双葉杏「プロデューサー……なんで……?」 (72)
気がついた時には、俺は杏を押し倒していた。
華奢すぎる手を押さえつけ、体の上に乗る様にすれば、もうこいつは動けない。
「プロデューサー……なんで……?」
杏の声。
こんな状況だと言うのに、その声には脅えも困惑も混じっているようには聞こえない。
ただ純粋に、不思議そうな声色だった。
おい、こんな状況だぞ。少しは怯えて見せろ――制御を失った俺の心が、嗜虐の声を上げる。
だが杏は……イヤになるほど透き通った目でこちらを見て……俺の頬に、手を差し伸べてきた。
「プロデューサー……なんで……泣いてるの……?」
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子供の頃、俺は4歳年上の優秀な兄貴と比べられる事が多かった。
兄貴はいわゆる優等生で、成績もよく、先生の受けも良かった。
対する俺は体力バカ、ふざけてばっかで、先生も手を焼いていたのだ。
とはいえ、兄弟中は悪くはなかったように思う。
小学生時代は一緒によく遊んでたし、兄貴自身も穏やかで面倒見の良い性格だった。
俺の友達軍団のお守をやってる、そんな認識が周りであったように思う。
兄貴は暇になると、よく絵を描いていた。
得意としていたのは風景画で、同級生の絵と比べると頭一つ抜けて上手かった。
俺は当時気に入っていたアニメのヒーローの絵を描いてくれと、よくせがんでいたものだ。
兄貴は「本当にお前、これが好きなんだな」と笑って、俺の注文を受けてパンチやキックを繰り出すヒーローの絵を描いてくれた。
俺達は中学校までは一緒の学校だったのだが、兄貴は地元の進学校に進んだ。
「高校からは、一気に勉強が難しくなって大変だよ」とか言いながらも、兄貴はそこでも成績優秀な生徒だったようだ。
兄貴は都会の名のある大学への進学を決めた。
父も母も、そんな優秀な兄貴に鼻高々だったようだ。
俺は一足先に都会に出れる兄貴が、単純にうらやましかったのを覚えている。
対する俺は、そんな高尚なとこではなく、身の丈にあった中堅高校に通った。
そのころ、俺は芸能関係の仕事に興味を持ち始めていた。
……明かしてしまえば、当時人気だったアイドルとプロデューサーが二人三脚で芸能界を制覇してゆくドラマに影響されてのことだ。
こんな、ちゃらんぽらんな俺とは違って、兄貴はなんか凄い事やってんだろな――あまり家に連絡を寄越さない兄貴のことを、漠然とそんなふうに考えていた。
だが、その優秀な兄貴が引き籠りになった。
就職活動を控えた大学3年生の終わりごろから、兄貴は借りていたアパートに引き籠って外に出てこなくなったそうだ。
大学受験を控えていた俺には、両親は気を使って知らせてもらえなかったので、また聞きになるのだが……以前の穏やかな性格はなりを潜め、人が変わった様に説得に行った両親を口汚く罵ったそうだ。
あまりの事態に、両親はしばらく様子を見る、という名目で幾許かの金を渡しながらたびたび兄の元へ通っていたらしい。
だが、俺が滑り止めの某Fラン大学への進学を決めて、これで都会に出られると能天気に喜んでいたところに……兄の死を、突然告げられた。
そう、兄貴は死んだ。
引き籠ったあげく、社会に三行半突きつけて死んだ。
死因は……餓死だったらしい。
俺は兄貴の部屋の片づけに駆り出された。
遺品を整理し、特殊な清掃業者に来てもらう。そしてお祓いをする。
こんな手順を踏む事で、部屋の弁償代を払わずにすむようなるそうだ。
その事を聞いて、父は安心したような溜息を吐いていた。
遺品、と言ったが兄貴の部屋にはほとんどなにも残っていなかった。
大学で使っていたであろう教科書やらプリントやらがあったくらいで、趣味らしいものはなにもなかった。
両親が入学祝に渡したパソコンもなくなっていた。
兄貴と言う人物を構成していた大部分が欠けて無くなってしまったかのように思えた。
ふと、そのプリントの一枚に落書きがあるのを見つけた。
昔、俺が好きだったヒーローの絵だった。だが、そのヒーローはカッコよいポーズなんてとっちゃいなかった。
ただ、棒立ちでほとんど無表情だった……いや、俺には怒った様な表情を浮かべているように思えた。
すみません。再開は少し間が空くかもです。
>>2の4行目、訂正。
×とはいえ、兄弟中は悪くはなかったように思う。
〇とはいえ、兄弟中は悪くはなかったように思う。
……放置、すみませんでした。再開します。
あれ、訂正出来てないや……。
×とはいえ、兄弟中は悪くはなかったように思う。
〇とはいえ、兄弟仲は悪くはなかったように思う。
母が心労ゆえか少し体調を崩したりしたが、概ね日々は元通りになった。
というより、俺も大学進学ゆえの慣れない環境に置かれたため、いつまでも気にはしていられなかったのだ。
大学生活は楽しかった。新しい友達ができた。サークル活動やバイトに精を出した。はじめて彼女が出来た。
なんだよ、大学生活、楽しいじゃないか。
引き籠っちまう要素なんて、ないじゃないか。
彼女に振られた。彼女は去り際にこう言った。「貴方は私の心をちゃんと見てくれなかった」と。
なんだよ、心を見なかったって。
俺は彼女の事をちゃんと考えて行動してたつもりだ。
だのに、こっちの気苦労も知らないで……まあ、そんな風に考えるようになちまってるから、ダメになったのだろうか。
思いのほか、失恋そのもののショックは浅かった。
だがそのとき、ふと兄貴の事を思い出した。
兄貴が何故死んだのか、当然と言えば当然だが、その原因は調べられた。
その中で知ったことだが、兄貴には彼女はおろか、友達すらいなかったらしい。
正直、ちょっと信じられなった。
あの兄貴が、人づきあいを苦手としているようなイメージが湧かなかったのだ。
だが、それを知った母は「やっぱりねぇ、あの子は、気の弱いところがあったから」と納得したように言っていた。
俺は、そのモノ言いになんだか驚いてしまった。
確かに……思い返せば、小さい頃俺達の面倒をよく見てくれた兄貴だったが、彼自身の友達はあまり聞かなかった事を思い出した。
どうやら兄貴は、俺の感じていたほど、なんでもできるスーパーマンではなかったようだ。
就職活動はめんどくさがって始める時期が遅かったため難航した。
夢と目標をきっちりと定め、真摯に取り組みましょう……めんどくさがりの俺としてはゲロゲロゲー、ってな思いだった。
まあ、しかし仕事をせねば食ってはいけまい。それにどうせやるなら面白そうなとこがいい。
そんなわけで、漠然と夢見ていた芸能関係の仕事を調べ始めた。
バイトやらサークルやらの先輩との人脈が無駄に広くなっていたこともあり、なんと芸能関係への伝手ができた。
そして滑り込めたのは、新興のアイドル事務所。
そこのプロデューサー……と言う名の雑用係になれたのだった。
「くっはー……疲れるぜぇ……」
雑用を任されながら、業務を必死に覚えて行く毎日。
事務所自体が新興と言うこともあり、とにかく仕事は動いて覚えな! ってな昔の丁稚奉公みたいなスタイルだった。
だが、子供のころからなんとなく夢見ていた芸能関係の仕事に付けたのだ……なんだか、上手くいってるような、そうでないような、微妙な心持ちだった。
……そういえば、兄貴の夢って、なんだったのだろうか。
絵を描くのは好きだったようだが、画家になりたいとか、漫画家になりたいとか聞いた事がない。
入社して半年にて、俺は本格的にプロデューサーとしての業務を任されることとなった。
「しかし、プロデュースする娘も、自分でスカウトしてこいとは……中々に骨が折れるぜ……」
どんどん大変になっていく仕事に愚痴をこぼしながらも、俺は自分の実力が認められた様に思えて悪い気はしなかった。
基本的に、ちゃらんぽらんで気楽な性分ということは昔から変わっていなかった。
まあ、それでもミスが重なったり仕事がうまく進まなかったりと、ストレスが大きく溜まる時もある。
そんな時は、同僚を巻き込んで大々的に酒を飲んで騒ぎ、心の膿を洗い流していたものだ。
そうして酔っ払いながら深い眠りに着くときには、俺は昔の夢をよく見た。
時代は小さい頃……まあ、よく一緒にいた小学生時代のものだった。
だが、その時の兄貴は俺達と一緒に笑って遊んでいた筈なのに……俺達の輪から外れた所で、睨むようにこちらを見ていた。
そう……あの日、兄貴の部屋で見つけた、怒りを滲ませる表情を浮かべたヒーローの様に。
だが、小さい頃の俺はそれに気付かないように友達と遊んでいた。
まるで何の心配もない様に……兄貴なんて、いなかったかのように。
だが、夢を似ている俺の意識は、その険しい顔をした兄貴を捕えている。
なぜだ、兄貴……なぜ、なんだ……。
「くっ……あったまいてぇ……昨日、少し飲みすぎたかな……」
その昔の夢から覚めて、癖になった様に目覚ましを覗く。
……大学時代はよく寝坊して抗議をさぼったりしていたのに、いざ働き出して日課になってしまうと定時に目が覚める様になるものだ。
なんだかな……と思いながら、朝支度をしはじめる。
まだ、食パンとチーズが残ってハズだ……それを食っていこう。
「いやだ! 絶対に働かないぞ!」
準備を終えていざ出社、と言う時に、なにやら言い争う声が聞こえた。
声の出所はアパートのお隣の部屋だ。
隣に住んでいるのは、女性らしい、ということぐらいしか知らなかった。
なにしろ初日に引越しの挨拶に行った時、全然出てこなくて結局そのまま顔を合わせることがなかったのだ。
なんだよ、朝っぱらか、うるさいなぁ……と思いながら、覗いてみる。
目を疑った。
隣の部屋の前で問答をしているのは、年配の女性とちんまい少女。
そのちんまい少女に、俺は目を奪われた。陳腐な表現だが、妖精が現れたんじゃないかと思った。
たった半年だが、仕事の中で培われたプロデューサーとしてのセンサーが、これを逃すなという信号を送ってきている。
だから、俺は……無礼を承知で、その問答に割って入ったのだ。
「あの……すみません! ちょっとお話、よろしいですか!」
……今回ここまでです。早ければ明日の夜、そうでなくても明後日の夜には再開したいです。
……誤字訂正しておきます。すみません。
>>21の7行目
×だが、夢を似ている俺の意識は、その険しい顔をした兄貴を捕えている。
○だが、夢を見ている俺の意識は、その険しい顔をした兄貴を捕えている。
>>22の3行目
×……大学時代はよく寝坊して抗議をさぼったりしていたのに、
○……大学時代はよく寝坊して講義をさぼったりしていたのに、
その少女の名は双葉杏。年齢は17歳。
……正直、そんな年齢には見えなかった。小学生の低学年かと思った。
年配の女性――杏の叔母は、いきなりの闖入者である俺を警戒したが、何とか話を聞いてもらえる方向に持って行けた。
どうやら、ちんまい少女、杏は高校にもいかず、ニート生活を満喫していたらしい。
これは、深い理由が……と言う訳でもなく、単純にめんどくさがって学校にも通わなかった、ということだ。
つまりは度し難いほどのめんどくさがり、筋金入りのニート、と言う奴だった。
学校に行くか、仕事をするか、とにかく籠ってるだけではダメだ、という叔母と絶対にいやだと言い続ける杏。
そこに現れた闖入者である俺は、自分の勘に従ってこう言ったのだ。
「双葉杏さん、アイドルにならないか?」
突如割りこんできて、突如勧誘を始める俺に、叔母さんも杏も目をぱちくりとさせていた。
だが、俺はそんなことを気にしてなんかいられなかった。
この妖精の様な少女を……おそらくは、アイドルとしての計り知れない原石を逃すまいと必死だった。
思いつく限りの文句を並べ、会社の概要を説明する。
だんだん乗り気になる叔母さんと、シブい顔をしたままの杏。
「えー……でも、歌ったり踊ったりとか……どう考えても、めんどくさそう! お断りだね!」
「それをこなして自分のモノにすれば、君は絶対にトップアイドルになれる! そうなれば印税もガンガン入ってくるし、一生遊んで暮らせるだけの儲けだって夢じゃないぞ!」
「……え? アイドルになれば印税で一生楽に生きていけるっての? ほ、本当? ……は、話を聞かせてもらおうじゃないか」」
……本当に、度し難い少女だった。勧誘に成功こそしたが、不安が一気に駆け上ってきた。
結論からいえば、杏は俺がスカウトに成功したアイドル候補生第一号となった。
……そして、勧誘の時に思い知っためんどくさがりが、本当の本当に筋金入りだと思い知らされる日々だった。
レッスンをさぼる。打ち合わせに来ない。気付いてみれば、だらけている。
やるきの「や」の字も、こいつの辞書にはないのか? と、あきれ果てたものだ。
「プロデューサー。今朝占いで「アイドルのプロデューサーさんは担当アイドルを甘やかすと吉」って言ってたよ~!」
うるせえ、どんなピンポイントな占い結果だよ。
「プロデューサー、休養も大事な仕事だよっ!!」
うん、それは正解だな! ただし、しっかりと普段から仕事してる人への言葉だがな!
「プロデューサー。今日は雨が降るらしいから帰ろうっ!!」
だまらっしゃい! お前どこの南の島の大王だよ!
……とまあ、とんでもない奴だったわけだが、俺はしつこくコイツに関わり続けた。
同僚からは「お前、よく見限らないな。そこまでかいがいしい奴だとは思わなかったぜ」とか言われてた。
正直な話、自分でもそう思う。
俺は基本気楽な性分で、困難にぶち当たってしまうとぬるりとスルーできる道はないかと探すタイプだからだ。
だが……本当にどうしたんだろう、俺は杏を見捨てるなんて選択肢は始めからなかった。
幸いなことに、結果はついて来ていた。トップをひた走る……には程遠かったが、じわじわと人気が出来てきていたのだ。
「え~。杏、そんなポーズとるのヤダよー。だって手が疲れそうだし…。えっ! それやったら飴くれるの!? ふ、ふ~ん……飴くれるんだ……。…………きらっ☆」
そして、俺も杏の扱いがわかってきた。
飴が好きで、これで大体釣れる。しかし、隙を見て逃げ休もうとする、その悪癖は全然直らなかった。
「うきゃー☆ 杏ちゃん可愛い~! 一緒にお仕事頑張るにぃ!」
「うおわぁ! きらりぃ! プ、プロデューサー! きらりと一緒だなんて聞いてないよ~!」
「フゥ~~ハハハ! きらりの事を伝えたらガチで引き籠ると思ったのからな……時代は情報戦なのだよ、杏くん!」
「ひ、ひきょうもの~! 鬼、悪魔、プロデューサー!」
「……杏ちゃん、きらりと一緒は、いや?」
「うっ……あーっ、もう! さっさと仕事終わらせて、杏は休むかんね!」
「杏ちゃん、一緒に頑張るにぃ! ほら、ぎゅ~☆」
「う、うわぁ! きらり、やめ……全力ハグは……ギ、ギブ……」
「おっとっと、きらり、力入れ過ぎて杏をおとしてくれるなよ?」
……そうだ、杏はめんどくさがりでどうしようもない奴だけど、けっして悪い奴じゃあないんだ。
悪い奴じゃあ、ないんだ。
……遅くなったうえに短いけど、今回ここまでです。
再開は明後日の夜に……
杏のファン急増は、俺も杏も、売り出していた事務所も想定していなかったことだ。
……というより、CD化にて事務所のアイドル全体の認知度が上がってきたものの、それでも杏のキャラがそんなに広く受け入れられるとは思ってもみなかったのだ。
CDもどんどん売れた。早々に印税生活に入ろうとする杏をなんとか引きとめる。
「プロデューサーが働いてばかりで、杏は心配だよ。だから、明日からしばらくお休みにしよう。ずっとでも良いよ♪」
「ふざけたこと言ってんなよ……事務所的にも、ここで手を抜く選択肢はないよ。まあ、休みはちゃんと調節して入れてやるから、チャッチャと今日の仕事を終わらせて来い」
とは言ったモノの、現在はすっかりオーバーワークだ。
杏だけじゃなく、事務所所属のアイドルが全体的に売れてきたため、その分仕事量が増える。
それに裏方スタッフの人員確保が追い付いていないのが現状だ。
社長自ら即戦力になりそうな人材を探してくれているらしいが、それもまだまだらしい。
「プロデューサー、無理は厳禁だよ。さぁ休憩しようっ!」
「それはどうかな? ここで俺は、きらりを特殊召喚するぜ!」
「にゃっほ~い! きらり、参上☆ さあ、杏ちゃ~ん、一緒にお仕事いくにぃ!」
「でぇえええ! プロデューサー! いつのまにきらりを手懐けたァ!?」
「手懐けたとは聞こえの悪い……ちょっと取引をしただけさ。仕事後に杏を『きらりん☆ハウス』に招待しても良いってな」
「ふざけんなぁ~! 杏はおもちゃじゃないぞ~!」
「まあまあ……ちゃんと全部終わったら、特製の飴、2袋やるからさ」
「なん……だと……ちくしょ~! 手を打ってやる~!」
……なんとも分かりにくいが、仕事やってくれるってことか。
まあ……確かに強引だったから、少しは労ってやるかな。
「それじゃあ、杏ちゃん、れっつらごぅ☆」
きらりに引きずられて事務所を後にする杏を見ながら、そう思った。
「とはいえ……本当に最近は疲れがとれないな……」
重い瞼に指を当てながら、俺は呟く。
本当に暇がほとんどなく、ストレス解消のための酒飲みすら出来ていない。
疲れが取れないまま家に帰り、泥の様に眠る。そんな日々が続いていた。
夢の中の俺は、よたよたと進んでいる。
深い疲れの中で、杏の手を引いて、目的地を目指している。
目指す先には光り輝く場所がある……そこに、杏を連れて行くんだ。
それが、俺の役目だ。
『プロデューサー、頑張りすぎだよ、休もうよ』
そう言う訳にはいかんだろ、ここが頑張りどきなんだから。
『そんなこと言って……大体プロデューサー、そんなに頑張る理由はなんなのさ?』
それは前にも言っただろ? お前をトップアイドルにする……それが、俺達の夢だったはずじゃあないか。
『本当に? 本当にそうなの?』
……どういう意味だよ。今は凄く上手く言ってるじゃないか。お前を好きだって言ってくれる人がたくさんいるぞ。
『そうでもないでしょ? 杏のことを嫌う、悪く言う手紙だっていっぱいきてるじゃないか』
!! それは……まあ、お前に見せられないようなヤツは弾いてるけど……それは他のアイドルだって同じさ。有名税みたいなもんだよ。
『そうなんだよ……どんなに頑張っても、どこかで綻びは出てくる。少しの失敗で、何もかもおしまいになる事がある』
……まて、杏の声じゃない。お前は、だれだ!
そう言って振り返り、握った手の持ち主を見る。
俺が手を繋いでいたのは、怒りの表情を湛えた、げっそりと痩せたミイラだった。
短い悲鳴を上げる。だが、俺の目はそのミイラから離せない。
これは……兄貴か? もしかして……杏か? だめだ……もう誰なのかわからないほど、酷い状態だ。
『そうだ……お前が怖いと思っていることは、これだ。立ち止まってしまえば、死んでしまうと、心の底で恐れている』
声が響く。兄貴の声の様な気もするが、もう誰なのかわからない。
『こんな状況になると誰が予想できた? 真面目に生きていた兄貴は餓死したんだぞ? 不真面目な杏は一躍時の人だのに』
杏を悪く言うな。アイツはアイツなりに頑張っている。だから人気が出たんだ。
『本当にそう思うか? アイツよりも地道に努力を続けているのに目が出ないアイドル、同じ事務所ですら何人もいるじゃないか?』
それは……どこにでもある問題だ。事実、その辺の衝突だってあった。そのたびに俺は……杏を……。
『確かに励ましていたな。気楽な激励で。だが、それで持ち直していたのは、杏自身のメンタルが強かったからじゃないか? 所詮……』
……やめろ。それ以上言うな。
『所詮、生きて良い人間と、生きてはいけない人間は、始めから決まっているのではないか?』
「だから、やめろって言ってるだろ!」
俺は叫びながら飛び起きた。
どうも、自分自身の叫び声で目が覚めたようだ。
日課のように、目覚まし時計を見る。……午前五時半過ぎ……少し、早く目が覚めた。
どうにも眠りが浅かったらしい。まったく疲れが取れていない……が、ここで二度寝すると、きっと出社に間に合わない。
「ああ……くそ、なんだってんだ……気楽な性分が、俺だったはずなのに……」
だれともなく悪態をつきながら、俺は温かな布団から這い出るのだった。
今日はここまでです。続きは明日か明後日の夜に。
……だんだん、冒頭のシーンにつなげられるかどうか、微妙にわからなくなってきたんやで……。
少し早い朝飯を食べながら、テレビのニュースを聞き流す。
まるで頭が働かない……だが、悲しいかな、社畜のサガか、テレビの時間表示を目で追ってしまっている。
「……そうだ、杏を連れて行かないと……」
杏は元々俺の部屋の隣に住んでいた。が、仕事の都合で一時期事務所の女子寮に移っていたのだが……主にきらりの襲撃から逃れるために、元の部屋に戻ってきた。
そんな訳で、再び俺の部屋の隣に住んでいる。
「……やれやれ……また、アイツはサボりたいっていうんだろうな……」
じっくりと時間をかけて立ち上がる。
別段意識もしないまま、彼女の部屋に向かって言った。
「おーい、杏。事務所いくぞー」
どんどんとドアをたたく。
返事はない……そうだ、アイツはサボりたいときには無視をする。
「おーい、杏! ここで、サボりは事務所もファンも許可しないぞー」
どんどんとドアをたたく。
どんどんとドアをたたく。
「おーい、杏! 頼むよ、あけてくれ。あけてくれ。あけろ!!」
どんどんとドアをたたく。
どんどんとドアをたたく。
どんどんとドアをたたく。
「あー、もう! うるさいなぁ! わかったよ! あけるよ!!」
ドアが開いた。
杏が迷惑そうな顔を覗かせた。
「……おはよう、杏。さあ、いくぞ」
「……おはよう、プロデューサー。それじゃ、おやすみ……」
そう言いながら、ドアを閉めようとする杏。
とっさに俺は、ドアを掴む。
「こら! ドア閉めて引き籠ろうとするな!」
「やだよ! 杏は今日休む! ドアをはなしてよ、プロデューサー!」
嫌だ、ドアを閉めるものか。
ドアを閉める事が不可能とみると、杏はどたどたと部屋の中に走っていく。
「こら、待て! 杏!」
俺はそのまま杏の部屋に乗り込んでいった。
待てよ、待ってよ、杏。
杏はごちゃごちゃと物の散らかった部屋の片隅の毛布にくるまって、まるで芋虫のように丸まった。
「おい、杏! 流石にいかんぞ!」
杏の毛布をひったくる。
その時、足を何かに引っ掛けた。
そのまま、杏の上に倒れてしまう。
「(しま……った……!)」
とっさに腕を突き出して、杏に怪我を負わせないよう踏ん張った。
が、そのまま押し倒すような格好になってしまった。
「……怪我はしてないか、杏」
「……うん、大丈夫。……で、いつまで杏の上にいる気なの?」
俺は杏の上で動けずにいた。杏は驚いた様な顔のまま固まっていた。
動けなかった理由は、色気のあるモノではなく、手足がなんだかしびれてしまった様に動かせなかったのだ。……明らかに、身体に変調をきたしている。
「何、杏に手出す気?」
そんなわけないだろ……と言おうとした時、不意に杏の顔がいつものシニカルな笑みに歪んだ。
「あー……でも、それもいいかな? 色々と、さぼれる口実ができそう……」
……こいつ、それ本気で言ってるのか?
「まあ、プロデューサーならなんだかんだで杏を無碍に扱わないでしょ? そうでなきゃ、あんな無茶苦茶に仕事出来るワケないもんね」
……俺は杏は悪い奴じゃないと思ってた。それなりに、アイドルとして自覚も持っているもんだと思っていた。
だけど……なんだよ、結局コイツは楽したいだけで、自分の身体すらどうでもいいっていうのか?
怒りが湧いてきた。
ああ、俺は明らかにおかしくなっている。
セーブが聞かない俺の脳は、絶対口にしてはいけない言葉を発していた。
「そんなに言うなら……そうしてやろうか?」
「……えっ?」
いってん呆けた様な表情になった杏。
なんだよ、変な顔だな。
そんな風に思いながら……俺の身体は、思考を挟まないままに動いていた。
気がついた時には、俺は杏を押し倒していた。
華奢すぎる手を押さえつけ、上に乗る様にすれば、もうこいつは動けない。
「プロデューサー……なんで……?」
杏の声。
こんな状況だと言うのに、その声には脅えも困惑も混じっているようには聞こえない。
ただ純粋に、不思議そうな声色だった。
おい、こんな状況だぞ。少しは怯えて見せろ――制御を失った俺の心が、嗜虐の声を上げる。
だが杏は……イヤになるほど透き通った目でこちらを見て……俺の頬に、手を差し伸べてきた。
「プロデューサー……なんで……泣いてるの……?」
そう言われて、頬に手をやる。
それで初めて、自分が涙を流していることに気がついた。
そして……自分がとんでもない行動を取っていることを思い知った。
飛び跳ねる様に杏から離れる。
「……すまない……杏……」
「プロデューサー……どうしたのさ? 本格的に、おかしいよ?」
杏の声の調子が、本気でこちらを心配する気配……少なくとも、俺にはそう思えた。
「おい……乱暴を働こうとした相手に、随分と優しいじゃないか……」
「……少なくとも杏は、泣いてる子をどうこうしようと思えるほど、鬼畜じゃないよ」
子……と来たか。くそ、なんだかな。
「俺には……兄貴がいたんだ……」
やっぱり、俺はおかしくなっている。
脈絡もなく、自分の身の上話を、自分の担当アイドルにしはじめてしまったのだから。
「ふーん、そっか……お兄さんがねぇ……」
やってること喋っている事めちゃくちゃな俺に、杏は根気よく付き合って話を聞いてくれた。
「うーん……杏が思うに、プロデューサーのお兄さんは、きっとサボりたかったんじゃないかな?」
そして、杏らしい意見を述べてくれた。
「なんていうかさー……プロデューサーのお兄さん、いろんな事ができるって言われて、自分でもそう思っちゃって……で、サボる時間とか方法とか、忘れちゃったんじゃないかな?」
「いや……どうだろう……」
「杏もさ、アイドルやっててなんか良くわからないうちに人気が出ちゃってさ……そりゃ、観てる人達にしてみりゃ、一杯頑張って欲しいってのはわかるよ。杏もゲームしたりすると、『もっとおもしろくなるよう、頑張って作ってよー』なんて思うしね。だけど、正直楽しませる方としちゃたまったもんじゃないよ。もっとサボらせろってね」
……なんというか、杏の主観のみの勝手な意見なのだろう。
だけど不思議と……その意見が、自分の心の中でしっくりときた。不思議な感覚だった。
「でさぁ。それは今のプロデューサーにも当てはまると、杏は思ってるわけだよ」
どこか真剣だった顔つきを、いつものシニカルな笑みに変えて、杏は俺に囁くように言ってきた。
「さっきのプロデューサー、明らかにおかしかったもん。きっと頑張りすぎてるせいだよ。そんな訳で、今日は杏と一緒にお休みしよう」
「……そうだな。そうするか」
俺がそう言うと、杏は眼を丸くした。
「……い、意外だね。そんなにあっさり、休むことにするなんて……」
「まあ……お前の言う通りだ。今の俺は明らかにおかしくなってきているしな……」
「へえ……で、杏も休んで良いの?」
「……幸い、今日はレッスンだけだしな。体調が優れないとか、その辺の理由づけでどうにかするさ」
「……プロデューサーの休む理由は?」
「病欠ということにするよ。というか、現に今俺は精神的に参ってるみたいだしな。精神科医に言って、診断表を貰ってくる」
「……なんというか、本格的だね。会社の人達に、引かれるかもよ?」
「なあに、うまくやるさ。これでも、大学時代には、講義どころかバイトサボりも色々工夫を凝らしていたからな」
そういって笑ってみせると、杏は「おぬしも悪よのう」といって、いつものシニカルな笑みを返してきた。
降ってわいた休日に、杏は喜んで毛布にくるまりながらゲームを始めた。
「明日からは外せない仕事入ってるからなー、今日だけだぞ」と言ったが、安心しきった様に生返事が返ってきただけだった。
「やれやれ……だな」
さて……休むとなると、その辺の連絡を会社に入れなくては。
それから、病院の診察のための予約も必要かな……そう考えながら杏の部屋を後にした。
連絡を終えて、病院に向かう。
……もしかして、うつ病とか診断されちゃうのだろうか。
ま、とにかく行ってみてから考えよう。……なんとなくだが、ちゃらんぽらんな自分が戻ってきた気がした。
「しかし、杏があそこまで真剣に話を聞いてくれるとはね……」
いきなり自分に乱暴を働こうとした相手に対して……アイツなりに自分を気遣ってくれたのか、それともあのとき感じたように、めんどくさいから自分がどうなろうと良いとでも思っていたのだろうか。
「はあ……ホント、他人のことなんてわからないことだらけだな……」
初めての彼女に振られた時、兄貴が死んだ時……幾度も思い知った事。
そんなとき、不意に兄貴が頭に浮かんだ。
……杏は、兄貴のことを『サボる方法を忘れてしまった』と評した。
そのために、自分をコントロールする術を失ってしまったと。
なんというか……それがしっくりきてしまった。正解かどうか、わからないのに。
「兄貴……さっきの俺みたいに、休める気持ちがなくなって、辛かったのか……?」
答えは返ってくるわけない……のだが、なんとなくそれに応える兄貴が、頭に浮かんだ。
『さあね? 難しいもんだろ、宿題だよ』
と、昔の優しい笑顔でも、夢で見た無表情に怒っている顔でもなく……どこか杏の印象に重なる、シニカルな笑みを湛えて、そう答える兄貴。
初めて思い付く……見た覚えのない表情だったが……なんだか本当に、いつかどこかで兄貴にそんなことを言われたことがあった様な、不思議な感覚だった。
「……宿題、か。まあ……なんとか、やっていくさ。杏に、借りも出来たしな」
診察時間までは少し余裕がある。病院までは、ゆっくり歩いていくとしよう。
―終―
放置してしまってすみませんでした……これで終わりです。HTML化申請してきます。
ちなみにこの話には元ネタがありまして……確か10年くらい前、病院で呼んだ雑誌に載っていたコラム? だった……ハズです。記憶が定かではないのですが、兄を餓死で失った話を読んだ覚えがあるのです……。
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