキーを飲んでいた川島さんも驚いたように眉を上げる。
「この目の半開き具合とか、見えない誰かに同意を求めだすのは、もうすぐ寝るサインです」
まぁ、何と言うか単純なことだが、過去こういう状態になったちひろさんは必ず寝落ちているという実績がある。寝ている人間を運ぶのは結構な重労働なので、できればその手前で踏み止まってほしかったのだが、まぁ今日は川島さんもいるわけだし、いっそ寝てくれたほうが楽かもしれない。
「本当に慣れてるのね。毎回こうなの?」
「寝るまで行くのは珍しい方ですけど、大体こんなもんです」
「寝ませんよぅ、まだ苺のシャーベット食べてません」
「シャーベットは今度にして、もう寝ちゃってください。年末年始の調整やら何やらでお疲れなんですから」
「ん~……」
そういうわけで、まるで小さな子供のようにぐずるちひろさんを何とかあやしつけると、あっさりと夢の世界へと旅立ってしまった。
「ね、本当~に、付き合ってないのよね?」
「そういうのじゃありませんてば」
その様子を見届けてから、川島さんは目を細めながら俺をじっと見る。今日だけでそれを聞かれるのは何度目だろうか。
「もうお互い、そういう風には見れないんですよね」
それに対して、俺は笑いながら手を振って否定する。笑ってしまったのは、まぁ俺とちひろさんが妙なとこまで来てしまったなぁという実感からだ。
「そういうものかしら?」
「まぁ、結構長いこと一緒に事務所回してますし、今更ですよ。そういう対象というよりは、もっと深いところにはいっちゃうんですよね、もう」
「家族みたいなものってこと?」
「そんなところです。お互い遠慮するところと、しないところ、はっきり線引きも終わっちゃいましたし」
お互いの事を知りすぎているし、知りたくない部分についてはお互い不干渉を決め込んでしまっている。もはや、親しすぎて恋愛対象として見る事はできないんだろう。家族、という表現は少陳腐かもしれないが、最も近い関係で表すならば、やっぱりそうなってしまうのだろうと思う。俺にとってちひろさんは、傍にいるのが当たり前になっているし、そうでなければ不安になってしまうほど、近くなり過ぎた相手なのだと思う。
「ふぅん……私達もそうなってしまうのかしら?」
「俺としては、皆のことをそう見ているつもりです」
「……やっぱり、聞いてしまうわ」
俺の言葉に、川島さんは手の中でウィスキーのグラスを遊ばせながら、表情を強張らせる。
「どうして私は『川島さん』なの?」
「どうしてって……」
そして俺の目を真っ直ぐに射抜きながら、俺と川島さんの間に横たわる些細で、そして重大な問題を突きつけてきた。
「年上だから、なんて言い訳はなしよ? ちひろさんや礼子さんを名前で呼んでいるものね」
俺が何かを言うよりも早く、川島さんは俺の逃げ道を塞いでいく。その目も真剣そのものだ。
「もっと言えば、敬語も要らないわ。私達、対等な関係なんでしょう?」
「それは、そうなんですけど……」
あぁ、逃げられないな、なんて事を心の片隅で考えながら、それでもその問題に向き合えずにいた俺の耳を、
「そんなに、私のこと嫌い?」
川島さんの小さな呟きが叩いた。
その瞬間、時が止まったように感じた。居酒屋の喧騒が遠ざかり、川島さんのその、悲しげな言葉だけが頭の中を駆け巡る。
身体が酔いとは別の何かで燃えるように熱い。そのくせ、頭は氷で殴られたように冷え切っている。
「それはないです!」
気付いた時には、殆ど叫ぶようにしてそう言っていた。
「あ、すみません。でかい声だしてしまって」
「いえ、大丈夫。少し驚いただけだから」
その自分の声の大きさで、止まっていた時間が元に戻る。自分がいるのは、騒がしい居酒屋の中で、目の前には俺の言葉に目を丸くしている川島さんがいる。
「……まぁ、理由がないわけでもないです。ただ、酒の入った状態で言うのも、何だか違う気もするんですよね。馬鹿馬鹿しいだけに」
「馬鹿馬鹿しいの?」
「えぇ、ほんと、馬鹿な男のちっぽけな感傷ですよ」
落ち着いたとはいえ、頭の中では未だにさっきの川島さんの言葉が響いている。
自分の幼さのせいで、川島さんにあんな事を言わせる程に悩ませてしまっていたのかと思うと、自分が情けなくてどうにかなってしまいそうだ。
「いいわ。本当にくだらなかったら、このお酒で忘れてあげるから」
だけど、川島さんはこんな俺にも笑いかけてくれる。大人らしい、いつもの、余裕のある笑みで。
「……憧れてたんですよ」
「?」
「川島瑞樹に」
だから、俺もいつも先送りにして、未だにできずにいた問題の精算を、ここで行ってしまおうと覚悟を決める。
未熟な子供らしく、酒の力を借りて。
「それって、アナウンサー時代の私に?」
「です。だからテレビから消えてしまったあなたを偶然街で見かけたとき、声をかけずにいられなかったんです」
「そう、そういえばそんな様子だったかもね」
思い出すのは、秋葉原の駅前。本屋での凛の仕事に付き添ったその帰り。
自分がアイドルプロデューサーなんて肩書きになってしまったのも忘れて、一人のファンとして川島瑞樹に出会った時のことを。
「だから正直なところ、あの時凛が隣にいなかったら、川島さんとこうして飲んでいることもなかったかもしれません」
「『また、プロデューサーの悪い癖?』」
「よく覚えてますね」
そう、俺が川島さんに駆け寄り、声をかけているところへ、追いついた凛が放ったのがその言葉だった。
「ふふ、その一言で、君の目の色が変わったから、印象的だったのよ」
凛の言葉の意味を理解するのに少し時間が掛かったのを覚えている。それだけ、その時の俺は自分を忘れていたのだろう。
そしてその意味に気付いた時……俺はアイドル川島瑞樹のプロデューサーになっていた。
「でも、だから『川島さん』ってわけ?」
「馬鹿馬鹿しいでしょう?」
「……そうね」
結局のところ、俺は一人のファンとして、未だに川島瑞樹を引きずっているのだろう。
あの頃とは比べ物にならないくらい近い距離に川島さんが居るというのに。
「ちょっと、嫉妬しちゃうわね、あの頃の私に」
だけど、そうじゃない俺もいる。アイドル川島瑞樹のプロデューサーとして、彼女を支えたいと真剣に考えている自分がいるのも事実だ。
当たり前だが、そういう自分の方が俺の中を占める割合としては大きくなっている。
「いや、今となっては」
「分かってる。それ以上言わないで」
だから、それを何とか言葉にして伝えようとしたのだが、それを川島さんが優しく笑いながら制する。
「安易に言葉にされると、勿体無いもの」
そうして、そんな事を言って川島さんはグラスを傾ける。
「P君」
「はい」
「思い出は、美しいものよね」
「そうですね、そう思います」
それから、川島さんは俺から視線を剥がす。その目はどこか遠くを視ているようだった。
「だけど、アナウンサー川島瑞樹はもういないわ。君の目の前にいるのは、もう君のアイドルである川島瑞樹よ」
「えぇ、分かってます。頭では、分かってるんです。そう望んで、そうしたのは、自分なんですから」
ただ、どこかでまだ遠慮している自分がいる。それが最後の砦なんだろうと漠然と感じている。その自分さえ乗り越えられれば、彼女のプロデューサーとして堂々と接することができるようになるのだろうと。
「そう……ふふ、ごめんなさい、折角の気晴らしを、しんみりした空気にしちゃって」
「いえ、たまにはこういうのも良いですよ。こうして……瑞樹さんと、腹を割って話ができましたし」
「ふふ、無理しなくても良いわ」
少しだけ、背伸びをしてみた俺の頭を、川島さんが優しく撫でる。
「や、無理は……すみません、ちょっとしてるかもしれませんね」
その事に驚いて身じろぎした俺に、「でしょう?」とくすりと笑った川島さんは、
「だから、今はまだ『川島さん』で我慢してあげる」
空になったウィスキーのグラスを揺らしながら言う。
「でもいつか、自然にそう呼ぼうと思った時には、それに逆らわないこと」
グラスに残された氷がカランコロンと小気味の良い音を立てる。
「P君にそう思わせるように、私も精一杯自分を磨くから」
ちょっと重くなった空気を振り払うように。
川島さんはいつもと同じ、穏やかな笑みを浮かべて立ち上がる。
「さて、私はそろそろお暇しようかしら」
「あれ、帰っちゃうんですか?」
「目的の殆どは達成できたし、あんまりP君を独り占めしてると、明日からちひろさんに睨まれちゃうから」
「いや、そんな器の小さい人じゃないですよ、この人」
「知ってるわ。だからこそよ」
そう言ってウィンクした川島さんは、
「そうだP君、お礼がまだだったわね」
「はい?」
どこか置いてけぼりをくったような心地でいた俺に向けて優雅な所作で一礼する。
「今日は、おいしいお酒を飲ませてくれてありがとう。お返しといっては何だけど、明日の仕事は、期待しておいて」
「……えぇ、お願いします。アイドル川島瑞樹の姿を、俺達ファンの目に焼きつけて下さい」
俺の言葉に、もう一度ウィンクして見せてくれた川島さんは、そのままテーブルを離れ、結局その後は一度も俺達を振り返る事無く店を出て行った。
その姿は、まさに大人の女性といったところで……未だに俺の腕にしがみついたまま寝息を立てている誰かさんとは大違いである。
「はぁ……俺達も、そろそろ帰りますか」
「んぅ~……瑞樹さんは?」
「もう帰っちゃいましたよ」
少し強めに揺すったところ、少し意識が覚醒したらしいちひろさんは、眠そうな眼で俺の事を見ながら、
「瑞樹さんのお酒代は?」
俺が意識もしなかった問題に切り込んだ。なるほど考えてみれば、川島さんは好きに飲み食いして颯爽と帰ってしまった事になるのか。
「……俺が払います」
「ん~、なら良いですけど」
大きな欠伸をしながら伸びをするちひろさんを見ながら思う。
あぁ、大人って難しいな、と。いろんな意味で、大人の難しさを痛感した一夜だった。ぐぬぬ。
終わりです。
川島さんSSの皮をかぶった ちひろさんSSになってしまった気がするけど気にしない。
お目汚し失礼しました。。
乙
こんな川島さんが「にょわー☆」って言っちゃうようになるのか……
ちひろさんがかわいいなんて…乙
やだ、ちひろさん可愛い…
乙乙
乙 瑞樹さんマジ大人
ところで何このちひろ(驚愕
……かわいい
乙
やち天
酔って寝ても酒代は? というあたりがちひろしてる
川島さんSSと見せかけたちっひーSSだった!
ちくしょう、ちひろかわいいなぁ、もう。
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