速水奏「文、奏でる」【モバマスSS】 (85)
変な人、というのが彼女への最初の印象だった。
だってそうじゃない?
世の中じゃ誰もがスマホを見ているのに、彼女は本を読んでいたから。
文庫本じゃなくて、分厚いハードカバーの本を。
それでも、喫茶店や電車の中だったら、単なる読書家で済ませていたと思う。或いは、そういう場所で読んで、読書家ぶりたいだけの人。
でも読んでいる場所が、エレベーターの中だったら?
それも、本に夢中で、エレベーターが着いたことすら気づいてないとしたら?
それが私――速水奏と鷺沢文香の始まり。
初めて、事務所に来た日の事だった。
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アイドルになろうなんて思ったのは、小さな気まぐれだった。
色々なことにうんざりして、色々なことが嫌になって、色々なことから逃げ出したあの日の夕方。
そんな時にスカウトされて、受け入れて。きっと私は自棄になっていた。色々と。
それから何日かして、事務所に向かったのは、学校の帰り道。
学生服姿で潜るには、落ち着かないほど大きくて立派なビルだった。
受付で名前を言って、もし私の名前が無ければ?
きっとあの人は人を騙すのが趣味の嫌な奴で、騙されたと気づいた私は少し赤面して帰るんだろうな。
そうなっても、悪くない。
泡沫の不安と夢は弾けて飛んで、素晴らしく下らない日常に戻るだけ。
生憎、速水奏という私の名前はちゃんとあって、仮の通行証を渡された。
立派な建物だけど、所々アイドルのポスターが貼られていた。エレベーターホールにも掲示エリアがあって、デビューしたばかりという知らないアイドルのポスターが並んでいる。
見知らぬ少女達の親しげな笑みが、ここが芸能事務所なのだと改めて教えてくれた。
まだ、これが現実なのか自信が沸かなかった。
全ては白昼夢と言われても、私は納得しただろう。
だから、エレベーターが開いて奥の隅でジッと本を読んでいた彼女のことも、一瞬現実かどうか分からなかった。
彼女の見た目が、そんな考えに陥った一因であった。
深海を思わせる黒く深い長い髪の毛に、南国の砂浜のように白い肌。
際立ったコントラストは19世紀の絵画に描かれた人物のよう。
なによりも読んでいたのはボロボロのハードカバー。
その本は、一目見ただけでカビと古いインクの匂いを想像させた。
都心の芸能事務所には似つかわしくないように思えて、正直、最初は幽霊かと思った。芸能事務所に幽霊が出るって、結構定番でしょ?
でも、エレベーターの奥にある鏡には彼女の姿は反射していた。
幻覚ではなく、ちゃんと実態はあるようだ。
失礼なことを考えてしまったと、少し耳が熱くなった。
でも、それならどうしてエレベーターから降りてこないのだろうか。
道を開けるように脇に退いていた私は彼女が動くのを待ったが、そのうちにエレベーターが閉じだそうとして、私は慌てて入り口に手を置いた。
「降りないんですか?」
「……え?」
少し間を置いてから、彼女は顔を上げた。そこでやっと、本に隠れていた彼女の顔を見た。
蒼く、深い、星空色の瞳。
一瞬、彼女はぼんやりと私を見ていたが、すぐに意味を理解したようだ。「あっ……!」と小さな悲鳴をあげると、エレベーターの表示を確かめてあたふたとしだした。
「えっと……あの……」
なんだと言うのか。口をパクパクさせてから、結局なにも言わないで、おずおずとエレベーターを降りて行った。
本当になんなのか。不思議に思いながら、私はエレベーターに乗り込んだ。
閉じゆく扉をどうしてか彼女は困ったように見送った。
変わった人だったけど、スタッフの人だろうか。
それとも綺麗な人だったし、案外、私と同じようなアイドルにスカウトされた人か。
その可能性を、私は振り払った。アイドルをするには……なんというか、ちょっと抜けすぎている。
彼女が読んでいた本はなんだったのだろうか。もしいつか、事務所で再びすれ違うことがあれば、聞いてみても面白いかもしれない。そんな機会があればだけれど。
私は指定された階でエレベーターを降りて……途方にくれてしまった。
あまりにも大きなフロアで、どこに行けばいいか全然わからなかったから。
受け付けの人は道順も教えてくれてたけど……私は少し緊張していた。行先は覚えていてもその道のりは頭から抜け落ちていた。
廊下をちょっと覗き込む。長い廊下が延々と続いているように見えた。扉もいくつもあって、まるで別の学校に迷い込んだみたいだ。
立ちつくしていても仕方がない。一つ一つ、名札を確認していくしかないか。
そう思って歩き出そうとしたとき、ポンと気の抜けた音がホールに響いた。
私とは別の人が、この階にやってきたようだ。こんな場所で立ち呆けしていたら、変な子に思われてしまう。私はともかく進もうと思ったけど、すぐに考え直した。
気取らず、やってきた人に聞いた方が早いか。
私は振り返って、開いたエレベーターに向き直った。
「あっ」
と、声を漏らしたのはどっちだっただろう。
エレベーターから降りてきたのは、先ほどの女性だった。
今度は読んでいなかったのだろう。ギュッと胸の前で本を抱いた姿で彼女は私を見て立ち尽くしていた。
先ほど、一階で見せた奇妙な挙動の理由に合点が言った。
彼女は、一階に降りるためにエレベーターに乗っていたんじゃない。
一階から、この階にやってくる為に、エレベーターに乗っていたのだ。
多分、本を読むのに夢中になり過ぎていたのだろう、だから目的の階でエレベーターが止まってもそのまま読み続けて、そして再び、一階に戻ってきてしまったのだ。
失態を隠す為にわざわざ一度降りてから、また改めてこの階のボタンを押したと。
彼女の唯一の誤算は、私が同じ階で降りていたこと。
呆然としていた彼女の顔が、段々と赤くなるのが分かって、私は思わず口元が緩んだ。
そんな私の変化に、彼女は益々顔を赤くしていった。
「ねえ、第三会議室がどこか、分かるかしら?」
「第三会議室……ですか?」
キョトンとした様子の彼女は、おずおずと頷いた。
「えっと、はい……」
「良かったら、教えてくれない? 来るのは初めてなの」
「それなら……案内します。丁度、私もそちらに向かう所だったので」
それが文香――鷺沢文香との出会いだった。
話の中で、文香は私より少し前にスカウトされてこの事務所にやってきたということが分かった。
私を目的の場所まで案内してくれた文香は、そのままレッスンへと姿を消した。
アイドルになったからと言って、すぐにあの煌びやかな世界に飛び出せる訳ではなかった。
湖を優雅に泳ぐ白鳥のようでも、水面下では必死に足をばたつかせている。
私は湖にまだ浮かんでもおらず、それどころか生まれてすらいない。卵だった。
私と同じようなアイドルの卵は、事務所の中には沢山いた。
そんなアイドルの卵の列に、私も加わった。彼女たちに交じって、私もレッスンをすることになった。
そんな卵の中に、文香の姿を見つけることがあった。
入った時期が一緒だったから、同じレッスンになることも多かった。
別に、そんな子は文香だけではなかった。ただ、気づけばいつも文香の隣に私が居て、私の隣には文香が居た。
他の子とそりが合わないとか、そういうわけじゃない。みんないい人だ。
色々な年齢の人達が居て彼女たちはみんな、アイドルという一つの目標に向かって切磋琢磨し合う。
そこには年齢も関係なくみんなが仲間であって、ライバル。
そう言う関係は悪くないけれど……私には、少し眩しすぎた。
同じ空間に居るのだけど、見えない枠があるようで。
みんなと同じ舞台に立っているのに、私は時折、ただ観客席から見て居るだけの存在なんじゃないかと、感じられた。
多分、文香も同じだったのだと思う。
二人とも眩い舞台の上に立ちながら、薄暗い観客席から、舞台の上に目を向けていた。
夕暮れ時。
並び立つビルを彩るのは、刺々しいスポットライトやLEDの装飾された看板の数々。どれもこれも自己主張が強くて、統一感なんてまるでない凸凹な都会の風景。
それらを一枚の絵にまとめ上げていたのは、薄暗い雲に雨の音色だった。
窓枠で縁どられた景色。
事務所内にいくつもある休憩スペースの一つから、その作品に目を向けていた。
テーブルの上では、傍の自販機で買った微炭酸のペットボトル。半分程減った中身で、小さな泡が中央に渦巻く様に生まれては消えていった。
「雨、やみそうにありませんね」
私の視線に釣られたのか、向かいの席では私と同じように文香が窓の外に目を向けていた。
「天気予報だと、夕方には止むって言ってたのにね」
「この調子では……」
「ほんと、そうね」
その日も、レッスン終わりだった。
二人っきりのダンスレッスン。基礎的な振り付けをひたすら繰り返すような日だった。
運動には、多少の自信はあったけど、ダンスレッスンは想像以上にハードだった。
疲れた体に、程よい炭酸の甘さと冷たさが良く沁みた。
私と同じようなレッスンをこなした文香は憂いたような表情をしている。
それは、体の疲れのせいだけじゃないのだろう。
「文香って、意外と体力あるよね」
「そうかもしれません。持久走などは、昔から苦手ではなかったので」
「持久走以外は?」
目を伏せて、少し頬が赤くなった。
文香は体力に関しては、もしかしたら私以上にあるかもしれない。ただ、純粋な運動神経は、別のようだ。
ダンスレッスン中の文香は、整備されていない機械時計の踊り子だ。
時間が来ると、メロディと共に踊りだすが、油の刺していないせいでぎくしゃくしていて、その上、音もなんだかずれている。
踊るだけでも苦労して、体力も私よりはるかに消耗しているようだった。
レッスン終わり、文香はいつも汗だくになっていた。
「ダンスは、体育では特に苦手でしたけど……もしかしたら、出来るかと思ったんですが」
「ファンタジーの主役みたいに、上手くは行かないみたいね」
「本当に」
肩だけでため息をついた。文香にしても、予想以上に不出来なようだ。落ち込んだ様子の文香は、申し訳ないがちょっと可笑しかった。
中学の頃苦手だったことが、いきなり得意になるとは思えないのだけど。
「千里の道も一歩から、でしょ」
「千里どころか、万里の道に感じます」
「あら、素敵じゃない。数千年後には世界遺産になれそう」
「からかわないでください……」
目を伏せた文香も、ペットボトルに口をつける。私と同じ商品の味違い。
「悪かった、文香。拗ねないでよ」
「拗ねては……いません……」
説得力の無い言葉だった。
でも指摘をすればより恥ずかしがってしまうだろう。
だからなにも言わなかったが、つい小さく笑ってしまった。それじゃあ、意味がない。
「もう……」
益々顔を伏せた文香に、私はまた笑ってしまった。
「……すみません」
唐突に文香が謝ってきて、私は目を丸くした。
「なにが?」
「今日のレッスン、付き合わせてしまって」
「別に、たまたま一緒だっただけでしょ?」
「たまたまなんて……今の奏さんと私では、ダンスのレベルが違いますから……私と同じレッスンを、奏さんが行う理由はありません」
長い前髪の向こうで、蒼い瞳が揺れていた。
その通りだ。本当ならば、今日のダンスレッスンは、文香一人で行う予定だった。その話をプロデューサーから聞いた時に、私も一緒にやると言ったのだ。
私と文香は同期だし、誰か居た方が文香も心強いんじゃないかと思って。
でも、そのことを黙っていたのはいらぬ気遣いだったか。
「気にしないで。レッスンに付き合うって言いだしたのは私からだから。でもそっか。素直に言っておけば良かったわ。私こそごめん」
「いえ、そんな。奏さんが謝る事なんて……ありません」
あたふたと、文香は胸の前で小さく両手を振った。
「私の事を思ってくれたから、一緒にレッスンを受けてくれたんですよね」
「さあ、どうかしら」
素直になろうと思ったのに、文香に見抜かれてるとなると、つい誤魔化してしまった。
文香はそれ以上追及してこないで、白い肌に淡い笑みを浮かべただけたった。全て分かっているとでも言いたいかのように。
じんわりと頬が熱くなって、火照りを和らげるように、ペットボトルに口をつけた。
「奏さんが羨ましいです。なんでもすぐに器用に出来て」
「……どうかしらね」
「えっ?」
小さく首を傾げた文香。私は笑みを作った。
「文香だって、コツさえつかめばすぐに出来るようになるわよ」
「……それは、出来る人だからのセリフです」
否定は出来なかった。少なくとも踊りという分野に置いては、私は文香より出来る人間だ。
そう言う得意不得意の差は、人によってあるのは当然である。
でも、文香が思っているほどには、文香が出来ない側の人間とは思えなかった。
「さっきもトレーナーさんが言ってたじゃない。文香は余計な力が入り過ぎてるって。もっとリラックスしてやってみなよ」
動きが硬いのも、体が強張ってしまっているからだ。きっとそれは、ダンスというものに対する苦手意識からそうなっているんじゃないだろうか。
もっとも、文香は納得していないようだけど。
「リラックスと、言われましても……」
「トレーナーさんも言ってたでしょ。クラゲのように脱力する」
「クラゲのように」
むうっ、と文香の眉間に皺が寄った。
これではクラゲというよりカメである。
「文香は、なんでもかんでも集中しすぎちゃうんじゃないかな」
「ダンスをするには集中する必要があると思いますけど……」
「そうだけど、そうね。集中というより、入り込んじゃうというか。踊りをしなきゃって、思い込み過ぎてるのかも」
「……よく、分かりません」
「私も」
笑った私に文香はキョトンとした。
我ながら、ずいぶんと抽象的なことを言っていると思う。でも、あながち間違いではないように思えた。
私はエレベーターの中での、彼女の姿を思い出した。
「文香は本を読むときに、本を読もうって気合いを入れる?」
「なぜ、本を読むのに気合いを入れる理由が?」
「そういうこと、私がいいたいのは」
「はあ……?」
「文香は踊りをする時に、まず気合いを入れすぎちゃってるんだと思うの」
「あの、そもそも、本を読むのに気合いを入れる理由が分からないのですが」
本当に理解できないかのように呟いた文香に、私は笑ってしまった。
「それは出来る人のセリフね」
「えっと……」
上手く言い返せたつもりだったのだけど、まだ文香は理解できていないようだ。
これこそまさに、出来る人間の態度だ。
無自覚なのは、ちょっとズルイ。
「同じことなのよ。本当は、気合いを入れる必要はない。ただ読めばいいし、ただ踊ればいいの」
私は席を立つと、少し離れたところでレッスンでやった初歩的なステップを踏んだ。なにも考えずに、鼻歌でも歌う様に。
「さあ、文香。次は貴方よ」
「え……ここでですか?」
「なに驚いてるの。アイドルになったら、もっと色んなところで歌や踊りをやるんだよ? 事務所の廊下でそんなんじゃ、どうするの」
「ほら」と、私は手を差し出した。まだいくらか逡巡していたけど、結局観念した。
私が差し出した手を、文香は添えるように握り返してきた。手を引くと、文香も釣られるように立ち上がる。
手を離すと、もしかしたらまた座るんじゃないのだろうか。そんな心配をしてしまうほど、おぼつかないように見えたけど、そんなことはなかった。
ちゃんと自分の足で文香は立っていた。でも、まだ自信がなさそうで。なにかを訴えかけてくる彼女の瞳を無視して、私はトレーナーさんがやっていたように、手拍子でリズムを刻んだ。
「さあ、文香?」
不満を浮かべながら、逃げ道がない事を悟ったのか。文香は今日レッスンしたダンスの基礎のステップを刻み始めた。
縛っていない長い髪を揺らしながら、長いスカートをふらりと瞬かせ、白い肌は少々赤くなっていた。
そうして刻んだリズムは――お世辞にも褒められたものではなかった。
先ほど、レッスンルームで行ったのよりも酷かった。
本人も自覚があるのだろう。ゆっくりとダンスは減速していくと、やがて立ち止まって、両手で顔を覆った。
「もう、苛めないでください」
「聞き訳が悪いわね。苛めてなんてないわよ」
「楽しそうに見えますけど……」
指の合間から、文香が私を覗き込んできた。
苛めている訳では当然ないが、楽しんでいない訳でもない。それはまた別問題。
しかし、やっぱり動きが硬い。一番の問題は。
私は顔を伏せたまま文香の両肩に手を置くと、ぐっと力を込めた。
「ひゃっ!?」
驚いた文香は肩をすくめたが、そんな抵抗を無視して肩を揉み続けた。
「文香、だいぶ凝ってる。なんとなく予想してたけど。凝るよね、色々と」
「ちょっと……奏さん……?」
「それに、本を読み過ぎ。普段からもっと動いた方がいいわよ」
「ですから一体……痛っ!」
「あら、ごめんなさい」
余りに硬すぎたせいで、強くやり過ぎてしまったようだ。私は力を弱めて、先ほどより優しく肩を揉む。
「奏さん……?」
髪の向こうから、文香が私を見上げてきた。蒼い瞳が微かに潤んでいるようだった。
「リラックスよ、リラックス。腕をダラーンとさせて」
私は揉むのを止めて、肩を緩めるように左右に揺らし始めた。
「えっと、あの」
「トレーナーさんが言ってたでしょ。クラゲになった気分で。クラゲって、どうやって泳いでいるか、文香は知らない?」
「泳ぐのではなく……海流に……身を任せているんです」
「そう言うこと」
私の言いたいことを理解したようだ。ゆっくりと両手をだらりとたらすと、私の起こす振動を受け入れるようになった。
それに合わせるように、肩からもこわばりが抜けていく。表情も、だんだんと穏やかになっていく。
目を閉じて、まるでうたた寝でもしているかのようだった。
そのまま、眠ってしまって私の胸にでも倒れこんでくるんじゃないのか。そんなことを考えてしまう程に。
リラックスは出来たようだけど、ここから踊るとなると、すぐに強張った動きに戻りそうだ。
ちょっとした考えが、私の脳裏に浮かんだ。
気恥ずかしさも覚えるけど、これも文香のためか。
気持ちを切り替えるために、胸の内で数字を数える。
ワン、ツー。
私は肩から腕を通って、文香の手を握った。
その手を、ゆっくりと持ちあげる。
「えっと、あの?」
困惑が浮かんだ表情で、文香は私を見上げてきた。
「大丈夫、私に合わせて。1,2,3、1,2,3……」
私は口でリズムを刻む。
そうして、ゆっくりと前に足を動かしだした。
いわゆる社交ダンスだ。
「ちょっと、奏さん……!?」
文香は予想外だったようで、目を見開く。
「体が硬くなってるよ、文香。さっき言ったでしょ」
「で、でも」
「怖がらないで、私にゆだねて」
私の動きに引っ張られるだけだった文香だったけど、少しして観念した。
肩に入っていた、力が抜けた。
私も、動きやすくなった。まだ足元は覚束ないし、見られたものではない。
それでも、体がから力が抜けて、文香は踊ることが出来ていた。
「1,2,3、1,2,3……」
私は口で、リズムを刻み続ける。
雨の都会の中、二人っきりのダンスルームは、中々に悪くなかった。
私はゆっくりと踊る速度を落として、やがて止まる。
文香から、手を離した。
「ほら、文香も綺麗に踊れるでしょ?」
「奏さんのリードがお上手だからです」
「嬉しいこと言ってくれるわね。私もチャレンジした甲斐、有ったみたい」
「……もしかして、奏さんもああいう踊りは初めてなんですか?」
「生憎、ミュージカルは見る専門だから。だから、観客がいなくて良かったわ、本当に」
もし客観的に私達をみていたのなら、ミュージカル映画というより、滑稽なコメディだっただろう。それこそ、あまりの酷さに私の体が強張ってしまう位。でも幸いにして、私達の踊りは誰にも見られていない。
見られていないなら、取り繕わなくて済むから、楽だ。
「どう、リラックスして踊れたでしょ?」
「ええ、なんとなくですけど……」
「それなら、もう一回やってみて」
文香は戸惑いながら、私の手を握ろうとしてくる。
「社交ダンスはもうおしまい」
「あ……」
カッと顔が赤くなった文香。クスクスと笑ってから、私はテーブルに座った。
今度はあくまで、観客として。
「ほら、やってみて」
「……はい」
胸に手を置きながら文香は小さく息をつく。まだ、少し緊張してる。
注意しようと思ったけど、必要はなかった。文香はもう一度息をついた。深く、自分を落ち着かせるように。
そうして、ステップを踏み出した。
ステップは力が抜けていたが、やっぱり上手いとは言えない。力を抜いてやるからこそ、体の動かし方に戸惑っているのも分かった。
それでも、今までより自然に踊れていた。
私は拍手をしようとして、別の人に役目を取られた。
背後からの拍手の音に、私は顔を向ける。
パンツスーツ姿の女性。
プロデューサーだった。
「お見事、やれば出来るじゃん文香」
「プ、プロデューサーさん……」
文香は恥ずかしさがぶり返してきたのか、顔が真っ赤になった。
私は体を捻らせて、背もたれに肘をついて伺う様に頭を屈めた。
「覗き見? 良い趣味とは言えないんじゃない、プロデューサー?」
「アタシはプロデューサーなんだから。見る権利はあるでしょ」
「どうかしら、優待券を持ってないなら、窓口でチケットを買って」
「モギリがいるようには見えないけど?」
私が手を差し出す。キョトンとしたプロデューサーだったけど、短く笑った。
「今度からネットで予約しとく」
うんざりした様子のプロデューサーに、私はにっこり笑顔を作った。
プロデューサーは仕事以外の話をあまりしたがらない。興味が無い……というより、苦手という感じだ。
そんなプロデューサーだから、私もついからかってしまう。
「冗談はもういい? これからのスケジュールについてなんだけど」
「ええ」
そもそも私たちが残っていたのは、プロデューサーからその話があるからだ。メールなんかでも済みそうだけど、会って説明するのが彼女の主義。
雑談は得意じゃないけど、それぞれの仕事に対しては親身に応じる。そう言う意味では古風な人だった。
プロデューサーはまずは私に書類を渡して、次に文香に。
でもプロデューサーは文香に渡すのを、少し躊躇した。
「あの、プロデューサーさん?」
「……いえ。ごめんなさい」
謝りながら、改めて文香に渡す。
「どうかしましたか、プロデューサーさん」
「……一応、来月までの予定が書かれているけど……もしかしたら、少し変わるかも」
「それは……?」
「もうちょっと、色々早めてもいいかもってこと」
「えっ」
文香は驚きに、前髪の奥の瞳が大きく膨らんでいた。
私が指導した甲斐は、あったようだ。
私はそんな二人を横目に、書類に目を通す。これからのスケジュールや予定が簡素にまとめられていた。
基本的に『レッスン』の繰り返し。『ボイスレッスン』『ダンスレッスン』『ビジュアルレッスン』。
変わり映えのしない言葉が続いていたけど、最後の項目に『打ち合わせ(未定)』という文字があって、私はドキリとした。
「プロデューサー、この打ち合わせって」
「え、ああ。デビューシングルの打ち合わせ」
「奏さんが、デビューですか?」
パッと文香の表情が明るくなる。自分の事を知らされた時より喜んでいるみたいで、私にはおかしかった。
「んー、まあ」
でもなんだか、プロデューサーは素気なかった。喜ばないのは、自分の立場を考えて敢えて感情を出さないようにしているのか。
正直、つまらなかったけど、そのかわり、文香が喜んでくれたからプラスマイナスは0、と考えていいだろう。
「凄いです、奏さん」
「ありがとう。でも、文香もきっとすぐよ」
「いえ……私なんてまだまだで」
「それは文香次第だよ。今みたいにしっかり出来るなら、奏と同時期デビューだって夢じゃないかも」
プロデューサーは御世辞をいうタイプではない。素っ気ない口ぶりは、返って真実味が増していた。
「そんな……私が、デビューだなんて」
「あら、何の為にこの事務所に来てるのか忘れたの? アイドル候補生さん」
「それは……」
「奏の言うとおりだよ。アタシがスカウトしたんだから、胸を張って。貴方は立派な、アイドルの原石なんだから」
素っ気ない癖に、うちのプロデューサーは妙に自信がある人だった。
文香と事務所を出た時には、周囲は夜が強くなっていた。
ギラギラとした都会のネオンはいよいよ鋭くなって、綺麗を飛び越えてチープなCG加工のようだった。
薄い雨は続いていて、二人で傘をさして夜の街を歩き出す。昼ごろよりも、気温が下がっている。
少し、肌寒かった。
「ホントに、凄いです。奏さん」
冷えた空気に暖かな文香の音がこぼれて、私の耳に届く。
文香の声は、優しい木漏れ日のような響きがある。
「もう、デビューだなんて」
「そうかしら。アイドルとして売り出したい旬を考えたら、遅いぐらいじゃない?」
「そう言う話になると、奏さんより年上の私は……」
そうだった。当たり前に隣にいてくれるから忘れがちだけど、文香の方が2つ年上だった。
「勘違いしないで。その人の年齢そのものは問題じゃなくて。その人が輝いて見える瞬間のこと。私はそれが、たまたま文香より早い時期に来ただけだから」
「それは奏さんが魅力的だからです」
その言葉の裏には、小さなとげがあった。
でもそれは、私に向けられたものではなく、文香自身へのとげだった。
「でも、作家でも色々な人がいるでしょ? 若くしてデビューした人や、逆に年老いてからデビューした人」
私は自分の拙い知識で、それぞれの例を挙げてみる。
「彼らの書く作品には、優劣なんて存在する?」
「そんな訳がありません。どちらも素晴らしい作家です。確かに活躍した年代や方向性は違いますが……優劣なんてとても」
「そういうこと。ただ、しかるべき魅力が発見される瞬間は人によって違って、私は今で、文香も今。年齢は関係ないの。それで、たまたま私の方が先にデビューできるかもしれないってだけ」
「私と文香、どっちが魅力的とか、そういう問題を考える方が馬鹿らしくない?」
「そりゃあ人によって、好みに差はあるけど」と、私は軽く肩をすくめた。
「そう……かもしれません」
口ではそう言うが、余り納得している感じではない。いまいち自信がないようで。
仕方がない。
私は笑みを作った。
「それに、貴方が魅力的だって言う私とこうやって一緒にアイドルのレッスンが出来ているってことは、貴方も魅力的ってことでしょ?」
「そんな……私なんて……」
「謙遜は文香の美徳だけど、もっと自信を持ってもいいと思うけど。文香が自分をその程度だなんて言うなら、私もその程度になっちゃう」
「そんなことありません。奏さんは」
「なら、文香もそんなことないわ。だって私は、文香は私と同じくらい魅力的だって思っているんだから」
キザなセリフ。自分で口にしておいて内心苦笑してしまう。
でも、文香にはそれ位言った方がきっと効果があるだろう。大きくなった文香の瞳孔が、私の考えを肯定してくれていた。
すぐに答えてくれればいいのに、文香はうつむいたまま歩き出した。
長い髪と薄い雨がカーテンとなって、文香の表情は伺えなかった。
そのまま、無言で私たちは歩いていく。
帰り道にありがちな、小さな沈黙。
気まずさもあったけど、どうしてか私は心地も良かった。
もし永遠にこの瞬間が続くのならば、私は喜んで雨の中を歩き続けるだろう。
なんてね。
「そう……ですよね……」
雨粒の向こうに響いた音色は余りにも静かで、街の喧騒に流されてつかみ損ねるところだった。
「皆さんが……私を信じてくれて……いるのですよね。それなら……私も信じてみるべき……なのかもしれません」
とつとつと語った言葉は、前に進もうとしている人の言葉で。
でも、まだどこか不安げで。
「ええ、そうよ」
だから私は、肯定した。自分が思っていたより声が大きくなっていた。
「貴方ならできる、必ずね」
「そしたら……奏さんと一緒に……デビューも出来るんですかね」
「私と?」
「奏さんの……ご迷惑じゃなければ……ですけど」
なにを言っているのか、迷惑になんて思うはずがないのに。
「ええ、もちろん。文香が頑張れば、きっとできるわ。私も……文香と一緒にデビュー出来たら、嬉しいもの」
それは、心からの言葉だった。
文香は、上手くなるのは万里の道だなんて言葉を使った。
でもそれは大げさだった。
いや、それどころか千里の道ですら、誇大広告になってしまう。
文香はあの日から、確実になにかが変わったようだった。最初の1週間ほどは苦戦に苦戦を強いられていたのが傍目からも分かったが、どこかでコツをつかんだようだ。
それからは、目を瞠るほど文香は上達していって、トレーナーさんやプロデューサーさんが驚く程。
もちろん、文香だけではない。
私だって、文香に負けない勢いで、上達を続けていった。
そして。
ひりひりと肌に刺さるような暑さの日だった。
いつものように事務所に来て、エレベーターホールで待っていると、掲示エリアに貼られたポスターに気付いた。
私のポスターだった。
その三つ隣には、文香のポスターも。
気づけば、私達はアイドルとしてデビューしていた。
文香は努力が認められ、プロデューサーさんが公言していた通りにデビューが早まり、私と同時期となった。
仕事も、ポツポツとだけど貰うようになっていた。
ポスターの中の私は笑みを――カメラマンさんや、プロデューサーさんが妖艶だと評した笑みを――浮かべて、気取ったポーズをとっていた。
そんな姿は悪くなくて、同時に何処か滑稽だった。
「あっ、カナデちゃんニーハオ~」
朗らかでなんだか間の抜けた声に顔を向けると、金髪の女性が小動物のような笑みを浮かべていた。
フレちゃん――フレデリカだった。
「フレちゃん、その挨拶でいいの?」
「えー? 時代はワールドワイドだよー」
「じゃなくて。一応フランス人のハーフなんでしょ? その挨拶は中国じゃないかしら」
「そっかー、アイドルだもんねー。キャラって大事か」
「ええ、私達みたいに、デビューしたてだと特にね」
フレちゃんは私や文香と同時期にデビューした子の一人だった。
他にも友紀と仁奈ちゃんの計5人が同時期にデビューしていた。
「カナデちゃん、グーテンモーゲン!」
「それはドイツ」
そういうマイペースで自由な所が、フレちゃんのキャラといえた。
エレベーターがやってきて、フレちゃんと一緒に乗り込んだ。
同時期にデビューしたことも有り、仕事で一緒になることも多かった。でも、今度の仕事はフレちゃんと一緒ではなかったと説明されていたけど。
話を聞いたところ、フレちゃんはレッスンだった。
「聞いてよカナデちゃんー。この前司会の人にさー、喋ってなかったらもっと素敵とか言われちゃってさー。酷くない?」
「ええ、ホント。フレちゃんは喋ってこそなのに」
「さっすがカナデちゃん。フレちゃんの魅力分かってるー。お礼にハイ、飴ちゃんあげる」
「これ、チョコレートだけどね」
「細かいこと気にしなーい。口に入れて食べられるんだから、同じ同じ」
「その範囲だと、殆どの食べ物は同じになるわよ」
「ガムだけは別だからね。飲みこんじゃ駄目だよ、カナデちゃん」
「はいはい」
クスクスと笑っていたフレちゃんは、目線を私の手元に向けた。
「カナデちゃん、それって?」
「ああ、借りてるの。文庫本」
「どれどれ……これは、ふむふむー……難しそうな本ですなあ」
「児童文学だけど、これ」
読んだことがあるかは置いておいて、きっと誰もが一度は名前を耳にしたことがある古典的名作だった。
「あ、ホントだ。フレデリカも読んだことあるよー。素敵だよね、憧れたなー、この島に」
「へえ、フレちゃんが?」
「あ、カナデちゃんアタシのこと疑ったでしょー。こーみえてアタシ、文学少女だったんだから」
「ホント? 初耳ね。どんな本が好きだったの」
「やっぱりあれだよ。女の子が変身して戦う魔法少女の」
「アニメじゃない? それって」
「そうだよ?」
確か、文学少女の話をしていたはずだけど。
「私、実はこの本読んだことなかったの。子供向けイメージも強いし、読む気もなかったんだけど」
「それなのにどーして読んでるの?」
「今のことを言ったら、文香に押し付けられたの」
「ああ、フミカちゃんにね」
フレちゃんも、合点がいったようだ。
「流石、アタシと同じ文学少女だね」
「その設定、まだ続いてるんだ」
部屋につくと、そこには噂の元文学少女である文香の姿があった。
文香はいつものようにソファーで本に目を落としていた。
それだけでなく、もう一人、正真正銘の少女も一緒に。
「あ、奏おねーちゃんとフレデリカおねーちゃん!」
市原仁奈ちゃんだ。まだ小学生で、着ぐるみを着てなにかになりきるのが得意な子。
以前、文香は私より年上であることに気が引けていたけど、仁奈ちゃんのことを考えれば私ですらかなりのお姉さんになってしまう。
そんな仁奈ちゃんは、ソファーに横になりながら文香に膝枕されていた。
「あれれーどうしたのニナちゃん? お眠なの?」
ぴょんと近づいたフレちゃんが、仁奈ちゃんの顔を覗き込む。
「ちげーです! 仁奈は猫の気持ちになってるんですよ!」
「ニナ猫ってこと?」
「そうですよ!」
「どうして猫になんかなってるの?」
私の問いに答えたのは、文香だった。
「これです」
と、文香は読んでいた本の表紙をこちらにみせてくる。
タイトルは聞いたことがある程度。本よりも、その著者の名の方が誰もが知っているような歴史的な作家だ。その作者の中でも有名な著書といえば。
「吾輩は猫でごぜーます!」
「なるほど。だから仁奈ちゃんは猫になって、文香の膝に乗ってた訳ね。文香、本に夢中で仁奈ちゃんをおざなりにしたのかしら?」
「いえ、そんな……! 仁奈ちゃんが来て本を読むのをやめました。けど……話の流れで猫になられてしまったので。どうせならと私も本の続きに戻ったのです」
「あーわかる。猫といえば読書だよねー。猫飼ってないけど」
相変わらず適当なことを言いながらフレちゃんがうなずいていた。悔しいが私も同意だ。猫と読書はよく似合う。文香ならなおさら。
仁奈ちゃんをおざなりにしていたというわけでもなさそうだ。今だって無意識か、仁奈ちゃんの頭を文香は撫でていた。
「しかしあれだねー、奇跡みたいに同期のみんなが揃ってるねー。あとはユッキーだけなんだけどー……」
同期のもう一人はユッキーこと姫川友紀。野球とお酒が好きな元気な人で、同期組では最年長の二十歳だった。
「そういって~実は~?」
思わせぶりにフレちゃんが入り口に目を向けたが、当然、そう都合よくやってくることはなく。
「なんで来ないの? どーしてだよカナデちゃん!」
「友紀とは待ち合わせ、してないからね」
「あ、そっか」
納得したように、ポンとフレちゃんは手を打った。
「ではユッキーの代わりに、ニナちゃん。ユッキーの気持ちしるぶぷれ~?」
「なんで二、三塁からゲッツーなんだよ~!?」
かわいい猫だった仁奈ちゃんは、途端に猫の球団のファンに様変わりしていた。
ぽんぽんと、文香の膝を叩きながら――もちろん、とても優しくだ――オンオンと泣いていた。
そういえば、仁奈ちゃんは最近友紀の家に別の子と一緒に泊まったと言っていた。たぶん、その時の実際に目撃した光景なのだろう。本当に何をやってるのか。私は心の中で小さく息をついた。
友紀はとてもいい人だけど、ちょっと……だらしない、色々と。
だけど不思議と、そういうところも許せてしまう。
自然体でいるのが似合う人なのだ。私とは大違い。
自然体といえば、文香も。
最近、文香が事務所で他の子と話す姿をよく見かけるようになった。きっかけは一緒にデビューした同期のおかげ。今まで存在していた微妙な距離は、同期という言葉によって容易く縮まった。フレちゃんはそうだし、友紀や仁奈ちゃんも。
一度破られた幕は、その穴を中心に広がっていき、その他の子との交流も広がっていっていた。
そのお陰か、文香も前よりも周りに柔らかな表情を見せることが多くなった。
そのことは、素直に嬉しかった。
「ほらほら、ユッキー……じゃなくてニナちゃん。そろそろレッスンだよー」
「もーそんな時間でやがるんですか?」
「そだよー。ほら、フミカちゃんからお離れになりなー。いつまでもニナちゃんが猫してると、フミカちゃんも猫になっちゃうよー」
なんでそうなるの? 突飛なことを言われて、文香も目を丸くしていた。
「ね、猫に……??」
「なりやがるんですか、猫に?」
「……にゃー」
手で耳を作るわけでもなく、文香はその場で小さく鳴いた。やってから、恥ずかしくなったらしい、だんだんと頬が赤くなっていった。
「猫おねーさんです!」
「忘れてください……今のは」
本でブロックしながら顔をうつむけている。そんなに恥ずかしいならならなきゃいいのに。いや、まあやってくれてよかったけど。
「忘れないよねー、可愛かったもん、ねっ、奏ちゃん」
「ええそうね。とってもかわいかった」
「うぅ……」
私たちがうなずきあうと、文香はますます顔を隠していった。
口の中に広がった冷たい苦みに、私は眉間に皺を寄せたけど、何でもないようにカップを傾け続けた。
向かいでは、同じコーヒーを文香が飲んでいたから。
事務所の面した通りにある、喫茶店だった。
古いビルの二階。表に出ている電光看板はすっかり色あせ、雑多な街にある寂れた景色の一つだった。
無機質な灰色に染められたビルの階段を上がって、狭い通路を進んでいくと、外の看板と、同じ色合いの看板が出迎えてくれる。
中に入ると、体を包み込むのは古めかしい喫茶店の雰囲気と、鮮烈なコーヒーの香り。
落ち着いた大人の雰囲気の喫茶店だった。
古めかしいけど、汚いわけではない。しっかりと掃除が行き届いている。
物を大事に扱うからこそ、そこから発せられる店の年輪に、自然と姿勢は伸びた。使い込まれたテーブルに運ばれてきたアイスコーヒーも、店の歴史が刻まれているかのように、深く、苦い。
でも、ここまで苦いなんて、ちょっと予想外だった。
同じものを飲んでいるのに、文香はホッとした表情を浮かべている。
文香は、この店が似合っていた。
私はどうかな。みんなからは大人っぽいといわれるけど、このお店には、あっていないかも。そんなことを思った。
事務所でプロデューサーから話を聞いた後、文香に誘われこの店にやってきていた。
「文香、ここにはよく来るの?」
「ええ……事務所に通いだしてから、何度かは」
「よくこんな場所を、見つけたわね」
「叔父さんから教えてもらったんです。こっちに来るときは、よく立ち寄ると」
「叔父さんって、古本屋を営んでる?」
「ええ」と、文香は小さくうなずいた。文香の叔父さんは古本屋をやっていて、文香が本を好きになるきっかけの一つだったらしい。よく手伝いをしにいっては、本を読みふけっていたのだという。アイドルとなった今でも、たまに店先に立つことがあるということだ。
確かに、この店の雰囲気は、電子機器よりも本の方がとてもよく似合う。
「練習でうまくいかないことがあった日などは……すぐに帰りたくなかったので。よくここで本を読んでいました……」
「あら、そうだったんだ」
そういえば、レッスン終わり、文香はたまに、ふらりと駅とは違う方向に向かうことがあったけど。その先は、この喫茶店だったようだ。
「私も誘ってくれればよかったのに」
「それは……すいません……」
「謝らなくてもいいから。一人で本を読む時間も大事だもんね」
人間、一人になる時間は必要だ。きっと私や文香のような人にとっては、なおさら。
「でも、教えてもらったからには、私もここに来ちゃうけど、いいの?」
「奏さんがですか?」
「ええ。とっても素敵な場所なんだもの」
「それは、よかったです。奏さんにも、気に入ってもらえて」
甘い笑みを文香は浮かべた。
なるほど、そう来たか。そう返されれば私はお手上げだ。
「私こそ、素敵な場所を教えてくれてありがとう。嬉しいわ」
改めて、私は言った。
「でも、ホントに嬉しいです」
コーヒーを飲みながら、何でもない会話をしているときに文香が言った。
「私がここを気に入ったことが?」
「えっ? いえ、それもそうですけど……お仕事が」
あの後フレちゃんと仁奈ちゃんの二人と別れた後、プロデューサーに呼ばれて向かうと、そこで二人だけの仕事について述べられた。深夜にやっているテレビ歌番組だ。
それに、文香と出ることになった。
「奏さんと、同じ番組に出れるなんて」
「今までだって同じ番組に出ていたじゃない」
同期の五人はよく一緒に番組に呼ばれることがあった。それ以外でも、帯のラジオ番組にある小さなコーナーの月間パーソナリティとして、五人で代わる代わる出たことも。
「そうですけど……やっぱり二人だけで呼ばれたのが……嬉しくて」
呼ばれた深夜番組には、うちの会社のアイドルがよく出演させてもらっていた。まとめてアイドルデビューさせるなかで、一人か二人、毎回選ばれて呼んでもらっていた。
深夜の落ち着いた雰囲気の番組だから、私たちがちょうどよかったのだろう。
「ああ、別に……ほかの人と一緒が嫌とかでないですよ……?」
「わかってる、それぐらい」
さっきの事務所での光景を見て、そんなことを思うわけがない。
私はワザとらしいため息をついた。
「まったく、あの文香があそこまで変わるなんてね」
「そう……ですか?」
「ええ、最初は他人になんて興味がないって位、本に集中していたのに」
文香は頬が赤くなった。室内は冷房が効いて、涼しいというのに。
「それは……忘れてください」
「どうして。褒めてるんだよ、あのころからしたら、文香、すごく成長してる。まるで赤毛の女の子を見守る気分。あっという間に大人になってって」
パッと、文香の表情が明るくなる。
「私のお貸しした本、読んでくれているのですか?」
「ええ、もう少し」
私はカバンから読みかけの本を取り出した。しおりが刺さっているのは、終わりの方。今日中には読み終わるだろう。
「どうでした、その本」
「予想外、というところかしら。こんなに読みやすくて、面白いなんて。この原作、出版はかなり前でしょ」
「今から百年以上前ですね……孤児で居場所がなかった少女が島にやってきて、その天真爛漫さをいかんなく発揮させて愛されて……最後には大人の女性になる。シリーズはたくさんありますが、第一作目で十分に彼女の魅力があふれ出しています」
「一作目が名作だからこそ、続くものだからね」
映画でも、思い当たるものはいくつもある。どれほど派生や続編がでても、一番輝いているのは一作目であることは多い。
「文香の成長が早すぎるせいで、心臓発作で倒れてしまいそう」
「心臓発作になったのは……別の理由ですが……」
「そうだったわね」
「……でも、もし心臓発作をするとしても、それは私をだます嘘にしてください。巻き上げられるほどの……お金は持っていませんが……」
その言葉に、今度は私がパッと表情が明るくなった。
「文香こそ、観たの。私がおすすめした映画」
いつかの雨の日、二人でダンスを踊った後のことだった。
『奏さん……ミュージカル映画、お好きなんですか?』
『というより、映画全般が好き。言ってなかったっけ?』
こくりと、文香は頷いた。
『もちろん、ミュージカルも大好きだけど』
私は、とっさに思いついた映画のタイトルを述べた。
『それは……ずいぶん古い映画がお好きなのですね』
口にしてから、しまった、と少し思ってしまった。述べたミュージカルは、本当に古い映画だった。ロミオとジュリエットを現代に置き換えた作品。
恋愛映画は苦手だけど、ミュージカルになるとどうしてか自然とみることができた。
でも、いつもだったらもっと新しい映画を挙げていたのに。きっと、文香が読んでいた、古いハードカバーのせいだ。
『映画はあまり詳しくないのですが……おすすめの映画などはありますか?』
訪ねてきた文香に、私はいくつかの映画を挙げた。その中に、その映画はあった。
ある詐欺師が、謝ってギャングの金を盗んでしまった結果、恩師を殺されてしまう。その復讐のために伝説的な詐欺師の元に向かい……というお話。
これもかなり前の作品だ。
好きな映画だけど、普通、おすすめを聞かれたらその映画を上げることはない。もっと最近の、観やすい映画を上げるようにしていた。
でも、文香ならと思って、私はその映画の名前を挙げていた。
「とても……面白い物語でした。テンポが良くて、あの曲も素敵です」
「でしょ。モダンって言葉がぴったりな映画なの。主人公の二人も――この二人とも、名優でね――すごく素敵だし。どんな展開になるのか、初めて観たときはドキドキしちゃった」
「私もです。あの原作からあのような物語が生まれるなんて、驚きでした」
「文香、原作も読んだの?」
「はい。ソフトは古本屋をやってる叔父に借りたんです。仕事柄、映画関係にも多少詳しいので。それで、映画を借りるときに、一緒に原作の方も。映画を観た後に読んでみると面白いと」
「仕事柄って、古本屋と映画って繋がりなんてあるの?」
「古本屋には古い映画のパンフレットや、ソフトを取り扱っているところもありますから。もちろん、本人の趣味もあると思いますが」
ソフトの方はともかく、パンフレットとは。それは盲点だった。あまり古本屋には縁はなかったけど、今度行ってみるのも面白いかもしれない。
「それで、原作を読んだ感想は?」
「原作といっても、その当時の詐欺の手口を説明している本なのですが……あの中で描かれていたトリックやキャラクターを、映画にするときはこうやって形にするんだと思うと、手腕には脱帽です」
喜々とした様子で、文香は語った。
原作の方は私も存在自体は知っていたが、手が出せてはいなかった。
「……よろしければ、お貸ししましょうか?」
「いいの?」
「はい……叔父に聞かなければ……いけませんが」
「貸してもらえるなら、そうね。ぜひ」
実際、手が出せないでいた理由の一つは、古い本でちょっとプレミアがついていたから。
手を出せないほどではないけど、高校生が無理して買うかと言われれば。それでも、貸してもらえるのならば、話は別だ。
私は喜んで、文香の提案を受け入れた。
喫茶店の入ったビルを出ると、むせかえるような都会が私たちを出迎えた。クラシックなお伽の世界から抜け出して、現実に戻ってきたわけだ。
私たちは駅まで歩いて、そこでお別れだった。
「それでは……奏さん」
「ええ、また明日」
そのまま改札に消えていく文香を見送っていたけど、私はちょっとしたことを思いついて、声を上げた。
「文香」
人ごみの中、文香が私の方に振り返った。
私は人差し指で、鼻の頭を軽く触った。
文香も観たという映画の中で、仲間であることを知らせる合図だ。
はっとした表情を作った文香は、同じように、人差し指で鼻を軽く触って見せて、笑みを浮かべた。
私も、なんだかおかしくなって笑みを返した。
それから、その合図は私たちの秘密のあいさつになった。
別れ際や、誰かと一緒にいるとき、なんとなく目が合った時に意味もなく。
友紀に見つかって、その意味を問い詰められたけど、ちょっとしたサインというと妙に納得していた(野球にもそういうサインがあるとか、教えてもらった)。
深い理由はない、ちょっとした戯れだった。
そして、文香と私がテレビの収録を行う日になった。
収録そのものは、順調だった。
司会のベテランのタレントさんも新人アイドルの扱いには慣れていた。私たち二人をうまく回しながら、現場を盛り上げてくれた。
私の方も、特にミスというミスはなかったと、自負があった。変なことをいうこともなかったし、受け答えもすんなりすることができた。
なにも問題はなかった。
だけど、撮影の最中だった。
現場には当然プロデューサーも来ていた。
私が話し終わった直後、プロデューサーの顔を見たが、一瞬渋い顔をしていたように見えた。司会の人がすぐさま会話を返してきたので、取り繕って返事を返した後に、また伺ってみると、プロデューサーの表情は元通りになっていた。
気のせいだったのだろうかと思って、その時はそれ以上心に留めなかった。
「お疲れさまでした」
タレントの方やスタッフの皆さんに挨拶をしてから、プロデューサーの元に戻ってきた。
「お疲れ、二人とも。上出来だったよ」
「ありがとう……ございます」
ホッした表情を浮かべていた文香。撮影中は特に変わったところはなかったのに、やはりかなり緊張していたようだ。そんな文香を落ち着かせるようにプロデューサーは笑った。
「とっても良かった。文香らしくて」
「私はどうだった?」
きっと、同じような調子で褒めてくれるのだろう。
頑張ったのだし、労いの一つ位かけてくれるかと思ったけど。
「ああ……」と、小さな間を作った。
「もちろんだよ、よかった。奏らしくて」
プロデューサーの作った小さな間。
私はそれが引っかかったけど、疲れていたし考えすぎだと思った。
だから深く考えないで、私は無邪気なふりをしてうなずいた。
その日、事務所についたのは、いつもより遅い時間だった。
学校終わり、そのあとにもラジオに出演していた。
本当ならそれで終わりだったのだけど、ラジオが終わった控え室。スマホを確認すると、そこにプロデューサーから連絡があった。
会って伝えたい話があるから、明日空いている時間はないかと。
プロデューサーは、今事務所に居るという。
私は、今すぐ事務所に向かうといった。プロデューサーが話したいことについては、大方の予想ができたから。
今度、事務所で大きなライブをやる。アイドル同士では、自然と噂にもなっていた。今年はどこで、誰が出演するのか。
このタイミングで会って話したい仕事とは、恐らくそれのことだろう。
別に素っ気ない風に装っていたが、実際は自分でも驚くほど胸が高鳴っていた。
タクシーを捕まえて事務所まで向かう途中、スマホを取り出した。
そういえば、文香は今日は遅くまでレッスンをしていたはずだ。文香と合流できるかもしれない。
私は連絡をしようと思ったが、やめておいた。もしかしたら、文香はもう帰っているかもしれないし、偶然会うのも面白いものだ。もし会えなくても、電話で話せばいい。
事務所についた時には、あたりはすっかり暗くなっていた。
とても天気がいい日だった。雲一つない中、蒼い闇夜を月が街の明かりに負けないほど蠱惑的な輝きを放っていた。
エレベーターでプロデューサーが待つ階につく。部屋に向かう前に、反対側の通路の向こうに、文香の姿が見えた。
いつか、私と文香がダンスを踊った休憩所だ。
私は声をかけようと思ったが、文香の様子がおかしいことに気づいた。
顔をうつむけているせいで長い髪に隠れて文香の表情を見ることはできなかった。フロアに誰かが来たことも気づいていないかのようだ。
話をしたかったけど、プロデューサーを待たせていた。
私のわがままで今日にしてもらったのだ。文香のことが気にかかりながらも、私はプロデューサーの元へ急いだ。
部屋をノックしてから、覗き込む。
「プロデューサー?」
てっきりプロデューサーは仕事でもしているかと思ったけど、扉に背を向けて立ったまま、マグカップを手にしていた。プロデューサーはコーヒーを飲まない。中身はきっと、甘いココアだ。
「ああ、奏。お疲れ。悪いね、仕事終わりに来てもらって」
「別に、大した手間じゃないわよ。それで要件って」
「これだよ」
プロデューサーは机の上に出してあった書類を私に差し出してきた。表紙には、今度やるライブのタイトル。やっぱりそうだ。予想していた通りの話だった。
「今度のライブに奏、君も出てもらうから、よろしく」
「ふうん、そっ」
「驚きはしないんだ」
「なに、プロデューサー。私に小躍りでもしてほしい?」
私の態度がつまらなかったようだが、それは私も同じ気持ちだ。これを渡すとき、プロデューサーはもったいぶる様子もなく、素っ気なく渡しすぎじゃないか。
それも、深く追求したいところだが、今日は勘弁しておいてあげよう。何もかもが許せるぐらいの効力が、私の手の中の書類にはあった。
私は書類をめくっていく。付箋が張られた場所があって、そこが特に私の関係しているところのようだ。
いくつかの付箋があって、赤い付箋は、出演スケジュールだった。
私が出る日に、目を通していく。
強い喜びは、だんだんと失望の色へと切り替わっていった。
「……なにか質問は?」
私は顔を上げた。プロデューサーは、ジッと私をうかがっていた。その言葉は、質問があるのだと、分かったうえで聞いてきているようだった。
覚えた苛立ちを、私は笑顔で包み隠した。
「ないわ、別に」
すっと、プロデューサーは目を細めた。私の態度に不満があるかのようで。でも、何かを言おうとするわけでもなかった。そっちが言う気がないなら、こっちが言う理由もない。そうでしょ?
結局プロデューサーは、「そう」とただ返事をしただけだった。
用事はすんだ。これ以上ここにいる理由もない。態々寄らなくてもよかったか。徒労とまでは言わないけど。
「それじゃあ、プロデューサー。また」
さっさと部屋を出ていこうとしたとき、誰かが部屋をノックした。
「失礼します」
入ってきたのは、文香だった。いつもなら、木漏れ日のような穏やかで暖かな声が、今日は陰っていた。
「プロデューサーさん……お話が……」
顔を上げた文香は、私の顔を見てハッと息をのんだ。私が来ていることに、やっぱり気づいていなかったようだ。
「話って、なにかな?」
「それは……」
文香はチラチラと私の方を見てきた。どうやら、私には聞かれたくない類の話らしい。ちょうどいい。私も早く帰りたいのだし、さっさと退出すれば――
「奏のことかな?」
プロデューサーの言葉に、私は足を止めた。私が、なんだっていうの?
私が振り返ったのと同じタイミングで、文香も振り返った。
その瞳は憂いに揺れていたが、キュッと口元を結ぶと、文香はプロデューサーに言った。
「私……納得できません。どうして……奏さんは歌わないんですか?」
「その言葉には、語弊を感じるな。奏だって出番はある。そうでしょ、奏」
「……ええ、そうね」
だからこそ、私だってこの書類を受けとった。
でも、文香が言いたいのはそういうことではなかった。
「そうではありません。どうして、奏さんはソロを歌わないんですか」
「不満かな?」
「はい」
はっきりと、文香は言い切った。
「私やフレデリカさん、友紀さんや仁奈ちゃんもみんな今回の頂いたソロを歌う機会があります。でも、なんで奏さんだけ、ソロがないんですか?」
「そういわれてもね。本人は気にしていないようだけど?」
背後で固まっていた私に、プロデューサーが投げかけてきた。胸の苛立ちが強くなっていく。抑えようと思っても、語気に感情が漏れ出ていた。
「気にしていないわけじゃないわ。確かに私も気になってた」
「さっき、質問はないって言わなかった」
「あれは……ちょっと驚いてて、質問が頭に浮かばなかっただけ」
実際のところは、少しだけ違う。でも、そんなことをいちいち説明する義理はなかった。
「ほかの子は選ばれてたのに。どうして私は選ばれなかったの?」
「それは……」
「なに、私に言う義務はないってこと? 単なる商品だから、大人しく従っていればいいって?」
「ずいぶんな言いようだね」
プロデューサーは眉間に皺を寄せた。少し、言いすぎてしまったか。落ち着かせるように、短く目をつむった。
「ごめんなさい……謝るわ。失礼が過ぎた」
すぐに言葉を継ぐことはできなかった。自分の中に巻き起こっている感情を抑えるのに必死だった。
「どうして……奏さんは選ばれなかったんですか?」
代わりに質問をしたのは文香だった。プロデューサーは目を伏せた。何かを考えているような様子で。
「選ばれてたさ」
「えっ?」
「選ばれてたよ、奏だって。今回のライブでソロを歌うって」
「それなら……なぜ?」
「断ったんだよ、アタシが」
私と文香は同じタイミングで短い言葉を漏らした。
プロデューサーは気まずそうに視線をそらしたが、それでも、意を決したようにまっすぐと私たちを見つめ返した。
「それで、ほかに質問は?」
「どういうことか教えてもらえる。プロデューサー。貴方が、私のライブ出演を断ったの?」
「そうだよ。上の人はむしろやる気だったよ」
「だけど断った。貴方、プロデューサーなんでしょ」
アイドルにとって、ライブは晴れの舞台の一つだ。
その舞台に自分のアイドルをあげさせないことを選択するなんて。まともなプロデューサーの判断とは思えなかった。
「プロデューサーだから判断したんだよ。今の君を、ソロで舞台に立たせる気はない」
はっきりと、プロデューサーは言った。
みぞうちに重い一撃でも食らったかのように頭がくらくらした。
言葉を発せられないでいる私をしり目に、プロデューサーはつづけた。
「奏はまだ、ソロで立てる実力がないと判断したんだよ」
「それは……おかしいです」
否定を口にしたのは、文香だった。
「奏さんで足りていないなら、私なんてなおさら……」
「そんなことないさ。文香は十分素敵だよ」
「私はそうじゃないって」
「そりゃあ、パフォーマンスは上手いよ奏は。それだけだったら、同期の誰にも負けてない。でも上手いだけなんだよ」
「上手いことのなにが悪いの」
「悪いね。上手いだけなら君である必要はないんだ。ただ上手いだけならごまんといる。でもそれじゃあ意味がない。きっと君は、なんでも上手くできすぎるんだよ」
私の中で怒りの炎が急速に燃えあがって、次の瞬間にはそれは冷気となって体中に浸透していった。
「……それが悪いことなの?」
「それ自体は悪くないことだけど……だから君は、そこで止まっちゃってる。小手先ですましちゃってるんだ。最初は、もしかしたらうまくいくかもしれない。だけど、そんなのはすぐに続かなくなる。人間って、案外みんな感情には敏感なんだよ。君の奏でる音が、張り子にすぎないとバレちゃったら、あっという間に君は見向きもされなくなる」
「B級映画のセリフみたいね。ありきたりで」
「そういうところさ」
「どういうこと?」
「だからつまり……君は周りを見下してるんだ」
私はショックを受けた。
そんな風に思われていたなんて。私の様子に、プロデューサーは慌てたように付け加えた。
「言い方が良くなかった。ごめん。でもそうじゃなくて。君は斜に構えすぎてる。まっすぐ向き合おうとしてるとは思えない。自分がこれ以上力を発揮しなくてもいいって、どこかで考えてない?」
そんなわけがない。私は今すぐにでも書類を投げつけて反論してやりたかった。それなのに、私の心は嫌というほどあっさりとプロデューサーの言葉を受け入れていた。
「……どうかしらね」
それが私にできた、精いっぱいの抵抗だった。
「奏さん……」
心配そうな視線を文香が向けてきた。そんな視線にたまらくなって、私は心の中で数字を数えた。
ワン、ツー。
「……なるほどね」
私は観念したように息をついた。
「ともかく、プロデューサーは私がまだ、一人では舞台に立てる力がないっていうのね?」
「……そうだ」
「プロデューサーがそう判断したなら、仕方ないわね」
「奏さんは……それで……いいのですか?」
不安そうな文香の顔を、今度ははっきりと正面から見て、表情を作った。
「ええ、仕方がないわ。今回はね。それに、ソロはないけど、出番自体はあるんだから。そこでせいぜい輝かせてもらうから」
「それじゃあね」と、言って私はプロデューサーの部屋を出た。
クーラーが効きすぎて冷たい廊下で一人、私は息を整えた。大丈夫、大丈夫。
文香が、部屋を出てきた気配がした。もう一度、心の中で数字を数えて、振り返った。
「ありがとうね、文香」
「えっ?」
「私のためにわざわざプロデューサーに文句を言いに来てくれたんでしょ」
「そんな……ただ、私は納得できなくて……」
「そんなことまでしなくていいのに」
「そうは……行きません」
文香はプロデューサーの説明を聞いたところで、まだ納得はできていないようだ。いや、それどころか聞いたからこそ、なおさらまだなにか思うところがあるようで。
「私もこともいいけど、文香はもっと、自分のことを喜んだらどう。まずはそれが第一だと思うけど」
「そんなことを言われても……」
「私は嬉しいわよ、文香がちゃんと選ばれたこと」
言葉にすると、ちょっと皮肉めいて聞こえてしまうか。でも、それは偽りのない言葉だった。
「自分が落ちたことは……まあ、ショックがないと言えば嘘になるけど。文香が選ばれたことは、私はとても嬉しいから」
私は笑って見せたけど、文香は、複雑そうな表情のままだった。
私たちは並んで、事務所を後にする。いつもは駅に向かうけど、私は逆の方向を指さした。
「私、この後ちょっと用事あるから」
「わかりました……それじゃあ……」
「ええ」
「文香」
「はい?」
「頑張りましょう、お互いに」
「……はい」
返事は、肯定とも、否定ともとれる曖昧なニュアンスだった。
一人街の中を歩きだして、小さく息をついた。
「まあ、こんなものね」
私はつぶやいた。
その音は余りにも脆く、誰かの耳に届くこともなく真夏の雑踏に崩れて、消えていった。
うんざりするほど続く暑さの中でも、日々は過ぎていく。
学業は夏休みに入ったことによってひと段落したけど、レッスンは日々忙しさを増していった。
仕事の方も、幸いにしてそれなりに頂いていた。
ライブも、だんだんと近づいている。確かにソロの楽曲はないとはいえ、全体曲もあるし、それ以外でも。
忙しい日々の中、自分のソロがないことも気にならなくなっていた。
文香とは、あの日を境に少しだけ距離ができた。
仲が悪くなったとか、そいうことではない。レッスンで一緒になることもあるし、そういうときにはよく話す。
ただ、スマホでのメッセージの履歴は、簡単に見返せる程度になっていた。
その日のレッスン終わり。いつもより厳しいレッスンであることに加えて、昨日は一日中ロケの仕事だった。
体は思っていた以上に疲れていて、一人だけ、長くシャワーを体に浴びていた。滴る水滴は心地よく、少しでも自分の英気を養ってくれているように思えた。
一人になった更衣室で、着替えを終えた後に備え付けのベンチで腰を下ろした。とたん、回復したはずの体力が再び減少するのを感じた。
回復していたわけじゃなくて、のぼせて疲れがマヒしていただけか。
すぐに立ち上がる気にはとてもでないがなれなくて、そのまましばらく体を休めてから、更衣室を出て廊下の自販機で飲み物を買った。それから、傍の休憩エリアのベンチに腰掛けた。
やっぱり、思っていたより疲れているようだ。自己管理がなってないなんて、アイドル失格。
窓の外に目を向けると、薄暗さを街が覆っていた。今日は一日中、曇り空だった。
雨は、降っていなかった。
私は誰に見せるわけでもなく、鼻を人差し指で軽く触った。
「どーしたのカナデちゃん、お鼻痒いの?」
気配もなく降ってきた声に、私は驚いて振り返る。立っていたのは、フレちゃんだった。
「もしかして花粉症? 大変だねー、日本脱出する?」
「……ありがたいことに、まだ脱出はしなくて結構よ」
「ホント? でも脱出したくなったらいつでもアタシに言ってね」
「フランスに連れてってくれるの?」
「おすすめのトラベルサイト教えてあげる」
それは脱出ではなくて単なる旅行だ。クスリと笑った私の隣に、フレちゃんは腰かけた。
「あ、お隣いいかな、しるぶぷれ~?」
「ウィ、どうぞ」
「ダンケシェーン」
海外の言葉を使うなら、最後まで統一してほしいものだけど、拘らないのがフレちゃんらしさか。
「フレちゃん、レッスン終わり?」
「アタシはこれからなんだ。ちょっと早く着いちゃったからここで一休みしようと思ってたら、カナデちゃん見つけたから、忍び寄ったの♪」
「次からは忍び寄らないでほしいかな」
「フレデリカでも?」
「フレデリカでも」
「じゃあ仕方ないなー」
「どう、フレちゃん、レッスンの方は?」
「もっちろん、ノープログレム……って言いたいけど。実際はノーノープログレムだよー」
「あら、意外」
「知ってるカナデちゃん、人間って歌いながら踊れるようにできてないんだよ?」
「みんなやってるけど」
「実は……! 彼女たちは人間じゃないんです……!」
「人間じゃないならなんなの」
「……カワウソ?」
カワウソ。
「はっ! 或いはフレちゃんがカワウソなのでは? 衝撃の事実!」
「フレちゃん、川にダムでも作ったことあるの?」
「もーカナデちゃん、それはビーバーだよ?」
「あら、そうだった」
「カナデちゃんの方は……なんだかお疲れ?」
「まあね、昨日は一日中ロケ番組だったし、今日もハードだったから」
「あー、観た観た。北海道の大自然で山登りした奴」
「地方の商店街ロケ。そもそも、生放送じゃないんだから、昨日の今日でテレビに流れないって」
「あれ、そうだっけ?」
おっかしーなーと、フレちゃんは大げさに頭をひねった。
「ロケに言ったら、くたくたで疲れちゃうよねーそりゃ。元気もなくなっちゃうか」
「お陰に最近は忙しいでしょ、今度のライブで」
「だからフレちゃんは苦労中なんですよー」
「そうだったわね、カワウソさん」
「まったくですよ、ビーバーさん」
私、自分のことをビーバーといった記憶はないのだけど。
まあいいか。
都会に迷い込んだ、二頭のげっ歯目。それを想像すると、私は口元が緩んだ。
「ユッキーもニナちゃんも頑張ってるけど、フミカちゃんなんか、特に凄いんだよ?」
「文香が?」
「フミカちゃん、頑張り屋さんなのは知ってるけど、レッスン中の気迫凄いもん。昨日だって居残りでレッスンしてたみたいだし」
初耳だった。そこまで文香が真剣に取り組んでいるなんて。
もちろん、彼女にとっても初めての大舞台だ。全力を出すのは当然のことだろう。
でも、それは周りの子たちだって一緒。フレちゃんだって。そんなフレちゃんから見ても凄いということは、よほどのことなんじゃないか。
「頑張るのもいいけどさー……ちょっと、心配になるなー」
「根を詰めすぎてるってこと?」
「うん、そんな感じー。頑張りたいって気持ちはわかるけど、頑張りすぎると、よくないこともあると思うんだよねー。もっと気楽にいかないと、このフレちゃんみたいにね」
「ええ、そうね」
つぶらな瞳でウィンクをしたフレちゃんに、私は頬を緩ませた。
気楽、と言っているけどフレちゃんだってこう見えてかなり周囲には気を使ってる。もちろん、気楽にやっているのも間違いないし、そんなフレちゃんを否定するのはもっての外だけど……本当に、単に気楽というわけじゃない。しっかりと周りは見えている。
今だって、気を使ったからこそ、そのことを私に話してくれているんだろう。
「カナデちゃんもやっぱりフミカちゃんのこと気になる?」
「まあね」
「だったら会って行けば? 確かフミカちゃん、アタシとレッスン入れ替わりだから、そろそろ終わるんじゃない」
「ホントに?」
「テキトーは言うけど嘘は付きませんよ。フレちゃんは」
何でもないように言ったフレちゃんの顔を、私は思わず覗き込んだ。
「なんだか、フレちゃんの手の平で踊らされてるみたいね」
「カナデちゃん、孫悟空だった?」
「なにを言ってるの、私はビーバーだけど」
「えへ、そうだった」
楽しそうにフレちゃんは笑った。
フレちゃんの言っていた通りだった。
そこで少し待っていると、廊下の向こうのレッスンルームが開いて、何人かのアイドルが出てくる。そこに、文香の姿があった。
私が軽く手を振ってみると、文香はこちらに気付いた。少し速足で、文香は私たちの傍にきた。
「お疲れ様です。フレデリカさん、奏さん」
「お疲れ~フミカちゃん」
「お疲れ様」
「お二人も……レッスン終わりですか」
「ノンノン。フレデリカはこれからなのですよ。ムシューは……あれ、そういえばどうなの奏ちゃん?」
「私は終わったところ。ここでのんびりしてたらフレちゃんと会って、少し話をね」
「色々話しちゃったー。社会情勢とか、地球温暖化とか!」
「お勧めのリップについてじゃなかったかしら」
「似たよーなものだよ」
そんなに似てるとは思えないけど、フレちゃんの中ではそうらしい。フレちゃんがそういうなら、きっとそうなのだろう。
文香は口元に手を添えながらクスリと笑った。
「それはきっと、有意義な話し合いだったんですね」
「さっすがフミカちゃん、分かってる~……っと」
フレちゃんは廊下の向こうに目を戻す。先ほど文香が出てきたスタジオに、別のアイドルの人が入っていった。
いつも一緒の仲良しの三人が和気あいあいと話し合っていたが、フレちゃんに気づいて手を振ってくる。フレちゃんも、笑顔で手を振り返した。
「アタシ、レッスン行かなきゃだから、じゃあね、二人ともー。サヨナラ~」
フレちゃんはさっと立ち上がると、買ったばっかのペットボトルを手に持ってあっというまにスタジオに吸い込まれていった。あのスポーツドリンク、私のなんだけど。
そのことに対する抗議は、あとでメッセージでたっぷりしておこう。
残された文香を私は見上げた。
「ねえ、文香。この後時間ある?」
「ありますが……」
「それなら、どう。お茶していかない?」
文香は、もちろん頷いてくれた。
落ち着いた薄暗い照明の下で、ガラスコップの中の液体は黒く、深く見えた。
壁につけられたカウンター席のスツールに、私と文香は並んで座っていた。
室内は打ちっぱなしのコンクリートの狭い店内。前に文香に案内された喫茶店が都心に取り残された歴史感じるシックな店だとすると、この店はもっと現代的で、ドライだった。
文香は、興味深そうに店内を見渡した。
落ち着いた店内のせいか声も、自然と囁くようになる。
「素敵な店ですね、喫茶店というより、なんだかお酒のお店のようですけど」
確かに作りはバーといわれた方がしっくりくる。でも、香るのは甘いコーヒーの香り。
ここのコーヒーは、少し角の取れたまろやかな味だった。
「前に文香に案内してもらったでしょ。あの後、このあたりの喫茶店を探してみたら、ここが出てきたの」
このコーヒーショップも、事務所からそう遠くはない場所にあった。
路地を入った奥にある小さなビルの地下だった。
「ここ以外にも、色々あるのよね、この辺りって」
「そうだったんですね……知りませんでした」
「もし文香がよかったら、今度喫茶店巡りしてみない?」
「それは……素敵ですね、とても」
「よかった」
気になっているけど、まだ行っていない店はいくつもある。
一人でもいいけど、文香が一緒なら、それもとっても楽しいだろう。
でもそれは、ひとまず脇に置いておいて。
「文香、最近頑張ってるみたいじゃない?」
「えっ?」
「フレちゃんが言ってたよ。文香、とっても頑張ってるって。ライブに向けてのレッスンを」
「……それは」
文香はどうしてか気まずそうに髪の毛に触る。
やはり、文香はまだ、その話題を私の前でしづらいようだ。私は気にしていないのに。
そんな優しさがいじらしく思えて、私は口元を釣り上げた。
「いいじゃない。頑張ってるのは。私だって、ソロがないからって手を抜いてるつもりはないし。ただ、文香がちょっと頑張りすぎてるって話もあるけど」
「……」
文香は答えないで、ストローを加えた。コップを持った手に、結露した水滴が一筋、流れて落ちた。
「頑張りたい気持ちはわかるよ。せっかくのライブだもの。でも、無理をしすぎるのもよくないんじゃないかな」
文香は、すぐに答えなかった。黒く濁ったコップの中に目を落としたまま、長い髪がスダレのように文香の感情を隠していた。
「……そうは、いかないんです」
「どうしてなの?」
「……そうは、いかないからです」
まったくもって答えになっていなかった。
要領を得ない言葉で返すのは、あまり文香らしくない。私は戸惑いながらも、様子をうかがった。
文香は、まだなにかを言う気のようで、両手の指を重ねて動かしながら言葉を編んでいた。
「私は……主役になりたいんです」
「主役に?」
「そうです。煌びやかな、まるで本に書かれた小説の主人公みたいに、なりたいんです。そんなこと、私はずっと無縁だと思っていました。
私は静かに本を読んでいる読者でいいと。様々な素敵な物語を、見ているだけでいいと。でも」
文香は、チラリと私に目を向けた。それも束の間で、また文香はコーヒーに目線を落とした。
その黒い清水の中に、自分の言葉を見つけているかのように。
「私は……図らずもアイドルになれて、物語の向こう側に来ることができたんです。でも、このままでは主役にはなれないです。
主役は、色々な苦労をして、頑張って、主役になれるのですから。私では……もっと頑張らないといけないんです」
とつとつとしながら、どこか熱のこもった口調。そんな文香に、私は内心驚いていた。あの文香が、ここまではっきりと、主役になりたいというなんて。
「すごいな、文香は」
私は、自然とそう言葉にしていた。
「すごくないです、私なんて」
「うんうん。凄いよ、文香はとても。そうやって自分が目指している場所を明確にして、そこに進めるなんて」
私なんて、とても。
文香は、褒められたことは嬉しいとは思わないらしい、どこか表情を暗くしながら、コーヒーを口にした。
中身は気づけばなくなっていて、ズズ、と吸い出す音がした。
少しして、私たちは喫茶店を出た。
「奏さん。見ててくださいね、私の舞台を」
「ええ、楽しみにしてるから」
別れ際、私たちはそう言葉を交わしあった。
少し歩いてから、文香の方を振り返ると、すでに文香は雑踏の中に溶けていなくなっていた。
「すごいな、文香は」
雑踏に残された私は、誰もいなくなった中でつぶやいた。
出会ってから少しなのに、文香はどんどん成長していた。
私なんかとは、大違いだった。
そこは、暗闇だった。
いくつかの光の粒はあっても、それ以外、なにも光はない。
ざわめきの名残が、反響して真夜中の波のように響いていたが、やがてそれも消え去ってしまう。
私は息をのんでリズムを刻む。
ワン・ツー。
大きく息を吸い込み、音がうなりだす。
たくさんのアイドルの声が重なって、歓声が上がって、そしてスポットライトが私たちのいる舞台を照らす。
ライブの始まりの、全員曲だった。
まるでサウナから出てきたかのようなほてりを覚えながら、舞台袖に下がる。
目の前で煌めいたペンライトのきらめきが、今でも残像として網膜にはりついているみたいだった。
ライブに出るのは初めてではない。
これまでも、何度かライブを行っていた。でもそれらとは規模があまりにも違っていた。
覚悟はしていたつもりだけれど、大舞台の上がここまで違うなんて。
客席も、スポットライトの熱量も、鳴り響くBGMが皮膚を揺らす強さも、なにもかもが想像を超えていた。
自分のように感動している子はほかにもいた。
みんな、どこか夢見心地で。こんなのではいけない。しっかりと自分の役目を思い出さねば――
パンと、大きく手を叩く音。
プロデューサーだった。
「ほら、ぼーっとしてる暇ないよ。早く次の準備に。出番がしばらくない子は邪魔だから控え室に言って」
その声に、我に返った子たちはバタバタと動き出す。
プロデューサーが私に気づいた。
「お疲れ様、奏」
「どう、悪くなかったでしょ」
「うん、当たり前だろ」
そう言ってくれるくせに、ソロでは歌わせてはくれないなんて。プロデューサーはイケずだ。
プロデューサーの視線が私から外れた。その視線の方を向くと、文香だった。
同じ舞台に文香も立っていた。立ち位置から逆側だから、姿は見えなかったけど。
文香は、私たちに気づいていなかった。
「文香」
プロデューサーが一度声をかけても、彼女は立ち止まらなかった。
プロデューサーの表情に、かすかな陰りが浮かんだ。
「奏、悪い」
そういうと、プロデューサーは文香の元へかけていく。
私も不安に思って、プロデューサーの後を追った。
先ほどより大きな声でプロデューサーが声をかけて、文香はやっと私たちに気づいた。
振り返った文香の表情はこわばっていたが、誰か気づいて小さく息をついた。
「プロデューサー、それに……」
「お疲れ様、文香」
「はい……奏さんも……」
「大丈夫、文香」
「なにがですか?」
「なにがじゃない。体調の方は問題ないよね」
「……もちろんです」
そんな言葉、信じろという方が難しかった。
顔色は化粧の上からでもよくないのが見て取れる。
その異変には、プロデューサーだって気づいていただろう。
それでも、今日はもう本番だった。
立ち止まることは許されていなかった。
「そうか……ともかく、本番までは、ゆっくりと体を休ませてくれよ。リラックスするのも大事だから」
「クラゲのように……ですね」
文香がこちらの方を見ながら、ほほ笑んだ。
「ええ、そうね」
「奏、文香に付き添ってやってくれるか」
「もちろん、構わないけど」
「大丈夫です」
私は呆気に取られてしまった。聞き間違いかと思ったが、文香は首を振った。
「大丈夫です。寄り添ってもらわなくても。私は自分だけでも、大丈夫ですから」
「文香?」
彼女の変化にプロデューサーも面食らっていた。
「それではまた……」
小さく頭を下げると、文香は小走りに走っていった。
残される形になった私たち。プロデューサーが私に尋ねてきた。
「奏、なにかあったのか?」
「さあ、どうかしら」
「さあって……」
そこで、プロデューサーはスタッフの一人に声をかけられた。「悪い」といったプロデューサーに分かっていると私は返した。
慌ただしい舞台袖の中で、私は一人取り残された。
間違ってオペラホールに紛れ込んでしまった、サーカスの道化の気分だった。
次の私の出番まで、かなり時間があった。
控え室に向かう気は、なんとなくしなかった。
裏側を慌ただしく動いていくスタッフさんたちに目を向けていたが、ぶらぶらしていては、彼らの邪魔になるにように思えた。
人の邪魔にならないような場所を求めるうちに、舞台から遠いある廊下。立ち入り禁止のポールでふさがれていた通路にたどり着いた。
ここならば、スタッフさんたちの仕事の邪魔にもならないだろう。
私は壁を背にしながら、その廊下に腰を下ろした。ぽつんと一人、今の私にはぴったしに思えた。
目を閉じながら、肌にまとわりつく熱気を、静まり返った廊下が和らげてくれるのを待っていた。
「カナデちゃん」
肩に手を置かれて私は意識を取り戻した。顔を上げるとクリっとしたフレちゃんの瞳が私を覗き込んできた。どうやら、少し寝てしまっていたようだ。
不安そうな、フレちゃんの表情に嫌な予感がした。
私は血の気が引いた。
まさか、出番が過ぎてしまったのか。いくらなんでも、こんな失態をするなんて。
「まって、今、何時。私の出番……!」
「カナデちゃんは大丈夫だよー。まだまだよゆーだから」
フレちゃんが、持っていたスマホで時間を見せてくれた。確かに、寝ていたといっても、本当のわずかだったようだ。私は胸をなでおろした。
「なんだよかった。ごめんね、フレちゃん。探させちゃった?」
「それはいいんだけどさ」
私はフレちゃんの表情から、まだ不安が消えていないことに気づいた。
「……どうかしたの?」
「あのね、カナデちゃん……」
急いでいた私は、危うく扉を出てきたばかりのスタッフさんにぶつかりそうになった。
「ごめんなさい!」
そう声をかけるのが精いっぱいで、向こうがどうなったかも確認できずに再び駆け出した。
そして、扉を開く。
静まり返った室内。簡易なベッドがいくつか並んでいて、それに公演の様子の見えるモニターが、点滅している。
ベッドで横になっているのは、一人だけ。
扉に背中を向けて丸まっていたけど、その黒く長い髪は、見間違えようがなかった。
「文香」
私の声に、背中がピクリとはねた。それから、ますます文香は体を丸めた。
「ごめん……なさい……」
消え入りそうな文香の声に、私は胸が締め付けられた。文香は自販機にもたれかかるような形で、廊下に倒れこんでいたという。飲み物を買い行ったときに、眩暈が起きたのだ。
謝ることなんて、なにもないのに。
私は文香の肩に手を触れる。文香は体を強張らせた。
「大丈夫、文香?」
文香は答えなかった。
当たり前だ。なんて馬鹿な質問をしたのか。
大丈夫じゃないに決まっている。
そうだとしても、私は労わるためにそう口にした。
私は、文香の肩を優しくなでた。なにを言えばいいのだろうか。今の彼女の前では、言葉すべてが安っぽくなってしまう。それが痛いほどわかって、だから自分にできるのは、そんなことだけだった。
「ごめん……なさい……」
「いいのよ、文香。謝ることなんて、なにもないから」
「でも……皆さんにご迷惑を……私……」
倒れてしまった文香は、ドクターストップがかかった。そのせいで、文香のソロは取りやめになってしまった。その時間の調整のすり合わせに、スタッフさんたちは慌ただしく動き回っていた。
「大丈夫よ、たまにあることだって、スタッフさんも言っていたわ」
珍しいが、今までもなかったわけではない。初めての舞台を前に、具合が悪くなってしまう子は。
「仕方がないじゃない。みんな貴方が頑張っていたのは、分かってるから」
「……ごめんなさい」
文香は肩に添えていた私の手を握り返してきた。病気になった時のように、熱のこもった手だった。
文香は、私の手をゆっくりどかすと、手をついて、半身を起こした。
「文香、無理しないで」
「平気……です」
文香は手さぐりに体を動かすと、ベッドに何とか腰かけた。
うつむけた顔は、先ほど、舞台裏で見た時より、はるかに悪くなっていた。
心配になって肩に手を添えたが、文香は私の方を見ていなかった。
ただ、まっすぐと前を見ていた。
息を切らしながら立ち上がろうとしたが、足に力が入っていなかった。
ぐにゃりと地面に倒れこんで、私は短い悲鳴を上げた。
「文香、なにやってるの!?」
「舞台に……私の……出番が」
「なに言っているのよ、文香」
まさか熱にでも浮かされて、錯乱状態にでもなってるのか。
「貴方の出番はないわよ、文香。聞いていないの。ドクターストップだって……」
文香は答えなかった。息を切らしながら、それでもまだ、前を見ていた。
「そうじゃないとしても、こんな状態で舞台に立てるはずないでしょ」
「立つんです……私は……立たないと」
「どうして……」
口にしてから、私は文香の言葉を思い出した。
「そんなに、主役になりたいの?」
図星だったようだ。文香は顔をうつむけた。
小説の主人公のようになりたいという気持ちはわかる。ただ、限度はある。
「なりたい貴方を否定はしないけど、今回は無理よ」
「無理じゃ……ありません。ならなきゃいけないんです。私は、主役に」
文香が私の手を振り払う。これ以上、話なんてしていられないと、またまっすぐと前を向いた。
頑張っている文香の気持ちは尊重したい。
でも、そんな態度をとられるのは、さすがに我慢がならない。
「文香、バカはよして。そこまでしてどうするつもりなの。無理をして倒れたのはどこの誰なの」
文香は答えずに、立ち上がった。まだ足はおぼつかないが、先ほどより、ちゃんと足に力が入っていた。
でも、それだけ。
万全なんて言葉からは、余りにも遠い。
「文香。そんな状態で舞台なんて立てるわけがないでしょ。あのカチカチのダンスより、もっとみっともないダンスになるわよ」
「みっともなくて……いいんです……」
「よくないわ、そんなの。いい、今時頑張ったの根性論なんて流行んないの。そうやって、頑張ったふりして周りに無理を言って、自己満足よ、そんなの」
「自己満足で……いいんです」
「よくないわ。そんなの全然」
「それでも……伝えたいんです。私は……」
「それって、一体……?」
私の手を振り払って、文香は歩みだした。
並々ならぬ思いが文香の横顔にはあった。でも、伝えたいとは、どういうことか。
舞台の上に立って、誰に、なにかを言いたいとでもいうのか。
そこまで言うなら、好きにすればいい。
自己満足な舞台に上がって、踊って、裸の王女様として頑張ってくれば、その伝えたい誰かに伝わるんじゃないか。
ムキになった私の気持ちは、再び崩れ落ちた文香の前であっという間に吹き飛んだ。
やっぱり無理だ。
今の文香はバランスを崩してる。
まともな判断なんか、できていないんだ。そんな人を、説得しようとしたこと自体が間違っていたのだ。
私は再び、文香の傍にかがむと、彼女の顔を覗き込むようにして、言った。
「文香、ベッドに戻って。今は休んで」
文香は口を強く結んで、首を振った。
「お願い、貴方が心配なの。そんな状態で無理したら、今日だけじゃ済まなくなるの。これ以上なにかを言うなら、周りのスタッフさん全員呼んででも、止めるから」
これでも否定するなら、本気でそうしようと思っていた。
文香はちらりと顔を上げて、私に目を向けていた、そして、力尽きたように、肩を落とした。
私の誘導に合わせて、文香はベッドに戻っていった。
ベッドの前には音の出ていないモニターがあった。消音という文字が画面に乗っていた。文香の体調を労わって、音は消していたのだろう。
それなら、モニターも消してくれたらよかったのに。
画面に映っているのは、舞台の上の映像。
見覚えのあるアイドルがキラキラとした笑顔を客席に投げかけているシーンだった。
文香が無理をしてでも立ちたかった自分だけのステージ。私には、最初から遠かったステージ。
「残念だったわね、主役になれなくて」
「奏さんも、残念でした」
「私は、いいのよ。別に」
文香の視線が、モニターから私に向けられていた。
その瞳は、やはり怒りを抱えていて。
「だって、仕方がないでしょ。プロデューサーが選ばなかったんだから」
プロデューサーの判断は、私は尊重する。納得いかないところはあるけど、私のプロデューサーは彼女だから。それに従うのも、アイドルである私の役目であって。
「私……なりたかったんです、主役に」
「主役になって、誰になにを伝えたかったの?」
文香が頑張っていた理由の一つは、そのことがあるようだ。
誰かに伝えたいからこそ、文香は人一倍頑張った。皮肉にも、そのせいで相手に伝えることはできなくなったが。
文香は、独り言のようにつぶやいた。
「えっ?」
なんと言ったか、私には分からなかった。
違う、言った言葉は確かに耳に届いていた。ただ、頭が処理させてくれなかった。
文香の言った、言葉。
「それは……奏さんに、です」
なにが、私になのか。
自分で振った話題のくせに前後を完全に失念して文香の顔を見た。
文香は、顔をうつむけながら続けた。
「奏さんに、見てほしかったんです。私が主役の姿を」
「私に……? どうして」
理解ができなかった。文香が頑張っている姿は、傍でちゃんと見てきた。だから、改めて見せなくたって。
「……貴方も、なれるって」
「……えっ?」
文香の言ったことが、私にはやっぱりよくわからない。
一体、彼女は何を言おうとしているのか。
「私なんかでも、ファンタジーの世界じゃない、この現実でも、主役になれるって。
だから、奏さんだって、主役になっていいんですって」
「ごめんなさい、文香。なにを言っているの?」
「奏さんはみんなを見下しているって、プロデューサーさんは言っていましたけど……本当はそうじゃないって、私わかってます」
私は急に、文香のことが怖くなった。
一体、何を喋っているのか。
「奏さんは優しいんです。とっても。優しくて、周りがとてもよく見えていて、だから自分を押し殺しているんです。でも、本当は押し殺さなくたっていいんです。奏さんは、もっと、もっと素敵な人だって、分かってもらっていいんです」
文香は随分面白いことをいう。
笑って茶化してやろうと思って、言葉が出てこなかった。言葉を出す余裕なんてなかった。
もし言葉を出してしまえば、胸の内から溢れるなにかに押しつぶされて、私の方が持たなくなりそうで。
「奏さんは、アイドルの前の、私の姿を知っています。あんなに何もできなかった私でも、主役になれるところを見せてあげられたら、奏さんも自分を出せていいって、言えると思って」
文香は言葉を途切った。私の出方をうかがっているかのようで。それなら、こう言ってあげたい。
貴方に、私の何がわかるっていうの。
出会ってまだ一年もたたない貴方に、いったい何がわかるの。
そう突き放せば、ほら簡単。
文香も、私が貴方の思っているような人でないと、理解してくれる。
だからほら。私は大きく口を開けようとして。
結局、なにも言うことはできなかった。
文香の瞳を前にして、いつものように誤魔化すことも、できなかった。
私は、モニターに目を向ける。次のアイドルが、舞台で歌を歌っている最中だった。
煌びやかで、遠い幻想のような存在。
それはまるで、あの映画の世界のようで。
小さいころ、スクリーンの向こうで輝いていた、ミュージカル映画の主演女優を思い出す。
とても古い、悲しい恋の映画。祖母が連れて行ってくれた、安っぽくてありきたりな悲劇の物語。
今夜。
希望も恐怖も全てが入り混じる。
あの映画では、悲哀の一夜となった。選択は愚かな結果となって、ラストまで突き進む。
今夜。
とても悲しい映画だったけど、とても美しい映画だった。
今夜、私はどうする気なのか。
選択したことで、あの映画は悲劇に進んだ。
でも、私はまだ選択していない。そして選択の結果は、スクリプトには刻まれていない。
だってここは、ファンタジーじゃない。私のリアルだから。
選択しなければ、ファンタジーすら、始まらない。
ここで、選択しなければ。
私は、グッと手を握り締めた。
「文香、スクリーンから目を離さないでね」
「奏さん……?」
「そこまで言うなら、魅せてあげるわ。ファンタジーみたいな……いえ、ファンタジーよりも驚く世界を」
医務室を出て、私は舞台裏に走った。急ぐ私を、スタッフや他のアイドルがぽかんとした顔で見送っていた。
「はっ」
私は走りながら、笑ってしまった。
一体、自分はなにしてるのか。そんな無茶、通るはずがないじゃないか。あまりにも馬鹿らしくて。
でもいいじゃない、馬鹿なことって。
今は、馬鹿をしたい時だった。
私は、舞台裏でスタッフさんに支持を出しているプロデューサーを見つけた。
プロデューサーは、私に驚いていた。
「どうしたの、奏。そんな急いで」
「お願い……プロデューサー」
「……まさか、文香のこと? 悪いけど、あの状態じゃ舞台には立たせられない。奏だって、文香の様子を見てくれば」
私は、首を振った。
「違うの、プロデューサー」
私は乱れている息を整えながら、脳内で最後の抵抗を試みる。
こんなバカ、やめておいた方が、いいよ。
貴方らしくない。恥をかくだけ。
そうね、と私は笑んで、口を開いた。
「私に、歌を歌わせて。文香の代わりに、私の歌を歌わせて」
「……奏、それも君の冗談かな」
プロデューサーの返答は予想もついていたことだった。
「まさか、本気よ。お願い、私を舞台の上に立たせて」
「自分なら、練習をしていなくても簡単にできると思ってるから?」
「そうね。きっと私ならできると思う」
「随分、言うね」
「でも簡単じゃない。とっても難しいし、怖いこと。きっと失敗するかもしれないし、うまくいかないかもしれないけど。お願い、プロデューサー」
私は頭を下げた。
それができる、精いっぱいの誠意に思って。プロデューサーが、私の傍から離れていく気配を感じた。
こんな私に、あきれてかける言葉すら、見つからないのだろう。
諦めたくない。私は顔を上げた。プロデューサーはどこかに電話していた。
「お願い、プロデューサー」
プロデューサーは私を手で制した。そして電話を始めた。
「ねえ、奏の曲の音源はある?」
かっと、胸が熱くなった。
私は一歩引いて、プロデューサーの電話を待った。
いくつか会話を交わしていくうちに、だんだんとプロデューサーの声は強くなっていく。
「生演奏しろって言ってんじゃないの。音源流すのぐらい出来るでしょ!」
それから何度か電話を交わして、一度電話を離した。
「ねえ奏、分かってる? 出来るのは音源を流すことだけ。専用の舞台演出も衣装もない。つまり、君を覆ってくれるベールはどこにもない」
「ええ、分かってる」
「ありのままだよ。それに、沢山のお客さんたちの前だ。生ってのはゾッとするくらい人々の心に突き刺さる。覆いがない状態で、下手を打てば簡単に見抜かれる」
「ええ、分かってる」
「失敗は君だけじゃない、ライブ全体に影響を与えることになる。それでも、君はやるかい?」
「……ッ」
その言葉に、私は恐怖した。
私の無茶のせいで、全部が台無しになってしまうなんて。
頑張ってきているみんなのことは、私は十分に判っている。
その努力が、私のせいで無に帰してしまうとしたら――
「大丈夫だよ、奏ちゃん!」
びっくりするぐらいの大声だった。
振り返ると、童顔な長髪の女性が、両手に腰を当てて、胸を張っていた。
同期のアイドルで、お姉さんの姫川友紀だった。
「バックには、あたしたちがついてるもんね!」
「そーでごぜーます!」
友紀だけでなかった、仁奈ちゃんに、そしてフレちゃんも。
「問題なしなしだよー。なにかあったらプロデューサーに頑張ってもらうしー」
「フレデリカ……適当なこと言って」
「仕方がないよプロデューサー。監督っていうのは責任取るのが仕事だもん」
「ちょっと友紀。アタシは監督じゃなくてプロデューサーです……まあ、言ってることは間違いでもないか」
「というわけで、監督の許可も出たし……奏ちゃん」
友紀が、私に向かって力強く言った。
「後ろは任せて。何かがあってもフォローしてみせるから。全員野球だよ!」
「奏おねーちゃんなら、絶対大丈夫ですよ」
「そうだよ。カナデちゃんなら……大丈夫だって! 多分だけど!」
「なにそれ」
みんなの応援は、なんだか気の抜けてしまいそうなくらいマイペースで、だというのに、胸の奥底が熱くなって。
私は、プロデューサーに向き直った。
「ええ、やってみるわ。プロデューサー。魅せてあげる。本当の私の魅力を」
プロデューサーは、頬を釣り上げた。
「分かった、奏。覚悟してあげる。奏も覚悟してくれたんならね」
文香が出れなくなったことによって慌ただしかった舞台裏が、さらに慌ただしくなった。
フレちゃんたちは、応援をしてくれるといった。
他の子たちも、迷惑がかかるかもしれないのに、みんながみんなの形で、応援してくれた。
プロデューサーもやれる限りをやってくれると。
スタッフさんたちも、驚くくらい私のわがままに付き合ってくれていた。
トレーナーさんも。
出番までの間、私のダンスの出来を見てくれている。
新しいものなんかできやしない。
デビューライブの時に使ったダンスのレッスンを短い間でもしっかりと仕上げるのを手伝ってくれた。
何度かの振り付けの通しの後、プロデューサーが入ってきた。
「奏、いいかな」
プロデューサーについていった先は、更衣室だった。プロデューサーが持ってきたのはデビューの時に来ていた衣装。でも、この衣装は本来使う予定ではなかった。どうして会場においてあるのか。
「なんでこの衣装があるの? まさか、この間に事務所から持ってきてくれたの」
「そんなことしなくてもよかったよ。衣装は予め持ってきてたんだから」
「えっ?」
「実はアタシが、衣装の人にもってきてもらうようにお願いしてたんだ」
「どうしてこんなことを」
「さあ、どうしてかな……多分だけど、諦めがつかなかったのかもしれない」
そもそも断ったのはアタシだけど。そう自虐めいたプロデューサーに、私は頭を下げた。
急いで着替えて、また振り付けのチェックに行こうとしたけど、タイムアウトだった。
舞台の裏に、私は足を向けた。今は曲ではなく、幕間のトークの時間。舞台の上では、アイドルたちが和気あいあいとした会話を続けていた。
彼らの様子を写したモニターを横目に、プロデューサーから指示を受ける。
「難しいことはなし。暗転させたら舞台に上がってもらう。中央で音楽を始める。後は歌うだけだ。照明さんもいくらかアドリブでやってくれるだろうけど、期待はするなよ」
「分かってる」
スタッフさんから、セリで待機してほしいとの指示がでる。
「行ってきな、奏」
「ええ……行ってくるわ、プロデューサー」
舞台照明が消えるのがわかる、セリは音もなくゆっくりと上がっていく。
薄闇の広い舞台に、私は一人登り立った。
いえ、違う。
一人だけど、一人じゃない。
自分の鼻に人差し指を触れさせて、そして構えをとった。
音が鳴り出すと同時に、スポットライトが私を照らし出した。
どんな演出なのか、当然私は知らない。
演出に、私自身が惑わされそうになる。
小さなリズムは、大きな体の動きへと変化させる。
刻まれるビートに合わせて、体を動かしていく。客席から、熱帯びた声が吹き込んでくる。
熱に浮かされて、そのまま体が溶けてしまうのではないかと、怖くなるほどに。
流されてはいけない。
この場をコントロールするのは、この私。
主役は、私。
抑えて、抑えて、深く息を吸って、力を籠めすぎないで、歌いだした。
今の私は、舞台上で奇麗に踊る人形に見えているかもしれない。
みんな、それを見ていて。でも、そんなものは関係なくなる。
本当の、私の煌めきを魅せつける。
曲調が早くなって、それに合わせて私の声音はさらに熱を帯びていく。
小さな間が入って、また曲のリズムが変わる。
私という存在は、一体なんだろう。
みんなが思う私、私自身が思う私。
いつの間にか、私自身が私という存在から手を放していたのかもしれない。
遠くに離れていった自分の心を見つけてくれた人がいて。
その手を離さないことを願って。
私は数字を数える。
ワン・ツー。
唇に指を添えて、そしてあふれ出させる。
私という存在を。
指先一つから、蠱惑的な私を、ありのままの私を。
このスポットライトが照らし出す、私自身を。
私から、手を離すことなんて、もう許さない。
今夜。この私を。
歓声とペンライトの波のはざまを、私は泳ぎ続ける。
伴奏に入って体でリズムをとりながら、心のリズムも取り返そうとする。
でも続きは抑えようとしてもダメだった。
最初から、心がすべて曲に乗っていった。
一瞬、私は抵抗をしようとしたけど、違うと、小さく首を振った。
そうじゃない。魅せるんだ。
今は、ありのままの自分を。
そうしなければ、もっと、もっと先へと行けないから。
さらけ出す。自分のすべてを!
自分自身から生まれる感情の高鳴りが怖くなる。
どこまで行けるのか、私は、自分がどこまで行けるのか、もっと知りたかった。
もっと行っていいんだと、分かりたかった。
そして、自分自身が、主役でいいと、信じたかった。
そしてもし、自分自身を見つけることができたら、今度こそ、その手を放したくはなかった。
私は奏でた。自分自身への文を。
私だって、主役になれると。
覆いつくすような歓声が、この文への返信となった。
舞台袖に戻ってくると、とたんに浮ついていた足元がはっきりと感じられた。
まるで雲から地面の上に降り立ったみたいに。
「か・な・で・ちゃーん!」
大きな声とともに、思いっきり、友紀が私に抱き着いてきた。あまりにも急で、私は危うくバランスを崩してこけそうになってしまった。怒ろうかと思ったけど、友紀の声には涙が混じっていて、私は何も言えなかった。
「よかった、すごく良かったよ」
「奏おねーさん!」
友紀に続いて、仁奈ちゃんも私に抱き着いてきた。
「もう二人とも」
「そうだぞー、ずるーい、ユッキーと仁奈ちゃん!」
プンプンと、非難の声の方を見ると、フレちゃんが立っていた。そしてフレちゃんの脇には、
「文香……なにそれ?」
文香が、椅子に座っていた。キャスター付きの椅子だ。
フレちゃんは、文香の座った椅子を、コロコロと押しながら私の元にやってきた。
「みんなで見てたんだけど、フミカちゃん、カナデちゃんに会いたいっていうからさ。でもまだ歩くの危なそうだし、そこでユッキーのひらめきです」
「あたしが椅子に乗せたまま連れてこうって。ほら、車いすみたいに!」
それでここまで来たのか。慌ただしいステージ裏の中、椅子に乗った状態で運ばれてくる文香を想像して、ちょっと笑ってしまった。
文香は、椅子から立ち上がった。「大丈夫?」と、フレちゃんが支えようとしたが、文香は一人でも問題ないと手振りで断った。
文香が、私の前に立った。
先ほどより、顔色が良くなっているようで、私は嬉しかった。
「奏さん、素敵でした、とても。まるで……おとぎ話の世界の……主役みたいでした」
「そうでしょ。私だって、出来るんだから。私だって……」
突然、私は言葉に詰まってしまった。
そのことになによりも、私が驚いてしまった。
急に感情が喉の奥で詰まったようで。
言葉の代わりに、涙があふれ出た。なんで泣いているのか、私だって分からなかった。
そんな私を文香や、みんなが優しく見守ってくれていて、私はますます、涙が止まらなくなって。
でもどうしてか、それが嫌じゃなかった。本当に。
緩やかに舞い上がった黄金色の落ち葉は、そのまま蒼い空に吸い込まれていった。
ヒラヒラとコートの端が踊り、文香の長い髪が、なだらかに泳いだ。
風がやんで、文香は手櫛で髪を直した。でも、まだ少し乱れている場所があった。
「文香」
私が手でなでつけて、乱れた部分を直す。文香は、くすぐったそうに眼を細めていた。
「うん、これで大丈夫」
「はい……ありがとうございます」
今日は、文香と約束したコーヒーショップ巡りをしていた。
ライブは、成功に終わったと考えてよかった。
嬉しいことに、私に対しても好意的な意見が並んでいた。
一部じゃ、あらかじめ予定されていたのではないかと言われるぐらい。
誉め言葉はくすぐったいが、まんざらでもなかった。
もっとも、私の成功はライブ全体の大きな成功に比べればちょっとした添え物。
でも、あの瞬間、私は確かに主役だった。
「そういえば、奏さん」
二件目の喫茶店に来た時だった。
口にするコーヒーも、気づけばホットがぴったりの季節になっていた。
文香は持っていた紙封筒を差し出してきた。
実のところ、それのことは気になっていたけど、また後でと文香が焦らしてきていた。
最後のお店で渡すと思っていたけど、文香も我慢しきれなくなったのか。
「これ、プレゼントです」
「私に? なにかしら……」
封筒の中身を取り出して、私はあっと頬が緩んだ。
古い映画のパンフレットだった。
私が好きだといった、二つの映画のパンフレット。
「叔父に聞いてみたら、用意していただいたんです。そちらのパンフレットは、再上映時のものになってしまったのですが」
「そんな、とっても嬉しい。ありがとう、文香」
「喜んで、頂けたなら、良かったです」
「なんだか私、文香にもらってばっかりね。お返しがあればいいんだけど、あいにく準備をしていないし」
「そんな、お返しだなんて」
「仕方がないわね……キスで許してくれる?」
「え!?」
ポッと文香の白い肌が真っ赤にそまった。あたふたとする文香に、私は笑ってしまった。
「キスじゃだめ?」
「いえ、そんな……」
「それか……これなんかどう?」
私は手帳を取り出すとそこから一枚の栞を抜き取った。
「これは?」
「私が作ってみたの。まあまあ、悪くないでしょ」
この栞を作るために、ラミネート機まで買ったのは秘密だ。
でも、なにか形に残るもので、文香に感謝をしたかったのだ。
手作りの栞だなんて、ちょっと子供っぽいかな。
そう思ったけど、そんな子供っぽさも、悪くないと思った。
「嬉しいです……本当に」
目を細めながら、文香は優しく胸元に抱いた。
それから予定通り三件目も回って、気づけば空は黄金色に変わりだしていた。
予定も、全てこなすことができた。
私たちは、解散することにした。
「それじゃあ、文香。また」
「ええ、奏さんも」
改札で別れを告げて、私は背を向けた。
でも、足が動かなかった。
今日の予定は完ぺきと言っていい。喫茶店も巡って、渡したいプレゼントも渡せて。
あのライブの騒動から考えれば、なにも問題はない。
それだというのに、どうしてか私は名残惜しかった。
もっと、文香と話がしたかった。どれぐらい考えていたのだろう。
もしかしたら、もう文香はホームまで行ってしまっているかもしれない。
でも、それでも。
私は振り返って、文香を追おうと思って、また足が止まった。
改札の向こうで、同じように文香が振り返っていたから。
私と別れを告げた、その場所で。
私たちは、お互いに目を丸くしていたけど、なんだかおかしくて、笑ってしまった。
文香が、人差し指で鼻に触れる。
私も、同じように人差し指で鼻に触れた。
あの映画の主役たちのように。
私たちは、私たちを主役として、また物語を、新たに刻み始めた。
――― 速水奏「文、奏でる」≪終≫ ―――
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