【加奈~いもうと~】夕美~こいびと~(262)

1999年6月25日にディーオーより発売されたアダルトゲーム「加奈~いもうと~」のSSです。
知的ルート第三エンドの、夕美視点補完シナリオになります。
SSどころか物書き自体初めてなので、至らぬところはご容赦ください。

【BGM:ありがとう】

乾いた風がひとひらの紅葉を運んできた。
この前まで刺すような陽射しを浴びせていた太陽は、今はいくらかやわらかな光を届けてくれる。
すこしだけ物悲しいような、けれども穏やかさを与えてくれる季節。私は秋は嫌いではない。

あの日から、もう1年が過ぎようとしていた。

私は、彼が通う大学の中庭にいた。
ちょうど午後の講義が終わった頃の時間。
講義を終えた学生が行き交う中、私は少し古びた校舎の壁際によりかかり、彼が来るのをひとりで待つ。
ここは教室から校門への通り道になっているので、彼は必ずこの前を通ることを、私は知っていた。

目の前を一組のカップルが通りすぎる。腕を組んで仲睦まじい。今日の予定を話し合っているようだ。
女の子の弾んだ声が、二人が幸せであることを教えてくれる。
私はその見知らぬカップルを見送った後、持参した薄緑色の本を開いた。

その本は、私の心をとても切なく、苦しく、しかし暖かくもしてくれる、魔法の本。
私はこの本を開くたび、この一年間のことを思い出さずにはいられない。

私の心は記憶の波をさかのぼり、去年の冬の時期にたどり着いた。

そう、

たった一人で泣いていたあの冬の日に……

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【BGM:ありがとう】


冬。
夕暮れから降り始めた雪が辺りを白一色に染める。雪はすべての音を吸い込み、街は静寂に包まれていた。
大学の講義を終えて帰宅した私は、鞄とコートを部屋の片隅に放り投げると、無気力にベッドに倒れ込んだ。
溜息を一回。視線は何をとらえることなく、ただぼんやりと天井を見上げていた。

誰も待つ人のいない部屋。携帯電話の消せないアドレスは、しかし着信を通知することはない。
未だに荷解きを済ませていない引越荷物が、部屋の角に寂しげに鎮座している。

秋の終わりに半年間交際していた彼と別れてから、私は大学の近くにマンションを借りて一人暮らしを始めた。
正確に言えば、一人暮らしを再開したのだ。
大学に入学した時に私は一人暮らしを始めたのだが、すぐに地元の実家に戻ってしまった。
一人暮らしなんてしていられない事情があったからだ。

小学生の同級生だった彼と、念願の交際を始めたのは今年の春、実家に戻る少し前のことだった。
無愛想で仏頂面で朴念仁。クールメンなんて綽名されて、でも本当は不器用なだけだということを私は知っている。
時折見せる照れた仕草。ベッドの中では一転、雄の逞しさを情熱的に漲らせ、私に情熱を注ぎ込む。
かけがえのない、はじめての男。

そう、私が実家に戻ったのは、彼との時間を大切にしたかったから。
彼と私は大学が違うため、大学近くのマンションにいては逢う機会が少なくなってしまうからだった。

彼との逢瀬は、私の人生において最も幸せな時間だった。
8年越しの初恋が遂に実ったのだ。本当に夢のような、甘い濃密な時間だった。

暇さえあれば、というより他の予定を後回しにしてでも時間を作り、彼と共に過ごそうとした。
一分一秒でも長く側にいたい。これから一生彼と添い遂げたい。
失われた年月を取り戻さなくてはいけない。仲違いして無為に過ごした青春を、今こそ謳歌するのだと。
その時間が、住んでいる距離が遠いために削られては堪らない。私が地元に戻るのは当たり前の決断だった。

私にとって、地元の風景は、彼とともに過ごした幸福の思い出とともに記憶されている。

だから、辛い。

半年あまりで再び一人暮らしをすることに、父は不満げな顔をしたが、結局は許してくれた。
引越費用も馬鹿にならないはずだが、父は私の我侭を負担してくれた。

そんなマイナーなもんのこっちに聞こえないBGMなんか用意されても
どう反応していいのかわからんわ

父は地元の病院に勤めている。
先端医療にも積極的に取り組んでいる、結構大規模な病院だ。
病床数も地元では最大で、緊急患者の受け入れのほか、長期入院している患者さんも多い。
都会の大学病院にはさすがに劣るが、専門治療を受けるために遠くから訪れる人もいるほどだ。

小学生の頃、学校帰りにたまに病院に遊びに行った。
その度に父は、『病院は遊ぶところではないんだから、静かにしていなさい』と私を窘めた。
けれども決して追い返さなったのは、病院を通じて健康であることの素晴らしさ、
病気に負けず懸命に生きる人々の姿、命の大切さを私に教えたかったのかもしれない。
言葉で伝えてくれたことはなかったが、私は父の意図をそう感じていた。

誰かのために働く父の姿は輝いていて、子供心に誇りに思ったものだ。
照れ臭くて本人に直接言ったことは無いけれど。

その病院に、交際していた彼の義理の妹が入院していた。過去形なのは、今はもういないからだ。
退院したのではない。亡くなったのだ。今日のような雪の降る夜に、慢性腎不全に伴う合併症で。

あの子は幼いころから入退院を繰り返していたという。
というより、殆どの期間を病院で過ごし、稀に退院するだけの人生だったそうだ。

背中まで延びた綺麗な黒髪に、透き通るような白い肌。
純白の夜具に身を包んだその姿はいかにも薄幸の美少女といった風で、
こういう表現は適切ではないかもしれないが、病院という空間が良く似合う子だった。

父があの子の担当医だったことは、かなり後になってから聞いた。
幼い頃のあの子のことを、父は小学校を卒業できないだろうと診断していたそうだ。

先天性の遺伝子異常。それがあの子の病気の元凶だった。

いつも病室の白い壁に囲まれて、白いベッドの上で、他人に体調を管理される生活。
訪れる人も少なく、体を動かす楽しさも知らず、ただ本だけを友人に過ごす毎日。
でもあの子は幸せだったろう。最愛の人を、私が愛した彼を奪い、独占できたのだから。

そう、彼は私よりあの子を選んだ。私は捨てられたのだ。
義理とは言え妹に、私は負けたのだ。

私が何年も切望し、やっとの思いで手に入れたもの。
それをあの子は、彼の近くに居たというだけで、いとも簡単に奪ったのだ。
妹なのに。たとえ血が繋がってないとしても、兄妹なのに!

……分かっている。ただの嫉妬に過ぎないことぐらい。
あの子が病魔と闘い、苦しみ、必死に生きていたことくらい知っている。
あの子のひたむきな想いが、彼の心を捉えたのだろうということは想像がつく。

けれども、なら私は一体何なのだろう。
私の想いは永遠に届かないのだろうか。どれほど恋焦がれても、彼に気持ちは伝わらないのか。
出会ったのが、たった数年遅かった。あの子が末期の時を迎えていた。ただそれだけの理由で、

彼は私を裏切ったのか。

彼を思い出すのは何度目だろう。その度に私は、身を引き裂かれるような悲しみに打ちのめされる。
物音ひとつしないマンションの部屋に嗚咽だけが響く。
外はしんしんと雪が降る。今季は記録的な寒波らしく、底冷えする夜が続く。

人肌が恋しい。温もりが欲しい。体を重ねたい。情欲に溺れたい。心も体も熱くしてほしい。
これほど切なくさせる彼が憎い。一度は私に希望を与えて、最後に全てを壊して去った彼のことが恨めしい。
枯れるほどの涙を流して、まだ悲しみが止まらない。どうしてこれほど私を苦しめるのか。

冬の長い夜は、いつまでも私の心を深い闇に閉ざしていた。

>>5
すいません、自己満足でしたね。
次から外します。

[つづく]

【BGM:我が心明鏡止水されど拳は烈火の如く】

夏奈「人の恋路を邪魔するやつはァ…」ググ…

夏奈「馬に蹴られて死んじまぇ!」

夏奈「ばあぁあくねつ…!」

夕美「ふん…だからお前はアホなのだ!」

夏奈「なに!?」

夕美「流派…東方不敗の名の元に…」

夏奈「くっ…ゴッド…フィンガアァ!」

夕美「石破…天驚拳ッ!」

夏奈「…!」

…チュドオォオォン!…

皆様にご迷惑をおかけしてすいません。
速報で立てたときはエラーが出たので、てっきり立ってないとばかり思って…

ひとまず、続き行きます。

春。
彼と別れてから半年が過ぎた。
時間が問題を解決するというのは本当らしい。人間とはかくも都合よくできているのだろうか。
雪解けの季節が近づくにつれ心の傷は少しずつ癒え、私はそれなりに日常を取り戻しつつあった。

私は大学2年生になった。周りの友人達は彼氏持ちが増え、惚気話や恋の相談事を聞かされる機会が増えていた。
まったく人の気も知らないで、夜の情事のことを熱弁されてもね。いいんだけど、さ。

午後の講義を終えると、私が所属する文芸部のサークル仲間が声をかけてきた。
今日も今日とてコンパのお誘い。新年度恒例新歓コンパだ。
サークルの提携関係(といえば聞こえは良いが、結局ただの遊び仲間だ)にある某有名大学との合コンらしい。
ちなみに彼の通っている大学とは別の学校だ。この辺り、ウチのサークルはやけに手広い。

軽くOKして教室を出る。19時スタートならまだ時間あるな。特に用事もないし、サークル室で雑談でもしていようかな。
そよ風が若草色のテーラードジャケットを軽く揺らす。やわらかな風が心地よい。
友人の話によれば、今日のコンパには美紀子お姉さんも来るらしい。
お姉さんは何故か私のことを気にかけてくれていて、もう卒業したにもかかわらず
コンパに顔を出してはいかにもウブそうな新人を見つけ、目を細めてしきりに私にけしかけてくれていた。

『あんたねー、いい加減次の男みつけないと、どんどん枯れてっちゃうわよ。折角の美人が台無しじゃなーい』

美紀子お姉さんらしい言い回しだが、私を元気づけようとしてくれている気持ちは伝わっていた。
けれども私はその気になれなかった。
丁重にお断りし、結局新人君をお持ち帰りするのは美紀子お姉さんの担当になる。

そりゃ私だって、一応それなりにモテる自覚はある。
中学・高校時代にクラスメイトにアプローチをかけられたこともあるし、告白だって何度かされた。
それでも私の心は揺るがなかった。ずっと彼のことだけを想い続けてきた。
8年間も。まだ世間知らずな少女の頃から今に至るまでずっと、だ。
どうして今更、新しい恋を見つけることができるだろう。

いつの間にか、足はサークル室とは反対の方向を向いていた。

校舎を出るとすぐに、満開の桜に囲まれた中庭に出ることができる。
この季節、中庭に広がる光景はなかなかに壮観だ。
私は桜吹雪をよく見渡すことのできるベンチに腰を下ろし、ペットボトルの紅茶を一口。
最近はミルクティーより微糖がお気に入り。なんだか味の好みも少し前と変わってきたような。
確かに最近、ケーキバイキングとか行ってないなあ。高校時代は友達を誘ってよく行ったもんだけど。

ふう、と溜息一つ。
コンパ、ちょっと面倒になってきたな。顔だけ出して適当なところで切り上げようかな。
軽く足をばたつかせてみる。校舎の壁沿いに各サークルの新人募集看板が掲げられているのが見えた。

そういえば、彼と交際するきっかけになったのも、新歓コンパで再会したからだっけ。
一年前のちょうど今ごろ、合コン会場の居酒屋で彼と再会したときのことが頭に浮かんだ。
あの時私は運命を感じた。神様の存在を本当に信じた。
高校卒業式の日、あの謝罪と告白が生涯の別れだと思っていたので、コンパでの再会は奇跡そのものだった。
話が弾んだわけではないけど、かつてのように避けられることなく、会話ができたことが本当に嬉しかった。

『……なあ、俺って間違ってたのかな』

確か5杯目あたりを空けた頃だ。唐突に発した彼の一言が、私の心を震えさせた。
彼がどういう意図で言ったのか、本当の意味は、正直なところ分からない。
単に、子どもの頃の未熟な行動を悔いていただけかも知れない。
けれど私は、その言葉を自分の都合の良いように再構築して、心の隙間に当てはめていた。
彼も本心では私を嫌っていたわけじゃない。本当は憎からず思っていてくれたのかも知れない。
彼の言葉を、私は自分の恋心を補強する材料として利用していた。

一度そう思い込むと、他の可能性なんて全部却下して突き進むのが恋心、なのかも知れない。
恋は盲目という言葉通り、私は冷静さを完全に失っていた。
彼の影のある表情をよそに、私の気持ちは勝手に盛り上がり始める。心の暴走が止まらない。
酩酊状態の彼を居酒屋から連れ出すと、強引に関係を迫った。
彼を私のものにしたい。いや、彼のものになりたい。そんな一心だった。

我ながらなんて大胆なことをしたんだろう。思い出すと頬が熱くなる。
きっと私も酔っていたからだ、とお酒のせいにするのがいつものパターンだった。

ベンチに寄りかかりながら空を見上げる。
今日は雲一つない快晴だ。天気が良いとそれだけで健やかな気持ちになる。
だからだろうか、こうして過去の出来事を思い出せるくらいには、最近の私は落ち着いていた。
彼と別れた直後、冬の間はずっと、すべての記憶を消し去りたいくらい混乱していた。
あの頃、もし街中で彼と出会っていたら、ひょっとしたら殴りかかっていたかもしれない。
随分乱暴な話だけど。そのくらい、冬の私は渾沌の中にいたのだ。
それに比べれば、今の私は大分マシになったと言えるのだろう。
果たしてそれが、本当に気持ちを整理できた結果なのかは分からないけれど。

桜の花びらがひらひらとまい、私の鼻を軽くくすぐった。
桜は人の心を高揚する効果があるのだろうか。花びらのひとひらさえ、なんだか無性にウキウキした気分にさせてくれる。

唐突に、彼の顔が見たくなった。
冬の間にはなかったことだ。いや、あったかな。泣きはらした冬の夜長、彼を恋しく思ったことは会ったかも知れない。
けれども今の気持ちはその時のものとは違う。もっと単純に、素朴に、純粋に、彼のことが懐かしくなったというか。
ひょっとしたら、顔を見れば過去の混乱はすべて無かったことになって、もう一度元の二人に戻れるかもしれない。
あまりに突飛な、根拠の無い甘い願望。けれども私には、それが疑いようの無いくらい透徹した真理だと思えてしまった。
春のあたたかくてのどかな陽気が、思考を楽天的な方向へと誘ったのだろうか。

すっくとベンチから立ち上がり、早足で校門へ向かう。
私は彼が通う大学へ行くことにした。
満開の桜が私を祝福してくれている、そんな錯覚を覚えた。

彼の通う大学に到着。こちらでもいろんなサークルが新入生を勧誘していた。

彼が大学を休学していたことは、コンパで知り合った友人から聞いていた。
時期的には私と別れた直後かららしい。
理由は容易に想像がついた。彼は、あの子のために自分の時間をなげうったのだ。
嫉妬の炎が燃え上がるのを感じる。
彼はこちらから連絡をしなければ私とはしばし疎遠になりがちなのに、あの子のためならば全てを犠牲にするのだ。
彼を奪ったあの子のことを、納得できるわけではない。

でも、もうあの子はいない。

なら、今なら私の方を向いてくれるかもしれない。
それがどんなに都合の良い幻想かということは、自分でもわかっている。
それでも抑えることができない、想い。
何度か待ち合わせをしたことがある学内の中庭で、私は彼の姿を探していた。
春風に背中を後押しされて。

彼は4月から復学したそうだ。
学部は変わっていないだろうから、彼が普段どこの教室を使い、どの校舎からでてくるかは大体わかる。
以前、こっそり授業中の彼の隣の席に座ったら、とても驚いていたっけ。
ウチの学生じゃないのに、なんでお前がここにいるんだ、って。
そんなの決まっているじゃない。君のことが好きだから、一緒にいたいからだよ、と言って腕を組み肩に寄りかかったら、彼は呆れた顔をしていた。

乙女心が分かっていないなあ。恋する女の行動力を侮ってはいけないのだよ。
そう、だから今もまた、私は彼の姿を探している。

少し強めの風が吹いた。私は髪の乱れを気にしながら、風が吹いた方向に顔を向ける。
予感がした。風が懐かしい匂いを運んできてくれたからだ。
陽光が眩しい。薄目を開けると、一番奥の校舎からひとりの男性が出てくるのが見えた。

真っ白なシャツにデニムのパンツ、少し履きつぶしたスニーカー。
左肩にはスポーツタイプのリュックをかけている。
最近散髪にでも行ったのだろう。髪形は自然な短髪で、前より少しさわやかな印象を与えていた。
右手で前髪をかき上げる仕草。変わっていない。

彼だ。

胸がときめいた。顔が上気しているのが自分でも分かる。ひょっとしたら目が潤んでいたかもしれない。
あふれる気持ちを抑えられない。彼の元へ駆け寄ろうと足を動かす。一歩、二歩。
数歩先へ進んだところで、私の足は止まった。
一瞬だけ目をかわしたかもしれない、その時の彼の表情に、私はその場から動くことができなくなっていた。

私は、彼のこの表情に見覚えがある。
小学生の頃、私にくれた手紙が教室内で暴露されたときの、あの表情。
感情の全てを心の井戸の底に沈めてしまったかのような、深く沈んだ色をした瞳。

古い記憶がよみがえる。彼に徹底的に嫌われた、ラブレター事件。
私の迂闊さが、彼の心に深い傷を残した、忘れてたくても忘れられない過去。
心が締めつけられる。完全な拒絶。何年にもわたって避けられ続けた少女時代。

ほんの十数メートル先に彼がいるのに、絶望的な距離を感じる。二人の間に、埋めることのできない溝がある。

私は彼が通りすぎるのを、俯きながら待つことしかできなかった。

風は、いつの間にか止んでいた。

[つづく]

彼女、幼馴染っぽいなぁ…

支援

懐かしいな!大好きなゲームだ
未だに98版を持ってるよ
プレイ当時は若かったこともあり、加奈に入れ込むあまり夕美はあまり好きではなかったが、
今は夕美のことも理解できる気がしていて、個人的にとてもタイムリーだ、ありがとう
期待してる!

98版?最初のWindows版(win95・98用)かな
名作だよね

コメントありがとうございます。

>>93
報われない幼馴染ポジション、な感じはあるかもですね。
夕美の場合、初恋の相手に8年間無視→和解して恋人関係になるも義妹にNTR、という人生ハードモードですが……

>>94
本編ではひたすら加奈と隆道の物語なので、正直夕美に感情移入する余地があんまり無いんですよね。
ただ、それでも夕美には夕美の想いがあって、人生があって……というところを、拙いながら描ければいいなと想っています。

>>95
初期版はWin95/98用ですね。
ちなみに今はダウンロード販売でいもうと/おかえりとも配信されてます。お手ごろ価格になってますね(ステマ)

来た時には人気の少なかった公園に、気がつけば背広姿のサラリーマンの姿をちらほらと見かけるようになっていた。
公園の中央にそびえたつ時計台を見上げると、いつの間にか時刻は18時を回っていた。

そういえば、私は何時頃ここに来たんだっけ。随分長い間ベンチに座っていたのかな。
時間も忘れて物思いに耽るなんて、らしくないよなあ。

真夏は日の落ちるのが遅いし、この時間になっても一向に暑さは弱まらない。蝉の鳴き声もまだまだ元気いっぱい。
なんだか時刻の感覚が狂ってしまいそう。子どもの頃は、夏の夕方ってこんなに明るかったかな?

時折木々を揺らす風の感触も相変わらず生ぬるい。体中じっとりと汗がにじんでる。
パンプス脱いでパーっと足を広げたら、スカートの中に風が入ってちょっとは涼しくなるかしら?
……やめましょう。はしたない。一応、年頃の乙女なんだから。

暑さの中でぼんやりと(半ば朦朧と)していると、クゥ、と小さな音が聞こえてきた
何の音?と思うのも束の間、お腹が急激に空腹を訴えてくる。
そういえば、私お昼ご飯食べたっけ?午前中に試験が終わってその足で街に出かけて、先輩に拉致監禁されて……ご飯食べる間なんてなかったんだ。
ああ、なんてことでしょう。食事サイクル乱れると太りやすくなっちゃうのにい!

でも、もうだめ。意識したら最後、猛烈な空腹感で眩暈さえしてきた。
お腹すいた。ひもじい。とりあえず何か食べないと。

暑さと空腹のダブルパンチでおぼつかない足をひきずりながら、私は夕食を求めて公園を後にした。

再び駅前の雑踏に帰還。仕事上がりのサラリーマンやOLで、街は昼間以上の賑わいに溢れていた。

何は無くともともかく食事だ。どうしようかな。オシャレなレストランで素敵なディナー……駄目、料理が出てくるまでの時間に耐えられない。
この際ファーストフードでも……でも夜中にお腹すきそうだよなあ。生活の乱れ、食事の乱れはおデブへの第一歩……ううむ。

あーそう言えばこの間焼肉のお店がオープンしたって友人が言ってたっけ。でもうら若き乙女がひとり焼肉かあ。カロリー的にも危険かなあ。
いやいやしかし今の苦境を脱するには、肉の力は大変強力な助けになることは間違いない。
食欲を満たすのを取るか、乙女の誇りを取るか、それが問題だ!

混み合う駅前の路上で、ひとりハムレットの心境で逡巡していると、不意に誰かに肩をぐっと掴まれた。
しまった!もしかして先輩に捕まった!?嘘の用事だったことがバレたら、今度こそ本当に劇団勧誘のマシンガン口撃で蜂の巣にされちゃう!
恐る恐る肩を掴んでいる張本人へ顔を向けると……そこには美紀子お姉さんの姿があった。

ソバージュのかかった茶色の長髪に真っ赤なピアス。
今は一応会社勤めだからスーツで決めているけど、それでも雰囲気的にはデスクワークよりお水系の方が似合いそう。
会社の風紀的にはOKなんだろうかと、他人事ながら気になってしまう。

合コンではまるで獲物を探す肉食獣のように少し細めの目を鋭く辺りを見回して、ターゲットを定めるや否や口紅よりももっと赤い舌をなめずらせる。
誰が呼んだか『新人食いの美紀子姉』。私も何度も翻弄させられたなあ。

空腹で体がふらつく(ような気がする)こちらの様子などお構いなしに、
美紀子お姉さんは大変にこやかな顔で私の肩に腕を回すと、大きな笑い声をあげながら横道へと私を連れ込んだ。

え、ええとお姉さま?どちらにいらっしゃるのでしょう。私、お腹空いて倒れそうなんですけれども。
どうやら美紀子お姉さんはお話がしたくて堪らないご様子。はい、言うこと聞きますからとりあえず何か食べさせてください。
私は美紀子お姉さんに引きずられるままに、劇場の向かいのショットバーに連行されていった。

それほど広くない店内を、オレンジ色の間接照明が照らしている。
カウンターの向こうでグラスを磨いていたバーテンさんが、こちらに気づくと小さく頭を下げて挨拶した。

美紀子お姉さんは慣れた様子でカウンター席に腰を下ろすと、『いつもの。よろしくね』とバーテンさんにウインク。
私も何度かこの店には来たことがあるが、『いつもの』で通るほど馴染みではない。
お姉さん、遊んでるなあ。
と感心していたら早く注文するようせっついてきたので、まずはとにかく食べるもの!とソーセージの盛り合わせと野菜スティック、それとカシスオレンジをオーダーした。

ほどなくしてカクテルが出てくる。食べ物はまだですかー?
美紀子お姉さんの『いつもの』の正体はソルティードッグだった。
美紀子お姉さんはグラスの淵に盛られた塩をひと舐めしぐぐっと一気に半分ほどを飲み干す。
うーん男前。

この人の態度は男の前だろうが何だろうが変わらない。
いつも遠慮なく素の自分を晒してくる。
男好きだからって変に媚を売らないのは良いと思うが、実のところ男と長続きしたという話は聞いたことが無い。

強気で強引な性格は酒席では盛り上がって良いけれど、本気で付き合うには疲れるタイプなのかもなあ。
美紀子お姉さんには失礼だけど、そんなことを考えてしまった。

それから暫くはひたすら美紀子お姉さんのターンだった。
内容は専ら男の話。デート代ぐらい男が持てとか、髪形変えたらすぐ気付けとか。大体そんな感じの話を延々と。
アメ車並みの大排気量を誇るお姉さんトークは、ガソリン代わりのお酒をがぶがぶと飲んでスピードを上げていく。

お姉さんエンジンの回転数が加速度的に高まると、話の内容もどんどんエスカレートしてとどまるところを知らなくなっていく。
終いには男女の営みの話になったが、それはさすがに割愛。
大体私は一人しか男を知らないのに、アレの比較話なんでできるわけないじゃん、もう。

私はその間ひたすら聞き役。今はお腹を満たしたいから、正直喋るよりこっちの方が有り難い。
トークの隙を見て唐揚げをオーダー。ああ、明日の体重計が恐ろしい。けど食欲が止まらない。

ひとしきり喋り終えると、美紀子お姉さんは満足げな顔で最後の一口を飲み干した。
ああやっと終了かな。私もお喋り好きだと思うけどこの人には敵わない、というか圧倒されてしまう。

どうも私は周囲の雰囲気に流されてしまう性格らしい。
過去、ラブレター事件の時もそれで痛い目にあっているのに、この性格は治りそうにない。

こんなとき私は、へらへらと笑いながら嵐が過ぎ去るのを待つしかできなくなってしまう。
周りに合わせて、愛想笑い浮かべて。自分の本当の気持ちを押し止めて、嫌なことを嫌だと言えなくなってしまう。

今日はそこまで嫌なわけじゃないけど、それでもあんな芝居を観た直後だし、どちらかと言えば一人でいたい気分だった。
まあ結局お腹が空いたのが運の尽きと言うか、また街中に来てしまった時点で文句は言えないのかも知れないけれど。

あ、そうか。早くマンションに帰ってご飯にすれば良かったんだ。
でもさっきは倒れそうなくらいお腹減ってたし、仕方がないかなあ。
あとは早く美紀子お姉さんが解放してくれるのを、おとなしく待つしかないかあ。

お姉さんは、しかし私が期待したのも束の間、まだまだ足りないと言わんばかりにジントニックをオーダーした。
あれあれ、まだ続くんだ。さすがに聞き役も疲れてきたんですけど。エンジン、タフですねえ。
明日もお仕事あるんじゃないですか。そんなに飲んじゃって大丈夫なんですかあ。

バーテンさんから新しいグラスを受け取ると、美紀子お姉さんはくっと一口だけ飲み、私の目をじっと見つめてきた。
あれだけ飲んだのにお姉さんの目はしっかりとしていて酔った様子は無い。顔色も普段と全く変わらない。
お酒に呑まれないのも大したもんだなあと感心していると、お姉さんはゆっくりと口を開いた。

「ところで、あんたの方はどうなの。まだ別れた男の事を引きずっているの」

[つづく]

翌朝。
花の女子大生もかかわらず夏休みのスケジュールが白紙の私は、随分と高い位置に陣取った太陽からの日差しで目を覚ました。

枕元に置いた携帯電話で時間を確認する。
もうすぐ午前9時。普段なら一限目アウト、でも代返頼むのはぎりぎりセーフのタイミング。割と勝負の時間帯だ。
でも今日から夏休み。多少の課題は出ているにせよ、初日の寝坊ぐらいは大目に見てもらえるでしょ。

本日はお日柄も良く。まったく絶好のデート日和。きっと友人達はラブラブデートを満喫するんだろうなあ。
ゆったりと体を起こし、うーん、と大きく伸びをする。
パジャマが上に引っ張られ、おへそがチラリズム。いやん。

頭ボサボサ。ゆうべ半乾きのまま寝ちゃったからね。寝ぐせついてもしょうがないね。
まぁちゃんとセットすれば大丈夫かな。

ベッドを降り、顔を洗い、恐怖の体重計チェーック。
昨夜はあんなだったしね。さあ、どうだっ!……ま、まあ誤差の範囲内でしょう。うん、大丈夫、大丈夫。きっと。多分。
よし、明日から本気出す!……いやいや、今日からちゃんとしないと駄目ね。まだ一日は始まったばっかりなんだし。

そ、それはさておき朝食、朝食。健やかな体形は正しい食生活から!

いつまでもパジャマのままなんてだらしない、なんて事はこの際無視。
だっておなかがすいたんだもん。腹が減っては戦は出来ぬ!とトースターにパンをセットし、焼いてる間に他の準備。

普段は紅茶党の私も、朝だけはコーヒーと決めている。
インスタントのドリップコーヒーをカップにセット。
お湯を注ぐと香ばしいコーヒーの匂いが鼻腔を刺激した。
湯気にカフェインは混じっていないんだろうけど、なんとなくこれだけで頭が覚めた感じになる。不思議。
ミルクたっぷり、砂糖ちょっぴり。コーヒーはカフェオレに限る♪

サラダがあれば最高だけど、昨夜家事も買い物もサボった私にそんなものは無い。
かといって今から準備するのも腹の虫が許さない。

何か代わりになるものは無いかと冷蔵庫を漁ると、ほんのり赤く熟し、甘い香りを漂わせた桃がコロリと出てきた。
先日実家から送られてきたものの残りだ。

朝から桃。なんとなく勿体無い気がするが、食べないで痛ませるのはもっと勿体無い。
ここはひとつ有難く頂戴するとしよう。蜜たっぷりですっごく美味しかったんだよね、これ。

患者さんからの貰いものだと同封されていた手紙には書いてあった。
患者さんと父に感謝。では、いただきます!

朝食を採り、着替えて、身だしなみを整えたら、あの本だ。
私にとっての戦。相手はあの子じゃない。自分自身。

色々と用事を済ませてから机へ向かう。
寝坊するほど休んだからか、昨日より自然に本へ手を向けられる。

もちろん紅茶も準備完了。ちゃんと茶葉を使って淹れた、お気に入りのダージリンティーだ。
ついでに今日はアロマも焚いてみた。ラベンダーの落ち着いた香りが部屋中に満ちていく。
うーん良い香り。リラックス、リラックス。

あの子の本を少しずつ読み進めていく。しばらくはありふれた日常の様子が綴られていた。
気になったのは、あの子が驚くほど冷静に、自分の病状を受け止めていたこと。

おそらくあの子は、日記の執筆を始めた時点で余命が短いことを悟っていたのだろう。
文章の節々に『今やらなければならないこと』への使命感めいた思いが見え隠れしている。

それでいて気負いが無い。運命を率直に受け止め、その上で残りの人生をいかに充実させるかということだけを考えていたようだった。
不思議なことだと思う。死を間近にした人間が、これほど穏やかに死と向き合うことが出来るのだろうか。

それともうひとつ、気付いたことがあった。
あの子は彼のことを日記に書くとき、二つの呼び方を使い分けていた。

普段は『兄』。大抵の場合、あの子はこの呼び方を使っている。
たしか以前、初めて病室であの子に会ったとき時、あの子は彼の事を『お兄ちゃん』と呼んでいたはずだが、日記に書くにはさすがに恥ずかしかったのだろう。

もう一つは『あの人』。こちらは、あの子が女として、異性としての彼を書くときに使用している。
『兄』と『あの人』。肉親としての彼と、男性としての彼。
あの子の胸中に内在していた二つの想い。
二つの呼称を使い分けることで、禁断の想いに対する免罪符としていたのだろうか。

いつしか私は、あの子の内面に興味を惹かれていった。

『○月×日

 最近は比較的体調が良好。

 微熱がちなのは仕方が無いけど、それ以外に気分が悪くなったり、胸が苦しくなったりはしていない。
 とても穏やかな気持ちだ。ずっと今の状態でいられたなら、どんなに素敵な事だろう。

 具合も良いし、たまには外に出てみたかったので、美樹さんにお願いして病院の中庭を散歩させてもらった。

 しらばくは病室と診察室、あとはトイレぐらいしか歩く機会が無かったので、階段を下りるのがちょっと大変。
 上り階段を使うのは無理かもしれない。美樹さんにも、帰りはエレベーターに乗るように言われてしまった。

 中庭に出たわたしの目的地はひとつ。以前埋めたウメバチソウがどのくらい育っているか見たかったのだ。
 ウメバチソウは少し珍しい植物で、8月から10月頃に花をつける。
 そろそろ咲いていてくれたら嬉しかったのだけど、この子の季節はまだみたい。ちょっと残念。

 わたしがウメバチソウの茎を撫でていると、どこからか一匹の蜂が現れて、鼻先をかすめるようにして飛んで行った。
 わたしはびっくりして尻もちをついてしまった。蜂は美樹さんが追い払ってくれたけど、上着の裾とおしりの部分は芝生と土で汚れてしまった。

 美樹さんに怒られちゃうかな、と思って見上げてみると、美樹さんは本当に心配そうな顔をしてわたしの事を見つめてくれていた。
 なんだか悪いことをしちゃった気分。次からは、もう少し色々と気をつけようと思った。

 どうやら、わたしは蜂に縁があるみたい。
 まだずっと子どもの頃、家族で行ったピクニックの時に蜂の巣にいたずらをして以来、蜂から恨まれているのかも。

 あの時、大勢の蜂から襲われそうになった時、兄は自分の身を挺してわたしの事を守ってくれた。

 はじめて兄の事を頼もしいと思った瞬間だった。それまでは、わたしは入院していることが多かったし、
 兄は見舞いに来てくれなかったから、話をしたことはほとんど無かった。

 だけどあの時、兄がわたしに覆いかぶさるようにして守ってくれたあの時、兄とわたしの距離がとても近づいたように感じた。
 物理的な距離だけではなく、心の距離も。

 あれ以来、わたしは兄に対してとても深い親愛の情を抱くようになった。
 守ってくれる誰かがいてくれることは、とても素敵な事だなと思うようになったのだ。

 こんなことを伊藤君に話せば、きっと彼はわたしの事をブラコンだと揶揄するだろう。

 でも……いいもん、ブラコンでも。
 兄がわたしの事を守ってくれたように、わたしも兄の事を大切だと思う気持ちは誰にも負けないつもりだから。

 なんだか恥ずかしくなってきたので、今日の日記はおしまい。』

蜂に襲われたこと……確かに、彼が山で蜂に襲われて、2週間くらい入院したことは覚えている。
ラブレター事件から数日後の出来事だ。

私は心配でたまらなかったけれど、あの事件の直後ということもあり、彼のお見舞いに行きたくても行けなかった。
不幸中の幸いというか、入院先が父の病院だったので、私は美樹さんを通じてこっそりと彼の容態を教えてもらっていた。

病院へ運ばれた直後、昏睡状態だと聞いたときは心臓が止まる思いがしたが、その後持ち直して後遺症も無いと知った時は心底安心したものだ。
退院して彼が登校したときは、クラスの雰囲気に釣られてつい軽口を叩いちゃったけれど……。
本当はとても心配していたと。ラブレター事件の事もあの時に謝罪していれば、その後の関係も変わっていたのかもしれないのに。

蜂に襲われたこと……確かに、彼が山で蜂に襲われて、2週間くらい入院したことは覚えている。
ラブレター事件から数日後の出来事だ。

私は心配でたまらなかったけれど、あの事件の直後ということもあり、彼のお見舞いに行きたくても行けなかった。
不幸中の幸いというか、入院先が父の病院だったので、私は美樹さんを通じてこっそりと彼の容態を教えてもらっていた。

病院へ運ばれた直後、昏睡状態だと聞いたときは心臓が止まる思いがしたが、その後持ち直して後遺症も無いと知った時は心底安心したものだ。
退院して彼が登校したときは、クラスの雰囲気に釣られてつい軽口を叩いちゃったけれど……。
本当はとても心配していたと。ラブレター事件の事もあの時に謝罪していれば、その後の関係も変わっていたのかもしれないのに。

『ほら、あんなことの後だから藤堂君もしかしてジサツとか考えちゃったのかなーとか思って』

……なんてデリカシーの無い言葉だろう。
照れ隠しにしたって、もっと気の効いた言い回しがあったはずだ。
いやそうじゃない。私は彼の事を深く傷つけてしまった後なのだから、まずは彼の体の事を心配して、そしてあの事件の事を謝るのが当然だったはずだ。
けれど、私にはそれが出来なかった。またしても周囲の雰囲気に流されて、自分の気持ちを素直に表すことができなかった。

しまった二重書き込みになってしまった。
>>147は無視してください。

……あの子はこの時から、彼の事を異性として意識していたのだろうか。

長期入院していたあの子。見舞いに行くことのなかった彼。
物心つくまで殆ど交流のなかった少年少女。
年代は違えど、先輩の芝居に出てきた兄妹の境遇とある程度符合する。

だからって、まだ小学校中学年程度の子が恋愛なんて、少し早すぎるような気がしないでもない。
自分はどうだったろう。彼と同じクラスになったのは5年生の時だから、初恋もちょうどその時期だ。

たった2歳違い、といえども小学生の時の1年は他の世代とは何倍も重みの違う時間だと思う。
中学年ぐらいなら、まだ性差を意識せず無邪気に遊んでいて良い頃だ。

けれど、あの子の置かれた境遇。
稀にしか登校できなかったであろうあの子は、恐らく他の子たちと違い交友関係を築く訓練をしていない。
友達、という人間関係を知らなかったかも知れない。

たった一人の病室。接する人は、父や美樹さんなど、みな大人。
外の世界を知る手段は、大半が書物から。実際、あの子は大変な読書家だったという。
白い壁に囲まれた退屈な時間を潰す本の中には、きっと恋愛を取り扱うものもあっただろう。

そこに現れた彼。同じ世代。
友達というものも知らず、その瞬間まで兄妹という関係性さえ築けずにいた中で、突如現れた異性。

幼いあの子の心の中に、未熟な恋心が生まれたとしても、あるいはおかしくないのかも知れない。

勿論、これは私の推測にすぎない。
断片的な情報と、もたらされた結果を無理矢理結び付けただけの、勝手な推論だ。

けれど、もし私の考える通りだとしたら……
あの時、彼に対して思慕を寄せるようになったあの子と、素直になれなかった私。

ひょっとしたら、もうあの瞬間から、私達の運命は決まっていたのかも知れない。

胸の奥底に、ギュッと締めつけられたような痛みが走る。
私はきっと、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。

[つづく]

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