soar ~ふたつ目の世界で~(41)


お母さんのお母さんが死んだ。

僕の家にはお父さんのお母さんがいるから、お母さんのお母さんとは離れて暮らしていた。
お母さんのお姉ちゃんが、夫さんと一緒にお母さんのお母さんを養ってたけど、子供を虐待して捕まったんだって。

幼い女の子の目を潰したり、ひざ蹴って脚を折ったりしたんだって。

もう治らない、って。かわいそう。
ははかた?のおばあちゃんは、貯金を切り崩しながら何とか働いて、その子を養ってたんだってさ。

僕のお母さん?
お姉ちゃんが嫌いで、その子供なんかに一銭もくれる気はないんだってさ。
お父さんと一緒に、なんか敬語のスーツの人と話してたけど、両親が刑務所から出てくるまで結局おばあちゃんに丸投げする事で固まったみたい。
薄情だよね。僕は輪をかけて何も出来ないけど。

母方のおばあちゃんの死因は交通事故。
轢かれたんだって。すっごい大きなトラックの内側に。
過労死でもないんだもの。子供が犯罪者で、孫が障害者で、自分が被害者って、人生なんだったんだろうね。
優しい良いおばあちゃんだったのに。僕がそう思っててもどうしようもなかったけど。

当たり前の事で、ただ僕にとって予想外だったのは、その障害者の子を僕の家で預かる事になるという事だった。


僕は中学3年生。その子はその1つ下。

中学生なんだろうけど、ずっとお家に「おこもりさん」だったんだって。
病院暮らしが長くて、外でも困るし、とか何とか。いじめとかも何かありそうな?

確かにそうかもしれないけど、学校どうするんだろうね。

まあいっか、なんて思ってたけど、困った事になったのは実は僕も一緒だった。
一任されちゃったんだ。その子のお世話。

お父さんはちょっとすごい人で、家で働きづめ。
お母さんは例の通りその子が大嫌いみたいだし、お姉ちゃんに似て面倒見良くないみたいだし。
というか僕から見ても嫌いだけど。愛のない人。
そんなだからこんな子育つんだよ。もう。

それで一人っ子の僕に回ってきたんだ。
億劫で仕方がないよ。現実世界の事なんだから。


現実世界の事って言ったのは、もう一つ同等に世界があるって事で、それを日本の人に聞いたら大体の人は「フロンティア」って答えると思う。
フロンとか、FRとか風呂とか呼ばれてる。おっきなコンテンツで、無料サービスで、社会現象。


簡潔に言うと、もう一つの世界。情報の世界。


パソコンと繋いだゴム製ヘルメットみたいなのを被って、ポチッと起動で意識不明。
次に目覚めたときは、物理演算とビット処理の中に意識があるって寸法。

脳の信号をそのヘッドツールが受け取って、サーバーに飛ばす。
それを処理して、風景や音、匂いに至る五感が僕の脳に送られてきて、現実さながらのその変化を楽しむ。

ふざけてるよね。画期的でおかしすぎる。廃人養成ツールだって誰でも分かるもんだよ。

僕のお父さんがその創始者なんだけどね。
もちろんフルボッコにされたよ社会的に。僕共々。


んで通信ができるとあっちゃあ、コンテンツを超えたビジネスモデルとして弄くりまわされるのは当たり前の事じゃん?

大昔のニコ動とか、LINEとか、2chとか、楽天とか、もちろん有力メディアもぜーんぶ巻き込んでいっちゃった。国内だけだけど。
やりたい放題し放題だからね。金になるし。

家電量販店どころかネット通販でも売られてるよ、ヘッドツールに高速通信器。大流行り。
さんざん吠えてたニュースですら「大型バーチャルコンテンツのフロンティアに利用マナーについて~」なんて言ってる。あるのが当たり前になっちゃった。やったぜ。



僕はそれのヘビーユーザーで、同時にデバッガーで、企画担当で、脳味噌の実験台なんだ。


まあそれはいいや。とりあえず話を戻そう。

僕は栄養補給や水分補給の間、家の空き部屋のベッドで寝たきりの女の子に同じように水分と栄養を届けに行くという作業をしなくてはならなかった。
自分の分だけでも面倒なのにね。学校の時間は完全に睡眠時間だからいいけどさぁ。
すきっ腹だったり水分不足だったり体調不良だったりすると、アラート出て強制ログアウトだから仕方ないね。

トイレとお風呂は最近なんとか場所覚えたみたいで、ひとりで勝手に行きだした。ありがたい。


ああ、その子の名前?
神永智子(かみながともこ)。ちなみに僕は根本倉之助(ねもとくらのすけ)。

さ、ここがその子の部屋。

僕「入るよ」

いつも入ってから言うんだけどね。どうせ見えないんだし見られて困るものないじゃん。


彼女は相変わらず部屋の角のベッドに寝転がっていた。
とても長く伸びた髪の毛が掛布団からはみ出ている。切りに行かないから。

僕「神永さん、ご飯」

神永「……」ムクリ

黒い塊がのっそり持ち上がって、白黒の目がそこから覗いた。僕は見られてないとはいえ怖い。
髪長すぎるんだよ。松葉杖もあんだから、いい加減部屋から出ろよ髪長さん。お母さんと相まって部屋アジエンス臭い。

いや、僕が押さないとダメなんだっけ。見えないから事故るわ。
ああめんどくさい生き物。

神永「……置いておいて」

薄暗い声。良くFRで聞こえるカスタム声帯のげっぷより汚い。
適当に床に置いておけば、見えない目で探し回るのが暇つぶしくらいにもなるだろう。

だいたい、動かな過ぎると筋肉衰えて本当に社会復帰できなくなるだろうし。
FRの内側の事を知りすぎたから、人の身体の事にも結構詳しくなってしまった。

僕「じゃ」


これが日常。
正直、前までとそう変わり映えのしないものだった。

フロンティアやらないような古ーい懐古厨はこういう状況を喜ぶもんなのかもしれないけど、作り物を作ってまがい物を見る毎日を続けていればただの女の子に対する興味なんて失せる。
発狂するほどエロい身体とか香りとかプログラミングしちゃった女の子いるし。絶対こっちのが得だって……。


僕自身の事もしばらく問題ないしなぁ。サーバーのフラグ切って記憶データ電気にして流し込んで、高校生くらいの勉強は把握してる。
規約違反でごめんなさいねー、一般の皆さん。お父さんの実験の一環なんですわ。

同級生や先生はしきりにクズとか根暗とか言うけど。FRの環境も整えられない田舎者の僻みは耳に障る。

廃れたコンシューマーや端末でキャイキャイやってなさいよ。それで僕より頭悪くてもさぞ偉いんでしょ。


そんなこんなで、おばあちゃんが死んで神永さんが家に来てから3か月経った。
相変わらず髪は長いまま。まあまあ気持ち悪い。

その日は休日で、僕が一日中FRをやってる日であった。お父さんから届けられたデータでいろいろ僕自身を弄って、その結果を提出するのが日課。
宿題じゃないんだけど、いろいろメール便(もちろんFR内の)でデータが届く。


その合間、栄養補給に何かしか階下に降りた時の事であった。

僕「あれお母さん? いないのか」

連絡もないし、ついでにパンやカップ麺もない。お金と身体が自由なら遊びに行くのも無理はない。
いつから身内をこんな冷たい目で見るようになったんだろう。お母さんが神永家を切り捨てたのを見た時かな。

本当に面倒だけど、2人分の料理を調達する羽目になった。お父さんの分も先に作り置きしておくかなぁ……。

……。
…………。
………………。


何だかんだ3回働いたフライパン。1つはラップし、1つは平らげ、残り1つを持って彼女の部屋へ。
片手にお皿、片手にコップの状態だったので、ドアノブを脚で突っかけて開けた。

バタン!

神永「ヒッ!?」ビクッ

僕「入るよ」

神永「……ほっ」

安心したらしい。見えないというものは流石に怖いんだろうなぁ。僕もバグで視覚野切れた事あったから、良く分かる。ブルースクリーンの比じゃないね。

僕「すまんね。手が塞がってて」

神永「……パンじゃないの」

僕「? なんて言った?」

神永「今日はパンじゃないんだ」

僕「うん。オムライス」

神永「!」


神永「その、根本、なんだっけ、さんが作ったの?」
僕「根本さんでも倉之助でも根暗でも何でも良いよ。まああまり料理しないけどね」
神永「……倉之助、うん。早く食べたい」ガバッ

彼女はいつになく喋り、いつになく機敏に動いた。床の上で正座して僕の料理を待っている。
神永家の事を思い出したからか、僕が手料理を振る舞う事が何となく気恥ずかしかったのか、とにかく普段ならあまり感じない感情を抱いたんだ。

僕「ほい。どうぞ」

神永「……ん、あった。いただきます」

僕「オムライス好きなの?」

神永「……っくん。あの人たちが逮捕されて、退院してからおばあちゃんが、良く作ってくれた」

神永「んー、おばあちゃんのの方が美味しい」

僕「非常識だな」トスッ

神永「!? ごめんなさいっ、そんなつもりじゃ!! 暴力だけはやめてくださいごめんなさいごめんなさい」

僕「ちょっとちょっと……人聞きの悪い。今のは座っただけだし、あんたの親みたいに捕まるような真似はしない」

神永(バ、バレない様にやるの……?)ブルブル

僕「落ち着いてよ。僕は神永さんに手は上げないから。落ち着いて食べて平気だよ。……」

ひさしぶりにまともな言葉を交わして思ったのは、この子割とマジで哀しいなって事。面倒な子とか、不幸な子とかいう適当な目線が僕から消えつつあった。

ここまで


しばらくして、彼女は僕の作ったオムライスを食べ終えた。

僕はそっとそれを眺めていたが、部屋を出ていないのはどうせバレているだろう。光を失った人の五感は非常に鋭い。

神永「ごちそうさま」カチャ

僕「食器持ってくよ」

神永「まだいたんだ」

僕「嫌?」

神永「こわい」

僕「ごめんね」

神永「……」

僕「……」

神永「倉之助は、殴ったり怒ったりしない?」

僕「しない」

神永「……じゃあ居ていいよ」

その日から、少しずつ僕らの関係は進んだんだと思う。

胸の中に少し心躍る気持ちがあったのも、否定しない。


何でそう思ったのかって?

お父さんっていう人間関係の塊、すなわち会社が大きな事を成しているのを見て、中学3年生の僕の課題は人間関係に向けられていたんだよ。
ものに出来る出来ない以前に足りないからね。

友達なんか当然いないし、そもそもあんな田舎者と気が合うわけないし。
FRの中での付き合いなんてボロいもんだって分かりきってたし。

家族とか親戚とかも、そういうのって生まれてきて自然と付いて来るものじゃん。一部の人に言ったら怒られそうだけど。

能動的に人と関わってみたいな、なんて思ってたんだよ。
そしたら、かわいそうで独りぼっちの子が転がってきた。

母性みたいなのも手伝ったけど、そういう無地に近い人ひとりを自由に出来る事なんてないじゃん。

悪意や野望があるわけじゃないさ?
欲望のままに人を利用するってのは普通にゲスだけどさ。

大丈夫大丈夫、倫理に背くような事はしない。僕は一番僕を優先するし、僕は僕のプライドを大切にしてるからね。


あわよくばもっと違う欲望を満たしたいだなんて思ってる。ながーい髪の毛もあって可愛く見えないからあまり期待してないけど。

自由に動く手足が将来2倍になるっていう計算と、その肌その髪、その息づかいが欲しい、なんて思い。

僕もやっぱり寂しいんだな、なんて思った。ペットでも飼えば良いのかね。
それこそゲスだけど。


ガチャ。

神永「倉之助?」ムクリ

僕「うん。入るよ」

心を開いてもらうってのはとても難しいものだって思ってたけど、実際そんなでもないみたい。

神永「今日のご飯何?」

僕「カップ麺。わかめうどんだよ」コト

神永「またオムライス食べたいな」テシテシテシ

僕「美味しくなかったんじゃないの?」ハイ

神永「もう慣れたよ」イタダキマス

僕「ひどいな」

神永「違うって、倉之助のも好き」ハフハフ

僕「えっ……うん。また、作るよ」

神永「うん、作って。明日」チュルチュル

僕「ふ、ふふ。卵あったかな……」

心を開かれているのは、ひょっとして僕なのかもしれない。こんな風に喋るのは15年間の中で初めての体験だ。


父「しばらくは俺だけでいい。明後日まで休め。」

僕「珍しいな」

そう届いた金曜日のメール。今週末は空きという事か。
手に取ったメールをアイウィンドウのゴミ箱に放り込んで、僕はFR内の自宅兼実験室に戻った。

お父さん特製、非公式非公認な多重セキリュティロックの掛かった殺風景なお家。
さらに輪を掛けて厳重な警備体制の資料室・実験室以外には、汎用プログラムが雑然と散らかっている(FR内では)普通のお家だった。

体調値を確認して適当にログアウトすると、視界が暗くなって意識が飛ぶ。
すぐに、チラチラと光るパソコンの前で目が覚めた。脳幹接続の解除を確認してからヘッドツールをカポンと外す。

僕「ふう……」

時刻は午前4時。

僕「今日は暇なのか……」

学校のサイクルに合わせて寝てるから、大体いつも8時ぐらいに寝るんだけど……。

いいや、ご飯作って風呂入ろう。どうせお母さん寝てるし。

ここまで

乙。


お風呂から出て歯磨きをしていると、寝ぼけ眼の神永さんが起きてきた。

神永「ひょっとして、倉之助?」

僕「あれ。良く分かるね」

神永「何となく。気配が、同じくらいの身長だったから」

気配が同じくらいの身長とはまるで分からないが恐れ入る。

僕「ま、おはよう」

神永「おはよう」

僕「神永さんも飲む?」

神永「ん? 何を?」

僕「あっ、ごめん。コーヒー牛乳」

神永「ちょうだい。ほとんど飲んだ事ないの」

僕「あいさ」トクトクトク

神永「ありがとう」

僕「手ぇ出して」スッ

神永「うん」キュッ


長い髪から覗く唇にコップが触れ、それを舌でちょん、と確認したあとに茶色が流れ込む。

僕も飲んだ。

僕「しかし、早いね。まだ5時だよ」

神永「そうなの? 起きちゃった」

僕「普段寝てるからだよ」

神永「退屈なんだもの」

僕「学校は良いの?」

神永「倉之助も、なんかあんまりちゃんと行ってる気がしないんだけど」

僕「バレたかー」

神永「夜寝てないし」

僕「そこまで分かるんだ?」

神永「物音するから」


神永「夜は何してるの?」

僕「フロンティアだよ。知ってる?」

神永「テレビでちょっと聞く。ネットでしょ?」

僕「そう。それで、お父さんのお手伝い」

神永「何でお父さんの?」

僕「色々あるんだよ」

神永「ちゃんと言ってよ」

僕「う……お父さんは、そのネットでもう一個世界を作っちゃった人で、それをいじるので忙しいの」

神永「もう一個、世界って何? どういう事?」

僕は簡潔にフロンティアについて教えた。もちろん、障害者はある種脳が退化している為、利用する事が難しいという事も教えた。


神永「私もどうにか出来ないの?」

彼女は簡単には食い下がらなかった。

僕「活動しない分野の脳細胞に電気信号を送り込んだらどうなるか保証できないよ」

神永「ちょっとでも……」

僕「ダメだってば。多少知識があったところで、僕も父さんも医者じゃないんだから」

神永「……」グビッ

僕「……神永さん?」

神永「もう知らない!」ヅカヅカ

僕「ごめんって、神永さん! 壁手ぇ付かないで歩いたら危ないって、ちょっと!」

ゴキッ!

神永「きゃうっ!? い、いつつ……!」

僕「神永さん、ごめんってば……」ソッ

神永「触んないでよっ!」バタバタバタ


神永さんはぶつけた足の甲を軽くさすって、前も見ずに自室へ戻った。

心を開いてくれるのが早いという事は閉ざすのもあっという間で、つまりはデリケートなんだろうな。


僕「……寝よ」

もう一生放っておこうという気持ちと、何とかしてあげたいという気持ち、どちらも嘘偽りなく存在していた。


その夜、僕は起床するとフロンティア、父さんの家(アドレス)に行った。

僕「父さん」

父「……倉之助。用のある時以外は部屋に書き置きを残せと言った筈だが」

僕「用があるんだ。何分取れる?」

父「そうだな……今は良いだろう。実験の合間、7分だ」

何やら多数の電子音がすると、ゆっくりとそのドアが開いた。父が玄関で手招きしている。

父「まあ、取りあえず上がれ」

僕「良いんだ、時間がない。立ち話でごめん」

背のドアがゆっくり閉まった。


僕は神永さんがフロンティアに興味を持っている事、障害の様子、この機会を逃せば彼女が外界とコミュニケーションを取れなくなるだろうという事を話した。
少し控え目に、僕が初めて興味を持った友達かもしれない、とも。

僕「障害者に対する支援プロジェクト、どうせ動いてるんでしょ? まだ形になってないだけで」

父「……」

僕「社のネームバリュー的にも長期的にプラスだと思う。発展次第ではバーチャルじゃない活動にも医療的に生かせるかもしれない」

僕「だから、脳の領域をフラグ制限する形で神永さんをフロンティアにログインさせたいんだ……それなら、僕でも出来るでしょ?」

父「……」

僕「お願い、父さん……。アクセス制限はもちろん掛けるし、ハックとかウィルスとかからも僕が絶対責任持って守るから……」

父「……」

僕「フロンティアの……例えバーチャルでも、綺麗な景色を見せてあげたいし、歩く感触を知ってほしいんだ……」


僕「ヘッドツールは僕が小遣いから出すからっ、もちろんラグ少ない奴を、あと視覚野標準スクリプトもちゃんとカスタムするし、それに……」

父「いい。もういい……」

僕「……」

父「ヘッドツールや通信機はサーバーごと新設して社で特注する。スクリプトも俺が一から組んでやる」

僕「父さん……」

父「だいたい、適当にスクリプトをカスタムしてフラグ切るだけじゃどうにもならんだろ? もっと良く考えろ」

僕「そ、そうなんだ、ごめんなさい……ダメなの?」

父「技術的な問題だからお前には……いや、すまん。どうしてこんな言い方しか出来ないんだ俺は」

父「思えば、父親らしい事は何ひとつしてこなかったな……新しい玩具も買わなければ、旅行に連れて行ってやる事も……」


僕「でも、それはお父さんが忙しかったからだし、僕はフロンティアで目一杯遊ばしてもらってたし……」

父「お前は、良く出来た息子だ……良く出来すぎた……」

父「お前が子供らしからぬのを盾に、俺も親らしからぬ振る舞いをしてきた……」

父「彼女の事も任せっきりで、すまない」

僕「そんな、なんで急に」

父「お前がああも親を頼って、初々しく頼み込む姿なんて、初めて見たからな……」

僕「そ、そんなでもないよ……」

父「その、なんだ……その。上手く言えないが」

父「父さんが、何とかしてやる」

僕「ありがと……父さん。これからも、またちゃんと手伝うから」


父「……」

僕「……」

父「そろそろ、行く。実験が終わる頃だ……」

僕「う、うん……忙しいのに、ごめんね」

父「お前のおかげで仕事が減らないんだよ……」

ガチャ。

僕「お父さん……」

…………。

父「友達、か。ごまかしの下手な奴だ……」

父「でも、それでも無条件に嬉しくなるのが親という者なのかね……」


コンコン。

僕は、生まれて初めてドアをノックした気がする。
開ける事の出来るドアを前に、敢えてその許可を得るという行いにはそれなりに意味があるように思えた。

僕「神永さん……入って、良い?」

嫌と言われても入る事は出来る。
僕は入ってから嫌がられたくないからノックをしたのか、入るか入らないかの判断を他人に委ねたいからノックをしたのか。

どちらにせよ、何か筋が違う気がして、結局ドアを開けた。

僕「入るよ」

神永「……入るんじゃん」

神永さんは器用に布団をかぶっていた。不気味なほど白い足だけが、ちょっと出ている。

僕「僕、父さんと話をしてきた。神永さん、その、フロンティア、入って良い、って……」

僕「……」

神永さんは起き上がらない。ピクリともしない。

僕「だから、その、ごめん……」

沈黙が流れる中、正直もう自分は悪くないような気がしていた。願いを無碍にした事は謝ったし、その願いを叶える為にかつてなく勇気を振り絞った。


僕「神永さん……」

僕には、神永さんの怒りがまったく理解出来なかった。

僕「ご飯、置いておく、から……」コト

僕「1週間もしないで、準備できるからっ。したら、その時に呼びに来る」

ガチャ。

…………。

神永「……」モソモソ

怒りの理由は、何となく分かっていた。

呪われたような自分の身体を他人の方がさも詳しく知っているかのように言われ、それが事実でもあるという事。
対等な立場と思っていた倉之助から、やはり障害者、病人扱いされ、裏切られたような気持ちになった事。
そんな事を、振り切れない自分がいる事。

私は倉之助が行ったあとになって、自分の取った態度をものすごく後悔した。
独りで味わうご飯、さもしい。ふと話し掛ける相手が居ない、辛い。

倉之助と食べるご飯は、死人の心電図みたいに平坦な私の一日一日で、ひとつ鼓動を刻むチェックポイントのようなものであった。

神永「倉之助……」


そしてふと、もう倉之助は私を見捨ててしまうのではないかと思い至る。

私が悪い事をして、なのに倉之助に謝らせて、それでも私は許さずにまた倉之助に悪い事をした。
こう思うと、私はとんだ悪人のようだった。

私は嫌われただろう。
今すぐ今、この気持ちを伝えられるなら、倉之助は許してくれるかもしれない。

でも、倉之助は私が怒った理由の見当も付いていないだろうなって事も分かる。そのままなのも、やっぱり悔しい。

神永「くっ、ん……しょ!」ググッ

私は身体を起こした。動かない右足を引きずって、松葉杖を手探りで探す。
左手に触った感触が吹っ飛んで、がらんと音を立てる。近くを探すと、もう一本の松葉杖もすぐ見つかった。

倉之助が私から離れてしまったら、私は倉之助みたいな心地よさを抱ける人間にずっと会えない。絶対じゃないけど、きっとそう。
私の低くくぐもった声が恨めしい。家の中にいる彼を呼ぶのも怖い。私は、私の感じられない所、知らない所に働きかけるのがとても怖い。

だから探しにいかなくちゃ。


久しぶりに重力を支える私の両腕と左足が、辛くて辛くてプルプルする。

人並みくらいに歩ければ、きっと、虐待なんかされない……よね?

大丈夫。倉之助は大丈夫。


壁沿いに移動して辿り着いたドアノブを、松葉杖を握った手で開けた。

…………。


……ガラン……

僕「――」

階下……何か下の方から、何かが転げた音がした。松葉杖、なんて単語がとっさによぎる。
しかし、神永さんは部屋の外に出る時は松葉杖をつかず、壁に張り付き、身を引きずって移動する。

いつもお風呂に入るよりも、まだ早い時間……。

……ガチャ。

僕「……」

何か、ざわっ、とした。
胸が、尋常じゃない感じ。

とっ……とっ……とっ……

僕「」ガチャ

ヤバい。

気がした。


僕「神永さ……」

僕は急いで階段を降りる降りる。

神永「くらのっ……」

決してなだらかではなくステップの狭い階段を、無謀にも松葉杖で登ろうとする神永さんがいた。
彼女が上を向いた一瞬、瞳が見えた。

ふわ……

神永「す、け……」サーッ…

瞳が見えたのは、上を向きすぎていたからだ。
長髪が、揺れて残っていく。

僕「神永さんッ!!」ドザザザ


松葉杖を握ったまま、踏ん張れない肢体がかかとを支点に倒れていく。

土踏まずを階段の角に強打しながら、僕は半ば落ちるように降りる。

彼女はスローモーだった。


見えない彼女が倒れたら、頭を打って死んでしまう。
歩けない彼女が転んだら、背中をぶつけて死んでしまう。

僕の頭はそれでいっぱいだった。

死んだら終わり。
死んだら終わり。

終わって欲しくない人。





黒い髪の塊に抱き付き、背中を回すようにしてダイブしたのだけ覚えている。


……。

忘我から覚めて、初めに抱いた感触は柔らかく、温かかった。

神永さんの髪の毛の中に、顔をうずめていたんだ。

腕は、よく分からない柔らかさの何からしい神永さんを抱き留めている。
背中は痛い。
右のふくらはぎを、階段の角に殴打したみたいで、我慢できないくらいジンジンする。
身体は当然逆さまだ。

僕「……大丈夫?」

抱き締めた感触がぶるっ、と震えた。
突っ込んだ頭を包む髪が、わさわさとくすぐった。頷いてるんだろう。

オッケーらしかった。良かった。


僕は目を開け神永さんの頭から顔を引き抜き、周りを見る。

僕「動ける?」

神永「ん……」

腕とお腹に抱えた感触がもぞもぞする。不謹慎にも、急にドキドキした。というか、その、ムラッとした。

なんでだろう。

僕は密着したきかん坊が主張を始めないうちに、階段を蹴って距離を離し神永さんを安全に横たえた。
髪の毛を引っ張らないように気をつけて自分も起き上がる。

僕「……大丈夫?」

神永「うん、倉之助は……?」

僕「うーん。とりあえず……一緒に部屋、行こうか……」

神永「うん……んしょっと」グイッ

僕「あっ、大丈夫大丈夫。肩借りて良いよ」ガシッ

神永「ありがとう……」トッ トッ トッ…

意外と重かったけど、ちょっとおっぱいが当たってるのに気付いてからはそれどころじゃなくなった。


僕「よいしょ。着いたよ」

神永「ありがと……」

僕は神永さんを肩から降ろし、とりあえず布団に横たえた。

僕「うぇー、足いた……」

神永「だ、大丈夫……?」

僕「大丈夫大丈夫」

神永「わ、私みたいに動かなくなっちゃったら大変だよ? 無理しないで救急車っ」

僕「そこまでなわけないって。平気だから」ポン

神永「だって、倉之助まで私みたいにっ」

僕「ねぇそんな事より、どうして階段登ろうとしたの?」

神永「そのっ、う……」

僕「良かったよ、無事で……」


神永(無事で、良かった……? 私が?)

僕「どうしても上に用事があるなら、ちょっとおぶうくらいするから……恥ずかしくなければだけど」

僕「だから無理して登らないで。頭打ったら死ぬ」

神永「あ……だって……」ジワ

僕「だって?」

神永「だって、倉之助に謝ろうと思って、頑張って階段登ろうしたら上から倉之助の声がして、上向いたら松葉杖離れちゃって……」ポロポロ

僕は、神永さんが盲目であるという事を時に忘れてしまう。
見えない目で階段を登るという事に、どれだけ勇気が必要か……。

神永「私がっ、悪い事いっぱいして、だから地獄に落ちたのかと思ったの……!」ポタポタ


僕「地獄……」

真っ暗。後ろ。落ちる。
いつぶつかるか分からない。
ぶつかると凄い痛くて、死ぬ。

地獄かもしれない。

神永「怖かったよぅ……ぅぁぁ……ごめんな、さい……」ポロポロ

今からでも怖くなくなって欲しいと思って、しばらく神永さんの頭を抱いた。
顔に触れた。
髪をよけて、涙を指で拭いた。

僕はここにいる。

ここまで。

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom